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【資料】神秘主義の系譜【探索】
186
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 22:45:17
祭政一致
さいせいいっち
神々をイツキマツル祭事と人民に対するマツリゴト(政事)とが一致するという観念。神権政治の一形態で,主として古代天皇制についていわれる。一般にあらゆる政治社会において,文化人類学・比較神話学・民俗学等が明らかにしているように,政治的主権者としての共同体の首長の機能は,原始・未開社会にさかのぼるほど,宗教的祭祀者としての機能と未分化であった。古代天皇制国家の形成においても,大嘗(だいじよう)祭の祭式・儀礼と密接に結びついて成立した《古事記》《日本書紀》の王権神話に象徴されるように,天皇ウジがマツロハシメた諸部族の首長の祭祀権を,各ウジの祖神とその神話の説話的統合および血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り,それによって政治的統合を遂げる,あるいは軍事的統合を補強する,といった事態がみられた。だがオオキミ(大王)からスメラミコト(天皇)への発展の過程で,祭祀機能と統治機能とは分離していき,宮廷外に伊勢神宮が創建されることにもなる。律令制においては神梢官が太政官と対等の官職として立てられた。また,その後の武家政治(幕府政治)の発展による政治的統治権の喪失ののちもなお保持された,いわゆる〈万世一系〉の天皇制の正統性なるものも,たんにその血統的連続性のみによるのではなく,大嘗祭を中心とした祭儀をとおして皇祖神との一体性を更新しつつ,トヨアシハラミズホノクニの豊穣(ほうじよう)を共同体を代表して予祝する祭祀者の資格において維持されつづけたことも忘れてはならない。
〈祭政一致〉という言葉そのものについていえば,それが広く用いられはじめたのは幕末から明治初年の時期である。会沢安(正志斎)の《新論》が〈西荒の蛮夷〉による危機に対抗して〈神州の国体〉を闡明(せんめい)せんとして〈祭政維一〉の伝統をいい,平田銕胤(かねたね)の《祝詞(のりと)式新刻本序》が〈祭政帰一〉を強調した等である。初期明治政府自身,そうした水戸学や平田派国学のイデオローグらの影響の下に,〈維新政府の宣伝政策〉(津田左右吉)の一環として〈祭政一致〉〈政教一致〉のスローガンをしばしば用いた。一時期,神梢官を太政官の上位に置く〈復古〉的制度を行おうとしたり,宣教使や教導職を置き,大教宣布の詔を発して神仏分離・廃仏毀釈の運動をあおる等のこともした(〈此度王政復古,神武創業ノ始ニ被為基,諸事御一新,祭政一致之御制度ニ御吸復被遊候ニ付テハ,先第一神梢官御再興御造立ノ上,云々〉――1868年3月13日太政官布達)。だが神梢官(のち神梢省)や教導職等はまもなく廃され,まがりなりにも近代立憲国家の体裁をとった大日本帝国憲法下では,いちおうの信教の自由と政教分離が打ち出された。とはいえ教育勅語にもとづいた修身教育や国民道徳運動等の〈臣民〉への浸透は,大正デモクラシー後の昭和期に入って,天皇機関説事件を契機とした国体明徴運動の中で,再びよりイデオロギー化した形で,天皇アキツカミ説や祭政一致論を浮上させた。そのころ,日中戦争前夜に成立した林銑十郎内閣が政綱に祭政一致を掲げて識者の失笑を買い,文部省刊行の《国体の本義》にも〈祭政教一致〉の項が見られた(1940年神梢院設置)。第2次大戦後,占領軍の国教分離指令や天皇人間宣言,さらに日本国憲法の諸規定により,この理念は明白に否定された。⇒神権政治 山田 武
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