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【資料】神秘主義の系譜【探索】

198名無しさん:2013/07/22(月) 23:26:19
神仏習合
しんぶつしゅうごう

日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮が朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。8世紀になって気比神宮,若狭比古神社,多度神社などに神宮寺ができたが,東大寺大仏造立にあたり,伊勢神宮に祈願がこめられ,仏法帰依の神託を得,八幡神も大仏造立援助のため上京して東大寺鎮守となった。こうした朝廷の積極的な習合政策と地方民間修行僧の布教活動によって神前読経・神宮寺建立は全国的に広がった。平安前期には政界の暗闘と社会不安から御霊(ごりよう)(怨霊)信仰が盛行しそのたたりを鎮めるため密教徒は御霊会(ごりようえ)などを通じて読経・加持祈裳につとめ,御霊の成仏と利益(りやく)神への昇化を説いた。この風潮のなかで大陸伝来の疫神である牛頭天王(ごずてんのう)をまつる梢園社や道真をまつる天満天神が,祟(たたり)神から一転した利益救済の神として進出し,神祇界は個人利益的なものへと信仰を変化させ,仏像にならって神像を彫刻や絵画にあらわしまつる偶像崇拝的方向を帯びるにいたった。伊勢以外の神社はおおむね神宮寺別当の支配する宮寺組織になり,また原始的山岳信仰と密教が習合した修験道(しゆげんどう)が広まって修験者は加持祈裳による病気治療や信者の団体による社寺参詣の先導役(御師(おし))として民間に進出した。その代表的なものは紀州熊野信仰である。

 中世,習合思想のスローガンであった和光同塵(わこうどうじん)の語はその源は中国の道教にあるが,仏菩醍がその慈悲広大の光を隠し人間俗界の塵に交じって神とあらわれる化身的意味に用い,これを各地の神社について民衆にわかりやすく説くため歴史物語化した縁起の類がつくられ,これが絵巻物や本地物とよばれる一群の御伽草子となっていっそう普及した。また密教の曼荼羅(まんだら)をまねて神祇の姿あるいは本地となる仏の像を並べ,これに社頭の風物を配した習合(垂迹)曼荼羅図がつくられたのは,社参の労を省き,日常生活のなかで御利益を祈る礼拝対象とせんがためであった。春日,八幡,日吉,熊野などの曼荼羅はとくにその数も多く遺存している(垂迹美術)。

 日本仏教は天台・真言両宗を中心として本覚門思想に重点をおき,衆生はすべて本来仏性を有し,人間も草木山川もそのままの形で成仏することを教えたところから修業練成より加持祈裳偏重に陥りやすく,その呪術的要素の重視が神仏習合に大きな地盤を提供した。そこには体系的理論よりも現実的でしかも直観的多神教的な思考や生活慣習を好む日本人の民族性が背景となっていたのである。1868年3月17日政府は社僧の禁止,神社の別当あるいは社僧の還俗を令し,同28日重ねて神社より仏教的要素をいっさい撤去すべきことを通達し,ここに廃仏毀釈(はいぶつきしやく)の運動が起こり習合的宗教慣習はついに終止符を打った。⇒神仏分離‖本地垂迹    村山 修一

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神仏習合
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88


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