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【資料】神秘主義の系譜【探索】
151
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 08:21:25
和気清麻呂 733‐799(天平5‐延暦18)
わけのきよまろ
奈良中期より平安初期にかけての官人。本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ),また藤野別真人(ふじのわけのまひと)を称し,和気宿衝(すくね)さらに和気朝臣に改姓された。備前国藤野郡に生まれ,その後,孝謙(称徳)天皇に近侍していた姉和気広虫の引きによって,おそらく兵衛(とねり)として出仕したものと思われる。《続日本紀》にはじめて名が記録されるのは,765年(天平神護1)従六位上,右兵衛少尉のときで,広虫とともに称徳天皇に重用された。やがて皇位を望んだ僧道鏡の事件にさいし,姉に代わって宇佐八幡に使し,神託をうけてこれを阻止した(宇佐八幡宮神託事件)。そのため一時別部穢麻呂と名をかえられ,大隅国に流されたが,光仁天皇の即位とともに770年(宝亀1)京に召されてもとの従五位下に復し,桓武天皇の側近として活躍した。長岡京造営には陰の役割をはたし,従四位下より正四位下に昇叙し,ついで平安京造営には造宮大夫として事業をにない,従三位に叙せられ,公縁に列した。この間,摂津大夫として水利事業を進め,民部大輔として〈民部省例〉を斤するなど,民政にあかるく,さらに美作・備前両国国造(くにのみやつこ)に任ぜられ,故郷の百姓の利益にも力をつくした。799年姉広虫についで没したときは民部縁・造営大夫・従三位で,正三位を贈られた。人となり高直,匪躬の節ありと評された。 平野 邦雄
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
和気広虫 730‐799(天平2‐延暦18)
わけのひろむし
奈良中期から平安初期に後宮に仕えた女官。ことに孝謙(称徳)女帝に重んぜられた。清麻呂の姉。その名が史料にはじめてみえるのは762年(天平宝字6)女孺,豎子として天皇の勅を伝宣したときで,同年孝謙上皇の出家にしたがい尼となり,法均尼を称した。当時,郡司の子女は采女(うねめ)として出仕したから,広虫もこの例に従い備前国藤野郡より出身したのであろう。そして損木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚した。戸主は中宮職,のち皇后宮職(紫微中台)の官人となったから,広虫も後宮で天皇,上皇の側近としての地位を占めたものと思われる。称徳女帝のもとで従五位下,さらに従四位下に准ぜられ,封戸を賜ったが,道鏡の宇佐八幡宮神託事件にさいし清麻呂とともに除名され,備後国に流された。光仁天皇の即位で770年(宝亀1)京に召され,もとの従五位下に復し,従四位下,典蔵(くらのすけ)となり,桓武天皇のもとで789年(延暦8),典侍(ないしのすけ),従四位上として勅を伝宣している。70歳で没したときは典侍,正四位上で,のち正三位を贈られた。その伝に,藤原仲麻呂の乱連座者の減刑を願って許され,孤児を養子として育て,人となり貞順,節操に欠くるところなく,桓武天皇にはなはだ信重されたとある。 平野 邦雄
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