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【資料】神秘主義の系譜【探索】
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:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:23:28
秦氏
はたうじ
日本古代に朝鮮半島から渡来した氏族。秦始皇帝の裔を称し,後漢霊帝の子孫という漢氏(あやうじ)と勢力を二分した。《日本書紀》には,応神天皇のとき弓月君(ゆづきのきみ)が〈百二十県〉の〈人夫〉をひきいて〈帰化〉し,雄略天皇のとき全国の〈秦民〉を集めて秦酒公に賜り,酒公は〈百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)〉をひきい朝廷に絹を貢進したとある。《新斤姓氏録》もほとんど同じことを記すが,弓月君は秦始皇帝の子孫で,帰化したのち〈大和朝津間腋上〉の地に安置されたとし,酒公は〈秦民〉92部1万8670人をひきい絹を貢進し,それを納めるため〈大蔵〉を宮側にたて,その〈長官〉となったという。
このような説話は,秦氏の渡来後,秦氏の本宗家が全国に秦部,秦人,秦人部などを組織し,氏として成立したのが雄略のとき,5世紀末であることを主張している。その際,本宗家は大和でなく,山背(やましろ)国の損野(かどの)郡,紀伊郡を基盤としていた。《姓氏録》にも山城国諸蕃に秦忌寸,左京諸蕃に太秦宿衝を記している。太秦(うずまさ)とは,酒公が朝廷に絹をうず高く積んだのでその名があるというが,山背より京に本貫を移した秦氏の別称であろう。ついで,欽明天皇のとき,山背紀伊郡人秦大津父(おおつち)が〈大蔵〉の官に任ぜられ,〈秦人〉7053戸を戸籍に付し,〈大蔵掾〉として,その伴造(とものみやつこ)となったという。ついで,秦河勝がある。河勝は聖徳太子の財政,軍事,外交に関する側近者で,太子の意をうけて蜂岡(はちおか)寺(広隆寺)をたてたといい,寺は太秦にあるので太秦寺とも称された。ほかに《天寿国斥帳》の製作者として秦久麻があり,椋部(くらべ)と記されている。
このように,大化改新前に秦氏で史上に名をのこすのは4人だけであるのは,秦氏が土豪であり,在地で隠然たる勢力をもつ殖産的氏族で,朝廷ではクラ(倉,蔵)を管理する下級の財務官であったからである。秦氏は,賀茂川,桂川の京都盆地,さらに琵琶湖畔に進出して,水田の開発,養蚕などの事業を行った。さらに伊勢,東国におよぶ商業活動にも従事した。天武天皇のときに定められた八色の姓(やくさのかばね)では,漢氏とならび〈忌寸(いみき)〉の姓を授けられたが,同族の一部が改姓されたのみで,748年(天平20),秦氏1200余烟に〈伊美吉(いみき)〉を賜ったとき,はじめて姓が一般化した。しかも,このように多数の同族が一時に改姓される例は,日本の氏族にはなく,いかに同族の基盤がひろく深いかを示すであろう。このことは,秦忌寸のほか,山背損野郡,紀伊郡に秦大蔵,秦倉人,秦高椅,秦川辺,秦物集,秦前など,また近江愛智(えち)郡に依智秦(えちはた),犬上郡に簀秦などの傍系氏がおり,すべて〈秦〉の一字を共有し,氏の分化が少なく,比較的等質性を保っていることにも現れていよう。要するに土豪性といってよい。
平安京への遷都は,秦氏の基盤への遷都であり,その財政力によって建設されたとの説もある。883年(元慶7),秦氏は惟宗(これむね)朝臣に改姓されたが,なお各地方には,惟宗とならび秦姓のものも多く,ともに在庁官人,郡司として多く名をとどめている。⇒惟宗氏 平野 邦雄
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