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【資料】神秘主義の系譜【探索】
182
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 22:41:58
>>181
[天皇制イデオロギーと国家秩序] 天皇制の成立過程にみられた特質は,国家イデオロギーと国家秩序のあり方をも規定した。天皇という伝統的権威づけは神道教義に基づいて行われたため,天皇統治の正当性を論証するイデオロギー=国体論も著しく神秘性を強めた。それは,皇室の祖先神である天照大神を最高神化したうえで,その下したとされる天壌無窮の神勅を受けた皇祖以来,万世一系,日本の統治権を天皇家が継承してきたことにその正当性論拠が求められたからである。このため神道は事実上国家宗教たらざるを得なかった。そこで天皇は統治権者という政治的存在であるだけでなく,皇祖神を祭る最高聖職者であり,みずからも神の後裔(こうえい)として現人神(あらひとがみ)となったのである(祭政一致)。これが国家イデオロギーとして機能しえたのは,1901年に小学校就学率が80%にも達したということからもうかがい知れる教育の普及と,そこでの徹底した尊皇愛国教育の注入によるものであった。しかし他方では,当時の日本社会は家制度と家意識が濃厚であり,家格の良さ古さはそれ自体として価値をもつと考えられていたことによるものでもあった。こうした家父長制的秩序意識の残存と,国民の大部分が長期間単一民族であったことを反映して,明治末期には,皇室=国民の宗家,天皇=国民の父,国民=天皇の赤子という家族国家観が成立した(家族制度)。そこでは君への忠と親への孝が一致するという日本道徳論が展開された。そのため家父長に対し家族が無権利であるように,国民は天皇に対して権利主体として立ち現れることはできなかった。また国家を一大家族としたため,国家秩序と社会秩序,すなわち法的関係と道徳的関係の区別が明確でなく,国家が道徳律(教育勅語)を与えたのみならず,個人の内面にまで介入することがあった。しかし,資本主義の発展に伴う家父長制的秩序の解体傾向と,近代化による合理的思惟の発展は,国体論や家族国家観における神秘的非合理的説明の有効性を稀薄化していくことになった。そこで維新以来の国民的課題であった対外的国家自立を望む国民のナショナルな意識を国家の側に吸収するため,対外的危機の造出がくりかえされた。日清戦争の勝利により,台湾と償金という対外侵略の利益と,欧米への民族的コンプレクスの一定の解消が国家によってもたらされたとき,国民的栄光を担うものとしての国家と天皇の権威は国民の中に確立し,天皇制はナショナリズムを独占することができた。
【大正期の天皇制】
大正・昭和戦前期においても,明治期に確立した国家機構=帝国憲法体制と国家イデオロギーの大枠そのものは変化しなかったが,時代の変化に応じた新しい諸相が現れた。
[政治機構・機能] 日清戦争後にその政治的比重を高めた政党は,日露戦争後になると官僚閥と交替で政権をとるようになり(桂園内閣),1918年の米騒動後の原敬内閣を経て,24年の護憲三派内閣以降政党内閣期に入った。これは一方における国民の政治意識の向上と,他方における政友会を中心とした地方利益誘導策などにより,国民に基礎をもたない官僚閥(藩閥官僚)が統合能力を弱め,代わって政党が分立する統治機関を統合する勢力として台頭したからであった。しかし,帝国憲法体制の枠内では完全な議会主義を確立することはできず,また,軍部,官僚はなお独立性をもっていたことから,政党は彼らと癒着して政権についたのであった。しかもなお元老(西園寺公望)が内閣首班の奏請を行うというシステムに変りはなかった。
[大正期の皇室と国体] 明治天皇の死により,天皇の人格的権威に依拠しての君主制の維持は困難となり,不敬罪事件も増大した。このため一方では皇室尊崇を儀式化,制度化するとともに,他方では〈国民の天皇〉化,すなわちイギリス型君主制への一定の傾斜を示した。昭和天皇(当時の摂政宮)のイギリス訪問とその報道のあり方はそれを端的に示していた。この傾向は井上哲次郎のように国体と民本主義を結合させた新国体論をも生み出した。しかし,大正後期には共産主義運動も起こり,天皇制の否定が叫ばれるようになると,治安維持法を制定し,国体変革運動を抑圧するようになった。
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