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【資料】神秘主義の系譜【探索】

1名無しさん:2013/07/20(土) 03:52:02
※政治的動機での書き込み、宗教団体などへの勧誘および他者への誹謗中傷などの迷惑行為を禁止します。

神秘主義の系譜.pdf
http://kie.nu/19TU

※アップロードファイル消滅予定日時:2014年07月19日 20時56分06秒

2名無しさん:2013/07/20(土) 03:52:33
「 宗教的秘密結社として最も長く生命を保っているのは,弥勒下生(みろくげしよう)信仰を中心に阿弥陀信仰,マニ教の菜食主義や五戒などの生活規範を取り入れて,元朝の中ごろに強大な勢力をもつにいたった白蓮教(びやくれんきよう)である。これは10世紀ころに始まり,時の政府から終始〈邪教〉として厳禁されていたが,元末(14世紀後半)に,紅巾の乱と呼ばれる大反乱を起こして元朝を崩壊に導き,さらに,明・清時代を通じて,厳しい弾圧を受けながらも,しぶとく存続し,清代中期,嘉慶年間(1796‐1820),長江(揚子江)中流域を中心とする山岳地帯で蜂起し,清朝支配体制を動揺させた(白蓮教の乱)。白蓮教の支派末流は,ごく近年まで根強く活動し,1900年の義和団運動のほか,在理教,黄天道など種々の名で華北一帯の民衆の間に信仰されていたが,その一つである一貫道は,現在も台湾で活発に布教している。」

3名無しさん:2013/07/20(土) 03:53:19
マニ教
マニきょう Manichaeism

イラン人マニ Mani(216‐276‖277。正確にはマーニー M´n ̄)によって3世紀に創始,唱導された二元論的宗教。当時のゾロアスター教を教義の母体として,これにキリスト教,メソポタミアのグノーシス主義と伝統的土着信仰,さらには仏教までを摂取,融合した世界宗教である。その徹底した二元論的教義では,光と闇,善と悪,精神と物質とが截然と分かたれていた始源のコスモスへの復帰を軸として,マニ教独自の救済教義が宇宙論的に展開される。教団組織は仏教のそれにならったと推測され,出家に相当する〈義者・選ばれた者ardav´n〉と俗人の〈聴聞者 niyヾshag´n〉の2種類の信者により構成されていた。前者には,肉食・動植物損傷の禁止,完全な禁欲,週に2日の断食,イスラムの断食月の先駆となったと考えられるベーマ B^ma 大祭(マニの殉教と昇天を祝う最大の祝祭)に先立つ1ヵ月の断食などが要求された。マニはササン朝のシャープール1世の厚遇を得て,インドに及ぶ精力的な伝道活動を行ったが,次々王ワラフラン1世の宗教政策転換により殉教した。死後も教義は後継者の手により,4世紀には西方では,エジプト,北アフリカ,さらにイベリア半島にまで伝えられ,イスラム時代以降も,ザンダカ主義のような形でイラン系知識人の間に影響を残した。
 マニ自身はアラム語の一方言で記述したが,シャープール1世に献呈した《シャーブーラガーン》という中世ペルシア語書の存在したことも伝えられている。他の聖典としては《大福音書》《生命の宝》《プラグマテエイア》《秘儀の書》《巨人の書》がある。これらすべて,断簡としてしか残されていない。                     上岡 弘二
[中国]  マニ教は7世紀末に中国に伝わり,〈摩尼教〉あるいは〈末尼教〉と音写され,教義に則して〈二宗教〉あるいは〈明教〉と呼ばれた。唐代にあっては,白衣白冠の徒と称された摩尼教は,景教(ネストリウス派キリスト教)および松(けん)教(ゾロアスター教)とともに,西方渡来の宗教の代表と目され,それらの寺院は〈三夷寺〉と称された。とくに漠北にいたトルコ族のウイグル(回世)に広まり,第3代牟羽可汗治下にその国教となりさえした。唐の玄宗は732年(開元20)に邪教として漢人の信仰を禁じたが,在留の西域人については不問に付した。768年(大暦3)にはウイグルの要請で長安に大雲光明寺と呼ばれる摩尼教寺院が建てられ,9世紀の初めにかけて長江(揚子江)方面の大都会や洛陽,太原にも建てられたが,843年(会昌3)に会昌の廃仏に先立って禁断された(三武一宗の法難)。2年後の廃仏の際に景教と松教も禁断され,宣教師たちは還俗させられるが,摩尼教の場合は,入唐僧の円仁が《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》に,勅が下って天下の摩尼師を殺さしめたと明記したごとく,多数の殉教者を出した点が注目される。五代・宋代以後には,仏教や道教などと習合した秘密宗教として,江南や四川で行われ,しばしば官憲による邪教取締りの対象とされた。日本の《御堂関白記》をはじめとする日記の具注暦に日曜日を〈蜜〉と記すのは,摩尼教の信徒が日曜日を休日として断食日とした暦法が東漸して日本にまで伝わったことの明証である。なお,20世紀初頭以来の中央アジア探検によって,トゥルファン(吐魯番)などから多数の摩尼教関係の文献や壁画が発見された。    礪波 護

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4名無しさん:2013/07/20(土) 03:55:24
景教
けいきょう J°ng jiロo

大秦景教ともいい,キリスト教ネストリウス派に対する中国でのよび名。ネストリウスが,キリストやマリアの神性を弱めると解されかねない説を主張したため,431年のエフェソス公会議で異端と決定され追放されると,東方に教圏をもとめ,まずイランの地でかなり栄え,ついでさらに遠く中国に至ったのである。中国には,唐の太宗治世の635年(貞観9),ペルシア僧のアラホン(阿羅本)を団長とする伝道団が堂々と長安に到着するや,太宗は宰相の房玄齢らをして宮中に迎えしめ,その経典の翻訳を勅許し,布教を勧めた。3年後には長安の義寧坊に一寺を建立させ,僧21人を出家させた。つぎの高宗も景教を保護し,諸州にその寺院をおかせ,アラホンを崇(たつと)んで鎮国大法主とした。仏教に傾斜した則天武后の治世には少し衰えたが,玄宗によって保護され,アブラハム(羅含)やガブリエル(及烈)といった有力な僧侶によって大いに教線を拡大した。
 当初はこの教えを波斯経教,その寺院を波斯寺,つまりペルシア人の宗教とよんできたが,発生の地がペルシアではなく大秦国であることを知り,745年(天宝4)には詔によって波斯寺を大秦寺と改めることになった。ひきつづき粛宗・代宗・徳宗の治世に優遇され,781年(建中2)には,篤信の居士イズドブジド(伊斯)の出資によって《大秦景教流行中国碑》が建てられたのである。この碑によって初伝以来の中国における盛衰の跡をたどることができる。この碑は,明の天啓年間(1621‐27)に偶然に発見されてから内外の注目をひき,今は西安の陝西省博物館内の碑林に陳列されているが,その複製は京都大学文学部陳列館と高野山にある。なお西方からの伝教士ガブリエルが玄宗の恩寵をえて布教に便せんと奇器異巧を造って献上し,非難されているが,これなど,明末のイエズス会宣教師マテオ・リッチらが天文儀器や時計などを朝廷に献上したことの先駆といえよう。唐の武宗が845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来の宗教をも一律に禁断したので,景教も迫害されることになり,急速に衰え,宋初には景教徒の姿は中国本土では見かけられないまでになった。しかし西北辺境方面や中央アジアではその信仰が維持され,11世紀にはモンゴル族のケレイト部やトルコ族のオングート部に多数の信者を擁していたため,ケレイト部と通婚したチンギス・ハーン家にも多くの信者を出した。したがって,モンゴル族がユーラシアにまたがる世界帝国を建設し,あらゆる宗教に寛容な態度をとると,ふたたび中原にあらわれ,今度は〈也里可温(エルケウン)〉あるいは〈達婆〉〈迭漢〉とよばれたが,いずれもペルシア語のタルサ,神を怕(おそ)れる人,の意味といわれる。とにかく元朝にあっては長江(揚子江)下流域にも相当の信徒がいたのであって,1289年(至元26)以後,崇福司という官庁を設けて事務を管掌させた。しかし,明朝が興ると,いっさいのキリスト教が禁断され,ネストリウス教徒も後を絶ったのである。⇒ネストリウス派
                         礪波 護

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5名無しさん:2013/07/20(土) 03:56:16
>>4
ネストリウス派
ネストリウスは

エフェソス公会議(431)におけるネストリウス断罪に同意しなかったシリアのキリスト教徒が形成した教派。ペルシアを中心に,海路インド,陸路中央アジア,シベリア,中国まで拡大したが,13世紀末に衰退した。自称は東方教会だが,アッシリア教会とも呼ばれ,近世にカトリック教会と合同した一派はカルデア教会と呼ばれる。教義の面ではアンティオキア学派の神学者モプスエスティアのテオドロス,ネストリウスなどの教えを発展させ,キリストにおける神性と人性の独立性を強調し,両者の結びつきを実体的ではなく,道徳的にしか考えない傾向があった。そのためカルケドン派教会から異端とされた。初期の有能な指導者バル・サウマーは,ローマ帝国の弾圧を逃れて,5世紀中葉にシリアのエデッサからペルシア領ニシビスに達し,ここに神学校を設けて拠点とした。バル・サウマーはペーローズ王の厚遇を得て,ネストリウス派をペルシアにおける支配的キリスト教派となし,ベート・ラパト会議(484)で公式にネストリウス主義が受けいれられることになった。6世紀には修道制も確立した。
 イスラムの支配下にあってもネストリウス派は繁栄を続け,特にギリシア語文献の翻訳者,医師,技術者としてイスラム文化の形成に貢献した。なかでもアッバース朝下に活躍したフナイン・ブン・イスハークは有名である。ネストリウス派教会の首長はカトリコスと呼ばれるが,5世紀末から東方総主教と称した。その座所はセレウキア・クテシフォンにあったが,アッバース朝時代にバグダードに移った。典礼用語はシリア語で,それは布教地においてもだいたい保たれた。布教活動は同教派の黄金時代を現出した東方総主教ティモテオス1世の時代,すなわち8世紀後半から9世紀初頭にかけてもっとも盛んであった。アラビア半島から海路インド南部に達し,大きな勢力を築いたほか,北方の陸路を伝わっては中央アジアから中国までのほぼ全域に及んだ。中国に7世紀前半に伝わったネストリウス派は景教の名で知られるが,中国では教勢は伸びなかった。ただモンゴル族とトルコ・タタール系民族のあいだで改宗者を得たことは,のちのモンゴル軍の征服の際にネストリウス派にとって有利に働いたが,モンゴル系諸国家のイスラム化とともに急激に衰退した。近世においてローマ教会の働きかけで一部のネストリウス派が合同教会(カルデア教会)を形成した。クルディスタンに答塞(ひつそく)していたネストリウス派は19世紀にアッシリア人の発見として世界に知られたが,勢力はごく限られている。⇒景教                   森安 達也

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6名無しさん:2013/07/20(土) 03:59:06
>>2
弥勒信仰
みろくしんこう

インドに成立し,東南アジア・東アジアの諸民族に受容された弥勒信仰は,未来仏である弥勒菩醍(マイトレーヤ Maitreya)に対する信仰で,仏教に内包されたメシアニズムである。弥勒菩醍は釈尊入滅の56億7000万年後に,弥勒浄土である兜率天(とそつてん)よりこの世に出現し,竜華樹の下で三会にわたって説法し,衆生救済を果たすと信じられている。インドにおける弥勒信仰の前身の一つは,ヒンドゥー教における救済者カルキの存在である。カルキは未来において人間の寿命が23歳となった末世に,この世に出現して人々を救済すると説かれていた。また弥勒は別称アジタとよばれるバラモンの弟子だとする説もある。本来アジタと弥勒(マイトレーヤ)は別々の存在であったのが,同一視されるようになったという。仏典〈弥勒三部経〉すなわち《弥勒下生経》《弥勒大成仏経》《弥勒上生経》が,教理の中心である。弥勒下生の地は,ゲートマティとよばれる都市とされ,その地はすばらしいユートピアとして描かれている。したがって,弥勒信仰はユートピアをめざす千年王国運動(至福千年運動)とかかわる性格をもつのである。事実,中国の弥勒信仰は,民衆の反乱運動と結びついて展開した。朝鮮半島においても同様な事例が認められ,とくに19世紀末の社会変動期に弥勒下生信仰が顕在化し,新宗教運動のかなめとなった。また,新羅の花郎も弥勒信仰の影響を受けていた。
[日本]  中国・朝鮮半島を経て6世紀に伝来した日本の弥勒信仰は,最初百済の弥勒信仰の影響が強かったが,しだいに定着して民俗信仰となった。弥勒信仰の一般的展開からみると,まず下生信仰が成立し,次に上生信仰に変化したと考えられているが,日本仏教史の上では,弥勒信仰を受容した貴族社会が,まず上生信仰を展開させた。下生信仰の未来性が,貴族たちの個人的信仰と相容れなかったためである。しかし真言宗の空海による弥勒信仰は,高野山を将来の弥勒浄土とみたて,そこに入定して,弥勒出世を待機する内容であり,弥勒下生の一つのタイプを示している。真言宗の民間信仰との接触により,弥勒信仰は各地に広まっていた。とくに15〜16世紀に,東日本の鹿島地方を中心に弥勒下生の信仰が強まった。この背景には,太平洋のかなたから〈弥勒の舟〉が鹿島地方に到来するという伝統的な信仰に支えられている。江戸時代の代表的な山岳信仰である富士講の教祖身禄(みろく)は,入定行者の系譜をひき,〈弥勒の世〉の現実化をめざしたもので,近代の大本教(おおもときよう)などの新宗教運動の嚆矢(こうし)となった。       宮田 登

7名無しさん:2013/07/20(土) 03:59:41
>>6 の続き


[中国]  中国においても弥勒がこの世に下生することにより理想的政治が実現するという民衆の信仰は強く,この信仰を組織して弥勒の名の下に宗教反乱がくり返された。自然災害,あるいは悪政によって困窮の生活に追い込まれた民衆の心をこの信仰の下に団結し,その力を利用して反乱が企てられたのであるが,そのたびに為政者は邪教として禁圧を加えている。
 北魏時代(386‐534)の大乗教徒の乱はその先ぶれとされるが,弥勒の名を用いたのは,613年(大業9),隋の煬帝(ようだい)の時代の河北における宋子賢がはじめである。〈弥勒出世〉と自称した彼は幻術にたけ,夜になると光を使って楼上に仏の姿を現出させたり,あらかじめ紙上にかいた蛇や獣,人間の姿を鏡を使ったトリックで映し出し,罪業のあかしとして見せたりして民衆の帰依を得たが,挙兵の前に発覚し殺された。同じ年に陝西の扶風では,沙門の向海明が,帰心すれば吉夢(よいゆめ)を得られるとして人々を惑わし,乱を起こしてみずから皇帝と称し,年号も新たに立て数万が蜂起したが,鎮圧された。また,反乱ではないが,弥勒信仰あるいは讖緯説(しんいせつ)を利用して革命し政権をとったのが則天武后である。妖僧薛懐義(せつかいぎ)らに〈則天は弥勒仏の下生にして,閻浮提の主とならん〉の語句を含んだ《大雲経》を偽作させ,これにより周を建てた。時代が下り,玄宗の世には河北省の貝州で王懐古がやはり〈新仏〉の下生を妖言して乱を起こし,唐末には四川で,秘密教団としての弥勒会が生まれ,反乱を起こした。しかし,彼らの組織や布教活動を示す具体的な史料はほとんど残っていない。
 五代の時代には,狂僧布袋和尚が弥勒の化身とされ,民間ではしきりにその図像が描かれ,今日に至るまで,布袋の姿が弥勒仏の像となっている。北宋では,仁宗の時代(1023‐63)に貝州で起きた王則の反乱がある。彼は弥勒会の教徒を動かし,みずから東平郡主と称し,国号を安陽,年号を得聖とし,殺害劫奪を繰り返したが,60余日にして鎮圧された。連座したものの中には官僚層の人物もおり,当時の弥勒教の浸透の深さがうかがえる。その後南宋には白蓮宗が生まれ,弥勒教と合体して白蓮教となり,元末の紅巾の乱,あるいは明・清時代の民衆反乱の中に生き続けた。⇒白蓮教の乱               西脇 常記

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8名無しさん:2013/07/20(土) 04:01:09
白蓮教
びゃくれんきょう

中国,宋・元・明・清にわたる民間宗教の一派。その起源は南宋の茅子元の白蓮宗にさかのぼる。茅子元の白蓮宗は五戒を奉持し,阿弥陀仏を念じて浄土に生まれることを願う念仏結社であった。その教団は指導層が半僧半俗の妻帯者であったところに特色があり,また菜食主義を奉じたところから白蓮菜とも呼ばれた。茅子元は,また,仏教教理を〈普・覚・妙・道〉の4字に要約して信者を指導した。白蓮宗は高宗の時代(1127‐62)に厚遇を受け民間に浸透したが,茅子元の死後はしだいに反体制的な傾向を帯びていった。元の中期に普度が出て《廬山蓮宗宝鑑》を著し白蓮宗の浄化を叫んだが,その著の中には,民間の白蓮宗の信徒のなかに,〈弥勒仏下生〉をいい,また邪言を伝授して,夜に集会し明け方に散じていく者のあったことを指摘しており,白蓮宗が民衆の反体制的な運動の温床となっていたことが知られる。
 元末になると各地で白蓮教徒の反乱が起こるが,その代表的なものが韓山童集団と徐寿輝集団による反乱である。韓氏は韓山童の祖父の代から白蓮会を組織し,韓山童の時に至って,〈天下大いに乱れ,弥勒仏下生す〉という口号(スローガン)を掲げ,劉福通らと結んで反乱を起こした。韓山童は早期に官憲に捕らえられたが,彼の子韓林児は劉福通に擁され,小明王と称し,亳(はく)州において宋国を立て元号を竜鳳と定めた。この〈明王〉という称号は,あるいは仏教に由来するものとされ,またマニ教に由来するものともされる。次に,徐寿輝集団は参謀彭瑩玉(ほうえいぎよく)が徐寿輝を頭目に推して結成したもので,反乱に当たって〈弥勒仏下生〉を唱え,託水(ぎすい)を国都として天完国を樹立した。この徐寿輝集団には,鄒普勝,欧普祥,趙普勝などのように,〈普〉の字を名の上に冠した人が多いが,これは〈普・覚・妙・道〉を標榜した茅子元の白蓮宗においても見られるところで,相互の連関が考えられる。
 明代に入って,白蓮教はますます,民衆の間に浸透し,明一代には,《明実録》によれば,八十数回もの白蓮教関係の事件が起こっている。その最大のものは明末の山東に起こった王森・徐鴻儒の乱であろう。また明代に入ると,白蓮教系の諸教団では,布教のための経典が製作されるようになった。この通常,宝巻と呼ばれる経典のなかには,〈真空家郷〉〈無生父母〉の語が見られ,明末から清代にかけては白蓮教の〈八字真言〉といわれるようになった。この〈八字真言〉は,民衆が,現実の父母や家・故郷との関係,すなわち地縁的・血縁的関係を否定して反体制的行動に身を投じる際に有力に働いた思想である,という見方も行われている。清代に入っても,持斎,念誦,戒貪,戒黒などの修行により,仏に成り,仙人に成ることを求めた白蓮教徒の活動は活発で,嘉慶朝には,混元教の劉松の弟子劉之協が中心となり,明の遺裔という牛八を立て,劉四児を弥勒仏転世として,牛八を補佐させ,混元教を改めて三陽教とし,大規模な反乱を起こしている。⇒紅巾の乱‖弥勒信仰                  砂山 稔

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9名無しさん:2013/07/20(土) 04:05:41
浄土教
じょうどきょう J≒ng t¢ jiロo

仏典に説かれている諸仏とその建立した浄土をとく教説によって発達した教義信仰を総称していう。大乗仏教にあっては,菩醍は衆生を救済するため国土を浄める誓願をたて,無限の慈悲をそそぐ救済者たる仏になったのであって,それらの清浄な仏国土を浄土とよんだ。浄土には,兜率天(とそつてん)の弥勒浄土をはじめ,阿醗仏(あしゆくぶつ)の妙喜浄土,阿弥陀仏の極楽浄土,薬師仏の浄瑠璃浄土,さては霊山浄土や観音浄土などを数えうるが,一般に浄土教という際には,弥勒浄土と阿弥陀仏の浄土,とくに阿弥陀仏の西方極楽浄土に往生し成仏することを説く教えを指すことが多い。
 兜率天で修行中で,釈梼没後56億7000万年にこの地上におりてきて竜華三会の説法を行うとされる弥勒菩醍を信仰する弥勒浄土信仰には,弥勒下生信仰と弥勒上生信仰の二つがあり,それぞれ《弥勒成仏経》《弥勒下生経》と《弥勒上生経》に説かれていて,これらを〈弥勒三部経〉とよぶ。中国における弥勒浄土信仰は,道安とその門弟に始まるとされ,法顕も西域やインドの弥勒信仰を伝え,北魏時代には隆盛をきわめ,竜門石窟の北魏窟,つまり5世紀末から6世紀前半にかけての時期には弥勒像が目だつ。しかし,隋・唐時代になると阿弥陀仏の西方浄土信仰にとってかわられる。ちなみに,中国では弥勒下生に名をかりた民衆反乱が頻発するのであるが,それらは阿弥陀信仰が弥勒上生信仰を圧倒した隋・唐以後であることは注目されてよかろう。ところで,《漢訳大蔵経》のなかで阿弥陀仏について説いている仏典は270余部で,大乗仏典全体の3割を占めていて,中国や日本では阿弥陀浄土の信仰が他の浄土教を圧倒して普及し,浄土教の名称を独占するかのごとき様相を呈するにいたる。この阿弥陀浄土をとくに説く浄土経典としては《般舟三昧(はんじゆざんまい)経》と《無量寿経》《阿弥陀経》《観無量寿経》のいわゆる〈浄土三部経〉がある。道安の弟子である東晋の慧遠(えおん)は,廬山の東林寺で僧俗123名と念仏結社,いわゆる白蓮社(びやくれんしや)の誓約をしたことで知られ,中国では慧遠を浄土宗(蓮社)の始祖と仰いでいる。ただし,慧遠を中心とする結社は高僧隠士の求道の集まりで,主として《般舟三昧経》に依拠して見仏を期し,各人が三昧の境地を体得しようと志すものであって,ひろく大衆を対象とする信仰運動ではなかった。日本の法然,親鸞らを導いた純浄土教義と信仰は,北魏末の曇鸞(どんらん)に始まり,道綽(どうしやく)を経て善導によって大成される。はじめ竜樹系の空思想に親しんでいた曇鸞は,洛陽でインド僧の菩提流支に会い,新訳の世親斤《無量寿経論》を示されて浄土教に回心し,のち山西の玄中寺でこれを注解した《往生論蔦》を斤述し,仏道修行の道として仏の本願力に乗ずる易行道につくことを宣布するとともに,いわゆる〈浄土三部経〉を浄土往生の信仰の中心とする浄土教義をうちたてた。〈浄土三部経〉とは,三国魏の康僧鎧訳《無量寿経》と南朝宋の臭良耶舎訳とされる《観無量寿経》と後秦のクマーラジーバ(鳩摩羅什)訳の《阿弥陀経》で,そのうち《無量寿経》は漢訳5本のほかにサンスクリット本とチベット本の計7種があり,阿弥陀仏の本願を説いて浄土教義の基本となり,《阿弥陀経》はサンスクリット本やチベット本もあり,浄土のありさまを簡潔にまとめているので,最もよく読誦あるいは書写されて浄土教を普及したのに対し,《観無量寿経》はサンスクリット原典が残存せず,中央アジア斤述説,中国斤述説などが唱えられている経典である。

10名無しさん:2013/07/20(土) 04:07:42
>>9

 曇鸞の没後まもなく,玄中寺の付近に生まれた道綽は,北周武帝による廃仏により還俗させられたが,玄中寺で曇鸞の行跡を記した碑に感激して,48歳にして浄土教に帰し,末法仏教運動を起こした。曇鸞の浄土教が《無量寿経》を中心とする傾向が強かったのに対し,隋・唐初に活躍した道綽と,その門下の善導とは,《観無量寿経》を中心に説法教化した。道綽の主著たる《安楽集》は《観無量寿経》の講義説法を集録した綱要書とされている。善導は,国都の長安に出て民衆を教化し,《観無量寿経疏》を著して曇鸞,道綽の浄土教義を整然と組織化するとともに,〈浄土変相〉などの絵画を描いた。そして《法事讃》《往生礼讃》などの阿弥陀仏への賛美歌やきびしい懺悔の告白を総合した宗教儀礼を制定し実践し,また〈南無阿弥陀仏〉と口に出してとなえる口称念仏を勧めた。慧遠流,善導流とともに中国浄土教の三流の一つに数えられるのが,慈愍三蔵(じみんさんぞう)慧日によって始められた慈愍流であって,禅浄双修の念仏禅の基礎を開き,その教えは南岳承遠や法照によって受け継がれた。法照は五会念仏の法を宣布したことで知られる。宋代以後は禅浄双修の教説が盛んとなり,浄土信仰は民衆のあいだに広範に浸透した。
 日本の浄土教は,飛鳥期における大陸からの弥勒像の伝来にともなう弥勒浄土信仰に始まる。弥勒信仰は白鳳期を経て奈良時代前期にはかなり栄えたが,奈良時代後期には遅れて伝来した阿弥陀信仰の方が優勢を占めるようになる。つぎの平安時代初期に樹立された天台宗の教団内に阿弥陀信仰の浄土教がおこり,とくに円仁が入唐して五台山に巡礼し法照の五会念仏にもとづく念仏三昧法を移入し,ついで源信が《往生要集》を著して地獄と極楽の詳細を描き出してから,浄土教の全盛時代を迎えるにいたる。平安末期から鎌倉時代にかけて,ひとえに善導によると称した法然は,源信の教義をも受けて専修念仏を強調し,《選択本願念仏集》を著して浄土宗を開き,その弟子の親鸞は《教行信証》を著して絶対他力の信仰を鼓吹し,浄土真宗の祖となり,また一遍は全国を遊行して念仏をすすめ時宗の祖とされる。彼らは,いずれも〈浄土三部経〉を所依の経典としたが,なかでも法然が《観無量寿経》を重視したのに対し,親鸞は《無量寿経》を,一遍は《阿弥陀経》を重んじた。浄土真宗は,室町時代に蓮如が積極的な教化活動をしたことにより日本最大の本願寺教団を生み出し,近代に至った。     礪波 護

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11名無しさん:2013/07/20(土) 04:10:27
弥勒
みろく

サンスクリットのマイトレーヤ Maitreya の音訳とされているが,〈弥勒〉という名前そのものはクシャーナ朝(1世紀半ば〜3世紀前半)の貨幣にあらわれる太陽神ミイロ Miiro に由来すると思われる。クシャーナ朝下で用いられた言語でミイロはイランの太陽神ミスラ Mithra に由来し,したがってベーダの契約神ミトラ Mitra と関連する。インド仏教徒は Miiro を Mitra に還元し,mitra が友を意味し,派生語 maitreya が〈友情ある〉を意味することから,弥勒を〈慈氏〉(Maitreya の意訳語)ととらえたものと思われる。《弥勒下生経》をはじめとする弥勒六部経によると,弥勒は兜率天(とそつてん)におり,釈梼の没後その予言にしたがい,人寿八万四千年のときに下界に降り,竜華樹のもとで仏となって,釈梼の救いにもれた人々を救う。《菩醍処胎経》などによると,それは(釈梼没後)五十六億七千万年とされる。仏教世界観によると,兜率天の1日は人間界の400年であり,そこの生き物の寿命はその年で測って4000年である。したがって,兜率天の生き物の寿命は人間界の年数に換算すると(1年を360日として),360×400×4000=5億7600万年となる。最初はおそらく弥勒は五億七千六百万年後に人間界に降るとされていたのであろうが,早くから五十六億七千万年という別の伝承が生じた。弥勒には未来仏の性格があることから,イランやその西方の救済者の思想の影響があるのではないかと考えられている。法顕によると,パミール山中に巨大な弥勒像ができたのを契機に,インドから中国に向かって仏教が伝播した。⇒弥勒信仰             定方 里
[図像]  弥勒の図像は2種に大別される。すなわち兜率天において教化に当たっている菩醍としての像と,釈梼滅後五十六億七千万年後に竜華樹下に成仏し,三会説法を行っている如来としての弥勒である。中国,朝鮮,日本の初期の仏教美術中にあっては,菩醍としての弥勒の造像がきわめて多い。ことに悉多太子の樹下思惟像と類似した半跏思惟像ないし交脚像が,弥勒菩醍として造像された。中宮寺像や広隆寺像が著名で,後者は材質的に朝鮮赤松を用いており,韓国中央博物館の金銅半跏思惟像との関連が注目される。また弥勒と銘記のある半跏思惟像として665年(天智6)の大阪野中寺の金銅半跏像がある。
 一方,如来形をとる弥勒としては白鳳時代の当麻寺金堂塑像や,法隆寺五重塔塑造群像中の弥勒浄土や,平安時代初期の慈尊院像,運慶作の興福寺北円堂像などがある。弥勒の兜率天における説法の情景を描く〈兜率天曼荼羅〉に大阪巡命寺本,京都興聖寺本があり,弥勒の来迎を描いた図としては称名寺金堂壁画や東京芸大本があり,高麗仏画中には弥勒仏の竜華樹下の説法を描いた〈弥勒下生経変相図〉がある。密教図像としては胎蔵曼荼羅中台八葉院中の二臂像がある。右手に蓮華上に賢瓶を置き,左手を施無畏印とし,蓮華上に座し,宝冠中に卒覩波をおく。この図像をとる作例として醍醐寺本,宝山寺本などがあるが,持物に若干の相違もあり,宝塔を持物とするものが多い。そのほかに三十臂像があるが作例は知られない。            百橋 明穂

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12名無しさん:2013/07/20(土) 04:13:03
イラン神話
イランしんわ

[起源]  インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属する言語を話す人びとは,古代において一方は東へ向かってインド亜大陸に至り,もう一方は西方へ南下してイランに定着することになった。したがって,イラン語による最初の文献アベスター中の神名・神話内容は,インドのベーダ文献(特に最古の《リグ・ベーダ》)に見られるそれと共通な点が多い。前2千年紀にさかのぼるインド・イラン共通時代には,神々はダエーバ/デーバ神群(/の後はサンスクリット語形)とアフラ/アスラ神群の2群に大別されていた。前者の神々は慈悲深く,人間的弱点をもあわせ持ち,戦士的,ときにディオニュソス的な性格を示す。一方後者は,人間に峻厳な,人知を超えた不可思議な力を備えた神々を指す。不死なる神々の天上世界と,死すべき人間の地上世界の両方を秩序づけるアルタ(真実)/リタ(天則)――アベスター語でアシャ――は,このアフラ/アスラ神群によって守護されている。ミスラ/ミトラと,《リグ・ベーダ》でこの神と1対をなすバルナがこの神群を代表する神である。ゾロアスター教の主神アフラ・マズダは,このバルナ神と同一起源のものであると推定される。インドでは,アフラ/アスラ神群が,仏教の阿修羅(アスラ)が示すように,悪神となったのに反して,イラン側ではまったく逆に,ダエーバ/デーバがすでにゾロアスター自身の教説において悪神とされている。このイラン,インド両神界に見られる最大の相違点を,ゾロアスターの宗教改革の結果に帰す学説がある。イランの宗教は,ゾロアスター教であれ,マニ教であれ,終末論的色彩の濃厚な,宇宙論を軸とする救済宗教である。以下,錯綜(さくそう)するイランの神話世界――古代においては神話とはしばしば教義と同一である――を,便宜上宇宙論と終末論に分けて概観する。
[宇宙論]  ササン朝期の中世ペルシア語文献によれば,イランの歴史的時間は1万2000年よりなり,これはさらに善神オフルマズド(アフラ・マズダの中世語形)と悪神アフリマンとの戦いの様相によって,四つの時期に等分される。この世界の初めにおいては,オフルマズドの上方の光明界とアフリマンの下方の暗黒界とは,虚空によって完全に分離されて存在していた。万物はこの〈第1の3千年紀〉には,メーノーグ(霊的・天上的・不可見)の状態であった。さて,オフルマズドはアフリマンの攻撃が不可避なことを察知して,それに勝利すべくまず物質世界〈ゲーテーグ〉の創造に着手する。〈第2の3千年紀〉の始まりである。次の〈第3の3千年紀〉は混交期(グメーニシュン)である。アフリマンがその軍勢を率いて,光明界への攻撃を開始する。彼らは天空を破って侵入に成功し,その結果水は塩水となり,地上はアフリマンの被造物である爬虫類でいっぱいになる。ここに善と悪,光と闇が混合し,混在することとなった。アフリマンはまず〈原初の牛〉を殺害する。その死体より植物が生じ,その精液は月に集められ,月光で清められて種々の益獣を生じた。次に〈原人(ガヨーマルト)〉が犠牲になる。地上に倒れたその身体より金属が生じる。精液は太陽の光で清められ太陽に保管されるが,3分の1は地上に落ちて,まずそれよりダイオウ(大黄)が生じ,やがてこの植物はイランのアダムとイブ,マシュエとマシュヤーネに変質する。アフリマンの攻撃により始動したこの3千年紀を区切るのは,3人の王者の統治である。アベスターによると,最初の千年はイマ・フシャエータ(インド神話のヤマ,仏教の閻魔(えんま),現代ペルシア語ジャムシード)の支配する人類の黄金時代である。次の千年間は悪竜アジ・ダハーカの時代。最後の千年は,スラエータオナ(現代語形フェレイドゥーン)が悪竜を破って,王権の象徴たる光輪(フバルナ)を回復する。この〈原人〉以降スラエータオナに至る時代は,フィルドゥーシーの《シャー・ナーメ》にも受け継がれ,テーマとなっている。さて,〈最後の3千年紀〉の開始を告げるのは,ほかならないゾロアスターの誕生である。彼の出生後3000年にして人間の歴史は終焉(しゆうえん)する。この3千年紀の各千年ごとに,湖に秘匿されていた彼の精液より,その子が1人ずつ生まれ出る。その3人目,つまり最後の子息が〈真実の化身(アストバト・ウルタ)〉,通常サオシュヤントと呼ばれるこの世の救済者である。このサオシュヤントの概念は,ユダヤ教を通ってキリスト教にその救済者(メシア)像の原型を提供し,さらにイスラムにその〈隠れイマーム(マフディー)〉の理念を与えた。

13名無しさん:2013/07/20(土) 04:15:01
>>12

[終末論]  アベスターによれば,人の魂は死後〈選別者の橋(チンバトー・プルトゥ)〉で,自分自身のダエーナー(宗教,意識)に迎えられる。義者(アシャバント,真実者)の場合にはダエーナーはこのうえなく麗しい乙女の姿であり,不義者(ドルグバント,虚偽者)のときは醜い老婆の形である。この橋は義者には大道であるが,不義者には剣の刃のように狭まる。前者はダエーナーの先導で橋を渡って天上の楽園(ガロー・ドマーナ)に至り,後者は渡りきれず地獄に落ちる。以上が,すでにゾロアスター自身の教説に見られる個別審判の記述である。ここで再びササン朝期の文献に戻れば,前述の人類の始祖の2人はまず水,ついで草木,ついで乳,最後に肉を食するようになった。人間は最後の3千年紀には,千年ごとのゾロアスターの子孫の生誕に合わせて,この逆に肉以下を控え,最後は水だけで肉体を維持するようになる。このようにして,第4の3千年紀(ビザーリシュン,善悪分離期)には,逆の順序で原初の状態への復帰が行われる。この世の終末は善・悪両軍の決戦で始まる。オフルマズドの勝利の後に,火によって溶かされた山々の金属が,溶鉱の川となって大地を流れ下る。復活した人類は全員がこの流れを渡らなければならない。すなわち,最後の審判,死直後の個別審判に対する総審判である。溶鉱は義者には温かい乳のように快適である。一方,不義者はその中で焼かれ苦しむが,4日目には罪を清められてよみがえる。流れが退いた後,山は消え去り,谷は埋めつくされて大地は平たんとなる。地獄は閉ざされ,アフリマンは永遠に無力化される。人類は,もはや罪業を持たないように,影を持たず,至福の存在を享受する。この待望される原初の状態への回帰は,アベスターではフラショークルティ,中世語形ではフラシャギルドと称される。⇒インド神話           上岡 弘二

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14名無しさん:2013/07/20(土) 04:16:49
阿弥陀
あみだ

極楽浄土にいて衆生を救済するとされる仏。弥陀とも略称される。《無量寿経》によれば,過去世に法蔵比丘が世自在王如来のもとで四十八の誓願をたて,長期間の修行を果たし,現在では阿弥陀仏となり,極楽浄土の主となって,その浄土へ往生を願う衆生を摂取するという。四十八の誓願のうち第十八願は阿弥陀仏を念ずれば極楽往生できるというもので,後世の中国,日本では称名念仏の根拠とされた。この仏はサンスクリット文献では Amit´bha(無量光),Amit´yus(無量寿)として現れるが,阿弥陀はおそらくこの前半部 amita(無限)の方言であろう(他にも説がある)。阿弥陀仏は大乗仏教の仏としてクシャーナ時代の初期(1〜2世紀)に登場したらしいが,その起源に関してイラン思想の影響がいわれている。1977年7月にインドのマトゥラー博物館が入手した,足だけを残す仏の台座に,この像が阿弥陀 Amit´bha であることを示す文字があった。台座が奉献された時代はフビシュカ Huvioka 王の28年(2世紀後半)と記されている。《無量寿経》が中国で翻訳されたのは252年であるが,それより前に安世高や支婁梼讖(しるかせん)(いずれも2世紀)が同系の経を翻訳したという伝承がある。クシャーナ時代には北西インドにクシャーナの王たちが信奉するゾロアスター教系の信仰が広まったとみられ,クシャーナの貨幣には太陽神ミイロが表現され,また神や王の姿には光線や索がそえられており,〈無量の光〉を属性とする仏の信仰を生みだす背景は十分にあった。またオリエント(イランを含む)のメシア思想も無視しえない。阿弥陀仏は衆生を救済する仏として,従来の自力仏教の伝統のなかに他力仏教という新しい要素をもたらした。自力仏教においては阿弥陀仏は観想の対象としての意味をもち,修行者の成仏の意志を励ますものとなった。密教では絶対者の顕現の一つとしてそのパンテオンに組みいれられた。三身 trik´ya 説では報身とされる。観音,勢至を脇侍とする。  定方 里
[日本における阿弥陀信仰]  阿弥陀信仰は中央アジアを経て,中国に伝わった。中国でこの信仰が高まるのは4世紀後半から5世紀以後である。日本へは7世紀のはじめに伝わった。人びとをひきつけたのは《無量寿経》《観無量寿経》《阿弥陀経》であり,これらは阿弥陀仏とその浄土を語り,阿弥陀仏の救済が衆生の極楽浄土への往生で実現されることをのべている。奈良時代以前の阿弥陀信仰は弥勒信仰と混在した形であり,追善的性格が濃厚であった。奈良時代の後期に浄土変相図がつくられ,阿弥陀仏と浄土への観想に関心が寄せられたが,往生を願う中心に死者だけでなく,自己を据えるようになってきた。阿弥陀仏とともに,その西方の浄土が日本人の心にしみついたのは平安時代からである。
 阿弥陀信仰の本格的展開のきっかけをなしたのは比叡山の不断念仏であり,源信の《往生要集》であった。阿弥陀信仰が成熟したのは平安時代中・末期である。阿弥陀堂,迎接堂が建てられ,聖衆来迎図が描かれ,迎講,往生講,阿弥陀講などが営まれた。信仰者は当初僧侶・貴族層であったが,官人,武士,農民,沙弥など各層に及び,奴婢,環児など卑賤のものも阿弥陀信仰を精神的支柱としていた。〈往生伝〉はこれら信仰者の往生の証の書であるが,10世紀末から約2世紀の間に,慶滋保胤の《日本往生極楽記》以下7種類も著された。鎌倉時代になると,阿弥陀信仰は質的に飛躍した。本願,往生,名号などに関する教学が深まり,いわば念仏宗ともいうべき新宗派,すなわち法然の浄土宗,親鸞の浄土真宗,一遍の時宗が成立した。日本での阿弥陀信仰の特色は,阿弥陀仏の〈来迎引接〉と,行者の〈極楽往生〉に特別の関心が寄せられていたこと,阿弥陀仏の〈本願〉への絶対的な帰信がみられたこと,念仏が自身の〈滅罪〉と死者への〈追善〉に最適と考えられたことである。阿弥陀仏への帰依を本旨とした宗派(浄土宗,西山系の浄土宗,浄土真宗,融通念仏宗など)の信者は,今日,全仏教徒の約5分の2を占め,阿弥陀仏を本尊とする寺院は全寺院の半数近くに達している。     伊藤 唯真

15名無しさん:2013/07/20(土) 04:18:49
>>14

[図像]  阿弥陀如来は浄土教信仰の主尊であり,したがって浄土教美術の中心的尊像である。薬師如来像とは異なり手に持物はないが,さまざまな印相(いんそう)(手の形)で表現され,印相の違いにより与願・施無畏印,転法輪印(説法印),定印,来迎印の像の4種に大別できる。
 与願・施無畏印の像は,左手は下げて右手は掌を外に向けて上げる。転法輪印の像は,両手を胸前にあげ,左手は大指(親指)と中指をつけて掌を内に向け,右手は大指と頭指(人指し指)をつけて掌を外に向ける。これは阿弥陀如来が説法する姿を写すもので,阿弥陀浄土図,観経変相図などの画像に表される。与願・施無畏印と転法輪印は釈梼如来像にも表されており,阿弥陀特有の印相ではないが,阿弥陀には比較的古い時代から用いられたと推測される。定印の像は,腹の前で両手掌を上に向けて両手指を交差し,左右の頭指を立てて背中合せにし,その上に左右の大指を置く。《両界曼荼羅》のうち胎蔵界の無量寿如来と金剛界の阿弥陀如来に表されており,平安時代の阿弥陀堂本尊(彫像)はこの印相の像である。来迎印は,両手とも大指と頭指とを合わせたまま右手は上げ左手は下げ,掌はいずれも外に向ける。往生者を迎える姿として表現されている。

16名無しさん:2013/07/20(土) 04:22:09
>>15
[作例]  西北インドのガンダーラ地方において仏教の造像活動が活発になる1〜2世紀ころ,北西インドでは大乗仏教がかなり広まり,阿弥陀信仰が行われていても不思議でない状況であったとされているが,その時代に造られた阿弥陀像と断定できる完全な作例はまだ報告されていない。西域ではトゥルファン地方に大乗仏教が伝えられたが,西域の特色を示す阿弥陀像は発見されていない。注目すべきはトゥルファン東部のトユク(吐峪溝)から発見された中国唐代の大歴6年(771)の銘をもつ阿弥陀浄土図断片(絹絵)である。8世紀のトゥルファン地方では,仏教東漸の方向とは逆に唐代美術の影響が西方に及んだことをこの断片は示している。中国においてもこの頃から阿弥陀如来を表現することが盛んになった。竜門石窟では6世紀に阿弥陀像が造られているが,著名な作例としてはアメリカのボストン美術館蔵の隋の開皇13年(593)銘を持つ《青銅阿弥陀如来像》がある。また,敦煌石窟では初唐時代から阿弥陀浄土図や観経変相図が数多く描かれた。彫像は左右に観世音菩醍,勢至菩醍を脇侍にした三尊形式の像で,与願・施無畏印が多い。朝鮮においても6世紀には阿弥陀如来像が造られたと考えられている。辛卯銘《金銅三尊仏》は517年,癸酉銘《全氏阿弥陀仏三尊石像》(ソウル,国立中央博物館)は673年の造像と推定され,ともに右手は施無畏印である。左手は,前者が与願印に似るが無名指,小指を曲げ,後者は掌を上にして胸前に添える。また,7世紀末ころの作と推定されている慶尚北道の軍威三尊石窟本尊も脇侍の表現によって阿弥陀如来と考えられる。
 日本には7世紀中ごろに阿弥陀如来像が登場した。現存する作例は7世紀末ころのものばかりだが,東京国立博物館蔵法隆寺献納宝物中の小金銅仏のうち〈山田殿像〉と言われる金銅阿弥陀三尊像や法隆寺蔵《橘夫人厨子》の本尊は与願・施無畏印で,同寺金堂壁画(6号壁)の《阿弥陀浄土図》や同寺蔵の厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像の中の阿弥陀像は転法輪印の像であり,その当時の中国と朝鮮における阿弥陀像と同形式の古様を伝えている。さらに奈良の当麻(たいま)寺には観経変相図があり《当麻曼荼羅》と呼ばれている。平安時代前期に入ると阿弥陀は,密教の両界曼荼羅図の中に定印の座像として表現されることはあるが,単独で造像されることはなかった。平安中・後期に浄土教が盛んになって各地に阿弥陀堂が建立されると,その本尊に定印の阿弥陀如来座像が造られた。定印の阿弥陀像には常行三昧など観法修行の本尊としての性格が認められることが指摘されている。浄土教信仰は,やがて阿弥陀如来が往生者を極楽から迎えに来る姿,すなわち来迎印の阿弥陀像を表現する。《阿弥陀聖衆来迎図》がその代表例で,さまざまな形式に表現された。特殊な例としては,説法印の阿弥陀如来が山の背後から巨大な上半身を現す《山越阿弥陀図》,後方を振り返る姿の《見返り阿弥陀像》(京都禅林寺)などが造られた。鎌倉時代以降は,当麻寺の《当麻曼荼羅》や長野善光寺の本尊阿弥陀三尊像(秘仏)が盛んに模作された。後者は〈善光寺式阿弥陀三尊〉と呼ばれている。なお,九品阿弥陀の印相について,上品・中品・下品の各上生の印を定印とし,同じく中生印を説法印に,下生印を来迎印に当てて九種の印を組み合わせたものが,《仏像図彙》(江戸時代)などに見られ,現在も一般の概説書等に取り上げられているが,これらを説く儀軌はなく,しかも近世以前にはそれに基づいて造像されたものは存在しないことから,この九品印は近世に考案されたものと推定され,阿弥陀の印相としては説明すべきではないとの提言がなされている。         関口 正之

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17名無しさん:2013/07/20(土) 04:22:55
ゾロアスター教
ゾロアスターきょう Zoroastrianism

ゾロアスター Zoroaster がイラン北東部で創唱した宗教。その主神アフラ・マズダの名を採って〈マズダ教〉,またその聖火を護持する儀礼の特質によって〈拝火教〉ともよばれる。中国においては,松(けん)教の名で知られた。ゾロアスターの活躍時期については,前2千年紀中ごろから前7〜前6世紀にわたる諸説があり,なお定説が得られない。アラブによるイラン征服(7世紀前半)までイランの国教の地位を占めていた。その聖典はアベスターと呼ばれる。聖典の言語,アベスター語では,ゾロアスターはザラスシュトラ Zarathushtraに近い音であったと推定される。その聖職者階級をマグ Magu(中世語形でモウベド Mowbed)と称した(マギ)。
 ゾロアスター教は歴史的に以下の3段階に分かれる。(1)アベスター中のガーサーに見られる創唱者自身の教説,(2)アベスターの残余の部分に出るインド・イラン共通時代の神々の復活した段階,(3)中世ペルシア語(パフラビー語)文献に記述されている教義。第1段階の教説は,ゾロアスターによれば,世界は相反する根元的な2霊,スパンタ・マンユ Spトnta Mainyu(聖霊)とアンラ・マンユAngra Mainyu(破壊霊)の闘争の中にあり,各人は自由意志でその両霊のいずれかを選択し,善と悪,光明と暗黒の戦いに身を投じるとされる。その教義は強い終末論的色彩をもち,ユダヤ教への影響が論じられてきた。この戦いにおいて最高神アフラ・マズダと信徒を助けるものに,創唱者の死後アムシャ・スパンタ Amトsha Spトnta(聖なる不死者)と呼ばれることになる6神格がある。この6神格は物質世界にそれぞれ,火,水,大地などの特定の庇護物を有している。信徒は特にこの3要素を汚すことを避け,拝火教の通称が示すように独特の祭祀形式や,鳥葬・風葬のためのダフメdakhme(沈黙の塔)を発達させた。ゾロアスターの教説は,当時の多神教をアフラ・マズダを最高神とする倫理的一神教に統合しようとするものであった。これに反して,ゾロアスターの死後の第2段階では,アベスターのヤシュト書に見られるように,インド・イラン共通時代の神々(ミスラ,アナーヒターなど)がゾロアスター教のパンテオン中に復活した。第3段階のササン朝期の二元論的教義では,アフラ・マズダ(中世語形でオフルマズドOhrmazd)はスパンタ・マンユと同一視され,直接アフリマン Ahriman(アンラ・マンユの中世語形)と対立することになった。この結果,両者をともに超越する根本原理として,ズルバーン Zurv´n(時)を定立する,いわゆるズルバーン教が勢力を得た。
 シーア派の第4代イマーム,アリーはササン朝最後の王ヤズダギルドの娘から生まれたとする口承が流布し,多くのゾロアスター教徒がシーア派イスラムを受容する因となり,イランのイスラム化がすすんだ。他方,10世紀以降ゾロアスター教徒のインドへの移住が行われた結果,現在ボンベイを中心にインドにパールシー教徒とよばれる約8万人のゾロアスター教徒がいる。また,イランにはヤズド,ケルマーンを中心に約2万5000人,さらにパキスタンに約5000人の教徒が数えられる。インドにおいては,ターター財閥が示すように,教徒は活発な経済活動を展開している。
 なお,ニーチェの《ツァラトゥストラ》の主人公ツァラトゥストラはゾロアスターのドイツ語読みである。
                        上岡 弘二

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18名無しさん:2013/07/20(土) 04:23:57
アベスター
Avest´

ゾロアスター教の聖典。次の5部よりなる。(1)ヤスナ Yasna(《祭儀書》) 全72章のうち17章がガーサーと呼ばれる,ゾロアスター自身の手になる韻文詩篇で,言語学的に一番古層を示す。(2)ビスプラト Visprat 上のヤスナに手を加えた,その補遺的小祭儀書。(3)ビーデーブダート V ̄d^vd´t(《除魔書》) 旧約聖書の《レビ記》に相当する宗教法の書であるが,伝説上の王イマ Yima とその黄金時代に関する章などが含まれている。(4)ヤシュトYasht 21の神格に捧げられた《頌神書》。内容的にはガーサーより古い,前2千年紀にさかのぼるインド・イラン共通時代の神話が見られる。この中では,アナーヒター女神の第5章,ミトラ神の第10章,イラン最古の英雄伝説を扱う第19章などが重要である。(5)ホルダ・アベスター(《アベスター》) 日常的に使用する祈裳文を集めたもの。現存するアベスターは,ササン朝期のそれのわずか4分の1にすぎないと推定されている。   上岡 弘二

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19名無しさん:2013/07/20(土) 04:27:52
白蓮教
白蓮教(びゃくれんきょう)は、中国に南宋代から清代まで存在した宗教。本来は東晋の廬山慧遠の白蓮社に淵源を持ち、浄土教結社(白蓮宗)であったが、弥勒下生を願う反体制集団へと変貌を遂げた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%93%AE%E6%95%99

20名無しさん:2013/07/20(土) 04:29:16
慧遠 334‐416
えおん

中国,東晋の僧。雁門楼煩(山西省寧武)の人。俗姓は賈(か)氏。中国浄土教の祖師といわれ,念仏の結社〈白蓮社〉の開祖とされる。廬山に住したので〈廬山の慧遠〉といい,隋代の地論宗の浄影寺の慧遠と区別している。13歳のときに郷里を離れて,許昌,洛陽に遊学し,儒教の六経を修め,ことに老荘の学をよくした。354年(永和10),21歳のとき,胡族支配下の混乱のつづく華北から,江南に行き隠士范宣を訪ねようとしたが果たせず,帰って弟の慧持とともに,太行恒山の寺で大いに弘法に努めていた釈道安のもとに参じて弟子となり,仏門に入ることになった。かくて釈道安に従って各地を転々として,365年(興寧3)に襄陽に移った。しかし襄陽が379年(太元4)に前秦の軍隊に襲われ,釈道安らが長安に拉致(らち)されたため,慧遠は乱を避け弟子数十人を引きつれて草州上明寺にいたり,さらに羅浮山に赴こうとする途中,廬山の景勝の地で先輩の慧永にとどめられ,江州刺史の桓伊の寄進で東林寺を建て,そこに住した。
 それ以後,416年に83歳で没するまでの30年ばかり,〈影,山を出でず,迹,俗に入らず〉の生活をつづけたが,その宗教的感化は江南全域におよび,多くの僧侶のみならず,劉遺民,宗炳(そうへい),雷次宗といった知識人が雲集することになった。インド僧のサンガデーバ(僧伽提婆)が廬山に来るや《阿毘曇心論》《三法度論》の重訳を請うて,彼自身は序文を書き,曇摩流支には《十誦律》の漢訳を依頼し,仏陀跋陀羅が長安から廬山に入るや,《修行方便禅経》などの訳出を要請した。またクマーラジーバ(鳩摩羅什)が長安に迎えられると,書簡を送ってよしみを通じ,たびたび弟子を遣わして教義をただした。この成果が《大乗大義章》である。廬山といえば〈白蓮社の念仏〉,慧遠といえば蓮宗(浄土宗)の祖師といわれるほどに,後世への影響の大きなものは,123人の同志と般若台,阿弥陀像の前において念仏実践を誓約した事跡である。その立誓文は慧遠に代わって劉遺民が書いた。その誓いは,無常観と三世因果応報の教義の上に立てられている。この念仏三昧実践の主要な依拠となった仏典は《般舟三昧経》であって,釈道安の熱心な般若学を継承した慧遠は,称名念仏を説いたのではなく,見仏三昧の念仏をすすめたのである。
 慧遠を中心とする廬山教団が隆盛となるにつれ,当時の国家権力との摩擦は避けられなかった。東晋の実力者桓玄が,仏教教団の王権への従属を要求するにいたるや,慧遠は《沙門不敬王者論》を著して反対し,さすがの桓玄も強行を差し控えねばならなかった。しかし,当時の教団が肥大化に伴い俗化してきたことも認めざるをえなかったので,教団の自粛を求めて,教団生活の清規とも称すべき〈法社節度序〉などをつくった。これが後世〈遠規〉とよばれたものである。慧遠から始まる浄土教を〈慧遠流〉とよび,慈愍(じみん)三蔵の流れ,道綽(どうしやく)・善導の流れとともに,中国における浄土教の三流の一つとされている。                    礪波 護

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21名無しさん:2013/07/20(土) 04:33:26
慧遠 (東晋)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%A7%E9%81%A0_(%E6%9D%B1%E6%99%8B)

22名無しさん:2013/07/20(土) 04:38:35
クシャーナ朝
クシャーナちょう Kuo´la

インド,中央アジアの古代王朝。1世紀半ば〜3世紀前半。クシャン Kushan 朝とも呼ばれ,中国の史書では貴霜(きそう)と記される。前2世紀後半,東方から移動しバクトリア地方を征服し大月氏は,領内に5翕侯(きゆうこう)(諸侯)を置いた。5翕侯については,彼らを土着の民族とみる説と,大月氏の一族とみる説とがある。1世紀半ばごろ,5翕侯の一つを出していたクシャーナ族が,クジューラ・カドフィセース(カドフィセース1世)のもとに強大となった。彼は他の4翕侯を倒して自ら王と称し,南方のガンダーラ地方にまで征服軍を進めた。その子ビマ・カドフィセース(カドフィセース2世)は,領土をさらに北インド中部にまで広げている。両カドフィセースのあと,王家の交替があったらしい。新王家より出たカニシカ(カニシュカ)は,都をガンダーラ地方のプルシャプラ(現,ペシャーワル)に置き,中央アジアから中部インドに至る大帝国を統治した。彼はアショーカ王と並ぶ仏教の大保護者としても知られる。貨幣銘や碑文から,カニシカのあと,バーシシュカ,フビシュカ,バースデーバ V´sudeva など4〜5人の王が出たことが知られる。西暦230年に魏に使者を送った大月氏王の波調は,クシャーナ朝末期のバースデーバとみられている。このころから王朝は,イランに興ったササン朝の軍の攻撃を受けて領土の西半を失い,地方政権にその東半を奪われて急速に衰退し,3世紀半ばごろ滅びた。ただしクシャーナ族はその後も地方勢力として残存し,5世紀には一時的にバクトリアからガンダーラに至る地に国家を建設している(キダーラ Kid´ra 朝)。
 クシャーナ朝の領土には,インド系,イラン系,ギリシア系,中央アジア系の諸民族が住み,民族と文化の融合がみられた。例えば,貨幣の銘文にはギリシア語,イラン語,インド語と,ギリシア文字,カローシュティー文字が使われ,貨幣の裏面に打ち出された神像には,イラン,メソポタミア,ギリシア,ローマの神々とヒンドゥー教の神々,仏像などが混在している。また王たちはイラン,中央アジア,ギリシア,ローマ,インドなどの諸国の王の称号を併せ用いている。
 クシャーナ朝時代の西北インドは,仏教の歴史の上でも重要である。当時この地方では,伝統的な小乗仏教の諸部派(とくに説一切有部)が隆盛であったが,新たに興った大乗仏教も,この地の諸民族に受け入れられ栄えた。大乗仏典の多くもこの地で編まれている。またギリシア・ローマの造形思想と技術が流入したこの地で,1世紀末ごろ初めて仏像が刻まれ,ガンダーラ美術が起こった。一方,ほぼ同じころ,帝国南東部の都市マトゥラーでも,独自のインド的様式をもつ仏像彫刻が作られている。
 クシャーナ帝国は,中国,インド,イラン,ローマといった大文明圏を結ぶ交通路の中央に位置し,経済的に繁栄した。帝政期ローマの文献は,当時ローマからインドに大量の金が流出したことを伝えているが,ちょうどこの時期にクシャーナ朝によって大量の金貨が発行されている。このクシャーナ金貨の重量基準はローマ貨幣の基準に従っており,またその金貨は,ローマのデナリウス貨に由来するディーナーラ d ̄n´ra の名で呼ばれた。
                        山崎 元一

23名無しさん:2013/07/20(土) 04:39:53
>>22

[クシャーナ朝の美術]  王朝の繁栄を背景にガンダーラ地方とマトゥラーとを2大中心地として仏教徒主導の美術が展開した。ガンダーラ地方では5世紀中期のキダーラ朝の滅亡までを範囲とする。その仏教美術が以後のインド,中央アジア,中国のそれに及ぼした影響力の強さは他に類を見ない。
 ガンダーラではヘレニズム・ローマ文化の影響を受けて西方的な色彩の濃い仏教美術が行われ,3世紀までは灰青色の片岩または千枚岩による石彫が,4〜5世紀には塑造彫刻が主体であった。一方,この王朝の東方の拠点都市マトゥラーではインド古来の伝統に基づいた赤色砂岩による仏教およびジャイナ教彫刻が栄えた。
 元来クシャーナ族はイラン系文化を保持しイランの宗教を信奉していたと思われるが,カニシカ王の外護とともに当時繁栄をみた都市の商業資本が仏教やジャイナ教の造寺造塔を推進したのであろう。この王朝の仏教美術で特筆すべきは,1世紀末にまずガンダーラで,やや遅れてマトゥラーで初めて仏像を製作したことである。なおこの王朝の神殿趾がマトゥラー郊外のマートやヒンドゥークシュ山脈の北のスルフ・コタルで発見され,前者からはカニシカ王などの王族を神格化した肖像が出土した。また諸王の発行した貨幣には表に王の肖像,裏に諸宗教の神々が見え,すぐれた金工技術を示している。
 この王朝の美術は,インド,イラン,ローマの文化が融合し,多様な様相を内包している点に特色がある。アフガニスタンのベグラームのクシャーナ時代の都城趾からはヘレニズム・ローマ世界の青銅製品,ガラス器,セッコウ円板,インドの象牙細工,中国漢代の漆器などが出土し,各地との通商によるこの王朝の繁栄ぶりを伝えている。⇒ガンダーラ美術‖マトゥラー美術        肥塚 隆

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24名無しさん:2013/07/20(土) 04:43:18
クシャーナ朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D

クシャーナ朝(クシャーナちょう、英: Kushan、中: 貴霜)は、中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝である。日本語表記は一定せず、クシャナ朝、クシャーン朝、クシャン朝、クシャン帝国とも呼ばれる。

25名無しさん:2013/07/20(土) 04:45:35
メシア
Messiah

ヘブライ語マーシャハ(油を注ぐ)という動詞の名詞形マーシーァハ(油注がれた者)に由来する語。救世主。ギリシア語ではクリストス(キリスト)と訳された。聖書的伝統によれば,神の介入によって変貌した歴史内世界に立てられる神の支配の代行者をいう。そして,このメシアによる終末的救済によってもたらされる新しい世界秩序の到来を待望する世界観をメシアニズムという。メシア思想は,古代オリエントの宇宙論的な世界変貌の思想を背景にもつが,とくに古代イスラエルの預言者の終末論的歴史観に基づいて成立したと説明される。注油は,本来,エジプトのファラオ(王)が官吏,封臣を職に任じる際の慣習であるが,古代イスラエルでは,神ヤハウェがある人物(サウル,ダビデなど)を聖別し,王に任じるとの考えでなされ,油注がれた者=メシアといわれた。旧約聖書では後代,拡大されて,祭司や族長にも用いられた。油を注いで王とする制度が単なる一人の王の即位儀礼ではなく,ダビデ王家の統治を否定して,神の介入による新しい天的王者と理想的秩序の出現(例えば《イザヤ書》11:1〜9)を告知するように,現実の王支配を否定媒介して成立したのが,すぐれて強烈な歴史変革の意識をもつヘブライ預言者の独特の思想であった。その後,民族の危機,苦難に際するたびに,メシアを自認する者,その到来を預言する預言者が出現した。ヘレニズム期後期とローマ帝国の圧政下で,ユダヤの民衆の中の強いメシア出現の願望を背景に,ユダヤ教団,とくにその過激派の中からメシアを自称する者が現れて権力に抗したが,弾圧・粛清された。キリスト教は,あらゆる人間の矛盾,苦しみ,罪をみずから背負い,代償死を遂げた苦難の僕(《イザヤ書》52:13〜53:12参照)の中に現実世界と人間の究極の救済を見,十字架に刑死したイエスに真のメシア(キリスト)と真のメシアニズムの完成を見た。                   左近 淑

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26名無しさん:2013/07/20(土) 04:52:38
一貫道
いっかんどう

現代中国の宗教的秘密結社。19世紀末ごろ,山東省済寧県で路中一(1921没)が創設し,その弟子の張天然(1947没)が後をついで発展させた。その教義は,儒・仏・道教のほかにキリスト教,イスラムをもあわせた五教帰一をとなえ,天地開闢いらいの青陽・紅陽・白陽三期それぞれの末期に大破壊がおこるが,一貫道教を信ずる者だけは最高神である無生老母によって救われるとする。中華人民共和国では反動的宗教として弾圧された。
                        坂出 祥伸

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27名無しさん:2013/07/20(土) 04:53:54
新宗教
しんしゅうきょう

(1)どの時代のものであれ,その時代に新しく発生し,広まった宗教をいう用法もあるが,現在,もっともよく用いられているのは,(2)近代化以降の時代に登場し,既存の宗教伝統とは異なる,新しい伝統を掲げて信仰集団を形成する宗教を指す用法である。ここでは(2)について述べる。欧米では国教の地位を占めるカトリック教会やプロテスタント教会に対して,少数派のキリスト教集団を〈セクト sect〉とよびならわしてきた。これらは新宗教ではなく,既存のキリスト教の枠内の分派集団と見なされる。これに対して,正統的なキリスト教の教義の枠から著しく逸脱していたり,外来宗教の系譜を引いていたり,既存の宗教の枠を超えた新興の宗教集団は〈カルト cult〉とよばれることがある。このカルトと新宗教はほぼ同じ対象を指して用いられる。ただし,カルトがやや軽蔑的,批判的な意味をこめて用いられがちなのに対して,新宗教の語は価値判断からより自由に用いられることが多い。日本以外の地域で,早い時期から発展の著しい新宗教としては,アメリカのモルモン教,ものみの塔(エホバの証人),クリスチャン・サイエンス(キリスト教科学),ブラック・ムスリム,ジャマイカのラスタファリ運動,西アジアのバハーイー教,韓国の円仏教や需山教,華人社会の一貫道などがある。アフリカやブラジルにも新宗教は多い。

[日本の新宗教] 日本の早い時期の新宗教には,19世紀初期に成立した,やや早咲きの如来教や黒住教,19世紀中期に成立した天理教や金光教や禊教などがあり,明治期に成立したものには丸山教,蓮門教,大本教などがある。この段階までのものは,しばしば〈民衆宗教〉の名でよばれている。もっとも大きな勢力を築いた教団は,大正末から戦後にかけて成立したもので,ひとのみち(後の PL 教団),霊友会,生長の家,世界救世教,立正佼成会,創価学会,真如苑などである。新宗教のおもな宗教史的な源泉としては,江戸時代に活発化していた,(1)神仏習合的な社寺を参詣のセンターとし,山伏,行者などの民間宗教家を媒介としつつ,講社に寄り集まった人々が支えた民俗宗教の諸集団(〈習合宗教〉の伝統とよぶこともできよう)と,(2)在家信徒が積極的に参加する日蓮系の講(題目講),(3)石田梅岩が創始した石門心学に代表されるような修養道徳的な大衆運動などが考えられる。

28名無しさん:2013/07/20(土) 04:54:50
>>27

 新宗教の宗教思想の特徴は〈現世救済思想〉の語で要約できる。それまで有力だった仏教の救済観が現世離脱的,来世志向的であったのに対し,新宗教は現世の身近な生活の改善がそのまま究極の幸福に通じるものととらえる。どちらかというと死や死後の世界に関心が薄く,死後の世界に関心を払う場合でも,この世の幸福に影響してくる限りで来世を問題にするという傾向が強い。中心的な礼拝対象は〈親神〉であったり〈仏〉であったりするが,しばしば〈宇宙大生命〉とよばれる。典型的な教えでは,宇宙万物も人間も同じ宇宙大生命から派生した存在としてとらえ,他者や環境と調和した関係を結ぶことによって宇宙の生命力と合体していけると説かれる。調和した関係を取り結ぶ鍵は個々人の〈心〉にある。清らかで曇りのない心,愛情豊かで落ち着いた平静な心を保つことによって宇宙的生命の流露する幸福な生活を実現できるとする〈心なおし〉の教えも広く共有されている。これらが〈生命主義的救済観〉とよべるような教えを構成している。
 本来的な充実した生活はまず家族において実現するとされ,家族の和が尊ばれる。家族を守る存在として先祖が尊ばれる教団も多い。日本の国が特別な価値や使命をもつとするナショナリズムは広く認められる。ただし,天皇をある程度尊ぶとしても,崇拝する教団はむしろ少数派である。教祖やそれをつぐ教主らは生き神的な存在として崇拝されることが多い。教主を中心にカリスマ的な指導者が地域に根を張り,仲間的な小集団を抱え込むというような多重的な組織を作るものが多かった。

[1970年代以降の状況] 欧米や,欧米の文化的影響の強い地域では,1970年代以降,新宗教の顕著な拡大期に入った。クリシュナ意識国際協会,超越瞑想(TM),和尚ラジニーシ,統一教会(世界基督教統一神霊協会。〈原理運動〉参照),サイエントロジーなどの欧米での発展が注目された。日本新宗教の海外での発展が顕著になるのも,ちょうどこの時期である。一方,日本国内では既存の新宗教の発展にかげりがさすようになる。そして,その既存の新宗教の衰退を補うように,真光(世界真光文明教団,崇教真光),阿含宗,オウム真理教,幸福の科学,ワールドメイトなど,〈新新宗教〉とよばれるさらに新しい新宗教教団が発展してきている。さらに,既存の〈宗教〉そのものの抑圧性を超えて,個々人がそれぞれに自己の内面を探求し,それぞれの霊性を育て,自己変容をとげ,さらには人類全体の意識の進化をもたらすのだと考えるニュー・エイジ new age(欧米での呼称)とか精神世界(日本での呼称)とかよばれる潮流も世界同時的に成長してきている。日本では新宗教と精神世界はいちおう区別すべき現象と見なされているが,欧米ではニュー・エイジを新宗教の一部と見なす見方も有力である。いずれにしろ,宗教的なアイデンティティの選択肢の幅は地球上のどこでも,とりわけ先進国の大都市においては顕著に増大している。
 70年代以降は西洋近代の文化価値が揺らぎだした時期である。また,資本主義経済の拡大,通信・運輸技術の飛躍的向上に伴って,文化や情報の交流・移動が容易になった時期でもある。地球上の多くの地域で外国人や異文化との接触が飛躍的に増大してきた時期に,新宗教も増大し,宗教の多元的な併存状況が目立つようになってきた。しかし,そうした宗教的多元性の芽はすでに近代社会の中に存在し,アメリカ合衆国や日本などでは新宗教やセクトの叢生,競合というかたちで徐々に育てられていたと見ることができる。
                         島薗 進

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29名無しさん:2013/07/20(土) 04:56:56
新宗教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%97%E6%95%99

新宗教(しんしゅうきょう)もしくは新興宗教(しんこうしゅうきょう)とは幕末・明治維新以後から近年創始された比較的新しい宗教のことをいう。実に多種多様な団体を包括した用語であり、すべての団体にあてはまる概念、背景等の共通点は、成立時期のほかには存在しない。また、伝統宗教と比べて、比較的新しいというだけで、江戸時代に起源をもつところもあり、それなりの歴史と伝統を確立している新宗教も多い。欧米やアジア諸国でも新宗教という概念が用いられるが、国ごとに言葉の意味や捉え方が異なる。

30名無しさん:2013/07/20(土) 05:04:30
●弥勒信仰 みろくしんこう     〔参考文献〕数江教一『日本の末法思想』1961,弘文堂
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/miroku.htm

【弥勒信仰の発生】

弥勒信仰は,弥勒三部経による弥勒仏菩薩を中心とした信仰である。この弥勒三部経とは,『仏説弥勒菩薩上生兜率天』と,『仏説弥勒下生経』『仏説弥勒下生成仏経』をさす。成仏経は260年ころに成立し,下生(げしょう)経は4世紀末,上生(じょうしょう)経はそれよりも少し遅れて成立した。上生経による弥勒信仰を上生信仰と言い,成仏教と下生経による信仰を下生信仰と言う。上生信仰は,死後兜率天(とうてつてん)に往生し,弥勒菩薩の傍で五十六億余年を過ごし,やがて弥勒菩薩が下生するときに弥勒に従って再び地上に戻り,弥勒仏の三会説法の初会説法に参加するという信仰である。下生信仰は,弥勒菩薩が釈迦滅死56億7,000万年後,兜率天の寿命を全うしたとき,天からわれわれが住む閻浄提である地上に降りてきて婆羅門の娘梵摩波提に托生し,やがて弥勒は仏となり竜華(りゅうげ)樹下で,三回にわたり因縁のある人々に説法をするという信仰である。この三回の説法を竜華三会と言う。われわれは不幸にも末法世に生を受けたため釈迦の説法を聞くことができたが,その化度に直接接することができなかった。このためわれわれは弥勒を信じ修行し善根をかさね,竜華三会の説法に参加することによって救援を受けなければならないという信仰である。これを三会値遇とも言う。

経典の内容から見れば,弥勒は先に兜率天に上昇しその次に地上に下生するとされているので,上生経が下生経よりも早く成立したように思い勝ちであるが,すでに述べたように未来に竜華三会を期待する下生が先に成立し,その後に上生信仰が成立したのである。つまり,下生信仰だけでは,われわれの生命は限りがありかつ短いため,弥勒が下生するまで待てず,そして竜華三会に参加できない可能性が生じる。このため,死後兜率天に昇りここで弥勒菩薩と一緒に過ごし,弥勒に従って下生し竜華三会に参加するという上生信仰が,下生信仰を補うように成立したのである。結局,上生信仰と下生信仰の関係は,下生経による弥勒信仰の不備な点を再び補充整理したのが上生信仰と言えるであろう。

31名無しさん:2013/07/20(土) 05:09:57
?教
けんきょう

ペルシアのゾロアスター教に対する中国での呼名。拝火教ともいう。ササン朝で国教となっていたこの教えは,中国へは,北魏(386‐534)の中ごろには伝来し,北周,北斉にはしだいに広まって,宮中にも信奉者を見いだしていた。隋・唐時代になると,ペルシア人やイラン系の西域人がしきりに往来したが,彼らの大多数は松教信者であったとみられ,彼らを取り締まるため,隋代には醍保ないし醍甫,唐代では醍宝(さつぽう)という官をおいた。ちなみに北周の宇文護の小字は醍保であった。唐代では,教徒たちの拝火の殿堂である松祠ないし松寺は,敦煌,涼州,伊州はいうまでもなく,国都の長安に数ヵ所,また洛陽などに存在し,いわゆる三夷寺の一つであった。顔真縁の子の小字を穆護と称し,これは牧護と同じで,?教の僧侶の意味である。唐の武宗は,845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来宗教をも弾圧し,松教の僧侶2000余人を還俗させたため,勢力を失ってしまったが,その余流が宋・元まで存在したことが確認されている。⇒ゾロアスター教                        礪波 護

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32名無しさん:2013/07/20(土) 05:12:40
松教
けんきょう

ペルシアのゾロアスター教に対する中国での呼名。拝火教ともいう。ササン朝で国教となっていたこの教えは,中国へは,北魏(386‐534)の中ごろには伝来し,北周,北斉にはしだいに広まって,宮中にも信奉者を見いだしていた。隋・唐時代になると,ペルシア人やイラン系の西域人がしきりに往来したが,彼らの大多数は松教信者であったとみられ,彼らを取り締まるため,隋代には醍保ないし醍甫,唐代では醍宝(さつぽう)という官をおいた。ちなみに北周の宇文護の小字は醍保であった。唐代では,教徒たちの拝火の殿堂である松祠ないし松寺は,敦煌,涼州,伊州はいうまでもなく,国都の長安に数ヵ所,また洛陽などに存在し,いわゆる三夷寺の一つであった。顔真縁の子の小字を穆護と称し,これは牧護と同じで,松教の僧侶の意味である。唐の武宗は,845年(会昌5)の会昌の廃仏(三武一宗の法難)の際,外来宗教をも弾圧し,松教の僧侶2000余人を還俗させたため,勢力を失ってしまったが,その余流が宋・元まで存在したことが確認されている。⇒ゾロアスター教                        礪波 護

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機種依存文字で「けん教」が化けてます。

33名無しさん:2013/07/20(土) 05:18:33
大本教
おおもときょう

京都府綾部に本部を置く神道系の宗教。教祖出口なおは1836年(天保7)丹波国(京都府)の大工の長女として生まれ,のち出口家の養女となって,大工の夫を婿に迎えた。夫の放蕩で家財いっさいを失い,ついにはぼろ買いをするほどの生活苦を体験した。1890年三女が発狂し,その際金光(こんこう)教の布教師の祈裳によって正気にもどるというご利益があらわれたのを機に金光教に深く帰依するようになる。さらに長女が発狂してまもない92年1月5日,なおは突然神がかりし,〈三千世界一度に開く梅の花,艮(うしとら)の金神の世になりたぞよ〉と口走り,世の中の立直しを叫んだ。なおは病気治しを中心に宗教活動をすすめ,そのなかで,大本教の教義の原典ともいうべき〈筆先〉の執筆にあたった。94年,なおは金光教の布教師となり,いわば金光教の軒を借りて布教活動をつづけたが,のちに決別して,大本教を独立させた。98年,なおは稲荷講社で霊学や神がかりの行法を学んだ上田喜三郎(のちの王仁三郎(おにさぶろう))とめぐり会った。王仁三郎は翌年には稲荷講社所属の金明霊学会をつくり,非公認の大本教を権力や社会の弾圧から合法的に救うことになった。そのうえ神の言葉を理論化する能力をもつ王仁三郎はなおの信頼を得,1900年にはなおの後継者五女すみと結婚。これ以後大本教は出口王仁三郎によって教義の体系化,組織化が進められ,聖師とよばれた彼の指導力が発揮されることになる。王仁三郎は戦争によってさらに富を増大していく資本家・地主といった人々に激しい憤りを燃やし,日本人の大多数を占める庶民を不幸に追いやる戦争を強く否定しつづけた。
 金明霊学会はやがて大日本修斎会へと発展し,16年には皇道大本と教団名を改称しつつ,多くの信者を獲得した。18年教祖出口なおは世を去ったが,五女すみが2代教主となり,王仁三郎が教団の指導者となって教団の運営がすすめられた。翌年に京都府亀岡の亀岡城址を入手し,布教の拠点である本部とした。さらに大阪の新聞社を買収して,マスコミを使って大本教の宣伝,布教を展開した。だが21年,大本教は政治権力からの弾圧をうけた(第1次弾圧)。それによって多数の幹部が不敬罪,新聞紙法違反等で起訴され,なおの墓は天皇の陵に類し不敬であるとの理由から破壊された。35年大本教は再び政治権力からの弾圧を体験した。このときも多数の幹部が検挙され,大本教の綾部と亀岡にある本部施設のほとんどがダイナマイトで爆破された(第2次弾圧)。権力による2度にわたる苛烈な弾圧をうけながらも,大本教は反権力思想をかかげ,戦争反対を叫びつづけた。第2次大戦後の46年,大本教は王仁三郎を苑主とし愛善苑として出発し,その後も一貫して戦争反対を叫び,平和運動を展開しつづけた。現在は大本と称している。              小栗 純子

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34名無しさん:2013/07/20(土) 05:23:59
大本教の発展と出口なおの晩年 三浦小太郎
2月 20th, 2012 by 月刊日本編集部.
http://gekkan-nippon.com/?p=2996

みろく信仰の大本教への導入
 日露戦争以後、出口王仁三郎は教団活動を活発化させていく。もちろん組織者としての彼の能力に疑いはないが、より重要だったのは、日露戦争以後の日本ナショナリズムを肯定し、出口なおの前近代的な宗教思想を日本神道や近代主義と結びつけたことである。そして、神道思想上出口王仁三郎が最も影響を受けた国学者が、大石凝真素美という人物だった。1832年に生まれ、幕末には尊王攘夷思想を説いて各国を回り、さらに明治3年には現状の神道を全面批判して投獄されたこともある。ラデイカルな国学者として明治維新を一貫して批判し、また独自の言霊論を展開した興味深い人物である。個人的には彼の主たる仕事とされる言霊論よりも、仏教、特に法華経を研究し、古事記との思想的関連性を追求した点が興味深く、そこには正直受け入れがたい極論(法華経は古事記の讃歌である、など)はあっても、後の国柱会、北一輝、さらには文学面での宮沢賢治などにも通じる、日本精神と仏教の高次の合一を模索するものだった。しかし、若き王仁三郎に与えた影響のうち最も大きなものは、大石凝のみろく信仰である。
 
 大石凝はもともと仏教思想だった弥勒信仰を、これも古事記と融合させることによって、国学としての「みろく信仰」を打ち立てようとした。仏教思想における弥勒信仰とは、仏陀入滅後56億7千万年後の未来に姿を現わして、多くの人々を救済するとされる弥勒菩薩を信仰するものだが、中国でも、また日本でも、この思想はむしろ現体制を打倒し新しい世界を実現させようという秘密結社や民衆反乱、世直し一揆などと結びついている。明治政府に激しい批判意識を持っていた大石凝にとって、新たな「維新」思想として、国学と結合した日本独自の「みろく」信仰を求めたのは自然ななりゆきだったといえよう。

 そして、なおの思想には、このみろく信仰の影響が当初はほとんど見られない。これは、なおが民衆共同体からも疎外されていたことの反映であり、民衆宗教としてのみろく信仰は彼女の救いにはならなかったのだ。出口なおが徹底した孤独者として生きたことをうかがわせる。

35名無しさん:2013/07/20(土) 05:25:07
大石凝真素美
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E5%87%9D%E7%9C%9F%E7%B4%A0%E7%BE%8E

大石凝 真素美(おおいしごり ますみ、1832年 - 1913年4月11日)は、日本の国学者。
遠祖は大伴氏という。壬申の乱の後継者として、望月を姓として伊賀、近江にすまったという。父は登、医を業として、かたわら多賀神社の神札をくばっていた。真素美の幼名は春雄、元服して大輔広矛。
22歳のとき江戸にいたが、アメリカの艦船が浦賀に来て、これに憤慨、「我国は神国なり。今は神知に俟つ外なし、神風を促す底の大神人を求むるに如かず」と東奔西走し、大人物をもとめ、各地の志士とまじわった。美濃の山本秀道の教えを聞いて感激し、秀道に師事して古典を研究し、奥義に達したという。
明治3年(1870年)、「有名無実の神道を廃せよ」とさけび、激越な論調ゆえにとらえられ、投獄された。出所、帰郷し、明治6年(1873年)9月、大祖の姓に復し、大石凝真素美と改名した。
明治11年(1878年)、秀道宅で天津金木学、日本言霊学を大成した。神に通じて霊に感じて、明治24年(1891年)の国会議事堂焼失、明治31年(1898年)の神宮正殿焼失を予言、的中したという。明治40年(1907年)から名古屋の水野満年のもとで皇学を講じてまた執筆にしたがった。

36名無しさん:2013/07/20(土) 05:39:25

出口王仁三郎と大本教弾圧  三浦小太郎
3月 23rd, 2012 by 月刊日本編集部.
http://gekkan-nippon.com/?p=3495

浅野和三郎の終末思想
 出口王仁三郎が教主となって後、大正時代に大本教が爆発的な発展を遂げたことは前号にて記した。この時期、王仁三郎同様、いや、時にはそれ以上の影響力を有したのは浅野和三郎と彼の激しい終末思想である。
 浅野和三郎は東京帝国大学にてラフカデイオ・ハーンに学び、デイッケンズの「クリスマスキャロル」や、英文学の神秘主義文学や恐怖・怪奇小説に多大な影響を受けた。日本では古典的な推理小説家としてしかほとんど知られていないコナン・ドイルが、降霊術や神秘主義にはまり込んでいたことでも分かるように(ホームズ・シリーズの中でも名作として知られる「バスカビル家の犬」はある種のゴシック怪奇小説の推理版とも読める)、19世紀末期から20世紀当初のヨーロッパ、とくにイギリスは古代のケルト文明再評価や、悪魔術の流行など神秘主義思想の宝庫でもあった。当時流行した心霊学研究は、ヨーロッパでも近代の行き詰まりの中、前近代思想や古代文明への熱狂的な興味が沸き起こっていたことを表している。
 浅野和三郎はその出自からもわかるように、王仁三郎以上に近代的な知性の持ち主であった。東京帝国大学英文学科を卒業後は、海軍機関学校の英語教官になるなど、当時としては最高の英語力を身につけた国際派知識人と言ってもよい。しかし、一九一五年(大正4年)三男が原因不明の熱病になり、どんな医者に見せても治らなかったのに、ある女性の霊能者が治して見せたことをきっかけに、本格的に心霊学や神秘主義にのめりこんでゆき、大本教に入信した。
 これは単なる奇跡伝や知識人の気まぐれではない。浅野は日本の霊性に目覚めたというよりは、当時の西欧の超近代主義としての神秘主義に直接影響を受け、さらにハーンから英語だけではなく、日本古来の文化伝統の重要性をも学んでいた。彼の思想は西欧の最先端の知的流行と、前近代日本文化のダイレクトな接合なのだ(これは実は日本90年代のポストモダンと称する思想家に無意識のうちに引き継がれている。たとえば中沢新一が登場した時、筆者は「洗練された浅野和三郎」と思えた)そして、浅野の讃歌は海軍軍人や知識人が大本教の存在を知り、そこに引き付けられてゆく大きなきっかけとなる。

37名無しさん:2013/07/20(土) 05:40:22
神智学
しんちがく theosophy

ギリシア語の theos(神)と sophia(叡智)の合成語。すでに新約聖書の《コリント人への第1の手紙》(2:6〜7)にこの言葉がある。中世,近世を通して,神もしくは天使からの啓示を内的直観により認識する際の方法,およびその認識内容を表す言葉であったが,特に宗教改革時代にはじまるプロテスタントの精神運動の中で錬金術や哲学の用語として普及した。パラケルスス,ワイゲル,フラッド,ベーメ,エティンガーらの著述の中にその例が見られる。〈神智学〉はつねに特定の体系または世界観を表す言葉として用いられる点で〈神秘主義〉と用語上区別される。そして1875年,ブラバツキー夫人がオルコット Henry Steel Olcott(1832‐1907)とともにニューヨークで神智学協会Theosophical Society を設立してからは,特にこの派の立場を指す言葉になった。
 ブラバツキーによれば,太古以来,宇宙と人間の起源をめぐる秘密が特定の秘儀参入者たちの間で伝承され,後にそこから東西の諸宗教が,それぞれの時代にふさわしい形式をとって生じるようになったが,現代はその秘伝の重要な部分を公開し,諸宗教間の対立を超えて,再び根源的な神的叡智のもとに復帰すべき時期に来ている,という。その神的叡智を学ぼうとする人のために設けられた上述の神智学協会では,(1)人種,宗教,身分の区別をもたぬ友愛精神の普及,(2)古来の世界宗教の比較研究と普遍的倫理の提示,(3)各人の内に潜む神的な力の研究と開発,という三大目標を掲げている。この近代神智学運動は世界的規模に発展し,リードビーター,ベザント,ベイリー Alice Bailey(1880‐1949),R. シュタイナー,ティングリー Katherine Tingley(1847‐1929)等の有力な後継者を生んだが,1930年代以降は衰退した。しかし現在は秘教への関心の高まりを背景に活力を盛り返し,アディアル派(インド,ヨーロッパ),ポイント・ロマ派(アメリカ),ベイリー派に分立しつつあり,日本では三浦関造設立の竜王会が協会を代表している。その影響は A. シュワイツァー,ソロビヨフ,ベルジャーエフ,モンドリアン,カンディンスキー,スクリャービン,W. B. イェーツらの思想家,芸術家に,また日本では仏教諸派,教派神道,個人的には鈴木大拙,今東光,三浦関造,浅野和三郎,川端康成らに及んでいる。
                         高橋 巌

[インドでの活動]  神智学協会は,1882年には本部がインドのマドラスに移され,心霊現象の研究を軸としながら,その成果をもとに,さまざまな霊的進化の道を実践することを目的として活動を継続している。その教義は,輪廻,業,解脱を説く仏教やヒンドゥー教の教義に負うところが少なくない。この協会のベザント夫人は,ガンディーの率いるインド独立運動に参加し,国民会議の年次大会議長を務めた。またこの協会は,インドの古典的哲学,宗教文献の写本を集め,それをもとにした校訂本の刊行を熱心に推進している。
                        宮元 啓一

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38名無しさん:2013/07/20(土) 05:52:01
紅巾の乱研究の動向と課題 東郷孝仁
http://repository.hyogo-u.ac.jp/dspace/bitstream/10132/2088/1/AA112829850010003.pdf

39名無しさん:2013/07/20(土) 05:52:44
紅巾の乱
こうきんのらん

中国,異民族王朝元の支配を倒し,漢民族王朝明の成立のきっかけとなった宗教的農民反乱。1351‐66年。白蓮(びやくれん)・弥勒(みろく)教徒が勢力の中心で,紅布で頭を包み標識としたので〈紅巾の賊〉ともいう。河北省に本拠をおく白蓮教会の会首韓山童は弥勒仏下生(げしよう)の説をもって布教し,河南,安虐地方で反元の反乱を企てたが失敗した。あとを遺児の韓林児が継ぎ,長江(揚子江)流域では徐寿輝らが呼応し全国的反乱となった。このなかから朱元璋が出て反乱軍の群雄を倒し,天下を統一した。⇒明    谷口 規矩雄
 中国の紅巾軍は高麗にも侵入した。1358年元の上都開平の攻撃に向かった彼らは,反撃されて遼陽に逃れ,そこから59年,61年の2回高麗に侵入した。1回目は4万の兵力で,西京(平壌)を翌年まで占領。2回目は10万の大軍で,開城を翌年初めまで占領,さらに江原道原州にも侵入し,恭愍王(きようびんおう)は福州(慶尚南道安東)まで避難した。2回とも,安祐,李芳実,崔瑩(さいえい)等を中心とする高麗側の反撃で撃退されたが,南方海上からの倭寇と並んで,高麗王朝に大打撃を与えた。また,有力地方豪族が参戦,活躍し,とくに,やがて李朝の始祖となる李成桂はその後の台頭の端緒を開いたといえる。        北村 秀人

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40名無しさん:2013/07/20(土) 05:53:54
白蓮教の乱
びゃくれんきょうのらん

中国の宗教的秘密結社,白蓮教徒の反乱。南宋以来,異端邪教の代表とされる白蓮教は,本来,阿弥陀浄土信仰の宗教結社であった。一方,隋・唐より〈弥勒仏下生〉を唱え,反旗をひるがえす弥勒教徒の存在がみられるが,下層階級に教民の多い白蓮教の中にいつしかこの弥勒教が混入し,元末には紅巾の乱を起こした。この大乱の中から興起した明太祖朱元璋は,天下統一の過程で白蓮教を邪教として切りすて禁圧したが,その組織は根強く残存し,永楽年間(1403‐24),山東で仏母を称し妖女といわれた唐賽児の乱には万余の人が従っている。弘治(1488‐1505)から嘉靖(1522‐66)にかけ,山西省の白蓮教徒はモンゴル族の小王子と結ぶ動きをみせ,租税をとらぬという宣伝に誘われ,北辺の板升(城,村落)に入植した漢人の5分の1は白蓮教徒であったという。明末,広範な人民の生活破綻と,満州軍の遼東進攻は人心の動揺をよび,1622年(天啓2)には徐鴻儒らが数万の衆を率い山東に反した。また,四川,湖北,陝西の3省交界の山岳地帯(三不干(管))は,歴代大量の流民が流入し,木材業,鉱業等の開拓に努めた新開地であったが,王朝の支配力が希薄なところから,明の成化年間(1465‐87)には白蓮教徒を含む大規模な流民の反乱がみられた。

 清代に入っても,18世紀末の乾隆40〜50年代よりこの辺区の山地には流民が集中し,それにともない白蓮教も流行し,陝西では一村の4分の1が教徒であった。当時,四川,湖北の森林には武芸を習い掠奪を事とする〈架匪(かくひ)〉が跳梁していたが,彼らの参入により白蓮教徒も軍事化し,有産の教徒は武器を整備し巨大な山寨を構築した。乾隆末,甘粛,湖北において弥勒仏の転世者と明裔を称する牛八(朱姓)なる人物を擁立し,献金を集め布教活動を展開していた劉之協が官憲の追捕の的となった。胥吏(しより)の誅求(ちゆうきゆう)をともなう教徒への急な弾圧に,1796年(嘉慶1),湖北各地で教軍が相ついで蜂起し,翌年には四川の教軍も挙兵し大乱となった(嘉慶白蓮教の乱)。教軍は貴州,湖南のミヤオ(苗)族の反乱軍と連動し,官軍の手薄をついたため,その勢いははなはだ盛んであった。99年以後,反攻に転じた清軍が団勇を編成し,堅壁清野の策をとってからは,全体的統率者のいない教軍は分散され,1805年にほぼ鎮圧されたが,10年にわたる反乱に莫大な軍事費を投じた清朝は,以後財政難に苦しむこととなった。白蓮教の乱については,その革命性がつねに問題とされるところであるが,総じて郷村での自己利益保全組織としての要素も強く,政治的展望は漠然としている。    森 紀子

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41名無しさん:2013/07/20(土) 05:57:20
秘密結社
ひみつけっしゃ secret society‖Geheimgesellschaft[ドイツ]

一般に,加入者以外の者に対して,その存在,組織,目的などを秘密にする結社,団体をいう。ただし,これは狭義の秘密結社であり,後述のように秘匿されるべき事項は必ずしも一定しない。秘密結社は大別すれば,政治的秘密結社と入社式団体の二つに分かれる。このうち政治的秘密結社は,外敵や中央権力との対抗関係から発生するので,当の外因が消滅すれば,それ自身も消失する。すなわち,概して政治的秘密結社の存続は,一定の期間に限られる。これに対して入社式団体は,前者ほどアクチュアルな政治目的をもつことはない。それは,世俗的な一般社会のなかに秘密による封鎖領域を形成して,聖なるものの顕現を体験するための入信者団体である。歴史的現実との直接の接触が希薄であるために,存続期間は必ずしも一定していない。フリーメーソンのように,成立後数世紀を経てなお現存している入社式団体もある。この種の秘密結社はしばしば入社式(加入儀礼)のみが非公開であり,集会所や成員の氏名,教義,信条などはなんら秘密とはされないばかりか,〈人類の普遍的救済〉というような,世界そのものと等しい包括的範囲に及ぶ結社目的を掲げているために,公開結社と厳密な区別がつけにくい。のみならずある時期以後のフリーメーソンのように,みずから秘密結社であることを否認することさえまれではない。

[〈秘密〉と秘密結社の成立]  秘密結社が秘密結社であることを維持する最大の手段は,いうまでもなく秘密の保持である。しかし,秘密は必ずしも秘密結社のみが保持しているわけではない。ごくありきたりの個人といえども,他者の存在に脅かされないためには,私的領域を多少とも秘密によって隠戴しなければならない。秘密と私性との関係は,精神分析的にいうと幼時にしつけられた排泄物の始末の記憶にさかのぼるだろう。子どもはそこで恥部を隠すという秘密をもつことを覚え,同時に全体性の分割を経験する。その延長で発育期の子どもは,ともすれば両親や兄弟に対して(それ自体はしばしばつまらない)秘密をもちたがる。身のまわりを秘密で囲うことによって〈私〉を形づくり,こうして初めて自我形成が可能になるからである。逆にいえば,秘密(保持)が形成されない限り,〈私〉は無際限に公開されて一般性のなかに解消され,自我のアイデンティティ(同一性)は確立されない。

42名無しさん:2013/07/20(土) 05:58:15
>>41

 秘密結社がおおむね危機の時代に立ち現れがちであることも,このことと無関係ではない。上位のより大きい社会になんらかの変動が生じるとき,社会成員はもとより,社会内集団(民族,人種,政治結社,職業組合)もまたアイデンティティ・クライシス(同一性の危機)に遭遇して,いわば寄る辺のない孤児のように,アイデンティティの崩壊を目前にした白紙状態に投げ出される。この集団的幼時退行現象が,根を失った人びとに再び秘密によって封鎖された固有の私的領域を求めさせるのである。N. マッケンジーに従うなら,〈大多数の秘密結社は,古い生活形態が破産したり,新しい生活形態が今しも浮上せんとしている社会的無秩序の時期,もしくはイデオロギー的損藤の時期に発生する〉(《秘密結社》)のである。

[秘密結社の諸類型]  ここで二つの選択が考えられる。古い生活形態に固着するか,まだ姿を現さない新しい生活形態を期待するか,である。この点で秘密結社を二分するなら,前者がマウマウ団(マウマウの反乱)やマフィアのように古い因習に固執する楽園回帰グループ,後者が多少とも革命的な世界改革を唱える啓明結社,カルボナリ党,アイルランド独立を目ざしたクラン・ナ・ゲール Clan‐na‐ga∫l,革命前夜のボリシェビキ(ロシア社会民主労働党)のようなユートピア志向グループ,となろう。むろんこの分類はとりあえずのものにすぎず,両者の間に一線を画するのは容易ではない。
 いずれにせよ大多数の秘密結社は,危機の時代に古い地盤から根こそぎにされた故郷喪失者の層から発生してくる。薔薇十字団は三十年戦争の混乱のなかから出現し,テンプル騎士団は十字軍の退廃に再度秩序をもたらそうとする欲求から生まれた。マウマウ団は白人宣教師や白人植民者によって伝統的生活形態を破壊されたキクユ族の苦悩から,クー・クラックス・クランは南北戦争の敗者たるアメリカ南部から,それぞれ発生する。現在ではほぼ犯罪結社化しているマフィアもまた,本来はシチリアが近代ヨーロッパの秩序に取り込まれようとした時代の孤島固有のアルカイックな習俗の崩壊過程で,楽園回帰的衝動から生み出された結社である。
 これらの秘密結社は外因である危機の性質に応じてさまざまの結社目的を立てるが,それによって宗教的秘密結社,民族主義的秘密結社,人種主義的秘密結社,犯罪秘密結社などに分類することができる。いずれにせよ,すでに述べたように,危機が一過性のものであれば,それに応じて秘密結社も一過的に盛衰する。しかし,G. ジンメルがその《社会学》第5章〈秘密と秘密結社〉において指摘したように,たとえある秘密結社が現実の目的を達成して社会に公開されても(たとえば革命後のボリシェビキ),これとすれ違いにかつての中央権力が没落して秘密結社化するので,秘密そのものの存在は恒久的に存続する。

43名無しさん:2013/07/20(土) 05:58:51
>>42


[入社式団体の特質]  このように政治史の文脈に沿って浮沈する政治的秘密結社に対して,入社式団体はむしろ精神史の文脈において消長を遂げる。そもそもが宣伝や教化伝道などによって同時代とのコミュニケーションを図る公開結社とは逆に,同時代との接触を意識的に拒むために,とりわけ入社式団体は概してその知の源泉を遠方に求める傾向がある。それは,ときには遠方の過去である古代や,いつとはない世界終末の後に立ち現れる未来であることもあれば,遠い異国や星辰の世界であることもある。
 ヨーロッパ中世の崩壊過程で出現した薔薇十字団は,ルネサンスに先立ってスペインに流入したヘブライのカバラ思想,十字軍のもたらしたイスラムの神秘主義,ルネサンスとともにイタリアにもたらされたヘルメス思想,さらに世俗から隔離された修道院のなかで深化されたドイツ神秘主義などの総合の上に成立した。これらの古代や遠方の知が,スコラ学ではもはや統御しがたくなった中世末期の精神状況を救済するために浮上してきたのであり,とりわけ三十年戦争で混乱に陥っていた北方の世界終末的な様相の下では,薔薇十字団員たちが,はるばるオリエントからヨーロッパの〈今〉と〈ここ〉の混乱を収拾しにやってきた魔術の道士だと考えられていた。分裂と抗争に明け暮れる北方諸国には,彼らの知によって普遍的統一がもたらされるであろう。この観念はやがてイギリスに成立するフリーメーソンにも受け継がれていく。

[完全知の希求]  いずれにせよ近代の秘密結社は,産業社会化を通じて古き共同体から疎外された個人や集団が,現存の世界を不完全なものとみなし,今ここにはない第二の完全な世界を遠方から手引きするために結成される。この疎外からの救済という性格が近代の秘密結社を特徴づけており,多少とも土着的な未開社会の秘密結社とそれとを区別する。しかし現存の世界を不完全とみなし,完全を夢見るこの精神の姿勢は,さかのぼっては2〜3世紀に最盛期を迎えたグノーシス主義に発している。グノーシス主義の中心には,宇宙は神秘的で不可測の存在から多くの媒介を経て流出したものであり,現存の人間の感覚世界はその最後の最も低次の悪しき造物主(デミウルゴス)によって創造されたとする命題がある。ここから有限にして可視のこの世界を超越し不可視の完全な世界に還帰するための知が要請される。すなわち宇宙原理である原初の存在は,現在の造物主の創出した物質界によって隠されている。というよりは原初の神的存在は物質界によっていわば殺害され,乗っ取られたのである。それゆえに,この殺され隠された秘密の知を復元しなければならない。

44名無しさん:2013/07/20(土) 05:59:27
>>43


[象徴的入社儀礼と階級制度]  エジプト,イラン,ユダヤなどの先進文明において蓄積され,グノーシス主義を通じて後代に媒介される,この完全知を探求する教義は,とりわけさまざまの秘密結社の入社儀礼に象徴化された。たとえばフリーメーソンの入社式で新加入者の体験する〈ヒラムの伝説〉は,伝説上の結社の創始者ヒラムが3人の職人によって暗殺され,埋葬を経て再発掘されたという伝説を模して行われる。こうした始祖の死と再生の象徴劇を反覆しながら,新加入者は,彼自身が世俗的な人格としては死に(または殺され),結社という第二の世界のなかで聖なる人格として再生するという入社式の儀礼を同時に体験する。
 入社式はこのように秘密結社体験の核心を形づくっているが,これと並んで重要なのが大多数の秘密結社にみられる複雑な階級制度である。入社式から始めて,成員は次々に新たな秘儀伝授を通過しながら,より高位の階級へと昇りつめ,最後の完全な知に到達しなければならない。同時に入社式と階級制度は社会集団の力学としても必須のものである。ジンメルによれば,秘密結社の本質は〈自律〉であるが,この自律は一般社会の秩序を離れて無秩序に向かうそれであり,周囲の社会からの離脱は成員の間に根なし草的感情を,〈つまり固定した生活感情と規則的な支柱との欠如をもたらしやすい〉。これを補うために結社内部に強力な規則と煩瑣な儀礼の細目が持ち込まれるのである。

[不可視の達人]  秘密結社のなかで最高の知に達したと信じられている達人たちは,しばしば奇妙な言動を示した。薔薇十字団員であったとも伝えられるサン・ジェルマン伯は,ネロ帝やピラトと語り合ったことがあると主張し,また死後にも諸方に姿を現したと信じられている。生と死の境界を自在に越えるこの秘法のエピソードが,たとえ荒唐無稽な誇張の産物であろうと,目の前に現存する人格についていえば,これは,〈そこにいながら,そこにいない〉という存在と不在の同時的共存をいっているのに等しい。それは,ジンメルが貴族的な秘密性について語っている言葉と一致する。〈真に高貴な者の外観は,たとえ彼が隠すことなく自己を示そうとも,多数者がどうしても彼を理解せず,いわば彼を“まったく見ない”〉(《社会学》第5章〈秘密と秘密結社〉)のである。最初に隠されたもの(秘密)をことごとく取り戻した者にとっては,秘密と公開との間の境界はもはやないのである。
                        種村 季弘

45名無しさん:2013/07/20(土) 06:00:23
>>44


[中国]  中国には古くから民間信仰を中心にして,血縁・地縁をこえて,〈義〉に基づいて結合した集団が,社会の底辺に広く組織され,病気,自然災害や悪政,外敵の侵入など民衆の苦難を救済し,しばしば政治権力に対抗する存在となっていた。戦国時代(前5〜前3世紀)の墨家集団は,その最も早いものと考えられ,また同じ頃から活躍していた〈任惟〉〈遊惟〉などと呼ばれる遊民集団にも(惟客),上記のような性格をもつものがある。このような反社会的集団は,時の政府によって〈邪教〉〈姦徒〉などと呼ばれて禁止され,厳しく取り締まられたために,おおむね秘密宗教ないしは秘密結社として,その存在をベールで覆って活動を続けた(黒祠邪教)。2世紀末,張角に率いられた太平道や張陵の五斗米道(ごとべいどう)は,いずれも土俗的な民間信仰と呪術的治療とに支えられて長期にわたって強大な勢力を張り,後者は鎮圧されて後にも,後世の道教の源流である天師道として命脈を保ち,4世紀末から5世紀にかけて江南の地域で熱心な信者を得ていた。
 宗教的秘密結社として最も長く生命を保っているのは,弥勒下生(みろくげしよう)信仰を中心に阿弥陀信仰,マニ教の菜食主義や五戒などの生活規範を取り入れて,元朝の中ごろに強大な勢力をもつにいたった白蓮教(びやくれんきよう)である。これは10世紀ころに始まり,時の政府から終始〈邪教〉として厳禁されていたが,元末(14世紀後半)に,紅巾の乱と呼ばれる大反乱を起こして元朝を崩壊に導き,さらに,明・清時代を通じて,厳しい弾圧を受けながらも,しぶとく存続し,清代中期,嘉慶年間(1796‐1820),長江(揚子江)中流域を中心とする山岳地帯で蜂起し,清朝支配体制を動揺させた(白蓮教の乱)。白蓮教の支派末流は,ごく近年まで根強く活動し,1900年の義和団運動のほか,在理教,黄天道など種々の名で華北一帯の民衆の間に信仰されていたが,その一つである一貫道は,現在も台湾で活発に布教している。
 これらとは別に,清代には異民族支配に反抗して漢族の明王室を再興しようとする政治的秘密結社が早くから華南の地に興り,天地会,哥老会,三合会などと称され,辛亥(しんがい)革命(1911)の前後になると,孫文らの革命勢力とも呼応して軍事的な貢献があった。なお,近代中国の秘密結社は,国民党と青幇(チンパン),共産党と紅槍会などの結びつきにみられるように,政治動向の帰趨を左右するほどの大きな勢力を維持していたことに注意しなければならない。        坂出 祥伸

[未開社会]  未開社会の秘密結社は,邪術師や呪医の秘密の集団やマウマウ団のような革命的秘密結社まで多種多様であるが,ふつうにみられるのは,結社の成員であることがその部族において高い社会的地位を意味し,諸儀礼の一部分のみが秘密とされている集団である。下コンゴのデムボ結社やナイジェリアのベニン族の王宮結社などは,こうした例にあたる。またリベリアのクペル族にみられるポロ結社は,若者たちを〈死と再生〉を伴う加入儀礼によってブッシュ・スクールに長期間隔離し,成人男子としての心得について訓練する。⇒男子結社           綾部 恒雄

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46名無しさん:2013/07/20(土) 19:19:14
太平天国
たいへいてんごく Tロi p∩ng ti´n gu¬

1851年(咸豊1)広西に樹立され,のち南京を首都天京として,清朝,また末期にはイギリス,フランス干渉軍と戦って64年(同治3)に滅んだ中国の民衆的政権。

[太平天国の理想と挙兵経過] 母体は1843年(道光23)広東省花県の客家(ハツカ)の農民出の読書人洪秀全が創始した拝上帝教という宗教団体である。彼は科挙失敗後の病中に見た幻覚を,偶然手にしたプロテスタントの布教文書によって解釈し,みずからを堕落した中国を救う使命を真の神,天父上帝から与えられた者と確信した。彼はこの神をエホバと等置したが,実質は中国古来の人格神で天の主宰者たる上帝にほかならず,キリスト教とは異質のものだった。ただ彼はこれを他のいっさいの神仏の存在を許容せぬ排他的な唯一神とみなし,中国の堕落は歴代皇帝が儒,仏,道などさまざまの偽りの神,偶像,すなわち妖魔を導入し,人びとがこれにひれ伏したからだとみなした。すべての人はこの上帝から肉体と生命を賦与されたもので,したがって天下のすべての男は兄弟,女は姉妹であり,天下の人はいっさいの差別・対立・抗争のない一大家族となるべきだと主張し,その理想を孔子が《礼記(らいき)》礼運篇にしるした大同世界に仮託して描いた。この拝上帝教は,広西省の桂平県,貴県などの山間部や山麓地帯に分散して居住し,先住民集団から疎外されていた客家の農民に,病気や災難からの救済という中国のいっさいの民間信仰に共通する現世利益的要素を加えつつ受容され,暗黒の日常から光明の未来へ飛躍しようとする熱情をかきたてたのである。
 47年にこの地方で始めた偶像(神妓,神像)破壊運動を通じて,拝上帝教徒は旧秩序,その支柱たる郷紳や地主勢力と衝突し,ついで清朝官憲との抗争に発展した。50年初めころ首脳部は清朝を妖魔の最たるものとして打倒し,地上に上帝の意志を体した天国を樹立する意図を固め,春から秋にかけて各地の男女老幼の信徒約1〜2万を桂平県金田村に結集し,同年末には清軍との公然たる戦闘が始まった。翌年初め,軍を男軍,女軍に分け,モーセの十戒から取った禁欲的戒律に基づく厳しい軍規を定め,洪秀全は天王と称した。9月,広西省永安(現,蒙山県)で国号を太平天国とし,東・西・南・北・翼の5王以下の官制を定め,東王楊秀清を最高司令官とした。

[運動の発展と停滞] 広西各地で苦戦したのち,52年(咸豊2)6月,男女5000〜6000人の兵力で湖南南部に入った太平軍は,そこで天地会員や坑夫,貧農,流民などから成る多数の新参加者を加えて,大発展する契機をつかんだ。その滅満興漢のよびかけや,租税免除の約束,富豪から奪った財貨の貧者への分配,民衆に対する厳しい軍規,死を昇天として恐れぬ闘志,諸王の固い団結などによって,太平軍は民衆の圧倒的支持を受け,湖南,湖北,江西,安虐を抜いて,53年南京を占領した当時には,数十万のよく統制された大兵力に発展していた。南京建都後,天王は大同の理想を土地・社会制度として具体化した〈天朝田畝制度〉を発表し,また纏足(てんそく),売春,アヘン,酒,笛博を禁止し,儒教の経典を修正するなどの改革を行った。〈天朝田畝制度〉はすべての土地を上帝の所有として私有を禁止し,男女の別なく年齢に応じて一律平等に割り当て,各家族の消費分を除くいっさいの剰余生産物を,25家ごとに設立される聖庫に納めて,冠婚葬祭,孤児や寡婦の扶養,子弟の教育などにあてるというもので,生産力の発展や経済的繁栄ではなく,生活の絶対的安定と平等を主目的とするものであった。このユートピアは実現すべくもなく,現実には従来の土地制度を是認するようになった。またこのユートピアにおいてすら官と民は身分上高下の関係におかれ,男女関係においても天王以下の諸王には多妻制を公認するなどの矛盾が含まれていた。
 軍事面では広西以来の精鋭を中核とする3,4万の北伐軍が天津付近で全滅したことによって,短期間に清朝を倒す可能性が失われた。56年には,建都以来進行していた諸王間の隠微な権力闘争が,流血の大分裂として爆発し,東王がその部下約2万とともに北王韋昌輝に,ついで北王が天王に殺害され,衆望を担った翼王石達開が天王の圧迫に耐えかねて20万の大軍を率いて天京を離脱する悲劇を演じた(南王馮雲山と西王蕭朝貴は南京占領までに戦死)。これに乗じて曾国藩が儒教と伝統的秩序の擁護をかかげて,湖南の儒者・地主を中核に組織した義勇軍(湘(しよう)軍),ついで李鴻章が安虐で組織した淮(わい)軍が攻勢に転じ,太平軍は60年までに天京上流の従来の地盤を喪失した(図)。

47名無しさん:2013/07/20(土) 19:20:04
>>46
[外国の干渉と敗北] 第2次アヘン戦争と北京条約(1860)によって,清朝をその対華政策の支柱として再編することに成功したイギリス以下の列強は,初期の中立政策を放棄し,1860年以降,天京以東の江蘇・浙江省に新たな活路を求めて進出してきた太平軍に,上海,寧波などで武力攻撃を加え始めた。天王は天下万国の真の主としてヨーロッパ諸国民を臣民視する中華思想の一方,これを同じ唯一神を信ずる洋兄弟とみなし,アヘンを除く通商やキリスト教布教には友好的だった。だが彼らは列強の武力干渉と,これに対する必死の抵抗を通じて,その侵略性を認識し,中華思想から脱却して近代ナショナリズムの思想を萌芽させ始めた。また,この対外抵抗は,イギリス,フランスの幕末日本への軍事的圧力をゆるめ,その対日政策にも影響を与えた。列強の軍事援助を受けた淮軍とイギリスの将校ゴードンを司令官とする義勇軍(常勝軍)の連合軍によって,太平軍はその最後の地盤,江浙地方をも失い,1864年6月,洪秀全は病死し,その20日後に天京が陥落して,太平天国は滅亡した。

[歴史的意義] 敗北したとはいえ,この運動は近代以前の世界史上のいかなる民衆反乱もつくり得なかった高度に統一された組織と,多数の女性を含む独自の軍隊をつくって,十数年にわたって内部の封建勢力,ならびに新来の外国資本主義勢力に対して戦いつづけた。それによってこの運動は近代の中国革命の源流となった。民国革命の父孫文は第二の洪秀全と自称し,後者が免れなかった皇帝主義を批判しつつ,その清朝打倒と独立という課題を自覚的に継承しようとした。また太平天国時代の地主や官僚に対する農民の闘いは多くの歌謡や伝説によって民衆の中に語り継がれ,1920年以降のより自覚的な農民革命論を生み出す土壌を準備した。         小島 晋治

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48名無しさん:2013/07/20(土) 19:21:55
客家
ハッカ Hakkas

〈ハッカ〉とは客家という漢字の広東系客家語音で,外国人からは普通この音で呼ばれる。もともと客とは他郷から来た移住者の意味で,土着民が区別していった語である。中国南部の広東,湖南,江西,福建諸省の交界地域に居住する漢民族の一種で,とくに広東の梅県,興寧,大埔,恵陽の諸県に集中している。さらに広西・四川にも広がり,海南島,台湾のほか東南アジアの華僑に多く,総数約1500万人に上る。中国南部に移住してきた原因,経路には疑問があるが,彼らの伝承によれば,(1)4世紀初めの永嘉の乱,(2)9世紀末の黄巣の乱,(3)12世紀初めの北宋の崩壊,(4)17世紀の明の滅亡を契機として,黄河流域の漢民族がしだいに南下して以上の地域に定着し,先住の土着民から客家といわれ,やがてみずからもこれを他と区別する呼び名としたという。彼らは独立心に富み団結力が強くて簡単に土着民と融和せず,械闘(かいとう)といい武器をとって激しい争いを繰り返した。清ではこれを解消させるために,客家を海南島などへ強制移住させたほどである。
 客家の生活は農業が主で,大家族を維持するため独特の広大な住宅を構えるものがあり,家譜を重んじ祖先崇拝の中心として必ず家祠を設ける。日常,女子が屋外の重労働に従事するのが特徴で,男子は海外に渡り鉱山で働くものも多いが,どこででも客家としての固い団結を作っている。他の漢民族から差別扱いを受けるので,社会に反感を抱き太平天国の洪秀全のように革命行動をとるものもあった。近代では教育者,学者,政治家として業績を上げたものに,客家出身者が少なくない。しかし,歴史上の有名人物で今日の客家居住地域から出た人々を,すべて客家の祖先とみなすことは危険である。彼らの団結の象徴となっているのは客家語で,それぞれの地域によって幾つかに分けられるが,中国語の一方言とみてよいものである。もっとも代表的な広東省梅県を中心とした客家語は,広東語と古い中原地方の漢語との2要素からなっている。        日比野 丈夫

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49名無しさん:2013/07/20(土) 19:24:39
義和団
ぎわだん Y≒ hレ tu⊂n

1899年(光緒25)から1900年,華北一帯に爆発的にひろがった中国人民の反帝国主義運動の主体。この運動を義和団運動という。19世紀末,日清戦争の結果としての下関条約を起点として,帝国主義の対中国資本輸出がいっせいに開始され,世界分割競争が中国に向かって集中し,中国がかつてない民族的危機に直面したことを背景として,義和団運動は起こった。運動が最初に起こった山東省では,日清戦争の際,日本軍の侵入・占領をこうむり,その後膠州湾と威海衛をそれぞれドイツとイギリスに占領,〈租借〉され,結局ドイツが全山東をみずからの勢力範囲として収奪と人民弾圧をほしいままにした。農村経済の破壊と農民の無産化,手工業者・小商人・運送労働者などの破産・失業が急速に進み,人民は重税雑税,労働徴発,災害に苦しんだ。

 こうした背景の中で,山東では仇教(反キリスト教)運動が急激にひろがった。列強の勢力を背景に清朝の保護を受けつつ農村内部に入り込んだ教会が,中国人の土地を収奪し,帝国主義勢力の農村での経済活動の拠点となり,教民と一般農民の間に分裂をつくり,伝統的な農村の共同生活における人々の信仰や生活習慣の切り崩しにかかったためである。1896年,民間秘密結社の大刀会が大規模な仇教運動をおこしたが,大刀会の仇教運動がつぎつぎと展開される一方で,農村の下層農民大衆が教会・教民に対抗して郷土を防衛するため,村々に拳宜を設けて拳術を身につけ,〈会〉〈団〉をつくり,さらに村を連ねて仇教のための組織を形成していった。義和拳,梅花拳などと呼ばれるこの農民主体の武術集団は,大刀会と連動しながら仇教運動を拡大・高揚させていった。こうした仇教運動の主体全体を指す〈義和団〉という呼称は,99年ごろ生まれ,そのころから活動が公然化していった。義和団と白蓮教との系譜的関係の有無については,今日なお多くの議論があるが,拳術を身につけ,呪文を唱えれば,玉皇大帝をはじめとする民間信仰の神々や農民になじみの深い歴史上・伝説上の英雄・半神が体に乗りうつり,〈刀槍不入〉の超能力を得ると信じられ,その自力によって教会勢力,侵略勢力に〈滅洋〉をかかげて立ち向かった。義和団は太平天国のような統一的指導機関を持たない各義和団の集合体であった。

 99年秋,山東省の平原で義和団は弾圧にきた清軍を破り,以後勢力は急激に増大するが,99年末山東巡撫となった袁世凱の徹底した弾圧を受け,1900年春には河北省の義和団の立ちあがりと山東義和団の移動で運動の中心は河北に移った。6月,義和団は北京に入城して全北京を掌握,公使館区域を包囲,また租界を抱える天津をも占領した。これと同時に帝国主義列強は軍隊の移動を開始,軍隊を輸送する鉄道の沿線で,列強の連合軍と義和団の戦闘が始まった。この間,日本外務省書記生とドイツ公使の義和団による殺害事件が起こった。北京に進撃してくる連合軍に対し,清朝は宣戦を布告,義和団は死力を尽くして戦ったが,7月中旬に天津,8月中旬に北京を8ヵ国(イギリス,アメリカ,ドイツ,フランス,ロシア,日本,イタリア,オーストリア)連合軍に占領され,義和団は弾圧を受けて敗北した。義和団の京・津占領から連合軍の北京占領にいたる戦争を,日本では〈北清事変〉と呼んだ。1901年9月,清朝と11ヵ国(8ヵ国とスペイン,オランダ,ベルギー)との間に最終議定書〈辛丑条約〉が調印された。多額の賠償金のほか,北京・山海関沿線の外国の駐兵権を認め,人民の反帝運動の鎮圧を清朝が義務づけられるなど,中国の半植民地化をいっそう深めるものであった。

 1899年から1900年にかけ,義和団が〈扶清滅洋〉の旗をかかげたことから,清朝と義和団の関係については異なる評価があるが,清朝は基本的に反人民的立場をとりつつも,宮廷内抗争もからんで懐柔・利用と弾圧の両面の対応の間を揺れ動き,対外的には排外主義と投降主義の間を揺れ動いた。結局,義和団と帝国主義列強の両者から追いつめられ,帝国主義の側に投降したのである。義和団には滅洋を共通項としてさまざまのグループがあったが,その主流において扶(たす)けるべき清とは自分たちの郷土・国土であり,必ずしも大清帝国を意味しなかった。山東,江蘇,河南,河北,山西,陝西,甘粛,東北等の地で闘われた義和団運動は,帝国主義の中国分割の野望をくじき,中国民族人民の気概を示した反帝人民闘争であり,民族の覚醒をうながして辛亥革命への道を切りひらいた。         石田 米子

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50名無しさん:2013/07/20(土) 19:30:40
黒祠邪教
いんしじゃきょう

国家権力ないし支配者によって,反体制的な傾向を持つとみなされた民間信仰,宗教のこと。黒祠はまた,黒祀ともいい,異端,左道と類似した言い方である。中国では,秦・漢時代において国家によって民間の祭祀が整理され,祭天の儀礼を頂点とする祭祀の典礼が整備された。これを祀典という。すでに《礼記(らいき)》曲礼では,祭るべきではないものを祭ることを黒祀と呼んでいるが,祀典が整備されてからは,国家の祀典に入っていないものを黒祀とみなすようになった。こうした祀典の整備,黒祀(黒祠)の観念の確立に,儒教による思想統一があずかって力があったことはいうまでもない。後漢の応劭(おうしよう)は《風俗通義》において,巻八に〈祀典〉,巻九に〈怪神〉を列挙し,怪神の項では,城陽景王祠,鮑君神などの黒祠を取り上げ,民間の祠妓信仰の様子を伝えている。黒祠のなかには,たとえば南朝の項羽神のように,広範な民衆の信仰を得たために,陳の時代には国家に享祀されたという場合もあるが,多くは国家や地方官の禁圧に遭い,盛衰を繰り返した。
 また南北朝・隋・唐時代には,仏教がしばしば邪教とみなされ,黒祠と同様,国家の禁圧の対象となることがあった。三武一宗の法難といわれる,北魏の太武帝,北周の武帝,唐の武宗,五代後周の世宗による廃仏事件がそれである。これらは国策の遂行上,あるいは国家による思想の統一に仏教が障害となるとしたもので,仏教教団に脱税を目的とした民衆が包含されていたことも見逃せない。宋以後は,たとえば《大明律集解附例》に見えるように,弥勒教,白蓮社,明尊教,白雲宗などが邪教とみなされた。これらの宗教は,仏教,道教,マニ教などが習合し,多くは結社を作って,民衆反乱の温床となった。またその中には宝巻と呼ばれる経典を作って自己の教義を流布しようとしたものもあり,清代の地方官,黄育限(こういくべん)は《破邪詳弁》を著して,これらに反駁している。⇒秘密結社                砂山 稔

[日本の黒祠邪教]  《類聚三代格》に,〈京中街路〉で黒祀をまつることを禁断する官符(宝亀11年12月)があり,律令国家が,民間の巫覡と民衆の結びつきを危険視していたことをうかがわせる。呪術との関連で陰陽石や道祖神など性的な神々や小祠が黒祠とされる場合が多かったが,明治以降も多くの新宗教がその成立期において既成宗教や国家権力の側から邪教視され,禁圧の対象とされた。黒祠邪教とされる根拠は,祈裳などによる病人の医療,種々の霊験を説くこと,予言で人々を惑わすことなどであった。いわゆる黒祠邪教は,歴史を通じて統治権力による宗教統制の対象として,圧力が加えられた。たとえば1882年施行の旧刑法には〈妄ニ吉凶禍福ヲ説キ又ハ祈裳符呪ヲ為シ人ヲ惑ハシテ利ヲ図ル者〉を拘留または科料に処するとされたが,この条文は,717年(養老1)の行基弾圧の詔に,〈街衢ニ零畳シテ妄ニ罪福ヲ説〉〈詐リテ聖道ト称シ,百姓ヲ妖惑ス〉とあるのと,驚くべき類似を示している。⇒性器崇拝                     鍛島 直

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51名無しさん:2013/07/20(土) 19:32:23

>>50
黒祠→淫祠

52名無しさん:2013/07/20(土) 19:36:55
弥勒経
みろくきょう

未来仏であるマイトレーヤ(弥勒)に関する経典を一括して弥勒経とよび,中国や日本では弥勒六部経あるいは弥勒三部経を数えることが多い。釈梼仏の弟子たる弥勒の兜率天(とそつてん)往生ならびに信者たちの往生を説く《弥勒上生経》以外の5経は,いずれも遠い将来に補処の菩醍たる弥勒がこの世に下生して仏陀となり教化する物語を説く。隋代以後の中国社会で,弥勒教と称した反乱がしばしば起こるが(大乗教徒の乱),これらは《弥勒下生経》に説かれた教徒をよりどころとした。なお,弥勒の初発心を詳細に説いた《聖弥勒発趣経》がチベット大蔵経(カンギュル・テンギュル)の中にのみ伝えられている。⇒弥勒信仰  礪波 護

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53名無しさん:2013/07/20(土) 19:38:12
大乗教徒の乱
だいじょうきょうとのらん

中国,北魏末の孝明帝が即位した515年(延昌4)の6月,渤海(山東省)の地に沙門法慶(ほうきよう)を指導者として起こった民衆反乱。法慶は冀州(河北省)の人。みずから大乗と号し,〈十住菩醍〉李帰伯とともに5万余の民衆を率いて反乱を起こしたが,中央から10万の討伐軍が派遣されて4ヵ月後にようやく鎮圧された。大乗経典には,修行して菩醍にいたる位階が説かれているが,法慶は,位階は殺人の数によって高くなると説いて,人ひとり殺せば一住菩醍の位を授けるとともに,〈新仏出世して旧魔を除去す〉と唱えては,寺院経像を破壊し,僧俗を問わず殺戮を重ねた。いったい4世紀の前半に華北の地にも仏教はすでに浸透していたが,北魏の華北統一過程の中でいっそう仏教は保護され弘通していく。しかし北魏国家の庇護のもとで,洛陽の仏寺・仏塔の建立に象徴される繁栄を仏教が誇ったその裏で,国家財政は乱脈をきたし,民衆は国家の収奪に疲弊しはじめていた。一方,民間では村落を遊行する仏僧も現れ,固有の俗信と融合した信仰が民衆にゆきわたっていた。こうした事柄を背景として北魏末の政治的にも経済的にも行き詰まった時代に,国家統制をはみだした民間の仏教信仰をエネルギーに,病んだ社会を変革しようとしたのが,大乗教徒の乱であり,唐の統一まで続く仏教徒の数々の反乱の先蹤をなすものであった。        西脇 常記

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54名無しさん:2013/07/20(土) 21:44:48
無量寿経
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C

『無量寿経』(むりょうじゅきょう)は、大乗仏教の経典の一つ。 原題は『スカーヴァティーヴューハ』(サンスクリット:Sukh?vat?vy?ha)で、「極楽の荘厳」という意味である。サンスクリットでは同タイトルの『阿弥陀経』と区別して、『大スカーヴァティーヴューハ』とも呼ぶ。

概要[編集]

サンスクリット原典、チベット語訳、漢訳が現存する。 日本では特記が無い限り『無量寿経』というと、康僧鎧の訳とされる『仏説無量寿経』の事をさす。
漢訳[編集]

漢訳[1]は、12訳あったといわれ、現在に伝わっているものとして、5つの訳本が現存し、7つの訳本は、欠本になっている。五存七欠十二訳と呼ばれる[2]。現存するうち、「漢訳[1]」・「呉訳」・「魏訳」の訳者に関しては諸説ある。

55名無しさん:2013/07/20(土) 21:59:40
マニ教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8B%E6%95%99

東方宣教とその影響[編集]
マニ教は西アジアからユーラシア大陸の東西に拡大し、トルコ族の国ウイグルでも多くの信者を獲得した。

唐においては694年に伝来して「摩尼教」ないし「末尼教」と音写され、また教義からは「明教」「二宗教」との訳語もあった。「白衣白冠の徒」といわれた東方のマニ教(明教)は、景教(ネストリウス派キリスト教)・?教(ゾロアスター教)とともに、三夷教ないし三夷寺と呼ばれて西方起源の諸宗教のなかで代表的なもののひとつと見なされた[16]。則天武后は官寺として首都長安に大雲寺を建立した[7][16]。これには、ウイグルとの関係を良好に保つ意図があったともいわれている[7]。768年、大雲光明寺が建てられ、こののち8世紀後葉から9世紀初頭にかけて長江流域の大都市や洛陽、太原などの都邑にもマニ教寺院が建てられた[16]。
しかし、「会昌の廃仏」に先だつ843年に唐の武宗によって禁教されるに至った[16]。「会昌の廃仏」は845年に始まり、仏教のみならず三夷教の宗教も禁止され、多くの聖職者・宣教者は還俗させられたが、そうしたなかにあってマニ教僧は多くの殉教者を出したことが、当時、唐にあった日本の円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている[16]。
ウイグルにおいては、8世紀後半の3代牟羽可汗の統治時代にマニ教が国教とされるほどの隆盛と国家的保護を得た。やがて反マニ教勢力の巻き返しによって、弾圧を受けたが、8世紀末から9世紀初頭にかけての7代懐信可汗によって再び国教化された。イラン・アフガニスタンのイスラーム化ののち、ウイグルでもイスラームへの改宗が進み、14世紀後半のティムールによるティムール朝建国以降は中央アジアのイスラーム化はさらに進行していった。
三武一宗の法難(会昌の廃仏)の弾圧ののち、中国本土では、マニ教は五代十国時代から宋において仏教や道教の一派として流布し続けた。歴史小説『水滸伝』の舞台となった北宋の「方臘の乱」の首謀者方臘はマニ教徒であったともいわれている[注釈 9]。マニ教は、弾圧のなかで呪術的要素を強めていったために、取り締まりに手を焼く権力者からは「魔教」とまで称された。官憲によるマニ教取り締まりはしばしば江南地方や四川でなされており、そのなかでマニ教信者は「喫菜事魔の輩」(「菜食で魔に仕える輩」の意)とも呼ばれている。
宗教に寛容な元朝においては、明教すなわちマニ教が復興し、福建省の泉州と浙江省の温州を中心に信者を広げていった。明教と弥勒信仰が習合した白蓮教は、元末に紅巾の乱を起こし、その指導者の一人であった朱元璋の建てた明の国号は「明教」に由来したものだといわれている。しかし明王朝による中国支配が安定期に入ると、マニ教は危険視されて厳しく弾圧された。15世紀においてすでに教勢の衰退著しく、ほとんど消滅したとされてきたが、秘密結社を通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年の北清事変(義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社のひとつといわれる。

56名無しさん:2013/07/20(土) 22:02:00
唐代三夷教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E4%BB%A3%E4%B8%89%E5%A4%B7%E6%95%99

唐代三夷教(とうだいさんいきょう)とは中国の唐の時代において、一時唐王朝によって保護され、隆盛した西方起源の3つの宗教である。

概要[編集]

「唐代三夷教」とは、
キリスト教ネストリウス派(景教)
ゾロアスター教(?教)
マニ教(明教)
の3宗教を指している。
このうちゾロアスター教が南北朝時代にまず中国に伝わり、ついで唐代に入りネストリウス派キリスト教とマニ教が伝わる。いずれも、当時「西域」と呼ばれた地域を経由しての伝播であったが、唐の2代皇帝太宗は西域支配に乗り出し、640年(貞観14年)には高昌国を滅ぼして、そこに安西大都護府を置いた。この3宗教は、盛唐(8世紀初頭)の頃には玄宗による開明的な国家運営の下、首都長安においてそれぞれに隆盛期を迎え、史上「唐代三夷教」と呼称されることになる。当時、人口約100万を誇った長安は異国情緒あふれる国際都市で、市街ではインド人の幻術師やペルシア系の踊り子、歌手、楽士、酌婦、給仕などをみかけることも少なくなく、後宮ではポロが人気を博し、貴婦人のあいだでは乗馬が流行した[1]。そうしたなかで、「三夷教」にも広く門戸が開かれていたのである。
しかし、3宗教とも、9世紀後半に武宗が行った会昌の廃仏において仏教とともに弾圧を受け、それ以降は中国史の表舞台からは姿を消した。ただし、その影響は様々なかたちで後世に残り、特にマニ教は明・清代に至るまで、社会のなかで隠然たる影響力を持ったとされる。以下において、中国史の中におけるそれぞれの歩みについて概説する。

57名無しさん:2013/07/20(土) 22:07:44
三武一宗の法難
さんぶいっそうのほうなん

中国に仏教が伝来してから,何度か国家権力による仏教迫害がなされたうち,(1)北魏の太武帝,(2)北周の武帝,(3)唐の武宗,(4)後周の世宗による廃仏,つまり三武一宗の4皇帝治下での迫害が激甚をきわめたので,これを仏教側では三武一宗の法難と呼んでいる。第1回の道教皇帝ともいうべき太武帝による〈魏武の法難〉は446年(太平真君7)から7年間にわたって仏教弾圧がなされた。第2回目の〈周武の法難〉は574年(建徳3)と577年の2回にわたり,このときは文武百官を集めて儒・仏・道の三教の優劣を論じさせたのち,仏教のみならず道教も廃された。845年(会昌5)に行われた第3回目のは,年号により〈会昌の法難〉とよばれるが,このときは道教徒の画策により仏教のみならず,西方伝来の景教・松(けん)教・マニ教の3夷教も禁圧された。955年(顕徳2)に行われた第4回目の〈後周の法難〉は,前3回とは異なり,国家の財政的窮迫が主たる動機であった。⇒排仏論
                         礪波 護

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58名無しさん:2013/07/20(土) 22:08:52
法難
ほうなん

仏教教団が国家権力などにより受けた迫害,すなわち仏法の受難をさし,廃仏,廃釈などともいう。キリスト教などにおける受難,殉教に通ずる。中国においてインド起源の外来宗教たる仏教は,教団組織をととのえ中国社会で勢力を増強させるにつれ,道教徒側の画策などにより,ときどき国家権力によって迫害をうけた。なかでも仏教側から〈三武一宗の法難〉とよばれる北魏,北周,唐,後周の4王朝の4人の皇帝による廃仏が著名であるが,いずれも次の皇帝によって仏教復興政策がとられた。一宗派に対する法難としては,三階教に対する600年(開皇20)と725年(開元13)の両度にわたる禁絶があった。なお近年の中華人民共和国で,とくに文化大革命の期間にも,仏教の布教が認められず,出家が禁断されていたので,法難とよぶことができよう。日本においても法然,親鸞,日蓮の受難がよく知られる。とりわけ〈熱原(あつはら)法難〉は有名で,正法の実現を説いた日蓮は法難こそ末法に生きる仏の使者が敢然と受けてたつべきだと法難の重要性を強調した。⇒廃仏毀釈‖排仏論                 礪波 護

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59名無しさん:2013/07/20(土) 22:10:29
武宗 814‐846
ぶそう

中国,唐の第15代皇帝。在位840‐846年。穆宗の第五子,母は宣懿(せんい)皇后韋氏。兄文宗の柩前で宦官魚弘志・仇士良らに擁立された。即位すると朋党の争いに敗れ苫滑節度使となっていた李徳裕を宰相に迎え,藩鎮勢力を抑えるとともに北辺ではウイグルを討つなど治績をあげた。円仁の《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》が語るとおり845年(会昌5),最大規模の廃仏を行い20余万人を還俗させたが(三武一宗の法難),翌年薬中毒により倒れ,宣宗が即位して仏教は再興された。
                        藤善 真澄

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60名無しさん:2013/07/20(土) 22:12:52
武宗 (唐)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%97_(%E5%94%90)

武宗(ぶそう)は唐朝の第18代皇帝。穆宗の五男。

初めは頴王に封爵されていた。 840年に文宗が崩御した後、宦官の仇士良らにより皇帝に擁立された。全ての子が早世した文宗は、生前異母兄の敬宗の末子である李成美を皇太子としていたが、朝政を専断していた仇士良を首謀とする神策軍派の宦官らによって、李?が皇太弟に擁立され、李成美は陳王に封じられた(後に李成美は殺害された)。
武宗は冷静沈着で、明晰かつ決断力に富んだ人物であったと皇帝は伝える。李徳裕を宰相に登用し、宦官勢力の抑制や中央集権体制の立て直しに努めた。しかし道士である趙帰真を信任し、道教に傾斜するあまり「会昌の廃仏」と称される廃仏令を出している。これが当時の寺院は荘園の大規模保有者でありながら無税とされ、銅の不足に起因する銅銭不足による経済的混乱が見られ、大量の銅を使用し仏像や仏具を製造していた仏教側の問題もあり、純粋な経済政策という評価もある。また当時皇位を争った叔父の李怡が身の安全を図る為に仏教を利用したことも、仏教攻撃の一因になったとの説もある。
846年、丹薬による中毒で33歳で崩御した。死の間際に炎と改名している

61名無しさん:2013/07/20(土) 22:18:33
>>60

18代皇帝????


http://www002.upp.so-net.ne.jp/ayuta/hito/hitolog/buso.htm

唐第15代皇帝武宗。至道昭粛孝皇帝。諱は炎。12代皇帝穆宗の第5子である。
 穆宗の子供は長男、次男が続けて帝位に就いた(敬宗、文宗)。文宗の皇太子には、敬宗の子、陳王成美が定められていたが(これにもいろいろ問題があったのだが)、皇太弟炎は宦官の魚弘志、仇子良らに担がれて、文宗の死後、皇太子を出し抜いて即位した。陳王はその後殺害されている。
 皇帝になった炎は、文宗時代に左遷されていた李徳裕を都に召還し、宰相とした。牛僧儒一派と李徳裕一派の争いは、「牛李の党争」といって穆宗治世下から続いていたが、武宗在位中は殆ど李一派の天下、ということになった。

(中略)

 武宗の廃仏はその年号をとって、「会昌の廃仏(法難)」とも称される。中国史上の大規模な廃仏としては、3回目に当たる。
 唐代の仏教史を逐一説明すると煩雑になるのでここでは省略するが(詳しく知りたい方は『唐代仏教史の研究』法蔵館 等をどうぞ)、北周武帝の弾圧後、南北朝から隋〜唐建国へかけての混乱期を過ぎ、太宗の時代にインドから新しい経典がもたらされ、仏教は新たな時代を迎えていた。高宗、武則天の時代に仏教は保護され隆盛し、日本からも多くの留学僧が訪れたのがこの時期である。
 しかし、玄宗末期の争乱を経て、唐が「中華帝国」としての再編、巻き返しを計ろうとする段階において、外来の宗教は些か煙たい存在となったようだ。李炎は、そんな時期に皇帝になった。
 「会昌の廃仏」と、仏教弾圧ばかりが前面に出るが、この時期弾圧されたのは仏教ばかりではない。景教(ネストリウス派キリスト教)、【示夭】教(ゾロアスター教)、マニ教といった、外来宗教は全て対象になった。ただ、仏教が一番勢力が大きく、結果弾圧の規模も大きかったので、目立っただけである。
 その頃の仏教勢力はかなりのもので、出家をすれば課税対象から逃れられるのもあって、勝手に出家したことにしているいわばもぐりの僧侶(私度僧)も多く、仏教界全体は腐敗の度合いを強めていた。
 会昌の廃仏はそうした私度僧を中心に、僧尼を還俗させたり、寺院の田畑(これも非課税)を没収したり、と、腐敗した仏教界の粛正、不正行為の厳重取り締まり的な要素もあった。
 武宗の道教趣味に乗じて、皇帝が反対しないのをいいことに、官僚達が手っ取り早く財政の建て直しを計ろうとして非課税対象を削ろうとした。
 思想の弾圧というより、財政という実利的な面での締め付け。
 そんな側面が、この廃仏にはあっただろう。
 仏教自身にも、弾圧される「身に覚え」があった、と、この廃仏は言われるが、厳しい徴税に耐えられず、非課税の身分に逃れようとあがき、仏寺にすがる民衆を多く輩出した。そこまでの道筋を作った唐王朝の失策も、非難されてよいと思う。

 この廃仏は、税金逃れの俄仏教徒だけでなく、真面目な信徒も弾圧した。そのことは、丁度先進の仏法を学ぼうと渡唐していた日本の僧侶、円仁までもが弾圧の対象となり、国外退去をやむなくされ、彼自身無念の思いを記したことから知られている。
 付け焼き刃的な仏教弾圧、課税対象の確保は、唐の財政破綻を回復出来うるべくもなく、大唐帝国全土を巻き込んだ廃仏運動も空しく、唐は滅亡への道を転がり落ちていく。
 武宗・李炎はただひたすら道術に耽溺し、不老不死を求め、怪しげな仙丹を服用して薬物中毒に陥り、人事不肖のまま没した。
 享年33歳。
 彼の在位中、ウィグル討伐に成功した、というのが唯一と言ってよい華々しい事績だが、これも当のウィグル族にとっては迷惑以外の何ものでもない。
 もっとも本人は、誰かに迷惑をかけたとか、自分の在位中にいろいろあった、など、考えもしなかったであろう。
 第5子で、来ることを予想しなかった帝位が本人、たいして画策もせずに転がり込み、自身なんら政策も持たず皇帝の座にあり、大して深く考えないうちに短い治世、短い一生を終えた。
 はた迷惑ではあったが、どこか物寂しい気もする、帝国晩期の皇帝様である。

62名無しさん:2013/07/20(土) 22:24:08
>>61

李炎(814〜846) Li Yan
  唐の十五代武宗(Wuzong)。至道昭粛孝皇帝。在位840〜846。穆宗(李恒)の五男。はじめ穎王に封ぜられた。兄の文宗(李昂)が崩ずると、宦官の仇士良・魚弘志らが太子の李成美を廃して、かれを擁立した。宰相の李徳裕を信任して、李党によって政権は牛耳られた。会昌三年(843)、劉?を派遣して回鶻の烏介可汗を破り、大和公主を迎え帰国させた。五年(845)、仏像の廃棄や僧尼の還俗を命じ、寺院の土地や奴婢を没収した(会昌の仏教弾圧)。方術神仙を尊び、道士趙帰真ら八十一人を禁中に召し、法?を受けた。金丹を服用し、中毒死したという。

http://ww1.enjoy.ne.jp/~nagaichi/chu905.html#221

唐の武宗っやっぱり「第15代皇帝」じゃないの? やばいなーWikipedia。。。

63名無しさん:2013/07/20(土) 22:31:51
>>62
やっぱり、これ、第18代皇帝? わからん。こんな初歩的な所で躓くとは。

64名無しさん:2013/07/20(土) 22:36:07
>>63
中国の唐王朝は、西暦618年に高祖李淵(りえん)が隋を滅ぼして建国した王朝である。690年に武則天によって唐王朝が一時廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活し、その後、907年に朱全忠が最後の哀帝から禅譲を受けて後梁を開くまで存続した。その間に即位しした皇帝は21人を数える。だが、唐の皇帝陵は「唐十八陵」と総称され、関中平原の北を限る北山(ほくざん)山脈の南縁辺に点在していて、即位した21人の皇帝の数より3つ少ない。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0517.htm

こういうことか。

http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/images/image-04/0517-14.jpg

65キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:42:35
朝熊山
あさまやま

朝熊ヶ岳ともいう。三重県伊勢市の東端にあり,志摩半島の最高峰。標高553m。山頂からは伊勢湾,志摩の海食台地,神宮林,太平洋の眺めがよく,伊勢志摩国立公園の一部をなす。山上を経て伊勢市と鳥羽市とを結ぶ伊勢志摩スカイラインが1964年開通した。山頂に近く臨済宗の名刹(めいさつ)金剛証寺があり,近世には伊勢参宮にあたって朝熊参りをすることが多く,にぎわった。寺の周辺には経塚群(約40基)があり,出土品(国宝)は金剛証寺宝物館に保存されている。   藤本 利治

[信仰]  朝熊山の信仰は,複雑な内容をもっており,山岳信仰全体のなかでも独自の地位を占めている。たとえば多数の経塚群が発見され,阿弥陀浄土・弥勒浄土の信仰が顕著であったこと,〈朝熊かけねば片参り〉と言われるように伊勢参宮習俗と結びつき,伊勢神宮の山宮的性格を有していること,〈あさまやま〉と呼ばれていることでも明らかなように富士浅間信仰との結びつきがみられることなどをはじめ,農耕神・狩猟神としての性格ももっている。こうした信仰内容を含めて,朝熊山の信仰は〈嶽参り〉と呼ぶ登拝習俗が代表しているといえよう。嶽参りは初参りや開山忌などに参るもの,埋葬の翌日から一周忌の間に参るもの,盆に参るものとに大別できる。このうち初参り(1月13日)は十三参りとも呼ばれて成人儀礼と結びつき,金剛証寺の虚空蔵信仰に由来するが,死者の埋葬の翌日から一周忌までの間や盆の期間に行う嶽参りは死者供養・先祖供養の儀礼で,死後の霊魂が山中にとどまるとする山中他界観をよくあらわしている。               宮本 袈裟雄

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66キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:43:26
阿闍梨
あじゃり

サンスクリット ´c´rya の音写。阿舎梨,阿闍梨耶とも書く。一般には師,師匠の意。バラモンでは弟子にベーダ等の儀則を教示する人を指した。小乗仏教では弟子の行為を正し,師範として教授する徳の高い僧を指す。規範師と訳す。四分律では出家,受戒,教授,受経,依止の5種の阿闍梨があるとする。大乗円頓戒では文殊を羯磨阿闍梨,弥勒を教授阿闍梨と称する。密教では大日如来や諸仏菩醍を指す場合もあるが,狭義には灌頂(かんぢよう)の導師および伝法灌頂を受けたものを阿闍梨という。伝法灌頂の導師を大阿闍梨または大阿といい,作法を指導する教授阿闍梨がある。最高指導者としての阿闍梨には菩提心,妙慧と慈悲,兼綜衆芸,般若波羅蜜行,通達三乗,真言実義の理解,衆生心を知り,諸仏菩醍を信じ,受伝法灌頂と曼荼羅の画を解し,性調柔で我執を離れ,決定を得,瑜伽を究習し,勇健の菩提心に住するという13種の徳が要求される。日本での阿闍梨の初見は《日本書紀》に見られるが,日本では真言の秘法を伝授する職名として師資相承を原則とする真言,天台両密教系の御願寺,定額寺の僧が勅命で認可され,のち私寺にも設置された。職掌上,伝法阿闍梨,受戒阿闍梨,試業阿闍梨,検封阿闍梨,格式化したものに大阿闍梨,小阿闍梨,一身阿闍梨,永宣旨阿闍梨等がある。真言宗では823年(弘仁14)東寺に伝法阿闍梨が,天台宗では斉衡年中(854‐857)に惣持院に8人の阿闍梨が許された。             和多 秀乗

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67名無しさん:2013/07/20(土) 22:44:49
飛鳥の石造物
あすかのせきぞうぶつ

奈良県明日香村を中心とし,高取町,橿原市のいわゆる〈飛鳥〉に点在する奇怪な形をした約20個の石造物。仏教美術とは異質にみえ,用途が明らかでないため,〈貞の石〉と呼ばれるが,姿・形から,猿石,人頭石,石人像,亀石,酒舟石,須弥山(しゆみせん)石,益田岩船,立石などと名付けられてきた。例えば〈酒舟石〉は巨石の上面を滑らかにし,円形のくぼみを細長の溝で樹系図状に結んだもので,西の丘陵下に向かって傾斜する。〈石人像〉は岩に腰かけ酒を飲む翁と寄り添う老女の姿をした等身大の像。2人の口元に噴水用の導水孔が貫通する。〈須弥山石〉は達磨形の3段組みの噴水石で,上段・中段は須弥山の山並みを浮彫し,下段には水波を表す。下段石裾より導水口があり,中にはくりぬきの槽をつくる。水を入れると下段の水波を濡らす。吉備媛王(きびのひめみこ)墓の前に置かれた4体の〈猿石〉と高取城わきの〈猿石〉〈人頭石〉の6体は,もと同じ場所にあったらしい。いずれも裸の座像である。代表的な猿石は頭巾をかむり,手を腹部におく。陽物によって男性とわかるが,背面にもほぼ同様の毛髪をつけた女性の浮彫がある。〈益田岩船〉は,飛鳥の西,岩船山の頂上近くにあり,10m×7m,高さ7.5mの台形状の巨石塊の上面に,南北に正方形の穴を2個あける。側面は石材加工途中の細溝を残す。

 石造物の研究は,江戸時代中頃以来,本居宣長をはじめ,文人による大和古跡行脚の紀行文による紹介に始まる。初期は鬼雪隠・俎と益田岩船への関心が中心であったが,次第に酒舟石に及び,明治以降,石人像,須弥山石へと研究対象が移る。昭和30年代以降,益田岩船についての論考が多い。

 用途については多説あるが,主として鬼雪隠と俎の組み合う墓室説,さらに益田岩船の未完成墳墓説,また,酒舟石,石人像,須弥山の庭園装飾石説に要約できる。とくに後者の須弥山石,石人像石の出土地は飛鳥寺の北西に隣接し,《日本書紀》斉明3年(657)7月条〈須弥山の像を飛鳥寺の西に作る。盂蘭受会(うらぼんえ)を設く。暮に都貨羅人(とからびと)に痢ふ〉に該当し,内部の導水しかけによって各地の客人をもてなす噴水施設である。酒舟石も導水用の装飾石であり,今は現地にないもう一つの酒舟石と復元的にみると,付近から出土した溝彫の車石とともに飛鳥寺南方の東の丘上より西へ水を流し,飛鳥川西岸にあった出口酒舟石に接合し,川へ排水したらしい。

 石造物の分布をみると庭園装飾石は飛鳥寺周辺に限定され,宮殿に関係するものであることは明白である。石造物の石質は,野口,真弓岡など飛鳥の南,西方向に集中する墳墓と同じ花コウ岩である。製作技術は石材加工痕では益田岩船,亀石,猿石,須弥山石が共通し,これらは7世紀後半の墳墓加工痕と共通する。さらに,須弥山石の出土地によってみると,《日本書紀》斉明紀の記載と矛盾なく,7世紀中葉から後半にかけての年代が推定できる。これらの石造物は,百済益山弥勒寺にある石の座像と酷似し,朝鮮半島三国時代の石造文化の影響を無視できない。  猪熊 兼勝

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68キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:46:24
アルカイク・スマイル
archaic smile

ギリシアのアルカイク彫刻の口もとに見られる微笑に似た表情。アーケイック・スマイル,古式微笑などともいう。初期の彫刻ではあまり目立たないが,前6世紀中ごろから後半にかけての青年像(クーロス)や少女像(コレー)などで特に明瞭となり,厳格様式(ギリシア美術)に移行する前5世紀初めごろからしだいに消える。この微笑の意味については〈ギリシア人の生に対する素朴な喜びの反映〉〈神(像)の人間に対する好意の表現〉〈未熟な彫刻家の偶然に生み出した表情が定型化したもの〉〈微笑のもつ呪術的力に対する古代人の信仰の表れ〉といったさまざまな解釈がなされている。いずれにせよ,この表情が上機嫌,陽気,愉快などの心理状態を表す,一般の〈微笑〉でないことは明らかである。おそらく,古代の彫刻家は彫像をただ生命なき冷たい人形のままとどめておくことに飽きたらず,その中に魂を宿し,人間と同じ生命と感情をもった存在たらしめようと考えたと思われる。そしてそれを最もよく表現できる方法として彼らが到達したのが,口端を上方に反らせるこの〈微笑に似た〉表情であったと思われる。ギリシアの影響の強いエトルリアでも,前6世紀の〈ウェイイのアポロン〉や陶棺像などの大型テラコッタ像に,この表情がいっそう誇張された形で表れている。

 東洋では,六朝時代の中国や飛鳥・白鳳時代の日本の仏像彫刻の顔に同じような微笑が見られ,これがアルカイク・スマイルと呼ばれることもある。口の両端をかるく引き上げる微笑の形式はギリシアのそれとよく似ているが,両者の間に直接の関係はない。仏像の微笑は,仏の衆生に対する慈悲を表すために,六朝時代の中国で始められたと思われる。北魏の雲岡や竜門の石窟寺院の仏・菩醍像には微笑をたたえたものが少なくない。この六朝風の仏像は朝鮮を媒介として日本に移植され,飛鳥時代の仏像となった。法隆寺の百済観音,救世観音,中宮寺や広隆寺の弥勒菩醍などにもこの微笑が見られる。     松島 道也

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69キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:47:37
石川年足 688‐762(持統2‐天平宝字6)
いしかわのとしたり

奈良時代の官人。名族蘇我氏の末裔にあたる。曾祖父蘇我連子は天智朝の大臣,父石川石足(いわたり)も従三位にまで昇った。年足は最初,少判事,地方官などを歴任した。官人として有能,廉勤であり,739年(天平11)には,出雲国守としてその善政を賞せられている。奈良時代中葉,藤原仲麻呂が台頭してくると,年足はその政権下で重用され,749年(天平勝宝1)には式部縁のまま,仲麻呂が拠点とした紫微中台(しびちゆうだい)の大弼(次官)を兼ね,参議となった。ついで大宰帥,神梢伯,兵部縁,中納言などの要職に就き,758年(天平宝字2),仲麻呂が官職名を唐風に改称した際には,そのことに参画している。その後760年には御史大夫(大納言)に昇ったが,762年,75歳で没した。この間,759年には,勅に応じて律令の施行細則である《別式》20巻の編纂を献策し,これを完成している。これは彼の実務能力をよく示したものといえる。また年足は,早くから仏教に帰依し,730年と739年には写経を,738年には弥勒像の造立を行わせた。なお年足の墓所については,江戸時代に現在の大阪府高槻市真上町の丘陵から,年足の火葬骨やこれを入れた木櫃,墓誌などが発見され,その場所が判明している。墓誌は短冊型の銅板(縦29.6cm,横10.3cm,厚さ0.3cm)に22字詰6行130字の文字を刻し,鍍金(ときん)したもので,年足の系譜,没時の官職,年月日,享年,墓所などが記され,末尾に故人を悼む韻文の銘が付けられている。             東野 治之

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70キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:49:55
宇佐神宮
うさじんぐう

大分県宇佐市に鎮座。八幡宮,八幡大神宮,宇佐八幡宮,宇佐宮ともいう。旧官幣大社。誉田別(ほんだわけ)尊(応神天皇),比売(ひめ)大神,大帯姫(おおたらしひめ)命(神功皇后)をまつる。《延喜式》神名帳には〈八幡大菩醍宇佐宮〉〈比売神社〉〈大帯姫妓神社〉(ともに名神大社)とあり,平安時代から豊前国の一宮でもあった。

 《古事記》《日本書紀》に名の記される宇佐津彦,宇佐津姫のまつる宇佐(比売)神があったとみられるが,《扶桑略記》《八幡宇佐宮御託宣集》などには,欽明32年に大神比義(おおがのひぎ)が託宣により誉田天皇広幡八幡麻呂を奉斎したとある。八幡神は712年(和銅5)創立の鷹居瀬社にまつられ,のち小山田社に移り,725年(神亀2)現在の小倉山に社殿が造られた。日向大隅の乱の鎮定に協力し,また古くから対新羅政策などで朝廷の崇敬をうけたとみられ,奈良時代には鎮護国家の神として厚い崇敬をうけ,737年(天平9)新羅の無礼を奉告し,740年藤原広嗣の乱の鎮定を祈願した。東大寺大仏鋳造に際しては八幡神の神託により黄金を得たとされ,東大寺の守護神として神体は奈良に移され,749年(天平勝宝1)八幡大神は一品,比黄(ひめ)神は二品の神位をうけた。道鏡の事件(宇佐八幡宮神託事件)の際には,769年(神護景雲3)和気清麻呂が参宮して神託をうけた。833年(天長10)仁明天皇の即位のとき和気清麻呂の子真綱が勅使として奉告し,以後即位には和気氏が奉幣の勅使となった。これを宇佐和気使という。奉幣の勅使である宇佐使(うさのつかい)は南北朝時代から中絶したが,1744年(延享1)再興された。1873年(明治6)宇佐神宮と改称され,1924年には10年ごとの例大祭(3月18日)に勅使が差遣されることになった。

 早くから神仏習合がみられ,725年日足の里に神宮寺弥勒禅院が造られ,738年現境内地に移った。766年(天平神護2)には比黄神宮寺が建てられた。また,光仁天皇は護国霊験威力神通大菩醍の号を贈った。由原宮は僧金亀により豊後国に勧請されたといわれ,神社と寺院が一体化した宮寺(みやでら)のはじまりとされる。859年(貞観1)には由原宮にならい行教により石清水八幡宮が勧請され,また源氏の崇敬を受け鶴岡八幡宮が勧請されるなど全国的に発展した。平安末期から宇佐宮大宮司職は宇佐氏が独占し,宇佐宮弥勒寺は豊後国東の六郷満山に勢力を注ぎ,辛島氏は求菩提(くぼて)山に,豊後大神氏は国府を中心に力を注いだとみられ,平安文化の花を競った。神官・社僧にも変遷があるが,平安時代以来社家には祠官・庁内・神人の制があり,神宮寺(弥勒寺),比黄神宮寺にも社僧寺僧の制があり,六郷山管理僧は弥勒寺所司を兼ねていた。江戸時代には社人230人,僧40人,その内150人が1000石の配当をうけ,210人は領主より諸役を免ぜられていた。

[社領・社殿]  社領は740年に封戸20戸を寄せられたのを初見とし,750年には八幡神に800戸,比黄神に600戸という伊勢神宮をもしのぐ神封を充てられ,これがのちの荘園の根拠となった。9世紀末からの宇佐宮・弥勒寺の荘園拡大とともに西国に八幡宮が伝播し,平安時代末期の荘園は,宇佐宮138ヵ所,弥勒寺114ヵ所の合計252ヵ所に及んだ。中世に入ると,宇佐宮・弥勒寺は武士の荘園侵略により勢力を落とし,社寺は一体化し,かろうじて豊前・豊後の神領を維持した。豊臣秀吉に神領を没収されたが,その後黒田長政が300石,細川忠興が1000石,1646年(正保3)には将軍徳川家光が1000石を寄進した。本殿は八幡造で,一,二,三之御殿からなり,823年(弘仁14)に嵯峨天皇の詔により大帯姫神社(三之御殿)が造られ,完成した。879年(元慶3)以来33年ごとに九州一円の所役により大宰府所管で式年造営が行われた。南北朝時代から式年造営は中絶したが,1418年(応永25)に足利義持が社殿を造営し,以後大内義興,足利義晴,黒田孝高,細川忠興らによって造営が行われた。

[神事・宝物]  中世には大小80余度の神事祭会があり,中でも放生会(ほうじようえ),行幸会は特殊神事として盛大に行われた。現在例祭は3月18日で,ほかに鎮疫祭(心経会)2月13日,御田植祭7月26日,神幸祭(夏越大祭,けんか祭)7月31日〜8月2日,中秋祭(放生会)10月1〜3日,春秋2度行われる致祭などがある。また奥宮大元神社(現,御許(おもと)山)の例大祭(春祭)は4月29日である。現本殿は1863年(文久3)の竣工であるが古来の様式をよくとどめ,八幡造の本源とされ,国宝。若宮安置の五神座像,天復4年(904)在銘の銅鐘(新羅鐘),征西将軍宮懐良親王奉納の剣1振,《宇佐宮神領大鏡》(大宮司家蔵)はともに重要文化財。御許山頂(霊山寺跡)現境内地(合わせて約15万坪),および旧比黄神宮寺跡(宮迫)を含め史跡に指定されている。⇒八幡宮‖八幡信仰
                        中野 幡能

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71キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:51:26
ええじゃないか


1867年(慶応3)8月から翌年4月ころにかけ,伊勢神宮の神符等が降下したということを契機に,畿内・東海地区を中心におこった狂乱的な民衆運動。名称は民衆が踊りながら唱えた文句に〈ええじゃないか〉〈よいじゃないか〉〈いいじゃないか〉等の語があったためであるが,慶応当時はお下り(駿河,近江),御札降り(遠江),おかげ(伊勢,河内),おかげ騒動(伊勢),おかげ祭(信濃),大踊(阿波,備前),雀踊(淡路),チョイトサ祭(信濃),ヤッチョロ祭(信濃)などと呼ばれることが多かった。学術用語として〈ええじゃないか〉が学界に定着したのは1931年以後のことである。その形態は,(1)神符類の降下を発端とし,(2)降下した神符類をまつる,(3)数日にわたる無礼講的な祝宴,(4)それに参加する男の女装,女の男装にみられるような日常的な規範の否定,(5)民衆の唱える〈ええじゃないか〉の文句を繰り返す歌と踊り,(6)領主側の命令・指導による平静化と日常性の回復といった六つの要素からなっていた。意識面では世直りの意識とそれへの期待,神符類の降下によるお蔭参りの記憶の復活,日常性からの逸脱,性的規範の無視などを特色とする。ただ,お蔭参りにみられた伊勢参宮は例外的である。

 その初発は現在まで知られているところでは1867年8月4日,東海道の御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが最初であった。以後,東海道,畿内を中心に,三河,遠江,駿河,伊豆,相模,武蔵,尾張,美濃,信濃,伊勢,近江,大和,山城,丹後,但馬,因幡,摂津,河内,和泉,紀伊,播磨,備中,備後,美作,安芸,淡路,阿波,土佐,讃岐,伊予の30ヵ国での事例が報告されている。その終末は68年4月22日の丹後加佐郡野村寺村の事例である。この民衆運動の契機となったのはどの地域でも神符類の降下であったが,この降下はいうまでもなく人為的なものであった。その背後にあったのは討幕派の人々だともいわれるが,その確証は発見されていない。降下した神符類のうちでは伊勢の御師(おし)の配布した御札・御祓(おはらい)が多かったが,その他その地域で信仰されていた社寺の御札,仏画,仏像など雑多であった。神符類の降下により民衆が動員されたのは,1830年(天保1)の御祓の降下によりおこったお蔭参りの記憶,さらには空から神聖なものが降下してくるとする伝統的な意識のほかに,幕末の危機的な政治情勢による民衆への圧迫感,第2次長州征伐の中止に伴う米価をはじめとする物価の下落による生活の安定などの諸要素が,神符類の降下を神意として民衆に受けとめさせたためと考えられる。民衆の意識はその囃言葉のうちに〈今年は世直りええじゃないか〉(淡路),〈日本国の世直りはええじゃないか,豊年踊はお目出たい〉(阿波)などの世直りの文句,〈御かげでよいじゃないか,何んでもよいじゃないか,おまこに紙張れ,へげたら又はれ,よいじゃないか〉(淡路)という性の解放,〈長州がのぼた,物が安うなる,えじゃないか〉(西宮),〈長州さんの御登り,えじゃないか,長と醍と,えじゃないか〉(備後)の政治情勢を語るもの,〈諸神諸仏の御降りが,日本国中いちじるし,弥勒仏の御威光で,五穀成就ありがたい〉(阿波)と弥勒下生による浄土の実現を示すものなどさまざまであり,そこにこの民衆運動の複雑さが示されている。その評価については定説というべきものはないが,1866年に高まった百姓一揆・打毀(うちこわし)に示される民衆の幕藩体制への抵抗がこの運動により弱まったとするもの,幕藩体制の基盤である封建的共同体からの離脱をはかった世直し運動の変型として評価すべきであるとするもの,またそこに伝統的な宗教意識や行動が再生されている点に注目するものなどがある。なお,E. H. ノーマンの〈日本におけるマス・ヒステリア〉(1945)は先駆的な研究として記憶される。
                        西垣 晴次

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72キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:52:02
益山
えきざん Iksan

韓国,全羅北道益山郡金馬面を中心とする,いわゆる益山の地は,三国時代百済の遺跡が多い。金馬面の街の南郊1kmほどのところには,幅約230m,長さ約450mの長方形平面をした土塁があり,益山王宮址と推定される。その南郭の王宮里廃寺跡には,五重石塔が残る。そこから,東方に約1.5kmのところにも,帝釈寺跡がある。王宮里から北方6kmあまりの弥勒山には,山城が築かれている。弥勒山の南西麓で,金馬面の街からは北西方に約3kmのところには,弥勒寺址があり,朝鮮半島で最大級の石塔が現存する。この塔の東方でも塔跡がみつかったが,東西2塔の中間で北寄りのところに,別の建物跡が知られ,3院からなる特殊な伽藍配置を示す。弥勒寺址の北西方およそ3km,蓮洞里には,光背を備えた石仏座像がある。また,弥勒寺址の直南3kmあまり離れたところに,石旺里双陵と呼ばれる大小2基の円墳があり,百済の武王とその後妃の陵とする伝承がある。これらの遺跡群は,主として百済後期の所産であり,京都市青蓮院所蔵の《観世音応験記》に,〈百済武広王遷都〉とみえることなどから,益山の地を,7世紀前半の武王の時期の別都とする見方が強くなっている。益山はまた,百済に先立つ馬韓50余国のなかの乾馬国に比定されている。また益山郡多松里出土の多鈕(たちゆう)粗文鏡をはじめ,数ヵ所の青銅器の出土地としても知られる。                    西谷 正

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73キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:53:03
円空 1632‐95(寛永9‐元禄8)
えんくう

江戸初期の遊行造像僧。美濃国(岐阜県羽島市上中町)の生れ。若くして出家,尾張国(愛知県)師勝村の高田寺で金剛・胎蔵両部の密法を受け,諸国遊行の旅にでる。1664年(寛文4)ころまで美濃地方にいて名古屋荒子観音寺などで造像,65年蝦夷(えぞ)地に渡る。74年(延宝2)には志摩半島,その後は美濃・飛舞地方に入り,袈裟山千光寺や山間僻地(へきち)に多くの仏像をのこす。89年(元禄2)には伊吹山,日光などに遊行,翌90年ふたたび美濃・飛舞地方にもどって晩年の円熟した彫像を刻む。生涯,東日本を遊行し,造像活動をつづけた。円空の没年は岐阜県関市の弥勒寺にある墓碑銘から明らかであり,生年については不明であったが,上野国(群馬県)一宮の貫前(ぬきさき)神社旧蔵の写経の断簡に〈壬申生美濃国円空(花押)〉とあることから,1632年の生れであることが判明した。円空は12万体の造像を発願して,多くの木彫仏を特異な彫法で刻んだ。現存作だけでも5000体を数える。丸木の原材をいくつかに割り,割った面を巧みに生かして,そこに岩肌のような面(プラン)の構成を生み,正面性を強調した。その〈鉈(なた)ばつり〉といわれる荒彫り彫法の生むバイタルな表出は,現代造形の根底を刺激して大いに注目された。             丸山 尚一

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74キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:53:43
往生
おうじょう

この世で命をおえたのち,他の世界に往(い)って生(しよう)を受けること。とくに念仏の功徳(くどく)によって,臨終のとき阿弥陀仏の来迎にあずかり,阿弥陀仏の国土である西方の極楽浄土に往き生まれること。往生を願うことを願生,願往生といい,往生する人を往生人という。往生を願う浄土の種類によって極楽往生(阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること),兜率天(とそつてん)往生(弥勒菩醍の兜率天に往生すること),補陀落(ふだらく)往生(観音菩醍の補陀落山(せん)に往生すること),浄瑠璃(じようるり)往生(薬師如来の浄瑠璃世界に往生すること),そのほか釈梼の霊山(りようぜん)および無勝荘厳(むしようそうごん)国に往生するもの,毘盧遮那(びるしやな)仏の蓮華蔵(れんげぞう)世界に往生するものなどに分けられる。また,浄土に往生するための方法として念仏往生(阿弥陀仏のみ名を称えることによって往生する),諸行(しよぎよう)往生(念仏以外の諸善行(ぜんぎよう)により往生する),助念(じよねん)往生(念仏の助けとして諸善行を修めて往生する),聞名(もんみよう)往生(仏の名を聞き信じて往生する)などがある。また特異な往生の方法として,自然な死期をまたずに焼身,入水,埋身といった自殺的行為により往生するものがあり,これらを異相往生という。日本で古くより広く信仰されたのは,浄土教に説く極楽往生である。奈良時代における極楽往生観は死者に対して縁者がその冥福を祈り,死者が極楽浄土に往生することを願うという,追善的な性格を有するものであった。平安時代中・末期に至って,律令体制の動揺から生じた社会秩序の混乱に,末法思想による末世の到来という精神的不安が重なって,人々は現世を穢土(えど)(穢れた国土)と観ずるようになり,来世に安らぎを求めるようになっていった。死者の追善ではなく,自身が極楽に往生できることを願ったのである。この願望から人々の間で,阿弥陀仏のはたらきとしての来迎引接(らいごういんじよう)(阿弥陀仏が臨終に来迎して,浄土へ引導接取すること)が強く想念された。来迎引接(摂)を絵画化したのが来迎図であり,儀礼化したのが迎講や来迎会である。立形の阿弥陀仏像が造られ,法然の教団では重視された。《観無量寿経》に極楽浄土に往生するものに9等の段階(九品(くぼん)。上品,中品,下品のそれぞれに上生,中生,下生の3等がある)が説かれ,どのような悪人でも称名によって下品下生者となれるとあるので,下層社会でも往生願生者を広く育てた。《日本往生極楽記》《続本朝往生伝》などの〈往生伝〉にはさまざまな往生人とその信仰生活が記されている。鎌倉時代に入ると,法然,親鸞などの新仏教の教祖たちにより他力本願,悪人正機,女人往生などの思想が打ち出され,浄土教帰依者は社会的身分,職業に関係なく急増した。これ以降,日本人の来世観に極楽往生の観念が定着していった。しかし往生が死を契機として説かれていたため,後世その意味が転用され,〈この世を去ること,死ぬこと〉〈困り果てること,閉口すること〉を,〈往生する〉というようになった。    伊藤 唯真

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75キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:54:46
大峰山
おおみねさん

紀伊山地の中央を南北にのびる脊梁山脈が大峰山脈で,広義の大峰山は大峰山脈の峰々をさし,狭義にはその北部の主峰山上ヶ岳(1719m)をさす。大峰山脈は北の吉野山から南の玉置山まで,南北約50kmの山地で,近畿地方の最高峰八剣(はつけん)山(1915m,仏経ヶ岳,八経ヶ岳ともいう)をはじめ,北から大天井ヶ岳(1439m),山上ヶ岳,大普賢岳(1780m),弥山(みせん)(1895m),釈梼ヶ岳(1800m),大日岳(1593m)などの峰々が連なり,大和アルプスともいわれる。山地の地質は,北部は古生層,中部以南は中生層を貫いた大峰酸性岩類と呼ばれる石英粗面岩などが分布している。山頂にはお花畑があり,山頂からの眺望が雄大である。山上ヶ岳は古くから西日本の修験道の根本道場で,信仰の山となっており,今も女人禁制の霊山である。山の戸開き(5月8日)から戸閉め(9月27日)まで,大山参りとか大峰参りといわれる白衣姿の信者の登山でにぎわう。登山路は下市口から洞川を経るコースが一般的で,1970年に登山口の竜泉寺まで自動車道が通じて清浄大橋まで女性も入れるようになり,竜泉寺の境内も女性に開放されるようになった。
                  水山 高幸+清水 弘

[信仰]  吉野から熊野に連なる大峰連峰は,中世以来修験道の根本道場とされてきた。平安朝以来多数の修行者が吉野,熊野に入山し修行を続けてきたが,御嶽詣,熊野詣に在俗者の参詣が多くなると修行者たちはさらに奥山に入り修行するようになった。修行者たちの集団化がすすみ修験道が形成され,その修行形態も山岳抖芹(とそう)に重点がおかれたものとなるにつれて大峰連峰各所に散在する行場に宿が設けられるなど相互に関連づけられていった。こうして熊野,吉野を結ぶ行場が成立し,近世以降はほぼ大峰七十五靡(なびき)(宿)として固定した。行場はおもに岩場,洞窟,滝,池などによって構成され,蔵王権現,不動明王,金剛童子,神変大菩醍をはじめとする多数の諸仏諸神や高祖開祖がまつられている。75靡は熊野本宮(1番),那智山(2番),熊野新宮(3番)に始まり,玉置山(10番),深仙の宿(38番),孔雀ヶ岳(42番)の両部分け岩によって吉野側の金剛界と熊野側の胎蔵界に分けられ,八経ヶ岳(51番),弥山(54番),弥勒ヶ岳(61番),笙の岩屋(62番),小笹の宿(66番)を経て山上ヶ岳(67番)に至る。さらに愛染の宿(70番),金精明神(71番),吉野蔵王堂(73番)を経て柳の宿(75番)をもって終わる。このうち山上ヶ岳には大峰山寺(山上本堂)や役行者(えんのぎようじや)が蔵王権現を出現させたとする涌出岩のほか表行場,裏行場など多数の行場がある。小笹の宿は聖宝が竜樹菩醍から秘伝を伝授されたといわれる場所で,当山派入峰修行の最大の拠点となっている。一方,本山派では深仙灌頂を行う深仙の宿が最も重要なものとされている。                宮本 袈裟雄

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76名無しさん:2013/07/20(土) 22:56:49
鹿児島神宮
かごしまじんぐう

鹿児島県姶良(あいら)郡隼人町に鎮座。祭神は天津日高彦穂々出見命,豊玉姫命,相殿に品陀和気尊ほか4座。式内社,旧官幣大社。一名正八幡宮(大隅宮)。708年(和銅1)現地に遷座したと伝える。承平の乱で八幡神を配祀した。八幡の陳王伝説を流布させて社領を増加させ,中世に将軍の寄進を受け,近世には黒印領200石。6回の災にあい,現社殿は1756年(宝暦6)島津重年の改造によるもの。神宮寺は弥勒院と号したが,近世末に廃絶した。1874年鹿児島神宮に改称。例祭日旧8月15日。隼人舞等の芸能がある。    中野 幡能

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77キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:57:27
笠置山地
かさぎさんち

大和高原ともいう。奈良県の北東部と京都府,三重県が隣接する付近を南北にのびる山地。山地の標高は北部で200〜300m,南部で500〜600m,ほぼ400〜500mの高原状の山地で,鮮新世初めに形成された準平原が隆起して,隆起準平原となったものである。多くの断層が見いだされ,西は三百断層(春日山断層)で奈良盆地と,北は木津川断層に沿う木津川峡谷により信楽(しがらき)山地と,南は名張断層に沿う宇陀川の河谷によって竜門山地と,東は花ノ木断層,笠間断層などの雁行する断層により上野盆地と接している。山地の地質は領家複合岩が広く分布するが,南東部に室生火山群の貝ヶ平山,額井(ぬかい)岳などがみられる。高原状の地形を利用して,広い谷底に多くの集落が立地し,水田のほか,茶園,抑制野菜の栽培などに利用されている。またゴルフ場もみられる。山地の北端にある笠置山(288m)は京都府に属し,風化しやすい花コウ岩よりなり,山腹は険しく,山頂には多くの巨岩がある。山頂の笠置寺は,平安時代から弥勒信仰の地として栄え,南北朝時代には後醍醐天皇の行在所(あんざいしよ)がおかれた。山全体が史跡,名勝に指定され,笠置山府立自然公園に含まれる。山地の西部は大和青垣国定公園に指定されている。  水山 高幸

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78名無しさん:2013/07/20(土) 22:58:38
笠置寺
かさぎでら

京都府相楽郡笠置町の笠置山頂にある寺。笠置山は木津川の南岸にあり,奈良県の柳生街道に面した登山口から登ると,本坊,弥勒石・薬師石・文殊石・虚空蔵石の石仏群があり,弥勒石の後山に後醍醐天皇の行在所(あんざいしよ)跡がある。笠置寺ははじめ法相宗に属したが,現在は真言宗智山派。山号は鹿鷺山。磨崖の弥勒菩醍石像を本尊とする。開創について《今昔物語集》《東大寺要録》などは天智天皇の皇子によると伝えるが,確かなことはわからない。高さ15.7m,幅12.7m の弥勒像をはじめとする石仏群は,奈良時代末の製作とされ,そのころ寺院ができたものと考えられる。東大寺の良弁(ろうべん)がここで秘法を修し,空海もここにこもったと伝えられるが,優婆塞(うばそく)や聖(ひじり)が多く集まっていたらしい。平安時代には,弥勒信仰の中心として知られ,吉野の金峰山と並ぶ修験の霊場となり,花山院や藤原道長をはじめ貴賤の参詣がさかんになった。さらに鎌倉時代初頭,興福寺の貞慶がここに隠退してから,諸堂が建立され,住僧も増加した。ついで東大寺の宗性が貞慶の跡を慕って入山し,ここで弥勒信仰に関する多くの書を著した。1331年(元弘1),元弘の乱の際には後醍醐天皇は,東大寺別当聖尋の計らいでここを行在所(あんざいしよ)とし,笠置山が戦場となったため,伽藍のほとんどが焼失した。室町時代に入って修験道の中心として復興されたが,再び火災にあい,現在の正月堂(本堂,懸崖造),毘沙門堂,大師堂は15世紀末の造営とされる。江戸時代には藩主藤堂家の保護で維持され,現在はかつての子院の一つである福寿院を笠置寺と改称し,重源の寄進になる建久7年(1196)の銘文のある銅鐘,貞慶筆と伝える《地蔵講式》《弥勒講式》各1巻をはじめ,南北朝時代の古文書など,数多くの文化財を伝えている。                    大隅 和雄

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79名無しさん:2013/07/20(土) 22:59:21
笠置山
かさぎやま

京都府南部,相楽郡笠置町にある山。標高288m。木津川南岸に位置し,西側を白砂川,今川,東側を布目川が流れ,いずれも深い峡谷を形成し,南へは尾根が続き柳生へ通じている。黒雲母花コウ岩からなる険しい山で,ふもとから山頂まで各所に絶壁,巨岩がある。山上に笠置寺や,虚空蔵石などの石仏群があり,平安時代には弥勒信仰の中心として尊崇を集めた。北麓に笠置温泉があり,西側山麓を中心に旅館などが多い。
                        金田 章裕

[信仰]  元弘の乱において後醍醐天皇は笠置山に入って倒幕の挙兵をした。それは地理的な条件以上に笠置寺を中心とする修験,山伏の勢力に期待してのことであったと考えられている。元弘の乱を含めた南北朝の内乱において,吉野,熊野を中心とした修験者の活躍には目覚ましいものがあったが,笠置山も1194年(建久5)に南都の解脱上人貞慶が般若台院を設けて中興して以来,修験道場として一大勢力を形成していた。平安中期以来,吉野,大峰,熊野が修験道の根本道場となるに及んで吉野金峰山を弥勒兜率天の内院,笠置山をその外院とする考えが示すように,この山は弥勒浄土の霊場と想定され,山中の30宿の行場をめぐる抖芹(とそう)修行も成立した。また金峰山への御嶽詣が盛んになるにつれて,その代行地,前行地とされた。しかし元弘の乱によって一山はことごとく灰燼(かいじん)に帰してしまい,1381年(弘和1‖永徳1)に笠置寺が再建されたものの,かつての繁栄を再現するまでには至らなかった。
                      宮本 袈裟雄

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80名無しさん:2013/07/20(土) 23:00:20
鹿島踊
かしまおどり

履城県鹿嶋市鎮座の鹿島神宮の信仰を持ち歩いた〈鹿島の事触(ことぶれ)〉と称する宗教芸能者が広めた歌舞。歌に〈誠やら鹿島の浦に弥勒(みろく)お舟がついたやら〉と弥勒菩醍の来訪を賛美する詞章があるところから弥勒踊ともよばれる。神奈川県の湘南海岸から静岡県伊豆半島の東海岸にかけて分布する鹿島踊は,烏帽子・白丁(はくちよう)姿の青年がひしゃくや日月を象徴する採物(とりもの)や白幣などを持ち,太鼓・鉦のリズムにのって陣形を変えながら踊るもので,履城・千葉県には年輩の婦人集団や少女たちが円陣になって踊る弥勒踊や鹿島踊もある。他に東京・埼玉・長野県などにも点在するが,東京都西多摩郡奥多摩町小河内(おごうち)の鹿島踊は《三番叟(さんばそう)》から始まる古風な歌舞伎踊で注目される。なお歌舞伎舞踊にも鹿島神人の事触を舞踊化した長唄曲があり,本名題《四季詠寄三大字(しきのながめよせてみつだい)》,1813年(文化10)江戸中村座で3世坂東三津五郎初演。《俄(にわか)鹿島踊》ともいう。⇒鹿島信仰           山路 興造

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81名無しさん:2013/07/20(土) 23:04:06
鹿島信仰
かしましんこう

〈かしま〉という地名は,鹿島,神島と表記され,全国的に分布しているが,共通するのは,海辺に近く,海と陸地との接点あるいは境界領域に位置していることである。陸地のさいはての地域あるいは最先端の場所と意識されている。その中でも履城県鹿島地方は,古代より,大和朝廷を中心とした畿内の地域からみると,東国の涯(はて)とみなされていた。そうしたイメージを基礎として,鹿島には二つの民俗信仰が形成された。一つは,鹿島の地にさまざまの漂着神がたどりつき霊力を発揮したというものである。鹿島・香取神宮の祭神や,大洗磯前(いそざき)明神をはじめ,大小の漂着神をまつる神社が,鹿島とその周辺地域にまつられている。近世初期に,弥勒の舟がこの地に着き,ミロクの世が出現するという信仰も広まっていた。これは,鹿島神宮の大物忌と称する巫女王の託宣による予言が基礎となっている。鹿島の事触(ことふれ)たちが,鹿島の予言を東日本の各地に伝播させていったときに,救い主弥勒の乗った船の到来も告げられたのである。弥勒仏の到来を鑽仰(さんぎよう)する弥勒踊は,現在も鹿島地方に濃厚に分布している。さらに鹿島の神が流行病などの災厄を払ってくれることを説いた鹿島踊も派生しており,鹿島踊と弥勒踊は,伝播する過程で習合した形で地域社会に受容された。

 第2に,鹿島の地に,さまざまの災厄を追い払おうとする鹿島送りの信仰が展開した。鹿島送りは,東日本の各地にみられる人形送りの民俗である。6〜7月ごろに集中しているが,等身大の人形を作り,この人形を中心に行列を作り,村中を練りまわった後,人形を浜辺か川辺で流してしまう。このとき人々が踊った踊りが,形式化して鹿島踊となったらしい。人形は災厄がこめられた悪神であり,この悪神を,現世の周縁部にあたる鹿島の地へ送りこむという神送りの形式を示している。災厄を送り出す代りに幸運をもたらしてくれる,そうした境の両義的性格が鹿島信仰の特徴といえる。⇒鹿島踊‖鹿島神宮‖弥勒信仰        宮田 登

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82名無しさん:2013/07/20(土) 23:05:14
梼葉山
かしょうざん

群馬県北部,沼田市北部にある山。標高1322m。第三紀中新統のレキ岩,砂岩からなり,浸食が激しく奇岩,怪石が多い。中腹900mに梼葉山竜華院弥勒寺がある。創建は不詳で,はじめは天台宗であったが,天巽(てんそん)慶順禅師により曹洞宗に改宗,1456年(康正2)伽藍が建立された。天巽に随伴したという神童の神通力を象徴して天狗信仰が盛んで,顔の長さ5.5m,鼻の高さ2.7mの大天狗面がある。関東三天狗(ほかに高尾山,古峰原(こぶがはら))の一つであり,養蚕,商売繁盛に霊験があるとして年間数十万の講組織の参詣者がある。夏季は好ハイキングコースとして登山者も多い。ブッポウソウが鳴く静かな山で,上田秋成の《雨月物語》にも記される。付近に玉原(たんばら)温泉がある。              徳久 球雄

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83名無しさん:2013/07/20(土) 23:05:58
勝尾寺
かつおじ

大阪府箕面市粟生(あお)の山中にある真言宗の寺。山号は応頂山。本尊は十一面観音。西国三十三所第23番札所となっている。寺の縁起では奈良末の山林修行者善仲・善算および開成(かいじよう)皇子を開基とし,もと弥勒寺と称したという。880年(元慶4),清和太上天皇が〈摂津国勝尾山〉に巡幸したと《三代実録》にあるのが史料上の初見である。平安末,叡山浄土寺門跡に属する天台寺院で,十一面観音,薬師如来を本尊とした。源平争乱のとき源氏に焼打されたのを復興。1230年(寛喜2),寺領山林四至を確定して司示の〈八天石蔵〉を築造し,その遺構は国の史跡に指定されている。付近の箕面の滝とともに北摂の紅葉の名所で,訪れる人が多い。当寺には寺宝の仏像・経巻等のほかに,約1200点の中世文書を主とする〈勝尾寺文書〉が所蔵され,寺領山林関係の公文書や寄進状,書状,寺院記録など,豊富な中世史料を伝えている。                戸田 芳実

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84名無しさん:2013/07/20(土) 23:06:48
金沢実時 1224‐76(元仁1‐建治2)
かねさわさねとき

鎌倉中期の武将。北条実泰の子,執権義時の孫にあたる。官位は越後守,従五位上。幕府の小侍所別当,引付衆,評定衆,引付頭,越訴奉行(おつそぶぎよう)などを歴任。1275年病により自領の武蔵国六浦(むつら)荘金沢の館に引退し,翌年10月没した。武芸とくに騎射に優れたが,学問にも早くから関心をよせ,儒家清原教隆に師事して経史,律令を学び,これを政道に生かすことにつとめたが,勉学の範囲は政治,法制にとどまらず農政,軍学,文学の分野にも及んだ。その書写校合,収集したたくさんの和漢の書物は金沢に引退したおり鎌倉から移され,金沢文庫の基をつくった。また金沢の居館に隣接した東谷に阿弥陀堂を建立して父母の菩提を祈ったが,のち西大寺の叡尊に帰依して67年(文永4)これを律院称名寺と改め,発展させた。現在の称名寺の本尊弥勒菩醍立像(建治2年銘,重文)は実時の発願により造立されたものであろう。墓所は同寺境内の山腹にある。
                        前田 元重

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85名無しさん:2013/07/20(土) 23:08:02
花郎
かろう

朝鮮,新羅の青年貴族集会の指導者。上級貴族の15,16歳の子弟を花郎として奉戴し,そのもとに多くの青年が花郎徒として集まって集会を結成していた。花郎に奉戴された者は,半島統一の英雄金輝信(きんゆしん)を含め新羅滅亡までに200余人を数え,各花郎に属した花郎徒はそれぞれ数百人から1000人に及んだと伝えられている。彼らは平時は道義によってみずからを鍛え,歌楽や名山勝地での遊楽を通じて精神的,肉体的修養に励んだ。そして戦時には戦士団として戦いの先頭に立ち,活躍した。その起源について,《三国史記》《三国遺事》ともに真興王代(540‐576)の制定によるものと伝えているが,川前里書石(慶尚南道蔚州郡)の〈乙巳年銘文(525)〉に花郎と思われる人名がみられ,法興王代(514‐540)にはすでに存在していた可能性が強い。その原型は部族社会の青年集会に求められるが,6世紀初頭における新羅の国家的発展の過程で,花郎を中心とする青年戦士の集会に変化し,国家的公認を受けたものと思われる。自己犠牲の精神を養う花郎集会は,国家にとっては人材の養成,登用のための格好の組織であった。花郎は新羅固有の習俗に根ざすものであったが,同時に儒・仏・道三教と結びついて独自の発展をとげた。特に弥勒信仰の影響のもとに寺院,僧侶と密接な関係をもった。また神仙思想と結合して,やがてその習俗は〈風流〉〈風月道〉と称され,花郎も〈国仙〉〈仙郎〉と称されるようになった。             木村 誠

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86名無しさん:2013/07/20(土) 23:08:48
経塚
きょうづか

経典を主体として埋納したところ。写経供養の一形態で,古来,慈覚大師円仁(794‐864)を創始者に擬しているが,確証はない。今日知られている最も早い確実な事例は,藤原道長が1007年(寛弘4)に金峰山(きんぷせん)(奈良)に埋納した例で,発見された経巻,経筒は《御堂関白記》の記事と一致している。埋めたのは紺紙金字の法華経(開結とも),阿弥陀経,弥勒経,般若心経であるが,これらの経巻が竜華の晨,すなわち56億7千万年の後,弥勒が世に出る時まで伝えられることを念じている。また,願意として仏恩報謝,出離解脱,極楽往生などがうかがえる。なお,これより早く,覚超の《修善講式》(989)には,経巻を卒概婆の基に仏画や名帳とともに埋めることが記されているが,経巻を主体としていない。一方,中国には経塚と考えられる遺跡は未発見であるが,朝鮮半島では近時になってわずかながら高麗時代と思われる例が注意されはじめている。しかし,正確な年代,製作意図などは不明であり,現時点では,〈経塚は日本で10世紀の終りごろ,末法思想を背景に,浄土教の発達に伴う仏教的作善業の一種として始められた〉とするのが妥当な考え方であろう。その後1031年(長元4)に慈覚大師の如法経保存の手段として埋納のことが相談されたが,これを契機に経塚の営造は如法経書写供養と密接な関係を持つようになり,急速に全国に広まった。やがて願意にも現世利益,追善供養,災害防止などが加わったが,16世紀以降には廻国納経の流行に伴い,その一手段としても用いられた。江戸時代には礫石経(一字一石経)経塚が全盛を示したが,経塚は今日も営まれつづけている。

 経典は法華経が圧倒的に多く,無量義経,観普賢経,阿弥陀経,弥勒経,般若心経などがこれに次ぐ。その他,大日経,金剛頂経,蘇悉地経,金光明経,仁王経,理趣経などもあり,大般若経,一切経といった大部の埋納例もある。材質面では紙本経が一般的であるが,埋めるという経塚の特色に即して,瓦経(粘土板に錐などで書いて焼いたもの),銅板経(銅板に刻したもの),滑石経,青石経(青石に刻したもの),貝殻経,礫石経などがある。これらのうち,紙本経は銅製の筒形容器(経筒)に納めて埋めることが多いが,木製,竹製,鉄製,石製,瓦製,陶製,磁製などもあり,また箱形もある。なお,ていねいな場合は,さらに外容器(外筒)に収めている。経典に副えて埋めたものには鏡,利器,合子,銭貨,仏像,図像,仏具,さらに檜扇,侯,提子,小皿,硯,鋏,水滴,火打鎌,兜,鈴などがあるが,これらの組合せや数量は各経塚によって異なる。

[遺跡,遺構]  各時代を通じて,社寺となんらかのつながりをもつ所,すなわち社寺境内やその近傍,あるいは霊地と目されている所を選んでつくられているが,一方,墳墓の近くや,江戸時代には路傍などにも営まれた。構造は一概には言い難いものの,小石室を構築したものと,単に土壙を穿ったのみのものとに分けられ,盛土,盛石をしているのが普通である。ほかに岩陰や岩窟など自然地形を利用した例もある。また,単独経塚と,同一地域内に複数の経塚が営まれた経塚群とがあり,後者には同時,または比較的短い期間をおいてつくられたものと,長期にわたって営まれたものとがある。おもな経塚は,次のとおりである。福島県米山寺経塚,履城県東城寺経塚,東京都白山神社経塚,山梨県柏尾山経塚,石川県蓉岳(おいずるがたけ)経塚,静岡県伊豆山神社経塚,三重県朝熊山(あさまやま)経塚,滋賀県横川経塚,京都府鞍馬寺経塚,花背経塚,稲荷山経塚,奈良県金峰山経塚,和歌山県熊野三山経塚(本宮・新宮・那智),高野山経塚,粉河経塚,比井経塚,大阪府槙尾山経塚,鳥取県倭文(しどり)神社経塚,岡山県安養寺経塚,愛媛県奈良原山経塚,福岡県四王寺経塚,武蔵寺経塚(図),永満寺経塚,求菩提(くぼて)経塚,佐賀県背振山経塚など。                    三宅 敏之

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87名無しさん:2013/07/20(土) 23:09:45
行人塚
ぎょうにんづか

行人塚は供養塚に属するものと行者・修験者の自埋入定(にゆうじよう)を伝える塚とに大別でき,供養塚でありながらも後に入定伝説が付着したものもある。入定伝説をもつ塚は行人塚のほか,入定塚,山伏塚,法印塚,念仏塚などとも呼ばれ,関東地方を中心として東日本に多く分布している。入定した後の数日間は読経,念仏,鉦をたたく音が聞こえたとも伝えられる。入定の例としては,湯殿山の一世行人と称される修験の入定がよく知られており,現在即身仏としてまつられている本明海上人の場合は,一千日の十穀断ちなどの木食行をした後に61歳で入定したと伝えられている。入定者は死後に神としてまつられ,生前の誓願によって各種の効験を示す。この信仰は弥勒信仰の衆生救済観にもとづき,空海の入定信仰の影響を受けて成立したといえる。なお供養塚としての行人塚は千葉県下の出羽三山登拝者が築く塚が代表的なものといえる。         宮本 袈裟雄

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88名無しさん:2013/07/20(土) 23:10:54
金峰山
きんぷせん

奈良県中部,吉野の金峰山は修験道発祥の山として知られ,全国に分布する金峰山やそこにまつられる蔵王権現は,この吉野金峰山を模倣し勧請したものである。金峰山の境域は明確ではなく,およそ吉野山から大峰山にかけての山々を指すが,本来は青根ヶ峰(858m)を主峰とし,その信仰も神奈備(かんなび)信仰に発したと思われる。しかし忿怒相で火索を背負う金剛蔵王権現が主神となるに及んで,山上蔵王堂が存在する山上ヶ岳が金峰山の主峰になったのである。吉野金峰山は奈良時代末より平安時代中期にかけて多くの修行者が入山し,吉野の愛染,岩倉を中心に多数の堂塔が造立され修験の一大勢力を形成した。また古くから〈金の御嶽(かねのみたけ)〉と呼ばれ,黄金を蔵する山とする観念があり,さらには弥勒浄土の兜率天(とそつてん)内院に擬されて宇多法皇,白河上皇の御幸をはじめ,藤原道兼,道長,師通なども参ったほど御嶽詣が流行した。なかでも1007年(寛弘4)の道長の御嶽詣,納経は世に広く知られている。

 蔵王権現はすでに9世紀に出現しているが,後に修験道の開祖役行者(えんのぎようじや)(役小角(えんのおづぬ))の蔵王権現感得譚が流布したこと,山上ヶ岳より出土した多数の遺物のうち神仏像の大半が蔵王権現であること,江戸時代の制作が多いものの,蔵王権現を中央に配し,天満天神,佐抛明神,子守明神,勝手明神,役小角,八王子などを描いた吉野曼荼羅が存在することなどからも蔵王権現に対する信仰の強さがうかがわれる。また吉野山は空海や聖宝との関係から修験道当山派の拠点とされてきた。   宮本 袈裟雄

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89名無しさん:2013/07/20(土) 23:12:20
玄中寺
げんちゅうじ

中国,山西省交城県の標高900mにある寺。文水に面した石壁山の山号をもつ玄中寺は,中国でもっとも由緒ある浄土教の寺院である。北魏の曇鸞(どんらん)が,浄土教へ回心して,晩年にこの寺に住した。のちに涅槃経を修めていた道綽(どうしやく)が,609年(隋の大業5)48歳のときにこの寺にきて曇鸞の碑文をよみ,浄土教に帰したとされる。さらに善導が,この寺に道綽を訪ねて教えを請うた。つまり浄土宗の三祖ゆかりの仏跡として知られる。唐代には隆盛をきわめ,795年(貞元11)には甘露義壇が設けられ,長安の霊感壇,洛陽の会善壇と並んで天下三戒壇の一つとなった。大雄宝殿の前庭に〈石壁山鉄弥勒像頌碑〉と〈唐石壁禅寺甘露義壇碑〉の二つの唐碑があり,七仏殿には印相の異なる7体の阿弥陀如来像が並び,また日本から贈られた曇鸞・道綽・善導三師の画像をまつる三祖堂もある。            礪波 護

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90名無しさん:2013/07/20(土) 23:13:27
広隆寺
こうりゅうじ

京都市右京区にある寺。山号は蜂岡山。別に太秦寺(うずまさでら),蜂岡寺,川勝寺,秦公寺(はたのきみでら)ともいい,俗に太秦の太子堂と呼ばれる。真言宗別格本山。秦河勝(はたのかわかつ)が,603年(推古11)に聖徳太子から仏像をさずかり,その像を安置するため622年に創建したのが当寺で,京都では最古の寺院の一つである。創建当初の寺地は,いまの場所から北東数kmの地点とされ,現地には平安遷都時あるいはそれ以前に移った。秦河勝は当寺付近の損野(かどの)一帯の地域に勢力をもった渡来系氏族の秦氏の首領であって,秦公寺の別称が示すように,当寺は聖徳太子ゆかりの秦氏の氏寺として,歴史の幕をあけた。だが,818年(弘仁9)に全焼,840年ごろ(承和年間)に道昌僧都が再建したが,1150年(久安6)再び全焼,65年(永万1)藤原信頼が中心となって再興したが,往古の伽藍の制はいまはない。近世まで三論・真言兼学の寺で,朱印高は600石,塔頭(たつちゆう)10余ヵ寺を数えたが,明治維新によって諸院の多くは廃絶した。秦氏が衰退した以後の当寺は,秘蔵する仏像の霊験を宣伝して,信仰の寺として寺運を保った。信仰の中心は古代・中世・近世を通じて薬師信仰と聖徳太子信仰だった。病気平癒の現世利益を願う薬師信仰は,平安初期から当寺安置の薬師如来の霊験が世にきこえ,貴賤が群参し参籠する風が広くおこった。また,太子を神格化する聖徳太子信仰は,とくに鎌倉時代から高まり,当寺はその中心寺院の一つとなって寺運を一時もりかえした。太子像を安置した上宮王院(しようくうおういん)(太子堂)や桂宮院(けいくういん)の八角円堂が太子信仰の中心となり,当寺にちなむ種々の太子の伝承が生まれ,また足利将軍家歴代の保護も続いた。なお,有名な〈太秦の牛祭〉は,当寺の伽藍神である大酒(おおさけ)神社の祭礼で,毎年10月12日の夜に境内で行われる。当寺の僧侶5人が異形の面をつけ,そのうち1人は摩押羅神(まだらじん)となって牛に乗って境内を一巡し,仮金堂の前の祭壇に登って奇妙な祭文を読みあげ,終わると堂の中に駆け込んでこの祭りは終わる。摩押羅神の異形な面をかたどった紙の面が,悪疫除災のお守りになるといわれ,参詣者に売られる。京都の三奇祭の一つである。摩押羅神は慈覚大師が入唐のとき,勧請し持ち帰った神だといわれ,はじめ叡山にまつられたが,のち当寺に移され,この祭りが生まれたという。
                         藤井 学

[美術]  境内には八角円堂である桂宮院本堂(国宝・鎌倉時代)や講堂(重要文化財・1165)のほか,楼門,上宮王院本堂,宝物殿などがある。宝物殿では2体の木造弥勒菩醍半跏像(国宝・飛鳥時代),十二神将像(国宝・平安時代後期)をはじめ多くの古仏や絵画・書籍が公開されている。軽くほおに指をあてうつむきかげんに思いをこらす弥勒の姿は,隋様式になるもので,韓国国立中央博物館所蔵の銅造半跏像との類似が指摘されている。講堂内には,本尊阿弥陀如来座像,不空羂索観音立像,千手観音立像(いずれも国宝・平安時代初期)をはじめ地蔵菩醍像,虚空蔵菩醍像などが安置されている。            益田 兼房

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91名無しさん:2013/07/20(土) 23:14:50
小谷喜美 1901‐71(明治34‐昭和46)
こたにきみ

宗教法人霊友会初代会長。神奈川県三浦に生まれ,1925年に霊友会の教祖となる久保角太郎の実兄小谷安吉と結婚。久保の教導にふれ,霊友会創立につくし,30年7月会長に就任,布教に専念して,社会奉仕活動に尽力,霊友会の基礎をきずいた。64年には伊豆遠笠山に弥勒山を建立。霊友会は,夫と妻両家代々の先祖をまつる先祖供養を説き,戦後の新宗教に大きな影響をあたえた。                     大濱 徹也

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92名無しさん:2013/07/20(土) 23:15:45
蔵王権現
ざおうごんげん

金剛蔵王菩醍ともいう。修験道の開祖役行者(えんのぎようじや)が金峰山(きんぷせん)の頂上で衆生済度のため祈請して感得したと伝える魔障降伏の菩醍で,釈梼仏の教令輪身。胎蔵界曼荼羅虚空蔵院の金剛蔵王(こんごうぞうおう)菩醍とは別体。形像は一面三目二臂(ひ),身色青黒の忿怒形(ふんぬぎよう)で,左手は剣印を結んで腰につけ,右手は三鈷杵(さんこしよ)を奉持して頭上高く掲げ,左足は磐石を踏み,右足は空中に躍らす。役行者の祈請により山上湧出岩から躍り出たそのときの姿を表したものとされる。経軌(きようき)には見えず,日本の山岳信仰の中で生まれた独自の権現で,磐境(いわさか)の巨石信仰に由来すると思われる。《本朝法華験記》に,849年(嘉祥2)に没した僧転乗が生前金峰山の金剛蔵王宝前に参詣した話を載せているので,平安初期に奉斎されていたことは確実である。平安中期に弥勒(みろく)信仰が盛んになり,金峰山は弥勒浄土の兜率(とそつ)内院に擬せられ,金剛蔵王は弥勒の化身とされた。これによって御嶽詣(みたけもうで)するものが多く,金峰山は天下第一の霊験所,蔵王は日域(日本)無二の化主とまでいわれた。修験道の隆盛,普及にともない,その本尊として諸国の霊山に勧請,奉斎された。最古の像は東京都総持寺(西新井大師)所蔵の毛彫鏡像(国宝)で,1001年(長保3)の作である。           鈴木 昭英

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93名無しさん:2013/07/20(土) 23:17:15
慈恩寺
じおんじ

山形県寒河江市にある慈恩宗本山,現在3院17坊からなる寺の総称。山号は瑞宝山。寺伝に746年(天平18)婆羅門僧正の開基といい,今日まで法相宗の法式を伝える。平安末にはこの地方の荘園の主摂関家の力に負い,寒河江荘の大寺として繁栄した。閑寂なたたずまいの萱葺きの本堂(弥勒堂)を中心に,平安末期,鎌倉期,室町期の諸仏像,中世の仏具,絵画,文書などを多く伝蔵する。また,平安末の慈恩寺一切経は,宮城県名取新宮寺一切経の一部として伝存している。江戸時代には朱印寺領2812石を得,衆徒22ヵ寺,宮仕役僧6人を支配していた。一子相伝の名のもとに伝承された林家の舞楽の奉納が,毎年5月8日に行われる。                竹田 賢正

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94名無しさん:2013/07/20(土) 23:19:55
貞慶 1155‐1213(久寿2‐建保1)
じょうけい

鎌倉初期の法相宗の僧。解脱上人と号する。藤原貞憲の子で,保元の乱の立役者信西の孫にあたる。1162年(応保2)8歳で南都に下向,11歳で出家して以来,82年(寿永1)28歳で維摩会の研学竪義,86年(文治2)32歳で維摩会講師を務めるなど,興福寺学侶としての栄達の道を進んだ。この間,九条兼実をはじめとする貴族の帰依も得たが,92年(建久3)生涯の転機となる笠置寺への隠筒を行った。この笠置隠筒の理由についてはこれまでも諸説があげられているが,弥勒浄土とされた笠置寺を拠点として弥勒信仰を広めることで,顕密仏教改革派の立場から法然の浄土教学に対抗せんとしたことがその一つの理由であろう。1205年(元久2)の著述になる,法然を批判した《興福寺奏状》がある。08年(承元2)海住山寺に移り,観音信仰を修め,同時に戒律興行を図った。著書に《愚迷発心集》がある。        細川 涼一

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95名無しさん:2013/07/20(土) 23:20:28
論山
ろんさん (R)Nonsan

韓国,忠清南道内陸の郡。人口15万0190(1995)。韓国の穀倉,湖南平野の一画を占める論山平野に位置し,稲作中心の農業地帯である。郡内には古くからの河港都市である江景,陸軍第2訓練所を中心とする錬武,交通の要衝として江景にかわる商業地を形成した論山の三大邑がある。最大の論山邑は湖南線の要駅で,バス交通の結節点としてにぎわい,サービス業に従事する人口の比率が高い。郡北方に名峰鶏竜山,また恩津には高麗石仏として有名な弥勒菩醍のある灌燭寺がある。                    谷浦 孝雄

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96名無しさん:2013/07/20(土) 23:21:30
六郷満山
ろくごうまんざん

大分県国東(くにさき)半島には古くは国埼(東)郡として六つの郷があった。この六郷に成立した多くの天台宗寺院を六郷山または六郷満山と総称する。750年(天平勝宝2)国埼郡来縄(くなわ)・安岐・武蔵郷内は宇佐八幡宮比黄神封戸となったが,また970年(天禄1)公家貢進の330余戸(《宇佐託宣集》)が宇佐八幡宮神宮寺の弥勒寺領とすれば,これによって国衙領国前(東)郷を除くすべては宇佐八幡宮寺領となった。この地域には古くから草堂寺院が多く,10世紀ごろからこれらは山岳寺院となり,平安末期には65ヵ寺800余といわれる院坊を形成した。これらの寺ははじめ惣山以下諸職を分担し教団を作ったが,末期に弥勒寺を離れ比叡山に本家職を寄進した関係もあり,天台系の本・中・末の三山組織をもった。開基は人(仁)聞菩醍というが,建立したのは弥勒寺または宇佐宮である。富貴寺,伝乗寺(真木大堂)の仏像,長安寺の太郎天童等々には宇佐の民俗仏教や天台,熊野修験,朝鮮半島の文化様式がみられる。平安末期に最も隆盛となり,鎌倉期より衰えたが,武士が檀那に代わり,種々の石仏,石造塔婆を創造し,修正鬼会,盲僧教団などを護って,衰退を続けたものの現存している。⇒国東半島 中野 幡能

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97名無しさん:2013/07/20(土) 23:22:02
立石寺
りっしゃくじ

山形市にある天台宗の寺。山号は宝珠山。俗に山寺(やまでら)と称される。860年(貞観2)慈覚大師円仁の開山と伝え,東北屈指の慈覚大師信仰と庶民信仰の霊山である。慈覚大師入滅の地は比叡山とされるが,当寺でも山頂南面の絶崖にある岩窟が大師の入定(にゆうじよう)窟とされている。1144年(天養1)にはその霊窟上部に如法経所碑(重要文化財)が建てられた。その碑文では弥勒信仰に慈覚信仰が重ね合わされている。また日蓮の書状は〈御頸は立石寺にあり〉との鎌倉時代の風聞を伝えており,分骨埋葬説が有力である。今も霊窟に眠る頭部彫刻や遺骨の一部がそれとされる。霊窟周辺の岩窟から,納骨した木製五輪塔など鎌倉時代の遺品も発掘され,死者の霊のかえる山として,この風習は今なお歯骨や卒塔婆,後生車が納められ息づいている。江戸時代には朱印寺領1420石,衆徒18ヵ寺,坊跡12坊,末寺3ヵ寺,門徒2ヵ寺を抱える大寺であった。全山いたるところ風水食による岩穴や奇岩に満ち,松尾芭蕉も訪れた景勝地で,現在も根本中堂,三重小塔(ともに重要文化財)など多くの伽藍諸堂が点在する。                      竹田 賢正

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98名無しさん:2013/07/20(土) 23:23:01
来訪神
らいほうしん

1年に1度,時を定めて異界から人間の世界に来訪して,さまざまな行為をし,人々に歓待される神々を一般に来訪神とよぶ。来訪神はいわば異人の一種であり,〈まれびと〉である。われわれは,われわれの住む世界が自己(もしくは自己の仲間たち)と異人という二元的構成をとっているとみなしており,異人に対しては畏敬の観念をもつとともにこれを厚くもてなす異人歓待の観念が発達している。来訪神の多くは人々が仮面仮装した異形の姿であらわれるが,こうした来訪神信仰は,日本のみならず未開社会と文明社会にわたる多くの社会に存在している。未開社会の例としては,メラネシアのニューブリテン島のドゥク・ドゥクがよく知られているし,文明社会の例としては東ヨーロッパのベルヒテンとかイェガーとよばれる仮面仮装来訪神がある。

 日本においてもこの来訪神信仰は強く認められ,とくに東北地方や九州の南の南島においてきわめて盛んである。日本の来訪神には三つの形態がある。ひとつは仮面仮装した異形の姿で来訪するものであって,秋田のナマハゲ,能登のアマメハギ,三陸のナモミ,ヒガタタクリ,需島(こしきじま)のトシドン,吐菓喇列島悪石島のボセ,宮古のパーント,八重山のアンガマ,アカマタ・クロマタ,ミルク(弥勒),マユンガナシ,フサマラーなどがある。仮面仮装する者の多くは若者であり,また特別の資格を備えた村人である。仮面仮装来訪神としてよく知られているナマハゲは小正月の晩に鬼面をかぶり,蓑笠にわら靴をはき,木の刃物をもって家々を訪問し,子どもや女たちを威嚇したのち酒食のもてなしをうける。また八重山のいくつかの村にプール(豊年祭)のときに来訪するアカマタ・クロマタは赤や黒の仮面をつけ,木の葉で身体全体をおおった姿で出現し,人々の熱い歓迎をうけたのち,村中の各家をめぐって来たるべき作物の豊穣をもたらすと信じられている。また波照間島に雨乞い行事にあたって来訪したフサマラーは,雨の神とされる来訪神であって,ひょうたんでつくった仮面をつけ,フサマラー山とよばれる小さな山から出現し,村中の井戸をまわって雨をもたらすと信じられている。来訪神の第2の形態は,南島にしばしばみられるように,さまざまな儀礼や神歌の中に暗示されて具体的な姿をまったく見せぬものである。この場合には浜にでて神女たちが行うユークイ(世乞)やハーリー船競争(ペーロン),網引きなどによって来訪神の神迎えが行われる。たとえば沖縄西表島の節祭では各村でハーリーが行われ,そのハーリーが村にもどるとき女たちは神を踊りと独特の手招きで迎える。これらの競争が東西に分かれて行われ,西組が勝つとよいとされるのは,南島では来訪神が東方はるかなるニライカナイから来ると信じられているからである。来訪神の第3の形態は,仮面仮装の形はとらないが,子どもたちが来訪して来る形態をとるものである。これには東北地方のカセドリ,スルメツリ,中国地方のホトホト,コトコト,鹿児島のカセダウチなどがある。この形態においては子どもたちは組をなして,村中の各家を訪問し,大判・小判やわら馬などを各家に置いたあと,蛭や菓子,金などを各家からもらうことが多い。

 このようにさまざまな形で来訪する来訪神信仰の共通する特徴として次の諸点をあげることができる。第1は,来訪神が新年や小正月,豊年祭,節祭など1年の季節の変り目に1度来訪することである。第2は,こうした来訪神が海上はるかなる他界から来訪すると信じられていることが多いことである。南島ではこうした海上他界をニライカナイとよび,そこから来る来訪神をニロー神,ニイルピトとよんでいる。第3は来訪神が人々に穀物の豊穣や幸福をもたらすと信じられていることであり,各家を訪問した際にのべる祝いの言葉や耕作方法を盛りこんだ言葉にこれがあらわれている。南島の八重山において布袋の面をかぶったミルクがもたらすミルク世果報(ゆがふ)はその代表的なものである(弥勒信仰)。第4はこうした来訪神信仰の担い手の組織および儀礼がきわめて秘儀的性格をもっていることであり,なかにはアカマタ・クロマタのように秘密結社的組織をもつものもある。こうした秘儀的組織は若者たちによって構成される例が多く,若者組や若者宿の習俗と密接な関連をもつといえる。多くの来訪神が女性や子どもたちをしばしば威嚇するのはこうした性格にもとづくものである。こうした秘儀的性格は異人としての来訪神がわれわれの世界に再生のエネルギーをもたらすという事実にも深く関連しているのである。
                        上野 和男

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99名無しさん:2013/07/20(土) 23:25:30
雍和宮
ようわきゅう

中国,北京に現存するラマ教寺院。本寺の前身は雍親王府といい,清の雍正帝の即位以前の宮邸(1694年建立)であった。雍正帝の即位後,1725年(雍正3)に旧宮邸の半分がラマ教寺院に改造され,残り半分が行宮として残されて,名も雍和宮と改められた。雍正帝の没後,44年(乾隆9)乾隆帝の命により,雍和宮の全体がラマ教寺院に大改造されて,その寺格も皇居宮殿と同等とされた。雍和宮の主要建造物には天王殿,正殿,永佑殿,法輪殿,万福閣の五つがあり,このうち万福閣は最大の建造物で,その屋内に像高18mの白檀の弥勒立像がある。この像は50年チベットのダライ・ラマ7世から清朝によるチベットの反乱平定に謝意を表するため寄進されたものである。境内には以上の建造物と並んで諸殿が配置されるが,とくに薬師殿,数学殿,密宗殿,講経殿は四学殿と称され,ラマ僧の修学の教場に充てられたものである。                    若松 寛

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100名無しさん:2013/07/20(土) 23:26:12
瑜伽師地論
ゆがしじろん

インド大乗仏教の論書。唯識派(ゆいしきは)の基本的な典籍。原題はサンスクリットで《ヨーガーチャーラブーミ Yogac´rabh仝mi》。略称《瑜伽論》。著者は漢訳ではマイトレーヤ(弥勒),チベット語訳ではアサンガ(無著)とする。4世紀ころの成立。サンスクリット原典(一部分のみ既刊)のほか,チベット語訳,漢訳(玄奘の全訳,ほかに部分訳)が現存。漢訳で全100巻の膨大なもので,全体は五分され,本地分(1〜50巻),摂決択分(51〜80巻),摂釈分(81,82巻),摂異門分(82〜84巻),摂事分(85〜100巻)からなる。そのうち,本地分が中心で,17段階に分けてヨーガの修行の階梯を説いている。また,三性・三無性,唯識,阿頼耶識などの唯識派の基本的な問題はすべて本書中に取り上げられている。⇒唯識派         末木 文美士

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