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【資料】神秘主義の系譜【探索】
159
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 19:17:46
弓削寺
ゆげでら
大阪府八尾市にあった古代寺院。由義寺とも書く。弓削氏の氏寺と思われる。742年(天平14)に行聖(ぎようしよう)が度者を貢しているから,これ以前の建立であろう。道鏡が弓削氏の出身であった関係から,称徳天皇は765年(天平神護1)この寺に行幸し,食封200戸を施し,770年(宝亀1)塔を造らしめている。平安時代以降のことは不詳で,いつしか退廃した。 中井 真孝
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
物部守屋 ?‐587(用明2)
もののべのもりや
飛鳥時代の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子,雄君の父。母が弓削氏のため物部弓削守屋ともいう。敏達・用明朝を通じ大連であった守屋は,大臣(おおおみ)蘇我馬子とことごとく対立した。仏教受容については父尾輿の場合と同様,中臣勝海(なかとみのかつみ)とともに,疫病流行は蘇我稲目の仏教尊信によるものとして,その大野丘北の寺の塔,仏殿,仏像を焼き,残りの仏像も難波の堀江に捨てたという話を伝える。また,敏達天皇の死後の殯宮(もがりのみや)では,馬子の姿を矢で射られた雀のようだとあざけり,馬子からはふるえる手脚に鈴をかけよとあざけられた,との話も伝えられている。守屋は,用明天皇(母は蘇我堅塩媛(きたしひめ))の異母弟の穴穂部(あなほべ)皇子(母は蘇我小姉君(おあねのきみ))と親しく,皇子が皇位をねらうのを阻もうとした三輪逆(みわのさかう)を殺した。しかし587年,守屋は群臣から孤立したのを察し,河内の阿都(あと)の別荘に退いて戦いの準備をすすめた。中臣勝海も呼応して兵を集め,太子彦人皇子と竹田皇子の像を作って呪詛した。そして用明天皇が死ぬと,同年5月,守屋は穴穂部皇子を天皇に擁立しようとした。これに対し,蘇我馬子は穴穂部皇子を殺し,7月に泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻天皇),竹田皇子,遠戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らと紀,巨勢(こせ),膳(かしわで),損城,大伴,阿倍,平群(へぐり),坂本,春日ら諸氏の勢力を糾合。この軍勢の前に守屋は渋河の家で敗死した。以後,物部氏は衰勢に向かったが,守屋の奴と宅の半分は新たに造営されはじめた四天王寺(荒陵(あらはか)寺)の寺奴と田荘とされた。 門脇 禎二
[伝承] 物部守屋はその後の仏教流通の世情のなかで,もっぱら〈仏法のあた〉とみなされた。《日本霊異記》《今昔物語集》《古今著聞集》などには,仏法興隆者たる聖徳太子の対立者としての守屋が説話化されている。親鸞《三帖和讃(さんじようわさん)》もそれらと同じ立場をとりつつ,なお〈ほとけ〉という和語が守屋の命名によるとの忌説をとり入れている。すなわち,〈ほとけ〉は〈ほとおりけ〉(熱病,疫病の意)の約で,守屋は仏教受容が疫病流行をもたらしたとしてこの名を広めたというものである。さらに《太平記》では〈朝敵〉の烙印がおされ,守屋=逆賊の像がしだいに定着していった。しかし,明治初期には〈廃仏毀釈(はいぶつきしやく)〉運動の影響によるものか,守屋を《皇朝名臣伝》(1880)でとりあげるということもみられた。
また,近世の読本《繁野話(しげしげやわ)》(1766)には,守屋が逃げのびて100歳の寿を保ったという話が記され,《信濃奇勝録》(1834)には,守屋の子孫が信濃に忍び,48代に達したとの落人伝説を載せている。なお,大阪市四天王寺には守屋および中臣勝海らをまつる守屋堂が現存している。
阪下 圭八
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
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