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【資料】神秘主義の系譜【探索】
125
:
名無しさん
:2013/07/20(土) 23:56:17
>>124
[中国] 前漢以来,石人,石獣などのすぐれた石造墓飾彫刻が作られていたので,仏教伝来とともに石仏も製作されたと思われるが,最初期の遺品は知られていない。452年(興安1)に北魏の文成帝は帝身の石仏を作らせたといい(《魏書釈老志》),460年(和平1)には北魏の都,大同西郊の砂岩崖に僧曇曜の発願になる大規模な雲岡石窟が開かれた。494年(太和18)北魏は中原の洛陽に遷都したが,その近郊の石灰岩の崖には竜門石窟が開かれた。これらの石窟寺院の彫刻とともに単独像も多く作られ,6世紀東・西魏,北周,北斉では白玉(大理石),黄華石などの緻密な石材による小四面仏,龕(がん)像,碑像なども盛んに作られた。日本にある中国6世紀の遺品としては,535年(東魏の天平2)の弥勒三尊像(藤井有鄰館),552年(北斉の天保3)の菩醍形立像(東京国立博物館)などが著名。以後,隋,唐代を通じて中国の石仏の製作はきわめて盛んであった。
[朝鮮] 三国時代にすでに石仏が盛んに行われた。7世紀前半ころの百済の遺品として,忠清南道瑞山郡雲山面の磨崖仏,新羅の遺品として慶州南山長倉谷発見の菩醍形立像などが著名である。三国時代末期の7世紀後半から統一新羅時代にかけて,慶州南山には丸彫,磨崖など多くの石仏が作られ,8世紀半ばには石室構造をもった慶州石窟庵の諸像が作られた。統一新羅時代の石仏は金銅仏とともに彫刻の主流であり,その後高麗時代以後も形式化しながらも製作は続けられた。
[日本] 《日本書紀》敏達13年(584)条に鹿深臣が百済から弥勒石仏を将来したとあり,これが記録上の初見であるが,飛鳥時代の石仏の遺品は知られていない。奈良時代の遺品に,奈良県石位寺三尊像(砂岩?,半肉彫),兵庫県加西市の古法華三尊像龕(凝灰岩,半肉彫),奈良市高畑町の頭塔(ずとう)(花コウ岩,薄肉彫。方墳状の土塔の四方に十数個の石仏を配する),奈良県宇智川磨崖仏(線刻)などが知られる。それらの作風は,当時の他の素材(金銅,木)による彫刻,絵画の作風にほぼ準じている。平安時代には石仏の製作は畿内以外の各地にも広がり,他の時代には見られない大規模な磨崖仏の製作が盛んに行われた。栃木県大谷磨崖仏(凝灰岩,高肉彫)は石彫の上に塑土を盛る珍しい技法を用いており,そのうちの一部はあるいは平安初期の製作かと考えられる。平安後期には大分県臼杵,熊野に代表される凝灰岩層を用いた磨崖仏が各地で行われた。またこの時代には紀年銘をもつ石仏も多く作られるようになり,長崎県壱岐出土の延久3年(1071)銘の弥勒如来像(滑石,丸彫)を初例とし,福岡県鎮国寺の元永2年(1119)銘の阿弥陀如来像(砂岩,薄肉彫),京都市今宮神社の天治2年(1125)銘をもつ四方石仏(砂岩,線刻)などがある。
鎌倉時代には前代に流行した凝灰岩製磨崖仏の製作は減り,かわって花コウ岩,安山岩など硬質の石材を用いた高肉彫,丸彫の像の製作が盛んになった。京都府石像寺の元仁元年(1224)銘の三尊像は,三尊を1石1体ずつ丸彫に近い高肉彫であらわし,この時代の石仏の傾向をよく示している。他に群馬県不動寺不動明王像(凝灰岩,丸彫)などがあり,大型の石室構造をもつものに奈良市十輪院石仏龕(花コウ岩)がある。またこの時代には東大寺の再建工事に参加した伊行末(いぎようまつ)に代表される宋人石工の活躍があり,伊行末の作品に般若寺十三重石塔初層四方石仏,石仏ではないが参考とすべきものに1196年(建久7)宋人石工字六郎作の東大寺南大門石獅子がある。南北朝時代以後になると石仏は全体的に小型のものが増え,その作風は同時代の木彫像と同様に形式化の道をたどった。この傾向は桃山,江戸時代にはいっそう進み,五百羅漢の群像や馬頭観音,地蔵など,多数の石仏や道祖神像が作られた。これらは民間信仰の史料として貴重である。 副島 弘道
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