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【資料】神秘主義の系譜【探索】
168
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 20:08:41
記紀批判
ききひはん
《古事記》《日本書紀》の史料的性格を検証・確定する学問手続。記紀の記載内容がどのあたりから信じられるかという点について,すでに江戸時代の山片蟠桃が〈神功皇后ノ三韓退治ハ妄説多シ。応神ヨリハ確実トスベシ〉〈神武ヨリ千年ホドノ間ハ神代ノ名残(なごり)ニテ,史ニハイカニ載タリトモ,ミナコシラヘゴトナリ〉とみた。また藤(井)貞幹は〈神武天皇の御末は仲哀天皇にて尽させ玉ふ。応神天皇は何くより出させ玉ふや〉と皇統の断絶を述べた。しかし記紀の記載内容を仲哀以前と応神以降とに区別することが,学問的手続によってはっきりと論じられたのは明治以降である。明治期の紀年論においては,応神朝が紀年を比定する際の定点とされ,神功皇后の〈征韓〉物語は4世紀後半のことと位置づけられた。大正期の津田左右吉の記紀批判は,その〈征韓〉物語から統及して〈神武東征〉までの物語に逐一,批判的検討を加え,仲哀以前の物語は神代の物語と同様,皇室が日本を統治する由来を整然と説いた政治的述作と結論づけた。また津田は《古事記》はその序文にいう帝紀(系譜)と旧辞(物語)に二分できるとし,物語があるのは顕宗記までとみて,〈其の時から程遠からぬ後,即ち継体・欽明朝ごろに一と通りはまとめられてゐた〉ものと記紀の成立を見通した。以上の津田説の基本は第2次世界大戦後の研究にひきつがれ,津田の物語批判の上に系譜・帝紀の信憑性が論じられた。応神以降の簡単で実名的な天皇名に対して,津田が荘重で諡号(しごう)的と指摘した仲哀以前の天皇名に多くみられるタラシヒコやヤマトネコは,7〜8世紀のやはりタラシヒコやヤマトネコをもつ天皇諡号の反映とみて,仲哀以前の天皇の実在が否定されている。一方,応神以降の帝紀の内容・系譜は,後世の籍帳などにみえる御名代(みなしろ)(王名をつけた部)の存在や倭の五王の比定などにより,信じられると考えられてきた。近年,津田が帝紀・旧辞の成立期とみなした継体・欽明朝の問題(継体新王朝や継体・欽明朝の内乱)から〈応神5世孫〉とする継体系譜の信憑性,あるいは倭の五王の根本史料である《宋書》に珍と済の2王間に続柄記述がないことから,応神・仁徳系譜全体の信憑性が問われている。⇒王朝交替論 川口 勝康
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津田事件
つだじけん
1940年(昭和15)2月10日,歴史学者津田左右吉の日本神話および上代史に関する4著書,〈《神代史の研究》〉(1924年2月),〈《古事記及日本書紀の研究》〉(1924年9月),〈《日本上代史研究》〉(1930年4月),〈《上代日本の社会及び思想》〉(1932年9月)が発禁処分となり,3月8日津田と発行者岩波茂雄が出版法第26条(皇室ノ尊厳冒済)の疑いで起訴され,42年5月21日有罪判決を受けた事件。事件の発端は,蓑田胸喜を中心として,権力中枢と結びついて国粋主義の宣伝をしていた原理日本社とその機関誌〈《原理日本》〉が津田に加えた攻撃であった。津田の〈《支那思想と日本》〉(1938)が発表されたころから,蓑田らは,ヨーロッパが一つの文化だというのと同じ意味での東洋文化は歴史的に存在しなかったという論旨を,〈東洋抹殺論〉の提唱だとして非難していた。その非難を決定づけたのが,かねて〈天皇機関説の本山〉として彼らに排撃されていた東京帝大法学部に39年10月新設された東洋政治思想史講座の初講義を,南原繁の懇請に応じて講師として担当したことであった。最終講義が終わった12月4日には,計画的に待機していた蓑田を指導者とする右翼学生団体のメンバーが数時間にわたって激しい非難の質問を浴びせるという事件も起きた。
12月中旬以降,津田は早大当局からたびたび辞職勧告を受け,40年1月早大教授を辞任。2月4著の発禁処分,3月起訴,地方裁判所で21回の公判を経て42年5月,判決が下された。4著のうち,〈《古事記及日本書紀の研究》〉のみ4ヵ所において,〈神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付疑惑ヲ抱カシムルノ虞アル講説ヲ敢テ〉したとの理由で有罪とされ,著者に禁錮3月,発行者に禁錮2月(ともに2年間の執行猶予)が科せられ,その他の公訴事実はすべて無罪とされた。この判決に対し検事控訴が行われ,被告側も控訴の手続きをとったが,そのまま放置され,44年11月4日,控訴院で〈公訴時効完成ニヨリ免訴〉という結末になった。この事件は記紀に関する画期的な文献批判(記紀批判)による最も卓越した学術的業績に加えられた圧迫であり,天皇制国家の権力統制の核心を示す象徴的事例といえよう。
掛川 トミ子
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