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【資料】神秘主義の系譜【探索】

131名無しさん:2013/07/21(日) 00:04:51
蘇我馬子 ?‐626(推古34)
そがのうまこ

飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,溝麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた。就任の当初から大連(おおむらじ)物部守屋らの勢力と対立したが,その反対をおしきって,570年(欽明31)に北陸に来着した高句麗使を572年(敏達1)に朝廷に迎え入れ,高句麗外交を開始した。これに仏教受容や皇位継承の問題も加わって,反対派との対立はその後ますます深まり,587年,用明天皇の死後に軍を起こした馬子は,物部守屋を討滅した。このあとに崇峻天皇をたてたが,天皇と意見が対立しはじめると,馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて592年(崇峻5)にこれを暗殺させた。そして,この年から着工していた飛鳥寺(法興寺)は,推古朝に入っても造営をつづけ,日本最初の本格的寺院として完成させた。以後も仏教興隆の方針をすすめ,605年(推古13)から遠戸皇子(聖徳太子)が斑鳩(いかるが)宮に移ってのちも,馬子は飛鳥にあって政治を主導した。この間,新羅遠征軍の派遣計画は失敗したが,遣隋使の派遣もあり,外交の必要上からも難波津を整備した。晩年には,遠戸皇子とはかって天皇記,国記,諸氏の本記を編纂させた。遠戸皇子妃の刀自古郎女(とじこのいらつめ),舒明天皇妃の法提郎女(ほてのいらつめ)は,馬子の娘である。馬子を葬った飛鳥の桃原墓は,いわゆる石舞台古墳であるとみられている。                      門脇 禎二

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