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【資料】神秘主義の系譜【探索】

181名無しさん:2013/07/22(月) 22:41:25
天皇制
てんのうせい

昭和初期の国家論争の中でマルクス主義用語として登場し,社会科学用語として定着した日本独特の君主制を指す用語。狭義には明治維新から第2次大戦での敗戦までの近代天皇制を指すが,広義には古代天皇制,戦後の象徴天皇制なども含まれる。また,天皇制は単に国家権力概念としてだけでなく,イデオロギー,社会秩序,精神構造を含む概念として使用されることがある。ここでは近代天皇制について述べる。

【明治期の天皇制】

[政治機構・機能]  幕末の欧米列強の圧力による開港後,日本は資本主義化と中央集権的国民国家の形成が課題となったが,それを担う市民階級の形成が不十分だったため,武士階級内部の改革派によって維新の政治変革が行われた。このため,近代的価値観に基づく民主国家が建設されず,半宗教的伝統的権威に依存した専制的国家が樹立された。その際,旧幕藩権力から遠くかつ権威ある存在だった朝廷が政治統合の中心となるのに最も適していたので,維新国家は王政復古という形で成立した。そこでは天皇親政をたてまえとし,律令時代に擬した太政官(だじようかん)制が採用され,太政官に立法,司法,行政,軍事の権が集中する専制体制であった。しかし,近代化は至上命題であったから,復古形式とはうらはらに廃藩置県,身分制改革,地租改正,学制,徴兵制,殖産興業が行われた。その遂行主体は大久保利通,木戸孝允,西郷隆盛ら醍摩,長州などの藩閥官僚であった。これは自由民権派に有司擅制(せんせい)と呼ばれ,批判の対象となり,彼らの要求である憲法制定,国会開設を受け入れざるを得なくなり,内閣制度の採用(1885),大日本帝国憲法制定(1889),国会開設(1890)により,君主主義と議会制の矛盾的結合である特殊な立憲君主制国家(外見的立憲制)に移行した。そこでは太政官制と異なり,唯一の統治権者である天皇の下に,立法,司法,行政,軍事の機関が分立する形をとったため,制度上では国家意思の形成決定は天皇が親政しないかぎり,多元的にならざるを得なかった。明治期にはこの多元性を一元化するものは,維新の元勲である伊藤博文,山県有朋ら元老と呼ばれた憲法に規定のない政治集団であった。日清戦争までは彼らによる議会を無視した政権独占が行われ(超然主義),衆議院の民党と対立した。しかし,軍備拡張のために膨張する予算を実現するには政党と妥協する必要があり,他方,政党もその基盤である地主・資本家が政府の積極政策を支持するにつれ妥協的となり,日清戦争後に両者は歩み寄り,伊藤博文を総裁とする政友会が結成(1900)されるにいたった。他方,非妥協的部分は山県有朋を頂点とする官僚閥を形成した。

[皇室財産と華族]  憲法制定と並んで天皇の権威を確立するために行われたのが,その経済的基礎である皇室財産の設定と社会的藩潅(はんぺい)としての華族の創出であった。皇室御料(不動産)は,1872年(明治5)には約1000町歩であったが,82年岩倉具視の意見書により,民党に対抗して皇室の自律性を高めるため,御料局を設置(1885)して皇室財産の拡張が行われ,90年の国会開設時には約365万町歩にもなった。それは約1万町歩の耕地と山林原野からなり,皇室は日本最大の土地所有者であった。また1884年以来株式も所有し,99年には約23万株を持ち,日本銀行,日本郵船などの筆頭株主でもあった。ちなみに1945年には皇室財産は約16億円という巨大なものであった。この中から,米騒動など社会不安が高まったとき,下賜金として配布されるなど慈恵政策的にも使われた。華族制度は版籍奉還時に,旧大名・公家を華族としたことから始まったが,1884年の華族令により旧華族に維新の功労者を加えて,国会開設後に予測された民党―衆議に対抗する機関―貴族院を構成するものとして再創出された。華族は特権身分であったが,ヨーロッパの貴族のように時として国王に対立するということはなく,天皇に強く従属した存在であった。天皇制が華族を必要としていたのは,単に貴族院構成者としてだけでなく天皇統治の正当性が,万世一系の至高の血統を継承したことによって証明されるものであったため,その血統の貴種性を再生産するために,皇族と婚姻しうる特殊な貴種身分を必要としたからでもあった。


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