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【資料】神秘主義の系譜【探索】
133
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:06:58
蘇我氏
そがうじ
古代の有力氏族。姓(かばね)は臣(おみ)。後世の系図では,孝元天皇の孫(あるいは曾孫)武内宿衝(たけうちのすくね)を波多(はた),巨勢(こせ),平群(へぐり),紀,損城(かつらぎ)氏とともに祖先とし,武内宿衝の子の石川宿衝に始まるとする。しかし,その起源には諸説があり,奈良県橿原市曾我または大阪府南河内郡石川の土着豪族とされてきたが,百済の高級官人木満致(もくまち)が5世紀末に渡来して大和の曾我に定着したのに発するともされる。氏名の蘇我は,曾我,宗我,宗何,忌宜,忌哥などとも記された。
早くは蘇我満智(まち)が5世紀末の雄略朝の財政を担当したとの伝承が《古語拾遺》にみえ,韓子(からこ)が対新羅関係で活躍した記事が《日本書紀》にみえる。しかし,6世紀中葉の稲目(いなめ)が宣化・欽明朝の大臣(おおおみ)となったころから急速に勢力をのばし,その達成をうけついだ6世紀末〜7世紀初めの馬子の時代に権勢は頂点に達し,統一的国家体制をおしすすめた。この間に,その基盤を曾我川沿いに南にひろげ,さらに畝傍(うねび)山麓から東に向かって飛鳥の開発をすすめた。そして7世紀初めまでに,一族の堅塩媛(きたしひめ)家を河内磯長谷(しながだに)に,小姉君家を三輪山南方に,境部臣家を飛鳥の西方に,倉山田石川臣家を山田道に,聖徳太子の上宮王家を竜田道をおさえる斑鳩(いかるが)にというように,交通の要点に配した。それらの間の大和盆地南部には久米,桜井,田中氏らの諸支族を配し,渡来系の東漢氏(やまとのあやうじ)諸族に支えられる複合的な氏族構造を形成した。しかし,毛人(えみし)(蝦夷)・鞍作(くらつくり)(入鹿)の代になると,しだいに他の氏族の反発を招き,一族内部の結束も乱れて,政界の主導力は衰えはじめた。その結果,本宗家は645年(大化1)6月に損城皇子(中大兄),中臣鎌子(藤原鎌足)らによって滅ぼされた。けれども,その後にも蘇我氏からは,政界で3人の大臣(石川麻呂,連子(むらじこ),赤兄)がたったが,壬申の乱の戦後処置により一族は滅んだ。以後,蘇我氏のあとは,連子の流れが石川氏となった。 門脇 禎二
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