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【資料】神秘主義の系譜【探索】

155名無しさん:2013/07/21(日) 08:27:38
中臣氏
なかとみうじ

日本古代の豪族。大和朝廷では祭祀を担当し姓(かばね)は連(むらじ)。大化改新後に藤原氏を分出,八色(やくさ)の姓の制度で朝臣を賜姓。奈良後期から嫡流は大中臣(おおなかとみ)氏。中世以後は岩出(いわで),藤波(ふじなみ)などと称する。中臣とは,《中臣氏系図》の〈延喜本系〉に奈良後期の本系帳を引用し〈高天原に初めて,皇神(すめかみ)の御中(みなか),皇御孫(すめみま)の御中執り持ちて,いかし桙(ほこ)傾けず,本末(もとすえ)なからふる人,これを中臣と称へり〉とか,《台記別記》の〈中臣寿詞(なかとみのよごと)〉に〈本末傾けず茂槍(いかしほこ)の中執り持ちて仕へ奉る中臣〉とか,《大織冠伝》に〈世々天地の祭を掌り,人神の間を相和す。仍ってその氏に命じて中臣と曰へり〉とあるように,天皇側近の神官として神託を伝えるという職掌による呼称であろう。祖神は天の岩戸や天孫降臨の記紀神話に登場し,春日神社などにまつられる天児屋(あめのこやね)命。遠祖として垂仁朝に大鹿嶋(おおかしま),仲哀朝や允恭朝に烏賊津(いかつ)の名が《日本書紀》にみえ,欽明朝では鎌子(後の鎌子とは別人),敏達・用明朝では勝海(かつみ)が大連の物部氏とともに仏教受容に反対し,勝海は大臣の蘇我氏らに討たれたという。しかし〈延喜本系〉では欽明朝以後,黒田―常磐(ときわ)―方子(かたのこ)―御食子(みけこ)と代々朝廷に仕え,推古・舒明朝では御食子が〈前事奏官兼祭官〉すなわち朝廷の政務を決定する会議に参加する大夫(まえつぎみ)で神官を兼ねていたといい,鎌子・勝海らと黒田以下との系譜関係には触れないので,中臣の嫡流は勝海で絶え,常陸の鹿島から来た中臣(遠祖は大鹿嶋)が後を継いだとの説もある。

 ともかく御食子の子の鎌子(後の藤原鎌足)が生まれたころの中臣氏は,間人(はしひと),志斐(しひ),熊凝(くまごり),習宜(すげ),宮処(みやこ),伊勢,鹿嶋など多くの支流に分かれ,各地に中臣部(なかとみべ)という私民や田荘(たどころ)をもつ,かなり有力な朝廷豪族であった。だが鎌子すなわち鎌足は神官の職を継がず,大化改新(645)以後は内臣(うちのおみ)として中大兄(後の天智天皇)を補佐し,669年(天智8)に病没したときには大織冠,内大臣という冠位,官職と藤原という氏を賜った。以後鎌足の一族は従兄弟たちまで中臣藤原連(なかとみのふじわらのむらじ),すなわち朝廷の官人としては藤原,神官としては従来どおり中臣と称するようになったようである。ところが壬申の乱(672)で従弟の右大臣中臣金(くがね)は近江朝廷側の強硬派として斬られ,鎌足の子の不比等(ふひと)もしばらく答塞(ひつそく)しているうちに,天武天皇夫人となった鎌足の娘の氷上(ひかみ),五百重(いおえ)がそれぞれ皇女,皇子を生み,やがて不比等や金の甥の大嶋(おおしま)も,官人や神官として活躍しはじめたので,八色の姓の制では中臣連のうちの藤原系が,物部連とともに例外的に朝臣を賜姓された。文武朝にはいると,娘の宮子(みやこ)を文武天皇夫人とした不比等は,藤原朝臣という氏姓を自分の子孫に限定するために,698年(文武2),朝廷の祭祀は再従兄弟の意美麻呂(おみまろ)らが担当するという理由で彼らを中臣朝臣とし,藤原と中臣との分離に成功した。奈良時代の中臣氏からは,神梢官の長官や次官のほか,正四位上中納言の意美麻呂,その子で正二位右大臣にまで進んだ清麻呂,鎌足の弟の孫で遣唐副使として苦労した名代(なしろ),その子で遣唐判官の鷹主(たかぬし),また意美麻呂の孫で狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)との間の相聞歌が有名な宅守(やかもり),支流からは武官として聞こえた中臣伊勢(連)老人(おきな),道鏡にこびた中臣習宜(朝臣)阿曾麻呂(あそまろ)などの名が知られている。なかでも清麻呂は中納言従三位であった769年(神護景雲3)に大中臣の氏を賜い,その子孫は引き続き大中臣朝臣と称したが,平安初期には親族にも大中臣への改氏を申請して許可されるものが多くなった。⇒藤原氏              青木 和夫

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