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【資料】神秘主義の系譜【探索】

183名無しさん:2013/07/22(月) 22:42:34
>>182



[天皇機関説]  大正デモクラシーの進展と政党内閣の成立は,美濃部達吉らによる帝国憲法の自由主義的解釈である天皇機関説を広めさせることになった。美濃部は,国家を国民によって構成される団体と考え,その団体自身が統治権の主体であり,君主はその統治権の最高行使機能をもつ機関であるとした。また,天皇は憲法上政治的責任を負わないのであるから,天皇を補佐する国務大臣が政治のすべての責任を負うこととなり,それゆえ天皇の政治的行為はすべて国務大臣の補佐なくしては行い得ないとした。さらに軍の統帥権も国務大臣の補佐によることも解釈上可能であり,大臣は議会に責任を負うべきだとした。美濃部説は,軍部,官僚らの天皇の名による恣意(しい)的政治を抑え,政党政治,議会主義を促進するものであり,天皇制をイギリス型立憲君主制に近づける法理論であった。

[大正期のナショナリズム]  第1次大戦後,国際連盟の設立に表れたように国際協調体制が出現した。日本も対米協調外交を基本としたので排外主義的ナショナリズムは減価し,吉野作造にみられるような国際協調こそ真の国益であるとするナショナリズムも現れた。しかしそれは少数であり,また社会主義者は,天皇制とナショナリズムを切り離して考えずに同時に否定したため,天皇制とナショナリズムは依然結合されたままであった。

【昭和戦前期の天皇制】

[政治機構・機能]  金融恐慌,昭和恐慌によって財政経済の危機が激化し,また政友会,民政党が政権をめぐって泥仕合を続けたため,国民の政党離れが進んだ。さらに中国の民族解放運動が進展し満蒙の危機が叫ばれるようになると,軍部は満州事変(1931)を起こし,五・一五事件(1932)を機に政党内閣に終止符を打った。以後しだいに軍部が政治的主導権を握り,また新官僚,革新官僚と呼ばれた官僚群が軍部と結んで内政をリードした。日中戦争(1937)の開始後,国家総動員法が制定されて戦時統制が強化され,1940年政党解散=大政翼賛会の成立,41年の東条英機内閣の成立によって軍部独裁が確立した。しかし,この過程は同時に天皇の政治的価値の上昇をもたらしたので,天皇の政治的意思に最も影響を与えうる内大臣や元首相ら宮廷重臣グループの役割もまた重要になった。彼らは軍部の暴走を抑えようと試み,敗戦必至の情勢にいたると東条内閣を打倒し,天皇制護持のためポツダム宣言受諾に傾き,天皇の決断に影響を及ぼした。日本の軍部独裁は,宮廷重臣グループという異質の政治勢力を排除し得なかったところにナチス独裁体制と異なる側面をもった。

[ナショナリズムと国体論の浮上]  世界恐慌,満州事変,ヒトラー政権の誕生(1933)等は国際協調体制を終了させ,それとともに満州事変勃発時の国民的な排外主義勢力にみられる侵略主義的ナショナリズムを浮上させた。また,政党内閣の崩壊は議会制による国民統合とそのイデオロギーに替わる統合方式とシンボルを必要としたので,超越的価値としての天皇・国体が再び浮上した。しかも昭和初年以来の左翼運動の弾圧によって,社会運動は天皇制のたてまえである一君万民主義に依拠して展開せざるを得なくなったため,いっそう,天皇・国体の価値が上昇した。このため自由主義的な天皇機関説は排撃され,神秘的な国体論が支配的となり,天皇の絶対的神格化が進み,神州不滅が叫ばれるようになった。しかし,戦局の悪化と生活の困窮は,こうしたイデオロギーの統合力を減少させ,反戦不敬言動をも増大させた。そして敗戦は,軍事的勝利によって支えられていた天皇制ナショナリズムの崩壊をもたらした。天皇人間宣言は天皇統治の正当性を否定し,日本国憲法の制定は帝国憲法体制に終止符を打ち,固有な意味での天皇制は終わったのである。


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