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【資料】神秘主義の系譜【探索】
157
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 19:12:39
>>156
やがて賀茂忠行・賀茂保憲父子の名人が出,保憲もその子光栄(みつよし)と弟子安倍晴明の2人の逸材にめぐまれ,光栄には暦道,晴明には天文道を伝えてより,陰陽道界は賀茂・安倍両家による支配体制が成立し,陰陽頭(かみ)の地位も両氏いずれかで占められた。八十島(やそしま)祭・鎮火祭・道痢(みちあえ)祭・七瀬祓など朝廷の神梢的行事の陰陽道化は著しく,物忌(ものいみ)・方違(かたたがえ)は公家の間に有職故実化された禁忌で,とくに鬼門(東北方)や金神・太白・天一など諸神遊行の方向,往亡日・厭日・坎日(かんじつ)・道虚日・衰日などの日が禁忌の対象とされた。これらは院政期に入っていっそうはなはだしくなり,陰陽家には安倍泰親のほか一般公家にも大江匡房,藤原信西,同頼長,清原頼業らの精通者があらわれた。とくに泰親は〈さすのみこ〉といわれ,源平興亡の激動期には政局の前途を占ってよく的中し注目された。これに対して暦道は振るわず,反面算道や宿曜道(すくようどう)が進出した。宿曜道はがんらい中国で密教の星宿信仰と陰陽道が結びついたもので,僧侶が占星術を用いて人の運勢判断などを行い,奈良朝より盛んで空海が唐より宿曜経を伝えるにおよび,南都北嶺を中心にいよいよ発展し,仁海,法蔵,浄蔵ら卜占の名手を出した。
中世に入ると武家や民間にも禁忌の思想が普及した。指南書は中国伝来のものがほとんど滅び,晴明の《占事略決》が遺存の書として最も古く,南北朝には晴明に仮託された《刃辛(ほき)内伝》がつくられ,牛頭天王(ごずてんのう)の信仰と結びついた民間陰陽書として知られた。室町初期には賀茂在方が《暦林問答集》を著した。戦国期に賀茂家嫡流は絶え,土御門(安倍)家も秀吉に追放されていったん没落したが,江戸期に入って復興され,ついで後水尾朝に賀茂家は支流幸徳井氏によって復興された。暦は長らく中国のものに依存し,元嘉,儀鳳,大衍(たいえん),宣明の諸暦が用いられたのち,ようやく江戸期に渋川春海のつくった貞享暦,ついで西洋流暦法による天保暦と改まり,1870年(明治3)陰陽寮の廃止とともに太陰暦もやめられ,官制の陰陽道はここに終止符を打った。 村山 修一
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