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【資料】神秘主義の系譜【探索】
139
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 00:38:32
?????
秦氏は、秦の始皇帝の子孫を称していますが、どうも違うようです。佐伯好郎によれば、中央アジアのバルハシ湖の南にある「弓月」国(中国語でクンユエ)が、故郷ではないかということです。1世紀から2世紀に存在し、小国ながらキリスト教国であったとのことです。
http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode17.html
佐伯好郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%A5%BD%E9%83%8E
景教学者として[編集]
英語教育のかたわら、佐伯は日清戦争を契機としてネストリウス派キリスト教(景教)の研究を志すようになり、1904年、33歳のとき英語学から中国学への転向を決意[3]、1911年には景教研究の最初の著作『景教碑文研究』を刊行した。1931年(昭和6年)東方文化学院東京研究所(戦後東京大学東洋文化研究所に吸収)の研究員となり(?40年)、同年、北京でシリア語の詩編の碑石を発見し、1935年『景教の研究』を刊行した。1941年1月には東京帝国大学(現・東京大学)から、景教研究により文学博士号を授与され、1943年それまでの中国キリスト教史研究の集大成といえる全5巻の大著『支那基督教の研究』を刊行した。学位論文の題は 「支那に於いて近頃発見せられたる景教経典の研究」[4]
業績[編集]
佐伯の宗教史研究は比較宗教学者マックス・ミュラーの影響を受けたものであり[5]、彼の景教東伝史研究は、英語の著書も刊行されたことから日本国内のみならず国際的にも高い評価を獲得した。この結果、佐伯はその後長く景教史研究の国際的権威とみなされることになった。
しかしその一方、1908年の論文「太秦を論ず」で発表された「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり[6]、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)。また彼の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張する人々からは、同祖論を学術的に根拠づけるものとして歓迎されたが、晩年に、「在来の、日本的に矮小な開発計画では駄目だ。ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それにはユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」(「旧刊案内」、『原敬百歳』所収)という、同祖論が単なる功利的な「企画」であることを弟子の服部之総に語り、服部を仰天させた。
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