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【資料】神秘主義の系譜【探索】
179
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 21:06:15
>>178
[大正デモクラシー期] まず美濃部達吉の天皇機関説を上杉慎吉が天皇親政論から批判したのに対し,美濃部は国体は文化的概念であるとして法学的世界からそれを除き,吉野作造も日本国体の優秀性は特別の君臣情誼関係という民族精神の問題であるとして政治学の対象から除外し,デモクラシーと国体は矛盾しないとした。大正期には公認のイデオローグ井上哲次郎ですら《我国体と世界の趨勢》で,君主主義と民主主義の調和にこそ国体の安全があると説いた。このため,国体=あるべき国家,政体=現にある国家の意識を生じ,国体論に依拠して体制批判を行う者が労働運動内部にも現れた。しかし,1920年代には社会主義思想の流行もあり,国体の変革行動を罰する治安維持法を生み出したが,国体論に依拠しての権利主張は減少し国体論議も沈静した。
[昭和戦前期] 1931年の満州事変勃発以降,右翼思想の台頭にともなって国体論も活発化し,一方では国家社会主義者による一君万民論に基づく天皇制社会主義思想を生み出し,他方では公認の憲法学説であった天皇機関説を排撃した国体明徴問題が起こった(1935)。政府は国体明徴声明を出し,37年には文部省が《国体の本義》を配布した。そこでは〈大日本国体〉の冠絶性を,天地開闢神話,天照大神の聖徳,天壌無窮の神勅,三種の神器の神聖性から説き起こしてあり,神秘的な国体論がふたたび強まった。戦争の進行とともにこうした傾向は強められ,神国論や惟神(かんながら)の大道が強調され,〈やまとばたらき〉とか〈みそぎ〉が集団で実践されたりしたが,敗戦と天皇の人間宣言によりこれらの国体思想は否定された。⇒天皇制 鈴木 正幸
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
国体の本義
こくたいのほんぎ
文部省が,日本の国体に関する正統的解釈書として1937年(昭和12)に初版刊行した冊子。1935年天皇機関説問題を契機に政府の〈国体明徴〉声明に沿って,文部省が独自に国体論の教材として編纂に着手したものである。文部省は,国体観念に基づく教育・学問の改編方策を検討するために35年11月,文部大臣の諮問機関として〈教学刷新評議会〉を設置したが,その答申(1936年10月)を待たずに,思想局長伊東延吉の主導のもと,思想課長小川義章,国民精神文化研究所員志田延義等を中心として省内外の委員を加えた編纂委員会が組織され,35年中に編纂を開始した。原稿起草は東京帝国大学助教授久松潜一の担当とされたが,実際には久松の指導を受けた志田が原案を執筆し,小川・伊東がそれに修訂を加えてまとめられたという。
本文は A5判全156ページである。当時の思想的危機を指摘し,国体思想の堅持を強調する〈緒言〉に続いて,国体論の原理的側面を解説する〈第一 大日本国体〉,歴史に即して国体思想の具体的実現過程を説明する〈第二 国史に於ける国体の顕現〉の2部から成る本論部分,および外来思想と日本思想との関連と差異を述べ国体思想による社会主義・共産主義・個人主義・民主主義などの排撃を論じた〈結語〉とから構成されている。刊行は公式には37年5月とされるが,それは予算執行上の建て前で,実際には37年の秋以降に刊行・配布された。配布の対象は全国の中等教育段階以上の学校の学生・生徒と教員,小学校の教員,および社会教化団体の構成員などであり,とくに中等学校・師範学校などでは公民教育の重要な教材として扱われた。敗戦直前の44年ころまでおおよそ300万部程度が刊行・配布されたとされる。敗戦後,極端な国家主義の宣伝手段の最たるものとして,GHQ により廃棄が命ぜられた。⇒教学刷新 佐藤 秀夫
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