[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
【資料】神秘主義の系譜【探索】
152
:
名無しさん
:2013/07/21(日) 08:22:29
八幡信仰
はちまんしんこう
八幡神に対する信仰。大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮(八幡宮)に起こり,日本で最も普及した神社信仰である。しかしその発生発達は複雑で,古来諸説が多く,海神,鍛冶神,ヤハタ(地名)神,幡を立ててまつる神,秦氏の氏神,焼畑神,ハルマン halmang(朝鮮語の〈婆さん〉の俗語)の神(姥神)などといわれてきた。しかし八幡宮神事の祭祀集団は,豊前国北部の田川・京都(みやこ)などの集団と,南部の宇佐・下毛などの集団によって構成されている。したがって,祭祀の中心は豊前国綾幡(あやはた)郷あたりにあり,ここにヤハタ神の名が発生したのかもしれない。やがてこの信仰は宇佐地方に入り,宇佐の比黄(ひめ)神をまつる信仰と融合する。この間この祭祀集団の司祭者は雄略朝には豊国奇巫,用明朝には豊国法師として天皇の治病に参内したと伝えられる。欽明朝のころ大神比義(おおがのひぎ)というシャーマンが宇佐に入りヤハタ神に応神天皇の神格を接近させたようである。712年(和銅5)に鷹居瀬社にまつられ,その後小山田社,さらに725年(神亀2)には現在の地に奉斎され,731年(天平3)には官幣にあずかった。八幡神として中央進出を企てたのは,745年聖武天皇が東大寺の地での大仏の造立を発願したころで,当時の司祭者大神氏は進んで朝廷に近づき,八幡神の託宣により鋳造にともなう数々の問題が解決した。749年(天平勝宝1)東大寺ができると八幡神が上京し,八幡神は一品,比黄神は二品をうけ,封戸が施入され,以後国家の大事に関係した。ことに弓削道鏡の野望を託宣により退け(宇佐八幡宮神託事件),天位に決定的力を現し,のち宇佐使(うさのつかい)が始まった。早くから道教や仏教と習合していたので,781年(天応1)護国霊験威力神通大菩醍の神号が贈られ神仏習合の先駆を示した。最澄や空海が八幡信仰に近づき盛んに寺院鎮守に勧請するころ,宇佐では神功皇后を配祀した。とくに最澄が深く崇敬したので天台僧に親しまれ,僧金亀は827年(天長4)豊後国に由原宮を勧請し,宮寺(みやでら)という新しい信仰体制をつくる。この影響で大安寺僧行教により859年(貞観1)山城国男山に勧請され,翌年石清水八幡宮が建立された。そのころから応神天皇,神功皇后の神格が強調され,王城鎮護の神とあがめられ,伊勢神宮につぐ第2の宗妓として崇敬された。その後源頼信など清和源氏が八幡神を氏神とし,関東や東北にまで伝播するようになった。鎌倉幕府が開かれると,鶴岡八幡宮が武士たちに崇敬され,八幡大菩醍への信仰は全国に伝わり武神としての色彩が強くなった。一方宇佐では,神功皇后が配祀されたころ若宮が創祀され,聖母・神母の信仰が九州に現れ,聖母・神母・母子神信仰が広がり,民衆に強い支持をうけた。比黄大神,神功皇后と若宮四神は六所権現として山岳信仰にも結びついて,八幡大菩醍に対して人聞(にんもん)(神母)菩醍が民衆に信仰された。その本山が豊後国国東(くにさき)半島の六郷山で,ここに六郷山修験道が生まれ,安産,生産,災害防止など広く庶民の願望にこたえた(六郷満山)。しかし全国的には応神天皇を中心に,神功皇后,仲哀天皇などと組み合わされて広く信仰された。現在八幡宮に関係する神社は全国に4万余社がある。⇒宇佐神宮 中野 幡能
(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板