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【資料】神秘主義の系譜【探索】
185
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 22:44:35
御真影
ごしんえい
明治以来,第2次大戦に敗れるまでの天皇の写真を言う。正式には御写真と言ったが,一般には御真影という言葉が使われた。その起源は,明治維新直後に打たれた重要な政策の一つとして,これまでほとんど民衆に知られることのなかった天皇の視覚化,言い換えるなら国家権力の可視化という意図にさかのぼれる。明治初期には巡幸という手段がとられる。巡幸にはいろいろな政治的目的はあったが,結局は生身の天皇を人眼にさらして権力の強化を図ることであった。それは一定の効果をあげた。同時に19世紀に発明された写真が,文明開化の日本に普及していく過程の一つでもあった。天皇が写真化されると,写真という複製メディアの性格によって全国に配付可能になり,有効な権力の視覚的中心になる。明治天皇がはじめて写真に撮られたのは1872年(明治5),まだ和装であった。翌年,断髪した天皇は,今度は洋装での写真を撮られ,それがかなり長期間使用される。ともに当時有名な写真家であった内田九一(くいち)の撮影になる。これらの写真は最初は下付を目的としていたのではないが,たちまち地方官庁,軍隊等々に下付され,それを拝跪する儀礼がおのずと始まっている。
青年から壮年の君主に成長した明治天皇の〈肖像写真〉はその後長い期間,撮られることがなかったので,天皇の写真嫌いを懸念した側近の発案で,御雇外国人のキヨソーネが描き,それを写真家の丸木利陽が複製した〈写真〉が制作された。88年のことである。すでに1882年ころから始まっていた高等教育機関への下付に続いて,キヨソーネの〈写真〉が完成したのち,89年には下付の範囲を高等小学校にまでひろげている。同年には大日本帝国憲法が制定され,90年には教育勅語が発布されて,天皇制国家がようやく基盤を確立した時期であった。天皇の写真は天皇と同一視され,学校祝日が制定され,御真影の礼拝儀礼が始まった。御真影は全国に配置され,人々が生きる政治空間を構成するようになる。こうした天皇制国家の空間を視覚的に構成した御真影は,その後,大正・昭和と2代の天皇の場合も続き,天皇制国家の維持強化にいっそう役立ち,第2次大戦の敗戦まで持続して,日本人の生きる空間を支配する抑圧機構の中心となっていた。⇒天皇制
多木 浩二
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