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【資料】神秘主義の系譜【探索】

171名無しさん:2013/07/22(月) 20:13:37
日本書紀
にほんしょき

日本最初の編年体の歴史書。720年(養老4)5月,舎人(とねり)親王らが完成。30巻。添えられた系図1巻は散逸。六国史の第1で,後に〈日本紀〉ともよばれ,《古事記》と併せて〈記紀〉という。

[内容]  巻一と巻二を神代の上と下,巻三を神武紀,以下各巻を1代または数代の天皇ごとにまとめ,巻二十八と巻二十九を天武紀の上(壬申紀とも)と下,巻三十を持統紀とする。文体は漢文による潤色が著しく,漢籍や仏典をほとんど直写した部分もある。記述の体裁は巻三以下を中国の歴史書にならって編年体,すなわち記事を年月日(日は干支で記す)順に排列したために,暦も記録もない古い時代については,物語をその進行に従って分断し適当な年月日に挿入する始末となり,史実としての疑わしさを増し,物語としてのまとまりを失わせた。しかも神武即位を西暦紀元前660年にあたる辛酉の年に設定したので,初期の天皇は不自然な長寿となり,神功(じんぐう)皇后紀でも皇后を《魏志倭人伝》の卑弥呼と考えたので,また120年ほど年代を繰り上げている。

 編集に使われた資料は《古事記》のように特定の帝紀(ていき)や旧辞(きゆうじ)だけでなく,それらの異伝も〈一書に曰く〉として注記し,また諸氏や地方の伝承,寺院の縁起,朝鮮や中国の歴史書なども参照している。7世紀初の推古紀のころからはようやく書かれ始めた朝廷の記録も利用し,7世紀後半には個人の日記も加えて,今日から歴史的事実を究明するための資料は豊富となった。ただ大化改新以後も天智紀までは潤色や記録の錯乱があり,ほぼ史実と認められるのは天武紀と持統紀である。なお表記に用いられている漢字や語法は巻ごとに微妙に異なるので,相違に着目して全巻を分類すると,(1)巻一〜二,(2)巻三,(3)巻四〜十三,(4)巻十四〜十六,(5)巻十七〜十九,(6)巻二十〜二十一,(7)巻二十二〜二十三,(8)巻二十四〜二十七,(9)巻二十八〜二十九,(10)巻三十の10区分,あるいは(2)と(3),(4)と(5)を同類とみる8区分などが可能である。したがって全巻は複数の編集者群により分担して整理執筆されたと想定される。

[成立]  編集の由来を述べた序文を欠いているために成立過程は明らかでないが,天武紀(下)の10年3月丙戌(17日)条に,川嶋・忍壁(おさかべ)両皇子以下12人の王臣に帝紀と上古諸事(旧辞)の記定を命じたとあるのが,編集の開始とみられている。その後,持統朝には斤善言司が教訓的な歴史物語を作ろうとし,有力豪族の18氏が墓記を提出して諸氏の伝承を記録化し,元明朝には風土記の提出を命じて地方の伝承を集め,紀清人(きのきよひと)と三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)に国史の編集担当を命じたことなど,みな《日本書紀》の編集に役立ったのであろうが,これは天智紀以前と天武紀以後との内容の懸隔や,天武紀と持統紀との表現の相違からも確かめられ,結局編集の開始から完成までには40年を要したと認められる。しかし最終段階の編集者は舎人親王以外に明らかでない。太安麻呂(おおのやすまろ)が参加したというのは,子孫の多人長(おおのひとなが)の主張に過ぎず,《日本書紀》が8年前の《古事記》を,内容においても表記においても参考にしていないことは明らかである。

[注釈・研究]  朝廷では最初の正史として尊重され,完成後まもなくから平安前期まで7回にわたって講書の会が開かれ(日本紀講筵(こうえん)),その記録は《日本紀私記》,講書後の宴会での和歌は《日本紀竟宴和歌》として残された。鎌倉時代には最初の総合的な注釈書として《釈日本紀》,室町時代には《日本書紀纂疏》が書かれたものの,考証学的な研究は近世に入ってからであり,江戸中期以後《日本書紀通証》《書紀集解》《日本書紀通釈》など,いずれも全巻にわたる注釈書が刊行された。明治以後は津田左右吉らによって徹底的な記紀批判が推進される一方,国民教育の分野では記紀の記述をそのまま信ずることが要請されて敗戦を迎えたが,今日では考古学,神話学,文化人類学など関連分野からの分析も深化している。                      青木 和夫

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