したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

【資料】神秘主義の系譜【探索】

177名無しさん:2013/07/22(月) 21:00:07
原理日本社
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%90%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A4%BE

蓑田胸喜
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%93%91%E7%94%B0%E8%83%B8%E5%96%9C

津田事件
つだじけん

1940年(昭和15)2月10日,歴史学者津田左右吉の日本神話および上代史に関する4著書,〈《神代史の研究》〉(1924年2月),〈《古事記及日本書紀の研究》〉(1924年9月),〈《日本上代史研究》〉(1930年4月),〈《上代日本の社会及び思想》〉(1932年9月)が発禁処分となり,3月8日津田と発行者岩波茂雄が出版法第26条(皇室ノ尊厳冒済)の疑いで起訴され,42年5月21日有罪判決を受けた事件。事件の発端は,蓑田胸喜を中心として,権力中枢と結びついて国粋主義の宣伝をしていた原理日本社とその機関誌〈《原理日本》〉が津田に加えた攻撃であった。津田の〈《支那思想と日本》〉(1938)が発表されたころから,蓑田らは,ヨーロッパが一つの文化だというのと同じ意味での東洋文化は歴史的に存在しなかったという論旨を,〈東洋抹殺論〉の提唱だとして非難していた。その非難を決定づけたのが,かねて〈天皇機関説の本山〉として彼らに排撃されていた東京帝大法学部に39年10月新設された東洋政治思想史講座の初講義を,南原繁の懇請に応じて講師として担当したことであった。最終講義が終わった12月4日には,計画的に待機していた蓑田を指導者とする右翼学生団体のメンバーが数時間にわたって激しい非難の質問を浴びせるという事件も起きた。

 12月中旬以降,津田は早大当局からたびたび辞職勧告を受け,40年1月早大教授を辞任。2月4著の発禁処分,3月起訴,地方裁判所で21回の公判を経て42年5月,判決が下された。4著のうち,〈《古事記及日本書紀の研究》〉のみ4ヵ所において,〈神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付疑惑ヲ抱カシムルノ虞アル講説ヲ敢テ〉したとの理由で有罪とされ,著者に禁錮3月,発行者に禁錮2月(ともに2年間の執行猶予)が科せられ,その他の公訴事実はすべて無罪とされた。この判決に対し検事控訴が行われ,被告側も控訴の手続きをとったが,そのまま放置され,44年11月4日,控訴院で〈公訴時効完成ニヨリ免訴〉という結末になった。この事件は記紀に関する画期的な文献批判(記紀批判)による最も卓越した学術的業績に加えられた圧迫であり,天皇制国家の権力統制の核心を示す象徴的事例といえよう。
                       掛川 トミ子

(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.

滝川事件
たきかわじけん

1933年京都帝国大学教授滝川幸辰(ゆきとき)と京都帝国大学に対する思想および学問の自由,大学の自治(教授会の自治)の弾圧事件。京大事件ともいう。1930年代初めの思想問題(大学生の〈赤化〉問題)に危機感を抱いた復古主義的右翼は,その原因が自由主義思想にあるとして,東大の美濃部達吉,牧野英一,末弘厳太郎や京大の滝川ら自由主義的法学者を非難していたが,32年に滝川が中央大学で行った講演(〈《トルストイの《復活》に現はれた刑罰思想〉)をとらえ攻撃を開始した。議会では貴族院の菊池武夫と衆議院の宮沢裕が滝川の著書《刑法読本》を危険思想であると攻撃した。内務省はこれをうけいれて,33年4月11日滝川の《刑法読本》(1926),《刑法講義》(1932)の2著を発売禁止とした。ついで鳩山一郎文相や文部省は小西重直京大総長に滝川教授の辞職または休職を要求した。これが拒否されると政府は5月26日滝川の休職処分を発令した。これに対し法学部の全教官が辞表を提出し,学生は学生大会を開いて抗議した。全国の知識人,学生も大学自由擁護連盟をつくるなど支援したが,運動は十分広がらなかった。文部省は京大法学部教授会を分断するため,滝川,佐々木惣一,宮本英雄,末川博,森口繁治,宮本英脩の6教授のみを免官とした(宮本英脩は復帰)。この処分に抗議して恒藤恭,田村徳治両教授と助教授4名,講師・助手・副手8名は辞意を貫ぬき,法学部スタッフの3分の2が失われた。こうして抗議の姿勢を崩さなかった大学人は学問の自由,大学の自治擁護の輝かしい伝統をつくりあげた。他の教授は文部省の説得をうけいれて辞表を撤回した。その後学内の学生組織が解散を命じられるなど自主的な運動が抑圧された。この事件は,思想弾圧が社会主義思想抑圧から自由主義思想抑圧まで一気に拡大される出発点となった。また政府が勝利したことによって,学問の自由,大学の自治は失われた。以後自由主義思想や学問の自由,大学の自治に対する攻撃は強まり,35年の天皇機関説事件,37年の矢内原事件,39年の河合事件などを生むことになる。                      吉見 義明

(C) 1998-2000 Hitachi Digital Heibonsha, All rights reserved.


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板