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【資料】神秘主義の系譜【探索】

175名無しさん:2013/07/22(月) 20:19:00
皇国史観
こうこくしかん

近代日本史学史上の一潮流。日本の歴史を〈国体〉の顕現・発展としてとらえる歴史観で,1930年代半ばから敗戦に至る時期に確立,全盛期をもつ。この史観は次の三つの内容をその特徴としている。(1)日本は神国であり,皇祖天照大神の神勅(〈天壌無窮の神勅〉)を奉じ,〈三種の神器〉を受け継いできた万世一系の天皇が統治してきたとする,天皇の神性とその統治の正当性,永遠性の主張。(2)日本国民は臣民として,古来より忠孝の美徳をもって天皇に仕え,国運の発展に努めてきた,とする主張。(3)こうした国柄(〈国体〉)の精華は,日本だけにとどめておくのではなく,全世界にあまねく及ぼされなければならない(〈八紘一宇〉),という主張である。

 こうした歴史観は,《古事記》や《日本書紀》,あるいは《神皇正統記》や《大日本史》等にその淵源を求めるものであるが,そもそも,明治維新以降の日本における近代史学の形成は,こうした大義名分論的な歴史観からの独立,それとの対決を通じてなされていった。田口卯吉らの文明(啓蒙)史学や東京(帝国)大学の国史学科を中心とするアカデミズム(実証主義)史学,さらには山路愛山らの史論史学といったものがそれであり,こうして近代的な学問,科学としての歴史学の基礎がつくられつつあった。しかし日清・日露戦争を契機とする国体論やナショナリズムの高揚を背景とした久米邦武の事件や南北朝正閏(せいじゆん)問題を通じて,こうした歩みも挫折を余儀なくされた。もっとも皇国史観といわれるものは,この時期以降もなお未確立で,学問・研究の分野では主流ではなく,1920年代にかけて津田史学や柳田民俗学,さらには文化史学といった自由主義史学や唯物史観にもとづく史学が大きな力をもっていた。一方,〈教育勅語〉(1890)や〈軍人勅諭〉(1882)に見られるように,学校教育や軍人教育,さらには在郷軍人会や青年団等における社会教育の分野では,国体思想にもとづくイデオロギー教育が強化され,しだいにその影響力を強めていった。日中戦争が泥沼化し,太平洋戦争に突入する30年代の半ば(昭和10年代)になると,政府は国民を戦争に総動員するために,共産主義思想はおろか民主主義・自由主義思想の一掃をもはかった。相次いだ共産主義者の弾圧や天皇機関説問題,津田左右吉事件はそれらのあらわれであった。平泉澄(きよし)に代表される皇国史観が国家権力・軍部の庇護を受けて,学問・研究の分野においても独占的地位を占めたのはこの時期であり,文部省発行の《国体の本義》や《臣民の道》は,この極点に達した皇国史観の結晶であった。こうしてこの史観は大東亜共栄圏の建設の名の下に,国民を大規模な侵略戦争に駆り立てるうえで大きな役割を果たした。

 第2次大戦後,国教分離指令や〈天皇人間宣言〉,さらには〈教育勅語〉の失効により,その生命は絶たれたかにみえた。しかし1950年以降のいわゆる〈逆コース〉のなかで,紀元節の復活(建国記念の日の制定)や靖国神社法案,元号法の制定や教育勅語の復活運動,また天皇への敬愛や尊厳性の強調,国民の主権者意識や権利意識への批判的姿勢を特徴とする中教審の〈期待される人間像〉や文部省の教科書検定などの動向にその影が見受けられる。         中島 三千男

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