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【資料】神秘主義の系譜【探索】
156
:
名無しさん
:2013/07/22(月) 19:11:44
陰陽道
おんみょうどう
日月星辰の運行や方位をみ,特殊な占法を用いて国家・社会や個人の吉凶禍福を判じ,あらゆる思考や行動上にその指針を得ようとする諸技術をさし,これに関連する思想・理論も含まれる。中国古代,夏・殷(商)王朝のころに発達し,周王朝の時代に完成した。いわゆる易と称するもので,その代表的な典籍が《周易》である。その思想・理論の中心となるのは陰陽(いんよう)五行説で,日月と木火土金水を万物生成の主要素とし,これに十干十二支の説が結びつき,それらの複雑な組合せから歳月日時方位に占星的価値がつけられ,天文・暦法が加わってここに原始的科学知識が成立した。これは人間の未来を予知するよりどころとして古代漢民族社会を風靡した。
日本へは仏教が公伝するのと前後して輸入された。すなわち継体朝には百済から段楊爾,漢高安茂等の学者が派遣されてその紹介指導にあたり,602年(推古10)には百済僧観勒が暦本,天文地理書,筒甲方術書など陰陽道関係の書物を献上した。聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法制定に陰陽道をとりいれ,国史編纂には国家の起源にこれを利用するところがあった。大化にはじまる元号制定は中国にならい,祥瑞改元(吉兆とされる現象をもって新しい年号をたてる陰陽道思想)によったもので,これは奈良朝を通じ踏襲されたが,平安朝に入るころから災異改元(天災地変など凶兆とみられる現象をもって新しい年号に代える陰陽道思想)に転じ明治維新までつづいた。白村江の戦以後,百済からの亡命や大陸留学者の帰還によって帰化人系陰陽家が多数活躍し,角福牟(ろくふくむ),僧法蔵,同行心,同道顕らが知られるが,朝廷では僧侶は還俗のうえ仕えさせたので,行心の子僧隆観は金財(たから),僧義法は大津首意毘登(おおつのおびといびと)と改めている。天武天皇はみずから天文・筒甲の術をよくしたといわれ,はじめて陰陽寮をおき占星台を興した。律令制が整備されると陰陽寮は中務省に属し祥瑞災異の判定や新都建設の地相卜占をつかさどったが,反面この方面の専門書や天文器物の私有は禁ぜられた。平安朝に入り,律令制の衰退と藤原氏の政権掌握に伴い,陰陽道は権力者に利用され陰陽師の禁忌卜占が政治に影響するところが多く,貴族の御用的性格を帯びた宮廷陰陽道へと変わっていった。藤原良房の進出した仁明・文徳朝(833‐858)ころよりこの傾向は著しく,藤原師輔は《九条殿遺誡》《九条年中行事》を著して多くの陰陽道的禁忌や作法を明示し,宇多天皇も《周易》に詳しかった。かくて滋岳川人(しげおかのかわひと),弓削是雄(ゆげのこれお)ら名人が輩出し,川人は多数の著作をのこし日本における陰陽道の基礎をつくった。平安中期に出た三善清行も易に通じ,辛酉の歳には革命,甲子の歳には革令があるとの中国の讖緯説(しんいせつ)(周期的予言説)をひいて改元を上奏し,年号を延喜とした。これより周期的災厄説による災異改元が恒例化した。
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