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【バンパイアを殲滅せよ】資料庫

29麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/05/03(金) 07:36:36
じっとこちらを見つめる瞳から眼を逸らす。
ヴァンプなら多かれ少なかれ持っている「魅了」の力に負けそうな気がしたから。
銃身にそっと置かれた厚ぼったい掌の重みに任せ……僕はそれを下に降ろす。
優しく笑った田中氏がくるりと背を向ける。
僕は絶対に自分を撃たない、そんな自信がその背にあった。

「『この私が何者か』。齢を聞く者はあっても、それを直に言葉にした者はついぞ居りません。あの伯爵様ですら」

僕は少し面白くなっていた。
正体をどうこう言うって事は、この人がよほどの有名人だって事だからだ。
もちろんあの人材派遣会社の社主だって事は周知だから……もっと……聞けば驚くほどの人物。
僕と同じ「芸を嗜む者」として有名な人。あはは……アニメとか漫画好きの魁人なら海原○山じゃね? とか言いそうだなあ。

「……解る気がします。貴方を見ていると正体を探るのが悪い気が。一体おいくつなんですか? ご出身は?」
「ほう? 当ててみますか」
「伯爵も知らない貴方の正体、是非知りたいですね」
「面白い。でも情報を差し上げよう」

向き直った田中氏が、子供みたいに眼を輝かせる。後ろに控えていた桜子似の女性がチラリとこちらに視線を送る。

「生まれは大永2年。齢じき500に成り申す。堺の片隅にて干魚を商っておりました」
「大永……?」

大永元年が西暦何年に当たるのかなんて覚えてない。けど、でも500歳近いって事は……

「なるほど、織田信長より10歳ほど年上ですね」
「これは驚いた。史実にお詳しいのですな」

大きめの眼を大きく見開いた田中さん。
……いえ、たまたま僕、信長が出て来るドラマにハマってて、生きてたら何歳なのかな、なんて計算した事あっただけなんです。

「ではすでに答えは出ておりますな。私は名を偽っておらぬ故」
「……え……田中って……本名なんですか?」

絶句してしまった。だって……この人は初めから正体を隠してなんか居なかったって事で。
その前に有名人でも何でもなかった?
僕は知らない。田中与四郎なんて……日本史に出てきた覚えなんか……
でもこの人は得意気な顔して「当ててみろ」って…………いや……待てよ?
昔の人達って幼名があったり、格が上がると上の人から名前貰ったりしてた。田中氏もきっとそうだ。
そして……その時代に「芸」で名を上げた人物なんて居たっけ?
1500年代……ルネサンス音楽の最盛期。その頃日本で盛んだった文化と言えば……
信長と同じ時期……芸能……文化……そう言えば信長とか秀吉って茶の湯とかにハマって……茶の湯?
その道で有名な人は一人しか……って……ええっ!?

「貴方はまさか……千利休!!?」

眼を閉じ、満足げに頷く田中氏。僕はしばらく壁に寄りかかったまま、田中氏と女性とを交互に眺めていた。

30麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/05/06(月) 07:21:20
「驚きました。散々ヴァンプ達を狩ってきましたが、歴史上の人物に出会ったのは初めてです」

心が浮き立ってしまっている僕がここに居た。
ハンターがヴァンプに心を動かされるなんて許されない事だけど、でも……「千利休」ですよ?
表千家とか裏千家とか僕にはさっぱりだけど、でも戦国ドラマとかに良く出てくるし、この人を題材にした読み物も結構ある。
信長や秀吉だけじゃない、大名にもこの人のファンがたくさん居たらしいじゃないですか。
秀吉に「公儀なら秀長、内々のことは利休に頼め」とまで言わせた人ですよ?
そんな人がどうしてヴァンプなんかになったのか、気になるじゃないですか。
ていうか、聞かなきゃならない。この人の目的、どんなつもりで伯爵を補佐してるのか。

無線のスイッチをONにする。
電波の届きにくい地下からどれだけ伝わるか分からないけど、でも僕の音声をリアルタイムで魁人に伝えなきゃ。

「教えてください。僕を……いいえ、我々人間をどうするつもりなのか」
「……どうする、とは?」
「貴方が秀吉にされた仕打ちを思えば、人間を憎む悪鬼と化すのが自然です。伯爵の『共存案』に賛同するとは思えない」
「なるほど。世間では大公が私に腹を切らせた事になっとりますからな」

田中氏が顎に拳を当て、懐かしむような顔をする。

「……違うんですか? 秀吉の朝鮮出兵に反対してその怒りを買った、そんな風に記憶してましたが」
「死を賜ったは事実ですが……なに、子供同士の喧嘩ですな」
「……喧嘩?」
「然様。あの命は大公の本心ではあらなんだ。頭を下げろ、されば許すと仰せであった」
「……謝っていれば済んだ話だったと?」
「この儂が心内(こころうち)では大公に傅いておらぬと気付いとられた。故に心よりの平伏を望まれたに相違ない。当然でしょうな!
 茶席にて私を師と仰ぐ武将もあまたなれば、いちいち物申す茶坊主はさぞ腹に据えかねる瘤(こぶ)であったでしょうな!」

高く笑った田中さんは、とても500歳とは思えないほど屈託のない笑顔を見せて、そして――ゆっくりとその腹を撫でた。

「あの日の朝は忘れもしない、押し寄せた黒雲が朝の日の出を覆い隠す、ほの暗き未明。上空にて唸る風の音は相当なれば、
 大振りの椿の枝が灯籠を激しく叩いておりました。屋敷を取り囲む兵達が気の毒に思えるほどでしたな。
 立会と介錯に訪れた侍が濃茶を啜る中、かねてより支度していた吉光(よしみつ)の……あのすらりと伸びた白刃を眺め、
 ようやくに恐怖というものが腹に沁み申した。いやはや……人を殺める「刃」とは……見るに恐ろしいものです」

「なんてことだ……そこでもし切腹を思いとどまっていれば、『千利休』は無駄に死なずにすんだ……」

たまらず呟いた僕に、田中氏は笑顔を向けたまま。

「同じことを立会人も申された。しかし……儂は心を決め、答えた。この死がいずれ我が茶を崇高なるものにしようと。
 所詮儂も麻生どのと同じ、数寄者であったという事よ! 我が茶道と美なる意識を高めんが為、死を選んだのです」

「待ってください、貴方と僕の何処が同じなんです?」

そうですよ、どうしてそこで「僕」が出てくるんですか?
なんですか? その「してやったり的」な目つきは!

「おや? 貴方も殉じようとなされたではありませんか。自らの米神にその銃口を押し付ける姿、なかなかの見物でしたぞ?」
「……え?」

この人はあの日のことを言っている。
サーヴァントになってしまったと気付いたあの日、ハンターにもピアニストにもなれない、ならば死のうと決意したあの日のことを。

「芸の為に死を厭わぬ。それこそが我らが道。人を持て成す、その為の技を磨くが我らが悲願なれば、共に研鑽し合いましょうぞ?」

僕はベレッタのグリップを握り直し、ゆっくりとセイフティをロックした。
この人が一体どこに行こうとしているのか……僕にはやっと解った気がしたからだ。

31麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/02(日) 07:28:02
「善きご判断ですな。我らとは敵対せぬ、そうご決断されたと……受け取って宜しいですな?」

満足げに頷きながら田中氏が笑う。
僕は頷き返しはしなかったけど、でもその言葉を肯定する仕草を……つまりベレッタを下に置いた。

電源はまだ落ちたまま。
非常灯にぼんやり照らされた田中氏の顔色は……どんな色なのか全く伺えなくて。
まっすぐに僕を見下ろす二つの眼は、闇にたたずむフクロウのようで。

「伯爵様はお悦びになりましょう。喉から手が出るほど欲しかった貴方が……仲間となる」

言うなり肩を掴まれ、僕は容赦なく引き寄せられた。
僕がワクチン投与済みだって事までは知らないんだろうか?

「貴方ほどの人が何故『伯爵様』と? それほどの器を持っているのに?」
「ははは……私など……今も昔も、只の『同朋』以上になれぬは承知。なれば我が役目は木守り」
「木守り?」
「左様。一族を救い、率いる御方を見出し、見守るが我が務め。いまの伯爵様は正当なる法を以て我等と人間の共存を成そうと
されておいでです。人と我等の共存、それが実現するとなれば、我等が道も更なる高みへと昇りましょう」
「我等が道とは、つまり芸術の道、という事でしょうか? 貴方が求める物とはいったい何ですか?」
「知れた事。正しき義を探るが法学者、真(まこと)を探るが科学者とするならば、美なる物を飽くなく求めるが芸術家ですぞ?」
「……美なるもの……」
「美しき旋律にて、美しき景色にて、或いは美しき仕草にて人を癒すが我等が務めではありませぬか」
「……人を……癒す」
「私と貴方は同類。儚き者達への癒しのため。その為に……共に伯爵様の御許へと」

耳元でするギチリという音は……犬歯がわずかに伸びる音。
熱い息が耳元から喉元に降りてきて、そして牙の先と唇が僕の喉元を捉えた時……
初めて知りました。吸血の際に犠牲者を襲うのは苦痛でも恐怖感でもない、凄まじい快感だって事を。
痺れるような快感が稲妻のように背筋を駆け抜け、この身体を支配する。
硬直する手足と、ともすれば手放したくなる意識。
おそらくそれに委ねた瞬間に……人は隷属するのでしょう。血によるものではない、精神的に奴を「主」と認めてしまう。
僕はそれに抗った。桜子と共に弾いた、ラ・カンパネラの旋律を追った。
基調となるEフラットの音。
Eフラットじゃない、Dシャープでしょう?
いつも笑って君は言ってたね?
だから僕の漏らしたこの声は……誓って快感のためじゃない。

田中氏の顔色が変わった(と思った)。
引き抜かれる牙と引きはがされる身体。
僕の眼を一心にみつめる田中氏の眼は、一見して闇の色だったけど、でもたぶん違う。
緑光のもと、「赤」が「黒」に見えるだけだ。吸血中のヴァンパイアの眼の色は須らく赤。例外はない。

「いま……何を?」

田中氏の声には狼狽の色。

「いま……何をされた? その声は……音は……まさか――」

パラリと振りかかる何かは、剥がれた天井の塗装だろうか。
軽い貧血だろう、フワリと頭が軽くなって――そして座り込んだ僕の上に何者かが覆いかぶさった。

32佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/14(金) 19:17:34
廊下の赤い絨毯を照らしていた夕暮れの陽が陰り出したのは、菅さんが一通りの意見を言い切ったすぐ後だった。
つるべ落とし、なんて良く言ったものよね。今の時期はほんと、日が暮れたと思えばほら……もうこんな夜。
昇降口から冷たい風が流れ込んできて、さっきまで籠ってた熱気をいっぺんに吹き散らした。

「さむい……わね」

あたしはゾクゾクする両肩を自分自身で抱きしめた。
変ね……遠くで……フクロウか何かの鳴き声がしたような?

「誰かエアコンのスイッチ入れてくれない? まさかここ、暖房とか無い?」

黙ったまま周囲を見回すクロイツとSP。総理もしきりに天井を見上げて首をひねってる。
そうそう、寒いも寒いけど、やたらと暗いのよ。ぜんぜん明りが付かないの。
それどころか、窓から普通入ってくる外の光――街頭とかオフィルの明りも入ってこないの。
時々パシャッと差し込む強烈なライトは報道陣のフラッシュ。そのたびに男たちの横顔がパッと闇に浮かんでは消えて、やだ不気味。
どうして照明つけないの? 中が丸見えになっちゃうから?
なんて総理に訊こうとしたそんな折、廊下の向こうから駆けてくる足音がしたの。

「総理! 本館、官邸、その他永田町や霞が関一帯の電源が落ちています!」

そっか、どおりで変に暗くなったと思ったわ! なんて思いながら、声のする方を見たら……なんか様子がおかしいの。
廊下の向こうはホント暗くて、そいつは只のぼやけた人型にしか見えないんだけど、
息切らしてハアハアしながら、あたし達から距離を取ったまま近づこうとしないの。
「君は何者かね? 顔を見せたらどうかね?」
なんて総理が窘めても……顔を背けてみたり、手で覆ってみたりして。
そんな彼に、SPとクロイツが一斉に銃を向けた。恐る恐る両手を上に上げた男が口を開く。
「待ってください……私は――」
その瞬間だったわ。眩しいフラッシュのライトが、彼の姿をパッと照らし出したの。
流石のあたしもぎょっとした。
だって。だってね? 男の顔は傷だらけの血まみれで、しかも耳と鼻が削ぎ落されていたんだもの!

「撃てええ!!」

誰かの指示が飛んで、あたし、咄嗟に自分の耳を塞いだわ!
だってさっきあたしを撃った時と全然違う、サイレンサー無しの一斉射撃!
議事堂って廊下の天井がとっても高いし、すぐ傍は中央の大広間があるから? 火薬の炸裂音がすっごく良く響くのよ!
んもう! 手で塞いでんのに凄い音! ていうか、たった一人にそこまでする?

33佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/14(金) 19:18:50
唐突に音が止んだんで、あたしはやっと耳から手を離した。男はたぶん……廊下の向こうまで吹っ飛んでったわね?
でも大丈夫かしら。だって状況から考えたら彼、ただの人間よね?
クロイツは彼を敵だと認識したみたいだけど……それとも疑わしい目標は迷わず撃てって指示が出てるとか?
指示を出していたリーダー格の男があたしに向かって顎をしゃくったんで、あたしはじっと睨み返した。
でも……そうね。医者として確認すべきことはしなくちゃね。

むせかえるような硝煙の煙には、血の匂いが混じっていて……ゆっくり進むとさっきの男が仰向けに倒れてた。
集中的に胸部を狙ったのね。心臓なんか跡形もないけど、その他の部位の損傷はほとんどない。
ペンライトによる瞳孔の反応はゼロ。虹彩の色は濃い茶色。。
体温は……まだ……36度よりやや高め。
Yシャツのボタンを外してみたけど……やっぱりね。首回りはまったくの無傷。
仕立ての悪くないスーツの襟もとには血に染まった臙脂の議員バッジ。
あたしはそのバッジを襟から外して、じっと見守っていた一同にかざして見せる。

「噛まれた痕は無いわ。この人は人間。代議士の一人だったみたいね」
「……」

険しい顔であたしを見つめる総理。クロイツ達の表情も硬い。
……そうよね。ただの人間……しかも議員の一人を殺してしまった。

「これって……どうなるの? 緊急時のどさくさって事で済むの? 済まないの?」
「済むまいね。無論、居合わせた私の責任だがしかし……事は収束には向かうまい」
「え?」

あたしは総理の視線を追って……そして納得した。
硝煙の煙が立ち込める廊下の向こうに……チラチラと赤く点灯している大勢のヴァンパイア達の眼があったから。
その中から一歩進み出た大柄な人物に、とっても見覚えがあったから。

「何のつもりですか……田中さん」

その人に向けられたその声に、あたし、ハッとなって振り向いた。
いつの間に入ってきたのかしら!
外に居たはずの報道陣やら議員やらが大勢居て……そして、その真ん中に、後ろ手に手を拘束されたままの菅さんが立っていた。

34如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/15(土) 17:40:19
伯爵もふざけた野郎だ。
『排斥し合う時代じゃねぇ』なんて、正論ぶちかましやがって。
今まで散々人様の喉喰らいつくして来たくせにどの口が言ってんだって感じだぜ?
広場の連中はすっかり奴の信者だ。奴ぁ……眼力だけじゃねぇ。声とか仕草にも「魅了」の効果があんに違ぇねぇ。
俺には通じねぇかんな?
意味もほとんどチンプンカンプンだったし?
――違ぇよ! 法律に疎ぇわけじゃねぇ! 
俺は指揮官として周囲に眼ぇ配ってっからよ? 奴の与太話(よたばな)耳かっぽじって聞くヒマなんかねぇんだよ!

ブルルルル! っと姫が啼いたが、広場の連中は見向きもしねぇ。報道も、沢口含めた議員も、戦闘員もみんなだ。
軽い催眠状態って奴だ。
メディア通して伯爵の映像見た奴らも、同んなじ状態になってるに違ぇねぇ。
(……畜生……対ヴァンプ戦にゃ防音のイアーマフが必須だぜ? 無線だけ使えるタイプのな?)
俺ぁ返り血でも浴びたみてぇに赤く染まった議事堂を見上げた。
この場の奴らに俺の言葉は届きそうもねぇが…………流石に沢口と狙撃は無事だろ。

『ボス、やっぱやっちまおう。いいな?』
『……やる? 何をだ』
『何って……決まっんだろ。伯爵を始末すんだよ』
『待て。こちらは伯爵様の意見を最大限に取り入れる用意がある』

ぞっとしたぜ。沢口の奴、伯爵をサマ付けで呼びやがった。しかも「用意」だと?
見ろよ、吹きっ晒しの野っぱらで鍛えた筈の俺の二の腕に鳥肌が立ってやがる。
赤かった議事堂が見る間に紫に変わっていく。不味いぜ……夜行性の方々の時間になっちまう。

『狙撃! 伯爵の心臓ぶち抜いちまえ! 俺が許す!』
『拒否します! そんな事をしたら伯爵様が――』

――狙撃……お前もか!?

俺は震える手で沢口と狙撃に繋がる無線を引き千切った。
動転したときぁ……大きく深呼吸だ。……そうだ。落ち着け、俺。

35如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/15(土) 17:43:18
肌を刺す夜風。
頭の上を飛び退るコウモリ野郎。
群衆は動かねぇが、フラッシュの音と光は健在だ。
一帯の電気が付かねぇ。奴らが電源を落としたのかも知んねぇ。
そういや結弦が降りた……地下はどうなってる?
そうだ! 地下に配置した奴らが居たじゃねぇか! クロイツと自衛隊から特に射撃の上手い奴を厳選した精鋭部隊!
沢口おすすめの人材(後輩の議員様だと)も何人か置いたらしい。
あそこなら伯爵の演説は聞こえてねぇ!
なんて俺が気を取り直した瞬間、結弦からのコールが来た。さっすが結弦! いいタイミングだぜ? だがな?

『教えてくだ――。僕を――我々人間をどうするつもり――か』
『……は? お前なに言って・』
『貴方が――にされた仕打ちを思えば、人間を――悪鬼と――のが自然――伯爵の――に賛同するとは思え――』

切れ切れにしか聞こえねぇが……どうやら結弦の奴、俺じゃなく他の誰かとしゃべってら。
誰か? なんて分かんねぇが……どうやら人間じゃねぇ。
(人間をどうするつもりかって人間に訊かねぇだろうからな!)
ヴァンプにしても下っ端とんな話するわきゃねぇから……相手は幹部だ。
桜子は死んだから幹部は3体。消去法で伯爵と司令を除きゃあ……田中だ。気功使いの田中大先生しか居ねぇ。
まじぃ。
最初から田中先生が居たとなりゃあ……どんな精鋭も歯は立たねぇ。
おそらく奴ぁ結弦をわざと生かしてんだ。伯爵は俺達ハンターをご所望らしいからな。
結弦はとうぜん仲間になる気はねぇ。じゃなきゃわざわざ俺にコールなんかしねぇ。


俺ぁ出来るだけ耳澄ませてみたが、雑音がひでぇ。
……と、ガチャガチャピーピー言ってたスピーカーがまた音を寄越した。この声は……結弦……か?

「やべぇ! 全隊員、避難だ! 近くの非戦闘員を伴って速やかにこの場を撤退しやがれえええ!!!!」

俺が焦った理由は後から話す! とにかく今は非難が先だ!
だが俺の声はこいつらには届かなねぇ。
全開になった昇降口から、銃撃音がしやがったんだ。少なくとも射手は10名。さっき女医の居た……もっと奥のあたりだ。
スクープだとばかりに報道が中に入ってく。
――畜生! こんな時に限って!!

「おおおおい!!! 入んな!! どけ!!」

俺は奴らに向かって叫んだ。
棒立ちになる姫を必死こいて抑えたぜ。たてがみを掴んで、耳の根っこを捕まえたりしてな。
ピンっ……!! と音を立てて外れた銀のピアスが、キラリと闇に飛んで消えた。
そん時だった。
背を向けて雪崩れ込む連中に混ざる伯爵が一瞬だけ振り向いて……その眼を赤く光らせたんだ。

36如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/16(日) 21:47:59
≪ギュオオオオオオオオォオオオオオオオ!!!!!≫

姫が吠えた。すげぇ声でだ。

「ひ……姫ぇ!?」
俺は姫の首に抱き着いた。
引き絞られるみてぇな振動が胸に直に伝わって、うへぇ……張り裂けそう。
んな俺を横目でギロッと睨んだ姫が、一度眼ぇ閉じてな? ゆっくり瞼を上げたんだ。
金の眼だった。
静かだが底の知れねぇ眼だ。
んで解っちまったのよ。この眼は伯爵だ。麗子さんに乗り移ったそん時の眼だってな。
さっきのあれか? 赤い眼でこっち見た、そん時に姫に入ったってのか?

猛烈な尻っぱねが俺を跳ね飛ばした。反動で結弦と俺を繋いでたインカムもどっかに飛んだ。
あわや地面に激突ってトコでギリで体勢立て直す。水流先輩仕込みのバック転だ。
俺の真上で棒立ちになった姫は……うは……まるで〇塾3号生筆頭だぜ? でっけぇのなんの。

「姫! 悪ぃ!」
しゃがんだまま上に銃を構えた。撃鉄は起立済み。姫の心臓の位置ぁ……熟知してらぁ。
何だ? 空一面、何もんかがびっしり飛び交ってやがるが……
引き金引いたぜ。
同時に2発。
だが弾ぁ2発ども質量のでけぇ盾に阻まれたんだ。
「うわわわわ!!」
俺ぁたまらず後退した。パタパタした小っせぇもんが大量にぶつかって来たからだ。
「やめっ! ぅわっ!!」
小せぇっつったってバカに出来ねぇ。目も口に開けてらんねぇ! 
キィキィ言うこれ、コウモリか? 空飛んでたのもこいつらか?
兵士どもの掩護はまったくねぇ。ただぼうっと突っ立ってんのか?
号令かける間もなく俺ぁまたまた吹っ飛んだ。今度は胴体にまともに喰らってだ。
馬の蹴りだ。鍛えた腹筋無けりゃ内臓やられてたとこだ。
着地は……間に合わねぇ。せめて頭守って転がんのが精一杯だ。

攻撃は緩まねぇ。
横っ腹ガンガン蹴られて、そんたびに俺は地面を這いずった。んで仰向けにされたとこをトドメの一発が来たわけだ。

37如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/17(月) 07:16:37
「がはっっっ!!!」

踏みつけられたのはちょうど胃の真上だ。
まともに体重かけられたらペシャンコの筈だが……奴ぁ加減してやがる。
加減して蹄鉄履いた蹄の先っちょでグリグリやりやがった。
……やっぱ伯爵だぜ。今朝も尖ったヒールでこんな風に踏まれたっけ。
俺ぁ気が遠くなりかけながら……利尻の島が水平線の向こうに浮かんでんのがはっきり見えたんだ。カモメまで飛んでら。
……俺、死ぬんかなぁ。
口から溢れてやがるこの熱いもんも……さっき飲んだコーヒーじゃあ……ねぇだろなぁ。

なあ姫。
もしあの世ってもんがあったら……また俺とあの海岸をひとっ走りしようや。
そのまま宗谷岬まで突っ走って、道東まわって道南までぐるっと回んのもいいかもな。
知ってっか? 根室はすっげぇ朝が早ぇんだと。お日様が水平線から昇るのが見えるらしいぜ。
夕陽じゃねぇ……朝日で真っ赤に染まったお前の髪も……なまら……綺麗だろうなあ……


「いてっ!」

いきなり意識がクリアになった。米神をビシッ! っとやられたせいだ。
首を巡らせハッとしたね。俺目掛けて礫を投げた奴が居たもんだ。
見た目はフリーのライターみてぇな恰好だが、俺にはすぐにピンと来た。司令の報道記者バージョンだってな。
司令! いつの間に! って驚くのが礼儀かも知れねぇが、今更だ。神出鬼没は司令の十八番だかんな。

『そんな所で終わる君かい?』 

司令の口がそんな風に動く。
でもよ、俺はどっかで……死んでもいいって思ってる。姫は俺の家族だぜ? 可愛い妹で、恋人だ。んな相手に本気になれっかよ。
そしたらボタボタっと、これまた熱い何かが俺の顔に降りかかるわけよ。
何かと思って上を見りゃあ……姫が泣いてやがる。
血の涙だ。金に光る眼が……赤い血で真っ赤に濡れてやがる。
姫……俺……俺は……


「分かったぜ、姫。先に行って待ってろ」

38如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/17(月) 07:20:09
姫が咆哮した。
司令の姿は……ねぇ。伯爵んとこにでも行ったか?
俺ぁヴァンプになっちまったもんの気持ちなんか分からねぇ。
司令が何であん時血の涙流した訳も……さっぱりだ。理解なんか出来っこねぇ。
俺にやってやれるこたぁ……ひとつだけだ。終わらせてやる、ただそれだけだ。

両眼を凝らす。
夜目が利くわけじゃねぇが……平野で鍛えた視力をナメんなよ?
そこここ飛びまわる蝙蝠の金の眼と、どっかで焚かれるフラッシュの光源。
これさえありゃあ……十分だぜ。

左右のトリガーをコンマ一秒の差で引いた。
前は姫の足で塞がれってから……狙いは斜め左と右だ。
何処狙ってるって言われりゃあ、さっきから突っ立って俺ら眺めてる奴等、の持つライオットシールド? あの長四角の楯。
そりゃ真正面からぶち当てりゃあ……マグナム弾だ、あんなん簡単に貫通しちまうが……角度つけりゃあ平気だ。
ガシッと当たって跳ねた弾頭が飛びまわる蝙蝠どもをかいくぐり……後は見ての通りだ。

俺に乗っかる体重が軽くなる。フワッと溶けるみてぇに霧散する身体。
クリーム色の鬣も、肌も、白い蹄も、なんもかんもが消えて無くなった。な〜んも残さねぇでこの世から消えちまった。

「……なんでヴァンプってのは……死ぬとこうなるのかねぇ」

俺の弾当てられた野郎が近づいてきて、俺の手を取った。
眼ぇ覚めたんだろ。流石ですね! なんてほざきやがって。
そりゃまあ簡単にやれる事じゃねぇ。
跳弾使う技術もそうだが、いま肝心だったのは馬の解剖学だ。
馬の心臓のど真ん中――第4から第5肋骨の隙間が何処にあるか知ってねぇといけねぇ。
馬の胸は人と違って縦につぶれた形状だ。正面は頑丈な胸骨ってもんが邪魔で、心臓は狙いにくいのよ。
だから横から狙って脇の下が空いた瞬間を狙ったわけだ。

俺を誰だと思ってやがる。
あの水流先輩の弟子だぜぇ?
跳弾使い(の弟子)の名は伊達じゃねぇ!! 畜生!! 畜生!!!!!!!

39如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/22(土) 19:15:53
足元に転がるピアス。
たったさっきまで姫が付けてたこれが、彼女の形見になっちまった。

むわっとした生温けぇ風。
この風が吹く時ぁ……決まってる。決まって酷ぇ嵐が来るんだ。いつもそうだ。
俺は胃ん中の溜まり血を綺麗さっぱり吐いちまってから、携帯のクスリを口ん中に放り込んだ。痛み止めと止血剤だ。
さっき俺の手ぇ取ってくれた野郎が目ぇ丸くしてこっち見てやがる。見たとこまだ……10代だが……
へぇ……こいつだけ「他」と違うぜ?

「てめぇ……名前は?」
「え? あ、はい! 宇南山(うなやま)拓斗(たくと)といいます!」
「……見たとこ自衛官候補生だな。歳いくつだ?」
「18ですが……良く候補生だと分かりますね」
「丸で囲った緑の桜はそれ以外にねぇだろ。……奴ら……んなのばっか寄越しやがって」
「伍長! 自分は確かに下っ端ですが、射撃の腕には自信があります!」

ビッと背ぇ伸ばして俺を見る宇南山。……なるほど。いい眼してるぜ?

「すまねぇな。若ぇのは取っとけって意味だったんだが……一応聞いとくぜ。どっちだ?」
「え?」

俺ら囲む奴らが、しまりのねぇ顔して立ってやがる。手に持つ得物にゃしっかりセイフティかけやがってな。
伯爵に銃は向けられねぇってか。

「こいつらと同じ……奴に共感しちまった口か? それともまだ人間の側か?」
「良く分かりませんが……さっきの伍長、凄かったっす。自分は断然伍長に付いていきます!」
「そりゃどうも。いいぜ。特進覚悟があるなら付いて来な」
「ほんとすか? ありがとうございます!」
「……何がそんなに嬉しいんだ? 100パー死ぬって言ってんだぜ? 俺は?」
「そんなの元から覚悟の上ですよ! 伍長の下に付くなんて夢みたいで、俺、思い残す事ないです!」
「あ? いきなり何お愛想言ってやがる」
「お世辞なんかじゃないですよ! て言うかですね? 本作戦、伍長に憧れて志願した人員ばっかですよ?」
「……は? はあ……!??」
「自覚ないんすね。ヴァンプハンターはタマ撃ちの頂点! その中でも常勤の伍長は憧れの的ですよ!」
「そうなの!!!?」

マジかよ。やたらと俺なんかの指示通りに動くと思えば……そういう事かよ。
悪ぃ気はしねぇが……落ち着かねぇな。出来れば聞きたくなかったぜ。こいつら死んだらまるで俺のせいみてぇじゃねぇの。

40如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/22(土) 19:17:10
「……伍長? どうかしたんですか?」
「悪ぃ。拓斗って言ったっけか。伍長はやめてくれ、魁人でいい。どうせ二人きりだからな」
「いいんですか!? 魁人……さん。って……え? 二人ってどういう事すか?」
「こういう事だ。おい! そこ突っ立ってる中隊長!」

俺より二回りも上だろう、角刈りに白髪が混じった中隊長が駆けて来た。
……ったく……こいつまでメット脱ぎやがって。

「各小隊に指示出しな。とっととこの場から失せやがれってな」
「解散、でしょうか?」
「んな訳ねぇだろ。待機だ。塀の外で俺の合図を待ってな」
「速やかなる撤退、及び敷地外での待機、了解しました」
「急げ。間違っても市民様をこん中に入れんなよ?」
「了解。直ちに行動を開始します」

……基本、指揮官(俺)の言うこと聞いてくれんのは助かるぜ。
てきぱきと各小隊超に指示を出す中隊長。整然と動き出す隊員に機動隊。大勢が動くに合わせて揺れる地面。
いままた……不規則な揺れが混じったな。「あれ」が作動したせいだ。小一時間持つかどうか。

「魁人さん! あれ!」

拓斗の指さす先を見てみりゃあ……コウモリどもが、まるで酔っ払ったみてぇにヨロヨロ飛び回っては落ちてやがる。

「ついに来たか。結弦の仕掛けた地雷の効果がよ」
「地雷? なんのことすか?」

俺は拓斗のポカンとした顔見返して……説明していいかどうか少し迷った。
……だが言わねぇワケに行かねぇな。とりあえずの相棒にな。

どんより曇り出した夜空見上げながら、俺ぁ額の汗をぬぐった。
くっそ……まだギリギリ痛みやがる。

41如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/22(土) 22:46:33
実はな? 協会が開発した最終兵器があんだよ。
な? 意外だろ? 協会もバカの一つ覚えみてぇにドンパチやってるだけじゃ無ぇの。
知ってっか?
ヴァンプってなガチで強ぇの。耳も鼻も手も足も、どこ見たってバケモンだ。あれが人間? 冗談じゃねぇ。
奴らにすりゃあ俺らなんかウサギか亀よ。
俺みてぇな免状持ちが掩護付きでやっとこさ立ち合える……っつっても、それは一匹相手の話でな?
雁首そろえて来やがったら即アウトだ。てめぇの命と引き換えに一匹片付けんのが精々だ。
だから奴らを亀にしちまう方法がねぇかって話になったのよ。

……どうやってって……そりゃ色々考えたぜ。
ニンニク使った催涙弾撃ちまくるとか、一帯を浸水させちまうとかよ?
がいまいち効果に自信がねぇ。匂いなんか鼻つまめば効かねぇかもだし、水だって高く跳びゃあ済むってな。
思った効果が出ねぇ上に、近隣住民から後々訴えられる危険があるんじゃ話にならねぇ。

あ? 核でも一発ドカンって……馬鹿か!
環境への配慮もそうだが、トドメ差すんはあくまで銀弾なんだぜ? あれ心臓に撃ち込まねぇ限り、灰になっても再生すんの!
……だな。そういう意味で太陽光も決め手になんねぇ。だいたい弱点のねぇ伯爵なんかもうどうすんの?
もうお手上げ、八方塞がり。
んな時に司令が……ああ、うちの局長のこったが、珍しく体調崩してよ。
ある晩俺も夜勤に付き合ったわけよ。司令にばっか仕事押し付けんのが申し訳なくてよ?
うだるような夏の晩だ。ほんの4ヵ月前の話だ。
向かいに座る司令がいつも通りに米神んとこ押さえてうーん……なんてやり出したんで、言ってやったね。
たまには休んで病院でも行ったらどうですかってね。そしたら司令、何つったと思う?
ここに座ると痛みだす、なんて言うんだよ。小学生かよって。

「司令、それ完璧ストレスっしょ。たまには気晴らしでも行ったらどうです?」
したら司令、ニコッと笑って。
「……そうだね。少し……出てくるよ」
つって立ち上がって、ふと天井を見上げた司令の顔色が変わったっけな。

「魁人君、あれ、何だい?」
「あれ? あれは蚊除けっす」
「蚊? あの人間を刺して血を吸う昆虫の……蚊かい?」
「……他にどんな蚊が居るってんですか。最近やたら刺されるんで置いたんです」
「……嫌な音が……出ているね?」
「……聞こえるんスか!? そうですよ、オスの羽音とおんなじ音で雌を追い払う装置っす。耳いいっすね」
「なるほど、それでこの頭痛――そうか! 何故今まで気づかなかった!」
急に晴れ晴れっとした顔した司令が、ダンっと机に片足ついて乗っかって、ぶら下がるちっこい装置をもぎ取ったんだ。

42如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/06/22(土) 22:48:55
「魁人くん! これ借りるよ!!」

ダッシュで出ていく司令を俺は唖然と見送った。
後で聞いて納得したね。
わかるか?
逆の発想よ。弱みを突くんじゃねぇ、奴らの強み……バケモノ並みの身体能力を利用したわけだ。
それがさっき俺が言った「地雷」――人間にはさして害はねぇが、ヴァンプどもにはもれなく効く高周波発生装置よ。
相当のダメージらしいぜ?
吐き気はするわ平衡感覚狂うわ、使える能力も使えねぇってな。コウモリどももこの通り。
……まあな。若者撃退モスキート音ってもんもあるくれぇだから、べつに目新しいもんでもねぇ。
けど規模がすげぇの。
ふつう音波ってのは周波数が高いほど減衰する。レンジが狭ぇの。
だから、それを補おうって……何個っつったけな。とにかくスゲェ数のそれを作って、それを総出で取り付けた。
伯爵を網にかけるに都合のいい……この議事堂敷地一帯に隙間なく取り付けた。
この3日間、昼も夜も、総出で埋め込んだんだ。
もちろん地下道にもな。んでもって、ひとつ作動させりゃあ連動して音が出るよう設定したんだ。

……お、おう。ここまでは何の問題もねぇ。俺だってついさっきまでそう思ってた。
だが違ってた。ちょっとした……危険要素があったのよ。
そうそう、ちょっとしたもんだ。原爆に比べりゃスッポンみてぇなもんだ。
……あ? すげおま……良く分かったな! 高周波が一定のリズムを刻んだそん時ぁ……構造物を物理的に破壊する事がある。
そうだ。いわゆる音波爆弾だ。
なんで解った? あ? 議事堂の柱が一本……倒れて来てる? こっちに?

うおおおおおおいいいいいい!!! もっと早く言ええええええ!!!!!

43菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2019/07/10(水) 06:12:35
ため息が出た。
今度は心からの賛嘆のため息さ。
鳥達が燃え盛る陽炎に呑みこまれる景観が美しすぎてね。
今日に限って夕陽がこんなにも赤い。その赤を眼に映した群衆の眼がすべてわたしを向いている。

ブルルルル!!

突然響き渡った馬の嘶き。
え? って思ったよ。その音に、じゃない。群衆がその音に何の反応も示さなかったことにね。

翳りはじめた寒空。心地よい寒風。カサカサ鳴る枯れ葉。
遥か遠くで……走行する電車や車のクラクション。永田町と霞が関の外側は、普段通りの生活を営んでいる。
だけどここだけは……ひっそりと暗く沈んでる。
いつもならとっくに灯される筈の街灯や、オフィスのライトも付かないから、東京じゃああり得ないほど星が良く見える。
広場にもね。
見てよ、赤いままの瞳が無数に煌めいて、夜空をそのまま映したようで、ほんと、息を飲む美しさだ。

でもさ、ダメだよ。
舗装を蹴る蹄(ひづめ)の音がしているのに、木の上の狙撃手がギシリと梢を鳴らしたのに、何故君たちはわたしだけを見てるんだ。
わたしがたったいま訴えたことは、わたしの本心なんだよ?
人間とヴァンパイアの平和的共存がわたしの悲願だ。同胞が法的に保障される未来を夢見て来た。
だからこそ君たちは心からこの意見に賛同しなければならない。
賛同した上で柏木が例の結果を持ち帰る。新案の審議が叶い、決議され、堂々国民の総意となる。
政治家にとって、これほど満足のいく結果なんてない。
それなのにさ、なんだよこれ? わたしが――ヴァンパイア特有の「魅了」の力で落としたみたいになってるじゃないか。

君も君だよ柏木。
さっき一人だけ目を合わせなかった記者は君だろ?
何だよ。朝香が君に頼んだ件はどうしたんだよ。データは? 写真は?
わたしの意図はとっくに解ってるはずなのにさ。
いつもそうだ。君はいつだってわたしの命令を真っすぐには実行しないんだ。
「Yes Master」は聞き飽きたよ。そんな取り澄ました顔してさ? いつも別の意図が隠れてる。
わかるよ。君は「人間」を捨てられない。ヴァンパイアは君の両親の仇で、君もその被害者だ。
でもわたしの命には逆らえない。人間を一人殺すたびに、君自身が血を流す。
楽しいけどね? ほんと、ゾクゾクするけどね!
でもさ、そろそろ諦めない?
化け物は消せばいいなんて、浅はかだよ。簡単で、単純すぎる選択じゃないか。
もっともっと、苦難の道を選ぼうよ。朝香の言う「ヴァンパイアは人間」説。
いいじゃないか! わたしは生まれて初めて……胸がすくような……満ち足りたような、そんな気分を味わったよ。
……ついてきなよ。従いなよ。
わたしも君も人間。ちょっと変わってるだけの人間だ。化け物じゃない。
一緒に行こう。共に……永遠の生を生きるんだ。

『ボス、やっぱやっちまおう。いいな?』
『……やる? 何をだ』
『何って……決まっんだろ。伯爵を始末すんだよ』――

……バカだな。ぜんぶ聞こえてるよ如月。
わたしはヴァンパイアの伯爵だよ? 少なくとも君と沢口との会話だけは筒抜けなんだ。
さっきから殺せ殺せって……ずいぶんじゃないか。
……君を殺すのは本当に惜しい。出来れば駒にしたかった。柏木を越えられるのはたぶん君だけだ。
だからぎりぎりまで生かしておいたけど……でも……いまその気になられたら流石のわたしもただじゃ済まない。
だから、仕方ないよね、柏木。君の育てた可愛い弟子は……始末させてもらうよ?

44菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2019/07/10(水) 06:14:12
眼に力を籠める。暗かった視界が黄金に染まる。ここ一帯の……いや、外からもコウモリが集まり出す。
明治神宮、新宿御苑、各施設の軒下に巣くっていた愛すべき同胞たち。
……こんなに居たんだ。星空も隠れてしまった。

さらに力を籠める。この身すべての意識をこの眼の奥に。
そんな時だ。
微かだけど、妙な波動を感じたのは。
肩を支えてくれた者がいる。
手枷を嵌められたままの両腕が、小刻みに震えているのに気づいたんだろう。
これは……なんだ?
地下に居る田中さん達が応戦する振動……とも違うようだ。もっと持続的にゆっくりと範囲を広げる……地震のような動きだ。
震度にして0。
普通の人間には感知できない大きさだ。
震源は限りなく浅い。だが地震では……ない。もっと……人工的な――

「やべぇ! 全隊員、避難だ! 近くの非戦闘員を伴って速やかにこの場を撤退しやがれえええ!!!!」

如月の怒鳴る声。その声には本物の焦燥がある。
この妙な波動を奴も感じ取ったのか。戦闘員に逃げろと指示を出すからには、何か心当たりでも?
相当の被害を見込んでいる。
なんだ? 大規模な破壊兵器が誤作動でもしたのか?
大量のTNTか、それとも「核」か?
まさか! そんな兵器を用意する時間も、度胸もないはず!

どががががががが!!!!

間髪入れぬ銃撃音。朝香や総理が隠れているあたりからだ。
地下の同志が議事堂内に侵入したのか、かつわたしの命に背いて人間に危害でも加えたのか。
だとしたら台無しだ。
サイレンサー無しの派手な炸裂音は、流石に人間の耳にも届く。
如月の指示などそっちのけで、音の方角、すなわち参議院側昇降口の奥へと人間が流れていく。

「おおおおい!!! 入んな!! どけ!!」

咎める如月の声は興奮した彼らに届かない。
わたしは流れに身を任せつつも如月を見た。
彼の眼だけが屈服していなかった。この場で唯一、自我を保つ健康な眼だ。
そんな眼を持つ主人を背に乗せ、わたしを見つめる二つの眼。まるで大粒のルビーの瞳を……その視線を捕え、迎い入れた。
イメージする。
ゆっくりと切り離すもうひとつの自分。
魂の根源、ヴァンパイアの力の結晶。
ふわりと地面を離れ、飛び込む。
赤い虹彩を突き破り、網膜を抜け、視神経を伝い、感覚を、運動を司る中枢へと。

45菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2019/07/11(木) 16:38:14
熱い。胸の奥が、腹の底が、腕が、足が、指先から体毛一本一本に至るまでが煮え滾っている。
夜空に向かい吠えてみる。
両の蹄を持ち上げてみる。
尻を軽く跳ね上げてみる。
首にしがみついていた騎乗者が軽々と宙を舞った。
思った以上の膂力。しなる筋肉。
力強く打ち鳴らされる鼓動が、血潮を巡らせる。なんという躍動感、これが馬という生き物か。

「姫! 悪ぃ!」

見下ろせば、如月が銃をこちらに向けている。
青みがかった塗装の銃口がぬらりと光る。撃鉄はすでに起こされた。
トリガーにかかる指。
その光景、その瞬間に意識のすべてを預ける。

――狙いは胸の正中。厚く頑丈な胸骨という骨に守られた部分。
ヴァンパイアと化した馬の骨は強靭だ。いかにマグナム弾といえど、その鎧を貫けるのか?
試してみるも一興、と思うがしかし、そんな酔狂ごとは以ての外であったらしい。
射出音がしたその時には、すでに守りの布陣が敷かれていた。
空に蝟集していたコウモリだ。幾百重にも重なった彼らが盾となっていたのだ。

幾百もの悲鳴。飛散する無数の欠片。空しく落下する二つの弾頭。
死にゆく同胞には目もくれず如月へと攻撃を開始するコウモリたち。
黄金の視界が緋色へと変化する。わたしの中の獣が鎌首をもたげる瞬間。
いつもそうだ。同胞の死を眼にしたわたしは自分を抑えることが出来ない。

遠慮なく見舞ってやったさ!
体中にコウモリを纏いつかせた如月にね!
何度も、何度もだ! むろん、致命傷にならないよう加減してね!
なんだよ、張り合いがない。
ほらほら、抵抗しないと死ぬよ? どうしたのさ?
まさか……愛馬に銃は向けられないとか……そういう事? いまさら?

――ふざけんなよ!! タマ撃ちしか能のないゴロツキが!!!

46菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2019/07/11(木) 16:38:55
今度こそ手加減なし、体重を乗せて正面から踏みつけてやる。
バキリと骨が折れる感触、ぐちゃりと中身が潰れる音。小気味のいい叫び声。ぞわりと背を駆け巡る恍惚。
苦痛にゆがむ人間の顔ほど胸がすくものはないね。
特にさ、出来るけど出来ない、的なこんなシチュエーションって結構萌える。
あはははは! いい恰好だ!
そうだよ! 悶えなよ! そして泣いて頼むんだ! 命乞いするのさ!
おい、どこ見てる? なにをブツブツ言ってる? 何か言い残す? 
いいよ、聞いてやるよ。命以外ならね。最後に一発、撃たせてやってもいいけど? お気に入りの骨董品も見納めだね!


興の乗りきったそんな時だった。
ポカンと口を開けて観覧していた客席から何がが飛んできたんだ。
それが如月の頭をコツンと弾いた。
ぼんやり宙を見ていた如月が、ハッと我に返った顔してさ、こっちも一気に興が冷めてしまったのさ。
石のつぶてを投げたのは他でもない、柏木だ。
……仕方ないか。如月は明らかに本気出して無かったからね。眼を覚ましてやりたかったんだろね。
うん。
確かにわたしは言ってない。如月を助けるなとはね。
だからって……逆らった事にはならない? 冗談じゃない。そんな理屈、通るかって!!
いつも、いつも肝心な時に君って奴は……
嫌いだよ。憎たらしいったらありゃしない。今度の今度はただの仕置きで済むと思うな。

如月。
とりあえずのお預けさ。
わたしはあっちに戻る。のっぴきならない事態になってるようだしね。
答えてやるといい。このお馬さん、月姫って言ったっけ。
この子はほんと、君の事が好きで、好きで好きでたまらなくて、でも元には戻れないって知っていて――だから――

お望み通り、印藤を渡してやるといいよ。
簡単だろ? 君は柏木お墨付きのハンターなんだから。

47菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2019/07/14(日) 13:33:42
馬が、如月がどうなったかなんて確認する必要はない。
本気出したハンターの実力を知らないわけじゃないからね。

意識を本体に戻した時、わたしは本館の中に居た。1階の中央部、あの絢爛な大広間を、参議院側から見渡す位置だ。
……へぇ。場がこんなにも張り詰めてるよ。
いま戻って正解だったみたいだ。

視界はいたって悪い。
暗い空間は光源がほとんどなくて、その上硝煙の煙が色濃く立ち込めているんだ。
この匂いにはいつも閉口させられる。喉と鼻が酷くヒリヒリするからね。
そしてこれは……新鮮な血の匂い。大勢の、ではない。一人の……いや、微かに……もう一人。
そういえば沢口の奴、朝香を撃ったと言ってたけど……違う。どちらも男のものだ。

眼の感度を少しだけ上げてみる。
広間の中央に……やはり。スーツ姿の男の死体。原因の大元はこれだ。胸部からの出血は止まっていない。
もうひとかたは何処だ。少量の出血、流れ弾に当たったか、一度目の銃撃で怪我を負った人物が近くにいる筈。
朝香がしゃがみ込んでいる。
遺体の検分でもしてるのか、血だまりに両膝を付いて、てきぱきと手を動かす彼女には……やはり怪我はない。
彼女の後ろには包帯で右腕を吊った初老の男……って良く見たら、え? 総理?
肩口に巻かれた包帯に滲んだ血液。
そうか、沢口が指示した銃撃で怪我を負ったのは、朝香でなく総理。
総理はああ見えて女の子大好きだからね、反射的に庇っちゃったんじゃないかな。
それを朝香が処置した。やっかいな銃創の応急処置を現場でやってのける人物はここじゃ一人しかいないからね。

まあいい。目下の検案はあの死体。
少し離れた壁際に、銃を手にしたクロイツたちが立っている。その銃口からもれなく立ち昇る硝煙。撃ったのは彼らで間違いない。
頭でなく胸部を狙うのはヴァンパイア戦の基本。つまり、彼をヴァンパイアだと誤認した。
だとしたら何故だ。
ハンターほどじゃないものの、クロイツ達だって一応の訓練を積んだ優秀な対ヴァンパイア要員だよ?
いくら視界が悪いからって、人間とヴァンパイアを間違える、そんなヘマをするとは思えない。

「噛まれた痕は無いわ。この人は人間。代議士の一人だったみたいね」

朝香の声でハッとしたわたしはあらためて死体を見た。
そういや見覚えのあるスーツ……なんて思えば……なんだ、ついさっき第3委員会室で同席していた財務副大臣じゃないか。
総理の顔が曇る。クロイツ達も明らかに動揺している。

「これって……どうなるの? 緊急時のどさくさって事で済むの? 済まないの?」
一瞬の間を置いて、総理がチラッとこっちを見てさ、そして答えたんだ。
「済むまいね。無論、居合わせた私の責任だがしかし……事は収束には向かうまい」
「え?」

ポカンと口を開ける朝香。
総理が意味ありげにその目を衆議院側の廊下に向けて――わたしもそっちを見た。
そしてもう一度、横たわった死体を見て、その頭部に刻まれた特異な傷跡に気づいたのさ。
あれは――ああそうか。そういう事か。
だからクロイツは撃ったんだ。修練を積んで会得した能力、ヴァンパイアの放つ殺気を感じ取る能力故に、撃たずには居られなかった。

天井を仰いだ。
6階まで吹き抜けの高い天井には、あの瀟洒なステンドグラスがそのまま。
四方に貼られた四季の壁画や、壁の細工はまだ……破損も……血の滲みのひとつも無い。
見てみなよ。台座に立つ大隈さんや伊藤さんが怖い眼でこっちを見てる。
ここが戦場になる? 冗談じゃない!
いままでわたしが積み上げて来た地位も、準備立ても、ぜんぶ無駄だったって?
なんでだよ田中さん。何故今頃になって――

一歩前に進み出た彼を睨みつけ、わたしも一足前に出る。

「何のつもりですか……田中さん」

事と次第によって、わたしは貴方の敵になる。

48名無しさん:2019/08/09(金) 02:07:00
支援

49名無しさん:2019/09/14(土) 21:28:58
しえん

50菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2019/10/19(土) 07:31:29
何も言わず、静かにわたしの眼を見つめ返している田中さん。
朝香が初めてわたしに気付いたって眼をしてこっちを見る。
田中さんの肩越しに、赤い光を眼に宿した同胞たち。その数は50弱。
凄い殺気だ。空間が歪んでみえるほどにね。クロイツ達が引き金引いちゃうのも無理ないね。
わたしの為に駆け付けたには違いないけど……いやいや、知ってたよ!
沢口には「助けになんか来ない」なんて言っちゃったけど、仮にもわたしは「伯爵」だ。
こんな風に捕まったら黙ってる筈なんか無いってね。
近場の、たぶんここらの地下あたりで待機してるんじゃないかなあとは思ってたんだ。
ただ田中さんには「万一の時も手を出すな」って言ってあったんだよ。共存案優先。戦争になったら我々には道がないってね。
もちろん如月が地下に兵隊を送らないはずもないから……ぶつかりはしただろう。
人間側は殺す気で来てるから、運悪く被弾した者も居たかもしれない。
それを眼にしたヴァンパイアは当然逆上するだろうけど、でも、でもだ。田中さんなら……そんな彼らを抑える事が出来る。
長く生きた者ほど抑制が効く。それもヴァンパイアだ。
ていうか、田中さんの力を以てすれば、広範囲の防弾も思いのままだ。命を取らずに制圧する事なんか「お茶の子さいさい」だろう。
それなのに――

「答えてください。何故手を出したのか」

わたしの質問は踏むべき手順をひとつ飛ばしている。
財務副大臣の顔の傷は田中さんの仕業だと端から決めつけた上で、その理由を尋ねてるんだからさ。
でもさ、間違いないよ。
鼻と耳を削ぐなんて、そんな真似をする習慣は我々にはない。もちろんまともな人間にもね。
けれども田中さんが生きていた時代――戦国の世にはそんな処罰があったらしいじゃないか。
思いつくの、彼以外に誰が居るって言うのさ。

田中さんは低く唸って……チラチラと赤い火の灯るその眼をゆっくり閉じた。
そして……深く息を吐いて、もう一度瞼を重たそうに上げて、じっとりとわたしの眼を見返したんだ。

「少々、事情が変わりましてな」
「事情? どんな事情が変わったって言うんです?」
「おや……伯爵様は、彼奴らの兵器を……ご存知ない?」
「……知らないよ、兵器なんて」

わざとだとうか。
田中さんが油断のならない……どこか癪に障る言い回しで問いかけて来た。
軽い吐き気と眩暈。
田中さん? よもや……わたしを怒らせようとしてる?

「ほう? わたくしはまた、彼奴らの司令塔であられた貴方様の指示かと」
「何を言ってる? 兵器ってなんなんだ!?」

そうしたら田中さん、答える代わりに下の絨毯に眼を落として、そして上の壁画たちを見まわしたんだ。
そうさ。さっきの眩暈はわたしの中の問題なんかじゃなかった。
壁がまるで柔らかいゴムか何かみたいにぐにゃぐにゃ曲がって揺れていたんだ。
床もだ。立っていられず座り込む輩で場が騒然となった。
逃げろ! と誰かが叫ぶ。
次第に大きくなる振動。同時に耳に飛び込んできたのは針金で金板を引っ掻くような不快音。
酷い音だ。
それが鼓膜を突き破って脳味噌をかき回すのさ。
耳を塞ぎたくても両の手は後ろ手のまま。
両膝を折った。吐き気もそうだけど、襲って来た痛みがあんまり酷くてね。
……どんな痛みかって?
そうだね! 身体中の骨という骨を金ヤスリみたいなザラザラした物で擦られる、そんな感じかな!!
眼の感度を上げていられない。視界が闇に溶けていく。
気が遠くなる、そう思ったとき、わたしの両腕を力強く掴んだ者が居る。

51佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2019/10/20(日) 07:10:15
息をするのも忘れたわ!
見つめあう田中さんと菅さんがあんまり怖かったんだもの!
田中さんはね、一見無表情で静かなの! でもね? うっかり突っついたりしたら怖い祟りでもありそうな……?
例えれば……そうね。
良く山道の祠(ほこら)とかで出くわす不気味な石像みたいな?
菅さんは菅さんで、いまにも獲物に食らいつきそうな猛獣。ってか、眼が切れ長でまっすぐだから、ハブかコブラ?
身体からはあたしが見て解るほどオーラ? みたいのが立ち昇ってて。
どうして?
菅さんと田中さん、仲間同士なのに。
もしかしてどっちか裏切っちゃった?

あたし、しゃがんだまま下がろうとした。
早く、早く二人から離れなきゃ! 気が立ってる動物には近寄っちゃ駄目っていつもおばあちゃんに言われてたもの!
んもう!
こんな時にまたあの眩暈!

「答えてください。何故――」

菅さんの声が一瞬だけ聞こえて消えた。
あたし、例のあれが……そう、あれ! あのDNA螺旋のお化けにぶわっと囲まれて、もう耳元でウワーンって音まで鳴り出して。
なんか誰かが腕とか引っ張ってくれてようやく少し離れた場所に座り込んだ。
もう何?
肝心な時にいつも出てくるこれは何なの!? あたし、変な霊とかに憑かれてる? お祓いでもしとこうかしら!

「……伯爵様は、彼奴らの兵器を……ご存知ない?」
「……知らないよ、兵器なんて」

やっと聞こえて来た二人の会話はぜんっぜん意味わかんないけど、喧嘩してるのは間違いなさそう。
いいの?
ほらほら、クロイツ君たち、銃構えだしたじゃない! そんなの後回しにしなさいよ!
あーんもう頭痛い!
そういえばおばあちゃんと一緒に船に乗った時、こんな風に酔ったっけ。
……やだ、吐きそう。御トイレは何処だったかしら?

銃を菅さん達に向ける黒服の男たちの肩越しに、広間から抜ける通路が見える。
うーん……トイレの表示なんか見えない。
こっちは?

あたし、首を伸ばしてヴァンパイア君たちが一杯立ってる方(確か衆議院側とか呼ばれてるほうね!)を見た。
そしたら……え? みんな、どうしたの!?
そうよ。
眼を赤くしたヴァンプ君たちが、自分の喉とか頭を押さえてうんうん唸ってんの!
見れば菅さんも!
あたし、菅さんに駆け寄ろうとして、でもすぐ傍に立ってた総理に腕を掴まれた。

「離して! 菅さんが!」
「早くここから脱出したまえ! 見なさい!」
「え?」

総理が指さす方向。
眼を見張ったわ! 
だってあの柱が――ほらほら、議事堂の正面にあるあの太くて大きな石の柱! あれがゆっくり外側に倒れてくの!
ずしぃぃん!!!って地面が響いて、そしてまた別の柱も!!
コツンって何か頭に当たって、上も見たら割れたガラス? が降ってて、急いで壁際に寄りそった。
そしてた壁が波打ってるじゃない!
地震!? こんな時に?
そういえばさっき田中さん、「兵器」って――

「相変わらず世話の焼ける人ですね」
すぐ後ろで聞き覚えのある声がして。

52佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2019/10/27(日) 07:09:52
「麻生くんっ!? 生きてたのね!」

あたし、思わず声の主に抱き付いちゃった!
だってだって……さっきは今生の別れ、みたいな感じで別れたでしょ?
一度手掛けた患者が生きてた時の感動がね? 
つい抑えられなかったって言うか、あたし……これでも医者だから……
ごめんなさい! 菅さん! 別にあたし、彼とそういう関係じゃあ……
ってそそくさっと麻生君から離れて、チラッと菅さんの方を見たら、彼、あたしの方なんか見ても居なくて。
でもホッとしてる場合なんかじゃなかった。

崩れた壁やガラスの破片が降りしきる大広間。そこで起こっていたのは一方的な殺戮だった。
さっき苦しがってたヴァンパイア達が、クロイツ達の手で撃ち殺されていく。
抵抗らしい抵抗もせず、次々と壁際へと追い詰められ……
引き絞られる悲鳴。
積み上げらて行く死体の山。
その中で、田中さんだけがただ静かに立っている。
彼の周りだけ、降ってくる瓦礫がドーム状に避けている。
クロイツ達も田中さんを狙わない。
そういえば、リサイタルのあの夜、撃った本人たちがあべこべに怪我してたっけ。
田中さんは暗い眼をして……じっと見つめてる。
蹲ってる菅さんと、その腕を取って支えながら、田中さんを見返している一人の男を。
えぇっとぉ…………誰?

「……い、先生!」
麻生くんの声であたし、我に返った。
彼、くいくいっとあたしの袖を引っ張って。
「先生はあの通路に走って! 地下に逃げて! 総理も、早く!」
頷く総理がSP達に囲まれて参議院側の廊下に走って行って、あたしもそっちに押されて、でも、あたし――
「先生っ!?」
「だめ! あたし、菅さんの傍に居たい! 菅さんから離れたくないっ!!」
「ええっ!?」
麻生くんが左手で銃を構えたまま振り返った。その銃口は菅さんに向けられている。
「先生はどうしても……そっち側なんですね」
彼の眼が哀しそうに光って、ゆっくりと黒い銃をあたしに向けて。
「さよなら、先生」
言うなり銃口がパンッ! と音を立てて。
あたしは胸に感じた衝撃よりも何よりも、菅さんともう会えないって事の方がよっぽど重要で、
もう霞んで良く見えない、たぶん菅さんが居る、その方向に無我夢中で手を伸ばした。

53麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/10/27(日) 17:12:21
クロイツ達の弾丸が、いとも容易くヴァンプ達の命を刈り取っていく。
あの兵器のお陰です。
地下で作動させた高周波発生装置が連動し、ついにここ一帯に及んだんです。
覚えてますか?僕が田中さんに噛まれたときに出したあの声。あの音が作動スイッチになってたんですよね。
440ヘルツの音(ラ音)を、とある強さできっちり5秒間。
局長と魁人と僕だけが知ってる作動方法で、作動条件は「幹部」による襲撃が確認された時、だったんですけど。

見てくださいあれ。ヴァンプ達にはよっぽど不快なんでしょう。流石の伯爵もあの通り。
誤算と言えば、この揺れですね。まさか地下の天井が崩れ落ちるなんて。

……危うく下敷きになる所でしたよ。
それがどうして助かったかと言うと、彼女です。あの桜子似の女性が、僕を瓦礫から守ってくれたんです。
驚きました、てっきり彼女は奴らの仲間だと思ってましたし、きつい眼で僕の事睨んでましたし。
そんな僕に彼女が言ったんです。
『また一緒に……カンパネラを弾きましょう?』
透き通るような凛とした声音、そしてふわりと香った懐かしい香り。
で、いきなり思い出したんです。
「君は……秋桜(コスモス)?」
彼女は頷いて、そしてゆっくり頭(かぶり)を振った。
「身体は……そうね。正真正銘あなたの娘。そして心は――」
言いかけた彼女の身体を僕は抱きしめた。
やっぱりだ。君は桜子の生まれ変わりだったんだ。君がそう簡単に滅ぶわけないと思ってた。
成長が早いとは思ってたけど、もうこんなに大人になるなんて!
彼女は何故か悲しそうに笑って、僕をそっと引きはがした。
「結弦も行って。早く」
その指は本館方向を指している。闇の中、ぞろぞろと何者かがうめき声をあげつつ移動しているのが解る。
先導するのは……田中さんでしょう。
彼は気功使い。おそらく周囲に音を遮断する障壁でも張ってるんでしょう。
桜子の手を引こうとして、でもその手を払われた。
「わたくしはここで待ちます。結弦は……結弦の仕事をするのよ」
僕は曖昧に頷いて、必ず迎えに来ると約束して、そしてこの場に来たんだ。
桜子は人間として生まれ変わって、だからもう何も問題なんかない。
ヴァンプはすべて敵だ。撲滅対象だ。味方する者もだ。

「早くここから脱出したまえ! 見なさい!」
「え?」

総理と朝香先生の声がする。駆け寄ってみれば、先生が駄々っ子のように壁にしがみついている。
総理の対応から、彼女は人間の側と判断します。
窓の外は真っ暗で、ただ何かとてつもなく重い物が地面を叩く音。

「相変わらず世話の焼ける人ですね」
何故彼女が留まろうとしているのかが理解出来きない。更に理解できない事に、力一杯ハグされた。
「麻生くんっ!? 生きてたのね!」なんて凄い歓迎ぶり。
そこ……そんなに喜ぶとこでしょうか? しかも相変わらずの凄いボリューム! 何が? って、決まってるでしょ!
でも先生、僕がその感触を楽しむ間もなくパッと離れました。
先生、らしくなく後ろめたそうにモジモジして、視線を少し離れた場所で膝をついている伯爵の方に向けた。
いつの間にかその伯爵を支え、田中さんを見上げている人物が居る。
誰かって……決まってます。あの独特の姿勢の良さと手足の長さ、迫る気配。
柏木局長その人だ。相変わらず変装が上手い。
そして彼らを見つめる田中さんの眼がこれまた尋常じゃない。
まるで親の仇でも見つけた格好です。何があったか知りませんが、同士討ちは万々歳。幹部同士が潰しあってくれるのは助かります。

54麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/10/27(日) 17:15:19
「先生! 先生!」

まだぼうっとそっちを見つめる朝香先生の腕を引く。早くこの場から逃げないと、とばっちり、受けちゃいますよ?
でも先生、信じられない言葉を口走ったんです。

「だめ! あたし、菅さんの傍に居たい! 菅さんから離れたくないっ!!」
「ええっ!?」

思わず聞き返して、でもやっぱり駄目かとも思いました。
彼女はもとからヴァンプ志願者だ。そんな彼女が伯爵のあの強力な「魅了」にあてられない筈もない。
先生は僕の命の恩人だ。
一度は死のうと決めた僕を、もう一度明るい場所に連れ出してくれた人だ。
そんな貴方が伯爵の血を受け継いだら……僕たちだけじゃない、貴方も地獄を味わう事になる。
能力の高い個体であればあるほど、その死は壮絶だ。経験上そうだった。
だから先生、今のうちですよ。これはせめてもの恩返しです。

僕は短めに別れの言葉を呟いてトリガーを引いた。
躊躇えば躊躇うほど獲物は苦しむ。だから胸の正中やや左寄りの心臓のど真ん中を正確に撃ち抜いた。
音はクロイツ達の銃音に掻き消された。
先生がくたりと膝を折って倒れていくのがまるでスローモーション。
失敗したと思った。
眼はしっかりと意識を保ったまま伯爵に向けたまま、青ざめた唇が何事かつぶやいているんです。
先生はまだ人間。だから眉間を狙うべきだった。そうすれば即死、苦しむ事もない。
だけど心臓は例え破壊されてもすぐは死なない。
普通の人間は、特に女性は撃たれたと思った瞬間に意識を無くす事が多いから、だから大丈夫だと思ったんです。
先生は美人で、僕の恩人で、だから何となくその顔を汚したくなかった。それも僕のエゴかもしれない。

「ううっ!」

低く呻きながら、先生は赤い絨毯の上を這いずるようにして右手を差し伸べている。
『菅さんのそばに居たい』
そう叫んでいた先生の声が耳に纏いつく。
僕は一度だけ深く息を吐いて、もう一度銃口を向けた。今度は先生の米神を狙って。
でも撃った瞬間、思わぬ人物が飛び込んできたんだ。田中さんでも伯爵でもない。
噴水のように吹き上がる血の飛沫。
首筋の動脈付近を撃ち抜かれ、どっとその場に倒れ込んだのは誰もが知る一国の内閣総理大臣。
その様子を目撃した先生の、その手がうろうろと総理の身体を探り当てる。
その手を掴もうとした総理が一言、二言。
こと切れるのは総理の方が早かった。

僕は混乱したまま動けず、自分の足先が血だまりの中に染まっていく様を、ただただぼんやりと眺めるしかなかった。

55如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/10/27(日) 22:45:58
危機一髪、俺は持ち前の反射神経って奴で石柱の急襲を逃れた。
柱ぁグワーーン!! っつって石の階段と地面にぶつかって砕け散る。
んな様を尻目に俺達ぁ普段は開かねぇ正面玄関のエントランスに飛び込んだ。
……ああ……ったくアブねぇアブねぇ。
そういやガキん頃、爺ちゃんがカーンカーンっつって斧振って、わざと俺に向けて倒した木をヒョイと避ける。
んな遊びに夢中になったっけな。ありゃこん時の為だったんかな。

「魁人さん!!」
拓斗の焦りまくった声。
広間ん中ぁ……実は真っ暗なうえに硝煙やらホコリやらのせいでな〜んも見えねぇ。まるで忍者が煙幕でも張ったみてぇに。
その煙幕から機材ガチャガチャ言わせて飛び出して来る奴らが居たもんだ。
またもやそいつらをヒョイヒョイっとかわす俺。そういやドッジボールのボール避けんのも得意だったっけ。

っておいっ!

俺ぁ黙って通り過ぎようとしたスーツの男を捕まえた。
そいつぁまるで悪戯でも見つかった子供みてぇな反応しやがってな?

「ボス、何処行くんだ? 状況はどうなってんだ?」
「ご……伍長……! ちょうど良かった! あの「田中」が地下を通ってあの広間に!」
「やっぱな。結弦の相手は田中大先生だったわけだ。何匹連れて来た?」
「50ほどだ。あの兵器の効き目は抜群だな! じきクロイツ達が片付けるだろう」
「そりゃ良かった。伯爵にも効いてっか?」
「伯爵も戦闘不能だ。むしろ他の個体よりダメージを受けているようだ」
「それを聞いて安心したぜ」
「私もだ。流石の伯爵もあれには敵わんようだな」
「いや、そこじゃなくて」
「……は?」

きょとんと眼を瞬かせる沢口が俺を見る。その眼ぁ……いつもの沢口の眼だ。

「伯爵から『サマ』が取れたなってな」
「……は? 何のことだ?」

記憶がねぇってのも質(たち)悪ぃぜ。ま、結果オーライだがな。

「……何でもねぇよ。それより問題は田中先生だ。奴はピンピンしてんだろ?」
「そうだが、何故わかった!?」
「空気の盾で弾丸弾く奴だぜ? 音ぐれぇ防げんだろ」
「なるほど。どう対処する?」
「解んねぇが、気ぃ逸らすとか何とかすりゃ何とかなんじゃね?」
「いい加減だな。それでもヴァンパイアハンターか?」
「前もってコマけぇ計画練んのは性に合わねぇんだよ。そういう奴ほどポシャッた時にガックリ来るもんだぜ?」

沢口が一瞬ムッとした顔しやがった。……別にあんたの事言ってんじゃねぇよ。

56如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/04(月) 07:03:49
2本目の柱が倒れる音がした。
ユサユサ来る振動と、濛々と渦巻く埃がハンパねぇ。天井と壁に稲妻みてぇな亀裂が走ってら。
この議事堂本体も無事じゃあ済まねぇかもな。

「そういやあの女医どうなった? 総理は一応無事なんだろな?」
そしたら奴ぁ、気味悪ぃうす笑い顔になってよ?
「無事を祈る必要などない。むしろ消えてもらうと助かる」
なんて不気味なこと言いやがる。
「あ? 女医はともかく、総理が何だっつんだ?」
沢口は俺の肩ひっつかんで、ぐいっと耳元に口を近づけた。
俺の手前に立ってた拓斗が一瞬変な顔をしたが、あ、そうか、なんて納得顔で後退る。
「良く聞け。両者ともに『ハーフ』だ」
「はぁ!?」

ハーフ。
俺達協会の人間が言う「ハーフ」たぁ、普通のそれじゃねぇぜ、人間とヴァンプとのハーフのこった。
文献によりゃあ昔はそのハーフって奴がたんまり居てな?
何かしらの能力に秀で、人に比べてずる賢いだの人様に暴力振るうだの。
しかもヴァンプを匿うっつー理由で見つけ次第処刑したって話だ。
だが俺らぁ、んな記録眉唾物んだと思ってる。
奴らはバケモンだ。
俺らみてぇな血の通った生きもんじゃねぇんだ。んな奴らとの間に子供なんか作れてたまるかってな。
大方、邪魔な人間を始末する根拠にでもしてたんじゃねぇの? 中世の魔女狩りみてぇに。
ってのが協会の見解だったわけなんだが……沢口の野郎、大マジな顔しやがって、さっきより声のトーン落としてよ?

「気を付けろ。まだ総理付きのSPと私、及び柏木局長だけが共有する情報だ」
「待てよ……! ハーフなんて、マジで居んのか……?」
「ああ。あの『田中』は総理の実父、佐井朝香は総理の娘だそうだ」
「何だとぉ!!? 確かなのかよ!?」

つい出しちまった大声に沢口の顔がヒクついが、拓斗以外俺ら気にしてるもんも無ぇからよ。

「3日前に投降した柏木局長から得た情報だ。田中本人から聞いたそうだ」
「田中ぁ? おいおい……その田中が嘘ついてたらどうすんよ?」
「いや、真実だ。その頭で総理と佐井の身辺を洗った際に――」

沢口が何かしら説明しようとし出したんで、俺をそれを手で遮った。
こいつのこった。情報の網かき集めて掴んだ結果なんだろ。それをガセと決めつける資格も権利も俺には無ぇ。

「わかったぜボス。俺もその頭で動く。結弦は見たか?」
「確認出来ていないが、死亡したという情報も入っていない」
「OK。ボスは外で待ってる兵どもの指揮を頼む。俺がやられたそん時ぁ……」
「プランBだな。了解だ」

頷く沢口に俺もニヤリと笑って見せたが……ホントはどうにかナリそうなのを必死で抑え込んでたんだぜ。
だってそうだろ?
んな身近にハーフが二人も。ってこたぁ……世間にゃマジで「わんさか」居るって事だ。
あの文献は嘘なんかついてねぇ。
「出来る」奴ほどヴァンプの血ぃ引いてんじゃね? って疑わなきゃなんねぇって事だ。
ややもすりゃあ……結弦も? つか自分でも気づかねぇだけで、実は俺も……とか?

地面の揺れは続いてる。星だけは満点ですっげぇ綺麗だが、庭木の枯れ枝のざわつきが尋常じゃねぇ。
コルトを2丁、腰だめにして壁に寄る。
あったけぇグリップの感触を確かめながら、俺ぁひとつ息吐いて……拓斗を顎で促した。
グッと頷く拓斗の顔が強張ってやがる。実は全部聞こえてたのかもな。

はあ……ペロッと舐めて色が変わる試験紙でもありゃいんだがな。

57如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/09(土) 07:32:39
鳴り響いてた銃声が唐突に止んだ。
音の余韻がウワーンと耳ん中で木霊してやがる。
俺ぁアタマ振ってその音を追い出した。見りゃあ拓斗も同じことしてら。

「いいか? 奴らの動きは速ぇ。最初は瞬間移動にしか見えねぇ。足音も立てねぇ」
「え……じゃあどうやって狙いをつけるんすか?」
「そうだな。自分を見失わねぇうちは何とかなるかもな」
「……自分、ですか」
「とにかく焦るな。眼、耳、鼻、そして肌の感覚を研ぎ澄ませろ」
「……眼と耳は解りますが、はだ……って?」
「ハンターなりの空気を読めってこった。慣れてくりゃあ離れた相手でも動きが読めるようになるぜ」
「へぇ……すごいっすね」
「俺ぁガキん頃から野山で鍛えてっからな。中学ん時ぁ出くわしたヒグマとか相手にしたっけな。あん時ぁ流石に死ぬかと――」

真面目くさって聞いてた拓斗が、バッと眼ぇ見開いた。俺の武勇団に驚いたんかと思ったら違ったね。

「魁人さんって……道民だったんですか!」
「あ?」
「ヒグマって北海道にしか居ないじゃないっすか!」
「あ? そうなのか?」
「実は俺もなんすよ! 俺も道民っす!」
「ほんとか!? 何処だ?」
「道北っす」
「マジか? 俺もだぞ? 道北の何処だ?」
「豊富町っすよ、魁人さんは?」
「うおお! どんぴしゃで同郷かよ! 俺んチはサロベツで競走馬の牧場よ、爺ちゃん死んで今は細々、だけどな?」
「マジすか!? 俺んとこも牧場っすよ!」
「まさかおま……ウナヤマ……って、あの宇南山牧場か!?」

拓斗がパッと顔輝かして頷いた。
そういや宇南山って名乗られた時にピンと来るべきだったぜ。あの辺りにゃ覆いがこっちじゃ珍しい苗字だしな。
宇南山牧場は俺が勝手にウナ牧と呼ぶほどのメジャーな酪農家だ。
姫走らせるコースはウナ牧の牧草地の近辺でな?
白いラップ(牧草をラップみてぇなシートでびっちり包んだ塊な?)がポンポンっと転がってたっけな。

――あ?
こんな時にハシャいじまってだらしねぇって思うか?
……東京もんにゃあ解んねぇかもな。
俺らに取っちゃあ内地、まして東京なんつったらそらもう異国みてぇなもんでよ。
最初のうちは言葉通じねぇ、夜は夜で明るいわ騒がしいわで寝付けねぇ、現場じゃドサンコっつってバカにするやつは居る。
恐らく奴も同じ苦労してきたはずだ。それが同郷、しかも超ローカルだってんだ。ちったぁ浮ついても許されると思うぜ。

拓斗がギリっと歯ぁ噛んで、ライフルの銃身握りしめた。いまのこの現実、現状って奴を思い出したんだろ。

「もしも、の話だ。カタぁ付いて生きて帰れたそん時ぁ……いっぺん帰って飲もうや。駅裏に真ゾイのうめぇ店があんだよ」
「……はい。楽しみにしてます……」
「……涙ぐむなよ。まるで何かのフラグみてぇじゃねぇか」
「だって俺……生きて帰る自信なんかこれっぽっちも」
「バカ。要は集中だ。余計な事考えるんじゃねぇ。奴らの心臓ぶち抜く事だけ考えな」
「は……はい!」
「その意気だ。とりあえずは援護しな」

俺は壁伝いに煙幕の中に飛び込んだ。間ぁ置かねぇで付いてきた拓斗が息呑む音がしてな。
そうだ。コトはやっぱり終わっちゃ居ねぇ。むしろこれからが本番ってな。

58如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/21(木) 11:51:00
やっぱな。田中先生、きっちり生きてた。
いつも通りのご立派な羽織袴で、向こう端にどっしり構えて立ってらっしゃるぜ。
このまえ見た時とはなんか雰囲気違ぇけどな。
あん時ぁこう……何見ても動じねぇみてぇな、こう……老舗の大旦那みてぇな貫禄があったけどよ?
なんか余裕ねぇっつーか、あのイヤらしい赤ぇ眼ぇして対面の相手を睨みつけてんの。
その相手ってのが、伯爵と司令。わかるか? 本来御仲間の筈の方々に凄み効かしてる訳なのよ。
伯爵は床に手ぇついて、辛そうに眼ぇつぶったまんま動かねぇ。沢口の言った通り、もろに高周波にやられた格好だ。
それ支えるカッコで司令が片膝立ちしてんの。さっきの記者の服着たまんま。
こっちに気づいた田中が一瞬だけ俺に視線を合わせたが、すぐに伯爵に視線を戻しやがった。
(へっ! 俺ら、脅威でも何でもねぇってよ!)
田中の後ろ、衆議院側の廊下に山と築かれた……ヴァンプの残骸。クロイツの奴ら、ちゃんと仕事してくれたぜ?
うおっと……隅っこで倒れてんの、総理とあの女医じゃね? マジか。ピクリとも動かねぇぞ? 息もしてねぇ。
……馬鹿な奴らだ。とっとと逃げねぇから、流れ弾にでも当たったに違ぇねぇ。

「魁人さん!」
田中を遠巻きに散らばってたクロイツ達がこっちに気づいた。
「助かりました! 俺達、弾切れで」
「いんや、あの軍団やってくれただけでも有難ぇ。それよりこりゃどういうこった?」
ガン飛ばしあう田中と司令をちょいっと指さしたら、クロイツの隊長、
「ヴァンプの代表格同士が対立した模様です」なんて分かりきった事を真面目腐って報告しやがる。
「んなこた見りゃ解るぜ。理由(わけ)を聞いてんだ」
「事情はよく解りませんが、伯爵が奴らを裏切った、と田中が見たようです」
「裏切った?」
「あの装置を作らせたのは元帥でもある伯爵に違いないと。彼らの会話からそのように読み取りました」
「上出来だ。……そっか、そりゃあ……俺らに取っちゃあ有難てぇ展開だぜ」
「それからその――」
隊長の視線の先ぁ……折り重なった総理と女医だ。
「ああ、てめぇらのドンパチの巻き添え食ったんだろ? 仕方ねぇって。ノコノコ出てくる方が悪ぃってな」
「いえ、撃ったのは結弦さんです」
「結弦が? ってこたぁ……わざわざ狙って撃ったって事か?」
「佐井医師はこちら側に来る気はない、そう判断し、撃ったと本人は主張しています」
「そりゃ……仕方ねぇ、織り込み済みだ。良く撃てたと褒めてやりてぇくれぇだぜ」
「ただその……とどめの一発が、突如彼女を庇った総理に当たり――」
「なるほどな。それもまあ納得」
「……え?」
……まじぃ。総理と女医が親子だって情報はまだ俺止まりだったな。俺は素知らぬ顔して眼を周囲に泳がせた。
「なんでもねぇ。結弦はどこだ?」
隊長が俺の後ろに目配せしたんで振り向けば……居たぜ、奴が。
なんだよ、あんまり気配無かったんで気付かなかったぜ。さっきすれすれを通りすがったってのによ。
時化たツラしやがって。総理撃っちまったのが相当ショックだったか。
俺ぁ音たてねぇように摺り足で後退った。
結弦の奴、ピタッと横に並んで肩くっつけた俺に気づいて逃げようとしやがったんで、無理やり奴の肩掴んで引き寄せた。
観念したんだろ、結弦は俺に体重預けて……なんだよ、やたらヒンヤリ冷てぇし、生っちろい顔して大丈夫か?
「……魁人、僕――」
「そうショゲるこたねぇ。総理も女医も『ハーフ』だとよ」
「……え?」
「総理があの田中の息子で、女医は総理の娘、なんだと」
なんも言わねぇままフーっと息ついて、もっかい壁に寄っかかった結弦から悲愴な険が取れたぜ。
だが晴れ晴れっとまでは行かねぇ、しょ気返ったツラぁそのまんまだ。
……だよな。いくらハーフとは言え、女医とはちょっとした付き合いだったからな。
俺はドンっと強めに結弦の肩ぁ叩(はた)いてやった。それくらいの余裕はあった。田中と司令が睨みあってるお陰でな。
一瞬よろけた結弦が重心を取り返しつつ俺を見る。
「てめぇ、自分が何者んかって事忘れちまったんじゃねぇだろな?」
奴め、何か言おうとした口をパクパクさせて眼ぇ逸らしたんで言ってやったぜ。ハッキリとな。

「俺ら免状持ちにはな、てめぇ自身の行為を思い悩む『権利』なんかねぇんだぜ?」

そんときだ。背中向けてた司令が振り向いて、俺に笑って見せたのは。
「それは、君達だけじゃないよ、カイトくん?」
いつもの司令の顔だった。思えばこれが司令の中の「人間」を見た最後だったんだな。

59柏木 宗一郎 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/23(土) 07:28:03
あの眼。
黄昏の空の色をすべて集め、石にすればあんな眼になるだろうか。
あの時の眼だ。
思いがけず田中氏と引き合わされたあの日も、彼はあんな眼をして私を見たのだ。



指定の場は、都会の最中に在りながらひっそりと佇む純和風の寂れた敷地だった。
『人間をやめる』
そう決意した桜子を連れ、早速に伯爵(マスター)の指示を仰げば、急ぎこの場に来いと言う。
いざ出向いてみればマスターの姿はない。

「ついさっきまで居られましたのが……急に加減が悪うなられましてな」

インターホン越しの声には聞き覚えがあった。
中に入れと誘(いざな)われ、竹を括った門を潜れば苔の覆う和の前庭が開け、点々と続く敷石の先、簡素な庵が我々を出迎えた。
陽光の当たらぬ庇(ひさし)の元で待ち受けていたのは和服姿の大柄な男。
その眼に柔和なる光を湛え、風体は威厳に満ち、かつ佇まいは品の良い。
あの男だ。マスターとの忌まわしき契りが交わされたあの夜に居合わせた、世話役の男。
通された部屋はまるで茶室のような……いや、茶室そのものの設えか。

「用向きはさておき、まずはくつろぎなされ」

亭主自らの手で点てられた茶。
その手前は素人の私から見ても凡人のそれではない。
濃く練られた茶を啜り、桜子ともども他愛もない世間話などするうちに時がたち。
床の間に活けられた牡丹の蕾と花器に赤い影が差しはじめ、良く良くみれば掛け軸の書、見覚えがあると思えば――

「はははは! この軸、予てより伯爵様に強請り、ようやくに貰い受けた品。驚きましたぞ。聞けば柏木殿、貴殿の作だと!」

何と言う顔をするのだろう。
この男、老練なる気配から察するに100を優に越している。ややもすれば500。
時を経る毎にその精神は荒(すさ)み、心を無くすものが多いと聞く。
それが……このような闊達なる笑みが出来るものか。
それほどの器か。何故これほどの男が……年若きあの方を「伯爵」と?

「これを拝見し貴殿がなかなかに大した方だとお見受けいたした」

首を横に振る私に、彼は首を傾げて見せ、縁側へと足を運び天を仰いだ。

「最近、富に伯爵様の持病とやらが酷くなられる。『契り』は貴殿の手で交わされても良いのでは?」
「……は?」
「解りますぞ? 貴殿の器量。伯爵様に匹敵する、いやむしろ上回る身のこなし。しかも、伯爵様の資質、陽光耐性をも受け継ぎ――」
「まさか! それは買い被りです」
「ほう……? この儂の眼を……お疑いか?」
「違います。わたくしは……仲間を……同胞を作らぬと決めております」
「なんと……申された」

夕暮れの春の風が、急に陰りを帯びた気がした。
さざ波の如き一面の薄雲が黒々とした紅に染まる空。
照り返す暗赤色の陽光は、彼の肌には障らぬらしい。量の長い黒髪が風に流れゾロリとなびく。
傍に設えられた鹿威しが、水音と共に乾いた音を立てる。

「柏木。主(ぬし)は伯爵様の……なんや?」

振り向かずに問う、その声音が一変している。
彼は大阪、堺の出であると言う。
普段使わぬその言葉を紡ぐ時は、その心中が穏やかでは無い。
そう思い知ったのは、ゆっくりと向き直った……田中氏の眼を見た時だったのだ。

60柏木 宗一郎 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/23(土) 13:40:54
気圧される。齢を重ねたヴァンパイアはこうも恐ろしい眼が出来るのだ。
ちょうどその折、背後に新たな侵入者の気配。
息を飲み佇んでいたクロイツ達が駆け寄っていく。振り向かずとも匂いと気配で解る。魁人だ。戦闘員を一人連れている。

田中氏の眼が逸れた隙をつき、マスターの両手首に嵌められた枷を握力のみで砕き割る。
彼は力なくうずくまったまま、短く呻いた。少し乱暴だったかも知れない。
が、鍵の持ち合わせが無いので仕方ない。これで少しは加減が戻られるだろう。

「やはりあの時……ぬしを始末しとくべきやった」

田中氏の声をうっすらと遠くに聞く。
必要な音を出来るだけ拾えるよう、両耳に装着していたイヤープラグの位置を調整する。

「ぬしが言うた、同族を作らぬ理由というのは今時分も納得往かぬ。長きも短きも同じ茨の道や。人も儂らも変わらん。
唯伯爵様の為だけに生きると答えたは良し、だが一見一途なようで……なにか意図も感じるんや。
裏を返せばその言葉、我ら一族の事は意に返さぬとも受け取れる。
ぬしが縋(すが)るものはなんや? 別の何者と伯爵様を重ねてはおらぬか? そう思えてならんのや。
……今しがたもな、伯爵様をつい詰(なじ)ってしもうた。この兵器はあんまりや。なんぼなんでも度が過ぎる。
せやけど開発したんはその方やない、ぬしやったんやな」

田中氏はこの私に問うようでいて、自問自答しているようでもあった。
鳴動の鳴りやまぬ議事堂内。背後では魁人とクロイツ達が状況を確認し合う声。
そんな中、魁人がひと際はっきりと言い放った言葉が、やけに重く胸に響いた。

「俺ら免状持ちにはな、てめぇ自身の行為を思い悩む『権利』なんかねぇんだぜ?」
「それは、君達だけじゃないよ、カイトくん?」

思わず返した私の声で、意識が戻ったのだろう、苦し気に顔を上げたマスターが身体を起こした。
が、高周波の効果は如何ともし難いらしく、再び座り込んでしまった。
申し訳ありません。このイヤープラグは一組しか無いのです。貴方には必要ない。何故なら貴方様は、じきに――
   
「伯爵様を渡してもらおか。本気で……儂らの破滅を願うとる。そんな奴に伯爵様は任せられん」
「その必要はありません」
「どういうことや?」
「この方の寿命はじき尽きるからです」

田中氏が驚愕に眼を見開く。急激に鎌首をもたげる彼の「気」。

「この方の発作の原因は云わば次元付きの爆弾。10年前のあの夜、私はこの方の胸内に銀の弾丸を仕込んだんです」
「なんてことや……」
「詰み、ですよ。もはや使えるヴァンパイアはこの私と貴方しか居ない」
「なんぼや」
「は?」
「余命は……あとなんぼや」

持って半年。過去の文献を見るに、10年過ぎて生き延びた個体は居ない。
そう答えようとした私はぐっと喉を詰まらせた。見えぬ手に心の臓を掴まれる感触があったからだ。
田中氏は両腕を下げたまま。だがこんな芸当をやってのけるのは彼だけだ。
練った気を自在に操作し、操る技。半年前、田中氏のその技に畏怖した時より……密かに修練を重ねた私だからこそ知る妙技。

「その御方の御命は……如何ほどや聞いとるんやがな」

見えぬ手が、更なる力を籠める。彼は答えを求めてなど居ない。

「其方を責めん。人には役目というものがあるもんや。ただ一つ言っとくがな?」
「……?」
「儂らは滅びん。滅びたくとも出来ん。その訳は――」
「その……わけ……は……?」
「……せやな。冥土でゆるりと思案するが良かろう」

61柏木 宗一郎 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/23(土) 17:16:04


――パンッッッ!!!!

胸内に起こった破裂音は、心臓を握りつぶされた音ではない。
私は田中氏が気を差し入れた直後に気を練り、心の臓を内側から固めていた。その気で一息に田中氏の気を押し返したのだ。
肺の諸所が破れる痛み。
しかし我々は肺による呼吸を必要としない。皮膚呼吸で十分。
田中氏が唸る。
もし私の眼を鏡に映せるものならば、彼と同じ朱を帯びていただろう。

出力、及び感覚器の感度、最大。
一足飛びに田中氏の懐に飛び込み、その腹に両掌底を押し当てる。
胴体、手足のすべての伸筋群に力を籠め、その力を放出する。
どんな感じかと問われれば、バレーのボールをレシーブする感覚に近いだろうか。
気を練れぬ者でも鍛錬により発動は可能。中国武術の「発剄」がこれに相当するかも知れない。

――――――ドンッ!!!!

まともなる衝撃を受け、田中氏が背後に飛ぶ。
が流石は熟達。
彼もまた内部より障壁を張っていた。背後に飛んだはおそらくは自らの意思。
田中氏は肩幅より広く足幅を取り、右掌底を前方に尽き出した。
腕周りの空間が歪む。

尋常ならぬ殺気を感じ、上に飛んだ。間髪入れず、彼の手から放たれた圧縮気体の塊――気弾とでも言おうか。
初めて見る現象なれど、いちいち驚いている場合ではない。
狙いはこの足元。つまりは彼の意図に乗った格好だ。
次なる攻撃は当然この軌道上。ならば。

右腕を下方に伸ばす。
体内の気を螺旋に伸ばし、掌に集める想起。
発剄とはまるで違う初めての試み。
しかし上手く行くだろう。砲を撃つイメージ、田中氏に出来て私に出来ぬ事もあるまい。

初めての気弾は予想以上の威力をもって床に当たり、その反動がこの身体の軌道を更なる上方へと変えた。
田中氏が放つ気弾はうまく逸れ、宙にて霧散。
気弾の射程は思った以上に短い。せいぜいが3、いや2間。

着地し、ふと田中氏を見ればふらりと揺らめき壁に手をつく仕草。
急激に気を練った反動か、それとも陽動か。

62柏木 宗一郎 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/24(日) 07:02:16

そういえば伯爵が居ない。
と眼をやれば、大隈像の袖(そで)に居た。何故か佐井医師と総理の遺体を抱え込んでいる。
こちらの視線に気づき、一度だけ眼を合わせ、佐井医師の額にそっと唇を触れられた。
こんな時に何をしておられるのか。伯爵なりの義理立てか?
まあ加減が戻られたようで何よりです。

背後の魁人達は動かない。
こちらに狙いすらつけぬのは賢明と言えよう。

「仲間割れはほんま……不毛やな」

壁に背を預ける田中氏、心なしか息が荒い。

「儂らの弱みは銀弾や。どんだけやっても消耗するのみ、とどめは差せへん」

チラリとこちらを見た眼が人のそれに戻っている。

「降参や。奥の手まで往なされた。思った通り、ぬしは戦の天才や。儂のこの手でどうこう出来へん」

発散していた気がその体内に集束していく。
体表すべてを鎧の如く覆っていたそれが消失する気配。
消耗?
違う。その言葉とは裏腹、蓄えは減らず、むしろ充実。こちらの蓄えこそが底を尽きかけている。
おそらく彼はここに来る直前に吸血している。
こうなってみれば、つい先ほどの麗子の誘いを無にした事が悔やまれる。
しかし何故?
決して不利ではない筈のこの時に、白旗など?


ここに至って私は気づいた。
田中氏は現在、気の操作をしていない。
にもかかわらず高周波のダメージを受けている様子がない。伯爵もだ。いつの間にか地の鳴動が止んでいる。

「御免なさいね? わたくしが……あれのスイッチを切りましたの」

衆議院側の廊下より、フワリと白い姿を現したのは……年若き女性。
桜子、いや彼女の妹秋子の忘れ形見。確かその名は――秋桜(コスモス)。

「すまんな柏木。儂の手ではどうにも出来へんよって、ぬしの虎の子……使わせて貰うで」

田中氏が私の肩越しに視線を送り、ほくそ笑む。

まさか。
そんな事が、可能なのか?

背の正中にピタリと当てられた硬い感触。それが二つ。
慣れたガンオイルの匂い。
持ち手から立ち昇る汗の匂い。
見ずともわかる。
私はこの10年間、彼ら二人を鍛えて来たのだ。

「……司令……」

絞り出され魁人の呟き。
そのもう一方の銃口は、彼自身の米神に押し当てられていた。

63菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/25(月) 06:29:34
柏木が放った気の衝撃が、この身体を一瞬にして隅に追いやった。
ガツンと強く後頭部を打ちつけられ、またもや意識が飛びかける。
見上げれば大隈さんが厳しい眼で柏木と田中さんの戦闘を見守っている。
眼を落とせば総理と朝香。
まるで朝香を庇うようにして倒れている総理に息は無い。首元の動脈を一発。ハンターの仕業だ。
総理に向かい手を合わせてから、うつ伏せの朝香を抱き起す。出血量、傷の位置から見るに……即死。これもハンター。
すまない。朝香。
そして田中さんも。貴方との約束、守れなかった。

わたしはそっと彼女の前髪をかき分け、その白い額に口づけした。
ビクリ! っと朝香の手が動く。
(……良くあることだ。新鮮な遺体じゃあ、ありふれた現象さ!)
その手を握り、自身の胸の上に押し当てる。まだ柔らかな彼女の手のぬくもりが、じわりと沁みてくる。
ズキン! っと来たあの発作。
まただ。いや……いつもと違う。いつもなら、酷くなるはずのそれが、次第に――

なんだろう、すごく、心地いい。


音も光も感じない。
自分が立っているのか座っているのかも分からない。
呼ばれた気がして、振り向けば朝香が部屋の扉を開けて立っている。

あれ? ここ、何処だっけ?
やだっ! ハムくん、自分のお家、忘れちゃったの? まだ寝ぼけてるの?
……そう……だっけ? って、え? ハムってなに?
んもう! 自分で決めたんじゃない! キミタカだと呼びにくいから、いいの無い? って聞いたら――
ハムって? わたしが自分で?
そう! 公って字を上下に読んでハム! ハム君ってなんかハムスターに似てるから、あ、すごくピッタリって!
は……ハムスターって……このわたしが!?
それよりはやく! 朝ごはんが冷めちゃう!

くるりと振り向いた彼女。なんとエプロンの下に何も着ていない。

……朝香、いい歳して、その恰好はどうだろう。
ええ〜〜……ダメ!? 喜んでくれるかと思ったのにぃ〜
悪くない眺めだけど、でも……今時期けっこう寒くない?
ええ〜……そりゃまあ寒いけど……あ! なるほどね! あっためてくれるって、そういう事! んもう! ハムくんったら!
え? ちょっと……!

駆け寄ってきた朝香に両肩をドンっと押されて倒されて、仰向けになったわたしの頬を、朝香の柔らかい髪先が撫でて。

朝香、朝っぱらからこんなの駄目だよ
いいじゃない! 診察よ診察!

巧みにボタンを外す白い指、その左の薬指に銀の指輪が光っている。
っと、よく見れば自分にも。
……贈ったかな。そうだったかな。そんな気もする。

64菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/26(火) 07:02:07
さざ波のような心地よさに身を委ねるうち、景色が変わる。

上を下も、どこもかしこも白い空間に、ポツンと佇むわたし達。
朝香はいつのまにか着込んだのか、純白の白衣に聴診器を引っかけて。
自分はと見れば、いつもの白スーツ。でもシャツとネクタイは黒じゃない、小洒落たデザインの白。

あはっ! ハム君ったら、かっこいい! あたし達の結婚式を思い出すわね?
え? そんなもの、いつのまに挙げたかな。
……ひどっ! 島の教会で、2人だけで挙げたじゃない! 一生の思い出よ?
……島? 2人?
あ、でも柏木さんが神父で、田中さん……ううん、御爺様がエスコートしてくれたから、4人?

朝香が手を差し出したから、その手を取って立ち上がる。
踏み出せばそれは螺旋に連なる無数の踏み板。
柱はない、ただ白い板が並べられただけの階段は、遥か空の彼方へと続く。
ふわり、ふわりと駆け上がる彼女、追いかけて見れば、彼女が大きな黒い何かを抱えている。
それが何か気づいた時、わたしは思わず一歩後ろに下がった。
蜘蛛だ。
彼女が巨大な蜘蛛を、まるで赤子でも抱くように優しくあやしている。

それ、なんだい?
うふふ……ここにしがみついてたの。かわいいでしょ?
……かわいくは……ないと思うけど。それ、どうするのさ?
こんな所に居たら可哀そう。上まで行って、放してあげなきゃ!

振り向いた彼女の胴体に、毛むくじゃらの手足ががしりとしがみつく。
無邪気に笑いながら、スルスルと階段を登っていく彼女。
追いかけようとしても、身体が鉛になったように動かない。何度も彼女の名を叫ぶうち――


「御免なさいね? わたくしが……あれのスイッチを切りましたの」

凛と響く女の声。
気付けば元の場所だった。
桜子……かと思ったが、そんな筈はない。彼女は死んだ。朝香の撃った弾丸が彼女を殺した。
だがその顔は彼女にそっくりだ。半年前、柏木に連れられて田中さんの家に来た時と同じ、白い瀟洒なドレスもね。
スイッチってのが何のスイッチか知らないけど、でもあの「音」がしなくなった事に関係してるに違いない。そう仮定するのが自然だ。

「すまんな柏木。儂の手ではどうにも出来へんよって、ぬしの虎の子……使わせて貰うで」

暗がりの中で田中さんの声がして、もう一度眼の感度を上げて見れば、彼のすぐ眼前に柏木が立っているのが見えた。
柏木の背にぐっと銃口を突きつける2名のハンターも。
如月も、麻生も、抵抗を露わにした顔、銃身を握る腕も小刻みに震えている。
如月に至っては、もう一方の銃を自身の頭に突き付けている。
彼らが何者かに行動を強制されているのは明らかだ。
ゆっくりと腕を組み、一心に二人と見つめる田中さん。そしてさっきの台詞。
……どんなからくりか知らないけど、田中さんが操作しているのは間違いなさそうだ。
2つの撃鉄が同時に起こされる音。如月の持つ2丁のリボルバーだ。

「……司令……」

懸命に抗うかのような如月の声。柏木はその声に視線を向け、そして半ばあきらめたように眼を閉じた。
わたしは朝香をそっと床に横たえた。
しっかりと閉じられた朝香の眼、その頬にポタリと落ちた雫を見て、わたしは今の今まで自分が泣いていた事に気づいた。
なんてことだ。両親の時も、アルジャーノンの時も、こんな風に涙なんか流した事なんて無かったのに。

65菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/26(火) 07:03:48
一度眼を閉じ、その色を黄金に変える。
いま必要なのは泣き顔じゃない。彼らを上回る……伯爵としての威厳だからね。

「駄目だよ田中さん。柏木の親はわたしだ。勝手に始末してもらっちゃ困るよ」
「……伯爵様? お加減が……お戻りに?」
「あはは、あの時も田中さん、それとまったく同じ台詞を言ったよね」
「……は?」
「ほら、半年前、田中さんの庵でさ」
「半年前……。そんな事が、ありましたかな」
「あったさ。わたしが席を外したその間に、柏木とひと悶着あっただろ。縁台の上でさ、怖い顔で柏木と……さ。見た時は驚いたよ」

狼狽気味の田中さんは、視線を彼らに向けたままだ。
なるほど、その視線を逸らせば彼らの呪縛は解ける。
彼は気の使い手。眼力と気と組み合わせれば、あんな精密な操作も可能なのかも知れない。
わたしは田中さんを刺激しないよう……ゆっくりと彼に歩み寄った。

「柏木はわたしの護衛だよ。だから勝手にするなって、あの時も言ったよね」
「されど伯爵様、今こそが、この柏木を始末する絶好の機会ですぞ?」
「そんな事ないよ。柏木はわたしの言う事を何でも聞く。いざ死ねと言えば死ぬさ」
「しかし、こ奴が申すには……伯爵様の御命は――」
「知ってるよ」
「……何ですと」
「この命はじき消える。知ってたさ。この心臓に仕掛けられた弾丸の効果を、このわたしが知らない訳ないじゃないか」
「ですが伯爵様――」
「その伯爵様っての、いい加減やめてくれない? 私はこの国の閣僚だ。その一員として、わたしはやるべき事をする」
「やるべき事とは?」
「法を以て人と我々の共同社会を実現する。わたしはまだ諦めてなんか居ないよ」
「……クソったれが」

今の台詞はもちろん田中さんじゃない。
わたしは眼を細めてハンターの一人――如月を見た。
田中さんも眼をぐっと細めて、そして何か呟きかけて。でもその口はしっかりと閉じられた。

カチン!

撃鉄が戻る音と同時に、フッと張り詰めていた空気が緩む。
弾かれたように柏木から離れたハンター2人が、クタリと床に座り込む。まだ身体の自由は効かないようだ。
柏木がこちらに向き直り、片膝をつく。

「最後の命令だよ、柏木」

柏木は顔を上げない。……まったく……君という男は……
わたしはツカツカと彼に歩み寄り、顎に手をかけ上向かせた。

「如月を殺せ。人と我らの、明るい未来実現のためにね」
「……YES。YES、Master」

立ち上がった柏木が徐に記者の仮面を剥いだ。
……そうさ。それが君の本当の素顔だ。

66如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/27(水) 06:19:14
俺と結弦の眼の前に、司令としては見慣れねぇ……けど見慣れた顔した司令が立っていた。
そういや結弦のリサイタルの夜も、これと同じ顔してたっけな。
獰猛そうな金の眼を爛々と光らせた、その眼はヴァンプそのものだ。
あの地下室で、延々と俺と結弦を相手にしていたあん時の顔だ。
たぶんこれが司令の本当の顔なんだ。
普段はハンター協会の局長で、とある時は桜子屋敷の執事で。時々タクシーの運転手で? ついさっきはフリーのライター。
どれもこれも仮の顔、本当の司令の顔を知ってる奴はだれも居ねぇ。
そんな司令が勿体ぶって素顔を晒す。最後の決戦だって……そう言う事だろな。
だが、すぐには攻撃はして来ねぇ。
まだろくに動けねぇ俺達を待つつもりか? 腕を組んで俺達見下ろしたりしてよ?
そういうとこ、ほんと司令だよな。ヴァンプになっても変わらねぇ。
俺は身体起こそうとしたが、腰にも腹にも感覚はねぇ。手の感覚もだ。銃握ったまま強張って動かねぇもん。
結弦おなじみてぇだな。何とか動かせる首巡らせて奴に目配せしてやりゃあ……結弦の奴、ため息ついてな?

「ついに……この時が来たね」
「……だな」

俺ぁ奴以上に情けねぇ顔してたに違ぇねぇ。
そりゃ俺なりに覚悟はしてたぜ? 司令は伯爵の命令には絶対に逆らえねぇ。だからこんな風に司令とやり合う時が必ず来るってな。
……けど勝手が違うぜ。
田中も伯爵もまだピンピンしてんだ。たとえ司令やったとしても、後に2人も控えてやがんだ。
誤算はあの女だ。あの女が装置の作動止めなきゃ何とかなってた。田中だっていつまでも気功に頼ってられねぇだろうしな。
だいたい何処の何もんだ? あの装置を止める為にはちょっとした仕掛けが要るんだぜ? 
俺が首をひねったそん時だ。結弦がボソッと零した言葉に耳疑ったのは。

「ごめん魁人。僕だ、あの子に……秋桜に装置の止め方を教えたのは僕だ」
「こすもす? 誰だそりゃあ?」
「さっき魁人も言ってた僕の娘だ。今朝は確かに5歳くらいだったのに、もうすっかり大人だ。きっと桜子の生まれ変わりだ」

食い入る目で女を見つめる結弦。それを勝気に見返す女。
そしたら俺の頭ん中に……パパパパっと今朝の記憶が戻ってきたんだ。麗子さんにドタマど突かれてぶっ倒れる、その直前に聞いちまった話をよ。

「馬鹿おま……わざわざ敵に塩送っちまったのか!?」
「え?」
「司令によりゃあ、お前の子は真祖かもって話だぜ!?」
「え……ええ……!?」
「ちったぁおかしいとか思えよ。生まれ変わりがどうとか言う前に、成長早ぇとかそりゃも人間じゃねぇだろよ」
「……秋桜が……真祖? でもさっき……僕を助けてくれて……だから……」

やれやれこいつ。桜子の事となると人が変わるっつーかなんつーか、夢見るタチっつーか、一途なトコ相変わらずだ。
しっかしホントのヤベぇ要素は幹部クラスが増えたとかそういう事じゃねぇ。
俺と結弦はさっきのさっきまであの女の存在を綺麗さっぱり忘れてた。
それってあれじゃね? 記憶操作って奴。
大概のヴァンプは眼力なんかで人間を操作可能だ。桜子も「音」で大衆動かしてた。
さっき俺と結弦を動かした田中もそうだが、あの効果はせいぜいが数分しか持たねぇ。
ま、伯爵みてぇに自分(てめぇ)の意識みてぇなの送り込むバケモンも要るが、それだって延々と成せる技じゃねぇ。
(じゃなかったら、俺、2度も伯爵に殺されてるもんな?)
身体操作は怖ぇには怖ぇが、それほど脅威でもねぇってこった。
だが記憶を操作とかなるど、ヤベぇレベルがまったく違う。
全国民、下手すりゃ地球規模で人間がヴァンプの言いなりになっちまうって事だろ?

「眼ぇ覚ませ! あいつが味方のわけがねぇ! 腹ぁ決めてヤルしかねぇ!」

俺は結弦に手ぇ伸ばしてその肩揺すった。
結弦は一瞬ポカンとして、ぎょっとした顔して立ってる司令を見上げたんだ。

「そうか、ようやく支度が……出来たようだね?」

その声は俺達の知ってる司令の声じゃなかった。

67如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/29(金) 06:19:25

両腕をゆらりと下げた司令が俺達を見下ろしていた。あの虎みてぇな黄色い眼をビガビガ光らしてな。
俺は背ぇまっすぐに伸ばした立ち上がった。
司令の眼ぇ見返しながら、慎重に。急がずにだ。
手のヒラにグリップの感触がしっくり来てる。いつでも撃てるぜ。

電源が一部戻ったんだろ。窓から差し込む光源(たぶん街灯だろう)があるせいでさっきよりは視界がいい。
司令の後ろにゃ「自分らは関係ねぇ」って顔した幹部ら3人。
司令一人に任す気だ。俺らに取っちゃアリガてぇがな。
司令と俺らとの距離はざっと6メートル。
さっき田中と司令が撃ってた気のタマがぎりぎり届かねぇ間合いだ。
それも俺らに取っちゃ有難てぇ条件。

そう……だな。
正面向いて動かねぇ的。撃つなら今だ。
だが………俺ぁ動けなかった。撃って当たる気がしねぇの。

もし司令がヒラのヴァンプならとっととやってる。
大概のヴァンプはタマを避けたりしねぇ。
避けられねぇのか、それとも当たっても死にゃしねぇから逃げる必要ねぇとか思ってんのか知らねぇが、
被弾しつつもゾンビみてぇに闇雲に襲って来るのが普通だ。
そんな奴らなら簡単だ。初弾で心臓ぶち抜いちまえばいい。免状持ちのハンターに取っちゃあ朝めし前の仕事だ。
少し気の利いた奴、例えば佐伯みてぇな眼の利く奴になってくると、スレッスレで弾道をかわしてくる。
右か左か、下か上か。
それも対処は簡単だ。
どんなバケモンも、ギリギリの動きする時ぁ必ず「隙」が出来るからな。その隙を狙ゃあいい。
だが幹部クラスとなるとそうは行かねぇ。
奴ら、ヒラとはまったく別口で銃弾捌きやがるからよ。
司令もだ。銃弾を「掴み取る」なんてとんでもねぇ特殊技能を持ってやがる。
ややもすりゃあ掴んだタマぁ投げ返して寄越すから始末が悪ぃ。
だから俺ぁひたすら待ってた。
ほんの、チビっとでいい。それこそ針の穴通すほどの隙を司令が見えてくれるのをな。
だが時間だけがジリジリ過ぎてく。司令は全身に殺気を纏いつかせたまんま、ここの彫像のひとつにでもなったように動かねぇ。
くっそ……こんなに……撃つタイミングが掴めねぇ相手は初めてだぜ。地下室じゃあ随分手ぇ抜いてたんだな。
コツン……と後ろで音がして、気がつきゃ立ってた筈の司令が居ねぇ。

おいおい! 俺が隙作ってどうすんよ!?

68如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2019/11/30(土) 06:25:34
俺ぁ咄嗟に振り向いた。見失ったときゃあ、後ろに居ると相場が決まってるもんな。
……だが居ねぇ。ついで拓斗の奴も居ねぇ。ありゃ? なんで?

「魁人! うえだ!」

結弦の声に、俺ぁ脊髄反射で床に伏せた。
ゴロリと転げて上を向く。さっき伯爵にヤラれた鳩尾にズシンと響くが、構ってなんか居られねぇ。
視界のど真ん中、手足丸めて宙に浮く黒い影。
今度の今度は引き金引いたぜ。どてっパラから心臓に突き抜ける間隙にな。
よっしゃ! あの体勢じゃ流石の司令も手が出ねぇ! ってな。
だが俺は大甘だった。

司令、俺が撃ち込んだ弾丸を靴の底で弾きやがった。
まるで地面にでも着地するみてぇにトンッ……と、思わずため息つくぐれぇ自然な動作でな。
横っ飛びにフワっと飛んだ司令が、クルリと回って着地する。
なんつーしなやかさ。豹みてぇ。
いやいや! マグナム弾よ!?
普通突き抜けるっしょ!! 踵(かかと)、ダイヤモンドかよ!!

重力加速度で落ちて来た弾頭を、グリップ底でガシッと払って飛び起きる。
さっきとおんなじ、構えもせずに立ってる司令。息ひとつ乱れてねぇ。
マジか……?
あんなのに勝てんの?

俺ぁ頬伝って流れて来た汗をペロッと舐めて舌打ちした。
まただ。またあの……俺に取っちゃやたらと長ぇ膠着状態が始まったのよ。
正直言って苦手だ。長い事、ピクリとも動かねぇで居るってのは簡単じゃねぇ。
頭空っぽにすりゃいいって訳でもねぇ。あーだこーだ作戦練ったり、思わぬ事態の対処をシミュしたり。
そういうしてるうちに腰だめに構えた腕の筋肉が「まだ?」なんて俺を急かして来るわけだ。
そうすると、やたらと自分の心臓がどっかんどっかん言い出してくる。
息詰めすぎてパンパンになった肺が爆発しそうになってくる。
俺、鍛えかた足りねぇのかなあって。
タマ撃ちばっかやってねぇで、茶道とかもやっときゃ良かったんかな。

そんな時に「救い」が来た。横ちょで伯爵と田中が何やらボソボソしゃべる声が耳に入ってきたんだ。
司令にはその中身が聴こえたらしい。片方の耳がぴくッと動いたからな。(すげぇ! そんなとこまで豹みてぇ!)

「柏木、麻生にはなるべく手を出さないでよ?」
「はあ?」

もちろん、「はあ」なんつって聞き返したのは司令じゃなくて俺だ。意味わかんねぇもん。
考えてみろよ。
司令が俺ごときに睨みあってるの、結弦が居るから、だぜ?
ハンターは仲間の命も惜しまねぇ。それ知ってっから、司令は俺らの隙を狙って突っ立ってる。
1人じゃねぇ、2人同時にヤれる隙をな。じゃねぇと、1人ヤってももう1人にヤられっからな。
それを、1人は助けろ、だと。
その注文は「てめぇは死んどけ。後は自分らが何とかする」って言ってんのと同じ事だ。
しかも結弦は曲がりなりにも免状持ちだ。
免状持ちのハンターを殺さずに無力化すんのが、いかに難しいかって、あの伯爵が知らねぇはずもねぇ。

そしたら伯爵、俺の方見てにっこりと笑いやがって言ったのさ。

「あの夜に聴いた桜子との連弾が忘れられないって田中さんが。わたしも麻生の弾くシューベルトが好きだからって事で」

……なんだそれ。理由まで意味わかんねぇ。
だが少なからず納得したぜ。そういや今までも、俺より結弦を優先する場面あったっけな。


司令、どうすっかな。
俺達に取っちゃあ救いの一言。司令に取っちゃあハンデ以外の何もんでもねぇ。ちょい複雑だぜ?

69麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/12/01(日) 07:41:32

背中を預け合う僕と魁人。
懐かしいな。あの地下室ではいつもこんな感じでやってたんです。

まだ僕が音大生だった頃。
先生の個人レッスンが長引いて……急いで帰ると門前で魁人が待っていた。
目深にキャップ被って、腰に2つもホルダー下げて。あはは……ハンターじゃなかったら即通報されてるね。

「遅ぇじゃねぇか。またいつもの先生か?」
「うん。なかなか解放してくれなくて」
「ピアノねぇ……。お前に取っちゃあ本業かもだが、こっちの事も忘れんな。免状取りてぇならな」
「そこまで言う? 遅れたの、たった5分だよ?」
「てめぇ……そのたかが5分間、どんだけ俺がヤキモキしたと思ってんだ? ヴァンプの襲撃か、呼び出しかってな」
「ごめん、心配かけたね」
「違ぇよ。俺の時間取られんのがヤなの」

2つ年下の魁人ははっきり言って態度がデカい。仮にも先輩の僕に向かって、いつもこんな口をきく。
何でも、騎手になりたくて上京したらしいんだけど、身長伸びすぎた、なんて綺麗さっぱり諦めたとか。
そんな彼は、高校にも行かないでひたすら訓練に精を出している。
もともと恵まれた身体能力な上、地元でも結構鍛えてたらしくて。今じゃ僕より全然格上。
……やっかんだりはしません。
彼の態度がデカいのは別に威張ってるわけでも何でもなくて、単なる性分だって知ってるし、意外にも情が厚い。
動物、特に大の馬狂いで、実際に1頭飼っていて、歩けばその馬の話しかしない。(あと、昔見てたアニメの話とか?)
普通……もっとこう……女の子の話とかするよね?
でも全然なんだ。前に振ったら、「東京の女は怖ぇ」なんて意味わからない事言ってたし。

玄関脇に地下に抜けるドアがあって、その階段を下りる途中、いつも何かしらの旋律が聴こえていた。
今日はヴァイオリン。父さんの音色です。

「誰の曲だ? やけにもの悲しいじゃねぇか」
「メンデルスゾーンだね。ヴァイオリン協奏曲、ホ短調。気に入った?」
「まさか。これから稽古だってのに、テンション下がっちまうぜ」
「そう? 僕はどんな曲でもイメトレにいいと思うけど。魁人にも聴ける耳があればね」
「ほざけ。俺はてめぇと違って――」
「なに?」

眼の前の光景を見て、僕も口を噤んだ。地下室で待っていた「彼」の様子が普段と違ったから。
いつもは血痕だらけのボロ布(きれ)纏って床に蹲ってる彼が、いかにもヴァンプって感じの上品なタキシード姿だったから。
しかもいつのまに調達したのか、木目調の綺麗なデスクと、揃いのデザインの椅子にきちんと腰かけて、一冊の本に眼を落している。
手足にだけは、いつもと同じ銀の枷が嵌められていたけど。

「今夜はまず理論から始めよう」

パタンと本を閉じて、彼が腰を上げた。

70麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/12/03(火) 05:57:20

「どした? ヴァンプ様が変なもんでも食って頭がヤられちまったのか?」

魁人がクルクルっと両手の銃を回して、ピタっと彼に狙いを定めた。
狙うといっても、照星を的に一致させ、それを照門の間に置く、なんて一般的なやり方じゃない。
腰だめで狙う西部の保安官スタイルだ。
よくそんなで当たるよね。よっぽど生まれながらの射撃センスがあるんだろう。

「そのカッコ、お誕生日かよ。どこのどいつか知らねぇが、んなガラクタ持ち込んで、こいつに何させようってんだ?」
「わたしが頼んだのだよ。書物もいくつか。あの方が快く応じて下さってね」
「あの方? だれだそいつぁ?」
「君達が『元帥』と呼ぶ方だよ。他に質問はあるかね?」
「『かね』だあ?。薄ぎたねぇヴァンプ風情が偉そうに教官気取りか? ふざけんな!」

彼の指がトリガーを引いた。打ちっ放しの天井、壁に響き木霊する炸裂音。
しかし彼は、平然と立ち尽くしたまま。
僕は彼の後ろを見たけど、弾が壁に当たった痕はありません。
……撃った弾が消える、はずはない。彼が動いた様子もな……いえ、良く見ると、手首に繋がる鎖が微かに揺れています。
しばしの静寂。
僕と魁人が唖然と見守る中、彼が手を差し出して見せる。
鳥肌が立ちました。
上に向けた手の平には、さっき撃った弾頭が二つ、乗っていたんです。
銀とはっきり区別する為に、青く塗られた弾丸だから間違いありません。

「なんだ……? いったい今……なにしやがった?」
「そんなだから魁人くん。理論も学ぶ必要があるのだよ」

フフッと笑うその仕草はとても理知的で、物の道理が解ったような……そう、化け物というよりは人間に近い。
そこらのヴァンプとは違う「貫禄」のようなものがあって。
僕は腰に差したベレッタを抜き取ることもせず黙って彼の眼を見た。
だが魁人は違った。

「うらあああああああ!!!!!」

腰だめじゃない、両腕まっすぐ前に伸ばしてトリガーを引く魁人。
彼がそんな撃ち方をする時はよほどの時だ。より精密な狙いを要する時。
でもその目標が倒れない。
彼のパイソンは左右合わせても12発。すぐに弾は尽きた。

パラパラっと……鉛の弾が床に転がる音。その数は11。
残りの1発は?

「……あ……」

魁人がペタンと尻もちをついた。
左肩を抑える右手の隙間から赤い血が流れている。僕は即座に駆け寄った。

71麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/12/09(月) 22:22:07
理解はできた。
彼は弾丸をすべて掴み取り、そのうちひとつを魁人に投げ返した。
しかも必要最小限の動きでだ。
(あの鎖の揺れを見れば解る。もし大げさに動かせば、必ず鎖がぶつかり合う音がする筈だから)
まさにその「ジャラリ」と言う音がして、眼を向ければぼんやりと煙る硝煙の向こう、彼がさっきの本を手に取っている。
その背表紙には「孫子」の印字。
孫子。
2人の孫子が認(したた)めたとされるその書は、僕たちハンター志願者が一度は紐解く兵法書の古典だ。
頁をめくり、愛おしむように眼を走らせる様子は……まるで自身のバイブル(聖書)でも扱うようだ。
一介のヴァンパイアには決して似合わない。いったい……何者だろう。

魁人はまだ固まっている。
血まみれになった手は小刻みに震え、眼は驚愕に見開かれたまま。

「魁人、傷を見せて」
「……バケモンだ」
「え?」
「奴ぁ片手で……しかも手首の『返し』だけで全弾絡め取りやがった」
「今のが見えたの!?」

カクンと首を縦に動かして、その顎先から雫が1滴ポタリと落ちる。
「指と指の隙間に3個ずつ、合計9個のタマ挟んだその手のスナップで、最後の1個を返して寄越した」
「……すごい」
「ああ。奴ぁ正真正銘バケモンだ」
「うん。君も、ね」

おそらく魁人は、相手の実力を確かめるために敢えて「数を撃てば当たる」的な戦法を選んだんだろう。
ヴァンパイアに勝るとも劣らない動体視力があってこその試みだ。僕には真似できない。
僕に出来る事。それは――

魁人の口から鋭い呻き声が漏れる。今頃になって痛みが襲って来たんだろう。
赤く染まる彼の手をそっと退けると、ぶわりと血液が溢れ出た。
傷は盲貫創。幸い動脈はやられてないみたいだけど、弾が骨か関節に食い込む嫌な音がします。
しかも動かそうとすると腕がビクンと跳ねるし、痛がりようも普通じゃない。大事な神経に当たっているのかも知れない。
魁人の指を止血点に当て、強く圧迫してやった。
息を荒げる魁人の額に脂汗が滲んでいる。

「少し休んでて? 僕に考えがある」
「……どうする気だ?」

僕は立ち上がると、魁人を庇うような恰好で「彼」と向き合った。
本に落としていた眼がゆっくりと僕に向けられ、その焦点が僕の眼に合い、スゥっと細まった時……
何とか堪えましたよ、卒倒しそうになるのをね。

「お尋ねしたいことがあります」
「何かね?」
「……貴方ほどの人が何故?」
「……ん?」
「下っ端ならともかく、幹部クラスを生かしたまま捕える。そんな力を協会が持っているとは思えません」
「……嬉しいね。君は魁人くんと違い……理論派のようだ」

満足気にほほ笑えむ……その仕草に見覚えがあるような無いような。
でも思い出せません。過去に取り逃がした個体のひとつでしょうか?

72麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/12/19(木) 06:38:57
「では早速、論理的思考(logical thinking)の鍛錬と行こう」
「ロジ……え?」
「何故協会が私を『飼育』する事となったのか、君なりに推察してみたまえ」

本物だ。
3年前、僕と魁人の「的」として宛がわれた彼はいま、本物の「教官」として眼の前に立っている。
ずっと……思考能力の無い、ただ無暗に攻撃を仕掛けるだけの「傷物」だと認識してた。
赤く濁った眼差し。欠片の自我も見いだせない。当然その名を聞く事もない。
だけど、ギシリと背もたれを軋ませて腰かける今の彼は、神々しくすら見える佇まいだ。
穏やかで温かな眼が僕を促す。
僕は自然と頷いていた。
彼が促す「理論の展開」。その理論自体が実践の役に立つかどうかは判らない。
けど何かが産まれる気がする。いざという時に役に立つ「なにか」が。

「貴方のような捕捉不可能個体がここに居る。その理由は一つしか考えられません」
「……ふむ。それは何かね?」
「VPの上位個体――幹部或いは長である『伯爵』に命を受けた為」
「根拠は」
「ヴァンプには『より格上のヴァンプに従う』という習性があります」
「私が協会の強力な拘束具に屈したとは考えないのかね?」
「ご冗談を。射出された弾丸をあべこべに武器とし撃ち返す能力があれば、いつでも我々を制圧、逃走可能です」
「では聞こう。VPの『上』そう命じた目的は?」
「そ……それは当然……潜入……。内側から協会の人間を抹殺する為、……です」

トン……トンっと規則的に何かが何かを叩く音。
冷たい天井から水滴でも落ちる音だろう、と思えば違いました。教官の人差し指が、開いた本の「とある箇所」を叩く音だったんです。

「なるほど、『孫先生』も言ってるね。兵者、詭道也。敵を欺く事こそが戦争行為の本質であると」
「……」
「その推察通りなら、君達は今、『死地』に身を置いている。君達には万に一つの勝ち目もないだろうからね」
「……そうでしょうか。いかに貴方が強かろうと、僕らは2人。仲間の死も厭わぬハンターです」
「仲間を盾にすれば勝てるとでも言うのかね?」
「勝てないまでも、相討ちに持ち込めるかと」
「……ならば試してみるかね?」
「……え?」

再び閉じられた本が、机上にポンと無造作に放られる音。
そのピッチ。Aか? Aフラットか? それとも……B? 絶対音感を持つこの耳が、音を正確に捉えられないなんて……!
静まり返った地下室の空間いっぱいに響き渡る、僕自身の鼓動。
魁人の速い息遣い。それに被さる自分の呼吸。
彼がおもむろに足元の弾丸をひとつ拾い上げ、コロリと手の上で遊ばせる。
空気が重い。
グリップを握る左手は、下に下がったまま動かない。指先が冷たい。眼の奥が熱い。喉が……カラカラだ。

「あの時、君達は学んだ筈では無かったのかね? 敵に武器を与える真似はするなと」

司令が一歩、前に出る。その肩越しに、白いドレスの秋桜。少し離れて田中さん、菅伯爵も。

「馬鹿魁人。どうしてさっき、落ちて来た弾を横に弾いたりしたのさ」
「すまねぇ。つい咄嗟にやっちまった」

ヒタ……と弾頭を右手の指先に挟み、こちらに向けて見せる司令。
そうだ。司令が放つ弾丸の威力は並じゃない。あの時も、いとも容易く僕たち2人を同時にぶち抜いたんだ。最新式の防弾着ごとね。
だから決して正攻法で戦ってはいけない。孫子も言ってる。戦いの本質は詭道だと。

「司令、僕たちは『あの時』とは違います」
「ほう……では――楽しませてくれるかね? 麻生くん?」

フっと司令の右の手が霞んだ。

73麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2019/12/22(日) 05:34:38

――――ギン――――!!!!!

近くで硬い金属同士がぶつかる音。
同時に僕は伏せていた。僕を庇って一緒に倒れ込んだ魁人が重くのしかかっている。

「無事だな?」

即身体を起こす。耳の中がキンキン言ってる。
魁人はすでに立ち上がって構えてる。
その足元には不格好につぶれた弾頭が二つ。
急ぎそれを回収する。同じ轍は踏まない。
表情を変えず、両腕を下に下げた姿勢のままこっちを見ている局長。

いま何が起こったのか説明すると。
局長の手が霞んで見えた――つまり弾がこちらに向かって放たれた瞬間、魁人が発砲した。
弾に弾をぶつけた訳です。
相手の弾の弾道を正確に見切る眼と、正確な速射が出来て初めて可能な技。
そんなどっかの漫画みたいにって思うかもだけど、魁人なら出来る。
実は地下室で局長の「あれ」を見て以来、延々と、それこそ7年間も練習したんですけどね?
僕が魁人に向けて撃った弾を魁人が弾で撃ち返す、そんな練習。
(すごく危険だけど、でも大丈夫。一応は防弾の範囲を狙うから)
……でも今のは危なかった。
弾同士がぶつかったのは、僕から10cmも離れていない場所。魁人の反応がもう少し遅かったら僕に当たってたんだ。

『司令も律儀だぜ』
『え?』
『てめぇの大腿狙いやがった。ピアニストにゃ要らねぇってこったろ?』
『それはそれで酷いなあ』

なるほど、局長はちゃんと伯爵のいいつけを守ってる。
つまり、「僕は魁人の盾に成り得る」。

「俺ぁあと10発。てめぇは?」
「5発だよ」
「それで何とかするっきゃねぇな」

僕は頷く。
半身になって左の腕を前に伸ばす。背中を合わせる魁人は右腕を尽き出す恰好だ。
僕の銃(ベレッタnano)は照準は正確だけどは小さいなりのリコイル(反動)が大きい。
もちろんその癖は覚えてる。だからわざと照準を左下にずらして着弾点を修正する。
狙いは局長の胸部正中。ヴァンプに取っての唯一の急所。

「GO!!」

魁人の合図でトリガーを引く。魁人もそれに続く。
魁人のパイソンは僕のと同じ9mm弾。ただマグナム弾だから威力とスピードが上。
それを利用した僕らのコンビネーション・プレイ。

届くだろうか?
局長が口の両端をギュッと吊り上げるのが見えた。

74柏木 宗一郎 ◆GM.MgBPyvE:2019/12/31(火) 08:02:57

加減などしない、渾身の投擲だった。しかも狙いは脚。
その弾にまっすぐに当てるには身体を曲げるか倒すか、いずれにせよ不自然な体勢を取らざるを得ない。
それを咄嗟に、かつ正確に。
流石だ。生まれ持った眼と勘……その上での鍛錬の賜物、というわけだね? 魁人くん?

右手人差し指の先が熱い。
ヴァンパイアは銀に強いアレルギーを持つ。触れれば肉を焼く傷となり、癒す手段は生き血のみ。
……生きた……血。
そういえば、つい先ほど口にした魁人の――
たちまちに湧き出す生唾、あわや口の端から滴り落ちようとしたそれを手の甲で押さえる。
とく、とく、と規則正しく時を刻んでいた心臓の鼓動が、やおらその勢いを増し始める。
……まるで野獣だ。ごく僅かに意識しただけでこれだ。田中氏クラスの大老ならば多少の抑制もきくらしいが。

すでに飛び起き、構えている魁人。続く麻生。
窓からの薄明りが仄暗いホール中央に立ち尽くす両者の頬をくっきりと照らしている。
魁人と麻生。
この2人は性格もタイプもまるで違う。
魁人は身体能力と戦闘センスに恵まれ、判断と行動が早い。
今の動きも見事だった。直情に走る故にしばしば読み違う、それだけが玉にキズか。
一方の麻生は慎重に物事を進めるタイプだ。動かぬかと見せかけ不意に行動に移る賢しさも持つ。
そんな麻生が口にした『戦闘の本質は詭道』、なるほど。
私があの地下室に居座っていた時分に彼らに紐解かせた兵法書――孫子の言葉だ。
当時の麻生は殊更に問答を求めたものだ。詭道すなわち敵を欺くやり方は、卑劣な行為に当たるのではないかと。
頷くより他はない。
この国の民は古来より正攻法を良しとする気質が強い。若ければ尚更。
しかし孫武の眼は、自国と隣国とを含めた広いもの。かつ老子の思想「正を以て国を治め、奇を以て兵を用う」を継ぐものなのだ。
つまりは戦争、特に武力戦は本質的に変法である。その思想の根源にあるものは、人材と資源の温存に他ならぬ。
真っ向からただ両者懸命に殺し合うだけの戦、火を放ち地や家屋を焼き払い、不毛と化したその地で得た勝利が何になろう。
故に曰く、『いざ戦争となれば、それは最小限の損失を以て終結せねばならぬ』
個々の戦闘も同じ。
死をも厭わぬハンターであろうと、安易に自身を犠牲にしてはならない。
しかも君達の身体は貴重な資源でもあるのだよ。
故に詭道は王道。
理解したようだね、麻生くん? 

麻生と魁人の囁く声が耳に入る。互いの弾数を確認する声。
魁人が10、麻生が5。
こちらを向く銃口、半身の背をピタリと合わせ、まっすぐに腕を伸ばしたその恰好。
均整の取れた身体、逞しい腕、強い光を宿す両の眼。
強い獲物を狩り、屠る。
これ以上の喜びがこの世にはあるだろうか。断末魔の叫びを聴く、そして啜る生き血の香しさ、それ以上の悦びが?
チリ、と首元で鳴った銀のロザリオ。
右の手が咄嗟の十字を切る。

『主(しゅ)よ、我が悲願が叶う、いまこの時を待っておりました』

伯爵が――我が主(あるじ)がこちらを見ている。
白雪を織り込んだかのメッシュの黒髪、その奥に光る……黒く塗れた瞳。
細くしなやかな肢体、それを覆う一点の滲みの無い、純白のスーツ。
……相も変わらず美しい方だ。その血は……流れる血は……さぞや……

≪ぬしが縋(すが)るものはなんや? 別の何者と伯爵様を重ねてはおらぬか?≫

またもや音を鳴らしたロザリオを、硬く握りしめる。

『主よ、あの2人に祝福を。そして私と、私のあの方には――安らかなる永遠の滅びを』

弾丸が放たれる。
狙いはこの胸。当たればこのロザリオごと、心臓を打ち砕くだろう。

75柏木 宗一郎 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/07(火) 21:32:39

視界を金に染める。
金の虹彩は我らの威嚇色。
かつ、冷静なる判断力を保持しつつ、我らの能力を発揮できる万能色。
実を言えば「最大値」を引き出すのは緋色だが、あれは諸刃の剣。
制御し難く消耗激しく、自身の破滅を呼びかねない。

迫る弾頭は2つ。

先頭は麻生の放った直径9mmの協会支給弾、右に回転しつつ音速とほぼ同じ速度で接近中。
やや遅れてその右手、5cmずれた軌道上を魁人の弾丸が左回りで走行中。
視覚的位置より遅れての通過音、流石にマグナム弾、軽く音速を超えている。
なるほど。
絶妙のタイミングだ。
いち早く着弾するのは「遅れて撃ったはずの魁人の弾丸」という。

人差し指と中指の第1、第2関節を軽く曲げ、着弾直前の魁人の弾を摘み取る。
その回転に合わせ手首を回しつつ、「やさしく」、「そっと」。
肌を焼く純銀、摩擦は最小限であるべきだ。
数秒の「体感時間」を経て接近した麻生弾も、同様の心得を以って回収する。
回転が逆である事にも注意を払う。
間髪入れず2発ともに投擲。
狙いは魁人の眉間と喉笛。
人間には捕えられぬ筈のこの過程、しかし魁人の視線は確実にこの動きを捕えていたのだろう。
すでに両腕を伸ばし、次なる発砲動作を終えている。
シングルアクションでその早さは驚異的と言っていい。

迎撃され、垂直に落下する4つの弾頭。
同じ手順が再度繰り返された。
麻生と魁人が撃った弾を私が掴み、投げ返し、それを魁人が撃墜するという一連の過程が。
両者、そのタイミングは全く同じ。
転がる弾の位置もすべて。
またもや同じ構えを取る2人。
残弾、麻生3魁人4。

「また同じ事を……と言うのなら、弾の無駄だと思うのだがね」

魁人は答えず上唇を舐め……それが何かしらの合図だったのか。
麻生が不意に狙いを変え、2発続けて撃ち込んだ。
静観を決め込み、壁を背に佇んでいた伯爵へと。

76柏木 宗一郎 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/13(月) 13:10:23
伯爵を狙い撃ち込まれる2発の弾丸。
いち早くその結末を予感した脳が、血飛沫を上げ後方へと倒れていく伯爵の姿を予測像として網膜に映し出す。

跳ね上がる鼓動。
どっと脳に押し寄せる血液。
棍棒で打ち据えられたかの衝撃と眩暈。
赤く染まる視界の中、一度は床を蹴る体勢となるがしかし、ふと思いなおす。
伯爵は伊達に「伯爵」ではない。弾道を見切る眼も、防御の手段もお持ちだ。
現に今も、直進する2つの弾丸を余裕の体で見つめている。
彼らとて伯爵がその程度の攻撃でどうにかなるとは思っていまい、となればこれは牽制……?

わずかな焦燥と共に視線を戻せば、こちらに向かう弾丸が2発。
魁人らの動きを見逃したは痛いが、この弾丸の軌道も、時間差もまるで先と同じ。
気を逸らし、この手業を狂わせる魂胆か? ……とすれば甘い。
3度目ともなればこの腕がそのタイミングを完璧に記憶している。同じ要領で掴み取ればいい。視認する必要すらない。

視界の隅にその像を追いやり、視線の大元を伯爵へ。
静かなる気配を纏い、立ち尽くす伯爵。その右の手が微かに動く。
いや、実際は振り上げ、振り下ろす作業を行っている。
鋼鉄をも切り裂く彼の手刀。10年前、この手足を柔らかなバターの如く切り裂いた、あの右の手を。
この眼でも完璧には捉えられぬ素早さかつ、私には決して真似られぬ手業(てわざ)。

≪どう? 手足をぜ〜んぶ無くした今の気分≫

あの時、あの方はその技を以ってこの身を血だまりの海に沈めた。
そして麻生と魁人、2人の命と交換に。そう持ち掛けられ、血を吐く思いでその要求を呑んだ。
その後の事は――忘れはしまい。
力尽き、なかば意識を失いかけていたこの眼を……あの眼が覗き込んだ時のこと。
紅く染まるその瞳がふと人のそれに戻った時……ハッとしたのだ。
その昏い……深い沼の底にも似た闇の中に何かが居たのだ。息をひそめ、こちらを見つめる『無数の眼』が。
そうか、これが――真祖。生まれながらのヴァンパイアの正体か。

≪違う。わたしは人間だ≫

そう主張していた、その眼の奥に潜む怪物。
おそらく、自らの正体について、初めから悟っていたに違いない。だからこそ、あれほど必死に否定した。
真祖に生まれつき、それを受け入れざるを得ぬ事態。
普通ならば取り乱し、逃げ出してもおかしくない……それを……
逃げずに背負う。そう決断したのは精神がよほど強靭なのか、それとも彼が……真祖だからか。
ならば……その荷を……共に背負うのもいい。
ヴァンパイアの道は永遠。しかしこの方に残された時間が短い。
ならばその刹那の時間、共に生きるはむしろ義務。運良ければ、あの闇に息づく怪物の謎を解く事も――
そう思ったとき、手足の痛みは溶けて消えた。熱い涙が目尻から零れ出た。
そうだ。私は暴力に屈したのではない。
『吸血』という行為とは別に、私はあの方を主(あるじ)と決めたのだ。
形良き唇の端から覗く皎い牙。この首に突き立てられたそれを、私は至上の悦びを以って味わった。

≪ぬしが縋るものはなんや? 別の何者と伯爵様を重ねてはおらぬか?≫

嗚呼、貴方の仰る通り。
わたしはあの方を、主(しゅ)と仰いでいた存在に取って代えたのだ。
政治家としての立場も、忌まわしきその血も捨てず、奮戦奮闘する御姿は本当に……

≪人間だった貴方の身体を――貴方のすべてを奪ったそいつが……心配だっていうの?≫

そうだよ麗子。この方は私のすべてだからね。
あの方は滅びるべき真祖だが、その魂は人なのだ。
それを理解するのはこの私、ただ一人。そしてその命を奪うのもまた……この私以外に有り得ない。
だからこそあの方を売った。かつてイスカリオテのユダがそうしたように。

77柏木 宗一郎 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/13(月) 22:42:56

刀と刀を打ち合わせるかの音。
綺麗に両断された弾頭が宙に舞い、そしてこちらを一瞥した伯爵の眼が大きく見開かれた。

「柏木!!」

眼前に視線を戻す。
迫る弾丸の数は「ひとつ」。

「……!?」

掴み取った回転の向きは左。魁人のものだ。
しかし、もうひとつは?
体感速度1.5秒の遅れを以って着弾する筈の弾丸は何処へ?

突如、眼前に散る赤い飛沫。
何かが自分を突き破り、背へと抜ける感覚。
胸元に眼を落す。
ごく小さな射入創より泉の如く湧き出す血液。
いまだその実感はおろか痛みすらない。
動きを止める視界。消える周囲の音。
その中で、不自然なほど大げさに響いた、硬質の音。その数「2つ」。
首を巡らす。
壁面にめり込む着弾痕を確認、その数は「2つ」。
なるほど、彼らが牽制弾を放った本当の目的は――

視界が揺れる。
ゆっくりと……自身の身体が仰向けに倒れて行く。
天井を彩るステンドグラスが眼に入る。
……赤、黄、緑のクリアなカラー。
いつの間にか、硝煙で煙っていたはずの空気が澄んでいる。
冷たいそれが頬を撫で……なるほど、ステンドグラスの端々が欠け、そこから流れこんでいるようだ。
その隙間より覗く、真夜中の星々が煌めいている。

「局長!」「司令!」

麻生と魁人が駆け寄ってきた。
革手袋に覆われた手がこの右手を、もう1人の手が左手を握りしめる。

「……やったな」

精一杯の労いを籠め両人に言葉をかけるが、むせび泣くかの声が返ってくるのみ。

「確認させてくれ。麻生君の弾が先に着弾した、そのからくりを」
「……司令なら……もう見当がついてんじゃねぇか?」
「まあね。押したんだろう? 後ろから」 
「……やっぱな。さすが司令だぜ」

それが答えだ。
文字通り、弾丸を弾丸で『押した』。
右で銃を撃つと同時に、もう片方の銃で麻生の弾丸を狙い撃つ。
麻生の放つ弾丸にマグナム弾の威力とスピードを与えるために。
私の手が弾丸を掴み取ったその瞬間(とき)はすでに衝突した後だったのだろう。弾を見失うわけだ。
同じ攻撃を繰り返すと見せかけ、実はもうひとつ、別の弾を放つ。
当然、イレギュラーな動きは察知される。発砲音も3度となる。
だからあの牽制が絶対に必要だったのだ。動作と音を悟らせぬための。

78柏木 宗一郎 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/13(月) 22:47:40

じっとこちらを見つめる麻生。口を曲げ、横を向く魁人。

「あの撹乱は実に功を奏したよ。意図せずに赤眼となったのは初めてだ。どちらだね? あの手を思いついたのは」
「……僕です。貴方の最大の脅威はその冷静な判断力と分析力、そして観察力。それを削ぐのが目的でした」
「しかし、私が伯爵のフォローに入っていたら、どうするつもりだったのかね?」
「あのタイミングでそれをすれば、掴み取るのは不可能、盾となるしかありません」
「なるほど、どちらを取っても都合がいい。さっきの『詭道』の言葉を……見事実行したわけだね?」
「いえ、今回はたまたま上手く行っただけです」
「……謙遜する事はない」

ごぼりと血が溢れる。グッと強く握りしめられる両の手。
首を横に傾け、溜まり血を外へと追いやりつつ。

「魁人くん……あの時、支給の銃を受け取らなくて……正解だったようだね」
「……え?」
「いまの連携は君のマグナムがあってこそ成立したのだ。撤回しよう。君には重たすぎると言った……あの言葉を」

彼は何も答えない。
頷いたのか、どんな顔をしてその言葉を受け止めたのか、視力のおよそ失われたこの眼で確認出来ないのが残念だ。
床が冷たくなっていく。
唯一感じるのは、この手を掴む彼らの手の感覚のみ。
ついにこの命の火が消えるのか。
だが……まだだ。まだ言わねばならない事がある。

「伯爵を頼むと……佐井朝香に伝えてくれ」

息を呑み、とまどう気配。
そうだ。
佐井朝香が『鍵』なのだ。
彼女が主張するヴァンパイアはウイルス説。
それが我らのコード解明への道しるべに違いないのだ。

≪儂らは滅びん。滅びたくとも出来ん。その訳は――≫

その訳は……おそらくは……伯爵の眼の奥の……あの無数の眼――――――


「彼女は滅びてなどいない。……頼む。至らなかった私の代わりに……彼を……伯爵を救えるのは……彼女しか居ない」

この眼で見届けられぬ事だけが心残りだが、手の感覚も、2人の手の温もりもすでに無い。
氷の海に沈むよう……私はそっと昏い闇に身を委ねた。

79菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/19(日) 21:03:50

『ついに……この時が来たね』

麻生の呟きはそのまま、わたしの呟きだった。
柏木がそのすべてをつぎ込んで鍛えに鍛えた、それが彼らだ。
柏木が育てた最高傑作。
ほんとは今が彼らを始末する最高のタイミングの筈なのに、動けるまでわざわざ待つなんて――
やるなら双方、最高のコンディションでって……そういう事だね?

『OK柏木、邪魔はしないよ』

わたしは腕を組む彼とおなじポーズを取った。水は差さないって言う意思表示だ。
一方の如月達と言ったら……まあみっとも無い事この上ない。
仮にも正規のハンターが、身体起こすどころか手足もまともに動かせない始末、最高傑作が聞いて呆れる。
ま、田中さんの呪縛がそれほどのものだったって事でもあるんだろうけど。
その田中さんも、わたしと同じスタンスらしい。さっきの殺気を綺麗さっぱり引っ込めてしまってる。
そして彼に寄りそうドレスの女も、腕を下げて立ったまま。
そういえば――彼女はいったい誰なんだ?
同胞の集会では見ない顔、しかし桜子に良くにた面差しで――
……と、まさにわたしの疑問に答えるような会話が耳に届いた。

『ごめん魁人。僕だ、あの子に……秋桜(コスモス)に装置の止め方を教えたのは僕だ』
『こすもす? 誰だそりゃあ?』――

聞いていてなるほどと思ったよ。秋子の娘なら似ていて当然。
その成長の早さも、彼女が真祖であるなら納得も行く。
おそらく田中さんは、その可能性にかけ、わたしより早く彼女に接触したのだろう。
10年前のあの時も、半ば強引にわたしをあの場所に連れ込んだんだしね。

もしも――もしもの話だけど。
田中さんがわたしの存在に気付かなければどうなっていただろう?

おそらく『伯爵』とは無縁の生活を送っていただろう。
平穏ではないにしろ、一政治家として、ハンター協会の司令塔として、真っ当な人生を歩んでいたに違いない。
柏木ともだ。
只の上司と部下という関係のままで居られた。
……互いに結婚とかしてりしてね。
家族ぐるみでバーベキューしたり、海辺のキャンプで魚釣ったり?

……もしも、の話だ。
実際には有り得ない。
田中さんは佐伯を使いに出し、拉致とも言える手段でわたしを連れて来させた。
いつもその眼を光らせて、次なる伯爵を――真祖を探していたんだ。
それがあの人の役目だから。
あの人は目利きだ。酸いも甘いも知る……まさに海千山千の最長老。
数多の糸を……裏で引いて来たんだろう。汚れ事にも幾度か手を染めたはずだ。
もちろん責めたりはしないよ。すべては同族の繁栄のためだ。

いま思えば、柏木の潜伏にも気づいていて、あの場に名乗り出た彼に、あえて気づかぬ振りをしたのかも知れない。
このわたしの覚醒を促すために。

80菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/19(日) 21:06:13

風が窓を叩いている。チラチラと白いものが当たっては消えていく。
……雪?
さっきまでは晴れていたのに……それにまだ冬って季節でもないのに……おかしいな。

柏木はと言えば、髪の毛ひとつ乱さず立ったまま。
完璧で隙の無い、自信を湛えた立ち姿は、まるでギリシャの彫刻だ。
ふと……
18年前の「とある男」の姿が重なった。身を包む黒い装束。肩に降りかかる粉雪。
もの悲しい……ピアニスティックな音色。
この曲は――あの時流れていた……シューベルトのピアノソナタ、第13番第2楽章。

……感傷に耽りかけたわたしは頭(かぶり)を振り、流れかけたその曲を追い出した。
どうして今のこの時に、あの彼と柏木が重なったんだろう。彼も彼と同じ……クリスチャンだからか?

……ふん。君と彼を同列に並べるなんて出来ないね。
君は裏切者だ。主と認めた筈のわたしを売った――君風に言えばJudas(ユダ)、とでも?
ま、君が望むのはヴァンパイアの殲滅だって知ってたけどね。
その上で、わたしは君を手足として使って来た。
ほんと、使える部下だったさ。実に優秀だった。
けどそれも終わり。
田中さんの言うとおり、君をいま処刑する。
処刑人はハンター、ヴァンパイアにヴァンパイアは滅ぼせない。
最強の戦士と、最強のハンターがいまここに揃った。
……いいぞ。
最強のカードが潰しあい、ようやく悲願達成への道が開けるんだ。

「眼ぇ覚ませ! あいつが味方のわけがねぇ! 腹ぁ決めてヤルしかねぇ!」

魁人が麻生の肩を揺すぶり、叫ぶ。
それが意味するのは彼らの復活。田中さんの呪縛が解けた証拠。

柏木の眼に新たな光が灯る。最高の獲物を前に悦びに満ちている。
組んでいた腕を静かに降ろす柏木。

「そうか、ようやく支度が……出来たようだね?」

≪――え?≫

冷静に状況を見守る役目に徹していた――いや、徹するべき立場の筈のわたしが――
ドキリとしたんだ。
……この口調……声音……どこかで――聞いた気が?
……なんだ?
……胸が締め付けられるような――

……あの夜に似ている。
10年前のあの満月の夜、仰向けに倒れたその顔に違和感を覚え――仮面を剥いでその素顔を見た、その時の既視感と。
あの時も思ったんだ。
『見覚えは無い。だが……誰かに似ていると』
もしかしてわたしは、10年前のあの日よりももっと以前に……柏木と出会っている?

81菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/19(日) 21:10:31
対峙する柏木とハンター。
流石に互いの隙がないのか、動かぬ両者。
ふと、如月の背後の壁際付近に待機していた兵隊が、後退るのが眼に入る。
廊下へと逃げるように立ち去る際、その肩に吊るライフルがコツンと壁に当たり、如月がその方角に視線をやる。
無論、その隙を逃さぬ柏木じゃない。

先手は柏木。
如月は頭上へと飛んだ柏木に気づかず、無様にも振り返る。
だがそれを麻生がフォロー。

「魁人! うえだ!」

すかさず床に倒れ込む魁人。
流石に早いね、もう両手の得物を柏木に向けている。
2発の銃声。
音速を越すマグナム弾が、真下から彼を襲った。
こうなると不利だ。柏木が宙に浮いてるから、弾を避けられない。流石の彼も、空気を踏み台には出来ないからね。
お得意の?み取りも無理だ。自分の脚が邪魔になる。
どうする? 柏木?

……とん……

羽根を持つ天使がそっと足を降ろす、そんな優雅な仕草だった。
……あはは、自分で言って吹き出しちゃったよ。白い羽根生えた柏木が、あの白いヒラヒラ着てるの想像してさ。
でもさ、それほど無駄のない綺麗な動きだったんだ。
打ち込まれた弾丸を踏み台にするなんて、凄くない?
しかもそのままムーンサルトで間合い取ったり?
ほらほら、如月達まで……ポーっと見惚れちゃってさ。

「伯爵様。……麻生結弦は……どうか……」
「田中さん?」

いつの間にか、田中さんがすぐ横に立っている。
あのリサイタル以来、すっかりその音色の虜になった、なんて言うんだ。
ん……そうか、そうだね。わたしも好きだよ、彼のピアノ。
私のメディアには全部麻生が弾いた曲が入ってる。……いい弾き手だ。焦燥感が無い。
ただリストとか、彼お得意のショパンじゃない。
苦悩の音楽家とも言われてる、シューベルトの音楽だ。
……なんていうか、すごく癒されるんだ。彼の友人たちが、彼の為にペンや紙を融通したのも頷ける。
実際あの発作を鎮めてくれるのも、シューベルトだけだ。
彼の音をいつでも生で聞けるなんて、最高の贅沢じゃないか。
わたしは田中さんにひとつ、頷いて見せてから、睨みあいを続けてる彼らに声をかけた。

「柏木、麻生にはなるべく手を出さないでよ?」
「はあ?」

……解るよ如月。その「はあ?」って思う気持ち。
わざわざ柏木にハンデをつけるなんて、戦略としては間違っている。

「あの夜に聴いた桜子との連弾が忘れられないって田中さんが。わたしも麻生の弾くシューベルトが好きだからって事で」

なんてわたしが言い訳した時の、如月の顔と言ったら無かったね。
君もさ、もう少しポーカーフェイスを学べばいいのさ。麻生や柏木みたいにね。
そういえば総理にも言われたっけ。今どきの若者がクラシックかね? ってさ。
両親の影響、ってわけじゃない。すべては「彼」の影響なんだ。夜が明けるまで彼と話し込んでしまったあの時、ずっとかかっていた曲。
その「彼」が誰かって聞かれても答える事は出来ない。
知らないからね。居場所はおろか、名前すら知ら。確たる事はただ一つ。彼が神父だって事だけ。
そして今の私があるのは彼が居たからだ。
あの日も……細かい雪の降りしきる寒い晩だったっけ。

82菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/19(日) 21:12:54

着いたのは、日が暮れてだいぶ経ってからだった。
思った以上に寂れてて、明日は日曜日だってのに人っ子一人見かけない。
徐々に降り出した雪。積もるそれをサクサク踏むうちに、わたしはその教会に辿り着いた。
そう、カトリックの教会にね。
別に入信したいとか、そういう目的があったからじゃない。
水も受け付けない……とにかく血の欲求を何とかしたい、そんな悩みを打ち明けたくてさ。
当時わたしは高等部の学生で、優等生で通ってた。
家柄もそれなりだったから、「精神科」なんてのにかかるなんて許されないじゃない。


築30年は経ってるだろう。
錆び付いた鉄柵に、白い木枠の郵便受け。
街灯もない、エントランスの明りも付いてない。
一面を染める白い雪を見回すと、教会の奥の明りだけが薄ぼんやりと雪を照らしているのが見えた。
『良かった、人が居る』
扉を叩いた。
しばらくの静寂の後、蝶番を軋ませながら姿を見せたのは、くるぶしまで届く黒い司祭服(カソック)を纏う男性。
すぐに顔を伏せた。
たしか懺悔って……お互いの顔を見ないのがルールだよね?
そんな様子を察したのか。

「告解希望の方ですね? 申し訳ありません。今時間、当司祭は留守にしておりまして……」
「え? でも……貴方は……」
「たまたま留守を預かった者です。失礼ですが……あらかじめご連絡は?」

首を振ったわたしに彼は口を噤み、でも事情を話したら中に入れてくれてね。
規則正しく長椅子が並ぶ、簡素な礼拝堂。
暖房はとっくに切られているのか、ひどく寒い。
思わず身震いしたわたしを、彼は奥の自室に通してくれた。
ささやかな炎が揺らめく暖炉のある、温かな部屋に。

夕食前だったんだろう。テーブルには黒いパンと具のないスープが手をつけられないまま置かれていた。
暖炉脇のスペースにはクラシックレコードがピアノの音を奏でている。知らない曲だった。

「小さな教会ですので告解部屋というものがありません。衝立をご用意しますが……その前にお食事でも?」

わたしってば、よっぽど飢えた顔してたんだろうね。
慌てて断ったよ。

「わたしは人並みの食事が出来ません。その理由(わけ)をお話したくて此処まで来たんです」

いくらか興奮していた。
憂さでも晴らすように捲くし立てたと思う。
そんなわたしの言葉に、彼はただ黙って耳を傾けてくれた。

「ヴァンパイアは存在します。おそらくはこの私もその1人。わたしは一体――どうすれば――」

答えはしばらく帰ってこなかった。
司祭とは言え、彼も人間。恐るべき告白に恐れをなし、どうやって逃げようか、なんて考えてるのかも知れない。
けど……ポツリ、ポツリと彼は話し出したのさ。
自分自身の――身の上をね。

「20年以上も前の話です。秋も深まる未明のことでした」

面食らったよ。 
告解する筈の人間が、司祭本人の告白を聞く事になるなんてさ。

83菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/25(土) 17:42:44

「わたくしは屋根裏部屋でひとり、眠っていました。昨晩に受けた折檻の延長です。
 突然眠りから覚めました。カラスの鳴く声がしたのです。妙な胸騒ぎがしました。時計は午前3時を回ったばかりでした」

誠実な人柄を感じさせる、強い芯の通った張りのある声。
流石は……司祭。
決して大声ではない、むしろ僅かな声量にもかかわらず明瞭に聞き取れる滑舌の良さ、そして声のトーン。
わたしは両肘を肘掛けに乗せて手を組み、額を乗せて眼を閉じた。
情景を思い描きながら話を聞こうと思ったんだ。

「階下に降りて見れば、父と母の姿がない。そういえば、夕べは夜中のミサがあると聞いていた。
ただ事ではない、と子供ながらに思いました。暗いうちは表に出るなという言い付けを守り、
東の空の明るみを待ってから、外へと飛び出したのです」

冷たい風が頬を撫でた。建付けが悪いのだろう、白いレースのカーテンがフワリと揺らいでいる。
室内の雰囲気は明るく柔らかい。不安を掻き立てる内容にもかかわらずだ。
白を基調とした内装と、穏やかな旋律を奏でるピアノの音のせいも知れない。

「履いたはずの靴はいつの間にか無かった。それほど夢中だったのだと思います。
 乾いた葉に足を取られ、何度も転びながら懸命に走るうちに……ようやく丘の上の聖堂が見えました。
 いつもと変わらぬ天主堂が、朝焼けを背に黒々と聳え立ち、塔頂に戴(いただ)く十字架の傍らには暁の星が輝いている。
 ふと……鼻をつく嫌な匂いがしました。幼いわたしはまだその匂いの正体を知らなかった。
 痛む足を引きずり、開け放たれた正面扉から中を覗いた、その時――」

そこまで言って、彼は声を詰まらせた。床に黒く映り込むその影が、手で顔を覆っている。

「その時の光景は、今も焼き付いて離れない。
 礼拝堂は死人で埋め尽くされていました。喉を裂かれ、眼を固く閉じた夥しい数の死体。
 明らかに、ヴァンパイアの仕業に見えました。
 白かった壁は赤く染まり……素足を浸した血だまりはまだ温かかった」

煙突から降りて来た突風が、音を立てて暖炉の灰をまき散らした。
揺れる衝立。頬を撫でる外気。
わたしは思わず衝立越しの神父を見つめた。
その告白はあまりにも有名なあの事件の事だと気付いたからだ。
長崎は玄界灘に浮かぶ美しい離島のひとつ、そこに建つ大聖堂で起きた大量虐殺事件。
確かにあれは22年前の出来事だ。
しかし報道では『死者二百余命、生存者なし。遺体はすべて首に傷跡。犯人はヴァンパイアか』となっていたはずだ。
政府が本格的なヴァンパイア対策に乗り出すきっかけとなった事件。
まさか……その生き証人に出会う事になろうとは――

カタンと椅子を鳴らし、神父が立ち上がる。
その足が大窓に向かい……カーテンを寄せる。風でガタガタと鳴る、その音が気になったのかも知れない。
窓枠の閂を掛ける左手の薬指に、銀の指輪が光っているのが見える。

「涙など出なかった。家族を探そうと見回し……祭壇近くに動く人影を見つけました。
 駆け寄って見れば、それは普段わたし達を可愛がってくださっていた神父様でした。
 おそらくは、誰かの到着を懸命に待ち、意識を保っていたのでしょう」

白いレース越しにじっと外を見つめる神父。
首元にかかる銀のロザリオがガラス窓に映り込んでいる。

「誰がと問う私に彼は言った。全ては自分の責任、だから犯人を捜すな、恨んではならないと」

84菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/25(土) 17:44:37

「その時だけは神を呪いました。汝、敵を愛せ!? 家族……島の皆……すべてを奪った悪党を……捜すな、恨むななどと!!」
 
ダン! っとその拳を壁に叩きつける彼。
弾みで壁の棚に飾られていた聖母のフォトフレームが倒れる。黒い背中がわなわなと震えている。

「許す!? まさか! 許されるものか!! 何の罪もない――敬虔な信者だった彼らを!! それを……!!」

束の間、ピアノの音が鐘の響きとなって鳴り響いた。
彼は深いため息をつき――
ぐっと握りしめた拳をそっと壁から離し、もう片方の手をフレームに伸ばした。

『……お許しください。神の代理であるべきわたくしが……胸の内を吐き出してしまった』

小さな声で呟くのが聴こえた。神父が胸の前で右手を動かす仕草をしている。十字を切ったのだろう。
踵を返したその影が、再びこちらに向かい腰を下ろす。
足を組み、背もたれに寄り掛かる様子が、うっすらと透けて見えている。

「あまり驚かれていませんね。事件の事をご存知でしたか?」
「……えぇ、有名な事件ですし。というか、こう見えて驚いてますよ、確か……救助隊は生存者を見つけられなかったと……」
「そうでしょう。あの直後、わたしは皆の後を追うつもりで崖から身を投じたのですから」
「……え……でも」
「えぇ。死ねませんでした。漁をしていた船に助けらたのです。己の罪深さに慄きました。自殺など神が許さなかったのです」

ギィ……と椅子が鳴った。神父が足を組みなおしたようだ。チャリン……とペンダントが音を立てる。

「ならば、拾った命を……せめて亡くなった皆の為に使おうと思いました。生きて、事の真相を突き止めようと」
「真相? ヴァンパイアの仕業ではないとでも?」
「えぇ。政府がそうと勝手に決めつけたに過ぎません。報道もそれに従っただけだ」
「確か、『住民同士の小競り合い』や、『集団自殺』などと書き立てる記事もあったはずですが」
「……それも全くの見当違いです」
「何故です?」
「キリスト教では争い事を禁じています。まして殺人など最大の禁忌。自ら命を絶つ『自殺』は『殺人』と見なされます」
「ではどこの誰が?」
「解りませんか? フフ……人間、相手があまりに巨大だと逆に見失うものです」
「焦らさずに教えてください。首謀者を突き止めたのですね?」
「えぇ。首謀者は『政府』でした」
「……いま……何と?」
「首謀者はこの国の政府と申し上げました。当時の『内閣』ですよ。指示したのは官房長官。貴方も良く知る人物です」

「そんな筈はありません!!!」

乱暴に椅子を蹴って、立ち上がったわたしにしかし、彼は少しも動じない。

「否定したい気持ちも解りますが、そう考えると納得がいくのです。
 ヴァンパイアが遊びで人を殺す事はありません。彼らに取って、吸血とは神聖なる行為のひとつ。
 これと定めた獲物は時間をかけ丹念に吟味し、その上で狩る、つまりは相当の美食家。無差別の殺戮などしない。
 そして多くが自尊心高く、潔癖症だ。現場を血で汚し、剰(あまつさ)え血溜りなど残す……そんな不始末は絶対に犯さない」

「ですが……!」

「さらに言えば、今際の際の神父様の『捜すな』という言葉。
 相手がヴァンパイアだというのなら、わざわざ捜す必要などない。解りきってますからね。
 殺戮者は別にいる。現にあの状態は不自然だった。争った形跡も、逃げようとした痕跡もない。
 何かを決意したかにも見える……硬く閉じた瞼。これはわたし個人の推測ですが……脅されたのかも知れません。
 互いの首を掻き切れと。さもなくばお前たちの大事な――おそらくは神父様を殺す、と言った所でしょうか。
 細かな遣り口はともかくとして、遺体の首にわざわざ傷をつけ、罪をなすりつける真似をした」

85菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/25(土) 18:14:18

わたしは押し黙るしか無かった。返す言葉が無かった。

「……苦労しましたよ。幸い政府はわたしの存在を知りません。
 子のない老夫婦に引き取られ、別の名と戸籍を手に入れていましたからね。
 目的の為、神学と並行し諜報や格闘技、あらゆる関連分野の技術を身に着けました。
 証拠は掴めず仕舞いでしたが……たった今溜飲が下がりましたよ。彼は――彼に取っての最大の報いを受けたのです」

「その『彼』とは、菅(すが)官房長官のことですね……」
「その通り。菅 隆臣(たかおみ)。貴方の御父上ですよ」


眼の奥で火花が散った。
耳鳴りがしている。
口の中がカラカラに渇いている。

「いつ……わたしがそうと?」
「告白を聞くうちに。人前では決して食事を取らぬ風変りな彼のご子息と、貴方のそれとが一致しました。面差しも良く似ている」

身体の力が抜けたわたしは、再び椅子にペタリと座ってしまった。
信じられなかった。
父が……?
いつも不正に潔癖だったあの父が……何故?
しかし父はこうも言っていた。大人は――特に政治家という生き物は、綺麗ごとばかりでは済まされないと。


「遅くに出来た……待望の後継者がヴァンパイア。しかも生まれついての『真祖』と来れば……これ以上の報いも無いでしょう」
「……報い……なるほど……それで……」

何故自分だけが他と違うのか。
楽し気に食事をする友人を、家族を何度羨んだことか。
露見を恐れるあまり、友人を作らなかった。まして人並みの恋などした事もないと言うのに。
神父の言う事が事実なら――すべてが……あってしかるべき報いというならば――

「殺してください。今すぐ、この場で。わたしなど……この世から消えてしまった方がいい」
「いいでしょう。言われなくとも……そうするつもりでした」
「え?」
「ご存知ですか? 『教会』は天敵である貴方方の駆除を奨励し、各教会に純銀製の弾丸を支給している事を」


僅かな驚きと興味に駆られ、わたしは少しだけ顔を上げた。
神父の黒い姿が暖炉脇に向かい、レコーダーが置かれてあるテーブルの前で止まるのが視界に入る。
ハッとしたよ、彼の手が引き出しから黒い拳銃を取り出すのが見えたのさ。
何事か呟く声がその口から洩れ――くるりと彼が振り向いて、慌てたわたしは椅子から滑って落ちてしまった。
膝の震えが止まらない。
そんなわたしの背後にゆっくりと回り込む神父。

「怖がる事はない。『救済』を求め、来られた方だ。本当はこうなる事を、望んでいたのでしょう?」
「まさか、これが救いですか?」
「勿論です。ヴァンパイアの救いは滅びにある。床に手を付いてください。そう……そのまま。動いてはいけない」
「待ってください、その銃で……わたしを……撃ち殺すのですか?」
「何を今更……と言いたい所ですが、怖気づくのも無理はない。
ご安心なさい。この先永遠に訪れる苦しみを考えれば、一瞬の苦痛など細やかなものです」

86菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/25(土) 18:23:38

ガチリとスライドを操作する音。
色濃く漂うオイルの――よく機械に差す、あのツンとした油の匂いがした。思えば昔からこの匂いが苦手だった。

「心の支度はいいですか? 言い残す事があれば、訊きましょう」
「……残す言葉などありません。ですが納得のいかない事がひとつだけ」
「未練を残してはいけない、それは何でしょう」
「父が何故あんな事をしたのか……その理由が知りたい」
「もちろん、怒りの矛先を彼等に向けるためです。あの年に集めた寄付金は10億を超えた」
「しかしあれほどの犠牲が必要とは思えない。絶えず犠牲者も出ているじゃありませんか」
「いいえ、『必要』だったのです。かの司祭は当時、『ヴァンパイアと人との共存』を謳っていたのですから」
「……共……存……!?」

思わぬ単語に絶句したさ!
人とヴァンパイアが仲良くする選択なんて、考えつきもしなかったからね!

「おや……知りませんでしたか? 彼は熱心に説いていたのですよ、彼等も同じ神の子、故に共に歩むべしと。
 バチカンではそれを重く捉え、近く呼びつける気でいたようです。あの事件は彼等からすれば……体のいい厄介払いでした」
「まさか……共存など……可能でしょうか?」
「妙な考えを起こしてはいけない。夢物語ですよ、滅び』以外の選択肢などない」
「神の子……同じ……」
「え……?」

呟いたわたしに、神父が怪訝な声を返した。

「そうです! 彼はヴァンパイアも『人の心』を持つ事を知っていた。だからこそ、そう訴えたのではありませんか?」
「……人の……心ですって!?」
「彼の元にも、わたしと似た悩みを持つ者が告解に訪れたのかも知れません。だから――」
「まさか……! そんな事をいちいち気に病んでいたら、司祭の仕事は務まりません」
「人間だって豚や牛を食べる。いちいちそれを気に病んでなと居られない、とでも仰いますか?」
「……」
「教えてください。同じ心を持つとしても……心の救済は得られないのでしょうか?」

神父の動揺が見なくても伝わってきたよ。
だからどうせなら……いま思ったことを全部口にしてしまおうと思った。
すべてが納得のいく結果になどならない、そんな事は承知している。
心の救済が得られないなら、せめて最期の言葉をこの人に聞いてもらおう。何を遠慮することがあると言うのさ。


「わたしはこの国が嫌いではありません。人も。生真面目で不器用で……でも何の見返りもなく人助けが出来る人達が。
 政府に対する批判も多い国ですが、それをこの先変えていきたい、その為にいずれ入閣し、上に立とうと必死に学んできました。
 ご存知の通り、血の味は知っています。生きる為に多くの命を奪いました。
 人を襲ったことこそありませんが、必ずや避けられない事態も来る、それを恐れ、教会を頼りました。救いの道は無いかと。
 ここに来て正解でした。目が覚めたんです。自分の境遇を儚む暇があれば、明るい道を自ら作るべきだと。
 平和的な共存、これが可能なら、これほど前向きな選択は無い。支持します。わたし自ら――その社会を実現させて見せます」

87菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/25(土) 18:44:12

口を噤んだまま、背を向ける神父の姿が白く霞んでいる。夜が明け始めたのだ。

「……汝の敵を……愛せよ……恨んではいけない……
神はご存じだったのでしょう。この場に我らを引き合わせた、その結果がどんなものになるのかを。
実は私も初めてなのです。貴方と同じですよ、ここに『かの教会の遺品』がある、そう聞き矢も楯もたまらずやって来た。
一晩だけ、静かな晩餐と共に、かの聖体に祈りを捧げる、その許しを頂いた、そんな時に貴方が来た」

音楽が鳴っている。悲し気かと思えば楽し気で、切な気な……
転調を繰り返す取り留めのない曲、のようでいて……うかがえる一貫した決意。
安らぐ、それでいて勇気が湧く。
消えていた暖炉の火が赤々と燃え盛っている。

「ヴァンパイアの衝動を侮ってはいけない。おそらくこの先ずっと……飢えと渇きに苦しむ事になる。それでも?」
「あの――」
「何か?」
「この曲を作ったのが誰か教えてください。……聴けば、抑えられる。そんな気がするんです」

ふっと笑った彼は、司祭服の内ポケットを探り……スクエア型のケースを掴んで差し出した。

「シューベルトですよ。オーストリアの作曲家です。先ほどかけたソナタで良ければ……いくつかデータが入っています」
「下さるのですか?」
「お貸しするだけです。いつか必ず返してください」
「ありがとう……ございます」

窓から差し込む朝の日が幾つもの光の帯となって床を照らしている。
礼拝堂へと続く扉のドアノブを回しながら……なんとはなしに名残惜しく、その背中に声をかけた。

「また会えるでしょうか?」
「神のご意思があれば、そんな機会もあるでしょう。行ってください。わたくしの気が変わらないとは限らない」

ひとつ頭を下げ、踵を返す。
ガランとした礼拝堂は、湿った木材の匂いがする。
自分の歩く音が、空っぽの天井に木霊する。
長椅子の海を渡り切り……教会の正面の扉を開けた時、遠くから声がかかった。
黒衣の男がさっきの戸口に立っている。

「約束してください! 決して『あきらめない』と!
諦めたときにすべては終わります。欲望に負け、心をそれに委ねた時……貴方は本物の悪鬼となるでしょう。
もしも貴方が、人間でなくヴァンパイアとしてわたくしの前に現れるようなことがあれば――――」




彼とはそれっきりだ。今の今まで、そう思っていたんだ。

88菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/01/26(日) 12:08:46

ぼんやり眺めていた。
思い出されたさっきの記憶が鮮明過ぎて、現実感がまるで無かった。

音のしない。
色のない。
躍動も緊迫もない。
まるで夢だ。
眼を向ける被写体だけが鮮明な夢。
すべてがスローモーションの映像だ。
互いの背を預け、銃を構える如月達も。
銃口から、またはシリンダーからゆっくりと吹き出し、宙へと拡散する硝煙も。

撃つ。
返す。
撃つ。
また返す。

くりかえす一連の動作。
苦戦する2人に対し、ほとんど体勢を変えない柏木。
すらりとした長身に、広い肩幅。
記憶の彼もそんなだった。
扉から姿を見せた黒い司祭服。
思い返せば返すほど、重なる。柏木とあの神父の姿形が……ピタリと。

その眼が不意に血色に染まる。
見れば、ゆっくりとこちらに向かう銀の弾丸。
……小賢しい。
軌道を予測、それを目掛け、右手を振り上げる。
それを一心に見つめる視線の主は……柏木?
駄目だよ。
見えてるだろ? そっちにも向かってるって。
3つだ。
さっきより1つ多い、3つの弾丸。その配置はさっきとは違――

振り下ろした右手に柔らかな金属の感触。
問題は柏木だ。あのタイミングは良く見積もってギリギリ。
しかしわたしは見てしまったんだ。彼の背が血の飛沫をあげる所を。

「柏木!!」

血しぶきと後方へと飛び出した弾丸が二つ。
当の本人はまだ気づいて居ない。
一つ目の弾丸を掴み取ったその手を泳がせ、眼には当惑の色を浮かばせ、しかしすぐに壁にぶつかった弾の存在に気付いた。

嘘だろ?
君ともあろう者が……あんな簡単に牽制に――

紅い瞳が色を無くし、逞しくしなやかな長身が、まるで意思を無くした人形のようにゆらりと傾いて倒れる。
纏う黒衣。
胸のロザリオ。
吹き抜ける風。
降りかかる雪。
チェーンが切れたのか、ロザリオが宙を舞う。
渇いた音を立て、緋の絨毯に横たわる銀の十字架。

「柏木……?」

わたしは一歩、踏み出していた。

89菅 公隆「サNp3_S:2020/02/08(土) 06:35:10
柏木が仰向けに倒れている。
丁度そこは広間中央のモザイクタイル――数種の大理石を組み描いた花紋様の中心だ。
傷口から湧き出る血が、じんわりと……色とりどりの美しい石のタイルを黒く染めていく。
その様は、わたしの眼にはひどく宗教的な絵に映った。
円形に広がる魔法陣にも似た幾何学模様、その上をすべるように広がる血は柏木の――聖職者の血。

あとどれくらいだろう?
急所を撃ち抜かれたヴァンパイアの身体が消えてなくなるまで……5分から10分。
彼にはまだ意識がある。「送る」時間はまだ残されている。

「局長!」「司令!」

バシャリと音を立て、神聖なる血溜りを踏み荒らしたのは如月達だ。
膝をついてしゃがみ込み、、血溜まりに横たわる柏木の手を拾い上げ、強く握りしめる。
柏木は柏木で、柔らかな眼差しを彼等に向けている。

さらに足を踏み出す。
一歩、また一歩。
チャリ、と足先に触れたロザリオは、十字架のメダイが半分に欠けている。


柏木の唇が、何事か呟いている。
何を話しているのか、この耳には入ってこない。
頷く2人が涙ぐんでいる。  
次第に褪せていく眼の光。
時間をかけ、いくつかの言葉を紡ぎ……
そっと閉じられた瞼。

……まだ早いよ柏木。
わたしはまだ言ってない。あの時の礼も、感謝の言葉も。
必ずと約束した、「あれ」もまだ返してない。
もっと時間があれば……しょうもない恨み言だって言いたいんだ。

如月達の手から滑り落ちた手。
穏やかな、とてもヴァンパイアと思えない死に顔。
口元には聖者の微笑みすら湛えている。

「何故だ柏木。……もっと早く――そうと言ってくれたら――」

どことなく呟いたわたしの言葉に、ぎょっとした顔を向けたハンター2名。

「てめぇ……!?」

如月がバッタのように、二歩、三歩と飛び退いた。
咄嗟に銃を向ける麻生。

……気づくのが遅いよ。
わたしはさっきから、如月のすぐ横に膝をついて座ってたんだよ?
特に麻生。
君は柏木を挟んで対面に居たんだ。
仮にまったく音も立てずに忍び寄ったのだとしても、わたしの姿を正面から捕えられない筈がない。
それでも免状持ちのハンターかい?
それとも……柏木の事で頭が一杯だった?
それにしたって……いや……もしかして……

「その眼、見えてない?」

麻生の頬が引き攣る。その眼は心なしか焦点が合っていない。

90菅 公隆「サNp3_S:2020/02/08(土) 06:41:07
わたしは眉間に突き付けられた銃口をまっすぐに見返しながら、半年前に眼を通した報告書の一部を諳んじた。

「麻生結弦、負傷がもとで右眼の視力を失う。左眼も長時間の酷使による失明の恐れあり、だったっけ」

銃を降ろさず、視線を外さない麻生。
5mほど離れた横合いからこちらを狙っている如月が声を漏らす。奴もそれには気づかなかったのか。

「でもさ、ほんとうの問題は……何故君がその銃でさっさとわたしを撃たないのかってことだね」

そうさ、銃口とわたしとの間合いはたったの10cm。
近すぎて手刀の威力が十分に発揮出来ない距離だ。
撃てば確実にこのわたしを不動化できるってのに、それをしない。
その心は?

「君はこう考えたんじゃないのか? この距離で銃を向ければ、わたしは銃を奪おうとするだろう、
 手刀の使えないその瞬間が、如月が撃ち込むチャンスだってね」

如月の軽い舌打ちが聴こえた。……わたしの読みが当たってたって事だ。
麻生が引き金を引く指をグッと動かす。しかし撃ちはしない。撃たないんじゃない、撃てないのさ。 

「でもさ、その銃(ベレッタ)……弾切れだろ? わたしだってちゃんと数えてる。見くびらないで欲しいね」

麻生が息を呑む。腕は降ろさない。
わたしは麻生を正面にしたまま、視線だけを如月に向けた。
いくら如月でも、横向きの相手の急所を正確に撃ち抜く事は難しいだろう。わたしが左腕を上げない限りは。

「しかもなにさ? こんなとこに大事な銃(コルト)を置いたままでさ」

今度は如月が息を呑んだ。
右で狙いをつけたまま、左手を腰のホルスターに当て……見るからに「しまった」という顔をした。
どこからか吹き込んだ粉雪交じりの風が、彼のキャップのツバと髪の毛を揺らしている。
相変わらずポーカーの出来ない奴。

「じゃあさ、予想してみる? 君の残り弾は2発。つまりそことここに1発ずつ。それを踏まえたわたしがどうするか」


眉間に皺をよせ、しばらく口を結んでいた如月が……不敵にもニヤリと笑い口を開いた。

91如月 魁人「サNp3_S:2020/02/11(火) 07:40:46

「しかもなにさ? こんなとこに大事な銃(コルト)を置いたままでさ」
『……あぁ?』

奴の指摘に、さすがの俺も血の気が引いたぜ。
伯爵の足元に転がるそれ。
真っ赤な血でヒタヒタになっちまってるが、チラッと覗く黒い肌が放つブルーの光沢。
キャメルブラウンのグリップ、気に入りの6インチのバレル。
んでもって左の……ホルスターは……空っぽ。

違ぇねぇ、ありゃ俺のだ! 司令の手ぇ握る時、何気なくに下に置いたってのか!?
マジか!? 間抜けか!!? うっかり、じゃ済まされねぇぞおい!!

んな俺見た伯爵が、油断のならねぇ黒眼勝ちの眼ぇスッと細めて言ったのさ。

「じゃあさ、予想してみる? 君の残り弾は2発。つまりそことここに1発ずつ。それを踏まえたわたしがどうするか」

俺ぁ一瞬真っ白になった。
予想だ何だ、ただでさえパニクってるこんな時に、何でんな質問――

そん時だ。
薄暗ぇ空間に、粉雪が、チラチラっと舞い出したんだ。
天井に穴でも開いたのか、冷てぇ風まで吹き付けてきた。
もちろん雪なんか、俺に取っちゃあ珍しくも何ともねぇ。今ん時期、地元じゃイヤってほど降るからな。起きたらまず雪かきってな。
馴染みのの雪が、ほっぺたにも耳たぶにもくっついて、じわっと溶ける。
んな冷てぇ感覚が、さっき姫にしてやった耳のピアスに伝わってビリっと来たんだ。

……姫……

そうだった。
何もかも終わったら……お前と一緒に帰るって決めたじゃねぇか。ソイを肴に冷えたビールで乾杯するってよ。
パニクってる場合じゃねぇ。
やっちまった事は仕方ねぇだろ。スイッチは切り替えねぇと。

俺ぁ……ニッと口の端を持ち上げて見せたぜ。

「……バカか? 『行動予測』ってのは口にしねぇからこそ有効なんだろよ」

おうよ、てめぇのお遊びなんかに付き合ってられっかよ!
……胸糞悪ぃ。
奴ぁ「質問」にかこつけて、カマかけやがったんだぜ? 何のこたぁねぇ、「答え合わせ」がしたかったのよ。
残弾が2ってのは正しいが、だからってこっちとあっちに1発ずつとは限らねぇ。
こっちかあっちに2発ともって可能性もあるわけだ。
奴ぁ返答次第でそれが知れる、なんて踏んだんだ。
生憎だがな、その質問には答えてやらねぇよ!
なのに奴め、「ふーん?」なんつってニンマリ笑いやがる。馬鹿にしやがって!

「……気に入らねぇな。その何でもお見通しって顔(つら)が特にな」
「気に障ったんなら謝るよ。ただ……君はすごく解りやすいから」
「そうかい、なら逆に教えてくれよ。俺が何しようとしてんのかをよ」
「断るよ。行動予測は口にしたら無効なんだろ?」

――人に聞いといてそれかよ! どこまでも馬鹿にしてやがる!

92如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2020/02/14(金) 21:42:52

伯爵がゆらりっと立ち上がった。
俺は構えてたコルトを奴の動きにシンクロさせた。
野郎、ピッタリロックオンされてるっつーのに、肩でも凝ったみてぇに首左右に動かしたり、両腕ぶらぶらさせてやがる。

「準備運動のつもりか? 余裕こいてられんのも……今のうちだぜ」

俺も余裕ぶって言ってやったが……実のところ胸撫でおろしてた。
いくら自信過剰のヴァンプ様でも「銃に頼らねぇ」って保証は無ぇ、あの銃を拾われたら終わりだった。
だってアレには弾が2発とも入ってんだからよ?

……おうよ。
堂々奴に向けてるこのコルト、タマなんか残ってねぇの。
どうしてそんな事態になっちまったかって……俺……右利きだもんよ。
「飛んでるタマ狙い撃つ」なんつー神技ぁ……流石の俺も左じゃ無理なの。
俺のパイソンは左と右6+6の12発。
左の6発は……上に飛んだ司令に1発、結弦ん弾の並走用に3発、計4発。
右は最初の迎撃用に1発、後の迎撃2+2の4発、最後に結弦の撃ったパラベラム弾のケツに当てて計6発。
そりゃあ先に空になるってもんだ。
とにかくよ、奴が良く見てなかったのは幸いだ。とっととケリつけてやんぜ?

「どうしたのさ、怖気づいたのかい?」

ちょっかいのつもりだろう。動かねぇ俺に流石に焦れたか?

俺ぁ返答代わりにスッと腰を落としてみせた。手首と指をピクっとさせながらな。
普段はやらねぇ、わざわざぶっ放すタイミング教えるような真似はよ?
てめぇ言ってくれたよな? 俺は解りやすいってな。
上等だ。
俺の行動(アクション)、予測出来るもんならして見やがれ!!

なんて思った時にゃあ奴さん、俺の真ん前に居た。やっぱ速ぇな、ヴァンプってやつは!

奴の左手がこのコルトに伸びる。
なるほど、いきなり右で斬り付けては来ねぇ。バッサリやった瞬間に指がトリガー引いちまう事知ってんのかもな。
だからまずは銃を封じるのが最適解。
自慢の怪力で腕折って、それからゆっくり嬲り殺しってわけだ。そうはさせねぇがな!

俺は右手をサッと降ろした。ストンとホルスターに納まるコルト。
まさか俺が銃降ろすとは思わなかったんだろ、奴が「え?」って顔をした。
俺の手ぇ狙うはずだった手はなんにもねぇ空間を掠っただけ。
――はは! ザマぁ見ろ!! いつものすまし顔が呆気に取られてら!
踏鞴踏んで前のめりになった、今がチャンスだ。
遊んだ右手を俺ぁすかさず掴んだぜ。同時に右足軸にしてしゃがみ込みながらな。
こうなりゃヴァンプも人と変わらねぇ。
てめぇの勢いも余って嫌でも膝を付くしかねぇのさ。
おっと……反撃なんかさせるかよ!

俺ぁ掴んだ手首を後ろ手にして捻りあげた。司令にみっちり叩き込まれた合気道の関節技よ!
ついでにもう片っぽの手もクロスさせて上に捻る。
こんな返しされた事ねぇんだろ、伯爵の野郎、ろくに抵抗も出来ねぇ。

「撃て! 結弦!!」
「……!?」

さっすが結弦、とっくにコルト拾ってスタンバってた。
俺ぁ初めから撃つ気なんかねぇ、結弦にあのコルトを使わせる為に、てめぇをこっちに呼んだのよ。
ツーカーってな。あの地下で組んでた年数は伊達じゃねぇ、とうぜん弾数も把握してんだろ。
俺ぁ無理やり伯爵の身体持ち上げて、結弦の真ん前に押し出した。
しっかり押さえててやっからよ、安心して標的(マト)になんな!!

93如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2020/02/15(土) 15:34:13
カチリと鳴るこの音ぁ……結弦が撃鉄起こした音だ。
俺ぁ眼ぇつぶってその瞬間(とき)を待った。しばらく待って……そんでもってまた待って……結弦? 何してる? 

「彼はいま『見えてない』んだよ? いったいどうやって撃てって言うのさ」

伯爵の言葉に俺ぁ閉じていた眼を開けた。
奴も閉じてた眼をうっすら開けたところだ。その瞳孔は黒くねぇ。白く濁った眼ん玉が、俺とこいつを映してるだけだ。
へ? おま……マジで見えてなかったの? てっきりさっきのはブラフかと思ったぜ。が、大したコトじゃねぇ。こいつは「結弦」だからな。

「問題ねぇよ、奴ぁ撃てる。眼が無くても耳がある。自慢の耳がよ?」
「……」
「俺とお前の距離は5m。この声で……胸の位置は解るな?」

結弦の眉がぐっと寄った。右の手が微かに震えてんのは……不安からか?
流石のお前も、見えねぇ眼で当てるんは難しいか? なら――

「も少し右、そうだ、それでいい。パラベラムとは威力が違ぇから反動に気ぃつけな。なぁに、多少のズレはその威力がカバーするさ」
「威力……」
「あ?」
「そうだ、その威力だよ! だから麻生は撃たない。撃てないんじゃなくて、撃たないのさ!」
「黙ってろ! なに訳わかんねぇコト抜かしてやがる!」

俺ぁいきなり口出してきやがった伯爵に思いっきり蹴り入れてやった。
腰のど真ん中、人間なら一発で参っちまう急所のひとつにな。
が大人しくなったのも一瞬間だけ……やっぱヴァンプの親玉だ。

「マグナム弾の威力は……君が良く知ってるだろ? 当たればわたしだけじゃない、君だって――」
「黙れっつってんだろ!」

俺ぁ奴の頭の毛掴んで、これでもかってくれぇ床にぶち当てた。
何度もだ。容赦なんかしねぇ、血が結構飛び散ったが……構やしねぇ、ヴァンプがこの程度で参るもんかよ。
そのうちにぐったりした奴の身体を起こして見りゃあ……奴め、まだニヤっと笑ってやがる。
俺は奴の首に腕を回した。柔道の締め技だ。
これは流石に苦しかったか、声にならねぇ声を上げた伯爵の身体が固まった。
したらチャリンと音がして、後ろ手になった左手から何かが落ちた。
見りゃ、さっき司令が落としたロザリオだ。なんでこいつがこんなもん持ってやがんだ?
俺ぁもう一度結弦に眼ぇ向けた。
そして眼ぇ疑ったぜ……。
奴の親指が撃鉄に触れ……カチリと戻った。コッキングする「前」の状態にだ。

「なんでだ結弦! なんで撃たねぇ!? 伯爵殺れる最後のチャンスだろうがよ!!」

誰も、何も言わねぇ、答えねぇ。白い雪だけが、床の模様を埋めていく。
その沈黙を破ったのは、落ちてるロザリオに眼を落としていた伯爵だ。

「解ったろ。麻生が撃たないのは、君を殺したくないからさ」
「バカ言え……ハンターってもんは何よりも使命を優先するもんだ。自分(てめぇ)と仲間の命、両方背負い込んでんだよ」
「魁人こそ……」
「あ?」
「魁人こそ、サーヴァントになりかけた僕を助けに来てくれたよね。命令違反までして」

俺ぁ押し黙った。そんな事もあったかも知れねぇ。だがありゃあ……

「そりゃあれだ。後々結弦が居た方が作戦的にも有利だからだ。感情に流されたわけじゃねぇよ」
「僕もさ。これは感情に流された選択じゃない。作戦さ。提案があるんですが、聞いてくれますか? 伯爵殿?」

俺らに銃口向けたまま、ゆっくり立ち上がる結弦。
……提案て……お前いったい……なに考えてやがる?

94麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2020/02/16(日) 12:42:41
暗い闇の中、パチパチっと明るい何かが弾ける。
実像じゃない。休息を怠った時に良く起こる現象だ。
だから僕は眼を閉じた。下手に見えるより、この方がいい。視覚以外の五感も、より鋭敏に働いてくれる。

コルトを握る右手をまっすぐ前方に向けたまま、僕は膝を伸ばして立ち上がった。
ナノ(ベレッタBU9 NANO)の倍近くある筈のこの銃は、手にピタリと吸い付く木製グリップのせいか本来の重さを感じない。
装填数は2発。
あの撃ち合いのペースだと、どうしても左に2発残る。
……魁人……あのうっかり屋。
もし彼が左でなく、右の銃を置き忘れてたら、とっくに片はついていたのに。
何の因果だろう、2発の弾は結局僕に託された。伯爵を滅ぼせる、まさに生命与奪の権利を。
これも神の思し召しと、あの局長なら言いそうだなあ。

≪私の言いたいことは解るね? 麻生くん?≫

さぁ……どうでしょう。
自分でも理解できているかどうか自信ありませんけど、でもやってみます。
せっかく僕に与えられた権利ですから、したいようにさせてもらいますよ?

膝を付く菅さんと、それを必死で押さえている魁人の荒い息遣いが聴こえる。
左の隅のあたりに居る田中さんと秋桜は身じろぎもしない。
さっきまでは。コツンと床を叩く高いヒールの音や、袂のある腕を降ろしたり組んだりする衣擦れの音がしていたのに。
彼等がこちらを訝る気色がひしひしと伝わってきて……
僕は深く息を吸った。
肺を満たした空気が氷よりも冷えている。

「菅伯爵どの、貴方はさっき『もっと早くそう言ってくれたら』と……そう局長に話しかけていましたね?」

いきなり菅さんが何度か咳き込んだ。
気を利かせた魁人が、彼の首に回していた腕を緩めたのかも知れない。

「……っえ……そんな事、口に出して言ってたっけ?」
「えぇ。それを聞いて僕は思ったんです。貴方と局長には……単なる主従を超えた……特別な事情がある」

今度は魁人がゲホゲホやり出した。
……純情な魁人のことだ。
僕が変に思わせぶりな言い方したから、いかがわしい事でも想像したのかも。
確かにそうで無いとも限らないけど、でも違う気がする。彼らの関係は……もっと深刻で、他の立ち入りを許さない何かだ。

「特別……そうだね。実は彼とは18年も前に会っていたのさ」
「18年? では10年前の事件とは別口で?」
「当時はわたしも悩める学生でね。懺悔に訪れたカトリックの教会で、出迎えてくれた司祭が柏木だったのさ」
「局長が……司祭、ですか」

これには少し驚かされた。熱心なカトリック、ただそれだけだと思ってた。
思えばあのストイック過ぎる勤務態度とか……恋愛や結婚とは無縁の雰囲気、醸し出してはいたけど……そういう事だったのか。

「10年前に再会したとき、わたしは彼に気付かなかった。気づかないまま時が過ぎた。この10年間……ずっとね」
「それがついさっき、気付いたという訳ですね?」
「そうさ。柏木はずっとその事を隠してた。だからそんな風に言ったのさ」
「だから貴方は、局長ともう一度話をしたい。局長の身体が消えてしまう前に」

数舜の間。秋桜が足を踏みかえる音と、衣擦れの音。
前方からは、深いため息をつく音。

「……恐れ入ったよ。まるでわたしの心を読んでるみたいだ」
「いいえ、貴方の行動に余裕が無かったから、なんとなく」
「わたしが焦っていたと?」
「えぇ。弾丸より速く動ける筈の貴方が、何故魁人の誘いに乗ったのか、撃ってからの対処も可能なのに、とか」
「あははは! わたしも如月を馬鹿にしていられないね! なあ如月?」

95麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2020/02/25(火) 21:51:38

「――てめぇ!」

魁人が叫ぶ。同時に生木でも折るような音と、菅さんの呻く声。
また魁人が遠慮なく「殴るか蹴るか」したんでしょう。

「馴れ馴れしくすんじゃねぇ……薄汚ねぇヴァンプ野郎が」
「……随分……だな。わたしはこれでも大臣なんだよ? しかも君の上司だ」
「はっ! んなもんとっくにクビだろ!? ついでに元帥でもねぇ!」

もう一度、さっきと同じ「痛そうな」音。きっと桜子の屋敷での意趣返しだろう。
いくら治癒能力が高いとは言え、痛覚は人並み……
……どうして菅さん、無駄に魁人を刺激したりするんだろう。いちいち反応する魁人が面白いんだろうか。

「……それはどうかな。わたしはまだ認めていない。不当な解任など認められるものか」
「不当なんかじゃねぇ! てめぇはヴァンプ――バケモンじゃねぇか!」
「違うよ、わたしは化け物なんかじゃない」
「あ? てめぇまだ『自分が人間だ』なんてほざいてんのか!?」
「そのとおり。わたしは人間だ」
「フザケんな! てめぇまさか女医の言ったコト真に受けてんじゃねぇだろな?」
「そのまさかさ。君自身の身体が証明してるだろ? 彼女の打ったワクチンのお陰で君は治ったんじゃないのか?」
「それが何でてめぇがバケモンじゃねぇ証拠になんだ? 俺が解んねぇと思って煙に巻いてんじゃねぇぞ?」
「わたしも専門外だが朝香によれば――」
「いい加減にして!」

僕は叫んだ。黙ってたらいつまでもやってそうだったから。
いきなり静まり返った場内。
高い天井に音の余韻が木霊して、場の空気をしばらく震わせた。
そのピッチは……またEだ。とても不安定な……Eの……フラット。

「二人とも、僕の話を聞く気ある? ない? どっち?」

わざと大きなため息をついて、聞いてみる。
息を呑んで、こっちの様子を伺う気配。

「……悪ぃ。続けてくれ。俺ぁしばらく黙ってっからよ」

魁人のしゃべり方があまりに「叱られた子供」みたいで吹き出しそうになる。
君のそういう所が……好きだよ魁人。

立っているのが辛い。
努めて落ち着いた動作で片方の膝を付く。
コルトのグリップをしっかりと両手に握りなおす。
……正直言うと、相当に具合が悪かった。
田中さんに血を吸われてから、ずっと……手も足も冷たくて……まるであの……サーヴァントになりかけてたあの倦怠感――
でも今この時が肝心だ。局長の頼みを、僕は訊いて見せる。
ゆっくりと……呼吸を整える。

「まずは菅伯爵。貴方に5分、差し上げます」

96麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2020/02/27(木) 06:26:42

「――なっ……」

魁人何か言いかけて、でもすぐに口を噤んだ。
さっき自分で「黙ってる」って約束した事を思い出したんだろう。

菅さんは……すぐには返事を寄越さない。
おそらく言葉の意味を頭の中で整理しているんだろう。
心臓を撃ち抜かれたヴァンパイアの肉体が完全に消滅するには10分ほどかかる。
局長が倒れてから少なくとも2、3分は経過している。あと7、8分持つかどうか。
つまり局長と言葉を交わすチャンスは今この時しか無い。
ほんとうは早く片を付けて、一刻も早く彼と――なんて考えている筈だ。話す時間すら惜しいと。

だからだろう。
菅さんは、何故そんな提案をするのだとか、どうして5分だけなのか、なんてまどろっこしい事は一先訊かなかった。
ただ一言。

「見返りは?」

その言葉には隠しようのない焦りの色。
だから僕も即座に答えた。

「仕切り直しです。魁人にリロードの許可を」
「いいよ、それで」

即断だった。
もちろん、決断が早かったからと言って、菅さんが浅はかって訳じゃないだろう。
現に菅さんの声には「すべて承知の上で了承した」って感じの重みがあった。
そう。
この交渉が成立するには、少なくとも2つの問題を解決する必要があるんです。
ひとつは覚醒の手段。
核(コア)である心臓を破壊された個体は例外なく滅びへと向かう。
それを一時とは言え、無理矢理に起こそうと思ったら、びっくりするくらいの量の生き血が必要なんです。
もうひとつは自我の奪回。
どんなにその意志や精神が強靭でも、自我を保ったまま覚醒する個体は居ない。
ひとたび目覚めれば、眼に映るすべてを敵とみなす悪鬼となる。主(あるじ)である伯爵も例外じゃない。
その自我を如何にして取り戻すか。

生き血については問題ありません。
「僕」が持ち掛けた提案ですからね、とうぜん僕が調達するべき「資材」です。
まあ……今の僕はこの体たらくですから? 
むしろ役に立ててほんと良かった。
そんな僕の「好意」を菅さんは受け取った。だから僕の提案を呑んだ。
自我については……考えがあるんでしょう。僕の知らない局長を知っている菅さんだから。
でも魁人は気に入らなかったらしい。

「ふざけんな!!!」

ビリビリっと震える天井のステンドグラス。
……やっぱりね、反対すると思ったよ。
ほんと勝手ですよ。
いつもそうだ。自分の事は簡単に諦めるくせに、いざ仲間が死ぬとなると尻込みするんです。

97麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2020/02/28(金) 16:38:56
「話になんねぇ。その案は単なる譲歩だ。たかがリロードに手前ぇの命ひとつは重すぎる」
「違うよ。より強い『駒』は残すべきだ。魁人だって僕がもう戦力外だって解ってるでしょ?」

魁人がひとつ舌打ちして、大きくため息をついた。怒りと落胆が入り混じるため息だった。

「知るかよ……俺には……お前が伯爵殺るチャンスをみすみす逃してるとしか思えねぇ」
「そんな事ない。僕はいつでも可能性が高い方を選択してる」
「ほんとかよ。お前……さっき司令が言い残した言葉ぁ気にしてんじゃねぇだろな?」
「局長が……何だって?」
「言ってただろ! 女医がまだ生きてるって! 彼女に任せりゃ伯爵を救えるとか何とかよ!」
「えぇ!? 朝香が……生きてる!?」

突如菅さんが会話に割り込んできた。随分な驚きようだ。あんなに近くに居たのに、局長の言葉が聴こえてなかったんだろうか?

「んなワケあるか! 結弦が狙い外す筈ぁねぇ! つか……てめぇは黙ってろ!」
「黙ってなんか居られるか! 離せ! 朝香の事は置いとくとしても、麻生の覚悟を不意にする気か!?」
「そうだよ! 駄々こねてないで、菅さんを解放してよ! 時間が無いんだよ?」
「な……何だよてめぇら!」

数秒間、僕らは黙った。冷たい風だけが、ピューピュー鳴っている。
顔に張り付く雪が溶けて、幾筋も頬を伝っていく。

「……わかったよ。俺は……俺の仕事をするさ」

流石の魁人も、2人の無言の圧力に耐えられなかったのか、諦めたように呟いた。声音に少なからずの決意を含ませて。
ポンっと背中でも押すような音がして、あっと思った時は、菅さんが僕の肩を掴まえていた。
今更だけど、ヴァンパイアの動きは音よりも速い。

「礼は言わない。これは取引だ」

耳元で囁く菅さんの息はとても冷たい。
僕は彼にコルトを手渡して、それを彼は魁人に向けて放ったんだろう、そんな音と風を感じて。
右手首に鋭い衝撃。
遅れて血が噴き出す音と感触。
トクトクと鳴り出す胸の鼓動。
すでに感覚を失った右手を掴まれ、持っていかれたその先は柏木局長の口元だ。
動かない筈の彼の唇が僕のそれを咥え、吸う感触。
恐ろしい事に、とても……気持ちがいい。
命そのものを持っていかれるこの感じ、果たして何度目だろう?
頼りなく拍動を繰り返す心臓が、次第にその速度を緩め……
唇が痺れ、耳の奥がキーンと鳴り出した、その時です。

「わたくしも手伝いますわ」

思いがけない声がした。
驚いた僕は少しばかりの無理をして、左の瞼を上げてみた。
ぼんやりと視点が像を結ぶ……その先には……局長を挟んで向こう側に座りこむ秋桜。
彼女の手が僕の手首をそっと掴んで離し、自らの手を局長の口元に置くのが見える。

「駄目だ……桜子……やめるんだ……」
「いいのよ結弦。わたくしはこんな時の為に、この世界に戻って来たんですもの」

僕が必死に止めようとしているのに、彼女は笑って首を振るだけ。
声が出ない。
誰かが大声で叫んでいる。
1人じゃない、2人か、もっと大勢。
勘弁してくださいよ、お願いだから、耳元で大声で喚かないで……

そのうちに眼の前が暗くなって。
誰かが僕を抱きとめた、その温かな感触だけが強くこの身体に残った。

98菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/03/07(土) 06:43:49

「……わかったよ。俺は……俺の仕事をするさ」

如月が仕方なさげに呟いて、わたしを突き放す。
待ちに待った瞬間さ。
わたしは麻生の逃走に備え、その肩を掴まえに走った。
……つい急ぎ過ぎるのがわたしの悪い癖だ。このとき、大事なロザリオの回収を忘れたのさ。

「礼は言わない。これは取引だ」

ひとつ頷いた麻生が如月の銃を差し出した。
それを如月に向かって放り投げ、振り下ろす手の勢いそのまま、彼の右手首を浅く切る。
斬り落とさない程度に「浅く」だ。動脈を切れば済むことだからね。

――?

成人男性のそれにしては「出」が悪い気がしたが……やはり気のせいなどでは無かった。
青ざめた麻生の襟元から、真新しい噛み痕が見えたんだ。
……この徴は……田中さん、いつの間に?
血は少なくとも4、5リットルは要るだろう。成人男性の全血液量にあたる量だ。ややもすれば――足りないか?

そんなことを冷静に分析する一方で、鼓動の方は酷くドキドキしてた。
……だって……麻生ってば変に色っぽいのさ。線の細い、いかにも芸術家然とした顔を苦し気にしかめて、ため息交じりに呻いたりしてさ。
獲物の顔が苦痛で歪む、それ以上の眺めなんてありゃしないんだ。
ほんと、身体は正直さ。
見てるうちにカッと身体が熱くなって、視界が金に染まった。
必死で抑えたよ!
その喉奥深くに喰らい付きたいと言う欲求をね!
麻生の血は間違いなく繊細で豊かな旋律を奏でるだろう。胸を抉って中を探り、温かな心臓を掌で確かめながら……一滴残らず搾り取る。
世界的な音楽家の断末魔、どんな声をあげるだろう……てね。

そうさ。これがヴァンパイアさ。
強い嗜虐と、赤い血への執着。
特にこんな……溢れる血を前にして、何もしないのは地獄だよ。
君のせいさ。10年前のあの時、ヒトの血の味を覚えてしまった……その時の恍惚を、今だに忘れることが出来ないのさ。
……そろそろ起きてよ。
わたしは君との約束を守ってるよ?
いまでもね。一度だって君以外の血を求めた事はない。
桜子を仲間にした時も……一滴の血も流していない。「契り」って奴は、体液の交換で事足りるんだから。
いつまでさ?
一体いつまで……この地獄に耐えればいい? いつまであの約束を守ればいい? え? 柏木!

麻生が体重を預けて来る。
柏木は目覚めない。
やはり……足りない。
ここはわたし自身の血液を提供するしかないだろう。真祖の血はヴァンパイアの糧となり得る。
そんな時さ、意外な方向から救いの手が差し伸べられたんだ。

「わたくしも手伝いますわ」

金色の眼がわたしを見ていた。
桜子だ。半年前のあの時と同じ、愁いを秘めた瞳がわたしの眼と勝ち合った。
あの時――麻生が憎いと彼女は言ったんだ。
妹と、そのお腹の子を捨てた麻生が。
だから麻生の思いに答えることが出来ないと。眼を傷つけた負い目もあると。
けど……麻生の事が好きだと。

99菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/03/08(日) 07:33:17

その時は変な女だなと思ったのさ。
おかしいだろ、死ぬほど憎いのに、死ぬほど愛しいなんてさ。

すっかり日の暮れた狭い茶室の片隅で、わたしは桜子と「契り」を交わした。
幹部の数がとにかく足りなかったからね。
先に言った通り、わたしは人の血は吸わないと決めていた。だから体液の交換って奴をしたのさ。
ああ、曖昧に言って誤解されても困るから言っとくけど、セックスした訳じゃないからね。
何のことはない、彼女の掌に傷をつけて、そこにわたしの血を垂らす、ただそれだけの方法さ。
結果、彼女は実にヴァンパイアらしいヴァンパイアへと変貌を遂げた。
月に一度の吸血を常とする美しい同胞にね。
「弦」に関する能力は素晴らしかった。ピアノを聴かせるだけで人間を操れるって、なんて効率的だろう。
あらゆるメディアが利用出来るんだからさ。

そういえば田中さん、柏木の人選を意外なところで褒めてたっけ。
「水原桜子」の字がいいってね。
田中さんによれば、名前に月に関する言葉が入ってるほどいいらしいんだ。
水月(すいげつ)って言葉があるだろ? 水に映る月の他、ちょっとした意味を持つ熟語だ。
苗字だけじゃない、下の名前も良かった。桜月(さくらづき)ってね。
そういう眼で見て見れば、麻生結弦も弦月の弦、如月なんか、月の字がそのまま入ってる。柏木も大したものさ。
ああもう……何処でどう計画が狂ったんだろう。

硬い肉を刃が突き刺す音。
血の提供を麻生と代わる彼女。その眼差しは……あの時とまったく変わらない。
今更ながらに彼女の麻生に対する感情を理解した。
憎いけど愛しい。
なんだ、わたしが柏木に抱く感情と同じじゃないか。

「駄目だ……桜子……やめるんだ……」
「いいのよ結弦。わたくしはこんな時の為に、この世界に戻って来たんですもの」

……え? わたしの顔が赤い?
仕方ないだろ。桜子の台詞はモロに愛の告白だろ?
……勘弁してよ……わたしがすぐそばに居るんだよ? そういう告白、二人きりの時にしてよね!

そしたらさ、わたしの感想をそのままそっくり再現した人が居たのさ。良く知った声と口調で。

「あら、桜子さんに二又(ふたまた)君ったら、まだイチャイチャしちゃって!!」

すぐ後ろに、死んだはずの朝香が困った顔を少し傾けて立っていた。

100菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/03/09(月) 17:50:37

「朝香!?」

さすがに開いた口が塞がらない。
彼女の胸には確かに銃で撃たれた痕がある。赤い血も相当滲んでる。なのにピンと背筋を伸ばして立っている。
なぜだ。防弾着は身に付けていなかった。
まさか――いや、違う。匂いも気配もヴァンパイアのそれじゃない。

「どうしてさ! さっきは確かに……息も心臓も――つまり確実に絶対死んでたよね?」
「アハっ! ハムくんったら、日本語へんっ!」
「あは! じゃないよ! てかハムってなにさ!」
「え〜〜? ハムくんが言ったんでしょ? 公隆の公の字を縦読みしたらいいって!」
「――え?」

ハムスターがどうとか、まるで新婚状態だったあのシチュエーションは……夢、だろ?
わたし自身の夢。いや、夢という表現もおかしい……幻覚? 白昼夢?
とにかく、白い螺旋の階段も、巨大な黒い蜘蛛も、この胸の内の何かの表れだと……そう……思ってたのが、違うのか? 
彼女自身の夢を共有していたとでも?

「そんな事よりきみは――」
「ハムくん、後ろ後ろ!!」

そう言えばと振り向いた。
ぎょっとしたよ、柏木が静かに立っていたんだ。
俯き加減の、その両の目はしっかりと閉じられていたけど、見た目はいつもの柏木だ。
両腕をゆらりと下げた自然な立ち姿と、隙を感じさせない佇まいがね。
異様なのはその「気配」だ。まるでポツンと立ってる植木みたいなのさ。

「柏木?」

呼びかけてみたが反応はない。
彼の背後では、麻生を抱え後退る桜子。
その肩越しに……壁を背を預ける田中さん。
左横で撃鉄を起こす音。
両手の銃を構える如月を視界の隅に捉える。
……が、撃ちはしまい。「5分後」に備えているだけだ。そういう取り決めだ。

「柏木! わたしだ! 聞こえるか!?」

腹に溜めた声を張り上げてみると、今度こそ反応があった。閉じた瞼が開いたのさ。
総毛だったよ。
それは少なくとも「柏木」じゃなかった。
血そのものをただ丸く固めたような何かがその眼窩に納まっていた。
瞳孔も何もない、何物をも映さない赤い玉。それがキョロリと動いて、確かにわたしを見下ろしたんだ。
――悪鬼。
そうとしか言いようのない眼だった。自我も魂も無い屍。それでいて肉体は最強の戦士とくればこれ以上手強い相手もない。
だが悪鬼の自我を呼び覚ます、その方法は意外に簡単だったりする。
生前に執着、或いは愛着のあった「何か」を差し出せばいいんだ。
柏木のそれと言えば決まってる。肌身離さず持ち歩いていたあのロザリオだ。
あの十字架のメダイと、それに繋がれた銀の玉。その玉ひとつひとつを手繰りつつ、祈りを捧げる姿を見かけたものだ。

ほんと、運がいいよ。
偶然にも拾っておいたロザリオが役に立つなんてさ。
だが懐を探り、愕然とした。
何処にもないのさ。上と下のポケットにもない。どこにもない。
そういえばと思い返す。さっき如月にヘッドロック食らったときに、チャリンって……
って事は……仕舞ったつもりになってただけで、仕舞ってなかった?
なんか足元に似たような鎖が落ちてるなーとか……まさか……あれがそれ? ええーー!!?

101菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/03/10(火) 07:11:26
「如月! それを寄越せ!」
「……あ? 何をよこせって?」
「それだよ! そこに落ちてるロザ――」
「ハムくん危ない!」

鷲の手状に開かれた掌底が目前に在った。狙いは――喉笛!
躱せない!
刹那、右横から体当たりを喰らった。
朝香だ。まさに間一髪。
彼女に突き飛ばされてなかったら、間違いなく喉を握り潰されていただろう。
だがダメージはゼロでは無い。掠りもしなかった喉元が焼けたように熱い。これは――気功!? 田中さんと同じ技を!?
が呑気に分析しても居られない。柏木が朝香へと視線を移したんだ。

「おらよっ!」
ようやく気付いた如月がロザリオを放って来た。
「遅いよ!」
「るせぇ!! てめぇも相当の『ちゃかし』じゃねぇか!!」
「チャカシ!?」

鎖をキャッチしながら、思わず聞き返す。同じ言葉をかけられたことがあったのさ。
わたしはスピーチの際に身振り手振りを交える癖があるんだが、そのせいで演題の水差しを落として割ってしまうんだ。
あの時は2度もそれをやって……
「意外とあんた、チャカシだねぇ」なんてボソッと言われたのさ。最後の片付けの時、掃除のおばちゃんにね。
すぐ後ろに控えてた柏木が「この地方の方言で、慌て者、うっかり者の意味です」って耳打ちしてくれてさ。
柏木によれば、地方出身者は標準語のつもりで堂々使ってしまう言葉ってのがあるらしくてさ。
噴き出しちゃったよ。
かく言う当の本人が、たまに使うあの言葉に気付いてないんじゃないかってね!

あれは確か道南地方を遊説してた時だ。如月の出身も北海道。つまり訳せば「このわたしも相当のうっかり屋」。
なるほど、さっきコルトを置き忘れた如月を馬鹿にしたからね!

「恩に着るよ!」
そんな柄にもない台詞が吐いたわたしにはまだ余裕があった。これさえあればもう大丈夫、なんて余裕がね。
朝香に手を伸ばした柏木の眼前にロザリオを尽き出す。
赤い眼が更に見開かれ……その手がロザリオを掴む。この右手首ごと。
生木を裂く音がしたのはこの時だ。
一瞬、何が起こったのか解らなかった。
右肩を支点にし、折られたのだと認識した時には、荒々しく抱き寄せられていた。その腕はとても熱い。
次第に襲う激痛にしかし、声を上げる事すら出来ない。
肋骨の隙間から差し込まれた手がこの心臓を握りこんだんだ。
すべてが熱かった。首の根を掴む手も、喉元に寄せられる吐息も、何もかも。

「……そうだったのか。君の執着の対象は……ロザリオなんかじゃなく――」

唇と舌先を動かしただけの言葉が、柏木の耳に届いたのか。

「……ばり……好いとるばい……」

まさに柏木本人の、「意思の宿った声」が遠くに聞こえ、わたしはすべてを許した。

「……悪かった」

そんな言葉しか出てこない。
薄々感じては居たんだよ。君がわたしに欲情してたって。
今まで我慢させてきたのはわたしの方だったんだ。いいよ……もっと吸いなよ。
そうだ、そうやって……最後の一滴まで吸い尽くしてくれて構わない。

間違い……ないよね。
血を求めるのはヴァンパイアの本能だ。これは君に取っての最高の求愛行動、そう受け取って間違いない。

102佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/03/11(水) 12:24:18
長い夢から覚めたとき、あたしは暗がりの中に居た。
石の床……そうだった。ここは……議事堂。あたし、麻生君に撃たれたんだっけ。
あたし、生きてる。
総理も……眠ってるだけみたい。呼吸も安定してる。
さっきの弾、模擬弾かなにかだったのかしら?

うーんと思いっきり伸びをして、もう一度横になって目を閉じる。
……なによ。いいじゃない。今すっごくいいとこだったんだから。続き続き! 
素敵だったわぁ……柏木さんの神父服。紋付羽織の田中さんも。 新郎の菅さんなんかもう最高……!
指輪を嵌めて、いざ誓いのキスって時に、柏木さんたら、待ったなんてかけちゃって。
オルガンの鍵盤を指さして、どうか直して下さいって頼むのよ。あたしにしか出来ないからって。
見れば白と黒の鍵盤の配列が滅茶苦茶。
これがやってみると簡単で、意外と楽しいの。こう……カチッと鞘に納まった感じが?
鍵盤はどんどん伸びて、ぐるりと上に曲がって螺旋の階段になってて……
やっと登り切ったら菅さんが待ってて、やった! って思った時に目が覚めたのよ? 続きが見たくてとうぜんでしょ?
でも誰かと誰かが話す声が聴こえて、バッチリ眼が覚めちゃった。

「駄目だ……桜子……やめるんだ……」
「いいのよ結弦。わたくしはこんな時の為に、この世界に戻って来たんですもの」

――え! 麻生くんに……桜子さん? うそ! 桜子さんったら生きてたの!?

立ち上がってみると、暗がりの中に、パッと花が咲いたような白いドレスが見えた。手前に座ってる人影も、たぶんだけど麻生くん。
あたし、嬉しくて駆け寄ったわ! 

「あら、桜子さんに二又(ふたまた)君ったら、まだイチャイチャしちゃって!!」

あたしなりの「おめでとう」だった。
でも手前に居たのは麻生くんじゃなくて、麻生くんを抱えた菅さんだった。
振り向いた彼がびっくりした顔であたしを見て、あたしの名前を叫んだ。クエスチョン付きでね?
どうも彼、あたしがこうして立ってるのが信じられないみたいなの。 
このあたしの心臓が止まってた、なんてしどろもどろに言うのよ。
いつもは冷静な彼がすっごく慌てちゃって、よっぽどあたしの事が心配だったって事よね?

「アハっ! ハムくんったら、日本語へんっ!」

な〜んて揶揄(からか)ったらから怒られちゃった。
いっけない! ついみんなの前でハムくんなんて! 
でも提案した菅さんにも責任あるわよね〜みたいな事言ったら、ポカンとされちゃった。
そういえばそれ……夢の中の話だった? やだ! 起きがけだから、夢と現実がごっちゃになっちゃったのね?
まあ……もう言っちゃった事だし? うん! これからはハムくんで通しちゃう!
勝手に決意表明を固めたあたしを、菅さんはやっぱり不思議な顔して見て、首を傾げて。まだ納得できないって顔してる。

「そんな事よりきみは――」

言いかけたその言葉をあたしは遮った。後ろ後ろって!
だって……菅さんの後ろで、ぬっと立ち上がった人影が、明らかに人間でもヴァンパイアでも無かったんだもの!
そうね、例えて言えば……案山子かしら。
木の骨組みで作った案山子が、手足をギクシャクさせながら自分で立った感じ?
こいつ……何?
振り向いた菅さんもビクッとして固まって……見上げたままで「そいつ」に声をかけた。

「柏木?」

あたし、その名前で初めて、立ってるそれが柏木さんだって気付いたの。
そう思ってみて見れば……確かにそう。
キリっとした眉、オールバックに撫でつけた髪、額にハラリとかかる前髪が数本、
いつもの黒スーツじゃないけど、ラフなジャケットをスタイリッシュに着こなした、完璧なプロポーション。
でも違う。
柏木さんの姿と形をしてるけど、ぜったいに違う。あれは「生き物」じゃない!

103佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/03/12(木) 22:13:05
あたしは自分で自分の身体を抱きしめてた。
怖いのよ、「それ」が物凄いポテンシャルを持ってるのが解るの。人畜無害じゃ有り得ないって。
桜子さんもそう思ったみたい。
白いドレスが翻ったと思ったら、あっと言う間に麻生君を抱えて逃げちゃった。
反対側でガチっと音がしたから見てみれば、リボルバーを両手に構える魁人くんがいて。
……でも菅さんは違った。
逃げるとか、戦うとか、そういう気持ちはまるで無い……ううん、むしろ好意的?
両膝ついて座ったまま、見上げるその眼はどうみてもあの「柏木さん」に向ける目なの。
でも……ダメ。危険だわ! あたしの予感、当たるんだから!

「柏木! わたしだ! 聞こえるか!?」

――だめ! そんな大きな声で呼んだりしたら――それが眼を覚ましちゃう!

足を踏み出そうとして凍り付いた。
見ちゃったの。ゆっくり見開かれた……それの眼を。
感情なんて何処にもない……近くで見たら夢に見そうな無機質な血の眼(まなこ)。
流石に菅さんも危険を感じたのね? 切羽詰まった声で魁人くんに「それを寄越せ」って頼んだの。
何を? って思った瞬間ぎくりとした。
そいつの右手がゆっくりと持ち上がったのよ。とても静かで機械的で、自動で動くロボットのアームみたいなその動きでね?
菅さん! 前を見て! 魁人くんとなに揉めてるのか知らないけど、もう! どう見ても首を狙ってるのに!!
あたし、叫びながら思いっきり菅さんを突き飛ばした。
運動量保存則よろしく、その場にペタンと尻もち着いたあたし。
くいっとあたしに顔を向けるそれ。ゆっくりとその手が今度はこっちに近づいてきて。
身体が動かない。わんわん鳴る耳の中。
ぎゅっと眼を閉じる。
……またやっちゃった。つい後先考えずに動いちゃう。 ……これってつまり……終わり? 今度こそ?

でも嫌な音がしたの。……それは……人の骨を力づくでへし折る音。
おそるおそる眼を開ける。そしたら眼の前に、ぐったりした菅さんを抱き締める柏木さんがいて。
ああ、柏木さんが、柏木さんに戻ってる。さっきとは雰囲気がぜんぜん違う。
「柏木……さん?」って呼んでみたら、チラっとこっちを見た眼が笑った。

どうして? どうしてそんな……幸せそうな顔してるの? やっと願いが叶った、そんな眼で――

柏木さんの手が、ズブリと菅さんの胸に潜って……たぶん心臓を掴んだのね? ヴァンパイアは良くそうするもの。
ビクリと菅さんが痙攣して。その両足が地面から離れて……右腕なんか有り得ない方向に曲がっちゃってて……
本当なら止めなきゃいけない、そんな恐ろしい光景をあたしはぼうっと眺めてた。
柏木さんがその牙を剥き出しにして、菅さんの首に持って行った時も。
何故って……菅さんが辛そうには見えなかったから。むしろうっとりしてるように見えたから。
聞いた事あるわ。ヴァンパイア同士の吸血は究極の愛情表現だって。
あの人達には男も女も無い。特に主従を結ぶ同士なら良くある事だって。

そういえば柏木さん、桜子さんのお屋敷からあたしを議事堂に送り出す時、困った顔してたわね?
あたしが菅さんのこと、救って欲しいんでしょって問い詰めても、最後まで頷く事はしなかった。
もしかして……ずっと菅さんの事が好きだったのかしら?
だから、あたしになかなか手を出してくれなかったのね? 
「ホモ?」なんて半分ふざけて聞いた時も、あんなに慌てたってわけね?

されるがままの菅さん。眼を閉じて、その唇が何かささやいてる。
耳では聞き取れない……でも柏木さんには解ったみたい。
いつもの素敵なバリトンボイスで、はっきりと、「すごく好きだ」って……長崎の言葉で。
別にあたしが言われたわけでも何でもないのに、ドキンとしちゃった。
いいなあ……って。お国言葉って……なんか心の底から本気って感じがするじゃない?
菅さんはあたしの許婚だけど、でも柏木さんなら許してあげる。ていうか、あたしも言われてみたい…… 

柏木さんが菅さんの身体をそっと床に横たえた時、その逞しい肩や背中は崩壊を始めてた。
ヴァンパイアの最期。ほんとうにこれっきり。手や足が崩れて、細かい砂になって……
消える瞬間、柏木さんは優しく笑って……何度か唇を動かした。
あたし、涙が止まらなくて……でも確かに見えたわ。彼が「ありがとう」って言ったのが。

104如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2020/03/26(木) 17:34:55
立つ鳥跡を濁さず……ってね。司令らしいぜ。

さっきまで司令が居た床は、もとの白いピカピカ石だ。うっすらの滲みすらねぇ。
ま、司令に限らずヴァンプってのはそういうもんか。髪の毛一本も残んねぇのが奴らだもんな。
しかも服まで消えちまうってのが毎度納得行かねぇが、深く考えても仕方ねぇ。そういう仕様なんだろ。
……って良く見りゃ……スマホだけ消えねぇで残ってら。
ついでに横にコロッと転がってるありゃ何だ?
形だけ見りゃ弾薬そっくり。9mmパラベラムっぽいが……銀じゃねぇの。長い事雨風に晒されたみてぇに黒いの。
あれも司令の持ちモンんか?

俺ぁ仰向けに寝たまんまの伯爵に銃向けながら、ちょこっとだけ前に出た。
とたんに来たぜ、両手首にビシッ! っとな。
咄嗟にグリップ握りしめたぜ。見りゃ腕組んだ田中がこっちにガン飛ばしてやがる。お得意の「気」をぶっ放したに違ぇねぇ。
流石に一歩下がったね。したら大先生も速攻「気」を引っ込めやがった。もしかしてこの辺が射程か?
アブねぇ……さっきのアレ――遠隔操作なんつー反則技ぁ……二度と喰らうの御免だぜ?

俺がもう一歩下がったその時だ。さっきまで俺が立ってた辺りで、カチン、と音がしたのよ。
見りゃガラスだ。割れたステンドグラスが上から降って来たんだ。
俺ぁ注意を上に向けたぜ。もちろん眼は田中と伯爵から離さねぇままでな。
――違ぇねぇ。上に「居る」ぜ。
……3名……。息詰めて待機してら。6階分の高さがあるが、狙撃手(スナイパー)なら何て事ねぇ距離だ。
そうか拓斗の奴、逃げたんじゃねぇ、外に知らせに行った訳だ。

俺ぁ意識を田中に戻した。相変わらず自信たっぷりの貫禄だが……奴の視線が一瞬だけ上に泳いだのが見えたぜ。
なるほど、奴もあの伏兵の存在に気付いてやがる。
しかしそれ以上の感情は読めねぇ。緊張とか、焦りとかそういう感情がな。大事な大将の一大事だってのによ?
どういう訳だ?
伯爵の野郎、一向に起きる気配がねぇじゃんよ。
息もしてねぇ、司令にあけられた胸の穴も塞がらねぇ。明らかに「大事」じゃんよ。

さすがに田中と睨めっこしてんのに飽きた俺ぁ……突っついてみる事にした。
俺ぁこの場を預かった指揮官だ。仕切り直す筈の相手がどうなったのかも知らねぇでコトは進められねぇ。

「ちょい教えてくんね?」
「なにかしら」

俺ぁ田中に聞いたつもりだったんだが、反応したのは女医の方だ。
意外だったぜ?
さっきまで魂抜けちまった人形みてぇに座り込んでた先生が、しっかりした眼つきでこっちを見たんだ。
あんたも謎っちゃ謎だぜ。なんできっちり生きてっかな……
ま、答えてくれるんなら誰でもいっか。

「そいつ、生きてんの? 死んでんの?」

したら女医、スッと眼ぇ細めてたと思ったら、伯爵のYシャツのボタン、パパパパッと外しやがった。しかも片手で。
舌を巻いたね。
弾道見切る俺の眼でもやっと追えるスピードでだぜ? どんだけ脱がせの達人よ?

「脈は無い。つまり心臓は止まってる。生きてるとは言い難いわね」
「ふーん? じゃあ死んでんの?」
「違うわ。心臓は……無傷だもの」
「じゃあ……待ってりゃ生き返んの?」
「すぐには無理かも。必要な血液が残ってないから」
「とどのつまり、死んじゃいねぇがしばらく再起不能。そういう事だな?」

俺ぁ親指で撃鉄を起こした。狙いは伯爵と女医だ。
約束の5分はとっくに過ぎたしな。

女医が眼を閉じ、田中が組んでた腕をほどいた、まさにその瞬間、
ブーンと鳴り出したのさ。司令の黒いスマホがな。

105名無しさん:2020/04/26(日) 16:06:17
しえん

106名無しさん:2020/04/28(火) 16:40:43
みてる

107佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/05/04(月) 06:58:03

綺麗な細工の敷石の上に取り残されたスマートフォン。その横には黒く錆びついた銃弾がひとつ、転がって。
あのスマホ、見覚えあるわ。柏木さんが菅さんに腕を斬られた時に、床に落っことしたものだもの。
ああ、ほんとのほんとに柏木さん、この世から居なくなっちゃったんだなあって思ったら、また涙が溢れてきて。

……思い知らされたわ。あたし、柏木さんの事、大好きだった。
男性としてもそうだけど……もっとこう……1人の人間として。
いつも冷静で、何を考えてるのかちっとも解らない……いつも何かの為に身体を張ってた。
ある時はバトラー、またある時は劇場の支配人、そしてまたある時は神父さん(夢の中設定だけど)。
神出鬼没で、腕が立って、実はとっても怖い人。取り澄ましながら、いつも何かを企ててる……信用のおけない人。
でもその根底にあるのは……人間を守りたいと言う思いと、尊厳の気持ち。
それは人間だけじゃない、ヴァンパイアに対しても同じ。
彼らを滅ぼしたいと言いながら、桜子さんや伯爵をいつも気遣ってた。
そんな人、知らない。自分よりも、他の人の事でそこまで心を砕ける人なんて。
どうしてそんな事が出来るの? よっぽど……過去に何かあったとか?
でも柏木さん、最後の最後に……自分の為に行動した。大好きな菅さんに自分の思いを伝えて……そしてその血を吸った。
ありがとう。そう言って、この世界から消えた。
……どうして? どうしてあたしなんかにお礼を言うの? あたし、なんにもしてないのに。
どうして?
あなたの悲願はヴァンパイアの撲滅のはずなのに、そうしてあんな笑顔で?
田中さんも、菅さんもまだちゃんと生きてるのに?

そんな時、ぶっきらぼうで、どこか恍(とぼ)けた魁人の声がして。

「ちょい教えてくんね?」
「なにかしら」

聞き返したあたしに、魁人ったら意外そうな顔して、田中さんに向けてた眼をこっちに移した。
やだ、てっきりあたしに聞いたのかと思ったら違ったみたい。
でも魁人、「まあいいぜ」って顔して。

「そいつ、生きてんの? 死んでんの?」

その質問にあたし、ハッとなった。
言われてみればあたし、柏木さんの事で頭がいっぱいで、菅さんの事を見ても居なかった。
たかが骨折と失血。ヴァンパイアでしかも真祖の菅さんにはダメージの内にも入らない。そう決めつけてた。
でも……おかしいの。
彼、ぜんぜん動かない。シャツについた血の滲みも消えない。つまり、傷がぜんぜん「治癒」してない。
あわててYシャツのボタンを外したわ。
自分でもびっくりするくらい左手が素早く動いた。あたしの利き手は右なのに。
でもそんな事どうだっていい。彼の胸の傷は思った通り開いたまま。
柏木さんが無理矢理にこじ開けた肋骨と肋骨の隙間。握りこぶし大に開いたその隙間から、ピンク色の心臓がはっきり見えてる。
その心臓は……動いてない。拍動していないの。

「脈は無い。つまり心臓は止まってる。生きてるとは言い難いわね」
「ふーん? じゃあ死んでんの?」

あたしは手術用の手袋をつけた手で傷の中を探りながら、「違う」って答えたわ。心臓は無傷だからって。
そうよ、ヴァンパイアは心臓を銀の弾丸で撃ち抜かれて、初めて「死んだ」と言えるんだもの。

あたしはすっかり血の抜き取られた桜色の心臓に触れながら……そういえば……って思った。
柏木さんは何故この心臓を破壊しなかったんだろうって。
その気になれば出来るわよね? 10年前に柏木さん本人の手で撃ち込んだ、銀の弾丸が突き刺さってるんだから。
あの力で押し込めば、簡単に穴が開く。そうすれば……一緒に死ねる。
好きな人と心中できて、しかもヴァンパイア撲滅にも手が貸せて、まさに一石二鳥じゃない?

あたしは夢中で胸腔を探した。
でもあるはずのそれは見当たらない。……で気付いたの。柏木さんのスマホの傍に、転がってる黒いそれが、それだって。

108名無しさん:2020/05/04(月) 07:05:36
>105,106
いつもありがとうございます
正直ラストを決めかねていて、今回色々あって流石に断念しようかと思ってた矢先の応援、本当に嬉しいです
エンディングまでもう何レスもありませんが、よろしくお願いします!

109名無しさん:2020/05/04(月) 12:24:01
よかった

110佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/05/05(火) 03:46:03
「じゃあ……待ってりゃ生き返んの?」

魁人の声がイラついてる。そりゃあ焦れるわよね。あたしの答え、さっきからどっちつかず。

「すぐには無理かも。必要な血液が残ってないから」

やっぱり曖昧な答えしか返せないあたし。
……仕方ないじゃない。
血を全部抜き取られた人間なら見た事あるけど、ヴァンパイアのそれは初めてだもの。
でも魁人は彼なりに納得したみたい。
グッと口元引き締めて、あたしと菅さんに向けてた銃の撃鉄に指をかける。

「とどのつまり、死んじゃいねぇがしばらく再起不能。そういう事だな?」

ガチリと撃鉄が起きる音。
あたしは咄嗟に眼を閉じる。
前にも同じシチュエーションがあって、あの時魁人は躊躇なく撃った。だから今度も彼が容赦することはない。
そう解ってて、でも頭のどこかで「まだ行ける」って思ってた。大丈夫だって。
今までもそうだったから、今度だって…………ほら……来た。

あたしはそっと眼を開けた。
魁人が怪訝に眉を寄せて、振動を始めたスマホを見てる。
黒い画面に浮かぶ白い文字は……日比谷麗子。

「出てくんね?」

魁人がこっちに向かって顎をしゃくって。
「え?」って顔したあたしを見た魁人が銃をこっちに向けたまま。

「んな時に麗子さんが無駄な連絡寄越すわけ無ぇ。無視して後で怒られんのもヤだからな」

なんて言って。
もちろんその通りにしたわ! あたし、もしかして神様か守護霊さんに守られてるのかも!
……な……なによその眼。
医者にだって、ロマンは必要よ?


電話に出たのがあたしだった事に、麗子はあまり驚かなかった。
彼女が言うには、とにかく写真だけは一杯撮ったから見て欲しいって。
DNAの解析結果も、出したはいいけど自分には何がなんだかさっぱりだって。

「了解。すぐ確認するわね?」

何度か画面をタップして画像を出して、データ化した数値を読んで――あたしの中ですべてが繋がった。

「お疲れ麗子。もうそっちでやれる事は無いわ。検体……消えちゃったんでしょ?」

「ええ」、と一言だけで肯定した麗子が通話を切った。それ以上は何も聞かずにね。
このタイミングで検体である肉片その他が消えるのは当然。本体が滅べば肉体は消滅する。
彼女もたぶん、解ってた。柏木さんが……死んじゃったんだって。でも感傷に浸ってる時間なんか無い。

「魁人! 銃を仕舞ってこっちに来て! 菅さんを運ぶの!」
「……は?」
「急いで! じゃないと手遅れになるわ!」

111如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2020/05/05(火) 05:41:21

俺の口、閉じる事を忘れちまったに違いねぇ。
したら女医、凄ぇ勢いで立ち上がって、両手を腰に当てて、カツンとハイヒールを鳴らした。怒った時の麗子さんみてぇにな。

「なにボサっとしてんのよ! 菅さんは『人間』なのよ!?」
「人間!? ギャグも休み休み言いやがれ!」
「これが冗談の顔に見える!? 救護義務違反で捕まりたく無かったら手伝って!」
「救護……俺ぁひき逃げ犯か?」

四方を見りゃあ……さっきまで居た筈の田中が居ねぇ。近くにその気配もねぇ。
女医はと見りゃあ……懐から管とかパックとか取り出して、何やらカチャカチャ言わせてやがる。

「何してんだ?」
「見りゃわかるでしょ! とりあえずの補液よ! でもダメ! 早く輸血して酸素を送らないと――」
「送らないと?」
「死後硬直が始まっちゃう!」
「そりゃ人間の話だろ?」
「だから、人間だって言ってるじゃない!」

こりゃあ……マジか?

俺ぁ上に向かって合図した。ホルスターに銃仕舞い込んだ俺を見て、奴らも信じる気になったんだろ。
スルスルっとロープ伝って、待機中だった兵どもが降りて来た。
人命救助となると奴らは早ぇ。自衛隊と、担架持って駆け付ける救護班でいきなり場がごった返した。
一応俺も……っつって、菅にくっついた女医と一緒に救急車に乗り込んだら、張り詰めてた糸ってヤツが切れたんだろ、腰がストンと抜けちまった。

「魁人……くん!?」
「魁人さん!?」

情けねぇ。
誰かが肩ゆすぶって、名前呼んだとこまでは覚えてんだが……

112佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/05/06(水) 07:35:50
「せんせい! 朝香せんせい!」

真後ろであたしを呼ぶ声がして、くいっと誰かが袖を引く。
いっけない! ついうとうとしちゃった! あたしったら4時間も?

「どうしたの!? ……まさか?」

あたしの問いに、小さな看護人がパッと目を輝かして。

「ちがうちがう! 眼を覚ましたの! カイトも、スガのおじ様も、お父様も!」

あたしの腕をゆさゆさする、見た目5歳くらいの女の子。
そう、彼女は秋桜ちゃん。どういう訳か、あの時の年齢に戻っちゃったの。
何故かって言われても困るけど……血だから力だかを消費しちゃったからだとか……なのかなあ。

「早く来て! じゃないとまた怪我しちゃう!」
「どういうこと?」
「来ればわかるわ!」

なんて腕引かれて廊下に出たら……なるほどね。
大きく開いた大部屋のドアから、聞こえてくるのはあの3人の声。

「ふざけんな! 司令を仲間に変えちまったのはてめぇなんだからな!」
「同感です、元を正せば責任は貴方にある」
「だからあれは正当防衛だって言ってるだろ! 柏木は望んで仲間になったって!」
「なわけあるか! 俺らの司令はそんなんじゃねぇ!」
「君ら『の』じゃない。わたし『の』柏木だ。事情も良く知らない奴にとやかく言われる筋合いは無いね!」
「んもう! 君たち一体なにしてくれてんのよ!」

やっとあたしに気付いたって顔して振り向く約3名。
魁人が菅さんの胸倉を掴んでた手をゆっくりと離す。
フワリと泳ぐ白いカーテンと、隙間から降り注ぐ朝焼けの光。
その赤い光を一身に浴びて、大の男3人が硬直する。
はだけた水色の患者衣(ガウン)。包帯ぐるぐる巻きの首や手足が痛々しいったらありゃしない。

「一週間も意識不明の重体で、やっと眼を覚ましたと思えばこれ? 『歩いていい』なんて誰が言ったの!?」

あたしは腕を組んで、順繰りに3人の顔を眺めたわ。
静まりかえった部屋。開いたベランダの窓からは、天高く飛んでいくヒバリの鳴き声。
誰かがゴクンと唾を飲み込んで。

「いや……その……」
「菅さんが、喉が渇いた、なんて言いだして……」
「誰が買いに行く? って事になって……」
「呆れた! それがこの取っ組み合いの原因だって言うの!?」

魁人が乱暴に長い金髪かき上げて、菅さんが襟を正してそっぽを向いて。
麻生君だけが淡々とした足取りで自分のベッドに向かって。
あたしは無言で魁人と菅さんにそれぞれのベッドを指さした。すごすごと引き上げる2人。
腕から滴る血が包帯を濡らしてる。
点滴自分で取っちゃうとかほんと……とんでもないことしてくれるわね?


「事の重要性が解ってないようだから言っとくわね? まずは魁人」
「あ?」
「あ? じゃない! ちゃんと横になって! あなた、肺が片っぽ潰れてたのよ! あんなに血を吐いた人、久々に見たわ!」

113如月 魁人 ◆GM.MgBPyvE:2020/05/09(土) 06:18:56
「肺?」
「そうよ! ついでに言えば、肝臓も一部破裂してた。あなた、ヴァンプ化したお馬さんに蹴られたんですって?」
「へ? なんで知ってんの?」
「救急車両に同乗した拓斗って子に聞いたわ。思い切り踏みつけられて吐血したって。それを錠剤で抑えたってほんとなの?」
「まあな。いざって時に飲めって協会から支給(よこ)される薬があるんでね」
「止血剤と……痛み止めね?」
「ああ」

ツカツカっとハイヒールの音響かせて、俺のベット脇に立った女医。またドヤされるかと構えた俺。
女医の白い手がスッと伸びてきて、俺の手首を持ち上げた。
その仕草があんまり優しかったんで、思わず女医の顔見上げたぜ。
で呆気に取られちまった。あんまり真剣な顔してんだもんよ。

「そのハンター協会も曲者ね。あなたの血液からモルヒネに似た成分が検出されたわ」

いつもの女医の声じゃねぇ。か細いかつ震えてやがる。
細くてきれいな眉毛振るわして……ひっくり返した手の平じっくり眺めてから、俺の眼を正面から覗き込んだ。

「顔が赤いわ。脈も速いし、黄疸も出てる。無理はダメ。あなたはディスポ(使い捨て)じゃない、血の通った人間なんだから」

なにこれ。この人、すっげぇ綺麗じゃん。このドキドキも十中八九あんたのせいだよ。
俺は掛布団を肩まで引っ張りあげながら、くるっと結弦へ向き直った女医を眼で追った。
奴の脈も診るつもりなんだろ、手を取って、仰向けの結弦に覆いかぶさるようにしてかがみこむ。
おいおい結弦の奴、何処に眼ぇ向けていいか困ってら。
先生よぉ……どんだけ自慢か知んねぇけど、その胸の谷間、隠した方が互いの為だと思うぜぇ?

「結弦君? あなたは田中さんに血を吸わせたわね?」
「え? どうして……って、そうか。秋桜(コスモス)に聞いたんですね?」
「そうよ!」

得意げに肯定したのは女医じゃねぇ、どっかから入って来た女のガキだ。
小生意気な顔して頷いてぶんぶん首を縦に振るこいつぁ……誰だ?
俺の視線感じたんだろ、やおらガキが振り返ったかと思ったら俺の向かってベー! っと舌出しやがった。

「あ!?」
「よしなさい秋桜!」

意外にも窘めたのは結弦。

「見た目はチャラいかもだけど、一応凄腕のハンターなんだよ? お父さんの大事な友人でもある」

チャラい? 一応? んでもって……お父さん? お父さんって……結弦のこと?

「ああーーー!! まさかこいつ、あん時のガキぃ!? 何でまたちっこくなってんだ!?」
「ガキじゃない! 秋桜(コスモス)よ! 父さまあたし、こういう口が悪くて失礼な人大っ嫌い!」
「んな……な……」

プチッと米神の辺りで音がした。ここいらで何かが切れたに違いねぇ。
っつっても……俺もハタチを過ぎた大人の男だ。しょんべん臭ぇガキの台詞を真に受けたりしねぇよ、馬鹿!
俺とガキとが戯れてんのをよそに、喜々として結弦への説教を再開する女医。俺ぁガキのお守(も)りか?

「どういうつもり? いくらワクチン打ってても、新たな感染を防ぐ保証は何処にもないのよ?」
「そうなんですか?」
「そりゃそうよ。獲得した抗体量を上回る量の感染源が侵入したら、再感染の可能性は十分にあるわ」
「……すみません」
「解ればいいのよ。でももし異変を感じたらすぐに報告して?」

いちいち頷いて顔赤くする結弦。
なるほどこりゃあ……魔物だぜ。患者の男どもがイカれるわけだ。

114菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/05/09(土) 06:42:11
少女が如月の手を撥ねつけたり、悪態をついたりする様を眺めるうち、
ふとベランダの手すりを白ネズミが一匹駆け登るのが目に映る。よくよく見れば、目が紅い。
アル(アルジャーノン)? ……いや、アルはあの時柏木に――

何とはなしに首筋に手を添える。柏木の乱杭歯が突き立てられたその場所は……まだ沁みるような痛みを伴っている。
「好いている」と彼は言った。このわたしの事を……とても……好きだと。
あのひた向きな眼。抱き寄せる熱い腕。
下僕が主(あるじ)に持つだろう「敬愛」や「思慕」とは違う……「情欲」の類だ。
それを知った上でそれを許した。いや、喜々として受け入れたと言ってもいい。
わたしは彼の――島民の仇である父の息子。
それを忘れ、わたしの強引な誘いを受け入れ……その身、その過去すべてを捨て働いてくれた柏木。
だから応じたのはそんな彼へのせめてもの報いであって、決して彼と同じ好意を抱いた訳じゃない。
それなのに、今だ「それ」を思い出す度に……身体が火照るのは何故だろう。
彼に折られた右肩も……ずきずきと疼く痛みが苦痛じゃない。むしろ……恍惚。
いったいわたしはどうしてしまったのか。
わからない……まるで……操でも奪われた気分だ。

如月と少女はまだじゃれあっている。仕舞いにはあっち剥いてホイ的が遊びをやり出した。

「お次はハムくん、あなたの番よ?」

ドクンと心臓が高鳴って我に返る。気づけば朝香がすぐ傍に立ってたのさ。

「助かってくれて本当に良かったわ。柏木さんのおかげね?」
「……なにそれ。まるで柏木のお陰でわたしが助かった、みたいな言い方するね」
「えぇ、まさにその通りだもの。柏木さんが血を吸ったのは死なせる為じゃない、生かす為だったんだから」
「……どうしてだい? 彼はヴァンパイアの撲滅を願ってた。わたしを生かせばそれに反する事になるんじゃないかな」
「……んー……どう説明したらいいかしら……」

顎に手を当て、しばらく首を傾げていた朝香が、二ッと笑った。
両手を伸ばし、そっとわたしをベッドに寝かせた彼女は、あろうことかその唇をわたしのそれに押し当てたのさ。
流石に驚いたね!
キス、なんて行為は初めてだったからさ!
いやいや、さっきだってしてないよ。ヴァンパイアは基本、キスなんかしないのさ。
鋭い牙が邪魔って事もあるけど、そういう行為自体にムラムラなんかしないんだ。しかも人前でどういうつもりなのさ!

如月が麻生の娘にあわてて目隠しをする様子が眼に入る。
わたしの方はまあ……思ってたより「いい」って言うか……拒否する理由もないしで……眼を閉じてそれに応じる形になった。
しばらく時計の秒針の音だけが耳に届く。そっと……彼女が唇を離す。

「どうだった?」
「……どうって?」
「良かったでしょ」

そういえば……と口元に手をやり、ふと牙が……犬歯の先が尖っていない事に気が付いた。
まさかわたしは……

「そう。そのまさかよ。ハムくんはもうヴァンパイアじゃない」

そう言って彼女が胸元から取り出して見せたのは黒く変色した未使用のパラベラム弾。

「それは?」
「柏木さんがハムくんの心臓から抜き取ったものよ。気づかなかった?」

言われてみればと意識をそこに向ける。確かに……軽い。冷たく重い、あの存在を感じない。
この治癒していない右肩も、人間であるからこそだ。
喉の渇きも……いつもと違う。ひどく欲していたあの時は……我が身を呪ったものだ。血を求めて闇夜の中を彷徨う自分を。
だが今は……求める対象が血ではないとはっきり解る。限りなく清涼な……
「そうだ水……水が欲しい」

115麻生 結弦 ◆GM.MgBPyvE:2020/05/10(日) 06:04:26

ふたたび喉の渇きを訴え始めた菅さん。
そうそう、もとはと言えば誰がジュース買って来るかで揉めたのが発端でした。
朝香先生ってば、わざわざ菅さんの耳元に口を近づけて……

「もう少し待って? 点滴の量を増やしてあげるから」

なんて囁きながら菅さんの腕に針を刺したりしています。さっきのキスと言い……随分と……見せつけてくれますね。

「ごめん。この……胃の辺りもすごく変なんだよ、ときどき締め付けられる感じが。痛くはないんだけど……」
「それが『空腹感』よ。人間の証拠なの」
「本当にわたしは……人間に? 肉も野菜も……食べられる?」
「……そうね。様子を見て……重湯から試してみましょうね?」

あの菅さんが、子供みたいな無邪気な顔して……大人しく彼女の言う事を訊いています。
先生は本当に……不思議な人だ。
だから先生、僕は菅さんの事よりも、先生の方がよっぽど気になるんです。いったいどうして先生は――生き返ったんですか?

「菅が人間だってコトはよ〜く解ったぜ。司令がそいつの心臓から弾を抜いたから……なのか?」
「いいえ。それとこれとは話がべつよ?」

今度は魁人に向き直った先生、彼の腕にも点滴をセットしている。
あの魁人が……鼻の下を伸ばしてる。
女には興味が無い、なんていっつも僕の話をまともに聞いてくれなかったあの魁人が。

「別って……じゃあどうして菅さん、人間になっちゃったんです?」

話しかけずに居られなかった。菅さんの事なんかどうでもいいけど、でも……僕だって先生とキスした仲じゃないですか。
僕は先生に取っては患者の一人。
あのキスだって……僕の自殺を止めるための麻酔替わり。えぇ、良く解ってますよ。
でももう少し……僕に注意を向けてくれても良くありません?

「あら、生物学には興味が無い、なんて言ってた麻生君が……気になるのかしら?」

やっとこっちを向いてくれた先生。嬉しそうに僕の傍に駆け寄ってきた。
菅さんと魁人が怪訝な顔してこっちを見る。

「うふっ! あの時、麻生君の血を調べた事も、ヒントになったのよ? 聞きたい?」
「えぇ。是非」

先生はやっぱり先生だ。先生は心から好きなんだ。医者という仕事が。
……いわゆる……仕事バカという奴ですね。
朝の光を後光のように浴びて、腰に手を当てがってキラキラした先生は……本当に素敵です。

「結論から言うわ。大元は血なのよ。あの特殊な血液が、ヴァンプをヴァンプたらしめてた原因だったの!」

116名無しさん:2020/05/24(日) 10:55:57
ナ,ナンダッテー

117佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/05/30(土) 06:56:10
「……」「……」「……」

3人ともこっちを見たまま固まって。
ベランダの向こうから、スズメがピチピチ囀る声が聴こえて。
秋桜ちゃんが、魁人のベッド脇で、眼をこすりつつコクリコクリとやり出して。
――そういえば彼女、あたしと同じくらい眠ってなかったわ!
折りたたまれた掛布団を持ち上げて見せると、麻生君が彼女をそっと抱き上げながらあたしを見上げた。

「……血……ですか?」
「そう。あたしは初め、神経組織にあたりを付けてたの。狂犬病がそうだから。でも違った」

あたしはタブレットを取り出して、画像を表示させた。そう、あの時麗子が送ってくれた検体の写真のひとつ。
それを3人に良く見えるように翳して見せる。

「これは柏木さんの血液塗抹像――血液をスライドグラスに薄く塗りつけて、顕微鏡で見たものよ」

3人の眼が同時にタブレットに向いた。でもピンと来ないみたい。

「どう? 明らかに異常でしょ?」
「……って言われても、僕、そんなの初めて見ますし」
「俺も」
「わたしも」

……そう……なの? 今日日、調べようと思えばネットでいつでも閲覧できるのに?

「じゃあ見て。このピンク色で綺麗な丸い人達が赤血球。これが酸素を運ぶ人達だってのは知ってるわね?」

流石にこれにはみんなが頷く。あたしはニッコリ笑って見せる。

「この紫色に染まった核を持つのが白血球ね? その中でも核が丸いのがリンパ球。くにゃっとしたくびれた核を持つのが好中球」
「細かい説明はいいぜ。とどのつまり、何処のどの辺が変なんだ?」

魁人が少し辛そうに息をついて。
……いっけない、あたしったらつい。

「ごめんなさい。つまりは多いのよ。柏木さんの血は、この白血球の数が多すぎるの。赤血球の数を上回るとか、普通じゃ有り得ないわ」
「それって……白血病って奴じゃね?」

あたし、ちょっと驚いて魁人を見た。だって……この中では一番こういう事に疎いって言うか? 興味なさそうな感じだったし?

「んな顔すんなって。あれだ。俺の爺ちゃんが白血病だったわけだ」
「え?」
「身よりは俺だけだから、説明とか色々受けた訳よ。癌になっちまった白血球がすっげぇ増えるんだろ?」
「……そうね。白血病、正確には悪性リンパ腫。腫瘍化して増殖したTリンパ、或いはBリンパが末梢血に多数確認される疾患ね」
「そういやぁ医者がそんな言葉も使ってたぜ」
「……それで、お爺様は?」
「死んだぜ。中学出てすぐにな。俺が上京する後押しに……なんて、俺の話はいんだよ! 司令はその『悪性何とか』だったのか?」

何故か急に赤くなって、枕に乗せてた頭を横に向けた魁人。
あたしはなかなか次の言葉を紡ぐことが出来なくて……だって……あたしもそうだったから。
あたしの身よりもお祖母ちゃんだけで、そのお祖母ちゃんの病名を知らされたのは中学の時で。
勉強したわ。白血病の原因にも色々あって、レトロウイルスもそのひとつだとか、骨髄移植のドナーの事とか。
結局は彼女の体力が持たなくて、あたし、ヴァンパイアに噛まれれば不老不死になれるって聞いて……
街を夜通し探し回ったって……そして病院から連絡が来て――

ベランダ越しに見える陽の光に眼を向けると、赤かった太陽はすっかり色が抜け落ちていた。
木の枝葉越しに入り込む光の帯が、白い床のタイルをキラキラと照らしてる。
あたし、ハムくんに「朝香?」って呼ばれるまで、その光を追ってたみたい。

118佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/05/31(日) 14:56:39
「もしかして……泣いてる?」
「御免なさい、何でもないわ」

あたしは慌てて背中を向けた。やだ……医者がこんなとこでこんな顔見せちゃダメじゃない。

「柏木さんは白血病だった訳じゃない。物凄〜く多いには多いけど、でも腫瘍化なんてしてなかった。すべて正常リンパだった」
「良く解りません。ヴァンパイアの大元は血液だって……先生は仰いましたよね?」
「そうよ。だからあたしは血清を調べたの」
「血清?」
「つまり赤血球や白血球、血小板なんかの血球成分を除いた液体部分ね。そこに居たのよ、問題のウイルスが」
「ウイルス? そういえば以前、ヴァンパイアはウイルスによる伝染病だと仰っていましたね?」
「そうよ! ラブドウイルス科、リッサウイルス属に属する狂犬病ウイルスにそっくりな配列のゲノムが検出されたの!」

コツコツと響く足音はあたしの履くヒールの音。
足に感じる振動は、忙しなく歩き回るあたし自身の歩行のせい。
ドキドキが止まらない。
身体だけじゃない。頭の中で、沢山の何かが凄い速さで動いてる。

「ここからは少し専門的なお話になっちゃうけど、でもちゃんと聞いて欲しいの。
 ヴァンパイアの病態は、その取り扱いや社会的な位置付けをする上でとっても大事だから……だから……落ち着いて――」

「大丈夫? 落ち着くべきは君の方だと思うけど?」

ハムくんに言われてあたしはやっと……肺に溜まった空気を追い出した。
はぁ……苦しかった。あたし、興奮するとつい……息を吐くの忘れちゃって、肺がパンパンに膨れちゃうのよね。

「ありがと。断わっておくけど、今から話す事はほとんどがあたしの推論(仮説)。ちゃんとした「説」に至るためには、
 科学的手法による実験――検証が必要よ。でもあながち見当外れでも無いと思うの。何故ヴァンパイアが歳を取らないのか、
 病気や老いに縁が無いのか、呼吸をしなくても凄い力が出せるのか、そのすべてに納得が行くのよ。ここまではいいかしら?」

そう言いつつ、振り向いてみたら……すっごく真面目な顔した約3名がシンクロして頷いて。
ごくっとツバを飲み込む音まで聞こえて。
あたし、噴き出しそうになるのを何とか堪えながら……ゆっくりと足を踏み出した。

「まずは……そうね。当事者になったつもりで聞いて?」
「当事者って、ヴァンプ患者の事ですか?」
「いいえ。ウイルスの方」
「……あはは……まさかのウイルス視点ですか?」
「そうよ。疑似体験を伴った方が頭に入るし、だいたい楽しいでしょ?」

再び沈黙した3人。でもめいめいに納得したみたい。
あたしも頷いて、魁人のベッドの端っこに腰を降ろした。眼を閉じて……あたし自身も黙想する。

そう……あたしは……ウイルス。(そこ! 笑っちゃダメ! あたしは大真面目なんだからっ!)

外見はハンドガンの弾丸に似た形。
通常多面体の殻を持つウイルスの中では、独特と言える恰好よね?
……なんだろう。
水の流れを感じるわ。
海底の魚の群れに混じって泳いでる気分。
不思議。
あたし、自分で自分をトランス状態にしちゃったのかしら?

ここは何処?
あたしは誰?
あたしは……lamia(ラミア)。
lamia(ラミア)virus(ウイルス)。
え……?
ラミア……って確か……ラテン語で……ヴァンパイア。

119佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/06/06(土) 07:27:33
ここは体内。
新たな宿主の体内。
と言ってもまだ浅い。傷ついた皮膚の表層に潜り込んだばかり。
あたし、いいえ、「あたし達」はゆっくりと歩を進める。
歩と言っても足がある訳じゃないから……流れに身を任せて何となく行きたい方向に意識を向けるだけ。

あちらこちらに触手のような枝が伸びている。
ヒタヒタと探るようなその動き。躱しながらその大元を辿れば……あった。あれが樹状細胞(dendritic cell)ね?
樹状細胞は外界と接する粘膜面や皮膚に配置された哨戒兵。敵を見つけて殺すのが役目。
身体が透けて、中の核とか小器官がバッチリ見えてる。
綺麗……。透明な触手が無数に伸びて、フワフワしてる。水族館で見るクラゲみたい。
なんて見惚れていたら……触手に身体が触れちゃった! どうしよう!

大勢の「あたし」が「あたし」を見る。
あたしは青くなった。捕まったら終わりだもの。
そうよ、あたしが食べられるだけじゃ済まない。樹状細胞は死んだあたしの身体をバラバラにしたうえで「とある場所」へと運ぶの。
とある場所とはすなわち、最寄りのリンパ節のこと。
「詰所」みたいな場所ね?
武器職人(Bリンパ)や訓練兵(ナイーブTリンパ)、彼等を補助するヘルパー(ヘルパーTリンパ)達の待機場所。
樹状細胞は彼等にあたしの身体の構造を詳しく教えるの。
あたし達の弱点は何か、殺すにはどうしたら効率的か。どんな武器が有効かって。

そしたら……どうなるって?
殺戮部隊が編成されちゃうのよ!
只の訓練兵だったTリンパは、あたし達の天敵(キラーTリンパ球)に変化する。
Bリンパはあたし達を確実に殺せる武器(特異抗体)を大量に生産する。
だから……捕獲されたら終わり。せっかく侵入出来たのに……ほんと、残念。

あたしは樹状細胞の本体を見上げた。静かに揺蕩う……あたしより何十倍、いや何百倍も大きい巨大なcell(セル)。
どうしてかしら。
こんな時って時にあたし……そのcellが柏木さんに見えたの。
なまじ、あたしにその手の知識があったからかしら?
それが……高等生物だけが持つ複雑な免疫システムにおける……有能な司令塔だってことを知ってたから。
柏木さんもそうだった。
いつも現場に出て、自ら情報を集めたり敵を撃退したり。麻生君や魁人を鍛えてハンターに仕上げたり。
そんな柏木さんとその有り様が似ていたから。

『行って下さい。あの場へ』
『あの場って……あそこ?』
『えぇ。あの御方が待っておられます』

あたし、その「柏木さん」と自然に会話してた。
ふわり……と彼の触手があたし達の身体を優しく包み込む。

『どうして? どうしてあたしを食べないの?』
『……食べる?』

ゆっくりと前に進みながら、「ふふっ」と彼が笑った気がした。そんなとこも柏木さんそっくり。

大きく破損した巨大な管が見えてくる。
さらに近づいて見れば、それはトンネル。中から沢山溢れ出てくるピンク色の……そっか、あれは血管ね? 
ピンク色のは赤血球。もちろんあたし達より遥かに大きい。
決壊したそれを堰き止めようと、ぞろぞろ集まってるあれは血小板ね?
結構なスピードで穴が塞がれていく。

――あ!
何か騒ぎが起こってる!
赤血球より二回りも大きい透明な何かと、それよりも小さい(あたしよりは数段大きい)楕円形の何かが戦ってる!

120佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/06/07(日) 07:23:09
何あれ! もしかして好中球とバクテリアとの闘い!?
頭では知ってたけど、こんな間近で見る事が出来るなんて!

イヤイヤしながら遠ざかるバクテリアに、ゆっくりと形を変えつつ覆いかぶさる好中球。
飲み込まれて、暴れていたバクテリアが徐々にバラバラにされていく。
好中球の方も只では済まない。動きを止め……自らも崩壊を始める。バクテリアの毒にやられて死んじゃった?
積み重なっていく彼等の死体。たしかそれをお掃除するのが……来たわ! 来た来た! 
思わず身がすくむ。大食細胞――マクロファージがぞくぞくと集まって来たから。

マクロファージはその二つ名の通り、何でも食べちゃう悪食cell。
それこそ死んだ仲間のcellからあたしみたいな小っちゃいウイルスまで、対象は広い。獰猛で動きも早い。
ほらね? すっごい処理能力! まさに免疫界の掃除屋(スイーパー)ね!?

瞬く間にあたし達も取り囲まれちゃった。
庇うようにしてじっと立つ柏木さん(樹状cell)に睨みを効かせる山のような体格のcell達。
柏木さんも体格じゃ負けてないけど……でもたった一人じゃ……どうしようも無いんじゃない?

「仕方がありません。これに乗って行って下さい」

――え? って思って彼を見上げると、その眼が破綻した血管の隙間を見てる。
なるほど、乗るって……血流に乗れってことね? 血の流れは速い。全身を巡るのに1分もかからないもの。

「あたし達だけじゃ心細いわ。貴方も一緒に来てくれる?」

ダメもとで頼んでみたら、またまた柏木さん、素敵な声でフフッと笑って。
あたし達を抱えたまま、トンネルの中に意外な素早さで飛び込んだ。飛び掛かろうと動いたマクロファージが踏鞴を踏む。
さっすが! やろうと思えばやれるのね!

流れに乗るあたし達。一緒に流れる巨大な……赤い細胞の群れ。
……音楽が聴こえる。とっても綺麗な……ピアノの旋律。優しくて、でもとってももの悲しい。
まるで今まで歩んできた人生をひとつひとつ噛みしめてる……そんな曲。……どこから? 麻生君が……弾いてたり?

「シューベルトの即興曲。作品90の3」

訪ねてもいない質問に答えてくれた柏木さん。あたしが考えてること、どうして解るのかしら?

「あの御方が愛した作曲家です。いつも聴いておられました。今思えば……あの時も」

あたしから眼を逸らしたまま、遠くを見る柏木さん。
あたし、音楽には詳しくないから、シューベルトとか、作品ナンバーとか言われてもピンと来なくて。
でもさっきから口にしてる「あの御方」って……菅さんの事よね?
ハッとした顔であたしを見下ろした柏木さん。

「司令。そいつら……?」

突然横合いから声を掛けられた。
見れば……いつの間に居たのかしら! もじゃもじゃっと短めの触手を生やした白い球が柏木さんの腕にくっついてる。
大きさは赤血球よりちょっとだけ大きい。つまりは柏木さんよりも一回り小さい。
電顕写真で良く眼にする恰好。Tリンパくんね?
うふふ……なんか可笑しい。柏木さんの事、「司令」だって。態度もまんま、魁人じゃない?

「あの御方が『寛容』された方々だ。我々はこれより『聖域』に向かう」
「マジすか!? 俺も一緒にいいすか!?」
「……君は……あの現場に行き給え。ヘルパーが足りてない」

言われてしぶしぶ手を離す魁人。
あたし、吹き出しちゃった。その素直な反応も、いかにも魁人って感じだったから。

でも魁人がヘルパー(ヘルパーT)だなんて、意外。どっちかって言うと、攻撃系のキラーTってイメージだもの。

121佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/06/14(日) 05:33:08
走り去る魁人を見送って、しばらく進んで。
いつの間にかピアノの音が鳴りやんだ、そんな時。
ピタリと柏木さんが立ち止まった。

「着きました。この一帯が、貴方が目指すべき到達地点です」

あたし、ぐるりと辺りを見回した。ここは……まだ血管の中……よね?
そんなあたしを見た彼が、壁を眼で指した。

壁。血管壁。その表面には細かな凹凸が沢山。柏木さんの腕がその突起の一つを掴んでて。
あら?
突起の傍に腰かけてるのって……魁人?
……そうだった。「魁人」は一人じゃない。「柏木さん」もそう。

「この向こうが貴方の言う『聖域』ってこと?」
「えぇ。この向こう側にあの方がおられます」

あたしは軽く深呼吸してから……扉の前に立ってみたけど、でも何も起こらない。扉が開かなければ通れない。

「貴方は知っておいでです。鍵(キー)となる言葉を」

……言葉(キー)? 呪文(スペル)? ……ひらけゴマとか?

「A、C、A、U、G…………」

思い切って開けた口から、自然と出てきた4種のアルファベット。
あたしは紡ぐ。総数約12kbの塩基配列(シークエンス)を。
身体が次第に熱くなる。それが……あたし自身のゲノムコードだから?
魁人達が、ざわりとその短い触手を蠢かす。その身体からキラキラ光る分泌物(サイトカイン)が染み出して。
それを浴びた一部のゲートが……ゆっくりとその隙間を広げていく。
朧げにしか見えなかった向こう側の景色が見えてくる。
わあ……綺麗な星が……浮かんでる。あの形、神経細胞(ニューロン)に星状膠細胞(アストログリア)。見え隠れするミクログリア。
つまりは神経組織。聖域って……そういうこと?

「そうです。ここは大脳。思考、記憶、理解、判断……種々の随意運動の中枢。怒りや悦びなどの情動の中枢」

って事は……待って?
この壁、脳脊髄に存在する血管壁は……通常のそれとは全然違う!
文字通り「聖域」だもの、本当に必要な物資しか入れないように制限されてる、とっても厳重に管理された関門(バリアー)よ?
生物学の世界じゃあ、そのシステム名をわざわざ血液脳関門(Blood-brain barrier――BBB)、なんて呼ぶくらいなんだから!

無理無理! ぜったいに無理!! 
BBBの関門(トランスポーター)は、低分子(ブドウ糖くらいの?)、かつ決まったものしか通さない!
あたしみたいなウイルスなんか通してくれるわけがない! 
運よくその隙間から潜り込めても、すぐにポイっと追い出されちゃうわ?
そうで無くてもあのおっかないミクログリアさんに食べられちゃったり?

「おい、せっかく開けてやったのに、通んねぇの?」

魁人がため息ついてこっちを見てる。

「行って差し上げて下さい。あの方には貴方が必要です」
「大丈夫なの? ほんとに?」

あの素敵な笑みを返してくれた柏木さん。その言葉も表情も……あの時と同じ。議事堂にあたしを送り出したあの時と。
あたしは身体を屈めてゲートをくぐった。

「来たね?」

上下左右、ぐるりと満点の星が漂う……その真ん中に、腕を組んだ菅さんがポツンと一人、立っていた。

122佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/06/14(日) 06:59:27

「ようこそ朝香(ラミア)、わたしの城へ!」

組んでた腕を横に広げて、あたしを見下ろす菅さん。
いつもの真っ白なアンサンブルを素敵に着こなして。
……ちょっと。自分だけズルくない?
あたしはこんな風に手足も無い、お世辞にも綺麗なんて言えない恰好なのに!

「そんな事ないさ。君は君だろ? いつもみたいに呼んでよ、『ハムくん』って」
「……うそ」
「嘘?」
「レイビーズ。それが貴方の本当の名前」
「へぇ……知ってたんだ」

眼を閉じた彼。
その背後には、細い手を繋ぎ合う無数のニューロンやアストログリア。
あたし、ぞっとした。
彼等の「核」が紅かったから。
丸くて紅い核を持つ彼等が無数の「眼」に見えたから。
その眼(核)の周りをうねうね蠢く……どこか苦しげに這いずるあれは……ミトコンドリア? 
眼が離せない。
身体も動かない。
ここは星空なんかじゃない。深くて暗い……沼の底。
息苦しい。あたし、息なんてする必要ないのに?
ずるり、と這い出たあれは――
来たわね、ミクログリア。
ずるずると近づく貪食細胞(ミクログリア)は、やっぱり赤い眼をしてて。
その体内を、ミトコンドリアが明滅しながら泳いでるのが見えて。
逃げられないあたしにピタリと触れる細い触手。

「手を出すな。彼女のコードを読んだだろ?」

ビクリとその手を引っ込めるそれ。
いつの間にか、あたしの背後に「彼」が立ってて。その手がこの肩を優しく抱き寄せた。

身体が……溶けて無くなる。そんな感覚。
あたしは「彼」とひとつになる。
……当然よね?
あたしと彼は、もともと同じものだもの。

あたしの名はlamia
彼の名はRabies

でも同じもの。
そう遠くもない昔――およそ1,500年の時を経て、あたし達はそれぞれに進化した。

123佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/06/21(日) 05:26:52

記憶を辿る。
まだあたし自身も、Rabies(レイビーズ=狂犬病)virusと呼ばれていた頃の記憶。

思えば……落ち着いて暮らした事なんか無かったわ。
いつも行き先を探してた。
今いるここは仮初めの宿。じきに壊れちゃう。住めなくなる。そうなる前に――

――あ! あそこに立ってる……あれなんか、いいんじゃない?
――そうだね。若いし、とても健康そうだ。

そう。
あたし達は、いわゆる「脊椎動物」なら何でも良くて。
もちろんあの「ヒト科 ヒト属 ホモ・サピエンス」もその範疇。

宿主が牙をむく。
口から溢れる泡状の涎。
その白い泡の中で……じっと待つ。じんじんと冷たい風が吹き付けてくる。

「ギャン!!」

鋭い悲鳴が聞こえた時、あたしは暖かくて居心地のいい場所に居た。
「移動」に成功したみたい。
でも……まだよ。
近づく気配。
ここはまだまだ危険な区域。あたし達を取って喰おうと……集まってくるあれは――

――こっちだ!

彼に手を引かれて来てみれば、すごい! こんな近くにあるなんて!
傷ついた神経の軸索が剥き出しになっていた。
脳から真っすぐに伸びてくる――つまり、直通で脳へと通じる、白くて細くて長いトンネル。

――ありがと! ここに乗っちゃえば、もう安心ね?

でも彼ったら、踏み出した歩みを不意に引っ込めて。

――どうしたの? 行かないの?
――決めたよ、わたしは別の道を行く。
――別の道?
――そうだ。新たな命を宿す場所――「卵巣」を目指す。
――卵巣!?
――このままじゃあ……ただの繰り返しだ。宿主を探しては壊し、また探しては――
――それの何がいけないって言うの? いいじゃない! いつも通り、この道を行きましょ?
――この道は時間がかかりすぎる。早くても一週間。遅くて1年か、2年。
――いつもの事じゃない! 時間はかかるけど、でも確実よ? ここにはあたし達の歩みを邪魔する者が居ないわ!

そう。
この神経細胞の通路を行く限り、宿主の免疫システムはあたし達を捕捉しない。
(「気づかない」のか、「出来ない」のかは知らないけど……)
あの最大の難関――BBBを突破せずに、脳組織へと侵入出来る迂回路。
それをあっさり捨てるなんてどうかしてる。

――ついて来いなんて言わない。むしろいつもの道を行ってくれ。二手に分かれないと意味がない。
――どういう事?
――わたしは宿主の免疫機構を……いや、宿主そのものを変えて見せる。
――そんな……どうやって?
――ヒトゲノムを組み替えるのさ。自分のゲノムを使ってね。卵巣内の……生殖細胞をすべて……新たな「種」のゲノムに置き換える。

124佐井 朝香 ◆GM.MgBPyvE:2020/06/21(日) 05:55:00
流石にあたし、呆気に取られちゃった。

――ちょっと……発想が大胆過ぎない?
――やってやれない事はないさ。彼等も普通にやってる。
――彼等って……HIV(ヒト免疫不全ウイルス=ヒトのAIDSを発症させるウイルス)のこと?
――うん。彼等は自分のRNAからDNAを作って、TリンパのDNAに組み込むだろ?
――生殖細胞はTリンパとは訳が違うわ! 血液中にうじゃうじゃ居るわけじゃないし、侵入する為の鍵も持ってないし――
――あははは! 君にしては弱気だね! 考えても見てよ? 彼等だって……最初からそんなの、持ってなかったと思うよ?
――……仮に侵入出来たとして、ゲノムの転写はどうするの? あたし達、その為の道具(酵素)を持ってない。
――言ったろ? 彼等も当初はそうだったって。ていうかさ、彼等も「わたし達」なんだよ?

あたし一瞬、その意味が解らなくて。

――どうしたのさ。ポカンとして。
――その……彼等もあたし達って、どういう?
――だから、遠い昔は同じウイルスだったって話さ。「このままじゃダメだ」と決意した誰かが変異して、別の種に変わった。
――変異って……決意してするものなの? うっかりじゃなくて?
――さあね。
――さあね……って……
――兎にも角にも行動さ。やろうと思えば何だって出来る。そんな気がする。
――でも……危険を冒してまで試すメリットがあるかしら?
――「ヒト」を甘く見ない方がいい。この霊長類は得体が知れない。さっきから……ざわめく何かを感じない?

耳を澄ます。

――確かに……沢山の声が聴こえるわ。細胞たちの……その中で蠢く小器官(オルガネラ)が囁いてる。
――それもあるけど……もっと大きい。強い「意志」を感じさせる「何か」だ。わたし自身の決意と同じものさ。
――何が言いたいの?
――侮れないって事。いつか必ず弱点をつかれる気がしてならない。だから――


そう云って彼は姿を消して。
それから何年が経ったかしら。
100年? それとも1000年?
音沙汰のないまま、あたしはすっかり彼の存在すら忘れてて。

ある日、彼の読みが当たったの。
18世紀の末に、エドワード・ジェンナーが天然痘の予防液を発見した。
健康な人間に、牛痘(天然痘よりも症状が軽い)のウイルスを植え付けて、あらかじめ天然痘の免疫を強化するという方法ね。
当時、猛威を振るってた天然痘のウイルスは、このせいであっさり絶滅しちゃったのよ。
衝撃だったわ。そんなのあり? って感じ。
もちろん他人事じゃなかった。
そのアイデアを基に、パスツールが狂犬病を予防するワクチンを開発したのが約100年後。

ただあたし達は、天然痘のように滅びはしなかった。
どうしてって云われたら……対象が広すぎたから?
そりゃあ……すべての哺乳類、鳥類にワクチンを打つなんて、無理に決まってるわよね?
でも脅威は脅威。特効薬には違いないもの!

あの迂回路を登るのにかかる時間。発症するまで平均数か月もかかる……その時間差が仇となった。
その間にそのワクチンを打たれたあたし達は、いとも簡単に撃退されてしまった。
感染しても、発症しないんじゃ意味がないわ。
とくにこの国。
海に囲まれた島国だった事が災いした。
BBBと同じね? ヒトや動物の出入りを厳重にチェックするシステムが徹底してて。
例え入り込まれたとしても、その数は少なくて、すぐに各個撃破してしまう。
なら数を増やせって話になるんだけど、でもそれが難しい。
居ないのよ。手っ取り早く感染出来て、手っ取り早く他へと移す、そんな媒体――野犬がほとんど居ない!

そんな時、ふと思った。そういえば「彼」は……今頃どうしてるかしら?

125菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/06/28(日) 06:40:33

――あれが……卵細胞の核。

ようやく辿り着いた卵巣内。
たった今「減数分裂」を終え、丸くまとまった「それ」が、静かにこちらを見降ろしている。
所々にクレーターのような穴が穿たれた……巨大な黒い球体。まるで地球に落下しようとする月だ。
その月が、無数に張り巡らさた蜘蛛の巣のような綱(細胞骨格)に支えられているのか、落ちる事なく宙に浮いている。
その神秘さと云ったら……どう表現したらいいだろう。神経細胞の核とは一味も二味も違う。
これからひとつの個体となるべく、いずれ訪問するもう半数の「片割れ」を待つ卵細胞は……気高く……そして美しい。

ヒトの核は、およそ30億塩基対のヌクレオチドで構成されていると聞く。
バイト数にして3TB(テラバイト)。その半数とは言え……恐るべき情報量には違いない。
対して自分はただの12KB(キロバイト)。なんて差だ。まさに――月とスッポン。

だがぼんやりと佇んでばかりも居られない。
ピアノ線にも似た骨格(フィラメント)を頼りに、足を踏み出したその時だ。

≪……どなたですか……?≫

それがこのわたしに対する問いだと、すぐには解らなかった。
ひとりじゃない、大勢の「声」だ。
あらためて……様々な形状のオルガネラ達がひしめき合う基質内を見渡した。
……すごい。今の今まで、その存在に眼が止まらなかったのは、その数が多すぎたからか。
数百は居るだろう。フィラメントに沿ってゆるゆると泳ぐ……手足の無い虫にも似たオルガネラ――ミトコンドリア。
彼等がすべてわたしを見てるのさ。なるほど、彼等自身もDNAを保有している。物申す「意志体」であってもおかしくない。

「わたしの名はRabiesという。君たちとの『共存』を望むものさ」

≪れいびーず……? ……共存……?≫ ≪あのRabiesが?≫

眉を顰めてひそひそと何事かを言い合っていた彼らは、1人、また1人とフィラメントを爪弾き始めた。
ピアノに似た音が和音となり、やがてちゃんとした旋律を奏でる合奏となり――
驚いた。これは……メサイヤだ。神を讃えるオラトリオ。
しかも何百もの音が奏でる和音の壮大さと言ったら、身体の芯が粉々になってしまいそうなのさ。
こうなると、弾き手があの麻生に見えてくるから不思議さ。

「……Rabies……ほんとに貴方は……Rabiesですの?」

細い弦の震えるような、しかし一種神々しいとも言える声がした。
今度は真上だ。
あの巨大な「核」が、しゃべっている。

「姿形は確かに。でも……何者ですの? わたくしの知るRabiesとは全然違いますわ」

ふわり、と核が女性の姿となって舞い降りた。そんな風に見えた。
純白のドレスを纏った桜子の姿でね。
(そういう趣向かな? って事は、このわたしも、そういう風に見えてるのかも知れないね!)

「貴方は本来、こんな風に話しかけて来るような方じゃありませんわ。いつも黙って侵入し、むりやりに脳を侵し……殺す」
「わたしに限らず、大概のウイルス達はそうさ。……と言うか、生物の世界は弱肉強食だ。そっちこそが普通じゃないかな」
「貴方は違うとおっしゃるの?」
「力ずくの侵略ばかりじゃ先がないと思ってね。彼等もそうだろ? 20億年も前に共存を思いついた方々だ」

わたしの言う「彼等」が自分達のことを言ってると気付いたんだろう。
麻生達が動かしていた手を止めた。
オラトリオの旋律が止み……しかし場内を震わす音の余韻は残ったまま。

「つまり彼等同様、オルガネラとして生きたいと……そういうお考えですの?」
「あはは! オルガネラはいわば君の奴隷じゃないか! そんなのまっぴら御免だね!」

126名無しさん:2020/06/29(月) 21:19:13
ちゃんて完結して終えてくれ

127菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/07/02(木) 06:24:22
一呼吸の間を置いて、場は大変な騒ぎになった。
当然だよね。そんな言い方されて気持ちがいい筈が無い。

彼等はもともと独立した生き物だ。
それがある日、より大きな生き物の体内に侵入(或いは飲み込まれ)、そのまま居座る事になった。
片やATPの大量供給、片や住まいの提供という、利害の一致を見出したからだ。ただ、引っかかるのは――

わたしを睨みつけていた桜子が、彼等へとその眼を向ける。
一瞬で静まり返る場内。
……ほらね? こういう所が気に入らないのさ。

「彼等を悪く言うことは許しませんわ。恩恵を被っているのはわたくしの方ですもの」
「そうかい? 確かに、彼等がせっせと拵(こしら)えるATPがなければ、君は生命維持すら不可能だ。けどね?」
「……けど?」
「所詮は一方的な主従の関係さ。彼等の増殖を制限しているのは君なんだろ?」

彼等ミトコンドリアは、持っていたDNAのほとんどを核に取り上げられてしまっている。自分自身を構成する設計図を含めてね。
だから、自分自身の繁殖行為――分裂のタイミングすら、自分で決める事が出来ない。
自分の意志で繁殖出来ない。
こんなの……生き物って言えるかい?

「それがいけない事かしら? 場所によっては、多すぎても少なすぎてもダメな時がある。勝手に増えられても困るのよ」
「責める気はないよ。彼等はそれで満足してるみたいだしね」
「つまり……こういう事? 共存したいけど、あくまで対等でありたいと?」
「うん。実はそうなんだ」 

とたん、甲高い笑い声を上げる桜子。
それに合わせるようにして身をくねらせる麻生達。

「そんなに笑わなくてもいいだろ」
「だって、こんなに可笑しい事はありませんもの!」
「可笑しい?」
「貴方はご自分の立場を解っていませんわ! そんな風に持ち掛けられて、いったい誰が了承すると言うの!?」
「承諾するさ。わたしが手ぶらでここに来たと思うかい?」

その場にいる誰もが息を呑む気配。
彼女すらその華の顔(かんばせ)を強張らせ、唇を震わせている。

「……随分な……自信ね」
「まあね。聞けば、君はむしろ是非にと頭を下げるだろうね!」
「なら是非にも教えていただきたいわ。いったいどんな……手土産を用意してらっしゃるの?」
「アイディアさ」

トントン、と人差し指で自分の額を小突いて見せる。

「……アイディア?」
「そう。この中に、このまま行けば滅んでしまう人類を救うための案が沢山詰まってる」
「人類が……滅ぶですって!? 」

128菅 公隆 ◆GM.MgBPyvE:2020/07/05(日) 06:37:30
「そうなったら君も困るだろ?」

見る間にその顔を曇らせた桜子が、大輪の花か、シダの一種にも似たオルガネラの畝(うね)に腰を降ろす。
麻生達はそんな桜子を見下ろし、フィラメントにかけた指先を凍り付かせたまま。

「もちろん困りますわ! この種(しゅ)はとても……都合のいい『容れ物』ですもの!」
「容れ物……ね」
「えぇ。35億年前からずっと……わたくし達を運び、共に歩んで来た『容器』ですわ。じき……生き物の頂点に立ちましてよ?」
「知恵が回るからかい?」
「そうですわ。犬を従え、虎や象を檻に囲う。ヒトの知恵の前には鋭い牙も並外れた腕力も役には立ちませんわ」
「同感だ。ヒトはいずれ……この地上を統べる種となるだろう」
「その人類が……何故滅ぶなどと仰るの?」
「……だって……人間だけだろ? いとも簡単に『殺し合い』をやってのける種は他にはない。いつだってやり過ぎる。
 いつかこの地上すべてを灰にする手段を考えつく気がするんだよ。
 無論、君臨した種がいつまでも栄える事は無いっていう……自然の摂理的な理由もあるけどね」

優雅な仕草で桜子が腰を上げた。腰かけていたオルガネラがユラリと弾む。

「貴方には、それを止める手立てがあるとおっしゃるの?」
「あるさ。まずはわたし自身、君の中に侵入する。未使用の塩基配列や、ミトコンドリアDNAの配列を組み替えるんだ」
「組み換えですって!? 何のために!?」
「ヒトを進化させるためさ。とりあえずは『独立栄養生物』にでもなってみようか。少なくとも食料問題は解決する」
「そんな事が簡単に出来るとは思えませんわ」
「君も手伝ってくれれば……出来るさ。必ずね。長い寿命や高い身体能力についても付与しよう。どう?」

優美な顎に拳を当て、考え込む素振りをする桜子。

「本当ならとても……とてもいいお話ですわ。ただ貴方にメリットはあるのかしら? その殻(外観)を捨てる事は、Rabiesという種が消えてしまう事になりませんの?」
「ならないね。『わたし』はいつだって『わたし自身』を記憶してる」
「記憶?」
「たとえ姿形が変わろうと、わたしは『わたし』って事さ」
「それがあなたの仰る『新たな人類』ですの?」
「まだまだ。改変しても発現はしていない。見た目も能力も今まで通り。そんな人間が数を増やしていくのさ。
 100年、200年の月日をかけてね。そうしているうちに、濃い、薄いの差が必ず出てくる。
 限りなく濃度の濃い――純血も生まれる筈さ。それこそが最初の1人。仮にそれを『真祖』と呼ぼうか」

誰も口を挟まない。集中する視線が痛い。
なんて思って自分の身体を見てみれば……そうか。皮膚――外殻が崩壊を始めている。でも……まだだ。

「彼は記憶の中の「Rabies Virus」を生み出す能力を持っている。いや、厳密には少し変異してるだろうから――
 Lamia(ラミア) Virus、とでも名付けようか。このLamiaこそが進化を促す鍵(トリガー)なのさ。
 増殖し、血液中に充満したLamiaは身体のあらゆる部位に干渉する。
 細胞骨格、神経系の反応速度、体細胞分裂機構に、免疫機構。極めつけはミトコンドリアのATP産生能。
 結果、誕生するのがさっき言った理想的な人類――いわば理想種だね。
 当然Lamiaはウイルスだから、Rabiesと同様、血液を介して人から人へと感染する。理想種への転換の幕開けさ」

ひどい眩暈を覚えたわたしはその場にへたり込んでしまった。
……流石に無理がたたったか。所詮は一介のウイルスだ。ゆるゆるとこちらに移動を始めるあの水風船は……リソソーム。
毒やゴミを体内に取り込み消化する解毒役のオルガネラだ。
だが手出しは無用だと言いたげに手を翳した桜子が、その手をこちらの方に差し出した。

「いいわ。貴方を受け入れてみますわ。その代わり……裏切りは許さなくてよ?」
「裏切り?」
「えぇ。あくまで『対等』が条件ですもの。取り込まれた貴方が、あべこべに優勢となる行為は決して許しませんわ。よろしくて?」
「よく……覚えておくよ」

握り返した自分の手が……桜子のそれにじわりと滲み、溶け込んだ。


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