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聖典引用 板
1199
:
SAKURA
:2012/08/29(水) 15:40:09 ID:JqFULnHI
トキ 様 へ
こんにちは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1198
の投稿なのですが…「ボ−ド」を間違いましたので「デリ−ト」して下さいませ…。
何卒、宜しくお願い申しあげます…。
再合掌
1200
:
うのはな
:2012/08/29(水) 17:14:14 ID:0OK1Hwak
生活にあらわれたる“秩序の智慧”
私たちが“秩序の智慧”即ち「調和の智慧」を得るならば、そしてすべての事物及び人と
秩序の関係にあろうと心掛けるならば、私たちの生活、衣服、時間の割当その他一切の生活様式が
一変して来る筈である。
其処には食物は簡素となり、残忍な感じのする食物は食膳に出なくなり、
家族相互に交わす言語なども自然におだやかな調和した状態になるのである。
濃厚な食物を食べないと栄養にならないなどと云う間違った栄養の“既成観念”に
捉われてはならないのである。
小牧実秀氏の『栄養の科学』(東洋経済報社発行)と云う本を読んでみられるならば、今までの
栄養観念とは全く異なる正しき秩序の食物に接しられるであろう。人間は肉食をしなければ栄養が
とれないなどと考えてはならないのである。
全然肉食をとらない私の養母は九十五歳で健在であるのである。淡白なる食物の適量は却って人間の
精神を清浄に保ち、健康を長く持続せしめるのである。
『真理』第10巻 実相篇 谷口雅春 先生著
1201
:
SAKURA
:2012/08/29(水) 17:54:58 ID:JqFULnHI
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ―マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
■栄える生活365章
第五章 今、 神の祝福を受けて
――――あなたは絶対価値の存在者である――――
神は人間を神の最高の自己実現として創造したのである。それにも関らず、唯ひとりとし
て同じ人間は存在しないのである。何故なら神は自己の内に『無限』を蔵し給うのであるか
ら、それを具体化するときには、具体的には『無限』を重複して顕現することができないか
ら、すべて個性ある独特の貴き姿をもって表現せられるのである。それゆえにあなたは、
他の類型のない独得(ユニ−ク)な存在であり、かけがえない絶対価値の存在であるのである。
各人はすべて絶対価値をもち、独特の尊貴なる内容を表現し、その人でなければならない
独得の能力と、人生に於ける独得の位置と、独得の目的とを与えられているのである。これ
を知るとき、本当に自分の生命の尊さが自覚されるのである。あなたがこの世界から消え
るならば、あなたの代わりになるべき何人も存在しないのである。会社の椅子ならば一人の
社員が退社しても、また別の人がその椅子を埋める事ができるけれども、人生に於ける位置は
何人も代行できないのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
■トキ様】へ
今回の「雅春先生…の言葉」これからも先生自身が
>【各人はすべて絶対価値をもち、独特の尊貴なる内容を表現し、その人でなければならない
独得の能力と、人生に於ける独得の位置と、独得の目的とを与えられているのである。これ
を知るとき、本当に自分の生命の尊さが自覚されるのである。】< (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
この様に、裏を返しますと『生長の家』では“讃嘆…”から始まりましてでしょうか?
私は「この教えの中の…真理の一つ」を持ちまして…
相手への「嫌な“中傷言葉”…つまり“言葉”の暴力」を、投げかけますと、
如何に〜“ネガティブ感情”を与えますを痛切に思いますし、本当の「生長の家…信者」としては、
あり得ない【言動・行為…】と判断しました。…が?
■改めまして本当に「生長の家…信者」なのでしょうか??
そして「分派の方々…」の“イメ−ジ”が、逆に申しますと
【相手への言論の自由…】も、与えない様な「学ぶ会」「靖国見真会」「ときみつる会」…etc
と、捉えられますのではないのでしょうか?
それは、本当に逆に申しますと「マイナス・メリット」であり、むしろ【分派の方々の…】
そこでの【考え・活動体制…】此処にて“アピ−ル”されます事が…いいのではと思います。
それによりまして、更に賛同されます方々が、増えられればいいのではないのでしょうか??
再合掌
1202
:
うのはな
:2012/08/29(水) 18:52:39 ID:XnNLNTjU
『生命の實相』第8巻 観行篇 P43 谷口雅春 先生著
われわれが執着を脱する程度に従って、計らいの心が無くなる程度に従って、
みがきをかければかける程度に従って、内から多量に光を放射するダイヤモンドのごとく、
内から示されてくるものが「神示」であります。
執着の念をもって「神示」をきくがごときは自己撞着のはなはだしきものであります。
われわれはその本姓において神でありますから「神示」を聴くということは、霊媒的素質の有無
にかかわらず、自己の執着を脱する程度に従って、完全にできるのであります。
「真の人間」は神である。だからわれわれが我執の皮をはいで「真の人間」がそこに出たとき、
その思うところ、感ずるところがことごとく神示であります。ある宗教ではこれを「神格の内流」と
言って霊媒の霊示とは区別しているのであり神示は内流であって大脳に感応し、おおむね直覚的にあらわれます。
霊示は外から延髄に感応しおおむね霊媒式、二重人格式にあらわれます。
神示は対立を絶した内からの啓示でありますが、霊示は第二者、第三者などの対立せる人格からの意見であります。
神示は、我執に対して答えず、我執を捨てたとき、おのずから現われるものでありますが、霊示は我執にも答えてくれ、
時々的中の明答を得たり、見当違いの答えで背負い投げを喰うこともあります。
ともかくも、学校教育などのごとく人間の先生に教えを乞うこともよく、霊媒によるがごとく霊界の先生に教えを乞うことも
よいのでありますが、学校の先生の教えにもまちがいがあり、霊媒の答えにもまちがいがあります。
ただまちがわないのは、われらの「神格」の内的啓示に照らして行動するのがよいのであります。
1203
:
SAKURA
:2012/08/29(水) 21:37:30 ID:3bLXh3jA
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ―マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
■生活読本
――――人の欠点を見るな――――
常に愉快でいるためには人の欠点を見てはなりません。人間にありがちな最も悪い癖
は、人の欠点(よくないところ)を見る癖です。アラサガシの癖です。人生を不愉快にする
一番悪い癖は、このアラサガシであります。家の中に一人、此のアラサガシの癖をもった人が
いますと、その家庭が面白く愉快になりません。団体の中に一人、仲間のアラサガシをする人が
あると其の団体はバラバラに仲間われがしてしまいます。
人間は、その人の欠点を見つけて、いくらその欠点をあばき立てたからと云って、それ
によって其人の欠点がなくなる訳ではありません。何でもみとめれば認めるほどハッキリ
あらわれるのが心の法則ですから、欠点をみつければ見つけるほど、その欠点は一層大き
くあらわれてまいります。美点(よいところ)をみとめればみとめるほど美点があらわれて
まいります。ヤミだ、ヤミだとみとめていると、いくらでもヤミが出て来ます。ヤミなんか
みとめないで、ヤミと云う言葉さえもなくなればヤミが出て来なくなるのです。これが
心の法則です。「悪いもの」や「善くないもの」があると云うことをみとめることは、その
悪いもの善くないものにこちらから力を添えてやるようなものです。欠点をなくするには欠点を
みとめないで、美点のみをみとめて行けばよいのです。
善いもの、美しいもの、素晴らしいもの――調和、平和――こんなもののみが本当はある
のです。悪いもの、醜いもの、貧弱なもの、不調和なもの、争いや、いさかいなどは神
がつくらないから本当は「無い」のです。その無いものがどうして現れるかと云うと、そ
れは「みとめる」心の力で現れて来るのです。たとえば、「あいつと自分との間には争いが
ある」認めてばかりいますと、屹度争いが現れてまいります。今まで世界に起った戦争
はみな、この「争い」を認めた為に、争いが益々大きくなり、ついに戦争になったので
あります。家庭の仲でも面白くない事が起ったり、家族同士が悪くなったりするのは、
互いにその欠点を見つけて、悪いことを「ある」としてそれを言葉に現すからなのです。
谷口雅春 著
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■>人間は、その人の欠点を見つけて、いくらその欠点をあばき立てたからと云って、それ
によって其人の欠点がなくなる訳ではありません。何でもみとめれば認めるほどハッキリ
あらわれるのが【心の法則…】……云々……
そうなのですョ〜〜〜ネ!【強い意志力にての想念・持続力】は、必ず!成就するモノと、
私自身も認めます…。例えば…
知人の“お兄ちゃん”が大学受験の時、第一希望は“東大”でしたが〜〜♫〜〜
経済観念を持ちまして【九大受験…受かりました…。】この様な断定した言葉にて、
【祈り…】に徹して行かれました事を、覚えています。その通りの事が【実現…】です。
更に【タイムショック…世界一周】此の事を、断定しました【お祈り…】にて、結果は〜〜
その通りの事が、現象界に実現しました…。今は、【世界に羽ばたく企業家…】として
活躍されています…。
■今思いますと、そのお兄ちゃんの“アドバイス”は、【神想観…実相】をと、
私に“口すっぱく”助言して下さった事を、今!思いだしながら【心の法則…駆使】を、
痛切に思う次第です…。但しあくまでも【心の法則…神の御心に叶う】べきなのでしょうかと……
思う次第なのです。……が?
但し「雅春先生」の述べられます様に【心の持ち方!!次第の事が実現】でしょうか?
それならば【ポジティブな事?感情?】を持ちましての【心の法則】を、
駆使すべきかと思う次第なのです。…が? 再合掌
PS:トキ様 へ
この様に私なりの体験(身近な人)を見ての感想を述べました。…が?如何でしょうか?
ある面?この頃「疑問点…」が、生じましたので後にて“投稿…別板”にてさせて頂きますが?
1204
:
ハマナス
:2012/08/29(水) 23:41:57 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんばんは。
今日から、「第九篇 豊かさを得る道」に入ります。
明るい雰囲気の魅力 (『新版 生活の智慧365章』P.233より)
事業又は商売の繁栄をきたすには、明るい希望に満ちた殷賑(いんしん)の雰囲気をその
従業員がもつと云うことが必要なのである。明るい銀座街頭に人が集まるように、また昆虫が
燈火を追うて集って来るように、明るいところに生物も人間も集まることをよろこぶのである。
暗い雰囲気は生々とした生物を遠ざけ、黴菌のようなジメジメしたものを引き寄せることになる。
そして従業員の仕事の能率は上がらなくなり、顧客は減少し、事業は沈滞してしまうのである。
従業員の表情から、明るい微笑がなくなって、ただ冷たく沈滞した表情になってしまったならば、
その事業は次第に破局に近づきつつあるのだと言わなければならない。
生長の家の飛田給練成道場で毎朝五時十分前から起床の合図に“カッコー・ワルツ”の明るい
曲の演奏を放送して、その音楽の中に目覚めて一日の出発をするところに、多くの病人が恢復し、
ノイローゼが癒え、生活に生き甲斐を感じて来るひとつの原因が、(それは多くの要素中の唯
一つの要素であるが、)潜んでいると云うことができるのである。一日の出発によい音楽を
従業員にきかせて、悦びに満ちた快活な雰囲気で顧客に接せしめるとき千客万来となるもので
あるし、そのような雰囲気が職場に満つるならば、仕事の能率があがり、緻密な仕事が狂いなく
出来るのである。
感謝合掌
1205
:
a hope
:2012/08/30(木) 07:44:52 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
恐れる心を無くする方
そこでこんな事が判りましょう。
恐れる心は無い物に対して起こる感情なのですから、
「恐れる心」があるようにみえていても、本当はないものなのです。
それは幽霊と同じように無いものなのですけれども、
あると思っている間だけあるようにみえるのです。
ですから恐れる心は無いものだと知ったときに、恐れる心は消えてしまうのです。
恐れたら悪いから恐れないようにしようと思って、
「恐れまい、恐れまい」と恐れる心を抑えても恐れる心は消えるものではありません。
恐れる心をなくするには、「自分は神の子だから、恐れる心はないものだ。
恐れているようにみえていても、自分はちょっとも恐れていない。
この恐れる心は神の子である自分の心ではない。自分は少しも恐れていない。
自分とは別のありもせぬ心が恐れているのだ。勝手にしろ!」
という気になったら却って恐れる心は消えてしまうものです。
恐れるようなケチ臭い心が自分の心だと思っていたのが悪かったのだ、
自分は神の子だから恐れるものはこの世にひとつもないのだと思うようにし、
どんな難しくみえることでも、喜んで愉快にやることにいたしましょうね。
そうすればあなたは必ず立派な仕事ができて、出世をするのに定(きま)っています。
神の子は恐れないので、その時その時を生かして行くようにすれば、成功するのに定っているのです。
(つづく)
1206
:
ハマナス
:2012/08/30(木) 11:02:49 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
ありがとうございます。
朝の出発に心の調律を (『新版 生活の智慧365章』P.234より)
一年の計画は元旦にあり、一日の謀(はかりごと)は朝にあると言われている。朝の出発に、
心を調律して歓びの想念感情に波長が合うようにして置くならば、その日一日、悦びの番組が
次から次へとあらわれて来るようになるのであるが、朝の出発に、陰気な不快な不調和な想念
感情のままで、心の調律を怠っているならば、その日一日じゅう不快な出来事が、生活番組と
して出て来ることになるのである。
人間の心は一種の放送局でもあるし、受信局でもあり、テレビ・セットのように、その受信
した精神内容を形に具体化してその人の身辺に実現することになるのである。宇宙は、過去現在
に於て放送され又は放送されつつある精神波動の貯蔵庫みたいなところであるから、そのうちの
どの波長に自分の“精神テレビ”を同調されるかによって、幸福でも不幸でも失敗でも成功でも
実現することになるのである。
感謝合掌
1207
:
うのはな
:2012/08/30(木) 11:35:56 ID:R80If25o
私と蘭の花とどちらを愛しているの? 渋谷晴雄 先生
話は再びハワイ時代にさかのぼる。ハワイは太平洋の楽園だといわれている。
私がハワイに行った頃は、本当にそうであった。人々が優しい心をもって、いたわりあっていた。
それをアロハ・スピリットとか、ハワイアン・ホスピタリティとか言っていた。
前にも述べた通り、私は一九六五年(昭和四十年)から三年間、ハワイ駐在本部講師としてオアフ島に
暮らすことになった。はじめの一年は単身赴任で、のち家内が来て一緒に生活することになった。
当時はハワイの生活水準は、日本と比べてだいぶ高かったようである。一ドル五十セントだったが、日本の円の
感覚からいうと1000円ぐらいに当った。道路が整備されていて、車もやたらに多くはなく、女性ドライバーには男性は
道をゆずったりした。日本のわれ先に走る車の混雑と比べると、優雅で心あたたまる車の運転で、さすがに太平洋の楽園だ、と思った。
ある日、白鳩会連合会長といっしょに家庭訪問をした帰り、食事をしに日本レストランに寄った。
そこの店の女主人に、白鳩会長が言った。
「この方が、日本から来た生長の家の渋谷先生です」私ははじめて会った女主人にあいさつした。彼女は、「日本から来られた生長の家の
渋谷先生ですか。それではきょうの食事の代金は要りません。無料にしますからどうぞ何でも召し上がって下さい」
私は、この女主人が生長の家の信徒さんだと思った。「どうもそんなにサービスしていただいて恐縮ですね」
ところで、白鳩会長に聞いてみると、この女主人は、生長の家とは何のかかわりもない方だという。
ただ彼女は、どんな宗教でも、その宗教の先生に深切をつくすとゆたかになれる、ということを信じているのだ、という。
私は冗談で、白鳩会長に言った。「それはすばらしい信仰ですネ。世界中に普及したいですネ」
その女主人はお坊さんにお布施するといったセンスで無料サービスをしてくれたのだった。
そういう宗派にとらわれないやさしい愛の心が、ハワイの人々に息づいていた。
ある日、教化部で早朝行事が終ったあとのこと。だいたいハワイでは、朝が涼しいので人が集まりやすく、
早朝行事には100人以上が参加した。朝の行事が終ると、人によっては、教化部でパンとコーヒーで朝食を済まし、
会社に出勤した。私は教化部の隣にある、生長の家がオーナーになっているアパートに住んでいた。そして私は毎朝早く教化部の
鍵を開けて皆さんを迎えていた。早朝行事が終ると、教化部で働く人が来るまで一応鍵をかけておく。
だから用事のある信徒さんはアパートの方に訪ねてきた。
その日は朝食を食べていたら、一人の白鳩会員の方が訪ねてきて、
「先生、これさしあげます」という。何かと思うと靴下だった。そのあと、また一人が訪ねてきて、
靴下をプレゼントしてくれた。私は不思議に思って、ふと自分の足を見た。すると靴下が破れていたのだ。
気がつかず早朝行事で壇上に坐っていた私の靴下から足が見えたわけで、さっそく靴下を買ってきてくれたのだった。
それにしても深切な人々だと感謝したことであった。
つづく
1208
:
うのはな
:2012/08/30(木) 16:55:38 ID:TYG5qr22
>>1207
つづき
こんな楽園にも、なやみがないわけではない。おもに人間関係の問題である。
ある日、永田夫人(仮名・三十五歳位)が私を訪ねてきた。なやみというのはご主人の
ことであった。このご主人は、会社から帰ってくると、カバンを玄関に置くなり、すぐ温室に入ってしまう。
温室では二〇〇鉢以上の蘭を栽培していた。奥さんはご主人が蘭の手入れを終って夕食をたべに来るのを
いつも待っているが、時には二時間も三時間も温室から出てこない。
あたためた料理が冷たくなってしまう。なんとか、夕食を済ましてから温室に入ってほしいのだが、奥さんが何度たのんでも言うこと
を聴いてくれない。「まるで私より蘭の花の方を愛しているのです。私はしゃくにさわって、蘭の花を見るのもいやです。植木鉢をみんな
壊してしまいたいくらいです」
永田夫人は、自分は正しく、悪いのは主人だ、といった調子でご主人を非難するのだった。
たしかに、奥さんとご主人をくらべれば、悪いのはご主人の方だろう。しかし、家庭のトラブルは善・悪だけでは解決しない。
やはり夫婦間の“愛”が解決の鍵になる。私は永田夫人といっしょに祈った。
それは“和解の神想観”である。
ご主人が奥さんに向かってニコニコ笑っている姿を心に描いて、
「私はあなたを赦しました。あなたも私を赦しました..........。あなたと私とは神において一体
でございます」ではじまる、よく知られたあの祈りを行ったのであった。
神想観が終って、奥さんが言った。
「はじめのうちは主人がニコニコ笑っている顔なんか思い浮かばなかったんですが、先生が
言ったように、主人は、別に浮気しているわけでもないし、ただ蘭の花が好きなだけだ。やっぱり
考えてみると、主人は心やさしいひとなんだ........こんなように思えてきました。そして、ほんとに主人が
私にニコニコ笑いかけている姿が見えるようでした」
ハワイの蘭の花はたいへん美しい。オーキッドといって、花の女王ともいうべき高価なもので、たくさんの
人が栽培していた。私は奥さんに言った。「ご主人もそんな美しい花をつくっておられるのだから、心やさしい人ですよ。
そんな人と結婚しているあなたは、幸福だと思わねばなりません」
この私が言った言葉が、彼女の心に深く残ったようだった。数日たって、永田夫人がふたたび教化部を訪ねてきた。
「先生!おかげ様で解決しました........」彼女の顔はよろこびいっぱいだった。
彼女の言ったことを要約すると次のようだった。
祈りが終って家に帰ったら、温室に入ってみたくなった。これまでは“うらみ重なるオーキッド!」というわけで、温室から
遠ざかっていた。温室に入ってみると、よごれている。あっちにもこっちにもタバコの吸い殻やゴミが捨ててあって、灰皿にも
吸い殻がいっぱいだった。ごく自然に彼女は温室を掃除した。一時間以上かかって、見違えるようにきれいになった。
「よかったわ。これで主人もきれいなところで花のお世話ができるわ」
ところが、その日の夕方。ご主人はいつものように家に帰ると、すぐ温室に入った。
しかし、三十分もすると温室からでてきて、「おなかすいたよ。食事にして。キミが温室を掃除してくれたのかい。ありがとう。
これまで迷惑をかけてわるかったね。これからは、さきに食事をしてから花の世話をするよ......」
ほんとうに久しぶりに明るいご主人の顔であった。
それからは、お二人は新婚当時のように仲よくなった、というのである。
美しい蘭の花をめぐるハワイらしいエピソードだと思った。やはり、相手の姿は、こちらの“心の影”であった。
そしてここでも、愛はすべてを解決してくれるものだった。
『光の国から』 渋谷晴雄 先生著 P67〜
1209
:
ハマナス
:2012/08/30(木) 22:59:37 ID:0kyCzJg6
こんばんは。
聖典引用ですので、こちらの版にも投稿します。
『生命の實相』第21巻(甘露の法雨講義)のはしがきを謹写いたします。
『甘露の法雨』はいわゆるインスピレーションによって突然浮かんで来た思想が一種詩的な
リズムを帯びてきたのを書き止めて置いたものである。後より見るとこの聖経は期せずして、
『生命の實相』全巻の真理を集約して歌ったものになっている。それを読誦することによって
いろいろの奇蹟を演じたので、ついに聖経と称せられることになったのである。
その英訳をたんに携帯することによって第二次世界大戦中ハワイの日本民族第二世の軍隊
(第百大隊、四四二部隊)がイタリーの南端から上陸する際に、期間銃弾がその英訳『甘露の
法雨』に命中しながら、それを貫通することができず無傷で大量の兵員が上陸くして戦功を立
てたような奇跡もあり、交通事故に遭いながら、無事だった実例のごときは数限りもないので
ある。この聖経はたんに現実界の人間が読誦して悟りを開いて病苦悩苦去るばかりではなく、
霊界の諸霊もその読誦の声を聞いて悟りをひらき、迷える障りの霊も守護の霊となることが後
に明らかとなったので、神仏礼拝の際その祭壇に対いて読誦すべき生長の家の聖経となったの
である。
しかし読んで意味の分らないようでは功徳が薄いので、かつて毎日曜日に東京小石川護国寺の
月光殿においてその大要を講義したものを次に捧げることにした。主として講義の速記によった
ので、わたしの文章だというよりも私の語調が写されているところに特徴があるであろう。
『生命の實相』の縮約が『甘露の法雨』であるから、どの講義を読むだけで生命の実相の大要が
摑めることと思う。第一章は当時の講義の筆記漏れを後より再述して完璧としたのである。
昭和三十九年一月十日 著者しるす
1210
:
SAKURA
:2012/08/30(木) 23:22:54 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043
>>1044
>>1052
>>1057
>>1058
>>1063
>>1068
>>1073
>>1087
>>1092
>>1093
>>1097
>>1098
>>1167
>>1170
>>1171
>>1174
>>1175
>>1190
>>1194
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
■【ベスト・フレンド】 ( 混乱を静める方法 )
――――― 混乱静める方法 ―――――
|❤ それはどのようにしてあらわれてくるのですか。
お互いに、「人生とはこんなものだ」という仮説をつくります。人生の早
い時期につくると、これはきわめて卓越していて、生存競争に役立つことが
よくあります。ところが、問題はお互いに歳をとり、経験を積み重ねていく
にもかかわらず、その仮説をいっこうに改訂しようとしないことです。つま
り、新しい経験を古い原則に無理やりあてはめているのです。
―――――――― * ―――――――――
|❤子供のころの経験をもとにできた偏見や習慣をいまだにもっている
|ということをほとんどの人が否定すると思いますよ。まして人が原理と
|いえるほどはっきりした形でもっていると考えられないのですが……
たいていの人は自分がそうした原理をもっていることに気づかないもので
す。なぜなら、それは一度も言葉にあらわしたことがないからです。
それは漠然とした感情や、表現できない観念、あるいは子どものころ、話
もせず、自分自身でも認めることさえしなかったような事柄などが、混じり
合ってできているのです。この原理は、セックスの衝動や攻撃的衝動のよ
うな人間生活においてもっとも強力な問題を生じるような力に対してかかわ
っています。
たいていの家庭ではこの問題は手に負えない議論です。そして、現実とは
なんであるかということについて、複雑な考え方をもつようになるのです。
というのは、この現実の本質について、一度も話し合ったことも調査したこ
ともないからです。神はうわのそらで世界を創造してしまった、と述べた人
がいますが、わたしたちもまさにそれと同じことをしているからです。
半分ねむりながら世界観をつくりあげ、それにもとづいてあたかも色めが
ねをとおしてものを見るように自分の人生を着色して見ているのです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
<つづく>
PS:【SAKURA 独り言】……
≪三つ子魂〜〜〜≫体験・経験は、確かに“潜在意識”に、残りますかしら〜〜〜ン!
良いことも?悪いことも?でしょうか〜〜〜?
【言葉…言霊】にて、相手へ“心模様”伝えるにしましても…本当に難し〰〜イ><
こちらの捉え方?相手の捉え方?…現実は、いかんせん…“でしょうか?
【一つ言えます事は…相手への“ポジティブ感情”を抱かせるような“言葉…”を、
駆使出来ましたら〜〜〜そこには、きっと【調和…の世界】が広がるでしょうかしら〜ン!】
1211
:
a hope
:2012/08/31(金) 07:18:47 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
ヘレン・ケラーの何処が偉いか
ヘレン・ケラーの言った言葉に、「何でも明るく見る心、光明主義は物事を成しとげる基(もとい)である。
希望がなければ、何事も成しとげることはできない」というのがあります。
ヘレン・ケラーは三歳の時、脳膜炎という病気を思い、その結果、目は見えなくなり、
耳は聞こえなくなり、言葉は言えなくなったのだということですが、
その後眼で見ず、耳で聴かずして、皮膚や指先やにおいなどによって、
世の中の全ての事がよく判るようになったり、人生の三重苦の苦しみを征服した聖女として尊敬されていますが、
それにはヘレン・ケラーを教えたサリヴァン先生の教え方が上手であったのにもよりましょうけれども、
ヘレン・ケラー自身が、盲になり、聾になり、唖になっても少しも失望落胆せず、
心に希望(のぞみ)をもっていたからです。
失望とは心に望みを失うことです。
落胆とは勇気を落して、気が沈んでしまうことです。
眼が見えず、耳が聞えず、口が利けなくとも、希望を失わず、勇気を落さずにいたら、
人間はヘレン・ケラーのように偉い者になれるのです。
眼が見え、耳が聞こえ、口が利ける皆さんが希望を失わず、
自分の目的とするところへ突進して往ったら、どれほど優れた人になれるか、考えてみずとも判るでしょう。
(つづく)
1212
:
ハマナス
:2012/08/31(金) 23:16:48 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんばんは。早いもので、明日から9月です。
職場の雰囲気 (『新版 生活の智慧365章』P.235より)
社長や店主や部長、課長と言われる人たちは、その一言一顰一笑(いちごんいっぴんいっしょう)が
その社員、行員、店員たちの感情を左右する力をもっているものである。早朝から社員や店員にたい
して叱りつけるような荒々しい言葉を使ってはならないのである。先ず事業の前途に希望があることを
語り、その前途に光明をみとめしめ、そこに働いていることが悦びであり、事業の伸展とともに自分の運
命も発展して行くものだと云う希望に胸ふくらませるような言葉でその日一日の仕事を出発せしめるよう
にしなければならない。そうすれば、事業も繁栄し、社員、店員の運命も伸びて行くのは実際であり、
それが「想うことは必ず実現する」と云う心の法則なのである。
社長又は店主と云うものは社員を叱るものだなどと云う感銘を与えてはならない。社長又は店主は
社員又は店員に感謝し、その職場を温かいものにしなければならない。
感謝合掌
1213
:
うのはな
:2012/08/31(金) 23:26:23 ID:esvyfr1E
霊的実在とお陰との関係 『真理』第8巻 信仰篇 谷口雅春 先生著
法華経に三車(牛車、羊車、鹿車の三つ)火宅(火災の起っている家)の譬があります。
火宅はやがて滅びて行く現象世界の譬であり、三車は現象世界の「宝の車」であります。
現象世界の宝に執着している限りは、火宅は焼け落ちて、その下敷になって死ぬほかはならないのであります。
しかし、火宅の下で「現象界の宝」のもてあそびに熱中している子供(幼稚な魂)を救い出すには別の玩具(やがて
くだけるもので、本物ではないお陰)を与えるほかはないのであります。
これが或る種の宗教で得られる現世利益です。しかしそのお蔭は玩具であって実物ではないのであるから、やがて
壊けるときが来るのであります。その壊けるときに信仰を堕してしまうようでは、本当の信仰ではありません。
すべてのお陰は「影」であるからその本源は霊的実在の世界から来るのであります。
そして、お蔭は霊的実在を把握させるための方便にすぎないのであります。
いつまでもお陰にしがみついて霊的実在を忘れたら本末顚倒(モトとスエとがあべこべになること)になります。
1214
:
SAKURA
:2012/09/01(土) 03:22:09 ID:KIb1uXbE
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
■ どんな教えが生長の家か
――――目を開けば世界は光に満ちている ―――― 藤原先生著
それでは、そのように人類ことごとく救うことの出来る生長の家の救いとは一体どのようなもの
であるかと申しますと、何もむずかしいことではなく、本当に簡単な原理によるものであるというほ
かないのです。
人間が悩んだり、苦しんだりするということは、すべてのものの観方や考え方がまちがっているか
らだということが出来ます。世の中の不幸はことごとく物事を正しく観ないで、思い違いをしている
結果起るのでありますから、不幸から逃れようと思ったならば、今現れている不幸な状態を何とかし
ようと努力するよりも、その原因であるものの観方や考え方を正すことが、最も大切なものでありま
す。
此のことを仏教では正見、正思惟と説いてあります。すべてのものを正しく見よというのが政見で
あり、間違った考えをしてはならないということを正思惟というの
であります。
信仰とは、その正しく見る眼を開かせることであり、このことを活眼を開くと申します。真昼間で
も、目をあけている人と閉じている人とがあった場合、一方の人は明るいというでありましょう。も
う一方の人は真暗だというでしょう。このように外部条件は同じであっても意見(思い)は二つにわ
かれることになるのであります。しかも一応は、どちらも間違った意見(思い)ではないのです。し
かしよくよく考えてみると、暗いのは間違いであって明るいのが本当なのであります。暗いと明るい
とふた通りの結果が現れていても、実は明るいのが絶対正しいのであって、暗いのはその人が目を閉
じて光を見ないからなのです。明るい世界をわざわざ眼を閉じて、光を見ようとせず、暗いのが本当
だと思いこんで「暗い暗い」といっているのは、その人にとっては暗いだけのことであって、絶対で
はなく、相対的な出来事なのです。
素直に目を開いて、真相(明るさ)を正しくみることの出来る人には、もともと闇はないのが本当
ですから、明るくなるのが当たり前なのです。
<つづく>
1215
:
a hope
:2012/09/01(土) 07:50:29 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
希望は人生の光
希望は人生の光です。
眼が見え、太陽の光や電燈の光が見えていても、
希望を失った人は心に光を失った人で、その人の人生は真暗です。
だから、良く見える眼を持ちながらでも、この世の中は真暗だといって自殺する人もあります。
希望(のぞみ)さえあれば、今はその人がどこにおろうとも前途は明るいのです。
希望は自動車のヘッド・ライトのようなものです。
勇気は自動車のエンジンのようなものです。
希望で前途を照らしながら、勇気のエンジンを駆り立てて毎日進んで行くならば、
皆さんは、たとい今どんな所にいられようとも、前途は必ずよい世界へ出られるのです。
(つづく)
1216
:
SAKURA
:2012/09/02(日) 04:02:01 ID:kkC4PA/k
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ―マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
此処しばらく“遠方…”におりましたので〜〜〜“パソコン”を開く時間も?
勿論!投稿する事も?……唯!時折“スマ−ト・ホ−ン”から、第三者的に閲覧させて頂きました、
【SAKURA…】ですが、やっと“時間”が……?でも、いつもと変わらずの“時間帯…”ですが?
今日も【活かす力のパワ−】を、頂きました。では、簡単で分かりやすく、表現されてますので
【人生の近道…切符・スタ−ト】なので〜〜〜す。
■ 【生 活 読 本】
――――― 常に人の美点を見つけましょう ――――――
常に明るいことのみを心に描きましょう。常に人々の美点をみつけてそれを賞嘆(ほめたたえ)
しましょう。人々の美点を他山の石(じぶんのためにするたとえ)として尚一そう大いなる美に
到達するのを自分の理想といたしましょう。みにくき欠点を見ないで、いよいよ高く美しき理想
を描きましょう。自分の描く理想は自己の生活する人生の性格を一変してしまうものなのです。
人は理想に従って、その人の人生の色彩、匂い、動作、性格、方向、運命等が自ずから変ってく
るものなのです。もし理想が低ければ、吾々の人生の全体の調子が低いものとなってしまうで
ありましょう。そこから、堕落と下向(したえむく)とが始まるのです。
もし吾々の理想(だい一のきぼう)が高く清く尊きものであるならば、それは必ず吾々の日常
言行動作(おこないうごき)に現れるのであります。強いてそれを他に告げずとも人々は、その
人から発する所の雰囲気によってそれを知り、その周囲に自から集まって来て、彼をその高き理
想にまで、おしあげてくれる仕事をしてくれるのであります。かかる人の全身(からだじゅう)
からは何となき崇高(けだかい)なる雰囲気がたちのぼるのです。かくの如き人こそ常に天国
に住む人といわなければなりません。天国に住む人とは、富の俗悪(げびてみにくい)な物質
のがらくたが山積(山のようにつもる)している中に埋もれて住むことではなくして、斯くの如
き天国的な雰囲気の中に住む人こそいうのであります。
すべてこれらのことは、心の習慣によって人間の雰囲気が変ることを示しているのであります。
今日行う勉強とか教養とか目的は、人間を粗野(いやしくげひん)なる欠点ばかり見つける
習慣から美なるものを見つける崇高な習慣へあらためさせることにあるのであります。常に間断
(たえま)なく一そう高き理想に邁進(おそれずすすむ)するものは、常によき雰囲気を得るの
であります。偉大なる人格とは常に美点のみ見て欠点を見ず、常に光のみを見て闇を見ず、善
悪ともにそのあたたかき光にて包んでしまう太陽の如き人をいうのであります。すべて欠点
を心に描けば、その暗い影はまず自分の心に印象(きざみつける)せられるのであって、自分
心のを汚す汚点(よごれ)となるのであります。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
PS:トキ様 へ
今の私の置かれている【環境のこころ構え?】でしょうかしら〜〜〜ン???
着実に“ゴ−サインへ展開中”です…。きっと!必ず!“魂”は、前以上に進歩でしょうか??
【心 の 法 則】しっかり…認識体制?です〜〜〜ョネ!
やはり【難問題…】にぶつかりました時こそ【心の法則…】駆使出来る様に意志力集中…
でしょうか?トキ様は、この件に関しましてどの様に思われますでしょうか?
再合掌
1217
:
a hope
:2012/09/02(日) 06:16:52 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
朝起きたときの心掛け
世の中で最も大きく成功した者はみんな心の明るい愉快な人ばかりです。
朝起きたとき先ず、「自分は楽しい、自分の前途には光が輝いている」
と三べん心の中で言って、微笑してから起きなさい。
微笑をもって一日を迎えるのです。
必ずその日一日楽しく勉強や仕事ができるでしょう。
先生や目上の人から誉められるでしょう。
どんな難かしいことがきても、先ず微笑してその難かしく見える事柄に対(むか)って、
「ねえ、君、君と私と仲よしになりましょう。仲よくなったら、君は私に難かしい顔をしないでしょう」
と微笑み掛けて、その事柄に、愉快に楽しく朗らかにぶつかることです。
必ずあなたは、その難かしく見えた事が、容易(やさ)しくなり、
スラスラと事を運ぶ事ができるでしょう。
朗らかな愉快な微笑は、どんな難かしいことでも易しく滑らかにする油の役目をするものです。
(つづく)
1218
:
ハマナス
:2012/09/02(日) 11:49:36 ID:mR2szZkc
神の子の皆さま
ありがとうございます。
職場こそ生き甲斐『新版生活の知慧365章』P.236
其処につとめている人たちは、其の職場の雰囲気を楽しいものにすることができなかったならば、その社員又は店員は、その職場に永続して働く意欲がなくなり、ただ一時の「腰掛け」だと思い、仕事に熱がなくなり、顧客に対する対する対応も、熱情のない誠意のかけたものになるから、益々その事業も商売も発展しなくなるのである。社員や工員や店員がこの職場こそ生き甲斐がある仕事場であり、一生を託して惜しまない気持ちになるようでなければ、その事業の真実の発展は期しがたいのである。
近頃では多くの商社は、昼の休憩時間に、テニスや、ピンポンや色々のレクリエーションの施設をもうけて、従業員の気分を快活にするような試みが行われていることはよいことである。出勤中は、「お前の時間は買い取ってあるのだから」と云うような考えで、従業員の心を縛ってしまうならば従業員は慢性のサボタージュに入るであろう。
感謝合掌
1219
:
goro
:2012/09/02(日) 17:36:34 ID:Cc8Z7oOY
ケント・M・キースの祈り 「逆説の十カ条」を紹介します。
心静かに黙読して下さい。感動のさざ波が広がっていきます。
本流派を言い募る掲示板のあり方も考えさせられます。
逆説の十カ条
1 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお、人を愛しなさい。
2 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
3 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。
それでもなお、成功しなさい。
4 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
それでもなお、良いことをしなさい。
5 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。
それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
6 最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
それでもなお、大きな考えをもちなさい。
7 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていない。
それでもなお、弱者のために戦いなさい。
8 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお、築きあげなさい。
9 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお、人を助けなさい。
10 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
【著者について】
ケント・M.キース 1949年、ニューヨーク生まれ。
ハーバード大学在学中に、高校の生徒会のリーダーたちを激励すべく150回以上の講演を行なう。
本書で紹介している「逆説の10カ条」は、その活動の一環として出版した小冊子ではじめて発表された。
その後、オックスフォード大学で哲学と政治学、早稲田大学で日本語を学び、ハワイ州立大学では法学博士号を取得。
1979年よりハワイ州の経済企画開発局の要職を歴任し、同局長として州政府の閣僚も務める。
その後も私立大学の学長、YMCAのリーダーなどを務める。
【本の内容】
1968年、当時大学生だった著者が高校生向けの小冊子に記した「逆説の10カ条」は、30年の年月をかけて、
口づてで、写しで、インターネットで本人の知らない間に、ゆっくりと広まり、世界中で愛される格言となっていった…。
マザー・テレサも感動し、引用した至高の処世訓が指し示す「人がこの世界に生きる意味」とは?
たった10カ条の心構えが、あなたの人生に大きな違いを生みだす!ニューヨーク・タイムズ紙も、
その出版までの不思議な経緯と格言の価値を1面で報じた話題の書。
【出典】 ケント・M・キース 著 「それでもなお、人を愛しなさい」 早川書房
1220
:
SAKURA
:2012/09/02(日) 23:34:00 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは……ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1214
続き投稿です…。
■ どんな教えが生長の家か
――――目を開けば世界は光に満ちている ―――― 藤原先生著
宗教とは、このように物事を当り前に観、正しく観ることが出来る人間に育てることなのでありま
す。
一般の人は、宗教といえば、何か特別のことをして、どうにもなりそうもない難問題や、医学や、
常識ではとうてい解決も治癒も出来そうもない事件を信心とか修行とかによって、特定の限られた人
達だけに用のあるもので、普通の人には難かしいものであるかのように早飲みこみして頭から敬遠し
ておられる人もあるようですが、正しい意味の宗教というものは、決してそのようなものではないの
であります。
本来明るいものを、わざわざ目を閉じて、暗い暗いといっていたのが、目をあけたとたんに、いっ
ぺんに明るくなるのと同じですから、別におどろくようなことではないのです。ただ長い間、目を閉
じていて暗いのが当たり前だと思いこんでいるのが突然明るくなるので、ちょっとビックリするだけの
ことであります。このビックリするのを懺悔というのです。大いにビックリするのを大懺悔というの
です。信仰とは、常に懺悔し、驚き続ける生活をいうのです。
お釈迦様が悟りをお開きになったとき、 「天地六種に震動す」とありますから、この天地が六つに
も割れて、大きな音をたてて砕け散ったという意味であります。
これは物質の否定であり、現象の否定であったと思うのであります。
肉眼だけで物を見るところの唯物論の立場からだけこの世界を見ていたのが、自己の霊的自覚を得
て、生命を見る眼が開けることによって、見えている物質がないとわかり、今まで考えたことも、思
ったこともなかった目に見えないもの(神、仏、生長の家では生命の実相という)がハッキリと観られる
ようになり、見えるもの (物質) と見えないもの (霊、生命) とが入れ変わることになるのでありま
す。すなわち、生長の家の教義の基本であるところの「唯神実相論」としての世界の観方に完全に変
ってしまうのであります。
世間一般にいうものの考え方は、大きくわけてふた通りに分類されております。
一つは科学の立場からだけものを考える唯物論と、哲学の立場からものを考える唯心論とでありま
すが、唯物論は五官という感覚器官、目、耳、鼻、口、皮膚の五つの器官を通してだけ物を観察する
考え方であり、 唯心論とは、 物と物と感じられるのは感ずるという心があるからで、心というものが
なければ、何があってもあると感ずることは出来ない、すべては心によるものであるとする考え方を
いうのであります。このように一般常識ではその二つしかないのでありますが、 「生長の家」の思想
でいえば、そのどちらもが相対的なものの考え方であって、絶対的なものの考え方ではなく、相対的
にはどちらも正しく、 またどちらも間違っているということになり、 真理 (絶対の法則) ではなく、
そのような曖昧なものの考え方では確信なある答え(結論)が得られないのは当然であります。
<つづく>
1221
:
トキ
:2012/09/02(日) 23:53:07 ID:LC0vKgj6
>>1219
すばらしい御文章ですね。伝道者の座右の銘です。ご紹介、ありがあとうございました。
合掌 ありがとうございます
1222
:
a hope
:2012/09/03(月) 06:54:54 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
憂い顔では出世せぬ
「憂い顔の奥さんを持つな、一生出世せぬ」という諺(ことわざ)があります。
憂い顔とは、陰気くさくふさぎ込んだ顔のことです。
陰気くさい顔をしていれば、本人が人に嫌われるばかりでなく、その良人まで出世させなくするのです。
顔の感じは習慣性ですから、少し気をつけ、朗らかに愉快に微笑するようにすれば、
どんな陰気な憂い顔でも暫くのうちに、陽気な明るい顔になれます。
陰気な顔と、陰気な心は、物を壊す作用(はたらき)を有(も)っていますが、
陽気な顔と、陽気な心は、物を生かし、物を成し就(と)げさし、
更に新しく良い考えを思いつかす力を持っています。
陽気は、人生という複雑な機械の摩擦を少なくする油です。
陽気の油を差してさえ置けば人と人との間に摩擦は起こりません。
どんな正しい人でも、陰気臭く、人の暗いところばかりを探しあるいて告げ口しているような人は、
人生という機械に砂利を抛(ほう)り込むようなものです。
そんな人の人生は直ぐに壊れてしまって仲が悪くなってしまいます。
内証で告げ口しても、告げ口は必ず聞えるものです。
他の人の良いことを告げ口しておれば、その人は必ずよくなり、その人と必ず仲がよくなります。
その人の悪いことを告げ口しておれば、その人は必ずいっそう悪くなり、その人と必ず仲が悪くなります。
言葉は種子(たね)です。
悪いことを話しては悪いことは殖えます。
善いことを話したら善いことは殖えます。
愉快な、毒にならない、明るい話ばかりをするようにいたしましょう。
(つづく)
1223
:
a hope
:2012/09/03(月) 08:11:33 ID:r8H4x9xE
SAKURAさま
>>1214
>>1220
と謹写してくださっているのは、
藤原敏之先生の「あなたは必ず救われる」のご文章ですね!
この藤原先生のご著書はわたしも拝読しました。
信じられないような「生長の家の愛の奇蹟」がたくさん紹介されていてとても驚きました。
わたしが、強く赤線を引いてある箇所を紹介させていただきます。
藤原敏之先生の「あなたは必ず救われる」 P233 後ろから4行目〜
―――――――――――――――――
……一人の神の子を自覚した人の真心と愛行によって、このようなすばらしい成果を生むことができるということを、眼のあたりに見せていただくことが出来たのであります。
知った力には限界がありますが、信じた力は全く無限であります。昔から「信は力なり」といわれるのもそのためであります。理解だけでは力の一番の根源につながっておらないのであります。すべての徳も力もどこから来るかと申しますと、神(絶対者)からくるのでありますから、そこにつながり、そこに発したものが本物なのであります。その発見と自覚が信なのであります。信とは自と他がなくなる事であり、自他が一つになることであります。その一つになった状態を信と言うのでありますから、信は無限であり絶対であります。相対の信は、形は信のようでも力とはならないのであります。何かに頼ろうとする心は、ますます自信を失うばかりで無力信仰となるのであります。正信と迷信の区別は何によって区別するかと申しますと、正信とは自信であり、名信とは依頼心のことであります。何かに頼れと教える宗教は明らかに迷信なのであります。自分自身の中の神を観、神を発見する以外に本当に救われる道はないのであります。
(つづく)
1224
:
a hope
:2012/09/03(月) 08:13:32 ID:r8H4x9xE
(つづき)
>>何かに頼れと教える宗教は明らかに迷信なのであります。自分自身の中の神を観、神
を発見する以外に本当に救われる道はないのであります。<<
この最後の言葉が、「ドーン」と魂に響きました。
また、goroさまが謹写してくださった、ケント・M・キースの祈り 「逆説の十カ条」も、
神(自分)への信を貫かれている素晴らしい文章だと感じました。
ハマナスさまや、うのはなさま、他の方々の聖典の謹写もとてもお勉強になるものばかりです。
みなさま、いつも本当にありがとうございます。
合掌
1225
:
ハマナス
:2012/09/03(月) 13:31:06 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
ありがとうございます。
どう言う訳か、ネットの接続が出来なくなってしまいました。携帯から謹写させて頂きます。
業主と従業員との間
『新版生活の知慧365章』p236
従業員を自分の家族のように思い、それを愛し、大切にし、その一家の幸福を自分の幸福のように思う社長、店主、部長などのいる会社や商店および職場は栄えるのである。従業員の一人が病気であれば、自分の娘又は息子が病気であるかの如く親切に見舞ってやり、花でも送ってやるだけの愛情を社長や店主は持つべきである。社長みずからは忙しくて出来なければ、「社長の命令で来た」と云うので社長秘書が社員を見舞ってあげる位のことは是非とも為すべきである。
その結果は従業員と業主との間を精神的に愛情をもって結びつけることになり、その会社又は店の発展するのために従業員が懸命の努力をしてくれることになるのである。このような緊密な愛情によって従業員と業主が結ばれるとき、ストライキどころか、仕事が忙しいときにみずから進んで早朝出勤や残業までしてくれるようになる。
感謝合掌
1226
:
うのはな
:2012/09/03(月) 18:00:07 ID:cZ3Ym7Bg
精神統一の形式 谷口雅春 先生
すべて善き言葉は潜在意識の中に植えつけられて善き果実を結ぶ種子となるのである。
善き言葉が信仰及び精神統一の力によって培養せられ、それが根を卸して深く潜在意識の中に
はびこり、更に宇宙意識の中にまでその善き言葉が浸透する時、それは宇宙的な養分によって養われ、
すばらしき偉大なる果実を結ぶに到るのである。
善き言葉の種子を潜在意識の中に蒔くためには色々の方法があるのであるが、ともかくその「善き言葉」は、
生き生きとした言葉でなければならないし、雑念や疑いをさしはさんではならないのである。
信仰と、熱情と、精神統一と、平和なる信頼の念とによって魂の奥深く「善き言葉」をくりかえすことが
必要なのである。
だからヨガナンダは簡単な機械的な言葉のくりかえしを避けているのである。
その点生長の家の『甘露の法雨』の読誦に類している自由詩のような美しき言葉を、詩を朗誦するようにまず
自分の耳にきこえる言葉にてそれを高誦し、やがて次第に声を低くして深く魂の奥底にその言葉を印象することを
すすめているのである。
投稿者現代字に変更写
生活応用『健全の真理』 谷口雅春 先生著 P130〜
1227
:
SAKURA
:2012/09/03(月) 22:44:49 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043
>>1044
>>1052
>>1057
>>1058
>>1063
>>1068
>>1073
>>1087
>>1092
>>1093
>>1097
>>1098
>>1167
>>1170
>>1171
>>1174
>>1175
>>1190
>>1194
>>1210
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
■【ベスト・フレンド】 ( 混乱を静める方法 )
――――― 混乱静める方法 ―――――
|❤あなたは、わたしたちが人生のもっとも重要な部分については意識す
|らしないままに、子どものころからいままでできたといわれるのですね。
そうです。しかもその影響力はきわめて強いことがあるのです。自分では
現実の人間や事業にたいして反応しているつもりでも、じつはそれは自分が
生まれて以来こころのなかでずっと書いてきた小説の一部分を書きつづけて
いるのにすぎないということがよくあります。
たとえば、子どものときに肉親に見捨てられたと感じた人は、その体験が
世のなかを見る目に重大な影響をもたらすものとなり、その結果、処世術さ
えも規定されてしまうのです。だから、おとなになってからも、この人は自
分を見捨てる人かどうかをつい考えてしまうのです。こうした点については
きわめて敏感です。
もうひとつは、自分の行動によってこちらの方から人を追い払ってしまう
ことです。あるいはほんとうは少しも自分にたいしてまちがった扱いをしな
かった人を、「あの人は自分を見捨てたのだ」というように思い込んでしま
うこともあるでしょう。どんな処世術を選ぶにしろ、そういう人は人に期待
することについて自分の考え方を確立してしまいます。それが自分にとても
満足感をあたえるわけです。
<つづく> 再合掌
PS:トキ様 へ……… すべて「環境…」から始まるのでしょうか〜〜〜???
昨日の【悪霊…】も、“我欲からの執着?”からの出発ですが…
そのような“人間の心”の捉え方次第なのでしょう〜〜〜。“複雑な気分”と“今しかない!”
その様な“自覚・認識”が、私にはあります…。現在の私は、FUKに在中ですが…、
25年前にいた頃は、FUKのイメ−ジは、自慢する程「良かった子ちゃん」なのですが〜〜〜?
25年後の現在は、当時と変わりまして“ビックリ”する事ばかりが目にとまりますかしら〜〜ン><
この様に「過ぎ去りし25年間の歳月の過程」から感じますものでしょうが、
これもやはり「環境…」からですし、TYO在住の頃の影響が…多大だと思います…。
過去の【イメ−ジのFUK】を引きづりながら、今でも、【四面楚歌という現状の“環境”】が、
今の私にとりまして…やはり【イメ−ジに属さないモノ!!関わりたくないモノ!!が多すぎた事】
なのでしょう。…この頃は、痛切に思います??
今の私の“環境”には【悪霊のかたまり集団…吸血鬼・ゾンビ…】に包囲されています。…が?
全てのもの事…例えば?仕事とか?行動なすこととか?を【妨害…】されながらですが、
この様な環境は、私にとりまして前代未聞…想定外なのですが〜〜〜??
■昨日より、更に!今日の【意識について】彼ら【悪霊…吸血鬼集団の満足度】は〜〜〜
益々“加速”されますでしょうが〜〜〜><
これでも【意志力=心の法則】にのっとりまして【心の法則…駆使…修行中】です!!
まだ〜まだ〜【討論形式】で、【真理…】を此処にて投稿させて頂きます。…が?
今の私は、昨日より今日〜♫〜今日より明日〜♫〜この様に強くなっていく自分自身を感じます。
「トキ様」は、どう思われますでしょうか〜〜〜??(少々…ブレイクしましたが??)
1228
:
a hope
:2012/09/04(火) 07:16:09 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
明るい心は健康の基(もとい)
愉快な明るい毒にならない言葉と申しましたが、愉快な明るい心と言葉とは
毒にならないでかえって薬となりますが、陰気な、暗い、ふさぎ込んだ心と言葉とは毒になります。
それは人の運命を悪くする毒になるばかりでなく、人の健康を悪くする毒になります。
黒住教の宗教(おしえ)を開いた黒住宗忠(むねただ)という人は、
一週間ほどの間に両親が相継いで死んだものですから、
悲しみの末、胸がふさがり、陰気な暗い暗い心になったものですから、
肺病にかかりましたが、人間は肉体は死んでも魂は生き通しであることを悟って、
心がクラリと一転しまして、毎日にこにこ笑うようになられましてから病気が治ってしまったのです。
そんな話は、生長の家の誌友の中にはザラにあります。
日本ばかりではない。
マーデン博士の本の中にも、米国アラバマ州の一人の肺結核患者の農夫が、
或る日、野良(の)へ出て鍬(くわ)を持って田を耕しているときに多量の喀血をしたが、
助かったという話が書いてあります。
慌てて招(よ)ばれてきた医者は、余り多量の喀血なので、
その農夫に「あなたはもう助からぬ」と申しました。
その農夫は「まだ死ぬのは早い」とだけ申しました。
しかし起きあがる力もなく唯じっとしておりました。
家族が出て自宅へ舁(かつ)ぎ込みます。
そのうちにやっと物にもたれて坐ることができるようになりました。
その農夫はこの時はじめて気がつきました。
「もう自分は世の中の全ての物にお別れをする時が近づいたのだ。
色々の物のお世話になって私は今まで生きて来た。
しかし自分はそれらの物に一度も礼を言ったことがない。
いつも自分はすべての物にシカメ面ばかりを見せて来た。
これから何分間生きるか知らないが、その間じゅう私は、
すべてのものに感謝して微笑み掛けよう。」
こう決心して、天井にも、机にも、敷物にも、本にも、
そのあたりに見えている全てのものに常に間断なく心で
「君たちありがとう、君たちありがとう」
と感謝して微笑みかけることにしました。
間もなく、病人は見違えるように元気になり、喀血のために減っていた血も暫くのうちに殖えてきて、
前よりも一層健康な愉快な男になってきた―――とマーデン博士は書いております。
(つづく)
1229
:
「訊け」管理人
:2012/09/04(火) 09:54:35 ID:???
『すべてを癒す道』(藤原敏之著)128頁より謹写――
<< 往信 >>
長年の生長の家信徒で、教えはよくわかっているが、心臓病と喘息で苦しんでいるという婦人から。
<< 復信 >>
合掌
御文意正しく拝承致しました。次から次と種々の魂向上のための自壊作用が現れ難儀しておられるご様子、心より御同情申し上げます。私達は天の使いとして神意を地上に顕現するための尊い使命によって、地上に誕生したものでありますが、また一面魂が無限に向上を遂げるための過程として人生学校に入学したものでもあります。ですから人生とはその人の魂の程度に応じて問題のあるところなのです。問題のないことを願う気持はわかりますが、それは神の子とわかってはいても、未だ自覚が得られていないからであります。神を知ってはいるけれども信じていないからであります。わかったのと信じたのとの違いであります。知った知識が救うのではなく、信がそのまま、即救いとなるのであります。
キリストも〝汝の信ずる如く汝にまでなれ〟と教えられ、又〝汝の信仰汝を癒せり〟とも教えておられます。よく判ったら救われると教えておられないところに御注目ください。
(つづく)
1230
:
「訊け」管理人
:2012/09/04(火) 09:55:07 ID:???
(つづき)
尊師谷口雅春先生も救いの根本が自覚にあることをお教え下さっております。自覚とは気がつくことでありますが、ただ表面の心で気がつくのではなく、魂(生命)で知ることであります。もっとわかりやすくいえば身体で知ることであります。信とは実感となることであり、実感は身体を通して知ったときであります。火が熱いとわかるのは、手に触れてみるからです。考えたからでも、熱い論理がわかるからでもありません。実感を通してのみ、信念となるのです。料理を食べておいしいと感ずるのは、訳がわかったからおいしいのではなく、食べてみたからです。料理に関する知識や訳が全然わからなくて食べても、おいしいものはおいしいのであります。いくらきいても読んでも救われないというのはこの肝腎の行がないからです。
何もわからず、知らずにいても、行じている人は救われるのであります。それは救われていない者は本来無いからであり、みんな既に救われておりながら、救いを現さないだけなのです。工事も完璧であり、電球も備え付けてあり、発電所では無限に発電せられておりながら、暗いのはスイッチを入れないからであり、電源につながらないからであります。発電所には電力があるとわかり、電球はともるとわかっておりながら、スイッチを入れないで〝どうして明るくならないのであろうか?〟と思い煩っているのと同じであります。信仰に最も大切なことは真剣さと素直さであり、勇気と行動力であります。何故かと考える先に行動致しましょう。救いの根本行とは、ただ〝有難う〟と感謝することであります。どうすればよいか・・・ではありません。そのままで感謝するのです。善くても有難く、悪くても有難いのであります。自分の力によるものは何一つないのでありますから、一から十までことごとく頂きものであった、丸貰いの丸儲けとわかれば感謝以外にはないはずであります。自己の力をちょっとでも頼みにし、当てにしている間は無条件に感謝出来ないのです。〝私が無かった〟とわかるとき、無条件の感謝となります。
人間としての私は昨日死んだものと決めなさい。死に切ってごらんなさい。今あるのは神様だけになります。神様だと決まったら、病気はないのです。神以外に〝私がある〟と思っているから病気を認め、病気を許すのです。病気と妥協し、病気の存在を許すから、無い病気が〝のさばって〟あるかのように幅をきかせるのです。今日限り、今限り、病気の存在を否定し、断乎として追い払いましょう。無い病気を認め、許すのが無明です。その無い無明が病気の姿をして頑張っているだけです。
『甘露の法雨』に「あらざるものを有りと想像するが故に迷いなり」とあります如く、全く夢であります。夢は無いけれどもみている間はあると感じて苦しむのです。あなたも病気の正体を見破りなさい。あると認めて治そうと思っておられる限り、あるように現われます。救われようと思い、焦っている限り救いは現われません。それは救われていないと信じているからです。救われていなかったら、生まれることも生きることさえも出来ません。生かされている事実を信じて、只管(ひたすら)感謝し、「有難うございます」を一日少なくとも、一万回以上誦えましょう。三時間半で一万回誦えられます。これを実行して十年間の全身リュウマチが一日で治った実例があります。なぜといって、理由も訳もありません。神様に波長を合わせるから、本来の姿が現われるだけであります。結果を予想せず、ただ「有難うございます」をコトバに誦えましょう。求めなくても結果(答え)は現われます。大根の種を蒔けば、訳も理由もなく大根が生えるようにであります。
このことを信じて唯々行じましょう。
再拝
<了>
1231
:
ハマナス
:2012/09/04(火) 12:45:01 ID:mR2szZkc
神の子のみなさまこんにちは。
業主の愛情の表現『新版生活の知慧365章』p.237
企業は業主のものでもなければ、従業員のものでもない、資本、経済、労働、知能の各要素が渾然結ばれたる有機的な一体のものである。その一体感が失われるとき、その企業は躓きはじめる。企業全体の繁栄は従業員全体の繁栄となるような構想で事業を運営するようにしなければならないのである。従業員をただの生産をあげる機械だと云うような考えから脱却しなければならない。仕事場全体が幸福の雰囲気に包まれているようにしなければならない。
時々、社長や部長の贈り物として、ややくたびれた頭脳をひき立たせる一個のケーキに添えてお茶又は珈琲などサービスするのも、仕事場を楽しい幸福の場にする社長の愛情の表現であってほしいものである。“愛情の表現"が必要なのであって、そう云う規則と云うことになってしまっては、空気は必要であるけれども、それを与えられることによって何の幸福感も感謝の念も起こらぬのと同じことで、このようになっては効果がない。
感謝合掌
1232
:
SAKURA
:2012/09/04(火) 17:23:47 ID:jH5uEFzM
a hope様 ヘ
こんにちは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
【横スレ?】ここの“ボード”良いのかしら〜〜〜ン?と思いつつも……
>>1223
>>1224
【a hope様の投稿文】を拝読させて頂きまして……
■>一人の神の子を自覚した人の真心と愛行によって、このようなすばらしい成果を生むことができると
いうことを、眼のあたりに見せていただくことが出来たのであります。
知った力には限界がありますが、信じた力は全く無限であります。…云々… (一部抜粋)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■藤原敏之先生の「あなたは必ず救われる」…此の抜粋文の紹介…ありがとうございます。
私も…時々「藤原 敏之先生」の書籍を、紹介させて頂いておりますが…
実は?先生との出会いもありますが…
先生の「ブックカバーの中に記載されています言葉」が〜特に!私は印象深く、それからの始まりでしょうか。
〜〜〜【一部抜粋投稿】 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
「あなたは今幸せですか?」とたずねられて、
「ハイ幸福です」と言いきれますか。
人間は誰でも多かれ少なかれ不安を持っていて、心の底ではもっと安心を願いながら本当の救いを
求めいます。…云々…
“人生という畑に菜っ葉を願っているのに大根がでてきてしまったら、菜っ葉の種を蒔けばいいのだ“と。
“行く先の違う電車に乗ってしまったら、ただちに乗りかえよう”と………
さて皆さん、菜っ葉を願いながら大根を蒔いている方はありませんか?
東京に行きたいのに九州行の電車に乗っている方はありませんか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
ツイ〜ツイ〜♫ 笑ってしまいまして「菜っ葉派?ダイコン派?…」と、此処から引き込まれましたでしょうか?
このように「書籍」との出会いは、“心”があらわれる思いが多々あります。
今回の紹介して頂きました「抜粋文…」本当にありがとうございます。【真理…】を、勉強して参ります上で、
今後とも【a hope様…聖典抜粋…】楽しみに、致しております。
何卒、宜しくお願い致します…。(おそくなりましての“返事”…申し訳ありません。)
再合掌
1233
:
SAKURA
:2012/09/04(火) 18:52:50 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ―マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
■幸福を招く365章
――――― 誰かに役に立つよう心掛けよ ――――
何か、誰かに対して役に立っていると云う想いが自分の存在価値をみとめしめるのである。
誰かのためになることを一日に一度でもせよ。それは貴方の生活を支えて行く力となるのであろ
う。人のためになる行為は自分の生活の基礎を築いて行くのである。自分のためになる仕事は
その基礎の上にのみ築かれてのみ永続するのである。一つとして人のためになる行為をしたこ
とのない人は、どんなにその人が成功しても、心の中には敗北があり、寂しいのである。与え
る物がなければ、激励の言葉や、鼓舞する言葉や、誉める言葉や、愛語や、微笑を与えるだけ
でも相手を生かすことができるのである。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
PS:トキ様
此処「2チャンネル…ボード“のコメンターの方で、非常に身内びいきの表現とか?敵対心とか?
丸出しでの表現文章…が出てきます時は、つい!こちらも構えてしまいますでしょうかしら〜〜ン!
あくまでも「投稿文章の中の世界…」ですから、その人の“心の広がり”を表現するのが、大事では…?
何故なら「狭い範囲の世界」ですから、当然の事ながら “表現”が、非常に重視されるのです〜〜〜ョネ!
読者の皆様は、「御本人達の読みなれた人?ファン?」の対象から先に、閲覧でしょうから……
如何に、“表現方法”が出来ますかは、読書(本の購読)により、相手に伝える事が出来るのでしょうと??
最近!他人の言葉を“スル―”して表現されていますが…その人の【個性の捉え方】では……
と、視点を変えまして、考える様にしています。
この様に「置き換え…」て、切り替えて参りますと……
【対話形式】でも、やはり“聞く事”・“熟読する事”で、つながりが、もっと出来るのでしょうか〜〜〜??
更に、それに付属して【相手を賛嘆】しながら、生かす事が…大切な事でしょう〜〜〜。
但し…此の生かす事は “媚を売る” のではなく、自由に私自身の意見を発言しながらも、
先ず!相手の意見を、受け入れながら、吟味しまして、尚!かつ自分の意見を、相手へ伝える事が、
真の意味での、相手をたてる事なのではないのかしら〜〜〜ン!と、この頃、つくづく思います。…が?
今回【此処の別のボード】で、時間をかけて投稿しましたら“投稿文章”が長いので、その後でしょうか?
【ネガティブ言葉(暗い)…】を頂きましたが?個人的に、その様に“投稿表現”が、そうみましたが???
■【SAKURA】に埋め尽くされます〜〜〜。と“文章の短さ”に、当時の私は、不快感を、頂きました…。
それに、別の方々が…【同じように…各ボード埋め尽くし作戦】されても??何の音沙汰?と言いましょうか?
批判的言葉…されて居ません〜〜〜モノ!!
■【イジメ…】でしょう〜〜〜!!
その後!其の方の文章…全てが暗い〜暗い〜暗い〜暗い〜感じで“ネガティブ表現”に…
本当に、この方?「生長の家…」なのでしょうか?御本人は「教区…」とかおっしゃいますが〜〜〜??
もしかして…幹部?本部職員?部外者?……etcこのような【人間模様…】が、色々いますので、
今後!相手を生かす事を、果たしてこのような人達が、何処まで出来ますでしょうか?悩んでしまいますが?
たまたま【ネ ッ ト の 世 界】ですから……【心 の 修 行 】と思いながら……
現在の私の心模様は “トライ!!トライ!!” しながら前に前進!のみです。
「トキ管理人様」は……
今日の「雅春先生」の言葉…■【相手を生かす】この件は、どの様にお考えなのでしょうか??
再合掌
1234
:
うのはな
:2012/09/04(火) 22:49:20 ID:wEsUJlf6
實相直観的思念法は、三段論法的に一歩一歩論理的に積み重ねて行くことなしに、
直観的に相手が神の子であることをそして完全であることをそして完全であることを
直観するのである。
もし彼が真に神の子の完全さを直観することが出来るならば、たちどころにその
治癒は完成する。
メンタル・サイエンスの治療家は病人から病気と見るものを自分の心の中に奪いとり、
それを自分の心の中で真理の光に照して熔してしまうのである。それが行われる場所は
どこまでも自分の心の中である。
メンタル・サイエンス奥義 谷口雅春 先生
1235
:
a hope
:2012/09/05(水) 07:00:37 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
常に微笑せよ・常に感謝せよ
明るい微笑と感謝の心こそ、浄(きよ)い健康な血液の造血者(つくりて)なのです。
増血剤(ぞうけつざい)をいくら服(の)んでも暗い心で血を瀆(けが)していては何にもなりません。
多くの病人が治らないのはそのためです。
心が腐れば肉体が腐るのです。
心が腐れば事業が腐るのです。
「笑う門に福来る」です。
明るく笑う人の前には、常に健康と幸福の門が開いているのです。
微笑にまさる健康法も幸福法もありません。
(つづく)
1236
:
「訊け」管理人
:2012/09/05(水) 11:34:26 ID:???
――――――――――――――――――――――――――――
「あなたは苦しみが伴うから無い病気をあると認めておられ
ます。つまり迷いと妥協し、偽もの を許しておられます。」
――藤原敏之
――――――――――――――――――――――――――――
合掌、ありがとうございます。さて本日も『すべてを癒す道』より藤原先生のお言葉、謹んで紹介させて頂きます。宜しくお願い致します。
『すべてを癒す道』131頁より謹写――
<< 往信 >>
長年の喘息の発作に苦しむ、入院中の女性。
<< 復信 >>
合掌
お手紙によりますと、長い間の喘息の発作にてお苦しみの御様子、誠にお気の毒です。七月の練成会にもおこし頂いたそうですが、未だ快癒せず入院中の由、私の祈りと愛念の不足を痛感致し、深くお詫び申し上げます。
あなたは宗教による救いと医師の医療とを混同しておられるようですが、身体に現れた疾患を治すのは医師の仕事であり、医療の目的でありますが、宗教の目的はそのような現象の悪や不完全を取り除いたり、身体の病気を治すためのものではありません。神様を医療の代行機関や薬や注射と間違えてはなりません。信仰によって、難病や奇病が癒えるのは悪いのが何かの力を借りて、何かを足してもらって快くなるのではありません。元々、どうもなっていないから、どうもなくなるだけです。あなたのお手紙では、どうもそこの所が未だ本当におわかり(覚り)になっていないように思われます。生長の家のみ教えは絶対でありまして医学や常識では絶対に治らないとされている業病や奇病でも簡単に消えてしまって、治っているのですが、あなたの考えておられるように悪いものが何かによって快くなるのではありません。どうもないと覚ったとき、どうもなくなるだけであります。練成会のときにも申した通り、目を閉じて暗い暗いと思っているのが、目を開けなさいといわれて素直に目を開いて今まで暗かったのが明るくなるのであって、本当に暗があるのであれば、どんなにしても暗を除くことは出来ないはずであります。光を見ないから暗いだけであります。夢の中での出来ごとがどんなに恐ろしいものや苦しいものであっても夢は元々実在ではないから目がさめれば、みんな消えてなくなるのと同じであります。宗教による解決法はすべて今まで本当だと思っていたものが、例えば目に見えるもの(現象)が実在だと考えていたのが、根本的なまちがいであって現象はすべて影であり、実在ではなかったと心の底から気づく(自覚する)ことであります。肉眼では見ることの出来ないもの、即ち本当にあるものは生命であり、理念という心であったと気づくことであります。普通一般常識はみな逆なのです。実在するもの(實相)は目に見えないから無いと思い込み、影である現象は目で見えるから本当にあると思い込んでおりますが、このことを仏教でも生長の家でも無明である、これが根本的な間違いであるとお教え頂くのであります。
しかも一切の苦悩、病気も貧乏も争いもことごとく無明から生まれると教えられます。この根本を解決せず、結果である病気だけを治そうとしても本末転倒ですから解決のしようがないのであります。あなたほどの人であれば、ここの道理がわからないはずはありません。したがって運命も環境もすべて心で決め、心の思っている通りに現れるのであります。
あなたは苦しみが伴うから無い病気をあると認めておられます。つまり迷いと妥協し、偽ものを許しておられます。お化けがいると思っているのと同じであります。無い現象の方を信じ、實相(真理)を信じていないから、「よくなりたい、よくなりたい」と願いながら、いつまでも治らないのであります。あなたはみ教えを知り、理解はしておられるようでありますが、未だ信じておられないようであります。
(つづく)
1237
:
「訊け」管理人
:2012/09/05(水) 11:35:01 ID:???
(つづき)
宗教は学問ではありません。私達は現実に生活しているのであって考えているだけではありません。宗教は考え方も変えますが、生活をも変えるのであります。実践(行)を伴わないのは宗教学であって信仰とはなりません。お腹の空いたのは、どんなに食べたらふくれるとわかっても考えてもおいしくもなければ満腹感も生まれません。行を通さなければ実感とはなりません。実感を通さないから信とはならず、現実の救いともならないのであります。〝こうらしい〟と〝こうだ〟とでは内容的には大きな開きがあり、力の生まれる度合いに於いては問題にならない程大きな違いを生ずるのであります。先ず第一に神の子である事実を生命で把握しましょう。自分の力で出来ていることは何一つない事実を素直に確認し、根こそぎ全托しましょう。後は神の生命、神の権能(ちから)だけに生かされている事実に目覚めましょう。
病状から推察してあなたは大変潔癖症で間違ったことは許せないという性格のようですね。その上大変気が短い方のように思います。喘息になる方は大体性急な人です。これは長所であると同時に短所でもあります。この性格は信仰による以外にはちょっと治りません。それとご主人に〝絶対ハイ〟が足りません。心の底でご主人の命を突き返しておられる、その心が息(生命)の通る道をふさぐのであります。神の子だと自覚したとき、他を裁く心がなくなり、そのままで感謝し拝めるようになります。責める気持が逆にお詫びする心になります。喘息など神様がお造りにならないから元々無いのです。あなたの思いが一変すれば勝手に消えてしまいます。あなたは今、尊い体験を通して喘息で悩んでいる沢山の人を助ける使命をさずかっておられるのであります。喜びを以て精進して下さい。
<了>
1238
:
SAKURA
:2012/09/05(水) 23:04:25 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043
>>1044
>>1052
>>1057
>>1058
>>1063
>>1068
>>1073
>>1087
>>1092
>>1093
>>1097
>>1098
>>1167
>>1170
>>1171
>>1174
>>1175
>>1190
>>1194
>>1210
>>1227
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
■【ベスト・フレンド】 ( 混乱を静める方法 )
――――― 混乱静める方法 ―――――
|❤ それはまったく深刻なことですね。
あるいは驚かれたかもしれません。正しい行為はこの世でもっとも人間を
満足させてくれるものです。逆にいうと、誤った行為をしていると、気持ち
はつねに不安定になります。自分が失敗したなと感じることは自分自身にき
わめて強い衝撃を与えます。
人々が変化を望まない理由はここにあるのです。変化を求めることは、自
分のまちがいを認めることになるからでしょう。かってある患者が怒って、
『しかし、そんなことをいえば、わたしは生まれてこのかた四○年間を無為
に過ごしたことになるじゃありませんか』といったことがありました。多く
の人のなかには、自分の過去の過ちを悔いて損失を少なくするよりもむしろ、
これから四○年間、いままでと同じ過ちを繰り返す方がいいという人もいる
のです。
人間とはなんとかたくなな存在なのでしょう。現在の誤れる行為を少しで
も長くつづけていれば、そのうちそれが正しいものとして認められるように
なるだろうとひそかに信じ込んでいるようです。現実は彼らのものの見方に
したがうようになるでしょう。その逆ではありません。こうした人たちはい
まなお自分の両親を降参させようと努めていることになります。たとえば、
自分が五歳のときにしてもらえなかったことにたいする怒りの気持ちをいま
だに捨てきれていないのです。
しかも、そうした怒りをきわめて正しいものと考えています。そして自分
がいかに不公平な扱いを受けたかについて、くどくどと説明するでしょう。
ふつうはそれはそれで正しいといえます。つまり、その人はかって子どもで
あったときにあざむかれたわけです。しかしその人は、現在、おとなとして
自分自身をあざむいているということに気づいていないのです。その人が、
かって自分を拒否した相手にたいしていまでも怒りのエネルギ−を費やして
いる限り、自分自身にとって必要な事柄を達成するための努力ができなくな
ります。その怒りは両親を傷つけるのではなく、自分自身を歪めることにな
りかねないのです。
PS:トキ様 へ
わたしも【お家騒動…分派の方の考え方…】を、理解しようと思いました。…が?
彼らは、あくまでも『雅春先生時代通り?…そのままでしょうか?つまり!昔のやり方に、
誇示している様に、思えてなりません。…が?これは、
私!戦後生まれ…です。【第一世としての両親の運動展開 】を、幼少から見ていましたが、ある時、
高校の終わりの頃でしょうか〜〜〜?当時!私の街は、殆ど方が「生長の家…家族」でした。
なのに?どうして?なぜ陰りが?出て来たのでしょうか〜〜〜?【原因は??】
彼らは余りにも【昔の運動体制…】のみを良い!!この様に美化しているのでしょうか!!
最近は、思えてなりませんし、当時の私も両親が、熱心に運動展開をしていましたから、【当たり前?】
でしたが……ここにきての【お家騒動…】を考えますと?
■時代の流れを考慮し、その時代の人々の“心の中の深層部に…伝わる真理・伝導”が必要では・
今回「今日の言葉」より、過去のやり方を〜〜〜><
【 正しいと信じている姿は、時代の流れに、取り残された集団!!!】に、
つい!つい!見えるのでは?その様に思えてなりません…。どの様にお考えでしょうか〜〜〜?
再合掌
1239
:
ハマナス
:2012/09/05(水) 23:55:34 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんばんは。九月に入り、朝晩が少し、過ごしやすくなりました。
人間の三つの願い (『新版 生活の智慧365章』P.239より)
従業員の魂に“悦び”の油をさすのは、上役の思慮深き親切さと、従業員の仕事の価値を
みとめてやり、それを誉め且つ、その仕事に報いるだけの待遇をしてやることである。そして、
お前の仕事がこんなに会社の、そして人類の役に立っているぞと云う認識を新たにしてやる
ことなのである。
人には是非とも必要な三つの願いがあるのである。それは(一)愛されたい。
(二)認められたい。(三)人のお役に立ちたいと云う願いである。上役から自分たちは
愛されている。上役から自分たちは認められている。自分の働きが会社及び人類の繁栄に
役立っている。このような自覚が得られたときには、給料などの多寡は問題でなくなるの
である。「人は己を知る人のために生命(いのち)を損てる」と云う諺があるが、従業員の
実相を知り、その誠実をみとめ、それを礼拝するとき、全ての従業員はその会社の繁栄の
ために働くのである。
感謝合掌
1240
:
a hope
:2012/09/06(木) 07:22:14 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
腹の立った時は人を咎めてはならぬ
他(ひと)が間違いをしても、相手を愛する心でその間違いを静かに教えてあげることはよろしいが、
それを荒立てて、激しい言葉で非難するなどということはよくありません。
もし相手を憎む心が起こって、腹が立っているのでしたら、むしろ何も言わない方がよいでしょう。
激しい言葉を使えば、そういう激しい言葉を出し自分自身の心が乱れます。
頭がイライラして不愉快になります。
その不愉快がいつまでも続いて、一日中暗いムシャクシャした気分で生活しなければなりません。
他が悪いのに、その悪い人よりも自分自身が暗いイヤな気持ちで暮らさなければならぬなど愚かなことです。
それよりも他が悪ければ、その悪いということを、心に外へ逐出(おいだ)してしまうことです。
そして反対に「あの人は好いのだ」と心の中で何べんも強くとなえるのです。
何事でも心の中でそれができて、外に現れてくるのですから、心の中で「そんなことはないのだ」と強く打ち消せば、
その悪い事柄はきえてしまうのです。
(つづく)
1241
:
うのはな
:2012/09/06(木) 10:58:03 ID:uISmJ.rA
晴れときどき競馬とホークス いいちこ氏 ブログより
吉田圀太郎 講師
http://blogs.yahoo.co.jp/yghms533
1242
:
ハマナス
:2012/09/06(木) 23:46:24 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんばんは。
「愛」は最大の投資 (『新版 生活の智慧365章』P.240)
上役は下役の者に恐れられるようであってはならない。しかし馬鹿にされ軽蔑されては
ならないのである。上役たるものは下役の者から尊敬されるだけの徳をもたなくてはならない。
と同時に下役から親しまれるだけの愛をもっていなければならない。
若し下役が問題を起こしたら、それについて譴(とが)め立てする代りに、それを赦し、
相手の身になって同情してあげるだけの雅量をもたなければならないのである。相手の身に
なってする「親身」の同情は、一体感を深く味わわせて、「愛」によって、その従業員と
自分とを結びつけることになるのである。親身になってする同情は、彼と我とを直接に魂の
底から結びつける働きをするものである。それは最も大いなる事業投資となるのである。
従業員が、業主及び上役に、親身の愛を感ずるようになる以上に大いなる投資はほかには
ないのである。
感謝合掌
1243
:
a hope
:2012/09/07(金) 08:01:14 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
世の中には何ひとつ悪はない
心を常に明るくするには、この世の中に何ひとつ悪いことはないということを信ずることです。
自分にとって都合が悪くみえていることでも、それが都合が悪くみえるのは、
自分の考え方が狭いからで、もっと広々とした心で考えてみれば、いま都合が悪くみえることも、
実は必ず後々のためになっているのだと思えば、どんなことでもありがたく愉快に生活することができるのであります。
倒れても、倒れなければ得られないところの何かを教えられるにきまっています。
躓(つまず)いても、躓かなければ得られないところの何かが得られるに定まっています。
金持ちになるような人は「転んでもタダでは起きない」と申しますが、
何事によらず世の中で立派な人だと言われるようになっている人は、
転んでも、倒れても、何かを握って起上がってくる人です。
その人が再び起上がったときには、転げる前より偉くなっているのです。
こういう人には失敗というものはありません。
常に成功、転んでも成功、倒れても成功です。
こういう人はどんな時にも陰気に欝(ふさ)ぎ込んでしまうことはありません。
常に明るく、常に微笑しているのです。
(つづく)
1244
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:37:49 ID:xKxowNU.
<第6回WEB誌友会予告>
≪日時≫ 9月7日(金)21:30より
9月9日(日)23:30まで
≪テキスト≫ 『生命の實相』第1巻「實相篇 光明の真理<上>」P113〜P166
≪内容≫ 第4章「心の世界における運命の形成」・第5章「生きた事実を語る」
≪場所≫ WEB誌友会板
――ということになっております。
それで、以下に、そのテキスト(『生命の實相』第1巻「實相篇」第4章「心の世界における運命の形成」・第5章「生きた事実を語る」【頭注版P113〜166】を、20回に分けて謹写掲載させていただきます。
WEB誌友会にご参加の皆様、どうぞ以下のテキストご文章より、感銘を受けたところや疑問を感じたところを部分的にコピペして意見を投稿する・・・などにご使用ください。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1245
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:38:43 ID:xKxowNU.
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(1)
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第四章 心の世界における運命の形成
運命のケミカライゼーションという話がでましたので、ここにちょっとわれわれの運命は「心の世界」でいかにして形成され、現実界へいかにして出現するかの問題をのべておきたいと思います。
昭和五年十一月十四日午後零時半のことでした。私は用事があって私の先輩、今井楳軒氏を神戸に訪ねたのでした。その日の午前九時浜口首相は東京駅において愛国社の某青年のためピストルにて狙撃され腹部に重傷を負うたというので、往来はその号外でにぎわっていました。わたしは今井楳軒氏にお目にかかると、すぐ「浜口首相は大変な目に会いましたね」といったものです。今井氏は「実に人間の運命は不思議で、感慨ぶかいものがある。それで今ある人に手紙を書こうと思っていたのだ」といってわたしに話しだされたところによりますと、田中前首相がとつぜん急死された時、今井楳軒氏はある霊媒を使って、ある霊界の霊人よりその後の政界の推移について聞かれたそうで、そのさいの霊告によれば、浜口首相の運命だって平和ではない、不慮の危害を加えられる恐れがある。その時期は昭和五年の秋の終りか冬の初めということだったそうであります。
こういう予言はみだりに他人に口外すべき性質のものではないので今井氏は他の人には少しも口外せられませんでしたが、王子製紙株式会社の取締役堀越寿助氏にだけはこの予言をあらかじめ話しておかれたので、堀越氏も今ごろその事を思い出して感慨深いものがあろうとのことでした。堀越寿助氏は『生長の家』の誌友であられましたが、浜口首相の令甥水口出世氏が王子製紙淀川工場長をしていられた関係上、水口氏と親しい間柄でありますので今井楳軒氏は堀越寿助氏にだけ、その当時すでにこの予言を発表しておかれたのでありまして、この事実によって田中前首相逝去の当時すでに霊界では浜口首相が何者かに狙撃されるということが明らかになつていたという生きた証人があるわけであります。
予言の的中した実例は、他にいくらもあるのであります。ここにも欧州大戦の予言的霊告の実例を挙げることにいたします。この時使われた霊媒はレイヌというフランスの一少女、立ち会い人たる審霊者はコルニリエというフランスの画家、霊告者はヴェッテリニという霊人であります。それは一九一三年二月十四日の降霊会にあらわれた霊示であって欧州大戦は一九一四年に始まったのでありますから約一年半前の霊示であります。次に掲ぐるはその当時のコルニリエ氏の手記であります。
「一九一三年二月十四日。午後三時。われわれはテーブルにあい対してすわった。長時間霊媒の休養の後なのでテーブルは激しく、猛烈な運動を始めた。レイヌは大喜びだ。彼女は今までこんな激しいテーブルの運動を見たことはなかったのである。午後四時、われわれは小さな暗室にはいった。採光はほとんど理想的というほどの暗さである。赤いランプをともしておく。自分は正式に順序をふんだレイヌを遊魂状態に導く。ばんじ都合よくゆくらしい。レイヌはすぐに深い遊魂状態にはいる。例のように体温が冷たくなってくる。自分は彼女の椅子の周囲をまわりながら霊的流動対を送り彼女の霊が完全に肉体から遊離するように命令を繰り返す。
突然、彼女は身体をのけぞらして驚いたように両腕をひろげた。何か恐怖すべき光景を見たかのような所作である。赤いランプと、かすかにさしこむ昼間の光で自分は彼女の身ぶりと表情とを読むことができた。彼女は恐怖にみちた金切り声で叫びだした。
<つづく>
1246
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:39:48 ID:xKxowNU.
<つづく>
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(2)
-----------------------
「ア……ア!……大変です、大変です。恐ろしい光景です!……まあ、ごらんなさい、みんな戦っています。軍人、騎馬の軍人――オオ、なんという恐ろしい戦いでしょう!……血、どこもかしこも、そして火の海です!オオ恐ろしい、恐ろしい皆殺し!なんという虐殺……どこもかしこも死骸だらけです。数千の死体、数千の怪我人。四方八方火の海です――死と火とばかり。市街は崩壊しています!……天井からも炎、大空からも弾丸が降って来ます!……アア……たくさんの軍人が列車に乗っています。戦場へ行く軍人です。……ああ、このたくさんの馬……数千の馬が列車に積み込まれます。列車……列車……数限りがない、数えきれません……。どの列車も軍人ばかりです……みんな殺しに行くのです。……いたるところ、炎の海です! 森といわず、町といわず、国中荒れ果てています……殺人と劫掠とのほかには何もありません。オオ、なんと恐怖すべき光景! なんと恐怖すべき光景! オオ……オオ……オオ!……」
こういうと少女レイヌは椅子の後に身体をドシンともたらせた。恐怖すべき光景を見せられたので烈しい息をしてあえいでいるのだ。彼女の縮めた手は、私を探しているかと思うと、自分の眼をおおった。
しかし、恐るべき光景はなんの容赦もなしに彼女の前に展開するもののようだ。
時々、彼女は自身の叫び声を止めて、眼の前に展開する光景を説明する。彼女の説明では、実際それは活動写真のように見えるらしい。「眼路(めじ)のとどく限り、戦争がつづいています……地上全部、空まで、砲煙弾雨……すべては殺戮(さつりく)と破壊です。それはフランスだけではありません、ヨーロッパ全土です。……フランスは長い間戦争に参加しませんが、ついに参戦します……それは避けがたいのです……」
霊示の光景はまた変わる。また別の恐ろしい光景、いな、いっそう凄惨な光景といってよい。
「だって……パリです……燃えているのはパリです……オオパリ!……全市が戦っています。どこもかしこも殺し合いばかりです……そのほかに何もありません! 全市が破壊されました……廃虚、ただ廃虚です……建物の壁の一部があちこちにまだ残って煙を吹いています……死屍が山とつんでいます……血の河、血の洪水…それに飢餓が迫ってきます。パンさえない……殺戮を免れた人々も飢餓のために死んでいる!」
以上はその一部にすぎませんが、ともかく一九一三年二月十四日においてすでに約一年半後において起こるべき欧州大戦を、少女レイヌがありあり見たということは、実に意味深いことだといわなければなりません。どういう点で意味深いかと申しますと少女レイヌのように、まだ物質的世界に現われていない未来に属する事件を眼に見ることができたり、あるいはそのほか今井楳軒氏のあげられた予言のように、未来の出来事を予め知ることができたりするのは、世界の事件は物質世界に出てくるまでに、「物質とは異(ちが)う世界」ですでに形造られていると考えるほかに説明することはできないのであります。
よくこの点をお考えください。全然無いものは見ることも知ることもできないはずであります。また物質世界にすでに出て来たものが見えるのも当然であります。しかし物質世界にまだ出ていない事件を見たり知ったりできるのは、その事件がすでにどこかになければならないのであります。そのどこかというのも、物質世界にはまだその事件は起こっていないのですから、物質世界のことではむろんありません。そうしたらその「どこ」かは「心の世界」とか「念の世界」とかいうものだと断定しなければならないのであります。
じっさいいろいろ最近の研究の結果によりますと、すべての地上の事件は「物質世界」にあらわれて来る以前に「念の世界」でできあがるのでありまして、「念の世界」でできたとおりが、物質世界に映ってはじめて地上の事件となってあらわれて来るのであります。
<つづく>
1247
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:40:41 ID:xKxowNU.
<つづく>
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(3)
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この「念の世界」でできあがるという事件は、すでに永劫の昔からできあがっていて、もうちょっとも変えることができないものであるかといいますと、決してそうではないのであります。「念の世界」でできあがる事件も、宇宙に満ちているいろいろの生物の心の働きの組み合わせにしたがって、時々刻々作られてゆくのであります。
大きなあらすじの事件は、多くの「念」の働きを成立要素としてこまかい事件よりも早く、いわばむしろ、多数の「念」の多数決で決ってゆくのでありますが、それとて「進行中」のものであって、できあがってしまったものではありませんから、ある事件を起こしている「念の要素」の変化によって、またその事件は変わってゆくのであります。ここにわれわれの運命を支配しうる自由があるのであります。
レイヌの霊視した状態とはしだいに少しずつ変化しているのでありまして、後に霊視した状態ほどけっきょく物質世界にあらわれた時の状態に近いのであります。つまり、これは最初に「念の世界」にできた事件が「物質世界」に顕われて来るまでには或る時間がかかる、その時間のうちに「念の世界」に起こった事件を修正するようにしたら、「物質世界」にはその修正したとおりに事件が変わって顕われて来るという事実を示しているのであります。
われわれの災難とか不幸とか病気とかいうことも最初は「念の世界」に造られるのでありますが、これも「物質世界」に顕われてくるまでに「念の世界」にまだ事件があるうちに、修正(なお)しておいたら、災難が災難にならず、不幸が不幸にならず、病気が病気にならずに「物質世界」にあらわれてくるのであります。
つまりメタフイジカル・ヒーリングというのは「念の世界」における事件を修正しておいて、こん後「物質世界」へそれが映って現実の事件として出て来るさいに不幸や不健康をなるべく出さないようにする方法だということがいえましょう。
しかし多勢の「念の総合的力」で強く決ってしまった事件、たとえば災難は、われわれがいかに精神統一をして、その反対の思念をしましても、その事件を起こらなくさせるということはできないのであります。そういう場合には、われわれ自身の心がその災難の渦中にひきつけられないような健全な信念をもっていさえすれば、災難は起こりましても、「類で無いものは反発する」という心の法則によりまして、たとい災難を受くべきもののみがその災難の渦中に巻きこまれましても、自分は、その災難の渦の外へ放り出されことになるのであります。
米国カリホルニア州ロスアンゼルスの心霊治療家ピー・ハワード夫人の手記には次のような一節があります――
「ある日わたしは朝食後の皿を洗っていました。その時わたしは数マイル隔たったところに住んでいる友だちを訪問したいという気が起こりました。わたしは仕事を簡単にすませて外出の服装をととのえました。その時とつぜんわたしの気分が陰欝になり、何者かに押しつけられるようで、外出がとてもいやになりました。どうしてそんな気分になったのかわたしには判りません。
わたしは服装を整えながら、気分を引き立てようと努力しました。とうとうわたしは帽子をかぶって片手に手袋をはめながら戸口のところまで出ました。しかしどうしたことだか、とても耐えられない憂鬱に襲われてわたしは部屋へ舞い戻らざるをえませんでした。わたしは部屋へ戻るとひざまずいて、『神よ、いったいこれはどうしたことですか』と尋ねました。とつぜん、その答えが強いシッカリした声で聞えました。
『家にとどまれ!』
わたしはその声にしたがって家にとどまることに決めて、帽子を脱ぎ、手袋もケープもかなぐり捨てると、わたしの気分は晴れやかに明るい気分になってきました。
わたしは『家にとどまれ!』という声だといいましたが、声というほかに説明のしようがないので声と仮にいったのであります。誰かがわたしを尋ねて来ようとしているので家にとどまっているように神から命ぜられたのだと思いました。
ちょうどそれはわたしが宗教家として、また霊的治療家としてたった最初の年でした。しかしその日は誰も訪ねて来ませんでした。夜になってもいぜんとして誰も来ません。それでわたしは『なんのことだ、ばからしい。友だちのところへ訪問したらよかった』という気がして来ました。
ところが、ちょうどわたしの乗るはずになっていた列車に大事変が突発して多数の死傷者ができたのでありました。……これはわたしの多数の経験中の一つです。わたしはわたしの直覚に従って失敗したことはありません。」
<つづく>
1248
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:46:29 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(4)
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また、高橋正雄さんの雑誌『生』の第二巻第十一号に三輪栄子さんの火事にあったときの実話の筆記がのっていますが、それにも似たようなことが書いてありますから、その一節を次に抜粋させていただきます。
「後から考えてみますと、神さまのご都合はおそろしいものと思いますが、わたしは子供に小さい時分から、夜分寝る時にはすっかり着物を着替えさせる習慣にしておりますが、その日に限って頭が痛くて、どうも気分が悪くて、シャツもズボンも着たまま寝させました。
わたしも頭が痛くて寝つかれないので、うつうつしておりましたが、その時にパチパチという音がしましたので、雨が降って雨だれが落ちる音かと思っておりましたが、そうするとなんともいえない音がしますので、何かひっくりかえったのかしらんと思っておりましたが、ひょっと起きて障子を開けて工場に出ますと、上一面に燃え上がっておりました。……」
三輪栄子さんは、その夜、頭が痛かったために、自分は寝つきが悪かったし、子供を寝巻に着かえさせずにいたので、いざ火事だという急の場合にすみやかに子供をつれて避難されることができたのであります。
おそらく、三輪さんのお宅が火事にあうということは「念の世界」ではあまりにも確定的にできあがってしまったので、これを止めることはできなかったのでありましょう。
しかし、火事が起こるということは避け難かったにしても、焼け死んだり怪我をしたりするような不幸と、信心深い三輪さんの心とは「互いに類でないものは反発する」という「心の法則」によって、互いに反発して、三輪さんは焼死と火傷との渦巻きの圏外へ放り出されざるをえなかったのです。そのためそこに起こるはずになっている火事をそれとなく予知して、三輪さんの潜在意識(おくそこのこころ)は、その晩、三輪さんを眠らせないでおき、子供も避難しやすいように寝間着を着せず常着のままで寝かしつけてあったのであります。
三輪栄子さんはまたつぎのようにいっておられます――
「保険に入ります時にも、信心のお陰で、神さまのお引き立てが多いように思われたのであります。最初ある保険に入っておりましたが、その保険会社が新聞に出ましてどうも噂が悪くて不安でしようがないので、これではまさかの時にもらわれぬかもしれないと思いまして、ほかに替りたいと思っておりましたが、その時ちょうど東京火災なれば社長さんも安田さんであるから、まさかの時にはもらえるであろうと思いまして、葉書を出して来てもらいました。ちょうど主人の留守の時に来ましたので保険は捨て金でありますけれども、一万円ぐらい入っておかなければまさかの時には半分もとれませぬからね、などと冗談をいいながら一万円入りました。それは七月のことであります。そうして最初の保険会社の方は解約ということにしました。
そうして主人が帰られましたからこの事を申しますと、一万円は多い、みすみす捨て金である、こういう一軒屋でうちより火を出さなければ類焼するということはない、気を付けさえすれば火は出ない、一万円も入らなくてもよいといわれましたがわたしは何を始末しておいても、入っておきさえすれば心配がないからといって、ちょうど七月に一回かけましただけで、もらうようになりました。それが唯一回の掛金だけで九千円もらいました。
そうしてそれを得意先の方に、全部お渡ししまして、あとはどうにかこうにか切り抜けさせていただきました。こん日こういうようにご贔屓(ひいき)になりましてやらしていただいておりますのは、まことにありがたいことだと思っております。……」
この話でもわかりますように、火事が他のいろいろな関係上、ある場所に避けえられないような場合でも、神によって護られているという強い信念のある人は、護られていないという事実(怪我をしたり損をしたりするような事実)と「心の法則」によって互いに反発しますから、怪我さすような事件や損さすような事件がいかに近くに出てきましても、まるで自分だけは油と水とが混じらないように、自分の身体とその不幸とが別々になっており決して自分の運命にまで不幸がしみこんで来ることがないように自然になるのであります。
<つづく>
1249
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:50:02 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(5)
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誰でも「災難にあった」というような時には、外から「災難」というとんでもない乱暴な奴がやって来て、自分にはなんの罪もないのに、ぶっつかったと思うのでありますが、われわれが災難にあって自分が傷つくのは、その災難と自分の心の状態とが、類似性をもっていて、互いに「類をもつて集まる」ようになるからであります。
自分の心が招(よ)ばない物は何一つ、この世で自分に近づいて来ることはできないのであります。
自分の心の状態が、災難や不幸とは全然似つきもせずかけはなれた明るい信仰状態にいましたなら、われわれは災難や不幸のまっタダ中にいてさえも、災難や不幸から鰻(うなぎ)のようにぬるぬる滑り出して傷つけられるということはないのであります。
誰でもこの三輪さんや、ピー・ハワード夫人のように火事が起こっても自分も焼けず、家は焼けても保険金がおのずからはいって来て焼けないと同じ結果になる。汽車が転覆するような時には、その汽車に乗る予定であっても、どうしてもその汽車に乗れないような事情になってきて、そのために危害から助かる、こういうふうになるとわれわれは運命から不死身になってしまうのであります。
運命に対して不死身になってしまったら、われわれは何一つ恐れるものはこの世に無くなる、こんなけっこうなことはないのであります。
むろん、火事も起こらず、汽車の転覆も起こらなければ多勢の人が助かって、いっそうけっこうではありますが、火事でも戦争でも汽車の転覆でも多勢の人々の運命に関係して起こって来るのでありますから、それを起こらなくするにはそれに直接間接関係のある大勢の人々が皆、念を変えねばなりません。
多勢の人々の念を変えることができない以上は、その念の力が集まって火事でも汽車の転覆でも、まず「念の世界」に組み立てられます。するとわれわれ個々の人の心はラジオの受信機のようなものでありますから、誰でも「念の世界」にできあがった火事や汽車の転覆をそれとなく感ずることができる。Aの磁石の付近にBの磁石がおかれると、すぐ互いに感じ合うようなものであります。しかし、Aの磁石とBの磁石とは互いに側に置かれるとすぐ吸いつくかといいますと、吸いつく時もあれば、吸いつかぬ時もある。かえって、磁石の向き方で、Bの磁石をAの磁石に近づければ近づけるほど、Aの磁石が逃げ出してしまうこともある。これと同じくわれわれの心は一個の磁石で、その向き方一つで、どんな悪い運命が近づいて来てもズンズン反発して、悪い運命の手の届かない所へ逃げてしまうことができるのであります。
三輪さんもピー・ハワード夫人も、信仰によって不幸というものとは水と油とのように一つになれないような心の状態になっていられたのであります。
ピー・ハワード夫人が出発の間ぎわに不快になって、その日乗ろうと思っていた汽車に乗り込むことができなかったその同じ日に、外出がとても愉快になって、わざわざその転覆する汽車に乗り合わすようになった人も多勢あつたことでしょう。ちょうどそれは一つの大磁石(運命)が近づくと他の小磁石(人間)がそれを感じ、その小磁石の向き方によっては近づいて来た大磁石の方向へまっしぐらに突進していって大磁石にぶっつかるのと同じであります。
人が不幸な運命にあうのは、その人の心が不幸な運命を予知することができないからではないのでありまして、われわれが「心」をもっている以上は、まず「念の世界」に自分自身に関係するほどの近さで起こっている事件は、皆それとなく感ずるのであります。感じてもそれが肉体の意識にハッキリ判ると判らぬとは肉体の霊化の程度によるのでありますが、それが肉体の意識に判ると否とにかかわらず、われわれの「潜在(おくそこ)の心」はわざと予知したその不幸めがけてまっしぐらにその人の身体をぶっつけてゆくこともあります。それは念の親和力によるのでありまして、念の向き方が不幸な事変に吸いつけられるようになっている以上は、どんなにもがいても反抗しても、不幸な事変に吸いつけられてゆくのであります。
関東大震火災のような大事変は一人の人間の念の向き方を変えるだけでは、それを起こらないようにとどめることはできないけれども、念の向き方が、その当時幸運の方へ吸いつくようになっている人は、あの震災にあってちっとも不幸になりようがない。あの震災にあったために逃げ出したり職業を変えたりしたためにかえって幸福な運命が開けてきているのであります。
<つづく>
1250
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:51:54 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(6)
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ところがその当時念の向き方が不運の方へ吸いつくようになっていた人は、ここなら広場で大丈夫助かるだろうと思って本所の被服廠跡などに避難していると、あにはからんや、おりから吹き起こった旋風のために火炎が渦巻き襲いかかってきて悲惨な焼死をとげたのであります。
これは一方から考えますと、本所の被服廠跡のようなところへ避難していたら、かえって火炎が襲ってきて逃げ路を失うということをその肉体の意識が予知しなかったからで、それは霊的直覚力がたりなかったためだといえるのでありまして、もっと平生から霊的修行をしていたならば、ピー・ハワード夫人が汽車の遭難の危禍からのがれたように、この危難からのがれられたかもしれないのであります。
けれども霊的修行を積み霊的直覚力が養成されていましても、念の向き方がやはり不幸に吸いつけられるようになっている人は、霊的直覚力がいくらあっても、不幸が近づいてくると、アレヨアレヨといっているうちに不可抗的に小舟が魔の淵の渦に吸い寄せられ、吸いこまれて沈んでしまうように、その不幸な事変がハッキリ眼の前に見えていながら、その不幸の渦巻きの方へグングン吸い寄せられ、不幸の渦巻きに身をさらわれてしまうのであります。
神信心をする人のうちには、霊的直覚の発達した人が時々あって、なんでも予知することができる。株式や米の相場でも実験的に神示をあおいで予知してみるとずいぶん当たる。そこで、これなら大丈夫だろうと思って、いよいよ本気になって資金を調え相場でも実際にやってみると、実際にやる時だけはいっこう予知力が的中しないで「買い」と出れば下がる、「売り」と出れば上がる、めちゃめちゃに損をするというような実例がたくさんあるのであります。
これなども、その人は霊的直覚力は発達していながら「自分」の念の状態が「損失」というものに引きつけられ親和するようになっているから「損失」の渦巻がその人に近づいてくると、グングン容赦もなくその損失の方へ引きつけられていって、平常の霊的直覚力が役にたたなくなるのであります。
心霊学者たるW・T・ステッド氏の著書『幽霊実話(リアル・ゴースト・ストーリー)』中には次のような話がのっているのであります。
「この話の主人公は或る製造工場に勤めている鍛冶職である。この製造工場は動力を水車から得ているのであったが、彼はその水車が破損しながら運転しているのに気がついていた。ところが或る晩、彼は夢を見たのである――
その夢の中の時間は翌日の仕事が終ったときになっていた。工場の支配人がその水車を修繕するように彼に頼んだ。彼は修繕中脚をすべらして二個の水車の間に巻きこまれて怪我をし、その後外科医の施術を受けて脚を切断することになった。
彼はその朝目を覚ますと、この夢を自分の妻に話した。そしてその晩、もし水車を修繕するように頼まれたなら逃げ出そうと決心していた。
その日工場へ行くと支配人が彼を呼んで、今晩職工たちが仕事を終って帰った後で水車を修繕してくださいと命じた。彼はいよいよ夢の事件が来たなと思った。で彼はその時間までに工場を逃げ出そうと決心した。
そして彼は本当にその付近の森の中へ逃げ出していった。彼は今やその森の窪地へはいりこんで身を隠そうとしていた。その時、彼の眼についたものがある。それは一人の若者がその工場所有の材木を盗み出しているのだ。で彼はその若者から材木を取り返さねばならぬと思って若者を追いかけた。彼は興奮していて、さきの決心を忘れて工場へ帰って来た。ちょうど職工の退出時間、水車を修繕すべき時間になっていた。
支配人が彼の眼の前に立っていた。彼は支配人の命令に従わねばならなかった。彼は鍛冶の工長であったので水車の上へあがらねばならなかった。注意に注意をかさねようと彼は決心した。
しかし、彼が注意に注意をかさねたにもかかわらず、彼は脚をすべらして墜落し、二個の水車の間へ脚を挟まれた。それは夢に見たとおりの光景であった。脚はひどくグジャグジャに挫折していた。彼はブラッドフォード病院へ担ぎこまれて、そこで膝の上から施術して切断した。それで彼の予言的夢は完全に実現したのだった。」
<つづく>
1251
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:52:44 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(7)
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また文豪メーテルリンク氏の著書『未知の賓客』の中にはこれと同様な実話が掲載されているのであります。
「或る若い機会職工は十一月はじめに次のような夢をみた。すなわち彼が午後の五時半に家に帰ってみると、姉の小さな娘が家の入口の前の街路を横切ろうとして電車に轢(ひ)かれているのを見た。彼は非常に心配して、その夢を家人に語った。
しかるに同月十三日に、できるだけ警戒をしていたにもかかわらず、その少女は予言された時刻に避けがたく電車のためにひき殺された。」
また同書には次のような事件ものっています。
「五月四日にテスト博士は彼女の夫の眼の前でホルタンス・M――夫人を催眠させた。夫人は催眠状態に入るやいなや、彼女は自分は二週間前から妊娠している。臨月まではもたぬ、五月十二日に、自分は何事かに驚く、そしてその場に卒倒した結果、流産するということを述べたてた。彼女はさらに付言して、この五月十二日には三時半に何かに驚いた後で気絶し、その気絶は八分間続くといい、次いでその病気の経過を各時間にわたって詳しく語り、その病気の結果は三日間精神錯乱となるが、自分はそれから回復すると述べたのだった。
「催眠状態から覚めると同時に、彼女はすべてを忘れてしまった。彼らは催眠中に起こった事柄をM――夫人自身には秘密にした。
テスト博士は、彼が当時書きとめた手記をアメデー・ラチュール博士に送っている。これが証拠になるわけである。
予言された五月十二日になると、テスト博士はM――夫人とその良人とを訪問した。博士はM――夫人を催眠状態に導くと、彼女は八日前に言った事を一語一語繰り返した。彼女は催眠状態から覚醒状態に戻された。
予告された危険な時刻が刻一刻近づいてきた。博士と良人は、想像しうるあらゆる用心をして鎧戸(よろいど)さえも閉めてしまった。
M――夫人は自分は全然理解することのできぬ、この異常な警戒ぶりを見て、かえって不安の念にかられ始めた。そして『いったいあなたたちはわたしに何をなさろうとするのです』と尋ねた。その時、あたかも時計が三時半を打った。M――夫人は掛けていた長椅子から立ちあがって、戸口の方へ行こうとする。博士と良人はそれを妨げた。
「『けれどいったいあなたがたはどうなさるんです? わたしはどんな事があっても出て行きます』
とM――夫人は抗弁した。
『いいえ、奥さん、部屋を出ては、あなたの健康のために悪いのです』
『それなら大丈夫です。先生、わたしの健康のためならいっそう外へ出る方がよいじゃありませんか』
夫人は笑いながらこう答えた。
その理由はいかにももっともであり、それ以上抵抗することができなかった。だが、良人(おっと)は、運命と最後まで戦ってみようと思ったので、妻についてゆこうと言い出した。
博士はこの事件がやや滑稽な経路をとって展開して行くにもかかわらず、かなり心配して部屋にひとり待っていたのだった。
と、とつぜん耳をつんざくような叫び声が聞えた。博士が急いで行ってみると、狂乱したM――夫人が瀕死の状態で良人の腕に抱かれていた。
わずかの間良人のそばを離れて、彼女が自分の行こうと思っていた場所の扉を開けた刹那(せつな)、二十年来一度も出たことのない場所で、一匹の鼠(ねずみ)が彼女に跳びついて、非常な驚愕を彼女に与えたので驚きのあまり彼女は仰向けに倒れてしまった。そして予言の残りの部分も、一刻もたがわず、一事もあやまたずしてすべて的中したのであった。」
ここにあげたこれら数々の不幸の運命の予言は、できるだけ注意して逃れようと焦りながらもどうすることもできないで、不幸な運命に吸い寄せられて行った人々の実例であります。
先刻申しましたように、われわれの心は未来において物質世界に映し出さるべき事件を、それがまず「念の世界」にあるうちに感ずることができるのでありますが、この感じ知った事件に、或る心の向き方の人は、どんなに巻きこまれまいと反抗しながらでも必然的にその不幸な事件へグングン磁石的な力で引きつけられて行くのであります。そうかと思うと、三輪栄子さんや、ピー・ハワード夫人のような人は、不幸な事件が自分の付近に、あるいは自分の住んでいる家にさえ起こってでも、その事件には引きつけられないでちょっとも危害を受けないですむのであります。なぜ、人によってこんなに結果が相違するかということは、われわれがぜひ考えなければならないことではありますまいか。
<つづく>
1252
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:53:40 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(8)
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わたしが常にいうことでありますが、誰も自分の心で招(よ)ばない不幸には出くわすことはできないのであります。どんな事件でも、最初は「心的存在」であって、自分の心もまた「心的存在」である。そしてこれらの「心的存在」は「心の法則」すなわち「類は類を招ぶ」という法則と、「類でないものは反発する」という法則とに支配されて、互いに牽引し合ったり反発したりしているのであります。
それで不幸な事件にあう人々は、誰を恨むこともない。自分の「心」のうちにそんな不幸を引きつける不幸の種を必ず宿しているからであります。だから昔から「泣面(なきつら)に蜂」とか「悪いことは三度ある」とかいいまして、人間の運が傾いて来ると各方面から悪いことばかりが引き続いて起こるようになるのであります。運命が傾くというのは、その人の「心」の中に不幸な事件を吸い寄せる磁石ができているわけであって、こんな磁石を「心」の中から取り出して捨ててしまわないかぎりは、その人の運命が善くなる気づかいはないのであります。
では、この不幸な事件を吸い寄せる「心の中の磁石」とはなんであるかと申しますと、その根本的なものは、神と一体でない、神と離れた心であります。心の内に神という無限力に生かされているという自信がなく、自分の生命は物質の偶然的集合でつくられていて、外から加わる偶然の力ですぐ破壊してしまうであろうというような誤れる生命観がわれわれの心の奥底の大部分を占領していると、それが磁石となって不幸を引き寄せる、病気を引き寄せる、そのほかさまざまの人生苦を引き寄せる。だからこの「磁石」を取りのけるためには、何よりもまず、自分は大生命の無限力に生かされているという徹底した大信念を心の奥底に築きあげて、自分の生命は決して物質の偶然的集合でつくられたものではなく、常に大生命の無限力で護られているという真理を心の底深く信ずるようにならなければならないのであります。
われわれを生かさずにおかない、無限の大生命のお力、それは神とも顕われ、仏とも顕われ、名前のつけようがないので、或る教えではこれを「妙」といいます。ともかく宗派によって名前が異なっているにしてもみんな一体である。この霊妙な無限力に生かされていることを信ずる者には力が与えられ、どんな不幸な事件が近づいて来ても、その人を傷つけることができないのであります。
むかし或る刺客が高僧を暗殺しようとして、毎日つけ狙っていたけれども、どうしてもその高僧と道が行き違いになって刺すことができなかったというような話もあります。自分の心の中に、自分を刺す剣をおいとかないものは、外から刺そうとおもっても刺すことができない。
或る高僧を斬罪に処そうとしたらその刃がかえってきれぎれに折れてしまったというような話は作り話のようであっても、真実それは起こりうる事実であります。
ともかく、自分の心のうちに病気や死がなければわれわれは病気に罹ることも死ぬこともできない。自分の心のうちに刃(やいば)がなければ、われわれは刃にかかって死ぬことがない。人を審判(さば)く心のある人は審判かれる。ピストルの弾丸にあたるような人の心には、必ずどこかにピストルの弾丸と同じような、一徹な鋭い性質があってその心の引力はピストルを引き寄せているに相違ないのであります。
柳生但馬守(やぎゅうたじまのかみ)のような剣道の名人でも全然心の中に剣をもたない人を斬ることはできない。その証拠に但馬守は沢庵禅師(たくあんんぜんじ)にうち込むことができなかったといいます。
剣でもピストルの弾丸でも外からわれわれにうち込んで来るものだと思ったらそれこそ大まちがいで、われわれの心の内にそれを引き寄せる磁石があって、周囲から剣でもピストルでも災難でも病気でも失業でも引き寄せるのであります。
ここの道理がおわかりになりますと、どんな災難にあっても病気にかかっても外に対して恨んだり小言をいったりする必要がなくなって、自分の好まない事件が起こってきたならば、自分の心の中にその好まない事件と同じものがあるということをかえりみて、そのよろしくない性質を心の中から取り去るようにすればよいのであります。そうすると自分の周囲、境遇、肉体の健康状態などが自分の改善された心を映して改善されてくるのであります。
<つづく>
1253
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:54:22 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(9)
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先日ある読者から霊感が養成されて未来の事件があらかじめ判るようになれば、金儲けもできるだろうと思うから、神想観によって未来の透視力をえたいから、どうぞ指導をお願いしたいという意味を書いてよこされたのであります。
どうもこういう方には返事に困るのであります。
多少とも霊媒的天分のある人は催眠術によっても、鎮魂によっても、坐禅によっても、神想観によっても、その他の霊術によっても、おそいか早いかの差はあれ、未来を透視したり予感したりすることができるようになります。
しかし未来の透視能力があるということと、その人が幸運になるということとは全然別であります。
多くの人はいわゆる未来の予知能力がなくとも幸運なのであります。
これに反して、いかに未来の不幸が予知されても、先刻述べた鍛冶屋さんは水車に巻き込まれて脚を折り、少女は電車に轢(ひ)かれて死に、M――夫人は鼠に驚いて倒れて流産したのであります。
本当は、「予知される未来」というものは、念の世界ですでに起こっている現在であって、ある事が「念の世界」に起こってしまった以上は、その映しである「物質世界」にその事件は必然的に起こってくるのであります。これはとても避けられない。これを避けるには「念の世界」に自分の好まない事件を全然起こらせないようにするほかはない。
不幸が起こってそれを予知できるよりも、予知できなくともなんの不幸も起こらぬにこしたことはない。
だいたい、未来の予知的能力を獲得しなければ、自分は不幸にあろうであろうというような、自己を信ぜず、神を信ぜざる心的態度そのものが、すでに「念の世界」に自分の不幸の種子をまいていることになります。
そのような心であればこそ未来を予知したくもなれば、予知しながらでも、その未来の不幸にグングン不可抗的に吸い寄せられて行く。
だいいち、予知してから避けようと思うのではすでに遅い。
未来を予知する、すなわち「未来を見る」ということは現在すでに「念のフィルム」にできている事件を心の眼で見ることであります。
それが未来の事件のように思われるのは「念のフィルム」を自然力と称する「活動写真機」にかけて「物質世界の舞台面」に映し出すのに、今しばらく時間がかかるだけのことでありまして、その避けたいと思う事件はすでに「念の世界」に起こりずみの事件であります。
起こりずみの事件を避けようと焦るだけがばかな話であります。
で、われわれが避けられる不幸な事件はその不幸な事件がまだ「念(こころ)の世界」においてさえもハッキリした形をとっていない場合だけであります。
「念の世界」においてさえまだハッキリ形をとっていないその不幸な事件は、それは形がないから、心の眼でも霊眼でもハッキリ見ることはできないのであります。
ただそれは、ばくぜんとわれわれがそれを感じ、自分自身の念の性質によって、ある人はその事件の起こるところに近づきたくなり、ある人はその事件に近づきがたくなるほかはないのであります。
しかしその時こそわれわれがその起こるかもしれぬその不幸から逃れることができる唯一の時であります。
ある不幸な事件が「念(こころ)の世界」で造られる順序を見ますに、それは多勢の「心」の想念(おもい)が因子(たね)となって、「類をもって集まる」の心の法則により、類似した想念ばかりがモヤモヤとガスのようにまだ形が定まらないで集まります。それが大きく集まって一団となって来るにつれて、類似している「心」を引きつける磁石的引力も増加してきます。ちょうどそれは、月よりも地球の方が引力が強い、地球よりも太陽の方が引力が強いようなものであります。
それはまだ事件としてのハッキリした形を備えていないけれども、その「類」を引き寄せる力はかなりな遠方までも及ぶのであります。遠くにいる人もその引力を感じて近寄って来て、その事件を構成する一人物となります。しかし一方、その起こるべき事件とは「心の波長」において一致しない人は、その事件の波及する距離以内にいることなんとなく、不快な落ち着かない気分を感じて、その距離以外に遠ざかって行くか、あるいはその距離以内にいても何物かの庇護によってその不幸な事件に巻き込まれない位置に身を隠していることになるのであります。
<つづく>
1254
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:55:02 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(10)
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関東の大震火災の時でも、わざわざその前日、地方から上京して震災の洗礼を受けて死んだ人もあれば、その前日関東から地方へ移転して罹災を免れた人もあります。
震災で丸焼けになった人で再び起つことができない経済的不運にあった人もあれば、一時は丸焼けになったけれども、それが当時あまり香ばしくなかった過去の職業をなげうって将来大いに成功する新事業を始める動機となった人もあります。
一つの事件に対してでも人それぞれの念の磁石的性質によって、その事件の圏外に飛び出す人と、その事件の圏内にいて危害を受ける人と、その事件によってかえっていっそうの幸福を受ける人があるのであります。
だから単に未来に起こる事件が予知できたからとてその人は必ずしも幸福になるとは決っていないのであります。
「だって、ピー・ハワード夫人は汽車が未来に転覆するということを予感して助かったのではないか」という人があるかもしれません。ピー・ハワード夫人は、「念(こころ)の世界」において起こってしまった事件を予知したのではありません。夫人は唯、そこに起ころうとしつつある事件の「心的雰囲気」を感じて、夫人自信の心的性質がその「雰囲気」に引きつけられずその雰囲気に近づこうとするとなんとなく不快になるので、旅立ちをやめてその危険に近づけなかったのであります。
もし誰でもこういうふうに念の世界でまだ漠然とした雰囲気だけあって、ハッキリと形を備えていない間に念の反発を感じて避ければ避けられるのであります。
もしピー・ハワード夫人がその汽車に乗って汽車の転覆にあって重傷を負うているような事件を正確な霊覚とか霊夢によってハッキリ目撃したのでありましたら、その事件は「念(こころ)の世界」ではすでに起こりずみであるからこそ見えたのでありますから、夫人がいくら、それを避けようと努力しても、どうしても拒まれない事情が発生してその汽車に乗ることになり、その汽車は転覆して予知したとおりの危害を避けることはできないのであります。
ここがわれわれにとって最も注意を要する肝要な所で、われわれが未来の不幸を避けるためには、その不幸を予知する霊感などをいくらもっていてもなんの役にも立たないのであります。予知された未来はすでに起こりずみであるからそれを取り消す道がない。それを取り消そうとあせるのは活動写真の映写機に一定の事件のフィルムをかけて活動写真を映しながら、舞台面の映画を消しゴムで消そうとするのと同じ愚であります。
現実世界という舞台面にこんな事件が映ってはいかぬと思うならば、「念のフィルム」にそんな事件を撮影しておかぬがよろしい。
他のひとびとが集まってそういう事件の「念のフィルム」を合作しそうであったら自分だけ「類でないものは反発する」という法則によって、そのフィルムに入らなければよろしいのです。
「類でないものは反発する!」
これこそわれわれが悪運を避ける唯一の法則であります。
悪い事件が映っている「念のフィルム」に自分だけ映るまいと思うならば、自分の生命に、その悪い事件と親和し、互いに引き合うようないろいろの心持ち――暗い心持ちとか、鋭い心持ちとか、心で人を刺す性質とか、窮屈で人をいれない性質とか、恐怖の感情とか、取り越し苦労の感情とかを捨てて朗らかな、明るい、愛深い、人を咎めない、赦しの深い、寛大な、平和な、落ちついた、角のない、円満な、自信のある、自分を神の子として神と一体であると信ずる心を養成すればよいのであります。これだけの心の準備ができるならば、自分の周囲にどんな不幸な事件が起こって来ても、自分だけはその不幸な事件の映画俳優の一座に加えられず、一緒に不幸の分け前を味わわねばならぬようなことはなくなるのであります。
<つづく>
1255
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:55:48 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(11)
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こう申しますと、なかなか繁雑な種類の心の修養をしなければならぬようで、この忙しい世の中に、とてもわれわれには実行できそうてでないと思われる方もあるかもしれませぬが、これを一つの根本原理に還元しますと、決してこの修養は皆さんの想像されるほどは繁雑なものではないのであります。
この修養の根本原則とは、「自己が神の子であって、自己の生命は神の霊である」との事実に目覚めることであります。
この事実に目覚めるとき、われわれは心の根本において神の無限力に生かされていることを感じますから、おのずから心が朗らかになり、明るくなり、寛大になり、愛深くなり、円満な、平和な、恐怖心のない、取り越し苦労をしない人間になり、したがってどんな不幸も自分の側(そば)を素通りして近づかず、幸福ばかりが引き寄せられて来る心的磁石となるのであります。
では、「自己が神の子であって自己の生命は神の霊である」という事実に目覚めるにはどうしたらよいかという一つの秘訣を申しますと、常に言葉の力で「わたしは神の子である」という思想の種子(たね)を自分の心に植えつけるようにするのであります。
道を歩く時にも「神の子が今歩いていると低声(こごえ)でいって、その言葉のとおりに思って神聖な罪にけがれない「本物の自分」を心に印象するようにします。
往復の電車に乗っている小さな暇を利用しても「私の神性は神である。神こそ本当のわたしである。だからわたしは恐れない」と自分だけに聞える声で自分自身にいって聞かせます。
人に面会する前にも「わたしは神である。神がわが父である。父と子とは一体であるからわがなすは父がなし給うのだ」と言葉に出して数回繰り返して自分にいって聞かせて心に自信力を植えつけてから会うようにします。
すると、その一回の面会には失敗してもだんだん人に面会するのに自信ができ、やがてはすばらしく成功するようになれます。結果を急いではなりません。
要するに「神と我とは父と子との関係であって自分は神の無限力に後援されている」という意味のことばを、暇あるごとに、機会あるごとに、言葉の力で、自分自身の心の奥底にたたみこむようにするならば、この自覚の深まるにしたがって運命が開けてくるようになり、神我一体の真理がいよいよ深く心の底に目覚めて、心全体が照り輝くようになりますと、「類をもって集まる」の心の法則によって、どんな時にも明るい運命ばかりが自分に吸い寄せられて来るようになり、もう前途の予感力が欲しいなどという欲望も全然なくなってしまうのであります。なぜなら、もうその人は運命に対して不死身となり、何事が起ころうとも自分にとって悪いことは一つとして起こらないとの大確信に到達するからであります。
確信は「念(こころ)の世界」における運命のひな形で、この世の出来事はすべて、このひな形のとおり出てくるのであって、悪い確信をもては運命が悪くなり、善い確信をもてば運命が善くなることは免れがたい事実なのであります。
<つづく>
1256
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:56:36 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(12)
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第五章 生きた事実を語る
皆さんは悲し気な顔をしている人のそばへ来ると自分もなんとなく悲しくなり、淋しそうな顔をしている人のそばへ来ると自分も何となく淋しくなったような経験がおありでありましょう。
また腹立たしい顔をして咎めつけられるとこちらも腹が立って来たというような経験もまたおありでしょう。
このようにわれわれの心の状態は付近の人々に感染(うつ)って行くのであります。心の状態が感染るものであるとしますと、病気すなわち病的な心の状態が形にあらわれたものも、感染るのが当然であります。
たいていの人は伝染病だけが感染るように思ってほかの病気は感染らないように思っていられますが、胃病や神経衰弱も感染るのであります。家族全体が一種の気鬱症になって、そのためみんなが消化不良症や神経衰弱症に悩まされているような実例も世の中には少なくはありません。これは皆あらゆる病気は精神的に感染するからであります。
連想作用で起こる病気
ある種の心の状態は連想作用によっても起こるのであります。連想作用といえば「梅干」といえば「酸(す)い」ということを思い出し、「酸い」と思えば唾液が口からたくさん出て来るように、一つの事柄を思えば、それに連絡のある他の事柄が自然に思われてくる心の作用をいうのであります。ある心の状態がこのように連想作用によつて起こることが解りますと、病気もまた一つの心の状態の客観化(かたちになったもの)でありますから、連想作用によってもおこることが解るのであります。
皆さんのお友だちのうちには雑誌の衛生記事を常に好んで読んだり、通俗医学書を常にあさって読んだりしている方がありましょう。こういう人たちはよほど自分の健康に自信のある方でないかぎりたいてい自分の身体が虚弱になって病気にかかりやすいのであります。
皆さんのお友だちは虚弱なために、健康になりたいと思って、薬の広告や衛生や医学や健康法の本をお読みになるのかもしれませんが、それはおぼれまい、おぼれまいと思いながら逆に水の深みへはいって行くようなものであります。
たとえばここに『健康世紀』とか『家庭医学』とかいう衛生雑誌があるとしますと、それをちょっと開いて見ると、その中の記事に医学博士と麗々しく肩書を付けた人が「何々病の予防と治療」などという題で、ちょっと見たらいかにもその記事を読めばその病気を予防したり治療したりすることができるかのように見せた記事がのっているのであります。が、記事の内容(なかみ)をよくよく読んでみますと少しも病気を予防する方法も治療する方法も書いてないのであって、かえって病気にかからすための暗示が書いてある場合が多いのであります。
なぜ私がこんな皮肉なことをいうかと申しますと、たいていはそんな記事にかぎって、病気を予防するためにといって病気の症状が書いてあるのであります。こんな容体になったら萎縮腎であるとか、こんな徴候は神経衰弱の徴候であるとか、胃がこういうふうに痛めば胃潰瘍の疑いがあるとか、原因不明の微熱がつづいて不眠や消化不良がともなう場合には肺結核の疑いがあるから注意すべきであるとか、実に読者の恐怖をそそることが書いてあるすえに、それを治す方法が深切に書いてあるかというと、何一つそんな深切なものは書いてはないのであって、ただ、こういう徴候の場合には素人療治や素人診断は危険であるから医者に診断してもらえと書いてあるだけなのであります。
これでは何かの生理的感じをもってただちに病気ということを連想せしめ、その連想作用によって病気にかからせ、読者の恐怖心を利用して、医者のところへわざと来させるように医者が自己繁昌策として書いたものだと思われてもしかたがないでありましょう。だから私はそんな記事は皆さんの病気を治すためよりも、病気にかからすために書いてあるというのであります。
薬の広告もこれとほとんど同様でありまして、誰にでもあるようなちょっとした疲労の感じや、折ふしの消化不良や、不眠などを、実に恐ろしい病気の前兆ででもあるかのように書いてあって、その終いにこの薬を服めとすすめてあるのがザラにあります。
こんな広告記事を読んでいますと、連想作用によって自分もその病気ではないかとフト思うようになり、フト思ったところの「自分は何病だ」という観念の種子が潜在意識に植えつけられて強く強く心の底に根を張るようになりますと、肉体の上にも本当にその病気があらわれて来るのであります。
<つづく>
1257
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:57:17 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(13)
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言葉で心臓病が全治す
私の知っている実例を申しあげましょう。東京に、心臓弁膜症だという診断を数名の医者から受けてもうこの病気は不治症だとあきらめていた婦人がありました。その婦人はいつも一分間百二十回ぐらいの脈博で、ものの半町も歩けば息ぎれがするのであります。この状態は数年間つづきました。
ところが或る日のこと、ほかの病気のことで石塚右玄という食療法の医者をたずねて診察をこうたのであります。
この医者は双塩療法の開祖石塚左玄氏の嫡子で、もう今は故人でありますが、その頃、東京牛込市ヶ谷にいて診療に従事していられた。医師の免状がないので手を触れて診察をするということがない。形式だけ医師の資格のある塩田宗沢という副院長に診断させて、自分は望診といって少しく離れたところから患者の風貌を見ていて診断をくだすのであります。
ところがその診断がふしぎ、手を触れずにいても患者の日ごろの性行から容体にいたるまで患者の心にピシピシと思い当るようなことをいうのであります。
この患者がこの医者の前の椅子に掛けたときもやはり同じで石塚右玄氏の堂々たる体躯から出て来る力強い音声でいわれる言葉がすべて事実に的中して患者の肺腑をついたものです。なるほどこの医者なら信頼できるという信念が患者の心にたかまったに違いありません。
医者というものは、何よりもまず患者の心を治すのですから、患者から信ぜられることが大切であります。信ぜられさえすれば片栗粉を散薬として飲ませておいてもきくのであります。
小首をかしげて、どうもまだハッキリなんの病気か私には判りませんというようなアヤフヤな態度を医者が示すようなことでは、患者の方では自分の病気はこの医者にはわからないのだからその投薬だって効くはずがないと思っています。こう患者が医者を疑い出せばその薬がいかに良薬でも効かないのであります。
だから医者はどんなに診断のつかぬ病気でも「こんな病気なら、たくさん治した経験がある」ということを断言し、「それには実によくきく特効薬があります。その薬で治らなかった人は一人もありません。その薬を処方しましょう」というような事を断言し、一にも断言、二にも断言、言葉の力を極力発揮するようにすれば、どんな不治症だってズンズン治って行くのであります。
治す力は薬そのものの力はわずかで、医者の言葉と、言葉によって喚(よ)び起こされた信仰とが治すのですから、じっさいそれを治しうる特効薬というものが無い病気でもこの薬が特効薬だといったらじっさい特効をあらわすのであります。
それからこの患者のように他の医者から不治症と診断されて、その「不治」ということが心の底にしがみついているものには、その「病気の存在」そのものを否定してしまうことが非常に効果があります。
ここで先の患者の話に戻りますが、前にいいましたように、この患者は自分は心臓弁膜病で不治であると信じていた。ところが石塚右玄氏がいろいろと患者の日ごろの性行やら容体などを単に望診するだけで当ててしまったので、患者は非常に石塚氏の診断力を信ずるようになって来たのであります。そして
「実は私は心臓も前から悪いので、いろいろの医者に診てもらいましたが弁膜病で不治だといわれるのですが」
と尋ねました。すると、石塚氏は言下に、
「あなたのは心臓弁膜病じゃない。似ているから、医者も患者も時々まちがうが、バセドー氏病だ。心臓の病気ではなく咽喉(のど)のここのところにある腺の病気だ。心臓そのものが悪いのじゃない。脈搏の早いのはバセドー氏病の影響だから、バセドー氏病が治れば脈搏の早いのも一緒に治る」
と、さもそれは軽い病気だというふうに断言してしまったのであります。
この患者は今まで諸方で心臓弁膜病だと診断され、「心臓病は不治だ、不治だ」という観念をいたるところの医者から植えつけられていたのでありますが、「あなたの病気は心臓の病気ではない、咽喉の腺の病気だ」と強く強く断言されたときに病気の位置が転換してきた。「ヤレヤレ自分の病気は心臓にない」という気がしてきたのであります。彼女は急に心臓が楽なような気がして、バセドー氏病によいという服薬と食療法を続けているうちに一ヵ月ばかりで心臓病の症侯がスッカリなくなってしまったのであります。
<つづく>
1258
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:57:56 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(14)
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この実話は実に面白いではありませんか。心臓弁膜病も、バセドー氏病も現代医学ではどちらも劣らぬ難治症なのであります。
「心臓弁膜病でない、バセドー氏病だ」といわれても、医学の知識のある人にとっては、一つの不治症を他の難治症におきかえられたにすぎないのでありますが、この患者は心臓弁膜病の不治であることは知っていても、さいわいにしてバセドー氏病の難治だということを知らなかった。なんだか変な名前の新しい病気だから、今まで診(み)てもらったほかの医者には判断がつきかねたのであろう、この医者があんなに軽々しそうにいう以上はすみやかに治るに相違ないという「信念」がわいて来、その「信念」のとおりじっさいすみやかに治ってしまったのであります。
ここにも半可通な医学の知識のない方が健康になれる実例があるのであります。
この場合石塚右玄氏がこの患者をバセドー氏病だといったのは診断が正しかったのか、故意に誤診して患者から不治症の観念をとり去ったのかは別問題として、医者がいわゆる不治症の患者に対してどんな態度をとることが愛の道にかなうか、「医術」が「医道」として真に癒す力を発揮するには「言葉の力」をいかに発揮すべきものであるかについての深い深い暗示があると思います。
或る病人が一つの病名が付せられて不治だと思っていると時には、医者としてはことさらその病気を別の病気だと診断してその患者から今までの「不治症」という観念を奪いとってやることは非常に愛深き賢き手段と思われるのであります。
万病は眼病より来るという新説
それについて思い出されるのは、神戸の元町に西村美亀太郎(みきたろう)という眼科の医学博士がありました。
この医者は万病一元論者で、どんな病気でも一種の眼病(角膜表層炎)から来るということを唱え、自分もじっさいそう信じていたのであります。
だから心臓病の人が来ようが、慢性胃腸病の人が来ようが、神経痛の人が来ようが、どの病人にも
「あなたは心臓じゃない、眼病だ」
とか、
「あなたは胃腸が悪いのではない、眼病だ」
とか、断固として宣言するのであります。
じっさい医者自身がそう信じていてそう宣言するのですから、いう言葉に確信が満ちていて、権威がある。そして胃腸が悪かろうが、座骨神経痛であろうが、目の上に厚い温湿布をしてその上をグルグル繃帯(ほうたい)で巻いて三十分ぐらい放っておくのであります。
患者は、今まで胃そのものが病気だとか心臓そのものが病気だとか思っていたのがまちがいであって、想像もつかなかった眼病だったという観念を与えられたまま、三十分も眼を繃帯で巻かれて暗黒(くらがり)の中を見つめていなければならないのです。眼は薬液と温湿布の影響でその間にいかにも眼病だったかのように充血して来て、なんだか本当に自分は眼病だったのであって心臓や胃腸が悪かったのではなかったという観念がいよいよ深く染みこんでくるのであります。
長期間の慢性病が、短時日、なかには一回のこの療法で治ってしまう人さえもあるのであります。
これを西村博士は、万病は一元であって、すべては眼病から来るのだといっているのでありますが、わたしの考えでは、今まで患者が不治だと信じていた病気を全然否定してしまって、そんな病気は存在しない、あなたのは眼病だ、その眼病は今こうして治るのだといって、今までの病患部だと思っていたところとは全然別の部分を温罨法(おんあんぽう)で刺激されるために、今までの不治症という観念がとり去られてしまって、不治症もずんずん治ってくるのであります。
わたしはこういう治療法を「病名転換療法」だと名づけています。病名すなわちコトバを変えるために病気そのものさえも変わって来て病気が治るのであって、これも「コトバの力」の応用の一部門にはいるのであります。
<つづく>
1259
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:58:34 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(15)
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言葉は健康を左右す
このように言葉は「信念」を喚び起こし信念はただちに人間の健康を左右するものでありますから、われわれはできるかぎり言葉の善き使い方を知らねばならないのであります。
「言葉」でこの世界に健康を満たせば、この世界の人類が健康になる。「言葉」でこの世界に光明を満たせばこの世界が光明化される。
「生長の家」は実にこの「言葉の力」によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化せんがための「神の国運動」であって、「生長の家」の発行部数がふえるほど、この世界に「善き言葉の力」がふえることになる。
「善き言葉の力」がふえればそれだけ人間の心が光明化し、地上に浮動している人間の「想念の波動」が光明化し、いっさいの現実的悪の種子(たね)が浄められ、キリスト教でいえばキリスト再臨、仏教でいえば弥勒菩薩下生(みろくぼさつげしょう)、すなわち地上天国建設の時期が早まることになるのであります。
こうして「コトバの力」の見地から考えてみますときには「生長の家」がコトバの力によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化しようという運動に相反して、いかにこの世界にはコトバの力によって人類生活を不健康化し、不幸化し、暗黒化そうという運動が多いことでしょう。
毎日日本国中に合計なん百万なん千万という発行部数をもったジャーナリズムは皆いちようにこの人類生活不健康化、不幸化の運動に味方しているようにみえる。全世界でいうときは十数億の発行部数に達するジャーナリズムが毎日コトバの力で人類生活を不健康化するための印刷物をバラまいていることになる。
新聞紙の大半は栄養剤と薬との広告で埋まっている。その広告は
「おまえたち物質で造られた人間よ、おまえはこの薬を飲まないと治らないぞ。」
「この栄養剤を飲まないと健康になれないぞ。」
とおどしつけている。これは新聞が広告料という金のために牽制されて「悪しき言葉」の力の宣伝に利用されているからであって、こんな広告を読めば読むほど、われわれ人間が神の子だという信念、物質ではなくて生命であるという信念が失われて、人間は物質であるから永久に薬物の奴隷として永久にその前にひざまずくべきものなりとの烙印(やきいん)を押されることになるのであります。
「生長の家」出現の使命
このようにジャーナリズムは自覚せずして資本主義に買収されて知らずしらず人類生活暗黒化運動に参加していることになり、日々世界中に十数億の印刷物をバラまいて、人類を暗黒の病的想念で一呑みにしようとしているのであります。
「生長の家」運動がこの時起こらなかったら、われわれ人類はこの暗黒の想念の大きな口に鯨(くじら)が鰯(いわし)の群を呑みほすように一呑みにされるかもしれないのであります。
しかし、神はわれわれ人類をまだ見捨て給わなかった。そしてこの真理の言葉の運動を起こすべくわれらに起つように命ぜられたのであります。
本書や『生長の家』誌を谷口雅春個人の機関誌だと思っていられる方があればそれはたいへんな勘違いであります。これは神が起こされた「神の国運動」の一つのあらわれであって、谷口雅春はただ、神から霊感的に示された言葉をペン尖(さき)にふくませたインキで文字にしてゆく。『生長の家』誌に書かれた一言一句も、肉体なる谷口雅春の言葉はない。外国物の紹介でさえも「神の言葉」である。これはなるほど、いっけん「神の言葉」でないようにみえるでもありましょう。わたしもはじめはこれは「神の言葉」でないと思っていた。しかし、その外国書がわたしの手に入る経路というものが全然霊感に導かれているのでありまして、それを考えるとやはり、この本を翻訳して『生長の家』誌上に発表せよと神から霊感的に命ぜられていることがわかるのであります。
<つづく>
1260
:
復興G
:2012/09/07(金) 14:59:21 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(16)
-----------------------
或る日、わたしがフト街を歩いていて古本屋の前を通ったとき、急に引きつけられるようにその古本屋へはいりたくなった。それでその古本屋の中にはいって行くと最初にわたしの眼についた本がある。その本を開いて見ると「生長の家」の主張に全然共鳴したようなことが書いてある。それでこれを翻訳して『生長の家』にのせて皆さんに紹介したというような順序になっているのであります。
「生長の家」へ集って来る多くの心霊主義や光明思想の原書はたいていこうであって、海外の新刊書を別に注文したわけではないのであります。
こんなことからでも、この生長の家運動が全然神の手によって計画され、外国物紹介でさえも必要に応じて海外から自由に引き寄せられている事実がわかるのであります。神は宇宙を摂理の手で支配してい給うので、あらゆる世界の出来事は、みんな神の手で蜘蛛(くも)の糸を引いたようにあやつられています。アメリカで新刊された本も日本へ渡航して来る西洋人がふと読みたくなり、それを船の中で読んで日本へ着くと同時に古本屋へ売る、その翌日わたしがその本を買うと、直接こちらから送金して海外から原書を取寄せるよりも早くその本がわたしの手に入るのであります。
近ごろ、「物品引き寄せ」(apport)という心霊現象を行う霊術家があらわれて、大阪心霊科学協会実験会の席上において横浜にある実験者の門標を実験会場に引き寄せたという事実がありますが、(霊媒亀井三郎氏の実験)「物品引き寄せ」という心霊現象は、
(1)この心霊現象の実験のように自然界の法則を一時破って奇術的に行われる場合と、
(2)自然界の法則に従って、必要なものを必要な時に、必要な所へ、或る人間によって持ってよこさせるという方法とがあるのであります。
(1)の場合は、自然界の法則を一時破って物品を引き寄せたのでありますから、引き寄せた物をまた持ち主に返さねばならないのであります。
(2)の場合は「必要なものは神が必ず与え給う」という神から許された事実でありまして信仰の深き人には誰にでも日常生活において体験されている事実であります。「生長の家」のように人類光明化運動のために神から使命を受けている場合には、その機関雑誌の編集に必要なすべてのものはそれがアメリカにあろうとイギリスにあろうと、誰かの手を通じて迅速にわれわれの手に集まってくることになっているのであります。
ともかく、現代の誤れる物質主義を源流とする人類生活暗黒化運動は、全世界のほとんどすべての出版物を金力で掌握して、記事に、広告に、全力をつくして人間生活から光明を奪おうとしているのであります。
これに対抗すべく生長の家の人類光明化運動が出現したということは、実に神様の恵み深き計画であって、この運動に参加してくださる方は、その中心人物となる方が一国一郡に必ず十数名をおいてあって、それは劫初(こうしょ)以来の浅からぬ神縁のある方ばかりであります。
この「神の国運動」の芽生えの時に神の使徒として人類光明化運動のためにつくしてくださる人は中でも特に「神縁の深い選ばれた人々」であって、原始キリスト教時代の十二使徒にも当たる人々であります。
これらの人々のうちには「生長の家」の神界における本尊――この人類光明化運動を霊界から指揮してい給う神――の霊姿をありありと観たという方が数名ならずあるのであります。神の姿を拝した方々の話を総合してみますと、神は別の時に別の処で別の人にその神姿をあらわし給うたのでありながら、同じ神姿を各人に観せ給うてその実在を証し給うたのであります。
わたしは神の霊姿などはどうでもよいと思っているのでありますが、神さまも非常時には非常な手段を示されるものとみえます。キリストも、十字架にかかって亡くなられてから、自分は「永生」であって「不死」であるという事実を証明するために弟子に対してその霊姿を各所で見せられ、それから弟子の信仰が白熱的にたかまったのであります。
<つづく>
1261
:
復興G
:2012/09/07(金) 15:00:03 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(17)
-----------------------
選ばれた人々
この非常時の時!
――形なき神が形をさえ示し給うほどの一大非常時に、この神の国運動の経典たる本書があなたたちのお手に入ったということは決して偶然ではないのであります。
今申しましたように人類生活暗黒化運動は金力の魔手をもって全世界を掌握し、毎日の発行部数十数億万にのぼる宣伝機関を備えて、われわれ人類から神の子(または仏子)たる自覚を失わしめようとしていて余念がないのであります。だから、これに対抗して人類の生活を光明化するためには、ぜひともわが生長の家の出版物を読んでくれる人をできるだけふやすようにし、光明思想の出版物を読む人々の声が、人類生活暗黒化運動の機関紙を読む人々の声を圧するようにならなければならないのであります。
そのためには読者をふやすということが今のところ何よりも必要な、神の国建設運動参加者の使命であります。
皆さんは光明思想をひろめることをもって、一人の人間の営利事業に参加していると思ってはなりません。わたしはただ神から書かしめられている。そして編集の監修をしている。
これをひろめてくださるのはあなたたちの使命なのであります。他の人々よりも一日早くこの「神の国運動」を知らされたということは、この「神の国運動」の最初の大使徒として選ばれた証拠ではありますまいか。
諸君よ、選ばれた使命をゆるがせになしたまうな。時は過ぎ行く。「後(のち)なる者先とならん。」わたしはあの信仰深きキリスト教徒が戸別訪問をしながら聖書を売り、入信を勧めて歩く熱心さに心を打たれ襟を正す。諸君も、光明思想をひろめるのに、この熱心なキリスト教徒をならってくださることを希望する。
希望は実現の母である。わが希望は必ず実現する。信じて望めば能わざることは一つもないのである。
わたしは信仰深き生長の家誌友が結束して起(た)って、光明思想普及団体を組織し、全国の大新聞に大広告を出して、この光明思想を宣伝してくださる時期が必ずくることを期待していたのでした。
いよいよその時が来ました。その結果、この真理の書が諸君の手に入ることになったのです。そして同志の協力にて本部道場もできました。全国に数百の同志の誌友会場もできました。
ここにいたるまで、わたしは会社員として一日およそ十時間を労苦し、その余暇に『生長の家』の原稿書きをし、さらに誌友のために祈ってその病気を癒し、三重に献身していたものでした。現在は一ヵ月中の二十日間は講習旅行で南船北馬し、あと十日ほどで五雑誌に執筆し、毎月一冊ほどの単行本の校正をやっているのであります。
神は献身を要求し給う。「容易に」ということを神は決して喜び給わないのであります。
むかし、布施太子は眼を求むる者には眼を与え、耳を求むる者には耳を与え、手足を求むる者には手足を与え、およそ身体の一切と身体につける一切のものを捧げたがために、後の世に仏として正等覚(さとり)を開くことができたということであります。
これは、何も正等覚(さとり)を開いて仏となるのに必ずしも苦しみが必要だということではないのであります。
ただ神は何事にも「本気」すなわち真剣ということを要求し給うのであります。「献身」の前には、誰でも自分が「本気」であるか、よい加減な自己欺瞞(にせもの)であるかが自分自身にハッキリわかる。そのために神は「献身」を要求したまうのであります。
換言すれば「価を払う」ということを要求したまうのであります。この本でも無料(ただ)なら読んでやろうというような人は、献身的要素がないから、たといタダで差しあげても「本気」にこれを読んでくださらないで、したがって得るところは少ないのであります。
これは小さな問題でありますが、献身のない不真剣さでは神縁が結ばれないのであります。
『使徒行伝』第五章にはアナニヤという人が妻と共に資産を売り、その価のいく分をかくしておき、残るいく分をその全部であると偽って献金しますと、ペテロが「アナニヤよ、何故なんじの心サタンにて満ち、聖霊に対して偽りたるぞ」と叱咤します。と、アナニヤその言葉に打たれて息絶えて死んでいます。
これは、必ずしも神罰というわけではない。つまりそういうような方の精神波動と、神の救いの霊波とは波長が合わないために霊的恩寵(みたまのさきはえ)を受けることができない。神霊(みたま)の割愛(さきはい)を受けることができなければ本来神の生命を受けて生きているわれわれの生命は生きるはずはない。それでアナニヤの息が絶えたのは当然であります。
<つづく>
1262
:
復興G
:2012/09/07(金) 15:00:39 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(18)
-----------------------
本当の献身とは必ずしも持ち物を神様の所へ持って行くことではない。かくしなき心になって、持ち物のみならず、自分の全部(すべて)が、その生命までも、神様のものだと認めることであります。自分の生命(いのち)さえも神様のものであると解れば、かくしなき心で神の家族の働きができるのであります。生長の家は神の人類光明化運動の現われでありますから、神の家族として同志増加につくしてくださる方にはそれだけの報いが必ずあるものです。
わたしは何事も生きた事実を語るのであって、こしらえ事をいうのではありません。
倉田百三氏の雑誌『生活者』に時々寄稿していられた香川県木田郡庵治(あじ)村の阿野義一氏は、『生長の家』の創刊号が出るとともに誌友となってくださった上、この雑誌は実によい雑誌だといって知友の方にも勧め、しばらくのうちに十五人ばかりも誌友を造ってくださったのであります。
この方は非常に敬虔な仏教信者であって、毎月仏教の先生を招いて村の青年や信心深い人たちに有り難い話を聞かしてあげるための会をつくっていられた。まだ二十歳ぐらいのころから「人生」というものを深く考え、考えれば考えるほど解決のつかない人生の悩みについに行き詰って、はては自殺でもしようかというほど思いつめて思い悩まれたほどの真剣な人であります。
この方は造り醤油屋の嗣子(あとつぎ)になっていられる方でありましたから、別に経済に困るから悩まれたのではありません。また自分の身体(からだ)が病弱なために悩まれたのでもありません。純粋に「人生」というもの、「人間」というもの、「欲望」というものなどのことを考えて死ぬほどに思い悩まれた。まだ二十歳という若さでこんな問題にこれほど悩まれたというのでありますから、どんなに阿野氏の人格が生まれつき真剣であったかがわかるのであります。
わたしはこの話を聞いたとき阿野氏の人格の本気さに頭がさがった。
そのころ阿野氏は人生の悩みを解決するために、一室に篭(こも)って合掌静坐してお念仏を唱えていられた。するとある日、氏に霊覚がひらけて光明輝く仏土のような状態がありありと拝まれた。光明遍照のその世界のありさまを自分の目でありありと御覧になったとき、氏の今までの暗黒な人生の悩みがあとかたもなく消えてしまって、あとには歓喜と法悦とが心を満たしているのであった。この光明遍照の世界を見せしめられた霊覚は一ヵ月ばかり引きつづいて持続した。
あまりの歓喜、あまりの法悦に、氏の心のうちにはもう一度、前のように「人生」というものに悩んでみたいという気が起こったのであります。氏は「もう一度人生というものに悩ましてください」といって祈られた。するととつぜん、実にとつぜん、氏の霊覚が停止し、光明遍照の世界が眼界から消えてしまった。それ以来、氏は自分の求めた祈りのとおりに「人生」について悩みつづけられて、やっと近ごろになってその求めた人生の悩みを克服せられたのであります。
氏はこのように真剣な人格をもっていられる方でありまして、先年、村会議員の選挙のあったときにも、村民全体から立候補を勧められたが自分で進んで立つということをせられないで、その騒然たる浮世の名利(みょうり)の仕事をあとにして、四国から海を越えて「道」を知るべく、はるばるわたしの家すなわち当時の生長の家出版部を訪ねて来られた。けれどもやはり氏はその選挙に当選せられた。
氏の霊的体験をわたしが聞いたのもその時の事であった。わたしも語った。氏も語られた。「道」の話は尽くるべくもなかった。
氏がはるばる生長の家出版部をたずねて来られたのは、ともに「道」を語り、「神」を語ることが主要の目的ではあったが、もう一つそれに付随した願いがあった。それは自分の義兄が昨年の四月精神病となり、鳴門の阿波井島保養院に入院してもう十ヵ月あまりになるけれども少しも快(よ)くならないから、わたしに頼んで治るものなら治してもらいたいと思っていられた。しかしわたしに会ってみると、わたしが実に忙しい生活をしているので、氏はそんな私事をわたしに頼むことができず、ただわたしにそんな病気をわずらっている義兄があることを話して、それを治す方法を相談された。わたしはここがこのまま極楽浄土であること、病気などは念のあらわす影であって実在でないこと、したがって義兄の精神異状も本来無いことなどを話しました。阿野氏は喜んで帰られたのであります。
<つづく>
1263
:
復興G
:2012/09/07(金) 15:01:17 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(19)
-----------------------
ところが阿野氏が、生長の家出版部をたずねられてから、氏の義兄の精神異状が急角度をもってよくなり、はじめ病人から
「不図(ふと)前夜より何となく少し気慥(たしか)に相成候(あいなりそうろう)、色々御話も致度(いたしたき)件も有之候(これありそうろう)に付御多忙之御事と察し申上候(もうしあげそうら)え共御手すきの時御足労被下度(くだされたく)御依頼申上候」(原文のまま)
と少しも精神に異状のない書きぶりのはがきが届いたのであります。それ以来、この人の病気は急速に快くなられ、六月の八日には七、八分全快して阿波井島保養院を退院せられましたが、六月二十九日消印の阿野氏からの便りには、
「兄の精神状態も常と変わりなくなりました」と報じて来られたのであります。
私はこの生きた事実を思い出すごとに、イエス・キリストの奇跡を思い出すのであります。イエスが道を伝えてカペナウンに入り給いし時、百卒長(ひゃくにんのおさ)が来て、
「主よ、わが僕、中風を病んで家で臥(ね)ていまして非常に苦しんでいます」
といいますと、イエスが
「わたしが往(い)って治してやろう」
と申された。しかし百卒長は
「尊き主を賤(しず)が伏屋(ふせや)に迎え奉ることはおそれ多いことでございます。だからただお言葉で治れとおっしゃってくだされば治るに相違ありません」
と申し上げたので、イエスは、
「なんじの信ずるごとくなんじになれ」
とおっしゃった。するとそのとおりに病人は治ったという話であります。
この話においてイエスはただ、その病人を「治してあげたいな」という愛が動いただけであります。べつだん手を触れることも按摩(あんま)することもせられなかった。「治してあげたいな」という心は愛の心である。愛の心は神の心であるから治してあげたいなと深く心で思うだけで、それが宇宙遍満の神に通ずるのであります。
その愛の心が神に通ずると、神から、「救ってやろう」という「救いの霊的波動」が病人に送られる。「救いの霊的波動」を霊眼の開けた人が見ると天使の姿にも見えるのでありまして、治してあげたいと愛の心で真に思えば、この天使が病気を治してくださるのであります。
しかし、暗い陰気くさい心で「治してあげたい」と思っても、暗い心は神の光明霊波と波長が合わないからだめであります。人間は本来「神の子」だから病気は無いのだという真理を根本に知って、「その真理がくらまされていてかわいそうだ、治してあげたい」と愛の心を起こすのでなければなりません。
この場合、必ずしも天使とは羽根の生えた天の童子のような姿にかぎると思ってはなりません。天使とは神さまから「救ってやろう」という愛の心で送り給う「救いの霊的波動」が、それを見る人の心の鏡に反射して客観化(すがたにあらわ)れて見えるのでありますから、見る人の心によっていろいろの姿に見えるのであります。
キリスト教の人には、天父の姿にも見えましょうし、また天使の姿にも見えましょうが、仏教の方には観世音菩薩の姿や毘沙門天(びしゃもんてん)の姿にも見えましょう。日本神道の方には衣冠束帯の神々(こうごう)しい古代人のような神姿が見えたりするのであります。
これは「救いの化身」たる神々であって、第二巻の第六章「神への道しるべ」において私が第二類の神として説明している神であります。元は一つの神だけれども、映る鏡(心)に種類がたくさんあるからその鏡に反射していろいろの形相があらわれて諸神諸仏とあらわれるのであります。
<つづく>
1264
:
復興G
:2012/09/07(金) 15:02:19 ID:xKxowNU.
<つづき>
<第6回 WEB誌友会用テキスト>
『生命の實相』 第1巻
《實相篇(上)光明の真理 第4章》 より(20)
-----------------------
愛の心は通じる
「治してあげたい」と思う愛の心が通ずるということについて先年私は面白い体験をしたのであります。
昭和四年、生長の家を創始する前年の暮、わたしの子供が扁桃腺炎(へんとうせんえん)をわずらって、熱が出て数日間臥(ね)ていたのでありますが、自分の子供だというとなぜかそれほどに霊的に治すことに熱心になれないのであります。そして子供の病気は家内の処置にまかせておき、自分の恩師今井先生が一、二ヵ月前から持病の胃腸病を起こして毎日痛んで衰弱していられるということを聞きましたので、会社の昼の休み時間に霊的治療にいったのであります。
その頃私はまだ会社に通っていましたが、霊感をえた直後でまだ「生長の家」の創始前でした。一回の思念で痛みはとれましたが、その四日目はちょうど土曜日でありました。正午すぎ、わたしは今井先生宅へ行くために電車に乗ったままこんなことを考えたのであります。
――「わたしはなぜ自分の子供の病気を家内の処置にまかせておいてひとの病気ばかりを霊的に治してゆくのであろう。自分の子供をあんなに冷淡に放っておいてはいけないがな。」こうわたしは自分の子供に対して治したいという深い愛の心が動いたのであります。
電車の中でわたしはしばらく合掌して祈っていました。
土曜日だったので、すっかり気持ちがよくなったといわれる今井先生とゆっくり神さまの話などをして、夕方帰って来ますと、家内が
「今日の昼、妙なことがありましたのです」というのです。
「昼ご飯がすんで、湿布薬を酢(す)に溶いたのを紙にのばして食卓にこうしておき、恵美子のまえの湿布を取ってしまって、これからその紙にのばした新しい湿布薬を咽喉(のど)へ貼ろうとする時に、急にわたしは神憑(かんがかり)になったように夢中で両手のひらを恵美子の咽喉へあててお経やら祝詞(のりと)やらをとなえ出したのですね。恵美子はすぐ膝の上で眠ってしまいました。すっかり夢中で唱えごとをしていましたが、気がついて見ると、さっき紙へのばした湿布薬はすっかり乾いてカラカラになっているのですの。時計を見ると、もう三時になっていました。恵美子はまだぐっすり寝ています。ソラ恵美子もう三時(おやつ)だよといって恵美子をゆり起こして、もう一度湿布薬を溶かねばならぬような始末でした」
というのです。わたしは
「そうか、それは霊的感応現象だ。ちょうどその十二時半ごろに僕は電車の中で、恵美子の病気を薬ばかりに任せておいてはいかんがなと思って祈っていたのだ。それが感応したんだな」
といって、しみじみ祈りは感応するものであること、愛の心は神に通ずるものであるということを体験させられまして、ただちに咽喉の湿布をとってしまうように命じたのでありますが、それきり湿布も内服薬もなしに子供の扁桃腺炎は治ってしまったのであります。
<以上、第6回 WEB誌友会テキスト 完>
1265
:
神の子さん
:2012/09/07(金) 22:55:55 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんばんは。
従業員が失敗したとき (『新版 生活の智慧365章』P.240より)
上役が下役を罵るごときは、いと易き出来事なのである。両者は対等の立場に立って
いないのである。対等の立場に立っての応酬ならば、それは言論は自由であるから自分が
言いたいままに批評を加え、鋭い矛先をもって相手に立ち向かうのも或いは卑怯でない
かも知れないけれども、上役と下役と云うような対等の立場でないものが、上役から鋭い
言葉の剣をもって斬りつけると云うことは「卑怯」であると言うほかはない。
たとい従業員に失策があったとしても、皮肉や罵りや怒りや侮辱を従業員にあびせかけた
にしても、それによって失錯が取り返せるわけではないのである。失錯したときには従業員
みずからそれを「失錯だ。しまった!」と思って後悔して、今後こんな失錯を繰り返すまい
と心にちかいつつあるのである。その時冷たい罵詈讒謗(ばりざんぼう)の言葉を与えられる
と其の人の後悔や反省は却って反抗心に変わるのである。
感謝合掌
1266
:
神の子さん
:2012/09/07(金) 23:05:34 ID:0kyCzJg6
ありがとうございます。1265は、ハマナスです。
1267
:
ハマナス
:2012/09/09(日) 12:10:34 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
ありがとうございます。
劣等感から立ち直らせる (『新版 生活の智慧365章』P.241)
従業員が失錯した場合には、既に彼は、自己を卑下し、自己劣等感に陥り、上役から罵られる
ことを覚悟し、自己萎縮している時であるから、そのときにそれを冷たく追い打ちの言葉で罵る
かわりに、温かい同情或る言葉をかけてやるならば、彼はホッと救われたように感じ、恩義に思い、
愛を感じ、尚一層、その上役の恩義と愛とに報いたいと思うようになるものである。
誰でも失意落胆の心境にあるときには好い仕事が出来ないのである。失錯をして自己劣等感に
陥っている時に、その劣等感から立ち直らせて、好き仕事をなさしめるには、愛情ある同情ある
言葉で励ましてやることである。苛酷な、奴隷を酷使するような冷酷な態度で従業員に臨むときは、
従業員も業主(又は経営者)に対して苛酷な態度で立ち向かうことになるのである。与えよさらば
与えられん。自己が冷酷ならば相手も冷酷となるのである。
感謝合掌
1268
:
a hope
:2012/09/10(月) 06:28:08 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
仕事と勉強をよくする法
仕事をする時には、先ず「今日も一緒にあなたと仕事をしましょうね」と言って、仕事の材料に微笑みかけよ。
勉強する時には、先ずその勉強の材料に、教科書に、答案用紙に、雑記帳に対(むか)って、
「今日もあなたと仲よく一緒に勉強しましょうね。あなたはきっと、わたしをよくできる子にしてくださるわ!」
こう心で話しかけてから、教科書や、答案用紙と仲よくなって勉強することです。
教科書や、答案用紙を嫌いつつ、「お前なんかこの世の中にあるものだから、
私が勉強しなければならぬ、なんて詰まらない事だろう」と思って、
教科書や答案用紙を憎みながら勉強したのでは、勉強は上手になりません。
(つづく)
1269
:
SAKURA
:2012/09/10(月) 09:56:58 ID:SbalnCM2
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
おはようございます…。 ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
今月は…『セフテンバ−…9月』
暦の上では、どうしても浮かびますのが……二百十日、二百二十日と…
そうなのです〜〜ョネ!【台風シ−ズン】…何となく?過ぎ去って欲しいものです…。
それでは、本日の“言葉”から〜♫〜
■■ ―― 如意自在の生活365章 ――
―――【 汝は“神の子”一切は自己より出ず 】 ―――
ソクラテスが“汝みずからを知れ”と言ったごとく、宗教の根本課題は“汝みずからを知る”こと
である。“お前はどこから来たのか” “お前は一体何者か”の問題である。自己を物質でできた肉体
であり、中には内臓があり、内臓の内部には糞雑穢が充ち満ちている有限の存在であると見ている限
りにおいては、人間は物質の法則に左右され、物質の法則の奴隷であり、出せば減る存在であり、富
むためには奪わなければならない惨めな劣弱なる存在であるほかないのである。
肉体は“自己の表現”の一部分であり、自分は宇宙の造り主なる神と一体であり、あらゆる処に
“自己表現”を自分がなしつつあるのだという自覚をもたなければならないのである。わたしたち
は、善なる神を妨げる対立的な力があるということをみとめてはならないのである。不調和を来たす
力が実在すると考えてはならないのである。そのような不調和を起す力があると考える程度におい
て、“不調和な力”を自分がそこにその時点に表現しつつあるのである。 (雅春先生著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■肉体…一時的な借物でしょうか?
この「現象世界=現実世界…」での、人生劇場の役者としまして…頂きました“仮の姿”かと?
当に【自己表現…】の手段としての【肉体人間…】でしょう。
では?本質の私は、何者でしょうか〜〜〜? 自問自答しますと〜〜〜?
勿論!【霊的人間…】なので〜〜す。今年亡くなりました「母の御霊様」を、見ましてからは、
更に“お前はどこから来たのか”と言われますと…勿論!
この現象世界の次なる世界…そうです〜〜ョネ!【霊界…】から〜♫〜
そこには、肉体こそありませんが、今の私の状態を引きずった状態での“世界…”と申すべき
でしょうかしら〜〜〜ン!
但し懸念して居ます事があります…。その「御霊の色…」ウフフ><
【生命の実相】の中に“色別…評価”がありましたモノ!
「赤色」・「黄色」・「青色」・「白色」……etc いったい?私の場合は〜〜〜なんて考えてしまいます。
ならば…『神と一体』に於きまして…『魂の向上』を、この現実世界である今!今!…
磨いていきます事が、次なる世界への素晴らし〜〜〜イ!世界へ「旅立つ〜♫」でしょうか?
神の世界は「調和の世界」ですから…これを踏まえまして【自我をたちきるべし…】
そうしませんと…【我欲…執着】になりまして【調和の世界…】には、到底行けませんでしょうか?
今から…『神の子としての自覚』を持ちまして【今!今!この世界にて“心の向上”…】を、
霊的人間は“自由自在”しかも”無限の力“がありますモノ〜♫〜
益々勉強して参りたく思います。…が?
再合掌
PS:トキ様は?本日の“言葉”どの様に受け止められましたでしょうか〜〜〜?
アドバイス頂きますと、幸いです。…が?
1270
:
ハマナス
:2012/09/10(月) 13:35:32 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんにちは。今日も、こちらは暑いですが、皆さまは如何にお過ごしですか?
上役のやさしい言葉 (『新版 生活の智慧365章』P.242)
人は本当に自由になったとき、責任感をもち、真面目に仕事をすることが出来るのである。
業主は従業者を自分の息子又は娘であると感じて、その幸福のために誠心(まごころ)を
尽くしてやるべきである。真心は真心を呼び出し、冷酷は冷酷を呼び出すのである。冷酷
なる親に対しては子は親不孝になるのは当然である。子は親の愛を感じたら、親に対して
反逆の心を起こしたりすることはないのである。
従業員は概ね貧しいのである。その生活には苦労が多いのである。その上経営者から辛く
扱われてはたまらないのである。経営者はもっと従業員の生活の労苦を軽減してやるように
意を用いてやらなければならないのである。上役のやさしい言葉や、同情ある態度、思いやり
ある扱いが、これらの従業員を明るい温かいものにしてくれるのである。人は何の位置におかれても人に愛を施すことが出来るのである。
感謝合掌
1271
:
うのはな
:2012/09/10(月) 14:43:33 ID:2lPhm8Go
私のクラス会 谷口輝子 先生著 『愛が魂に目覚める時』P146〜
私の車が停ったところはクラスメートの国方さんの玄関前であった。
私は車を降りてもすぐにドアに手をかけられなかった。国方さんの庭から這い上り、
堀の上から顔を出しているツルバラの花が、余りに美しく可憐なので、私はそれに近よって、
しばし見惚れていたからであった。
やがてドアをあけると、気配を感じてドヤドヤと出迎えて下さったのは、国方さんとお嫁さんと、先着の
二人の友たちであった。応接間に通されてしばらくすると、四人の友もみんな到着されたので、予定通り八人が揃った。
みんな二階に案内されて落ち着いて坐った。みんなは直ちに楽しい賑やかな会話にはいった。
国方さんの息子さんは建築家なので、変った面白い建て方がしてあり、洋間にも日本間にも棚の上には亡き御主人の作らしい
彫像が飾られてあった。一流の彫刻家だった御主人が去年亡くなられたが、沢山の作品が、あの部屋この部屋に、そして廊下にも
飾られてあるので、矢張り夫と共に暮して居られる感じがした。
八人のクラスメートの中で、夫が生きて居られるのは、矢沢さんと私との二人だけであった。
大阪からはるばると上京して、今日のクラス会に加わられた高井さんの夫は、最近亡くなられたのである。
仲のよいという評判の夫に逝かれたのに、高井さんは思いのほか明るい顔をして居られる。私の隣りの席に坐って、
高井さんは夫の死について話しつづけられた。
「去年から、誰からか判らないのですが、毎月私に『白鳩』を送って下さるので拝見しています。貴女は二つも文章を
出して居られるんですね」
「ええ、もう、もう一つ『理想世界』という青年誌にも書いて居りますの」
「うちの主人はね、軽い脳軟化症でしたが元気だったのですよ。死ぬ前の晩に“わしはもう死ぬよ”と申しましたが、元気でしたから
私は本当に思って居りませんでした。ところが翌朝の七時頃でした。水が飲みたいから持って来てくれと申しますので、コップに入れて
持って行きますと、『ああ美味しい。もう一杯くれ』と申しますので、また持って行きますと、それを飲まないうちに、横になったかと思うと、
息が切れたのですよ。私は水を運ぶ時、それが末期の水になるとは思いもかけないことでしたが、後で考えて見ると、近頃は逢う人毎に、『いろいろお世話に
なりまして』と御礼を言って居りましたし、私にも、『お前は良い妻だった。大変世話になった。有難うよ』などと申して居ました。
自分では死の予感があったのでしょうね」
などと高井さんは言われた。
御主人が余りにも立派な死に方をされたので、彼女の顔は明るいのであった。私は大阪の白鳩の一人が、名も告げないで愛行をして、
高井さんに送本していて下さることに、蔭ながら御礼を言いたいと思った。一昨年まで東京に居られた高井さんが、もはや東京のクラス会の
メンバーでなくなったのに、特にはるばる参加されたのは、こんな話や、満州引揚げの時に、一般の引揚者は一人千円しか持ち帰れなかったのに、
高井さんは大袋いっぱいのお金を持って帰られた話もされた。引揚げぎわに、銀行から会社の預金を引き出されたので、日本へ帰って来られた時、
会社から非常に感謝されたそうである。珍しい話だと思った。
杉並に住んで居られる佐賀さんも「白鳩」誌を長年読んで居られ、大阪に在られる息子さんも、九州の大学へ行ってる孫さんも「生長の家」に熱心だと、
ひどく私に御礼を言われたのでクラス会なのに、白鳩会と錯覚しそうになった。
クラス会に行った翌日、沢山の郵便物の中から取り出した二通の封書の一つは、品川の海雲寺というお寺から送られた“時の宣伝”なる印刷物であった。
時間を大切に生かして使えという宣伝を、前住職から続けて来られたそうである。
そ 世の中は今日より外はなかりけり 昨日はすぎつ明日は知られず
昨日見し人はと問へば今日はなし 明日また我も人に問はれん
後の世と聞けば遠きに似たれども 知らずや今日もその日なるらん
かほどまで偽り多き世なれども 死ぬるばかりは偽りでなし
(読人不知)
つづく
1272
:
うのはな
:2012/09/10(月) 14:44:47 ID:2lPhm8Go
>1271 つづき
お寺らしく、仏教的無常観の歌を記して居られるが、全く現象の世界は映し世と呼ばれる通り、
今日あって明日はどうなるか解らない肉体人間の世界である。私は高井さんの御主人のように、少しも
苦しまないで、見る人ごとに感謝してあの世へ旅立たれ、遺族も心安らかに明るい顔をして
暮らせることを、有難く尊いことに思いながら、もう一通の手紙を開いた。それは愛知県の或る町の誌友の娘
Aさんからのものであった。
『拝啓、前文ごめん下さい。私の父は十年ほど前から生長の家に参加し、心そう感やら、甘露の法雨を一所懸命読んで
おりました。それが二月十八日突然吐血し、市立病院に入院しました。今日まで病院で一進一退の状態で、何の奇蹟も起らず、
悲嘆のあまり、一宮市の婦人講師Nさんに来ていただき、個人指導をお願いいたしましたが、いっこうに要領をえず、三度目の奇蹟も
おこりません。神様は、かねて平等の愛である生長の家に書かれておりますが、十年も誌友となっておりました者が、何んの奇蹟もいただけないもの
でしょうか。私の家では毎月一度、二十名ぐらいの人があつまりまして、たのもしの常会を開き、生長の家の本の話や、世間話などを話合っております。
私も誌友であり話合っておりますが、これはどういう事でしょうか。よく理解できます返事を、私個人にお送り下さい。
神様は平等にお守り下さると言う事ですが、生長の家の本に書いてある事とは大ちがいで、びっくりしています。
毎月集まって来る人達もご返事を待っています。返事がもらえぬ事なら、私達もその様に思います。父は返事がいただける迄この世に生きていられるかどうか
わかりませんが、出来ますれば、この世に生きていられる間に、なっとくの行く返事を聞かせてあげたいと、私達子供、親戚一同せつにお願い申し上げます』
このお手紙は原文のままのものであるが、私はこのお手紙を読みながら、今更のように考えさせられた。信仰というものは一人一人のものであって、同じ教えを
受けても、各自の受け入れ態勢が異なるために、深く悟る人もあるし、浅い理解しか得られない人もある。
この手紙の人のように、入信して十年もたつというのに、「生長の家」の最も重要な行事である「神想観」を「心そう感」としか書けないということは、信仰に熱心でないことを
表している。毎月発行される「白鳩」誌を読み、「白鳩相談室」へこのお手紙をよせられた人なのに、心そう感と書かれるようでは、心をこめて読んで居られないことが判る。
「白鳩相談室」宛のものは誌上回答を原則としてあるので、この人個人への返事は早速本部講師より出して貰ったが、この人の家に集って来る人たちや、同じ質問をもつ人たちのために、
私は誌上で答えることにした。の宣伝ビラの終りの方に、四首の歌が記されてあった。
つづく
1273
:
うのはな
:2012/09/10(月) 14:49:20 ID:2lPhm8Go
すみません。上の1272 の最後の文 の宣伝の終りに、、消し忘れていました。
1274
:
うのはな
:2012/09/10(月) 15:31:09 ID:YWcH1hUU
>1272 つづき
まことに神様は一切の人々に平等の愛を与えて居給うのである。あの人を愛し、
この人を愛さないということは、最高の神の心ではなく、如何なる人をも愛し給うものである。
神は、生きとし生けるもの凡てに、愛を振りかけていられるのだけれど、その愛を受け取る人と
受け取らない人とがあるのである。ちょうど、ラジオ局から放送をしていると、スイッチを入れて受けようとする人と、
スイッチを入れない人とがあるように、神は愛の放送を休みなくしつづけてい給うけれど、受け入れ態勢をしない人には、
幸福は得られないのである。
幸福な人とは何であろうか。それは人々の幸せのために働き、生きている限り感謝の生活をし、死ぬる時も、神に感謝を捧げ、
一切の人々に感謝を捧げて死ねる人のことをいうのである。
信仰する人たちは、しばしば奇蹟的な救いを語り、信仰すれば奇蹟が得られると思いがちであるが、「生長の家」では、奇蹟は無いと
説かれている。一見奇蹟のごとく思われる不思議な救われを得る人がしばしばあるけれど、それは特別な奇蹟というものではなく、その人の
或いはその人の家族の信仰によって現れた当然の現象なのであるから、入信しても、真剣にみ教えを実生活に生かしているか、よい加減に生活して
いるかによって、結果は原因にふさわしいものとして現れるのである。入信して一ヵ月の人も、十年二十年の人も、年月の長短とかかわりなく、唯その人が
如何に真剣に道を行じるかにあるのであって、多く与えた人は多く得られ、与えなかった人は得られないのである。
手紙の人は、唯奇蹟ばかりを欲しがり、『甘露の法雨』を読んだが奇蹟が起らない、N先生に来て貰ったが奇蹟は現れなかった。三度目の奇蹟も起らなかったら、
教えがうそのように思って居られる。この人たちは、奇蹟を奇蹟をと、唯お蔭を欲しがってばかり居られるが、父君が仮りに胃潰瘍で吐血されたとすると、その病気になられた
について、その原因の心の在り方について、反省して見られたであろうか。一切の不幸は自分の心で作ったのであるから、その病気の原因である心の持ち方を変えねばならない。
現代の医学者でも、胃潰瘍は精神的な原因によると言われているほどだから、自己を反省して、誰を憎んだか、何ごとに不足をもったか、何が思うようにゆかないと不満をもっていたか
を思いめぐらせて、人に、事に、調和し赦し、感謝に変えるように努力されたらよいと思う。
感謝あるところに、病気やその他の不幸が現れる筈がないからである。
アメリカの光明思想家グレン・クラーク教授は、子供が瀕死の重態に陥っているので祈ってくれと頼んで来た婦人に、
「みこころならば、どうぞこの子供を、天国にお引き取り下さいと祈りなさい」と教えています。
これは「治したい、治したい」という病気をつかむ心を棄てさせるためである。
そしてその母親が、その心境になって、神様にお委せする気になったとき、子供が治っているのである。
自分の心の中から病気を放さないので、お蔭が得られないことを金光教祖は、
「ままよという心にならねばお蔭は得られぬ」とおっしゃっていられる。
生きるも死ぬるも、神様あなたにお委せいたしますという気持ちになった時、神の癒しの働きが自分に及んで来るのである。
そのままの心、神意のまにまに在らしめ給えという祈りの心が大切である。
私の友の佐賀さんの令息が癌の疑いで入院された時、令息の見舞いに大阪まで行かれた佐賀さんは、枕許に『生命の實相』を
置いて帰京せられた。熱心に読まれた令息は癒された。真理を知って心が変られたのであろう。
今はその令息夫妻もその子も、熱心な生長の家人となって居られる。母として祖母として、深い感謝の意を私に示された。
クラス会に行った私の、思いがけない収穫であった。
わたしには眼には見えない大きなおみやげであった。
昭和45年8月 おわり
1275
:
a hope
:2012/09/11(火) 07:40:56 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
明るい人はなぜ出世する
事業の成功ということも、就職の希望がかなうということも、
良き良人や妻を迎えるということも、すべて明るい、元気な、その人の顔を一目見るだけで、
とても愉快になり、気持ちがよくなるような人間であってこそ速やかに得られるのです。
誰でも、こんな人に在ったら好意を感ぜずにはいられません。
こんな人から頼まれることは嫌だとは言われません。
こんな人には何か助けをしてあげたくなります。
雇ってくれと頼まれれば雇わずにはとてもいられません。
そういう人は、他の人々を自分の思う通りに動かす魔術の棒を持っているようなものです。
その魔術の棒はどこにあるか。
それはあなたの明るい心と明るい微笑とにあるのです。
(つづく)
1276
:
ハマナス
:2012/09/11(火) 12:51:40 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんにちは。
奪うものは奪われる (『新版 生活の智慧365章』P.243)
上役や経営者は利己的であってはならない。また上役が貪欲であってはならない。上役及び
経営者は、従業者と共に富んで行くのでなければならない。従業者の犠牲に於て富もうと思う
ならば、それは「奪う心」であるから「奪う者は奪われる」と云う法則に随って、従業者の
サボタージュや、ストライキで「奪い返す」はたらきが起こってる来るノである。
またサボやストを露骨に行わないにしても従業者が上役や経営者に対して好意を持たない
ときには、働く意欲が減少し、機械、器具、什器などを乱暴に取扱い、火災に対する深重な
警戒などもしてくれないので、不測の災害を惹起すに到らないとも限らないのである。
火災は往々「人心の摩擦」の具象化として起りがちなものである。仕事に対する従業者の
深切注意を喚起するには、上役及び経営者が従業者の生活について深切な愛を持つに若(し)
くはなのである。
感謝合掌
1277
:
SAKURA
:2012/09/11(火) 22:32:15 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1043
>>1044
>>1052
>>1057
>>1058
>>1063
>>1068
>>1073
>>1087
>>1092
>>1093
>>1097
>>1098
>>1167
>>1170
>>1171
>>1174
>>1175
>>1190
>>1194
>>1210
>>1227
>>1238
に関しましては、【ベスト・フレンド】シリ−ズで〜〜〜す。
実は、私の「青春シリ−ズの一冊の本」なのです。(討論課題項目が、幾つかに分かれてい
ますが?)意外と真理が、分かりやすい【討論形式】なのです。…が〜〜〜??
【コロンビア大の方達が、真理…サイコ的】に? 昨日の投稿文章は、皆様!如何でしたかしら〜ン?
■【ベスト・フレンド】 ( 混乱を静める方法 )
――――― 混乱静める方法 ―――――
|❤なんですって。そんなことは不公平です。そんなことではあの人たち
|をそのままにほっておくことになるではありませんか。すんだことは水
|に流せというのですか。それでは結局、わたしたちはあの人たちにやら
|れっぱなしということになるじゃありませんか。
たしかに不公平です。しかし、人生とは不公平なものですよ。あの人たち
は実際、逃げおおせたことになります。そのことにたいして、あなたが現在
できることはなにもありません。いまさら貸したものを清算する方法はなに
もないのです。ハムレットは他の悲劇の主人公と同じように、結局は賃借を
清算したのですが、それは死歌流形かのどちらかを選ぶことによってのみ達
成されたのでした。神話にもあるように、エレクトラは母親を殺してしまい、
二度と家庭で母親を見ることはなかったのです。
人生にはまた別の生き方があります。それは寛容の精神をもって、愚痴を
こぼすのはやめ、物事を大目に見ることです。あなたは全人生を両親に持ち
逃げされないようにしなさい。あなたの全人生をみずからあきらめてしまう
ことをやめることができるのです。
――――――― ❤ ――――――
|❤わたしたちは過去を帳消しにするべきなのですね。あらゆる悩み、過
|去の年月、子どものときに信じていたことのすべて、これらを全部忘れ
|なさいというのですか。わたしたちが考えていたことはすべてなにもな
|かったのだということを受け入れなければいけないのですね。
いいえ、ある意味では、そのときあなたが考えていたとおりだったのです。
人間というのは、それを打ち立てた時点ではまちがっていなかったという
ことが、なかなかわからないのです。
――――――― ❤ ――――――――
(つづく)
1278
:
SAKURA
:2012/09/11(火) 22:34:58 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ 観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1277
投稿の続きです
|❤言葉で表現できないような漠然した見解をもっている限りは、世間
|を正しく認識しているとはお考えにならないわけですね。
いやむしろ、それはわたしたち自身の問題と取り組むときの最善の方法だ
ったわけです。わたしたちは、家庭という身近な世界で、もっとも小さな非
力な存在として出発しています。子どものころの無力感は理屈ではなく、事
実なのです。
社会とかかわりをもつ初期の段階では、他人の力をかりなければなりませ
ん。五歳のときには誰もが母親を必要とします。欲しいものを手に入れるた
めには母親に気に入られ、母親の機嫌をうかがう必要があります。わたした
ちの人生は文字どおりそうすることしかありません。子どもが子どもとして
の独自のことを達成するためには、おとなを動かさねばならないのです。キ
ャンデ−を手に入れたり、映画に行くためにはおとなを征服しなければなり
ません。すなわち、こどものころは人に頼り、他人の愛や同情、理解を求め
る方法を身につけることが、適切なやり方なのです。自分の力に頼ることが
できるのはあくまで二次的なものでしかないのです。
この無力感、そして他人を操作する要求を成人期までつづけて持ち越すと
ころにまちがいがあるのです。かっては事実であった事柄が、いまや虚構の
ものになっているのです。成人期には人の機嫌をうかがうことで、すべてが
うまくいくとは限らないのです。かって人があなたにしてくれたことを、い
まやあなたは自分自身にたいしてやれるのです。
三〇歳にもなればあなたが三歳のときのように、母親から愛を受ける必
要はもはやないのです。子どものときのように母親を気にしたりする必要も
ないし、当時のような接し方も必要ないのです。もはや母親の怒りを恐れる
こともありません。母親の好きなネクタイをしたり、母親が認めるような女
性とデ−トしなくてもよいのです。それらはすべて過ぎ去ったことです。あ
なたの古い歴史のひとこまにすぎません。いまやあなたは独立した人格をも
った一人前の人間なのです。しかし、多くの人はこの事実に気づいていない
ようです。
PS:トキ様
子どもの頃(赤ちゃんも含め…)は、その行動には?確かに限度が、ありますでしょうか?
つまり其の“行為”の「主体者」・「客体…」この区別が、必要です〜〜〜ョネ!
この件は「機関誌…9月号」にて「現総裁雅宣先生…」が述べられています。…が?
ある程度の年齢までは「両親…母親…」からの影響が、多大なモノです〜ョネ!
しかし、この事から更に【時間…経過】を致しまして【自分自身での行為】事が可能であり、
それはすべての事に関して【自己責任…】といいます事を認識しました時、
次なる“ステップ”へと繋がるモノと思います。これこそが「成功へのステ−タス」でしょうか?
【人 格 の 向 上】へもつながりますでしょうかと???
この事は「トキ様…」如何お考えでしょうか?
再合掌
1279
:
a hope
:2012/09/12(水) 07:52:57 ID:r8H4x9xE
人生読本 谷口雅春先生著
自分の人物試験法
先ずあなたの顔を鏡に映して御覧なさい。
当り前にしている時の心持で、故意と顔の表情をかえないで、今あるままの顔で、
口をボンヤリ開いているならば開いているままで、眉をしかめているならば顰(しか)めているままで、
ソーッと今あなたの机の上にある手鏡を、あなたの顔の前に持ってお出でなさい。
そして、その鏡の中に移っている自分の顔を御覧なさい。
あなたの顔は明るい気持ちの良い顔をしておりますか。
あなたの今の顔は自分でも好きですか。
自分でも嫌になるような陰気な顔をしておられはしませんか。
口がポカンと開いている癖があったら、これから常に心を引締めて物を言わない時には、
口をしっかり噤(つぐ)んでいる習慣をつけましょう。
眉を顰めているならば、これからは常に眉と眉の間を引伸ばすような心持で生活しましょう。
眼に険があって鋭ければ、母に甘えるような一番柔らかな気持ちで物を観るようにしましょう。
眉をひそめている習慣があるのは、心が常にイライラしているか、焦っているか、悲しんでいるか、
狭い心でいる証拠ですから、眉を左右へ伸ばして暢(の)んびりとした広々とした愉快な気持におなんなさい。
そして口辺(くちのあたり)に微笑を湛(たたえ)えて、すべての物に微笑みかける気持になんなさい。
そういう人は人生の宝です。世の中が世知辛くなって、みんながイライラした顔をしている中に、
そういう愉快な輝かしい顔をしている人は人生の宝です。
人生の宝ならばあちらからもこちらからも来て欲しいという人が多数で、
思わぬ幸福はそこから生まれて来るのです。
これが出世する道、幸福になる道です。
人生読本 (完)
1280
:
うのはな
:2012/09/12(水) 13:36:55 ID:q1/hjc9I
信仰の操を貫く 『實相研鑽』第三集 谷口雅春 先生監修
林 利男
さて私の申し上げたいことは、信仰には“操と信念”がなくてはならぬということです。
私の考えているのはそれだけで、あっちへ行ったり、フラフラしたりするようなことじゃいかん。
生長の家は万教帰一だから、日蓮宗関係へ行っても、他の団体へ行って信仰の対象としても良いというような、
操のないことではいかんと思います。私が伊藤都連会長に褒められるとしたら、その操を貫いてきたということだけです。
御承知の通り私は、今度の戦争で三度も焼け出され、六法全書と聖経と中聖典(『生命の實相』)一冊と若干の夜具のみの文無し
になり、「物質無」を徹底して味わいました。また、たった一人の可愛い大切な息子はまだ帰っていません。
現象的には逆境とみえましょう、それで、生長の家を離れて自分が別の教団をつくり教祖になった人が、私を仲間に入れようとして断られたあげく
自分の本に何と書いたといいますと、「生長の家の顧問弁護士・林利男を見よ。彼は生長の家の誌友であるけれども、一人息子を死なせ、戦災で三度も
焼けて倉住まいをしているようなみじめな生活をしているじゃないか」と書いています。
またある婦人は最近、「林さんはいっこうに幸福になっていない。生長の家の教えが良けりゃ、林さんなんかもっと幸福になってなきゃならんのに」と
言うわけなんです。
しかし私は、現象的に逆境とみえるそんな体験を、私の魂を磨く糧としてありがたく受けているんです。
寂しくも何ともない。一人息子はいませんけれども、毎日陰膳をすえて三人ともに食事をしていますし、夫婦して喜んで生活しています。
ですから、そんな現象上の不幸でよろめくような信仰だったら、やめたらよいと言うんです。
家が焼けたから信仰を失うとか、身近に病人があり、現象の肉体を失うものならやめた方が良い、と私は申しております。
前回も申上げましたが、紳士録の宗教欄に私は『生長の家』と出しています。
私の家は代々浄土真宗ですが、私は死ぬまで、否二世三世、未来永劫に生長の家の誌友と確信しておりますから、馬鹿の一つ覚えと
言いますか、操を通しているという私の信念の証しとして出しております。
別に難しい理論の下に通しているわけでもなく、惰性でいるわけでもありません。
それが神への道であり、谷口先生への御恩返しの道であると、ただそれだけを考えて全ては神まかせに精進しているだけです。
谷口先生の前でこんなことを申上げては恐縮ですが、戦時中に多少、生長の家が弾圧されはしないかという傾きがあったとき、
もしものことがあったら先生と運命を偕にしよう、先生の御盾となろう、という覚悟でついてきました。
故人の小永井先生が郡山警察に留置されたときも、私は行くばかりになっていましたが、必ず釈放されると念じていて、まもなく
釈放されました。そういうしだいで、私としましてはつねにみ教えと一緒にという決心で一貫して、信仰生活をつづけているだけでございます。
1281
:
トキ
:2012/09/12(水) 14:01:22 ID:wOnf3jnI
>>1280
林先生は弁護士さんですね。立派な方です。このくだりは、自分も感激して読んだ記憶があります。
1282
:
うのはな
:2012/09/12(水) 18:20:55 ID:R80If25o
自己処罰と失敗について 断られて残念がらず
安達 鼎
私自身の体験を申上げます。私は満州から終戦一カ月前に内地に帰って参りましたが、
前から私は事業とか一切の仕事をすてて、生長の家を通して、人類を救うことをやりたいという希望を
もっておりましたので、習字でも教えて小遣いを五十円位もらったなら生活は出来るから、後は全部人類光明化
のために働きたいと、こういう覚悟でした。けれども戦後は社会情勢が激変してしまったので、再び勤めることを
決心したのであります。
そうしますと、「あなたなら、私の所へ来て下さい」「参りましょう」という所が三、四ヵ所ございました。
ところが、向うから言われて、こっちも承知した話ですから、もう大丈夫だと思っておるのが、九分九厘の所でポッと駄目に
なるんです。その時に、私は“あっ、断られて残念だ”と思ったことは一回もありません。駄目になったときにすぐ「ありがとうございます」
と神様に感謝致します。なぜかというと「これが得られなかったのは、私に下さるものは、こんなちっぽけなものではなかったのか、もっと大きな
仕事を私に下さるんだ。ああ、ありがとうございます。大きな仕事には手間がかかります。ありがとうございます」と思うから必ず、そのとき感謝致します。
そして最後に頼まれたのが、ある工場の工場長の話でした。
そこは給料はよろしい しかも、共産党などの非常に盛んなところで、始終闘争があったところです。そこに頼まれたとき、「ああよかった、これが私の仕事である。
どうか、この工場の人達を、みんな生長の家にしたい」という念願から、給料は望みませんからということで入りましたが、おかげで社長が生長の家に共鳴し、会社はすばらしく
よくなりました。
そこでこの体験から、九分九厘成功してあと一分で駄目になったからと落胆することは、これは本当に神を信じておらないものがやることだと思います。
本当に神を信じたならば、神はすでに与えておるんです。私たちはすでに仕合せをもらっておるんです。
ですからたとい何かのために話が進まなくっても、遅れているのは何かほかに理由があるからだと
“本来のもの”を神に感謝しておれば、必ず結果はよくなると確信をもって待っています。
それを、九分九厘できているのに、一分の所で欠けてしまったじゃないかと残念がったり、くやしがったり、
生長の家をやっておるのに、まだお蔭が与えられない、という考えをもつようになると、ますますだめになってしまうのだと
解釈致します。
『實相研鑽』 第三集 谷口雅春 先生監修 P84〜
1283
:
SAKURA
:2012/09/12(水) 20:38:13 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
今日はこの前【ウエブ誌友会…】のテキストからの一部です。いろいろ“投稿”させて頂こうかと、
思いました。…が?時間的に〜〜〜><でも!更に“続き投稿”を私なりにマイペースにて“投稿”…
してみたくなりました。では〜♫〜
■【生命の実相Ⅰ巻 總説篇/實相篇 上】
―――― 第 五 章 活きた事実を語る ―――――
皆さんは悲しげな顔をしている人のそばへ来ると自分もなんとなく悲しくなり、淋しそ
うな顔をしている人のそばへ来ると自分も何となく寂しくなったような経験がおありであ
りましょう。また腹立たしい顔をして咎めつけられるとこちらも腹が立って来たというよ
うな経験もまたおありでしょう。このようにわれわれの心の状態は付近の人々に感染(うつ)
って行くのであります。心の状態が感染るものであるとしますと、病気すなわち病的な
心の状態が形にあらわれたものも、感染るのが当然であります。たいていの人は伝染病
だけが感染るように思ってほかの病気は感染らないように思っていられますが、胃病や神
経衰弱も感染るのであります。家族全体が一種の気欝症になって、そのためみんなが消化
不良症や神経衰弱症に悩まされているような実例も世の中には少なくはありません。こ
れは皆あらゆる病気は精神的に感染するからであります。
(谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
■【伝染系の病気…】だけではなく【心の病気…】も“感染”されます〜〜〜ョネ!
【笑いの体操…】をします時に、大きな声をあげて笑います。
“ワ〜〜〜ハ!ハ!ハッ!〜♫〜” そして、気がつきますと【笑いの渦…】に、
まるで?打ち寄せては引く“波み”のように…引きこまれたり〜♫〜更に【浄心行…】の時は、
逆に【涙の渦…】でしょうか??
■私が小・中学の時代でしょうか??大牟田まで【小中学の練成会…】に、参加したモノです。
私一人で、其処に参加する様にと、両親から行かされましたが、今振り返りますと、素直に、
良くその道場へ行ったものです〜〜〜ョネ!当時は、“八幡駅”から〜〜〜“大牟田駅”までです。…が?
更に、駅の道案内で問い合わせながら?小学校の頃!一人で、まるで当時の私は、
【一人の行動が一人前のような感じで…】本当にルン〜ルン〜♫〜気分で、張り切って出かけたモノです。
その時は【笑いの体操…】は、ありませんでしたが〜【浄心行…】です。
当時を振り返りますと【両親への感謝…】という感じですが、私自身、当時は「悩み無し?」という
心境そのもので、実に「平和な心境」でしたから、“両親への不満・反発心”は、まったく無く、素直に
参加していますから…困惑しましたのが、正直な気持ちです。
当時の先生からの【親に感謝…】を、表しなさいと言われて……いざ【浄心行…】が、始まり〜〜〜
『お父様・お母様 ありがとうございます…。』と、何度も唱えていましたら…><
“隣の子”がシクシク泣いています。更に“また隣の子”も泣いています〜♫ “また!また隣の子”も!
当時の私は?泣かないといけないのかしら〜〜〜ン!と、当時は「小学高5年生?」でした。…が?
一生懸命 “父・母の顔!” を描きながら、気がつきますと“涙…”が出て来ます。
段々!あふれるように“泣きだしました。…が〜♫〜”大粒の涙くん“です。
その後の【浄心行…】でも、よく“涙くん〜♫”が出ました。…が?
やはり【心ヘの感染…】しますでしょうか〜〜〜?ですから【ア!ウン!の呼吸…】なのです〜ョネ!
私も【ア!ウン!の呼吸…】で【心の法則】つまり、【心 = 人 格】でしょうかしら〜〜ン!
■■同じ“感染系”でしたら……【真 理 の 感 染】が、最高ですかと???
再合掌
PS:トキ様 へ
脱線しますかしら〜〜ン?「トキ様」も【浄心行…】は“涙くん〜♫”でしたでしょうか???
余談になりますが??「もらい泣き〜♫〜専門…」が、パ−トナ−です。…が?
1284
:
ハマナス
:2012/09/12(水) 23:42:53 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんばんは。
温かい太陽の如く (『新版 生活の智慧365章』P.244)
温かい太陽の日差しにおかれた縁側にある鉢植えの梅がもうふくらんで、二,三輪ひらいている。
しかし霜に覆われた庭の梅の蕾は固い。暖かい愛情のあるところ、生命は中(うち)から開いて
くるのである。冷たい寒風のような心をもって人に対するとき、其の人の魂が固くとじて開かなく
なるのも無理はないのである。普通の人は冷酷な人や、むごい人に対して、忠誠な働きをすること
はできない。低卑な貪欲な業主に対して真面目に好意をもって働くことが出来ないのが普通である。
愛する者は愛され、好意を示す者は好意を示される。尊敬する者は尊敬され、深切を施す者には
深切が返って来る。従業者から愛され、好意を持たれ、尊敬され、深切忠実に仕事をして貰おうと
思ったならば、先ず自分自らが、これらの諸徳を従業者に与えねばならぬのである。而も今なお
多くの経営者がこの真理を知らないのは残念なことである。
感謝合掌
1285
:
a hope
:2012/09/13(木) 07:07:15 ID:r8H4x9xE
みなさま おはようございます。
丁度、8か月前の今年1月11日、わたしは「信仰/体験板」に聖典『人生読本』
の謹写を始めました。
その時の、決意表明が下の文章です。
――――――――――――――――――
730 :a hope:2012/01/11(水) 08:14:08 ID:kcv2QXTk
みなさま
おはようございます。
わたしは 最近思うのです。
「真理」を知るとはどういうことだろう?
「生長の家」の教えは奥が深くて、勉強すればするほど、さらに新しいことを知りたくなります。
そして、次から次へと新しい本を買って、読み、新しい知識を増やしていく。
でも、頭の中にどんなにたくさん「真理」の知識が入っていたとしても、
魂が納得していなければ、それは本当に「真理」を知ったとは言えないような気がします。
わたしは、毎日少しずつ子どもたちに「人生読本」を読み聞かせています。
雅春先生が、子どもに語るようにお話されていて、どのページを読んでも、良く理解でき、
自分も純粋な童心にもどって、真理の言葉をスポンジのように魂にしみ込ませることができるのです。
これから、この場所をかりて、無理のないように、少しずつ、書き写させていただきたいと思います。
感謝 合掌。
――――――――――――――――――
実は、昨日、聖典『人生読本』の全ての謹写を終えて、その達成感からか、
もう、一冊の聖典を連続してこちらの掲示板に謹写するのはやめようと考えていました。
ですが、今朝神想観をしていると、自分がどうして8か月前に『人生読本』の謹写を始めたのか思い出しました。
それは、『誰のためではない、自分自身の魂の向上のために始めたこと』なのでした!
ですから、これからも、自分のペースで、聖典の謹写を続けさせていただきたいと思います。
このような素晴らしい勉強の場を与えてくださる、管理人のトキさまにはいつも心から感謝しています。
合掌。
1286
:
a hope
:2012/09/13(木) 07:11:54 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
はしがき①
人間は〝神の子″ですから、如何なる境遇も、如何なる人間も、
吾々自身を侵害して吾々の幸福を吾々から奪いとることは出来ません。
それならどうして吾々の生活が貧乏になったり、不幸になったりするのでしょうか。
それは自分が自分の「生命(いのち)」の本質を知らず、そのため自分で不幸になったり、
貧乏になったりするのであります。吾々は自分の生命の本質を知れば今直ぐにでも幸福になれるのでありまして、
未来のある時に、環境がどういう風になって来たから幸福になれるというのではなく、今すぐ幸福になれるのであります。
吾々は幸福を探し廻るのにあちこち、ここに見よ彼処(かしこ)に見よという如くはには探し廻る必要はないのであります。
幸福とは空に舞う蝶のようなものであります。
それを捕らえようとして走り廻れば幸福の蝶は逃げてしまって、空にとび去るのであります。
吾々が幸福を求めあぐねる心を捨てて、唯自分の心を平和にし、自分の心の花を美しく咲かしてしていたならば、
幸福の蝶は私達のそばに今来たって、肩の上にとまってくれるのです。
まことに、幸福は追求して得られるものではなく、幸福は「今此処(いまここ)」に見出さるべきものなのであります。
(はしがき②へ つづく)
1287
:
ハマナス
:2012/09/13(木) 14:10:03 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
こんにちは。
人生は山彦である (『新版 生活の智慧365章』P.244)
世界は鏡であり、人生は山彦である。世界は自分の心が示す姿の通りの表情をもって応えて
くれるし、人生は自分の心の響きの通りを呼び返してくれるのである。鏡に向かって手を
あげて挑(いと)みかかれば、鏡の中の像も手をあげて挑みかかって来るであろう。鏡に
向ってにこやかに微笑めば鏡の中の像もにこやかに笑い返してくれるのである。谷に向かって
大声で叫べば山彦は大声でその通りの声を送り返すし、金切声で叫べば山彦はまた金切声で
応えてくれるのである。
それと同じことが経営者(又は業主)と従業員との間にも行われるのである。経営者が
従業員の福祉を切実に思ってくれるならば、従業員もその事業と経営者の繁栄と福祉とを
切実に思ってくれるのである。経営者が唯、単に従業員にサラリーと云う物質を形式的に
冷たい心で与えているだけで、従業者の温かい忠誠を期待するのは無理である。
感謝合掌
1288
:
a hope
:2012/09/14(金) 07:27:48 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
はしがき②
幸福の蝶が自分のところへ向こうから飛んで来るのではなく、
又こちらから向こうへ往って幸福の蝶をつかむのでもなく、
自分の心に「今」幸福の花は咲くことが必要なのであります。
幸福は外から与えられるものでなく、自分の内からよびだされるべきものなのであります。
偶然の出来事が、吾々の足もとに咲く菫(すみれ)の花のように吾々の生活を飾ってくれるものではないのであります。
幸福は、立派な画家がどんな景色を見ても美しい姿にそれを油絵に描きだし得るのと同じように、
どんな環境にでも美しく心の中に描き出す技術によって得られるのであります。
幸福は芸術の創作と同じであります。
心が悩んでいる人は悩んでいる創作を造りだすよりしかたないと同じように、
心が悩んでいる人は、どんな環境をも不幸に感ずるのであります。
だから高位高官の人も、富める人も、やはり悩むのでありますが、
ダイオジェネスのように樽の中に生活していても、心の中にその幸福を失わない人もあるのであります。
多くの人にとっては環境というものは、まことにその文字の通りに、
自分の周囲にあるものだと思われているのであります。
ところが環境というものは、自分から、はなれてあるものではないのであって、
自分の心が変れば自分の環境が変ってしまうものなのであります。
(はしがき③につづく)
1289
:
「訊け」管理人
:2012/09/14(金) 16:29:00 ID:???
「生長の家」誌(昭和50年12月号)より謹写――
神の國のみこころ
吾が中に流れ入り來たりて、
吾が心となり給ひて
吾が内に輝き滿ちぬ。
されば吾がねがひは、
されば吾が求めは、
されば吾が働きは、
吾が業のなすに非ず、
神により行はれ、
且つ導かる。
吾が意志は吾が意志ならず、
神の意志吾を導く。
1290
:
うのはな
:2012/09/14(金) 20:52:44 ID:uk3bgnv2
握りめしの味 谷口輝子 先生
孫の佳代子が、毎朝のように弟妹たちのためにお弁当をつくっている。
大きな運び盆に並べて、台所から運んで来たのを見ると、赤や緑や黄などの
色とりどりのおかずが、白い御飯の上に花咲いたように美しい。
朝食を頂きながら見ているので、私はそれを食べたいとも思わないが、彼女の弟妹たちは、
学校での昼食は楽しく美味しいことだろうと想像するだけである。
佳代子の作るお弁当は、時々握りめしのことがある。その握りめしは大抵三角形である。表面は白い御飯
の時は、中におかずがはいっているらしいが、表面に赤や緑が出ている時は、おかずが御飯全体にまぜてあるらしい。
とにかく味は知らないが、色彩の美しいことが魅力的である。
握りめしを見ていると、私は幼い頃の「母の味」を思い出す。母の作ってくれた握りめしは、三角形でなく、丸く握って
上下を押えて平らにした形や、米俵のような形のものであった。中に入れられた梅干は、赤紫蘇を沢山入れた母の手製のものであって、
握りめしを割ると、内部が真赤に染まっていることもうれしかった。煎卵を入れて海苔で巻いて贅沢なものよりも、赤い梅干入りの方が
私は好きだった。
母亡きあとの台所では、嫂が御飯をお櫃に移したあと、窯底に残った薄焦の御飯を米俵型に握って、お釜のふたの上に並べていたことを
覚えている。嫂の子供たちも、「お母さん、おにぎり、おにぎり」とせがんでいるのであった。
どこの子供もお握りが好きのようであるし、お握りは母親の愛とつながっているようでもある。
丸型のお握りしか知らなかった私が、二十四歳の時、綾部の今井楳軒先生を頼って行った或る日、今井夫人が器用な手つきで握られた握りめしは
三角形であった。「まあ、三角のおにぎり」と私は珍しがって眼を丸くした。
握りなれないと三角はむつかしそうに思えた。しかし私がそう言うと、佳代子も壽美も、
「あら、三角にするの何でもないわ」とサラリと言う。ともあれ握りめしは、庶民的で親しみ深い食べものである。
この間、作家の渡邊喜恵子さんが、尼僧法団の機関紙『花はちす』に寄せられた随筆を読んだ。
渡邊さんが或る日汽車中で、帰郷する女医さんに逢って、その身上話を聞かされたそうである。
女医さんの愛娘が東大出の秀才と結婚後、わずか一ヵ月で離婚された。離婚の原因となったものは握りめしであった。
握りめしくらいで離婚に踏み切るとはと人は思うであろうが、根本は夫なる人の精神である。
女医さんの娘の第一の失望は新婚旅行の時に感じたのであった。新夫婦は、楽しい旅行の帰りに、夫の實家に立ちより、翌朝
帰京しようとすると、貧しい母親は大きな日の丸握りめしを作って下さった。車中で新婦が食べようとしたら、新郎は怒って、
「窓から捨ててしまえ」と、取り上げるが早いか、足で踏みつけてしまった。一等車で握りめしを食べることは不体裁であろうけれど、
母が折角作ってくれた弁当を、足蹴にするような人と、一生を倶にするのが嫌になったと言うのである。
つまり、花婿は新婚旅行の途中で、早くも花嫁に愛想をつかされたのである。
東大出の秀才も台なしである。秀才とは、学問がよくできる人のことであって、人格的に秀でている意味ではない。
自分の母を愛し尊敬しないで、母の愛情のしるしである握りめしを、足蹴にかけて踏みにじるような男性は、新妻から愛と
尊敬の心を受けることだ出来なかったのである。学問的にだけ優れていることは人間的には価値少なく、魅力がないので、燃え上ろうとしていた
新婚の妻の、楽しい夢に冷水を浴びせたのであった。女医さんは、「わがままに育てた親の責任を感じている」と言われたそうだが、渡邊喜恵子さんは、
「世間ていは二の次です。別れてよかったんじゃありませんか」と答えて居られる。
このような場合、世の母たちは、そして花嫁たちは、どうしたらよいのであろうか。
「わがままを言わないで辛抱しなさい」と娘を押えなだめる母もあろう。
「そんな人は、サッサと見切りをつけて帰って来なさい」と甘やかす母もあろうし、
「夫を徹底的に拝みなさい。拝んで拝んで、夫の神性を掘り出しなさい。貴女の愛が足りないのです」
ときびしい激励の言葉をかける母もあろう。そして娘たちは、この母の言葉に従うのだろうか。それは
娘たち各自それぞれの愛情と力量が問題である。
つづく
1291
:
SAKURA
:2012/09/14(金) 20:58:21 ID:jH5uEFzM
トキ様 へ
観覧者の皆様 へ
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
今日はこの前【ウエブ誌友会…】のテキストからの一部です。いろいろ“投稿”させて頂こうかと、
思いました。…が?時間的に〜〜〜><でも!更に“続き投稿”を私なりにマイペースにて“投稿”…
してみたくなりました。では〜♫〜【
>>1283
投稿の続きです。】
■【生命の実相Ⅰ巻 總説篇/實相篇 上】
――――― 第 五 章 連想作用で起こる病気 ―――――
ある種のこころの状態は連想作用によって起こるのであります。連想作用といえば「梅
干」といえば「酸い」ということを思い出し、「酸い」と思えば唾液が口からたくさん出て来
るように、一つの事柄を思えば、それに連絡のある他の事柄が自然に思われてくる心の作用を
いうのであります。ある心の状態がこのように連絡作用によって起こることが解りますと、病
気もまた一つの心の状態の客観化(かたちになったもの)でありますから、連想作用によって
も起こることがわかるのであります。
皆さんのお友だちのうちには雑誌の衛生記事を常に好んで読んだり、通欲医学書を常に
あさって読んだりしている方がありましょう。こういう人たちはよほど自分の健康に自信
のある方でないかぎりたいてい自分の身体が虚弱になって病気にかかりやすいのでありま
す。皆さんのお友だちは虚弱なために、健康になりたいと思って、薬の広告や衛生や医学や
健康法の本をお読みになるかもしれませんが、それはおぼれまい、おぼれまいと思いなが
ら逆に水の深みへはいって行くようなものであります。たとえばここに『健康世紀』とか
『家庭医学』とかいう衛生雑誌があるとしますと、それをちょっと開いて見ると、その中の
記事に医学博士と麗々しく肩書を付けた人が「何々病の予防と治療」などという題で、ちょ
っと見たらいかにもその記事を読めばその病気を予防したり治療したりすることができる
かのように見せた記事がのっているのであります。が、記事の内容(なかみ)をよくよく読
んでみますと少しも病気を予防する方法も治療する方法も書いてはないのであって、かえっ
て病気にかからすための暗示が書いてある場合が多いのであります。なぜ私がこんな皮肉な
こというかと申しますと、たいていそんな記事にかぎって、病気を予防するためにといって
病気の症状が書いてあるのであります。こんな容体になったら萎縮腎であるとか、こんな徴
候は神経衰弱の徴候であるとか、胃がこういうふうに痛めば胃潰瘍の疑いがあるとか、、原因
不明の微熱がつづいて不眠や消化不良がともなう場合には肺結核の疑いがあるから注意すべき
であるとか、実に読者の恐怖をそそることが書いてあるすえに、それを治す方法が親切に書い
てあるかというと、何一つそんな深切なものは書いてないのであって、ただ、こういう徴候の
場合には素人診断は危険であるから医者に診断してもらえと書いてあるだけなのであります。
これでは何かの生理的感じをもってただちに病気ということを連想せしめ、その連想作用に
よって病気かからせ、読者の恐怖心を利用して、医者のところへわざと来させるように
医者が自己繁昌策として書いたものだと思われてもしかたがないでありましょう。だから
私はそんな記事は皆さんの病気を治すためよりも、病気にかからすために書いてあるというの
であります。
薬の広告もこれとほとんど同様でありまして、誰にでもあるようなちょっとした疲労の
感じや、折りふしの消化不良や、不眠などを、実に恐ろしい病気の前兆でもあるかのよう
に書いてあって、その終(しま)いにこの薬を服(の)めとすすめてあるのがザラにあります。
こんな広告記事を読んでいますと、連想作用によって自分も其の病気ではないかとフト思う
ようになり、フト思ったところの「自分は何病だ」という観念の種が潜在意識に植えつけ
られて強く強く心の底に根を張る様になりますと、肉体の上にも本当にその病気があらわれて
来るのであります。 (谷口雅春著)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜☆
<つづく>
1292
:
SAKURA
:2012/09/14(金) 21:00:39 ID:jH5uEFzM
こんばんは…… ロ−マ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
>>1291
投稿の続きです…。
■【前回…】の続きなのですが?【
>>1283
の続きです。】
【心の状態が…感染】と申しますか?確かに【連想ゲ−ム?】と申しますか?
先生の“梅干し”の例からでも、人はその「イメ−ジ」を想像できます…。“すっぱ〜〜〜イ”
という事は「すべて…心で“イメ−ジ化”ができますモノという事になります〜〜〜ョネ!
よく「生長の家…」では、【肉体なし〜♫】と申します〜ョネ!
■『甘露の法雨』の中にも……その中の「人間の項…」を拝読しますと、天の童子が、???
「人間は物質には非ず、 肉体に非ず、
脳髄細胞に非ず、 神経細胞に非ず、
血球に非ず、 血清に非ず、
筋肉細胞に非ず。 それらすべてを組み合わせたるものにも非ず」
このように教えいらっしゃいます。私は何度も申します様に「亡き母の魅霊」を、見るまでは、
『霊的人間…』この実感がありませんでした。【白い〜白い〜丸い“魅霊様”】です。…が?
更に『甘露の法雨』の中に「肉体はただ心の影なる事実を見たり」…当に、実感しましたかと?
■『久遠生命の神示』の中にもあります様に、
「『死は無い』というのは肉体のことではない。現に肉体細胞は刻々死滅し流転している」
「すべての人はいつかは肉体を失うであろうが死ぬのではない」
誰もが“肉体”そんものは、死んでなくなります。
■『天使の言葉』の中に…更に…
「迷いは言う『人とは肉体也』と。 されど肉体は人には非ざるなり。
『人』の実相は神の子として、 生きとおしの生命なれば
生滅常なき肉体を以て代表せしめ得るものには非ず。 すべて生滅常なきものには
実体に非ずして ただ信念の反映に過ぎず 」
このように生れてきたり、死んでなくなるような、生滅常なきものは、【信念の反映?心の影?】…
最終的には実体でないことになります。
では「雅春先生」も説かれます様に…
■『甘露の法雨』の中にも…最終的には
「真の『汝そのもの』は物質にあらず、肉体に非ず」
「人間と神とは一体なり」…云々…
ですからすべてが「心で作られたモノ…“病”…」その事が現実となって“肉体の上”に、
あらわれたに過ぎないものです〜〜〜ョネ!
しかしながら「神の子…」の自覚が在りましたならば、当に『病無し〜♫』ですネ!
■海外の【霊界通信…】でも“人は死なない〜永遠の生命〜”と…【ジュリアンの音信】でも〜
従いまして、「本来は“病無し”…」という事ですもの?
こうしていきますと…「本来は“病”はありえません…病なし」…しっかり『意識…』すべきかと?
■更に今回の「現総裁雅宣先生」の『大自然讃歌〜♫』の中にも
「人間も肉体の維持・発達為すこと能(あた)わず。 されど汝ら、
人間の真の目的は肉体の維持・発達に非ず、 地上に神の栄光現すことなり。」…云々…
従いまして、【神の子…人間】を、説かれています。…
更につづきを“投稿”させて頂きますが『個性…表現方法』は人によりまして、異なって来ます。
その事が「偽物」とか〜〜〜この表現は“オカシイ〜もの”との判断になりますかしらん!
それぞれの方が『共鳴する…文章表現法』で…納得されましたらよろしい〜〜のでは?
■■何度も申しますが〜♫〜『真理は一つ…』という事になりますのでは〜〜〜☆
再合掌
1293
:
神の子さん
:2012/09/14(金) 21:10:13 ID:???
よろしいですかー
雅春先生は多くの人々から共鳴されて「生長の家」は大きく発展しました。
雅宣総裁は共鳴する人が少なくなり「生長の家」は衰退しています。
これは歴然とした事実であり、誰か他の人が悪いのではありません。
真理のコトバの輝きが圧倒的に違うからです。
本当はみんな気がついているはずです。
1294
:
ハマナス
:2012/09/15(土) 00:28:52 ID:0kyCzJg6
神の子のみなさま
ありがとうございます。
現象の沈滞を見ない (『新版 生活の智慧365章』P.245)
原稿を書くのを仕事にしている人なら誰でも知っていることだが、その時の自分の気分の
有りかたによって全然筆がとまってしまうこともあれば、すらすらと筆が運ぶこともある
のである。建築設計家にしても、科学的発明をするのを仕事にしているにしても、その時
のムード(気分)によって、どんなに努力してもいいものが思い浮かばないことがあるもの
である。単なる手工業ではそれほどでないにしても、矢張り、其の人の気分が如何にあるかが
仕事の品質に非常に関係があるのである。
景気が後退し、需要不振期に入り、製品の滞貨が山のように倉庫に堆積していつ捌けるか
わからないようは状態のときには誰でも気分が陰鬱になり、絶望感に覆われやすいのであるが、
そんな時に事業を挽回打するには、そのような現象の「沈滞」を見ず、実相の完全さを見て
先ず気分を引き立たすことである。その時よい考えが出て自分を救ってくれるのである。
感謝合掌
1295
:
a hope
:2012/09/15(土) 06:46:06 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
はしがき③
幸福は心の乱れたる世界には、存在しないのであります。
幸福とは心の平和から来るのであります。
心の平和は、今ある所の恵みに満足するところから来るのであります。
印度(インド)の本には、牛が如何にも幸福そうに草を食べているのを見て、
ある悩んでいる人が、そのわけを宗教家に尋ねたということがあります。
「あの牛はどうしてあんなに、たのしそうなんだろう」とききますと、
「彼は草を食べて生けるなり」と宗教家は答えたそうであります。
草を食べて生きているというのは最低生活に甘んじているということにではないのであります。
そのままそこに幸福に生活しているという意味なのであります。
そのままそこに幸福を見出すということが大切であります。
そのままそこに幸福を生きる時、そこに常に幸福が見出されるのであります。
汝は幸福である、この小さき石よ
道ばたに静かに横たわりて
哲人の如くものを考う。
という誰かの詩がありますが、あなたは小さき石よりも偉大なのです。
この事実に目覚めねばなりません。
この小さき石ころは、どうして幸福なのでありましょうか。
それはそのままそこに与えられたる生命をたのしんでいるからであります。
そのままうけてたのしむものは常に幸福なのであります。
そのままそこに横たわるということは、何もしないで生活しているということではないのであります。
与えられるそのままに横たわり、神催(かみもよお)しのままに動くという意味であります。
流るるままに不動、不動のままに流れるのであります。
自分のはからいがないのでありまして、神にはからわれるのであります。
自分の今与えられた位置をたのしんで、そのままそこに全能力を発揮する時、
その人は幸福になれるのであります。
(はしがき④につづく)
1296
:
ハマナス
:2012/09/16(日) 09:22:33 ID:mR2szZkc
神の子のみなさま
おはようございます。
繁栄のための基礎
(『新版生活の智慧365章』p.246)
経営者も気分が引き立たねば、良い考えが浮かんで来ないと同じように、従業者も気分が引き立たねば、良い考えは浮かはず、よい精密な仕事はできないのである。不安定な憂鬱な気分の下で働いているとき能率の上らない成績不良の工員が、安定した悦びの感情で生き生きと仕事をするとき、見ちがえるほど良質の仕事を手ぎわよくやってのけることがあるものである。
収入の安定、将来への進展の希望、自分の伎倆(ぎりょう)と能力とがみとめられていると云う悦び、自分がその会社に有用な重要人物であると云う自覚、自分が社長や上役から愛されていると云う歓喜ーーこれらのものは、その人の仕事の能率と品質とを高め、新しい良き計画や発案が浮かび上って来るために基礎となるべき心の状態であるのである。その基盤を培ってやるのが経営者及び上役の仕事である。
感謝合掌
1297
:
a hope
:2012/09/16(日) 09:47:08 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
はしがき④
若(も)しあなたが、自分の生命(いのち)の本性を自覚しそれを行動にあわせれば、
毎日すべての時間が幸福の時間になるのであります。
その自覚と実行の方法を本書は与えるものです。
特定の日、特定の時間、特定の境遇によって幸福が来るのではないのであります。
境遇を支配する力はあなた自身のうちにあるのです。
キリストは「求めよ。さらば与えられん」と仰しゃられました。
然(しか)し求めて与えられている人は少ないのであります。
求める心を捨てて、そのまま自分のもてるすべてのものを人に与え切った時、本当の幸福が出て来るのであります。
此(こ)の本は、むつかしい真理を出来るだけ易しく書いたのですが、
なお分かりにくいと思われる文字の下には(括弧・かっこ)の中にその意味を書いておきましたから、
どんな子供にも、文字をならわない老人にも読んでいただいて、その人の人生が幸福になれるのであります。
著者識(しるす)
(はしがき終り 次回から本文へ)
1298
:
a hope
:2012/09/17(月) 06:43:53 ID:r8H4x9xE
新版 生活読本 谷口雅春先生著
第一章 此の世界の成立ちは?
♦世界は心の「思い」でつくられた
人間は自分の思いで、一歩一歩、自分の運命をきずいて行きます。
国の運命も、その国の人々の思いで、築いて行くのです。
築くばかりではない、こわしても行くのです。
その人が自分の思いの善し悪しを知っておろうが、知らずにおろうが、
こわす思いは自分をこわし、生かす思いは自分をも生かすのです。
何よりも知らなければならないことは、この世界は、「思い」でつくられていると云うことなのです。
神様がこの世界をおつくりになったのも、神さまが心の中に先ずどんな世界をおつくりになろうかと
お考えになったその「思い」によってつくられたのです。
「思い」どおりになったのがこの世界なのです。
「思い」と云うのは生命の動きでありまして、生命の動きをコトバとも申します。
何でも考えるのは心のコトバを思い浮かべるのでありますから、「思い」でこの世界が造られたと云うことは、
この世界がコトバで造られたと云うのと同じであります。
神様はこの世界をおつくりになって、七日目にお休みになったと聖書には書いてあります。
これは神様は世界の大きな部分をお造りになりまして、
あとは自分の生命をつぎ込んで神様自身のお姿につくられた人間に一切のことをおまかせになりまして、
自分みずからは、人間のことに直接には干渉(おせっかい)しないことにして、お休みになったことを云ったものであります。
(つづく)
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