大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02
-
【過去スレ】
大阪の歴史、伝統文化に関するスレ http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/travel/6501/1201947832/
-
マナー悪化…仁徳天皇陵に釣り人が次々、ぼや騒ぎも 宮内庁が初の被害届
2011.1.4 13:53
産経新聞 http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/110104/crm1101041356012-n1.htm
世界文化遺産登録を目指している百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵(堺市堺区)で、
堀にすむ外来種のブラックバスやブルーギルを狙って侵入する釣り人が絶えず、管理する宮内庁が頭を痛めている。
先月には、釣り人が持ち込んだとみられるランプが原因で、雑草約50平方メートルが焼けるぼやが発生した。
宮内庁は「尊厳を保つべき場所と分かってほしい」として大阪府警堺署に被害届を提出。堺署が捜査している。
仁徳天皇陵は、天皇が眠る陵墓として宮内庁が管理。
世界最大規模の前方後円墳として知られ、周囲は3重の堀で囲まれている。
同庁書陵部・古市陵墓監区事務所によると、釣り人が増えてきたのは10年ほど前から。
何者かが堀に放したブラックバスやブルーギルが増殖。
インターネットなどで情報が広まり、フェンスを乗り越えて釣り人が侵入するようになった。
同事務所では職員の巡回を強化したり、「立ち入り禁止」の看板を掲示するなど、
対策を行ってきたが侵入者は後を絶たず、平成17年6月には釣り人が堀に転落し死亡する事故も発生した。
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1294118885/
-
仁徳天皇陵は、本来は、付近の土地を買って、公園、もしくは、立ち入り禁止しないといけないんだけどな
過去の行政の失敗がのろいのように残っているね
-
現住建造物侵入で逮捕しろ。
宮内庁は何をやっているんだ?
反大阪のために皇族の陵墓まで犠牲にするのか??
-
<大阪>仁徳陵の釣り人・・・礼拝所不敬罪?!
http://webnews.asahi.co.jp/
世界最大規模の墓、堺市の仁徳天皇陵で、堀の中にいる魚を狙って不法侵入を繰り返す釣り人が絶えず、宮内庁が被害届を提出しました。
全長500メートル近くに及ぶ堺市の仁徳天皇陵は、ひとつの墓としては世界最大の面積を誇ります。天皇が眠る陵墓のため天皇陛下も参拝される神聖な場所で、「百舌鳥・古市古墳群」として世界遺産への登録も期待されています。ところが・・・。フェンスは、板で封鎖されていますが釣り人たちはフェンスの下の穴を潜って仁徳天皇陵内に入っていたものとみられます。住民、「走っている時に柵の中で釣りをしているのを見ますね」「日曜の朝早くですわ。7時とか8時とか」。天皇陵を悩ませているのが釣り人たち。管理する宮内庁によりますと、何者かが堀に放したブラックバスなどの外来種がここ10年間で急増殖。これらを目当てに、立ち入りが禁止されている天皇陵に侵入して釣りを楽しむという不届者があとを絶たない、というのです。釣り人はしばしば朝方に現れるとの情報を聞きつけ、夜明け前から仁徳天皇陵に張り込みました。すると・・・。釣りをしている人がいます。紺色と青色のジャージを着ている2人組みが釣りをしています。防寒着をしっかり着込み、たばこをくゆらしながら釣りに興じる2人。彼らを直撃しました。釣り人、「(Q.すいません、朝日放送ですけど、今そちらで何しているんですか?)え?魚釣りや」。釣り人、「(Q.ここで釣りしちゃだめなんですけど?)はい」。釣り人、「(Q.よくここに来られるんですか?)いやいや、きょうどんなんかなと思って見に来てん」。釣り人、「(Q.でもここ、立ち入り禁止ですよね?)あ〜ほんなんら出るわ」。釣り人が増えた理由の一つにインターネットで情報が広まったことが考えられます。堀を囲むフェンスは2メートル近い高さ。ある釣り人は枝を伝って乗り越え、またある人はフェンスの下を掘って侵入したといいます。先月には釣り人が持ち込んだとみられる手製のランプが原因で雑草が燃える火災も発生しました。宮内庁は先月被害届を警察に提出しました。その中で宮内庁は、釣り人の行為は「礼拝所不敬罪」にあたるとしています。「礼拝所不敬罪」とは、神社仏閣や墓などで公然と不敬な行為をしたものが問われる罪。最近では東京の墓地でヌード写真を撮影したとして、カメラマンの篠山紀信氏がこの罪などで略式起訴されています。「罰当たり」な行為をした者が問われるというこの罪。釣り人は・・・。釣り人、「(Q.立ち入り禁止ってわかってるわけですか?仁徳天皇陵内ですよ!)わかってるけどな」。宮内庁は、「景観を損うので有刺鉄線を張るなどこれ以上の物々しい警戒はしたくない」と頭を悩ませています。
-
大阪城で「太閤の足湯」イベント−天守閣復興80周年イベント幕開けで
http://kyobashi.keizai.biz/headline/851/
今年復興から80周年を迎える大阪城天守閣を祝うイベントの幕開けとして1月2日〜5日、「有馬温泉の名湯・金泉の足湯」が開かれ、多くの人でにぎわった。
現在の天守閣は、市民らの寄付金などで1931(昭和6)年11月に竣工したもの。豊臣時代、徳川時代のものに次いで3代目の天守閣で、資料が乏しい中、「大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)」をより所に設計。1997年の大改修で一新され、80周年を迎える現在の姿になっている。
大阪城城主の豊臣秀吉が幾度となく訪れ、戦で疲れた心身を癒やした場として有名な「有馬温泉・太閤の湯」(神戸市北区)の湯を足湯として提供する同イベント。例年2日間の迎春イベントとして親しまれているが、今年は「大阪城天守閣復興80周年記念イヤー」のために用意されているさまざまなイベントの幕開けとの位置付けから4日間に延長して開いた。
天守閣に入館すると無料で源泉100%の名湯を楽しめるとあり、小天守台に用意された足湯には入れ代わり立ち代わり入館者が訪れ、冷えた足を温めていった。
会期中は甘酒の振る舞いや、大阪市中央区のマスコットキャラクター「ゆめまるくん」が伝統和芸のパフォーマンスと一緒に登場するなどの催しや、4,000人の愛のメッセージカードで巨大な大阪城の絵を完成させる参加型アートプロジェクト「LOVE BIT」なども繰り広げられた。
天守閣の開館時間は、9時〜17時(入館は16時30分まで)。入館料は、大人=600円、中学生以下無料。
-
>>5
>理由の一つにインターネットで情報が広まったことが考えられます。
オカルト板における心霊スポット情報→巡礼みたいなノリなんでしょうね。
敬えとはいわないけれど、理解はしないといけない場所なのは確か。頼みます…
-
巨大防空壕:大阪城に唯一現存 軍用?市、保存検討へ
http://mainichi.jp/kansai/news/20110106ddf041040010000c.html
◇地下13メートル、延長80メートル
太平洋戦争中に陸軍の師団司令部が置かれた大阪城公園の地下で、旧日本軍が造ったとみられる防空壕(ごう)が新たに確認され、市は詳しい調査をする方針を決めた。防空壕は総延長約80メートルで、最奥部までほぼ完全な形で残っている。これまで入り口だけが確認されていたが、歴史愛好家団体や民放テレビ番組などが内部を紹介。市は内部の強度などを調べたうえで保存するかどうかを検討する方針だ。【小林慎】
防空壕は同公園の二の丸地区に位置し、地下約13メートル。入り口は、立ち入り禁止となっている大阪城の内堀に2カ所ある。内部は幅、高さともに約2メートルで、トンネルのような断面。壁はコンクリート製で、電線が敷設された碍子(がいし)のような痕跡もある。木製扉の残骸が6カ所にあり、複数の部屋に分かれていたとみられる。奥に進むにつれて水がたまり、最奥部は土砂が崩落して行き止まりになっていた。
市ゆとりとみどり振興局によると、同公園には別の防空壕もあったが、終戦直後に埋め戻されており、今回の防空壕は現存が確認されている唯一のもの。
公園は国有地で、国指定の特別史跡でもあるため、市の担当者は「文化庁などの意向を確認し、今後の対応を決めたい」と話しており、現在はフェンスなどで入り口を封鎖している。
防空壕の中を調べた歴史博物館「大阪城天守閣」の渡辺武(たける)・元館長(73)は「防空壕の近くには終戦まで陸軍第4師団の司令部があり、司令部用の防空壕だった可能性が高い。これほど完全な形で残っている防空壕は貴重な史料。学術調査のうえ、保存すべきだ」と話している。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/191 大阪会議 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110106ddlk27070251000c.html
◆大阪市中央区
◇北浜の料亭「花外楼」 日本の未来図描く 明治の元勲を知る「お宝」が今も
北浜の料亭「花外楼」で開かれた大阪会議の話を続ける。
立憲制への移行と三権分立、明治新政府の新しい基軸を決めた明治8(1875)年の大阪会議は、混乱した政局収拾の妥協の産物とでも言えようか。
西郷隆盛、木戸孝允らとたもとを分かち、独裁体制を築いたものの、保守派と急進派の狭間で四苦八苦していた大久保利通は、木戸をもう一度、政権に取り込んで、基盤強化を狙った。木戸は持論の三権分立の実現をにらみ、大久保批判を強める板垣退助は、木戸を立憲運動に引き入れる好機と見ていた。
薩摩(鹿児島)の大久保、長州(山口)の木戸、土佐(高知)の板垣。三者三様の思惑を腹に、長州の井上馨らの仲介で、明治7年の暮れから1月にかけて、「温泉での静養」などを口実に、別々に大阪に集まった。大久保は東京から船で、木戸は下関から、板垣は「旅行中、立ち寄った」と京都から。
別の料理屋で開かれた大久保・木戸会談は物別れに終わったが、ここで伊藤が呼び寄せられた。伊藤は大久保から「木戸の言うことはなんでも聞く」との言質を取り、同郷の先輩、木戸を説得。
かくして2月11日午後、北浜の料理屋「加賀伊」(今の花外楼)で三者会談が開かれた。これが大阪会議である。加賀井は木戸の定宿で、伊藤も投宿していた。会談の結果、木戸が政権に復帰する代わりに、野に下っていた板垣も参議に返り咲くことになった。
「大普請 まず板垣と木戸ができ」とざれ歌に詠まれた“普請”は、妥協の産物とて長続きせず、板垣は8カ月後に、木戸も1年後に政権を去る。大久保が狙った政権の強化は頓挫したが、大阪会議で描かれた未来図は着々と実現し、日本の近代化が進んでゆく。
◇
さて、加賀伊がなぜ花外楼と名を変えたのか? 加賀伊は、加賀(石川県)出身の徳光伊助が幕末の天保年間に始めた。伊助が維新の志士の面倒を見たので、木戸らがよく出入りしたという。
その木戸が、大阪会議の成功を喜んで、「この名にせよ」と、筆を執って「花外楼」としたためたので、屋号を変えた。「かがい」に別の字を当てたわけで、木戸が名付け親ということになる。
書が今も残ると聞き、初めて花外楼にお邪魔した。2階ロビーに飾られた扁額には「明治八年春二月 松菊」と記されていた。松菊は木戸の号。右肩上がりの「花」に、会議成功の興奮が表れているようではないか。
木戸だけでなく、伊藤博文と井上馨も「かがい」の書を残していた。伊藤は「花魁」。「おいらん」とは、いかにも色好み、芸者好きの伊藤らしい。井上は「香涯楼」。
「花外」の意味はなんだろう。5代目女将の徳光正子さん(61)は「京都を花と見ると、大阪は外にあります。あるいは、華やかさとは無縁、ということでしょうか」。よもや、祇園の芸者と浮き名を流した木戸自身のことではあるまい。伊助を評した言葉だろうか。
徳光さんが秘蔵の品を見せてくれた。巻物をひもとくと、伊藤博文の印が押された書が現れた。達筆かと思えばさらにあらず。所々、棒線を引いて書き直してある。「大阪会議のいきさつを書いた、下書きでしょうね」
私は読み取れないが、徳光さんによると、「大久保が伊藤の私邸を訪ねてきて、『今は内政を固めるべきだ。木戸君を迎えたいと思う』と言う。それなら両者が大阪で落ち合ったらどうかと提案した」などという意味のことが書いてあるそうだ。大阪会議のあと、記したようだ。
歴史の舞台となった花外楼には、こうした「お宝」が数多、蔵されている。【松井宏員】
-
十日戎:「上方締め」で商売繁盛祈願 今宮戎の福娘が毎日新聞来訪 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110106ddlk27040248000c.html
商売繁盛などを願う「十日戎(えびす)」(9〜11日)を前に、今宮戎神社(大阪市浪速区恵美須西1)の福娘14人が5日、大阪市北区の毎日新聞大阪本社を訪れた。
そろいの淡い紫の訪問着に白い千早を羽織り、金の烏帽子をかぶった福娘たちは、元気いっぱいの「上方締め」で商売繁盛を祈願。周りから拍手がわいた。
川上実津紀さん(19)は「景気回復を願って、私たちの明るさと、えびすさんの福を皆さんに届けます」と笑顔で話していた。【矢島弓枝】
-
今年1年の福授ける 今宮戎神社福娘が来社
2011年1月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110106/20110106032.html
“えべっさん”の愛称で親しまれる商売繁盛の神様、今宮戎神社(大阪市浪速区恵美須西1丁目)の「十日戎」(9〜11日)を前に5日、同神社の福娘の一行が同市中央区博労町2丁目の大阪日日新聞を訪れ、福を授けた。
同神社の正月の恒例行事として、府内の官公庁やマスコミ各社などを訪問し、今年1年の福を授けている。
大阪日日新聞を訪れたのは福娘代表の川上実津紀さん(19)ら14人。着物に白い千早を羽織り、金色の烏帽子(えぼし)をまとった華やかな姿で「えべっさんからの福です。どうぞお受け取りください」と畑山博史大阪本社代表に今年のえと・うさぎを描いた縁起物の額を手渡し、「上方締め」で新年の門出を祝った。
今年の福娘は外国籍の2人を含む総勢45人。2919人の応募者の中から選ばれた。川上さんは「大阪も景気が悪いので、私たちの笑顔で皆さんに明るさを与えることができたら」と意気込んでいた。
福娘らは十日戎で「商売繁盛でササ持って来い」の掛け声とともに参拝者に福ザサを授ける。
-
2011年1月 6日
「景気回復の後押しを」今宮戎の福娘が本社へ
http://www.sankei-kansai.com/2011/01/06/20110106-048047.php
商売繁盛を祈願する「十日戎」を前に、今宮戎神社(大阪市浪速区)の福娘が5日、産経新聞大阪本社を訪れ、華やかに上方締めを披露した=写真。
金色の烏帽子(えぼし)に白い千早(ちはや)姿の福娘らは、今年のえとのウサギを描いた額を寄贈。「うーちましょ」と声をそろえて手を打ち、福を振りまいた。
9日から3日間、参拝者に福笹(ふくざさ)などの縁起物を手渡す。大学1年の川上実津紀さん(19)は「満面の笑みで、大阪の景気回復の後押しをしたい」。
・・・リンク先に産経新聞社の公式動画があるのですが、その中で福娘さんが大阪締めをするシーンが
あるのですが、良いですねぇ。
こちら関東だと締めは一本締めなのですが、これはどうにも男がやっても女がやってもあまり変わらない。
しかし大阪締めはシーンによって、また男がすれば勇ましく、女がすればしっとりとなってどうにも
素晴らしい。
こういう点にも大阪・上方と関東の差を感じてしまうある種のジェラシーすら覚える関東生まれの私です。
-
宝恵駕籠行列、今年もミナミを練り歩く−「てっぱん」ヒロイン瀧本美織さんも
http://namba.keizai.biz/headline/1651/
商売繁盛の神様「えべっさん」として親しまれている今宮戎神社(大阪市浪速区)の「十日戎(えびす)」が1月9日〜11日に行われるのに合わせ、福娘らを乗せた宝恵駕籠(ほえかご)が9日、ミナミの中心部を練り歩く。
宝恵駕籠行列とは元禄期、南地の芸妓(げいこ)が船場の旦那衆の代わりに今宮戎神社に参拝したことから始まった新春の恒例行事で、現在はミナミの各商店街らが参加する宝恵駕振興会が主催している。毎年、芸妓や福娘のほかタレントなどが宝恵駕籠に乗り込み、今宮戎神社への参道だった「戎橋」を中心にミナミを練り歩く。
当日、9時50分に道頓堀川遊歩道「とんぼりリバーウォーク」で出発式を行い、宝恵駕籠の行列は10時に宗右衛門町の元・南地大和屋前を出発。道頓堀を練り歩き、戎橋横に設置した「戎舞台」に到着後、文楽、歌舞伎役者、芸能人などがあいさつし、「大阪締め」で出立を祝う。
その後一行は、「ほえかご、ほえかご」の掛け声とともに、戎橋筋商店街を南下、なんばグランド花月などミナミの各商店街を巡りながら昼過ぎに今宮戎神社に到着、参詣を行う。その後、再びなんば駅方面に向けて折り返し、神官や福娘らとともになんばシティ、高島屋、なんばマルイなどに福笹を授け歩く。
宝恵駕籠行列は数百メートルにも及ぶ。今年は平松邦夫大阪市長、日本舞踊上方舞山村流家元の山村若さん、NHK連続テレビ小説てっぱんヒロインの瀧本美織さん、オリックスバファローズのT-岡田さん、OSK日本歌劇団の桜花昇ぼるさん、松竹芸能の笑福亭鶴二さん、文楽劇場の文楽人形、テイチクレコードの菊池まどかさん、福娘代表の川上実津紀さんらが駕籠に乗る予定。
-
石山本願寺が舞台の映画「SAIKA〜雑賀の孫市」、緑地公園でパイロット版撮影
http://kyobashi.keizai.biz/headline/852/
現在の大阪城の場所にかつてあった石山本願寺が織田信長と激しく対立しあった石山戦争で、本願寺勢として活躍した男を描いた映画「SAIKA〜雑賀の孫市」(山口雅和監督)のパイロット版撮影が12月28日、服部緑地公園(豊中市)内で行われた。
「今回のパイロット版はドキュメンタリータッチで制作したいと思っている」と山口監督のあいさつ後、園内のユースホステル付近で撮影が始まった。雑賀衆を演じる役者らが甲冑(かっちゅう)兜(かぶと)を身に着け、崖の上で火縄銃を構えるシーンや織田信長軍との戦シーンなどを撮影していった。
山口監督が同作品を制作するきっかけとなったのは、大阪芸大在学中に独特の形状をした雑賀の兜に出合ったことから。その後も雑賀衆に興味を持ち続け、脚本を書き始めたという。
戦国時代の織田信長と浄土真宗の門主・顕如(けんにょ)が10年間にわたって繰り広げた石山戦争を描くために製作した雑賀衆の兜の数は約60個。山口監督は「構造が非常に実践的で、源氏や平家に代表される兜のデザインとは全く違う」と改めて感じたという。「恐らく、まげを結っていなかったのでは」と興味は尽きない。
映画の舞台となる石山本願寺とその周辺はCG(コンピューター・グラフィックス)で再現。CG制作はデジタルハリウッド大学大学院教授の栩木(とちき)雅典さんら「雑賀VFXチーム」が担当。今回のパイロット版も、山が燃えるシーンなどをCG合成する。
映画の公開は来年以降を予定。今回撮影されたパイロット版「SAIKA〜雑賀孫市」は今年3月ごろ、YouTubeにアップする予定。
-
今は学会でも大坂本願寺が正式呼称になっているのですから、
ちゃんと「大坂本願寺」と映画でも称してほしいですね。
-
>>8
後世の事を考えれば価値のある戦争遺跡です、
是非保存して下さい…。
しかしこの話題をきくと旧中部軍管区司令部壕が気になって仕方が無い
-
>>12-13
「石山本願寺」と同じで「上方締め」というのも大阪隠しだね。
もう意地でも大阪は使わないと決めてるような(笑)
-
勝手に考えた歴史博物館
南北朝記念館(大阪府千早赤阪村)
楠木正成(河内出身!!)、新田義貞、足利尊氏、後醍醐天皇、北畠親房 北条高時など、
南北朝時代ゆかりの人物の、物品を展示し、生き様を紹介。
大阪城博物館(大阪市中央区大坂城)
徳川家康、真田幸村、豊臣秀頼など、大坂の陣ゆかりの人物の物品や肖像画を展示し、生き様を紹介。
徳川家康像や大坂の陣図屏風が展示されている。
冗談だけどねw
真田幸村肖像画は上田市の博物館にあるらしいけど、大阪城に譲ってほしいなあ…。
-
縁起物準備 「豊中えびす祭」福笹付け始め式
2011年1月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110107/20110107030.html
「豊中えびす祭」(9〜11日)を前に服部天神宮(大阪府豊中市服部元町1丁目、加藤芳哉宮司)で6日、福を呼び込む縁起物をササに取り付ける「福笹(ざさ)付け始め式」が行われた。
公募で選ばれた27人の福娘が参加。金烏帽子(きんえぼし)を付け白い千早を羽織った6人の福娘と、赤いブレザーを着た21人の福娘で、熊手にタイや大判など縁起物10品を一つずつ丁寧に取り付けていった。8日までに福笹1万本を準備する。
福娘の関口斐子さん(19)は「家が自営業なこともあり、毎年えびす祭りに通っていました。今回は自分が福を授けるということで、頑張って福娘を務めたい」と話していた。
豊中えびす祭期間中は毎日午後2時から著名人による「福餅授け」が行われ、10日にはパーソナリティーの浜村淳さんらが参加する。ことしは3日間で約35万人の参拝客を見込んでいる。
-
石山本願寺が正しい名称です。
本願寺蓮如が、自分の隠居所として摂津国石山(現在の大阪市中央区)に建てた
石山御坊が始まりです。その後、山科本願寺が法華一揆によって焼かれたため
に、石山御坊が石山本願寺となりました。現在の大阪市中心部は、この石山本願寺
の寺内町として発展したものです。
時代が下って、本願寺顕如の時代に織田信長との間に石山合戦が5年間続きました。
現在、大阪城の敷地に石山本願寺推定跡の石碑があり、天守閣には石山合戦図が
保存されています。
-
大坂本願寺と石山戦争
http://www.hongwanji.or.jp/goeidou/gos_dayori/dayori06_08.htm
-
街華やぐ「招福行列」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110108-OYT8T00083.htm
大阪天満宮(大阪市北区)の「天満天神えびす祭」(9〜11日)を前に、北新地の芸妓(げいこ)らが昭和初期まで続けていた新年の恒例行事「宝永かご行列」を再現した「堂島北新地 えびす詣 招福行列」が7日行われた。人力車に乗り込んだ一行はにぎやかな囃子(はやし)を響かせ、街を練り歩いた。
落語家の桂春之輔さんや芸妓、ホステスから選ばれた「北新地クイーン」が人力車5台に分乗。ちょうちんやのぼりを持った飲食店主ら約70人とともに、北新地から同天満宮までの約2・5キロを往復して福笹(ふくざさ)を持ち帰った。芸妓の小牧さん(28)は「今年はえとのウサギのように景気が跳ね上がり、北新地もにぎわってほしい」と期待していた。
(2011年1月8日 読売新聞)
-
>>20
存在していた当時の呼び名だけが正しいというなら
神武・推古などの天皇名も間違ってることになるな。
-
石山本願寺
滋賀県にあるのだと思っていた
-
堀川戎神社:福娘の笑顔で元気な大阪へ 毎日新聞訪問しPR /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110108ddlk27040331000c.html
商売繁盛などを願う「十日戎」を前に、堀川戎神社(大阪市北区西天満5)の福娘や神職らが7日、大阪市北区の毎日新聞大阪本社を訪れた。
金の烏帽子に白い千早姿の福娘6人は「商売繁盛、家内安全、お神楽」と声を合わせ、笑顔で鈴を振った。霞流(かすばた)未樹さん(21)は「私たちの元気と笑顔で、大阪の経済を盛り上げたい」と話した。【矢島弓枝】
野田恵美須神社:「えべっさん」で健康な暮らしを 福娘3人が毎日新聞訪問 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110108ddlk27040329000c.html
野田恵美須神社(福島区玉川4、玉田義宣宮司)の福娘3人が7日、縁起物の福ザサを手に毎日新聞大阪本社を訪れた。
9〜11日には、福を求めて毎年10万人が参拝する十日戎(えびす)を開催。福娘の宇佐見黛さんは「参拝者が一年中笑顔で健康に暮らせるように奉仕したい」と話した。今年はフォトコンテストも実施する。【酒井祥宏】
-
今年こそ頼みまっせ 北新地で復活の「招福行列」
2011年1月8日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201101070162.html
大阪・北新地で7日、人力車に乗った芸妓(げいぎ)や飲食店関係者らによる「招福行列」があった。約70人が「商売繁盛で笹(ささ)もってこい」とかけ声を上げながら、大阪天満宮(大阪市北区)までの往復約4.5キロを練り歩いた。
かつては「宝永駕(ほえかご)行列」と呼ばれ、千客万来を願って江戸時代から1938年まで続いたが、2009年に復活。芸妓らは9〜11日にえびす祭がある大阪天満宮から福笹(ふくざさ)を持ち帰った。芸妓のさく与(よ)さんは「えとのうさぎのように、景気もぴょんぴょんと跳ねてくれる一年になってほしい」と話していた。(白木琢歩)
-
2011年1月 8日
「行基の道」本線発見 四條畷市「府教委の推理誤り」 清滝街道
http://www.sankei-kansai.com/2011/01/08/20110108-048180.php
大阪府四條畷市下田原の山すそで見つかった古道跡が、大阪と奈良を結ぶ清滝(奈良)街道の一部とみられることが四條畷市教育委員会の調査で分かった。奈良時代の僧、行基(668〜749年)ゆかりの街道で、これまでは大阪府教委の調査などから、現在の国道163号に沿って通っていたと考えられていた。市教委は、府教委の「推理」は誤りと判断。かつての交通環境を知る貴重な遺跡として調査を進めている。
古道跡は国土交通省の道路整備に伴い平成20年の試掘で一部を発見。昨年10月まで本格的な調査が行われ、東西約200メートルにわたり、左右に側溝を備えた幅約2・4メートルの道がほぼ完全な形で見つかった。
市教委によると、明治時代の地図にも記載がない未知の古道。江戸時代に流通した寛永通宝などの銅銭が複数見つかっているため、江戸時代以降、廃路になった可能性があるという。
府教委が平成元年に発行した調査報告書では、この地域を通る清滝街道は古道跡から150メートルほど離れた国道163号と重なるように通っていたとされている。ただ、府教委の調査は地勢状況などに基づく「推理」だったため、ルートが実線ではなく点線でぼかして記載されていた。
清滝街道の幅は文献に「八尺」(約2・4メートル)と記されており、溝部分を含め今回見つかった古道跡の幅と一致。西端は現在の街道ともつながることから、市教委は清滝街道古来のルートと結論付けた。市教委の担当者は「江戸時代以降に国道のもととなる道が整備され、そちらが便利だということで埋もれたのではないか」と話している。
清滝街道は奈良・東大寺の大仏造営に携わった行基が整備したとされる大阪と奈良を結ぶ幹線道路。
-
北新地に“福”来い 芸妓ら天満宮へ「えびす詣」
2011年1月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110108/20110108043.html
大阪市北区の大阪天満宮(寺井種伯宮司)で9〜11日に行われる「天満天神えびす祭」を前に7日、「堂島北新地えびす詣招福行列」が行われ、大阪を代表する歓楽街・北新地の芸妓(げいぎ)ら関係者が、新地から天満宮までの往復約6キロを華やかに練り歩いた。
かつて北新地の芸妓が宝永籠に乗って天満えびすに参り、福笹(ざさ)を持ち帰ったという習慣「宝永籠行列」を再現。1938年以降行われていなかったが、2009年に大阪天満宮青年親睦会(土居由憲会長)が復興させた。
芸妓や落語家の桂春之輔さん、北新地社交料飲協会(東司丘興一理事長)の北新地クイーンに選ばれたあや子さんらが5台の人力車に乗り込み、猿田彦や福娘らとともに沿道の人たちに笑顔を振りまきながら行進。本殿参拝後、授けられた福笹とともに再び列をなし、北新地に“福”を持ち帰った。
-
宝恵かご、ミナミの街彩る 十日えびす開幕
2011.1.9 11:30
http://www.sanspo.com/shakai/news/110109/sha1101091131009-n1.htm
商売繁盛の神様「えべっさん」の愛称で親しまれる今宮戎神社(大阪市浪速区)の「十日えびす」が9日、初日の「宵えびす」で幕を開け、ミナミの繁華街を芸妓や福娘が乗った華やかな宝恵かご行列が練り歩いた。
午前10時すぎ、道頓堀川沿いの遊歩道で関係者がくす玉を割り「打ちまひょ、もひとつせ、祝うて三度」の掛け声で手拍子を打つ「大阪締め」の後、約500人の行列が出発。
法被姿の若い衆がちょうちんや小判などで飾られた宝恵かごを担ぎ「ほえかご、ほえかご」と掛け声を上げ、太鼓の音がにぎやかに響くと沿道から歓声が上がった。
ことしはNHK連続テレビ小説「てっぱん」のヒロイン、滝本美織さんがかごに乗って参加。十日えびすは11日の「残り福」までの3日間。同神社は約100万人の参拝客を見込んでいる。
-
十日えびす 宝恵駕行列
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003203561.html
大阪・浪速区の今宮戎神社で、ことし1年の商売繁盛を願う「十日戎」がきょうから始まり、芸妓さんらが乗った華やかな「宝恵駕」が威勢の良いかけ声とともにミナミの街を練り歩いています。
今宮戎神社の「宝恵駕行列」は、江戸時代に大阪・ミナミの料亭の旦那衆や芸妓さんらが派手なかごに乗って神社を参拝したのが始まりとされる伝統行事です。
宵戎のきょうは、芸妓さんのほか、昨シーズン、プロ野球パ・リーグでホームラン王に輝いたオリックスのT−岡田選手やNHKの連続テレビ小説「てっぱん」のヒロイン、瀧本美織さんも紅白のかごに乗ってミナミの街を練り歩きました。
担ぎ手たちが「ほえかご、ほえかご」という威勢のよい掛け声をあげながら通りを進むと、沿道に集まった人たちは手を振ったり写真を撮ったりしながらこの1年の幸せを祈っていました。
今宮戎神社の「十日戎」はあさってまで行われ、100万人の人出が見込まれています。
01月09日 12時25分
-
今宮戎神社 十日戎「宵えびす」
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html#0360254
十日戎で賑わう大阪の今宮戎神社は商売繁盛を願う参拝客らでごった返しました。
大阪の新春の風物詩、今宮戎神社の十日戎は9日が宵戎、神社には大勢の参拝客が商売繁盛を願って福笹をもらいに訪れました。参拝客らは笹に米俵や小判などの形をした吉兆とよばれる飾りを次々と買い求め、福娘につけてもらっていました。参拝客らは「毎年いつもきています。大阪の人間は期待してますから。えべっさんに」「楽しい。大人になったら、お金一杯になりたい」と話していました。今宮戎神社では十日戎の3日間で100万人の人出を見込んでいます。また、大阪ミナミの街では今宮戎神社へ参拝する宝恵駕籠行列が練り歩きました。宝恵駕籠には芸妓や福娘、野球選手らがのりこみ、およそ500人からなる盛大な行列に、沿道の人たちも見入っていました。
-
景気もピョンと跳ねるといいな…大阪・宵えびす
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110109-OYT1T00500.htm
「宵えびす」の9日、大阪市浪速区の今宮戎神社では、福笹(ふくざさ)を手に、景気回復を願う大勢の商店主や家族連れらでにぎわった。
同神社によると、この日の人出は約28万8000人(午後9時時点)で、10日の本えびす、11日の残り福を合わせ、計約100万人を見込む。
「商売繁盛、笹持ってこい」のお囃子(はやし)が流れる中、参拝者は福娘に、絵馬やお守りなどの縁起物を福笹に取り付けてもらっていた。大阪府東大阪市のかばん製造会社経営・花山光盛さん(63)は「うさぎ年は景気がいいというが、『跳ねる』ほどでなくてもいいから、少しでも上向きになって」と期待していた。
(2011年1月9日22時15分 読売新聞)
-
宝恵かご行列:にぎやかに願う、今年の商売繁盛−−大阪・今宮戎
http://mainichi.jp/kansai/news/20110110ddn041040015000c.html
今宮戎(えびす)神社(大阪市浪速区)は9日、商売繁盛を願う十日戎の宵戎を迎え、「宝恵(ほえ)かご行列」の行事があった。福娘や著名人ら約500人が、大阪・ミナミから同神社まで練り歩いた。江戸時代、ミナミの芸者衆がかごを繰り出してお参りしたのが由来。午前10時すぎ、大阪・ミナミをNHK連続テレビ小説「てっぱん」ヒロインの滝本美織さん(19)や、昨季のパ・リーグの本塁打王、プロ野球・オリックスバファローズのT−岡田選手(22)らを乗せたかごが出発。正午すぎ、行列は同神社で「宝恵かご、宝恵かご」の掛け声に合わせかご上げをし、大勢の参拝客がカメラを向けていた。【土本匡孝】
-
えべっさん、けちんないで 十日戎で商売繁盛願う 大阪
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201101100012.html
商売繁盛の神様として知られる今宮戎(えびす)神社(大阪市浪速区)で9日、十日戎が始まり、大勢の参拝客らが福娘に福笹(ざさ)の縁起物をつけてもらった。
恒例の「宝恵駕(ほえかご)行列」もあり、プロ野球オリックス・バファローズのT―岡田選手や芸人ら約500人がかけ声とともに大阪・ミナミの繁華街を練り歩いた。
境内では、景気回復を願う参拝客が次々とさい銭を入れ、真剣な表情で参拝。不況が長引くなか、「えべっさん、けちんないでや」と懇願する人もいた。
-
福あめ売り:里親探し活動の一助に 恒例、家庭養護促進協会が−−今宮戎神社 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110110ddlk27040130000c.html
今宮戎(えびす)神社(大阪市浪速区)の「十日戎」の宵戎の9日、神社周辺では家庭養護促進協会大阪事務所(同市天王寺区)が恒例の「福あめ売り」を始めた。11日まで。
同協会は毎日新聞大阪版掲載の「あなたの愛の手を」などを通じ、親の事情で児童擁護施設などに暮らす子どもの里親探しをしており、棒あめなど(200〜300円)の売り上げは協会の活動資金に充てられる。9日は宝恵かご行列もあり大勢の参拝客があめを買い求め、同協会に1万円を寄付する人もいた。
各日午前8時〜午後11時ごろ。最終日は売り切れ次第終了する。場所は神社北西出口そばと地下鉄堺筋線恵美須町駅から神社までの参道途中の2カ所。【土本匡孝】
-
>>34
何か言葉遣いというか言い回しが微妙に変な気が…
-
華やか 宝恵かご行列 「十日戎」始まる
2011年1月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110110/20110110024.html
商売繁盛の神様「えべっさん」の愛称で親しまれている今宮戎(えびす)神社(大阪市浪速区)の「十日戎」が9日、初日の「宵戎」で幕を開け、恒例の「宝恵(ほえ)かご行列」が執り行われた。道頓堀川(同市中央区)を起点に芸妓(げいこ)衆らを乗せたかごなど約500人の列が、ミナミのまちを華やかに練り歩いた。(16面に関連記事) 川沿いの遊歩道「とんぼりリバーウォーク」で行われた出発式では、オリックス・バファローズのT−岡田さん、NHK連続テレビ小説「てっぱん」のヒロイン、滝本美織さんら、宝恵かごに乗る有名人が船乗り込みで会場に到着した。
法被姿の若い衆がちょうちんや小判などで飾られた宝恵かごを担ぎ、観光客など大勢の人々が見守る中、おはやしと「ほえかーご」の軽快な掛け声に乗せて巡行した。劇場前など随所で「大阪締め」を繰り広げ、にぎやかに伝統行事の始まりを触れて回った。
-
2011年1月11日
「古墳トレンド」王権中心地から 河内長野の学芸員 新見解
http://www.sankei-kansai.com/2011/01/11/20110111-048225.php
中小規模もマネ…強大支配裏付け
古墳時代後期(6世紀ごろ)に奈良や大阪など畿内に築かれた大規模古墳の「横穴式石室」の築造方法は、ほぼ同時期に域内の中小古墳にも採用されていたことが10日、大阪府河内長野市教委の太田宏明学芸員(37)の研究で分かった。ときの王権の中心地に集められた人々が、情報交換をしながら“石室のトレンド”を、域内各地でいち早く取り入れたと推測。石室の構造変化から、王権の強大な支配がうかがえる興味深い研究成果といえそうだ。
太田さんが、近畿や中国、北九州など全国の横穴式石室約500基を調査したところ、畿内では棺を安置する主室の入り口の脇部分「袖部(そでぶ)」がわずか10〜20年の間に変遷し、技術の変化が、ほぼ同時期に豪族級だけでなく、地域の有力者の中小の古墳にまで普及していたことを突き止めた。
畿内では当初、入り口の左右いずれかに中小の石を平積みしていた袖部の石材が、大型化し、左右双方に袖部が置かれるようになり、最終的には両方に大型の石材を一つずつ立てるよう変化していた。一方、畿内以外の地域では、袖部の変化の時期が畿内の古墳とずれていたり、構造も別の変化をみせていたという。
豪族級が埋葬されたとされる烏土塚(うどづか)古墳(奈良県平群町)では、石を立てて袖部を設置。約25キロ離れた三日市古墳群(大阪府河内長野市)など、ほぼ同時期にできた畿内地方の有力者が眠る小さな古墳でも同じ構造が採用されていた。
太田さんは、大和王権の支配圏を示す資料として、古墳時代中期までは鏡や鉄製品だったが、後期になると石室の築造方法が一つの基準となると指摘。石室研究に詳しい府立近つ飛鳥博物館長の白石太一郎氏(考古学専攻)は「石室について考え得る要素を組み合わせた厳密な研究で、大和王権の中心地から、同じ形式が短期間に各地に広がったと説明するのは、面白い視点だ」と話した。
-
2011年1月11日
【日本の城景】太閤が夢見た繁栄の象徴<大阪城>
http://www.sankei-kansai.com/newsimage/G20101219DDD1900658G30000001.jpg
冬の陽のなかに浮かぶ大阪城
高層ビルのカフェから、晴れた冬の日の大阪城が一望できた。朝日を浴びて美しく威容に満ちた天守閣が浮かんでいる。
大阪城は、天正11(1583)年、石山本願寺跡に築城された。「平野のなかの高台で、防御においても交通の要衝という点においても、重要な地でした」と話すのは、大阪城天守閣主任学芸員の跡部信さん(43)。
5層の天守閣は約1年半でほぼ完成。豊臣秀吉が没する慶長3(1598)年までに、二の丸、三の丸などが造られた。
関ヶ原の戦いを経て、慶長19(1614)年、大阪冬の陣。講和で惣構、三の丸を破却、二の丸の堀まで埋め立てられ、本丸を残すばかりに。翌年の夏の陣で、天守閣は燃え落ちた。
豊臣秀吉、秀頼、秀長公を祭神とする豊國(ほうこく)神社が大阪城内にある。同神社は昭和36年1月に中之島から城内に遷り、出世開運の神様として、なにわっ子の信仰を集めている。
「秀吉公は今日の大阪を造られた功労者で、一大英雄です」と、宮司の角正宣さん(51)。
元和6(1620)年、徳川秀忠は豊臣時代の城を地下に埋めるかたちで工事を開始し、寛永6(1629)年、家光の時代に天守閣が再建された。しかし、約35年後に落雷で焼失。再々建は行われないまま、明治を迎えた。
昭和に入って天守閣復興の機運が盛り上がった。議会で論議され、市民の寄付金が殺到したという。昭和の天守閣は、豊臣時代をモデルにして、当時最先端の技術だった鉄骨鉄筋コンクリートで造られた。昭和6(1931)年11月に竣工(しゅんこう)。平成9年の大改修を経た城は、緑青が映える屋根が印象的だ。
太閤が夢見た繁栄の象徴<大阪城>
http://www.sankei-kansai.com/newsimage/sh20110111-01.jpg
http://www.sankei-kansai.com/newsimage/sh20110111-01.jpg
角宮司は「新しいことや、にぎやかなことが好きだった秀吉公のように、神社としての伝統を守りながらも新しいことを取り入れていきたい。大阪城を中心とし、大阪の町が元気になれば」と話していた。
ファインダーのなか、夜のビル群を背景に浮かぶ大阪城に臨むと、秀吉の「夢のまた夢」―を目の当たりにしたようだった。
(写真報道局 竹川禎一郎)
【アクセス】大阪城天守閣へは、JR大阪環状線大阪城公園、大阪市営地下鉄谷町四丁目などで下車、徒歩約15分。
http://www.sankei-kansai.com/2011/01/11/20110111-048251.php
-
2011 大阪 今宮戎 宝恵駕行列出発 えべっさん 福娘の大群
http://www.youtube.com/watch?v=3aSMM-f2mw4
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/192 花外楼 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110113ddlk27070356000c.html
◆大阪市中央区
◇伊助の魂、受け継ぐ 幕末から明治、逸話数多く
木戸孝允や伊藤博文ら明治の元勲たちが出入りした北浜の料亭、花外楼には、数々の逸話が残る。5代目女将(おかみ)の徳光正子さん(61)に伺った。
まずは、幕末に花外楼と名を変える前の加賀伊を開いた徳光伊助。「祖母から伝え聞いた話によりますと、伊助は男気があった人。大坂は与力、同心が少ない町で、伊助がウンと言わないと、手を出せなかったそうです」
幕府に逆らおうとする志士たちと親しく付き合うには、それ相応の覚悟があったはず。「木戸さんも伊藤さんも、当時は若人ですよね。次の時代のリーダーになる人。でも伊助は、そういう人を利用しようという考え方も嫌い」
花外楼と名を変えた後、伊助は通りを挟んだ南側に3階建てで100畳敷の宴会場を持つ別館を建てた。従来の花外楼を浜座敷、新館を陸座敷と称した。時の府知事が「その両方を結ぶ陸橋を架けてやろう」と勧めたが、伊助は「大阪が橋だらけになる」と断ったという。派手さを嫌い、頑固一徹な人物像が浮かび上がってくる。ゆえに「花街の華やかな人たちからは煙たがられたとも聞いてます」というのも、むべなるかな。
その気質は、娘のお悦にも引き継がれた。幕末のこと。大久保利通や木戸らが集っていた加賀伊に、新撰組の近藤勇が刀を手に飛び込んできた。「桂(小五郎、木戸孝允のこと)がいるだろう」と問い詰める近藤に、玄関番をしていたまだ幼いお悦は「そんな人はいやはりゃしません」とこともなげに答え、近藤を追い返したというから、えらいものだ。
お悦は木戸に可愛がられ、御霊神社の夜店に連れて行ってもらって、人形などを買ってもらったという。また、長じては、伊藤博文が宿泊した時、警護のため外で徹夜で立ち番をしている警官を気の毒に思い、伊藤に紙と筆を渡して「何か書いてあげてください」と頼んだとか、陸奥宗光に外遊みやげの洋傘をもらって、うれしさのあまり座敷で差して見せたとか、エピソードに事欠かない。
その娘で、正子さんの祖母、孝は幼い頃、井上馨に来客があると、後ろからうちわをあおぐのがお役目。眠くなって手が止まると、井上は「お孝、風がのうなったのう」と言ったという。そのお孝さんは、女学校で学んで、跡を継ぐのを嫌っていたが、時の総理大臣、桂太郎に説かれて3代目女将となる。
余談ながら、お孝さんの兄、衣城は大阪毎日新聞の11代目の社会部長だった。社会部史には「あの花外楼のぼんぼん出身とは考えられぬ獰猛(どうもう)な面構えと、あの炯々(けいけい)たる眼光が、社会部長としての凄(すご)いエネルギーを象徴しているかに見えた。一秒間もジッとしていない社会部長」と横顔が記されている。ああ、恐ろしい。
長男は代々伊助を継ぐものだったが、跡を継ぐのを嫌って記者になり、衣城を名乗った。正子さんは「鬼瓦みたいな顔をして怖かったですね」と、伯父の印象を語る。正子の名は、実は衣城が付けた。「これからの時代は単純でなきゃあかん」というわけだったそうだ。
1911(明治44)年に木造3階建てに建て替えられた花外楼が、今のビルに建て替わったのは1964年。蛇足ながら、私の生まれた年だ。それを記念して、花登筺が芝居を書き、東西で上演された。正子さんは言う。「花外楼は大阪の歴史だと思っています。私たちのものであって、私たちのものでない」と。
窓外には、土佐堀川を挟んで中之島が見える。大阪会議が開かれた時、中之島の東端はまだここまで延びていない。木戸や伊藤が見た景色はまた異なる。
ユリカモメが乱れ飛び、コンクリートの塀に並んで羽を休める。「うちでパンくずのエサをやってるんです。季節によって、オシドリやサギ、セキレイなんかも来るようになったんですよ」と女将さん。川面が冬の陽(ひ)にきらめいていた。【松井宏員】
-
願いひしひし、福よ来い 今宮戎神社でさい銭勘定
2011年1月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110113/20110113034.html
商売繁盛を願う祭礼「十日戎(えびす」(9〜11日)が明けた12日、大阪市浪速区恵美須西1丁目の今宮戎神社(津江明宏宮司)で、集まったさい銭を集計する恒例の「さい銭勘定」が始まった。紙幣や硬貨に交じって「29451(福よ来い)」といった語呂合わせの額面の小切手が多くあり、“えべっさん”に託す思いにあふれていた。
午前9時、青い法被をまとった池田泉州銀行の行員11人が「賽(さい)物勘定始奉告祭」に参集。拝殿で神職からおはらいを受けた後、袋に入った大量の硬貨や紙幣を台の上に広げ、手際よく仕分け作業にあたった。
小切手の額面には「11104(いい年)」「3150(最高)」などが見られ、中国人観光客の増加などからか人民元の紙幣もあった。
期間中の参拝者数は昨年より4千人ほど多い約101万7千人。今年の傾向として拝殿の真ん中でさい銭を投げ入れる参拝者が多かったといい、同神社の担当者は「景気回復イコール金もうけではなく、不安のない生活を望んでいる方が多いのでは」と話していた。
さい銭は2週間ほどかけて集計。総額は昨年並みの4500万円前後と同神社はみている。
-
難波八阪神社で「綱引神事」 22メートル綱引き盛大に
2011年1月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110113/20110113036.html
大阪市浪速区元町2丁目の難波八阪神社(藤枝春紀宮司)で16日、「綱引神事」が行われる。江戸時代から伝わるといわれる古式ゆかしい祭事で、ヤマタノオロチに見立てた全長約22メートルの大綱を引き合う。今年は大阪市の無形民俗文化財に指定されて10年を記念し、巡行を大阪・ミナミ方面へ拡大、盛大に執り行う。
神事は、同神社の祭神・スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治にちなんだもので、氏子らは自分たちでなった巨大な綱を引き合い、地域振興を祈願する。明治期に途絶えたこともあったが、1897(明治30)年に再興。2001年度に大阪市指定無形民俗文化財に指定された。
今月9日には講習会があり、綱引保存会の会員らが神事のスケジュールを確認。巡行は例年同神社周辺だが、竹立威三雄会長が今年は千日前や道具屋筋にも足を伸ばす、約2時間半のコースを説明した。
また年長者らが綱にするための細縄の長さや本数などを確認後、伝統のない方を指導。参加者は細縄をなってつくった綱をさらに合わせ、本番さながらに声を出し合いながら、太い綱へと仕上げていった。
竹立会長は「都会の中でこういう素朴な神事が長年続いており、地域住民が力を合わせて綱を引いているということを多くの人に知ってもらえればうれしい」と話していた。
16日は神事が午前8時から始まり、綱引きは同11時半ごろから開始。正午から巡行を予定している。
-
近代都市・大阪を作った関一を史料でたどる講演会、中央図書館で開催へ
http://namba.keizai.biz/headline/1656/
大阪市立中央図書館(大阪市西区北堀江4、TEL 06-6539-3302)で1月15日、大阪市長だった関一(せき・はじめ)が残した史料をたどる講演会「関一資料から見えてくるもの」が開かれる。
大阪市が「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれ、栄華を極めた大正・昭和初期(1920〜30年代)に、助役を経て第7代大阪市長を務めた関一(1873〜1935)は、御堂筋の拡幅、地下鉄の開通、大阪港の建設など都市計画のほか、都市問題解決のための社会政策の実施、地方分権の主張など、大阪が近代都市に飛躍するにあたり、大きな功績を残した人物といわれている。
当日は、桃山学院大学経済学部特任教授の芝村篤樹さんを講師に迎え、関一の青年時代、東京高等商業学校(現一橋大学)での教授時代、助役・市長を務めた時代に記した日記、研究ノート、メモ、書簡など、膨大な記録(大阪市文化財登録)を基に、市長としての苦闘の跡など、関一とその時代について考える。
開講時間は14時〜16時。入場無料。定員は当日先着300人。
関連企画として現在、同図書館3階で関一が残した日記、原稿などを展示する「関一と近代大阪」を行っている。2月16日まで。
-
>>44
中央図書館と言われると荒本にある府立中央図書館を最初に思い浮かべる大阪府民。
(後は自分の市の図書館)
てかぐぐるさんで「中央図書館」で検索すると市立の方が先に出てくるのか……。
-
宙に舞う護符、激しく奪い合い 四天王寺で「どやどや」
2011年1月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110115/20110115041.html
大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で14日、ふんどし姿の男衆が魔よけの護符を奪い合う伝統行事「どやどや」が行われた。幼稚園児と中高生ら約1300人が参加。冬空の下、中高生らが力水を浴びた体全体から白い湯気を立ち上げながら、宙に舞う札を取り合った。
行事は元旦から14日間、その年の吉祥を祈り天下泰平、五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する修正会(しゅしょうえ)の結願日に行われる法要。期間中に祈とうされた護符「牛王宝印(ごおうほういん)」の札を奪い合う。
境内の六時堂では、四天王寺羽曳丘中・高(羽曳野市)、清風中・高(大阪市天王寺区)、清風南海高(高石市)の生徒らが各校の旗ざおを掲げ、「わっしょい」と声を上げて勇ましく入場。参詣客が見守る中、もみ合いながら堂内になだれ込み、天井からまかれる数枚の護符をめぐって激しく体をぶつけ合った。
冷水を浴びながらも、“肉弾戦”を制した生徒らは札を手に「取ったぞー」と雄たけびを上げていた。
-
2011年1月17日
22メートル綱引き 威勢よく 難波八阪神社神事
http://www.sankei-kansai.com/2011/01/17/20110117-048474.php
ヤマタノオロチにちなんだ長い綱を引き合って地域振興を祈願する難波八阪神社(大阪市浪速区)の「綱引神事」が16日、行われた。
神社の祭神スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治にちなんだ神事で、江戸時代から続いている。
全長22メートルの綱を氏子や保存会のメンバーが境内で今年の恵方「南南東」に引き合ったあと、大勢の参加者が威勢のいいかけ声とともに綱を引いて道頓堀や高島屋前などミナミの繁華街を巡行した。
神事は平成13年に市の無形民俗文化財第1号に指定されている。
千田忠司・市中央区南商店会連合会長は「都会の中で長年続く素朴な神事を守り伝えることで、ミナミをさらに活性化したい」と話していた。
-
神事の綱 街を初巡行
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110117-OYT8T00019.htm
難波八阪神社
大阪市浪速区の難波八阪神社で16日、八岐大蛇(やまたのおろち)をかたどった綱を引き合う新春の伝統行事「綱引神事」が行われた。今回は約120人が綱引きをした後、初めて綱を台車に乗せてミナミの商店街を練り歩き=写真=、商売繁盛や家内安全を祈願した。
同神社は難波の産土神(うぶすながみ)。神事は江戸時代から伝わり、市の無形民俗文化財に指定されている。綱の巡行は、これまでは神社の周りだけで行っていたが、氏子区域に含まれる商店街ににぎわいをと、巡行区域を広げた。
氏子たちは朝から境内でとぐろを巻くように綱を編み上げ、綱引きを披露。その後、隊列を組み、「難波の綱引きヨーイヨイ」と声をかけながら、道具屋筋や千日前、道頓堀、戎橋筋などの各商店街を練り歩いた。
氏子総代の鳥居学さん(51)は「元気がないミナミの街に光を見いだすきっかけになれば」と期待を込めていた。
(2011年1月17日 読売新聞)
-
東成の歴史・芸能文化を語り伝える会:知られざる“宝” 区役所で22日 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110118ddlk27040431000c.html
◇幸之助「起業の地」「今里やきそば」「落語荘」
「東成の歴史・芸能文化を語り伝える会」が22日、大阪市東成区大今里西2の同区役所内「ふれ愛パンジー」で開かれる。
地域の知られざる芸能文化や歴史的遺産を調査・研究する東成芸能懇話会と同歴史懇談会などが主催。パナソニック創業者の故松下幸之助氏が猪飼野(現在の同区玉津2)でソケットの製造販売に乗り出したとされる「起業の地」の話題や、ご当地やきそばとして親しまれている名物の「今里やきそば」、同区・片江地区にあった五代目笑福亭松鶴の自宅「落語荘」など芸能とのつながりなどについて、イラストレーターの成瀬國晴さんや二つの会のメンバーらが語り合う。
午後2時から。申し込み不要。参加費無料。同区役所市民協働担当(06・6977・9118)。【曽根田和久】
-
真田幸村、NHK大河ドラマ化を 大阪城で署名募る
2011年1月18日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110118/20110118023.html
幸村の生きざまをNHK大河ドラマで見たい!
大坂夏の陣で徳川軍の本陣と対峙(たいじ)した豊臣方武将の真田幸村ゆかりの地、長野県上田市の市民が、幸村の大阪城入城400周年に当たる2014年のドラマ放映を目指し、大阪市中央区の大阪城天守閣で署名を募っている。
「日本一(ひのもといち)の兵(つわもの)眞田幸村公放映の実現を願う会」(会長・母袋創一上田市長)が全国で賛同者を募り、「大阪も舞台になるのでご協力を」(事務局)と呼び掛けている。
真田家の旗印「六文銭」にちなんで66万6666人分の署名を今年中に集めてNHKに提出する意向。昨年12月末時点で約31万人の署名が集まっているという。
天守閣の署名コーナーは、幸村を描いた大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)が展示されている5階と1階の各カウンターに設置され、署名簿には大阪府民のほか北海道や埼玉、愛知県などからの来館者の名前も。
署名した泉佐野市立歴史館学芸員の廣田浩治さん(43)は「大阪を舞台にした大河ドラマが見たい」と話し、大坂夏の陣の樫井(かしい)合戦が繰り広げられた泉佐野市にスポットが当たることに期待を寄せていた。
-
2011年1月23日
石室住宅開発で破壊 6世紀中ごろ未知の前方後円墳 羽曳野市
http://www.sankei-kansai.com/2011/01/23/20110123-048719.php
世界文化遺産の暫定リスト入りが決まった大阪府東南部の「古市古墳群」内の安閑天皇陵(羽曳野市)近くで、これまで全く知られていなかった6世紀中ごろとみられる前方後円墳が見つかっていたことが22日、分かった。安閑天皇の妃(きさき)ら有力者が埋葬された可能性もあるが、古墳の発見段階では残されていた横穴式石室も、前方後円墳と分かる前に住宅開発で取り壊されてしまい、専門家からは「貴重な資料なのに保存されず残念」との声も出ている。
保存よりコスト優先
発掘は、羽曳野市教育委員会が平成20年度から実施し、地下約30センチのところで石材が積み重なっているのを確認、横穴式石室と分かった。被葬者の遺体を納めたとみられる主室は縦4・2メートル、横1・6メートルで、2人分が入る大きさだった。
出土土器によって6世紀中ごろの築造と推定され、地元の旧地名から「城不動坂(しろふどうざか)古墳」と命名。墳丘を囲む周濠(しゅうごう)(幅約2メートル)も見つかり、全長約36メートルの前方後円墳と判明した。盾を持つ人物をかたどった埴輪(はにわ)の顔面部分も出土している。
見つかった石室は、天井石の一部も含めて築造当時の2分の1ほどが良好な状態で残っていた。市教委は、開発業者と保存について協議したが、コスト面の問題などで保存を断念。結局、宅地造成の際に、周囲の土砂などと一緒に撤去されたという。
被葬者については、日本書紀に安閑天皇の皇后、春日山田皇女(かすがやまだのひめみこ)や安閑天皇の異母妹、神前(かむさきの)皇女を、安閑天皇の陵に併せて葬ったと記述。宮内庁では、神前皇女は安閑天皇陵に合葬されているとする一方で、春日山田皇女の墓として安閑天皇陵の南にある高屋八幡山古墳を指定している。
城不動坂古墳は安閑天皇陵の北東約50メートルに位置し、墳丘も同じ向きに築造されていたことから、市教委社会教育課の井原稔さんは「高屋八幡山古墳は安閑天皇陵より築造時期が古い」と指摘した上で、「合葬といっても、同じ墓に葬るとは限らない。2人分が入る石室の大きさも考えると、城不動坂古墳は春日山田皇女と神前皇女の墓の可能性もある」と推測する。
一方、府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長は「日本書紀の合葬の記述などから、天皇と皇后が別の墓に葬られたとは考えにくく、安閑天皇に仕えるなどした人物の墓ではないか」と指摘。石室が保存されなかった点については「前方後円墳と分かったのが石室を取り除いた後だったとの事情は理解できるが、全く存在が知られていなかった古墳だけに大きな発見であり、(石室が失われたのは)非常に残念」と話した。
-
「世界文化遺産」登録 黄信号も
貴重な文化遺産でありながら、「開発とコスト」を理由に、石室が失われてしまった。「石材に絵や文字が描かれているなら、文化財としての価値はあるので大がかりな保存に向けて動けるが、今回はそこまでの案件ではなかった」。羽曳野市教委は保存を見送った理由をこう“弁明”する。
市教委によると、最初に石室が見つかったのは平成21年2月中旬。現場は戦国武将の畠山氏が築いた高屋城跡で、城跡の調査が目的だったが、偶然に発見されたという。発掘調査では文化財保護法の規定により、開発前に業者が提出した文書などで、市教委の所有権は土器や埴輪などの出土遺物のみで、地面に築かれた周濠や石室には所有権が及ばないことになっていた。
市教委は、石室の保存に向けて開発業者と約10回にわたって交渉。その際、石室を避けての住宅開発や、石室部分に盛り土をして保護した上で住宅を建てるなどの方法を模索した。だが業者側は、調査や保存作業に伴って開発工事がずれ込めば金銭的負担が増えると難色。市側も、土地(約900平方メートル)の買い取りや、石室の移築保存には数千万円かかることなどを理由に、保存を断念した。
市教委社会教育課の高野学室長は「世界文化遺産登録に向けて市などが活動しているなかで、石室を残せなかったことは遺憾」としているが、「開発とコスト」を優先するあまり貴重な文化財の保存に及び腰の状態が続けば、同様の問題が繰り返される可能性があり、世界文化遺産の登録にも黄信号がともりかねない。
神戸山手大の河上邦彦教授(考古学)は「石室は、1400年の時間を越えて奇跡的に残された国民の財産。保存のためにあらゆる手段を尽くすべきで、業者に配慮しすぎるのは行政の怠慢だ」と批判している。
安閑天皇
第27代天皇で、在位は531〜535年。仁賢天皇の娘、春日山田皇女と結婚した。勾金橋(まがりのかなはしの)宮(奈良県橿原市)に遷宮。地方支配の拠点である屯倉(みやけ)を数多く置いた。
-
2011年1月23日
大阪城空堀清掃大作戦 ボランティアの市民ら63人参加
http://www.sankei-kansai.com/2011/01/23/20110123-048732.php
今年で復興80周年を迎える大阪城天守閣(大阪市中央区)をきれいにしようと22日、参加者63人が空堀をボランティア清掃した。下草を刈り取り、空き缶やペットボトルなどを拾い集めた。
大阪城公園には豊臣・徳川時代にかけて築かれた堀や石垣が残されているが、雑草やゴミなどが美観を損ねていることから、市が「大阪城をより身近に感じ、美しい姿を後世に伝えよう」と企画した。
これまでは市職員が清掃活動を行っていたが、初めて市民が高さ約8メートルの石垣を下りて清掃した。参加者たちはマスクと軍手をつけ、ほこりが舞い上がるなか、石垣の雑草除去や下草刈りに精を出していた。
大阪市西成区の会社員、松枝千世さん(24)は「城は大阪のシンボルなので、きれいになってよかった。石垣に残る大名の刻印石などを見るとやる気が出ますね」と話していた。
-
2011年1月23日
百舌鳥・古市古墳群 考古学上の考察紹介 堺で世界遺産講演会
http://www.sankei-kansai.com/2011/01/23/20110123-048728.php
堺市の「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録に向けた市主催の「第2回世界遺産講演会」が22日、同市南区茶山台の国際障害者交流センターで開かれ、考古学上の近年の考察などが紹介された。
市は平成17年から登録への検討を始め、昨年3月に第1回講演会を開いた。古墳群は11月に日本の世界遺産暫定一覧表に記載された。
斎藤英俊・京都女子大家政学部教授は「世界遺産は誰のためのものか」と題した講演で「登録されれば世界の人類で共有するものになるというのが概念」と解説した。
岸本直文・大阪市立大大学院文学研究科准教授は、大仙古墳(仁徳天皇陵)に埋葬されているのは仁徳天皇ではないと思われることや、祭祀(さいし)をつかさどる神聖王と執政王の2系列の古墳に分かれるとみられることなど、考古学からの見解を披露した。
講演会は市内の各区で順に開催される。
-
平野屋会所跡地 大東の歴史残せ
2011年01月23日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001101240002
大東市は、国の重要文化財級の価値があるとされながら、宅地開発で2008年に解体された同市平野屋1丁目の平野屋新田会所(ひらのやしんでんかいしょ)の跡地約6770平方メートルのうち、特徴的な遺構が残る北西の一角を約7千万円で買い取り、活用方法の検討を始めた。
市教委によると、江戸幕府は1704(宝永元)年、北向きに流れていた大和川を西の堺方面に付け替える洪水対策工事を実施し、川や池の跡地は新田開発した。会所は、商家・平野屋が所有する新田の「管理事務所」として、18世紀前半に建てられたとみられる。
敷地内には主屋棟(326平方メートル)や、長さ22・5メートルと12メートルの二つの長屋門があった。建造時期がほぼ同じとみられる東大阪市鴻池元町の「鴻池新田会所」(約1万662平方メートル)は、1976年に敷地が国の史跡、80年には建物が重要文化財に指定されたことから、一回り小さい「平野屋」も劣らない価値があったとみられる。しかし、大東市は文化財として指定しておらず、土地・建物は2007年、競売で奈良市内の不動産会社が取得。市は買い取り交渉を持ちかけたが不調に終わり、建物は08年に解体、敷地は戸建ての宅地として造成された。
同年の市の発掘調査で、米蔵や道具蔵などがあった北西の一角から、米を舟で運ぶための船着き場跡が確認された。米蔵の柱が鉛板の上に建てられていたことも判明した。市は昨年7月、この一帯の約476平方メートルを約7千万円で買い取った。会所跡全体の敷地の10分の1にも満たないが、市教委の担当者は「新田開発は、大東市の歴史の原点。それを物語る遺構を大切にしていきたい」と話す。今後、学識者や地元住民などの意見を参考に保存・活用方法を検討する方針だ。
大学教授らでつくる「平野屋新田会所を考える会」代表の佐久間貴士・大阪樟蔭女子大教授(考古学)は「江戸時代の土蔵建築を知る貴重な遺構だ。全体保存ができなかったのは残念だが、一部でも残ったのは価値がある」。地元住民らが参加した保存推進会(解散)の代表だった植田善孝さん(74)は「会所の存在を後世に伝えるきっかけになれば」と話している。
>しかし、大東市は文化財として指定しておらず、土地・建物は2007年、競売で奈良市内の不動産会社が取得。
何ゆえ事前に文化財に指定していなかったのか。指定しておればこんな事にならなかったのに。
そこらへんの事情も知りたいですね。
-
シンポジウム:枚方・禁野火薬庫など、軍需施設を検証−−30日 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110126ddlk27040471000c.html
1939年3月に死傷者約700人を出す爆発事故があった枚方市の旧日本陸軍弾薬類貯蔵施設「禁野(きんや)火薬庫」など、市内にあった軍需施設を検証するシンポジウム「発掘・復元・検証 いま、よみがえる枚方の20世紀」が30日午前10時〜午後4時20分、同市新町2の市立メセナひらかた会館である。財団法人府文化財センター主催。
同センター職員ら6人が禁野火薬庫の発掘調査などを報告。そのうち、市立中央図書館市史資料室の馬部隆弘さん(34)は午後1時半から「写真に見る北河内軍事施設の戦中・戦後」と題し講演。旧陸軍関係者が撮影した事故直後とみられる禁野火薬庫、同所東隣にあった軍需施設・枚方製造所の土塁が戦後取り壊される様子などの写真107枚を紹介する。馬部さんは「戦後軍事施設が役場などに転用された結果、戦争遺跡という認識がなくなり、取り壊しが進んだのでは」として、戦争遺跡を記録する必要性を訴える予定。
無料、先着150人。問い合わせは、同センター(072・299・8791)。【土本匡孝】
-
慰霊続け「安全」継承
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110129-OYT8T00076.htm
大阪市此花区の西成線(現・JR桜島線)で通勤電車が脱線し、191人が死亡した安治川口駅列車脱線事故の犠牲者を供養する取り組みをJR西日本の駅員が続けている。「福知山線脱線事故を上回る死者を出した事実を忘れてはならない」と、定期的に慰霊碑を訪れ、献花や草むしり、清掃を行い手を合わせる。日本の鉄道史上、最悪とされる惨事から29日で71年を迎える。
事故は1940年1月29日朝に発生。列車が通過し終わる前に信号係がポイントを切り替えたため、最後尾の3両目が脱線し、横転した。はずみで燃料のガソリンが漏れて引火し、多くの乗客が逃げ遅れて死亡した。
大阪環状線・弁天町駅長の須藤周一さん(54)は、安治川口駅を管轄する西九条駅で勤務していた2003年、安治川口駅近くにある慰霊碑の存在を知り、同僚と初めて訪れた。慰霊碑の裏面に刻まれた犠牲者の名前の下に「発願主」として添えられた「安治川口駅員一同」の文字にくぎ付けとなった。
当時、JR西として追悼行事はしておらず、慰霊碑の周りを雑草が覆っていたといい、須藤さんは「先輩たちは、安全な鉄道を作るという思いを慰霊碑に込めたはず。受け継ぎたい」と決意し、他の駅員らにも訪問を勧めた。
遺族の多くは亡くなり、記憶の風化が進む中、命日とお盆の頃に付近の駅員が集まって手を合わせるほか、当時の新聞記事を若い駅員に読ませるなど安全意識を植え付ける教育にも力を入れている。
この事故では、脱線した列車が3分半、遅れていたこともあり、これ以上、後続列車を遅らせてはいけないと考えた信号係がポイントを切り替えるタイミングを誤ったとされる。須藤さんは「この慰霊碑は、どんな時も落ち着いて行動することが大事というメッセージを伝えてくれている」と話している。
(2011年1月29日 読売新聞)
-
楠公さんの力で 千早神社“再建”
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110127-OYT8T00076.htm
千早赤阪村の千早神社の氏子らが、同神社を南北朝期の武将・楠木正成(1294〜1336)ゆかりのパワースポットとして売り出そうと準備を進めている。同神社は、正成が籠城して鎌倉幕府軍を防いだ国史跡・千早城跡にあるが、氏子が少なくなり廃れていた。氏子らは「正成さんに助太刀を願い、知恵を出し合って各地のスポットに負けない名所に」と張り切っている。
「太平記」にも記される千早城の戦い(1333年)では、正成軍が千人足らずで百万人の幕府軍を相手に100日間籠城(ろうじょう)し、撤退させたとされる。同神社は金剛山(1125メートル)中腹の本丸跡にあり、正成らを合祀(ごうし)して1874年に再建されたが、半世紀前から別の神社の宮司が宮司を兼務していた。
しかし最近では、歴史好きの若い女性が千早神社を訪れたり、各地でパワースポットブームが起きたりしていることから、氏子らは地域おこしの好機と立ち上がった。
定年退職後に村へ帰り、境内を清掃してきた氏子の仲谷正輝さん(65)は昨春、参拝者のために神社のステッカーを作成。さらに皇学館大学(三重県伊勢市)へ通い、神職の資格を取得した。神社に通い詰め、参拝者らを出迎えるよう努めるという。
氏子らは、境内でジャズ音楽会を開いたり、参拝者用のトイレや参道に続く登山道を整備したりするほか、ホームページやブログなどで神社やスポットの由来を発信していくことも検討している。
一方、村は周辺自治体との合併協議が次々と破談し、増税を検討せざるを得ないほどの財政難に見舞われている。松本昌親村長(71)は「籠城に耐えた正成の我慢強さや正成を支えた妻との夫婦愛……。ここに来ると、人生の苦難を乗り越えられる不思議な力が得られるはず。多くの参拝者に来てもらい、村おこしにつなげたい」と話している。
■パワースポット
風水や気功、信仰などから、特別な力が得られるとされる場所。神社仏閣やご神木、森林のほか、景勝地や遺跡が含まれることもある。健康に恵まれるなどの効果があるとされるが、明確な科学的根拠はない。
(2011年1月27日 読売新聞)
-
2011年1月29日
「お水汲み祭り」あでやかPR
http://www.sankei-kansai.com/2011/01/29/20110129-048997.php
大阪市北区の堂島薬師堂周辺で2月3日に行われる恒例の「堂島薬師堂節分お水汲み祭り」(同実行委員会主催)をPRしようと、北新地の芸者衆らが28日、同市浪速区の産経新聞大阪本社を訪れた。
祭りは商売繁盛や招福を願って地元関係者や経済界などが協力し開いており今年で7回目。芸者衆が奉納する舞いや僧侶、竜、鬼などのにぎやかな装束で北新地を練り歩く「竜の巡行」などが見どころ。
芸者のさく与さんは「厄をはらい、景気を良くして大阪を元気にするお祭り。たくさんの人に来てもらえたらうれしいですね」と話していた。
-
古市古墳群1冊でわかる
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110130-OYT8T00067.htm
世界文化遺産の国内候補地リストに入った古市古墳群について理解を深めてもらおうと、羽曳野、藤井寺両市がガイドブック「古市古墳群を歩く」を4800部作製した。学術的な説明だけでなく、初心者向けに「水鳥が飛来する絶好のバードウオッチングスポット」(岡ミサンザイ古墳、藤井寺市)、「桜の名所」(野中宮山古墳、同市)などの見所も紹介した。
同リスト対象の44か所をはじめ、墳丘のない古墳を含む64か所を取り上げた。カラー印刷で空撮写真やイラストを多用し、2009年度までの調査結果を反映させた。また、世界遺産登録に向けて、都市環境とどう調和させるのかといった課題にも触れた。
このほか、誉田(こんだ)御廟山(ごびょうやま)古墳(応神陵、羽曳野市)周辺や、古墳の造営を主導した土木技術者集団・土師(はじ)氏ゆかりの地を巡るウオーキングコースを記した地図のほか、出土品を展示する施設の一覧表も付けている。
羽曳野市世界遺産登録準備室の高野学室長は「400メートルを超える巨大古墳から10メートル級まで古市古墳群の資料が満載」とPRしている。
A4判62ページ、1部200円。両市教委で販売する。希望者には郵送するが、送料が必要。問い合わせは同準備室(072・958・1111、内線4481)。
(2011年1月30日 読売新聞)
-
平和祈る灯枚方に
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110130-OYT8T00054.htm
1939年に火薬庫の大爆発で多くの死傷者を出した枚方市で3月1日、市民らが平和への思いを込めて作ったランタンを並べる催しが初めて行われる。ランタンで「平和の日」などの文字を浮かび上がらせる予定で、市は製作する人を募っている。
同市では1939年3月1日、旧陸軍・禁野火薬庫の大爆発が起こり、約700人の死傷者が出た。市は爆発から50年後の1989年、3月1日を「市平和の日」に定め、これまでもこの日に合わせて催しを行ってきたが、今年は「市民手作りで平和を願うことができるように」と、ランタンを作ることにした。
計画では、牛乳パック四つを組み合わせたランタン1000個を募集。ランタンの周りはメッセージを書いた紙で覆う。市役所前の岡東中央公園で、「枚方市 平和の日 2011・3・1」の文字が浮かび上がるよう並べた上で、午後6時から火を付けていく。
会場では小学生による作文朗読や黙とうも行われ、広島市の平和記念公園の火を運ぶことも検討しているという。すでに市内の学校や地域などでランタン作りに取り組んでおり、2月4日からは講習会(8回)も予定している。
問い合わせは市生涯学習課(050・7102・3206)へ。持参する人は前日までに同課への連絡が必要。
(2011年1月30日 読売新聞)
-
50年ぶり、衣装も再現 「節分仮装行列」復活へ
2011年1月29日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110129/20110129024.html
2003年から大阪市の文化事業として、新世界を拠点に街中でアートプロジェクトを展開している「ブレーカープロジェクト」の企画。失われつつあるまちの風景を写真などで作品化する事業「絶滅危惧・風景」の一環で、新世界の住民から古い写真を募っていたところ、約50年前に仮装行列が行われていたことが分かった。
同行列は、節分の日に市場の宣伝のため、店主が中心となって2、3回行われたとみられる。当時の様子を知る人は少ないが、2012年に100周年を迎える新世界の歴史をあらためて見直す好機として、行列を再現することになった。
仮装は、新世界の住民から寄せられた1960年代ごろの写真に写る市民の服装を再現して実施。衣装の制作は、同じ服装、同じ人、同じ場所で過去の写真を再現する芸術活動「家族の制服」を手掛ける美術家の西尾美也さんが担当し、関西を拠点に活動するブラスバンド、三田村管打団が音楽を演奏して行列する。
写真を提供した、新世界100周年実行委員会の近藤正孝さんは「活動の中で眠っていた歴史を発掘してもらえてよかった。今後まちの活性化コンテンツとして生かしたい」と期待を寄せる。同プロジェクトのプログラムディレクター、雨森信さんは「住民と別の視点でアーティストがまちの魅力を発見し、まちの未来を考えるきっかけになれば」と話している。
行列は午後2時から、新世界市場内の同プロジェクト工房を出発し、恵美小、廣田神社などを回って約1時間で工房へ戻る。行列の模様は大阪市立近代美術館(仮称)心斎橋展示室(2月26日〜3月21日)で行われる展示「絶滅危惧・風景」でも紹介する。
再現された衣装で行列を行う一般参加者も募集中。問い合わせは電話080(6172)8667、同プロジェクト実行委員会へ。
-
住吉の蔵、暮らしに息づく 住民らが記録映画制作中
2011年1月30日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201101290161.html
大阪市住吉区内に残る蔵の姿を記録しようと、地域の住民や住吉区が記録映画の制作を進めている。街が姿を変える中、食器やタンスなどの保管場所だった蔵は今、住居やギャラリー、ダンスの練習場などとして使われている。人々の生活に密着した蔵の姿を伝え、物や文化を大事にする「住吉区の底力」を発信したいと、住民らは意気込んでいる。
住吉区は住吉の歴史や文化を記録して発信しようと昨年春、300万円の予算でDVDの制作を決めた。制作しているのは「住吉文化事業実行委員会」。メンバーは住吉区の文化を伝えようと、歴史案内人やプロのカメラマンなどとして活動する地元住民や歴史専門家ら6人だ。区が地元住民の意見を採り入れたものにしたいと考え、昨年11月に制作を依頼した。
記録映画の制作に先立ち、メンバーの一人で撮影監督の塚越力(つとむ)さん(68)=大阪市住吉区住吉1丁目=が昨年8月から3カ月かけ、住吉区帝塚山、住吉、墨江地区にある蔵の調査、取材を重ねたところ、蔵は様々な方法で用いられていることがわかった。住吉区帝塚山西3丁目、彫刻家河合隆三さん(75)は木造2階建ての蔵をリフォームして住んでいた。これまで約1650平方メートルの土地を所有していた河合さんは多額の固定資産税を納めていた。このため、土地の一部を手放したが、先祖が建てた蔵を残したいと住むことにしたという。このほか、蔵はダンスのレッスン場やギャラリーとして使われていた。区職員で制作に関わる北辻稔さん(59)によると、今でも日常生活で使われている蔵の姿を記録し、活用方法のヒントにしてもらいたいと、テーマを蔵に決めたという。
撮影は、塚越さんが声をかけて集まったプロの撮影スタッフとともに昨年11月から計約10日間かけて進めた。映像では、約80の蔵のうち河合さんのリフォームした蔵など16を取り上げ、蔵を利用する住民へのインタビューや実際に利用している様子を交え、30〜45分程度のDVDに仕上げ、2〜3月ごろに完成させる予定だ。北辻さんは「住吉区内の小学校にDVDを配り、上映活動をして公開していきたい」と話している。(大野晴香)
-
禁野火薬庫など調査成果を報告
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110130-OYT8T00773.htm
枚 方
枚方市で1939年に大爆発で死傷者約700人を出した禁野火薬庫など、市内にあった旧陸軍施設について、専門家らが調査、研究内容などを発表する「発掘・復元・検証 いま、よみがえる枚方の20世紀」が30日、同市新町の市立メセナひらかた会館であり、市民らが耳を傾けた。
同市にはかつて、砲弾、弾薬を収蔵する同火薬庫のほか、砲弾などを製造する枚方製造所、香里製造所があった。火薬庫跡周辺で府文化財センターなどが発掘作業を行っており、今回、地元の人に施設について知ってもらい、さらに情報提供によって今後の歴史の掘り起こしにつなげたい、と企画した。
この日は、同センターや府教委の職員ら計6人が登壇し、発掘調査の成果や当時の施設内の構造などを資料を示しながら説明した=写真=。市立中央図書館市史資料室の馬部隆弘さんは、「写真に見る北河内軍事施設の戦中・戦後」と題して講演。建物が倒れるなど生々しい爆発後の施設内の惨状や、昭和20〜40年代を中心に、施設の名残を残しながら姿を変える周辺の様子などを107枚の写真を使って解説し、参加者の関心を集めていた。
(2011年1月31日 読売新聞)
-
>>64
寒かったし眠かったこともあってすっかり行き忘れてたorz
>火薬庫跡周辺で府文化財センターなどが発掘作業を行っており
公務員宿舎だったかコマツ大阪工場が一部撤退した後だったか忘れたけど
関西外大が購入してなんか作るからそのための事前発掘なんだよね確か。
-
黒こげ部材採寸、全焼“重文”本殿を復活 大阪・吉志部神社
2011.2.2 13:07
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110202/art11020213090004-n1.htm
平成20年5月に起きた火災で全焼した大阪府吹田市の吉志部(きしべ)神社の本殿(重要文化財、焼失により解除)が再建された。設計図は残っていなかったが、各地で建物の修復などを手がける桜井敏雄・大谷大客員教授により、燃え残った部材から寸法を割り出す珍しい手法が取られ、屋根など複雑に木材が組み合わされた部分も完全に復元、先代宮司の奥田富夫さん(故人)らの願いにこたえた。極彩色のあでやかな姿を取り戻した本殿は5日に行われる引き渡し式で、神社関係者らに披露される。
火災は平成20年5月23日に発生。本殿が全焼し、鎮守の森の大半が焼けた。本殿は慶長15(1610)年建立とされ、本殿正面に設置された柱間が7つある七間社流造(しちけんしゃながれづくり)を採用。全国的に珍しい豪華な造りで、軒下部分には獣や花などの彫刻が施され、極彩色で花紋や唐草などが描かれていた。平成5年8月に国の重要文化財に指定された。
火災の2日後、病気で入院していた奥田さんは氏子らを集めて会議を開いた。「本殿を元通りに復元させたい」。奥田さんらは、燃え残った本殿の部材を処分せずに保管することを決め、本殿が国の重要文化財に指定される際に調査を担当した桜井さんに再建を依頼した。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110202/art11020213090004-n2.htm
奥田さんの情熱に触れ、桜井さんも現場に残された部材を丹念に調べて設計図を書いていくことを決心。真っ黒に焦げた部材をひとつずつ紙の上に置き、えんぴつで輪郭を描いて拓本を取る作業を繰り返した。足りない部分は、部材の山をあさって探し当てた。「黒こげの部材を相手に作業をしていたら、服や手指、鼻の穴まで真っ黒になった」と振り返る。
桜井さんにとって忘れられない情景があった。調査を始めてまもなく、奥田さんが寝間着姿のまま呆然(ぼうぜん)と焼け跡を眺めている後ろ姿を目にしたのだ。「病身の奥田さんのためにもできるだけ早く復元させたい」。桜井さんは、ほかに抱えていた仕事もすべて後に回し、教え子らも動員して復元作業に専念。半年後に設計図を完成させたという。
奥田さんは再建途中の昨年1月に亡くなったが、桜井さんは「先代宮司の奥田さんの情熱に押されてみんなが力を合わせ、こんなに短期間で再建させることができた」と話していた。
-
寝屋川の成田山で節分祭 「てっぱん」ヒロインも登場
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201102040010.html
節分の3日、大阪府寝屋川市の成田山不動尊で恒例の節分祭があった。NHK連続テレビ小説「てっぱん」ヒロイン役の瀧本美織さんやその祖母役の富司純子さんらが境内の特設舞台に上がり、「福は内」「福は内」と威勢よく豆をまいた。
この日3回予定される豆まきのために、落花生約2千キロと大豆約300キロが用意された。「本尊の不動明王の前では誰もが改心し、境内に鬼はいない」として、かけ声は「福は内」だけ。境内を埋めた参列者は、紙袋を広げるなどして福豆を奪い合った。
-
2011年2月 4日
商売繁盛や招福願い 節分お水汲み祭り キタの堂島薬師堂
http://www.sankei-kansai.com/2011/02/04/20110204-049259.php
商売繁盛や招福を願う「節分お水汲(く)み祭り」が3日、大阪市北区堂島の堂島薬師堂周辺で行われた。北新地の芸者らが舞いを奉納、鬼にふんした福男ら約150人の行列が、節分ムードを盛り上げた。
薬師堂では、薬師寺(奈良市)の僧侶による法要が営まれ、参拝者はお香水(こうずい)が入った竹筒を持ち帰った。
この後、薬師堂にまつられている弁財天の化身とされる龍や、華やかな衣装に身を包んだ北新地で働く女性らが通りを練り歩いた。沿道には、大勢の見物客が詰めかけた。
北新地の芸者、さく一さんは「大阪が活性化すれば、日本が元気になる」と商売繁盛を期待していた。
-
今城塚古墳、史跡公園に 高槻、4月オープン
2011年2月13日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201102120140.html
継体天皇の墓とされる高槻市の今城塚古墳(国史跡、同市郡家新町)の一帯が4月、史跡公園になる。埴輪(はにわ)など古墳から出土した貴重な文化財を展示する歴史館も造る。整備を進める同市は、地域の成り立ちを楽しんで学べる拠点にしたいという。
今城塚古墳は6世紀前半に築かれたとされる。墳丘の全長は約190メートルで二重に巡らされた濠(ほり)を含めた面積は約9ヘクタール。淀川流域では最大の前方後円墳という。大小約500基の古墳からなる「三島古墳群」の代表格で、市は保存のため、2004年度から整備を進めてきた。公園と歴史館とを合わせた整備事業費は約40億円。
古墳は、地震で形が崩れていた墳丘部分を原生する樹木を生かしながら整備。本来、水が満たされていた濠は、西側を池にし、東側を芝生広場にする。周囲には複数の出入り口を設け、人々が終日自由に内部を散策できるようにする。市の発掘調査で、家や人、動物などをかたどった140点以上の埴輪が出土した祭祀(さいし)場も複製品を並べてよみがえらせる。
歴史館は古墳に隣接する。鉄骨2階建てで延べ床面積は約4千平方メートル。出土した遺物をパネルや映像、ジオラマ模型で解説する常設展示室や、埴輪づくりができる体験学習コーナーなどを設ける。常設展示室では、祭祀場で見つかり、日本最大級(高さ約1.7メートル)とされる家形埴輪や、武人や巫女(みこ)、馬などの埴輪、復元した石棺などを無料で公開する。オープン後は有料の特別展も行う予定だ。
市は昨年10〜11月、公園と歴史館をあわせた愛称を公募。愛称は「いましろ大王(だいおう)の杜(もり)」に決まった。両施設は4月1日から公開予定。市教委文化財課は「三島古墳群は切れ目なく古墳が築かれてきた。地元の歴史の積み重ねを知ってもらいたい」と話している。問い合わせは市埋蔵文化財調査センター(072・694・7562)へ。(清水謙司)
-
<削除>
-
梅に誘われ天神参り 高槻・上宮天満宮
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110227-OYT8T00135.htm
菅原道真をまつる高槻市天神1の上宮(じょうぐう)天満宮(森嘉和宮司)で25、26日、天神まつりが開かれた。
道真の命日に毎年開催。JR高槻駅前から同天満宮までの約300メートルの道路は歩行者専用となり、住民らでつくる実行委員会が催しを開催。約190の露店が並び、多くの人でにぎわった。同駅北側の特設ステージでは、和太鼓の演奏やピアノの弾き語りなどが披露された。
境内では家族連れらが参拝の順番を待って列を作った。紅白の梅も咲き、記念撮影する人もいた。同実行委によると2日間の人出は約5万人といい、瀧井理会長(72)は「天候に恵まれてよかった」と話していた。
(2011年2月27日 読売新聞)
-
古墳マップ、QRコードで説明も
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110225-OYT8T00055.htm
羽曳野、藤井寺市
世界遺産登録の暫定リスト入りが決まった古市古墳群がある羽曳野、藤井寺両市は、携帯電話で読み取ると古墳の説明を聞くことができるQRコードが付いた「ウオーキングマップ」=写真=を2万部作製した。両市教委などで無料配布している。
地図には、応神陵古墳(誉田御廟山古墳)や仲哀陵古墳(岡ミサンザイ古墳)、津堂城山古墳などの前方後円墳計7基のコードを掲載。ほかの古墳については、地図の裏に説明文を付けた。ウオーキングコースや発掘品の展示施設一覧も入れた。
藤井寺市世界遺産登録推進室の山田幸弘主幹は「博物館などで普及している音声ガイドのフィールドワーク版。古墳を見ながら聞き入ってほしい」と話している。問い合わせは、同推進室(072・939・1417)。
(2011年2月25日 読売新聞)
-
なるほドリ:「いましろ 大王の杜」はどんな場所なの? /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110228ddlk27070209000c.html
◇高槻の今城塚古墳 史跡公園と歴史館、4月開館
なるほドリ 高槻市に「いましろ 大王の杜(もり)」という場所ができると聞いたけど。
記者 高槻市郡家新町に4月に開館する、今城塚古墳の史跡公園と古代歴史館の愛称です。市が昨年、一般から募集し、決定しました。
Q 今城塚古墳はどんな古墳なの?
A 市教委によると、6世紀前半の前方後円墳で、墳丘の長さ約190メートル、全体の面積は約9ヘクタールと甲子園球場の約2倍に相当します。淀川流域では最大級の前方後円墳で、同時代の古墳としては国内でも最大規模だそうです。中世にとりでとして利用され、「今城」の名がついたといいます。
Q 誰の墓なの?
A 古墳時代後期に活躍し、聖徳太子の曽祖父とされる継体天皇の陵墓という説があります。今城塚の西約1・5キロにある太田茶臼山古墳(茨木市太田)が継体陵とされていますが、日本書紀などの文献や築造年代といった研究成果から、今城塚を継体陵とする説が有力だそうです。
Q 出土品は?
A たくさんの埴輪(はにわ)が見つかりました。家や人物、動物など140点以上の形象埴輪が並んでいたとみられる場所は、埴輪祭祀場(さいしば)だったと考えられています。国内で他に類例がない規模と内容だそうです。
Q どんな公園と歴史館になるのかな?
A 公園には復元した埴輪で祭祀場が再現されます。芝生広場や展望デッキ、スロープなどを設け、訪れやすく憩いの場にもなるよう配慮しました。歴史館には発掘の成果が展示されます。中でも、高さ170センチの家形埴輪は国内最大級です。また、石棺3基は、熊本や兵庫など、出土した破片を分析して調べた産地の石材を使い、復元しました。
Q 楽しみながら歴史にふれられそうだね。
A 高槻には500の古墳群や多くの遺跡があり、奈良時代の郡役所「嶋上郡衙(しまがみぐんが)」も置かれていました。「人や物が通る淀川の流域が開けるところで、それなりの人物が足跡を残した」と市教委は考えます。大王の杜を中心にそれらを巡り、いにしえに思いをはせてみませんか。<回答・八重樫裕一(社会部)>
==============
あなたの質問をお寄せください。
〒530−8251(住所不要)毎日新聞社会部「質問なるほドリ」係
(o.shakaibu@mainichi.co.jp)
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/198 浮世小路 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110303ddlk27070403000c.html
◆大阪市中央区
◇「好色一代男」に登場 なんでもござれの裏通り
鴻池家などの両替商が軒を連ねた今橋通の南に、車1台通るのがやっとの細い路地が、まっすぐ西へ延びている。「井原西鶴の『好色一代男』にも出てくる浮世小路(しょうじ)です」と大阪案内人の西俣稔さん。
江戸時代、一大金融街だった今橋通が表通りなら、こちらは裏通り。東横堀川から、今は埋め立てられた西横堀川まで、約1キロの小路の両側には、揚弓屋に風呂屋、餅屋に質屋、三味線や謡曲のお師匠さん、寺子屋、米屋に占師、果ては売春宿まで、なんでもござれ。まるで浮世のありさまを見るようなものだったから、浮世小路の名が付いたといわれる。通り一本違うだけで、えらい様変わりだ。
さて、「好色一代男」である。ごぞんじ、希代の遊蕩(ゆうとう)児、世之助のすさまじい女性遍歴の物語。世之助23歳の時、九州から大坂に戻って、浮世小路に自分のことが忘れられない女性がいると聞いて訪ねていく。その描写。
「花屋、たばこきり、駕籠(かご)かきの西隣に、何して世をわたるともなく、柿染めののれんかけて、女の一人暮らせり」
小商いの店や、気の荒いかごかきに囲まれて、女一人で住んでいるとは、いかにもいわくありげだ。乳母の妹で、出合宿を営んでいる。出合宿とは、今で言えばラブホテルみたいなものか。
◇
北浜の料亭「花外楼」の先々代の女将、徳光孝さんは、自著「花のそと」に、浮世小路の思い出を書き残している。
孝さんが子どものころだから、明治中ごろのこと。「トンネルのように昼も暗くて、このあたりでは特にさびしい場所でした。(中略)ここを通る時は申し合わせたように『オンゴク ナハハヤ ヨイヨイ』と一段と大きな声をはり上げて通ったものです」
タヌキが出る、とも言われた。女性のマッサージ師がよく出入りしており、みやげに折り箱を持たせたものだが、夜遅くなった時は浮世小路へ来ると、たちまちちょうちんの火が消え、折り箱のごちそうがなくなる−−。 木造の民家が立ち並んでいた時代のこと。ばかし、ばかされも浮世の常というわけか。
◇
浮世小路を歩く。小路に入ってすぐの喫茶店に「でんわ」の看板がかかっている。昔はいざ知らず、いま、店内の公衆電話を使う人はいないだろう。時が止まっているかのようだ。カラオケボックス、中華やイタリア料理店……ビルの陰にぽつぽつと店がある。
西へ歩を進めると、古そうな門構えのてんぷら屋や美術商が現れた。ここに浮世小路の面影を見るのは無理があるか。タヌキも見かけなかった。次第にビルは高くなり、ビルの谷間を歩いて、十数分の探索は終了。変哲もないオフィス街の裏通りだが、歴史を知って歩くとひと味違う。【松井宏員】
-
寺山南山古墳:長方形と判明 あす現地公開−−堺 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110304ddlk27040327000c.html
世界文化遺産登録を目指す百舌鳥古墳群の一つ、寺山南山古墳(堺市西区上野芝町1丁)について、堺市は調査の結果、長方形の方墳であることが判明したと発表した。
寺山南山古墳は、陪塚(大きな古墳周辺に造られた小さな古墳)と考えられ正方形とみられていた。市の調査で、墳丘から円筒埴輪(はにわ)の基底部が一部出土。埴輪列は30・5メートル×33・5メートルに並んでいたとみられ、古墳も長方形だった可能性が高いという。市は5日午前10時半から午後4時、現地公開する。問い合わせは、市文化財課分室(072・273・6101)。【山田英之】
-
大坂城跡 江戸初期の石段出土
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110304-OYT8T00097.htm
秀頼と淀殿自刃地の一部 復元へ貴重な資料
大阪市中央区の特別史跡・大坂城跡で、江戸時代初めに築かれたとみられる石段の一部が、大阪市博物館協会大阪文化財研究所の調査で出土した。大坂夏の陣(1615年)で豊臣秀頼と淀殿らが自刃した場所の一角にあたり、徳川幕府がその後、堅固に整備した様子がうかがえる。同研究所は「江戸時代の大坂城の復元に役立ち、城の整備の変遷もわかる貴重な資料」としている。
城の修復事業の一環で、天守閣北側にある「山里丸」の一部約200平方メートルを調査。現在の石段の裏側に、ほぼ直角に曲がった長さ約10メートル分の石段3〜4段が見つかった。周囲には石段を補強するための「裏込め石」(15〜20センチ)が一面に敷き詰められ、外敵を防ぐために城壁の上に建てる施設「多聞櫓(やぐら)」の礎石約20個(長さ70〜80センチ)も出土した。
豊臣期の大坂城は大坂夏の陣で落城し、徳川幕府が1624年に再建に着手した。江戸時代の絵図には、調査地の部分に曲がった石段が描かれており、当時は石段が9段あったとみられる。
山里丸には太平洋戦争中、軍によって兵舎が建てられていた。石段が爆撃などで激しく傷んだため、1958〜59年の修復工事で直線の石段を設け、江戸時代の石段を埋めたらしい。
現地公開は5日午前10時〜正午。小雨決行。問い合わせは同研究所難波宮調査事務所(090・2386・7682)。
(2011年3月4日 読売新聞)
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/199 高麗橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110310ddlk27070445000c.html
◆大阪市中央区
◇西詰めにやぐら屋敷 秀吉時代、朝鮮との貿易拠点
浮世小路(しょうじ)の一つ南の通りに架かっている高麗橋は、江戸時代の大坂に12しかなかった幕府管理の公儀橋の中でも、格式が高かった。お江戸が日本橋なら、大坂は高麗橋。
大阪案内人の西俣稔さんが、橋の名の由来を説明。「このあたりに古代、朝鮮の使節の迎賓館があったから、という説があるんです」
その迎賓館は高麗館(こまのむろつみ)という名で、橋ができるずっとずっと昔のことだ。また、豊臣秀吉の時代に、朝鮮との貿易の拠点となっていたから、ともいわれる。
この橋の面白いのは、高欄に石のやぐらがのっかってるところだ。これにもちゃんといわれがあって、「橋の西詰めにやぐら屋敷があって、それを模してるんです」。
江戸時代後期に出版されたガイドブック「摂津名所図会」には、「あたかも城郭の矢倉のごとし、ゆえにやぐら屋敷という。浪花市中の一奇観なり」と記されていて、観光名所だったようだ。江戸時代初期の見張りのための番所ともいわれるが、摂津名所図会では、北側のやぐら屋敷は綿問屋になっている。
毎日新聞社に保存されている写真を見ると、明治初めまでは橋の両側にやぐら屋敷があるが、明治30年ごろの写真には、南側にしか残っていない。
その西詰めには、お上のお触れ書きを張り出す制札場があった。時代劇などで、罪人の人相書きが掲示され、人々が「なんだなんだ」とたかっている、あれである。罪人のさらし場もあったという。
つまりは、それだけ人通りが多い中心街だったということだ。昭和初めに御堂筋が拡幅されるまで、大阪の中心は堺筋だったのだから、さもありなん。
すぐ近くの今橋通は両替商が軒を連ね、高麗橋通には元禄時代、三井呉服店が店を出した。百貨店の元祖で、その後、三越になる。いま、三越のあった場所には高層階のビルが建つ。
屋号が越後屋の三井呉服店は、掛け売りが一般的だった当時、現金掛け値なしの正札商法で庶民の心をつかんだ。錦絵「浪花百景」には、約50メートルもあった間口の広い店先には紋を染め抜いたのれんが掛かり、屋根にも看板が掲げられ、店の中では客が上がりがまちに腰掛けて、品定めしている様が描かれている。
向かいには、糸やべっこう、塗り物、紅おしろいを扱う店が並んでいた。これすべて、三井グループの店で、「ここへ来れば嫁入り道具がそろう」と言われた。さぞや、当時の娘さんたちのあこがれの地であったことだろう。「うち、越後屋はんで、このべべ、あつらえたんよ」「まあ、うらやましいこと」てなもんだ。
しかも、高麗橋通には「虎屋」という、まんじゅうが安くて名物だった菓子屋も店を構えていた。「東海道中膝栗毛」にも登場する名高い店だ。淀屋橋に近い今橋通の西端に本店を構える和菓子の「鶴屋八幡」のご先祖さまだ。
きれいな着物や飾り物に甘いもん。これは、娘さんにはたまりませんわなあ。【松井宏員】
-
仁徳陵周辺で清掃奉仕
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110314-OYT8T00067.htm
堺市堺区の世界最大級の古墳・大山古墳(仁徳天皇陵)で13日、地元住民らでつくる「仁徳陵をまもり隊」(下原武雄会長)のボランティアら約200人が、濠(ほり)や遊歩道を清掃した。約2時間にわたり外周約2・8キロをきれいにし、集めたごみの量はごみ袋70袋分に上った。宮内庁の許可を受け、地元自治会や近くの市立堺高、府立だいせん聴覚高等支援学校の生徒らが清掃、すぐに用意したごみ袋がいっぱいになった。参加した堺市西区の松岡史子さん(63)は「仁徳さんをきれいに守って観光客に気持ちよくなってもらえれば」とほほ笑んでいた。
(2011年3月14日 読売新聞)
-
2011年3月18日
百舌鳥・古市古墳群 シンポで魅力発信
http://www.sankei-kansai.com/2011/03/18/20110318-050908.php
「百舌鳥・古市古墳群の魅力〜世界文化遺産への道〜」(大阪府立大学主催、産経新聞社協力、堺市など後援)が17日、堺市中区の大阪府立大学で開かれ、約300人が参加した。昨年、この古墳群が世界文化遺産登録準備リストに名を連ねたことを記念し、地域での機運を盛り上げる目的で開かれた。
第1部の基調講演では前ユネスコ事務局長の松浦晃一郎氏が「世界文化遺産への道」と題し、日本が世界に対して誇るべき文化遺産の価値について講演した。
また第2部では「百舌鳥・古市古墳群の魅力と可能性を考える」と題して、専門家らによる古墳群の学術的価値や今後の街づくりの観点でのパネルディスカッションなどが展開された。
-
文化審答申:金剛寺の木造大日如来坐像、国重文に指定答申 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110320ddlk27040237000c.html
◇大工頭中井家の関係資料
18日に開かれた国の文化審議会で、府内からは金剛寺(河内長野市)にある木造大日如来坐像と、江戸期に全国の城郭や寺院を設計・建築した大工頭中井家の関係資料が国の重要文化財に答申された。また貝塚市の寺田家住宅(主屋など7件)と毎日新聞社元社長で実業家の本山彦一が集めた考古学資料が国の登録有形文化財として答申された。
木造大日如来坐像は、重要文化財に指定されている多宝塔の本尊仏で鎌倉時代の作。平安時代の洗練された藤原様式を基調としながら、髪の束ね方など随所に鎌倉の新様式の技法がみられる。
中井家関係資料は、文書や記録、絵図など5195点が指定される。江戸期の多様な公共事業建築物の内容や職人集団のまとめ方の実態を知る上で最もまとまった資料といえる。寺田家は明治時代に岸和田紡績などを経営した寺田甚与茂(じんよも)の一族。登録されるのは、主屋▽内蔵▽外蔵▽納屋▽本門▽新宅▽石垣塀。新宅以外は1936年の建築で、泉州地域を代表する昭和前期の住宅建築として評価された。【田中博子】
-
2011年3月21日
安政南海地震から津波の猛威知って 大阪城で瓦版の幕末災害史展
http://www.sankei-kansai.com/2011/03/21/20110321-050997.php
いま、大阪を津波が襲ったら―。災害をテーマにした特別展「瓦版にみる幕末大坂の事件史・災害史」が、大阪市中央区の大阪城天守閣4階展示室で開かれている。嘉永7(1854)年、大阪を襲った安政南海地震での被害の様子を伝える瓦版も展示され、担当者は「改めて府民に防災意識を高めてもらえれば」と呼びかけている。会場では東日本大震災の被災者救援のため募金活動も行っている。5月8日まで。
同展は東日本大震災の発生前から企画されており、「現実の恐ろしさに驚いています」と担当者は明かす。
安政南海地震は嘉永7年11月4日に発生。速報として配られた瓦版には「大坂の町を津浪が襲い、船舶や橋がつぶれ、多数の死者が出ている…」と記述。銭湯の湯船からあわてて逃げ出す市民の姿が挿絵で描かれるなど生々しい被災の様子が綴られている。
また、津波の被災範囲を表す「大坂大津浪図」も出展。道頓堀から南、木津川から西のほぼ全域が水没した様子が説明されている。「大地震両川口津浪記」の中には、「大地震が起きても津浪の恐れがあるので絶対に船に乗るな、水の勢いはいつもの高潮とは違う」と後世へ訴える貴重なメッセージも残されている。
午前9時〜午後5時(入館は午後4時半まで)。入館料は大人600円、中学生以下無料。
-
「万葉歌木簡」調査の軌跡
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110322-OYT8T00042.htm
木簡研究の第一人者で大阪市立大の栄原永遠男(とわお)名誉教授(古代史)が新著「万葉歌木簡を追う」を刊行した。全国の木簡を調査し、歌木簡の存在を提唱した軌跡を、生き生きとした筆致で描いている。
栄原名誉教授は、2006年に大阪市の難波(なにわ)宮跡で出土した「はるくさ木簡」と呼ばれる歌木簡や、滋賀県甲賀市の宮町遺跡から出土した「あさかやま木簡」の解明にかかわった。
その後、奈良文化財研究所などの協力を得て、奈良県橿原市の藤原宮跡や奈良市の平城宮跡など、各地で出土した漢字1字で日本語の1音を表す万葉仮名で書かれた木簡を見て回った。
本書では、調査、研究の結果、長大な木簡の片面に万葉仮名で歌を書くことが7世紀中頃〜10世紀前半まで、全国で行われていたことを明らかにし、儀式や歌宴で詠み上げることが広く行われていたとの推論に至る経緯を説明。章ごとに小さなまとめ記事をつけて、一般にも理解しやすい構成になっている。
栄原名誉教授は「今後も万葉仮名木簡の出土は続くとみられ、研究の進展で古代の歌を取り巻く環境が明らかになっていくのではないか」と話している。
四六判216ページ。税込み1890円。和泉書院刊。
(2011年3月22日 読売新聞)
-
<削除>
-
旧泉家住宅の補修完了
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110325-OYT8T00046.htm
民家集落博物館 独特の間取り公開
豊中市の日本民家集落博物館が、江戸時代初期の庄屋「旧泉家住宅」(国の重要文化財)=写真=の補修工事を終え、26日から一般公開する。母屋の片方に部屋を集め、残りに土間を設けた「縦割り片土間型」と呼ばれる独特の間取りを見学できる。
旧泉家住宅は能勢町の吉野集落に建てられ、1960年に同館が寄贈を受けた。大阪・摂津地域と京都・丹波地域の境界周辺だけに分布する間取りで、64年に重要文化財に指定された。老朽化に伴い昨年11月から閉鎖し、かやぶき屋根などを修理。総事業費は約2500万円。
同館の金田真人副館長は「住宅の構造から京都の町家に強く影響を受けていたことがわかる。当時の暮らしぶりが伝わってくる」と話している。
26日は午後1時から完成記念式を開き、同2時から能勢町の伝統芸能「能勢浄瑠璃」を上演。同町の物産品の販売や、雑煮のプレゼント(先着100人)もある。入館料は大人500円。問い合わせは同館(06・6862・3137)。
(2011年3月25日 読売新聞)
-
こういう非常時こそ大阪で善政を行った天皇と今上陛下のお話を。
3月27日
2011.3.27 03:05
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110327/dst11032703050012-n1.htm
『日本書紀』に「民のかまど」の話がある。第16代仁徳天皇が難波の高津宮から外を見ると、かまどを炊く煙が見えない。「民は食事を作ることもできないのか」と嘆いた天皇は3年間課役を免除するとともに、自らもぜいたくを絶ち、宮殿は荒れるにまかせた。
▼3年後再び高殿に立つと、こんどは多くの煙が見え、天皇は「これで私も豊かになった」と満足する。「宮殿は荒れ放題ですのに」と不満げな皇后に「民が豊かになるのが私が豊かになることだ」と答えた。この「民のかまど」の精神は歴代の天皇に脈々と受け継がれてきたようだ。
▼昭和天皇は戦後間もなく全国を巡幸された。着ていかれる洋服がみすぼらしいと、周囲は新調を勧めたが「みな着るものにも不自由しているのだから」と、断られた。学校の板の間にゴザを敷き、黒いカーテンをかけお休みになったこともある。
▼今の天皇、皇后両陛下が、大震災の後に「自主停電」されているという話にも鼻のあたりがツーンときた。15日から「第1グループ」の計画停電の時間に合わせ皇居・御所の電気を切っておられる。実際に停電にならない日も、予定通り続けておられるそうだ。
▼天皇陛下は77歳のご高齢である。以前には前立腺がんの手術も受けられた。それなのに「寒いのは(服を)着れば大丈夫」と、その間は暖房も使われない。ろうそくや懐中電灯を使いながら、暗い中で夕食をとられたこともあるという。
▼それほどまで国民に思いをはせておられる。そのことを知れば、被災地で苦難の生活を強いられたり原発の修復にあたったりしている人々にこれ以上にない励ましとなるだろう。身勝手な買いだめなど決してできないはずだ。
-
>>85
その記事は、意図的に次の事柄を抜いたのかも知れませんが、杜撰なものです。
天明の大飢饉において、幕府の無為無策に業を煮やした大勢の庶民が御所に
集まり、天皇に救済を求めたところ、畏くも光格天皇は所司代を通して幕府
に被災民の救済を命じあそばせ、幕府は慌てて勅命を奉じ、救済米を放出し
ました。今上陛下は、光格天皇の御直系にておわします。
阪神淡路大震災において、当時の社自連立内閣の無為無策の中、今上陛下は
国母とともに被災地を御慰問あらせられ、被災地の人々に仁慈を垂れさせたまい
ました。今般の震災において、両陛下は東京の避難所のみ御慰問させたまいまし
たが、東京の避難所のみというのは両陛下の御意志ではなく、放射線を怖れた
宮内庁が本当の被災地への御慰問を止めたのです。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/201 東横堀川水門 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110331ddlk27070389000c.html
◆大阪市中央区
◇ラジアルゲートとマイターゲート
◇水位そろえば青信号 船舶通航に水量調整
高麗橋の南側に、東横堀川の流れをせき止めるようなブルーの遮蔽(しゃへい)物が横たわっている。00年11月に供用が開始された東横堀川水門だ。
最近、土佐堀川から東横堀川、道頓堀川、木津川を巡るリバークルーズが人気で、この水門を通る船は増えており、昨年度は約9200隻が通航した。道頓堀川から木津川に出るところには道頓堀川水門がある。
私も何度か船でこの水門を通ったことがあるが、信号があったり水が飛び出したりして、ちょっと面白いのだ。水門を操作している市の東横堀川水門管理事務所を訪ねた。
遮蔽物のようなのはラジアルゲートという水門だ。船が土佐堀川から入ってくると、赤信号がともっていて、高麗橋の手前で一時停止。川岸の両側から放水が始まる。いわば遮断機の役目だ。ラジアルゲートは半円形で、高さは約8メートルある。水上に出ているのは約2メートルで、全体の形は見た目ではわからない。これが水中に横たわる形で沈んでいく。完全に沈んだら放水がやみ、青信号に変わる。
あとは進むだけ−−と思いきや、もう一つ水門が。ラジアルゲートの約50メートル先にはマイターゲートがあり、通常は開いているが、船が通るときはあらかじめ閉められている。ここにも信号があり、赤で停止。後方ではラジアルゲートが水中から浮き上がってきて、船は前後を水門で挟まれ、50メートルプールに浮いている状態になる。
なんでこんなことをするかというと、土佐堀川と東横堀川の水位が違うからだ。取材に訪ねた時は土佐堀川が1・57メートル、東横堀川が1・2メートルで、土佐堀川が37センチ高かった。東横堀川−道頓堀川は水門の調整で水位を一定に保っているが、土佐堀川は大阪湾の干満の影響で水位が変わる。水位差は満潮時で40〜50センチ、大潮の時などは最大で1・2メートル。時には土佐堀川の方が低くなることもある。
これでは船が通れないので、プール状態にして水量を増やしたり減らしたりして、東横堀川の水位に合わせるわけだ。プールと東横堀川の水位が合わないとゲートが開かない仕組みになっている。いわゆる閘門(こうもん)で、毛馬の閘門も同じシステムだ。水位がそろうと、マイターゲートが開いて信号が青になり、船は東横堀川に出る。この間6〜10分。ほぼ直角に道頓堀川に曲がる所にはカーブミラーもある。
水門のもうひとつの大きな役割は水質浄化だ。川の汚染度を示すBOD(生物化学的酸素要求量)は、東横堀川の場合、昭和40年代は基準値の10倍以上の、1リットル当たり36ミリグラムだったのが、近年は同2・2ミリグラムと大幅に改善された。モクズガニやウグイ、ウナギのほか、清流でないと生息できないコウライモロコも確認されている。
ところが、東横堀川と土佐堀川の合流点からすぐ上流に注ぎ込む寝屋川は汚れている。BODが同7〜8ミリグラムもある寝屋川の水を入れないようにするのが浄化のポイント。水門を閉めっぱなしでは水質は悪くなるので、船が通る時以外にも水門を開けて新しい水を入れるのだが、これが上げ潮の時。潮が川をさかのぼってくるので、寝屋川の流れは押し戻され、東横堀川には入ってこないからだ。水位は上がるから、下げ潮の時は道頓堀川水門を開けて水位を戻す。
操作室には朝9時から夜10時まで、職員が2人体制で詰める。水門を通るには通常は3日前までに申請が必要だが、緊急の場合もある。築港にある水上警察署が、大川の上流で起きた事件で駆けつける時は、舟艇が道頓堀川から東横堀川を通る。土佐堀川や堂島川は船が通れない低い橋があるためだ。
特別に水門を開けてもらった。沈むラジアルゲートを指して職員が「幅が22メートルあって、船舶を通す水門としては日本一です」と教えてくれた。そのゲートの上をアオサギが闊歩(かっぽ)していた。【松井宏員】
-
竹本源大夫・鶴澤藤蔵さん親子同時襲名披露
http://www.sankei-kansai.com/2011/04/03/20110403-051405.php
文楽太夫の人間国宝、竹本綱大夫改め九代目竹本源大夫(げんだゆう)さん(79)と、長男で実力派三味線の鶴澤清二郎改め二代目鶴澤藤蔵(とうぞう)さん(46)の襲名披露公演が2日、大阪・日本橋の国立文楽劇場で初日の幕を開け、文楽では珍しい親子同時襲名に大勢の観客が駆けつけた。
新・源大夫さんは病気療養のため、襲名披露演目「実盛物語」は休演したが、「口上」には出演。親子を真ん中に、竹本住大夫さんら文楽三業の代表があいさつ、最後に2人が神妙に頭を下げると、客席から大きな拍手がわき起こった=写真。この日、同劇場の2階ロビーでは、人形遣いの人間国宝、吉田簔助さんらが人形を持って東日本大震災の義援金を募った。公演は24日まで。
2011年4月3日
-
<削除>
-
自然美を凝縮 吉向焼九世・松月さん個展
2011年4月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110405/20110405026.html
吉向(きっこう)焼の九世当主、吉向松月さん(57)=交野市=の個展が、大阪府守口市の京阪百貨店守口店6階の京阪美術画廊で開かれている。陶器と日本画が融合した色鮮やかな創作品など約80点が展示され、来場者を引き付けている。入場無料。6日まで。
吉向焼は大阪の十三の地で発祥し、200年以上の歴史がある。伝統的な京焼の流れをくみ、明るい色薬が特徴。現在は窯を交野市に移している。
窯元では、代々の当主が「松月」の名と伝統の茶器製法を受け継ぎながら、新たな作品を生み出した。九世の松月さんは、学んだ日本画などを生かし、作品の表面に自然の美しさを描く。松月さんは大阪工芸協会の常務理事も務めている。
会場には、春に合わせて満開の桜を表面に描いた茶わん「さくら」や花器「山水」などを飾る。東日本大震災の復興支援チャリティー作品も展示。「夜明け」をテーマに制作した陶額と茶わんだ。
松月さんは「材料の土は大地の恵み物。この自然の物から創作意欲をもらっている。見て楽しい、使って楽しい、癒やしのある作品を並べています」と来場を呼び掛ける。
午前10時〜午後8時(最終日は午後4時まで)。問い合わせは電話06(6994)1313、同店京阪美術画廊へ。
-
南堀江の寺で「花まつり市」−フリペ専門店から有機野菜まで
http://namba.keizai.biz/headline/1781/
南堀江の萬福寺(大阪市西区南堀江1)で4月9日、手作り雑貨や古本、カレーとチャイ、有機野菜の店などが出店する「花まつり市」が開催される。同イベントは、萬福寺と背中合わせに立つビルの1階でオルタナティブスペース「Pulp」を運営する「PulpPictures」との共同企画。
400年以上の歴史を持つ同寺は、「島之内の萬福寺さん」として古典落語「親子茶屋」にも登場する浄土真宗本願寺派の寺。1958(昭和33)年に島之内(現在のアメリカ村)から現在の場所に移転した。同寺ではお参りや恒例行事のほか、1992年には「寺子屋プラバー」を発足し、文化教室や落語会、ライブなどの文化イベントを開いている。
Pulp Pictureが同寺でイベントを行うのは、昨年7月に開催したPulpのオープニングイベント以来2回目。メンバーの石原拓磨さんは「街の中にあるお寺だからこそできることがある。今回の共同企画が、『もっと外に向けて開かれたお寺に』という住職の思いと『街のいろいろなコミュニティーをつなげる空間に』というPulp Picturesの思いを形にするきっかけになれば」と話す。昨年の夏から行われていた改装工事が3月でほぼ終わりを迎えたため、今後は同寺を舞台に定期的にイベントを開催する予定だという。
釈迦(しゃか)の誕生を祝う4月8日の恒例行事「花まつり」に合わせて行う同イベント。境内の大広間や中庭を使って、ジャンルも活動拠点もさまざまな16組が一日限りの市場を開く。飲食は、有機野菜(2組)、カレーとチャイ、鹿料理とおにぎり、ジュース(以上各1組)の計5組。服飾品は、アクセサリー(3組、うち1組はジュース店を兼ねる)、服飾雑貨(2組)、帽子、小物(以上各1組)の計7組。そのほか、フリーペーパー、古本、本、紙と切手、家具(各1組)も。
「堀江に住んでいる人、堀江で買い物中の人、堀江をたまたま通りかかった人…いろいろな人に楽しんでもらえるイベントにしたい。開花予報によるとちょうど桜が見頃を迎えそうなので、お花見に出かけたついでにお寺に寄ってもらえたら」と石原さん。
開催時間は11時〜18時。入場無料。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/202 思案橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110407ddlk27070419000c.html
◆大阪市中央区
◇右か左か、どっち行こ 敵を防ぐ「五」の字の道 西詰めに名残のT字路
東横堀川水門のあたりは、岸辺が遊歩道として整備されている。ここからだと、高麗橋のアーチ形の形状がよくわかる。遊歩道には釣り糸を垂れているおじさんや、ベンチに腰掛けてぼーっとしてるおじさんがいたりして、のんびりしたものだ。
高麗橋の南に架かっているのが平野橋。川面に、アーチが対称に弧を描いている。大阪案内人の西俣稔さんと南へ歩く。「なんで平野橋というか」。このあたりが平野町だから? 「それは御霊神社が、京都の平野神社と共通するところがあったからです」
平野橋の通りをまっすぐ西へ行くと、御霊神社がある。ここにまつられているのが百済氏出身の早良(さわら)親王で、同じ百済氏をまつる京都の平野神社にちなんで名付けられたという。
「大塩平八郎の乱で、戦いの舞台にもなっているんです」と西俣さん。1837(天保8)年の大塩の乱は1日で鎮圧された。平野橋の東詰めで大塩党は幕府方に敗走している。
このかいわいは今では何の変哲もないオフィス街だが、江戸時代は「にぎわい言うべくもあらず」と記される繁華な街だった。西に御霊神社、東に神明神社があって、門前には盛り場がつきものだった時代だ。現代の大阪は御堂筋や堺筋など、南北の「筋」が目抜き通りになっているが、江戸時代の大坂は東西の「通り」が中心で、ことに平野町は夜店も出て明治の末ごろまでにぎわっていた。
大坂三郷の一つ、北組の自治組織である惣会所(そうかいしょ)があったし、明治時代には此花館という寄席もあった。堅いところからやわらかいところまでそろっていたのだ。
◇
さらに南へ。大手橋は、コンクリートの欄干に90年に戦前の照明灯が復元された趣ある橋だ。「昔は思案橋と呼ばれてたんです」。そっちの方が趣がありますがな。なんで思案橋?
すると西俣さん、西詰めに立って「突き当たるでしょ」。確かにT字路になっている。「だから、右に行こか左に行こか思案するわけ」。東詰めにある銘板によると、ほかに豊臣秀吉に橋の名前を考えろと命じられ、思案したからという説もある。思案したのは五奉行の一人、増田長盛とも、とんちで名高い曽呂利新左衛門ともいわれる。
大手橋と名を変えたのは大正時代のこと。大阪城の大手門に通じるから。「江戸時代に大手橋という名前なら、敵に、城に通じると教えるようなもの。城下町は五の字に道を作るんです。袋小路、カギ形、T字。複雑に入り組ませて、攻め込みにくくしてるわけ」
その名残が西詰めのT字路なのだ。橋そのものは1926(大正15)年に木製から今のコンクリート製に架け替わった。
ただ、橋の上には自転車が鈴なりに止まっていて、これはいただけない。せっかくの趣が台無しだ。【松井宏員】
-
150年前の安政地震、大阪にも大津波 被害伝える瓦版公開
2011.4.9 16:23
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110409/dst11040916280042-n1.htm
安政元(1854)年の安政南海地震による津波で、大阪市西部が水没するなど関西でも大きな被害が出たことを伝える瓦版が、大阪城天守閣(同市中央区)の「瓦版にみる幕末大坂の事件史・災害史展」で公開されている。
瓦版の絵図によると、木津川や安治川の河口に停泊していた千石船が津波で河川を逆流。橋を次々に破壊しながら内陸の道頓堀まで運ばれ、「(けが人や死者は)数知れず」と記されている。
産業技術総合研究所の寒川旭招聘研究員(地震考古学)によると、12月23日に安政東海地震(マグニチュード8・4)が発生。翌日連動して南海地震(同)が起きた。大阪ドームやJR難波駅の周辺は「いずれも水入、白海のごとく」とあり、現在なら地下鉄や地下街に水が流れ込み、多くの人が巻き込まれた恐れがある。同展は5月8日まで。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/203 天野屋利兵衛の碑 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110414ddlk27070450000c.html
◆大阪市中央区
◇作られた「義〓の人」 戦雲暗い1939年建立、銘は近衛文麿
大手橋の東詰めを南へ歩くと、東横堀川沿いに茶色の巨石が鎮座している。近寄って、よくよく見ると「義〓(ぎきょう) 天野屋利兵衛之碑」と刻まれている。
天野屋利兵衛とは、浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」などでおなじみ。海産問屋を営んでいた大坂の商人で、赤穂藩に出入りしていた関係で大石内蔵助に頼まれ、討ち入りに用いるやりなどの武器を調達する。しかし、発注した鍛治屋に密告されて奉行所に捕らえられ、拷問にあうも「天野屋利兵衛は男でござる」と叫んで口を割らなかった。討ち入りが果たされると、奉行所は利兵衛の義〓心に免じて命は助け、京に追放する−−。
ここに碑があるところをみると、利兵衛の屋敷は大手橋(思案橋)のたもとにあったのだろう。
岡山県西粟倉村のホームページに「男でござる天野屋利兵衛」という民話が紹介されている。事業に失敗し倒産した利兵衛に赤穂藩が救いの手を差し伸べ、特産の塩を扱わせたので天野屋は再び栄えた。そして刃傷松の廊下。主君のあだ討ちを誓った大石内蔵助は、頭を下げて、討ち入り用に刀身が短く幅が広い刀の調達を利兵衛に頼む。利兵衛は「私ごときに」と涙を流して引き受ける。かつて扱った品の中に、良質の鋼があったことを思い出した。それが若杉の村。いまの西粟倉村で、湯治の名目で刀鍛治職人とともに山村に泊まり込み、刀造りを監督した−−。
男と男の厚情、ここに極まれり、というお話だが、実はすべて後世の作り話で、利兵衛も実在の人物ではないというのが定説になっている。
ところが、利兵衛のモデルではないかと話題になった人物の墓がある。谷町筋から一本西に入ったお寺が並ぶ中央区中寺1の薬王寺。ここは「大阪史蹟辞典」で三善貞司さんが「古墓の宝庫」と書いているように、江戸時代の名優、中村富十郎や片岡仁左衛門、岩井半四郎、嵐雛助(ひなすけ)ら、そうそうたる顔ぶれが眠っている。
くだんの墓は天川屋(あまかわや)利兵衛なる商人のものだ。案内してくれた藤田文明住職(68)が指さしたのは、小ぶりのもので、表には「妙法宗利日貞霊」、側面には「享保三年」と没年が刻まれている。享保3(1718)年は、赤穂浪士討ち入りの16年後にあたる。「無縁仏になっていたのを、大阪赤穂義士会が見つけたんです」と住職が説明してくれる。それが昭和15(1940)年のこと。「今も子孫が京都におられ、年に1回はお参りされてます」という。
三善さんの「大阪人物辞典」によると、天川屋は代々、町政に携わる町年寄を務めており、利兵衛は2代目の娘婿。だが義父より25年も早く亡くなっている。芝居の登場人物と音が似ており、早世だったことから尾ひれがついたのではないか、と三善さんは推測している。
薬王寺にはもう一つ、忠臣蔵ゆかりの人物の墓がある。赤穂浪士の一人、大高源五だ。砂岩の墓はかなり崩れているが、「刃無一釼信士」と刻まれていたようだ。「大阪人物辞典」によると、この墓は天川屋利兵衛の子孫が建立した。
◇
大手橋に戻る。天野屋利兵衛の石碑が建てられたのは、天川屋の墓が見つかる前年の昭和14(1939)年。銘はこの年の正月早々、首相を辞したばかりの近衛文麿の筆になる。1937年、日本は日中戦争に突入し、38年には重慶爆撃を開始。広大な大陸での戦争の泥沼にはまりこもうとしていた。さらに39年5月には、日本の生命線とされた満州の国境でソ連軍と衝突するノモンハン事件が起きている。
戦雲が日本を包み込もうとしていた時に、利兵衛の碑が建立された。しかも、そういう国をつくったリーダーたる前首相の筆で。義〓の人というのは、きなくさい時代に愛国の象徴として利用される。この碑もその口だと考えるのが自然だろう。【松井宏員】
-
世界最古の企業「金剛組」、手斧始め式が文化財に 578年創業
2011.4.14 08:59
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110414/biz11041409050009-n1.htm
西暦578年創業で「世界最古の企業」といわれる社寺専門建設会社「金剛組」(大阪市天王寺区)が仕事始めの儀式として毎年正月に行っている「四天王寺手斧(ちょんな)始め式」が、大阪市の無形文化財に指定された。
「手斧始め式」は、1月11日に四天王寺金堂内で正大工(しょうだいく)の称号を持つ金剛家当主=現在は39代目金剛利隆相談役(86)=をはじめ社員、宮大工が古式の衣装で原木から柱を切り出す大工仕事を模した作法を行い、その年の工事の安全を祈る。一般には公開されていない。
営業企画部の花尻千秋さんは「金剛組は、聖徳太子によって建立された四天王寺のおかげで1400年の長い歴史を歩んできました。貴重な伝統をより実りあるものとして次代に伝えるよう努力していきます」と話していた。
-
大阪城に大規模な鍛冶工房跡 豊臣方、夏の陣で利用か
http://www.asahi.com/national/update/0415/OSK201104140161.html
豊臣秀吉が築いた大坂城跡(大阪市中央区)の南側から、刀などの鉄製品を製造する大規模な鍛冶(かじ)工房跡が初めて見つかった。一度に6基もの鍛冶炉が出土する例は珍しい。14日、大阪市教育委員会と市博物館協会大阪文化財研究所が発表した。大坂夏の陣(1615年)を前に豊臣方が軍事的に利用した可能性もあるという。
見つかったのは、現大阪城が立つ上町台地の東斜面にある住宅予定地で、旧大坂城三の丸南部と推定されている地域。
豊臣時代後期(1598〜1615年)の遺構で、東西15メートル、南北4〜5メートルの敷地に三つの工房が並び、鍛冶炉が2基ずつ、計6基あった。ふいごの羽口が設置された状態の炉もあり、炉の周りには焼き入れ用とみられる長方形の水槽(長さ約1メートル)、送風管らしき竹筒なども出土した。
市博物館協会は「豊臣方の勢力が設置した工房だろうが、城外郭の軍事的な重要地点だけに、大坂城普請のために近隣に屋敷を構えた大名が土木用のくわなどを作る工房として設置した可能性もある」としている。
現地公開はしないが、出土品を16、17日午前9時30分〜午後4時30分、大阪市中央区大手前4丁目の大阪歴史博物館(06・6946・5728)で無料公開する。(大脇和明)
-
泥に負けずコイ掲揚 ボーイスカウト団員ら
2011年4月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110415/20110415022.html
「御田植神事」などが行われる住吉大社(大阪市住吉区住吉2丁目)の御田で10日、近隣のボーイスカウトの団員たちがこいのぼりを揚げる作業に取り組んだ。青空の下、色とりどり約50匹のコイが揚げられ、悠々とたなびいていた。ゴールデンウイーク終わりごろまで掲揚される。
同所で24日に開かれるイベント「レンゲdeすみ博」の一環。神社が区民から寄贈されたこいのぼりを昨年から揚げている。ボーイスカウト大阪第123団(山本哲団委員長)の団員約50人が参加し、作業に当たった。
レンゲ畑となった田んぼの中は前日の雨でぬかるんでおり、団員たちは悪戦苦闘。春の暖かな日差しの中、泥を顔につけて走り回る子どもたちの姿も見られた。
香山莉子さん(13)は「こいのぼりの尻尾に泥がつかないように作業するのが少し大変」、同じく谷島温音さん(12)は「レンゲがとてもきれいで春が来たという感じ。こいのぼりといっしょに楽しんで」と話していた。
-
なるほドリ:造幣局の「桜の通り抜け」ってどんな行事? /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110416ddlk27070389000c.html
◇大阪の風物詩、明治16年から一般に開放
なるほドリ 造幣局の「桜の通り抜け」(14〜20日)ってどんな行事なの?
記者 通り抜けは1883(明治16)年から始まった大阪に春の到来を告げる風物詩です。当時の造幣局長が「局員だけの観桜だけではもったいない」と一般開放を始めたそうです。局の南門から北門への約560メートルを歩き、沿道に咲く桜を楽しみます。例年70万人程度が訪れています。桜は毎年増えていて、今年は昨年より1品種増の128品種352本。静岡県の寺院名を冠した桜「伊豆最福寺枝垂(しだれ)」が加わりました。東日本大震災を受けて夜間ライトアップが中止になったので注意が必要です。平日は午前10時〜午後5時(土曜、日曜日は午前9時から)。会場には、被災地支援の募金箱も設置されます。【社会部・稲垣淳】
-
まなびやの宝:/46 日本近代水泳発祥之地 府立茨木高校 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110416ddlk27070386000c.html
◇伝統と実績、今も受け継ぐ
茨木市新庄町の府立茨木高校。阪急京都線の車窓からも見える正門を入ってすぐ左に、「日本近代水泳発祥之地」と刻まれた石碑が建つ。その名にふさわしく、公立高校では珍しい長水路(50メートル)の屋内プールがあり、伝統を受け継ぐ水泳部は、水球で全国大会にも出場する強豪だ。
同校は1895(明治28)年、大阪府第四尋常中学校として創立。同窓会や水泳部の記念誌によると、大正天皇の即位を記念して体育強化をと、1915(大正4)年9月に水泳場の造成が始まった。ただし、生徒らの手作業。文豪、川端康成もその一人とされ、「ノーベル賞作家もプールを掘った」と逸話が残る。近くの川から水を引き込み、翌16(大正5)年2月にお目見えした。水泳部も同年発足。大正末から昭和初期には、飛び込みや水球も始める。
戦前に五輪選手も輩出した栄光のプールは、全国初の学校プールで、学校体育で初めてクロールが教えられた場所でもあるという。この二つの「初」で85年、日本水泳連盟は碑文として「日本近代水泳発祥之地」を使うことを同窓会に認め、記念碑が建立された。
95年に完成した現在の屋内プールは3代目。97年のなみはや国体で水球会場となった。立派な施設を独占するのはもったいないと、中学生が参加する記録会「茨木高校杯」を年2回開催しており、今春で第32回となる。
水泳部OBで現在顧問の木場恒樹教諭(39)は「インターハイに出るだけでなく、出て勝てるように」と指導。副主将の平瀬智大君(17)は「こんなにいい環境で練習できるのも先輩方のおかげ。その伝統と実績を超えられるよう頑張りたい」と話している。【八重樫裕一】
-
2011年4月16日
「愛染女組」7人と「愛染娘」10人募集 6月30日から愛染まつり
http://www.sankei-kansai.com/2011/04/16/20110416-051847.php
大阪三大夏祭りの一つに数えられる愛染堂勝鬘院(しょうまんいん)(大阪市天王寺区)主催の「愛染まつり」が、今年も同寺周辺で6月30日〜7月2日に開催されるのに合わせ、愛染堂では、祭りを盛り上げる「愛染娘」と「愛染女組」を募集している。
聖徳太子ゆかりの愛染堂周辺で開かれる愛染まつりは、夏を告げる風物詩として親しまれ、愛染娘を乗せたかごが大阪のまちを練り歩く「宝恵かごパレード」は人気行事の一つ。
愛染堂では、浴衣姿でかごに乗る愛染娘10人と、ハッピ姿でかごを担ぐ愛染女組の7人を募集(いずれも18歳以上の女性)。愛染娘は、浴衣を自分で着る、または、着付けをしてくれる人がいることが条件。
履歴書に、いずれかの希望と必要事項、特技を明記し、顔写真と全身写真を添えて、郵便番号543―0075 大阪市天王寺区夕陽丘町5の36「愛染堂」まで郵送(5月10日消印有効)する。問い合わせは、愛染堂(電話06・6779・5800)へ。
-
2011年4月15日
国宝特別公開巡る 無料シャトルバス 17、18日に河内長野市
http://www.sankei-kansai.com/2011/04/15/20110415-051797.php
大阪府河内長野市は、天野山金剛寺と観心寺で17、18両日、国宝などが特別公開されるのに合わせ、両寺を巡る無料のシャトルバスを運行する。
金剛寺では国宝の剣(平安時代)や修復中の金堂(重要文化財)の作業現場など、観心寺では、木造如意輪観音坐像(平安時代)などを特別公開する。
シャトルバスは、午前10時半から午後4時まで、観心寺〜金剛寺〜河内長野駅を運行する。問い合わせは市観光協会事務局(電話0721・53・1111)。
-
上方舞・山村流:芸と歴史紹介−−大阪歴史博物館 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110417ddlk27040299000c.html
「上方舞・山村流」が大阪歴史博物館(大阪市中央区)で開催されている。大阪で生まれ育った伝統の舞、山村流の豊かな芸と歴史が紹介されている。
山村流は、上方歌舞伎の役者から振付師に転向し、名優、三代目中村歌右衛門(1778〜1838)に重用された山村友五郎(1781〜1844)が興した舞の流派。地歌のしっとりした座敷舞と、華やかな歌舞伎舞踊とが伝承されているのが大きな特長だ。
今回の展示はいわゆる島之内家として続いてきた山村流宗家所蔵の品が中心。三代目歌右衛門の浮世絵、初代市川右団次(後の斎入(さいにゅう)、1843〜1916)が使った三ツ面など、普段は見ることのできない貴重な資料だ。三ツ面は「仕丁(じちょう)」という曲に使われる笑い上戸、泣き上戸、怒り上戸の3種類の面。これを一人で使い分けて踊る。02年、この面を使って現六世宗家、山村若が約40年ぶりに復活上演した。その他計約60点を展示。
4月23日、5月21日には山村流舞の会が開催される。大人600円。5月23日まで。同館(06・6946・5728)。【宮辻政夫】
-
文楽:近松門左衛門の演目「女殺油地獄」解説 豊竹咲大夫さんら、本など作製 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110417ddlk27040294000c.html
近松門左衛門の名作で文楽の人気演目「女殺油地獄」を多面的に解説した本「近松門左衛門名作文楽考(1) 女殺油地獄」が刊行された。文楽大夫、豊竹咲大夫さんの芸談「女殺油地獄考」とDVD、さらに近松と当時の大坂の風俗とを研究している合名会社「神宗(かんそう)」代表社員、尾嵜彰廣(おざきあきひろ)さんの「女殺油地獄ガイド」の3部構成。近松の世界を文章、芸、風俗などの面から立体的に鑑賞できるユニークな本だ。
「女殺油地獄」は江戸時代の1721年に初演。油屋の息子与兵衛が、放蕩(ほうとう)の果て金に困り、世話になっている油屋仲間の豊島屋女房お吉を殺す。1962(昭和37)年、当時の名人、八世竹本綱大夫と三味線の十世竹沢弥七が復活。高い評価を得、文楽の人気演目になった。
咲大夫さんは父綱大夫から引き継ぎ、今は自身の代表作の一つ。芸談の中で咲大夫さんは与兵衛に与えようと持ってきた金を母が落とす場面について「落ちたは何ぞ」の後、三味線が「チリチーン・シャン」と弾く手(譜)を採り上げ、実際は「滑稽な時に使う曲です」と解説するなど細かい芸の秘密を紹介。
尾嵜さんの「女殺油地獄ガイド」は、当時(享保5年)の貨幣制度のほか株仲間や町年寄の仕組み、大坂商人の節季や風習など大阪に生まれ育った商人ならではの知識を披露している。
DVDは昨年、咲大夫さんが自身の会で語った素浄瑠璃を収録。三味線は鶴沢燕三さん。咲大夫さんは大夫の最高位「切場語り」の一人で昨年度の国立劇場文楽大賞を受賞。24日まで国立文楽劇場で「女殺油地獄」を語っている。
講談社刊。2940円。【宮辻政夫】
-
佐野の遺跡から東大寺の瓦
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005379711.html
大阪・泉佐野市の遺跡から鎌倉時代に奈良の東大寺を再建した際に使われたものと同じ瓦が見つかり東大寺の瓦の製造地だった可能性があるとみて注目されます。
瓦が見つかったのは泉佐野市の安松田遺跡です。
府営住宅の建て替えに伴って大阪府教育委員会がおととし発掘調査を行ったところ12世紀から14世紀にかけての瓦や破片が1000点以上見つかりました。
このうちの一枚は縦が約42センチ横が34センチ、重さが7.5キロと通常の瓦の2倍以上で大きさや、瓦を固定する釘穴の位置などが奈良・東大寺の旧境内から出土した瓦と一致したということです。
遺跡からは瓦の原料となる粘土を取り出した穴が100カ所以上見つかっていて、府の教育委員会では遺跡で東大寺の瓦が作られていた可能性が高いとしています。
東大寺は、西暦1180年の争乱で焼き討ちにあったあと再建されていて、今回見つかった瓦は、大仏殿や南大門など主要な建物が再建された時代と同じものだということです。
東大寺の再建には、岡山県や愛知県の瓦が使われていたことが知られていますが、大阪で確認されたのは初めてで、寺と泉州地域との関わりを研究するうえで貴重な資料として注目されます。
04月20日 07時07分
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/204 西町奉行所址 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110421ddlk27070367000c.html
◆大阪市中央区
◇大火「妙知焼」で移転 お白洲のお裁きだけじゃない、民政・消防・警察も奉行の仕事
大手橋から、天野屋利兵衛の碑を過ぎると、左手にホテル「シティプラザ大阪」と展示場「マイドームおおさか」が現れる。ここは大阪コクサイホテルの跡地になる。
マイドームおおさかの玄関脇の植え込みに「西町奉行所址」の碑が建っている。江戸の町奉行は南と北だが、大坂は西と東。そもそもは大坂城の京橋口に東西に並んで奉行所が設けられたからだが、1724(享保9)年の大火で焼失したため、京橋口には東町奉行所を再建。ここに西町奉行所を移転した。
この大火は、妙知というおばあさん宅が火元だったので「妙知焼」と呼ばれ、大坂市中の3分の2が焼けた。火事場泥棒が横行したが、取り締まる側の肝心の奉行所が焼けたので、手をこまねいているしかなかったという。
つい数年前まで、私は管轄地域によって奉行所が分かれているのだと思っていたが、さにあらず。1カ月ごとに当番が代わる月番制で、民事訴訟を受理していた。
だいたい、町奉行というと、徳川吉宗の享保の改革を支えた大岡裁きの大岡越前守忠相や、「この桜吹雪に見覚えがねえとは言わせねえぜ」とタンカを切る遠山の金さんこと、遠山金四郎景元ら、時代劇のスターが頭に浮かぶ。しかし、お白洲でのお裁きばかりが奉行の仕事ではない。大坂の民政や消防、警察など、いわゆる行政と司法を担っていた。今でいうなら、裁判長と府知事と府警本部長を一人で兼ねているようなものだ。
奉行の下には与力が30騎ずつ、同心が各50人いた。大塩の乱を起こす大塩平八郎は東町奉行所の与力だったし、もっと有名どころでいえば中村主水だろうか。もっとも、こちらは故藤田まことさんの当たり役のテレビドラマ「必殺シリーズ」の与力だけれど……。
天満の与力町、同心の地名は、ここに与力、同心が住んでいたことを示している。
◇
大坂のお奉行で名奉行の誉れ高いのは、佐々木顕発(あきのぶ)だ。落語ファンには「佐々木裁き」という噺(はなし)でおなじみ。落語では西町奉行になっているが、幕末の1852(嘉永5)年から5年、東町奉行を務めた。
「佐々木裁き」は、町中を見回っていたお奉行が、子どもたちの「お裁きごっこ」に出くわすところから始まる。奉行役の子どもが「佐々木信濃守」を名乗っているのを聞いて、部下がやめさせようとするのを押しとどめたお奉行、子どもの裁きを見守り、のちほど奉行役の四郎吉を奉行所に呼び出す。
親や町役は震え上がるが、本人は平気でお奉行の問いに答えていく。「星の数を知っておるか」と問われ、「ほな、お白洲の砂の数を知ってはりまっか」と返し、「ついたての仙人の絵が何をしゃべっておるか、尋ねてまいれ」には「佐々木信濃守はあほやなあ言うてました」。怒ったお奉行を「絵に描いたもんがしゃべるわけないのに、聞いて来いやなんて」とやりこめる。物おじしない度胸と利口さに、お奉行はのちに四郎吉を引き取って与力に育てあげた−−。
佐々木顕発は、下級武士の出だったが、異例の出世を遂げた人物で、「久しく司法の職にありて出色の誉れあり」と評された。そういう出自が大坂の町人の心をくすぐり、職人のせがれの四郎吉を取り立てるという噺が生まれたのだろう。
◇
名奉行の誉れ高いのは1人や2人どころではないが、もう一人、1783(天明3)年から9年も東町奉行を務めた小田切直年を紹介しておこう。つい最近、講談社文庫から発刊された松井今朝子さんの「そろそろ旅に」に登場している。
同書の主人公は「東海道中膝栗毛」を著した十返舎一九。駿府(今の静岡)の下級武士だった一九は、駿府町奉行を務めた小田切に可愛がってもらったので、小田切を頼って大坂へやって来て家来になる。物語中では、清廉潔白な小田切の人物像や、米屋の打ち壊しに手を焼くさまが描かれている。
小田切はその後、江戸町奉行の職に18年あった。これは大岡忠相らに次いで4番目の長さで、いかに幕府の信頼が厚かったかを物語っている。【松井宏員】
-
江戸時代のなにわ 展示会
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005460781.html
江戸時代、天下の台所としてにぎわったなにわの祭りや庶民の娯楽を当時の風俗画などで紹介する展示会が、きょうから大阪で開かれています。
この展示会は、大阪・北区の「大阪くらしの今昔館」が開館10年を記念して開いたもので、江戸時代のなにわの様子を描いた風俗画や版画など100点が展示されています。
このうち、「十日戎群集参詣図」は日本画家、生田花朝の作品で、大阪が商業の町として発展した江戸時代に盛んになったとされる今宮戎神社の十日戎の様子を描いています。
また、「関取二代鑑」は、芸をさらに磨こうと、江戸から上方にやってきた歌舞伎役者、五代目市川海老蔵の舞台を描いた役者絵で、海老蔵は上方でも人気が高かったということです。
展示会を企画した学芸員の深田智恵子さんは、「日常の何気ない暮らしの中に楽しみを見つけて心豊かに生きた人たちの姿に思いをはせてほしい」と話していました。この展示会は、来月29日まで開かれています。
04月23日 12時45分
-
重要文化財の「愛珠幼稚園」一般公開
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html#0368238
大阪市中央区では、築110年と国内で最も古く、重要文化財にも指定されている幼稚園の内部が一般公開されました。
オフィス街に位置し、屋敷や寺を思わせる建物。大阪市立愛珠幼稚園の園舎は、1901年に地元の人たちの資金で建てられ、国の重要文化財でもある国内最古のものです。天井の高い遊戯室には、シャンデリアが輝き、当時珍しかったドイツ製のピアノや110年間時を刻む時計があります。また、重要文化財の滑り台などもあり、人々の教育への心意気を伝えます。見物に来た人は「大事にいつまでも残して欲しいと思います」と話し、卒園生の男性は「わあ凄い作りやな、ここはと、きょうは思いました。小さい時はそんなこと全然気付かなかったですけど」と笑顔を見せていました。公開は、ことしの秋頃にも予定されています。
-
野田藤ついに開花 宇和島から里帰り11年目
2011年4月25日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110425/20110425021.html
太閤さんも見た野田藤が復活!−。
「吉野の桜、野田の藤、高尾の紅葉」。鎌倉時代から和歌にその美しさを詠まれてきた玉川春日神社(福島区玉川2丁目)の野田藤。江戸時代に同神社から愛媛県宇和島市に持ち帰られた苗木が、2000年に“里帰り”して11年目の今年、初めて花を開かせた。本家・春日神社の野田藤は戦災に全焼しており、時空を超えた復活劇に地域住民は感激に浸っている。
豊臣秀吉が千利休を連れて見物に訪れるほど栄華を誇った野田藤は、戦後ほとんど絶滅状態となった。1971年ごろから地域住民らによる接ぎ木など積極的な再生活動が展開され、現在は区内各地で花を咲かせ、区の花に認定された。
宇和島市の「天赦園」から里帰りした苗木は、住民グループ「のだふじの会」幹事の広岡忠雄さん(72)を中心に丹精込めて育ててきた。
神社はマンションに囲まれ、日照時間は短い。広岡さんは専門書を読み、地道に剪定作業を続けてきた。開花しているのを見つけた瞬間、「感激して涙が出た」と振り返る。
野田藤は連日の気温の低さもあり、現在は3〜5分咲き。今週末には見頃を迎える予想で、満開時には70〜80センチの長さになる見込み。玉川春日神社総代の藤三郎さん(72)は「条件が悪い中で咲かすのは大変だった。今後は野田阪神駅前など公共性の高い場所の藤棚を咲かせていきたい」と話している。
-
情報プラザ:大阪城天守閣復興80周年記念 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110426ddlk27040418000c.html
◇大阪城天守閣復興80周年記念「大阪城ファミリーフェスティバル2011〜奏でよう!踊ろう!日本を元気に!〜」
5月3日(火・祝)〜5日(木・祝)11〜17時、大阪城天守閣前本丸広場特設ステージ(地下鉄谷町四丁目駅・JR大阪城公園駅徒歩15分)。高校生による和太鼓や吹奏楽、大道芸、よさこい踊り、歴史トーク&クイズなど。雨天中止。参加無料(天守閣入館は有料)。同天守閣(06・6941・3044)。
-
■東大寺の瓦は「泉佐野産」
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE110426114800451364.shtml
大阪府泉佐野市の遺跡から鎌倉時代の東大寺再建に使われたものと形や素材が同じ瓦が出土し、26日から府立狭山池博物館で特別展示されています。
大阪府立狭山池博物館で26日から公開されている瓦は、縦42センチ、横34センチ、重さ7.5キロの巨大瓦です。
府の教育委員会がおととし、泉佐野市東羽倉崎町の安松田遺跡を発掘調査した際に見つかったもので、大きさや瓦を固定する釘穴の位置、粘土の成分などが東大寺の境内から出土した瓦と一致したということです。
「(瓦の)粘土の中に含まれている好物が一致したことがわかった。安松田遺跡で東大寺の瓦を焼いていた可能性が非常に高まった」(大阪府文化財保護課 三木弘主査)
東大寺は、源平の合戦で1180年に焼き討ちにあい、その後再建されていてその際に岡山県や愛知県で作られていたことは知られていましたが、大阪で確認されたのは初めてだということです。
(04/26 12:35)
-
河内長野「ふるさと学」スタート
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110427-OYT8T00061.htm
河内長野市の小中学校で今年度から、子どもたちに郷土史を学んでもらう「ふるさと学」の授業が始まる。教諭らが教材として使うオリジナルの教科書「かわちながの物語」を作成。大化の改新後の国づくりに貢献し、同市出身とされる遣隋使・高向玄理(たかむこのくろまろ)など、歴史の節目ごとに、市ゆかりの人物やエピソードを取り上げており、市教委は「河内長野から見た歴史を子どもたちに伝えたい」と話している。
授業は、小学5年生から中学1年生まで、3年間で計18時間を設定。これまでも郷土の産業や簡単な歴史を学ぶ授業はあったが、市内には国宝6点と重文77点があるほか、南北朝時代には一時期、同市に皇居があったことなどから、市教委は、さらに一歩踏み込んだ郷土の姿を知ってもらおうと「ふるさと学」を企画した。
教科書はA4判、60ページ、オールカラーで、小中学校の教諭らが昨年4月から10か月間かけて作成。旧石器時代から現代まで4章19項目で構成し、写真やイラストをふんだんに使い、中学生の「ヒロトくん」と「ユウナちゃん」のキャラクターも登場してわかりやすく解説する。
各章には「(幕末に尊王攘夷(じょうい)を唱えた志士らが集まった)天誅(てんちゅう)組も立ち寄った市内の宿場は?(答え・三日市宿)」「河内長野と弘法大師を結ぶキーワードは?(同・薬)」――などのクイズ集も設けた。巻末には簡単な日本史、世界史と比較した同市の年表も掲載している。
市教委は「時代ごとの古里を知ることで、より歴史が身近に感じられるはず。子どもたちが、誇りと愛着を持つきっかけになれば」としている。
1冊800円(税込み)。市役所や市内の主な書店でも販売する。問い合わせは同市教委(0721・53・1111)。
(2011年4月27日 読売新聞)
-
大阪城で「戦跡ウオーク」−園内に残る工廠・弾痕跡など巡る
http://kyobashi.keizai.biz/headline/914/
大阪城公園(大阪市中央区大阪城1)で4月23日、園内に残る戦跡などを巡るウオークイベント「戦跡ウオーク」が開催された。主催は日本セカンドライフ協会。
現役を退いたサラリーマンらの「生きがい」づくりを支援するため、企業・団体を越えて発足した同協会。講演会や工場施設見学、旅行・散策などさまざまなイベントを企画している。
今回は、陸軍唯一の大口径火砲の製造拠点だった大阪城近辺に残る戦跡を巡るツアーで、同協会関西地区運営委員の國司保夫さんと「ピースおおさか」(大阪城2)の常本さんらが企画した。講師に高校社会科教員の塚崎昌之さんを招き、砲兵工廠(こうしょう)跡碑や砲兵工廠化学分析場、中国製こま犬、弾痕の跡などを巡る。
塚崎さんは、1905(明治38)年〜1945(昭和20)年の40年間に発行された新聞3紙を読破した知識を生かして、年70回ほどウオークイベントの講師役を務めているという。当日は雨が降る中約20人が参加し、第四師団司令部庁舎だった戦争史跡の下には太平洋戦争時に地下通路が掘られた、などの塚崎さんの説明に聞き入っていた。その後、参加者らは「ピースおおさか」で戦争展示物を見学した。
参加者の坂本重貞さん(84)は「過去を振り返るのはちょっと抵抗があったが、進むにつれて懐かしく思った。ええ懐かしさではないけど…」と話す。「年とともに世間も狭くなってくる。現役時代は畑の違う人との付き合いはなかったから、元銀行勤めや製薬会社の人らと話すのは新鮮。これからも人間付き合いを大切にしたい」とも。
-
旧第四師団司令部庁舎は、1931年に建てられました。
昭和天皇の御大典(御即位)記念として、大阪城天守閣復興が企図され、市民から
集まった寄付金(当時の金額で150万円)から、關一市長が80万円を使って司令部
庁舎を建設しました(大阪城天守閣復興費用は47万円)。これは、關一市長の英断
です。なぜならば、当時の大阪城の域は軍用地であり、一般市民は立ち入り禁止
だったからです。そこで、關一市長は司令部庁舎を建設して陸軍に供用する代わり
に、大阪城の域を市民に開放し、現在の大阪城公園の元を造ったのです。
戦後、GHQの指令を受けて、1948年に第四師団司令部庁舎は大阪市警視庁となり、
1954年にこれが廃止された後は大阪市警察本部が置かれましたが、1年後の1955年
に大阪府警察本部に吸収されて廃止されました。その後、この建物は大阪市立博物館
として、1960年〜2001年まで使われました。
東宝映画『ゴジラの逆襲』では、大阪市警時代のこの建物でロケが行われました。
-
まなびやの宝:/48 考古資料 府立泉大津高校 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110430ddlk27070239000c.html
◇OBら収集、地歴部の誇り
府立泉大津高校(泉大津市)の考古資料室には、古墳時代の大型の船形埴輪(はにわ)(菩提池西遺跡)や珍しいひれ付き円筒埴輪(摩湯山古墳)など、同校OBらが収集した考古資料約100点が展示されている。イイダコ用のタコ壺(つぼ)(池上曽根遺跡)などユニークな遺物も。学校も七ノ坪遺跡という遺跡の上に建つ。
所蔵資料は、展示されている他にコンテナ300箱以上があり、同校地歴部が整理を進めている。地歴部は、1948年に創部。50〜60年代にかけて、信太千塚古墳群や学校近くに広がる弥生時代の環濠集落、池上曽根遺跡などの発掘調査に参加。同遺跡の保存運動にもかかわるなど、地域の文化財調査や保存に大きな足跡を残してきた。
現在は、発掘調査は行っていないが、学校のグラウンドで土器の野焼きを体験したり、京都や奈良へのフィールドワークを実施。府立弥生文化博物館と連携して、展示に参加するなど積極的に活動している。
同部2年の財部真里那さん(16)は「すごい遺物がたくさんあるのは、自慢。今後は発掘体験もしてみたい」。日向将希君(16)は「土器の模様や形を眺めていると、昔の人がどうやって作ったのか興味がわいてくる」と語る。顧問の平島将史教諭(51)は「今後は、OBや地域の方々との交流を通して、さらに活動を深めていければ」。
考古資料室は、予約制で一般公開している他、同校ホームページでは、所蔵資料の一部を紹介している。詳細は、同校(0725・32・2876)。【林由紀子】
-
2011年5月 2日
菩薩25体絢爛に「万部おねり」平野の大念佛寺
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/02/20110502-052376.php
大阪の春の風物詩「万部(まんぶ)おねり」が1日、大阪市平野区の融通念佛宗総本山大念佛寺で始まった=写真。5日までの毎日、阿弥陀経の流れるなか、観世音菩薩はじめ25体の菩薩による絢爛(けんらん)豪華なおねりが繰り広げられる。
「万部おねり」は、600年以上の歴史をもつという同寺の伝統行事で、大阪市指定無形民俗文化財。今年は例年の先祖供養や平和祈願などとともに、東日本大震災の物故者追善供養と復興祈願も行われている。
この日は雨天となり、特設のおねり回廊でなく、本堂の廊下での開催となったが、観世音菩薩を先頭に、普賢菩薩など金色に輝く25体の菩薩が次々と姿を現すと、その壮麗さに参詣者から歓声があがった。
-
GWに「大阪城ファミリーフェス」−映画「プリンセス トヨトミ」パネル展も
http://kyobashi.keizai.biz/headline/916/
大阪城天守閣前本丸広場(大阪市中央区大阪城1)で5月3日〜5日、「大阪城ファミリーフェスティバル2011」が開催される。
今年で7回目となる同イベントは毎年ゴールデンウイークに開催。例年ジャグリングやけん玉などの大道芸や高校生らの和太鼓、吹奏楽、さまざまなチームが参加するエネルギッシュな「よさこい踊り」などが行われる。
今年は大阪城復興80周年を祝うイベントとして「大阪城を知ってもらおう」と大阪城の歴史にまつわるトークショーやクイズなどを用意し、大阪市中央区のキャラクター「ゆめまるくん」も登場する予定。天守閣では5月28日公開の大阪を舞台にした映画「プリンセス トヨトミ」のロケ風景や映画のシーンなど収めた写真パネルも展示する。
今回は、東日本大震災を受けた支援活動を行う内容に変更。在阪民放4局のアナウンサーらが垣根を越えて募金活動を行うほか、関西演芸協会による義援金活動、演芸イベントなども予定する。
開催時間は11時〜17時。映画「プリンセス トヨトミ」ロケ写真パネル展は6月30日まで。
-
大阪史の本は少ないというのが現状です。もっと書かれ、出版されるべきです。
特に中世大阪史(中世というヨーロッパ史の区分を日本史に使うのは誤りですが)
については、もっと知りたいというのが私の願いです。
一国の国民が身につけるべき基本的素養は、自国の歴史と言語です。これは、
一都市の人間についてもいえることです。自都市の歴史と方言を知ることは、
最低条件でありましょう。
-
>>116
奈良・・・『鹿男あをによし』(TVドラマ。2008年)
京都・・・『鴨川ホルモー』(映画・演劇。2009年)
大阪・・・『プリンセストヨトミ』(映画。2011年)
これで、万条目学の三部作の映像化が揃いましたね。
『プリンセストヨトミ』も発想が面白いと思います。地下にある「大阪国」には
国会議事堂もあるのですね。
なお、映画『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(2000年。東宝)では、1954年のゴジラ
による襲撃で、首都が東京から大阪に移り、「大阪都」になっています。国会議事堂
が、大阪城の隣に画面合成されているシーンがあります。
-
菩薩や「輿」粛々と 大念仏寺で「万部おねり」
2011年5月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110503/20110503032.html
大阪市平野区の大念仏寺(倍巌良舜法主)で毎年5月に行う法要「万部おねり」が5日まで開かれている。法要のクライマックスでは、観世音菩薩など25の菩薩や73年ぶりに修復された「万部輿(こし)」が本堂の周りを練り歩く。
法要は1349年、法明上人が菩薩の面、衣装をしつらえ、極楽浄土への往生を試みる儀式を執り行ったことが起源とされ、1769年には阿弥陀(あみだ)経1万部を読誦(どくじゅ)する「万部会」の法会も加わった。
本堂の周りに設けられた来迎橋と呼ばれる通路の上を、お稚児さんや信徒、僧侶扮(ふん)する菩薩たちが厳かな雰囲気で渡る。法要では多くの僧侶らが阿弥陀経を読誦し、東日本大震災の追善と復興祈願も行った。
会社員時代、仕事で近くによく来ていたという兵庫県の折戸満さん(83)は「河内地域ではよくおねりをするが、ここのは規模も大きく衣装も立派。輿はほかの場所でも見たことがなくて興味深かった」と話していた。
-
すべてに感謝のざきまいり
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110503-OYT8T00773.htm
大東で8日まで
大東市の野崎観音(慈眼寺)で恒例の「のざきまいり」が行われ=写真=、伝統芸能の奉納などで参拝客を楽しませている。8日まで。
世の中のすべてのものに感謝をささげる「のざきまいり」は江戸時代から盛んになり、近松門左衛門(1653〜1724年)の文楽などにも登場。今年も1日から、境内で和太鼓の演奏や落語、詩吟の奉納、大道芸などが披露され、参道には露店が並ぶ。
家族3人で参拝に訪れた同市内の男性(38)は「3歳の娘がこれまで健康でいられたことに感謝するために来ました」と話していた。
8日午後2時からは「無縁経法要」が本堂で営まれる。催しなどの詳細は、同寺のホームページ(http://www.nozakikannon.or.jp/)で。
(2011年5月4日 読売新聞)
-
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html
住吉大社御鎮座千八百年記念大祭 5月12日(木) 11:00
同 舞楽 14:00 於:石舞台 奉仕:天王寺楽所雅亮会
住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。
***********************************
住吉大社へ行きましたら『御鎮座1800年』の文字がありましので紹介を。
今日の住吉大社は穏やかな天気で、何組かの結婚式が執り行われていました。
観光地化されていない神社らしく、ノンビリしているけども参拝者は絶えずに来られるといういい感じでしたねぇ。
外人さんも来てらっしゃいましたが、神式の結婚式は珍しいらしく写真を撮りまくっていました。
大阪というのは1800年もの歴史を誇るものがあるかと思えば、そこから一時間も掛からない場所に最新の駅やビルが林立しているのが堪らない魅力ですね。
何でもあって何でもハイレベルなのが大阪、その『魅力的な大阪 イコール 魅せる大阪』に取り組んでいるな、と感じたのが南海電鉄住吉大社駅。
二年前に来た時と比べて駅内部の壁や高架下のショップゾーンが美しく整備されていました。
南海さんも決して経営は楽ではないでしょうが、こういう地道なしかし効果大な取り組みは続けてほしいですね。
-
2011年5月 5日
池上曽根史跡公園10周年フォーラム
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/05/20110505-052435.php
大阪府の和泉、泉大津両市にまたがる弥生時代最大級の集落遺跡「池上曽根遺跡」の史跡公園が開園10周年を迎え、和泉市の府立弥生文化博物館で4日、記念フォーラムが開かれた。弥生時代の世界観を塗り替える大発見が相次いだ同遺跡。和泉市教委の乾哲也さんは「弥生中期後半になると建物が直角線上に配置される点から、大陸の文化が同遺跡に伝わっていた」との大胆な推理を発表。集まった考古学ファンは熱心に聞き入っていた。
-
>>118
キン肉マンでは大阪城の地下は迷宮で、別門があるということになってました。
-
「赤備え」勇壮に 志紀長吉神社幸村の祈願祭
2011年5月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110505/20110505077.html
大阪市平野区長吉長原2丁目の志紀長吉神社(鈴木理美宮司)で4日、大坂の陣で活躍した武将、真田幸村の「戦勝祈願祭」が行われた。大阪城甲冑(かっちゅう)隊(河井計実理事長)らによる「赤備え」のパレードのほか、軍旗と刀の奉納式典などが執り行われた。
同神社は大坂夏の陣に参戦した幸村が、死の直前に戦勝祈願をしたゆかりの地。その際に奉納した軍旗は今でも社宝として保存されている。
祈願祭は幸村の足跡を広く知ってもらおうと、昨年から行われている。甲冑隊の隊員など約40人が大坂の陣の真田軍にならい、真っ赤なよろいを身にまとって登場。同神社の参詣道を約30分かけて練り歩き、境内で鈴木宮司による神事に臨んだ。
幸村から数えて14代の子孫で東京都在住の真田徹さん(62)も見学に訪れ、「軍旗を奉納したゆかりの地があると初めて知った。400年たってこのような催しが開かれる幸村は幸せ者だと思う」と喜んでいた。
-
先生ら制作「歴史たんけん堺」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110508-OYT8T00060.htm
歴史教育について研究する堺市内の教諭らが、旧石器時代〜現代の堺の主な歴史をまとめた冊子「歴史たんけん堺」(B5判、70ページ)を出版した。オールカラーで写真や図をふんだんに用い、各時代のテーマごとに見開きの2ページに収めるなど読みやすく仕上げた。
「行基の大事業とふるさと堺」「堺の学校のはじまり」「市町村合併と泉北ニュータウン」など28章で構成し、古墳や戦争遺跡、伝統産業などを探訪できるマップをつけた。
学校の副読本として使うことも意識して、遺跡の場所を現在の地図に記した。例えば、約1万年前の石器が見つかった堺市北区の東浅香山遺跡が、今は大型商業施設になっていることがイメージできるように工夫した。
執筆したのは、小中学校や高校の教員らでつくる歴史教育研究団体「大阪歴史教育者協議会堺支部」の5人。代表の元小学校教諭小松清生(すがお)さん(63)は「文化や産業が息づく堺の歴史は大変豊か。堺で生きてきた人たちの暮らしがわかるので、読んだ人は歴史好きになってくれるのでは」と話す。
2000冊発行。1冊1000円で堺市内の主な書店で販売している。問い合わせは小松さん(080・2444・2098)。
(2011年5月8日 読売新聞)
-
>>121
阪堺電軌 701形・601形に「住吉大社 ご鎮座1800年」幕
http://railf.jp/news/2011/05/07/201100.html
住吉大社は,今年2011年に御鎮座1800年となり,2011(平成23)年5月12日(木)には『住吉大社御鎮座千八百年記念大祭』が行なわれます.
これにあわせて,阪堺電気軌道では,701形と601形の一部車両に,「住吉大社 ご鎮座1800年」幕を掲出して運転しています.
この幕には,住吉大社境内に架かる橋(通称:太鼓橋)が描かれています.
-
色とりどり フジ咲き誇る 中央区・難波宮跡公園
2011年5月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110508/20110508024.html
大阪市中央区法円坂1丁目の難波宮跡公園のフジの花が見ごろを迎えている。数年前から大阪文化財研究所の職員らが剪定(せんてい)などを行っていたところ、ことし見事な花を咲かせ、芳香を漂わせている。
フジの花は同公園の北西の門にある「八角殿」が1983年に遺構表示された時に、8本、植えられたもの。しかし、長年、手入れがされていなかったために、枝葉が茂りすぎて春に花が咲くことはほとんどなかった。
数年前、専門家からフジの育成法を聞いた京嶋覚・総務企画課長(54)が、同研究所の徳井喜代治副参事(65)に依頼。公園管理を行っている業者らとともに年3回の剪定など手入れを始めた。
当初は花が咲くことも少なかったが、ことしになって8本全てが満開に。紫や白、薄桃色など色とりどりの花が咲き誇っている。徳井副参事は「散歩に来た人が近づいて見てくれる。見事に花がついたのはうれしい」と喜んでいる。
京嶋課長は「難波宮は大化改新後に中臣鎌足(後に藤原氏となる)らが造営した都。鎌足と中大兄皇子が大化改新のクーデターの密談をしたのがフジの下であったとされ、藤原氏の起源になった。そんなゆかりのある花が多くの人が立ち寄るきっかけになれば」と期待を寄せている。
-
2011年5月10日
13日「人形祭」愛用品、大阪天満宮に奉納
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/10/20110510-052580.php
節句人形を製造している関西の企業20社でつくる「関西節句人形工業協同組合」が13日、愛用の人形を奉納する「人形祭」を大阪市北区の大阪天満宮で初めて開催する。
「小町人形」(大阪市東淀川区)の社長で実行委員長の元賀圓治さんは「愛用の人形は捨てられないもの。処理に困っている方は、この機会を利用してほしい」と呼びかけている。
大阪ではこれまで41年間、府人形問屋組合が四天王寺(同市天王寺区)で人形供養を行ってきたが、「製造者の立場から最後まで人形の面倒をみたい」という思いで企画。大阪にゆかりの深い同天満宮の協力を得て実施が決まった。
会場では午前9時から午後3時まで奉納する人形を受け付け、午後3時から祭典を行う予定。境内では各社が製造した新しい節句人形やひな人形、市松人形なども展示されるほか、人形を作る際に出るはぎれや、はぎれで作った小物などを販売し、売上金の一部を東日本大震災の被災者への義援金にあてるという。
奉納する人形の対象は、節句人形などのほか、フランス人形、ぬいぐるみなど人形本体のみで、受付料は1件につき何体でも3千円(ケースなどは不可)。問い合わせは小町人形(電話06・6349・2076)へ。
-
継がれる「白雪」 住吉大社で神馬代替わり 大阪
2011.5.11 02:11
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110511/osk11051102110001-n1.htm
祈願のために奉納される白い馬「神馬(しんめ)」。住吉大社(大阪市住吉区)で、約25年間、神馬を務めてきた白雪に代わり、新たに2歳の雄の子馬が白雪の名と神馬を引き継いだ。
住吉大社の神馬は代々、純和種で真っ白な毛並みを持つアルビノ種とされる。頭数が少ない珍しい馬だ。「神馬が衰えると、次の神馬が必ず見つかる」という言い伝えがあり、待望の子馬が見つかり、関係者は胸をなでおろしている。
住吉大社では「正月に白馬を見れば邪気を払う」という信仰から白馬(あおうま)神事などに神馬が参加している。
先代の白雪は昭和61年生まれ。高齢となり足腰が弱り神事への参加が困難になっていたが、後継探しが難航。今年1月、ようやく北海道で見つかった。新たな神馬は体長1メートル50センチ、体重300キロ。9日に命名式を行い、めでたく神馬に。現在、境内の「神馬舎」で過ごし、16日まで参拝者も対面できる。その後は和泉市の牧場で先代の白雪とともに暮らしながら神事に参加する。
高井道弘権宮司は「鎮座1800年にあわせて新しい神馬が見つかったのは不思議としか言いようがない。大切にしたい」と話している。
-
2011年5月11日
「ニッポン猪飼野」実態に迫る 郷土史家ら論文など集め本出版
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/11/20110511-052620.php
大阪市生野、東成両区にまたがる地域は長らく猪飼野(いかいの)と呼ばれた。かつては「日本国猪飼野」の住所表記で朝鮮半島から郵便が届いたとされ、最近ではコリアタウンとして人気を博す。そんな特徴ある街に愛着を寄せる住民や郷土史家らが、著名人らのエッセーと論文などを集めた本「ニッポン猪飼野ものがたり」を刊行した。古代からの歴史を探求し、地域にゆかりの著名人番付で風土をひもとくなど、多角的な視点で地域の実態に迫っている。
編集したのは、郷土史家らで組織する「猪飼野の歴史と文化を考える会」。エッセーや研究論文のほか、インタビューなども含めて約50編を掲載。監修を担当した上田正昭・京都大名誉教授、作家の玄月(げんげつ)氏、詩人の金時鐘(キム シジョン)氏らのほか、郷土史家、ジャーナリストらが原稿を寄せている。
「わたしの『猪飼野著名人番付』」は、猪飼野で生まれ育ち、現在も居住する同会会長の郷土史家、足代(あじろ)健二郎さんが作成。平成20年に「著名人が大勢いるということを世間に思い切り自慢してやろうと、面白半分に作った」原稿と番付を若干修正し、再録した。
番付の両横綱は、松下幸之助と司馬遼太郎の両氏。国文学者の折口信夫氏や歌手の田端義夫氏(ともに大関)、パントマイムのマルセ太郎氏(関脇)らも“ランクイン”し、土地にまつわるそれぞれのエピソードを紹介している。
松下、司馬両氏については、それぞれ「パナソニック発祥の地・猪飼野」「司馬遼太郎・以前」として独立した論文を掲載。司馬氏が幼少の一時期を過ごした地が「鶴橋本通り」で、初めて新聞記者になったのは猪飼野にあった「新世界新聞」とする説を展開している。
また、「血と骨」などの作品で知られる作家、梁石日(ヤン ソギル)氏を東京の自宅まで訪ねて行ったインタビューを掲載。猪飼野での文学修業や、小説のモデルにした父親の思い出などを語っている。
このほか、日本書紀に記されている地名・猪甘津からの古代の歴史をつづった「猪飼野をめぐる考古学」、「焼肉は猪飼野からはじまった」「猪飼野ヘップサンダル小史」など、歴史や文化、産業といった多角的な切り口で迫った猪飼野の論文を掲載している。
足代さんは「古代史への興味が郷土史へ発展し、いつしか猪飼野へと特化していった。古代からの多彩な顔をもつ街を、多角的に描きたかった」と話している。
A5判、368ページで、価格は2800円(税別)。発行は批評社。問い合わせは足代さん(電話090・5018・8995)。
猪飼野(いかいの)
大阪市生野区北西部と東成区南西部にまたがる地域が、かつてそう呼ばれた。日本書紀に、この一帯を指す「猪甘(いかい)津」の記述があり、古代には朝廷に猪を献上する猪甘(飼)部が居住したとされる。大正時代に朝鮮・済州島〜大阪の航路が開設されたことから移住が進み在日コリアンの集団居住地として定着。昭和48年の町名変更で猪飼野の地名が消えた。
-
【老舗そば屋の碑】 江戸のツルッ 大阪生まれ
http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201105090053.html
そばは東京、大阪はうどん。そんなイメージ、ありますよね。でも実は、江戸の老舗そば屋のルーツが大阪にあるって知っていますか? その「証拠」が大阪市西区新町2丁目の公園に立つ「ここに砂場ありき」と書かれた石碑。子どもが遊ぶ砂場じゃありません。これこそ、今に続く江戸のそば屋で最も長い歴史を持つ「砂場」のことなんです。
起源は大阪城築城の時にさかのぼる。この辺りは砂利などの資材が置かれ「砂場」と呼ばれていた。「和泉屋と津国(つのくに)屋という2軒のそば屋が『砂場』の呼び名で繁盛してたんです」。そう教えてくれたのは遠く離れた東京都港区にある「虎ノ門砂場」の5代目稲垣隆一さん(72)だ。「そばがはやり始めた江戸に和泉屋ゆかりの者が移り、砂場の暖簾(のれん)を掲げたと聞いてます」。稲垣さんは現在136店が加盟する暖簾会「砂場会」の会長でもある。
「蕎麦(そば)屋の系図」などの著書があるそば研究家の岩サキ信也さん(サキは「崎」の右上が「立」)によると、様々な人が集まった江戸は職人ら独身男性も多く、つるっと食べられるファストフードとしてそば屋は広がった。中でも有名な「糀町七丁目砂場藤吉」から、1872(明治5)年に暖簾分けされたのが今の虎ノ門砂場なのだそうだ。
取材の日も70代とおぼしき男性3人が銚子(ちょうし)を傾け、「あの人はねえ、いい女だったよ」なんて話してる。昼間からそば屋で一杯というのが何とも乙だ。勝海舟や山岡鉄舟もなじみだったというから、同じように楽しんでたのかも。自分も一つと、もりそばを食べてみると、細くて白いそばに甘めのつゆがよく合う。「そばは職人に打たせても、つゆは代々店主が作る」と稲垣さん。「大阪発祥の味が江戸の食文化として花開いた、いわば東西合作だと思います」
大阪のそば屋誕生400年を記念し、大阪府麺類食堂業生活衛生同業組合が1985年に建てたのが、あの石碑だ。「原点は大阪ってこと。誇りを感じます」と組合の前理事長で「民芸そばしのぶ庵(あん)」(大阪市北区)の大橋エイ二さん(エイは金へんに「英」)(73)は言う。
最近は大阪の若手も老舗に負けてない。「なにわ翁(おきな)」(大阪市北区)の勘田拓志さん(40)は28歳で店を継いだ時、ほれ込んだ店で修業し、機械製麺からすべて手打ちに切り替えた。練ったそば粉を伸ばす手さばきはよどみなく、切り終えた麺は厚みも幅も1.3ミリほどにそろう。
麺をかむと、心地よい歯ごたえとともにそばの香りが口の中に広がり、かつおだしをきかせたつゆがそばを引き立てる。さすがミシュランで2年連続星を獲得した味だ。「熱心な若手が増え、大阪のそばはレベルアップしてる。東京の人は粋(いき)を重んじるけど、味は大阪の人の方が厳しいと思いますから」と勘田さん。
そうそう、やっぱり食は大阪ですよね。そのうち、そばの本場と言われる日がやってくるかも!?(石村裕輔)
◇
■推薦
旅行作家 高木美千子さん(77)
東京の人も感動してますよ
ちょっとのつもりで東京から関西に引っ越したはずが、もう37年。グルメ紀行をたくさん書いてきましたが、関西の味ってやっぱり奥行きがありますよね。関西人の味覚ってすごいと思います。もちろん行きつけのそば屋も何軒か。脱サラ組や2代目の若手がけっこう頑張ってて、東京の人を連れて行っても、おいしいって感動してますよ。いまや東京のそばをしのぐ勢いじゃないでしょうか。
◇
〈メモ〉 虎ノ門砂場=東京都港区虎ノ門1の10の6、電話03・3501・9661。なにわ翁=大阪市北区西天満4の1の18、電話06・6361・5457。
-
蓮如上人の功績「四幅御絵伝」公開 久宝寺御坊顕証寺
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110512-OYT8T00092.htm
浄土真宗本願寺派・久宝寺御坊顕証寺(八尾市久宝寺)が、同寺を建立した蓮如上人の功績を描いた「蓮如上人四幅御絵伝(しふくごえでん)」を13年がかりで完成させ、11日の河内蓮如忌法要で初公開した=写真=。
近松照俊住職(61)が発案し、東西本願寺の学者らが絵柄を話し合い、京都の宮絵師・安川如風氏に絵伝の製作を依頼した。絵伝は4幅の掛け軸で、1幅の大きさ縦2・1メートル、横1・4メートル。蓮如上人が誕生から成長していく様子のほか、村人に説法したり、荼毘(だび)に付され阿弥陀如来となったりする場面などが描かれている。吉野や堺の港などの風景も登場する。
この日、本堂の余間に絵伝がかけられると、門徒ら約300人が手を合わせ、完成を喜んだ。同寺は今後、法要に限り公開するという。近松住職は「念願の絵ができあがってうれしい。たくさんの人々に蓮如上人の心が伝われば」と話していた。
(2011年5月12日 読売新聞)
-
住吉大社御鎮座千八百年記念大祭 5月12日(木) 11:00
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html
同 舞楽 14:00 於:石舞台 奉仕:天王寺楽所雅亮会
住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。
■奉祝行事
5月12日(木) 花柳流日本舞踊 於:第一本宮 12:30〜
花柳與桂一門による華麗な日本舞踊が奉納されます。(主な出演 花柳與桂・花柳與)
-
>>129
>継がれる「白雪」 住吉大社で神馬代替わり 大阪
アルビノ種が尊重されると聞いて、
ファイブスターストーリーズを思い出しました。
主人公がそれなので。
(名がアマテラスなのは偶然??)
マンガアニメに興味のない方、すみません。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/206 本町橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110512ddlk27070411000c.html
◆大阪市中央区
◇「大阪最古」の貫禄 川の流れは秀吉時代のままに
西町奉行所跡を後にして、東横堀川へと戻る。さきの天野屋利兵衛の碑の南、高速道路の出口付近に井原西鶴の文学碑が建っている。1972年に大阪北浜船場ライオンズクラブが建てたもので、「日本永代蔵」の冒頭の一節が刻まれている。
「金銀こそ命の親と呼ぶべきものだ。だが、人の命はどうなるかわからない。死んでしまえば金銀も役に立たないが、残しておけば子孫のためになる。金銀の力でかなわないことは天下に五つしかない」
大要、こんなところだろうか。経済小説の元祖だけあって、冒頭からお金のありがたさを説く。ちなみに、金の力でかなわぬ五つに「生・老・病・死・苦」を挙げている。いずれも生き死ににかかわることで、これ以外は金でどうとでもなる、ということだ。それもこれも、よっぽどの大金持ちの話。わたしらにゃ関係ないわな。
なんて、くだらぬことを考えていたら、碑の陰から猫がじーっとこっちを見ていた。なんだか頭の中を見透かされてるようで、早々に退散。
大阪案内人の西俣稔さんが、安土町の町名表示板を指して「近江の安土の人が移住したからなんですが、そもそも、安土のいわれは……」。もともとは目賀田山という土地だったが、織田信長はこの地名を嫌った。近くに安土という名の寺を見付け、土地を安んじるとは天下統一に通じると、自らの力を誇った城に安土城と名付けた、という。「信長の支配がなければ、ここは目賀田町になってたんです」
◇
しばらく南へ歩けば本町橋だ。「現存する大阪最古の橋です」と西俣さん。1913(大正2)年に架けられた。ルネサンス風の石造りの橋脚など、なかなかに趣があって、貫禄を感じる。
そもそもは、東横堀川が開削された時に架けられたとされていて、江戸時代は大坂に12しかなかった、幕府が直接管理する公儀橋だった。「北御堂(西本願寺津村別院)の参道としてにぎわってました」という橋は、今は本町通となっていて、ひっきりなしに車が行き来する。
本町橋の上で足を止めた西俣さん、東横堀川の下流(南側)を眺めて、「川が左側に曲がってるのがわかるでしょ。これが本町の曲がり。江戸時代から、そう呼ばれてるんです」。確かに、流れが大きく湾曲している。
「豊臣秀吉が1585年に東横堀川を開削した時、まっすぐに開削すると、浄国寺というお寺にぶちあたってしまうので、秀吉が『寺までつぶすな』と命じ、お寺を避けて曲がったという説があります」
川の上を阪神高速環状線が通っており、高速道路も川の流れに合わせてカーブしている。「高速を通るドライバーがここでハンドルを切るわけは、秀吉にあるんです。そう考えたら、今と昔、420年以上の時のつながりを感じますね」
そこまで考えてハンドルを切ってるドライバーがどれくらいいるか。歴史を知れば、見慣れた風景も違って見えてくる。【松井宏員】
-
2011年5月12日
住吉大社1800年 大祭1800人参列
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/12/20110512-052683.php
住吉大社(大阪市住吉区)で12日、神功皇后が住吉大神を祭った鎮座から1800年を祝う記念大祭が開かれ、歌舞伎役者の市川團十郎さんら約1800人が参列した。
本殿の第一本宮(国宝)で、真弓常忠宮司が祝詞を奏上。太陽などをかたどった飾りを頭に着け、舞衣をまとった巫女(みこ)8人が平安時代から伝わる神楽「白拍子」と「熊野舞」を奉納した。
住吉大社は神功皇后が211年に住吉大神を祭り創建したとされる。飛鳥、奈良時代の遣隋使や遣唐使も派遣時に祈願した歴史を持ち、これまで航海安全や和歌、農耕の神として信仰を集めてきた。24日まで、稚児行列や日本舞踊、神楽の奉納など奉祝行事が行われる。
-
百舌鳥・古市古墳群 世界遺産登録目指し 橋下知事ら本部会議
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/12/20110512-052682.php
世界文化遺産の国内候補「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産登録を目指し、大阪府の橋下徹知事ら関係自治体首長による「登録推進本部会議」の初会合が12日、大阪市住之江区の府咲洲庁舎で開かれた。平成27年の登録実現に向けた最短のスケジュールなどが確認された。
会長に就任した橋下知事は「世界遺産は京都にも奈良にも和歌山にもあるが大阪にだけない。登録に向けともに頑張りましょう」とあいさつ。各市が検討しているガイダンス施設建設についても「府でも予算を組んで応援したい」と意気込みを示した。
-
■推進会議 仁徳天皇陵などを世界遺産へ
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE110512111300455462.shtml
大阪・堺市にある仁徳天皇陵などの古墳群の世界遺産を目指す会議が12日発足し、5年後の登録に向けて景観整備やPR活動を進めていくことなどが話し合われました。
会議には古墳群のある地元の市長のほか、大阪府の橋下知事も参加しました。
仁徳天皇陵や応神天皇陵などおよそ90基の古墳が集まる百舌鳥・古市古墳群は、去年10月に世界文化遺産の暫定リスト入りを果たし、大阪初の世界遺産実現に橋下知事も期待を寄せています。
「京都・奈良・兵庫・和歌山も世界遺産があるが、大阪だけ無い。なんとか大阪に世界遺産を実現したい」(大阪府 橋下徹知事)
ただ、周囲で宅地開発が進み「景観がそぐわない」という指摘もあり、会議では今後、5年後の登録を目指して景観整備やPR活動などをする予定です。
(05/12 12:36)
-
鳥取も徳島も
きっとメディアには紹介されない遺産があるはず
大阪が通ったあとで良いので
広域連合の他県にも協力してくれるとありがたい。
-
古墳群 世界遺産へ推進本部
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005819681.html
「仁徳天皇陵」として宮内庁が管理している古墳を含む大阪の「百舌鳥・古市古墳群」をユネスコの世界遺産に登録しようと、大阪府が地元の3つの市とともに、きょう推進本部を設置しました。
「百舌鳥・古市古墳群」には、堺、羽曳野それに藤井寺の3つの市にまたがって大小87の古墳があり、去年、文化庁の文化審議会の審議を経て、世界遺産への登録候補の暫定リストに記載されました。
大阪府の咲洲庁舎で開かれた推進本部の初会合には、府と地元の3つの市の代表が出席し、橋下知事が「世界遺産登録まであと一歩まできている。府と市が一丸となって登録の実現に向けてがんばりたい」と述べました。
推進本部は平成27年の登録を目指し▼登録に向けた推薦書の作成などを進めるほか▼英語やフランス語など5か国語のリーフレットを作成したり、国際シンポジウムを開いたりして、情報を発信することにしています。
05月12日 15時55分
-
海の神へ神楽の舞 住吉大社1800年大祭、團十郎さんら1800人参列
2011.5.12 12:28
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110512/art11051212340002-n1.htm
住吉大社(大阪市住吉区)で12日、鎮座1800年を祝う記念大祭が開かれ、歌舞伎役者の市川團十郎さんら約1800人が参列した。
本殿の第一本宮(国宝)で、真弓常忠宮司が祝詞を奏上。太陽や月、松などをかたどった飾りを頭に着け、舞衣をまとった巫女(みこ)8人が、平安時代から伝わる神楽「白拍子」と「熊野舞」を奉納した。
住吉大社は神功皇后が211年に住吉大神をまつり創建したとされる。飛鳥、奈良時代の遣隋使や遣唐使も派遣時に祈願した歴史を持ち、これまで航海安全や和歌、農耕の神として信仰を集めてきた。
24日まで、稚児行列や日本舞踊、神楽の奉納など奉祝行事が行われる。
-
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html
住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。
5月13日(金) 住吉能 於:吉祥殿 18:00〜 ※前売7,000円 当日8,000円
大槻能楽堂による能「翁」・狂言「末広がり」・半能「高砂」が奉納されます。
清元流浄瑠璃・三味線 於:第一本宮 15:00〜
-
実際の歴史はどれくらいなんでしょうね。
大和系でも出雲系でもないようだから
ひょっとすると現存する神社の中では最古ということもありうるのでしょうか。
-
住吉大社:伝統守り先人に敬意 鎮座1800年、1800人参列し記念大祭 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110513ddlk27040342000c.html
「すみよっさん」で親しまれ、海の神を祭る住吉大社(大阪市住吉区)で12日、鎮座1800年を祝う記念大祭が開かれた。約1800人が参列し、真弓常忠宮司は「伝統を守り伝えた先人に敬意を表したい」とあいさつした。
住吉大社は211年、住吉大神がこの地に鎮座して創建されたとされている。この日は、天皇陛下の御幣帛(ごへいはく)(神前に供える物)が国宝の第一本宮に納められたほか、巫女(みこ)が舞を奉納した。
東日本大震災の影響で祝賀行事の中止も検討されたが、「関西から日本を元気付けることにもなる」と判断し、開催を決めたという。祝賀行事は24日まで。能の披露、稚児(ちご)行列などを予定している。【山田尚弘】
「すみよっさん」と共に 住吉大社1800年大祭
2011年5月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110513/20110513021.html
鎮座1800年の記念大祭が12日開かれた大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)。大祭には、歌舞伎俳優の市川団十郎さんら約1800人が参列し、いにしえから続く「すみよっさん」の節目の年を祝った。
住吉大社は神功皇后摂政11年の年である211年に鎮座したと伝えられる。本殿は「住吉造」と称せられる古代の様式で造られ、国宝に指定されている。毎年、5月に創立を祝う神事が行われている。
大祭では、真弓宮司が祝詞を奏上し、8人のみこが舞や神楽を奉納。式典の後には創立を祝う「卯(う)の葉神事」の舞楽や花柳與桂(よか)社中による日本舞踊の奉納も行われ、祝祭に花を添えた。
真弓宮司は「住吉大社の歴史は大阪の歴史と共にある。海上守護の神様として親しまれ、まさに水都大阪の守護神。浪速の心のふるさとというべき当社が節目の年を迎え、預かる立場として重責を感じている」と話していた。
奉祝行事は、13日の住吉能や15日の稚児社参(行列)など24日まで行われる予定。
-
天神祭の奉納花火は7月25日 協賛金一部を義援金に
2011年5月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110513/20110513022.html
日本三大祭りの一つに数えられる「天神祭」の実行委員会の初会合が12日、大阪市北区の天満宮会館で開かれた。本年度の行事計画として7月24日に宵宮祭、同25日に本宮祭、奉納花火を斎行することを決めた。奉納花火の個人協賛金の一部が、東日本大震災の義援金に充てられる。
同祭渡御行事保存協賛会の役員をはじめ、大阪天満宮の寺井種伯宮司、氏子総代ら関係者約70人が出席した。
冒頭、あいさつに立った同実行委員会の京極俊明委員長は、東日本大震災の犠牲者に哀悼の意を表すとともに「自粛ムードもあったが、頑張ろう日本の合言葉のもと、経済の活性化の展開も見られる」と訴え、寺井宮司も「祭りを斎行させていただきたい」と呼び掛けた。
会合では陸渡御や船渡御などの行事計画が承認された。奉納花火は25日夕に大川沿いの造幣局東側と対岸の桜宮公園の2カ所で行い、計3千発を打ち上げる。昨年、奉納花火の個人協賛は1発5千円で受け付けていたが、今年は5500円とし、500円が東日本大震災の義援金に充てられる。
-
>>143
創建が非常に古い神社は、実際の歴史は不詳というのが事実です。神話上の人物
が創建者にされているのが特徴です。
ひとつ言えることは、神道は原始的なアニミズムの宗教であり、自然物が御神体です。
三輪山を御神体とする奈良の大神神社などはこれを今に継承しており、拝殿はあっても
本殿はありません。
-
非常に古い歴史を誇る大阪。
今、灯り煌く超高層ビルもその悠々たる歴史の流れの一部であります。
住吉大社創建1800年、という歴史がありながら、今も成長を続ける大都会・大阪らし話題です。
「キタ」エリア写真コンテスト−入選作を「うめきた」工事現場に展示
http://umeda.keizai.biz/headline/1055/
芝田商店会と大阪市北区活性化協会が「キタ」エリアの風景写真を募集した「キタの、むかし・いま・みらいを、感じる写真コンテスト」入選作品が決定し、5月9日より「うめきた」の工事現場仮囲いフェンスに作品が展示されている。
昨年より地域活性化のための事業を検討してきた芝田商店会、大阪市北区活性化協会、大阪市立大学大学院創造都市研究科の3者。芝田商店街のある梅田周辺は、5月4日に開業した大阪ステーションシティや建て替え工事中の阪急百貨店、開発中の「うめきた」など、大規模再開発事業により街が変化していくことから「そうした風景を写真に残したいという思いから、地域活性化を兼ねて誰もが参加できる写真コンテストを開催しよう」と作品を募集した。
作品は3月21日〜4月25日の約1カ月間、メール応募のみで受け付け。高校生から60代まで幅広い層から約500点の応募があった。「どの場所なのかがわかる写真」を第一の基準として絞り込み、テーマ別に懐かしさを感じさせる「芝田商店会賞」、刻々と変わる今を表現した「北区商業活性化協会賞」、未来を感じさせるワクワクするような「創造都市賞」、高校生以下を対象にした「フレッシュ賞」と最優秀作品賞、佳作を決定した。
最優秀作品賞は、ハービスOSAKAを撮影した山田新太郎さんの作品が受賞。選考委員らは「未来的なタッチであるのにもかかわらず、今が鮮やかに表現されている点を評価した」という。最優秀作品賞を始めとする10点の入賞作品は、ノースゲートビルディング北側の工事現場仮囲いフェンスに展示している。
担当者は「応募作品を拝見していると予想以上に多くの方がキタに愛着を持っていることが伝わる作品がたくさんあった。工事現場仮囲いフェンスという珍しい展示場所も話題を呼んでいるようで、地域活性につながれば」と話す。
展示は今月20日まで。
-
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html
住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。
5月14日(土) 神楽まつり 於:吉祥殿
9:00〜 埼玉県大宮住吉神社神楽保存会 13:00〜 島根県万九千社立虫神社神楽保存会
蟇目の儀 百々式(ひきめのぎ ももてしき) 於:神館 11:00〜
小笠原流弓道術礼法が行われます。
清水 玲子 ヴァイオリン演奏 於:第一本宮 14:00〜
-
江戸期の大阪町人「ささいな楽しみ」風俗画展
2011年5月14日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201105130117.html
江戸時代の大坂町人の生活や文化にまつわる風俗画や錦絵など約100点を集めた企画展「なにわの遊・楽―芝居・祭り・花暦―」が大阪市北区天神橋6丁目の「大阪くらしの今昔館」で開かれている。
祭りのにぎやかな様子を描いた生田花朝(いくたかちょう)の風俗画「十日戎」や住吉大社の御田植祭をみやびな色彩で描いた菅楯彦(すが・たてひこ)の風俗画「住吉御田」のほか、庶民の1年間の暮らしを1枚のびょうぶに描いた「大坂月次図屏風(おおさかつきなみずびょうぶ)」などが展示されている。同館学芸員の深田智恵子さんは「大坂の町人たちが持っていた遊び心や日常のささいなことに楽しみを見いだしていた様子を感じてもらえたら」と話す。
29日まで(16、17、24日は休館)。入館料は企画展のみ300円、常設展と企画展は一般800円、高・大学生500円。問い合わせは同館(06・6242・1170)へ。(池畑聡史)
-
鎮座1800年 祝福の舞…住吉大社
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110514-OYO1T00534.htm?from=newslist
「すみよっさん」の愛称で親しまれ、今年で鎮座1800年を迎えた住吉大社(大阪市住吉区)で14日、祝賀行事の一つ「神楽まつり」が開かれた。同じ住吉大神を祭る大宮住吉神社(埼玉県)の神楽保存会のメンバーらが、笛と太鼓に合わせて舞を奉納した。
住吉大社は211年にできたとされ、交易や産業振興に関係が深い海の神様が祭られている。
お参りに来た近所の無職、大槻孝之さん(69)は「長い歴史を思うとしみじみとする。これからも末永く大阪の街を見守ってほしい」と話した。
祝賀行事は24日まで開かれ、15日には子ども約300人による「稚児行列」や「住吉踊(おどり)」などが行われる。
(2011年5月14日 読売新聞)
-
<削除>
-
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html
住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。
5月15日(日) 1800年を奉祝する神賑行事が終日行われます。
9:00〜 埼玉県大宮住吉神社神楽保存会
13:00〜 島根県万九千社立虫神社神楽保存会
蟇目の儀 百々式(ひきめのぎ ももてしき)
於:神館 11:00〜
小笠原流弓道術礼法が行われます。
清水 玲子 ヴァイオリン演奏 於:第一本宮 14:00〜
稚児社参 10:00吉祥殿出発、住吉公園を経て第一本宮参拝。
※参加には事前申し込みが必要です。
江戸芸かっぽれ
於:絵馬殿、浅沢社、五月殿、第一本宮 10:30〜
青山太鼓保存会 於:第一本宮 11:00〜
鈴木 哲也 声楽・筝曲 於:第一本宮 11:30〜
住吉踊 於:第一本宮 12:00〜
清々神楽 於:第一本宮 13:00〜
風流武者行事 於:第一本宮 13:40〜
神田代舞 於:第一本宮 14:00〜
田植踊 於:第一本宮 14:20〜
遊輝座 創作舞踊劇「住吉大社絵巻」
於:第一本宮 14:30〜
平野地車囃子 於:第一本宮 15:30〜
畑 美枝子 オペラ 於:吉祥殿 17:00〜
-
道明寺天満宮
http://www.domyojitenmangu.com/kenko.shtml
献香祭 平成23年5月15日(日) 午前10時30分
泉山御流法印鳥休庵西際好誉宗匠によるお献香です。
香道を今に伝える泉山御流のお香を神前に供えます。
献香祭はどなたでも見学していただけます。
-
だんじり祭 動きや表情伝える 岸和田で写真展
2011年5月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110515/20110515030.html
大阪府岸和田市北町のイベントスペース、かじやまち亭で14日、約300年の歴史を持つ地元の「だんじり祭」の様子を撮影した写真展が始まり、9、10月の祭礼に向けてムードが高まりつつある。5月の展示は15日まで。
岸和田市内のデザイン制作会社、ステージクリエイツが開いた展示会で、入場無料。A4判サイズ約200枚を張り出し、だんじりを引く祭り人の動きや表情を伝えている。
だんじりが一瞬にして方向転換する「やりまわし」のスピード感は映像で紹介し、会場となった和室の空間は祭り談議を楽しめる。
地元ではだんじりの新調、修理に伴う入魂式が徐々に始まるシーズンを迎え、同社代表社員の松阪広太さん(30)は「だんじりが動きだすので、6月以降も毎月第4土日曜に写真を展示したい」。祭り人を撮影した同社の古坊健一さん(32)は「だんじりでは彫り物が注目されるけど、300年の伝統は町の人が中心になってやり続けているから」と話していた。
-
2011年5月15日
歴史にイチゴに"ごちそうさま" 大阪・泉佐野
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/15/20110515-052794.php
地域の歴史を学びながら季節の味覚を楽しむイベントが、泉佐野市内で開かれ、約20人の観光客らがイチゴ狩りを楽しんだ=写真。
泉佐野観光ボランティア協会(吉野勝会長)の主催。南海羽倉崎駅前に集合した一行は、同協会の井澤喜一郎副会長らから、第二次大戦中に同駅から東南側一帯に陸軍明野飛行学校佐野分教所(佐野飛行場)が造成され、広さは約300ヘクタールあったことなどの歴史を学び、正門の門柱などゆかりの場所を見学。
このあと、同市長滝のイチゴ園でイチゴ狩り。参加者らは、真っ赤に熟したイチゴをほおばり、旬の味わいに満足げな様子だった。
-
大阪View:堺の伝統、はさみ鍛冶 日本刀の技術生かす /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110515ddlk27040203000c.html
◇玉鋼使用し、さびにくく フランスで個展、世界へ発信
堺市堺区に江戸末期の1867年から植木ばさみや花ばさみを作り続けている鍛冶屋がある。「佐助」の5代目、平川康弘さん(60)は、はさみ職人としては数少ない国の伝統工芸士として技術を守りながら、フランスで個展を開くなど海外への普及にも取り組んでいる。【小松雄介】
はさみの製造で最も難しいのが、硬い鉄を使った刃の部分と軟らかい鉄を用いた本体を合わせる「刃金(はがね)付け」と呼ばれる工程。熱せられた鉄が金づちでたたかれた瞬間、「バーン」という大きな音とともに火花が飛び散る。
平川さんははさみ鍛冶の道に入って30年以上がたった50歳の時、日本刀の伝統技術を取り入れようと刀匠に弟子入りし、5年間修業を積んだ。日本刀の材料である「玉鋼(たまはがね)」を使用したはさみ作りに挑戦している。「はさみという実用品の中にこそ、日本の技術を残したい」と話している。
作業場の見学も可能。問い合わせは佐助(072・233・6812)。
-
稚児行列:福島から避難の兄弟も晴れ姿 大阪・住吉大社
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110516k0000m040154000c.html
東京電力福島第1原発の事故で福島県富岡町から堺市に避難中の兄弟が15日、住吉大社(大阪市住吉区)の誘いで創建1800年記念の稚児行列に参列した。津波で祖父らを亡くし、家が警戒区域となるなど、混乱続きの2カ月。父母は2人の晴れ姿に目を細めながら「古里や地震のことは忘れてほしくないが、大阪での新生活を切り開く第一歩にしてほしい」と期待した。
小学4年の新田光覇(こうは)君(9)と、幼稚園年長組の来覇(らいは)君(5)。地震による津波で、南相馬市に住んでいた祖父と曽祖母を失った。家は亀裂が入った程度だったが、原発から約7キロしか離れておらず、地震発生の翌日から避難生活が始まった。親族宅などを転々とし、先月6日、ようやく堺市営住宅に落ち着いた。
大阪府内での暮らしも1カ月を超え、兄弟の言葉には「分からへん」「ちゃう(違う)」と早くも関西弁が交じる。いつも元気いっぱいだが、時折、母恵理さん(30)に「いつ富岡に帰るの?」「僕の家はあるよね?」と尋ねる。富岡町が立ち入り禁止になる前日の先月21日、父英希さん(33)と恵理さんが一時帰宅。持ち帰った幼稚園の集合写真を見た途端、来覇くんは声も出さないまま、涙をボロボロこぼしたという。
住吉大社は、「少しでも元気を、また大阪の楽しい思い出を作ってほしい」と一家を招待した。行列には約300人の子どもとその保護者らが参加。一家は行列の先頭に立ち、約1キロを歩いた。
金の烏帽子(えぼし)の稚児装束に身を包んだ2人は「先頭を歩けて気持ちよかった」「歩くのは疲れたけど、楽しかった」と、晴れやかな表情。恵理さんは、「津波で亡くなったおじいちゃんやひいばあちゃんに、晴れ姿を見せてあげたかった」とつぶやいた。
一家の居住期限は1年の約束というが、恵理さんは「富岡町の復興は何一つ進んでいない。いずれは戻りたいが、1年では無理。福島に帰るまで住めれば」と話していた。【深尾昭寛】
-
国産木綿復活探る 21日にコットンサミット
2011年5月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110517/20110517024.html
綿花の栽培や国産綿の製品化に取り組む市民団体、企業が一堂に会する「全国コットンサミット」が21日、岸和田市の浪切ホールで開かれる。地域再生や環境保全を背景に機運が高まる国産木綿の復活に向けた方策を地域間交流を通して探る。
戦国時代に始まった木綿の栽培は江戸時代に各地に広がり、綿紡績や綿織物などの繊維産業の発展が日本の近代化を推進する原動力になったが、その後、木綿の栽培は減退し、国外に依存している状況が続く。
そこで、「和泉木綿」の伝統を受け継ぐ大阪・泉州地域の岸和田市を会場に約40の団体・企業の代表が集い、失われた機械技術の再生、新製品の創造、販路の確保などの課題の克服を目指す。
当日は、サミットを開く実行委員会の代表を務める大正紡績(阪南市)の近藤健一営業部長が、注目を集める有機栽培の綿「オーガニックコットン」をめぐる業界の動きや国内綿花栽培の可能性も紹介する。
国産木綿の復活について、実行委事務局次長の木村元広さん(62)=岸和田市立図書館職員=は「個々の地域、企業が連携することでうまくいく」と話す。サミットはその試金石になる。
-
2011年5月17日
草創期の新聞 情報伝達はいかに 歴史博物館で展示会
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/17/20110517-052878.php
新聞草創期の明治前期に大阪で刊行された新聞を集めた「大阪の新聞展」が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている。テレビもインターネットもない情報入手が困難だった時代に、新聞がいかに市民に情報を伝達していたかがうかがえ、興味深い。30日まで。
大阪で刊行 「東雲」創刊号や「此花新聞」…
同展は大阪が歴史的に新聞発行のさかんな地域だったことから企画。会場には明治12(1879)年、発行の「朝日新聞創刊号」のほか、そのライバル紙として登場した「此花新聞」や明治中期に大阪で人気を博した、中江兆民主筆の「東雲(しののめ)新聞創刊号」などが並ぶ。
「此花新聞」の題字の背景には大阪駅や造幣局、天保山の灯台など大阪市街地の風景が描かれていたり、「浪華新聞」は青く染めた新聞紙を使っていたり、と当時の世相などをうかがい知ることができる。
珍しいのは、明治40年4月に創刊された上町地域のローカル紙「大阪上町新聞」。毎月3号刊行の4面構成という紙面で、主に大阪市の旧東区(現中央区)内のさまざまな情報を記事とし、現在のバーゲンセールにあたる誓文払いの大安売り広告なども掲載されている。
開館時間は午前9時半〜午後5時(入館は午後4時半まで)。火曜日休館。入館料は大人600円、高大生400円、中学生以下無料。
-
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html
住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。
5月19日(木) 裏千家献茶式 於:第一本宮 10:00〜
今日庵茶道裏千家大宗匠 千玄室による献茶が行われます。
-
千利休と与謝野晶子 テーマ施設
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110519-OYT8T00083.htm
堺市は18日、旧市立堺病院跡地(堺区、1.1ヘクタール)に、堺出身の茶人・千利休=写真上、同市博物館提供=と歌人・与謝野晶子=同下、文化学院提供=をテーマにした文化観光施設を建設する基本計画案を発表した。2014年度にオープンし、年間15〜20万人の利用を見込んでいる。
計画案によると、千利休屋敷跡と与謝野晶子生家跡に近い同病院跡地に、総事業費22億円で2階建て(延べ床2950平方メートル)の施設を建設。2人の生涯や業績を展示品で解説し、茶の湯の体験施設も設ける。南海本線堺駅や路面電車・阪堺線宿院電停に近い地の利を生かし、観光案内所も置くほか、敷地内に民間の土産物店や飲食店も誘致する。
市は08年、同様のテーマでのホテル併設型施設を目指し、運営する民間事業者を公募する方針を打ち出したが、景気低迷の影響で断念し、市主導の計画とした。
竹山修身市長は、この日の記者会見で「修学旅行やアジアの国々の観光客を呼び込みたい」と話した。
(2011年5月19日 読売新聞)
-
国内最古のコウノトリ足跡と判明…大阪の遺跡 水田跡
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110519-OYO1T00170.htm?from=newslist
「幸福の鳥」弥生人と生きる
大阪府東大阪、八尾両市にまたがる池島・福万寺遺跡の弥生時代前期(約2400年前)の水田跡で見つかった鳥の足跡が、コウノトリと判明し、奈良文化財研究所が18日、発表した。水田稲作が始まった頃から人と共生したことを示す発見で、同時代の祭器・銅鐸(どうたく)に描かれた鳥もコウノトリの可能性が高まった。専門家は「農耕祭祀(さいし)の中で人々の信仰を集めた鳥だったのでは」とみている。
これまでは群馬県内で出土した6世紀の足跡が国内最古だったが、今回はさらに約900年さかのぼる。同遺跡は1996年に大阪府文化財センターが調査。洪水で埋まった水田跡で鳥の足跡数十個と、人の足跡約100個を確認した。
その後、鳥の足跡1個を石こう型に取り、同研究所に鑑定を依頼。しばらく特定できなかったが、兵庫県立コウノトリの郷(さと)公園(豊岡市)や山階(やましな)鳥類研究所(千葉県我孫子市)も分析に加わり、▽足跡の大きさが約15センチと大型▽サギに比べて指が太い▽指の間が広い――などの特徴からコウノトリのものと判定した。同遺跡の他の鳥の足跡も写真鑑定の結果、コウノトリの特徴と共通していた。
一方、銅鐸については神戸市出土の桜ヶ丘銅鐸(国宝)などのように、胴部に首と脚の長い鳥が描かれている例があり、従来はサギかツルとみられていた。
今回の成果を踏まえ、奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長は「水田稲作の初期段階からコウノトリが人の身近な存在だったことは明らか。大柄で美しい鳥を、祭祀や信仰の対象として銅鐸に表現したのでは」と指摘する。
足跡の石こう型は21日〜7月3日、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で開かれる春季企画展で展示される。問い合わせは同館(0725・46・2162)。
コウノトリ 体長約1メートル、翼長約2メートルになる大型の鳥で、シベリア東部などで繁殖する。日本では国の特別天然記念物に指定されたが、野生は1971年に絶滅。85年、旧ソ連からヒナを譲り受けて兵庫県豊岡市で人工飼育、2005年から野外に放している。現在、放鳥19羽、野外で生まれた幼鳥21羽が生息。市では無農薬、減農薬農法で餌場づくりを進めており、農作業中の人の近くで餌をついばむ姿も見られる。
(2011年5月19日 読売新聞)
-
コウノトリ:国内最古の足跡 「弥生時代、人と共生」−−大阪
http://mainichi.jp/kansai/news/20110519ddn041040008000c.html
奈良文化財研究所(奈良市)は18日、池島・福万寺遺跡(東大阪市、大阪府八尾市)にある弥生時代前期後半(約2400年前)の水田跡から96年に見つかった鳥の足跡がコウノトリのものだったと発表した。これまで、前橋市で6世紀のコウノトリの足跡が発見されているが、今回の足跡が国内最古となる。
足跡は長さ約15センチ、幅約12センチで、約100個が人間の足跡と混在して出土した。足跡が付いた直後に洪水で砂が流入したため風化せず、保存状態が良かった。鳥の種類が分からなかったが、奈文研の松井章・埋蔵文化財センター長(動物考古学)が昨年、兵庫県立コウノトリの郷公園(同県豊岡市)の獣医らに足跡の石こう型を見せ、大きさや形がコウノトリの特徴と一致することが判明。今年3月に山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)に照会し、特定した。
◇銅鐸モデルか
松井センター長は「弥生時代から人とコウノトリが共生したことを示す発見」と話し、全国各地で見つかった弥生時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥の絵のモデルがコウノトリである可能性も浮上した。
弥生時代中期の「桜ケ丘5号銅鐸」(国宝、神戸市立博物館所蔵)には、くちばしと首と脚が長い鳥が描かれ、各地で出土した弥生時代の銅鐸にも同様の鳥が描かれている。80年代、ツルが稲穂を落とした場所で稲作が始まったとする穂落神(ほおとしがみ)の伝承を基にツル説が浮上。その後、魚をくわえた鳥の絵に着目し、サギ説が登場。魚を捕るのは夏鳥でなければならず、冬鳥のツルでは矛盾するという説だ。
松井センター長は「コウノトリは体が大きく、目や脚が赤いので神々しい。弥生人にとって信仰の対象だったのでは」と推測する。
足跡の石こう型や写真は21日〜7月3日、大阪府和泉市の府立弥生文化博物館で展示される。【高瀬浩平】
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/207 本町の曲がり /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110519ddlk27070401000c.html
◆大阪市中央区
◇渦巻く流れに地蔵堂 手ぬぐいと色町“同居”
お寺を避けて東横堀川の川筋を曲げた「本町の曲がり」。そのお寺、浄国寺は東区史によると、いったん順慶町に移り、その後、現在地の天王寺区下寺町に落ち着く。この浄国寺には、名妓(めいぎ)とうたわれた夕霧の墓がある。
無理に曲げたためか、曲がりは流れが渦を巻き、入水自殺する者が後を絶たなかったという。今は川の両岸に雑居ビルやマンションなどが建ち並び、付近にはホテルや大阪商工会議所などもあって、繁華な一帯だが、江戸時代は寂しい場所だったらしい。
上方落語の「饅頭(まんじゅう)こわい」に「本町の曲がりにかけては、夜は人も通らん寂しいとこやったで」というセリフが出てくる。噺(はなし)はこのあと、曲がりのすぐ南の農人(のうにん)橋で、身投げしようとしている若い女と出会ってひともんちゃくあるのだが……。
それはさておき、こうした身投げがあまりに多かったから、付近の町民が「これではたまらん」と、水難よけの地蔵堂を建てた−−。宮本又次さんの著作「船場」に、こんなくだりがある。
曲がりのあたりの駐車場の奥、阪神高速の高架下の薄暗い所に、「曲がり渕地蔵尊」の地蔵堂がある。入り口には金網が張ってあって鍵がかかっている。近所のたばこ屋さんが管理しておられるというので訪ねてみたが、「取材も写真撮影もお断り」とけんもほろろだった。
どうやら、亡くなった先代の大将がどこからか地蔵を見付けてまつったようだ。地蔵堂の金網越しに、その大将が記した由来書を見ると、97年に地蔵堂を建てたと思われる。地蔵さんが江戸時代からこの世にあるほど古いのかどうかは、地蔵堂に近づけないので確かめようがないが、大将が曲がりの歴史をよく知っていて、水難よけの地蔵を後世に残そうとしたのだろう。由来書の最後にはこうあった。「今後も人々から手厚く敬われることをお願いする次第である」
◇
前に挙げた「船場」から、昔の曲がりの辺りを点描してみる。江戸時代は手ぬぐい染め屋が多く、干し場に手ぬぐいがたなびくのが、おなじみの風景だった。同書には、屋根の上の干し場に手ぬぐいが何十枚も垂れ下がって干されている大正時代末の写真が掲載されているから、江戸時代のみならず明治、大正時代まで、曲がりの代名詞だったようだ。
また、明治維新前後は、松島に対して小松島と呼ばれる色町として栄えたというから、「饅頭こわい」からだいぶ時代が下って、様変わりしたようだ。安物の遊女が客を引いていて、曲がりは安物の遊女の意味でもあったという。出合い茶屋、いまでいうところのラブホテルもあって、手ぬぐいと色町が同居していたわけだ。想像するだに、なんとも奇妙な光景である。
◇
本町通の1本南の通りで、大阪案内人の西俣稔さんが立ち止まる。細い通りを指して「鰻(うなぎ)小路と呼ばれてた通りです」。東署の裏手にあたり、東署の寮があって、警察車両が止まっている。堺筋の1ブロック手前までの200メートル足らずを歩いてみるが、ビルとビルに挟まれて、なんの変哲もない。
「でこぼこがあるから、細長くてうねうねしてる地形がうなぎに似てると、名前が付いたんじゃないでしょか」と西俣さんが推測する。別名「絹張小路」といい、繊維と縁が深かった土地柄をうかがわせる。【松井宏員】
-
2011年5月19日
銅鐸「第3の鳥」浮かぶ 最古 コウノトリ足跡 弥生期、信仰対象の可能性
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/19/20110519-052983.php
池島・福万寺遺跡(大阪府の東大阪、八尾両市)の弥生時代の水田跡で18日、コウノトリと確認された鳥の足跡。同時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥は長年、サギやツルと考えられ、近年はサギ説が有力視されていたが、今回の発見で奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長が「銅鐸の鳥の足は指を大きく広げている。サギではありえない表現」と主張。コウノトリ説が銅鐸の鳥論争に名乗りを上げた。
今回の発見は、最初に大阪府文化財センターなどによる平成8年の発掘調査で、人や鳥の足跡をそれぞれ約100個確認。兵庫県立コウノトリの郷公園の職員らが昨年2月に偶然、足跡の石膏(せっこう)型を見たことで調査が進展した。
同公園のコウノトリとアオサギの足跡の型を照合した結果、特徴が酷似。さらに山階鳥類研究所(千葉県)にも分析を依頼し、コウノトリの可能性が高いことが確認された。
この発見を機に、弥生時代の銅鐸に描かれた鳥もコウノトリだった可能性が浮上した。
神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(国宝)などには、首や足が長い鳥が描かれており、これまでサギやツルとされてきた。コウノトリ説が明確に浮上しなかったのは、すでに絶滅に瀕(ひん)し研究者らにとって身近な鳥ではなかったことが影響しているという。
大阪府立弥生文化博物館の金関恕館長は「農耕生活を営む人間のすぐそばにコウノトリがいたと考えられる」と主張。松井センター長は「コウノトリはサギより大きく目の周りや足が赤い。神々しいと考えて当然だ」として信仰の対象だった可能性も指摘する。
一方、国立歴史民俗博物館(千葉県)の春成秀爾名誉教授(考古学)は「当時はサギもツルもいただろう。コウノトリだけ信仰の対象というのは考えにくい」と主張。青銅器に詳しい寺沢薫・元奈良県立橿原考古学研究所研究員も、銅鐸の鳥は稲の魂を運んでくる象徴として描かれたとした上で、「稲の魂を運ぶ真っ白な鳥はサギ。サギが有力だろう」と反論している。
-
2011年5月19日
国内最古 コウノトリの足跡 大阪府の池島・福万寺遺跡で発見
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/19/20110519-052947.php
大阪府の東大阪、八尾両市にまたがる池島・福万寺遺跡の弥生時代の水田跡から、国の特別天然記念物コウノトリの国内最古とみられる足跡が見つかり、奈良文化財研究所が18日、発表した。群馬県前橋市の元総社北川遺跡で古墳時代(6世紀)のコウノトリの足跡が確認されているが、西日本では初で、約900年さかのぼる発見となった。
今回の発見で、絶滅が危惧されるコウノトリが約2400年前には人と共存していたと推定され、神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(どうたく)(国宝)など弥生時代の銅鐸に描かれた鳥が、これまで論争があったツルやサギではなく、コウノトリだった可能性も浮上した。
足跡の石膏(せっこう)型は、21日から府立弥生文化博物館(和泉市)で公開される。
-
国内最古のコウノトリの足跡
http://www.nhk.or.jp/lnews/nara/2055878822.html
15年前、大阪・東大阪市の弥生時代の水田の遺跡から見つかった鳥の足跡について奈良文化財研究所が分析したところ、コウノトリの足跡であることがわかりました。絶滅のおそれがあり、国の特別天然記念物に指定されているコウノトリが当時は水田のフナなどを食べるために人里にいたことを示すもので、稲作が始まった当時の人と自然の関わりを示すものとして注目を集めています。
この遺跡は、平成8年に大阪・東大阪市から八尾市にかけて見つかった弥生時代の水田の跡の池島・福万寺遺跡です。
水田の跡から見つかった鳥の足跡がどういう種類の鳥かわからないことから、大阪府文化財センターが奈良文化財研究所に分析を依頼していました。
研究所では、鳥類の専門家に協力を得て日本で記録のある542種の鳥類を調査した結果、足跡の大きさや特徴から今からおよそ2400年前、国内最古のコウノトリの足跡であることがわかりました。コウノトリは当時、日本にたくさん生息し、水田にいたフナなどの小さな魚を食べるため人里におりてきていたと見られています。
弥生時代の銅鐸には鳥の絵が描かれたものが見つかっていて、分析をした奈良文化財研究所の松井章埋蔵文化財センター長は「銅鐸に描かれたのはコウノトリだ。弥生時代にはコウノトリが信仰の対象となっていた」と話しています。
05月19日 10時21分
-
弥生人の身近にコウノトリ 大阪の水田跡に最古の足跡
http://www.asahi.com/culture/update/0518/OSK201105180167.html
大阪府東大阪、八尾両市の池島・福万寺遺跡で15年前に見つかった鳥類の足跡が、弥生時代前期(2400〜2500年前)のコウノトリのものと確認された。国内最古とされてきた前橋市の水田跡(6世紀)で見つかったものより、約900年さかのぼる。
鑑定した奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長(動物考古学)らが18日、発表した。数十個が人の足跡とともにまとまって出土したことから、弥生時代の銅鐸(どうたく)に描かれ、サギかツルとみられてきた鳥はコウノトリの可能性がある、とも指摘している。
1996年に府文化財調査研究センター(現・府文化財センター)が、洪水に埋もれた水田跡(約400平方メートル)で数十個を確認。ほとんどが同じ種類の足跡で、長さ15.1センチのものをひとつだけ石膏(せっこう)で型どりした。
松井さんが昨年、兵庫県立コウノトリの郷公園(同県豊岡市)から足型を借りて照合したところ、指の長さや太さなど特徴が一致。共同研究した山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)も、コウノトリの可能性が高いという結論を出した。
-
見〜つけた一品:なつかしの甘食 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110520ddlk27040415000c.html
◆マルミベーカリー(南海・堺駅徒歩10分)
◇牛乳に浸して、とろん
あ・ま・しょ・く。記憶の奥の方にあった名前を、久しぶりに引っぱりだしてきた気分。元気だったんだねえ。こんな言葉をかけたくなる。「懐かしがって買われる方が多いですね」と店主の春木淳一さん(49)。そんな話をしていたら、迷いもせずに、2パックを手にして、買っていくおばさんがいた。
「特に変わった作り方ではないんですがねえ」(春木さん)。そこが郷愁をそそる。少しだけPRするなら、ケーキに使う上等な小麦粉を使用していることと、裏をしっかり焼いていること。こうして、密でしっかりした生地に仕上がっている。さてさて、食べ方は……。牛乳に浸して、とろんと軟らかくして食べるのが好き。我流かと思ったら、「もちろん、その食べ方ですよ」と春木さん。認知されていたんだ。
昭和2(1927)年創業。看板商品の「ポルトガルパン」(250円)は、現地のレシピに忠実に作られ、軽めの食感でほのかな甘みがある。このほか、地元のちんちん電車の形をした「チン電パン」(350円)はバニラクリーム入り。どれも素朴さがいい。【三角真理】
==============
280円(3個入り)。プレーン、紅茶、クルミの3種類。堺市堺区市之町東2丁1の8、電話072・232・1231。7〜19時。日曜定休。
■ひとこと
毎月21日、四天王寺(大阪市天王寺区)の大師会(だいしえ)で露店の一つとして出店しています。
-
育て伝統の「玉造黒門越瓜」 大阪の児童ら苗植え
2011年5月20日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201105190091.html
なにわの伝統野菜に認証されている「玉造黒門越瓜(しろうり)」を広めていこうと、大阪市中央区役所は18日、同区保健福祉センターで苗植え式を開いた。玉造黒門越瓜保存会員と同市立南大江小学校の4年生約60人が参加し、越瓜の苗10株を植えた。
江戸時代、大阪城の玉造門付近で作られる越瓜が良質で、かす漬けが評判となり、玉造黒門越瓜と呼ばれるようになった。明治時代ごろから都市化の影響で作られないようになったが、2002年から玉造稲荷神社(同区玉造2丁目)を中心とした同保存会が普及に取り組んでいる。
この日、子どもたちは同保存会の会員の助けを借りながら、同センター2階テラスの畑に10株の苗植えをし、「実がなったらまた見に来たい」などと話していた。7、8月には長さ約25センチ、太さ約10センチの瓜が収穫できるといい、同区役所は8月下旬に予定されている食育イベントで料理などに使う予定。(吉川喬)
-
芥川龍之介「朝日新聞…一笑」書簡2通を発見 神経衰弱も綴る
2011.5.20 11:24
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110520/osk11052016060009-n1.htm
小説家の芥川龍之介(1892〜1927年)が、大阪毎日新聞の学芸部長を務めた岡山県倉敷市出身の詩人、薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)に宛てた未発表の書簡2通が同市内で見つかっていたことが20日、分かった。
ライバル紙への皮肉などを込めた内容で、倉敷市文化振興課は「当時の大新聞同士の事情や芥川の人間性がうかがえて興味深い」としている。
1通は大正8(1919)年5月の封書。大阪毎日に入社直後の芥川がライバル紙の大阪朝日新聞の文人パーティーに招かれなかったことへの皮肉を述べたもので「招待された顔ぶれをみると(朝日の文芸担当である)柳沢の友だちが多いので一笑しました」と書かれている。
もう1通は10年10月、海外視察員として中国旅行後に心身が衰弱した芥川が、療養していた神奈川県湯河原町から送った絵はがき。「神経衰弱は中々なほりません」「今度と云ふ今度は殆死ぬほどへこたれました」と、自殺の一因とされる神経衰弱に悩む心情がつづられている。
平成20年に市に寄贈された泣菫の遺品を調査した岡山大大学院の西山康一准教授らが確認した。
-
>>171
芥川の書簡見つかる
http://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023010261.html
作家の芥川龍之介が詩人の薄田泣菫に宛てた未発表の書簡が岡山県倉敷市で見つかり、当時の芥川の心境を知る貴重な資料として注目されています。
今回、見つかったのは作家の芥川龍之介が岡山県倉敷市出身の詩人、薄田泣菫に宛てて書いた未発表の書簡2通です。
芥川と交流があり、同じ大阪毎日新聞に務めていた泣菫の孫が3年前に倉敷市に寄贈した資料の中から、岡山大学大学院などの研究者のチームが発見しました。
このうち、大正8年5月の書簡は、大阪朝日新聞の会合に招かれなかったことについて書いたもので、「恐らく商売仇のせいでせう」などと記され、泣菫とともにライバル紙の大阪毎日新聞に勤めていたことが会合に招かれなかった理由だとみずから推測しています。
また、芥川が自殺する6年前の大正10年10月に、療養先から送った絵はがきには、「神経衰弱は中々なほりません」とか、「今度は殆死ぬほどへこたれました」など自殺の一因とされる神経衰弱に悩む芥川の心境が読み取れます。倉敷市文化振興課の秋山剛主任は、「新聞社どうしのライバル関係が読み取れるうえ、徐々に芥川の元気がなくなっていく様子がわかり大変、貴重な資料だ」と話していました。
見つかった書簡は、解析が行われたあと、一般に公開されるということです。
05月20日 19時44分
-
芥川龍之介:未発表の書簡発見 薄田泣菫宛て、倉敷で
http://www.nhk.or.jp/lnews/okayama/4023010261.html
芥川龍之介(1892〜1927)の未発表の手紙とはがきが、岡山県倉敷市が所蔵する資料から見つかった。倉敷市出身の詩人で、大阪毎日新聞(現毎日新聞)学芸部長を務めた薄田泣菫(すすきだ・きゅうきん)(1877〜1945)に宛てた書簡。泣菫の遺族から同市に寄贈された遺品の中にあった。
手紙は濃いピンクの封筒に入れられ、大正8(1919)年5月23日の消印がある。「大阪朝日の披露会は菊池及(および)僕を招待せず恐らく商売仇(かたき)のせいでせう」などと述べている。泣菫は当時、新進作家だった龍之介や菊池寛を積極的に社員として採用していた。大阪毎日のライバル紙の大阪朝日新聞(現朝日新聞)が文芸関係者を集めたパーティーに招待されなかったことについて、龍之介は「招待された顔ぶれをみると柳沢(朝日の文芸担当)の友だちが多いので一笑しました」と皮肉を記している。
はがきは大正10(1921)年10月21日の消印で、養生のために訪れていた神奈川県の湯河原から投函(とうかん)されている。「腹下しはやつととまりましたが神経衰弱は中々なほりません」などとあり、後の龍之介の自殺につながる心身の衰弱ぶりがうかがえる。
泣菫の遺品には、龍之介や寛のほか、与謝野鉄幹・晶子夫妻や谷崎潤一郎ら当時、泣菫と交流のあった作家たちの書簡や生原稿などが多数あり、市が全国の研究者7人に依頼して調査していた。今回確認された龍之介の2通は、岡山大大学院の西山康一准教授と東京成徳大の庄司達也教授が調べた。
倉敷市文化振興課は「研究し尽くされた芥川龍之介に関して、未発表書簡があったのは大変な驚き。今後も資料調査を続けたい」と説明している。【小林一彦】
◇芥川龍之介
1892年東京生まれ。東大在学中、夏目漱石に認められ文壇へ。1919年、大阪毎日新聞に入社し作家活動に専念した。21年、同社海外視察員として中国旅行。帰国後、心身を病み、27年自殺した。代表作に「羅生門」「河童」「鼻」など。
◇薄田泣菫
1877年、現在の岡山県倉敷市生まれ。97年、詩壇デビューし明治を代表する詩人となった。1912年、大阪毎日新聞入社。学芸部長として、芥川や菊池寛を新聞小説に起用した。代表作に詩集「白羊宮」など。
-
<削除>
-
<削除>
-
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
国内最古のコウノトリの足跡を展示
国内で最も古いものであることが分かったコウノトリの足跡が大阪府和泉市の博物館で21日から展示されています。
このコウノトリの足跡は東大阪市と八尾市にまたがる弥生時代の水田跡「池島・福万寺遺跡」で見つかったものです。
調査の結果、この足跡は国内で見つかったものの中で、最も古い弥生時代前期のものであることが分かりました。この発見によって、いまや絶滅危惧種とされるコウノトリが当時多く生息し、人間と共存していたことが分かりました。訪れた人は、「こんな時代からおったってコウノトリがいたということは不思議ですなぁ。人間と仲良かったんやろうな」
「(昔は)コウノトリがたくさん住んでいたとは聞いていたが、大阪もコウノなんとかという地区があるけど、これから名前きたのかなと思った」などと話しました。
この展示会は、7月3日まで開かれています。
【河内のムラの物語】
・7月3日まで
・大阪府立弥生文化博物館 .
-
スケジュールなどを確認 天神祭講社会合
2011年5月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110521/20110521021.html
大阪の夏の風物詩・天神祭(7月24、25日)を前に、祭りに奉仕する講社の会合が20日、大阪市北区の天満宮会館で開かれ、当日のスケジュールなどを確認した。
各講社の代表者ら約60人が出席。12日の実行委員会で承認された陸渡御や船渡御などの行事計画や巡行コースが報告された。
また、25日夕の奉納花火について、大川沿いの桜宮公園では打ち上げ花火を、造幣局東側では仕掛け花火を中心とし、約3千発を打ち上げることが説明された。
大阪天満宮講社連合会の宗石剛会長は「震災で自粛ムードもあるが、元気を発信する祭りにしたい」とあいさつ。花火の個人協賛を義援金に充てるなど、東日本大震災の復興を支援していくことも確認した。
-
イベント情報
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/event/
◆重要文化財「愛珠幼稚園」園舎 一般公開
23日午後1〜4時、大阪市立愛珠幼稚園(地下鉄淀屋橋駅)。明治34年に建てられた園舎の一般公開。学芸員による建物の解説や園児たちに親しまれてきたグランドピアノの演奏も。参加費無料。参加希望者は当日直接会場へ。大阪市教育委員会事務局文化財保護担当(06・6208・9030)
-
絵本を「まちかねたワニ」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110522-OYT8T00081.htm
約45万年前に生息し、化石が豊中市で出土した巨大ワニ「マチカネワニ」をテーマにした絵本「まちかねたワニ」を市地域雇用創造協議会が5000部作成した。希望者や市内の店舗などに無料で提供している。
「マチカネワニ」は1964年に同市待兼山町の大阪大豊中キャンパスで骨片の化石が発見され、現場の地名を取って名付けられた。国内で見つかったワニ類の化石第1号で、体長約7メートル、体重約1・3トンと推定。同大学や市がそれぞれマスコットとして活用しており、市内では下水道のマンホールに刻まれている。
絵本は「マチカネワニ発見の地・豊中をPRしよう」と同協議会が企画。体が大きすぎて竜と間違われた恥ずかしがり屋のワニが、ワニだとわかってほしいと待つうちに絶滅し、化石になったというストーリーで、イラストレーターの仲田万里子さんが絵を手がけた。
協議会では各店で絵本を活用してもらうほか、今後はマチカネワニに関連した商品開発の支援を進めていく方針で、「マチカネワニを豊中のブランドとして広め、地域活性化につなげたい」としている。
絵本は15センチ四方の12ページ。問い合わせは同協議会(06・6398・7719)。
(2011年5月22日 読売新聞)
-
『大阪歳時記 五月(皐月)』
http://www.jinjacho-osaka.net/saijiki-osaka/5gatsu/05_saijiki_5gatu_syouman.htm
小満 二十四節気の一つ。 5月21,22日頃 七十二候
万物が次第に成長して、一定の大きさに達して来る頃。
天文学的には、天球上の黄経60度の点を太陽が通過する瞬間。
麦畑が緑黄色に色づき始めます。
「住吉大社」 卯之葉神事(うのはしんじ)
大社の創立が、神功皇后摂政十一年辛卯(かのと・う)年の卯月上の卯の日であるという伝承により行われているものです。
現在では、5月初めの卯の日に卯の花の玉串を神前に捧げ、石舞台で卯の花のかんざしをさして舞楽が奉納されるなどの形で行われていますが、江戸時代は、「四月卯之日神事」として、かなり盛大に行われていたようです。
「住吉名所図会」には、当時の模様が見開き四頁にもおよぶイラスト入りで記述されていますが、それから判断してもかなり盛大であったことが伺えます。
卯の葉神事が行われる前後、卯の花が満開になる時期に合わせて、「卯の花苑」が毎年公開されています。
落語に「卯の日参り」という出し物があります。この話の舞台は住吉大社です。卯の日に参る賑やかな住吉界隈が舞台です。
住吉大社の手水舎にウサギの石像があるのは、うさぎ(卯)に縁の深い神社だからです。
-
【日本三大祭の中で一番賑わう大阪の天神祭について】
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/7_2.html
天神祭の歴史
鉾流神事
当宮鎮座の翌々年の天暦5(951)年に鉾流神事が始まったと伝えられます。これは社頭の浜から神鉾を流し、その漂着した地を斎場と定めて、そこに神様を御迎えする神事です。
鉾流神事は、鉾に託して「穢れ」を祓うとともに、年に一度、神様が氏地を巡見されるという意味合いも持っています。この神様のお出ましを奉祝するために「天神祭」が始められたのです。
ところが、寛永21(1644)年の還御後は、常設の斎場(御旅所)が設けられたため、鉾を流す必要がなくなり、神事は途絶えてしまいました。しかし、昭和5(1930)年に至って鉾流神事が復活され、現在も古式ゆかしく斎行されています。
陸渡御
神様に氏地の平安を御覧いただこうと、氏子たちが御迎えの行列を組んだのが陸渡御・船渡御の始まりです。陸渡御列の中心は、神霊を奉安する御鳳輦ですが、この前後を催太鼓や神輿、神具、牛車、旗、鉾などが供奉して氏地を巡回し、天神橋北詰めの乗船場まで進みます。
かつての氏地各町では、地車(だんじり)を曳いて神様の渡御を悦びましたが、安永9(1780)年には八十四輌もの地車が宮入りした記録があります。現在では、一輌だけ残った三ツ屋根地車が渡御列に御奉仕しています。
船渡御
江戸時代には、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾りたて、御旅所へ御迎えの船列を整えました。昭和12(1937)年の船渡御列は、二百艘に達したといいますが、現在は警備の都合もあり、約百艘に制限しています。
昭和28(1953)年、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っています。
天神祭のご馳走
天満宮の参道にあたる西天満の旧家、内藤壽一さんの家では、天神祭には門にちょうちんを出し、家紋の入った幕をはって迎えます。住まいは明治43年(1910)に上棟された大阪の町屋から、いまはビルになっていますが、天神祭のご馳走は変わりません。
壽一さんの妻の芳美さんは、帰省する子どもたちや孫たちのために、毎年お祭りの料理を用意します。芳美さんに内藤家の天神祭のご馳走を披露していただきました。
メニュー
1.鱧ちり
熱湯にくぐらせた鱧を氷水にさらして冷まします。水気をとって盛りつけ。梅肉、ミョウガとともにいただきます。
2.鱧の照り焼き
骨切りした鱧の切り身にタレをつけてじっくり焼き上げます。はじかみショウガが添えられています。
3.小芋の煮物
ぬめりをとった小芋を薄味で炊き、色よくさっと炊かれた絹さやが添えられます。だされる直前には、すりおろした柚子をかけます。
4.タコとキュウリの酢の物
生タコの足をゆでて、薄切り。輪切りキュウリは塩をした後に水にさらしてしぼり、タコとともに合わせ酢で和えます。ミョウガが添えられています。
5.冷やしそうめん
深鉢に氷と青しそがあしらわれ、薬味には、きざみねぎ、椎茸の煮物、錦糸たまご、えび、すりおろした土ショウガが並びます。
6.白天とかいわれ菜のおすまし・きくらげ入りの白天、かいわれを盛りつけた椀にすまし汁を注いでいただきます。
7.枝豆・ゆでた枝豆も、冷えたビールとともに夏には欠かせないメニューです。
あっさりとした味付け、しゃきっとした歯ごたえ。夏にふさわしい食感と、味を引き締める薬味にも気をつかってだされる料理。どれもおいしそうで、食もすすみます。
-
大阪・コウノトリ足跡:“弥生”から命つながる 特定に15年、研究者の熱意 /兵庫
http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20110522ddlk28040328000c.html
◇奇跡的に保存 野生復帰事業の励みに
大阪府の池島・福万寺遺跡で見つかり、18日に発表された国内最古のコウノトリの足跡は偶然の産物だった。洪水で水田に泥が入り、足跡が付きやすい堅さになった時、コウノトリが舞い降りた。足跡が付いた直後の洪水で白い砂が入り、風化を防いだ。研究者たちの熱意もあって、弥生時代にコウノトリが飛び交う風景を、現代人が描く手がかりができた。【高瀬浩平、皆木成実】
調査を担当した大阪府文化財センターの井上智博主査は96年、弥生時代前期後半の水田跡に白い足跡がくっきり浮かび上がっているのを見つけた。「驚いた。鳥の足跡は浅いので、残るのは奇跡的」と振り返る。
足跡をつけた鳥が分かるまで約15年を要した。県立コウノトリの郷公園(豊岡市)の増井光子・前園長(故人)と、獣医の三橋陽子さん(38)が昨年2月、奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長を訪問したのが転機となった。三橋さんは、後趾(こうし)(後ろ側に伸びている足の指)の跡が後斜めに伸びている特徴から、水鳥の中でもサギやハクチョウでなく、コウノトリの可能性があると指摘した。
三橋さんは「当時コウノトリが列島に生息していたことは分かっていたが、生息域の広がりが確認できる新たな資料が見つかり、大変うれしい」と話した。
山階鳥類研究所(千葉県我孫子市)も協力。国内で確認された542種すべてを調査対象とし、迷い鳥や発達した水かきがあるカモなどを除外。コウノトリ、アオサギ、ダイサギの3種に絞った。最後は統計学の手法で、足の指が太く、指の幅が広いコウノトリの可能性が極めて高いと結論付けた。
奈文研は19日、コウノトリの足跡の石こう型、生駒山地を背景にコウノトリが飛び交う田園風景のイラストなどを、大阪府立弥生文化博物館(大阪府和泉市)に提供した。同館で21日〜7月3日まで展示される。
コウノトリを野生復帰させる事業を進める豊岡市の中貝宗治市長は「まさに、古代から命がつながっていると感じた。感動した。野生復帰事業の励みになる」と喜んでいる。
-
おニューのだんじりお披露目 生野の東桃谷岡地車会
2011年5月23日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201105220120.html
大阪市生野区の東桃岡地車(じぐるま)会(中山英信会長、会員約100人)が古くなっただんじりを買い替え、22日に周辺を練り歩いてお披露目し、会の名称も東桃谷岡地車会に変更した。
同地車会は2006年に41年ぶりにだんじりを復活させたが、だんじりの老朽化にあわせ、もっと大きなだんじりがほしいという声が上がっていた。このため昨年3月、ほかの保存会が使っていただんじりを購入し、約1年間かけて補修作業をしてきた。
新しいだんじりは高さ約3.2メートル、長さ約4.8メートル、重さ約2.2トン。以前のものと比べて一回り大きい。ケヤキ製で、屋根周りに青竜(せいりゅう)や朱雀(すざく)が彫られ、あんどんや垂れ幕で装飾されている。同地車会の団体色のピンク色を使ったあんどんが特徴的だ。
この日は午前中に同区勝山北3丁目の市立東桃谷小学校で新しいだんじりに魂を込める入魂式をし、午後から大人約20人と子ども約50人で周辺を4時間ほど練り歩き、だんじりばやしに乗せ「わっせい、わっせい」と威勢のいい声を響かせた。
新しいだんじりは、7月の弥栄神社の夏祭りで本番デビューする予定だ。(吉川喬)
-
なるほドリ:「百舌鳥・古市古墳群」は世界遺産になるの? /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110523ddlk27070203000c.html
◇昨年、暫定リストに登録 市民一体の体制作り重要
なるほドリ 今月12日に「百舌鳥・古市古墳群」の世界遺産への登録を目指す推進本部の最初の会議が開かれたね。世界遺産になるのかな?
記者 世界遺産には文化、自然、複合の各遺産があります。百舌鳥・古市古墳群は、堺、藤井寺、羽曳野の各市一帯に広がる古墳群で、昨年11月に暫定リストに登録されました。
Q 暫定リストって何なの?
A 世界遺産条約の締結国による、世界遺産に登録してもらいたい候補の一覧です。地元自治体が国に記載を提案し、認められれば、国が国連教育科学文化機関(ユネスコ)に提出して、世界遺産登録に向けた動きが始まります。
Q 「百舌鳥・古市」は世界遺産になるほど貴重なものなの?
A 「百舌鳥・古市」は世界最大の面積を誇る仁徳天皇陵や日本で2番目の規模となる応神天皇陵を含む、国内最大級の古墳群で、これらの古墳は日本の古代国家形成過程や文化的伝統のあり方を示すものです。世界遺産となっているエジプトのピラミッドなどと並び、普遍的価値があるのです。しかし100基以上あったとされる百舌鳥古墳群の古墳は、開発などで約50基まで減っており、守る必要があります。
Q じゃあ、世界遺産の登録は実現できるの?
A 府や堺市などは2015年ごろの登録を目指しています。そのためには、国が候補の推薦書をユネスコに提出し、国際記念物遺跡会議(イコモス)の現地調査などを経て世界遺産委員会の審査を受けないといけません。登録のためには普遍的価値の証明のほかに万全の保護措置が求められます。堺市などは古墳周辺の景観保全などを急いでいますが、世界遺産は遺跡や景観を後世に残していくためのものです。市民も一体となって守り伝える体制づくりが重要になりますね。<回答・内田幸一(社会部)>
==============
あなたの質問をお寄せください。
〒530−8251(住所不要)毎日新聞社会部「質問なるほドリ」係(o.shakaibu@mainichi.co.jp)
-
古代から現代までの堺の歴史 1冊に
2011年05月22日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001105230002
「歴史たんけん堺」を自費出版した小松清生さん=堺市堺区南瓦町
古代から現代までの堺の歴史を、カラー写真を交えて紹介した資料集「歴史たんけん堺」を、堺市北区の元小学校教諭小松清生(すがお)さん(63)が自費出版した。筆者は小松さんと教員仲間の5人。小松さんは「市内散策のガイド本としてもどうぞ」と話している。
小松さんは、教員や市民らでつくる「大阪歴史教育者協議会」の堺支部代表を務める。授業で歴史を教えるとき、教科書には堺の記載が少ないと感じた。「教科書の傍らに堺に特化した本があれば、歴史が身近になる」と、1996年から資料集づくりを始め、2009年に「歴史たんけんプリント堺」(約60ページ)と題した非売品の冊子を完成させた。市内すべての小中学校に配布して一部で副読本として利用された。
「歴史たんけん堺」は、この冊子をもとに大幅加筆した。縄文・弥生、古代、中世、近世、近代、現代の6部構成で、古代の項目では、堺市南区の泉北ニュータウンにかつて、須恵器の生産工場が点在していたことを知ってもらおうと、現在の建物や道路の地図の上に、窯跡をピンク色で示した。
このほか、刃物や昆布など伝統産業の成り立ちや、戦時中の空襲を経験した市民らから聞き取った体験談なども紹介。市博物館や市立中央図書館、新聞社などから借り受けた仁徳陵古墳などの写真も掲載している。
小松さんは「堺は百舌鳥(もず)古墳群や茶の湯、鉄砲など名だたる歴史と文化の街。この資料集が堺を知る一助になれば」と話す。
B5判70ページ、千円。4月から堺市内の主な書店で販売している。問い合わせは小松さん(ファクス072・254・1717)へ。
-
被災者招き 初の寄席
2011年5月22日
大阪市阿倍野区の住民らが運営する恒例の「田辺寄席」が21日、同区の桃ヶ池公園市民活動センターで、東日本大震災の被災者を初めて招いて開かれた。
昼の部では、桂文太さんら落語家4人が創作や古典の5題を披露。巧みな話芸に、市民ら約150人でいっぱいの会場では何度も、笑いが起きた。
福島県南相馬市から避難し、家族4人で大阪市西成区の市営住宅で暮らす中橋幸子さん(65)は「生の落語は初めて。語りにはキレがあって、気分転換になりました」と喜んでいた。
田辺寄席は1974年、プロの落語家の芸を楽しもうと始まった。最近は毎月3回開かれ、22日に570回目を迎えるという。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110522-OYT8T00084.htm
-
古墳時代にタイムスリップ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110524-OYT8T00070.htm
6世紀前半の前方後円墳「今城塚古墳」(高槻市郡家新町)に、武人や馬、水鳥などの形象埴輪(はにわ)のレプリカ約190点がずらりと並んでいる=写真=。
二重の濠(ほり)に挟まれた堤から外側にせり出すように造られた「埴輪祭祀(さいし)場」から出土した破片から復元。両手を挙げて祈ったり、杯を持ったりする巫女(みこ)の埴輪もあり、亡くなった大王の魂を鎮めるために行われた儀式を表現したという。
今城塚古墳は継体天皇陵という学説が有力で、高槻市が史跡公園として整備し、隣接する今城塚古代歴史館とともに4月にオープンさせた。同館の森田克行館長は「200点以上の形象埴輪が出土した例はほかになく、造形も優れている。古墳時代の儀式の様子がわかる生きた教材」と話している。
古墳は自由に見学ができ、歴史館の入館料は無料。月曜と祝日の翌日が休館。問い合わせは同館(072・682・0820)。(斎)
(2011年5月24日 読売新聞)
-
http://www.sumiyoshitaisha.net/news_static/20110415.html
住吉大社は神功皇后摂政11年辛卯歳(211)にこの住吉の地に鎮座以来、平成23年をもって1800年となります。
そして5月12日に記念大祭をご斎行申し上げ、様々な奉祝行事を執り行います。
5月24日(火) 表千家献茶式 於:神楽殿
不審庵茶道表千家家元 千宗左による献茶が行われます。
※お茶券は各お家元にお尋ね下さい。
-
遅くなってごめんなさい、昨日行われた祭です。
田村祭(たむらさい)
http://www.jinjacho-osaka.net/osaka-no-matsuri/osakasinai/tamurasai_kumatajinjya.html
神社 杭全神社(くまたじんじゃ)
斎行日時 5月23日(毎年)午前10時祭事施行
内容 杭全神社は征夷大将軍坂上田村磨の孫、当道により、素戔嗚尊を氏神として創建されました。
毎年、坂上田村麻呂公の命日である5月23日に、田村社において田村七名家の参列の元「田村祭」が行われます。
神前には特殊神饌「剣菱」が供えられ、参列者にもふるまわれます。
-
「マリア十五玄義図」修復
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110525-OYT8T00086.htm
きょうから茨木の史料館で公開
茨木市北部の民家で1920年に見つかり、府有形文化財に指定されている絵画「マリア十五玄義図」(縦82センチ、横65センチ)=写真=の修復が完了した。同市が所有者から寄託を受けて保管し、昨年10月から汚れを除いたり、しわを伸ばしたりする作業を行っていた。25日から6月13日まで、同市千提寺の市立キリシタン遺物史料館で公開する。
「マリア十五玄義図」は、聖母マリアとキリストの誕生から死、復活などの15の出来事を表現している。江戸時代初期にキリスト教を信仰していた人たちが禁教令の中、隠し持っていたもので、木箱に入れて中身を知らせないまま長年、保存されていたという。
劣化が激しく、紙の亀裂や絵の具の剥離(はくり)などがみられたため、2006年に府文化財になったことなどから、同市が専門業者に修復を依頼していた。
同図は、国内では同市北部の別の民家からも図柄が異なるものが見つかり、京都大に寄贈されており、国の重要文化財に指定されている。
市教委は24日、今回修復された図を報道陣に公開。所有者の東満理亜さん(61)は「きれいになってよかった。先祖が苦労して残してきた歴史を知ってほしい」と話した。
修復記念特別公開展ではキリストの木像や墓碑など約25点も展示される。火曜休館。入館無料。問い合わせは同館(072・649・3443)。
(2011年5月25日 読売新聞)
-
大阪→東京 移設判明 1907年
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110526-OYT8T00072.htm
研究家・福井さん 新聞に記載、その後調査へ
明治末期の1906年に大阪・天王寺公園に登場した国内初の観覧車が、翌07年に東京・上野の博覧会場に移設されていたことが、観覧車の歴史に詳しい福井優子さん(63)(東京都)の調査でわかった。「グレートホイール」と呼ばれたこの観覧車は、1か月半運行された後に解体されたが、その後の行方は不明だった。福井さんは近く学会誌に寄稿する論文の中で、調査結果を公表する予定。
福井さんによると、グレートホイールは、日露戦争翌年の1906年に開かれた「戦捷(せんしょう)紀念博覧会」会場の天王寺公園で、同年5月から閉幕の翌6月17日まで運行された。車輪の直径は約15メートル、14個のゴンドラが蒸気で動いていた。
福井さんが、知人からの情報を基に調べたところ、翌07年に上野で開かれた「東京勧業博覧会」で運行されていた観覧車2基のうち、1基について、同年4月11日付の「都新聞」(現・東京新聞)の記事に「工事中なる空中廻転車は大坂博覧会に使用せしをそのまま運搬せしもの」とあった。
「大坂博覧会」とは、戦捷紀念博覧会を指すとみられ、同年6月12日付の「国民新聞」(現・同)に掲載された写真などの資料から、ゴンドラ数や形状、蒸気を動力とすることなど、特徴が一致することが確認できたという。
観覧車は、勧業博覧会で運行された2基のうちの電動式観覧車が長らく「国内第1号」とされてきたが、実際の国内初は大阪のグレートホイールだったとする調査結果を、福井さんが約10年前に発表し、〈史実〉が塗りかわった経緯がある。
福井さんは「国内第1号を巡る因縁の2基が、勧業博覧会で協働していたとは思いも寄らなかった。観覧車が移設されることは現在もよくあり、グレートホイールも興行主の間で転売されたのだろう。日本で観覧車が普及していく歴史的経緯が少しずつ明らかになってきた」と話す。勧業博覧会終了後にグレートホイールがどうなったのかはわかっておらず、今後調査したいという。
(2011年5月26日 読売新聞)
-
2011年5月26日
泉州検定に60人が挑戦
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/26/20110526-053224.php
泉州地域(9市4町)の歴史、文化などの知識を問う「第7回泉州検定」が、大阪府泉南市の市立文化ホールで行われ、府内のほか、千葉などから約60人が挑戦した=写真。
泉州への関心を持ってもらうとともに、ガイド育成を目的に、NPO法人「りんくうフォーラム」が平成20年から開催。今回から「並級」「上級」に加え、難易度の高い「師範級」が新設された。
会場では、試験直前まで勉強する受験者の姿も。緊張感がただようなか、「タオル織機を開発した人物は」「岡部宣勝が岸和田藩主になる以前、藩主であった藩は」―などさまざまな問題が出され、参加者たちが真剣に取り組んでいた。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/208 橋の裏側 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110526ddlk27070416000c.html
◆大阪市中央区
◇川面から見える個性 凝った意匠が面白い
ここらで一服。東横堀川の川面から橋を見てみよう。古い橋の裏側は、意匠が凝らされていて、けっこう面白い。最近はリバークルーズがはやってるので、見比べるのも一興。
現存する大阪最古の本町橋は、正面から見ると実に風格がある。きれいなアーチを描く石造りの橋の裏側は、鋼材が網の目を作っている。1913(大正2)年のころのモノ造りは、実に堅牢(けんろう)だ。それにひきかえ、なんてやぼなことは言うまい。ただ、真上を走る高速道路の高架が邪魔だ。これがなければ、東横堀川の数々の橋の眺めは、ずいぶん違うだろう。
大阪の高速はたいがい、埋め立てられた川の上を走っている。用地買収の手間がかからなかったからだが、おかげで市内中心部の景観を台無しにしている。ことに東横堀川は、上を高速道路にふたをされて、地図に表れない不幸な川だ。ソウルでは、川の上の高速道路を撤去したが、大阪でもできんもんか。
高麗橋は本町橋と比べると、つるんとしたコンクリートのアーチが近代的な印象を与える。1929(昭和4)年にできた橋だ。
普通に橋を渡ってると気付かないが、高欄のデザインもそれぞれ違う。平野橋は扇形だし、本町橋は網の目のようなデザインが施されている。
橋の真ん中に橋の名前が表示されている。かつて水運に利用されていたからか、と思いきや、この橋名板は09年の水都大阪のイベントに合わせて設けたものだ。写真の撮影は08年なので、高麗橋には橋名がないし、本町橋は橋名板になる前のものだ。
人がそれぞれ違う顔を持つように、橋もまた、それぞれ違う顔を見せてくれる。
「川の端と端をつなぐから橋。箸(はし)も食べ物と口をつなぐから、はし。柱もはしごも、つなぐものはハシがつく」と大阪案内人の西俣稔さんが教えてくれる。対岸とつながることで人の行き来が生まれ、物が流れ、町が繁栄していく。
八百八橋とうたわれた大坂には江戸時代末期、約200の橋があり、幕府が金を出して架け替えたり維持管理する公儀橋はたった12。本町橋や高麗橋がそうだが、それ以外は町橋で、橋の両詰めの町が金を出していた。公儀橋は江戸では御入用橋と呼ばれ、160〜170もあったのと大違いだ。
「大都市比較統計年表」(08年)を見ると、大阪市の橋の数は839で、東京都区部(475)よりは多いが、18都市中では下から数えた方が早い。しかし、橋の長さと面積の総計は断トツの1位なのだ。長さは約14万4000メートル、面積は約289万7000平方メートルで、他都市とはけたが違う。長くて立派な橋がいかに多いかがわかる。八百八橋の面目躍如といったところだ。
人々が橋を大事にしてきた大阪の伝統が、今に至るまで脈々と受け継がれている。【松井宏員】
-
行ってみよっと:堺の旧市街地 新旧の歴史が詰まった街 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110526ddlk27040404000c.html
◇路面電車や自転車、線香、鍛冶屋さん
堺の旧市街地へ。まずは、市役所21階の展望ロビー。高さ80メートルからぐるり360度望める。案内役のNPO法人堺観光ボランティア協会の川上浩さん(64)が、「100点満点で、きょうは30点の眺めですねえ」。辛いなあ。こんなに晴れているのに。ということは、もっと見える日があるということ? 「70点」なら明石海峡、「100点」なら高野山や奈良・天理の山々が見えるとか。
まず目に飛び込むのは、こんもりと茂った山。そう、世界最大のお墓、仁徳天皇陵だ。でも、あのカギ穴型の前方後円墳の形が判別できない。「飛行機からでないと分かりません」と川上さん。さすが全長486メートルの巨大古墳。全体を見渡すには、まだまだ高さが足りないわけだ。あちこちにモコモコとある大小の森は古墳。世界遺産登録を目指している百舌鳥古墳群で、古墳の数は47も! しかし、かつては100以上あった。開発で破壊されたのだ。大阪湾方向を眺めると、新日鉄、シャープ……世界に誇る大企業がマッチ箱のよう。
展望ロビーには、出土品や歴史的な解説もあり、展望博物館といったところ。堺市の小学3年生は社会の授業で、このロビーを活用している。ナイスアイデア!
さて、地上に下りる。歩道の幅が広いから、対向者や自転車が気にならない。気分がのびのびする。
エレベーター付きの歩道橋に差し掛かったときだ。「ほら、あの自転車を見てて」と川上さん。自転車がコツンとエレベーターの壁にぶつかった。指でボタンを押す代わりに、タイヤを壁に当てて呼んだのだ。らくちん、とばかりにエレベーターに乗って行った。「自転車の町なんです」
戦国時代から鉄砲作りが盛んだった堺は、金属加工の技術が自転車製造に生かされて自転車産業が発展。生産額は全国シェア6割。愛用者も多い。
ところで訪ねたのは4月。チンチン電車の阪堺電車の線路沿いに、菜の花の黄色いラインがゆーらゆら。赤いチューリップも。2・5キロにわたって、季節ごとの花々でにぎわう。ここの土は、チンチン電車の振動で、地下の砂地が出てきたり、夏はアスファルトの照り返しが強かったりで、厳しい環境。でも、踏ん張って生きている。
線路から1本入ったところに、千利休屋敷跡がある。寂しげな空き地に「利休がお茶に使った」という井戸がある。ふたがしてあるのは「お金を投げ入れる人が多くて」とか。
茶道と香道の影響で発展したという線香も名産だ。明治20年創業の薫主(くんしゅ)堂は、ご主人の北村欣三郎さん(66)が一本一本手作りする。お香を入れた可愛い巾着袋は奥さんの徳美さん(60)のお手製。「若い人に親しんでもらいたくて」
この辺りは江戸時代のころから「七まち」と呼ばれた。鍛冶屋さんが集まる地区だ。水野鍛錬所の水野淳さん(34)は「後世に技術を継いでいく責任があります」と志を語った。
堺出身の与謝野晶子のこの歌がぴったりだ。
<住の江や和泉の街の七まちの鍛冶の音きく菜の花の路>【三角真理】
==============
堺市役所展望ロビー=9〜21時。喫茶コーナーもある。072・233・1101▽薫主堂=最寄り駅は南海「七道」。072・232・2549▽水野鍛錬所=南海「七道」。072・229・3253▽堺観光ボランティア協会=交通費として半日(3.5時間)1500円。072・233・0531
-
邦画活況の中でもっと大阪文学の映画化を 高橋 俊郎
オダサク倶楽部・図書館司書 2011年5月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/110520/20110520033.html
今、至る所で関西を舞台にした小説の映画化ポスターが目に入る。4月23日に「阪急電車−片道15分の奇蹟−」、5月28日には「プリンセストヨトミ」と立て続けに公開となった。有川浩著『阪急電車』は阪急今津線の話なので兵庫県ではあるが、万城目学著『プリンセス・トヨトミ』は空堀、大阪城を中心に、北は梅田から南は通天閣まで、まんま大阪が舞台である。
原作が刊行された時も、その破天荒な設定に驚きながらもそこかしこに虚実とりまぜた大阪が満載で、わくわくしながら一気に読んだ。映画公開に先んじて発売された文庫本のあとがきでも、著者が中学生時代まで住んだ大阪に大変な愛着を持っていることがよく分かる。
私はこれまで天王寺区・阿倍野区・住吉区など多くの区で大阪文学の講座や文学散歩を行ってきたが、そこでは必ず映画化されたものや、その小説にまつわる音楽を取り上げて紹介してきた。その作品に込められた豊かな世界を味わってもらいたいからであり、それは「街の記憶」に他ならないからである。
5月4日に新しい大阪駅が公開され、近辺の阪急百貨店も来年の全面開業を目指して改装中であるが、阪急梅田駅からターミナルビルに続く今は失われたコンコースを思い出す人も多いだろう。
高い天井に美しいステンドグラス、壁の格調高い透かし彫りなど、ここを歩くたびにこのような文化的な通路が他にあるだろうかと誇らしい思いすら感じたものである。このコンコースも今や1989年のリドリー・スコット監督「ブラックレイン」でしか見ることはできなくなった。この映画には同じく今は失われた戎橋のキリンプラザ大阪の外観も収められていて、映画にはその時代の文化を記憶する役割もあることを痛感する。
2006年に日本映画の興行収入が外国映画を上回るようになってから、邦画活況の時代と言われているが、かつて映画が娯楽の王者であった頃は、文芸路線と呼ばれた文学原作の名画が数多くあった。
大阪でロケされたものに限っても、戦前では昭和19年の織田作之助原作『還って来た男』が天王寺区上汐。戦後昭和26年林芙美子原作『めし』が西成区天神の森。同29年水上瀧太郎『大阪の宿』が西区土佐堀。同30年『夫婦善哉』が中央区法善寺横丁。(法善寺はセットで復元)同31年『わが町』が天王寺区細工谷。『わが町』は当初、大阪が戦災で壊滅したため、京都に舞台を置き換えて構想されたが、やっぱり織田作之助のわが町は大阪だと、焼け残った細工谷、安堂寺町などで撮影された。
一昨年、太宰治の生誕100年では『斜陽』『パンドラの匣』『ヴィヨンの妻』『人間失格』と、原作映画が4本も製作された。これらは暗いと評されているが、同じ時代を生きた織田作之助は明るい。時代は明るさとバイタリティーを求めている。
さて、織田作之助の生誕100年となる2013年にも、その作品や人生を映画化してほしいものである。その時にはぜひとも、大阪でロケをしてもらいたい。織田作之助がこよなく愛した大阪がスクリーンの中でよみがえるなら、その時こそ大阪発ルネサンスとも言えるのではないか。
(たかはし・としろう 大阪市西区)
-
2011年5月28日
三好一族由来の品々 堺市博物館で展示
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/28/20110528-053341.php
戦国時代に堺一帯で勢力を誇った三好一族由来の品々などを紹介する展示「堺の寺社と戦国三好一族」が、堺市堺区百舌鳥夕雲町の市博物館で開かれ=写真、歴史ファンらの注目を集めている。
会場には、長慶の書状や実弟・三好義賢(実休)の画像など計15点と説明のパネルなどを展示。このうち「妙國寺」所蔵で僧侶が筆記した行状記録「己行記」は近年の修復に伴う調査で、三好一族の家臣から送られた手紙などの裏を再利用していたことが確認された貴重な史料とされている。
7月3日まで。入館料は一般200円など。
-
住吉大社の御文庫 修復終える 大阪最古の図書館
2011年5月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110528/20110528028.html
大阪最古の図書館とされる住吉大社(大阪市住吉区)の御文庫(おぶんこ)の全面修復作業が終わり27日、関係者に公開された。御文庫の全面修復は1723年の創建以来初めて。
今年の住吉大社鎮座1800年に合わせ、全面修復を進めていた。
御文庫は土蔵造りで、約1万冊の書籍を所蔵している。この日、大阪書林御文庫講のメンバーらによる書籍の虫干し「曝書(ばくしょ)」が予定されていたが、天候不良のため中止になった。集まった約30人が、輝きを取り戻した外観や新たに設置された石造りの説明文などに見入り、収められている書籍を確認した。
同文庫講の世話人を務める藤波優さん(66)は「虫干しは年に1度の機会なのでやりたかった。御文庫は傷みが目立っていたが、見違えるようになった」と話していた。
-
新世界・天王寺動物園「百年祭」委員会、阪神・別府航路100周年式典に参加
http://abeno.keizai.biz/headline/77/
新世界&天王寺動物園百年祭協働委員会が5月27日、南港ATC(住之江区)で開かれた阪神・別府航路開設が来年で100周年を迎える「フェリーさんふらわあ」の記念式典に参加した。
同委員会は、2012年に「新世界・通天閣」、2015年に「天王寺動物園」が、それぞれ100周年を迎えるのを前に昨年12月、平松邦男大阪市長が委員長となり立ち上げられた。
式典には平松市長や関係者が出席したほか、百年祭に関連するキャラクターが勢ぞろいした。集まったキャラクターは「ビリケンくん」「通天閣ロボ」(通天閣観光)、「ラピートくん」「ラピートちゃん」(南海電気鉄道)、「でんのすけ」(日本橋筋商店街振興組合、でんでんタウン協栄会)、「地球戦士ゼロス」(ジャングル)、「くしたん」(新世界援隊、新世界串かつ振興会)。
当日は、東日本大震災の犠牲者を追悼する黙とうで始まり、関係者のあいさつが述べられた後、百周年を祝うくす球が割られた。
式典後には、同委員会の代表団30人とキャラクターは「フェリーさんふらわあ」に乗り込み、別府に向かった。同市では阪神・別府航路開設記念事業実行委員会主催の歓迎式や交流イベントなどを予定している。
-
大阪検定の集団受検、12企業・団体が表明 大商会頭、1級挑戦
2011.5.29 02:09
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110529/osk11052902100000-n1.htm
「第3回なにわなんでも大阪検定」申し込み締め切りの6月1日を前に、12の企業・団体が団体受検を表明した。
アシスト、大阪市、大阪市信用金庫、大阪信用金庫、府、北新地社交料飲協会、京阪電鉄、摂津水都信用金庫、阪神阪急ホテルズ、阪和興業、ホテルニューオータニ大阪、ロイヤルホテル(五十音順)−で、それぞれ10〜350人規模で受検する。府は今年度から職員の昇格(主事から副主査)の際の加点要素として大阪検定3級合格を加える。
佐藤茂雄・大阪商工会議所会頭は今年も1級に挑戦する。
検定日は7月10日。申し込みはホームページ(http://www.osaka−kentei.com/)または主要書店にある案内書で。
-
七夕伝説の枚方 居酒屋婚活「ひらコン」
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110528-OYT8T00105.htm
数軒に200人 60分めど別の店に
七夕伝説にゆかりがある枚方市で7月、200人の男女に出会いの場を提供し、地域活性化も狙った婚活企画「ひらコン」が初めて行われる。京阪枚方市駅周辺の複数の飲食店を参加者が移動しながら気の合う相手を見つけるというユニークな内容。主催の枚方婚活推進実行委員会は「枚方の街も出会いも両方楽しんで」と市内外からの参加を呼び掛けている。
市民らが実行委を作って企画。枚方市や隣接する交野市には天野川が流れるなど、一帯は七夕伝説発祥の地と伝えられていることから、「星の数ほど出逢いがある街ひらかた」をテーマにした。
7月2日午後7時〜同11時30分に開催。独身で20歳以上の男性100人、女性100人に参加してもらい、同駅前の居酒屋やバーなど5〜8軒に参加者を割り振り、飲食をしながら出会いを楽しんでもらう。
60分をめどに次の店に移動するのがルール。「男性は左の店へ、女性は右の店へ」など、男女が逆方向に移動することで全員に会える可能性を作る一方、最短5分で店を移ることができるため、複数の店を回ってもらうことで街の活性化にもつなげる。
実行委では今後、京阪樟葉駅前など、市内で場所を替えながら、年3回ほど実施していきたい考え。松尾勝代実行委員長は「ひらコンをきっかけに結婚したカップルが、枚方に住んでもらうなどで、枚方ファンを増やしていきたい」と期待している。
参加費は飲食代込みで男女とも6000円。年齢の上限はなく、肩ひじをはらずに気軽に楽しめる場としたいため、同性2人以上での参加を求めている。インターネットのホームページ(http://www.putiputi.com/hirakon/)か、申込書に必要事項を記入してファクス(072・850・4180)で申し込む。問い合わせは実行委(090・6733・0148)へ。
◇
枚方市では、関大政策創造学部のゼミと市、京阪電鉄による、ひらかたパークなどで結婚式を挙げる「ひら婚♪」も昨年から実施、今年も6月11日に同パークで、11月12日に枚方宿鍵屋資料館で式が行われる。
(2011年5月28日 読売新聞)
-
JR大阪駅がリニューアル! 大阪ステーションシティ近くのラブラブデート❤パワースポット
http://www.myspiritual.jp/2011/05/jr.html
30年ぶりにリニューアルオープンしたJR大阪駅2 件。5月4日には「大阪ステーションシティ」もグランドオープンしました。
1番の目玉は「JR大阪三越伊勢丹」が大阪に初進出! 今まで阪急、阪神の両百貨店や大丸梅田店も大幅な増床や建て替えに着手して、大阪駅はすっかり全国屈指の百貨店激戦区となりました。
その他にも、売り場面積2万平方メートルという商業施設「LUCUA(ルクア)」、シネマコンプレックスなどもオープン!
大阪ステーションシティには、有料音声ガイドやガイドさんによるツアーも実施されていて、特徴的な8つの広場を回ったりできるなど、新たな観光スポットとして注目されています。
さて、そんな大阪駅2 件がある大阪・梅田は、現在映画でも注目を集めている阪急電車をはじめ、たくさんの電車が走る大阪の中心地。
この場所にパワースポットがない訳がありません。
-
>>201の続き
というわけで、今回は「大阪ステーションシティ」の近くにあるパワースポット、特に恋愛のパワースポットとして人気を集める場所を紹介したいと思います!
■ 「露 天神社」
大阪駅から徒歩10分。「露 天神社」(つゆのてんじんしゃ)は、通称「お初天神」と言って、地元の人に愛されている場所です。
「お初」というのは、実際の出来事を題材にして近松門左衛門によって書かれた、人形浄瑠璃「曽根崎心中」の主人公。
天満屋の遊女・お初が平野屋の手代である徳兵衛と恋に落ち、最後はこの神社の境内で心中してしまうという悲恋の物語なのです。
この境内では、お初と徳兵衛のブロンズ像が静かに寄り添っています。
現在ではお初と徳兵衛の愛を添い遂げた場所として注目され、恋の成就を願う人たちが訪れるパワースポットとして人気がある場所です。
■ 「綱敷天神社」
「綱敷天神社」は、明治7年に大阪駅が開業して以降、「梅田キタの氏神様」と言われ地元の人に愛され続けています。
この綱敷天神社は、大阪駅がある大阪市北区に3ヶ所の場所に社殿が分かれています。
神山町にある御本社をはじめ、茶屋町の御旅社と角田町の歯神社がありますが、茶屋町の御旅社内の末社としてお祀りされている「玉姫稲荷神社」は恋愛パワースポットとして、カップルや、女性同士のお参りが多い場所です。
ご祭神の「玉姫様」は茶屋町の産土神として御茶屋で働く女性の守り神様として崇敬されていて、梅田の縁結びの神さまとして若者を中心に慕われています。
今回紹介した、2つのパワースポットのように、新しくなった「大阪ステーションシティ」も愛され続ける事を願います。
-
>1番の目玉は「JR大阪三越伊勢丹」が大阪に初進出!
>2つのパワースポットのように、新しくなった「大阪ステーションシティ」も愛され続ける事を願います。
うーん、ライターは関東人なんかな。
まあ良く紹介しているからいいけど。
-
継承する適塾の精神 きょうから特別展示 大阪
2011.5.31 01:49
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110531/osk11053101490000-n1.htm
大阪・北浜の史跡・重要文化財「適塾」(大阪市中央区)の特別展示「継承する適塾の精神−大阪大学創立80周年にあたって」が31日から始まる。6月12日まで。
江戸時代末期に塾を開いた緒方洪庵の著作や手紙の展示のほか、今年創立80周年を迎えた阪大の研究活動、洪庵・適塾顕彰活動などを紹介する。
「適塾」は明治政府の教育制度整備とともに発展解消し、大阪医学校、府立医科大学と改称したあと昭和6年に大阪帝国大学が設立された。大阪大学に改称したのは昭和22年。
特別展示の開館時間は午前10時〜午後4時。月曜休館。入場料一般250円、学生130円、高校生以下無料。問い合わせは、適塾((電)06・6231・1970)へ。
-
半世紀ぶり奇祭「鯨まつり」 海神・住吉大社1800年で安全祈願
2011.5.30 14:37
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110530/osk11053016160008-n1.htm
大阪・堺の伝統行事「鯨まつり」が今夏、57年ぶりに復活する。巨大なクジラ山車(だし)をひいて住吉大社(大阪市住吉区)へ奉納する勇壮な行事で、地元住民が中心となってクジラ山車の復元に取り組んだ。地元住民は「今年は東日本大震災の津波で多くの犠牲者が出ており、海の安全を祈願したい」と話している。
祭りの起源は鎌倉時代末期とされ、クジラを捕り逃した漁師を慰めるために踊ったのが始まりと伝わっている。堺の奇祭として、明治以降は約20〜30年に1回のペースで開催。漁師らが竹と布で作った全長27メートルものクジラの山車をひき、伝承の「鯨(くじら)音頭」や「鯨踊り」とともに練り歩いた。もともと不定期に開催されていたため昭和29年を最後に忘れ去られていたという。
今回の復活は、同市堺区出島町の郷土史研究家、鎌苅一身さん(63)が呼びかけ、地元の自治会などとともに実行委を結成して実現した。写真資料や、昭和29年当時の参加者に聞き取り調査してクジラ山車を設計。大阪市内の竹材店に依頼して制作を進め、骨組み(全長12メートル)が完成した。中に人間が入る構造で、口を開け閉めするほか、尾びれを動かしたり、潮を噴かせたりする。
鎌苅さんは、「今年は住吉大社の鎮座1800年記念の年でもあり、復活できてうれしい。鯨まつりを知らない世代が増えたが、ぜひ昔の漁師たちの活気や息づかいを楽しんでほしい」と話している。7月24日に住吉大社の境内、8月1日に住吉大社から堺市内に向けて練り歩く予定。
-
老舗銭湯、惜しまれ幕 感謝込め住民掃除
2011年5月31日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110531/20110531021.html
「ありがとう千成湯」−。明治時代から100年を超える歴史を持ち、25日に閉店した大阪市福島区野田2丁目の銭湯「千成湯」に27、28の両日、地元関係者が集まり、風呂場を清掃するなどして、まちの社交場だった名湯との別れを惜しんだ。
千成湯は、現在の竹内義勝さん(70)、早苗さん(67)夫妻で3代目。戦災を免れた長屋が連なる野田地区の中にあり、内風呂が当たり前になった今も、まちのコミュニティーとして多くの人が訪れていた。しかし、地下の配管の不備が見つかり大規模改修が迫られたこともあって、廃業の道を選んだ。
感謝イベントは、野田地区を中心にまちづくり活動をしている西江幸久さん(32)が企画。風呂掃除には約20人が参加したほか、洗い場をステージにしたコンサート、バナナのたたき売り、銭湯についてのトークライブなどが行われた。
近くに住む女性(62)は、お風呂掃除に娘と孫2人で参加。「孫も『大きなお風呂に入れる』と、銭湯が大好きだった。ふれあいの場所でもあったのでさみしい」と名残を惜しんでいた。早苗さんは「最後まで使ってくれて風呂屋として最高の幸せ。お風呂も喜んでいるでしょうね」と目を細めていた。
-
創設140年の大阪・真田山墓地、墓石の風化で危機に
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110531-OYO1T00737.htm?from=newslist
今年創設140年の真田山旧陸軍墓地(大阪市天王寺区)で、多くの墓石が風化して剥落が進んでいる。かつて全国にあった旧陸軍墓地で最も古く、歴史的変遷も見て取れるが、墓地という性質上、行政からの支援が得にくく、保存に取り組む関係者らは「大阪の文化遺産として残すべきだと思うのだが……」と頭を悩ませている。
大阪城公園の南約1キロにある墓地は、住宅や学校に囲まれた小高い丘の上にある。サッカーコート2面分に当たる約1万5000平方メートルの広大な敷地に、約5100基の墓石が整然と並ぶ。多くはもろい砂岩で、65%が壊れかけ、剥離片が周りに散乱。うち約500基が崩壊寸前だ。
明治維新後、攻撃を受けやすい首都から遠い大阪を中心に陸軍関係機関が創設された。軍関係の死者を弔う場所が必要になり、1871年、日本最初の陸軍墓地が真田山に誕生した。
西南戦争(1877年)や日清戦争(1894〜95年)で亡くなった兵士や軍役夫の墓が多い。このころは、墓石に、個人名や出身地、経歴が刻まれた。
日露戦争(1904〜05年)で戦死者が急増すると、個人の墓は減り、合葬墓が増えていく。先の大戦中の43年にできた納骨堂には、約8000人分の遺骨や位牌(いはい)が納められている。埋葬方法の変遷がよくわかり、研究者らは歴史的に価値が高いとする。
墓石も含め墓地は国有。戦後は大阪市に管理を任せ、有志で設立した財団法人「真田山陸軍墓地維持会」が、寄付金などを募り、3回にわたり、墓石の修復を実施したが、風化のスピードには追いつけない。維持会の吉川秀隆理事長(61)は「このままでは壊滅する。有志だけで維持をしていくのは難しい」と話す。
大阪市は「個人が埋葬されている墓地という性格もある。財政難の市が特定個人の墓石を修復するのは難しい」というスタンスだ。
2001年には、研究者や住民らが「旧真田山陸軍墓地とその保存を考える会」を設立して、大阪市などに対し、史跡や文化財の指定を求めてきた。定期的に勉強会や案内会を開催して「歴史的な重要性を知って」とPRしている。
考える会理事長の小田康徳・大阪電気通信大学教授(日本近代史)は「大阪で陸軍が創設され、各地から多くの人が集められたことが、現存する墓から確認でき、歴史的に貴重な墓地だ。今こそ多少の費用がかさんでも修復すべきだ」と、行政の支援の必要を訴える。
全国に80か所
明治維新後、軍隊を創設した政府は、国として戦病没者を弔うため、全国80か所余りの墓地を造った。戦後は、政教分離の原則から、国が祭礼を行うことができず、維持管理は各自治体が受け皿となり、祭礼は遺族会や宗教団体が行う方式になった。保存されている墓地もあるが、取り壊しや敷地が整理されるなどし、原形をとどめていない所も多いという。
(2011年5月31日 読売新聞)
-
2011年5月31日
文化財ビルの屋上。ベトナム屋台料理のビアガーデンが期間限定オープン
http://www.sankei-kansai.com/2011/05/31/20110531-053429.php
昨年、Twitterの口コミなどで人気を呼び、約2000人が来場した登録有形文化財「芝川ビル」の屋上ビアガーデン、「ラグナグ」が今年も6月1日より期間限定オープンする。
昭和2年建築の歴史ある文化財ビルでヘルシーなベトナム屋台料理とお酒を楽しめるとあって、昨年は来場者の約7割が20〜40代を中心とした女性。
ビジネス街である淀屋橋は会社帰りの懇親会などにも利用されやすく、昨年は期間半ばで予約が取れなくなったため、今年は3週間開催期間を延長する。
開催期間は6月1日から10月28日までの水・木・金曜日。ハノイ風揚げ春巻き、カボチャのココナッツミルク煮、ベトナム風オムレツ、スルメイカのココナッツカレー炒めなどビュッフェスタイルでベトナム屋台料理が味わえる。
問い合わせはレストラン リヴゴーシュ(電話06・6202・2202)
関連ホームページ:http://shibakawa-bld.net/story/2011/04/post_83.html
-
2011年6月 1日
古代米栽培いかが 泉大津イベント参加者募集
http://www.sankei-kansai.com/2011/06/01/20110601-053463.php
「古代米の栽培を田植えから稲刈りまで体験してみませんか」。大阪府泉大津市の池上曽根史跡公園協会は、同公園内の水田で行う「弥生村の米作り」と「こだい米クラブ」の参加者を募集している。
池上曽根遺跡は和泉市と泉大津市にまたがる弥生時代の環濠集落として知られる。公園内にある水田(約330平方メートル)で古くから栽培されていたとされる古代米品種「朝紫」を育てる。
「弥生村の米作り」は、6月に田植え、9月に稲刈り、11月に炊飯試食を行うコース。毎年親子連れの参加が多いのが特徴だ。田植えは古代の衣装「貫頭衣」を着用して行い、弥生人になった気分も体験できる。定員は100人で、参加費は千円。「こだい米クラブ」は、小学生が対象で、田植えなどのほか、かかし作りや土器作りなど、11月にかけて7回のイベントが予定されている。小学4〜6年生対象で定員30人。参加費は2千円。
申し込みは、往復はがきかファクスで、参加希望のイベント名を書き、参加者全員の住所、氏名、年齢、電話番号を明記のうえ、〒595−0004 泉大津市千原町2の12の45 池上曽根史跡公園協会(FAX0725・20・1866)。締め切りは3日必着。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/209 農人橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110602ddlk27070455000c.html
◆大阪市中央区
◇対の欄干、泣き別れ 中央大通の南北に
前回は川から橋の裏をのぞいたが、陸地に戻って大阪案内人の西俣稔さんと歩を進めることにする。本町の曲がりを過ぎて南へ下ると、繊維問屋が軒を連ねる船場センタービルが現れる。1970年の大阪万博に合わせてオープンした。1〜10号館まであって、飲食店も充実しているので、昼時ともなればサラリーマンで大にぎわいとなる。
改めて外から眺めると、ビルの上で阪神高速の環状線と東大阪線が交差し、上へ上へと伸びていた時代がうかがえる。「センタービルは地下鉄あり、商店あり、貸しオフィスあり、上に高速道路。同じ敷地で一石五鳥」と西俣さんが笑う。
続けて「新御堂筋を北へ行ったら、箕面に箕面船場という地名があります。こっちから移った船場商人の誇りですね」。話は北浜の地名の由来にまで広がる。「北浜は梅田から見たら南やから、南浜と付けそうなもんやけど、船場から見て北やから北浜です。どこが中心で地名が付いてるかがわかります」
船場を東西に横切る中央大通が船場センタービルの北と南に分かれて走る。俗に「上を下への大騒ぎ」と言うが、ここは上は高速道路、下は幹線道路で車だらけだ。
中央大通の西行き車線に沿って東へ、中央区役所の前を通ってしばらく行くと、農人(のうにん)橋だ。江戸時代初めまで、この辺りは田畑が多く、農民が耕作に通った橋だったからこの名が付いたという。
大坂城に通じる要路だったので幕府が管理する公儀橋となり、その後、この地が発展して擬宝珠(ぎぼし)が設けられた。そんな由緒ある橋だが、今は緑色のペンキがはげちょろけ、排ガスのせいか黒ずんで、みすぼらしくさえある。東詰めには木製の橋名表示と由緒が記された説明板が建っているのだが……。
しばらく橋の写真を撮っていて、「あれ?」と思った。普通、橋は左右対称だが、反対側の歩道と欄干が見当たらないのだ。だいたい、中央大通は西行き、東行きとも4車線もあり、さらに両車線の真ん中、船場センタービルの東側は高速道路への上がり口と降り口があるので、合わせて幅員が約80メートルもあって向こう側が見渡せない。なんせ、高速の高架がやたらくねくね曲がったり、上がったり下がったりしている。
で、中央大通を渡る陸橋に上がって、反対の北側を見渡すと、同じようなはげちょろけた緑色の欄干と歩道があった。つまり、高速道路を挟んで中央大通の東行きと西行きの二つの橋が農人橋ということになる。昔はもっと小さな橋だったが、万博に合わせて船場センタービルと同時期に中央大通が開通し、農人橋は南北に泣き別れたのだ。
車の喧騒(けんそう)を避けるように南へ歩く。西俣さんが町名表示板を指す。材木町とある。その名の通り、材木商が並ぶ町だった。「東横堀川を利用して材木を運搬してたんです」と西俣さん。今は少なくなったが、「木材住建 今九」という昔からこの地にありそうな材木商の軒先に、たくさんの材木が立てかけられていて、地名の由来をしのぶことができる。【松井宏員】
-
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/
船場料理の12ヶ月
6月「夏の日常食」
江戸時代、大坂の町の中にあった氏神さんの夏祭りは、旧暦6月に集中していました。明治5年に新暦(太陽暦)が採用されてからは、はじめのうちは毎年、旧暦の祭礼日に合わせて、祭りの日を決めていましたが、そのうちにエイヤッと1ヶ月ずらせて、6月の祭礼を7月に行うようになり、それ以来現在に至るまで、7月が大阪の祭り月となっています。したがって、水落家の「行事帳」の6月に記載されている夏祭礼の献立は、来月にご紹介することにします。この連載をはじめて、ちょうど半年になりますので、今月は船場の日常食を取りあげてみました。水落静さんに、大正末〜昭和のはじめ頃、夏6月ごろのふだんの食事についてお聞きしました。
朝:お茶漬、きゅうりやおなすの浅漬(ぬかみそ漬)、お香々
昼:おぬくのごはん、お番菜(おなすとしろうりのうすくず仕立)、浅漬、お香々
夜:お冷やのごはん、たちうおの塩焼、浅漬、お香々
朝のお茶漬(ぶぶ漬)は、夏にかぎらず、年がら年中そうでした。船場の商家では、ごはんを炊くのは、一日一回だけでした。お家(うち)によって、昼に炊くところと、晩に炊くところがありました。水落家では、昼に炊いておられました。どち らの場合も朝は必ずお冷やのごはんになり、熱いお茶をかけていただきます。おかずはお漬物だけ。夏の間の楽しみは、きゅうりやおなすの浅漬です。きゅうり は、白くて太くて種の多い半白きゅうりです。これがおいしかった。けれど、水落家では、浅漬はお上(主人家族)だけが食べるもので、女中さんらは、年中お香々だけでした。このお香々は冬期に何樽も漬け込んであるもので、夏時分になると、だんだん塩辛いものになります。
-
>>211
船場では、「朝はお茶漬」のお家が多かったようですが、年がら年中、「朝はお粥(かい)さん」のところもありました。また、いつもは朝はお茶漬ですが、冬にさつまいもが手に入ったりするとおいものお粥さんにするお家もありました。
昼は、お番菜とお漬物。お番菜とは、野菜を中心としたふだんのおかずのことです。夏ですから、ここではおなすと越瓜(しろうり)のうすくず仕立にしました。 種々のお番菜こそ、船場の日常食を代表するものです。大根とあげさんのたいたんやら、しろな(大阪白菜)とあげさんのたいたんやら、粕汁やらのっぺい汁や ら、お汁とも、煮込みとも区別がつかないような、具がたっぷり入ったおついです。このお番菜のおかげで、船場の食事の評判が悪いのです。たしかに大量に出 まわる旬のお野菜中心の始末な料理にはちがいありませんが、大きなお鍋でたくさんの量をつくりますからおいしいですし、それを何杯もおかわりするとそれだけでおなかがいっぱいになります。ちゃんと昆布とだしじゃこやら鰹節でお出しをとりますし、油揚げを大量に入れたりしますので、栄養面からもそんなに貧弱 なものではないと私は思っています。
水落家では、 毎日晩ごはんにに魚を食べておられますが、船場の商家では、赤ごはん(小豆ごはん)に魚がつくのは、毎月お朔日と15日だけで、それ以外の日は昼も晩もお番菜がふつうでした。水落家でも、毎朝魚屋の「魚留」が持ってくる上等の魚はお上用で、女中さんらは、骨屋町の市場へ安価な魚を買いに行き、晩ご飯のおかずにしたそうです。
以上は大正末から昭和初期の船場の日常食ですが、細かいところは違っても、「朝はお茶漬」に「昼と晩はお番菜」というパターンは江戸時代からずっと受け継がれてきたものでしょう。
大正末、昭和のはじめ頃、食事のとき、水落家では、すでにひとりひとり箱膳で食べるということはなくなっており、「お部屋」と呼ばれる6畳の部屋が食事室 で、一閑張(いっかんばり)(注1)の机を二つならべて、家族が囲んで座って食事をされたということです。お茶碗とお箸(塗りの箸箱へ入る)は銘々専用の もので、お茶碗は必ず蓋付(ふたつき)のもの。お漬物は、大きな鉢に盛りつけて卓上に出され、お茶碗の蓋に取っていただきます。
-
>>211 、>>212
6月の御菓子 「みなづき」
みなづき(水無月)はもともと京都の御菓子です。しかし、水落静さんが「6月晦日にいただきました」と言われますので、取り上げてみました。
古代律令制の時代に、6月・12月の晦日に大臣以下百官が朱雀門に会集して大祓(おおはらえ)が行われました。しかし、それは次第に行われなくなり、応仁の乱で中絶してしまいました。逆に、民間では6月・12月の祓は発達しました。とくに旧暦6月晦日の祓は、夏越祓(なごしのはらえ)、あるいは水無月祓(みなづきのはらえ)といわれ、ちょうど暑い時季で、悪疫を除去し、夏を無事に乗り切る願いをこめて、神社に参詣し、茅輪(ちのわ)をくぐり、紙の人形(ひとがた)を川に流したりします。
御菓子のみなづきは、水無月祓にちなんだもので、三角形に切った外郎(ういろう)製、または小麦粉を主体にしたもの、あるいは本葛製のものがあります。それに疱瘡よけの力があるとされる赤い色、小豆を載せて、夏らしくあっさりとした味にした優雅な御菓子です(注2)。みなづきの三角形は、氷室(ひむろ)の氷に見立てたとも 言われています。
注1漆器の一種。江戸時代初期、明人の飛来一閑が伝えたもの。淀屋橋の近くに一閑張の店があった。
注2御菓子みなづきについては、「鶴屋八幡」の岩橋義春氏にご教示いただきました。
-
大阪歴史博物館で「懐かしい市電とバスのある風景」展−ジオラマ大会も
http://kyobashi.keizai.biz/headline/931/
大阪歴史博物館(大阪市中央区大手前4)で現在、特集展示「懐かしい市電とバスのある風景」が開催されている。
大阪での市電の歴史は1903(明治36)年9月、日本初の公営路面電車として花園橋から築港桟橋までを開業したのが始まり。大正時代には営業距離も50キロを超え、市民の足として定着した。市営バスは、1927(昭和2)年に阿倍野橋から平野間を市営バスの営業が開始。車体の色から「銀バス」という呼び名も生まれた。地下鉄は、1933(昭和8)年に登場。梅田から心斎橋を結び、新しい都市交通として発展してきた。
これらの大阪の交通機関の歴史を明治30年代〜昭和40年代を中心に振り返り、懐かしい街の風景を感じてもらおうと企画された同展。大阪市交通局が所蔵する市電、バスなどの写真約40点をメーンに、地下鉄が開通した当時のポスターや市バス関連のグッズなども展示している。入場者は年配者が多く、展示物を見ながら昔を振り返り当時の話に花を咲かせている姿も見受けられるという。
25日・26日には「鉄道模型ジオラマ大会」も開催予定。地下鉄御堂筋線をはじめ、谷町線、中央線などの地下鉄車両や、地下鉄に乗り入れている阪急電車・近鉄電車などのジオラマ車両が展示走行する。
同館学芸員・船越幹央さんは「20〜30代の当時を知らない世代にも、市電がどういう形で市民の足として活躍していたかを知っていただけたら」と話す。
開館時間は9時30分〜17時。火曜休館。入館料は、大人=600円、大学生・高校生=400円、中学生以下無料。7月4日まで。
-
大阪市文化財に錦影絵の幻灯器
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110605-OYT8T00092.htm
大阪市教委は、日本のアニメーションの原点とされる「錦影絵」の上映に必要な装置=写真=や、難波宮跡から出土した最古の万葉仮名文木簡など16件を市指定文化財に選んだ。
錦影絵は、「風呂」と呼ばれる木製幻灯器に絵を描いたガラスの「種板」を組み込み、和紙のスクリーンに映像を投影する。幕末から明治期に人気を博したが、映画の普及で廃れた。選定を受けた、大阪歴史博物館が所蔵する種板は820点に上り、チャンバラや怪談など40超の演目があり、国内最大級のコレクションを誇る。
難波宮跡から出土した木簡は、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」という和歌の一部が万葉仮名で記されている。出土した地層から、従来、7世紀末とされた万葉仮名の表記法の成立時期が数十年ほどさかのぼることがわかり、学術資料として評価された。
他の指定は次の通り。
(2011年6月5日 読売新聞)
-
天守閣再建80周年 ウエディング
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
今年で大阪城の天守閣が再建されて80年を迎えます。
大阪城公園では80周年の記念イベントとして結婚式が行われました。
大阪城公園で行われた結婚式では普段は公園内に入ることができない人力車で、新郎新婦が優雅に登場しました。
この結婚式は1665年に落雷で焼失した天守閣が昭和6年に市民の寄付で再建され今年で80年を迎えることを記念して行われました。
式には大阪市の平松市長もお祝いに訪れました。
このイベントAPECの首脳会談が行われた大阪迎賓館の会議室で披露宴ができるとあってすでに7件の予約が入っているということです。
平松邦夫大阪市長に人力車の乗り心地をきかれた新婦は
「優雅で女優になった気分で嬉しかった」と話しました。
大阪市は、今年の12月31日まで、募集を行っています。
【大阪城公園迎賓館ウエディング80】
問い合わせ
06−6949−3210
(大阪城天守閣復興80周年記念プロジェクト委員会
-
大阪城のジューン・ブライド
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110605-OYT8T00833.htm
大阪城天守閣の再建80周年を記念し、大阪市などが企画した大阪城公園を会場にした結婚式の1組目のカップルが5日挙式し、平松邦夫市長が参加して記念イベントが開かれた。
結婚式は、市や大阪商工会議所などが80組限定で募集しており、アジア太平洋経済協力会議(APEC)の首脳会議が催された大阪迎賓館での披露宴が目玉だ。
この日、新郎新婦は公園内の豊国神社で挙式し、人力車に乗って天守閣前広場に到着。出迎えた平松市長は「お二人の未来が幸せなものになりますように」と門出を祝った。新郎新婦は人力車で披露宴会場に移り、居合わせた観光客らから「おめでとう」と祝福を受けていた。
(2011年6月6日 読売新聞)
-
「適塾」の精神振り返る 阪大創立80年記念特別展
2011年6月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110605/20110605024.htm
国の史跡・重要文化財「適塾」(大阪市中央区北浜)で特別展示「継承する適塾の精神」が開かれている。緒方洪庵直筆の手紙や、福沢諭吉の直筆掛け軸「七言絶句」など、普段は一般公開されていない資料約60点を展示している。12日まで。
適塾は日本近代医学の祖・緒方洪庵(1810〜1863)が開いた私塾で、大村益次郎や福沢諭吉らを輩出した。その源流をくむ大阪大が今年創立80周年を迎えたことを記念して特別展示を開催。
同大は今年4月、適塾の研究機関として「適塾記念センター」を設立した。これまで、適塾記念会などボランティア的な活動で行ってきた研究を公的に引き継いでいる。同センターの廣川和花准教授(33)は「80周年を機に、適塾の“科学的精神”に立ち返り、適塾の精神をどのように大事にし、引き継いできたのかを振り返る内容になっている」と話している。
一般250円、学生130円。午前10時〜午後4時。月曜休館。問い合わせは電話06(6231)1970、適塾へ。
-
6月5日(日)大阪市西区土佐堀の川の駅「ポンポン船船着場」近くにて作家宮本輝氏の代表作「泥の河」の文学碑の除幕式が行われた。
「泥の河」は、宮本輝氏が幼少のころ住んでおられた中之島の西端から西区江戸堀の土佐堀川周辺を舞台とし、戦争の傷跡を残す昭和30年の大阪、安治川の畔に住む少年と廓舟に暮らす姉弟との短い交友を描いた名作。
この作品で第13回太宰治賞を受賞し作家デビューを果たし、1981年には映画化され日本アカデミー賞を初め国内外の数々の映画賞を受賞している。
文学碑は小説「泥の河」の舞台となった場所であるとともに宮本氏の幼少のころの思い出に残っている地ということから場所が決定され、中之島西部の様子が描かれた一節が碑に刻まれている
除幕式終了後には、作品にゆかりのある土佐堀川クルーズがおこなわれた。
少し曇っていたが暑くも寒くもなく小説の舞台になった場所を辿りながら水都大阪の素晴らしさを十分堪能することができた。
-
桂こごろうさん二代目「南天」襲名へ 40年ぶり復活
2011年6月6日
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201106060033.html
落語家の桂こごろうさん(43)が来年4月に二代目桂南天(なんてん)を襲名すると、所属の米朝事務所が6日、発表した。人間国宝の桂米朝さん(85)もネタを受け継いだ故・南天は「諸芸十八般」と称した多芸家で、40年ぶりの復活となる。披露公演を大阪、京都、東京、名古屋などで開く。
1972年に亡くなった南天は「アニメのルーツ」とも呼ばれる錦影絵や滑稽手品、寄席の踊り「ずぼら」などの珍しい芸を持ち、60年代にはテレビ番組にも出演。錦影絵は米朝一門の若手らが継承している。こごろうさんは大阪府枚方市出身で91年に南光さん(59)に弟子入り、工夫の光る高座で注目株の一人だ。「優しさや、人をうれしくさせる気持ちを継いでいきたい」。米朝さんはひ孫弟子の襲名について、「(初代は)誠に欲のない、飄々(ひょうひょう)という言葉がぴったりの人でした。もう、継ぐ人はおらんやろと思ってた」と笑顔で話した。(篠塚健一)
-
来月25日に奉納花火 被災地「力強く支える」
2011年6月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110607/20110607021.html
日本三大祭りの一つとして大阪の夏を彩る「天神祭」の委員総会が6日、大阪市北区の大阪天満宮で開かれた。同祭渡御行事保存協賛会の会員ら約130人が出席し、7月24日に宵宮祭、同25日に本宮祭、陸渡御、船渡御、奉納花火などを実施することが正式に承認された。
会合では同祭実行委員会の京極俊明実行委員長が、東日本大震災からの被災地復興支援に向け「大阪のバイタリティーを日本全国に示そう」、大阪商工会議所会頭で同協賛会の佐藤茂雄会長も「西日本が力強く支えないと」と、それぞれ天神祭の意義を強調した。
このほか昨年度の決算報告や本年度の行事計画が承認された。奉納花火は25日に大川沿いの造幣局と対岸の桜宮公園の2カ所で実施し、約3千発の花火が打ち上げられる。
-
大阪企業家ミュージアムが開館10周年 7〜11日は無料
2011.6.6 22:28
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110606/osk11060622370018-n1.htm
大阪にゆかりのある企業家を紹介する大阪企業家ミュージアム(大阪市中央区)が開館10周年を迎え、7〜11日は記念に入館料を無料にする。来館者数は延べ約13万5千人(5月14日現在)に上り、近年は経営者や起業家だけでなく、キャリア教育の場として中学・高校生、大学生が訪れるなど幅広い層に支持されている。
ミュージアムは企業家精神の高揚・伝承を通じ、次代を担う人材を育成しようと、平成13年6月5日に大阪商工会議所が開設した。パナソニック創業者の松下幸之助氏や日清食品創業者の安藤百福(ももふく)氏ら近代大阪で活躍した企業家105人をパネルとゆかりの品で紹介。ガイド付きツアーは、企業家の裏話も聞けるとあって人気が高い。
近年は漫画冊子シリーズ「企業家の人生に学ぶ」の製作や、館内展示パネルの中国語・韓国語への翻訳など、子供や外国人にも企業家精神を分かりやすく伝える取り組みに力を入れている。事務局長の興津厚志さんはミュージアムが支持されてきた理由について、「企業家の困難に立ち向かうストーリーやチャレンジスピリットに共感する来館者が多いからではないか」とみている。
開館は火〜土曜日の午前10時〜午後5時(水曜のみ午後8時まで)。入館料は大人300円、中学・高校生と大学生は100円。
14日〜7月29日には10周年記念事業として、薩摩藩出身の実業家で“鉱山王”と呼ばれ、大阪商工会議所の初代会頭を務めた五代友厚の功績を紹介する特別展を開催する。
-
来月25日に奉納花火 被災地「力強く支える」
2011年6月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110607/20110607021.html
日本三大祭りの一つとして大阪の夏を彩る「天神祭」の委員総会が6日、大阪市北区の大阪天満宮で開かれた。同祭渡御行事保存協賛会の会員ら約130人が出席し、7月24日に宵宮祭、同25日に本宮祭、陸渡御、船渡御、奉納花火などを実施することが正式に承認された。
会合では同祭実行委員会の京極俊明実行委員長が、東日本大震災からの被災地復興支援に向け「大阪のバイタリティーを日本全国に示そう」、大阪商工会議所会頭で同協賛会の佐藤茂雄会長も「西日本が力強く支えないと」と、それぞれ天神祭の意義を強調した。
このほか昨年度の決算報告や本年度の行事計画が承認された。奉納花火は25日に大川沿いの造幣局と対岸の桜宮公園の2カ所で実施し、約3千発の花火が打ち上げられる。
-
平和への誓い新た 大阪大空襲66年慰霊法要
2011年6月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110608/20110608021.html
太平洋戦争末期の1945年6月7日、米軍の爆撃機約400機と戦闘機約140機が大阪市北東部に襲来、市街地を焼き尽くし、多くの市民が犠牲となった。この「第3次大阪大空襲」からちょうど66年となる7日、惨事の現場となった大阪市北区の長柄橋南詰めや同市旭区の常宣寺で慰霊法要が執り行われ、遺族らが静かに手を合わせ、平和への誓いを新たにした。
-
淀殿魅了したハギ見頃 豊中の曹洞宗・東光院 大阪
2011.6.8 01:57
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110608/osk11060801570002-n1.htm
初夏に花をつけることから「ナツハギ」の別名で知られるミヤギノハギが豊中市南桜塚の曹洞宗・東光院(村山廣甫住職)で見頃を迎えている。
“萩(はぎ)の寺”として親しまれている同院境内には、約2千株のハギが植えてある。この時期に花をつけるのは、豊臣秀吉の側室、淀殿も魅せられたというナツハギ。山門から本堂までの参道に沿って植えられた約30株が、大人の背丈ほどに枝葉を伸ばし、1.5センチぐらいの小さな濃いピンク色の花が咲き競っている。
今月中旬までかれんな姿を見せ、一度散ったあと秋には、また花を咲かせるという。
-
大阪の郷土料理再発見 谷 福江 田辺大根ふやしたろう会世話人
2011年6月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/110607/20110607024.html
「どちらのご出身ですか?」。知り合って話が盛り上がると、つい自他とも認める食いしん坊の私は、「そちらの名物は?」と聞いてしまいます。名物を送っていただいたり、郷土食を届けていただきビックリします。例えば阿波徳島出身の方から「甘くない金時豆入りちらし寿司(ずし)」を頂き、目からウロコ!です。
また、なにわ伝統野菜田邊大根(たなべだいこん)の普及活動で知り合った生産の方の野菜への愛情と地元に伝わる調理法を教えていただき、野菜のおいしさに目覚めました。田邊大根の生産地だった東住吉区田辺では、田邊大根の衰退と一緒に、田邊大根料理を作る人もなくなりました。子どもの頃、明治生まれの祖母が作っていた自慢の「だいこだき」(大根・金時人参(にんじん)・小芋・鯨(くじら)のコロの煮物)など私も忘れてしまった味です。このようにして郷土食は、忘れ去られたり、作られなくなったりしていくのだと思います。
このような大阪の郷土食を再発見し、次世代に伝えていきたいと、大阪料理研究科の上野修三さんの監修・NPO法人浪速魚菜の会の事務局・日本の伝統食を守る会の協力で、「大阪御数料理会」が発足しました。
もともと、日本人の主食はごはんです。副食(御菜または総菜)を大阪では「おかず」と呼びます。大阪は気候温暖で、四季折々の食材に恵まれ、天下の台所と言われたように、全国からいろいろな食べ物が集まってきました。数々の食材を合わせて採る。つまり「お数」だとか。
同会では、郷土料理を、大阪市内・摂津を北摂地区・河内の大和川の北を東大阪地区・大和川の南を南河内地区・泉州地区と五つに分けて、地域の産物を生かした郷土料理を取り上げています。郷土料理に造詣の深い方たちの、旬の食材タップリの家庭料理を試食しながら勉強し交流を深めています。
第1回は、3月上旬に開催され、まだ寒さ残る北摂地方は、昨年夏に収穫し保存された(干しずいき)を使った「やさい巻き寿司おまき」三島独活とコンニャク菜の花の白和(あ)え、東大阪地区で春の訪れと言われる八尾の若ごぼうの炒め煮、大阪地区のバラ寿司、南河内地区の田邊大根の切り干しの酢和え(富田林市の河南町で田邊大根が作られています)、そして泉州地区のじゃこごうこ(水茄子(なす)の古漬けと海老(えび)ジャコの煮物)。
学生の頃岸和田の知人宅で、一口しかいただけなかったお料理も、今は美味(おい)しくいただけました。まだ他にも何品もいただきましたが、同じ3月でも地域により旬の食材の違いを再認識しました。
この会には、東京・岡山・京都など他府県からの参加も多く、郷土料理への興味の深さを感じます。ちなみに、第2回の5月上旬のメニューを少々。食材はまさに春爛漫(らんまん)。北摂の山菜おこわ。クレソン、セリの胡麻(ごま)あえの食べ比べ。東大阪のしんかい(お盆のお供え料理)。大阪市のしがらき(もち米うるち米を使った蒸し菓子)。泉州の新玉ねぎとアサリの煮物他。
どれも、それぞれの暮らしに沿った食べ物で、伝えていきたいと思います。あなたの出身地の郷土料理は?
(たに・ふくえ 大阪市東住吉区)
-
大阪ええトコ再発見
狭山池 2011年6月5日利水に治水、そして憩いの場
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/eetoko/110605/20110605027.html
瑠璃色から黄金色に…。湖のように水をたたえ、空や太陽に呼応して美しい表情を見せる大阪狭山市の「狭山池」。大阪府の史跡名勝1号に指定され、風光明媚(めいび)な地として知られる。1400年にわたって地域住民の暮らしを守る日本最古のため池だ。
かつては水利に恵まれなかった府東南部で狭山池が造られたのは7世紀前半。葉の付いた枝を土の中に入れて堤を丈夫にする「敷葉(しきは)工法」が用いられ、その名は日本書紀や古事記にも登場する。
国家の土地開発政策と深く結び付きつつ、奈良時代にはため池の規模は2倍に。その後も各時代の先端技術が駆使され、機能強化やかんがいのルールが整備されてきた。かんがい地域は12キロ先の現・大阪市平野区にまで及び、約80の村に水の恵みをもたらしたという。
狭山池の歴史や土木事業の意義を伝える府立狭山池博物館の小山田宏一学芸員は「人間の英知が込められている」と語る。
平成に入って完成した改修によって、洪水調整機能を備えた新しいダム式のため池として生まれ変わった。
周辺には約千本の早咲きの桜、コシノヒガンが植えられ、府内で最も早く花見が楽しめる場所としてPRされる。池の周囲に整備された約3キロの周遊路では、散歩などを楽しむ地域住民の姿が絶えない。利水に治水、憩いの場として狭山池は新たな歴史を刻んでいる。
隣接する同博物館では、堤の断面などで過去の姿も知ることができ、小山田学芸員は、池と施設を見学すれば「時空を超えた楽しみ方ができる」と来訪を呼び掛けている。
【メモ】大阪狭山市岩室1402。南海高野線「大阪狭山市駅」下車、西へ数百メートル。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/210 太閤下水 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110609ddlk27070446000c.html
◆大阪市中央区
◇「都市プランナー」秀吉の遺構 今も現役、計20キロ
材木町から東へ歩く。市立南大江小学校(農人橋1)の西側に、なにやら地中をのぞける窓がある。のぞいてみると、溝を濁った水が流れている。「秀吉の時代からある下水で、太閤下水といいます。今も現役」と大阪案内人の西俣稔さん。
豊臣秀吉は1583年に始めた大坂城築城に伴って、市中のインフラ整備を進め、城下町をつくった。下水溝もこの時に巡らされた。秀吉はすぐれた都市プランナーでもあったのだ。いま、話題の映画「プリンセス・トヨトミ」には、秀吉の血筋のプリンセスを守る大阪国が出てくるが、太閤下水はまさに秀吉の遺産。「大坂のまちが整備されてたことを示す貴重な遺構」と西俣さんが言うのもうなずける。
西俣さんが、下水が流れていく西を指す。家やビルが背を向けて建ち並んでいるすき間を縫うように、細い道が延びている。「建物が背中合わせになってるところに下水溝が造られてるので、背割下水ともいうんです」。その道をたどると、東横堀川に行き当たる。「昔は東横堀川に下水を流してたんです」。もちろん、いまはそんなことはなく、松屋町筋の地下を流れる下水道から、西成区の津守下水処理場へ送られている。
それにしても、400年以上たつ今も現役とは恐れ入る。中も見学できるらしいので、後日、大阪市の外郭団体「都市技術センター」(旧・大阪市下水道技術協会)の小南郁夫さんに案内してもらった。
のぞき窓の脇に、見学用の下水溝への降り口がある。1985年にできたものだ。ちなみに、のぞき窓は太閤下水が市の文化財に指定されたのを受けて、06年に設けられた。
プーンと下水がにおう。「ましな方ですよ」と小南さん。地上から約2メートル下、幅約2メートルの下水溝の両脇には石垣が積まれている。「最初は石積みはなかったんです。素掘りでしたが、江戸時代中期から後期にかけて石積みがされ、その後改良されて、明治19年と23年のコレラの大流行で、溝の底をコンクリートにし、石積みのすき間を埋めました」。下水が浸透したり、石積みのすき間から漏れるのを防ぐためだ。その溝は緑色にこけむしている。
この下水溝は大阪医療センターから東横堀川の手前まで、約800メートル続いている。江戸時代、下水溝の掃除も補修も町衆の役目だったという。橋と同じだ。
太閤下水は中央区や西区、北区などに計約20キロ残っている。市内の下水の総延長4867キロの243分の1にあたる。線でつながってるわけではなく、上の図のように部分部分が残っている。このうち将来も使用可能な7キロが市の文化財になっている。
「なにせ家と家との間を通っているので、維持管理が非常に難しいんです。付け替えを進めましたが、建物の建て替えがない、影響がない所を残してるんです」と小南さんが説明してくれる。例えば、ここは小学校のグラウンドの下を流れてるので残ってるわけだ。
見学できるので、ぜひトヨトミの遺産を見てほしい。申し込みは都市技術センター(06・4963・2092)へ。【松井宏員】
-
隠れキリシタンの宗教画公開 大阪・茨木の史料館
2011年6月9日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201106080127.html
隠れキリシタンの里として知られる大阪府茨木市北部の民家で見つかった江戸時代の宗教画「マリア十五玄義図」(府有形文化財)が、同市千提寺の市立キリシタン遺物史料館で特別公開されている。市が初の修復を施し、鮮やかな色彩がよみがえった。
マリア十五玄義図は縦82.7センチ、横65.4センチ。17世紀に長崎のセミナリオ(神学校)で描かれたとみられ、聖母マリアとキリストの生涯の15の出来事が描かれている。同市千提寺の民家で1920年、屋根の棟木にくくりつけられた木箱の中から見つかった。
同史料館で2005年まで展示していたが、06年に府が有形文化財に指定。劣化を防ぐために、表面の汚れを落として絵の具のはがれ止めを施し、しわを伸ばして裏打ち補強するなどの修復を昨年10月から今年3月にかけて実施した。
茨木市北部はキリシタン大名の高山右近が治めたこともあってキリシタンの一大中心地だった。徳川幕府が禁教令を出してからも、信者たちは隠れて信仰を続けたとみられる。
マリア十五玄義図を所有する東満理亜さん(61)によると、江戸末期には10軒くらいの家で輪番を作り毎週日曜に集まって拝んでおり、十五玄義図はその時使われていたと推測されるという。東さんは「修復でぼんやりしていた赤色が鮮やかになった。キリスト教の歴史と、先祖が苦労してこの絵を残したということを知ってもらいたい」と話している。
13日まで。入場無料。問い合わせは同史料館(072・649・3443)へ。(石田貴子)
-
行ってみよっと:アサヒビール吹田工場と旧吹田村 歴史、文化の香りもプーン /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110609ddlk27040426000c.html
◇恵まれた水運に人と物資が往来
国内で2番目にできたビール工場、アサヒビール吹田工場の見学に行く。JR吹田駅前にどーんと構える。甲子園4個分という敷地(約16万平方メートル)の周りをたどりながら、正門まで約1キロ。
この道がいい。ツツジ、ツゲ、ヒノキ、シラカシ……緑のオンパレード。それぞれの木が名札をぶらさげ、「よろしく」と言っているよう。木々と仲良くなりながら、まもなくプーンと甘くて香ばしい匂いがしてきた。工場で活動中の小麦たちの匂いらしい。
同工場は1891(明治24)年にアサヒビールの第1号の工場として誕生した。ちなみに国内第1号は、キリンビールの横浜の醸造所。
なぜ吹田だった? 工場見学の案内担当、影浦ちひろさんの説明が始まる。まず、神崎川を利用した水運とすぐ脇を走る国鉄により運搬に好都合だったこと。また、近くで湧き水が出た。その水をビールの本場ドイツに送ると「適している」とお墨付きをもらえた−−これが立地の背景。ちなみに湧き水は、今は枯れて、近所の泉殿宮(いづどのぐう)に跡がある。
見学コースから、ガラス越しに工場内を見下ろせる。ややこしく張り巡らされたベルトコンベヤー。その道を瓶ビールが滑る!カーブもこけずにうまく滑走。クライマックスは缶に、ビールが注入されるシーン。速過ぎて目で追えない。このラインだけで1分間に350ミリリットル缶が1500本も誕生しているとか。そんなに急がないといけないとは、日本人ってホントにビール好き。
見学に訪れる人は、なんと年間12万人。家族連れからデートコース、修学旅行など名目はさまざま。確かに、ナマの現場は面白い。無料というのも大いなる魅力。
JR吹田駅の南側、旧吹田村も歩く。ここからは吹田まち案内人の瓢風(ひさかぜ)正男さん(68)に案内していただく。商店街が何本もつながる繁華街。「500店舗ぐらいあります」。シャッターがおりたままの店もあるけれど、このご時世仕方ない。
かつては亀岡街道や吹田街道が通り、さらに神崎川の水運で、江戸時代から栄えた。古い家や蔵がちらほら残り、建築ウオッチも楽しい。
江戸時代の庄屋を整備した「浜屋敷」に立ち寄る。高さ5メートル以上あるソテツが出迎えてくれる。観光案内所も兼ねていて、一息つくのにありがたい。敷地に、だんじりの展示庫がある。「鍵を開けてもらいましょう」。これ、取材への特別扱いではない。声をかければ、気軽に開けてくれる、懐が深い施設なのだ。だんじりを間近に見た。実に細かな彫刻が施され、見事な伝統芸術だ。「この図柄には物語があるんですよ。私はよう語れんのですが」(瓢風さん)。嘉永7(1854)年製の川面町地車(かわづらちょうだんじり)。ご老体なのに、今も毎年、吹田まつりで活躍するバリバリの“現役”だ。
すぐ近くの安威川に出ると、「吹田の渡(わたし)」跡がある。江戸時代、大阪と丹波を結ぶ亀岡街道の渡しで、いわば吹田の玄関口。人と物資が往来し、にぎわったのだろう。川が、この町に果たした役割は大きい。今、目の前の川辺には、ウオーキングする人が1人いるだけだけど。【三角真理】
==============
アサヒビール吹田工場=06・6388・1943。見学は要予約▽浜屋敷=見学は無料。土日は喫茶もある。06・4860・9731▽吹田まち案内人=案内人1人につき10人まで(1000円)。連絡は浜屋敷(06・4860・9731)。
-
2011年6月10日
彦星と織姫 200人「合コン」 応募殺到 枚方
http://www.sankei-kansai.com/2011/06/10/20110610-053886.php
大阪府枚方市で7月2日夜、男女200人の「巨大合コン」が行われる。市民の有志が地元に残る七夕伝説にちなんで企画したもので、募集からわずか2週間で定員を満たす人気ぶり。主催する「枚方婚活推進実行委員会」の松尾勝代委員長(46)は「気が合う人を見つけたら、七夕の日に枚方で再会する約束をして」と話し、ロマンチックな出会いの創造とともに街の活性化を願う。
「星の数ほど出逢い」
参加者は20歳以上の独身男女各100人。会場は京阪枚方市駅周辺にある飲食店約10軒で、参加者には午後7時から午後11時半の間、店を順番に回ってもらう。1軒の店にいられるのは最長1時間。参加者には多くの出会いを楽しんでもらうと同時に、駅周辺の魅力をPRする考えだ。
同市内には「天野川」が流れ、七夕や星にまつわる地名も残る。平安時代には七夕伝説の舞台として、数多くの和歌に詠まれた。
ただ、読み方を「まいかた」と間違えられたり、京都府と勘違いされたりすることもあり知名度はいまいち。そこで同市の市民らが実行委を結成、七夕伝説にちなんで「星の数ほど出逢いがある街」をキャッチフレーズに、「ひらコン」と銘打った巨大合コンを編み出した。
5月下旬からホームページやチラシで募集を始めたところ、申し込みが殺到。堺市や大阪府藤井寺市、兵庫県からの参加もあり、定員の200人は2週間で埋まった。「ロマンチックな出会いを求める若者たちの思いが表れたのかも」と実行委。「街をアピールし、枚方ファンを増やす絶好の場になるはず」と、早くも手応えを感じている。
キャンセル待ちの参加希望者も若干名受け付ける。問い合わせは実行委(電話090・6733・0148)。
-
津堂城山古墳出土「斜縁神獣鏡」と関大博所蔵破片一致
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110611-OYO1T00239.htm?from=newslist
大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(4世紀後半)で1912年に出土した銅鏡の欠けた部分に、どこで出土したのか不明だった関西大博物館(大阪府吹田市)所蔵の銅鏡の破片が合致することが、宮内庁などの調査でわかった。3次元計測した立体画像によって、出土から約100年を経て原形に近づいた。11、12両日、茨城県つくば市の筑波大で開かれる日本文化財科学会で発表される。
同古墳は百舌鳥(もず)・古市古墳群で最初に築かれた大王墓とされ、宮内庁が後円部頂上を陵墓参考地に指定している。
破片と接合する鏡は、後円部から様々な副葬品とともに見つかった銅鏡8面のうち2面(各直径18センチ)。ともに斜縁神獣鏡(しゃえんしんじゅうきょう)と呼ばれ、割れているため残存するのは全体の5〜7割で、同庁書陵部が所蔵していた。
一方、同博物館にあるのは破片3点(大きさ3〜6センチ)。「本山コレクション」(登録有形文化財)の一部だが、出土地不明だった。最近、研究者が宮内庁の鏡との類似に気づいたという。
昨秋から奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)が調査を実施。鏡2面と破片3点をそれぞれ別々に3次元計測し、立体的に再現した画像同士を合わせたところ、凹凸や文様、断面などがすべて一致した。
宮内庁陵墓課の徳田誠志・首席研究官は「鏡と破片の現物が接合することが、離れていながら判明したのは、新しい技術の成果。今後、他の文化財調査にも役立つだろう」と話している。 大阪府藤井寺市の津堂城山古墳(4世紀後半)で1912年に出土した銅鏡の欠けた部分に、どこで出土したのか不明だった関西大博物館(大阪府吹田市)所蔵の銅鏡の破片が合致することが、宮内庁などの調査でわかった。3次元計測した立体画像によって、出土から約100年を経て原形に近づいた。11、12両日、茨城県つくば市の筑波大で開かれる日本文化財科学会で発表される。
同古墳は百舌鳥(もず)・古市古墳群で最初に築かれた大王墓とされ、宮内庁が後円部頂上を陵墓参考地に指定している。
破片と接合する鏡は、後円部から様々な副葬品とともに見つかった銅鏡8面のうち2面(各直径18センチ)。ともに斜縁神獣鏡(しゃえんしんじゅうきょう)と呼ばれ、割れているため残存するのは全体の5〜7割で、同庁書陵部が所蔵していた。
一方、同博物館にあるのは破片3点(大きさ3〜6センチ)。「本山コレクション」(登録有形文化財)の一部だが、出土地不明だった。最近、研究者が宮内庁の鏡との類似に気づいたという。
昨秋から奈良県立橿原考古学研究所(橿原市)が調査を実施。鏡2面と破片3点をそれぞれ別々に3次元計測し、立体的に再現した画像同士を合わせたところ、凹凸や文様、断面などがすべて一致した。
宮内庁陵墓課の徳田誠志・首席研究官は「鏡と破片の現物が接合することが、離れていながら判明したのは、新しい技術の成果。今後、他の文化財調査にも役立つだろう」と話している。
(2011年6月11日 読売新聞)
-
本山コレクション:鏡の破片、大阪・津堂城山古墳出土の鏡と合体−−パソコン画面で
http://mainichi.jp/kansai/news/20110611ddn041040006000c.html
◇100年ぶり合体
考古資料「本山コレクション」の鏡の破片が、明治末年に大阪府藤井寺市の津堂城山(つどうしろやま)古墳で出土した宮内庁所蔵の斜縁(しゃえん)二神四獣鏡の一部と分かった。別々に保管され泣き別れになっていた鏡が、徳田誠志(まさし)・宮内庁書陵部首席研究官(日本考古学)らの三次元デジタル形状計測によって約100年ぶりにパソコンの画面上で合体した。
鏡の破片は目録に「漢鏡破片 3個 河内国南河内郡津堂村小山古墳」と記され、4世紀末の巨大前方後円墳である津堂城山古墳の出土とみられる。
この古墳では1912(明治45)年、発掘調査が行われた。当時の宮内省は後円部頂を皇族の墓の可能性がある「陵墓参考地」に追加指定し、副葬品を買い上げた。
宮内庁所蔵となっている鏡片は8枚分。欠けた部分を樹脂で補ったものもあり、現物を持ち寄っても合わせられないため、奈良県立橿原考古学研究所の奥山誠義・主任研究員(保存科学)が本山コレクションの破片を0・01〜0・03ミリの精度の装置で三次元形状計測した。
計測データをもとにCGを作成し、計測を終えてデータベース化されている宮内庁の鏡と重ね合わせたところ、2枚の鏡の欠けている部分と、破片の形が平面、断面とも一致した。うち1枚は欠けている部分の銘文の文字「徳」がX線撮影で破片から浮かび上がった。
11、12日、筑波大学で開かれる日本文化財科学会で発表される。【佐々木泰造】
==============
■ことば
◇本山コレクション
毎日新聞社社長だった本山彦一(1853〜1932年)が収集した考古資料1万8945点。自ら調査隊を組織して1917(大正6)〜19年に大阪府藤井寺市の国府(こう)遺跡を調査した時の出土品などを含み、日本の考古学史を物語る資料と評価されている。今春、国の登録有形文化財になることが決まった。現在、関西大学博物館(大阪府吹田市)に所蔵されている。
-
AKIRA、長澤と交際順調?「江ちゃんとは」とはぐらかす
2011.6.12 15:18
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110612/ent11061215200008-n1.htm
NHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」(日後8・0)に豊臣秀勝役で出演中のEXILEのパフォーマー、AKIRA(29)が11日、秀勝の養父・秀吉を祀る大阪・豊國神社を訪れた。
ドラマでは女優、上野樹里(25)演じる江の夫となるが、私生活では長澤まさみ(24)と熱愛中。報道陣から「交際は順調?」と質問が飛び出すと、「わからない。江ちゃんとは順調です」とかわしながらも、爽やかな笑顔を絶やさなかった。表情には公私ともに「順調」な雰囲気がバッチリ出ていた。
7月3日放送分では、江との結婚シーンが登場する。「いつかはこういう形で愛する人と結ばれて、子供をもうけてって言いますけど、1人の人として、愛する心を受け止められるよう成長していけたらと思います」と結婚観も告白した。(サンケイスポーツ)
-
「そうらえわれら天神花娘」 10人初顔合わせ
2011年6月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110614/20110614021.html
天神祭などで活躍する天神橋筋商店連合会のキャンペーンガール「天神天満花娘」に選ばれた今期のメンバーが11日夜、大阪市北区の大阪天満宮で初めて顔合わせし、地元の手打ち「大阪締め」や口上の研修に臨んだ。
花娘は毎年公募で選出され、大阪天満宮のシンボルの花「紅白の梅」をあしらった華やかな冠をかぶり、天神祭や商店街などのPRに参加。大阪天満宮の天神祭関連行事「星愛七夕まつり」(7月7日)でデビューする。
研修では、今年の花娘10人が、口上の練習で「そうらえ 聞きそうらえ われら天神花娘」と声を合わせたほか、大阪締めを実践。また、神職から天神祭の起源や歴史についての説明を受けた。
神社の仕事に憧れていたという香川奈緒子さん(20)は、東日本大震災で続く沈滞ムードを踏まえ「大阪から元気を発信したい」と笑顔。同連合会の土居年樹会長は「皆さんと接することで、大阪に来て良かったと思われる存在になって」とエールを送っていた。
-
天神祭の花火の協賛金、一部は被災地へ 大阪天満宮
2011年6月14日
http://mytown.asahi.com/areanews/osaka/OSK201106130179.html
大阪天満宮(大阪市北区)は、天神祭の船渡御(7月25日)に合わせて打ち上げる奉納花火の協賛金を募っている。協賛金の一部は東日本大震災の復興資金として被災地に贈る。
今年の花火は昨年より2千発少ない3千発。震災の影響で協賛を見合わせる企業があるためという。
一般の協賛金は1口5500円。うち5千円を3号玉(直径約10センチ)花火1発分の費用に充て、500円は被災地に贈る。協賛金を寄せた人にはこれまで3号玉のレプリカを贈っていたが、今年は新たに2種類の大型レプリカを用意。10万円以上なら5号玉(直径約15センチ)、30万円以上なら10号玉(直径約30センチ)のレプリカを贈る。締め切りは7月23日。問い合わせは大阪天満宮(06・6353・0025)へ。(八田智代)
-
セントレジス アフィシアナード どんどこ船で体験する「水の都・大阪、天神祭」
http://www.asahi.com/business/pressrelease/PRT201106030035.html
セント レジス ホテル 大阪は、天神祭を堪能するアフィシアナード プログラム「水都・大阪、天神祭」を、7 月25 日(月)に実施いたします。今回のプログラムでは、日本三大祭の一つとして知られる天神祭を、セントレジスのお客様だけがご体験いただける「アフィシアナード」としてご用意いたしました。
大阪で最もにぎわう天神祭は、全国の天満宮及び天神社で催される祭神の菅原道真の命日にちなんで開催され、大阪府では、大阪天満宮を中心とした大阪市にて行われます。
この度のアフィシアナードでは、船渡御 (ふなとぎょ)と呼ばれる、繁栄を祈願するために氏地を巡行する道頓堀に入ることが許された数少ない船「どんどこ船」に乗船し、日が沈むころ、大川を渡り夜空に舞う花火を鑑賞するツアーをご提供いたします。好きな柄が選べるセント レジス 特選浴衣とペアの下駄をプレゼントし、お召し替の後、天神祭へお出かけいただきます。
天神橋から道頓堀、戎橋と、水都・大阪を象徴する場所を巡る船上にて、目の前に広がる花火や、漕ぎ手と一緒に行う「大阪締め」など貴重な体験を心ゆくまでお楽しみいただきます。
この大阪を感じる旅の余韻を高める演出として、クラシックなデザイン、贅沢な質感と内装が特徴のグランド デラックス スイートにてシャンパンとオードブル、ライトミールをご提供するプライベートディナーをお楽しみいただきます。ご滞在中は、セント レジス バトラーがきめ細やかなおもてなしを24 時間ご提供いたします。
今後も、大阪というロケーションと日本が誇る文化を生かした、記憶に残る貴重な体験を提案してまいります。
■ アフィシアナード 「水の都・大阪、天神祭」概要
期日: 2011 年7 月25 日(月)
乗船 開始 時間: 17:30
船渡御開始時間: 18:15
船渡御終了時間: 21:30
乗 船 場 所: 中之島剣先公園南側(天神橋東側)
下 船 場 所: 道頓堀川 戎橋東側桟橋
※雨天決行(雨天時には、セント レジス ホテル大阪オリジナルの雨具を貸し出します。)
-
>>237
内容:
大阪にて開催される日本三大祭の一つをお楽しみいただけるプログラムです。セント レジス ホテル 大阪の特選浴衣にお召し替え後、どんどこ船と呼ばれる、道頓堀に入ることが許された数少ない船に乗り、天神橋の麓から道頓堀川戎橋へと向かう船路をお楽しみいただきます。
途中、当日まで秘密のエンターテイメントと共に奉納花火をご鑑賞いただきます。ご夕食には船の上で特製のうな重とビールの飲み放題をお召し上がりください。
また、客室ではルームサービスにて、オードブルとクラブサンドイッチをブーブクリコのシャンパンと共にご用意しております。
※どんどこ船の乗船には、講の袢纏・扇子・手拭・お食事(うな重)・お茶・ビール(飲み放題)が含まれます。
行程:
-7 月25 日
15:00 チェックイン 浴衣にお召し替えください
17:00 ホテルを出発
17:30 中之島剣先公園より乗船
18:15 船渡御開始 約3 時間の船旅をお楽しみください
19:00-21:00 奉納花火をご覧ください
21:30 下船場所の戎橋へ到着 ホテルまでタクシーにてお帰り下さい
22:00 スイートルームにてプライベートディナーをご用意しております
-7 月26 日
6:30 インターナショナルビュッフェまたは和朝食をお楽しみください
(場所:ホテル12 階 イタリア料理 「ラ ベデュータ 」)
14:00 チェックアウト
※状況により時間が変更になる場合がございます。
料金:
お一人様79,000 円(税込・サービス料別/1 室2 名様)
※上記金額には、宿泊料金、夕食、朝食、乗船料、船上での飲食料金、タクシー送迎料金(ホテル-どんどこ船乗降船場所)が含まれます。
客室:
グランド デラックス スイート ※限定3 組様
予約受付期間: 6 月3 日(金)〜7 月23 日(土)
予約・お問い合わせ: 06-6258-3333 (10:00〜20:00)
※キャンセルの際は、実施日の2 週間前までにご連絡をお願いします。
その後はキャンセルチャージを申し受けますので、予めご了承ください。
-
>>237、>>238
■ 大阪 天神祭 概要
天神祭とは、全国の天満宮及び天神社で催される祭神の菅原道真の命日にちなんだ縁日です。大阪の「天神祭」は東京・神田祭、京都・祇園祭とともに日本三大祭りとされ、毎年130 万人もの人が訪れる夏の大祭です。また、愛染祭、住吉祭とともに大阪三大夏祭りの一つとも言われております。
天神祭は、大阪市内の天満にある大阪天満宮の氏地を中心に、毎年宵宮が7 月24 日、本宮が翌7 月25 日に定められており、賑やかに開催されます。大阪市内のさらなる繁栄を祈願するために氏地を巡行する陸渡御 (おかとぎょ)と船渡御 (ふなとぎょ)がその代表格として知られております。特に船渡御は千年以上も前に始まり、大阪とともにその古い歴史を歩んできました。天神祭は、水の都大阪を代表するお祭りといえます。
25 日夜には、100 艘余りの船で祭を盛り上げる「船渡御(ふなとぎょ)」が行われます。「どんどこ船」は船渡御の中では「列外船」として扱われ、列から離れて自由に航行ができ、大川を下ります。
中之島から道頓堀までの約3 時間の船渡御にて、道頓堀に入って行くことが出来るのは100 艘のうち、「どんどこ船」「供奉船」「文楽船」「落語船」の4 艘のみとなっています。
・奉納花火
神様にご覧いただくために25 日に打上げるのが「奉納花火」です。船渡御が始まり、日が沈むころ、大川をはさむ川崎公園・桜ノ宮公園の2 箇所にて、打ち上げ花火が開始されます。上げられる花火は、総数5000 発。 そのうち2000 発は花火奉賛会からの奉賛です。
・どんどこ船
天神祭の開催を知らせる「どんどこ船」は、広告塔の役目を担いお祭りに彩を添える天神祭の花形船です。約四十人の漕ぎ手の若々しい掛け声や大阪締め(※)、打ち鳴らす鉦太鼓(かねだいこ)が響き渡り、一斉に櫂を漕いで進
んでいきます。どんどこ船という名前の由来もドンドコと鐘を鳴らすため付けられたとも言われています。
(※)大阪でよく使われる手締めの一種であり、下記スタイルが一般的な手締め。打ちましょ(パン、パン)もひとつ(もうひとつ)せぇ(パン、パン)いおうて(祝うて)三度(パ、パン、パン)
-
>>237、>>238、>>239
■ 「セント レジス アフィシアナード」について
「セント レジス アフィシアナード」とは、“最高のロケーションで最高の体験を” をコンセプトに世界各国で展開する、セント レジスにご宿泊されるお客様だけに許された、一生に一度の素晴らしい体験と特別なイベントをお楽しみいただくためのプログラムです。
■ セント レジス ホテル&リゾートについて
時代を超えた洗練とモダンな高級感を併せ持つセント レジス ブランドは、たゆまぬ努力によって極上のおもてなしを追求してきました。創業者のジョン・ジェイコブ・アスター4 世が第1 号をニューヨークにオープンしてから、1 世紀以上。いまやセント レジスは、世界中の主要都市で、比類のないラグジュアリーときめ細やかなサービス、そして洗練されたエレガントなホテルとして、その名を知られています。今後は、こうした伝統を受け継ぎながら、さらに世界展開を進め、北米のバイアビーチ、プエルトリコ、バルハーバー、そしてバミューダ諸島のプライベートアイランドに待望のセント レジスがオープンする予定です。南米では、ブエノスアイレスやカナイ リビエラに進出する見通しです。アジアでも、バンコク、成都、クアラルンプール、南京、三亜亜龍湾、天津での開業計画を発表しました。アフリカ・中東では、アブダビ、カイロ、ドーハ、モーリシャスへの展開を進める予定です。セント レジスならではの魅力は、行き届いたサービスと心配り、あこがれのロケーションと豪華なデザインと言えるでしょう。詳しくはwww.stregis.com をご覧ください。
■ セント レジス ホテル 大阪 概要
所在地: 大阪府大阪市本町 三丁目六番十二号
T E L: 06-6258-3333 (代表)
H P : http://www.stregisosaka.co.jp/
-
中之島周辺の橋めぐり
2011年6月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/asobo/110614/20110614031.html
随所に八百八橋の面影
水都・大阪はかつて「浪華八百八橋」とうたわれたほど、今でも多くの橋が架かる。そこで今回は中之島周辺の橋と名所を巡るコースに参加した。北区のガイドボランティア団体、ヤジ馬ヤジ北の代表を務める浜田容子さん(59)と、メンバーの久田健介さん(73)の案内で出発した。
スタート地点の地下にある京阪「中之島駅」から地上に出ると、目の前には大阪国際会議場。そこから堂島川沿いに歩き、川を越えてたどり着いたのが福沢諭吉の生誕地を記す石碑。福沢諭吉は1835年、大阪の中津藩(大分県)で下級武士の子として生まれた。適塾(中央区)で蘭学を学び、慶応義塾を創立したことで知られる。
堂島川沿いを進みやがて「大阪で3番目に古い橋」(久田さん)という渡辺橋を過ぎ、土佐堀川に架かる錦橋に着いた。錦橋には古い大阪の橋を描いた絵が飾られている。橋のたもとには大阪の橋の「番付表」が設置されており、浪華八百八橋の面影を感じることができる。
浜田さんは「かつて江戸には350ほど橋がありましたが、半分くらいは(幕府が直接管理する)公儀橋。大坂には200の橋のうち公儀橋は12だけで、あとは(町会などが造った)町橋」と解説。八百八橋とうたわれた大阪の人たちの心意気を感じた。
江戸時代の豪商・淀屋によって造られた淀屋橋と、堂島川に架かる大江橋がいずれも国の重要文化財に指定されているとの説明を受け、先を進むと、中之島図書館に着いた。同図書館は1904年に住友家第15代の住友吉左衛門友純の寄付によって建てられ、ルネサンス様式の外観が荘厳な雰囲気を醸し出している。
大阪市中央公会堂を過ぎ、7月の天神祭の際には鉾(ほこ)流神事が行われる鉾流橋がゴール地点。来月に迫った天神祭を思い浮かべながら今回のまち歩きを終えた。
(春のコースが終了したため、この連載も次回コースの再開まで休載します)
○…中之島を囲むように流れる堂島川と土佐堀川に架かるいくつもの橋と名所を巡る今回のコース。水都・大阪を象徴するような風景の中を歩き、まさに大阪が水の都であることを実感した。
-
提灯舗かわい 上方の明かり守り続け150年
2011.6.8 18:01
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110608/trd11060818020016-n1.htm
≪伝統の技 丹精込め一つ一つ手作り≫
祭りに、仏事に、飲み屋の店先に…と提灯(ちょうちん)の用途は広い。和紙の覆いを通して漏れるほんのりした明かりは情緒があり、どこかホッとした気分にさせられる。そんな提灯だが、作り手は年々減少。大阪では天神祭などで見かける伝統の地張(じばり)提灯の製造元も、ただ1軒になった。天満にある「提灯舗かわい」。江戸末期から150年余にわたり、文字通り伝統の「灯(ひ)」を守ってきた。
地張という昔ながらの技法で作る提灯は丈夫で長持ち。大きなものも作ることができ、天神祭の陸渡御で掲げられる高張(たかはり)提灯のほか、上方落語の常設寄席「天満天神繁昌亭」(大阪市北区)正面の赤提灯、天神橋二丁目商店街のアーケードにつるされた大提灯も、かわいの製品だ。
■地張職人は1人だけ
工程は細かい作業の連続。まず竹を細く割ったひごを、提灯の張り型に輪っか状に巻いていく。これを骨掛けという。次に骨に糸を掛け、さらに骨と糸に、はけでまんべんなくのりをつけ、手漉(す)きの和紙を張る。昔は分業だったが、今はここまでを地張職人が1人で担当する。伝統に忠実な作業は手間がかかり、最初の竹割りから始めると、1日に1つ仕上げられるかどうかだという。
-
>>242
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110608/trd11060818020016-n2.htm
かわいの地張職人はベテランの前任者が退職し、現在はその後を継いだ経験8年の山上惠章(やまうえ・しげのり)さん(40)ただ一人。「(伝統を背負う)プレッシャーはあります。竹は一本一本違い、仕上がりも変わってくる。自然相手の難しい作業です」という。
仕上げは骨に張った紙に筆で文字や絵を入れるが、ここで書き損じたり字を間違えたりすると、紙は張り替えができないため、最初の工程からやり直しになる。
「先代からは『利は元に有り』と言われました。提灯は一つ一つ手を抜かず、大事に作り続け、もの作りを大切にせよということだと思っています」。6代目の河合清司社長(58)はそう話す。
■大阪では最後の1軒
提灯の業者はかつて天満周辺に20軒ほどあった。最後の1軒になったかわいも、昭和50年代初めごろにはオイルショックから廃業を検討。大学生だった清司社長も仕事を継ぐかどうか迷ったというが、旅行先のヨーロッパで日本を紹介した雑誌をたまたま目にしたことが転機になった。「そこには浅草の雷門や道頓堀など提灯のある風景が写っていました。日本のよさ、味わいがあり、提灯も捨てたもんじゃないなと思いました」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110608/trd11060818020016-n3.htm
その後は提灯の字を書くため自ら習字を習うなどし、弟の浩司専務(50)とともに家業を軌道に乗せた。
「提灯は明かりをつけたとき、シルエットが美しいかどうかで決まる。時間をかけて割って作った竹骨でも、幅が均等でないものなどは処分し、常にクオリティーの高いものを作ろうと心がけています」
浩司専務の言葉からは、もの作りへのこだわりと自負が感じられた。(文:高田清彦/撮影:大塚聡彦/SANKEI EXPRESS)
◇
■提灯舗かわい 1858(安政5)年、大阪・天満で創業。戦後、有限会社となり、提灯製造卸のほか和洋傘卸で営業を拡大。商標は「やませ」。地張のほか、竹骨をらせん状に巻いた巻(まき)提灯なども扱う。近年は各種デザイナーと交流を深め、新しい「上方の明かり」を提唱。大阪市北区天満3の4の9。(電)06・6351・2174。
-
ギャルみこし募集
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110615-OYT8T00086.htm
天神祭の宵宮前日(7月23日)に大阪市北区の天神橋筋商店街を練り歩く恒例の「ギャルみこし」の担ぎ手募集のPRのため、昨年みこしに参加したミス天神橋の原田かおりさん(23)らが14日、読売新聞大阪本社を訪れた=写真=。
31回目となる今年は「ニッポンわっしょい」をテーマに行うといい、原田さんは「大阪から被災地、日本全国に元気を送れるよう、明るく元気で体力がある人の応募を待っています」と呼びかけた。
担ぎ手は15歳から30歳まで(中学生不可)の健康な女性なら応募可能。80人を募集している。選考会は、仮装による自己PRと重さ70キロのてんびん棒を担ぐ体力検査が行われる。締め切りは6月30日で、ホームページ(http://www.galmikoshi.com/)から申し込む。問い合わせは天神祭女性御神輿(おみこし)実行委員会(06・6358・0459)へ。
(2011年6月15日 読売新聞)
-
5000人見守る中 御田植神事 大阪・住吉大社
2011.6.14 20:14
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110614/osk11061421310015-n1.htm
「すみよっさん」と親しまれ、鎮座(ちんざ)1800年を迎えた住吉大社(大阪市住吉区)で14日、国の重要無形民俗文化財に指定されている「御田植(おたうえ)神事」が営まれ、菅笠(すげがさ)に赤たすき姿の替植女(かえうえめ)らが稲の苗を手植えし、豊作を祈願した=写真(大塚聡彦撮影)。
この神事は祭神の神功皇后(じんぐうこうごう)が御田を作らせたのが始まりとされ、香取神宮(千葉県)と伊雑宮=いざわのみや=(三重県)とともに日本三大御田植祭のひとつに数えられる。
御田の中央に設けられた舞台や周辺で、巫女(みこ)による舞や、住吉踊りなどが奉納され、約5千人の参拝者が伝統行事を見守った。堺市堺区の主婦、福田真知子さん(35)は「歴史を感じるとともに神聖な気持ちになります
-
豊穣祈り手植え 住吉大社で「御田植神事」
2011年6月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110615/20110615024.html
大阪市住吉区の住吉大社で14日、夏の訪れを告げる伝統行事「御田植(おたうえ)神事」が行われた。境内南側の御田(おんだ)で、古来の装束に身を包んだ「植女(うえめ)」たちが苗を手植えして秋の五穀豊穣(ほうじょう)を祈願した。
約1800年の歴史を誇り、重要無形民俗文化財指定を受けた同大社の代表的な行事。境内や御田に約5千人が参拝した。
第一本宮で神職から植女に早苗が授けられ、御田で実際に田植えをする「替(かえ)植女」に引き継ぎ。替植女と奉仕者らが約2300平方メートルの水田に入り、手際よく植えていった。
田植えの間、舞台上や周囲で風流武者による棒打ち合戦や田植踊、住吉踊などが行われ、神事を盛り上げた。
吹田市から訪れた主婦、釘宮多美子さん(59)は「昔からの方法で田植えの様子を伝える神事は重要。来年も見たい」と話していた。
-
「住吉の蔵」を収めたDVD上映会&トークライブ、区内で開催へ
http://abeno.keizai.biz/headline/97/
住吉区役所が企画したDVD「住吉の蔵−未来に語り継ぐ宝物−」の上映会と蔵についてのトークライブが6月25日、住吉区民センター小ホール(住吉区南住吉3)で開催される。
同区内の住吉大社周辺や帝塚山地域には約80の蔵が現存している。その中で16軒の蔵の内部、外観などの映像や持ち主のインタビューをDVDに収め、歴史や写真なども紹介している。制作は歴史研究家、建築家、映画監督などで構成された「住吉文化事業実行委員会」。同区はビルやマンションなどが次々建設され蔵が減っていく中で、「住吉の蔵」を映像として記録することが重要であると考えたという。
トークライブでは、蔵の持ち主2人と大阪市内の蔵を調査するなど、住宅史、建築史を専門分野にしている大阪人間科学大学人間科学部環境・建築デザイン学科の植松清志教授が務める。
開催は14時〜。入場無料(先着順)。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/211 久宝寺橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110616ddlk27070402000c.html
◆大阪市中央区
◇移住者が地名の由来 お国さまざま城下町
東横堀川に沿って南へ歩く。材木町の南に架かる久宝寺橋は、戦前の1939(昭和14)年に完成したコンクリート製のどっしりした構えで、照明灯もレトロで趣がある。江戸時代、橋の東は材木商が並ぶ材木町で、西は新町や道頓堀に近いから、小間物商らが住んでいたという。
ところで、この辺には北や南、内が付く久宝寺の地名が残る。八尾にも久宝寺という地名があるが……。大阪案内人の西俣稔さんが言うには「秀吉が城下町を造ったときに、河内の久宝寺村から移住させたという説があるんです。城下町はあちこちから人を移動させて造ったわけで、伏見町は京都の伏見から、安土町は滋賀の安土から」。ここからさらに南の東平は、平野郷から移住したからだという。なんで東平が平野か?
前の地名が東平野町と聞くと納得。
川沿いを歩いていると、東側が上り坂になっている。上町台地の傾斜だ。すぐ東には、人形や花火などを扱うおもちゃ屋が並ぶ松屋町筋が通っている。「まつやまち」と読むが、大阪人は「まっちゃまち」と呼ぶ。ちゃんと読むのがまどろっこしいのだろう。人形屋のテレビコマーシャルでも「まっちゃまち」と言ってた。
お次は安堂寺橋。こちらは1967(昭和42)年の架橋で、鉄製のブルーの欄干。まったく興をそそられない。そんな橋を手をつないだ男女が歩いている。その昔は男女が仲よう歩ける所やなかったようで。水運の要路で船着き場があり、船荷の上げ下ろしをする男たちがうろうろしていた。
そんなころを描いた上方落語が「五人裁き」。女房の病気を治すために高い薬を買わねばならなくなった農家のおやじが、しょうことなく娘を新町の遊郭に身売りする。娘を売った大金を懐に、おやじが安堂寺橋に差し掛かる。ふと見ると酒屋がある。一杯飲まんとやってられん、と居酒、つまりは店先で飲ます立ち飲みはやってまへんと断る酒屋に腰を低うに頼み込む。
酔うて店を出たところで、金を入れた胴巻きがないのに気付いて、血相変えて店へ取って返す。酒屋の番頭は胴巻きが落ちてるのに気付いて、とりあえず懐に入れてしまってたから、「ない」と言い張る。
たたき出されたおやじは、西町奉行所へ訴え出る。お奉行は酒屋に「盗っ人が捕まり、大金を店に落としたと言うておる。よく調べよ」とのお達し。それを聞いた番頭は火鉢の中に胴巻きを隠し、それが見つかったと届け出る。一人の罪人も出さずに一件落着の名裁き−−。
安堂寺の由来だが、元は安曇(あずみ)といった。西俣さんいわく「渡来人の安曇族が住んでいて、安曇の音が変化して安堂になったようです」。ここにあったお寺が安曇寺。西俣さんが続けて「安曇族は海洋族で、同じく安曇に語源を持つ地名に、熱海や渥美半島があります」。「続日本紀」にも「安曇江」が出てくるから、えらく古い地名なわけだ。【松井宏員】
-
八軒家浜で船渡御観覧 参加者募集、写真コンも予定
2011年6月16日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110616/20110616016.html
大阪府は、7月25日にある天神祭本宮の船渡御を八軒家浜(大阪市中央区)で観覧する希望者の募集を始めた。約100隻が航行する船渡御を目前に見ることができる。観覧者が撮影した写真のコンクールも予定している。
八軒家浜は大川左岸に位置する「水辺空間」で、京阪・地下鉄「天満橋」駅に隣接。
写真コンクールは知事賞、優秀賞、特別賞を設け、受賞作品は9月下旬に八軒家浜内の川の駅「はちけんや」に展示する。
観覧者の募集定員は約500人。対象は東日本大震災で被災した関西在住者か大阪府民で、1組5人まで。応募多数の場合は抽選となり、当選者に「参加証」を送る。無料。観覧時間は午後6時から同8時半まで。会場で花火の観覧はできない。
観覧の応募は往復はがきかインターネットで、締め切りは30日必着。問い合わせは電話06(6910)8001、府民お問い合わせセンターへ。
-
2011年6月16日
6月16日は「和菓子の日」。
http://www.sankei-kansai.com/2011/06/16/20110616-054110.php
全国和菓子協会が制定した記念日で、この日に合わせてオリジナル商品を販売する和菓子店も少なくない。
堺は茶人である千利休の出生地ということもあり、歴史ある和菓子店が数多く存在する。
式部庵では、この和菓子の日に合わせて開発した新商品「笑わず餅」を販売している。北海道産大納言小豆を使用した葛寄せと和風のゼリーを2層にし、一口サイズの餅とうぐいす豆をのせた創作和菓子。湿度が高く暑くなったこの時期にぴったりの涼しさを感じることができる和菓子だ。1個200円で和菓子の日まで期間限定で販売している。
錦屋は北海道の農家から直接仕入れた小豆を使用した「錦どらやき」の販売に力をいれている。「錦どらやき」は今年4月に堺市優良観光みやげ品として推奨されたことをきっかけに堺の商人や包丁、港をイメージにしたパッケージの刷新を行った。どらやきはひとつひとつ手作りで焼き上げている。価格は10個入りで1250円。同店ホームページで購入ができる。錦屋店長の木野知則さんは「和菓子を通して堺のPRにつなげたい」と意気込みを語る。
問い合わせは式部庵(電話072・285・1659)
同社ホームページ http://www.shikibu-an.com/
問い合わせは錦屋(電話072・271・2015)
同社ホームページ http://shop.nisikiya.org/
-
2011年6月16日
棚田の"鏡"青空映す 千早赤阪村
http://www.sankei-kansai.com/2011/06/16/20110616-054087.php
大阪・千早赤阪村の「下赤阪の棚田」で、田植えが終わったばかりの水田に、梅雨の中休みで現れた青空がまぶしく映しだされている=写真。
同所は、山の斜面に約250の田んぼが連なり、国の「日本の棚田百選」に選ばれている。室町時代に開墾され、南北朝時代に楠木正成が棚田を見渡せる高台に下赤坂城を築造したとされている。
田植えに合わせ水が張られ、独特の景観と雰囲気を醸し出している。期間限定の大きな“鏡”は、訪れた人たちの心も晴れやかにしてくれるよう。
-
道頓堀で恒例「船乗り込み」開催へ−歌舞伎役者が船で沿道にあいさつ
http://namba.keizai.biz/headline/1878/
道頓堀の大阪松竹座(大阪市中央区道頓堀1)で7月3日から「七月大歌舞伎」が行われるのを前に、道頓堀川で6月29日、「船乗り込み」が行われる。
「船乗り込み」は、歌舞伎に出演する俳優が船で川を巡り、川岸のファンらにあいさつを行う伝統行事。もともとは歌舞伎役者が京都や江戸から来阪する際に、川沿いを巡りながら、ひいき客らにあいさつし、道頓堀の芝居小屋へと乗り込んでいたもの。1979(昭和54)年に55年ぶりに復活して以来、毎年7月の大歌舞伎公演を前に夏の恒例行事として行われている。
当日は、八軒家浜船着き場(京阪天満橋駅北側)で記念式典を行った後、歌舞伎俳優らがのぼりやちょうちんで飾り付けた船に乗り込む。東横堀川を南下し道頓堀川へと進み、15時20分ころに戎橋東側に到着。戎橋やとんぼりリバーウォークに詰めかけた歌舞伎ファンらを前に船上で口上を述べた後、下船し松竹座前に移動、大入り祈願の式典として、口上と公演の紹介、鏡開き、まき手ぬぐい、手締めを行う。
大阪松竹座では現在、船乗り込みに同乗する一般参加者10組20人を募集している。往復はがきでの応募が必要で、応募者多数の場合は抽選(6月20日必着)。
-
大阪三大夏祭りの一つ「愛染まつり」、30日から開催へ−愛染娘もPR
http://abeno.keizai.biz/headline/98/
大阪三大夏祭りの一つ「愛染まつり」が6月30日〜7月2日、寺院「愛染堂・勝鬘院(あいぜんどう しょうまんいん)」(天王寺区夕陽丘町5)で開催される。
「愛染まつり」は593年に聖徳太子が開いた日本最古の夏祭りといわれ、関西で最初に浴衣を着ることで別名「浴衣まつり」とも呼ばれる。愛染娘12人が宝恵(ほえ)かごに乗って谷町筋を練り歩くのが恒例で、境内で「かご上げ」が盛大に行われる。今年は初日に「あべのキューズモール」3階スカイコートで開会式、重要文化財・多宝塔で大法要が行われる。
同寺院では期間中、「愛染かつらの花守り」「愛染娘はハローキティ」の販売、フルタ製菓から子どもにお菓子のプレゼント(連日100人)、宝恵かご体験やフラダンスなどの演舞大会、「摂州地車囃子(せっしゅうだんじりばやし)かずら」による蛇踊り付きの囃子などが繰り広げられる。周辺には250以上の夜店が並ぶ。
愛染娘は、応募者309人から選ばれた19歳〜29歳の10人。留学生枠として清風情報工科学院の学生2人(今年はラオス人と中国人)が加わる。その中から1人を、1日に行われるミス愛染娘コンテストで選ぶ。歴代には現在タレントで活躍している人も多い。採用基準は美人コンテストと異なり、「より多くの人に福と愛を授けられる愛嬌(あいきょう)のある人」。宝恵かごの担ぎ手「愛染女組」「愛染男組」も用意する。
6月16日9時には、愛染娘がマスコミ各社を訪ねるPR活動に出発した。
-
大阪市電とバス懐かしの風景展
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110619-OYT8T00092.htm
日本で初めて公営の路面電車として開業した大阪市の市電などを紹介する特集展示「懐かしい市電とバスのある風景」が、大阪歴史博物館(大阪市中央区)で開かれている。
大阪市の市電は1903年、市営バスは27年に営業を始め、市電は69年に全廃された。会場には、明治―昭和の写真やポスターなど約100点が並び、市民の足として利用された当時の様子が分かる。
60年頃に撮影された写真「四ツ橋を走る市電」=写真、大阪市交通局所蔵=には、まだ埋め立てられていない長堀川や西長堀橋、吉野屋橋などが写り、川に沿って走る市電が確認できる。28年撮影の市営バスや、60年代のトロリーバスなどの写真もあり、背景に写った、現在と大きく異なる街の様子も楽しめる。
25、26日午前10時30分〜午後4時には「鉄道模型ジオラマ大会」が開かれ、子ども向けの体験運転もある。
7月4日まで。観覧料は一般600円、高校・大学生400円。火曜日休館。問い合わせは同館(06・6946・5728)。
(2011年6月19日 読売新聞)
-
YOMIURI ONLINE
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110619-OYO1T00173.htm?from=top
仁徳陵 パノラマ気球を検討…「かぎ穴」見せるアイデア浮上
世界最大級の墳墓で、巨大過ぎて地上からは一望できない仁徳陵古墳(堺市堺区)の観覧のために、地元・堺市は、気球を浮かべたり、上空からの眺望を映すビデオ装置を周辺に整備したりする案を検討している。世界文化遺産登録に備え、「教科書で見た前方後円墳の〈かぎ穴形〉が想像できない」という観光客らの声に応えるためだ。わかりやすく見てもらうため、市民や専門家の意見を聞き、今年度中に整備方針を決める。
同古墳は、百舌鳥・古市古墳群の一つとして昨年11月、世界遺産国内暫定リスト入りした。市は最短で2015年の登録を目指しており、そうなれば、国内外からの観光客が増えると見込む。
しかし、墳丘の長さだけで486メートルと大きく、周辺に樹木が生い茂り、「森にしか見えない」という人が少なくない。
市は「もっと古墳を知ってほしい」と対策を検討。気球案は、世界遺産近くに大きな構造物を設けるのは好ましくないとの配慮から浮上。隣接する公園などから百数十メートルの高さまで上昇して一望する。カンボジアの世界文化遺産アンコールワットでもやっている観覧方法だ。
しかし、気象条件に左右される上、「墓を見下ろすのは失礼」との意見もあって、南隣の小さな古墳を復元して展望台代わりにする案も出ている。
手軽な方法は、案内施設などでビデオを放映する案。鳥のさえずりや風を発生させる装置を組み合わせ、上空から古墳を眺めているよう疑似体験する装置も考えているという。
阪南大学国際観光学部の吉兼秀夫教授(観光まちづくり論)の話「文化的・歴史的な背景を分かりやすく理解してもらうことが重要で、仁徳陵を核に古墳のある街全体を見てもらう仕組みを工夫してほしい」
(2011年6月19日 読売新聞)
-
『安土大坂時代』と正しく呼称される日が来る為の先駆けとなって欲しい。
マザコン豊臣秀頼、実際は1.8メートル精悍な武将 大坂城鎮守社に銅像建立へ
2011.6.20 14:53
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110620/art11062014570003-n1.htm
関白家の家督を継ぎ、大坂夏の陣を経て自害した豊臣秀頼の復権を図ろうと、大阪城の鎮守神、玉造稲荷(いなり)神社(大阪市中央区)境内に秀頼の銅像が建立されることになり、10月の完成に向けて制作が進められている。一般にはひ弱でマザコンのイメージが強い秀頼だが、専門家の間では「実際は帝王学を学び、人望も厚かった」として再評価を求める声も。2年後に秀頼生誕420年、3年後には大坂冬の陣400年という節目を控える中、関係者は「大阪再興のきっかけにもなれば」と期待している。
玉造稲荷神社は大阪城の三の丸だった場所にあり、秀頼と母の淀殿も参拝に訪れた。境内には、秀頼を出産した際の淀殿の胞衣塚(えなづか)や秀頼から寄進された鳥居が今も残っている。
今年は大阪城天守閣復興80周年にも当たることから、神社では、ゆかりの秀頼を顕彰し、太閤時代の大阪のにぎわいを取り戻そうと、銅像の建立を計画。文化勲章受章者の彫刻家、中村晋也さん(84)に制作を依頼したという。
像は、台座を含めて高さ5・3メートル。衣冠束帯姿の精悍(せいかん)な姿を蘇らせる。中村さんは、鹿児島県のアトリエで制作を進めており、「大阪のみなさんに、親しんでもらえるような秀頼像を作りたい」と意気込む。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110620/art11062014570003-n2.htm
秀頼は、天下統一を果たして関白の位まで上り詰めた父、秀吉に比べて存在感が薄く、淀殿の強い庇護(かご)があったことからマザコンとみられがちだが、大阪城天守閣の北川央(ひろし)・研究主幹は「秀頼のイメージは、あくまで徳川史観に基づいたものだ」と異論を唱える。
北川さんによると、実際の秀頼は、身長180センチ以上の堂々とした体格の持ち主で、幼い頃から帝王学を学び、頭脳明晰(めいせき)で人望もあった。史料「小須賀氏聞書(ききがき)」などには、京都・二条城で秀頼と対面した宿敵、徳川家康も、そうした面を認めていたことを示す記述が残っているという。
「秀吉の像は各地にあるが、秀頼の場合、人生のほとんどを過ごした大阪がふさわしい。豊臣時代を見直す象徴になってほしい」と北川さん。玉造稲荷神社の鈴木一男宮司(63)は「淀殿の陰に隠れてひ弱という悪いイメージを払拭したい。銅像が、再び大阪の街を盛り上げるきっかけになれば」と話している。
-
初の同窓会 旧五条国民学校
2011年06月20日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001106200005
1941年から47年まで旧五条国民学校(大阪市天王寺区)に在籍した人たちの同窓会が19日、母校の大阪市立五条小学校で初めて開かれた。戦後の混乱期で卒業生の名簿がなく、同窓会が開けなかったが、有志が地道に同窓生をさがして開催にこぎつけた。
この日は旧五条国民学校と同校に46年併合された旧桃丘国民学校の同窓生約40人が参加した。
冒頭、会を企画した大津市八屋戸、小泉潤さん(76)が「やっとここに帰って来た」とあいさつ。その後参加者たちは持ち寄った当時の写真や通知表を見ながら思い出話に花を咲かせた=写真。腎臓病を抱えながら東京都小平市から参加した嶋村浩二さん(77)は「ここが私の古里だ」と話していた。
まだ連絡先が分からない同窓生も多く、同窓生は小泉さん(090・3728・9602)に連絡を。
-
愛染まつり:元気いっぱい、大阪の夏−−30日から /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110620ddlk27040186000c.html
四天王寺支院・愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)(大阪市天王寺区)の「愛染まつり」を前に、浴衣姿の愛染娘ら約40人がPRのため、毎日新聞大阪本社(大阪市北区)を訪れた。
愛染まつりは、天神祭、住吉祭と並ぶ大阪三大夏祭りの一つで、関西では一番早い夏祭りとして知られる。毎年、縁結びや商売繁盛を願う人々でにぎわい、今年は30日〜7月2日の3日間行われる。
初日はJR天王寺駅から愛染堂までの道、約1・5キロを宝恵(ほえ)かごに乗った愛染娘らが男組に担がれ練り歩く恒例の「宝恵かご行列」があるほか、7月1日には「ミス愛染娘コンテスト」が午後7時から境内の禅堂で行われる。また、女組と呼ばれる女性8人のグループが、愛染堂の特徴や説明を交えた歌詞にあわせて歌って踊るイベントが開催期間中の3日間ある。午後6時30分〜午後7時。
今年、新しく女組のメンバーの一人に選ばれた上田早織さん(20)は「元気いっぱい歌って踊りたい。愛染堂の魅力を身近に感じてもらえれば」と話した。【宮武祐希】
-
大阪大空襲から66年 “語り継ぎ部”育成が大事
2011年6月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110620/20110620015.html
太平洋戦争末期の1945年、100機以上の米軍爆撃機による大阪大空襲は3月13日から始まり、終戦前日の8月14日まで計8回に及んだ。特に6月は大阪市内を中心に集中、多くの市民が犠牲となった。今年で66年。当時の様子を語る体験者が高齢となる中、大阪国際平和センター「ピースおおさか」(大阪市中央区)の専門職員、常本一さん(53)に継承の重要性や課題について聞いた。
▽「抗戦意思を破壊」
−大阪の空襲被害は。
「大阪への空襲は大小すべて合わせ50回を超えるといわれている。大阪府警察局が45年10月に出した統計によると死亡者は約1万2千人。ピースおおさかでは行方不明者3千人も合わせて亡くなった人は約1万5千人と解釈している」
−大空襲にはどのような意味があったのか。
「大阪には東洋一の規模を誇った大阪陸軍造兵廠(しょう)、通称砲兵工廠があったのだが、市街地に来た。これは市民の抗戦意思を破壊するため。ミナミは3月だったが6月1日に港湾地区、7日に北部を空襲し、これで市街地はほぼ焼けてしまった。残る工業地帯と造兵廠を狙ったのが6月26日の第5次だった」
▽“語り次ぎ部”
−語り伝えることの意味を。
「僕らの世代は親が空襲を知っていて、戦時中の苦しさ、貧しさといった基本的なことは普段の生活で学んでいる。しかし今の子どもは広島、長崎(の原子爆弾)はかろうじて知っているが、自分の住んでいる大阪の町が焼け野原になったことをピースおおさかで初めて知った人が結構いる。体験者がいなくなった将来、戦争の選択を迫られたとき、戦争を主張する政治家を容易に支持することになりかねない」
−体験者は高齢だが、語り部の現状は。
「最近になってやりたいという人が出てきていると聞く。教師が教えられないから需要があり、今まで黙っていたが人生の終わりに話したいと決意する人もいるようだ。ただ人前で話すことに尻込みする人も依然多い。われわれとしては話せるよう、語り部のサークルなどをつくる方向にもっていきたい」
−伝承という意味でこれからの課題は。
「今までは戦争を体験した人としてない人の関係だったが、これからは体験者の話をよく聞いて語り継ぐ“語り継ぎ部”をつくることが大事。語り継ぎ部の養成講座など、工夫しながら次へ伝えるムーブメントを作っていかないといけない」
▽写真集で啓発
−ピースおおさかは「写真で見る大阪空襲」を今年3月に発行した。
「去年の『写真で見る焦土大阪展』が好評で、1年遅れの図録というような位置付けで出した。伝えるために体験者の記憶を引き出すツールとしても有効。コラムやデータなどもあり平和学習につながる一冊なので、今までは懐かしいからと買い求めるお年寄りの人が多かったが、これからは教育現場などにもしっかり活用してもらえるように働き掛けたい」
−子どもたちにどのように生かしてほしいか。
「人災であれ天災であれ、そこにあるのは平和喪失性という一つの暴力。子どもたちにとって焼夷(しょうい)弾が落ちてくるというのはSFの感覚に近いと思うが、大阪大空襲の写真集を開き、知っているさまざまな災害の情景とつなげながら、考えを深めてほしい」
ピースおおさかは、収蔵品展「焦土大阪II−絵で見る大空襲」を7月10日まで大阪市中央区の同館で開いている。大阪空襲の体験者らが被災状況を描いた絵画を中心に、写真や地図、文字パネルなど約100点を展示。実物資料として爆弾の破片や防空頭巾など約40点も並んでいる。
午前9時半〜午後5時(入館は同4時半まで)。月曜、祝日の翌日休館(月曜が祝日の場合は、翌日の火曜は開館)。大人250円、高校生150円、中学生以下、65歳以上は無料。問い合わせは電話06(6947)7208、同館へ。
-
上田秋成・中井履軒の寄せ書き軸、80年ぶり見つかる
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110620-OYO1T00797.htm?from=newslist
「雨月物語」の作者、上田秋成(1734〜1809)が、近世大坂を代表する学問所「懐徳堂」の学主で、儒学者の中井履軒(りけん)(1732〜1817)と寄せ書きし、行方不明となっていた軸が、約80年ぶりに大阪府東大阪市内で見つかった。大坂生まれの秋成は随筆で懐徳堂を取り上げているが、両者のつながりを示す物証は他になく、研究者の間で「幻の資料」とされてきた品だ。
「秋成履軒合賛(がっさん)鶉(うずら)図」(縦52・5センチ、横54・5センチ=絹本着色)で、2羽の鶉を描いた土佐絵風の画(作者未詳)の左に秋成が和歌を、上に履軒が漢詩を書き、それぞれ落款がある。2人の字体などから1800年頃の作品とみられる。
1934年に郷土研究誌「上方」に写真掲載された後、戦中戦後の混乱で所在不明のままだったが、昨秋、大阪で懐徳堂展が開かれた際、所蔵していた会社経営者から大阪大学内の懐徳堂記念会に連絡があり、このほど同会に寄贈された。
秋成の実家は堂島の紙油商で、淀屋橋の南(現在の大阪市中央区今橋)にあった懐徳堂で学んだ可能性があるが、直接のつながりを示すものは、この軸以外にない。
ただ、随筆「胆大小心録」では、「ごくもん所といふわる口を前からいふた。なるほど、ろくな弟子は出来ぬに、皆かねづかひの、しんたいはつぶれゝて若死」(「獄門所」だと以前から悪口を言った。ろくな弟子が来ず、皆金遣いの荒い、放蕩(ほうとう)で若死にするような人ばかり)などと痛烈な悪口をつづっていて、秋成の幽霊話や狐(きつね)つきの話を「癇症(かんしょう)やみの妄想」と否定する履軒に対し、猛反論するくだりもある。
飯倉洋一・大阪大学教授(近世日本文学)は、「怪異小説を書いた秋成は、合理精神を旨とする懐徳堂とは相いれなかったが、力量を認めた相手だけを、辛辣(しんらつ)に評する側面もあった。仲の良さを示す軸は、その裏付けともなるものだ」と話している。
(2011年6月20日 読売新聞)
-
「節電の夏」へ健康祈願 茅の輪くぐり
2011年06月21日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001106210003
夏を健康で乗り切ることを祈願する「夏越(なご)しの大祓(はらえ)式 茅(ち)の輪(わ)くぐり」が20日、御霊神社(大阪市中央区淡路町4丁目)で始まった=写真。30日まで。
琵琶湖のヨシを束ねて作った茅の輪は直径2・5メートルで、本殿前につるされ、訪れた人たちは左回り、右回り、左回りに8の字にくぐっていた。同神社の園文夫宮司(61)は「今年の夏は節電できっと例年より暑さが厳しい。健康に過ごすために一度くぐりに来て」と話していた。
-
住吉大社で「なんでも鑑定団」収録へ−お宝・観覧者募集
http://abeno.keizai.biz/headline/101/
住吉区は住吉大社1800年祭記念奉祝「すみ博」のイベントとして8月28日、同神社・吉祥殿で「出張!なんでも鑑定団in住吉」が開催される。
テレビ東京系の人気バラエティー番組「開運!なんでも鑑定団」の公開収録となる同イベント。収録に先立ち、番組で鑑定する「お宝」(美術品、おもちゃなど)を一般から募集している。申込書は同区役所で配布。選考はテレビ東京の担当スタッフが行う。締め切りは今月30日。併せて、観覧者も募集。申し込みは往復はがきで受け付ける。締め切りは7月28日。
「すみ博」は住吉区が推進しているイベントの総称で2007年に始まった。帝塚山音楽祭との連携も行っている。「今後は住吉大社周辺、帝塚山地域だけでなく、区内全域で『観光区』のコンセプトに加え、地域の活性化という趣旨をも含め、住吉区の代表的なイベントとして定着させていきたい」と同区担当者。
詳細は同区のホームページで確認できる。
-
15年ぶり担ぎ巡行 福島天満宮天神祭の「一番御輿」
2011年6月23日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110623/20110623025.html
大阪市福島区の福島天満宮の天神祭(7月24、25日)を控え、福島天満宮八丁目西町会神輿(みこし)講が、宵宮の同24日に氏地を巡行する「一番神輿」の担ぎ手を募集している。担ぎ手の高齢化により長年、神輿を台車に載せて巡行していたが、「神輿は担ぐもの」と、約15年ぶりに担いでの巡行を決めた。
福島天満宮の天神祭では、同講と隣の町会が交互に一番神輿の巡行を担当してきた。しかし担ぎ手の高齢化に伴い、15年ほど前から神輿を台車に載せるスタイルでの巡行となっていた。
そんななか、今年同講の総代となった渡部基義さん(62)は「神輿はやっぱり担ぐもの」と、長年途絶えていた従来の巡行の復活を模索。地元の協力を得て、新たに担ぎ手を募集することになった。福島聖天通商店街に担ぎ手を求めるチラシを掲出するなどして、参加を呼び掛けている。
担ぎ手の参加条件は地元の福島八丁目町会在住か出身の人、または町会に関わりがあり団体行動と安全巡行を約束できる人。申し込みには1人2500円が必要(地下足袋代など含む)。
当日は午後0時半に上福島小学校に集合。同1時に巡行がスタートし、夕方に福島天満宮に宮入りの予定。かつて神輿を担いだ経験があり、今回の担ぎ手募集に携わる同商店街の米原徹副理事長(67)は「神輿を担いで楽しかったことを、若い人たちにも経験してもらいたい。40人は集めたい」と意気込む。
渡部総代は「祭りに参加することで世代を超えて地域が一つになれる。次の世代に神輿の伝統を引き継いでいきたい」と参加を訴える。
担ぎ手についての問い合わせまたは参加の申し込みは30日までに、電話090(3700)1613、米原副理事長へ。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/212 末吉橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110623ddlk27070398000c.html
◆大阪市中央区
◇橋をくぐれば別世界 昭和初期、先進的なデザイン
東横堀川に沿ってさらに南へ歩く。長堀通に架かる末吉橋をひとくさり、する前に大阪案内人の西俣稔さんが東を指す。松屋町交差点の先で、長堀通が北にクイッと曲がってる。「明治末、長堀通に市電が通って拡張された時、当時の有力者のお屋敷があったんで、通りを曲げさせたらしいです」。本町の曲がりに、この曲がり。いろんな曲がりがあるもんだ。
さて末吉橋。1927(昭和2)年にできたコンクリート製のなかなかどっしりした橋なのだが、長堀通の交通量が多いせいか、なんだか薄汚れた印象しか残らないのが残念だ。
しかし、以前にも紹介したが、川を船で走った時に見た橋の裏側は、実に印象深かった。確か鋼鉄でできていて、継ぎ目がびょうで打たれている。それが近未来的でかっこよく、昭和初めの誕生と聞くと、恐れ入りました、と先人に素直に頭を下げたくなる。写真のように、船で橋をくぐると、水面にその裏側が映って、まるでだ円形の窓から向こう側をのぞいているかのよう。ちょっと面白いのだが、向こう側には阪神高速の橋脚が連なっていて、あんまりいい眺めではない。
その末吉橋、「末吉孫左衛門の別邸が西詰めにあったからです」と西俣さん。末吉孫左衛門は中世に環濠(かんごう)都市として栄えた平野郷(今の平野区平野本町あたり)の豪商。平野郷は、織田信長がいまの大阪城のあたりにあった石山本願寺を攻めたとき、同じ自治都市の堺と手を結んで信長と戦おうとしたほどの自立心旺盛な土地柄だった。
末吉孫左衛門は、徳川の世に朱印船でフィリピンなどと交易し、末吉家の朱印船は末吉船と呼ばれた。なんとなれば、大坂の陣では豊臣方につかず、戦況有利とみて徳川方についたから。
大坂のくせに江戸に味方するとはけしからん、などと怒るなかれ。機を見るに敏、先を見通す目があったからこそ、為政者が替わっても巨富を得て、後世に子孫を残すことができたのだ。これぞ商人の本領。今も末吉家は平野郷に続いている。ほかにも徳川方についた商人はいた。
そもそもは末吉孫左衛門が架けた橋で、孫左衛門橋といったようだ。長堀通は市電を通すために拡張されたのだが、かつては末吉橋通といったそうだ。「平野郷が大坂の中心部を支えてたんです」と西俣さん。前回も少し触れたが、豊臣秀吉が大坂城の城下町を建造したとき、平野郷からも商人たちを移住させた。それが東平(旧町名は東平野町)だ。【松井宏員】
-
船渡御観覧に被災者優先招待
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110623-OYT8T00103.htm
天神祭の「船渡御(ふなとぎょ)」をゆっくり楽しんでもらおうと、府は7月25日、大阪市中央区の大川河畔にある八軒家浜(はちけんやはま)に観覧スペースを特設する。今年は東日本大震災の被災地からの避難者や旅行者らを優先的に、一般府民も合わせて計500人を招待する。
ちょうちんやのぼりで飾った約100隻の船団が、鳴り物を響かせながら行き交う「船渡御」は、天神祭のクライマックス。府の観覧スペースは、船団の出発・折り返し地点の対岸にあたる「特等席」という。
関西に避難していたり、親類や知人がいたりする人はもちろん、この時期に旅行などで大阪を訪れる被災者も招待の対象。1組5人までのグループで、往復はがきかホームページ(http://www.pref.osaka.jp/toshimiryoku/project2011)から申し込む。締め切りは6月30日(必着)。
詳細は「府民お問い合せセンター」(06・6910・8001)へ。
(2011年6月23日 読売新聞)
-
30日に「宝恵かご」練る ミスコンや演芸大会も
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/hibi100sen/110625/20110625045.html
大阪に夏の訪れを告げる、愛染(あいぜん)堂勝鬘(しょうまん)院(大阪市天王寺区夕陽丘町、山岡武明住職)の「愛染まつり」。天神祭、住吉祭と並ぶ「大阪の三大夏祭り」の一つで、今年も30日から7月2日の3日間、「宝恵(ほえ)かご」のパレード(30日)やミス愛染娘コンテスト(1日)、演芸大会(連日)などでにぎわう。
同寺院は593年に聖徳太子が建立。同年から夏に向けて健康に過ごせるようにと行われている「夏越のおはらい」を受け継ぐ。本尊の愛染明王は良縁成就や商売繁盛の御利益があるとされ、縁結びなどを願う人が多く訪れる。
祭りを盛り上げるのが「宝恵かご」のパレード。同院によると、昭和初期に新町の揚屋、茨木屋が江戸時代に芸者がかごに乗ってお参りしていた様子を再現しようと始めた。戦後も市内の芸者で継続していたが、現在はオーディションで選ばれた浴衣姿の愛染娘が乗り込む。
今年はあべのキューズモールで開会式を行い、午後2時にスタート。地元の有志らでつくる「愛染男組」がかごを担ぎ、JR天王寺駅前−同院の谷町筋約1・5キロを「愛染さんじゃー、べっぴんさんじゃー」と掛け声を響かせながらにぎやかに練り歩く。
祭り期間中は、かごを境内で一般公開しており、写真撮影などができる。7月1、2日は午後1時、同3時、同5時の3回、男組の担ぐかごに乗る催しも行われる。
-
2011年6月26日
奈良〜平安時代のロマンに触れる 池上曽根ウオーク
http://www.sankei-kansai.com/2011/06/26/20110626-054524.php
大阪府の和泉、泉大津両市でつくる池上曽根史跡公園協会などが主催する歴史散策「弥生以後の池上曽根を歩く」の一環でウオークイベント「都びとゆかりの地を歩く」が25日、両市内で行われた。地名の「和泉」の由来になったとされる「和泉清水」がある泉井上神社(和泉市府中町)を出発点に約5キロを歩き、奈良・平安時代をうかがわせる地域の風景の一端に触れた。
一行は泉井上神社を歩いたあと、和泉国府が置かれていたとみられ、その跡を示す石碑が建っている和泉市府中町の御舘山児童公園、泉井上神社とともに泉州五社総社として地域を代表する神社に数えられた泉穴師神社(泉大津市豊中町)などをめぐり、地域の歴史にさまざまな思いをはせていた。
-
復興祈り人形浄瑠璃 能勢「鹿角座」5周年記念公演 大阪
2011.6.26 02:02
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110626/osk11062602030000-n1.htm
■東北3県特産品販売も
浄瑠璃の人形も支援しています−。「能勢人形浄瑠璃鹿角(ろっかく)座」の旗揚げ5周年を記念する公演が25日、能勢町の「浄るりシアター」で始まった。東日本大震災からの復興を支援しようと特産品コーナーも設けられ、一座の人形が来場者たちに協力を呼びかけた。26日まで。
◇
公演では、男女2体の人形が、能勢町内の名所や祭り、特産品などを織り込んだ浄瑠璃をリズミカルに演じて踊り、地域の発展を祈る「能勢三番叟(さんばそう)」でにぎやかに幕開け。続いて、牛若丸と弁慶が京都・五条橋で出会い、主従の約束を交わす「鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりゃくのまき)〜五条橋の段」と、若い恋人のすれ違いの物語「生写朝顔話(しょううつしあさがおばなし)〜宿屋の段/大井川の段」が情感豊かに披露された。
「五条橋の段」は、太夫、三味線、人形遣い、囃子(はやし)のすべてが「こども浄瑠璃」のメンバーで演じられ、約500人のファンから大きな拍手を浴びた。
玄関ロビー脇に設けられた大震災復興支援のコーナーには、福島、宮城、岩手3県の特産品が並び、人形も駆けつけて「よろしくお願いします」とアピール。一座は、入場券の売り上げの一部などと合わせ、義援金を東日本に送るという。
「能勢の浄瑠璃」(国の無形民俗文化財)は200年の歴史があるとされ、当初は太夫と三味線による「素(す)浄瑠璃」だった。その後、人形と囃子を加えた人形浄瑠璃になり平成18年、町制施行50周年を記念して劇団「鹿角座」を旗揚げした。座員は主婦とOL、教師、会社員ら大人41人と子供23人。人間国宝の竹本住大夫さんや吉田簑助さんらの指導を受けて練習に励み、出張公演にも飛び回っている。
問い合わせは「浄るりシアター」((電)072・734・3241)。
-
「愛染娘」が駅改札口でお出迎え
http://www.kotsu.city.osaka.jp/news/news/h23/110620aizen-musume.html
交通局では、駅改札口での「愛染娘」によるお出迎えを実施いたします。
この取り組みは、駅の賑わいを創出するとともに地下鉄のご利用を促進するため、
愛染堂勝鬘院のご協力を得て、試験的に実施するものです。
○場所 四天王寺前夕陽ケ丘駅 南西改札(5号出入口付近)
○日時 平成23年7月1日(金)、2日(土) 17時00分〜18時00分頃
※ 愛染娘は愛染まつり期間中に、マスコミ表敬訪問や
境内にて愛染まつりをPRする為に結成される浴衣娘。
※ 都合により時間等を変更する場合があります。
-
陸軍墓地の調査で戦争を学ぶ
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003720581.html
大阪・天王寺区の旧真田山陸軍墓地で、墓碑の調査を通じて戦争について学ぶ大学の授業が開かれました。
この授業は桃山学院大学の非常勤講師、横山篤夫さんが4年前から行っているもので、約50人の学生が集まりました。
教室となった旧真田山陸軍墓地は日本で最初に設置された陸軍の墓地で、西南戦争から太平洋戦争までの間に戦死した兵士ら5000基を超える墓が並びます。
学生たちは階級によって墓の大きさが違うことを聞いたり、納骨堂で行われている調査の様子を見学したりしたあと、墓碑の調査に取りかかりました。
学生たちは墓の前にたって名前や所属部隊、死亡した時の状況などを記録したほか、墓の大きさなどを調べていました。
学生のひとりは「最初は墓場で授業かと心配でしたが、私と同じ年代の人たちが戦争にかり出されて戦死したことがわかりました」と話していました。
授業を担当する横山篤夫さんは、「墓碑には歴史的な価値があり、学生たちに戦争について身近に考えてもらうきっかけにしたい」と話していました。
学生たちは、今後墓碑に書かれた人物や時代背景などを調べたうえで、リポートにまとめるということです。
06月26日 22時08分
-
大阪ええトコ再発見 初心者のための上方伝統芸能ナイト
2011年6月26日
ダイジェストで楽しめる
初心者にとって「長くて難解」というイメージの能もコンパクトに楽しめる
来場者が舞台上で体験できるコーナーもあり、上方伝統芸能がますます身近に感じられる
能、狂言、文楽、上方舞、講談、上方落語、浪曲、お座敷遊び…大阪を代表する伝統芸能でありながら、興味はあっても敷居が高く、鑑賞に踏み出せないという人は多い。そんな上方伝統芸能の魅力を「いいとこどり」で気負うことなく楽しめるのが「初心者のための上方伝統芸能ナイト」だ。
鑑賞するだけだった能楽を豊臣秀吉が自ら舞い楽しんだことから、見るだけでなく自ら演じて「たしなむ文化」が大阪では醸成されてきた。しかし、時とともにその文化も廃れ「お笑いとたこ焼きだけの街というイメージに成り下がりつつあるのでは」と危惧した山本能楽会が企画を立ち上げ、2008年4月に開始。毎月第1・第3土曜日に山本能楽堂で開催している。
多彩な上方伝統芸能の面白いハイライト部分だけを15分のダイジェストで楽しめるのが魅力。初心者を対象にしているため、上方伝統芸能に詳しい落語家による司会と解説、来場者の体験コーナーなどを盛り込み、楽しく理解を深められるようにした。伝統芸能に触れた経験の少ない地元の若者が勤め帰りに足を運べるように、軽食を用意するなど細心のもてなしで迎える。
鑑賞をきっかけに各芸能に興味を持つ人も多い。演者同士でもこれまでになかった横のつながりが生まれ、コラボレーションが行われるなど新たな文化生成につながっている。豊かな文化が集積する「日本で最も文化の香り高いまち」という本来の大阪の姿が、同イベントをきっかけに着実に見えて来つつある。
【メモ】
山本能楽堂‥大阪市中央区徳井町1の3の6、電話06(6943)9454
次回は7月2日午後6時開演。「夏の夜空編」と題し、講談、浪曲、落語、能を上演する。チケットはSエリア4500円、Aエリア4000円、Bエリア3500円。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/eetoko/110626/20110626028.html
-
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110628/20110628022.html
7月9日「浪花の映画事始め」 貴重な映像2本上映
2011年6月28日
大阪市中央区の大阪歴史博物館で7月9日午後2時から「浪花の映画事始め」と題した上映会が行われる。1930年代の懐かしい大阪の街を映した貴重な映像「大阪百景」(30分)と、1933(昭和8)年に大阪で撮影された日活のサイレント映画「僕らの弟」(春原政久監督。56分)を上映。7月23日〜9月2日に大阪・九条のシネ・ヌーヴォで開催される「浪花の映画大特集」を記念しての特別イベント。
「大阪百景」は大阪駅、御堂筋、中之島、安治川河口、大阪城、道頓堀、通天閣、商工祭、水都祭、カフェー丸玉など昭和初期に撮影された大阪の情景や風物を紹介。モダンな建築、レビュー、カフェーなど経済、文化、芸術が花開いた黄金期「大大阪」を映した映像集だ。大阪芸術大教授の太田米男さんが解説する。
「僕らの弟」は大阪・四貫島小学校であった実話を基に現地でも撮影敢行。貧困の中でひたむきに生きる子どもたちとそれを支える社会をリアリティー豊かに描く。後に「三等重役」などを撮った名匠・春原政久監督のデビュー作。関西唯一の活動弁士・井上陽一さんの活弁付き。
入場料=前売り1400円、当日1700円。問い合わせは電話06(6582)1416、シネ・ヌーヴォへ。
-
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110630/20110630015.html
にぎやかに「船乗り込み」 大阪夏の風物詩
2011年6月30日
歌舞伎の人気俳優が大阪市内の河川を巡る大阪夏の風物詩「船乗り込み」が29日、天満橋の八軒家浜から出発し大川−東横堀川−道頓堀川のコースで古式ゆかしくにぎやかに行われた。
7月3日に開幕する「七月大歌舞伎」(27日まで)の出演者、片岡仁左衛門さん、秀太郎さん、孝太郎さん、愛之助さんらが浴衣姿で乗り込んで「松嶋屋!」の声が歌舞伎ファンの間で飛び交った。
仁左衛門さんは終点の戎橋のとんぼりリバーウォークで下船し松竹座へ直行。劇場前に詰め掛けたファンに「今年は“関西・歌舞伎を愛する会”の20回記念になる公演。浪速の暑さを吹き飛ばすような楽しい舞台にしますのでぜひお出かけください」とあいさつ。続く中村時蔵さん、坂東三津五郎さんらも「今年の大阪は暑い」と噴き出す汗をぬぐいながら手を振って公演の成功を誓っていた。
-
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110630/osk11063021240022-n1.htm
華やか「宝恵かご行列」 大阪で夏告げる「愛染祭」
2011.6.30 21:15
大阪に夏の訪れを告げる「愛染(あいぜん)祭」が30日、大阪市天王寺区の四天王寺の支院・勝鬘院(しょうまんいん)愛染堂で始まり、公募の愛染娘を乗せた名物「宝恵(ほえ)かご行列」が沿道を練り歩いた。
6台のかごに浴衣姿の愛染娘が乗り込み、笛や太鼓のリズムに合わせ、担ぎ手らが「愛染さんじゃ」などと声を張り上げながら、JR天王寺駅周辺から愛染堂を目指した。境内到着後は、愛染娘を乗せたままかごを高々とかかげる「かご上げ」が盛大に行われ、祭りを盛り上げた。
愛染祭は、天神祭、住吉祭と並ぶ大阪の三大夏祭りの一つ。愛染祭を機に女性が浴衣を着始めるため「浴衣まつり」とも呼ばれている。祭りは7月2日まで続き、縁結びや商売繁盛などを願う人でにぎわう。
-
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110701-OYT8T00088.htm
象山の櫓時計 動いた
幕末の思想家・佐久間象山(1811〜64年)が使ったとされる江戸時代の櫓(やぐら)時計の修理が終わり、30日、再び時を刻み始めた。西洋の時間制に改造された江戸時代の時計は珍しく、保管先の高槻市立しろあと歴史館(城内町)で16日から公開される。
同市内の美術品愛好家が1990年に市に寄贈。高さ87センチで、おもりが下がる力で歯車を動かし、毎正時や設定した時刻にかねが鳴る。時計の針は24時間で1周し、おもりを手動で上げることで約12時間動き続ける。
18世紀に作られた和時計を19世紀半ば、西洋にならって24時間制の時計に改造しているという。「午(うま)」など十二支の文字が書かれていたとみられる文字盤を洋数字にし、世界地図を描いた七宝焼も施されている。
同館によると、佐久間家の家紋が入っているほか、「佐久間象山先生 時計」の貼り紙があることなどから、象山が西洋風に改造させて愛用した時計とみられるという。
今年になって、和時計研究家の澤田平さん(76)(大阪市東成区)が鑑定したところ、修理すれば動くことがわかった。約120点の部品を分解、おもりのひもを新調したほか、鉄製歯車のゆがみなどを直すと、「カチカチ」と音をたてて動きだした。毎正時に「カーンカーン」というかねをたたく仕掛けもうまく動いた。澤田さんは「時計が動いたことで文化財としての価値も上がり、うれしい」と話していた。公開は8月28日まで。問い合わせは同館(072・673・3987)。
(2011年7月1日 読売新聞)
-
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110701/20110701020.html
待ってました浴衣美人 愛染まつり始まる
2011年7月1日
夏祭りの始まりだ!−。大阪の祭りシーズンのトップを飾る「愛染まつり」が30日、大阪市天王寺区夕陽丘町の愛染堂勝鬘(しょうまん)院(山岡武明住職)で始まった。祭りに花を添える「愛染娘」らが、宝恵(ほえ)かごから笑顔を振りまき、道行く人に夏到来を告げた。2日まで。
この祭りから浴衣を下ろすことから「浴衣まつり」などとも呼ばれる大阪三大祭りの一つ。あべのキューズモール(同市阿倍野区)にキャンペーンガールの愛染娘ら12人が黒地にピンクの花模様の浴衣姿で登場した。
愛染娘らは六つのかごに分乗し、初日恒例の「宝恵かごパレード」へ出発。公募の担ぎ手チーム「愛染女組」「愛染男組」らと「愛染さんじゃ宝恵かご、べっぴんさんじゃ宝恵かご」の掛け声とともに約2キロ先の勝鬘院を目指して谷町筋をにぎやかに練り歩いた。境内では活気に満ちたかご上げが披露された。
期間中、本堂の秘仏「愛染明王」や多宝塔の「大日大勝金剛尊」が特別開帳されるほか、宝恵かご体験コーナー、浴衣の参詣者へ数珠腕輪プレゼント(各日先着100人)、「ミス愛染娘・愛嬌(あいきょう)コンテスト」(1日午後7時から)などが予定されている。
-
http://mainichi.jp/kansai/news/20110701ddn041040013000c.html
愛染まつり:夏の風物詩−−大阪
大阪三大夏祭りの一つで、関西で一番早い夏祭りとして知られる「愛染(あいぜん)まつり」が30日、大阪市天王寺区の四天王寺支院・愛染堂勝鬘院(あいぜんどうしょうまんいん)で始まった。2日まで。
呼び物の「宝恵(ほえ)かご行列」は、JR天王寺駅前から出発し、愛染堂までの約1・5キロを約1時間かけて練り歩いた。宝恵かごに乗った浴衣姿の12人の愛染娘らが、男組らに担がれ「べっぴんさんじゃ」「商売繁盛」などの掛け声と共に見物客らに愛嬌(あいきょう)を振りまいた。到着後、境内で宝恵かごに乗った愛染娘らが高々と担ぎ上げられると、歓声と拍手がわき起こった。【宮武祐希】
-
7月「夏祭りのご馳走」
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/7_2.html
江戸時代、大坂の町、すなわち大坂三郷の、内にあった氏神さんの夏祭りは、6月(現在は7月)に集中していました。旧暦6月は大坂の祭り月でした。
船場安土町の水落家の氏神さんは、現中央区久太郎町4丁目の坐摩神社です。ふつう、「ざまさん」と親しみを込めて呼ばれます。水落家の「行事帳」(文政6年:1823年)から、6月22日坐摩神社御祭礼の献立を見てみましょう
「 六 月
御祭禮 廿二日
右神事、御客仕来りなし、内祝之酒肴、少々手當有、
尤、膳部者四五人前手當、是ハ臺所客ハぜひ有之候故なり
献 立
朝 平 (薄くず)なすび 汁 見斗 めし
昼 鱠 はもかハ、白うり、しそふ 汁 はも摺りながし
平皿 (ゆ)すり身油上ケ、ねき 焼物 (塩やき)あじ」
これによると、水落家では、坐摩さんの夏祭りの日に特別にお客さんを招いて接待するというようなことはなく、内らでお祝いする酒肴を少々用意するだけだったようです。しかし、台所へ伺いに来るお客さんはきっとあるから、お膳は4、5人前用意しておくとあります。献立は、夏祭り、晴れの日ですから、ご馳走です。
朝は、ふだんはお茶漬けとお漬物(おつけもん)のところ、お平とおついがついています。一日に一回、昼に御飯を炊く水落家では、お昼がお祭りの御馳走、は もの料理です。といっても、私たちがすぐ思い浮かべる「はものつけ焼き(照焼き)」は、まだ登場していません。焼き魚は、あじの塩焼きです。
現在、夏祭りの宵宮にあじの塩焼きを、本祭りの日にはもを食べるお家もあります。鱠に、はもの皮の和え物、汁は、はものすり流し、お平には、(はもの)すり身の油揚げ、とはもづくしです。はものすり流しは、はもの身を包丁でたたいてから、すり鉢で充分にすり、お出しでのばして、火にかけます。これは、はも がよっぽど新鮮でないとおいしくないと思われます。雑喉場魚市場がひかえた大坂の町ならではのお料理です。
夜については、記載がありません。夜はふだん通りのお番菜だったのでしょう。
-
>>278
水落静さんに、昭和初期の坐摩さんの夏祭りのお話をお聞きしました。坐摩さんの夏祭り(7月21日・22日)の日、家の表には、上が白、下が浅葱(水色)に染め分けられた幕を張ります。上の白い部分に「抱き茗荷」の紋(水落家の家紋)が黒で染めてあります。門口に は、男の子の数だけ子祭の提灯が立てられました。水落家は男の子が二人なので、子祭を2張立てました。子祭の提灯は非常に高価なものだったということです。ふつう、船場で商売をしている商家では、家宝の屏風を店の間に飾るのですが、その当時水落家はすでに商売をやめて、多くの家作と財産で裕福に暮らす仕 舞屋(しもたや)で、表が格子づくりになっていましたから、屏風を飾るということはされなかったそうです。お祭りの日、朝早くに男衆(おとこし)さんが、 献湯料と御膳料を坐摩神社へ奉納しに行きます。坐摩さんでは、朝から「お湯」と言われる献湯神事が行われるからです。家族はそろって夕方からお参りに行き ました。
さて、そのころのお祭りの御馳走は次のようです。
・宵宮の昼(7月21日)
冷やそうめん、お澄まし(白天 越瓜のつらら)
・本祭の昼(7月22日)
「森吉」から、はものつけ焼きをとる
家では、おなま、はもの皮ときゅうりのざくざくを用意する
「森吉」は、安土町の水落家の近くにあった船場屈指の料理屋です。「森吉から取るはものつけ焼きほど、おいしいものはなかった」と、かつて、静さんの御主人九代目水落庄兵衛さんが述懐されました。おなまは、大根のなますのことで、船場の年中行事の日の献立にはかならずつきました。
-
>>278、>>279
白天とかいわれ菜のおつい
水落家の献立では、白天と越瓜のつらら(注1)のおついとなっていますが、夏祭りの時、船場で一般的に出されるのは、白天と貝割菜のおついです。水落家で も、越瓜のつららをおついに入れるのは、お上(主人家族)だけで、女中さんらはおねぎを一寸ぐらいに切ったのを入れました。これは、お家さん(注2)がお ねぎを嫌われたために、越瓜のつららに替わったそうです。
白天とかいわれ菜のおついは、お澄ましのおついにするお家と、おついがちょっと多めの煮物にするお家があります。
ここで、白天について、考えてみたいと思います。
大阪では、魚のすり身を油で揚げたものを「てんぷら」といいます。いわゆる「薩摩揚げ」のことです。その中で、白い、平べったい円形のてんぷらを白天と呼んでいます。白天の中には、刻んだ木耳が混ぜ込まれています。白天のおいしさと木耳の歯触りが抜群の相性です。この白天は、大阪地方にのみ存在するたべものなのです。京都の祇園祭の御馳走もはも料理ですが、白天とかいわれ菜のおついは出てきません。大阪の蒲鉾屋さん、「大寅」、「北浜ますせん」、「和田八」、などの老舗では、それぞれに工夫をこらした、おいしい白天を販売しておられます。
白天は一体いつごろから、大阪で食べられてきたのでしょうか。なかなか史料が見つかりませんでしたが、上記水落家の「行事帳」の祭礼献立こそ、白天の証拠となると思います。
平皿 (ゆ)すり身油上ケ、ねき
のところです。(ゆ)は柚のことです。ここには「すり身」油揚げとあるだけで、はものすり身であったかどうか分かりません。ところが、幸い、水落家にはもう一冊、さらに古い「文化二年(1805)十二月」と記載のある「行事帳」(注3)が残されており、そこには
平 はもすりみ、 わりねき
と 出ていて、はものすり身であったことがわかります。はものすり身の油揚げなら、まさしく白天です。このお平は、ねぎといっしょに盛りつけされていますか ら、煮物だったかもわかりません。わりねぎとは、勝手な解釈ですが、おねぎを焼いたり煮たりしたとき、白い部分の熱い中身が飛び出して口の中をやけどした りしないように、あらかじめおねぎに切目を入れたのではないでしょうか。
-
>>278、>>279 、>>280
『守貞謾稿』(注4)では、京坂では半平の胡麻油揚げをてんぷらというとしています。また、江戸の摘入は京坂には 無いが、鱧肉をすりて、之を制(製)することがあり、常には売らず、多くは自製であったとしています。はものすり身を油で揚げた白天が蒲鉾屋さんの店頭に ならぶようになるのは、もう少し時代が下ってからのことでしょうか。
いつ頃から、白天に木耳を混ぜるようになったのか、また、白天とかいわれ菜がセットになったのか、というような点については、史料が確認できませんでした。しかし、とにかく、白天に木耳を混ぜ込んだ人と、白天の相方にかいわれ菜を考えついた人は、天才です。
白天をはじめ、赤天、牛蒡天、各種野菜や、タコ、イカの入ったてんぷら、など、大阪の「てんぷら」は、大阪人が作って、育んできた、大阪の誇る食の文化財だと思います。
(注1)越瓜のつららとは、越瓜を桂むきをして、くるくる巻いて,小口から切ったもので、氷柱に見立てたのか、あるいは、つらつら(ならびつらなるさま)が約まった言い方なのかもしれません。
(注2)船場では、当主夫妻を「旦那さん、だんさん」、「御寮人さん」と呼び、当主の両親を「親だんさん」、「お家さん」と呼びます。お家さんは、つまっ て、「おえさん」と発音することが多いようです。親だんさんが、隠居すると、「御隠居さん」と呼ばれることもあります。
(注3)水落家の文化2年の帳面は、後に張り混ぜて作り直したものであり、内容も文政6年の「行事帳」の方がくわしいので、「船場の料理 12ヶ月」では、文政6年の「行事帳」をもとにして、話を進めています。
(注4)喜田川守貞が、江戸時代の江戸、京、大坂の風俗について、記した考証的随筆。天保8(1837)年ごろから書き始め、慶応3(1867)年ごろまで、追記、追考を重ねたということです
-
>>278、>>279 、>>280 、>>281
天神祭の歴史
鉾流神事
当宮鎮座の翌々年の天暦5(951)年に鉾流神事が始まったと伝えられます。これは社頭の浜から神鉾を流し、その漂着した地を斎場と定めて、そこに神様を御迎えする神事です。
鉾流神事は、鉾に託して「穢れ」を祓うとともに、年に一度、神様が氏地を巡見されるという意味合いも持っています。この神様のお出ましを奉祝するために「天神祭」が始められたのです。
ところが、寛永21(1644)年の還御後は、常設の斎場(御旅所)が設けられたため、鉾を流す必要がなくなり、神事は途絶えてしまいました。しかし、昭和5(1930)年に至って鉾流神事が復活され、現在も古式ゆかしく斎行されています。
陸渡御
神様に氏地の平安を御覧いただこうと、氏子たちが御迎えの行列を組んだのが陸渡御・船渡御の始まりです。陸渡御列の中心は、神霊を奉安する御鳳輦ですが、この前後を催太鼓や神輿、神具、牛車、旗、鉾などが供奉して氏地を巡回し、天神橋北詰めの乗船場まで進みます。
かつての氏地各町では、地車(だんじり)を曳いて神様の渡御を悦びましたが、安永9(1780)年には八十四輌もの地車が宮入りした記録があります。現在では、一輌だけ残った三ツ屋根地車が渡御列に御奉仕しています。
船渡御
江戸時代には、氏子・崇敬者の仕立てた数多の船が、舳先に御迎人形を立て、意匠を競って船体を飾りたて、御旅所へ御迎えの船列を整えました。昭和12(1937)年の船渡御列は、二百艘に達したといいますが、現在は警備の都合もあり、約百艘に制限しています。
昭和28(1953)年、地盤沈下により橋桁が下がって船列の航行に支障が生じたために、それまでとは逆方向に大川を遡行するというコースの大変更を行い、現在に至っています。
-
>>278、>>279 、>>280 、>>281、>>282
【天神祭祭儀一覧】
二十二日
伏見三十石船献酒祭 午後二時〜三時於本殿
ドラゴンボート国際選手権 午前八時〜四十五分
二十三日
天神祭前夜祭ツイン及びOBP地区 午後五時〜八時
御羽車巡行 午前十一時〜午後三時半於 天二〜天六
包丁式(京繁協友会) 正午於 本殿
ギャル神輿宮入り 午後四時頃
二十四日 宵宮
宵宮祭 午後四時於 境内
午前七時四十五分於 本殿
流し神事(神鉾講) 午前八時五十分於 鉾流橋畔
二十五日 本宮
夏大祭 午後二時於 本殿
神霊移御祭 夏大祭に引き続き本殿にて斎行
陸渡御 午後四時半
船渡御 午後六時 出発
水上祭
帰着 先頭 午後八時
天満宮還御 午後九時五十分
還御祭 午後十時於 本殿
花火 午後七時於 川崎公園於 桜宮公園
天満宮のホームページ
-
>>278、>>279 、>>280 、>>281、>>282、>>283
天神祭のご馳走
天満宮の参道にあたる西天満の旧家、内藤壽一さんの家では、天神祭には門にちょうちんを出し、家紋の入った幕をはって迎えます。住まいは明治43年(1910)に上棟された大阪の町屋から、いまはビルになっていますが、天神祭のご馳走は変わりません。
壽一さんの妻の芳美さんは、帰省する子どもたちや孫たちのために、毎年お祭りの料理を用意します。芳美さんに内藤家の天神祭のご馳走を披露していただきました。
メニュー
1.鱧ちり
熱湯にくぐらせた鱧を氷水にさらして冷まします。水気をとって盛りつけ。梅肉、ミョウガとともにいただきます。
2.鱧の照り焼き
骨切りした鱧の切り身にタレをつけてじっくり焼き上げます。はじかみショウガが添えられています。
3.小芋の煮物
ぬめりをとった小芋を薄味で炊き、色よくさっと炊かれた絹さやが添えられます。だされる直前には、すりおろした柚子をかけます。
4.タコとキュウリの酢の物
生タコの足をゆでて、薄切り。輪切りキュウリは塩をした後に水にさらしてしぼり、タコとともに合わせ酢で和えます。ミョウガが添えられています。
5.冷やしそうめん
深鉢に氷と青しそがあしらわれ、薬味には、きざみねぎ、椎茸の煮物、錦糸たまご、えび、すりおろした土ショウガが並びます。
6.白天とかいわれ菜のおすまし・きくらげ入りの白天、かいわれを盛りつけた椀にすまし汁を注いでいただきます。
7.枝豆・ゆでた枝豆も、冷えたビールとともに夏には欠かせないメニューです。
あっさりとした味付け、しゃきっとした歯ごたえ。夏にふさわしい食感と、味を引き締める薬味にも気をつかってだされる料理。どれもおいしそうで、食もすすみます。
-
天神祭宵宮祭「薪能」を船上から鑑賞−帝国ホテル大阪が企画
http://kyobashi.keizai.biz/headline/940/
帝国ホテル大阪(大阪市北区天満橋1、TEL 06-6881-1111)は現在、「天神祭宵宮祭 奉納水上薪能鑑賞プラン」を販売している。
天神祭前日の7月24日に大阪天満宮で行われる「天神祭宵宮祭(よみやさい)」に合わせて、OAP港に係留した「天神祭船渡御列・舞台船」の一つである「能船」で「三番叟(さんばそう)」、「羽衣」、半能「石橋(しゃっきょう)・大獅子」などの演目を上演する「奉納水上薪能」。
「薪能を船上から楽しんでもらおう」と2005年に企画されて以来、今年で6年目となる同プラン。天神祭や天満宮の歴史、天神祭などの背景を解説するボランティア「天満天神御伽(おとぎ)衆」によるセミナーや、中華料理の「ジャスミンガーデン」での夕食会、船上からの薪能鑑賞がセットになっている。併せて宿泊プランも用意する。
同ホテル1階ロビーでは大阪指定文化財の「御迎人形」「鳳講子供神輿」の展示や、「天神祭写真コンテスト」作品展なども行っている。
料金は、セミナー・夕食・奉納薪能鑑賞付き=1万8,000円、1泊朝食付き=1室7万円。
-
四天王寺で「七夕のゆうべ」開催へ−今年は鎮魂と復興を祈願
http://abeno.keizai.biz/headline/111/
四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺1)境内で7月7日〜10日、今年で4回目となる「七夕のゆうべin四天王寺」が開催される。主催は地元商店主などで構成された実行委員会。
会場では、全長約22メートルのササトンネルとイルミネーションで彩られた天の川、今年は仙台たなばた祭り応援のための吹き流しを設置する。併せて、地下鉄・四天王寺前夕陽ケ丘駅より同寺までの参道でササ飾りを展開。ほか、特製短冊も用意しササに飾りつけできる(7日13時〜10日19時)。今年は東日本大震災の鎮魂と復興を祈願し、「鎮魂のともしび」ろうそくなども用意する。
七夕当日の7日は19時より「ササトンネルオープニングセレモニー」が始まり、イルミネーションが点灯(24時まで)。「七夕縁日」(17時〜21時)は多数のフードブース、ゲームブース、東北物産展などを用意する(9日まで)。
9日は、仁王門メーン会場で地元小・中学校やプロ・アマチュアアーティストが参加する「七夕復興祈念コンサート」(16時〜21時)を、東門ステージで大阪スクールオブミュージックの学生が運営する「星空コンサート」(19時〜22時)を、東重門付近で天体望遠鏡数十台を用意する「星空観望会」(19時〜22時)を、それぞれ開く。
10日は20時より願いが天に届くよう短冊を焼く儀式「お炊き上げ」でフィナーレを迎える。
今年は「上本町YUFURA」(天王寺区上本町6)新歌舞伎座前野外ステージで、7日17時〜19時と9日15時〜19時、関西で活動するインディーズアーティストのコンサートも行われる。
-
文学の都大阪と文学碑
高橋 俊郎 オダサク倶楽部・図書館司書
2011年7月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/110701/20110701025.html
明日7月2日(土)午後2時から、第32回文学碑記念の集いが夕陽丘の太平寺を会場に開かれる。大阪市の文学碑建立第1号が、1980(昭和55)年に口縄坂の登りつめに建てられた織田作之助『木の都』文学碑であるところから、毎年7月第1土曜日にこの碑の近くの太平寺で開催され、32年目になる。
今年は、ミナミや新世界を舞台にした小説『通天閣』で2007年織田作之助賞を受賞した西加奈子さんを招いて開かれる。大阪市の文学碑は織田作之助の後、森本薫、三好達治、水上瀧太郎、梶井基次郎、宇野浩二、百田宗治、直木三十五、武田麟太郎、薄田泣菫、谷崎潤一郎、折口信夫、林芙美子、伊東静雄、川端康成と建てられてきた。
市が建てたもの以外にも東住吉区北田辺には開高健『破れた繭』、中央区道修町には谷崎潤一郎『春琴抄』などもある。この6月5日には、西区湊橋南詰に宮本輝『泥の河』文学碑が建立され、宮本輝さん出席のもとで除幕式が行われた。
その他にも句碑、歌碑は大阪市内に数多くあるが、織田作之助が「万葉以来、源氏でも西鶴でも近松でも秋成でも、文学は大阪のもんだ」と書いているように、大阪の文学に関わる人材の輩出は現代に至るまで数えきれないほどである。大阪市は文学の都でもある。
ついせんだって、市民交流センターすみよし北の春講座で「作家の原風景をたどる」をテーマに文学散歩を行った。難波、木津、今宮、日本橋、上汐を結ぶ半径1キロメートル圏内に限っても、折口信夫、司馬遼太郎、高橋和巳、武田麟太郎、織田作之助の生まれた場所がある。もちろんその生家が残っているわけではなく、文学碑についても、鴎町公園に折口信夫生誕の地碑と十日戎の文学碑が建てられているだけである。
それぞれに生家あたりを記した小説やエッセーを読みながら、今の風景にイメージを重ねて訪ねることになるが、せめて生誕の地碑でもあればと思う。文学碑は作家や作品を今に知らしめ未来に伝えるため、その地域にゆかりの深い作品の一部を石に刻み銅板に彫り遺す。文化は耕さなければ新しいものを生み出すことができない。
他の都市を見てみれば、金沢市では石川近代文学館をはじめとして室生犀星、泉鏡花、徳田秋声のそれぞれの文学館があり、金沢文芸館には金沢五木寛之文庫が常設され、それぞれ街角には文学碑が建てられている。そこには郷土が生んだ、また郷土にゆかりがある文学者を誇りにしている気持ちがうかがわれる。
湯村温泉にはかの地が舞台となった早坂暁原作テレビドラマ『夢千代日記』の夢千代像があり、太宰治生誕100年だった一昨年には、故郷の青森県五所川原市に太宰治像が建立された。林芙美子が若き日を過ごした尾道市には林芙美子像が、童謡詩人金子みすゞが生まれた山口県長門市には金子みすゞ像がある。彼女が20歳から亡くなるまでを過ごした下関市には、金子みすゞ詩(うた)%TAこ)%TAち)%TA詩碑や顕彰碑を巡るコースまで開設されている。
その人物の人となりを伝えようとするには銅像がふさわしい。そこで織田作之助生誕100年の2013年には、織田作之助が戎橋をとんびを着てハットをかぶって闊(かっ)%TA)%TAや、『夫婦善哉』の蝶子柳吉が法善寺に参り道行きする姿を銅像で再現したいと考えている。文学の都大阪には、それこそ辻々に文学碑や銅像が立っていても不思議ではない
(たかはし・としろう 大阪市西区)
-
【戦後に5年実在!】「大阪警視庁」ホンマやで
http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201012010130.html
「戦後しばらく大阪警視庁があった覚えがあります。どんな経緯で『警視庁』は東京だけになったんですか」。編集部に妙な投稿が届いた。大阪にも警視庁? そんなアホな。でも、投稿主の井上勉さん(72)によると、小学校時代、住んでいた姫路から国鉄で大阪に行くと、車体に「警視庁」とあるパトカーが駅前にいてカッコイイと思ったという。「橋下知事がしきりに『大阪都』や言うてるでしょ。ほんで思い出しまして」
◇
1874(明治7)年に創設された東京の警視庁。大阪の警察も、“西の警視庁”と評されることはあったが、正式に警視庁を名乗れるのは内務省直轄の東京だけ。戦後、好機がきた。1947年、自治体警察を導入する警察法が制定され、警察の名称や組織を市の裁量で決められるように。「大阪のような事件の多い大都会では、善良な一般市民には安心感を、不法分子には重圧感を与える意味で、“警視庁”ほど適切な名称は他にない」。当時の大阪市警察局長で、初代警視総監となる鈴木栄二は自著に思いをつづっている。だが、警視総監の独裁につながる、との批判もあり、「市公安委員会は『警視庁』の名前が官僚的で面白くないと強く反対」(49年8月10日付朝日新聞)するなど紛糾が続いた。最終的に正式名は「大阪市警視庁」で決着したが、「大阪市警察誌」(56年)には、鈴木が「市」抜きの大阪警視庁にこだわった逸話が紹介されている。
◇
府内に住む80代OBは、警視庁時代の辞令を大切に保管する。「ネームバリューは確かにあり、周囲から羨望(せんぼう)と尊敬の眼差(まなざ)しでみてもらった」。「庁」の語感とは裏腹に、大阪警視庁は「O・P・P(OSAKA POLICE POST)」なる連絡箱を設置して市民の声を採り入れたほか、徒歩や自転車でのパトロールに重点配置した英米モデルの警ら制度を全国に先駆け導入。「オイコラ警察」でなく、市民奉仕の「日本一の警察」を目指した。
だがわずか5年で幕を閉じる。自治体警察と国家地方警察を廃止して都道府県警に一本化されることになり、54年、大阪から警視庁の看板が外された。以来、警視庁は「東京都の警察行政をつかさどる官庁」(広辞苑)となった。
数少ない名残が大阪城近くに残る。桜田門ならぬ桜門のそば、31年に陸軍第4師団司令部として建てられ、長く市立博物館だった洋館こそ、警視庁時代の本部庁舎だ。「庁」とか「都」とか肩書がどうであれ、市民目線のお役所ならばそれでいい――。戦後の混沌(こんとん)期、試行錯誤の歴史が塗り込まれた厳かな建物を眺めながら、そんな思いを抱いた。(宮崎園子)
■推薦 フリーライター 久保博司さん(69)
いつまでも「市民警察」で
新宿署や曽根崎署などを密着取材し、1984年に「日本の警察 警視庁VS大阪府警」(講談社)を刊行しました。その頃の大阪府警で上の世代の人は警視庁のことを「東京警視庁」って言っていましたね。どこか対抗意識が残ってたんでしょう。でも、僕は大阪の警察が好きだなあ。内緒で調べ室にも入れてくれたし、開放的です。
本でも書いたけど、東京は「人を捕らえる」で、大阪は「街を守る」。根本が違う。人情があって飾り気がない。名称はさておき、いつまでも「市民警察」でいてほしいです。
-
大阪城起点15キロと6キロ KANSAIウオークに700人
2011.7.3 02:10
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110703/osk11070302100000-n1.htm
関西の歴史にふれながらウオーキングを楽しむイベント「KANSAIウオーク2011」(産経新聞社主催、ライオン特別協賛)が2日、大阪市中央区の大阪城天守閣前広場を発着点に開催された。家族連れら約700人が参加。天守閣が復興80周年を迎え、NHK大河ドラマ「江」や映画「プリンセス トヨトミ」の舞台にもなった大阪城から近隣にある神社仏閣などの名所を巡った。
3回シリーズの第1回で、この日は「大阪市内エリア」を実施。参加者は体力に合わせて約15キロ、約6キロの2コースに分かれて、同広場を次々に出発した。玉造稲荷神社などを回り、ゴールした人には「完歩証」とライオンの製品詰め合わせが贈られた。
9月10日に第2回の「奈良エリア」を、11月5日には第3回の「南大阪エリア」を予定している。
-
七夕伝説発祥の大阪・枚方で婚カツ合コン 300人集う
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201107030031.html
天野川(あまのがわ)や鵲橋(かささぎばし)など七夕にちなむ名所がある大阪府枚方市。2日、七夕伝説発祥の地とされる同市に独身男女300人が集い、「婚活合コン」が開かれた。
市民有志が市中心部のカフェや居酒屋など計14店舗を借り切り。午後7時から4時間半、参加者は店を次々と移動しながら気の合う異性を探した。
参加者が「ステキな人と会えますように」と書いた短冊を屋外に飾った店も。「七夕伝説のように一夜限りの出会いにしないで」と有志の一人。
-
古市古墳群:世界遺産に適した景観、模型でアピール−−あすから大阪 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110704ddlk27040199000c.html
世界遺産登録を目指している「古市古墳群」などの歴史遺産に適した景観づくりを提案する展示「藤井寺市を世界遺産のまちへ 緑と歴史の回廊」が5日、NHK大阪ホールアトリウム(大阪市中央区)で始まる。藤井寺市教委と大阪芸術大(河南町)の共催。住宅街や高速道路など都市化した街並みの中で、どうしたら世界遺産にふさわしい姿に近づくか、200分の1サイズの模型で見せる。18日まで。
市教委によると、古市古墳群は、全長425メートルの応神天皇陵など127基で構成される。百舌鳥古墳群とともに昨年、世界遺産暫定リストに記載された。
模型は縦約10メートル、横約4・5メートル。航空写真を張り合わせた上に古墳や高速道路、一部の住宅などを造った。視界から古墳を遮る形となっている鉄道沿いの斜面、高速道路、住宅の周囲に木を植えて、奥に見える古墳の緑と結んだり、国道170号を「古墳街道」と命名し、広告規制などをかけて古墳を見やすくしたりするなど、同大環境デザイン学科の3年生17人が出し合ったアイデアを表現した。5日午前11時から提案を発表する。塩崎昌さん(20)は「自分の街を見下ろせる機会はあまりない。巨人になって街の上を歩く感覚で見に来てもらえたら」と話す。
入場無料。午前10時〜午後8時(18日は午後5時まで)。問い合わせは同学科(0721・93・3781)。【三上健太郎】
-
大阪天満宮で「星愛七夕まつり」−前夜祭でのど自慢大会も
http://umeda.keizai.biz/headline/1098/
天神橋筋商店連合会は7月7日、大阪天満宮境内(大阪市北区天神橋2)で天神橋筋商店街1・2・3丁目合同イベント「2011星愛(ほしあい)七夕まつり」を開催する。
当日は16時から、天神橋3丁目「夫婦橋」から子ども織り姫・ひこ星を先頭に、大阪市立扇町総合高校吹奏楽部、天神天満花娘らが1丁目までパレード。その後大阪天満宮までパレードを行い、17時から境内特設ステージで今年の天神天満花娘10人を初お披露目する。
境内では、本殿前から星合池まで、「恋愛成就」「学徳向上」「心身健康」「商売繁盛」「厄除」「交通安全」「家内安全」の願いを書いた7つの茅の輪を用意し、それぞれの茅の輪をくぐって祈願。星合池では、昨年から本格実施となった大川の「平成OSAKA天の川伝説」で放流するものと同じLED光源の「いのり星」とお札を奉納金1,000円で販売し、星合池に浮かべ奉納。500円を東日本大震災の義援金として日本赤十字社へ寄付する。「いのり星」は、今月7日まで開催する「星愛七夕セール」抽選会場(りそな銀行前、天三おかげ館前)でも販売。限定300個。
特設ステージでは17時30分から、「第13回天満・天神街道芸祭」の決勝大会を開催。当日の予選を勝ち抜いた5〜6組がストリートパフォーマンスを繰り広げる。境内では、商店街青年部による屋台も出店し、焼きそば、ポップコーン、フランクフルトなどの飲食屋台やヨーヨー釣り、スーパーボールすくいなどの縁日屋台など、手作り屋台12店が出店する。
前日の6日には、今年初開催の「星愛七夕まつり前夜祭」も開催。18時からは、予選を通過した8組が昭和の歌を披露する「昭和歌謡ヒットパレード」を開催。ゲスト歌手に大地誠さん、審査員に中村鋭一さんらを招き、のど自慢大会を展開する。19時からは16ミリ映写機で「ガメラ対大魔獣ジャイガー」を上映。会場では「食べながら音楽ショーや映画を楽しんでもらいたい」と、津山ホルモンうどんなどB級グルメも登場する「ふるさと物産展」も開催する。
「星愛七夕まつり」の開催時間は16時〜21時。入場無料。雨天決行。
-
鯨まつり、57年ぶり復活へ 堺・堺区、20人試し曳き
2011.7.4 03:43
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110704/osk11070403440001-n1.htm
■クジラ山車「ずっしり」
57年ぶりに今夏復活する大阪・堺の伝統行事「鯨まつり」で使われるクジラ山車の骨格が出来上がり、3日、堺市堺区の南海湊駅前で試し曳(び)きが行われた。全長約12メートルという竹製の巨大なクジラ山車。地元住民らが担ぎ具合などをチェックし、本番に向けて決意を新たにしていた。
◇
試し曳きでは、地元の「出島ふとん太鼓保存会」のメンバーら約20人が担ぎ手として参加。台車に積んだ山車をロープで引っ張って移動させたり、かけ声をかけながら担いで歩いたりして、台車の車輪の強度や担ぎ棒の感触、重みなどを確かめた。今後、黒布で山車を包み、クジラの目などを装飾。24日に住吉大社(大阪市住吉区)の境内、8月1日に住吉大社から堺市内に向けて練り歩くという。
「鯨まつり」は鎌倉時代末期、クジラを捕り逃がした漁師らを慰めるため踊ったのが始まりと伝えられている。明治以降は約20〜30年に1回のペースで開催されていたが、昭和29年を最後に中断。今年、地元住民で実行委を結成し、復活することになった。
試し曳きに参加した同保存会会長の鎌苅顕行さん(52)は、「祖父や父もかつて参加した祭りに加わることができて本当にありがたい。担ぐと、思ったよりもずっしりと重かった。本番は全員で息を合わせて頑張りたい」と話していた。
-
あべのキューズモールで「スマイル七夕」−安倍晴明神社に奉納
http://abeno.keizai.biz/headline/118/
「あべのマーケットパーク キューズモール」(大阪市阿倍野区阿倍野筋1)3階スカイコートで7月2 日・3日、短冊(ポラロイド写真)に願い事を書きササに取り付けるイベント「スマイル七夕」が開催された。
スタッフが撮影した顔写真に願い事を書き、ササに飾り付ける同イベント。集まった短冊は安部清明神社(阿倍野元町)に奉納する。ササ・竹は阿倍野神社(北畠3)から提供された。併せて、阿倍野王子神社・安部清明神社が伝えるくす玉も用意。くす玉は5年前から七夕の時期に近隣の小学校・幼稚園・福祉センター・商店街などに飾られている。
当日は、子どもたちが願い事を書く姿が見られ、中には東日本大震災の復興を祈願した内容もあった。テナント従業員の願い事も事前に集め飾り付けた。
同イベントは地域貢献を目的に行われている「あべのスマイルプロジェクト」の一環で、グランドオープン時の「スマイルこいのぼり」が始まり。今回が4回目。
ササ、くす玉の展示は7日まで。
-
「天神祭の歩き方」一冊に 「大阪人」8月号増刊発売
2011.7.7 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110707/osk11070702040004-n1.htm
隔月刊誌「大阪人」を発行している大阪市都市工学情報センターは、8月号増刊「天神祭の歩き方地図」を発売した。780円(税込み)。
水都大阪の夏を彩る「天神祭」は、今年も24日の宵宮と25日の本宮、奉納花火(3千発)を中心に大阪天満宮(大阪市北区)などで多彩な行事が行われる。
数が多く広範囲にわたる神事や行事の日程と見どころ、由来や意味の解説、名物・名所案内、地図などを旅行ガイド風に見やすくまとめた。B5判で持ち運びにも便利で、一冊で天神祭のすべてがわかる内容に仕上がっている。
監修した高島幸次・大阪天満宮文化研究所研究員(大阪大招聘(しょうへい)教授)は「天神祭の千年以上の歴史の中で初めてといっていい持ち歩いて使える実用的なガイドブックです」と話していた。書店、駅売店、コンビニエンスストアなどで販売している。
-
「ラジオ塔」に集まれ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110706-OYT8T00045.htm
堺・大浜公園、戦前の遺構復元
堺市堺区大浜北町の大浜公園に、戦前にラジオ放送普及のために全国の公園や広場などに設置されていたラジオ塔が復元された。公園内で遺構が見つかったのをきっかけに、市が公園中心地の広場に当時の形で作り直し、朝昼夕とラジオ体操曲や童謡のメロディーを流して当時の面影を伝える。市の担当者は「健康ブームにあやかり、ラジオ体操の拠点になってほしい」と期待を寄せている。(中筋夏樹)
市によると、ラジオ塔は戦前、ラジオが高級品で家庭に広がらなかったため、大阪中央放送局(現NHK大阪放送局)が1930年に大阪市の天王寺公園に設置したのを始めに、全国各地に約460基が作られた。
大浜公園には33年に蘇鉄(そてつ)山(約7メートル)のふもとに鉄筋コンクリート造りの塔(高さ3・3メートル、幅2・5メートル、奥行き1・7メートル)が設置。現在は空洞になっている塔の内部に受信機があり、塔頂に四方を向いたスピーカーがあったという。いつまで使われていたのかわかっていないが、戦後しばらくは庶民を楽しませていたらしい。
数年前まで半分ほどの高さまで土に埋まり「ごみ焼却炉では」とも思われていたが、2007年に堺市の市民団体「戦争遺構研究会」の柴田正己代表(66)が「ラジオ塔では」と市に伝えて判明。全国でも遺構が現存しているのは二十数基だけという。
市は移設を考えたが老朽化がひどく断念。代わりに4月、500万円かけて約100メートル西側の中央広場に、鉄骨モルタル造りで忠実に再現した。市は、「かつてはラジオ塔の前でラジオ体操をしたのでは」と考え、毎朝6時30分から録音したラジオ体操第一を流す。正午や午後3時、同5時などにも鐘の音や童謡などのメロディーを流している。
柴田代表は「戦況を伝えたであろう戦時中のラジオ放送も再現すれば歴史の教材にもなる。実物の方も文化財として保護してほしい」と話している。
復元を記念し、各地を巡回して開かれる「ラジオ体操・みんなの体操会」(NHK、かんぽ生命保険など主催)が8月25日、同公園のラジオ塔近くで開かれる予定。
(2011年7月6日 読売新聞)
-
1930年代の大阪 特別上映会
2011年07月08日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001107080001
1930年代の大阪で撮影された記録映像と無声映画が9日、大阪市中央区の大阪歴史博物館で特別上映される。商都として栄えた昭和初期の建造物や風俗、戦時中の学校の様子を垣間見ることができる。
記録映像「大阪百景」はプラネット映画資料図書館(大阪市北区、安井喜雄代表)が、40年間かけて収集した約5千本のフィルムから30年代の大阪の映像を抜き出し、20分の作品に編集した。今回が初上映だ。
道頓堀にあったキャバレー「カフェー丸玉」や心斎橋の大丸百貨店、同市港区にあった遊園地「市岡パラダイス」などが登場する。市岡パラダイスは浴場、スケート場、映画館が併設された一大テーマパークだったが、34年の室戸台風で被害を受け、閉鎖された。
無声映画「僕らの弟」(1933年制作)は、同市此花区の四貫島小などで撮影された。満州事変後の「非常時」のスローガンの下、大阪毎日新聞が「非常時、涙の少年」の見出しで報じた実話をもとに、母を亡くした男子児童と幼い弟の姿を描いた。
当時の16ミリフィルム4巻が西山高校(現・京都西山高校、京都府向日市)の倉庫で24年前に見つかり、大阪芸術大の太田米男教授らが補修・復元した。上映は99年以来、12年ぶり。活動弁士は井上陽一さん。
上映会「浪花の映画事始め」は9日午後2時から。太田教授の講演もある。前売り1400円。問い合わせはシネ・ヌーヴォ(06・6582・1416)へ
-
七夕のゆうべin四天王寺「復興を」
2011年07月08日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001107080002
七夕の7日、大阪市天王寺区で「七夕のゆうべin四天王寺」が始まった。約22メートルのササのトンネルに「東日本みんなで支えよう」「一日も早い復興を」など、東日本大震災の被災地の復興を願う短冊が揺れた。
会場には「仙台七夕まつり」(8月6〜8日)の色鮮やかな七夕飾り30個も並び、被災3県の物産展が開かれている。短冊は1枚100円で販売され、願い事を書いた後、仙台七夕まつりで飾りつけてもらうこともできる。収益の一部は義援金にあてる。
近くに住む主婦東谷内(ひがしやち)久仁江さん(42)は次男の翔君(3)と訪れ「震災はひとごとではない。被災地の復興と家族の健康を願いました」。
10日まで。イベントを主催する実行委の家田裕光(ひろみつ)委員長(47)は「関西からも息長く関わることが大事だ」と話した。
-
七夕のゆうべin四天王寺「復興を」
2011年07月08日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001107080002
七夕の7日、大阪市天王寺区で「七夕のゆうべin四天王寺」が始まった。約22メートルのササのトンネルに「東日本みんなで支えよう」「一日も早い復興を」など、東日本大震災の被災地の復興を願う短冊が揺れた。
会場には「仙台七夕まつり」(8月6〜8日)の色鮮やかな七夕飾り30個も並び、被災3県の物産展が開かれている。短冊は1枚100円で販売され、願い事を書いた後、仙台七夕まつりで飾りつけてもらうこともできる。収益の一部は義援金にあてる。
近くに住む主婦東谷内(ひがしやち)久仁江さん(42)は次男の翔君(3)と訪れ「震災はひとごとではない。被災地の復興と家族の健康を願いました」。
10日まで。イベントを主催する実行委の家田裕光(ひろみつ)委員長(47)は「関西からも息長く関わることが大事だ」と話した。
-
2011年7月 8日
屏風絵にみる「豊臣期の大坂」 16日にシンポ城下の風俗、文化など討論
http://www.sankei-kansai.com/2011/07/08/20110708-055031.php
オーストリアで発見された「豊臣期大坂図屏風」をめぐって、屏風絵に描かれた大坂城下の風俗・文化について専門家が討論するシンポジウムが16日、大阪産業創造館(大阪市中央区)で開かれる。
平成18年、オーストリア・エッゲンベルク城で存在が確認されたこの屏風は、豊臣期の大坂の町を描いた作品。江戸初期のものとされ、オランダに輸出されるなどしてエッゲンベルク城に収蔵されたとみられる。当時の大坂城下を描いた作品は少なく、研究者の間で高い評価を得ている。
シンポジウムでは、屏風絵に描かれた人物や意匠、行事など、当時の風俗・文化について、中・近世絵画史が専門の狩野博幸氏(同志社大教授)と、日本絵画史を研究するマシュー・マッケルウェイ氏(コロンビア大准教授)が基調講演。その後、大阪城天守閣館長の松尾信裕氏▽同天守閣研究主幹の北川央(ひろし)氏▽宝塚大学講師の木村展子氏―がパネルディスカッションを行う。
主催は関西大学大阪都市遺産研究センター。定員300人。参加無料だが、事前に申し込みが必要。
希望者は、往復はがき、ファクス(06・6368・0092)、eメール(osaka−toshi@ml.kandai.jp)で住所・氏名・電話番号を記入の上、「7月16日 国際シンポジウム申込」と明記して、〒564−8680 吹田市山手町3の3の35、関西大学博物館内 大阪都市遺産研究センターへ。締め切りは11日(消印有効)。問い合わせは同センター(電話06・6368・0095)。
-
「七夕のゆうべin四天王寺」始まる−短冊に被災地への応援メッセージ
http://abeno.keizai.biz/headline/123/
四天王寺(大阪市天王寺区四天王寺1)境内で7月7日、「七夕のゆうべin四天王寺」が始まった。
同寺住職による復興祈願開眼法要で始まり、全長約22メートルのササトンネルにイルミネーションが点灯された。極楽門前には仙台七夕まつりの吹き流しも設置。
今年は「鎮魂のともしび」ろうそく(500円)を販売し、収益の70%を東日本大震災の義援金に充てる。義援金目的で製作したオリジナルタオル(1,000円)も販売。
会場では、被災地への願いを短冊に書くコーナーを設け、手動の印刷機で短冊に「がんばれ東北」の文字を印字できるようにした。短冊は仙台七夕まつりに持参するという。
9日は、地元小・中学校やプロ・アマチュアアーティストが参加する「七夕復興祈念コンサート」(16時〜21時)、大阪スクールオブミュージックの学生が運営する「星空コンサート」(19時〜22時)、天体望遠鏡数十台を用意する「星空観望会」(19時〜22時)を開く。
10日の最終日は20時より、願いが天に届くよう短冊を焼く儀式「お炊き上げ」が行われる。
-
天神花娘口上華やか 星愛七夕まつり
2011年7月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110708/20110708022.html
七夕恒例の「星愛七夕まつり」(同実行委員会主催)が7日、大阪市北区の大阪天満宮で行われた。あいにくの雨模様となったが、「恋愛成就」や「家内安全」などを願う多くのカップルや家族連れが訪れ、境内の「茅(ち)の輪」をくぐり祈りを込めた。
天神祭の関連行事。大阪天満宮で行われる神事「天満天神七夕祭」に花を添えるイベントとして、親しまれている。
この日、お披露目となる天神天満花娘は七夕パレードとして天神橋筋商店街を練り歩いた後、大阪天満宮に到着。特設ステージに上がり、「そうらえ 聞きそうらえ われら天神花娘」と口上を披露。このほか会場では「天満天神街道芸祭」として、パフォーマーらによるジャグリングなどが披露された。
境内では参拝者が「恋愛成就」や「家内安全」などの文字が書かれた茅の輪をくぐり抜けて身を清め、願い事を書いた短冊をササ飾りに結んでいた。
-
なにわ人物伝
−光彩を放つ−
蔀 関月
2011年7月9日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110709/20110709035.html
努力の末、名所図会の大家に 月岡雪鼎のトップ門弟
三善 貞司
浮世絵といえば江戸が本場のように思われるが、大坂にも彼らに負けない浮世絵師が多い。その代表が月岡雪鼎(つきおかせってい)で、およそ千人もの門弟がいたという。蔀関月はそのトップだ。
彼は延享4(1747)年京町堀(大阪市西区)の本屋「千草屋」の子に生まれた。名は徳基、字(あざな)は子温。幼い頃から絵の才能は抜群で、「千草屋の絵かき坊(ぼん)」と呼ばれて評判になる。成人して家業を継ぎ商才もあって繁盛させるが、絵が忘れられない。あるとき雪鼎の浮世絵を見て驚嘆、早速「ゼニはなんぼでもだすさかい、教えて」と頼みにいってひどく叱られた。
「このどあほ! ゼニで絵が描けるかい。それにお前は、二足のわらじをはくつもりか」
一喝された絵かき坊は、増長していた自分を真っ赤になって恥じ、なんと店は他人に譲り、堂島1丁目(北区)の小さな借家に移住、あらためて雪鼎の前にひざまずき弟子入りを志願する。
雪鼎は技法については、ほとんど教えなかった。
「色彩や線は熟練が解決する。熱心に稽古すれば、誰でもある水準まではいける。問題は何をどのように描くかだ。そのためにはまず教養を深めねばならぬ」
諭された関月は詩歌や学問を修め、和漢古今の名画の模写に、寝食忘れて取り組んだ。しかし十数年の歳月が流れたが、どんなに努力しても師の足もとにも寄れない。なんでやろ、才能がないからやろか…と悩んだり、絶望して挫折しかけたりするうちに、はっと気付いた。
「そうや。真似(まね)ばかりしてるからや。先生の描かない画題を見つけて、自分らしさをださなあかん」
雪鼎は美人画か武者絵が得意だ。正反対の画題を探して関月は試行錯誤を繰り返すうち、鳥羽僧正(平安時代の画僧。延暦寺座主。『信貴山縁起』や『鳥獣戯画』で知られる)と、雪舟(室町時代の画僧。個性的な水墨画家。山水・人物に秀でる)に引かれる。軽妙滑稽な戯画と、重厚枯淡な水墨画とは対照的だが、根源ではつながっているような気がする。それからの彼は筆をかついで旅に出て、僧正らしきもの、雪舟らしきものの画題を探してはスケッチを続けた。
ある日、そんな関月の自宅を、みるからに裕福そうな旦那(だんな)が訪れる。堀江(西区)の大きな酒造業「坪井屋」の主人、木村吉右衛門だ。彼は「蒹葭堂(けんかどう)」の号を持つ大坂一の博学者でもある。彼の偉いのは芸術や学問は道楽ですといい放ち、収集した膨大な内外の珍奇物を、一般に惜しげもなく公開した点だ。だから彼の自宅は図書館・美術館・博物館の総合施設のありさまだった。
「遠方の方にもお見せしたい。絵にしてくれませんか」。吉右衛門の心意気に感じた関月は、渾身(こんしん)の力を絞って収集品の一部を描いたのが、名著『日本山海名所図会(ずえ)』である。
今とは比較にならぬ情報伝達の貧困な時代だ。旅に出るのさえ夢物語の閉鎖社会にあっても、人々の好奇心は旺盛だ。かつての勉学や諸国遊歴も糧となり、『伊勢参宮名所図会』『東海道名所図会』『須磨明石名所図会』『近江名所図会』なども刊行し大評判、名所図会の大家と呼ばれ、名声は高まり寛政2(90)年には法橋(ほうきょう)に叙せられている。しかし師雪鼎の高恩は忘れず武者絵や、雪舟の影響を受けた山水画も多数残しており、彼の人柄が偲(しの)ばれる。晩年は多くの門人を育成、丹羽桃渓(にわとうけい)、中井藍江(なかいらんこう)、流光斎如圭(りゅうこうさいじょけい)、それに息子の蔀関牛(かんぎゅう)らを世に出した。
寛政9年10月、50歳没。墓は正通院(淀川区木川東1丁目)にある。剥落(へきらく)がひどいため、最近美しく再建されたが、旧墓の映像を掲げておく。
(地域史研究者)
-
天神祭:わっしょい、わっしょい 大阪を元気にギャルみこし−−選考会
http://mainichi.jp/kansai/news/20110709ddf041040011000c.html
大阪・天神祭を盛り上げる恒例の「ギャルみこし」の担ぎ手選考会が9日、大阪市北区の天神橋筋商店街であった。今年は330人が応募し、15〜30歳の252人が書類選考を通過した。今年の審査のテーマは「仮装」で、空手着やチャイナドレスなど思い思いの衣装を着た参加者が、80人の定員入りを目指して猛アピールした。「本番」は今月23日。
ギャルみこしは今年で31回目。審査では自己紹介の後、「わっしょい」と大声を上げながら重さ70キロの俵を下げたてんびん棒を担ぎ元気と体力をPRした。
手作りの「太陽の塔」の着ぐるみで参加した大阪市城東区の大学2年、友繁夏鈴(かりん)さん(19)は「大阪らしい衣装を着ようと、3時間かけて手作りした。震災で自粛ムードもあるが、ギャルみこしで大阪を元気にしたい」と話した。【古関俊樹】
-
「福島」地名つながり、不思議な縁
2011.7.10 16:00
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110710/art11071016010006-n1.htm
大阪市中央区に「安土町」という地名がある。大坂城が作られた際、滋賀県の安土から町人たちが移住した場所という説があります。
京都の町人が移り住んだという「伏見町」(大阪市中央区)など大阪には他地域の名を冠した名前が数多く残っています。そういえば、京都市下京区にも「安土町」がありましたね。
ならば、東北にちなんだ地名は関西にないものか、とインターネットや地名辞典を探し回ったが見当たらない。
おいおい「福島」はどうなんや、と思われた大阪市福島区民の皆様。残念ながら、福島県人が大阪に移り住んだり、逆に大阪の福島人が福島に行ったから付いた地名ではなさそうです。
不親切な大阪市のホームページではなく地名辞典によると、大阪の「福島」は元々「餓鬼(がき)島」という地名で、平安時代に菅原道真が「福島」と改名したとか。
福島の「福島」は木村吉清という戦国武将が、現在県庁などが立っている杉目城の名を「福島城」に改めたことが始まりとされる。
福島の由来を調べていたら、平成16年7月に起きた新潟・福島豪雨を思い出した。福島県では会津地方を中心に豪雨に襲われ、死者も出た。そんなとき「救援活動にあたる警察官のために」と、県警福島署に大量のタオルが届けられた。
送り主は大阪府警福島署。同名の職場で働く県警の警察官の姿をテレビで見て、府警福島署員が職場でポケットマネーを募り購入した。やっぱり、同じ名前というのは気になるものですね。
そういえば「福島城」の名付け親・木村吉清は豊臣秀吉や荒木村重、明智光秀ら関西ゆかりの武将に仕えたことがある人。両府県の「福島」に浅からぬ縁を感じます…という結びは浅はかです。もし、お住まいの地域の近くで東北由来の地名があったら教えてください。(渡部圭介)
◇
投稿やお便り、質問は下記のアドレス(「ゆうSANKEI編集部」)までお寄せください(編集長・白岩賢太)。u35@sankei.co.jp
-
桂三枝さん「文枝」襲名へ 来年7月「一層精進」
2011年7月12日
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201107120025.html
人気タレントで、上方落語協会会長の桂三枝さん(67)が、桂文枝の六代目を、69歳の誕生日にあたる来年7月16日に襲名する。今週末に記者会見して正式に発表する。文枝は上方落語の大名跡で、幕末に活躍した初代は「近代上方落語の中興の祖」と評され、上方で「桂」を名乗るすべての噺(はなし)家のルーツにあたる。
三枝さんは堺市出身で、1966年に桂小文枝(後の五代目文枝)に弟子入り。間もなく、ラジオ・テレビ番組で一躍人気タレントとなり、長寿番組「新婚さんいらっしゃい!」の司会など、第一線で活躍を続ける。高座では80年代から創作落語に精力的に取り組み、息子の塾の問題に悩まされる父を描く「宿題」、いけすの魚たちの物語「鯛(たい)」など、他の一門に受け継がれている噺も少なくない。2003年には上方落語協会会長に就任、定席「天満天神繁昌亭」(大阪市)の開設にこぎつけるなど、リーダーシップを発揮してきた。
初代文枝は幕末から明治初めにかけての大看板で、話芸の実力のみならず、人望も厚く、明治の落語全盛期を担った優れた門人を残した。05年3月に亡くなった五代目は桂米朝さん(85)、桂春団治さん(81)、故・笑福亭松鶴とともに「四天王」と呼ばれ、戦後滅亡の危機にさらされた上方落語界を支えた。
新時代の「文枝」誕生 桂三枝さん 桂派源流ゆかりの大名跡に意欲
http://www.sankei-kansai.com/2011/07/12/20110712-055164.php
タレントとして一時代を築き、落語家としても創作派の旗頭として知られる桂三枝さん(67)が、師匠の名を継ぎ、由緒ある名跡(みょうせき)「桂文枝」の六代目を名乗ることになった。江戸時代末期から明治初年にかけて活躍した初代文枝が源流となって、現在の米朝、春団治、文枝の各一門につながっていく。だから文枝の名跡は大きく、魅力がある。 (金森三夫)
桂派は東西にあるが、その最も源流になる名跡は「文治」。その四代目文治の弟子が初代文枝を名乗った。文治はもとは大阪の名だったが、江戸時代末期に東京に移った。先月、東京・落語芸術協会所属の桂平治さんが十一代目を継ぐと発表されたばかりだ。
三枝さんは入門当初、古典に励んだ。しかし桂枝雀さん(故人)の高座をきいて「とてもかなわない」と思い、創作の道にすすんだのはよく知られる。マスコミでの仕事の口調が古典落語にはなじまないと見極めた結果が、“三枝落語”の原点になっている。
かつて先代の文枝夫人にお会いしたとき、「文枝」の名は古典のイメージがあう、と話されたことを三枝さんに伝えたことがある。後日、三枝さんは、初代が大ネタに仕立て、先代も得意にしていた「三十石」の稽古をしたが、今のところ大きな高座にはかけていない。
本紙は2年半前、「三枝さん、文枝襲名」を報じたが、このとき取材に応じた三枝さんは「文枝を継ぐ強い意志があります」と話していた。
全国に知られた名前でビジネスが十分成り立つのに、変える必要があるのかという意見がある中、来年創立100周年を迎える吉本興業では、三枝さんの要望にこたえてにぎやかに襲名披露興行を展開していくことにしたようだ。
さらに、三枝さんが「ぼくにはあまり時間がないんです」と何度も繰り返したのが印象に残っている。
「襲名は50代のうちに」といわれる。話術を高め、さらに練り上げるのに必要な時間を考えれば、50代でということなのだろう。
三枝さんの師匠が五代目文枝を継いだのは62歳だったが、これには理由があった。前名「小文枝」に愛着があり、変えたくないと強く思っていたのである。
三枝さんの襲名会見は、68歳の誕生日となる16日に予定されている。襲名披露公演は来年7月から始まり、全国を巡演する。歴代とはひと味違ったイメージの「文枝」誕生に注目が集まる。
2011年7月12日
-
ちょっと名前とのイメージと違うような。
-
掛け声 威勢良く 杭全神社・夏祭り
2011年7月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110712/20110712019.html
大阪市平野区の杭全(くまた)神社(藤江正謹宮司)の夏祭りが11日、始まった。早朝から太鼓台を担いだ祭り装束の若者たちが神社周辺を練り歩き、「おせよー、おせよー」の威勢のいい掛け声を響かせた。
太鼓台の巡行には当番である「野堂東組」をはじめ約600人が参加。みこしも練り歩き、橋に設けた祭壇で清めの神事が執り行われ、14日まで4日間行われる祭りの無事を祈願した。
祭りのクライマックスは九つの組に分かれてだんじりが境内に入る「宮入」で、13日に行われる。
同区平野東2丁目の会社員、田島輝行さん(59)は「物心ついたころから参加している。気持ちはお祭りモード。時代は移り変わっているが、若い人に確実に引き継がれているいい祭りだと思う」と話していた。
-
豊作願い 愛 鴨入れ
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110713-OYT8T00083.htm
大阪市住吉区の住吉大社で12日、境内の田んぼにアイガモを放つ「鴨入れ」が行われた。市立墨江幼稚園の園児約30人がひな約20羽を放し、雑草や害虫を食べる姿を見守った。
同神社の田んぼは、神様へ供える米を作る神聖な「御神田(ごしんでん)」とされる。人ぷんなど肥料の使用は厳しく禁じられており、神社は約20年前から、無農薬のアイガモ農法を取り入れている。
先月14日、豊作を祈る「御田植神事」が行われ、約20アールの田んぼに苗が植えられた。放たれたひなは早速、高さ約50センチに成長した青々とした稲の中をせわしなく泳ぎ回っていた。
秋には約1.2トンの収穫を見込んでおり、園児の河野朔也君(6)は「おいしいお米ができるよう、頑張って」と声をかけていた。
(2011年7月13日 読売新聞)
-
平成23年度 大阪府立中之島図書館 特別展「城下町・大坂 武士が見た風景〜なにわのサムライ・ライフ〜」
「町人の都」「商人の町」の印象が強く、武士の影が薄い江戸時代の大坂。しかし、江戸幕府にとって大坂は西国支配の要の地であり、大坂城はその前線基地でもありました。大坂城とその城下では、たくさんの武士たちが暮らしていたのです。
中之島図書館では、大阪城絵図、大阪城勤方文書など大坂の武士に関する当館所蔵資料の展示会と関連講演会を開催いたします。
大阪城天守閣復興80周年の今年、江戸期の城下町・大坂とそこで暮らした武士の姿を思い起こしていただきたいと思います。
期間
平成23年 7月6日(水)〜 7月30日(土)
(日曜日・祝日は休館日)
午前10時から午後5時
会場 大阪府立中之島図書館 3階 文芸ホール
大阪市北区中之島1-2-10(地図)
【入場無料】
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/event/bushi.html
http://www.pref.osaka.jp/annai/moyo/detail.php?recid=7628
-
クジラ形山車、57年ぶりに登場 堺「鯨まつり」
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20110713-OYO1T00663.htm?from=newslist
堺市の「鯨まつり」に57年ぶりに登場する巨大なクジラ形山車(だし)(全長約12メートル)=写真=が、ほぼ完成した。24日に住吉大社(大阪市住吉区)に奉納され、8月1日には同社御旅所の宿院頓宮(堺市堺区)まで約4キロを練り歩く。
まつりは、鎌倉時代に漁師が大漁を祈って始め、20〜30年ごとに開かれてきた。漁師の減少で途絶え、3年前に復活したが、巨大山車の奉納は、1954年を最後に行っていなかった。
新たな山車は、竹の骨組みに布張り。中に3人が入って口やヒレを動かすといい、その一員の鎌苅一身さん(63)は「水鉄砲を使って、潮も吹かせます」。
(2011年7月13日 読売新聞)
-
正岡容:寄席文化研究家、桂米朝宅に新作2編の直筆原稿 東京・紀伊国屋画廊で展示
◇強い師弟関係、貴重な資料に
寄席文化研究家で、落語家の桂米朝の師として知られる正岡容(いるる)(1904〜58年)が、上方落語復興のために書いたとみられる新作落語2編の直筆原稿が、兵庫県尼崎市の米朝宅で見つかった。21日から東京・新宿の紀伊国屋画廊で開かれる「桂米朝展」で展示される。【濱田元子】
正岡は、戦前・戦後を通して「雲右衛門以後」「随筆 寄席風俗」や、「小説 円朝」の著作活動などを通じ、寄席演芸への関心を高めるのに大きく貢献した。同県姫路市出身の米朝は、東京の大学に進学。落語研究を志し、43年に一番弟子として師事した。門弟はほかに俳優の小沢昭一や劇作家・演出家の大西信行らがいる。
米朝は47年、正岡に「米団治の弟子になって、灯の消えかかった大阪落語を復興するように」と勧められ、四代目米団治に入門。六代目笑福亭松鶴らとともに上方落語の復興に尽力。現在の隆盛に導いた。発見された直筆落語は、正岡と米朝の深いかかわりを示す貴重な資料だ。
今回見つかった新作落語は「夜櫻(よざくら)ばなし」と「慶應(けいおう)三年」。正岡専用の400字詰め原稿用紙10枚程度。「夜櫻」は、土佐稲荷を舞台にキツネに化かされる噺(はなし)。「慶應」は、伊勢神宮のお札が降ってくるという設定で、米朝が放送用に録音した記録が残っている。いずれも大阪弁の上方落語で、はめもの(落語の中で演奏される音楽)もふんだんに指定されている。
同展は、米朝の文化勲章受章を記念して開催。米朝自筆の独演会ノートなど、軌跡をたどる資料約230点も展示される。8月2日まで。
毎日新聞 2011年7月13日 東京夕刊
http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20110713dde012200002000c.html
-
にぎやかに川面往来 難波八阪神社の船渡御巡幸
2011年7月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110714/20110714016.html
大阪天満宮の天神祭と並び江戸時代には盛大に行われていたと伝わる難波八阪神社(大阪市浪速区、藤枝春紀宮司)の船渡御巡幸が13日夜、大阪・ミナミの道頓堀川で行われた。約20隻の渡御列が川面を往来。にぎやかに夏祭りのムードを盛り上げるとともに、東日本大震災の被災地復興を祈った。
同神社と同神社道頓堀川船渡御行事保存会(羅辰夫会長)が実施。同神社の船渡御は江戸中期に途絶えたが、2001年に氏子衆と地元企業の支援で約230年ぶりに復活した。
夕方、渡御水域で水上神事が執り行われた後、氏神のみ霊を載せた鳳輦(ほうれん)船などが湊町船着場を出発し、日吉橋〜日本橋間を往来した。
道頓堀川では、地元の商店街関係者らによる恒例のライトアップイベントも行われ、888個のちょうちんがともされた。このうち600個は防水型LED(発光ダイオード)電球を採用し、節電にも努めた。
14日には同神社の陸渡御が執り行われる。
道頓堀で船渡御 LED導入
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110714-OYT8T00055.htm
難波八阪神社(大阪市浪速区)の伝統行事「船渡御(ふなとぎょ)」が13日夜、大阪・ミナミの道頓堀川で行われた。ちょうちんの明かりに照らされて進む22隻の台船などの上では、氏子衆らがおはやしやジャズなどを演奏し、見物客を楽しませた。
午後7時ごろ、法被姿の地元商店会役員が、太左衛門橋や川沿いの遊歩道に取り付けた888個のちょうちんに点灯。かがり火をたいたり、奉納の舞を披露したりする船が通るたび、大勢の観光客がカメラや携帯電話で写真を撮っていた。
今年は600個のちょうちんに消費電力が少ない発光ダイオード(LED)電球を導入し、節電に対応。協賛金の一部88万8000円を日本赤十字社を通じて被災地に寄付する。道頓堀商店会の今井徹会長は「ミナミから被災地に元気を届けたい」としている。
川沿いのちょうちんは8月24日まで、午後7時〜午前2時に点灯される。
(2011年7月14日 読売新聞)
-
町人の楽しみ追体験 御迎え人形スタンプラリー
2011年7月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110714/20110714017.html
かつて天神祭の船渡御を迎えるために仕立てた船に乗せられていた御迎え人形。このほど、現存する16体すべてが大阪府の有形民俗文化財に指定されたことを記念し、大阪天満宮は市内で展示される8体を巡るスタンプラリーを実施している。
御迎え人形は江戸中期の元禄文化のころ、天神祭に登場。多くが当時、流行していた歌舞伎や浄瑠璃などに登場するキャラクターを採用している。幕末期には50体を超えていたが、現存するのは16体のみ。1973年に「八幡太郎義家」など14体が府の有形民俗文化財に指定され、今年1月に残る「雀踊(すずめおどり)」と「豆蔵(まめぞう)」の2体も追加指定された。
展示の場所と人形は次の通り。
大阪天満宮=八幡太郎義家、素盞鳴尊(すさのおのみこと)、胡蝶舞(こちょうのまい)、豆蔵▽帝国ホテル大阪=関羽▽OAP(大阪アメニティパーク)=酒田公時(さかたのきんとき)▽追手門学院大阪城スクエア=羽柴秀吉▽大阪くらしの今昔館=雀踊(大阪天満宮の展示は23〜25日、それ以外は25日まで)。
大阪天満宮で25日までスタンプシート(御迎え人形修復基金として1枚につき100円)の授与を行っている。大阪くらしの今昔館のみ入館料が必要。
問い合わせは電話06(6353)0025、大阪天満宮へ。
-
水郷のヨシを大阪天満宮へ奉納 近江八幡
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20110714000094
日本三大祭りの一つ、大阪の「天神祭」(24、25両日)を前に、大阪天満宮(大阪市)へ奉納するヨシの刈り取りが14日、滋賀県近江八幡市円山町の水郷地帯で行われた。ヨシは舟で岸まで運ばれ、その日のうちに天満宮へ納められた。
ヨシは、20〜25日に天満宮が表門に設ける「大茅(ち)の輪」に編まれ、多くの参拝者がくぐる。水郷めぐりを営む近江八幡和船観光協同組合が、水と自然の大切さを伝えようと、1998年から毎夏奉納している。
この日は、組合の船頭2人が舟でヨシ原に赴き、鎌で刈った。ヨシの束は北之庄町の船着き場でトラックに積み替えられ、天満宮の神職からおはらいを受けた後、大阪へ向かった。
-
道頓堀川で「道頓堀川船渡御」−難波八阪神社の夏祭り神事
http://namba.keizai.biz/headline/1913/
道頓堀川で7月13日、難波八阪神社(大阪市浪速区)の夏祭り神事「道頓堀川船渡御(ふなとぎょ)」が行われた。
道頓堀川船渡御は江戸時代、大阪天満宮の天神祭と並び盛大に行われていたと伝わっているもので、江戸時代中期以降に途絶えていたものを、氏子や地元企業の支援により、2001年に230年ぶりに復活した。復活初年度は神事船1隻と、どんどこ船2隻の計3隻の構成だったが、回を重ねるごとに参加船舶が増え、11回目の開催となった今年は14隻の神事船(参加人数約600人)のほか、列外船としてどんどこ船2隻、補助船1隻が参加した。例年7月12日に行っていたが、今年から13日に変更。同神社の宵宮と日を合わせ、より連携を強めた。
日が落ちた道頓堀川に、船渡御の始まりを知らせる手こぎのどんどこ船が太鼓を打ち鳴らしながらやって来ると、道頓堀川遊歩道「とんぼりリバーウォーク」や戎橋、太左衛門橋などに観光客が集まり始めた。
その後、船渡御行列の先頭で社旗を掲げる「御旗(みはた)船」を先頭に、太鼓をたたきながら音頭を取る「太鼓船」、氏神様の行列の道を照らす「篝火(かがりび)船」、神器である鉾を掲げる「御鉾(みほこ)船」をはじめ、地元商店街やエフエム大阪など地元企業が提供する「供奉(ぐぶ)船」も加わり、888灯のちょうちんでライトアップされた道頓堀川を、船団がにぎやかに行き来した。
-
天王寺公園で「百年縁日」初回開催へ−ゆるキャラ12体も集合
http://abeno.keizai.biz/headline/126/
新世界100周年プレイベント「第1回百年縁日」が7月23日・24日、天王寺公園(大阪市天王寺区茶臼山町)で開催する。
プログラムは「ゆるキャラ」のショー、キッズダンス(以上両日)、「プロレスリング紫焔(しえん)」のプロレス、小川千春さん・関学JAM(以上23日)・チュッパチャップス・ふじおかみゆきさん(以上24日)のライブなど。
ゆるキャラは、「くしたん」(新世界)、「くまモン」(熊本県)、「蓮花ちゃん」(葛城市)、「まごりん」(和歌山市)、「こうやくん」(高野山)、「えべっちゃん」(三田市)、「獣兵衛」(千葉県)、「いしきりん」(石切参道商店街)、「たいしくん」(太子町)、「キララちゃん」(京田辺市)、「ゴーヤ先生」(福知山市)、「若武者もとちかくん」(高知県)の12体。24日には一般公募で選ばれた、「くしたん」のテーマソングお披露目ライブも予定する。
屋台は「新世界串かつ振興会」が参加し、串カツ・お好み焼き・たこ焼き・かき氷・ワッフル・クレープなどを用意。
24日には天王寺動物園新世界ゲートに人力車が待機し、新世界を周回する。1人=500円、2人=1,000円。
開催時間は10時〜19時。観覧無料(天王寺公園の入園料150円は必要)。スケジュールなどの詳細はホームページで確認できる。
-
2011年7月14日
古代人になれるかな 箕面、キャンプ参加者募集
http://www.sankei-kansai.com/2011/07/14/20110714-055265.php
日ごろ自然とふれあう機会の少ない子供たちに、古代人と同様の体験をしてもらう恒例のキャンプ「君は古代人になりきれるか」(少年少女文化財教室主催、箕面市教委後援)が8月5〜7日の2泊3日で、大阪箕面市の市立青少年教学の森野外活動センターを会場に開かれる。小学3年〜中学生を対象に、参加者を募集している。
現代に残る遺物や遺構が、かつてどのような使われ方をしたのか、再現実験などによって解明する「実験考古学」の手法を応用したキャンプ。今回は「古代の土笛作り」をテーマに、土笛を作って太古の音色を響かせる。また古代米を使った調理や水辺でのレクリエーションなどを楽しむ。
参加費は2万円(教材、保険料、食費込み)。定員20人で先着順。希望者は往復はがきに名前、生年月日、住所、学校名、学年、電話番号を書き〒530―8692 大阪中央郵便局私書箱254号、少年少女文化財教室へ。問い合わせは同教室(電話072・729・7318)。
-
イネ守って!! 住吉大社・御神田にカモのひな放つ
2011年7月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110713/20110713015.html
大阪市住吉区住吉2丁目の住吉大社(真弓常忠宮司)の御神田で12日、合鴨農法に使うカモを放流する行事が行われた。近隣の幼稚園児が22匹のひなをおっかなびっくりの手つきで次々と田んぼの中に放っていった。
同大社では毎年、境内にある約2300平方メートルの御神田で神事などに使用するイネを育成している。無農薬で育てているため、20年以上前からアイガモを放し、除草や害虫駆除などを行っている。
例年は業者が放流しているが、ことしは墨江幼稚園(同区墨江2丁目、中山教子園長)の園児32人が参加。田んぼに放たれた生後10日ほどのひなたちは“ピヨピヨ”とかわいらしい声を上げながら、苗の間を楽しそうに泳いでいた。
参加した河野朔也君(6)は「ひなはフワフワしていて気持ちよかった。カモが泥だらけになっちゃったけど、楽しかった」。亀井悠人君(5)は「秋までにカモが大きくなってほしいし、お米ができるのも楽しみ」と話していた。
-
神様は合鴨のフンは気にならないのかな
まあ、合鴨がいなくても雀などもいるから同じことかな、
-
氏地練り歩く 難波八阪神社で夏祭本宮祭
2011年7月15日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110715/20110715019.html
大阪市指定無形民俗文化財「綱引神事」で知られる難波八阪神社(浪速区元町2丁目、藤枝春紀宮司)で14日、夏祭本宮祭があり、前日の道頓堀川での船渡御に続き、陸渡御が斎行された。
境内の渡御祭典でおはらいを受けた氏子衆らが午前10時半すぎ、先導役の猿田彦に続いて太鼓やみこし、だんじりなどの列をなし、神社を出発。厳しい日差しが照りつける中、約300人の渡御行列が同区や西区、中央区の氏地をにぎやかに練り歩いた。
藤枝宮司は「宵宮も盛大にさせていただいた。暑い一日になり、皆さんには熱中症に注意していただくとともに、東日本大震災で被災された方々のためにも日本が元気になれるよう、みんなで支えていきたい」と話していた。
-
猛暑の中・・御霊神社の船渡御が約140年ぶりに復活
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
江戸時代には、大阪の夏の風物詩として親しまれていた御霊神社の船渡御が、およそ140年ぶりに復活しました。
いにしえの祭りが沈んだ日本に元気を送ります。
鎧に、兜。
御堂筋に突如現れた鎧武者達。
その数なんとおよそ100人。
これは大阪の御霊神社のお祭りで、東日本大震災で暗くなっている日本を元気にしようと企画されました。
実はこの祭りは、「船渡御」といって、江戸時代の後期から明治維新まで90年近く行われていたものが140年ぶりに復活しました。
当時は、甲冑を着込んだ武士たちおよそ500人が20艘の船に乗り込んで商業の発展を願っていたということです。
一方、現代の武士たち。
着ている甲冑はおよそ20キロ。
15日の大阪の最高気温は33・8度です。
【甲冑を身に着けた参加者】「暑くて死にそうです。汗たらたらで。ここに保冷剤持ってるんです。」
鎧武者のご一行は、暑い日差しに耐えながら、船で中之島を沿いを進み、道頓堀川通って大阪に元気を届けていきました。
-
140年ぶり復活 御霊神社の船渡御
2011年7月16日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110716/20110716025.html
武士の守り神を祭る御霊神社(大阪市中央区、園文夫宮司)の船渡御が15日、約140年ぶりに復活した。武者姿などに扮(ふん)した約100人が船に乗り込み、土佐堀川などを巡った。阪神大震災を機に途絶えていた武者行列も行われた。
同神社の船渡御は安永9(1780)年に始まり、明治維新による中断まで90年近く続いた神事。江戸時代には甲冑(かっちゅう)姿の武士ら約500人が乗り込み、夏の風物詩の一つとされた。3月の東日本大震災の発生を受け、「大阪から元気を発信しよう」と復活の機運が高まり、この日を迎えた。
神社を出発した約100人は、大阪のメーンストリート・御堂筋を練り歩いた。このあと淀屋橋港から船に乗り込み、土佐堀川や堂島川を勇壮に巡る船渡御を繰り広げた。
-
140年ぶり「船渡御」復活 御霊神社
2011年07月16日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001107160003
御霊神社(大阪市中央区淡路町4丁目)の夏祭りで江戸時代に氏子らが甲冑(かっちゅう)姿で航行した神事「船渡御」が15日、約140年ぶりに復活した。「水都」らしい行事で地域を盛り上げようと氏子たちが尽力。当時を再現した勇ましい姿で船に乗り、川面を行き交った。
御霊神社は江戸時代、武士からも信仰を集め、その縁で1780(安永9)年から1868(明治元)年まで続いた船渡御は、甲冑などを身につけた約500人が船20隻で巡航する華やかなものだったとされる。地元で老舗のコーヒー店を営む小川清さん(54)や老舗のすし店会長の橋本英男さん(69)ら氏子有志が神社と復活計画を進め、実現にこぎつけた。
この日、氏子たちは甲冑や和装姿で神社から淀屋橋まで練り歩き、旅客船3隻に乗り、堂島川や道頓堀川などを航行した。通りがかった人たちは珍しそうに足を止め、携帯電話のカメラに収めるなどしていた。
-
なにわ人物伝 −光彩を放つ−
一井 鳳梧
2011年7月16日
浪華代表する町人学者の先駆 116歳まで現役
三善 貞司
儒学者。浪華(なにわ)を代表する町人学者の先駆だが、その長寿は驚異的で他例を知らぬ。
彼は元和元(1615)年雲州(島根県)松江に生まれた。名は先宣、字(あざな)は桐助、別号桐吾。青年時代に学者を志し、京に出て勉学した後江戸に下り、林羅山(徳川家康の侍講。幕府学問所『先聖殿』の創始者)に師事。全国から秀才の集まる羅山門下でも頭角を現す。何度か仕官したようだが堅苦しい勤めが肌に合わず、50近くになってふらっと大坂に来て両替町(大阪市中央区)で開塾した。
石田誠太郎の名著『大阪人物誌』に、「儒書講説す 遠近其名(そのな)を聞き従游(しょうゆう)するもの一千二百人 蓋(けだ)し浪華の地に儒学を講ずるもの鳳梧を以(もっ)て嚆矢(こうし)とす」と出るから、塾は大繁盛だったようだ。
当時の儒学の講義の大半は素読(そどく)である。四書(論語・孟子・大学・中庸)の一部を筆写し、師に加点してもらい大声で読み下す。次に単語の意味を教わり、指名に応じて今度も大声で全文を訳す。これで終わりだ。ところが鳳梧の教授法は全く異なる。
「よいか。論語は孔子という中国人の男の生きかたの滓(かす)を、まとめたものだ。それを誰か知らぬが偉い先生がたがなめて、さらに吐きだしたものを、また我々(われわれ)がなめておる。ばかばかしいと思わぬか」
「ただ論語には、孔子が大勢の弟子たちと議論し、見解がちがって口論になったものまで書きとめておる。我々はそこにあやかりたい」
これが持論で、異国の大昔の孔子や孟子の文言を、現在の社会情勢や暮らしむきに置きかえて、常に討論を勉学の根幹としたから、誰もが喜んで入塾し、大いににぎわった。また学者センセイのように気取るところがなく、大学や中庸も日常語で解釈する分かりやすい講義も、「おちょくり精神」旺盛ななにわっ子に受けている。それにしてもこの時代、門下1200とは驚くべき数字だ。
もっと驚くのは彼の寿命である。没年は享保16(1731)年7月だから、生年から数えてみると116歳になる。当時の平均寿命は40代の後半ぐらいとみられるから、これはもう言語に絶する。しかも目も歯も丈夫で髪も黒々としていたそうで、記憶力も抜群、弁下さわやか、数十歳は若く見えたといわれる。
他界する数カ月前に、鳳梧は何人目かの妻を迎えているが、彼女はたったの16歳であった。これは嘘(うそ)ではない。結婚記念に総朱塗りの盃(さかずき)に寿字を黒漆したものを配っているが、これに短冊を添え、「百のけて相生年(あいおいどし)の片白髪」と一句したためた。
百を引けば同じ年だとの意味である。有名な狂歌師油煙斎貞柳(内裏の御用菓子商『鯛屋』の主人永田清兵衛の雅号)は、「桐助の寿命を誰も学びつつ百十六で志(し)のたまはく」と追善狂歌を詠んでいるが、貞柳は鳳梧死亡の3年後に、これまた高齢の80歳で亡くなっており親交も厚く、116歳没説を支える資料にはなろう。
長寿の秘訣(ひけつ)はと聞かれると、欲の少ないこと、心配せずになんでもいい方に考えること、頭は怠けぐせがつくから勉学を怠らぬことの3点を挙げた。臨終の前日、死を予感したのか講義のあと紙束をとりだし、「お前たちが聴聞した内容をまとめておいた。死後刊行してほしい。これがたった一つの欲である」と門人に渡した。彼の唯一の著作『鳳梧論説』は、こうして世に出る。
主のいなくなった小さな家屋には、書籍は無論、器物も絵画も、およそ奇美に属するものはなにひとつなかった。
円妙寺(大阪市中央区中寺2丁目)に、「一井鳳梧顕彰碑」が立っている。
(地域史研究者)
-
熱く、暑く太鼓台 貝塚
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110717-OYT8T00136.htm
泉州地域の夏祭りの先駆けとされる、貝塚市の太鼓台祭りが16日始まり、猛暑のなか、重さ約1・5トンの7基の太鼓台が寺内町を練り歩いた。
宵宮の16日は、午後1時から5時までが昼の運行、午後7時から10時までは、ちょうちんに灯を入れての運行が行われた。17日の本宮も同様に行われ、午後1時半から、感田神社前で、メーン行事の練り合い(担ぎくらべ)がある。
(2011年7月17日 読売新聞)
-
扇子ひらひら、心うきうき 大阪くらしの今昔館で「堺すずめ踊り」披露
2011.7.17 02:04
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110717/osk11071702040002-n1.htm
大阪市北区の大阪くらしの今昔館で16日、「夏祭りの飾り」として天神祭の御迎人形「雀踊」が展示されていることから、同じ名前をもつ「堺すずめ踊り」が披露された。
「すずめ踊り」は江戸時代初め、仙台城完成の宴席で、石垣づくりに呼ばれていた堺出身の石工職人が、城主の伊達政宗の前で即興で踊ったのが始まりとされ、スズメが餌をついばむような軽妙な動きが特徴。
堺市で実技に取り組む「堺すずめ踊り連盟」のメンバー約30人が、扇子をひらひらと動かし、跳ねるような軽快な足取りで舞った。
小学5年の津田茉晴さん(11)は「少し狭かったけど、うきうきした気分で楽しく踊れました」と話していた。
-
桂三枝:“文枝”襲名しても「“三枝”は誰にも渡さない」
http://mainichi.jp/enta/geinou/news/20110717spn00m200008000c.html
【桂三枝に聞く】
−−襲名が決まった現在の心境は?
桂三枝として45年、皆さんに大きくしていただいたので、この選択で良かったのかと思い、発表前は眠れませんでした。今は皆さんの後押しで覚悟ができた感じですね
−−関係者へ報告は?
桂米朝師匠はじめ、東京の方々にも連絡させていただきました。桂春団治師匠は「三枝の名はもったいないけど、良いことだから頑張りなさい」と言ってくださいました
−−いつごろから文枝を意識したのか?
師匠がお亡くなりになってからです。桂の源流の文枝という名がないのは寂しいんじゃないかと
−−正式決定はいつ?
今年4月ごろに発表という感じのところに東日本大震災があって延びてしまったんです。延びてホッとしていたところも、正直あったんですけど
−−吉本100周年の年の襲名だが?
会社も落語に力を入れてくださってる中、来年は69歳。ここでやっとかんと、70歳になってしまう。全国襲名ツアーも体力的にも厳しくなるし、100周年で60代最後の年のここかなと
−−三枝の名前が離れることへの寂しさは?
まだ三枝なので、決別するという気持ちはあまりないんです。サインも変えようと思いますが、裏に三枝って書くかもしれませんね
−−師匠のように襲名での船乗り込みなどのイベントは考えている?
一門からきん枝らが名を連ねているプロジェクトチームがあり、いろんなことを考えてくれると思います。きん枝はよくやってくれてますよ。選挙のお返しでしょうね
−−三枝の名前は?
私が持っていて誰にも渡しません。誰かに継ぐとなってモメたりすると困りますし、昔からあって残さないかん名前という訳でもないですしね(スポニチ)
-
桂三枝、史上初“Wネーム”で新たな一歩
2011.7.17 05:06
http://www.sanspo.com/geino/news/110717/gnf1107170507002-n1.htm
http://www.sanspo.com/geino/news/110717/gnf1107170507002-n2.htm
来年7月に上方落語の大名跡「六代 桂文枝」を襲名する落語家、桂三枝(68)が16日、都内で会見し、「新しい平成の文枝を作ります」と抱負を語った。一方、入門から45年使い続けた三枝について「誰かに継がせる考えはない。落語の時は文枝、バラエティーでコケる時は三枝で」と襲名後も使用すると明言。落語界史上初の“Wネーム”で新たな一歩を踏み出す。
69歳の誕生日を迎える来年7月16日に大名跡を継ぐ三枝は、晴れやかな顔を見せる一方、襲名を決意するまでの悩んだ日々を振り返った。
「文枝という名前があまりに大きく、三枝への愛着もあり、継ごうか継ぐまいか、行ったり来たりした」。
唯一、相談したのが尊敬する江戸落語の重鎮、立川談志(75)。昨年、体調不良で入院していた談志を訪ねると「せっかく三枝の名を大きくしたんだからやめとけ」と言われた。思いは三枝自身も同じ。襲名発表後の今月12日、大阪市内で行った記者懇談会で「三枝は誰にも渡さない」と口にしたほどだ。
だが、師匠の五代目桂文枝が他界して7年。「文枝という名をいつまでもほっとけない。年齢的にも69歳がギリギリ」と考えていたのも事実。今月11日、決断を報告すると、声が出ない談志はファクスで「人生なりゆき 文枝のほうがよくなったのか ぢゃあ 仕方がない 勝手にしろ 三枝のバカヤローへ」と返事を寄こしたという。談志らしい愛情のこもった毒舌のエールを紹介し、思わず涙ぐんだ。
今後の「三枝」について、会見に同席した弟弟子の桂文珍(62)が冗談で「私が襲名します」と立候補したが、三枝は即、却下。三枝の名で約220本の創作落語を作ってきた自負を語り「今後は三枝作、文枝で演じたい」とWネームでの活動を宣言した。
寄席の舞台である高座に上がる時は文枝、落語の作家名や40年司会を務めるテレビ朝日系「新婚さんいらっしゃい!」では三枝を使うといい、「文枝では椅子からコケにくい。三枝でひっくり返りたい」と笑わせた。
大名跡の責任と「三枝」へのあふれる愛で揺れた上方落語の雄は、「今は堂々と胸を張り、何の迷いもない。自分の歩むべき道はこれしかない」ときっぱり。この日夜、地元大阪の京橋花月の独演会で襲名を伝えると、客席から「六代目!」のかけ声が飛んだ。
-
企画展「プリンス・豊臣」 秀吉の血筋は絶えたのか
2011年7月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110717/20110717023.html
豊臣秀吉の血筋はいつどのように絶えたのだろうか。いや断絶などしていないという「プリンセス・トヨトミ」の設定が史実として成り立つ余地はないだろうか−。公開中の映画「プリンセス・トヨトミ」のパンフレットに、こんな論評が載っている。映画よろしく豊臣家の末裔(まつえい)は存在する仮説を立てた論者は、大阪城天守閣の企画展「プリンス・豊臣」を担当する主任学芸員の跡部信(あとべまこと)さん(43)。映画の宣伝効果に乗じ、豊臣家の歴史の魅力を発信している。
■近くにいる?
太閤秀吉の実子だった秀頼には一男一女があり、息子の国松は8歳で幕府によって処刑され、男子禁制の尼寺に押し込められた息女の天秀尼が37歳で世を去った1645年、秀吉の血筋は断絶する。
この通説に対し、映画「プリンセス・トヨトミ」製作の歴史監修を務めた跡部さんは、国松の“兄弟”を史料の「細川家記」で発見したとパンフレットの論評に記述している。
それによると、息女捕獲の翌日、幕府から若君探索の指令を受けた豊前小倉藩主の細川忠興が「御一人は十、御一人は七つ」になる2人の「秀頼様御子」を探し出せと明確に家臣に伝えている。
そこで、跡部さんの推測では、秀頼に2人の息子がいたが、国松の処刑に対する世間の反応を見た徳川家康は同じことをもう一度決行することはできなくなり、うやむやのうちにもう1人の息子の捜索は打ち切られ、息子は国松だけだったかのように語られた。
「ゆえにプリンセス・トヨトミは今あなたの近くにいるかもしれない」と跡部さんは映画鑑賞者の興味をそそる論を展開する一方、「プリンス・豊臣」の企画を通して秀吉と養子、実子の関わりを紹介している。
■父と息子
展示した史料は50点。「学問に精を出せ」「五日に一度ツメを切れ」と秀吉が当時11歳だった養子の秀俊(後の小早川秀秋)に与えた訓戒状や、「思いきりそなたの口を吸う(キスする)ことができなかったのが残念」と離れて暮らす愛児の秀頼に宛てた秀吉の自筆書状などを並べ、秀吉が豊臣家の将来を子どもたちに託そうとする姿を伝えている。
「プリンセス・トヨトミは父と息子の物語。父子の大切な時間が描かれ、感動的」と語る跡部さんは、秀吉とその子どもについても「子どもの時の秀俊をかわいがっていたが、実子の秀頼への愛情は強いものがあった」と分析し、映画と史実双方に親子愛の共通点を見いだしている。
映画公開に合わせて始まった「プリンス・豊臣」は20日まで。跡部さんは「展示期間があとわずかなので映画を鑑賞し、大阪城に訪れ、歴史の面白さを体感してほしい」と呼び掛けている。
-
西郷さんの書贈る 住吉大社から返納、「南洲記念館」へ
2011年7月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110717/20110717027.html
鹿児島県出身で神戸で郷土料理店「薩摩道場」を経営している郷原達人さん(71)=神戸市中央区=は住吉大社(住吉区住吉2丁目、真弓常忠宮司)に奉納していた明治維新の三傑、西郷隆盛(1828〜1877)ゆかりとされる墨書を返却してもらい、17日に開館する「和泊西郷南洲記念館」=鹿児島県の奄美諸島沖永良部島(和泊町)=に「参考資料の一つとして鑑賞してもらえれば幸いです」と寄贈した。
郷原さんは鹿児島県(薩摩)出水(いずみ)市出身。高校を中退して来神し、ホテルなどで働いた後、神戸・三宮で郷土料理店「薩摩道場」を開店。店を経営する一方、旅館を改築した神戸市内の自宅で茶室(裏千家)を開いたり、華道水月流を学ぶなど文化にも造詣が深い。
郷原さんは西郷隆盛が一時、薩摩藩主、島津久光公の逆鱗(げきりん)に触れ、遠島された沖永良部島の「西郷隆盛謫居(たっきょ)の地」に町制施行70周年を記念して観光施設、西郷南洲記念館が完工されることを知り、同記念館へ資料参考にと寄贈を思い立った。西郷ゆかりとされる墨書は「愛長」と認められ、郷原さんは「『世の人を永く慈しむ』と解釈している」という。西郷は数多くの墨書を残し、「敬天愛人(けいていあいじん)」の思想は有名。西郷の生き方は現在も鹿児島出身で京セラ創業者の稲盛和夫氏らにも多大な影響を与えている。
郷原さんは住吉大社の宮内に薩摩の初代藩主、島津忠久公の誕生石があることから墨書「愛長」(軸一幅)をはじめ書家で神戸大学教授、魚住卿山(和晃)氏が認めた「露柱億劫(ろちゅうおくごう)」の掛け軸や薩摩焼花瓶(約1メートル)などを同大社「神館玉座」の間に奉納していた。郷原さんは墨書「愛長」を5月に執り行われた「住吉大社御鎮座千八百年記念大祭」の直後に同大社から返納してもらい、自宅にある西郷のコピー墨書6曲(半双)とともに同記念館へ寄贈した。
郷原さんは「墨書の歴史的な由来など学術的なことは分かりませんが、記念館を飾る資料のひとつとなれば幸いです」と話している。
-
ギャルみこし盛り上げへ 掛け声や大阪締め練習
2011年7月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110717/20110717024.html
「ギャルみこし」の愛称で知られる「天神祭女性御神輿(みこし)」に参加する女性たちを集めた合格者説明会が16日、大阪市北区の大阪市立住まい情報センターで行われ、発声練習やみこしをかつぐリハーサルに挑戦した。
24、25日に行われる天神祭を盛り上げるための事前イベントとして23日に巡行し、大阪天満宮の表参道である天神橋筋商店街やその周辺地域の振興を目的に1981年から行われているギャルみこし。今年は330人の応募者から、15〜30歳までの女性80人が選ばれた。
集まった女性たちはギャルみこしの実行委員から「天神橋の看板であることを心得て責任を持った行動をして」と呼び掛けられると、真剣な表情で聞き入った。
続いて「わっしょいわっしょい」という掛け声や、大阪締めを練習。参加した女性たちは「すごく暑いので水分補給と日焼け対策をしっかりして頑張りたい」と笑顔を見せていた。
-
質問なるほドリ:三枝さんが襲名する師匠の名前「文枝」って?=回答・油井雅和
http://mainichi.jp/kansai/news/20110717ddm003070146000c.html
<NEWS NAVIGATOR>
◆三枝さんが襲名する師匠の名前「文枝」って?
◇上方落語家「桂」のルーツ 人気、実力を考慮 関係者が後押し
なるほドリ 「いらっしゃーい」でおなじみの落語家、桂三枝さんが来年7月、69歳の誕生日に六代目桂文枝を襲名することが決まったね。
記者 襲名は「したい」と言ってできるものではありません。人気、実力を考慮して関係者が後押しした上で本人が決断します。三枝さんの場合は師匠の五代目が05年3月に亡くなって今年は七回忌。「師匠の名前を残したい」と、一門、関係者の総意もあり決断しました。
Q 文枝って大きな名前なの?
A 初代は「近代上方落語の中興の祖」と言われ、桂米朝さんや三代目桂春団治さんら上方落語界で「桂」の亭号を名乗る落語家のルーツにあたります。
Q 五代目の文枝さんは「上方落語四天王の一人」?
A 上方落語は今は200人を超す落語家がいますが、戦後すぐは落語家が減り、「廃れてしまうのでは」とまで言われました。そこで上方落語を復興させようと頑張ったのが当時の若手4人。仁鶴さんや鶴光さん、鶴瓶さんらの師匠にあたる故・六代目笑福亭松鶴さん、人間国宝の桂米朝さん、三代目桂春団治さん、そして五代目の文枝さん(当時は小文枝)でした。現在の上方落語の隆盛があるのは、四天王を中心とした先人たちのおかげでもあります。
Q 先代はどんな芸風の師匠だったの?
A はんなり(上品で華やか)とした芸風で、特に女性の描き方に定評がありました。筆頭弟子の三枝さんをはじめ、きん枝さん、文珍さん、文福さん、小枝さん、あやめさんら20人もの直弟子を育てました。
Q 三枝さんは筆頭弟子なのになんで「三」枝なの?
A 三枝という名前は過去に名乗った人が2人いるそうです。「鳩(はと)に三枝の礼あり」(子鳩は親鳩より3本下の枝にとまる。礼儀を重んじ親孝行しなさい)が由来です。落語家の名前は師匠の名前から1字いただいて命名されることが一般的です。ちなみに三枝さんの弟子18人には三の字が必ず付いていて、今春、18番目の弟子として入門した、人気のお笑い芸人「世界のナベアツ」さんは、桂三度と命名されました。
Q 僕もハトに負けずに親孝行しなくっちゃ。ところで文枝を襲名した後、三枝の名跡はどうなるの? 誰かが継ぐの?
A 三枝さんにとっては66年の入門から今年で45年も名乗り続けた愛着のある名前ですが、誰かに継がせようという気持ちはないそうです。一方、創作落語の作者としては襲名後も「桂三枝・作」を使い続けたいそうです。(大阪学芸部)
==============
なるほドリコーナーへの質問をお寄せください。〒100−8051(住所不要)毎日新聞「質問なるほドリ」係 naruhodori@mainichi.co.jp
-
天神天満花娘が天神祭をPR
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003780391.html
大阪の夏を彩る天神祭まで1週間となり、祭りをPRする催しが開かれました。
天神祭の宵宮までちょうど1週間となった17日、祭りの会場に近く、利用客の多い大阪・都島区の京阪電車の京橋駅構内で駅を利用する人たちに天神祭をPRする催しが開かれました。
17日は、菅原道真が愛した梅の花の化身とされる、天神天満花娘の5人が紅白の梅をあしらった冠をつけるなど正装姿で登場し「天神祭をよろしくお願いします」などと口上を披露したり、祭りの開催日の入ったうちわを配ったりして来場をよびかけていました。
また、かねや太鼓の「だんじり囃子」の音にあわせて祭りの本番さながらの「龍おどり」も披露されて、祭りのムードを盛り上げていました。
天神祭は、今月24日に宵宮、25日に本宮が行われます。
07月17日 20時11分
-
岸和田だんじり祭:無事故で 500人参加し祈願−−浪切神社 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110718ddlk27040128000c.html
秋の岸和田だんじり祭の無事故を祈る安全祈願祭が17日、岸和田市港緑町の浪切神社で開かれた。祭礼関係者や市、岸和田署、消防本部などの関係機関から約500人が参加、期間中の無事を誓った。
安全祈願祭は今年で13回目。主催者を代表して岸和田だんじり祭安全祈願碑運営委員会の鳥野敦志委員長が「事故のない安全な祭礼を推し進めることが私たちの責務」とあいさつ。神官のお払いの後、各町の曳行(えいこう)責任者らが玉串を奉納して安全を祈願した。【山田泰正】
-
海守る歴史にふれて 旧堺燈台 内部を公開
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110718-OYT8T00054.htm
堺市堺区大浜北町の海岸沿いにある国史跡で国内最古の木造洋式灯台「旧堺燈(とう)台」で17日、内部の一般公開が行われた。18日午後4時まで。
海の日(18日)に合わせて毎年堺市が企画。1877年に建築された灯台は高さ約12メートルで白い外観が目立つ。約1世紀にわたり大阪湾を照らしてきたが、埋め立て地が沖に向かって広がったために役割を果たさなくなり1968年に消灯。市が2001年から7年がかりで保存修理を行った。
3階建てだが階段が急で危険なため1階だけを公開し、市職員が明治や昭和初期の頃の外観写真やイラストを手に歴史を解説。海辺の散歩を楽しんでいた人たちが立ち寄り、歴史を感じさせる造りに触れている。窓からは淡路島も眺められる。
南海堺駅から西に徒歩約15分。見学無料。
(2011年7月18日 読売新聞)
-
天神祭:うちわでPR 京阪京橋駅で花娘が配布 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110718ddlk27040126000c.html
大阪の夏を彩る天神祭のPRイベントが17日、京阪京橋駅(大阪市都島区)の中央改札前であった。公募で選ばれた天神天満花娘の5人が通行人らに来場を呼び掛け、うちわ約1000枚を配布。天神橋筋商店連合会(土居年樹会長)によるだんじり囃子(ばやし)と「龍おどり」が会場を盛り上げた。
イベントでは、花がさをかぶった花娘たちが「天神祭よろしくお願いします」と口上。配ったうちわは瞬く間になくなった。イベントを見ていた枚方市東牧野町の会社員、近藤忍さん(39)の長女華憐ちゃん(5)は「踊りが楽しかった。お祭りに行きたいな」と話していた。
天神祭は24日に宵宮、25日に本宮がある。【平川哲也】
-
120人歌声高らか 水都・大阪カラオケ祭り
2011年7月19日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110719/20110719017.html
天神祭奉納花火の協賛事業「第6回水都・大阪カラオケ祭り」(同実行委員会主催、大阪日日新聞特別後援)が18日、大阪市都島区の大阪リバーサイドホテルで開かれ、約120人が出場して自慢の歌声を響かせた。
イベントは、天神祭奉納花火を盛り上げよう実施。会場には、大阪だけでなく近隣府県からカラオケ愛好家が集結した。
出場者は、こだわりの衣装をまとって日ごろの練習の成果を発揮。イベント開催に尽力した実行委員の二宮宗晴さんは「皆さまのおかげで盛大な催しにできた」と感謝の意を示した。
また、ゲスト歌手として、にしきこうじさんや浜本利恵子さんらが招かれ、美声を披露。にしきさんは「天神祭を前に開くイベントとして、関西の大事なイベントにしていきたい」と抱負を語っていた。
今回、会場では東日本大震災の被災地に義援金を送るため、募金箱も設置。ゲスト歌手の春川うららさんは「私たち歌手は、歌うことで心のケアにつなげていければ」と思いを寄せていた。
-
大阪発 世界遺産へ結束
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110718-OYT8T00809.htm
堺、羽曳野、藤井寺3市にまたがる「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の世界文化遺産登録に向け、府と3市が本格的に動き始めた。昨年11月に悲願だった正式な国内候補に挙がり「大阪初の世界遺産」への期待が高まるが、自治体が一丸となって民間や府民の機運を高められるかがスムーズな登録の鍵を握る。(中筋夏樹)
「世界遺産は京都も奈良も兵庫も和歌山もあるけど大阪だけがない。でも、いよいよもう一歩。頑張りましょう」。大阪市内で5月に開かれた推進会議の初会合で、会長の橋下知事はあいさつした。
47基の百舌鳥古墳群で最も大きい「仁徳陵古墳」を抱える堺市の竹山修身市長は、「立ち入りできない陵墓に入ったような体感ができるガイダンス施設を造りたい」と宣言。羽曳野市の北川嗣雄市長も、古墳近くに建て替え予定の中学校があることに触れて「今まで通りの鉄筋ではなく古墳を生かした造りにする」と説明した。
会合では、▽国内外へのアピール▽国が国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)に提出する推薦書案の作成――などのスケジュールが示されたほか、最短で2015年の登録を目指す方針を決定した。
◎
近年、ユネスコは世界遺産の数が増えたため新規登録を抑える傾向にあり、国がユネスコに推薦するのも原則年1、2件だけだ。一方、国が自治体に候補地を公募したこともあり、候補地リストには現在、12件が記載されている。推薦する順番は決まっておらず、文化庁は「準備が整ったものから」としているものの、百舌鳥・古市古墳群のリスト入り前から候補に挙がっているのは10件ある。
「彦根城」(滋賀県)や「古都鎌倉の寺院・神社ほか」(神奈川県)のように、類似する世界遺産がすでに国内にあることなどから、リスト入りから20年近くも足踏み状態が続くケースもある。この点、国内に例のない同古墳群は障壁が少ない候補地と言える。ただ、6月に登録された「平泉の文化遺産」(岩手県)は、暫定リスト入りから10年がたっていた。
◎
百舌鳥・古市古墳群も、早期実現には専門家の意見を反映させて世界中に普遍的な価値をアピールすることが大切だ。竹山市長は「古墳の周りに民家が連なっているので、バッファゾーン(緩衝地帯)をどうするかが問題」と課題を挙げる。
仁徳陵古墳は「世界三大古墳」に数えられるが、このうち「クフ王のピラミッド」(エジプト)と「秦の始皇帝陵」(中国)はすでに世界遺産に登録された。残る一つが加われば話題性もあり、過去のケースから地域が観光客でにぎわうのは間違いないだろう。
平泉の世界遺産登録が東日本大震災の被災地に勇気を与えたように、不況にあえぐ大阪で世界遺産が誕生すれば府民に元気をもたらすことになる。オール大阪で盛り上げていきたい。
(2011年7月19日 読売新聞)
-
2011年7月19日
繁昌亭前を石畳に 大阪市
http://www.sankei-kansai.com/2011/07/19/20110719-055453.php
落語の定席「天満天神繁昌亭」などがある大阪天満宮(大阪市北区)の北門周辺の市道を石畳で舗装する計画=完成予想図=が18日、発表された。
歴史的な町並みの復元と保存を図る大阪市事業の一環。今年秋から約1億5千万円をかけて市道計約270メートルに石畳を整備し、今年度中の完成を目指す。
大阪天満宮・天神祭は日本三大祭りのひとつ。境内での計画披露会に出席した平松邦夫市長は「景観整備を契機に、日本最大の祭りへと飛躍を」。
-
京橋コムズで「天神祭前夜祭」−ギャルみこし・アイドルコンサートも
http://kyobashi.keizai.biz/headline/949/
京橋コムズガーデン(大阪市都島野田2)で7月24日、天神祭前夜祭「コムズフェスタ2011」が開催される。
毎年恒例となっている同地下街のイベント。昨年も好評だった天神祭の新たな風物詩「ギャルみこし」に加え、今年はゴールデンウイークに行ったイベント「ズムコン」を盛り上げたアイドルらによるコンサートも行う。出演は、「Mari7」「SKETCH」「Mary Angel」、エイベックス・タレントアカデミー所属のグループ「サリジュア」「KRYSTAL BURNISH DOLLS」、昨年1月にメジャーデビューした「東京女子流」。当日は、コムズのイメージキャラクター「ズムコ」が登場するほか、アイドル演歌歌手の笹ゆり佳さん、埼玉県秩父由来の太鼓を披露する「秩父屋台囃子」なども出演する予定。
アイドルらが登場するコンサートは2部構成。「アイドルコンサートvol.1」はイベント開始の15時〜。17時15分から「秩父屋台囃子」、演歌歌手の笹ゆり佳さんが登場し、ギャルみこしが来場、祭りを盛り上げる。その後「アイドルコンサートvol.2」として、エイベックス・タレントアカデミーのアイドルらのコンサートを行う。終了後はアイドルらの物品販売も予定。
当日は、抽選応募券300枚を配布し、当選者には同地下街の飲食店で利用できる500円の食事券が当たる企画も用意する。
-
みこし渡御や多彩な演芸 大阪市高津宮で夏祭り宵宮
2011.7.18 02:41
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110718/osk11071802410000-n1.htm
大阪市中央区の高津宮で17日、夏祭りの宵宮が開かれ、子供らによるみこしの渡御が行われたほか、境内ではダンスや合気道演舞、雅楽など多彩な演芸が奉納された。
疫病や害虫、風水害など夏の災いを鎮めるため行われてきた伝統行事。子供らによるみこしは、高津宮の祭りに合わせて絆を強めようと、黒門市場商店街振興組合が中心となり行っているもので、地域の幼児や小学生、専門学校生ら約160人が参加、祭りを盛り上げた。
1歳8カ月の娘と参加した地元の佐野修平さん(31)は「黒門市場から高津宮まで約1時間半。抱っこだけでなく、自分でも歩きました」と笑顔。祭りは18日に本宮を迎える。
-
一足早く魅力発信 天神祭総合情報サイト開設
2011年7月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110721/20110721025.html
日本三大祭の一つに数えられる天神祭(24、25日)を目前に控え、祭りの魅力を伝える「天神祭総合情報サイト」(www.tenjinmatsuri.com/)が、一足早く祭り本番の魅力を伝えている。
同サイトは昨年、天神祭に合わせて開設された。大阪天満宮の後援を受け、経営コンサルティング事業などを手掛ける「アリエリンクス」(大阪市北区)が、同サイト事務局を務めている。
「天神祭あれこれ」では、天神祭の歴史や祭りを支える「講」などについて解説。「天神祭情報」では、周辺の飲食店などを紹介している。このほか天神祭にまつわる写真の投稿も受け付けている。25日の本宮では、陸渡御と水都祭「天神祭奉納花火」の様子をUSTREAMで配信する。
同サイト事務局は「東日本大震災の影響で自粛ムードもあったが、天神祭の楽しさを伝えるたくさんの情報を発信していきたい」としている。
-
ムード一色 大阪市信金職員が浴衣で祭りPR
2011年7月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110721/20110721023.html
天神祭(24、25日)を前に大阪市信用金庫は20日、祭り主会場に近い本店営業部(大阪市中央区)と北支店(同北区)で、女性職員が浴衣姿、男性職員が法被姿での勤務を始めた。25日まで期間限定で“衣替え”し、天神祭を盛り上げる。
同信金は、地域密着の理念から天神祭に23年連続で協賛し、天満橋の欄干に多数の奉納提灯(ちょうちん)を掲げる。新堂友衛会長は大阪天満宮の氏子総代(法人総代)を務めている。
両店は、店頭に提灯や天神祭の看板が掲げられ、祭りばやしの音楽が流れるなど、お祭りムード一色。女性職員は、涼しげな浴衣姿で窓口に立ち、来店客に特製うちわを手渡して祭りをPRしていた。
来店客からは「かわいいわ」との声もあり、本店営業部の内海清次長は「見られていることで職員の意識も高まる。地元とともに日本三大祭りの一つの天神祭を盛り上げたい」と話していた。
-
みこしや獅子舞が練り歩き 二つの講 北新地巡行
2011年7月23日
天神祭(24、25日)を前に、かつて陸渡御のコースだった北新地(大阪市北区)での陸渡御復活を願い22日夜、現地で鳳(おおとり)講と天神講獅子の二つの講による巡行が行われた。みこしや獅子舞の行列が練り歩き、天神祭のにぎわいを夜の北新地に演出した。
天神祭の陸渡御はかつて北新地も巡行していたが、御堂筋の交通量増加などによる安全面の問題でコースから外された。北新地での陸渡御復活を求める地元の声を受けて2年前、両講が復活への足掛かりにと約40年ぶりに祭りを前に巡行。今年で3回目を迎える。
両講のメンバーや地元の北新地社交料飲協会の関係者ら約150人が参加し、ANAクラウンプラザホテル大阪付近からスタート。子どもみこしや獅子舞、傘踊りの列が北新地のメーンストリート・新地本通などをにぎやかに練り歩いた。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110723/20110723020.html
-
「天神祭へは京橋駅がおすすめ」−手書きポスターなどで呼び掛け
JR京橋駅は今月25日に迫った大阪天神祭に向け、京橋駅の利用を呼びかけている。
例年100万人以上が集まる大阪天神祭。最寄り駅は、桜ノ宮駅をメーンに、京橋駅、大阪城北詰駅、大阪天満宮駅、天満駅、南森町駅など。
多くの人が「祭り場所から一番距離が近い」と考える桜ノ宮駅では例年、同駅常勤の3人と他駅、支社などから職員が集まり総勢100人以上の職員で対応する。当日は臨時改札も設け、西口・東口の改札総数を7台に増やし、通行規制も行い混雑緩和に努めるが、ホームから改札口はもちろん、出札後も人の山で混雑を免れられず、当日は現地到着まで約30分かかることもあるという。
桜ノ宮駅混雑緩和のため、京橋駅、天満駅などの利用を呼び掛けるJR西日本。最寄り各駅の中でも最も規模が大きい京橋駅では、昨年同様、京橋駅職員の野世佳織さん(23)が手掛けたポスターを構内で展示するほか、朝・夕のラッシュ時に、読売テレビアナウンサーによる京橋駅利用を促すアナウンスを流すなど、同駅利用を呼び掛けている。
同駅営業総括の山村雄治さんは「京橋駅からなら天神祭り見物スポットまで改札を出て約15分でたどり着くことができる。お客さまの安全を確保するという意味でも、京橋という大きな駅を利用して天神祭を楽しんでいただければ」と話す。
当日、駅の混雑ピーク予想は18時〜(行き)、21時30分〜23時(帰り)。
http://kyobashi.keizai.biz/headline/952/
-
なにわ人物伝 −光彩を放つ−
江戸川乱歩 (上)
2011年7月23日
雑誌「新青年」に掲載、好評 『二銭銅貨』で作家デビュー
三善 貞司(地域史研究者)
「怪人二十面相」で胸を高鳴らせた少年時代を、懐かしく回想する人は多いはずだ。その作者江戸川乱歩を本項に入れると怪訝(けげん)に思われようが、彼が推理作家としてデビューした地は大阪である。
地下鉄谷町線守口駅で降り、2番出口を上がると「桃町緑道」(大阪府守口市八島町)が見えるが、その入り口の広場裏の民家に「江戸川乱歩寓居(ぐうきょ)跡」の銘板が掛かっている。後に乱歩は東京に永住するが、それまでは46回も転居した引っ越し魔で、守口だけでも5回も変わり、5回目がここだ。
「私が処女作『二銭銅貨』を書いたのは、大正十一年の夏、雑誌『新青年』に掲載されたのが翌年の四月号だから、数え年三十の遅いスタートであった」
彼はこう回顧している。日本で最初の本格的推理小説『二銭銅貨』は、失業中で貧乏のどん底にあった乱歩が、この借家で書き上げたものだ。代表作の一つ『屋根裏の散歩者』も、ここで想を練っている。
「天井を眺めると好都合にも、多分電燈(でんとう)工夫の出入り場所であろうが、押してみるとグワグワする。板をはずし首だけを真っ暗な天井裏に差し入れて見回すと、なんとなかなか捨て難い眺めだ。それがあの作品の背景になっている」との文言もある。
乱歩の本名は平井太郎。明治27(1894)年三重県名張町に生まれた。父繁夫は郡役所書記。祖父の代まで藤堂藩に仕えた武士。筆名はエドガー・アラン・ポー(アメリカの作家。恐怖・推理小説の開拓者)をもじったものだ。
小学生のころ、読書好きの母から菊池幽芳(きくちゆうほう)訳の『秘中の秘』を毎晩読んでもらって眠りにつき、探偵小説に興味をもつ。中学生になると押川春浪(おしかわしゅんろう)の冒険小説や、黒岩涙香(くろいわるいこう)の怪奇小説に熱中するが、父繁夫が経営した平井商店が倒産。飛び出して苦学を重ねながら大正5(1916)年早稲田大学政経学部を卒業する。数奇な生涯をたどった耽美(たんび)派のポーにはまったのは、早稲田時代だ。真似(まね)て習作も試みるが反響はゼロ。貿易会社、造船所、役所吏員、活版工、古本屋経営、化粧品会社勤務と転々と職を変えるが、なにひとつ長続きしない。大阪に移り、弁護士手伝い、大阪時事新報記者、大阪毎日広告営業マンと尻軽ぶりを発揮、同8年恋人の隆子と結婚したときは、流しの中華ソバ屋であった。新婚早々乱歩は大八車を引きチャルメラを吹き、隆子が湯を沸かしネギを刻むありさまだ。
日本一の推理作家になってみせると妻に大言壮語した乱歩は、大正11年ようやく守口の借家で『二銭銅貨』と『一枚の切符』をまとめ、細い糸をたぐって「文学界」の馬場孤蝶(ばばこちょう)に送るが、返事ももらえず原稿のみ戻ってくる。自信喪失した夫を隆子は励まし、今度は創刊されて間もない「新青年」に同稿を投稿したところ、見ず知らずの編集長森下雨村(もりしたうそん)(作家。海外の推理小説紹介者)が認め、翌12年の4月号と7月号に両作とも掲載された。『二銭銅貨』はポーの『黄金虫』や『盗まれた手紙』をヒントに、独特の暗号解読を混ぜたもの。『一枚の切符』は自殺にみせかけた他殺事件で、今読んでも実に新鮮だ。
好評に気を良くした乱歩は、『D坂の殺人事件』『心理試験』『黒手紙』『赤い部屋』と次々に同誌に発表。同14年にまとめて単行本『心理試験』を刊行して世に出る。この中で『D坂の殺人事件』に初めて名探偵明智小五郎(あけちこごろう)が登場。棒縞(ぼうじま)の浴衣と格子戸を組み合わせて錯覚をおこす謎を見事に解いて喝采を浴び、熱烈な小五郎ファンを生んだ。
こうして推理の新鋭作家となった乱歩は、大阪に横溝正史(よこみぞせいし)らと「探偵趣味の会」を創設、機関紙「探偵趣味」刊行、『人間椅子』『屋根裏の散歩者』などの傑作を発表する。
-
>>347
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110723/20110723027.html
-
さあ天神祭! 獅子舞や催太鼓…前夜祭、にぎやかに
2011.7.23 21:24
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110723/osk11072321350017-n1.htm
大阪の夏を彩る天神祭(24、25日)の前夜祭が23日、大阪市中央区の商業施設「ツイン21」であり、獅子舞や催(もよおし)太(だい)鼓(こ)など、天神祭の代表的な出し物が披露され、家族連れなどでにぎわった。
天神祭の伝統的な催しを知ってもらおうと、大阪天満宮が企画し、昭和61年に始まった恒例行事。祭りを支える支援組織「講(こう)」のメンバーらがリズミカルに太鼓を打ち鳴らし、会場を盛り上げた。
同市北区の主婦、堤真理子さん(40)は「いよいよ天神祭と思うと気分も盛り上がってきた。24日からも楽しみ」と話した。
-
天神祭始まる
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003851081.html
大阪の夏を代表する「天神祭」はきょう、神鉾を川に流して市民の安全を祈願する神事が行われ、2日間の祭りが始まりました。
「天神祭」は、1000年余りの伝統を誇る大阪天満宮の夏祭りです。
祭りの始まりは、「鉾流神事」と呼ばれる神事で、本殿で授かった神鉾を川に流し、市民の安全を祈願します。
大阪・北区にある大阪天満宮本殿では、けさ、厳かに神事が始まり、神の使いを務める「神童」と呼ばれる子どもが白木で出来た神鉾を授かったあと、200人の行列とともに近くの堂島川まで練り歩きました。
川岸に到着した神童は、神職とともに手こぎの舟で川の中ほどまで進み、神鉾を流して、天神祭りの幕が開きました。
天神祭はあすが本宮で、あす夕方には、100隻の祭り船が華麗に川を行き交う「船渡御」で祭りの最高潮を迎えます。
07月24日 12時41分
-
大阪View:七夕のゆうべin四天王寺 東北復興 天まで届け、この祈り /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110724ddlk27040196000c.html
◇仙台七夕まつり 短冊に思いを込めて
大阪市天王寺区の四天王寺で今月7〜10日、「七夕のゆうべ」があった。例年の企画を変更して、東日本大震災の被災地復興を願う内容となった。【竹内紀臣】
今年で4回目。実行委員長の家田裕光さん(47)が「仙台七夕まつり」の飾りの6〜7割を制作している「鳴海屋紙商事」(仙台市)の鳴海幸一郎さん(43)と知り合いだったことから、周囲に復興支援を呼びかけ実現した。鳴海さんによると「震災で飾りを作る和紙の約3分の1が使えなくなった。行方不明になった従業員の家族もいる」という。
イベントの当日、四天王寺の境内には同商事から購入した30個の吹き流しが飾られ、鎮魂の
ろうそくがともされた。短冊を仙台に届ける箱も設置され、来場者は短冊に復興の祈りを書いた。また、明晃印刷(大阪市福島区)の協力で「かんばれ!!東北」の文字を活版印刷した。
集まった短冊約1000枚は、家田さんらが来月6日に始まる「仙台七夕まつり」の会場を訪ねて飾るという。家田さんは「復興の道は長い。物資や資金と共に心も届けたい」と話している。
-
伝統の「鯨まつり」が復活
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004080191.html
鯨の形をした大きな山車を堺から大阪の住吉大社に奉納する伝統の「鯨まつり」が24日、57年ぶりに復活し、大勢の見物客でにぎわいました。
「鯨まつり」は鎌倉時代に、堺の沖に現れた鯨を取り逃がした漁師を慰めるために始まったとされ、堺市から大阪市の住吉大社までの道のりを鯨をかたどった大きな山車を引いて練り歩く伝統行事でしたが、昭和29年を最後に途絶えていました。
祭りは、ことしが住吉大社の鎮座1800年になるのにあわせて堺市の住民たちが中心になって復活させたもので、地元の自治会の人たちなど約60人が新調した鯨の山車を担いで大阪・住吉区の住吉大社の境内に繰り出しました。
山車は、全長約12メートルあり、境内の反橋を渡る際には山車に仕掛けられた水鉄砲を使って鯨が勇壮に潮を吹く場面も再現され訪れた見物客からは大きな歓声が上がっていました。
鯨まつりの復活を呼びかけた堺市の鎌苅一身さんは「57年ぶりに復活できほっとしてます。たくさんの人に喜んでもらえたならうれしいです」と話していました。
この鯨の山車は来月1日には、住吉大社から堺市内までを練り歩くことになっています。
07月24日 19時29分
-
地元講が巡行復活、商店街練り歩く 福島天満宮
2011年7月25日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110725/20110725025.html
天神祭宵宮にあたる24日、大阪市福島区の福島天満宮でも福島天満宮八丁目西町会神輿(みこし)講(渡部基義総代)が神輿を担いでの巡行を復活させ、子どもたちからお年寄りまで地域が一体となって祭りを盛り上げた。
同講と隣の町会が交互に一番神輿を担当してきたが、高齢化で15年ほど前から台車に載せた神輿を引っ張って巡行を行っていた。しかし、「神輿はやっぱり担ぐもの」(渡部総代)として同講が担ぎ手を募集したところ、43人の担ぎ手と3人のうちわ隊が応募し、長らく途絶えていた神輿を担いでの巡行が実現した。
巡行は上福島小を出発し、「打ちまーしょ、もひとつせ、祝うて三度」と子どもらが大阪締めで拍子木を打ち鳴らして元気よく先導、大きなうちわを手にした女性が担ぎ手の男たちを懸命にあおぎ、担ぎ手は「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声とともに商店街などを練り歩いた。
担ぎ手の一人、平沢暢央さん(40)は「若い時にも担いでいたが、(地元の)今の小学生は担ぐ神輿を知らなかったので、見せてやりたかった」と汗まみれで笑い、同町会の池田弘朋会長(73)は「若い人がたくさん参加してくれ、まちの活性化にもなる」と喜んでいた。
-
幽玄の世界 天神祭宵宮に奉納水上薪能
2011年7月25日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110725/20110725026.html
天神祭の宵宮に合わせ24日夜、大阪市北区の帝国ホテル前に係留した船上で「奉納水上薪能」が行われ、詰め掛けた人たちが船上で上演される幽玄な能の世界を堪能した。
能楽奉賛会、能楽協会大阪支部の共催。天神祭の船渡御列の舞台船の一つ、「能船」の船上を舞台に薪能を上演した。
大阪天満宮の神職による火入れ式に続き、「三番叟」「羽衣」「石橋−大獅子」の3曲が上演された。演目の前後には、人形船や落語船など講社によるおはやしが能船を盛り上げた。
-
勇壮 大阪の夏 「天神祭」きょう本宮
2011年7月25日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110725/20110725020.html
日本三大祭の一つに数えられる「天神祭」が24日、大阪天満宮(大阪市北区、寺井種伯宮司)などで始まった。大阪天満宮の境内では早朝、催(もよおし)太鼓の一番太鼓が打ち鳴らされ、祭りの到来を告げた。今年は東日本大震災の復興に向け「大阪から元気を届けよう」の思いも託され、2日間にわたる大阪の夏の風物詩が幕を開けた。
午前には本殿で宵宮祭が執り行われ、その後、神童、神職伶人(れいじん)らの鉾流(ほこながし)行列が大阪天満宮を出発。堂島川に架かる鉾流橋のたもとの斎場で、多くの見物客が見守る中、鉾流神事が斎行された。このほか催太鼓や獅子舞の氏地の巡行やどんどこ船の宮入りなどが行われた。
25日の本宮は午後3時半に大阪天満宮を陸渡御列が出発する。その後、同6時すぎから大川一帯で船渡御が催される。
第65回水都祭「天神祭奉納花火」(同実行委員会、大阪日日新聞主催)は25日午後7時20分から、大川沿いの造幣局前など2カ所で行われる。約3千発の打ち上げ花火をはじめ仕掛け花火が大阪の夜空を染め上げ、船渡御列のにぎわいに花を添える。
-
■天満橋がライトアップ
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE110724224600477750.shtml
大阪の天満橋では、24日に宵宮を迎えた天神祭に合わせてライトアップが始まりました。
およそ300のライトに照らし出された天満橋。
天神橋や難波橋とともに「浪華三大橋」と呼ばれるこれらの橋で行われているライトアップは、大阪から全国に元気を発信しようと大阪府が企画したもので、「水の都」・「光の都」としての大阪をアピールしています。
環境に配慮して、天満橋の古い照明は全てLEDライトに付け替えられ、橋全体の消費電力をおよそ1割減らすことができたということです。
「いま電気足りないのに何やってんだと思うかもしれないが、夜は全然大丈夫なので、パァーと照らして観光客を呼ぶので」(大阪府・橋下徹知事)
天満橋のライトアップは日没から午後10時まで毎日行われ、光の色は30分ごとに次々と変わるということです。 (07/25 07:22)
-
天神祭「陸渡御」「船渡御」
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004326542.html
大阪の夏を彩る「天神祭」は色鮮やかな神輿や地車が町を練り歩く「陸渡御」とおよそ100隻の船が川を行き交う「船渡御」が行われ、祭りのクライマックスを迎えました。
大阪の「天神祭」は本宮のきょう、大阪天満宮に祭られている神様が年に一度、陸からと船の上から地域を見回ったという言い伝えを再現した「陸渡御」と「船渡御」が行われました。
午後3時半、勇壮な催太鼓の音を先頭に色とりどりの衣装をまとったおよそ3000人の大行列が天満宮を出発しました。
東日本大震災の復興を願う神輿や地車がおよそ3キロのコースを練り歩き船渡御の乗船場となっている天神橋に向かいました。
そして午後6時すぎから神輿が祭り船に乗り込み、大阪市の中心部を流れる大川ではおよそ100隻が川面を行き交う船渡御が行われました。
川沿いの公園や橋の上には大勢の見物客が訪れ、にぎやかなお囃子にあわせて川をゆっくり進む祭り船の美しさと、夜空を染める3000発の花火を楽しんでいて、天神祭はクライマックスを迎えました。
07月25日 20時08分
-
模擬原爆 追悼式
太平洋戦争の末期に、原子爆弾の投下に向けた訓練として落とされた、「模擬原子爆弾」の犠牲者を追悼する式典が、大阪で行われました。
66年前のこの日、模擬原爆が落とされ7人が亡くなった東住吉区では、住民ら120人が犠牲者に黙祷を捧げました。
模擬原爆は、長崎に落とされた原爆と同じ形・同じ重さの爆弾に火薬を詰めたもので、米軍が原爆の投下訓練に使いました。
日本各地で50発が落とされ、約400人が死亡しました。
当時の目撃者・宇田恭子さんは、「空を見上げたら飛行機が飛んでいて、そこからシャーッと落ちてきた。ものすごい土ぼこりで、しばらくは顔を上げられない感じだった」と体験を語りました。
住民らは、「大阪で原爆の投下訓練が行われていた歴史を語り継ぎたい」と話しています。
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
-
■被災者も見物 天神祭フィナーレ
日本三大祭の一つ、大阪天満宮の天神祭がフィナーレを迎え、今年は東北から関西に避難してる被災者も見物に訪れました。
天神祭は、平安時代菅原道真を祭る大阪天満宮から、みそぎのために流した神鉾を町の人々が船で迎えたのが始まりといわれています。
日が傾き始めると天神祭のクライマックス、船渡御が始まりました。
大阪市の中心部を流れる大川に、飾り立てたおよそ100隻の船が繰り出し、提灯の明かりやかがり火が川面をほのかに照らします。
今年は、関西に避難している被災者も招待され、天神祭を堪能しました。
「すごく楽しい」(福島県からの避難者)
「子どもたちが楽しんでいるので、満足しています」(福島県からの避難者)
祭りのフィナーレには、およそ5,000発の奉納花火が次々と上がり、大阪の夜空を彩りました。
(07/26 00:00)
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE110725230400478029.shtml
-
東も照らして天神さま 奉納花火3千発 大阪・天神祭
大阪天満宮の天神祭が25日、本宮を迎えた。最大の見せ場となる「船渡御(ふなとぎょ)」では、大阪市の中心部を流れる大川を約100隻の祭り船がにぎやかに行き交い、約3千発の奉納花火が夜空を鮮やかに照らした。
菅原道真の神霊を祭る御鳳輦船(ごほうれんせん)をはじめ大小の船に約1万5千人が乗船。太鼓やかねの音が鳴り響く中、約7キロの航路を2時間かけてゆっくりと進んだ。船には東日本大震災の復興を願い、「がんばろう!日本」と描かれたのぼりや横断幕が掲げられた。
大阪府は震災後に関西に居住した約60人を招待。福島県伊達市から実家のある枚方市に避難してきた主婦舟山洋子さん(32)は、両親と3人の子供と参加。長男の昊志(こうし)君(5)は「おっきくてきれい。福島にいるお父さんにも見せてあげたい」と話した。
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201107260010.html
-
府庁旧庁舎の遺構見つかる
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004330101.html
大阪・西区で明治時代から大正時代にかけて使われていた大阪府庁の建物の跡が見つかり、明治時代の都道府県の庁舎の建築様式や特徴を知る上で貴重な資料として注目されます。
大阪府文化財センターが大阪・西区のマンションの建設予定地およそ5000平方メートルを調査したところ、大阪府庁が大阪城の横の現在の場所に移転するまで、明治時代から大正時代にかけて使われていた古い庁舎の基礎部分などが見つかりました。
基礎部分は石やれんがを積み重ねたもので、明治7年に建てられた庁舎中央のドームの基礎の跡や東西に延びる排水施設の跡が確認されました。
また大正時代に増築された南北2つの建物の跡も見つかり、赤れんがを積んでできた暖炉の跡が残されていました。
明治初期に作られたことを示す刻印の入ったれんがもあり、明治時代の庁舎のれんがを転用して大正時代の増築を行ったと見られています。
当時の庁舎については設計図などが残されておらず具体像が明らかになっていませんでしたが、今回、見つかった建物の跡は、明治時代の都道府県の庁舎の建築様式や特徴を知る上で貴重な資料として注目されます。
大阪府文化財センターでは今月30日に現地説明会を開くことにしています。
07月27日 19時25分
-
「模擬原爆」の犠牲者 小中学生ら冥福祈る 東住吉で追悼式 大阪
2011.7.27 02:05
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110727/osk11072702050002-n1.htm
昭和20年7月26日、大阪市東住吉区田辺に投下された“模擬原爆”の犠牲者の追悼式が26日、「模擬原子爆弾投下跡地の碑」の前で行われ、遺族や広島、長崎の被爆者、地元の小・中学生らが黙祷(もくとう)をささげた。
模擬原子爆弾は、広島と長崎への原爆投下訓練のため、米軍が作った重量4・5トンの爆弾。長崎に投下されたプルトニウム原爆と同形で“パンプキン爆弾”と呼ばれた。20年7月20日〜8月14日の間、全国各地に約50発が投下されたという。この事実が明らかになったのは平成3年、愛知県の市民グループが、国立国会図書館で機密解除された米軍資料から発見。全国で400人以上が犠牲になったこともわかった。
その後、13年に大阪の犠牲者遺族が、投下跡近くに碑を建立。以後、地元の市民グループ「7・26田辺模擬原爆追悼実行委員会」が追悼式を開いている。
今回は、遺族らのほか、平和教育として模擬原爆を学ぶ府内の小中学校の児童・生徒も参列。市立我孫子中の生徒会長、南星渚(せな)さん(14)は「原爆というと広島と長崎しか知らなかったが、こんな身近にも原爆の恐怖があった。犠牲になった人の冥福を祈りたい」と、平和への思いを強くしていた。
同会の吉村直樹さん(64)は「若い世代の参加が増え、まだあまり知られていない悲劇を後輩に語り継いでくれていることが心強い」と話していた。
-
与謝野晶子の愛用品50点展示
堺の文芸館
堺市堺区の市立文化館与謝野晶子文芸館で、堺出身の歌人・与謝野晶子の日常生活を紹介する企画展「晶子さんのお宅拝見」が開かれている。
愛用した家具や食器など約50点を展示。11人の子どもを育てた晶子がヨーロッパ旅行で土産に買ったニワトリの玩具=写真=や、子どものために仕立て直した友禅の着物、8回の転居の末に住んだ、洋室のある東京・荻窪の自宅間取り図などが並び、暮らしぶりや人柄を伝えている。
企画した林茂郎学芸員(27)は「『情熱の歌人』としてだけでなく、幅広い活動の背景には家族への思いや家族の支えがあったことを知ってもらえれば」と話している。8月27日午後2時から、林学芸員が展示の解説をする。
9月11日まで。月曜休館。入館料は一般500円、高校・大学生300円、小中学生100円。問い合わせは堺市立文化館(072・222・5533)。
(2011年7月29日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110729-OYT8T00064.htm
-
■大阪大空襲の体験語る
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE110730163900479615.shtml
第二次世界大戦中に起きた大阪大空襲の被災者らが集まり、体験を語るつどいが開かれました。
大阪市此花区で開かれたつどいには大阪大空襲の被災者や遺族らおよそ50人が集まり、66年前の悲惨な体験や長く続く後遺症などを語りあいました。
今回、被災者11人の証言をDVDにまとめたことがきっかけで、改めてこうした会が開かれたということです。
「足に破片が入ったまま傷が癒えず退院しました。通院費もなく、家でボロきれをあてながら1年半ほどしたので足がだんだん腐ってきて、また再度入院しなくてはならなくなりました」(大阪大空襲の被災者)
被災者のうち23人は3年前、国に謝罪と損害賠償を求める裁判を起こしていて、今月11日に結審、12月7日に判決が言い渡される予定です。
(07/30 18:04)
-
奉納落語会や笑い相撲 9月3、4日「彦八まつり」
2011年7月30日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110730/20110730024.html
上方落語協会の落語家たちが総出で落語会や出店などさまざまな催しで落語ファンをもてなす感謝祭的イベント「彦八まつり」がことしも9月3、4の2日間、天王寺区生玉町の生國魂(いくくにたま)神社で開かれる。今年は東日本大震災の被災地を支援するため、落語家の出展するブースでも東北の物産などを扱う予定。
上方落語の祖といわれる米沢彦八が活躍した同神社の境内を会場に毎年開催。恒例となっている奉納落語会(3日)は、「一門対抗落語会」と題し、「笑福亭孫弟子対林家一門」(午後1時)、「米朝孫弟子対春団治一門」(同5時)を行う。
また「神事でよく見かける泣き相撲を笑い相撲としてやってみては」と昨年実行委員長を務めた桂ざこばさんが提案したアイデアをもとに、「まわりを元気にする笑い方」を競う「笑い相撲いくたま場所」(4日午前11時半)を初めて開催する。
ことしは被災地支援の取り組みのほか、実行委員長を務める桂梅団治さんが熱心なSLファンであることから、小さな子どもも楽しめるよう実際に乗って遊べる12分の1サイズのSL「C62」を用意。隣接する公園に120メートルという長いレールを敷き、家族連れも楽しめる彦八まつりを演出する。
事前に楽しみ方を案内するプレイベント「'11彦八まつりにいらっしゃ〜い!」(8月11日)や後夜祭「彦八まつり・あとの祭り」(9月5日)も天満天神繁昌亭(北区天神橋2丁目)で行う。(山本聖子)
-
なにわ人物伝 −光彩を放つ−
江戸川乱歩 (下)
2011年7月30日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110730/20110730032.html
全集災い、検閲で発禁同然に 戦後推理小説界発展に尽力
三善 貞司
推理小説のパイオニア江戸川乱歩は、大正15(1926)年大阪から東京に移り、『闇に蠢(うごめ)く』『湖畔亭事件』『パノラマ島奇談』『お勢登場』『鏡地獄』などの、かつて日本にはなかった神秘・怪奇小説を次々に発表する。大衆的人気を集めただけではない。詩人萩原朔太郎でさえ、「ファンタジックな残酷美がある」と激賞したぐらいだ。
しかしこれらの作品は、人肉嗜好(しこう)やレンズによる浴室のぞき、球体鏡の内面恐怖といった異常心理を下敷きにしており、エスカレートするに従って作者の神経を痛め続けた。翌昭和2(27)年『一寸法師』を最後に絶筆宣言をして旅に出るが、ひどい躁鬱(そううつ)病に悩み、医師も腕を拱(こまぬ)くありさまとなる。
同4年ふたたび筆を執るが、『陰獣』『蜘蛛(くも)男』『黒蜥蜴(とかげ)』などのゲテモノ化した通俗小説に走り、文壇は顔をしかめた。自分でも自分に絶望した乱歩が、無邪気な子どもに立ち返るつもりで書き始めたのが、同11年から「少年倶楽部」に連載する『怪人二十面相』である。変幻自在に出没する変装の名人二十面相と、聡明(そうめい)で正義を愛する名探偵明智小五郎、小五郎の助手で利発な小林少年の三者が織り成すトリックや人間模様は、少年少女たちに爆発的人気をもたらした。ブームに目を付けた平凡社が、『江戸川乱歩全集』を出版したほど人気を集める。
だがこの全集が災いとなる。同16年12月、日本は無謀な太平洋戦争に突入。言論は統制され厳しい検閲を受けるが、全集に収録された乱歩の旧作『芋虫』が反戦文学だと削除を命じられ、以後彼の作品は発禁同然となった。この事件は生活態度まで一変させる。人間嫌いでつきあい下手だった乱歩は、突然隣組防空班長になり、戦闘帽にゲートル姿で防空演習の指揮をとる。物資配給の世話をして地域の人々のために献身的に働く。かと思えば不眠症に悩み、徹夜してポーやトレントら外国作家のトリックを研究翻案し、発表のあてのない原稿を書き続ける。「乱歩先生はきさくで社交的だ」「とんでもない。自分の穴に閉じこもる孤高の人だ」と、知人たちの評価が正反対に分かれるのは、このせいである。
終戦後の乱歩は、ひたすら海外の推理小説の紹介や評論活動、あるいは昭和22年には「探偵作家クラブ」を結成して会長になり、また雑誌「宝石」の刊行に協力して若手作家たちの育成に努め、推理小説界の発展に尽力した。「乱歩の才能は枯れた」「トリックのネタが尽きたのであろう」などの悪口も聞こえるが、同26年刊の評論集『幻影城』を読めば、学問的な立場で推理小説の文芸的地位の向上を目指したことが、はっきりと分かる。その3年後刊の類別トリック集成ともいえる『続・幻影城』と合わせて、推理小説を志す者のバイブルであろう。
乱歩の作品は、異常な怪奇心理と妖美性にあふれているため、その人物像も誤解された部分が多い。前記のように相反する知人たちの言葉から、二重人格だとか、同性愛好者だとか、サドとマゾの両面をもつ不気味な密室型作家だなどと言う人もいるが、いずれも作品内容と作者の人格を混同するからである。また酒席は好んだが元来酒には弱く、無理に忘我の境地を体験したくての飲酒だったと思われる。学生時代に陶酔した数奇な人生をたどるポーへの憧れも、人に倍して強かった。
同38年「推理作家協会」初代理事長に就任するが、難病パーキンソン氏病に苦しみ、同40年7月、71歳で死亡した。
「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」、まるで中国の哲学者荘子のような言葉を、よく色紙に書いている。同36年刊『探偵小説四十年』は自伝的推理小説史で、彼を知る最高の手掛かりになる。異能の植物学者岩田準一から得た知識も、彼の独自の世界を補強する。
(地域史研究者)
-
船場センタービルが大変なことになるらしいけど・・・
http://farm6.static.flickr.com/5284/5360053580_b8f4fd873e.jpg
http://farm6.static.flickr.com/5206/5359450567_23e079c8b6.jpg
http://farm6.static.flickr.com/5290/5359452169_934c9e226e.jpg
-
ごめんなさいスレ違いでした。
-
住吉祭「神輿渡御祭」で勇壮に大和川渡る 大阪・住吉大社
2011.8.1 20:30
海の神を祭る住吉大社(大阪市住吉区)の「住吉祭」は1日、最後を飾る神事「神輿渡御祭」(みこしとぎょさい)が行われ、担ぎ手約300人を中心に武者や獅子舞など総勢約900人が住吉大社から「御旅所」の宿院頓宮(しゅくいんとんぐう、堺市堺区)まで約4キロを練り歩いた。
大阪市と堺市の境を流れる大和川では川の中を神輿が進み、中州で大阪側の担ぎ手から堺側に受け渡された。「ベーラッ、ベーラッ」という勇壮なかけ声とともに力強く川を渡り終えると、川岸の見物客から大きな拍手が送られた。
行列には、住吉祭に合わせ57年ぶりに復活した、巨大なクジラ形山車(全長約12メートル)も参加。内部に仕込んだ水鉄砲から“潮”を吹きながら進んだ。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110801/osk11080120470005-n1.htm
-
なるほドリ:天神祭「よいみや」「よみや」どっちが正しい? /大阪
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110802/20110802032.html
<NEWS NAVIGATOR>
◇公式見解は「よいみや」 「よみや」は大阪独特の口語表現
なるほドリ 7月24、25日に大阪天満宮の天神祭に行ったよ。そこで宵宮(よいみや)のことを「よみや」と呼ぶ人がたくさんいたんだけど、どちらが正しい読み方なのかなあ。
記者 確かに観光パンフレットには「よみや」とありますね。地元の参加者も皆「よみや」と呼んでいますが、天満宮の公式見解は「よいみや」です。天神祭研究の第一人者である高島幸次・大阪大学招聘(へい)教授によると、正しい読み方は京都の公家文化に由来する「よいみや」ですが、大阪では京都文化に対抗してか、他の祭りでも「よみや」と呼ぶのが一般的だそうです。口語表現の名残で、言葉自体には特に変わった意味はないとか。
逆に、なぜ本祭である「本宮」の前夜を宵宮と呼ぶのか、なるほドリ君は知っていますか?
Q 宵っていうのは夕方のことでしょ? 前夜祭という意味かなあ。
A 残念、外れです。現代の時間は夜の午前0時から一日が始まりますが、日本古来の文化では、一日は日没から始まります。夕べ、宵、夜中、暁、朝(あした)の順です。つまり宵宮は丸1日をかけて催す本宮の開幕ということです。祭礼に詳しい黒田一充・関西大学教授(民俗学)によると、「えべっさん」として有名な西宮神社のように、宵宮は神社にこもって神が降りてくるのをじっと待つ祭りも多いようです。
ちなみに毎年7月23日夕に開かれている天神祭の前夜祭は、現代の時間感覚では本祭の「前々夜祭」にも感じますが、夕方から一日が始まると考えると前夜祭に違いありませんね。
Q 一日が夕方から始まるなんて、夜の遊び人みたいだね。同じような言葉の違いで、本宮にある時代行列「陸渡御(りくとぎょ)」を「おかとぎょ」と呼ぶ人もいるよね。これも昔はそうだったのかな?
A いえ、こちらは昔から「りくとぎょ」が正解です。高島氏によると、陸渡御は船渡御と区別するためにつけられた名前で、「おかとぎょ」と呼ばれたことは歴史上で一度もないそうです。<回答・稲生陽(社会部)>
==============
あなたの質問をお寄せください。
〒530−8251(住所不要)毎日新聞社会部「質問なるほドリ」係(o.shakaibu@mainichi.co.jp)
-
歴史的地下水復活へ 大阪天満宮境内で掘削開始
2011年8月2日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110802/20110802032.html
かつて多くの酒蔵が並び、くみ上げた地下水を使って盛んに酒造りが行われていた大阪・天満地区。そんな「天満の地下水」を地域の活性化につなげようと、天神橋筋商店連合会(土居年樹会長)と関西大が大阪天満宮(大阪市北区)境内で地下水を掘削することになった。1日、掘削用の設備が設置され、大阪天満宮の神職によるおはらいが行われた。
文化・文政期の天満地区には135の酒造家があったとされる。酒造業は同地区の特色でもあり、かつては酒樽(さかだる)を作っていた職人の町を示す「樽屋町」の町名もあった。
天神橋筋商店街内に地域研究と社会連携のハブ拠点を設けていた関西大の研究プロジェクト「社会的信頼システム創生センター」の与謝野有紀センター長と土居会長が、酒蔵が立ち並んだ当時の天満について語り合う中、「天満の地下水」を地域の活性化につなげられないかと模索。大阪天満宮の寺井種伯宮司の協力を得て、境内で掘削することになった。
大阪天満宮でも以前は井戸水を利用しており、岸本政夫禰宜(ねぎ)は「井戸水は年間を通して温度の変化が少なく、夏は冷たく冬は温かい」と当時を振り返る。今後、かつて境内にあった井戸に近い場所を50メートルほど掘削し、水質調査などを行う予定だ。
与謝野センター長は「“水都・大阪”は川だけでなく、地下水も豊か。そうした歴史をつなぎ、今回の地下水を中心に人がつながるきっかけになれば」とし、「地域の力を借りていずれは地下水を使ったお酒ができれば」と期待を込める。
土居会長は「街の活性化につながるよう、活用法について関西大、大阪天満宮と研究を重ねていきたい」と話している。
-
大阪ええトコ再発見
生國魂神社の「大阪薪能」
2011年7月31日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/eetoko/110731/20110731024.html
幽玄の世界にうっとり
「いくたまさん」の愛称で親しまれ、上方落語など上方芸能発祥の地とされる生國魂神社で行われる荘厳な夏の夕べを彩る恒例行事。それが「大阪薪能」だ。
もともと「大坂」では、豊臣秀吉が大坂城を築城する以前から、石山本願寺を中心として能が盛んだった。1546(天文15)年、同神社の遷宮に際し、町衆が能を奉納したという故事にならって1957(昭和32)年、「大阪薪能」が始まった。
能楽協会大阪支部、大阪薪能委員会が同神社の協力を得て主催している。野外能では奈良県の興福寺で行われる「薪御能」に次ぐ歴史を持つとされている。
今年は8月11、12日に開催。初日には、2006年の第50回を記念して滋賀県立大学の脇田※子名誉教授が作詩し、新たに製作した「生國魂(いくたま)」を上演する。若狭の歌人が和歌の故郷の難波の大社、生國魂神社に参詣して菅笠(すげがさ)を売る女性に八十島祭の由来を聞き、通夜をする神前に巫女(みこ)連が現れ、八十島祭を執り行うという物語。かがり火が演出する幽玄の世界で繰り広げられる独特の能楽が、訪れた観客を魅了する。
※晴の「月」の部分が「円」
【メモ】入場料は当日券3500円、前売り券3000円、学生券2500円。問い合わせは生國魂神社、電話06(6771)0002。
-
大阪食文化の原点 船場料理の12ヶ月
http://www.kuidaore-osaka.com/jp/starting_point/senba/8_2.html
井戸替−7月7日(8月7日)
旧暦7月7日の七夕さんは、また井戸替(いどがえ)の日でもありました。七夕さんは、今では、年に一度、天の川の両岸にある牽牛星と織女星が相会するといったロマンチックなお話が主流を占めていますが、もともとは、夏の暑い時期にはや る疫病から身を守るため、穢(けが)れを白い紙でつくった人形(ひとがた)に託し、川へ流す穢れ祓いの行事でした。旧暦の7月7日といえば、今の8月の中旬以降にあたります。幼稚園では、現行暦7月7日に七夕祭りをしていますので、梅雨が明けておらず、たいてい雨降りか、曇りで天の川はほとんど見ることができません。井戸替が7月7日の七夕さんの日に行われたということは、やはり井戸替も、疫病退散を願う穢れ祓いの行事であったことを示しています。
船場安土町の水落家の「行事帳」(文政6年:1823年)を見てみましょう。
-
>>373
「七 月
七日 井戸がへbr /> 備献 御燈明、御酒、洗米
折敷ニ さば壱さし、なすび弐、から瓜弐、苧壱わ 〆
朝ハ 常の通り
昼 そふめん百五拾把 但シ朝之内ニゆて置べし 湯之ひや之□ すべし
かいもの からし、ゆ
御酒肴 壱鉢ハ さバを□ たで
壱鉢 瓜ニ而もなすひニ而もにしめニする
あしらい 肴見斗 但し干ものニ而もむしり置候
〆 別段御客者なし、井戸替ニ参る手傳弐三人」
井戸替のときは、さばを供え、食べるようです。さば壱さしとあるところから、塩さば(刺さば)です。塩さば二尾を刺し連ねて一刺しといいます。から瓜(唐瓜)は、キュウリあるいは、マクワウリの別称です。苧は、苧麻(からむし)で、苧麻の繊維でできた紐の束を供えています。お清め、お祓いの意味をもっています。井戸替のお昼の食事はそうめんです。
明治に太陽暦が採用されて以来、7月7日を一ヶ月遅らせて、船場 では、8月7日ごろに井戸替をする商家が多かったようです。水落家でも、専門の井戸替職人さんやら、出入りの手伝い(てったい)さんがたくさん来て、にぎやかな行事だったようです。井戸の水をかい出し、底から石を運びあげて、きれいに洗います。そのとき、一年間に井戸の中へ落としたいろいろな物がでてくる のも面白いことでした。
-
>>373、>>374
聖霊祭(精霊会)−7月13日〜16日(8月13日〜16日)
お盆の行事は、各お家の宗旨によって変わってきます。門徒さん(浄土真宗・真宗)は、お盆にご先祖さんをお迎えして?ということはされません。浄土宗とか、真言宗などの宗派は、お盆の行事がたいへんです。
水落家の宗旨は真言宗、旦那寺はミナミの三津寺(真言宗御室派準別格本山 中央区心斎橋筋二丁目)です。同家の「行事帳」、七月聖霊祭の項には、次のように記載されています。
「 佛 様 備 も の
十三日 昼 御迎イ申入 おはぎ、したしもの
夕飯 黒大豆入茶かゆ、但し茶にばなニ而黒豆ヲいりて入ル
香物 ならつけ うり、なすひ
十四日 朝 汁 なすび 平 あらめ、油上ケ めし
昼 汁 かもうり 平 なんきん 飯
西瓜を上る事も有之、格別高値成としハ不及
夕方 御飯 にしめ こんにゃく、かんひやふ、なすび
夜 こしあん、すすりだんこ、あづき壱升
〆
十五日 朝飯 汁 まびきな 膾 白うり、油あげ、しそふ
平 いんけん豆、なすび、油上ケ
昼 (ゆ からし)そうめん八十
七ッ前 送りだんこ
御立御膳 飯 汁 すいき 平 (のつべい)いも、牛坊、油上ケ
右之通先祖ヨリ備来候得とも、到来もの其外、佛之好物之品抔有合し候へば、備へる
かよし、水御茶ハ度々仕替、献してよし
送り火 十五日暮前
十六日 朝 汁 見はからい 飯 平 (うすくす)なすび
昼 汁 飯 焼物 作りさバ、たで
一、十三日ヨリ燈籠八月三日まて燈し可申候、但し門口桃灯も同し事、
ろうそくハ無用、かんてらニ而燈スべし」
-
>>373、>>374、>>375
水落静さんに、昭和初期の水落家の聖霊祭についてお聞きしました。「8月の13日朝から、主人が三津寺の千日前墓所まで、尊聖(そんじょ、ご先祖)さんをお迎えに行き、安土町の家までお連れします。入口でおがらをたき、主人の母がろうそくとりんを持って出迎え、りんを鳴らしながら家の仏壇へご案内します。 早速、お昼に、家でつくったおはぎ(こしあん・きなこ)をお供えします。仏さんのお膳は、春慶塗りのお膳を13、お供えしました。晩は、黒豆入り茶粥と香 のもの(奈良漬の瓜、浅漬のおなす)。14日の朝は、お味噌のおつい(おなす)とおなま。昼は、お煮し(かんぴょう、おなす、こんにゃく)。おやつは西 瓜。晩は、昔はすすりだんごだけやったと聞いていますが、分家からおすもじ(おすし)が届きます。このとき、かいわれ菜の塩漬をいただいたと思います。す すりだんごは、白玉だんごが入ったおしるこ(こしあん)です。15日の朝は、冬瓜のおつい、おなま、めえ(あらめ、あるいはひじきと揚げさんの煮いたん)。昼は冷やそうめん。おやつは、送りだんごにきな粉をつけて食べます。送りだんごは、餅屋さんが、大きなやわらかいだんごを届けてくれますので、それ を小さくちぎって、まるい平べったい形にして、きな粉ににまぶして、お供えしました。晩はずいきのおつい、のっぺい汁(ごんぼ、しいたけ、こいも、揚げさ ん)。15日の晩は、おついばっかりで、おなかがだぼだぼになりました。15日の晩早めにお供えして、上台所の入口のところで送り火をたいて、尊聖さんを お送りします。そのあと、お供え物は、下げて、大きな蓮の葉に包んで、東横堀川の本町橋の上から船へすーと落としました。お供えしたお茶湯やお水は、しか える度にバケツへ取っておき、15日の晩に「無縁さん、無縁さん」といいながら、門口へ撒きました。16日は精進あげで、お魚をいただきました。」
これでみると、戦前の水落家では、江戸時代とほとんど変わりなく、お盆の行事をしておられたことがよくわかります。
-
神輿渡御祭:堺の「お旅所」まで練り歩き−−住吉大社 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110803ddlk27040342000c.html
住吉大社(大阪市住吉区)の神輿渡御(みこしとぎょ)祭が1日あった。若者らがみこしをかつぎ、約6キロ離れた堺市の「お旅所」まで練り歩いた。
住吉大社の夏祭りを締めくくる伝統行事で、約900人が参加。みこしの行列は約800メートルにもなった。大和川でみこしを受け渡す「神輿受渡式」では、担ぎ手らが「べーら、べーら」と大きなかけ声を上げながら川の中を練り歩き、堺市側の担ぎ手にみこしを引き継いだ。担ぎ手がみこしを高く掲げると、河川敷に詰めかけた人たちから拍手が起こった。
行列には先月24日に57年ぶりに復活した堺市の伝統行事「鯨まつり」で奉納された、全長12メートルの鯨の山車(だし)も参加した。【内田幸一】
-
大阪発 羅針盤
地域の取り組みや課題、人々の動きや思いを通して大阪の明日、日本の未来を展望します。
大阪城天守閣復興80周年
2011年8月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/compass2011/110801/20110801033.html
「プリトヨ」続く魅力発信を ヒットの陰に大阪の人間力
大阪を舞台にした映画「プリンセストヨトミ」は興行収入が15億円を突破し、「ヒット」作品になった。スクリーンを通して衆目を集めた大阪城の天守閣は折しも11月7日に復興80周年を迎える。これを機に観光の名所だけなく、娯楽芸能の世界でも「絵」になる白亜の城を多角的にとらえ、「プリンセス…」に続く二の矢、三の矢の話題に思いを致し、大阪の魅力を発信する策を考えたい。
■独特な視点を
5月28日公開した「プリンセス…」の第1週は「パイレーツ・オブ・カリビアン」に次ぐ興行成績を記録するスタートダッシュとなり、7月25日現在の興行収入は15億8400万円、観客動員数は127万3千人を数えた。プロデューサーの土屋健氏によると、「15億円を超え、素晴らしいヒットと映画業界は思っている」そうだ。では、ヒットした要因は何か。
1615年の大坂夏の陣で自害した豊臣秀頼の息子、国松は処刑され、豊臣家の血筋は途絶えたという通説に反し、国松は生き延びてその末裔(まつえい)を守るため、大坂の人たちは「大阪国」を発足した−。物語の設定は「太閤びいき」の大阪の土地柄を印象付け、大阪国の国民が立ち上がるシーンを作品の見せ場にしたように思う。
その製作の意図が映画パンフレットのインタビュー欄に載っている。
原作者の万城目学氏「ずっと住んでいる大阪で、大好きな大阪城に大阪の人の気質や人情を絡めてヘンなエンタテイメントを作った」
監督の鈴木雅之氏「彼らがあることに関してだけは団結する“人間力”を持っているということを浮かび上がらせたかった」
虚構の世界とはいえ、大阪の人が脈々と受け継ぐアイデンティティーの強さを描いた視点が「ヒット」につながったすれば、その大阪を象徴する大阪城の捉え方によっては話題になりはしないか。
大阪城が立つこの地の歴史を独特な視点で捉えた最近の見解として、関西大教授の藪田貫氏が昨年10月に書き下ろした「武士の町大坂」は特筆に値する。その書き出しはこうだ。
江戸時代の大坂といえば、「町人の都」「天下の台所」と相場が決まっている…しかし時は「武士の世」、大坂にも武士がいたことは間違いなく、なによりもいまも聳(そび)える大阪城が、武士の存在を物語る。
現在では印象の薄い大坂武士に光を当てた本書は、通説に満足しない層の関心を集め、固定化された大阪のイメージに一石を投じた。斬新な論を展開した著者のよりどころになったのが、いまも聳える「大阪城」だった。
-
>>378
■「お城ブーム」
1931年11月7日完成した現在の天守閣は、3代目に当たる。太閤秀吉が創建した初代は夏の陣で焼失し、徳川幕府が再建した2代目は1665年の落雷によって焼失した。戦火、災害に消えた歴史を踏まえた3代目は当時としては最新の鉄骨鉄筋コンクリート造りによって完成し、その財源は大阪の象徴を求めた市民の浄財だった。
復興30年史に興味深い記述がある。
1958、59年の両年にかけて全国各地で合計七つの天守閣が再建されたほか、静岡県・熱海には忽然(こつぜん)と熱海城なるものまで出現するありさまで、世はまさに「昭和築城時代」といわれるほどに「お城ブーム」は極点に達した。その端緒が大阪城だった、と30年史は伝えている。
復興80周年の節目に大阪城天守閣の管理運営関係者は、復興当時を振り返る特別展を計画している。せっかくの機会だけに、全国発信する未来志向の取り組みを望みたい。それだけの素地が、市民の力によって復興した日本で最も親しまれる城の「大阪城」にはある。
「大河」へ署名活動
幸村の入城400周年で長野の有志
大坂夏の陣で徳川軍と戦った豊臣軍の武将、真田幸村の大阪城入城400周年に当たる2014年に向け、幸村ゆかりの長野県上田市の有志が、NHK大河ドラマの放映を目指して署名集めを展開。7月22日来阪した阿部守一知事や母袋創一市長が、橋下徹知事に協力を呼び掛けた。
大阪城天守閣復興80周年の今年ヒットした映画「プリンセストヨトミ」の盛り上がりを、大阪城入城400周年に合わせたドラマ化につなげる。そんな機運の醸成を大阪に期待する母袋市長は手始めに、橋下知事に署名簿へのサインを求めた。
「真田幸村は大阪でも人気。実現すれば長野と大阪のつながりができる」と橋下知事は応じたが、機運の醸成はいかに。
5月17日時点の署名数合計50万178人のうち東京は3万516人、大阪は1万9193人と2大都市圏の間に開きがあり、母袋市長は「大阪を中心に最後の追い込みをしようと思っている」と話している。
真田幸村は信濃上田城主の昌幸の子で、地元の有志は2009年11月に署名活動を開始。真田家の旗印「六文銭」にちなんで66万6666人の署名集めを目標にしている。
-
子規「の・ボール」熱闘交流
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110803-OYT8T00077.htm
夏の甲子園(第93回全国高校野球選手権大会)が開幕する6日、大会発祥の地の豊中市で、俳人・正岡子規が故郷の松山に伝えた明治時代の野球を再現した「の・ボール野球」の交流試合が行われる。両市がチームを結成し、当時のルールで初めて対戦。豊中市は「試合をきっかけに、野球に縁の深い市同士の交流を深められれば」と期待する。2日は、松山市から豊中市役所に届いたレトロなユニホームに市職員らが袖を通し、着心地を確かめた。(渡辺彩香)
豊中市は、1915年に同大会の前身にあたる第1回全国中等学校大会が開かれた「高校野球発祥の地」。あまりの人気で観客を収容しきれず、第3回からは兵庫県西宮市に会場を移し、甲子園球場では第10回から行われるようになった。球場のあった豊中グラウンド(豊中市玉井町)は大正末期に取り壊され、住宅地に。現在は、外壁の赤れんがが一部、残っている。
一方の松山市では、子規が、東京大学予備門時代に熱中したベースボールを1889年(明治22年)頃、故郷の松山中学の生徒らに教えた。子規は野球を題材に短歌や俳句も多く作り、2002年、野球殿堂入り。同市はこれを機に、子規の雅号「野球(のぼーる)」にちなんで明治の野球を「の・ボール野球」と命名し、当時の史料を参考にユニホームや用具、ルールを再現、継承に取り組んでいる。
交流試合は、豊中市の市制75周年記念事業の一つで、同市側が松山市に呼びかけて実現。ユニホームや用具一式は同市から借りる。両市の選抜メンバーが出場し、豊中市が「紅」、松山市が「白」と胸に刻んだユニホームを着用。スパイクの代わりに足袋を履くほか、審判は羽織はかま姿で登場する。
また、子規が楽しんだ当時のルールを採用。投手は下から押し出すように投げ、打者は投げてほしいストライクゾーンを打席ごとに審判に申告。飛球はワンバウンドキャッチもアウトで、フォアボールは五球。審判はホームベースを挟んで打者と向き合う位置に立つ。
豊中ローズ球場(豊中市曽根南町)で6日午後5時半から開会式。山口最丈・松山市副市長が投手、浅利敬一郎・豊中市長が打者を務める始球式の後、プレーボール。
(2011年8月3日 読売新聞)
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/218 日本橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110804ddlk27070485000c.html
◆大阪市中央区
◇道頓堀近く宿屋ずらり 明治まで商店、民家なく
道頓堀川を西へ歩く。次第に川沿いがにぎやかになっていく。幹線道路の堺筋に架かるのが日本橋だ。このすぐ西が道頓堀の繁華街。お江戸は「にほんばし」、大阪は「にっぽんばし」。大阪案内人の西俣稔さんが「名前のいわれは不明なんです」という。国の名前を付けてるのに……。
江戸幕府が直接管理した12の公儀橋の一つ。和歌山へと続く紀州街道にあたり、橋のたもとには京都や金比羅参りの船着き場があって、水陸の交通の要衝だった。また、南詰めには幕府のお触れを張り出す高札場もあって、罪人がさらし者にされた。
長町と呼ばれた橋筋は、はたごが軒を連ねる旅館街だった。大坂一の繁華街、道頓堀に近く、大坂への観光客は日本橋に宿泊した。明治時代まで、ほかの商店や民家はほとんどなく、1898(明治31)年刊の「大阪繁昌(はんじょう)誌」には43軒の宿屋の名が記されている。今はホテルはホテルでも、周辺にはラブホテルが目に付く。
そんな宿屋街のお噺(はなし)が「宿屋仇(がたき)」だ。一軒の宿屋に「静かな部屋に泊めてくれ」とお侍がやって来る。どうした拍子か、その隣に伊勢参り帰りの若い衆3人連れを入れたのが騒動の始まり。今の草食系男子ならいざ知らず、若いもん3人で泊まって静かにしてるはずがない。芸者をあげてのドンチャン騒ぎに、お侍が怒らんわけがない。
仕方なく、3人は布団に潜り込むが、相撲の話に熱が入りすぎ、ドッタンバッタンと相撲を取り始める。侍が怒る。今度は力が入らん話をと、色ごとの話を始めるが、またまた騒ぎ出して−−。
日本橋は1877(明治10)年に鉄橋になり、1912(同45)年に堺筋が拡幅された時、架け替わった。今の橋は1969年、地下鉄堺筋線の建設で架け替えられた。しかし、川沿いの遊歩道から見上げると、橋の下部は安っぽい緑色に塗られていて、興趣のないことったら、この上ない。橋の上にはいつも、道頓堀の観光客を降ろした観光バスが止まってるし。駐車場の整備をさっさとやるべし。
日本橋の北側に見上げんばかりの石碑が建っていて、ハトの羽休め場になっている。「安井道頓 安井道卜(どうぼく)紀功碑」と刻まれている。1914(大正3)年、道頓堀川を開削したとされる2人に従五位が追贈されたのを記念して、川沿いの町々がお金を出して建立した。
道頓は親類らと相談して川の開削を始めたが、大坂の陣で豊臣方について戦死。従弟(いとこ)の道卜らが遺志を継いで完成させた。南堀川といったが、大坂城主となった松平忠明が道頓の功をたたえて道頓堀川と名を変えさせた−−。
長らくこう信じられていたのだが、道頓は実は平野郷(大阪市平野区)の名家、成安家の出で成安道頓だったのだ。安井道卜の子孫が「道頓堀はうちのもの」と起こした裁判で明らかになった。だから、厳密にはこの碑は間違いということになるが、そう堅いことを言ってたのでは世の中、回らない。
道卜は大坂三郷の南組の惣年寄(そうどしより)を務めた。惣年寄とは町政をつかさどるトップで、町人の一番えらいさんだ。周辺の町の開発に尽力したと伝わるから、安井家が道頓堀の功労者であることは間違いないようだ。【松井宏員】
-
>>380
子規「の・ボール」のびのびプレー
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110807-OYT8T00022.htm
夏の全国高校野球大会が開幕した6日、大会発祥の地・豊中市で、俳人・正岡子規が明治時代、故郷・松山市に伝えた「の・ボール野球」の試合が当時のルールで行われた。
子規の雅号「野球(のぼーる)」から命名した「の・ボール野球」の普及を図る松山市に、豊中市が市制施行75周年を記念し、対戦を申し入れた。市民から選抜された両チームの選手は足袋を履き、審判も羽織はかまと当時の姿を再現。打者がストライクゾーンを指定してから打つなどのルールで対戦し、松山市が3対0で勝利した。
試合に参加した松山市の新開国広さん(67)は「発祥の地のグラウンドで戦うことができて光栄。お互い野球熱の高い地域なので盛り上がり、楽しかった」と満足げ。ヒットで一矢を報いた豊中市の奈須正典さん(55)は「甲子園のような迫力はないけど、牧歌的な楽しさがあった。野球を好んだ子規の気持ちが分かるような気がした」と話していた。
(2011年8月7日 読売新聞)
-
歴女の次は…“考古学キッズ”講義ツアー人気 古市古墳群
2011.8.8 14:19
世界遺産登録を目指す古市古墳群(大阪府羽曳野市)で、観光ガイドを行っているボランティアグループが、小学生ら子供向けのガイドを夏休み限定で行っている。年配層に考古学ファンが多いなか“考古学キッズ”を育てて、次世代に歴史遺産を受け継ごうという試みだ。「歴女」など、近年の歴史ブームを子供にも広げたいと願っている。
子供向けガイドを企画したのは、羽曳野市の細見克さん(70)が代表を務めるボランティアグループ「フィールドミュージアムトーク史遊会」。古市古墳群は都市化された地域にあることから、関心を高めることで古墳を開発の波から守ろうと活動している。
子供の場合、知識の詰め込みではなく、実際に古墳をめぐってもらい、歴史を体感してもらうのが一番と、時間に余裕がある夏休み限定にしたという。
毎週、火曜日と木曜日に行われている“講義”は子供たちに盛況といい、応神天皇陵前では、市内の小学校に通う子供たちが「古墳はなんでこんなに大きいの」などと質問をぶつけるシーンも。細見さんは「身近にある歴史遺産の面白さを、分かりやすい言葉で伝えたい」と話している。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110808/osk11080818130005-n1.htm
-
なにわ人物伝 −光彩を放つ−
中馬 庚
2011年8月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110806/20110806031.html
野球発展に尽力した教育者 子規より明確に訳語
三善 貞司
中馬庚はベースボールを「野球」と訳し、真の野球道の発展に尽力した教育者で、しかも墓が大阪府豊中市に現存する。城井睦夫氏の『中馬庚伝』は、その生涯を知る最高の書物で、氏の庚に対する敬愛の念と資料収集の情熱があふれており、脱帽のほかはない。以下同書を典拠にして大要を紹介したい。
庚は明治3(1870)年鹿児島県西千石町の漢学者今藤悔堂(かいどう)の次男に生まれた。この年は庚午(かのえうま)だったので庚四郎(こうしろう)と名付けられる。四つのとき中馬源太夫の養子になり、明治21年上京、第一高等中学校(後の一高)に入学した。同校では英人教師ストレンジが「ベースボール会」を立ち上げ、生徒の鍛錬に当たっており、庚は「赤組は正岡常規(つねのり)(俳人子規)と岩岡保作(九州帝大教授)が、交互にピッチャー、キャッチャーを務めた」(『一高野球部史』)と書いており、自身は内野手、なかなかの強打者であった。
昭和9(1934)年河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)は、「ベースボールを野球と書いた嚆矢(こうし)は子規だ。本名の升(のぼる)をもじって野ボールにしたのである」(『子規を語る』)と書いている。しかし子規は文章の場合弄(ろう)球とか投球と記し、野球の文字は用いていない。大谷藤次郎に宛てた手紙の末尾に「野球(ノボル)拝」とふざけた程度だ。
子規の本名は常規だが、自作の墓碑銘に、「又(また)ノ名ハ処之助(ところのすけ)、又ノ名ハ升(のぼる) 又ノ名ハ子規 又ノ名ハ獺祭書屋(だつさいしょおく)主人 又ノ名ハ竹ノ里人」と記し、野球(のぼる)はない。
明治27年一高卒業時に庚は同部史に「速(すみや)かに我(わが)部の名定めずんば 底球部等の奇語慣例化せむ。議決を得ずと雖(いえど)も余は野球とせば、大いに適すべし」と、明確に主張している。東京帝国大学史学科に進学した彼は、同30年日本初の野球文献といわれる『野球』を刊行、詳しく捕球や投球術を記し、魔球(ドロップとカーブのこと)の投げ方図まである。
卒業後は教職畑を歩いた。県立鹿児島一中をふりだしに、同第二中学教頭、県立新潟中学教頭等を歴任。また日露戦争期には歩兵中尉として広島の大本営に勤務、明治天皇の御前講演にも選ばれ、「終生の栄誉なり」と感激する。
性格は豪放磊落(らいらく)、正義感の強い型破りの熱血教師で、転勤も多いがその理由の大半はこの気質により、数々のエピソードを残している。友情も人に倍して厚く、大正元年に一高時代の親友で秋田県知事秦豊助に頼まれ、遠く離れた県立大館中学校長に就任するが、「俺は九州男児だ。口も悪いが手も早い。けんかならいつでも買ってやる」とあいさつし、生徒たちの度肝を抜いたそうだ。
同3年豊助は徳島県知事に転勤、問題のあった県立脇町中学校の再建を懇望する。庚は快諾し校長に着任、英語が達者なくせに修身と漢文を担当した。同校の卒業文集に校長の思い出が綴(つづ)られているが、いずれも痛快無比、「風貌魁偉(かいい)、知識該博(がいはく)、率先実行」と誰もが口にする。
同5年暴力行為で退学になった他校の生徒Hを、面白い男だと職員会議の反対を押し切って受け入れ、野球部に入部させる。だがHを嫌う生徒グループがいたずらして用具を隠したのを怒り、Hは彼らと乱闘騒ぎを起こし数人にけがを負わせる。被害者の親たちは県を通じHの処罰を要求したが庚は拒み、いきなり辞表を出し誰の仲裁も聞かなかった。
同7年大阪に移り浪速銀行に入社、同14年退社して麻田村(大阪府豊中市刀根山)に隠棲(いんせい)。好きな釣りを楽しみ、ひっそりと晴耕雨読の毎日を重ねた。昭和7年3月没。享年61。墓は円満寺(同市刀根山5丁目)にある。
先記した『中馬庚伝』に、「庚の野球殿堂入り(昭和45)に奔走したのは、脇町中学の教え子幸田昌三氏」と記されている。(地域史研究者)
-
戦争の悲惨さ ここにも 「戦時中の動物園展」始まる
2011年8月10日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110810/20110810019.html
戦争の犠牲になった動物を悼む「戦時中の動物園展」が9日、大阪市天王寺区の天王寺動物園レクチャールームで始まった。第2次世界大戦中に安楽死させられた飼育動物の剥製などが展示され、戦争の悲惨さを今に伝えている。15日まで。
戦争中は、空襲でおりが壊れると、動物が逃げ出す恐れがあるため、各地の動物園で猛獣が安楽死させられた。
天王寺動物園では、1943年8月から44年3月にかけて、ライオンやヒョウ、トラなど猛獣10種26頭が安楽死させられたほか、45年3月の空襲で園内に2千発の焼夷(しょうい)弾が落下し、オオワシなど鳥類10種33羽が焼死した。
会場には、安楽死させられたアムールトラやヒョウ、ライオン、ピューマなど8体の剥製を展示。食料不足でゾウの餌が青草から栄養価の低いサツマイモのツルに変えられたことや、燃料不足で暖房が使えず、キリンなどの熱帯動物が寒さで死んだことなどが紹介されている。
親子同然の動物をやむなく安楽死させた当時の飼育員の心境もつづられていて、来場者は、戦争のむごたらしさを感じ取っていた。
-
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110810-OYT8T01214.htm
戦争に翻弄 私で最後に 中国残留42年 鶴見の女性
スパイ容疑拘束、偏見に苦しみ・・・ 「子供いたから生き抜けた」
終戦直前の1945年4月、一人の少女が養父母に連れられ旧満州(現中国東北部)に渡った。異境の地で待ち受けていたのは養父母との別れ、望まぬ結婚、偏見、スパイ容疑での拘束……。それでも耐えてこられたのは、生み育てた子供たちへの家族愛だった。「私のように戦争で翻弄された人生を、誰にも味わってほしくない」。66回目の終戦記念日(15日)を前に、女性が半生を振り返った。(鈴木隆弘)
中国残留邦人だった大阪市鶴見区の斎藤和子さん(81)。故郷の島根県を離れ、旧満州の開拓団に合流したのは14歳の時。既に日本の敗戦は濃厚となり、中国人からは「命を捨てに来たのか」と言われた。8月に入ると一緒に来ていた男たちが軍隊に召集されていった。
終戦前夜、「避難しろ」と言う大人たちに従い、暗闇の中を逃げた。盗賊に襲われ、友達と腕を組んで草むらに隠れた。銃声とともに友達は胸を血で染め息絶えた。逃げる途中で養父母も病死。現在の黒竜江省方正県にたどりつくと、多くの開拓団が集まり、日本人であふれていた。
「嫁に来てくれ」。間もなく、4人の中国人男性から言い寄られた。無理やり連れて行かれそうになり、柱に抱きついて抵抗したこともあったが、一緒に逃げてきた開拓団の年配の男性から、「いい人なら行ったほうがいい」と諭された。45年12月、身を守るために覚悟を決め、結婚した。まだ15歳だった。
2男3女の子宝に恵まれたが、一歩外に出ると「日本鬼子」とさげすまれる日々。長期間遠出をすれば公安局に呼び出されて事情を聞かれた。「スパイの子」とからかわれた長女は学校に行かなくなった。66年に文化大革命が始まると、11か月間もスパイ容疑で拘束された。問い詰められても、「子供に害が及びませんように」と念じ、耐えた。
何度か帰国許可を求める書類をもらったが、認められるのは本人だけ。同じ境遇の母親の中には、泣き叫ぶ子供を振り切り、帰国した人もいた。「私は子供を残して帰れない」。望郷の思いを断ち切るように、書類を家族の前で破り捨てた。
その後、家族を連れての帰国が認められるようになり、80年代には多くの残留邦人が日本に戻った。「子供を連れて帰れば、今度は中国人だと言われつらい思いをする」。帰国しようとしない母親に、長男が「僕たちのことは心配しないで」と背中を押してくれた。
87年、56歳で永住帰国を果たした。相次いで来日した子供たちの仕事の都合で、島根から大阪市に移り住んだ。毎年、5月の誕生日には、子供からひ孫まで約30人が集まってくれる。
日本と中国の国籍が入り混じるが、一つの家族であることにかわりない。「中国での42年間、本当につらかったけど、子供がいたから生きてこられた。家族みんなで集まれる今が一番楽しいね」。斎藤さんは目を細めた。
(2011年8月11日 読売新聞)
-
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/11/20110811-056437.php
2011年8月11日
伝説もとに板絵4枚新調 紀貫之ゆかり 泉佐野の蟻通神社本殿
紀貫之ゆかりの大阪府泉佐野市長滝の蟻通(ありとおし)神社本殿の板絵4枚が新調された。唐招提寺(奈良市)の伝統行事「うちわまき」の絵を毎年手がける大阪芸術大(河南町)の非常勤講師で画家の中島裕司さん(58)が、神社に伝わる伝説をもとに描いた。
大阪芸大の中島さん描く
昔、孝行ものの中将が「老人は捨てよ」という定めを破って、老いた両親をかくまっていた。そのとき、唐が日本をわがものにしようと3つの難題を突きつけた。そのひとつが曲がりくねった小さな玉に糸を通すことだった。中将は両親の知恵でアリと蜜を使って玉の中の曲がった穴に見事糸を通した。帝は感心し、老人を捨てる法を改めたという。
両親は死後「蟻通明神」として祭られたが、あるとき紀貫之が馬に乗ったまま明神の前を通り過ぎようとしたのが無礼であると明神の怒りに触れて嵐になった。落馬した貫之は和歌を詠んで明神の怒りを鎮めた。
中島さんは幼稚園のころにこの伝説を紙芝居で見たことがあり、板絵制作の依頼を快諾した。
板絵は馬に乗る貫之や腰に糸をつけられたアリが蜜をたどって玉のなかの穴に糸を通す様子など、もともと描かれていた絵を踏襲して色鮮やかに描いた。
神社は昭和18年に現在の場所に移り、平成25年が遷座70年にあたる。神社は「新しい板絵とともに歴史を刻んできた神社を次世代に継承していきたい」と話している。
-
大阪天満宮で地下水試掘 飲用水質検査へ
2011年8月11日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110811/20110811017.html
大阪天満宮(大阪市北区)の境内で行われている地下水の試掘作業が10日までに、地下約50メートルに達した。地下水の試掘に携わる関西大「社会的信頼システム創生センター」や地元の天神橋筋商店連合会の関係者が現場を訪れ、地層や地下水の状態などを視察した。地下水の存在は確認されており今後、水質チェックのための採水が行われる。
大阪・天満地区にはかつて多くの酒蔵が立ち並び、くみ上げた地下水を使った酒造りが行われていた。歴史ある「天満の地下水」を地域の活性化につなげられないかと、大阪天満宮の協力を得て、同センターと天神橋筋商店連合会が1日から現地で試掘作業を進めていた。
9日夕、工学博士で地質学に詳しい関西大の楠見晴重学長ら関係者が現場を訪れ、地下の地層の状態などを商店街の関係者に説明。地下水は確認されていることから、11日にも飲用に適しているかなどを確認するための採水を行う。今月中にも水質検査の結果が出ることになっている。
楠見学長は地下水のについて「地域の活性化のインパクトになる。市民にとっては明るい話題」と話していた。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/219 相合橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110811ddlk27070459000c.html
◆大阪市中央区
◇なぜか縁切り橋と呼ばれ 悪名払しょく?橋上に広場
日本橋を西へ歩けば、道頓堀の繁華街だ。しかし、このかいわいも様変わりしたものだ。
私が学生時代は道頓堀にも、さらに西の日本橋かいわいにも何軒か古本屋があって、よくのぞいたものだが、とうになくなった。相合橋筋にも1軒あり、落語の書籍をなんべんか買った覚えがある。この古本屋はまだあって、先日のぞいたら、おばちゃんが店番していた。落語関係も相変わらず充実していて、よく残ったものだとうれしくなった。
相合橋は「あいおいばし」と呼ばれているが、字面通りなら「あいあいばし」。正しくは「あいあうばし」と読み、橋にもそう刻まれている。
大阪案内人の西俣稔さんの解説。「最初に架けられた時は、中橋という名前でした。道頓堀川の真ん中あたりだから。その後、長堀川の橋に、同じ中橋という名前を付けてしもたので、名前を変えたんです」
いわれにも諸説あり、「中橋と中橋が相対するから、とか、道頓堀の芝居町と、川を挟んで反対側には色町があって、男と女が会ってたから、とか」。なかなか色っぽいやないですか。
最初は江戸時代の1680年代に架けられたらしく、近松門左衛門の「心中重井筒」に「中橋」が出てくる。「八百八橋物語」(松村博著)によると、1703(元禄16)年の書物に「相合橋」の名が見える。ところが、出会いを連想させる名前なのに、なぜか縁切り橋と呼ばれて、婚礼の行列は絶対に渡らなかったという。
「心中重井筒」の筋自体が、お店(たな)の入り婿でありながら遊女と縁が切れず、女を刺し殺し、自分も井戸に落ちて死んでしまう−−という、救いようのない話だ。
戦災で焼け落ちたが、地元が寄付金を募って1950年に木橋として架けられた。いかに地元の愛着深い橋だったかがわかる。62年に鋼の橋に替わった。73年には橋の幅を広げ、縁切り橋の悪名を払しょくしようとしたわけではなかろうが、橋の上に憩いの広場ができた。
北詰めに石碑が一つ建っている。「盛り場を むかしに戻す はしひとつ」。大正から昭和初期にかけて活躍した文人、食満(けま)南北の句碑だ。1961(昭和36)年に建立された。建立発起人代表は、友人の日本画家、菅盾彦。ほかの発起人には松竹の白井信太郎、歌舞伎役者の片岡仁左衛門、中村雁治郎、文楽の竹本綱大夫、史家の牧村史陽ら、そうそうたる名前が並んでいる。
南北が詠んだ「はし」は、西隣の太左衛門橋のことだ。芝居好きの南北は、島之内の自宅から太左衛門橋を通って道頓堀の芝居小屋へ通い、ついに雁治郎の座付き作者となった。戦災で焼失した橋が戦後、復活したのを喜んで作った句だという。初めは太左衛門橋に建てられたが、こっちに移ったようだ。
相合橋の南詰めの、先の古本屋のある相合橋筋のかかりは更地になっている。映画館「道頓堀東映」の跡で、かつての道頓堀五座の朝日座がここにあった。西にビルを一つ挟んで、また更地。ここも道頓堀五座の角座の跡だ。
人通りは多いものの、はて、南北が句に託した願いは、かなっているのだろうか。【松井宏員】
-
菅笠の技術を次世代に 主婦らが保存会
2011年08月11日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001108110002
江戸時代、伊勢参りの人たちが使った菅笠(すげがさ)の一大生産地だった大阪市東成区深江地区で、主婦9人でつくる「深江菅細工保存会」が菅笠作りに励んでいる=写真。全国から菅笠の注文も入るようになり、同会は「今年保存会に若い人が2人も入ってくれた。技術を次の世代にしっかり引き継いでいきたい」と話している。
深江地区では20年に一度伊勢神宮である式年遷宮に菅笠を奉納している。1988年、その職人が同区深江南3丁目の幸田正子さん(73)だけになり、5年後に迫った菅笠奉納のため、幸田さんが地元の主婦に声をかけ、保存会を作った。メンバーは家事の傍ら技術を学び、奉納用の菅笠やコースターなどの菅細工を作ってきた。8年前からは途絶えていた菅笠の注文も入り始め、お遍路さんや海釣りのマニアらから年間20、30個の注文があるという。
同会は毎年、地元の小学生を対象にスゲの刈り取りや菅細工作りの体験教室も開いている。メンバーで幸田さんの長女島谷真由美さん(46)=東大阪市高井田元町2丁目=は「菅笠の技術を今も残せていることは深江の誇り。これからも続けたい」と話している。
-
米美術館所蔵の太刀など、仁徳陵出土に疑問符
読売新聞 8月13日(土)21時30分配信
米ボストン美術館が所蔵する、世界最大級の墳墓・大山古墳(仁徳天皇陵、5世紀中ごろ、堺市)の出土品と伝わる獣帯鏡(じゅうたいきょう)や
環頭大刀(かんとうたち)など5点の考古遺物が、6世紀第1四半期のものとみられることが、宮内庁書陵部の調査で分かった。
古墳の築造時期とずれがあり、大山古墳の出土品である可能性は低くなった。
調査成果は同庁の「書陵部紀要」に発表された。それによると、同庁研究官がボストン美術館の考古遺物を実見し、国内外の同類の遺物と比較して、
その実年代を検討した結果、同一古墳からの出土品であることを前提とすると、いずれも
「6世紀の第1四半期を中心とした時期であるとすることが最も妥当」と判断した。
またこれらの遺物は、同美術館に勤務していた美術家・岡倉天心が1906年6月に、京都で購入した可能性が高いことも分かった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110813-00000656-yom-soci
-
先祖を思い祈り 四天王寺で万灯供養法要
2011年8月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110812/20110812021.html
大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で、盆行事の「盂蘭盆会(うらぼんえ)万灯供養法要」が行われている。境内・中心伽藍(がらん)に並ぶ約1万本のろうそくのともしびに参詣者らが先祖を思い、手を合わせている。16日まで。
ろうそくの明かりは迷いの闇を晴らす「智恵」の光の象徴とされ、まとまって大きな感謝や祈りの火を上げる行事として、平安時代から行っている。
戒名や先祖の霊名を記した特製の万灯ろうそくが金堂と塔を囲うように置かれ、夕刻から徐々に点灯を開始。ろうそくが燃え尽きるまでそばにたたずむ人々の姿が見られる。
会期中は、同寺僧侶の列が般若心経を唱えながら伽藍内を練り歩く法要を厳かに執り行い、多くの参詣者らが後に続いて伽藍内を1周する。
今年は伽藍の出入り口に細かい霧をまくミスト機械を設置するなど、ろうそくの熱気に包まれる参詣者らに涼んでもらう工夫をしている。
-
救われた命、向き合う空襲 京橋駅空襲、あす慰霊祭
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK201108130091.html
終戦前日の8月14日、米軍の爆撃で多くの市民らが犠牲になった「京橋駅空襲」。今年も慰霊祭が14日午前11時、大阪市城東区のJR京橋駅前で開かれる。終戦から66年。命拾いした高原秀夫さん(78)は、ようやく昨年から出席できるようになった。
当時12歳。軍需工場に動員され、「東洋一」とうたわれた大阪砲兵工廠(こうしょう)に研修にきていた。
正午ごろ。食堂へ行こうと、路上を歩いていた。警戒警報から空襲警報。ウーウーとうなるサイレンの間隔がどんどん短くなる。そして、敵機来襲のサイレンが鳴った。
近くにいた将校のひとりが、「そこへ入れ」と防空壕(ごう)に逃げるよう指示。高原さんは壕へ飛び込んだ。
スーっと音がし、数秒後に着弾したのだろう。地響きと轟音(ごうおん)。地面が揺れた。
-
炎に浮かぶ幽玄世界 大阪薪能始まる
2011年8月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110812/20110812020.html
大阪の夏の恒例行事「大阪薪能(たきぎのう)」(大阪能楽協会大阪支部、大阪薪能委員会主催)が11日、大阪市天王寺区の生國魂神社(中山幸彦宮司)で始まり、来場者はかがり火が照らす能舞台の幽玄世界に浸った。
1546(天文15)年に同神社の神前で能が演じられたという故事にちなんで1957年から毎年開催され、今年で55回目。この日は、半能「敦盛」や狂言「御冷し」が披露された後、火入れ式が行われた。
薪がパチパチと音を立て、幽玄世界を演出する中、第50回を記念して制作された能「生國魂」、続いて「紅葉狩」が上演され、来場者は炎に照らされた舞台に見入っていた。
12日も午後5時半から開催される。
-
なにわ人物伝 −光彩を放つ−
北畠 顕家(1)
2011年8月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110813/20110813027.html
弱冠20歳で花と散る 市民の思い、堂々たる墓碑
三善 貞司
北畠公園(大阪市阿倍野区王子町3丁目)にある北畠顕家の墓碑は広く知られる。「別当鎮守府将軍従二位権中納言兼右衛門督陸奥権守源朝臣顕家卿之墓」と刻まれた見事なもの。
ただし、もとは「大名塚」と呼ばれた阿倍野古墳群のひとつで、古松一株ある塚だったが、享保8(1723)年並河誠所(なみかわせいしょ)がこれを顕家墳墓だと断定し、建墓したのに因(よ)る。
井上正雄は名著『大阪府全志』で、次のように記している。
「(大名塚と称した墳を)『太平記』の記事に因(より)て、卿の墳墓となしたるなり。岡田溪志(おかだけいし)の『摂陽群談(せつようぐんだん)』に、所伝云(いう) 北畠中納言顕家卿ノ古墳也(なり)ト とあり。是時(このとき)伝説のみにて称呼せしかば、並河永(誠所)の摂津志に至り、直(ただ)ちに顕家卿墓と標(しる)し、在阿部野村云々(うんぬん)と註(ちゅう)したれば、かく認定せられし」
並河誠所は徳川中期の儒学者。伊藤仁斎の高弟。博学で知られ、経史・諸子百家(中国春秋戦国時代の思想家たち)から和歌・文武・兵法にまで通じたという。日本には地誌のないのを嘆き、享保年間(1716〜36)五畿内を歩いて史跡・口碑・伝承などを収集、『輿地(よち)通志』61巻にまとめて幕府に献上、世間を驚かせている。摂津志もそのひとつ、好奇心旺盛な学者だから、巷説(こうせつ)にとびついたのかもしれない。なお『摂陽群談』は元禄14(01)年の刊だから、溪志は30年ほど前に大名塚が顕家の墓というのは「伝云(伝承の話)」だと、明確に書いている。
その伝承を事実だと認定した根拠は、『太平記』(著者不詳)の次の部分だ。
「(天王寺で高師直(こうのもろなお)大軍と戦った顕家軍は)小勢なれば身命棄てて戦ふといへども、利無くして諸卒散々、顕家卿芳野へ参らむと志し、僅(わず)か二十余騎にて大敵の囲(かこみ)を出でむとせしも、戦功徒(いたず)らにして、五月二十二日、和泉の境安部野にて討死し給ひければ、相従ふ兵悉(ことごと)く腹切(きり)一人も不残失(う)せにけり」
この記述を全くの誤伝だと指摘したのは文学博士星野恒で、大正初年に「北畠顕家卿の戦没地と其(その)墓」と題した論文を発表する。彼は「深掘文書」「吉川・小早川文書」等の古文書と、『公卿補任』『元弘日記裏書』等数多くの文献を詳細に検討し、大要次のように述べている(口語に直す)。
(1)官軍(顕家軍)は延元3(1338)年3月16日、師直(足利尊氏(あしかがたかうじ)の家臣。合戦の名手高師直)兵と天王寺、及(およ)び安部野で戦い、官軍利を失って敗走。
(2)5月6日、官軍堺浦を攻撃。和泉の日根野道悟、足利勢に加担し防戦。
(3)5月8日、師直天王寺に陣す。
(4)5月9日、官軍熊取・佐野・長滝三城を攻めるも、道悟軍に敗北。
(5)5月16日、師直堺浦の官軍を猛攻。
(6)5月22日、顕家官軍諸兵を糾合(きゅうごう)し、堺浦師直兵を攻撃するも大敗。顕家石津で戦没。名和義高・南部師行・新田綿打等皆死す。
さらに恒は、顕家の戦死を喜んだ足利尊氏が、諸国の大名たちに告知した手紙を挙げ、そのなかに「五月二十二日辰刻(たつのこく)摂津国堺浦 顕家・綿打等凶徒数輩討(うち)取」「顕家等凶徒和泉石津 悉討取」などと記されていると明示し、「安部野は天王寺と接している。敗走した顕家軍が、師直の本陣に近い安部野で戦うわけがない。太平記の著者の杜撰(ずざん)なうろおぼえにすぎず、資料の価値もない」と断定している。
事実はそうであろうが、北畠公園は昭和3(1928)年「北畠顕家顕彰会」が募金活動を行い、墓域を拡張、民家や私有地を買収して史跡公園を造成、大阪市に寄贈したものだ。二重台石に伏亀を置き竿石(さおいし)を乗せた堂々たる墓碑で、弱冠20歳で花と散った若武者顕家を惜しむ市民の熱い思いがあふれている。
(地域史研究者)
-
澪標 ―みおつくし―
文学者を偲ぶ住まい 高橋 俊郎
オダサク倶楽部・図書館司書
2011年8月12日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/miotukusi/110812/20110812027.html
文学者のゆかりの地やその作品の舞台を歩き、空間を共有することが文学散歩の楽しみだが、街の匂いや音の風景、その住まいのたたずまいからは、作家の息遣いすら感じる時がある。ただ、その住まいが残されているものは少ない。
東京都新宿区に「林芙美子記念館」がある。『放浪記』を代表作とする林芙美子が、昭和16年に建てて夫や母と暮らし、第2次大戦の戦災からも免れ、大阪を舞台にした『めし』を新聞連載中の昭和26年に亡くなるまでを過ごした住居である。
茶の間や客間、書庫などが当時のまま残され、新宿区の文化財に指定されている。著名な建築家山口文象の設計で、純和風建築の中にもバウハウスの流れを引くモダンな感覚や、芙美子のこだわりが随所に感じられ、広い庭とともに落ち着いた豊かな空気が流れている。自らが調理したという台所の流し台の高さは、小柄な芙美子を想像させ、倒れて亡くなったという書斎では、背を丸めて一心不乱に執筆する姿を見たような気がした。
全国に文学者の記念館は様々(さまざま)あるが、自宅をそのまま記念館としたものは意外と少ない。時代の古い作家の場合はもとより、戦災で失われたものなど現在に残るものが少ない中で、老朽化や所有者の事情で失われてしまうものもあり、残念すぎる現実もある。
大阪ではこの1月に、東住吉区北田辺にあった開高健の育った家が解体された。神奈川県茅ケ崎市には、亡くなるまでの15年間を過ごした邸宅が「開高健記念館」として残されているから、大阪人としては寂しさが増すばかりである。
逆に、直木三十五は生まれ育った中央区谷町に、民間のからほり倶楽部を中心にして、6年前に「直木三十五記念館」が建てられた。この記念館の内装のモデルは、晩年に自ら設計した横浜市金沢区富岡東の邸宅だが、この邸宅が6月末に取り壊された。
関東大震災後に関西に移り住んだ谷崎潤一郎は転居をくり返したが、昭和3年に神戸市東灘区岡本に自ら設計して建てた「鎖瀾閣(さらんかく)」は阪神大震災で全壊して、再建はできなかった。他に住んだ家は『細雪』の舞台となった東灘区住吉東町の「倚松庵(いしょうあん)」や芦屋市宮川町の「打出の家」が残されていて、芦屋市には「谷崎潤一郎記念館」が建てられている。
住まいが残されていなくても、記念館や文学館によすがを残すと、地域の資源として生かされる。川端康成は北区天神橋に生まれ、東淀川区豊里を経て茨木市で育ったが、昭和60年に茨木市が「川端康成文学館」を建てた。茨木市には中央図書館に併設して「富士正晴記念館」もあり、その書斎も再現されている。
さて、紛れもなく大阪の作家である織田作之助は天王寺区生玉前町の長屋に生まれたが、もちろんその生家は残っていない。しかし、生涯にそこだけ「織田」の表札を出し、そこで『夫婦善哉(めおとぜんざい)』も執筆した新婚当時の長屋が堺市東区丈六に残っており、東京に出て亡くなる直前まで身を寄せた富田林市寿町の実姉宅に残された遺品が、近くの旧杉山家住宅に展示されている。生誕百年を2年後にひかえて、織田作之助という資源を大阪としてどう生かすのか、私たちの課題に他ならない。
(たかはし・としろう 大阪市西区)
-
2011年8月13日
境内に映えるサギソウ 坐摩神社
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/13/20110813-056521.php
大阪市中央区の坐摩(いかすり)神社で栽培されている「サギソウ」=写真=が見ごろを迎え、風に揺れる純白の花々が訪れた人たちを楽しませている。
サギソウは、日当たりの良い湿地などに自生するラン科の多年草。細長い茎の先に直径3センチほどの白い花を2〜3個ずつ付け、シラサギが翼を広げた姿によく似ている。
同神社の神紋「鷺丸」にちなみ、権禰宜(ごんねぎ)の北岡忠澄さん(36)が十数年前から育てており、境内には「青葉」「暁」など5種類のサギソウ約40鉢が並ぶ。順々に花を咲かせていくため、9月上旬まで楽しめるという。
北岡さんは「サギソウの白い花を見てひとときの涼を感じてもらえれば」と話している。問い合わせは同神社(電話06・6251・4792)。
-
終戦前日の空襲 犠牲者慰霊祭
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004769391.html
66年前のきょう、終戦の前日にアメリカ軍の空襲で大きな被害を受けた大阪・京橋で犠牲者を追悼する慰霊祭が行われました。
大阪・城東区の現在のJR京橋駅の付近は終戦前日の昭和20年8月14日にアメリカ軍の爆撃機による空襲を受け、住民や電車の乗客など500人を超える犠牲者が出たと言われています。
JR京橋駅ではこの悲惨な歴史を風化させまいと毎年、犠牲者の遺族や地元の人たちが慰霊祭を行っていてきょうはおよそ200人が参列しました。
慰霊祭では千羽鶴がささげられた慰霊碑の前で近くにある大阪市立聖賢小学校の児童が「学校で空襲や戦争を学びましたが、爆弾が落ちたとき、自分がそこにいたらと思うと恐くてたまりません。世界中から戦争がなくなる日が来ることを願い、わたしたちも二度と戦争を起こさないことを誓います」と平和への言葉を読み上げました。このあと法要が営まれ、参列した人たちは戦争で犠牲になった人たちに祈りをささげ手を合わせていました。
当時、現場にいたという81歳の男性は「爆弾が落ちた後、あちらこちらに手や足のちぎれた大勢の女の人が倒れていました。戦争は本当にいやだという思いで体が動く限りこれからも参列したいと思います」と話していました。
08月14日 12時18分
-
「今でも爆撃思い出す」 大阪・京橋駅空襲慰霊祭
2011.8.13 23:39
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110814/osk11081412270004-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110814/osk11081412270004-n2.htm
終戦前日の昭和20年8月14日、米軍の爆弾が現在のJR京橋駅(大阪市城東区)を直撃し、乗客ら数百人の命が奪われた京橋駅空襲。14日に66回目の慰霊の日を迎え、同駅近くで慰霊祭が営まれる。
「今でも高架下で電車が通り過ぎる轟音(ごうおん)を聞くと、爆撃を思い出す」と話すのは慰霊祭世話人会会長で元府議の京極俊明さん(80)=大阪市北区。
当時、旧制生野中学校(同市生野区)に通っていた京極さんは、空襲警報が鳴ったため、直ちに帰宅を命じられ、友人2人と城東線の寺田町駅から大阪駅行きに乗った。途中、「爆撃のたびに、電車が上下に揺れた。車内は大混乱だった」と振り返る。
電車が京橋駅に到着したのは午前11時過ぎ、片町線の連絡口へ走ると、40〜50歳ぐらいの男性から「ここはもういっぱいや」と突き飛ばされた。泣きじゃくりながら別の避難場所を探し、屋外の高架下に駆け込むと、そこでも軍刀を持った将校から別の場所へ行くように指示をされた。
結局、京極さんは近くの溝に隠れたが、まもなく、爆弾が駅を直撃し、将校らの姿は消えていた。
「もし、将校らが自分を迎え入れていたら、自分も死んでいたかもしれない」と京極さん。その後、一緒に下校した友人が亡くなっていたことも知った。
「駅で亡くなった人たちは避難のため家などに向かう人々が多かったはず。途中で命を落とし、家族に会えず、どれほど無念だったことか」
京極さんは、昭和30年から始まった慰霊祭への出席を30年以上、続けている。「今では地元でも、当時のことを知る人が少なく、慰霊碑にいたずらをする人さえいる。戦争の悲惨さを伝え続ける灯を守っていきたい」と話していた。
-
<削除>
-
四天王寺 戦没者の慰霊式
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004871731.html
きょうは、終戦の日です。
大阪・天王寺区の四天王寺では戦争で亡くなった人たちを悼む慰霊式が行われました。
この慰霊式は戦争で亡くなった人たちを悼み、平和な世界になるよう祈ろうと終戦の日にあわせ大阪の四天王寺が毎年行っているものです。
終戦から66年になるきょうは、戦争で亡くなった人の遺族などおよそ40人が参列し僧侶が追悼のお経を唱えた後、順番に焼香し、戦争の犠牲者を思いながら静かに手を合わせていました。
式が行われたお堂には、戦前、重さがおよそ160トンある当時、世界最大級の釣り鐘がありましたが戦争中に物資として供出され戦後は遺族の願いで戦没者をまつるお堂として改装されたということです。
参列した76歳の男性は「戦争が終わって66年が経っても私にはまだ時間が止まっているように感じられます。当時は小学生でしたが戦地に行く父親を見送った時の最後の姿がよみがえってきました」と話していました。
08月15日 16時05分
-
精霊流し オフィス街協力
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110816-OYT8T00026.htm
お盆の15日、大阪市内を流れる堂島川にかかる玉江橋南詰めで、先祖をしのぶ「精霊流し」があった。行事を担う中之島連合振興町会(同市北区)の高齢化が進み、今年から近くのオフィス街の会社員らがボランティアで参加。町会メンバーらは「伝統行事に新しい息吹を」と期待を寄せた。
精霊流しではかつて、川に供え物を流していたが、数十年前に川の汚染防止のために中止になり、今は供え物を市の清掃車が回収。同時に住民らが川岸に設置されたろうそく台に灯をともし、手を合わせている。
町会は、最年少役員でも60歳近くと高齢化が進行し、「このままでは担い手がいなくなる」と危機感を強め、注目したのが近くのオフィス街。7月、約700事業所に協力依頼の文書を投函(とうかん)すると、約30人がボランティアに名乗り出た。
この日、ボランティアはろうそく台の設置や、交通誘導に汗。中之島にある建設会社の社員五百井絢子さん(34)は、PR活動に役立てるために写真撮影を担当。「大勢の人が次々と来て、生活の一部になっている大切な行事だと感じた」と言う。町会の依田均会長(67)は「伝統を絶やせない。外からの目で課題を指摘してもらいながら、協力して残していきたい」と話した。
(2011年8月16日 読売新聞)
-
大阪空襲死没者追加銘板を除幕 名前確認 遺族安ど
2011年8月16日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110816/20110816024.html
大阪市中央区のピースおおさか(大阪国際平和センター)で14日、「大阪空襲死没者追加銘板」の除幕式が行われ、集まった遺族らが新たに記された空襲被災者の名前を確認し、冥福を祈った。
「大阪空襲死没者銘板」は、米軍による大阪空襲の死没者の氏名を登載した銅板。「大阪戦災障害者・遺族の会」が調査・作成した6千人分の名簿が1999年に同センターに寄託され、センターが引き継いで調査を実施し、9千人近くの名前が判明している。死没者を追悼し平和を祈念するため銅板に名を入れ、2005年につくった「刻(とき)の庭」に設置。設置以降に判明した死没者数は94人で、今回追加登載された。
「豊中市に住んでいて防空壕(ごう)に逃げ込んだ時、爆弾が落ちた。私も含め家族が生き埋めになり、兄が亡くなった」と話す上田文子さんは、戦後生まれの妹の南節子さんとともに、兄の名前を確認しホッとした様子だった。
「大阪戦災障害者・遺族の会」の伊賀孝子さんは「(遺族の気持ちとして)刻んだり、掘ったりするのは嫌だったので(銘板の名前は)打ち出してもらった。国籍も職業も問わないことに決めて行っている」と話していた。
-
終戦記念日、私は東京在住なので靖国にまいりますが、
大阪の皆様はどこか決まって英霊を追悼しに行かれる場所ありますか?
-
大阪税関:引き揚げ者の紙幣など虫干し−−1万点 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110817ddlk27040247000c.html
大阪税関(大阪市港区)は、終戦後に海外引き揚げ者から預かった紙幣や証券など約1万点の虫干しを公開した。
戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は経済の混乱を防ぐため、海外からの通貨や国債、株券などの持ち込みを制限。大阪税関では、京都・舞鶴港と和歌山・田辺港で約5万3000人から11万点以上を預かった。
約6割は持ち主や家族に返したが、返却数は年々減り、昨年は6点のみ。現在も4万5000点の引き取り手が現れていない。大阪税関は「貴重な品をできるだけ多くの方に返したい。気軽に連絡を」と話している。問い合わせは大阪税関(06・6576・3115)。【近藤希実】
-
つなぐ(上)児童書で大阪の模擬原爆描く
2011年08月17日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001108170004
本当(ほんとう)にあったことなのだ。それもすごく遠(とお)い、だれか知(し)らない人(ひと)どうしがやったことではなく、あたしの住(す)んでいるこの町(まち)の、いつもアイスを買(か)いに行(い)くコンビニの場所(ばしょ)にも、爆弾(ばくだん)が落(お)ちたのだ。
先月26日に出版された児童書「パンプキン! 模擬原爆(もぎげんばく)の夏」(講談社)の一場面。小学5年生のヒロカは、冷えたスイカを食べる気にもなれないくらいショックを受けた。夏休みのある日、大阪市東住吉区の自宅近くに昔、米軍が原爆投下の訓練のための爆弾「パンプキン」(模擬原爆)を落とした事実を知り、その理由を聞いたからだ。ヒロカの驚きは、本を書いた児童文学作家の令丈(れいじょう)ヒロ子さん(47)の体験でもある。
ヒロカと同じ、大阪市東住吉区で生まれ育った。1990年にデビューし、ヒット作の「若おかみは小学生!」シリーズは発行部数230万部を数える。2005年、近くのコンビニに行く道すがら、ビルの脇にひっそりたたずむ石碑に気がついた。
「模擬原子爆弾投下跡地」。何だろう、これ。繰り返し読んでもピンとこない。近所の人に聞いても首をかしげるばかり。08年、地元で模擬原爆の歴史を語り継いでいるメンバーに出会い、碑の意味を知った。
終戦直前の45年7月26日、この地にパンプキン爆弾が落とされ、7人が亡くなり、多くの住民がけがをしたこと。パンプキンは14日後に長崎に落とされ7万人以上の命を奪った原爆と同じかたち、重さだったこと。大阪だけでなく日本各地に計約50発が落とされたこと――。
自分の生活から遠かった「ヒロシマ」「ナガサキ」が急に身近に感じられた。「大阪が被爆地になっても、おかしくなかった」。メンバーの思いを受け止め、初めて史実に基づく著作に挑戦することにした。
調べるほどに事実は重く、何度もくじけそうになった。「直接の体験者でも、2世でもない自分が、原爆を扱っていいのか」と悩んでいる時、被爆2世の同業者朽木祥さんから励まされた。「無関心になるのが一番怖い。子どもたちに伝えてほしい」
裾野の広い児童書で、戦争を体験した世代と子どもたちの「中継ぎ役」になろう。そう思った令丈さんは子どもたちが理解しやすいように、戦争に関心が薄い子どもだった自分を登場人物にダブらせた。
作品では、事実を知ったヒロカは、父親や祖父、同い年のいとこの助けを借り、パンプキン爆弾や原爆、戦争、日本以外の核の被害も調べ、自由研究として壁新聞にまとめた。
「パンプキン!」は発売1週間で増版が決まった。令丈さんは「受け止め方は様々でいい。大人も含め、パンプキン爆弾のことを知り、事実を知るきっかけになってくれたら」と話す。
◇若いみなさんへ◇
痛みを伴うかもしれないけれど、自分の国の過去、事実を知る努力をしてほしいです。事実を知らないと、声の大きい人の意見に「そうかな」と思ったり、他者の気持ちがわからなかったりしてしまいます。自分の意見を持つことが大事。新聞でいつもは読まないような記事をみる、ケータイやパソコンで検索してみるなど、ほんのちょっとした「知る努力」をするだけで、ずいぶん違うのではないでしょうか。(談)
◇
戦後66年。戦争体験者の高齢化が進む中、戦争の事実を若い世代につなぐ取り組みをする戦後世代を紹介する。(この連載は3回です)
-
66年目の「終戦の日」 ろうそくともし戦没者供養
2011年8月17日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110817/20110817023.html
66年目の「終戦の日」を迎えた15日、大阪市天王寺区の旧真田山陸軍墓地では埋葬される戦没者らを供養しようと約5500本のろうそくに火がともされ、墓地一帯が幻想的な雰囲気となった。
同墓地は、1871(明治4)年創設。明治維新後の戦没者や、病気、事故などで亡くなった兵士らが埋葬されており、墓碑は5200基以上あるという。
ろうそくの点火は、近隣の興徳寺(青木隆興住職)が毎年この日に寺の精霊流しに合わせて実施。本堂に参った檀家(だんか)らがろうそくを手に墓地を歩き、周囲に生えた草などを取り除きながら1本ずつ丁寧に明かりをともしていった。
また今年は「日本の心」の探究を目的に教養講座などを開くNPO法人大楽小楽(同市中央区)の会員らも初めて参加。真田山陸軍墓地維持会常務理事の吉岡武さん(73)らの案内で墓地を巡った後、ろうそくの点火に加わり、鎮魂の思いを込めて「ふるさと」などを合唱した。
同NPO法人理事長の石黒一さん(81)は「今の日本では国を守るという議論が一切なされていない。人によって思いを異なるだろうが、きょうの活動をきっかけに皆で真剣に考えてほしい」と話していた。
-
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/19/20110819-056730.php
2011年8月19日
【海を越えて 松下幸之助研究】(上)欧州で共鳴した経営理念
8月の強い日差しを浴びた南欧風の建物は、周囲の工場と一線を画し、そこだけ異彩を放っていた。
1933(昭和8)年の本店社屋を復元した大阪府門真市の「パナソニックミュージアム 松下幸之助歴史館」。パナソニックの幹部、社員もたびたび足を運ぶこの歴史館に、50回以上訪れた外国人がいる。
パナソニックの英国販売会社パナソニック イギリスの社長をつとめるキース・エバンス(55)だ。
「歴史館で会社の変遷を見ると、創業者は大恐慌を経験し、第二次世界大戦後は一からやり直さなければならなかった。しかし、決して諦めなかった」
日本の企業経営者で、幸之助のことを知らない人はまずいない。書店には幸之助の関連本があふれ、自らも数え切れないほどの言葉を残している。それらは日本だけでなく、海を越え、エバンスのように海外にも熱烈な信奉者を生み出してきた。
□ □
幸之助が活躍した時代は日本の高度成長期と重なっていたため、国内でのさまざまな経営政策に目が奪われがち。が、海外に対する興味と熱意は創業時から並々ならぬものがあった。
1935年に初の海外駐在員をフィリピンに置き、この年には外国人社員を初採用。39年には中国・上海に乾電池を生産する海外初の工場を設立した。
終戦で海外の工場は相手国に接収されたが、59年に海外販売会社「アメリカ松下電器」、61年に戦後初の海外製造会社「ナショナル・タイ」を設立した。
幸之助自身も、生涯で計19回、11カ国を訪問。海外の先端技術や経営手法を相次いで導入する一方、「経営理念は当社の方がすぐれているとの確信を得た」という。
□ □
幸之助は51年に英国など欧州を初視察した。それから約60年―。欧州は今、各国の財政不安が高まり、物価高騰で消費低迷が続く英国の経済状況も厳しい。
「欧州は文化も言語も生活習慣も異なる。こうした中では、経営理念の存在がビジネスを展開するときに重要となる」とエバンスは強調する。
幸之助がわずか34歳で定めた「綱領」、いわゆる経営理念は単純明快だ。
-
《生産・販売活動を通じて社会生活の改善と向上を図り、世界文化の進展に寄与すること》
きわめて当たり前のことが書かれているが、こうした理念を掲げる企業は確実に減りつつある。だが、同社幹部の一人は「創業者の言葉がよりどころとなることは少なくない」と話し、エバンスも「コモンプラットフォーム(共通基盤)があることは強みだ」と説く。
経営理念の存在は、同じ思想を持つ企業同士を結びつけることもある。フランスで家電量販店などを展開する流通大手Fnac社と同国で強固なサプライチェーン(供給網)を構築できたのは「経営理念を共有化できたことが大きい」と顧問の大月均(64)は話す。両社の協業は商品の共同企画にまで発展し、欧州における量販店政策のビジネスモデルとなっている。
□ □
幸之助が死去し、すでに22年。パナソニック イギリス社長のエバンスは、生前の幸之助に一度も会ったことがない。
「もしも生きていたらこう言われるでしょうね」
『新しい変化を何か取り入れましたか?』
軸(理念)は変えず、それ以外は変化を恐れない―。これは混沌(こんとん)とする世界経済など激動の今を乗り切るためのヒントでもある。 =敬称略
◇
米欧の財政悪化は金融市場を揺さぶり、世界経済の先行きは不透明さを増している。経営者が今なすべきことは何なのか。「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助の海外展開を通じ、その答えを導き出してみた。
まつした・こうのすけ 明治27年和歌山県生まれ。9歳のとき奉公に出され、15歳で大阪電燈(現・関西電力)入社。大正7年に松下電気器具製作所を創業した。一代で世界的な電機メーカーを築き上げるとともに、独自の経営論などで後の企業経営者に大きな影響を及ぼした。昭和54年には私財を投じて松下政経塾を設立、政治家の育成にも力を注いだ。平成元年4月、94年の生涯に幕を閉じた。
-
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/19/20110819-056736.php
2011年8月19日
【リポート大阪 2011】旧府庁舎跡にマンション建設 "大大阪の証言者"に保存の声
明治初めに建設され、昭和20年の大阪大空襲で焼失した旧府庁舎跡が、大阪市西区江之子島(えのこじま)の発掘調査で見つかった。建物の豪華さから「江之子島政府」といわれ、大阪市が人口、面積とも首都・東京市(当時)をしのぐ「大大阪時代」(昭和初め)を見届けた歴史の証言者。しかし、マンション建設で破壊されることになり、研究者らから「一部でも保存を」との声が上がる。(小畑三秋)
旧府庁舎跡は、高層マンションなどに囲まれた一角で出土。地下のレンガ積みの壁は人の背丈まで残り、旧府庁舎のシンボルだった円形ドームの基礎や石の階段などは当時のまま。発掘現場を歩くと明治期にタイムスリップしたようで、7月30日の現地説明会には千人近くが訪れた。さびた鉄扉もひしゃげた状態で残り、66年前の空襲の痛々しい姿をとどめる。
発掘は、旧府庁舎跡用地の民間売却に伴って府文化財センターが実施。重機で1メートルほど掘り下げると大量のレンガが出土し、レンガ積みの高さ2メートル近い暖炉や、床がタイル敷きの豪華な部屋なども見つかった。
石田潤一郎・京都工芸繊維大教授(近代建築史)は「レンガの大量生産ができなかった時代に、これほどふんだんに使ったのは当時の先端技術を駆使した証し」とし、「明治という新しい時代の到来を示す最高の権威として造られたのだろう」と話す。
しかし、旧府庁舎跡はマンション建設で姿を消すことになり、「記録保存する」(府教委文化財保護課)という。記録保存は、発掘調査で写真撮影や測量などを行い報告書として記録することで、遺跡そのものは残らず、保存とは程遠い。
文化庁記念物課によると、平成21年度に本格調査された全国の遺跡のうち記録保存は8割以上を占め、残りは史跡整備や学術調査などに伴うもので保存が前提。開発で破壊される予定の遺跡が、保存される例は極めてまれという。
旧府庁舎跡の全面的保存となれば、売却した土地を再び買い戻さなければならず、事実上不可能。暖炉や壁など一部の保存について府教委文化財保護課は「技術的には可能」としながらも、「調査費として開発業者側に数千万円を負担してもらっている」とし、保存する場合、費用面などの課題も多い。同課は「レンガの一部など、現場で取捨選択して資料として持ち帰る」と説明するにとどまる。
近代遺跡が大規模に調査される例は少なく、石田教授は「保存には大変な面もあるだろうが、大阪が輝いていた時代を示す貴重な資料。暖炉やドームの基礎など一部でも残すよう努力してほしい」と話す。
旧府庁舎 明治維新とともに江戸幕府の旧西町奉行所(大阪市中央区)が使われたが、明治7年に外国貿易の拠点となる大阪湾近くの江之子島に移転。今回見つかった建物跡は2代目にあたる。円形ドームのある2階建ての中央棟と南北棟があったが、手狭になったため大正15年に現在の場所(中央区大手前)に移された。2代目庁舎はその後、府工業奨励館として使われたが、空襲で焼失した。
-
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/18/20110818-056685.php
2011年8月18日
弥生時代の謎 銅鐸に迫る 和泉市の弥生文化博物館で特別展
弥生時代最大の謎を秘めた青銅器「銅鐸(どうたく)」をテーマにした特別展「豊饒(ほうじょう)をもたらす響き 銅鐸」が、大阪府和泉市池上町の府立弥生文化博物館で開かれている。精巧な文様のある国宝銅鐸(神戸市桜ケ丘出土)など70点を展示。弥生人の高度な技術や精神世界に迫ることができる。9月11日まで。
銅鐸は約2200年前の弥生時代中期から同時代末までの約400年間にわたり、近畿から中四国を中心に出土。全国で約600個が確認されている。
銅鐸にはシカや鳥、人が脱穀をする様子などが描かれ、五穀豊穣(ほうじょう)などを祈ったとされる。本来は鐘のようにつるして音を鳴らしていたのが弥生時代末になると1㍍以上の大型になり、祭壇に置いて祭祀(さいし)で使ったとされる。集落中心部より山間部などで見つかることが多く、勢力圏の境界に埋めることで外敵の侵入を防ごうとしたともいわれる。
特別展では、時期とともに製作技術の変遷がたどれるよう工夫。製作途中で青銅が行き渡らなかったため補修した痕跡のあるものや、表面が極めて丁寧に磨かれたものなど“匠の技”もたどることができる。
銅鐸に詳しい奈良文化財研究所の難波洋三企画調整部長は、同博物館の講演会で銅鐸の意義について解説。当初は河内地域など限られた場所で生産されたのが近畿周辺も含めて10カ所以上に増え、再び数カ所に集約されていくとし「倭国が『百余国』から『三十国』になり、邪馬台国など有力勢力にまとまっていく状況を反映した可能性もある」と指摘した。
会期中の講演会の日程は次の通り。27日=「大岩山銅鐸からみえてくるもの」鈴木康二・滋賀県立安土城考古博物館学芸課主任▽9月11日=「弥生時代祭祀と銅鐸」金関恕(ひろし)・弥生文化博物館長。いずれも午後2時から。
問い合わせは同博物館(電話0725・46・2162)。
-
なにわ人物伝 −光彩を放つ−
北畠 顕家(2)
2011年8月20日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110820/20110820050.html
学問優秀、武芸・軍略に通ず 18歳で2国を与えられる
三善 貞司
大阪では今も花と散った若武者として人気の高い北畠顕家は、文保2(1318)年北畠親房(ちかふさ)の長男に生まれた。
父親房は後宇多(ごうだ)・後醍醐(ごだいご)・後村上(ごむらかみ)三天皇に仕えた宮廷の元老で、とりわけ後醍醐天皇の信任は厚く、元亨元(21)年院政が廃され後醍醐天皇の親政になるや右腕となって補佐し、皇子世良(ときなが)親王の養育に当たったが、元徳2(30)年親王が夭折(ようせつ)、嘆き悲しんで宗玄と名を改めて出家、表舞台から消える。
そちの責任ではないと強く慰留してならなかった天皇は、この年代わりにまだ12歳の顕家を左中弁(さちゅうべん)に任じ、2年後には参議に昇進、左中将(さちゅうじょう)も兼ねるという異例の出世で、廷宮たちの物議をかもした。しかし天皇のえこひいきではない。学問に優れ武芸・軍略に通じ、しかも天皇の北山行幸に供奉(ぐぶ)したおり、花宴で羅陵王(らりょうおう)(雅楽の演目の一。中国北斉の羅陵王長恭が、美貌を仮面でかくし敵軍を破ったもの=抜群の技量と美少年でなければ勤まらぬ)を演じて列座の人たちを感嘆させたから、誰もが麒麟児(きりんじ)だ、神童だともてはやすようになる。
政治改革を目指していた後醍醐天皇は、幕府の失政が続き武家の信頼までゆらぐのに目をつけ、王朝統一を図り元弘元(31)年討幕の計画を立てるが捕縛され、隠岐に流された。いわゆる「元弘の変」だ。しかしこの事件は北条幕府に不満を持つ足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)・名和長年(なわながとし)らが挙兵する火種になり、全国的な内乱となって幕府は壊滅、同3年「建武の中興」と呼ばれる王朝中心の新政府が誕生する。
建武の中興は鎌倉から西の畿内・中国地方が中心だったから、難題は奥羽両国(陸奥と出羽)の治安だ。そこで天皇はまだ15歳の顕家を従三位に叙し陸奥守に任命、皇子義良(のりなが)親王をつけて任地に赴任させる。顕家は宮城郡多賀を国府とし、鎌倉幕府の職制をまねた政務機構をつくり、高官に奥羽の武将たちを起用、大変な努力と苦心を重ね、なんとか人心を掌握する。もちろん建武の中興のときは、出家の身として政治に全く関わりを持たなかった父親房が同行、神童とはいえ世事に慣れぬ顕家をよく支え、なにかと知恵を出したのが大きい。
奥羽安定の知らせを受けた後醍醐天皇は手放しで喜び、勲功白眉(はくび)なりとして従二位、鎮守府将軍に任命との破格の待遇で報いる。
しかし天皇の性急な理想政治構想は、2年たらずで破綻した。建武中興最大の功労者足利尊氏の野望だ。彼が北条幕府を倒したのは父祖の志を継ぎ、源氏による幕府再興のためで、百数十年も続いた武家政治を王朝政治に改めることではない。論功行賞に不満を持つ地方の武将たちも取り込み、建武2(35)年北条の残党北条時行(ときゆき)の反乱を押さえると称して大軍を率いて下向、鎌倉に居座って勅命にも従わなくなる。
天皇は新田義貞軍を差し向け、京に召喚しようとするが両軍は箱根で激突、義貞軍は大打撃を受けて敗走する。尊氏軍は追跡して京に迫り、朝廷方は楠木正成(くすのきまさしげ)に防戦させたが兵数に大差があり、天皇は京を離れ比叡山の延暦寺に落ちた。天皇が待ち焦がれていた顕家が、ようやく奥羽から駆け付けたのは、その直後である。
翌延元元(36)年1月、顕家は新田義貞・楠木正成・結城宗広(ゆうきむねひろ)らと軍略を練り、京の皇居を占拠した尊氏軍と激突する。正成の知略と顕家軍の勇猛果敢な攻撃はすさまじく、尊氏軍は徹底的にたたきのめされ逃走、追撃した正成・義貞軍に西宮の打出浜で包囲され壊滅、尊氏らは辛うじて海上に逃げ、船で鎮西(九州)目指して落ちていった。
顕家は京にとどまり足利色を一掃、大喜びの天皇は、鎮守府大将軍、権中納言に任じ、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)の二国を与える。まだ18歳の若者にだ。
(地域史研究者)
-
2011年8月20日
【海を越えて 松下幸之助研究】(中)アジア進出 利益は二の次
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/20/20110820-056767.php
2008(平成20)年5月10日、大阪府門真市の松下電器産業(現パナソニック)本社は朝から緊張したムードに包まれていた。国賓として訪日した中国の胡錦濤国家主席が午後、同社を視察することになっていたからだ。
「中国の省エネ・環境保護分野に新たな貢献を果たしてほしい」
胡主席は応対した中村邦夫会長にこう要請した。その光景は30年前のあの日を再現したかのようだった。
■ □ ■
小雨が降る中、当時相談役だった83歳の松下幸之助は大阪府茨木市のテレビ工場正門前で、中国のトウ小平副総理(当時)を出迎えた。1978(昭和53)年10月28日のことだ。
トウ氏は、音声多重のカラーテレビなどに関心を示しながら工場を視察。電子レンジであっという間に出来上がった湯気を立てるシューマイを工場社員に差し出され、驚いた表情を見せながら口にほうり込んだ。
「技術・経営面での援助をお願いしたい」
「できる限りのお手伝いをします」
中国の改革開放を進めていたトウ氏の要請に対し、幸之助はこう快諾した。パナソニックの中国事業が本格的に動き出した瞬間だ。
79年に白黒テレビのブラウン管プラントを初輸出。87年には現地企業との合弁によるカラーブラウン管の製造会社「北京・松下彩色顕象管」を設立。日本企業による戦後初となる中国への工場進出となった。現在、パナソニックは中国に約120社を展開、社員数は計約10万人にのぼるなど、日本企業として最大規模を誇る。
■ □ ■
業界に先駆けて中国進出を決断した幸之助だが、それは市場の成長性を先読みして商機と考えたからではない。進出にあたっては収益性を詳細に調べ、検討を重ねるが、相手国の発展につながるかどうかを最終の判断基準としていた。
《まず相手国の利益を第一に考える。自分の企業のため、自分の国のためをまったく考えないというのではないが、それが先になってはいけない》
株主重視で利益を優先したり、円高対応で海外に生産移転する今の企業経営者とは異なり、「進出国の発展、人々の福祉に役立つこと」にこだわり、それを進出理由としてきた。インドネシアもそのひとつだ。
■ □ ■
「1万以上の島々に住む国民とコミュニケーションがとれるようラジオの生産に協力してほしい」。インドネシアの財閥企業の創業者モハメッド・ゴーベル氏の要請に対し、ある日系電機メーカーは「商売にならない」と一蹴。だが、幸之助は「産業を興す手伝いができるのならば」と技術援助を決めた。中国進出のときと同じだ。
1962年に同国初の白黒テレビを生産以来、両社の事業提携は相乗効果を発揮し、販売、製造会社が次々と設立された。「創業者がすごいのは産業の基盤となる人づくりにも真剣に取り組んだところだ」。白物家電などの生産会社パナソニック マニュファクチャリングインドネシアの菅沼一郎社長はこう話す。
《ものをつくる前にひとをつくる》
幸之助が残した有名な言葉のひとつだが、インドネシアでは79年に私財を投じて教育財団を設立し、人材育成にも心血を注いだ。
■ □ ■
トウ氏の要請から約30年を経てパナソニックは今、中国の環境先進化のための協力を求められている。5月末には、中国に家電リサイクルの新会社を合弁設立すると発表した。
韓国勢が世界の家電市場を席巻する中、「幸之助のグローバル観はそのままに今後は新たな強みが求められる」(関係者)と指摘する。そのひとつが環境技術での貢献であることは間違いない。 =敬称略
-
<削除>
-
2011年8月23日
近代建築 民都の底力 大阪歴史博物館で特別展
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/23/20110823-056837.php
精密な図面や美しい装飾などを通して大阪の近代建築の魅力を紹介する特別展「民都大阪の建築力」が、大阪市中央区の大阪歴史博物館で開かれている=写真。9月25日まで。
開館10周年を記念して企画。近代の大阪では、大阪市中央公会堂や大阪城天守閣など、優れた構造やデザイン、細部装飾を持つ公共建築や商業施設が、民間の力や市民の協力などで数多くつくられた。今回は、大阪が誇るこうした“建築力”を、図面に表現された「描く力」、建物の細部に魅力を加える「装飾の力」、建築を愛する人たちによる「伝える力」の3つの視点から展覧している。
会場には、初公開となる2代目通天閣の設計図のほか、旧鴻池本店のステンドグラスや漆工芸作家の島野三秋作「旧そごう大阪店エレベータ漆螺鈿(うるしらでん)装飾扉」など約280点が並ぶ。
注目は、明治45年〜大正元年の「大阪市公会堂設計競技第1席 岡田信一郎案透視図」。当時はコンペ自体珍しく、1席作品をはじめ応募した建築家13人の図面が一堂に展示され、「100年前の図面が全部残っているなんて」と来館者を驚かせている。
開館時間は午前9時半〜午後5時(金曜日は午後8時まで)。火曜日休館。
観覧料は大人800円、高大生600円、中学生以下無料。
-
「明治の大阪府庁」保存へ レンガ積み暖炉など遺構
2011年8月24日
http://www.sankei-kansai.com/2011/08/24/20110824-056879.php
明治7年建設の旧大阪府庁舎跡=大阪市西区江之子島(えのこじじま)=から7月に発掘されたレンガ積みの暖炉など一部の遺構について、府が保存する方針を決めたことが23日、分かった。マンション建設に伴い破壊される予定だったが、研究者や市民らから保存を求める声が寄せられ、決断したという。
旧府庁舎跡は、府有地の民間売却に伴い発掘。中央棟と南北両棟の地下のレンガ壁や、花崗(かこう)岩を組み合わせた中央棟の円形ドームの基礎部分(直径約6メートル)、レンガ積みの暖炉などが当時の状態で残っていた。
研究者も歴史的価値が高いと評価、現地説明会には歴史ファンら千人近くが訪れるなど関心が高かった。府が開発業者側と協議し、円形ドームの基礎部分と暖炉、石の階段を現地から取り外して保存することを決定。担当の府財産活用課は「多くの人に見てもらえるよう保存場所などを検討したい」としている。府庁舎は大正15年に大阪市中央区の現在の場所に移転され、旧府庁舎の建物は昭和20年の大阪大空襲で焼失した。
-
旧大阪府庁舎:遺構の一部、移築・保存へ
http://mainichi.jp/kansai/news/20110825ddn041040009000c.html
大阪府は24日、7月に発掘された明治初期建設の旧府庁舎跡(大阪市西区江之子島2)の遺構のうち、れんが造りの暖炉など一部を移築・保存すると発表した。マンション建設に伴い取り壊される予定だったが、府民や研究者から保存を求める声も寄せられ、「府民に親しまれる貴重な遺構で残すべきだ」と判断した。
保存されるのは、遺構のうち、直径約10メートルの庁舎中央ドームの基礎部分▽れんが積みの暖炉(高さ約2メートル)▽石造りの階段(奥行約1メートル)−−の3点。府の担当者は「いずれも当時の庁舎の様子を伝えるシンボル的なもの」と説明する。遺構は現本庁舎(大阪市中央区大手前2)に移転する前に使われた1874年完成の庁舎の一部。
旧府庁舎は2階建てで円形天井などしゃれたデザインで親しまれ、現庁舎への移転後も工業奨励館として活用されたが、1945年の大阪大空襲で焼失した。遺構はもろくなっているため、府は仮置き場を設置して保管し、保存方法や場所を決める。【高山祐】
-
行ってみよっと:枚方宿 思い巡らす江戸時代 変わらぬ淀川と景観美 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110825ddlk27040363000c.html
「ぜひ枚方宿(しゅく)を行きましょう」。枚方観光ボランティアガイドの会の竹島健次さん(71)イチ押しのコースへ出発。
東海道がこの枚方市を通っていた。「枚方宿は東海道56番目の宿です」と竹島さん。東海道……といえば五十三次と習ったもの。なのに56番目?? 江戸時代、東海道は江戸−京都の区間より延長整備され、大坂までとなった。それに伴い、宿も伏見、淀、枚方、守口と四つが加わった。枚方宿は品川の宿から数えて56番目というわけ。宿は幕府が指定した。荷物や書状は当時、宿から宿へとリレー方式で送り継ぎ、宿で荷物の積み替えなどを行った。
ところで、東海道のうち大阪−京都間は、京都に向かう人は「京街道」などと呼び、「東海道」の名は地元で浸透しなかった。
さて、その京街道の枚方宿を枚方市駅から歩き始める。両脇はビル。江戸の面影は見当たらない。「通りでタイルの色が違うところがあるでしょ」。道の脇はグレーだが、中央付近は赤などのタイルにして、街道跡を示している。これで江戸時代をイメージしよう。
「ここ、ゾウも通ったんです」。ゾウ!? 八代将軍、徳川吉宗は外国の知識吸収や珍しい動植物の輸入にご熱心で、「ゾウを見たい」とのたまわれたらしい。“注文の品”は、享保13(1728)年、ベトナムから長崎港に上陸。陸路江戸へ向かう途中、枚方宿にも泊まった。
さて先へ進む。道路工事にぶつかる。「電線の地中化工事です」と竹島さん。ありし日の情景に近づけようとの取り組みだ。
万年寺山を登って、秀吉が建てた御茶屋御殿跡へ向かう。「見晴らしがものすごくええんですよ」。竹島さんが待ちきれないように予告する。なるほど、とうとうと流れる淀川が見下ろせる。わんわと波打つ水は生き物のよう。秀吉はここに枚方城主の娘を住まわせた。美女(?)をはべらせ、景観よし。ぜいたくなことよ。
すぐ近くに梅林がある。花の頃はもちろんすばらしいだろうが、訪ねた6月は青々とした葉で覆われ、グリーンの空間がすがすがしい。「ほら、実が付いてますよ」。まんまるに太った青い梅の実がたわわに実っていた。
家並みの中、竹島さんが、歩くのがやっとほどの細い路地を入る。えっ行くんですか? 進んだ先で納得。でーんと大きなムクの木が現れた。高さ20メートル以上、樹齢600〜700年。府指定天然記念物という堂々たる老木。「なんでムクの木っていうか知ってますか?」と竹島さん。考えたこともない。「ムクドリがたくさん来るからです」。葉はザラザラしているので、鋳物を磨くのに利用したと言われている。このムクの木の隣にはかつて鋳物工場があった。仕上げに役立てたのだろうか。
淀川河川敷の淀川河川公園に降りた。シロツメグサのじゅうたんだ。ふわふわした感触が足の裏に伝わる。一歩一歩が腰に響かない。水辺ではたっぽたっぽと川の流れを楽しめる。
「風が気持ちよろしいな」と地元の竹島さんも、顔にあたる風を感じている。向こうで、若者が草刈り機で雑草を刈り込んでいる。きれいな公園も彼らのおかげ。約2キロ、気持ちいいウオーキングだった。【三角真理】
==============
枚方観光ボランティアガイドの会は希望コースを案内する。半日まで無料。問い合わせは072・841・0774(木曜休み)▽市立枚方宿鍵屋資料館に歴史資料展示がある。入館料(一般200円、小中学生100円)。火曜休館。072・843・5128。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/220 太左衛門橋 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110825ddlk27070369000c.html
◆大阪市中央区
◇芝居町へ、虚実つなぐ わけあり男女、題材に
相合(あいあう)橋の西隣の太左衛門橋(たざえもんばし)は、道頓堀川の遊歩道整備に合わせて、08年に板を張り合わせて木製調に姿を変え、芝居町華やかなりしころをしのばせる。
かつての芝居町・道頓堀と対岸の宗右衛門町を結ぶ太左衛門橋は、芝居と切っても切れない関係にある。
松井今朝子さんの時代小説「東洲しゃらくさし」に、1794(寛政6)年ごろの道頓堀の描写がある。
「数ある芝居小屋のなかでも、通りの真ん中に位置する『中の芝居』と、太左衛門橋を渡った角にあたる『角の芝居』の二つの小屋が、当時もっとも格式の高い大芝居とされていた」
江戸時代、芝居といえば歌舞伎のことで、中の芝居とは中座、角の芝居は角座。いずれも今はない。中座の跡はレジャービルに、角座の跡は更地のままになっている。
太左衛門橋の名は、芝居小屋の興行主だった大坂太左衛門に由来するらしい。「大阪人物辞典」によると、1652(承応元)年、太左衛門橋南詰めの東角に若衆歌舞伎の小屋を創設した。ちょうど角座の場所あたりだ。のちに角座の名代、つまり興行権の名義人(江戸では座元といった)として知られた。角座のご先祖さんだ。橋がいつ架けられたかは不明だが、大坂太左衛門が芝居見物に便利がいいよう、私費で架けたと推察される。
芝居町のためにできたような橋だから、芝居の舞台にもなった。「宿無団七(やどなしだんしち)時雨傘(しぐれのからかさ)」は、太左衛門橋の橋詰めが重要な場となっている。
太左衛門橋北詰めの髪結い床の職人が、湯女を殺した実際の事件を題材に、大当たりを取っていた芝居「宿無団七」に事寄せた作品で、作者は並木正三。回り舞台や役者の宙づりなど、次々に奇抜な舞台仕掛けを編み出した人で、この作品でも、作中に自身を登場させて話題になった。浄瑠璃の近松門左衛門と人気を二分した奇才だ。
正三の弟子が、「東洲しゃらくさし」の一方の主人公である並木五兵衛(のちの五瓶)。京坂一の作者と名をはせ、大金で江戸の小屋に引き抜かれた。同作では、五兵衛が謎の絵師、写楽を見いだしたという筋立てになっている。
恐らく、そんないわれも知ってのうえで、織田作之助は太左衛門橋を連作「女の橋」「船場の娘」「大阪の女」の舞台に使った。
瀬戸物問屋「伊吹屋」の頼りない若だんなが芸者の小鈴にほれる。太左衛門橋の欄干にもたれながら、小鈴は赤子ができたと告げ、動転した若だんなは結婚を約束する。しかし、お家大事の番頭が仲を引き裂き、小鈴が産んだ女の子は伊吹屋が引き取る。数年後、落ちぶれ体を病んだ小鈴は、引き離された娘の舞踊の舞台で三味線を弾いて息絶え、太左衛門橋を運ばれていく。
伊吹屋のいとはんとして育てられた小鈴の娘、雪子は、奉公人の秀吉と互いに恋心を抱く。東京に出た秀吉から電話があった、その最中に関東大震災が起きる。
5年後、2人が再会するのが太左衛門橋。「もう春が近いのか、川風も何か生暖かく、ふと艶めいた道頓堀の宵である」。一度は嫁(か)した雪子は、芸者の子であるのがばれて離縁され、宗右衛門町の芸者になっている。片や秀吉は、仕事もなくうらぶれているが、妻がいる。2人はそのまま別れてしまう。
第二次大戦の空襲で、狭い木橋だった太左衛門橋は焼け落ちる。落ちる寸前の燃え盛る橋を、雪子は娘の葉子の手を引いて北へ逃げる。木橋の太左衛門橋を最後に渡った、という設定だ。
そののち。雪子が営む喫茶店の客と駆け落ちしたいという娘の恋情にほだされ、雪子は思う。「空襲の夜、雪子が太左衛門橋を渡って逃げる気になったのは、その橋が生みの母の死骸を送って行った橋であり、初恋の男と再会した橋であったからだ」
いま、南詰めの角座の跡の辺りは、なぜかたこ焼き屋だらけで、健康そうな若い男女ばかりが目立つ。若だんなと小鈴のような、あるいは雪子と秀吉のような、いわくありげな二人連れの姿は、芝居町とともに消えたようだ。【松井宏員】
-
創業100年以上は大阪で1272社 帝国データバンク大阪支社
2011.8.25 20:35
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110825/biz11082520350037-n1.htm
1912(明治45、大正元)年までに創業した「老舗企業」が大阪府内で1272社にのぼることが25日、帝国データバンクの調べで分かった。同社は昨年9月に全国ベースで創業100年以上の企業を調査した結果を公表したが、来年が大正元年からちょうど100年になるのを機に、初めて大阪府ベースでまとめた。
全国には老舗企業が2万4847社あり、国内最古の飛鳥時代(578年)に創業した寺社仏閣建築「金剛組」(大阪市天王寺区)が府内でも最古。他に府内では、戦国時代(1566年)創業の寝具類卸「西川リビング」(同市中央区)もみられ、江戸時代も1610年創業の総合建設会社「竹中工務店」(同区)、1611年創業の医薬品小売り「ヒサヤ大黒堂」(同区)などがある。
業種別で最多は「貸事務所業」(35社)。繊維卸などが構造不況に伴う業態転換を強いられ、所有するビルや駐車場などの運営を手がけるケースが多い。
一方、近畿2府4県の老舗企業は計4258社。大阪府以外では業種別の最多は兵庫、奈良、滋賀の3県が「清酒製造」、京都府は「織物卸」、和歌山県は「酒小売」で、地場産業との関連性が強い。
-
なにわ人物伝 −光彩を放つ−
北畠 顕家(3)
2011年8月27日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110827/20110827044.html
天皇に異例の上奏文提出 北条幕府の腐敗政治批判
三善 貞司
延元元(1336)年1月、18歳の若武者北畠顕家は、楠木正成(くすのきまさしげ)・新田義貞(にったよしさだ)らと京を占拠した足利尊氏(あしかがたかうじ)軍を攻撃、敗北した尊氏らは鎮西(九州)に逃走する。
王朝政治が復活した後醍醐(ごだいご)天皇は、顕家の功績は抜群だと鎮守府大将軍、権中納言に任じ、顕家は再び奥羽地方の治安のため、宮城郡多賀の国府に帰国した。
ところがわずか4カ月後、急激に兵力を回復した尊氏・直義(ただよし)兄弟は大軍を率いて東上。防ごうとした楠木正成を湊川合戦で破り自害させ、後醍醐天皇は吉野に遷幸する。入京した尊氏は光明(こうみょう)天皇を擁立し建武式目を制定、新しい朝廷が誕生して異例の南北朝時代の幕が開いた。
もちろん天皇は顕家に尊氏討伐を命じるが、天下の体勢は足利氏に加担する者が多く、奥羽の豪族たちも多賀国府を攻撃、翌2年に顕家は多賀を離れ霊山(福島県伊達郡)に移ったほどで、余裕はない。ようやくこの年9月、結城宗広(ゆうきむねひろ)・伊達行朝(だてゆきとも)らと軍兵を集め西上、まず足利義詮(よしあきら)(尊氏の子)を破り鎌倉を鎮圧、翌3年鎌倉を発(た)って東海道から京に入ろうと美濃に到着する。驚いた尊氏は高師冬(こうのもろふゆ)(高師直(もろなお)の養子)、師泰(もろやす)(師直の弟)を派遣して青野原で防戦、戦況は一進一退だったが沿道の今川・土岐(とき)らの諸将が全て足利方についたから、顕家はこのコースを断念、伊勢・伊賀を経て大和から京に進攻する道を選んだ。
同年2月21日、奈良に入った顕家軍を倒すため、尊氏は執事高師直に大軍を付けて差し向ける。師直は尊氏の右腕で北条幕府を倒した最大の功労者、南北朝時代では並ぶ者なしといわれた軍略家でもある。これは尊氏がどんなに若武者顕家を恐れていたかの証しであろう。
21日の合戦では顕家に利があらず、彼は河内に走るが官軍を再編成し、3月8日師直軍と天王寺(大阪市天王寺区)で戦い勝利。四天王寺を占拠して本陣とし、男山(京都府八幡市)に弟の北畠顕信(あきのぶ)を籠(こ)もらせ、京を攻撃しようとする。驚いた尊氏は師直に弟の直義を援軍に付け、まず男山の攻略に出るが失敗、続いて洞ケ峠(ほらがとうげ)(京都府南部と大阪府枚方市との境)合戦でも顕信に敗れた。
師直は作戦を変更、男山を囲んで顕信軍を封じ込め、直義軍と合流して河内方面に進み、14日交野(かたの)(大阪府交野市)、15日渡辺橋(大阪市中央区)、16日天王寺と安部野(同市阿倍野区)で顕家軍と激突、今度はいずれも顕家方の旗色が悪く敗退した。
5月6日顕家は四散した官軍を集め、堺浦(堺市堺区大浜〜石津一帯)に拠点を構えようとするが、頼みの和泉の豪族日根野道悟たちが足利方に味方、怒った顕家が彼らの居城熊取・佐野・長滝を無謀にも攻撃して大敗、官軍から逃亡する者が増える。
一方、師直は5月8日天王寺を本陣とし、16日堺浦にも布陣、万全の構えをかためてから顕家との決戦に出た。顕家らは獅子奮迅の働きをみせるが衆寡(しゅうか)敵せず、「顕家卿立つ足もなく成(なり)給ひて、芳野へ参らむと志し、僅(わずか)に二十余騎にて大敵の囲(かこみ)を出でむと、自破利砕堅(かため)給ふといへども、其(その)戦功徒(いたず)らにして、五月二十二日討死し給ひければ、相従ふ兵悉(ことごと)く腹切(きり)て一人も不残(のこらず)失せにけり」、と『太平記』にある。
死の数日前、彼はあれほどの高庇(こうひ)を受けた後醍醐天皇に、七カ条からなる上奏文を提出している。(1)民衆は戦乱で疲弊しており、税を減免すること(2)宮廷は質素倹約をむねとし、臨時の行幸や酒宴等は控えること(3)恩賞が片寄っている。地方ほど不満が強い。審査し直して公平にすべきこと−などの率直な提案で、建武中興が北条幕府の腐敗政治を十分に正してはいないことを、痛烈に批判している。当時としては異例の上奏だ。
(地域史研究者)
-
畑ヶ田遺跡:銭貨入った土器のかめ見つかる きょう説明会−−富田林 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110827ddlk27040446000c.html
富田林市若松町1の「畑ヶ田(はたけだ)遺跡」から、銭貨5枚が納められた土器のかめや、掘っ立て柱の建物跡が見つかった。市教委は27日午前10時から正午まで、現地説明会を開く。
遺跡は、弥生時代から中世にかけての集落跡。保育園建設に伴って、市教委が7月から約760平方メートルを発掘調査していた。
市教委によると、今回の発掘はいずれも奈良時代の物。銭貨は1枚に「開」とみられる字があり、「和同開珎(わどうかいちん)」か「神功開宝(じんぐうかいほう)」と推定。複数枚の銭貨が納められた土器の発見は、府内では2例目という。柱穴は大きいもので一辺約1メートルあり、最大で直径約40センチの柱を持つ建物が存在していたとみられる。
現地説明会は小雨決行。問い合わせは、市教委文化財課(0721・25・1000)。【三上健太郎】
-
<削除>
-
情報プラザ:大阪市中央公会堂「館内ガイドツアー」参加者募集 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110830ddlk27040372000c.html
9月27日(火)10時半・13時半・15時半(各60分)、同公会堂(地下鉄・京阪淀屋橋駅徒歩5分、京阪なにわ橋駅すぐ)。重要文化財に指定されている公会堂の大・中・小集会室と特別室を特別公開。公会堂スタッフが歴史や装飾などの見どころを紹介する。各回50人(応募多数の場合抽選)。参加無料。9月2日(金)必着の往復はがきの往信面に<ガイドツアー参加希望>・氏名・住所・電話・参加希望時間・参加人数(1枚で4人まで)、返信面に住所・氏名を明記し、〒530−0005 北区中之島1の1の27、大阪市中央公会堂「ガイドツアー」係(06・6208・2002)へ。
-
<削除>
-
2011年9月 1日
「済美館」改修 輝く110周年 清水谷高、あす文化祭でお披露目
http://www.sankei-kansai.com/2011/09/01/20110901-057194.php
明治33(1900)年に大阪府第一高等女学校として創立された府立清水谷高校(大阪市天王寺区清水谷町)で、高女時代に建築の同窓会館「済美館(せいびかん)」の全面改修が終わり2、3の両日、同校文化祭に合わせて披露される。
済美館は明治40年に木造で建築、大正14(1925)年に現在の鉄筋コンクリート3階建てに改築された。当時の府庁営繕課による優雅なデザイン・重厚な設計で、86年たった現在も高い耐震性能を持つ。
11月6日に開く110周年式典に合わせた記念事業として、同窓会「清友会」やPTAの募金で外観を改修。外壁を白く塗り直し、当時の首相、西園寺公望(さいおんじきんもち)の揮亳(きごう)をかたどった館名や高女時代の校章も鮮やかによみがえった。
同校卒業生でもある中西修一校長は「文化祭で110年の校風も味わってほしい」と話している。
-
名水復活 伝統の酒を
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110902-OYT8T00040.htm
大阪天満宮 井戸掘削プロジェクト
大阪天満宮(大阪市北区)で、境内の井戸を復活させるプロジェクトが始動した。江戸時代には、道頓堀や千日前の湧き水と並んで、大阪四清水の一つと称された「天満天神の名水」。当時は付近で酒造りが盛んだったとされ、「くみ上げた水を生かした酒造りで地域の活性化を」と、地元住民らは「名水復活」に期待を寄せている。(斎藤七月、羽尻拓史)
大阪天満宮文化研究所によると、天満宮の井戸水は江戸時代、宮崎・延岡藩主ら大名が参勤交代の途中に在阪した際、飲用していたとみられ、藩の役人が宮司に水を依頼する手紙が残る。周辺には酒蔵が多くあり、井戸水を利用した酒造りが盛んだった、との説もある。
約20年前までは、境内の清掃などに井戸水が使われていたが、地下水利用や地下鉄の開発などが進むにつれて水位は徐々に低下し、近年は使われなくなっていた。
地元商店主らから井戸水の歴史を聞いた関西大の与謝野有紀教授らが、天満宮の協力も得て、今回のプロジェクトを計画。8月に、かつて境内にあった井戸の脇を試掘したところ、地下約60〜70メートル付近の地層に豊富な水が含まれていることがわかり、楠見晴重・関西大学長らに水質の調査を依頼した。
1日、楠見学長は天満宮に集まった天神橋筋商店連合会の役員らに対し、採取した土のサンプルを示しながら、マンガンの含有量など調査結果を説明。飲料用に適していたとして、「予想以上に良い水で、十分活用できると思う」と結論づけた。メンバーらは今後、本格的な掘削に向けて掘削する場所や時期、水の活用方法などを話し合うことにした。
土居年樹・同商店連合会長は「酒造りを復活させるなど、地域の歴史が分かるような活用をしていきたい」と期待。寺井種伯宮司は「いい水が出ると分かって安心した。どんな味がするのか、早く口にしてみたい」と話していた。
(2011年9月2日 読売新聞)
-
大阪天満宮の水OK 地下水水質検査飲用に問題なし
2011年9月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110903/20110903025.html
大阪天満宮(大阪市北区、寺井種伯宮司)の境内で行われた地下水試掘後の水質検査の結果が2日までに判明。採水した地下水は飲用上、問題のないことが分かった。今後、本掘が行われることになり、大阪天満宮などは活用を含め詳細について詰めていくことにしている。
大阪天満宮のある天満地区にはかつて多くの酒蔵が立ち並び、地下水をくみ上げた酒造りが盛んに行われていた。大阪天満宮文化研究所によると、幕末期に宮崎・延岡藩の藩主が大阪を訪れた際、大阪天満宮の井戸水を飲用していたとみられるという。
地域の活性化に向けた地下水の活用を地元の天神橋筋商店連合会と関西大「社会的信頼システム創生センター」が提案。大阪天満宮の協力を得て、8月に試掘を行った。
1日夕、大阪天満宮で試掘に携わった同大の楠見晴重学長が、寺井宮司や同連合会の土居年樹会長ら関係者に水質検査の結果を報告。地下約70メートルを試掘し、2カ所の水質を調べた結果、水銀など人体に有害な物質は食品衛生法の基準値以内で飲用上、問題のないことを知らせた。
今後、本掘に向けてスケジュールを詰めることになり、寺井宮司は「大変うれしい。ぜひ本格的に掘り、地域の皆さんに活用してもらいたい」と話していた。
-
<削除>
-
なにわ人物伝 −光彩を放つ−
北畠 顕家(4)
2011年9月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/naniwa/110903/20110903046.html
石津で最後の決戦 花の若武者、20歳で討死
三善 貞司
延元2(1337)年5月22日、足利尊氏(あしかがたかうじ)が派遣した高師直(こうのもろなお)の大軍と最後の決戦場になった石津で、多勢に無勢、花の若武者と謳(うた)われた北畠顕家は、ついに討死した。まだ20歳の眉目秀麗な武将であった。石津川に架かる太陽橋を渡った南詰め(堺市西区浜寺石津町中4丁目)に、彼の墓が現存する。
井上正雄の名著『大阪府全志』に、詳しい解説があり、大要を記しておく。
「太陽橋南詰に鎮守屋敷といへるあり。高さ三尺余の角石に『南無阿弥陀仏』と題し、背面中央に『行家』、側面に『正徳三年四月十七日』と刻せり。従来除地にて延宝7(1679)年検地帳に鎮守宮屋敷、宮建の小祠(しょうし)在せしとあるも、小祠正徳年間(1711〜16)台風のために倒壊す。祠(ほこら)は再建に至らず共に倒れし塚上の老松を売却して、現在の碑建てり。(行家とあるが)塚は行家の墓にあらず、顕家の墓なるを、村民『あ』を『ゆ』に誤りて、行家の墓と伝えしものか。顕家の戦没地なれば、顕家の墓なり」
注を加える。源行家は源為義(みなもとのためよし)の第十子。平治の乱で敗れ熊野に隠れるが、鎌倉の源頼朝(よりとも)の挙兵に応じ、諸国に散った源氏を集め平家と合戦して手柄をたてる。しかし横柄な男で叔父さん風を吹かせたため頼朝に嫌われ、木曽義仲(きそのよしなか)と組んで京に入るが、義仲とも不仲になり、河内の石川で合戦し敗北。今度は源義経(よしつね)を頼るが頼朝は義経・行家を攻撃、2人は大物浦から船で西国へ落ちるも嵐に遭い、行家は和泉に漂流して頼朝派の北条時定(ほうじょうときさだ)に捕らえられ、文治2(1186)年斬首となった。顕家より150年ほど前の人物。
『吾妻鏡』(1260年ごろ成立。日本初の武家記録)には、行家が捕らわれた場所は近木郷、それより二十数年前成立の『平家物語』には、八木郷と出る。八木郷は山城国だから誤記であろうが、近木郷も和泉国ではなく現在の貝塚市近木(こぎ)・南町のあたりで、石津とはかなり離れている。ゆとあの誤記かどうかは知らないが、石津の墓が行家であるはずはない。
顕家の死後2年の延元4年、彼の実父北畠親房(ちかふさ)は有名な『神皇(じんのう)正統記』(皇室の正統は後醍醐(ごだいご)天皇の『南朝』で、足利尊氏らの『北朝』ではないとの内容)を執筆するが、そのなかで顕家は忠孝の道を歩いて、和泉の石津で死亡と記している。
以上で顕家戦没地は石津に確定できるが、本連載(1)で述べたように、長年『太平記』の記述「顕家卿和泉の境安部野にて討死」は、事実として信じられた。『吉野拾遺』(正平13[1358]年成立。南朝を中心とした説話集・伝藤原吉房著)の「源中納言(顕家)の北の方発心(ほっしん)の事」は、その代表である。大要を口語に直して紹介する。
「刑部丞(ぎょうぶのじょう)から主君顕家公が阿部野の露と消えたと知らされた北の方は失神され、あわてた周りがお顔に水などをかけてやっと気をとりもどし、玉の緒よたえし果(はて)なくくり返し同じ浮世にむすほふるらむ とお詠みになり、観心寺といふ山寺で髪をおろされた。3年ほどたって世の中は静かになったので、夫の戦死した跡を弔おうと刑部丞の案内で阿部野を訪れ、草の上に倒れ伏して号泣し、なき人のかたみの野への草枕ゆめも昔の袖の白露 とお詠みになり、自害されようとする。刑部丞は懸命になって制止し、菩提(ぼだい)を弔おうと住吉や天王寺に案内する。四天王寺の亀井の水のほとりでは、のちの世も契りのために残しけり結ぶ亀井の水茎の跡 と経木にお書きになった。その後お亡くなりになるが、北の方は中納言資朝(すけとも)卿の娘で、顕家戦死のおりはまだ17歳であった」
阿部野神社(大阪市阿倍野区北畠3丁目)は明治18(1885)年の創建。祭神は北畠親房・顕家父子。境内に顕家の銅像がある。気品ある凛々(りり)しい姿に美のはかなさを感じる。
※病気療養のため休筆します。ご愛読ありがとうございました(筆者)。
(地域史研究者)
-
お化けは「豊臣」ばかり 徳川の罪悪感から生まれた「大阪城の怪談」(上)
2011.8.28 12:00
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110828/ent11082812000009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110828/ent11082812000009-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110828/ent11082812000009-n3.htm
ナニワのシンボル「大阪城」は、言わずとしれた豊臣の城。が、実際には豊臣時代はごく短く、江戸期に再建された徳川の城が300年近く続いた。その時代、城に“勤務”する武士の間で、多くの怪談が語られたことはあまり知られていない。「化物屋敷」「暗闇の間」「禿雪隠(かむろせっちん)」…。雨のそぼふる真夏の一夜、城にまつわる恐怖伝説にふれるイベント「大阪城の怪談」に参加した。(松田則章)
「この地では、歴史的にみて、ものすごい数の人たちが死んでいるが、お化けは『豊臣』ばかり。まず、この点をおさえてほしい」。イベント案内役の大阪城天守閣研究主幹、北川央(ひろし)さんはまず、参加者にこう語りかけた。
《「大阪城の怪談」は、産経新聞の応援団組織「ウェーブ産経」の主催。約130人が集まり、開催告知の新聞記事を出していない東京や熊本からの参加者もいた》
天下普請で造られた
大阪城は、上町台地と呼ばれる大阪の中心地の北端に築かれた。その歴史は、戦国から安土桃山時代にかけての浄土真宗の拠点「石山本願寺」にさかのぼる。織田信長の本願寺攻め後に焼失し、豊臣秀吉が跡地に大坂城(当時は「大阪」ではなく「大坂」)を築城。大坂夏の陣(1615年)により落城したあと、2代将軍の徳川秀忠の命により、諸国の大名が加わった“天下普請”で徳川大坂城が建てられた。
-
>>432
しかし、幕末の混乱で城内の多くの建造物が焼失。明治以降は旧陸軍用地となり、第4師団司令部庁舎や軍需工場「大阪砲兵工廠(こうしょう)」も建設。戦時中には米軍の標的となり、終戦間際の空襲で、櫓(やぐら)や門など多くの建造物が焼けた。こうした長い歴史の中で、幾多の人々が亡くなったわけだ。
では、なぜ怪談は豊臣家ゆかりのものばかりなのか。北川さんは「江戸時代に大坂城に着任した大名や旗本の家臣らによって、怪談が語られ始めている。それは、豊臣家(から政権を奪い滅亡に追い込んだこと)に対して徳川方が後ろめたさを共有していたから」と説明。怪談の“正体”は「徳川家の家臣たる譜代大名や旗本の心中にある罪悪感」と分析する。
「千姫観音」の願文
《北川さんは「怨霊(おんりょう)になった秀吉・秀頼」のテーマで、徳川家がいかに豊臣のたたりを恐れていたかについて、ある文書を紹介した》
豊臣秀頼の正室、千姫は徳川秀忠と江(ごう)の娘。大坂夏の陣では落城の際に脱出し、翌年には、伊勢・桑名の城主・本多忠政の嫡子、忠刻(ただとき)に嫁いだ。しかし、嫡子・幸千代や忠刻、江と、再嫁から約10年間で相次いで近親を亡くす不幸に見舞われた。
ちょうどそのころ造られた仏像「千姫観音」の胎内から、こんな願文が見つかっている。
「占いをしてみましたところ、播磨の姫君様(千姫)にお子ができます度々に、あなた様(秀頼)にお恨みのお心があって、それが障りになっているということです(中略)あなた様の菩提を弔うように姫様に申し上げますので、くやしいお心をあきらめてほしいのです」(現代訳)
願文を書いたのは、千姫ゆかりの尼寺の上人。不幸の原因は、秀頼の恨み、たたりとみられていたのだ。
《イベントでは、北川さんのほか、推理作家の有栖川有栖(ありすがわ・ありす)さん、“平成の怪談師”と呼ばれる怪異蒐集(しゅうしゅう)家の中山市朗さんもイベントに招かれ、3人による怪談鼎談(ていだん)も行われた。鼎談が終わると、知らない間に外は雨。蒸し暑さの中にどこかヒンヤリとした空気も漂い、怪異ムードが高まっていた》
-
大阪城の石垣になるはずが… 「残念石」曳いてみよう
2011.9.9 02:07
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110909/osk11090902070000-n1.htm
■そりの体験イベント 来月1日
大阪(大坂)城の石垣に使われるはずだった「残念石(ざんねんいし)」を巨石運搬用のそり「修羅(しゅら)」で曳(ひ)く体験イベントが10月1日午後2時25分から、大阪城内の特設会場で開かれる。主催する大阪市中央区役所は参加者を募集している。
天守閣復興80周年の記念行事として、同区役所が企画。大坂城の築城や改修に伴って全国各地で切り出されながら、使われずにそのまま残った「残念石」と呼ばれる石材を通じ、城の歴史を振り返ってもらうねらい。
当日は、香川県・小豆島の「大坂城残石(ざんせき)記念公園」から、現地に残された重さ2トンの巨石と、当時運搬に使用された修羅のレプリカを借り、残念石の修羅曳きにチャレンジしてもらう。対象は、小学5年生以上(小学生は保護者同伴で)。定員100人で先着順。
会場ではこのほか、大阪城の石垣をテーマにしたパネルディスカッションなども行われる。
修羅曳きの参加希望者は、ファクス(06・6264・9999)かメール(te0002@city.osaka.lg.jp)で、参加者全員の氏名(4人まで可)と年齢、電話番号を記入して申し込む。問い合わせは同区役所市民協働課((電)06・6267・9837)。
-
「梶原寺」の礎石?発見
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20110909-OYT8T00068.htm
高槻市教委は8日、7世紀半ばから平安時代頃まで存在したとされる「梶原寺」の礎石とみられる巨石(縦約100センチ、横約75センチ、高さ約30センチ、重さ約600キロ)が同市梶原で見つかったと発表した。同寺があったと推定される付近で、市教委は「伽藍(がらん)を備えた本格的な寺院だったことを証明する貴重な資料」としている。
市教委によると、巨石は約8年前、同寺の中心地だったとみられる現在の畑山神社に近い民家で、塀を新設する際に地中から見つかった。その後、民家敷地内の竹やぶに置かれていたが、所有者が今年5月、梶原寺関連の発掘調査をしていた市教委職員に相談し、調査が始まった。
柱を据えるため、上面を円形に彫られた直径約50センチ、高さ約10センチの「柱座」が、奈良時代頃のほかの寺跡から出土した礎石と似ていることなどから、梶原寺の礎石と判断したという。
34年前に付近で実施された発掘調査では僧侶の住居と推定される建物の柱穴が出土したが、礎石が見つかったのは初めて。裏面にも直径約70センチ、高さ約5センチの柱座があり、市教委は「建て替えの際に再利用したとみられ、珍しい」とする。
畑山神社周辺ではこれまで、奈良時代から平安時代にかけての瓦や瓦を焼く窯跡が出土。「正倉院文書」には同寺について、757年に、造営中だった奈良・東大寺の建物に使う瓦を大阪・四天王寺とともに発注を受けたことが記されるなど、大きな寺だったことがうかがわれるという。
礎石は畑山神社の境内で保管、展示している。問い合わせは、市立埋蔵文化財調査センター(072・694・7562)。
梶原寺:正倉院文書に記述、礎石発見 厚さ30センチ靴のような形状−−高槻 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110909ddlk27040341000c.html
高槻市内最古の寺院で、「正倉院文書」にも記述のある梶原寺の礎石が初めて見つかり、市教委が8日発表した。上面には直径50センチ、下面には同70センチの柱座があり、市教委は「建て替え時にひっくり返して再利用した珍しいケース」としている。
古文書や発掘調査によると、同寺は7世紀半ばに建立され、12世紀には廃寺になった。正倉院文書には「東大寺大仏殿の回廊の瓦を梶原寺に発注した」との記述があり、中心建物があったとされる畑山神社(同市梶原1)付近からは、実際に瓦窯跡も見つかっている。
この他、瓦や僧坊跡とみられる柱穴が確認されているが、本堂や講堂といった主要伽藍(がらん)に直結する発見は初めて。
神社に隣接する民家敷地内で見つかり、市が今年5月から調査。長辺1メートル、短辺75センチ、厚さ30センチで、まるで靴のような形状だ。直径70センチの面は削り方がややいびつで、市教委は「建物内でより大きな柱に付け替える際、急ごしらえしたのではないか」としている。
神社境内に保管し自由に見学できる。市立埋蔵文化財調査センター(072・694・7562)。【熊谷豪】
-
2011年9月 9日
住吉大社 11日に「献灯式」
http://www.sankei-kansai.com/2011/09/09/20110909-057527.php
創建1800年を迎えた住吉大社(大阪市住吉区)で11日午後6時半から「献灯式」が行われ、13日までの3日間、境内の灯籠約100基がともされる。
今年1年間を通して同神社で繰り広げられている「御鎮座(ごちんざ)1800年」の記念行事の一環で、住吉名勝保存会が企画。12日に恒例の「観月祭」が営まれるのに合わせて境内の雰囲気を盛り上げようと、灯籠をLED(発光ダイオード)でともすことにした。
点灯するのは、境内にある灯籠約600基のうち、「西の大鳥居」から国宝の本殿4棟にいたる正面参道と、本殿付近の卯之日(うのひ)参道にある約100基。11〜13日の日没から午後10時まで点灯する。
11日は献灯式に先立ち、神楽殿で午後3時半から奉納式。観月祭は、12日午後6時から。同神社では「ここ10年近く、灯籠に明かりがともされることがなかったので観月祭、ありがたい試み」と話している。
-
幻の「法安寺」跡か 室町期?の礎石発掘
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201109100057.html
浄土真宗中興の祖・蓮如(1415〜99)が建てた石山本願寺(大坂本願寺)推定地(大阪市中央区)の南東で、室町時代の礎石建物跡が見つかった。本願寺の進出前からあった法安寺(ほうあんじ)の一部とみられる。同寺の可能性がある遺構が確認されたのは初めて。調査した大阪文化財研究所は「大阪の“空白の中世”を埋める貴重な資料」としている。
遺構は、現在の大阪城天守閣付近にある石山本願寺推定地の約600メートル南東で見つかった。周囲に溝を巡らせた東西7メートル、南北4メートル以上の土壇(高さ約50センチ)があり、均等に礎石が並んでいた。1辺5.5メートルの正方形の仏堂のような建物とみられる。出土した瓦や土器の種類から、室町時代の建立の可能性が高い。
土壇の下からは焼土や炭を含む平安時代末〜南北朝時代の大量の瓦が出土。古い寺院が火災で焼失した後、今回の礎石建物が建てられたことがわかった。
法安寺は、「日本書紀」にも登場する生国魂(いくくにたま)神社(難波大社)の神宮寺として、周辺集落・森三ケ庄の政治・信仰の中心的役割を果たした。やがて石山本願寺が大阪に入り、寺内町が拡大するにつれ、本願寺に取り込まれていったとされる。本願寺は石山合戦(1570〜80年)で織田信長に攻められて1580年に焼失。法安寺の場所も分からなくなった。
-
大阪の「空白の中世」埋めるかも 法安寺?の礎石発掘
http://www.asahi.com/culture/update/0910/OSK201109100043.html
浄土真宗中興の祖・蓮如(1415〜99)が建てた石山本願寺(大坂本願寺)推定地(大阪市中央区)の南東で、室町時代の礎石建物跡が見つかった。本願寺の進出前からあった法安寺(ほうあんじ)の一部とみられる。同寺の可能性がある遺構が確認されたのは初めて。調査した大阪文化財研究所は「大阪の“空白の中世”を埋める貴重な資料」としている。
遺構は、現在の大阪城天守閣付近にある石山本願寺推定地の約600メートル南東で見つかった。周囲に溝を巡らせた東西7メートル、南北4メートル以上の土壇(高さ約50センチ)があり、均等に礎石が並んでいた。1辺5.5メートルの正方形の仏堂のような建物とみられる。出土した瓦や土器の種類から、室町時代の建立の可能性が高い。
土壇の下からは焼土や炭を含む平安時代末〜南北朝時代の大量の瓦が出土。古い寺院が火災で焼失した後、今回の礎石建物が建てられたことがわかった。
-
岸和田だんじり77年ぶり新調
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003746621.html
勇壮な「だんじり祭」で知られる大阪・岸和田市で、だんじりの1台が77年ぶりに新調され、きょう、市内を勢いよく駆け抜けて地元の人たちにお披露目されました。けさ5時頃、大阪・岸和田市中井町の神社に昭和9年以来、77年ぶりに新調されただんじりが到着しました。
新しいだんじりは樹齢300年のケヤキの大木を使って宮大工と彫刻師が5年がかりで作り上げたもので、高さ4メートル、重さが5トンあります。
神事の後、お披露目のため、市内の約5キロのコースに出発しました。
岸和田市では自治会ごとにだんじりを所有していて、毎年9月から10月にかけて80台以上のだんじりが市内各地で引き回されます。ことし新調されただんじりは、この1台だけだということで、沿道には大勢の人が集まり、だんじりが勢いをつけたまま交差点を直角に曲がる見せ場の「やりまわし」では大きな歓声があがっていました。
孫を抱いて見物に訪れた男性は「自分も若い頃はだんじりを引いた。孫も岸和田の伝統を引き継いで大きくなったらだんじりを引いてほしい」と話していました。
だんじりを新調した中井町町会長の西村喜代一さんは「だんじりは岸和田のシンボルだ。今後もだんじりとともに地域を発展させていきたい」と話していました。
09月11日 16時35分
-
<削除>
-
環境配慮、LED灯籠 住吉大社で献灯
2011年9月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110913/20110913017.html
大阪市住吉区の住吉大社の灯籠100基に、発光ダイオード(LED)の灯がともっている。住吉名勝保存会(高野伸生理事長)が12日の観月祭に合わせて献灯。環境に配慮した明かりが情緒的なムードを演出している。13日まで。献灯時間は日没から午後10時。
保存会によると、住吉大社で灯籠をともしたことはこの約10年の間になく、住吉大社発足1800年記念大祭の一環として献灯を計画。境内は樹木が多いため、ろうそくを使用すると火災の恐れがあるため、ワイヤレスのLEDを使い、消費電力量を軽減する「節電」にもつなげた。
11日の献灯式には住吉大社や保存会の関係者約30人が出席。東日本大震災の復旧・復興を念頭に、高野理事長は「未来への灯でもあってほしい」と語った。
-
上方落語協会の新拠点 三枝さんら集い地鎮祭
2011年9月14日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110914/20110914047.html
上方落語協会の拠点となる上方落語協会会館の着工を前に13日、大阪市北区天満4丁目の同会館建設予定地で新築地鎮祭が行われ、同協会の桂三枝会長や、設計を手掛けた建築家の安藤忠雄さんらが工事の無事を祈った。
約60年ぶりに復活した上方落語の定席である天満天神繁昌亭(同区)が、大阪天満宮所有の土地に建てられているため「協会所有の拠点を持ちたい」と用地を探し、建設にこぎ着けた。桂春團治さんをはじめ同協会に所属する落語家や地元の住民、工事関係者が集まった。
三枝会長は「繁昌亭ができたからここまで来られた。地元やファンの皆さんのおかげ。この会館で100年200年先を見越し、次の世代を育てていきたい」と強調。安藤さんは「今の日本も先行きも暗い中で、心から笑えることを新しいエネルギーにできるような会館になれば」と話していた。
完成は来春の予定。
-
桂三枝「笑いで笑顔…日本に発信」 安藤忠雄設計、上方落語の殿堂が地鎮祭
2011.9.13 14:23
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110913/osk11091316260009-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110913/osk11091316260009-n2.htm
上方落語協会(桂三枝会長)の新たな殿堂「上方落語協会会館」が来年4月、大阪市北区に誕生する。きょう13日、建設の安全を祈願する地鎮祭が行われた。この近くに建つ定席「天満天神繁昌(はんじょう)亭」も平成18年、上方落語の殿堂としての期待を担い建設され、15日に開場5周年を迎える。落語ブームは一段落ちついたかに見えるが、協会では同会館を新たな拠点に、さらに全国的な落語ファンの拡大に努める構えだ。(豊田昌継)
75万人超の人気を追い風
地鎮祭には三枝会長のほか協会員、設計を担当した建築家、安藤忠雄氏ら約100人が出席し、鍬(くわ)入れなどを行った。
三枝会長は「日本が総じて暗いなか、心から笑える発信地になれば。この会館をきっかけに次の世代を育てるのが我々の使命です」とあいさつし、工事の無事を祈願した。
同会館は鉄筋コンクリート3階建て(延べ床面積約260平方メートル)で、大阪天満宮正門の南東約50メートル、繁昌亭から同約100メートルの、住宅やオフィスビルが混在する約130平方メートルの敷地に建設される。これまで繁昌亭内に置かれていた事務所や、近くのビルに分散していた資料室、稽古場などを1カ所にまとめる。
総工費は7千万円。土地は「三枝会長の知り合いで、協会の活動に理解ある方が格安で提供してくださった」(協会幹部)といい、設計についても、やはり三枝会長と懇意にする安藤さんが、「落語は日本が誇る文化。意義あること」と無償で請け負うなど、会館建設には大きな期待がかかっている。
「喜怒哀楽」をコンセプトに、事務所機能のほかに、一般のファンが立ち寄れるスペースも確保。展示や教室など交流の場も持ちたい考えだ。
一方、協会の念願として建てられた繁昌亭も15日で開場から丸5年。当初は、NHK連続テレビ小説の題材になるなど“落語ブーム”にも乗り、わずか1年で15万人を突破。観客数は月平均1万4千〜1万5千人で、特に昼席は“プラチナチケット”と言われたが、昨年ごろから動員がやや鈍化。月平均も1万人前後で、当日券で入場できる日も出てきた。
ただ、三枝会長は「(当初の動員が)ミラクルだった。心配はしていない。若い落語家が切磋琢磨(せっさたくま)してくれれば、(お客さんも)来てくれる」と冷静だ。
定員220人の定席で、今年8月末現在の総入場者数75万人超という数字は誰も予想できなかった上々の記録。この“人気”による蓄財が、会館建設をよりスムーズにさせたともいえ、三枝会長は「将棋会館のように、全国から来ていただいて、新たに落語ファンになっていただけたらありがたい」と、新しい落語の殿堂に期待を込めた。
-
旧桜宮公会堂:カフェレストランに改装へ 結婚式などにも利用 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110914ddlk27040333000c.html
大阪市は13日、歴史的建造物「旧桜宮公会堂」(北区天満橋1)を、結婚式や披露宴会場としても利用できるカフェレストランとして改装し、来秋オープンすると発表した。明治の趣を感じられる施設として周辺と一体で整備する。事業費は、3億7500万円。
旧桜宮公会堂は、1935(昭和10)年、明治天皇記念館として建設。正面玄関(国の重要文化財)は、旧造幣寮(現造幣局)鋳造所にあったものを移築している。これまで、図書館やギャラリーとして使われてきたが、07年に閉鎖して以降、立ち入りできなくなっていた。
事業者は、市が公募し、選定委員会の審査を経て決定した民間事業者。市は、同一敷地内にあり、現在補修工事中の「泉布観」(国の重要文化財)も同時に外観を公開したいとしている。【林由紀子】
-
能勢人形浄瑠璃:古代の伝説など4演目 久佐々神社で17日 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110914ddlk27040381000c.html
神社境内でかがり火をたいた幻想的な雰囲気の中で、200年の伝統がある浄瑠璃を楽しむ「能勢浄瑠璃公演」(能勢町など主催)が17日、同町宿野の久佐々(くささ)神社で開かれる。古代の伝説や、中世のお家騒動などを題材にした4演目で、観覧無料。
同町では江戸時代の文化年間から、人形を持たずに語りと三味線で物語が進行する「素浄瑠璃」が伝わっている。こうした伝統を踏まえつつ視覚でも楽しんでもらおうと、98年には人形を取り入れ、「能勢人形浄瑠璃鹿角座」を設立した。
同神社は和銅6(713)年の創建で、境内には樹齢数百年のスギやヒノキが茂る。豊かな自然を舞台美術として活用しようと、3年前から町内の神社で公演が開かれてきた。
素浄瑠璃の他、人形浄瑠璃では近松門左衛門原作の「傾城(けいせい)阿波の鳴門 巡礼歌の段」を上演する。大阪・玉造の盗賊の館に、故郷に残してきた実の娘が巡礼で事情を知らずに訪ねてきた。母親はいったんは「難儀がかかっては」と娘を帰すが、思い直して後を追う−−というあらすじ。
大衆演劇のため江戸中期に建てられた境内の長床を舞台に上演。境内の敷地に座って鑑賞する。
午後6時半開演で、上演時間は約1時間半。椅子がないため座布団持参がおすすめ。雨天の場合、18日に延期。問い合わせは、浄るりシアター(072・734・3241)。【熊谷豪】
-
百舌鳥・古市古墳群:シンボルマークとロゴデザイン発表 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110922ddlk27040316000c.html
府や堺、羽曳野、藤井寺各市でつくる「百舌鳥・古市古墳群世界文化遺産登録推進本部会議」は21日、両古墳群の世界遺産登録に向けた情報発信などに使うPR用シンボルマークとロゴデザインを発表した。
デザインは公募で、審査対象となった46作品の中から、大阪市内のデザイン会社が提案した案が採用された。
選定理由として、シンボルマークについて、「古墳の造形と豊かな自然をシンプルにシンボライズしている」とした。ロゴのデザインも「シンボルマークとのバランスがよい」として選ばれた。
推進本部会議は今後、パンフレットや府や3市の職員の名刺などに活用していきたいとしている。【内田幸一】
-
情報プラザ:金曜歴史講座〜むかしの大阪をみらいの大阪へ伝える〜 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110922ddlk27040345000c.html
10月7日〜28日の金曜18時半〜19時45分、大阪市中央区大手前4の大阪歴史博物館4階講堂(地下鉄谷町四丁目駅9号出口)。大阪の歴史や文化財の最新情報を届ける連続講座。「陶技の粋ー佐賀藩蔵屋敷跡出土の『鍋島』ー」「おおさかの中心を掘るー難波宮・本願寺・大坂城ー」など。当日先着250人(18時受け付け開始)。参加費200円(資料代)。問い合わせは大阪市博物館協会大阪文化財研究所(06・6943・6833)。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/224 八兵衛大明神 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20110922ddlk27070353000c.html
◆大阪市中央区
◇中座支えた「おタヌキ様」 解体工事で爆発、たたり?
道頓堀の中座には「八兵衛大明神」なるおタヌキ様がまつられていた。それには、こんな逸話が残っている。
元禄時代のこと、淡路島の三熊山に柴右衛門というタヌキがすんでいた。中座の片岡仁左衛門の評判を聞きつけて、三熊八兵衛というさむらいに化けて船に乗り、大坂へやってきた柴右衛門は、木の葉を木戸銭に変えて毎日、中座へ通った。
小屋では、毎日、木戸銭箱に木の葉が交じっているのを不審に思い、犬を待機させていた。そこへやってきた柴右衛門は、タヌキと見破られて犬にかみ殺されてしまう。ところが、それまで大入りが続いていた中座は客の入りが悪くなる。「タヌキのたたり」と、舞台下の奈落に柴右衛門をまつったところ、客足が戻ったという−−。
以来、「中座の守り神」として役者たちの信仰厚かったが、99年の閉館で、ご神体は淡路島へ里帰り。三熊山のふもとの洲本八幡神社にまつられている。酒井一成宮司(47)は「ご神体を移す時、私も白装束で中座に行きました」。芸能関係者の参拝が絶えず、亡きいとし・こいしさんや藤山直美さんらもお参りしたという。
02年に中座が解体工事中、爆発・炎上した時は「柴右衛門のたたり」とうわさされたとか。約350年も続いた中座が売り飛ばされて、しかも解体されるという最悪の末路に、柴右衛門が怒ったとしても不思議ではないが……。
実は、中座跡に建っている中座くいだおれビルの地下に、八兵衛大明神のほこらが残っている。ビル管理会社に写真撮影を申し込んだが、オーナーの外資系会社に断られた。理由は不明。
こっちはあきらめて、ご神体が分祀(ぶんし)されている生国魂神社の源九郎稲荷を訪ねた。案内してくれた権禰宜(ごんねぎ)の中村文隆さんによると、もともとこの稲荷は天王寺七坂の源聖寺坂にあったそうだが、大正時代ごろに移されたという。八兵衛大明神が里帰りした時、「大阪に何もしのぶものがなくなるのは寂しい」と、「ミナミの代表的な神社で、芸能とも縁が深い」生国魂神社に分祀されたという。「今も松竹の関係者がお参りにこられてると聞きます」とのこと。
余談だが、稲荷の裏手に神木の楠(くすのき)がそびえている。雷が落ちて焼けたといい、黒ずんで裂けている。「みーさん(ヘビ)がいるといわれてまして、ヘビを見たら、特に女性は願い事がかなうとされてて、張り込む人もいるんです」と中村さん。なんと、木の根元をヘビがはっているではないか! なんかええこと、あるかな。
7月末日、道頓堀で公開披露宴があった。大阪市史料調査会の古川武志さん(40)と、なにわの海の時空館名誉館長の石浜紅子さん。「八兵衛大明神のおかげで道頓堀は繁盛しました。大明神にあやかって、僕たちの結婚式が道頓堀、ひいてはミナミの繁栄につながれば」と古川さんは語る。
八兵衛大明神のほこらにお参りしたあと、キツネの嫁入りならぬ「タヌキの嫁入り」と銘打った宴とあいなった。講談師の旭堂南陵さんが、民話を基にした柴右衛門タヌキの物語を語って喝采を浴びたり。宴の後は道頓堀を練り歩き。道行く人々は、なにごとならんと目を丸くしながら、お2人を祝福。なんともド派手な披露宴に、さぞやおタヌキ様も喜んではったことでしょう。【松井宏員】
-
あす20回目「ひらおか薪能」 東大阪・枚岡神社
2011.9.23 01:51
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110923/osk11092301510002-n1.htm
■観世流の親子3代で「船弁慶」
秋恒例の「ひらおか薪能(たきぎのう)」が、24日午後5時半から、東大阪市出雲井町の枚岡神社境内の特設舞台で催される。20回目となる今年は、兄・源頼朝から追われる身となった源義経、静御前らの心情などを描いた能「船弁慶」を、観世流の親子3代で共演する。
ひらおか薪能は、観阿弥の母が河内国にいたとの伝承から「東大阪は能のふるさと」を合言葉に、市民でつくる実行委員会が主催。市内企業や個人からの協賛金で運営されている。
「船弁慶」では、観世流の大江又三郎さんが静御前、息子の信行さんが平知盛、孫の女性子役、美乃(よしの)さんが義経を演じる。
また、大蔵流狂言師の木村正雄さんらが出演する狂言「梟(ふくろう)」や、大阪樟蔭女子大客員教授でもある木村さんによる「船弁慶」の作者、観世小次郎についての解説も行われる。
入場無料で事前の申し込み不要。問い合わせは実行委事務局((電)072・981・4177)。
-
来月15日で100回目 上方伝統芸能ナイト
2011年9月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110924/20110924027.html
大阪市、大阪商工会議所と共催し、山本能楽堂(大阪市中央区)が主催してきた「初心者のための上方伝統芸能ナイト」が10月15日に第100回を迎える。節目を記念し、10月から年末にかけての6公演を記念公演として特別版で実施する。
数多くある大阪の伝統芸能を、凝縮した形で観光客にも大阪の市民にも知ってもらおうと2006年の大みそかに初めて開催。文楽や講談、上方落語、浪曲、能、狂言、お座敷遊びなどの中から4種類程度を15〜20分ずつ上演し、解説や体験などで多彩な芸能の魅力を紹介してきた。
10月1日の99回は「東北スペシャル編」と題し、東北にちなんだ演目を披露。大阪へ避難している東日本大震災の被災者を招待する。15日の100回公演は「感謝の気持ちをこめて〜100回スペシャル!スペシャル編」として、落語家の桂南光さん、桂春蝶さんらを招き落語や能、文楽の上演のほか、これまでの出演者などとともに記念のトークを行う。
11月5日の「英語で上方・スペシャル!編」は、講談、落語など全編英語で上演、解説。19日は「大阪の音色を楽しむ!スペシャル編」で「大阪の音」をテーマに公演。12月9日は東西の芸の違いが楽しめる「落語・講談東西対決スペシャル編」を、12月31日は「大晦日!年越しスペシャル編」を行う。
同能楽堂の山本章弘さんは「上方の芸能同士で横のつながりができるようになり、コラボ公演の実現などにもつながってきた」と手応えを語る。一方で「まだ見に来られたことのない地元の方も多い。府外から来る人にこのイベントを薦めてくれる人が増えるよう、今後も継続していきたい」と話している。
公演はいずれも料金3500円〜。問い合わせは電話06(6943)9454、同会場へ。
-
蕪村俳句講座で小中学生を表彰
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2005818331.html
江戸時代の俳人で大阪出身の与謝蕪村の功績を学びながら、俳句に親しもうという講座で小中学生がつくった俳句の表彰式が行われました。
この講座は、大阪市のNPO法人が開いているもので、きょうの表彰式は大阪・都島区の淀川小学校で行われました。
講座を受講する小学校や中学校の教師の教え子たちから寄せられた1100余りの俳句の中から22の作品が表彰されました。
最優秀賞に選ばれたのは、大阪・港区の中学3年、井上健さんが詠んだ「桜咲き僕ら今日から新学年」という俳句です。
井上さんは、「新しい学年になってうきうきした気持ちをまとめました。俳句は短い中に気持ちを伝えられるところがおもしろい」と話していました。
5年後には、蕪村が生まれて300周年を迎えるということで講座を開いているNPO法人は今後も活動を続け、より多くの人に蕪村の功績を知ってもらいたいとしています。
09月25日 13時44分
-
沈む夕日に極楽浄土見る 四天王寺「日想観」
2011年9月24日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110924/20110924030.html
「秋分の日」の23日、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺(奥田聖應管長)で、浄土信仰の伝統行事「日想観(じっそうかん)」が執り行われた。境内の西大門(極楽門)と鳥居と落日が一直線に結ばれ、集まった参詣者らは夕日に手を合わせ、日没を見届けた。
同寺は創建(593年)当初、門前には海が広がり沈む夕日を見ることができた。弘法大師・空海はその落陽風景を見て極楽浄土は日の沈んだ向こう側「彼岸」にあると説いたことが、彼岸会のルーツとされている。
この日は、日没前に同寺の高僧らが門前に参集し、読経などをして法要を執行。参詣者らは差し込む黄金色の日を写真に収め、合掌してこうべを垂れるなどした。
-
国内最古の「現役」 愛珠幼稚園舎を一般公開 大阪
2011.9.27 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110927/osk11092702020003-n1.htm
■来月22日 建物解説やピアノ演奏
国内最古の“現役”幼稚園施設で国重要文化財の大阪市立愛珠(あいしゅ)幼稚園・園舎(同市中央区)が10月22日、一般公開される。学芸員による建物解説や明治期に製造されたドイツ製ピアノの演奏などが行われる。
愛珠幼稚園は、明治13年に船場北部の連合町会が創設。22年に市立園となり、34年に現在地へ移転。園舎もその際に建てられた。
敷地の周囲に瓦ぶきの高塀を巡らせ、園舎は大屋根を持つ御殿風の木造建築。内部は、保母らが設計に携わり、採光や通風を良くしたり園児がけがをしないような配慮をしたりと、保育者ならではの工夫が随所にみられる。
明治42年、“世界最高級”との評価を受けていた独・イルムラー社製のグランドピアノを購入。老朽化が進んだため近年、修復されて往時の音色を取り戻した、という。
当日は午後1〜4時の間、開放。30分に1回、市教委の学芸員が建物を解説し、幼稚園教諭がピアノ演奏を披露する。入場無料で、事前の申し込みなどは不要。問い合わせは、市教委生涯学習部文化財保護担当((電)06・6208・9030)。
-
大阪ニュース
「曽根崎心中」の成功祈願 お初天神で坂田藤十郎さん
2011年9月28日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/110928/20110928030.html
大阪市北区曽根崎2丁目の露天神社(お初天神)を27日、上方歌舞伎の重鎮で人間国宝の坂田藤十郎さん(79)が参拝した。11月に東京・国立劇場で行われる「曽根崎心中」公演(3〜26日)の成功祈願。1953年にお初の役で初演しこれまで1300回以上上演したライフワークで代表作だ。
徳兵衛役の中村翫雀(かんじゃく)さん(52)を伴って境内に設置された「お初・徳兵衛」像を訪れ「久しぶり。また、よろしくね」と藤十郎さん。
「初演から58年たっているのに毎回新鮮で、初日は初役のつもりでいつも取り組んでいる。自分の分身のようでもあり、翫雀の徳兵衛とも親子とか関係なく、超越した気持ちで恋をしている。こんな幸せなことはない」と藤十郎さんはお初像に手を合わせる。
「父の相手役をしてから30年たっているが、いつも徳兵衛が入っていきやすいようにお初を演じてもらえる」と、翫雀さんもあうんの呼吸を強調。「どこの劇場でも同じ世界(近松門左衛門作)で演じられる作品。機会があればぜひ国立劇場へ」と親子で声を合わせていた。
-
「残念石」が400年越しの大阪城へ
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
大阪城の築城工事にまつわる「残念なもの」歴史ファンらが関心を寄せるその残念なものとは?
【記者レポート】
「3.5トンもあるいわゆる「残念石」400年の時を超え今、大阪城に到着しました」
「残念石」は江戸幕府が大阪城を築いた時に石垣用に切り出されたものの、結局は使われず放置された石のことです。石が切り出された香川県小豆島には今も2800個以上が残っています。この「残念石」、大阪城の天守閣復興80周年を祝うイベントで400年越しの念願が叶い大阪城に運ばれ、修羅引きと呼ばれるソリを使った当時の運搬方法でお披露目されました。
【参加した親子連れ】
「重たかったです。昔の人はすごい努力したんだと思いました。」
「嬉しいだろうなと、残念石もやっと大阪まで来れて。」
そのほか、運搬の際の掛け声から生まれた小豆島の伝統的な「石節おどり」が披露され、訪れた観客を喜ばせていました。
-
【大阪の20世紀】
(1)1901年“新春” 穏やかに明けた元日
2011.9.20 10:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/110928/wlf11092822090138-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/110928/wlf11092822090138-n2.htm
■産経新聞アーカイブ(1999年01月06日 大阪府下版に掲載)
一九〇一年(明治三十四年)の元日、大阪は穏やかな晴天に恵まれた。気象台の記録では、この日の最低気温は一・二度。冷え込みは厳しかったが、百万人に近かった大阪市民の多くが「良き一年」を祈願して朝日に手を合わせたことだろう。当時は西暦が普及していなかったため、ごく一部の知識人を除いて、「二〇世紀の到来」を意識した人はほとんどいなかった。しかし、この年、大阪で起きた数々のエピソードは「激動の世紀」の幕開けを予感させるに十分だった。
賑わい天下一
「サアサアお入り、看板ばかりではお分かりにならぬ」「ヤアヤア、今が始まりじゃ」「アーリャ、アリャアリャ」−。
西日本一の繁華街、大阪・ミナミの千日前通り。明治三十四年も新春から、連日、祭りのような賑わいを見せた。軒を連ねる見せ物小屋からは、威勢のいい口上が響く。
行き交うのは、前掛姿の中年の商人、キョロキョロと物見遊山の旅行客、遊び人風の男、着飾った良家の「いとはん」、人力車に乗った旦那さん、丸髷(まげ)を結った婦人、書生、丁稚、肩に大きなふろしき包みを背負った男、出前持ち、芸妓…。
このうち七割は旅行客、地元の人は三割ぐらい。ほとんどは和装だが、洋服の紳士もちらほら。当時は珍しい自転車もたまに行き交う。
ちなみに三月十一日午後一時から二時までの通りの通行量は、南行きが男八百十七人、女三百六十人の計一千百七十七人、犬一匹。北行きが男五百十四人、女二百二十三人の計七百三十七人、犬は二匹だった。
大きな劇場「播重定席」の新春の演目は「女義太夫」。美女四十人余りが美声を聞かせるとあって初日から大入りが続く。「南大劇場」は村田正雄一座の新演劇で対抗した。
小規模な見せ物小屋では、「萬歳席」にひと際大きな人垣ができた。演目は「轆轤(ろくろ)首」。舞台上のちよ(二十一歳)、たき(二十二歳)、きみ(十五歳)の美人三人娘が小唄を歌うと「あら不思議」。三人の首が三尺ほど伸び、また縮む。
「アナトミ館」のリアルな「人体解剖ロウ細工」、空中ブランコなどを披露する「奥田席」の「西洋大運動」なども盛況。流行の移り変わりは早く、前年流行した洋弓店は、すべて空気銃に代わってしまった。
どの見せ物小屋にも「懐中物御用心」と立て札が上がる。「掏賊(ちぼ)」といわれるスリたちが客の懐を狙っているからだ。袖を刃物で切ったり、ドンと突き当たったり、手口はさまざま。巷では、「スリ」と「マッチを擦る」をかけて「マッさん」などとも言われた。
「食い倒れ」の伝統は当時から。「京與」の魚肉すき焼きは「東京人などのかつてその味わいを知らざるところなり」。「滋養亭」の「牛肉すき」も「安くてうまい」と人気を呼んだ。値段は、「魚肉すき焼き」十五銭、「うなぎまむし」十二銭、小鉢五銭、酒九銭、飯四銭、卵四銭、ネギ一銭。物価高は著しく、六、七年前に比べ、二−三倍になってしまった。
幕開け無関心
こうしたまちの様子は、大阪を代表するジャーナリスト、永江為政(一八六一−一九二五年)が発行した隔週刊誌『大阪経済雑誌』の記事をもとに再現したものだ。
永江は「日光の美を観ぞして美術の美を語る可(べか)らぞとせば、道頓堀千日前の光景を観ざる者は、以て大阪の繁昌を知る能(あた)はざる也」と断じて、当時の様子を克明に記録した。
「天下の台所」といわれ、江戸時代から水利を生かした商業の中心地として栄えてきた「大坂」は、明治中期から紡績業など工業都市としても急速に発展した。日清戦争から七年を経た明治三十四年は、「第五回内国勧業博」の開催を二年後に控えていたこともあり、一種独特の活気に満ちていた。
しかし、今では、当時の大阪の様子を記憶する人はほとんどいない。そんな中、地歌の菊原流の継承者で人間国宝の菊原初子(九九)は、大阪・船場で生まれ育った貴重な証人の一人。
-
>>456
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/110928/wlf11092822090138-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/110928/wlf11092822090138-n4.htm
「船場は大きなお商売のお店が並んでましてな。通りはお商売の人や人力車が次々通って賑やかでした。けど、若い娘は表を一人では歩けしません。歩くと丁稚さんたちが並んで出てきはって、こっちの方が気がはりましたわ」
「明治の奇人」「反骨のジャーナリスト」といわれる宮武外骨(一八六七−一九五五年)が大阪で『滑稽新聞』を発行し始めたのも同じ年の一月。退廃的な風刺画と中傷記事が満載された新聞だが、爆発的な人気を呼び、一時は三万部の発行部数を誇った。ただ、この新聞でも二十世紀についての記述はほとんどない。
『大阪朝日新聞』の元日の紙面でも、「この新年を迎えるに当たりて、吾輩は二の賀すべきことあるをみる。一は明治三十四年を迎えることにして、他は二十世紀の第一年を迎えることなり」と一言触れたにすぎず、大阪で記念行事が開かれた形跡はない。
取り付け騒ぎ
平穏に新春を迎えた大阪だったが、四月十六日、大阪市内の第七十九銀行の取り付け騒ぎに端を発した金融恐慌が起き、これまで表に出なかった社会不安が一気に噴出し始めた。
前年の五月に起きた清国・山東省に義和団が蜂起した「北清事変」で、対清貿易に支障が出たことが恐慌の原因とされるが、波紋は難波銀行、天王寺銀行などに次々と広がり、結局、半月の間に大阪周辺の二十四行で取り付けが発生、十四行が一時的に休業に追い込まれた。
日本銀行大阪支店が救済融資を行い、騒ぎはいったん収まるが、五月末には堂島米穀取引所の紛争から、北浜銀行が取り付けにあい、恐慌が再発。逸身銀行が解散に追い込まれる。
『日本金融史資料』(日本銀行調査局編)は「全市の恐慌を来たし、大阪の貨幣市場は全く暗黒の世界となり」と解説。大阪経済雑誌も「暗黒世界」と題し「世の中は斯(かく)の如く物騒なり。故に火を見れば火事と思い、人を見れば泥棒と思ふの外(ほか)なきは、実に是(これ)大阪の現状なり」と憂いを吐露している。
それでも、当時の大阪にみなぎるエネルギーはすさまじかった。六月末には恐慌も沈静化。中小銀行は淘汰されたが、住友銀行など大銀行はかえって資産を増やしている。
住友金属工業が同年六月、安治川河口に住友鋳鋼場を開設するなど、軽工業中心の大阪の工業基盤は、重化工業まで裾野を広げた。さらに御影石づくりの二代目の大阪駅が完成するなど鉄道や道路などインフラ整備が急速に進んでいく。
三和総研主任研究員(貨幣金融史)の飛田紀男は「一九〇一年は大阪の産業構造の大きな転換期だった。この年をもって日本の産業革命は完成したともいえ、大阪は近代都市としての第一歩を踏み出した」と解説する。
=文中敬称略、肩書は当時
(石橋文登)
-
茨木城が日本史に与えた影響を解説 8日に講演会 大阪
2011.10.4 02:13
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111004/osk11100402140001-n1.htm
戦国時代、今の茨木市に存在したとされる茨木城が日本の歴史に与えた影響などを紹介する講演会「茨木城と城下町の復元」(市観光協会主催、産経新聞社など後援)が8日、同市駅前の市福祉文化会館で行われる。
茨木城は現在の阪急茨木市駅西側付近に建てられていたとされ、近くの茨木神社には廃城の際に移築された搦手門(からめてもん)などが残っている。城主は中川清秀らが知られ、戦国から江戸前期に活躍し、武将で茶人としても名をはせた古田織部も城下町に居住していたという。
茨木市の歴史を調査している京都大人文科学研究所共同研究員の豊田裕章さんを講師に招き、城の歴史や当時の町並みを紹介。城が日本史に与えた影響なども解説する。
午後2〜4時。入場無料。問い合わせは市観光協会事務局((電)072・645・2020)。
-
近つ飛鳥博物館で特別展 百舌鳥・古市古墳群の資料540点 大阪
2011.10.2 02:05
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111002/osk11100202050001-n1.htm
世界遺産国内暫定リストに記載された府の「百舌鳥・古市古墳群」をテーマに、宮内庁の所蔵資料を中心にして最新の発掘成果まで約540点を紹介する特別展(府立近つ飛鳥博物館、産経新聞社など主催)が1日、河南町の同博物館で始まった。
両古墳群の宮内庁の発掘資料がこれだけ一堂に並ぶのは初めてという。百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵(堺市)、古市古墳群の応神天皇陵(羽曳野市)という2大古墳を中心に形象埴輪が多い。御廟山(ごびょうやま)古墳(堺市)から出土した囲形(かこいがた)埴輪と家形埴輪は、囲形に家形がすっぽり入るセットだったことが分かる珍しい例。水にまつわる祭祀(さいし)を行った建物の埴輪とみられている。
また、本展をきっかけにした成果も展示。明治に津堂城山古墳(藤井寺市)から出土した銅鏡の破片は宮内庁と関西大学で別々に保管され、計測で合致することは判明していたが、今回初めて実際に合わせて並べられた。
12月4日まで(月曜休館、10月10日は開館、11日は休館)。入館料は一般600円など。
-
技と心を結集 16日、高津宮で「氏子菓子祭り」
2011年10月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111005/20111005025.html
四季折々の行事を通して気軽に高津宮(大阪市中央区高津1丁目、小谷真功宮司)に集う「たかきや倶楽部(くらぶ)」の発足10周年を記念した「第1回 上町台地 高津宮・氏子菓子祭り」が16日、同宮で開かれる。倶楽部員の中で菓子業に携わるメンバーでつくる「高津宮・氏子菓子製作委員会」が開き、「高津宮氏子ロール」などの氏子菓子を販売。高津宮にちなんだ料理が味わえる屋台が並ぶ。
同倶楽部は現代生活で失われつつある四季の行事を通して神社に集うことで、日々の潤いを取り戻そうと2001年に発足。メンバーのうち菓子業に携わる高津宮の氏子衆が、高津宮の祭神である仁徳天皇の国民の幸せを第一に願った「特政の精神」に通じる氏子菓子を開発し、製作委員会を09年に結成した。
地域の活性化に貢献しようと初めて開く氏子菓子祭りは、「それぞれの技と心の結集」がテーマ。スポンジに米粉を使った「高津宮氏子ロール」(ハーフサイズ500円)や、神社にちなみピリッとしたショウガと濃厚なチョコレートの味わいが楽しめる「高津宮ジンジャーチョコ」(35グラム、420円)などを販売する。
このほか、高津宮の梅林にちなんだ梅のほのかな香りを楽しめる「高津宮 梅香うどん」(500円)などが味わえる「氏子グルメ屋台」もある。
同委員会の木村裕一さん(60)は、「出店する各社の持てる技と心が結集した氏子菓子祭り。ぜひ味わってほしい」と呼び掛けている。
祭りは午前11時〜午後5時。問い合わせは電話06(6754)7263、氏子菓子製作委員会(木村アルミ箔内)へ。
-
豪商“夢の跡”たどる 「落語と街歩きで巡る船場」
2011年10月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111007/20111007017.html
江戸時代の豪商の“夢の跡”をたどる「落語と街歩きで巡る船場・豪商夢の跡」が9日、大阪市中央区今橋2丁目の大阪美術倶楽部(旧鴻池本宅跡)などで行われる。淀屋屋敷跡などを巡る街歩きスタンプラリーでは、淀屋と関係が深い鳥取県の新米コシヒカリなどが抽選で当たる。木戸銭2千円(落語鑑賞・スタンプラリー)。先着120人。
淀屋研究会と文化活動グループ「熟塾」の共催で船場まつりの一環として行う。
落語会は午後1時半から同倶楽部3階備前の間で。笑福亭竹林さんの落語入門の一席で始まり、淀屋の栄枯盛衰を物語る「雁(がん)風呂」を林家染雀さんが、鴻池本宅も登場する「莨(たばこ)の火」を笑福亭松枝さんが披露。上方落語を盛り立てるお囃子(はやし)の実演レクチャーもある。
同倶楽部をスタートするスタンプラリーは午後4時から。淀屋屋敷跡や適塾など8カ所を巡り、江戸時代に“タイムスリップ”する。6カ所以上巡ると抽選会(会場=淀屋橋odona2階ispot)に参加できる。
鳥取県関西本部や同県倉吉市などが景品を提供。同県奥日野産コシヒカリの新米や倉吉絣(かすり)の小物品などが当たる(空くじなし)。
問い合わせ、申し込みは電話・ファクス072(994)2856、熟塾へ。
-
「世界遺産」効果360億円
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111007-OYT8T00089.htm
百舌鳥・古市古墳群 宮本・関大教授ら試算
2015年の世界遺産登録をめざす百舌鳥(もず)・古市古墳群について、登録されれば最初の1年間の府内での経済効果は約360億円との試算を、宮本勝浩・関西大教授(理論経済学)らが6日、発表した。世界最大級の仁徳陵古墳のある堺市だけでも約169億円に上るとした。
登録に伴い、府内で世界中から観光客などが2割増え、日帰り客と宿泊客を合わせて156万人増加するとし、飲食費は54億円、土産物代は80億円などと推計し、食材や土産物の材料費など生産面への波及も考慮した。
堺市によると、2004年に登録された三重、和歌山、奈良県にまたがる世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」で、和歌山県での経済効果の試算は約196億円。竹山修身市長は「堺市だけで和歌山県に迫るほどの非常に高い効果があるとわかった。厳しい経済の中で明るい話題だ」とコメント。
宮本教授は「古墳の全景を眺めたりイメージしたりできる工夫をすれば来客が伸びて効果はもっと増やせる」とアドバイスした。
(2011年10月7日 読売新聞)
-
大阪城天守閣 復興80年の歩み 特別展8日開幕
2011.10.7 13:35
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111007/osk11100714070009-n1.htm
復興80周年を11月に控えた大阪城天守閣(大阪市中央区)の記念特別展「天守閣復興」が、天守閣3・4階展示室で、8日開幕する。80年の歩みを写真パネルや模型などでたどるほか、天守閣所蔵の重要文化財「大坂夏の陣図屏風(びょうぶ)」も展示する。
天守閣は昭和6年、大阪市民の寄付150万円(現在の貨幣価値換算で約100億円)で再建。豊臣秀吉が建てた初代天守閣から数えて3代目にあたり、鉄骨鉄筋コンクリート造り。今年11月7日に復興80周年を迎える。
展示されるのは、3代目天守閣の設計原図10点や復興工事の写真パネル、復興と同時に開園した大阪城公園のイラスト風案内図、シャチホコの小型模型、空襲によって荒廃した櫓(やぐら)の写真パネルなど121点。
重文の「大坂夏の陣図屏風」は、豊臣・徳川両軍の激突や大坂城(当時は大坂と表記)落城後の光景が描かれた六曲一双の屏風で、秀吉築城の大坂城の外観を伝える貴重な絵画資料として知られる。
特別展は11月27日までの連日午前9時から午後5時(入館は同4時半)まで。土・日曜日と祝日は開館時間を1時間延長する。入館料は大人600円などで、復興記念日の11月7日は無料。
また、期間中の11月23日には、復興天守閣の価値を学術的視点から探るシンポジウム「大阪城天守閣復興の意味を問う」が開かれる。参加無料だが、申し込みが必要(先着順)。午後1時から。
特別展とシンポジウムの問い合わせは大阪城天守閣((電)06・6941・3044)。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/226 阿倍野墓地 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111006ddlk27070432000c.html
◆大阪市阿倍野区
◇地域発展に一役 広さ6万2305平方メートル・1万3697基、人が集まる場に
「大阪市南部は歴史の宝庫です」と大阪案内人の西俣稔さんにいざなわれ、今回から阿倍野区、西成区を歩きます。
「大阪24区で、川が流れてない区が二つあります。どこか知ってる?」。天王寺区と阿倍野区です。市内で最も高台の上町台地があるから、川は流れてません。
「なら、なんであべの橋があるか?」と西俣さんがたたみかけてくる。たぶん、川の橋ではなくて、陸橋なのでは。「正解。いまのJR大和路線をまたぐ陸橋です」。JR天王寺駅南のあべの筋に架かっているのがあべの橋。近鉄の駅や市バスのバス停にその名が付いている。
さて、地下鉄阿倍野駅から歩き始める。チンチン電車が走るあべの筋の阿倍野交差点を西へ折れると、すぐに広大な墓地が現れる。「墓地からぼちぼち行きましょ」と西俣さん。はいはい。
ここ阿倍野墓地は正式名称を大阪市設南霊園といい、広さ6万2305平方メートル、1万3697基のお墓が並ぶ。1874(明治7)年に、千日前や飛田にあった墓が集められてできた。なにぶん、古い墓地なので空きはなく、お墓を建てたくても新しく建てることはできない。
江戸時代から大坂には「七墓めぐり」という風習が流行した。お盆の夜にかねや太鼓をたたきながら七つの墓地を巡ると、自分の葬式の日の天気がいいとかいわれた。七墓は諸説あるようだが、今も残るのは京橋の蒲生、北区豊崎の南浜の2カ所だけ。蒲生墓地は京橋の繁華街の中にあり、屋台の立ち飲みから墓地が見下ろせる。花見ならぬ「墓見」ができるわけだ。
それはともかく、昔から墓地は町の中心には造らなかった。町の周縁に造ったものだから、昔は京橋も町なかではなかった。梅田にも墓地があって(毎日新聞社のすぐ近く)、もとの地名は埋田というくらいだから、住む人もいない土地だった。
もちろん阿倍野もそうで、墓地ができるまでは、熊野街道筋にあたる今の阪堺電車の東天下茶屋駅辺りと、JR鶴ケ丘駅近辺に農村があっただけ。田畑や原野が広がる土地だった。だから、いくらでも広い墓地を造ることができたのだ。
「阿倍野墓地ができたことで、阿倍野が発展していくんです」と西俣さん。火葬場もできたので、葬儀に関わる店などができて、人が集まるようになる。【松井宏員】
-
実りの季節祝う太鼓・神輿の巡行 大阪・吹田
2011.10.10 02:00
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111010/osk11101002010003-n1.htm
府内各地で9日、秋祭りがにぎやかに繰り広げられ、吹田市の山田伊射奈岐(いざなぎ)神社では市無形民俗文化財に指定されている太鼓と神輿(みこし)の巡行が行われた。
氏子の若者たちが早朝、「エッサ、エッサ」のかけ声とともに太鼓や神輿を担ぎ、同神社を出発して山田地区一帯を巡行。花笠をかぶり、白や水色、黄色などカラフルな長いタスキをなびかせた小学4年生の「乗り子」たちが「ドンデンドン」と太鼓をたたくと、地区内は秋祭り一色に染まった。
-
千利休ゆかりのだんご茶会
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003103961.html
千利休が茶会を開いたと伝えられる大阪市内の神社で、当時を再現した「だんご茶会」が開かれています。
大阪・中央区の玉造稲荷神社は、豊臣家とのゆかりが深く、千利休が茶会を開いてだんごとお茶で武将らをもてなしたと伝えられています。
神社の境内では、当時の茶会を再現する「だんご茶会」が毎年この時期に開かれていて、きょうも裏千家の人たちが屋外で茶をたてる「野だて」を行って、訪れた人にだんごとともにふるまいました。きょうの大阪市は野だてにはうってつけのさわやかな秋晴れとなり、訪れた人たちは千利休をしのびながらお茶とだんごをゆっくりと味わっていました。
市内に住む60代の女性は、「結構なお手前でとてもおいしかった。当時の茶会がいまに受け継がれていることを知り、千利休の偉大さを改めて感じた」と話していました。
「だんご茶会」はきょう午後3時まで開かれています。
10月10日 12時21分
-
”豊臣秀吉と尼崎”展
http://www.nhk.or.jp/lnews/kobe/2023077901.html
天下統一を果たした豊臣秀吉と尼崎の関わりをテーマにした展示会が尼崎市で開かれています。
豊臣秀吉の時代、大坂の隣接地として大きく発展した尼崎には秀吉ゆかりの品が数多く残されており、展示会ではおよそ80点が紹介されています。
このうち尼崎市内の寺院に伝わる「豊臣秀吉木像」は高さが23センチあまりで、慶長3年=1598年に秀吉が死んだあとに作られたものとされています。
また秀吉が京都の聚楽第に天皇を招いた「聚楽第行幸」の様子を描いた屏風は、平成16年に市内の住宅で見つかりました。
このほか尼崎の代官からまつたけ200本を贈られたお礼に記された秀吉の朱印状も展示されています。
訪れた女性は「尼崎にこれほど多くの歴史的な資料が残っていることに驚きました」と話していました。
尼崎市教育委員会のカド野一裕学芸員は「伏見桃山時代の尼崎を展示品から感じとってもらいたい」と話していました。
この展示会は来月13日まで尼信博物館で開かれています。
学芸員カド野さんのカドは木偏に四の下に方です。
10月11日 18時10分
-
>>464
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/227 続・阿倍野墓地 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111013ddlk27070468000c.html
◆大阪市阿倍野区
◇経済界の大物眠る 意外と多い他県出身者
阿倍野墓地を歩いてみる。これだけお墓が並んでいると壮観だ。天を突かんばかりにそびえたつ墓石がそこここにある。中でもひときわ目立つのが五代友厚の墓だ。
中央の通路から奥まった所に据わる墓は、なんと石鳥居付き。巨大な墓石の前には石灯籠(どうろう)が10基も並び、それはそれは立派な墓所だ。五代友厚が大阪にとって、いかに重要な人物だったかを物語っているようだ。
薩摩藩士だった五代は、明治維新後、新政府で外国との交渉役として働いた。ヨーロッパ外遊の経験を生かして、堺で土佐藩士とフランス兵が衝突した堺事件の処理に当たり、大阪開港に踏み切って、大阪税関の前身となる川口運上所を開設。造幣局も大阪にもってきた。
実業家に転じて、堺紡績所や全国16カ所の鉱山を経営。インド藍の輸入を防ぐため、堂島に製藍所を設け、さらには証券取引所の前身の大阪株式取引所や、大阪商工会議所の前身の大阪商法会議所を設立して初代会頭を務め−−とまあ、いまの大阪経済界の礎を築いた人物なのだ。このため、北浜の大阪証券取引所の前と、本町橋の大阪商工会議所の脇に銅像が建っている。
これだけのやり手だったが、私腹を肥やすということをせず、身なりは粗末だったという。西洋通だったが洋食嫌いで、薩摩隼人らしく焼酎好き。明治18年9月25日没。
大阪案内人の西俣稔さんは、五代の言葉がお気に入りのよう。「成功と失敗の分かれ道はほんの一歩。進めば成功し、遅れれば失敗する、と言うてます」
大阪になくてはならぬ人物が、薩摩生まれだというところに興味をひかれる。大阪で名をなした人物には、大阪生まれでない人がけっこう多い。阿倍野墓地を逍遥(しょうよう)して墓を見つけた土居通夫もそうだ。
この人は四国は愛媛の宇和島藩士で、同じ四国の坂本龍馬と意気投合して脱藩し、大坂にやって来た。五代友厚に目をかけられて運上所に勤務。没落寸前の鴻池家の番頭に抜てきされるが、その時の条件がふるっている。「私が職務を怠るか、不利益を与えた時は即刻解雇すること。そうでなければ、何があっても終身雇用せよ」。よほどの自信家でないと吐けないセリフだ。
鴻池を立て直した土居は、それから大阪電燈、明治紡績の社長や日本生命、大阪毎日新聞の取締役など数々の会社の経営に関わり、大阪商業会議所の第7代会頭も務めた。大阪商議所に五代と並んで銅像が建っている。
また、1903(明治36)年に大阪で開かれて大きな経済効果を挙げた第五回勧業博覧会を、東京と争って誘致に成功した。5カ月で約450万人を集めた博覧会の跡地が、天王寺公園や新世界だから、土居は新世界の生みの親といえる。
初代通天閣の建設という功もある。通天閣の名は、土居通夫の通を取って「天に通じる建物」という意味で命名されたと長らく信じられていたが、儒学者の藤沢南岳が名付けたことが1985年に明らかになった。通天閣観光の西上雅章社長は「土居通夫が親交のあった藤沢南岳に、名付け親になって、と頼んだんです。藤沢南岳が土居通夫をヒントにしはったかどうかはわかりませんが」と話す。
大阪生まれでない大物が経済界になぜ多いのか。商都だったのが大きな要因なのはもちろんだが、大阪が進取の精神にあふれていたからではないか。新しいもの好き、誰もやらないことをやる−−。その気風はいま、どうか? 墓地で考えてしまった。【松井宏員】
-
行ってみよっと:レトロ建築めぐり 戦火の中、生き残る /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111013ddlk27040445000c.html
大阪の都心に残るレトロ建築を観察しに出た。
オフィス街の北浜(大阪市中央区)。堺筋沿いに細くそびえるのは1930(昭和5)年、生駒時計店の本店として建てられた生駒ビルヂング。「ビルヂング」がいい。
「これ、スクラッチタイルです。ひっかいたみたいな模様が特徴です」と案内していただく建築士、山本尚子さん(54)。外壁に目を近づけると、なるほど凝っている。「ちょっと離れて見てみましょう」。向かいの歩道から見上げる。ビルのてっぺんの6階で、悠然と時を知らせる時計。当初は英国製だったが、今はリズム社製。そのまま視線を下へ。5階から3階までの壁に振り子の棒が描かれ、2階にはおもりがデザインされている。街路樹の陰になって見えにくいところが、これまた奥ゆかしい。ちなみに午後8時から同10時に行くとイルミネーションの明かりが振り子が振れるように揺らめいてきれい!
玄関を入ると、鐘が鎮座している。かつては時報を鳴らしたが、昭和40年代に“引退”。現在はデジタル録音で残された音が、毎日8、12、16、20時の4回流れる。「周辺のご迷惑にならないよう、音量を控えめにしています」と生駒伸夫社長。ちょっと耳を澄ませた方がよいかも。
ガス灯が並ぶ三休橋筋を通って、1927(昭和2)年築の芝川ビルへ。当初は芝蘭社家政学園が入り、いとはんが花嫁修業にいそしんだ。今はチョコレート店、ブティックなどが入居するオシャレなビル。
角から見る姿がどっしりとしてカッコいい。内部で楽しいのは洗面所のタイル。丸みのある一枚一枚に、心もまあるくなる。山本さんは「インカ文明ふうの彫刻がある部屋があります。今度、ショッピングがてら見てください」。
次は、1931(昭和6)年築の綿業会館。威厳のある風格は重要文化財だ。何しろ建築にかけた事業費がケタはずれ。故・岡常夫・東洋紡績専務の寄付などで150万円。この数字がどんなもんかこれだけではよくわからないが、同じ年、大阪城天守閣が再建された。その費用が47万円。つまり天守閣三つ建つ勘定。
では内部へ。玄関ホールはイタリアルネサンス様式。2階までの高い天井を見上げる。「シャンデリアはミラノのスカラ座のものを模したものです」と事務局長の花崎正男さん。絢爛(けんらん)豪華さに、ため息が出る。続いて会員食堂へ。「石の壁のようにみえるでしょ?」と花崎さん。ノックすると、コンコンと軽い音がはねかえってきた。「木製の吸音材です。フォークとお皿がガチャガチャいうのを響かせないためです」と山本さんが解説。当時の紳士淑女は、ナイフ&フォークにまだ不慣れだった!?
ところで、この辺りは戦火で焼け野原となったが、この建物はしっかと残った。なぜ生き残れた?「壁は耐火れんが、窓はワイヤ入りの耐火ガラスを使っていましたから。関東大震災を教訓に設計したのです。でも、あの窓ガラス見てください」と花崎さん。ゆがんだガラス。熱さに食いしばったよう。
大正10(1921)年築の青山ビルは、ツタがトレードマーク。巻き付いているのは、昭和期に甲子園から株分けされたものだ。「ツタは建物の温度を下げたり、壁の老化防止に役立っています」と青山正美社長(70)。ビルの奥からのぞくイチョウは樹齢90年、クスノキは300〜400年。自然とともに年を重ねている。さて、1階の丸福珈琲店で一服。趣のある内装に包まれ、カフェインがじんわりしみる。【三角真理】
==============
綿業会館(電話06・6231・4881)は通常は公開していないが、第4土曜日のみ、有料で予約制で館内見学できる▽青山ビル(電話06・6231・6397)の見学は要予約。
-
ちょっと気になりましたが大阪のいいニュースってやたらと「写真なし」
が多いですよよね。
-
大阪国際女子マラソンでも、コースが御堂筋にかかると選手のアップになります
御堂筋の左右の建物は見せません
-
玉造稲荷神社に豊臣秀頼の銅像を奉納
2011年10月14日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001110140004
豊臣秀頼(1593〜1615)が再興した玉造稲荷(いなり)神社(大阪市中央区玉造2丁目)に秀頼の銅像が建てられ13日、除幕式があった。大阪城天守閣の復興80周年を記念して兵庫県西宮市の女性(53)が奉納し、氏子ら約160人が400年前の城主の「登場」を祝った。
銅像は衣冠束帯姿で高さ3メートル、重さ約720キロ。高さ3メートルの御影石の台座の上に立つ。除幕式には赤い甲冑(かっちゅう)姿で大阪城内の清掃に取り組むNPO法人「大阪城甲冑隊」も登場し、像の前で演舞を披露した。
禰宜(ねぎ)の鈴木伸広さん(36)は「『ひよわ』などと語られることもあるが、帝王学を学んだ秀頼公の本当の姿を伝えたい」と話した。
-
第13回和泉弥生ロマン・ツーデーウオーク開幕 大阪
http://www.asahi.com/kansai/sports/news/OSK201110150045.html
弥生時代の大型遺跡や寺社を巡る「第13回和泉弥生ロマン・ツーデーウオーク」(大阪府和泉市、和泉商工会議所、朝日新聞社など主催)が15日、和泉市いぶき野4丁目の中央公園で開幕した。全国から約1300人が参加し、10〜30キロの3コースに分かれて同市内を歩いた。
前日からの雨で山道を通るコースの一部が変更となったが、午前7時半に30キロコースの参加者約250人が先頭を切って出発。紅葉で知られる松尾寺や途中の公園などに立ち寄った。
16日は、弥生時代最大規模の建物跡を復元した池上曽根史跡公園などを回る25キロ、20キロ、10キロの3コースがあり、当日参加も受け付ける。問い合わせは実行委事務局(0725・43・4555)へ。
-
あすから茨木神社で「黒井の清水大茶会」 大阪
2011.10.14 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111014/osk11101402060003-n1.htm
豊臣秀吉ゆかりの名水にちなむ「黒井の清水大茶会」が15、16の両日、茨木市元町の茨木神社で開かれる。
黒井の清水は同神社境内にあり、秀吉が茶の湯に使ったと伝えられる名水。両日とも午前10時〜午後3時に、黒井の清水をモチーフにした創作生菓子付きの野点(のだて)席が設けられるほか、地元物産の販売や写真展なども。また、15日は奉茶式(午前9時〜10時)や茨木神社雅楽会の演奏(午後2時半〜3時)、16日は琴の演奏(午前11時〜11時半、午後1時半〜2時)が行われる。
茶券は1枚500円で、市観光協会事務所などのほか当日の会場でも販売。着物での参加者には茶券がプレゼントされる。問い合わせは市観光協会((電)072・645・2020)。
-
「大大阪」の心斎橋体感 ファッションなど展示 歴博で特別展
2011.10.16 02:35
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111016/osk11101602350002-n1.htm
近代の大阪・心斎橋筋にスポットを当てた特別展「心斎橋きものモダン−煌めきの大大阪時代−」が15日、大阪市中央区の大阪歴史博物館で始まり、当時の若い女性のファッションやライフスタイルが紹介されている。12月4日まで。
開館10周年を記念し、昭和初期に呼ばれた「大大阪時代」の、華やかで活気ある心斎橋筋のにぎわいを体感してもらおうと企画。
会場には、断髪姿の和装モダンガールを描いた高橋成薇(せいび)作「秋立つ」やしま柄の着物を粋に着こなした小磯良平作「着物の女」など絵画のほか、心斎橋に生まれ育った女性たちが愛用した着物や心斎橋の宣伝が印刷されたマッチラベルなど約150点が並ぶ。
注目は、近代大阪で隆盛を誇った化粧品メーカーの商品やポスター。製造技術の革新だけでなく、パッケージデザイン自体がモダンで、来館客らは「かわいい」と展示ケースをのぞき込んでいた。
午前9時半〜午後5時(毎週金曜日は午後8時まで)。観覧料は特別展のみ大人800円、高大生600円、中学生以下無料。
-
光の中に富田の歴史 高槻で「灯露祭」 大阪
2011.10.17 02:25
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111017/osk11101702260003-n1.htm
幻想的な「光」の中で歴史、文化に思いをめぐらす「灯露祭」が16日夕、高槻市富田(とんだ)地区の本照寺と三輪神社で行われた。
富田の町は戦国時代に寺内町として栄えた。「本能寺の変」で織田信長を暗殺した明智光秀を討つため、羽柴(豊臣)秀吉が「山崎の合戦」に臨んだ際、この町に一時宿陣を設けたという故事もある。江戸時代には酒造業などが盛んだった。
「灯露祭」はこうした歴史や遺構、文化を活用して町おこし活動をしている地元有志の集まり「けさたんと会」(石井清隆会長)が開催した。
子供たちが描いた絵を張った灯籠約400個がともされ、寺社の輪郭が夜空に浮かびあがった。
訪れた家族連れや若いグループは、名物の「水まんじゅう」や酒かすでつくった「あやめうどん」を味わい「きれいやなあ」と話しながら灯籠の間を散策し、地元の歴史や文化を話し合っていた。
-
>>470
やっぱり同じように感じてる人が多いようですね。
-
これも写真が欲しかったですね。
黄金の古墳 大阪に出現?
2011.10.17 14:24
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111017/osk11101715530010-n1.htm
世界遺産登録の暫定リスト入りした古市古墳群(大阪府藤井寺市)の一角に、収穫期を迎え黄金色に色づいた稲でかたどった前方後円墳が登場し、注目を集めている。
世界遺産登録に向けた機運を盛り上げようと、藤井寺市が平成21年から始めた。市職員が苗を植え、稲の一部を刈って形を整えた。
仁賢天皇陵(同市)の10分の1の大きさで、全長15メートル。古墳のくびれ箇所に片方だけある「造出し」と呼ばれる突出部も忠実に再現した。22日に地元の小学生が、古代の方法にのっとって石包丁で刈り取る予定。
-
>>477
それを聞いて改めてこの不快感は関東人の言う「被害妄想」ではないと確信しました。
-
上方落語の寄席発祥の地に顕彰碑…上方落語協会
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20111019-OYO1T00699.htm?from=main1
上方落語協会が、上方落語の寄席発祥の地とされる坐摩(いかすり)神社(大阪市中央区)境内に顕彰碑を建立し、19日、除幕式を行った。
上方落語は、江戸中期から神社境内や道端など屋外で披露されていたが、江戸後期に入り、東西桂派の祖・初代桂文治が坐摩神社境内に初めて定席の寄席小屋を建てて演じたとされる。
碑は高さ1・3メートル、幅1・5メートル。大阪庶民文化史の研究者である肥田晧三・元関西大教授と、同協会の桂三枝会長が、文治の功績など碑文を寄せた。
除幕式で、三枝会長は「文治の開いた寄席が、脈々と天満天神繁昌亭につながってきた。碑はその原点の証し。ここへ来たら元気をもらえそうだ」と話した。
(2011年10月19日 読売新聞)
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/228 続々・阿倍野墓地 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111020ddlk27070381000c.html
◆大阪市阿倍野区
◇「千日前」育てた弁次郎も 知人のために巨大紀念碑
前回は、阿倍野墓地に眠る五代友厚と土居通夫を紹介したが、まだまだ数多くの著名人のお墓がある。訪ねる人が多いので、霊園事務所には著名人の36基の墓の位置を示した図を用意している。これがないと、とてもじゃないが探せるものではない。
ほかの著名人をざっと紹介すると−−。名市長の誉れ高い七代目大阪市長の関一。御堂筋を現在の幹線道路に拡幅し、地下鉄御堂筋線を通し、大阪城天守閣を再建し−−と、いまの大阪の基礎を築いた。
文化関係では、江戸時代に上方舞の山村流を開いた山村友五郎。それから明治期に活躍した日本画家の菅楯彦。絵画はさっぱりの私は、この人の絵は見たことがないが、名前は知っている。南地「富田屋」の名妓とうたわれた芸者、八千代を妻にしたからだ。無名だった菅楯彦は、この結婚で名を上げ、妻をモデルに画業でも腕を上げていく。八千代こと美記は結婚7年後に病死してしまう。お墓は五代友厚の墓の手前にあって、2人の名前が仲良く並んでいる。
この近くには、生涯を売春反対、女性解放運動にささげた林歌子の墓もある。隣には「大阪婦人ホーム共同墓地」の墓石が建つ。大阪婦人ホームは、元遊女らを守り、仕事をあっせんするために林歌子が設立した施設だ。
面白いところでは奥田弁次郎という人物。天満の天神さんの境内で露天商を営んでいたが、1870(明治3)年に刑場が廃止された千日前に真っ先に飲食店を出した。場所が場所だけに、誰も気持ち悪がって手を出さなかったというのにだ。露天商仲間を集めて夜店を出し、さらに興行の許可を取って、千日前を歓楽街に育てあげた。
弁次郎の墓には、名前の脇に「千日前」と刻まれている。千日前といえば奥田弁次郎だったのだろう。彼の墓より目立つのが巨大な「紀念碑」だ。「自分の知り合いは墓など建ててもらえないだろう」と生前に建てたものだという。人柄をしのばせる逸話だ。「奥田知人死亡者」として68人の名前が刻まれていて、中には「飴捨」という何者なのかわからない名前や、「曲馬師アームストン」という外国人らしき名前もある。みな貧しく名もない人たちなのだろう。
新聞人も眠っている。毎日新聞の前身である大阪毎日新聞社長で、「中興の祖」といわれた本山彦一。1903(明治36)年に社長に就任し、30年もその座にあった。この間に、サンデー毎日や英文毎日、唯一の点字新聞の点字毎日を創刊。社会事業団を創設して、文化・福祉事業にも乗り出した。
ライバル紙の関係者では、大阪朝日新聞を創立した村山龍平、名編集長の名をはせた朝日新聞の西村天囚。墓地の一番奥には、無縁墓や警察官の墓地がある。
墓石の森をさまよっていて、ふと顔を上げると、北を走る阪神高速の高架下の青い塀の向こうから、人の頭が飛び出してきてギョッとした。どうやらトランポリンをしているのだった。【松井宏員】
-
神前に3種の供え物 再建の吉志部神社で「どんじ祭」
2011年10月19日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111019/20111019019.html
今年5月に再建された「吉志部(きしべ)神社」(奥田正夫宮司、大阪府吹田市岸部北)で17日、地元に古くから伝わる「どんじ祭」が行われた。4月に同市の無形民俗文化財に指定されてから初めてで、白蒸しなど3種の供え物が神前に供えられた。
同祭は、秋の収穫に感謝して3種の供え物を神前に供える習わしがあり、「どんじ」は握り飯をさす「屯食(とんじき)」がなまったといわれている。同神社裏の釈迦(しゃか)ケ池に住む大蛇への人身御供の名残と伝えられる稚児(女児)たちが、供え物を奉納する大切な役割を担う。
戦後は中断していたが、1990年に本殿の再建380年記念行事として復活し、以後お供えを担当する岸部の東、小路、南の3地区が継承に努めてきた。国の重要文化財だった神社本殿は2008年5月の火災で全焼したが、神事は地元有志で07年に発足した「吉志部神社どんじ保存会」の手によって継続されてきた。
この日は早朝から南、小路、東地区の順に氏子らが神社を訪れ、3地区の供え物が神前にそろった。小路では氏子らが地区の集会所に集まり、供え物を唐櫃(からびつ)と呼ばれる木の箱に詰めて運び出し、神社まで約2キロの道を練り歩いた。4人の稚児が木綿の着物にしめ縄の帯を締めて緒のついた草履をはき、サンドラと呼ばれる輪を頭に載せたいでたちで行列に加わった。
-
秀吉側近、上方落語の元祖 曽呂利新左衛門ゆかりの地歩こう 大阪
2011.10.19 02:12
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111019/osk11101902130002-n1.htm
■23日「堺めぐり」
豊臣秀吉の側近である「お伽衆(とぎしゅう)」として仕え、上方落語の元祖ともいわれる堺出身の人物、曽呂利(そろり)新左衛門を顕彰しようと、落語家の桂福団治さんが堺市内で「曽呂利寄席」と銘打った落語会を行っている。23日には3回目の寄席を開くのに合わせ、新左衛門にちなんだ町歩きツアーも開催、参加者を募集している。
◇
曽呂利新左衛門はもともと、刀の鞘を作る職人。秀吉にお伽衆として仕え、とんちで秀吉を感心させたと伝えられ、その活躍は「曽呂利噺(ばなし)」として現代に伝わっている。上方落語の内容と重なる話もあるため、落語の元祖ともされる。
しかし、「今ではその名が忘れられつつある」として、桂福団治さんが曽呂利噺を盛り込んだ寄席を始めた。「曽呂利寄席」として今年1月に初開催。今回で3回目を迎え、福団治さんは「上方落語の始祖ともされる重要な方。曽呂利噺とともに存在を広めたい」と話す。
また、合わせて開く町歩きツアーは「お伽衆の町 堺めぐり」として、大阪城天守閣研究主幹の北川央(ひろし)さんを案内人に、新左衛門らお伽衆ゆかりの地を巡る。
ツアーでは、新左衛門の屋敷跡(堺区市之町東)のほか、同様にお伽衆だった茶人、千利休の屋敷跡(同区宿院町西)などをたどる。北川さんは「お伽衆は秀吉のブレーンとして政策の立案にも関わった。堺が、政治に参画する人材を輩出していたことが分かるはず」と話している。
町歩きは当日午前10時に和菓子店「曽呂利」本店(堺区宿屋町西)前集合、「曽呂利寄席」は午後2時からホテルリバティプラザ(堺区翁橋町)。町歩きのみの参加も可能で無料、寄席は2800円(前売り2300円)。問い合わせは、桂福団治事務所((電)090・1027・9611)。
-
<削除>
-
大阪城歴史 多面的に 大阪市役所でパネル展
2011年10月21日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111021/20111021027.html
大阪市役所玄関ホール(北区)で「大阪城天守閣復興80周年記念パネル展」が開かれている。写真や模型、映像などによって大阪城の歴史を学ぶことができ、来庁者が興味深そうに見入っている。28日まで。
大阪城天守閣は1931(昭和6)年に復興して来月7日に80周年を迎える。
パネル展示は「豊臣期から徳川時代」「幕末から近代・戦後」など時代の移り変わりに焦点が当てられ、びょうぶに描かれた絵や写真を通じて大坂城の歴史を理解することができる。
3次元レーザスキャナーのコーナーもあり、大手門など重要文化財の一部を計測したデータを使い、パソコンで立体映像が楽しめる。豊臣秀吉が築造し大坂夏の陣で焼けた天守閣の精巧な50分の1模型も展示されている。
平日午前9時〜午後5時半、土・日曜日午前10時〜午後6時。問い合わせは電話06(6469)5154、大阪城魅力担当へ。
-
天満天神えびす祭:招福娘を募集 来年1月9〜11日開催 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111022ddlk27040346000c.html
来年1月9〜11日に開催される大阪天満宮(大阪市北区)の「天満天神えびす祭」で、参加者に酒を振る舞う「招福娘」(4人)の募集が始まった。
戦後の中断を経て07年に復活。招福娘の募集は昨年に続いて2回目で、御利益があるとされる学徳向上にちなんで大学生限定としている。
応募締め切りは11月20日。書類選考後、12月3日に同天満宮で代表選考会を行う。問い合わせは同天満宮広報課(06・6353・0025)へ。【稲生陽】
-
鎧姿で練り歩く 高野街道まつり
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111023-OYT8T00920.htm
河内長野市が高野山へ至る街道の宿場町だった頃の様子を感じてもらうイベント「高野街道まつり」が23日、同市内であり、大勢の家族連れらでにぎわった。
今年で5回目。近鉄・南海の河内長野駅と南海三日市町駅周辺などを会場に、特産品販売や、2会場間をつなぐ高野街道約3・5キロの散策を楽しむスタンプラリーなどが行われた。
今年は初めて、大阪城の清掃活動などをするNPO法人「大阪城甲冑(かっちゅう)隊」が街道を行進。大坂夏の陣で名をはせた武将・真田幸村が蟄居(ちっきょ)先の和歌山県・九度山から高野街道を通って大坂城に入ったとの一説にちなみ、メンバー10人が真っ赤な鎧(よろい)姿でほら貝を鳴らしながら、勇壮に練り歩いた=写真=。
河井計実代表(49)は「幸村が大坂方にはせ参じるため、歩いた道と思うと感無量です」と話していた。
(2011年10月24日 読売新聞)
-
秋の風物詩、市街地駆ける 勇壮に流鏑馬神事
2011年10月26日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111026/20111026017.html
大阪市北区の大阪天満宮(寺井種伯宮司)で25日、秋大祭の流鏑馬(やぶさめ)神事が行われた。大阪の市街地で行われる流鏑馬に、多くの参詣客が見入った。
起源は不明だが、戦国時代には流鏑馬が行われていたという同宮。江戸時代初期に一時中断したこともあったが、復興後は浪速の秋の風物詩として随筆や絵画の題材にもなっている。
同宮では江戸時代後期から、周辺に人家が密集し、参詣者が激増したことから、的を矢で射る一般的な形式でなく、馬上から半弓で的を打ち破る独特の形式で行われている。
神職が騎乗し、表門から南の折り返し地点までの馬場をはらい清める「馬場清祓(きよはらい)の儀」の後、室町時代の狩装束を着た本駆者が馬を駆って登場。折り返し地点までを3往復し、3カ所の的を半弓で打ち破ると、沿道に詰めかけた参詣客から大きな歓声と拍手が起こった。
的の破片は厄よけの縁起物とあって、多くの参詣客が持ち帰っていた
-
豊臣秀頼:銅像を除幕−−中央・玉造稲荷神社 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111026ddlk27040374000c.html
豊臣秀吉の次男・秀頼と縁が深い大阪市中央区玉造2の玉造稲荷神社(鈴木一男宮司)でこのほど、秀頼の銅像の除幕式があり、関係者ら約160人が出席した。同神社によると、秀頼の銅像は全国で唯一という。
銅像は、高さ約3メートル。青年時代の秀頼の人物画をもとに、文化勲章受章者の彫刻家、中村晋也さんが制作した。悠然とした表情の衣冠束帯姿の立像で、石台(高さ約3メートル)に載せられている。
同神社は、秀吉が築いた大阪城三の丸の内にあり、戦乱で消失した社殿を秀頼が再興した。当時の鳥居が境内に保存されているほか、秀頼誕生の際の胎盤などが祭られている。
除幕式では、神事の後、NPO法人大阪城甲冑(かっちゅう)隊によるほら貝の合図で幕が引かれ、参列者から拍手が起こった。彫刻家の中村さんは「秀頼公の像が大阪の人々に親しまれ、街のシンボルになるよう願っています」とあいさつ。甲冑隊による演舞も披露された。【矢島弓枝】
-
船上で楽しむ淀川の秋 来月、「歴史探訪の旅」開催 大阪
2011.10.26 02:10
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111026/osk11102602100004-n1.htm
淀川の秋の風情を船上から楽しみ、周辺の歴史をたどる恒例の「舟運復活! 淀川歴史探訪の旅」が11月3〜6日と10、11、17、18日に催される。大阪市から枚方市に向かう「上り」と、枚方市から大阪市に向かう「下り」の2コースを設定している。
「淀川上りの旅コース」(道中弁当付き、4700円)は、京阪・天満橋駅(大阪市中央区)下車すぐの八軒家浜船着場を午前9時半に出航、大川−毛馬閘門(こうもん)−枚方淀川河川公園枚方船着場に午後0時半ごろ到着したあと、枚方市内を自由散策する。
「淀川下りの旅コース」(くらわんか鮨(ずし)付き、4700円)は、枚方市内を自由散策後、京阪・枚方市駅から徒歩約15分の枚方船着場を午後1時に出航、毛馬閘門−大川−八軒家浜船着場に午後3時半ごろ到着の予定。
両行程とも語り部による淀川流域案内や淀川ゆかりの民謡の披露、かつての船宿「鍵屋資料館」(枚方市)入館券付き。予約制。問い合わせは大阪水上バス予約センター((電)0570・057771)。
-
藤田伝三郎サミット:関西財界立役者、業績振り返る−−あす /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111027ddlk27040410000c.html
建設、鉄道、金融など数多くの事業を手掛けた関西財界の立役者、藤田伝三郎の業績を振り返る「藤田伝三郎サミット」(大阪商工会議所後援)が28日、藤田家旧本邸の太閤園(大阪市都島区網島町)で開かれる。
藤田は1841年、現在の山口県萩市で生まれ、今年生誕170年。明治政府高官の人脈も生かして事業を展開し、大阪商法会議所(現大阪商工会議所)の2代目会頭を務めた。サミットでは、大阪企業家ミュージアム館長の宮本又郎・関西学院大大学院教授が藤田の先見性などを基調講演し、ゆかりの関西電力や毎日新聞の関係者らによるパネルディスカッションがある。
午後6時半開始で、懇親会もある。参加費は講演のみ1000円、懇親会込みは6000円。予約制で、太閤園(06・6356・1110)へ。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/229 馬2題 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111027ddlk27070431000c.html
◆大阪市阿倍野区
◇阪堺電車、ご先祖は馬車 有名人だったアームストン
前回、千日前を開発した奥田弁次郎の「知人死亡者」として紀念碑に刻まれていた「曲馬師アームストン」について触れたところ、読者からご指摘をいただいた。名もない人ではなく、ずいぶん有名人であったのだ。
興行師、奥田弁次郎が、上海で興行中だったアームストン社中を日本に呼んだのは1892(明治25)年。男女45人、馬35頭、大象2頭、虎3頭、獅子1頭、大熊2頭−−という大一座だった。
ミナミでの興行の様子を大阪毎日新聞は大要、次のように報じている。「昼夜2回とも立錐(りっすい)の余地のない大入り」「1人の少女が10頭の馬を自由に使い分け、2頭の大象を思うがままになす。わけてもアームストンが2頭の馬を手指のように自由に動かし、種々の芸をさせるのは感賞するほかない。その上、道化もある」。今でいうサーカス団だ。
アームストン社中は横浜や東京でも興行し、大成功を収める。アームストンは英国人で、馬を自由に使うことができ、長女は美人で、次男、三男も座員だった−−と当時の新聞は伝えている。
翌明治26年12月、アームストンはシンガポールで死去。奥田弁次郎が知り合いのために紀念碑を建てたのは同28年。親交を結び、遠い異国で果てた大曲馬師をしのんで、名前を刻んだのだろう。座は2代目が継ぎ、その後も来日している。
府立中之島図書館の3階で開催中の「浪華の見世物」展(12月3日まで)に、「奥田弁治郎曲馬興業絵番付」が展示されている。これは興行の宣伝チラシで、文中に「アームストン」の名前も見える。空中ブランコやはしごの曲乗り、人間ピラミッドなどの絵が描かれていて、動物は出てこない。
◇
阿倍野墓地を出て、大阪案内人の西俣稔さんと先へ行くことにする。あべの筋に出ると、ガタンゴトンと阪堺電車が走っている。大阪唯一の路面電車だ。
経営は阪堺電気軌道。南海電鉄の100%子会社で、1980年に分離・独立した。そのチンチン電車を見ながら、西俣さんが「最初は馬が客車をひく馬車やったんです」。
経営は、その名もズバリ「大阪馬車鉄道」。アームストン社中の来日と同じ、明治25年ごろにできた天下茶屋遊園地に行く客を見込んで馬車鉄道を通す計画だったが、他社に先を越されたため、路線を変更。1900(明治33)年、四天王寺西門前から遊園地東側の東天下茶屋までの約3キロを結んで開通した。45頭の馬を抱え、客車7両を交代でひいていた。
線路の上を馬車が走るという、現代からすると珍妙な光景だが、けっこう人気だったようだ。翌々年には住吉大社まで延伸され、明治36年には第5回内国勧業博覧会が天王寺・堺を会場に開かれて入場者が詰めかけた。明治39年には堺・浜寺に海水浴場や水練学校が開設されて一大リゾート地となり、馬車鉄道は大いににぎわったのだ。
しかし、次第に馬車では間に合わなくなり、明治42年に南海と合併して電車になった。1両編成でトコトコ走る阪堺電車は、このせわしない現代社会にあって、どことなくのんびり見える。ご先祖が馬車だと聞いたから、よけいそう見えるのかもしれない。
馬がひく鉄道を、馬使いの名手が見たら何と言っただろうか。らちもないことを妄想してみる。【松井宏員】
-
戦後航空機のさきがけ 木製グライダー、修理終え母校に里帰り 大阪・布施
2011.10.27 21:29
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111027/osk11102722060015-n1.htm
戦後航空機のさきがけとなる木製グライダーが27日、修理を終え、5年ぶりに製造元の大阪府立布施工科高校に戻ってきた。
戦後の航空機製造などを禁じるGHQ(連合国軍総司令部)の「航空禁止令」が解かれた昭和27年、同校教員や生徒が4カ月かけて製作。戦後初の航空機製造という。
部品の傷みなどもあるため滑空は難しいが、同校OBは「戦後の日本グライダー史のさきがけとなった機体が往年の状態に戻った」と笑みを浮かべた。
-
七五三の準備大詰め 住吉大社
2011年11月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111101/20111101027.html
七五三で毎年多くの参拝客が訪れる大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)で31日、参拝者に渡すお下がりの袋詰め作業がピークを迎えた。この日までに計6千袋の袋詰めを終え、シーズン本番を迎える。
袋詰め作業は、頭に「挿頭(かざし)」という髪飾りをつけた「神楽女(かぐらめ)」と呼ばれる女性職員が6人が行い、手分けして千歳あめなどを詰めていった。作業は10月初旬から行い、この日は最も多い約500袋に詰めた。
20代の神楽女の女性は「お子さまが元気ですこやかに育っていただければとの願いを込めて入れています。来られた方には、一生に一度の記念に残るよう心掛けてご奉仕していきたい」と話していた。
住吉大社によると、七五三のピークは今月中旬ごろで、来月初旬まで参拝者は続く。
-
七五三 成長願って 住吉大社
2011年11月01日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001111010003
15日の七五三を前に、大阪市住吉区の住吉大社は31日、参拝者に配る祝い袋を詰める作業を報道陣に公開した。赤いはかま姿の巫女(みこ)6人が千歳飴(ちとせあめ)やお守り、折り紙などを袋に手早く詰め込んでいった。
住吉大社の七五三参りは祈願料と記念品のセットで1万円。例年約6千組が訪れる。
今年の参拝者は日曜日の13日に約800組とピークを迎える見通し。
権禰宜(ごんねぎ)の武田昌也さん(33)は「10年ほど前は1組3人程度が多かったのが、最近は5〜10人が目立つ。親族が集まる行事になっているのでは」と話す。
-
今宮戎神社が福娘を募集 奉仕期間は1月5〜11日
2011年11月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111103/20111103037.html
今宮戎(えびす)神社(大阪市浪速区)は、来年1月の「十日戎」に花を添える福娘を募集している。奉仕期間は1月5〜11日。
福娘はそろいの着物に千早を着用し、頭には烏帽子(えぼし)をかぶり、官公庁などへのあいさつ回りや十日戎関連の神事に参列するほか、福ザサの授与や宝恵(ほえ)かご行列に参加する。
対象は18〜23歳の未婚女性(高校生は除く)。書類審査を経て面接を実施し、今月23日の審査で40人の福娘を選出。12月4日の発表会で、福娘の装束を着てお披露目される。40人には15万円と訪問着1着が贈呈される。
応募は市販の履歴書に所定の事項を記入、写真を添付し、〒556−0003、大阪市浪速区恵美須西1の6の10、今宮戎神社へ。10日必着。問い合わせは電話06(6643)0150、同神社へ。
-
東成区の魅力に触れる 5、6日に歴史文化まつり 大阪
2011.11.2 02:29
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111102/osk11110202290004-n1.htm
大阪市東成区を通る歴史街道「暗越(くらがりごえ)奈良街道」を舞台に、地域の魅力を発信する町おこしイベント「東成歴史文化まつり」が5、6日に開催される。
歴史や文化を中心とする地域資源を活用した区民主体の企画。昨年まで4回行われた「暗越奈良街道フォーラム」から名称を変えて装いを一新した。
玉造、深江など4会場があり、玉造エリアでは、若手の飲食店経営者らが今年初めてグルメ屋台を出店。オリジナルカクテルや自家製ソーセージなどが味わえ、小学生以下にはうどんの無料配布も。古い町並みが残る深江エリアでは、歴史的建造物を巡るスタンプラリーを開催。また平野川で実施されている川魚のモツゴを使った環境活動をアピールする「もつごのぼり」も登場する予定。
このほかゆるキャラのステージや町家ライブ、寺院での落語会など盛りだくさんの内容で、東成区役所市民協働課の田中信吾さんは「今年は初の企画も多くさらににぎやかになりそう。イベントを通して東成区の魅力を広く伝えたい」と話している。問い合わせは同まつり実行委員会((電)06・6977・9118)。
-
大阪城天守閣復興80周年「夢祭」きょう開幕 市民に感謝、盛大に祝う
2011.11.3 02:44
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111103/osk11110302440001-n1.htm
大阪城天守閣の復興から80周年を迎えることを記念した「復興80周年祭 大阪城夢祭2011」が3日、大阪城天守閣前本丸広場(大阪市中央区)で開幕する。13日までの期間中、特設ステージでさまざまなイベントが繰り広げられるほか、戦国武将にちなんだグルメ大会なども行われ、節目の年を盛大に祝う。
大阪城の天守閣は豊臣秀吉が建てた初代から数えて3代目。落雷で焼失したが、昭和6年11月7日に市民の寄付金により復興、今年で80周年を迎える。
夢祭では3〜6日、広場の特設ステージで地元の高校生らによる和太鼓演奏や大道芸ステージ、よさこいイベントなどを展開。期間中には「大阪城知られざるおもしろパネル展」を広場と天守閣2階会議室(天守閣入館料として高校生以上600円が必要)で催す。
12、13日には豊臣秀吉や伊達政宗、直江兼続といった人気の戦国武将のゆかりの地にちなんだグルメ大会も。それぞれの地域の名産品を使った飲食ブースでの食事が楽しめる。
担当者は「3代目天守閣は市民により復興された。市民への感謝とともに復興当時のにぎわいをイベントを通じて知ってほしい」としている。問い合わせは大阪城天守閣((電)06・6941・3044)。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/230 聖天山 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111103ddlk27070441000c.html
◆大阪市阿倍野区
◇住民が守ったクスノキ 戦後、「復興資材」から逃れる
あべの筋を西へ折れる。すぐ北に阿倍野墓地。車1台が通れる幅の道沿いには、「チロリン村」という何屋さんかわからん看板や畳屋さん、たばこ屋さん、銭湯など昔ながらの商売が、住宅にまじって残っている。きのうきょうできたばっかりの街と違って、こういう時を経た街は歩いていて飽きない。
町名表示は共立通となっている。元は経立(きょうだつ)といった。字を置き換えたのだ。
約600メートルばかり歩くと、その先はドーンと地面が落ちている。こちらが崖(がけ)の上、すぐ先は崖の下。上町台地の西端だ。「落差15メートルといわれてます」と大阪案内人の西俣稔さんの解説。「この下は大昔は海で、弥生時代の人々は、タコつぼでイイダコを捕ったりして、崖の上の竪穴式住居で暮らしてたんです」
阿倍野墓地に隣接する区民センターには、遺跡から出土した品々が展示されている。網に付けるおもりや鉄製のヤスリなどがあり、海と密接した暮らしぶりがうかがえる。
崖の上を南北に通る道を境に、こっちが阿倍野区、石段を下りたあっちが西成区。石段の下にも住宅街が広がり、子どもたちが自転車に乗って遊んでいたりする。大昔、そこは海だったんだよ。
南に下る。崖の上には大谷中学・高校、その反対側には朽ち果てた廃屋がいくつか目に付いた。道は次第に下り坂になり、公園に出た。聖天山(しょうてんやま)公園だ。大阪七低山の一つ、標高15メートルの聖天山がある一帯だから。聖天山には昔、古墳があった。公園の南には「聖天さん」と呼ばれる正圓寺(しょうえんじ)がある。
聖天山の西は聖天下という地名だ。聖天山の下だからで、ここは西成区になる。以前、老夫婦がやってはる聖天下の立ち飲みに行ったことがある。居合わせた地元の常連さんたちと一杯やってしばらくあと、この辺りを散歩していたら、角を曲がった所で常連さんの1人と出くわした。なぜか手押し車にリンゴを山ほど積んでいたその常連さんは、私の顔を覚えていてくれて、リンゴを2個くれた。なんだかうれしくて、リンゴを両手でお手玉のようにポンポンと弾ませながら歩いた覚えがある。
閑話休題。聖天山公園では小さな子どもたちが遊具で遊んでいたり、高校生たちがだべっていたりする。「これが大事」と西俣さんが指さす先には、高さ約3メートル、直径約10メートルの円形の石垣に囲まれて、1本の大きなクスノキが屹立(きつりつ)している。
阿倍野育ちの難波りんごさんが00年に著した「私たちの阿倍野」によると、眺めが良くて遊びに来る人もいた所運山は終戦後、建材業者が買い取り、戦災復興のために木を切り、壁土用に土を掘った。あっという間にハゲ山となったが、ただ1本、このクスノキを地元の人たちが寝ずの番をして見張り、残したのだ。もともとは石垣の上部までが表土だったそうだ。
「阿倍野には、地元の力で守り抜いたものが、あと二つあるんです」と西俣さん。おいおい紹介していく。【松井宏員】
==============
◇「古地図で散歩する大阪」 西俣さん講座、受講生を募集
大阪案内人、西俣稔さんが大阪の街を案内する毎日文化センターの講座「古地図で散歩する大阪」(11月27日〜来年4月)の受講生を募集しています。「菅原道真ゆかりの天満」「コリアタウン生野」「秀吉と乱歩ゆかりの守口」など計6回。毎月第4日曜の14時集合。受講料は6カ月で9650円(交通費は自己負担)。申し込みは毎日文化センター(06・6346・8700)。
-
南大阪「KANSAIウオーク」 620人、歴史実感
2011.11.6 02:02
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111106/osk11110602020003-n1.htm
「KANSAIウオーク2011」(産経新聞社主催、ライオン特別協賛)が5日、藤井寺市の石川河川公園を発着点に行われた。府民ら約620人が参加し、古市古墳群や道明寺などを散策した。
「大阪市内エリア」(7月)、「奈良エリア」(9月)に続く3回シリーズの最終回。「南大阪エリア」として開かれ、13キロと6キロのコースが設けられた。
午前9時半から出発式が行われ、参加者たちは注意を聞き、準備体操。応援に駆けつけた着ぐるみの「ライオンちゃん」や藤井寺、羽曳野両市のマスコットらに見送られてスタートした。
昼前からあいにくの雨天となったが、仲姫(なかつひめ)皇后陵や応神天皇陵とされる巨大古墳、誉田(こんだ)八幡宮などの社寺も訪ね、古代からの歴史を実感。ゴールで「完歩証」やライオン製品の詰め合わせを受け取っていた。
-
「真田の抜け穴」3時間待ち
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111107-OYT8T00039.htm
大坂冬の陣(1614年)で豊臣方の武将・真田幸村が大坂城と出城「真田丸」の間に掘ったとの伝説が残る「真田の抜け穴」跡が6日、大阪市天王寺区玉造本町の三光神社境内で一般公開された。大勢の歴史ファンらが訪れ、見学まで3時間待ちとなるほどのにぎわいだった。
NPO法人「大阪城甲(かっ)冑(ちゅう)隊」が昨秋、同神社に掛け合って初公開されたのに続き2回目。抜け穴跡は、入り口から3メートルほどで土砂で遮られ、現在はどこにも通じていないが、赤色の甲冑姿の同隊メンバーが見守る中、見学者らが1人ずつ内部に入っていった。
歴史好きの女性「歴女」も多く、横浜市神奈川区から駆けつけた会社員木挽みなさん(26)は「思っていたよりも狭く、甲冑を着た当時の武将がどのようにして通ったのかなどを想像するだけで楽しかった」と話した。
大阪城きれいに 中学生460人 清掃活動
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111107-OYT8T00041.htm
大阪市中央区の大阪城公園に中学生約460人が集まり、一斉に清掃活動を行った=写真=。青少年の健全育成を目的に府警と大阪少年補導協会が企画し、市内14中学校の生徒たちが教員とともに参加した。
生徒たちは、午前10時半過ぎから約2時間にわたり、落ちているペットボトルや空き缶などを回収した。市立蒲生中2年、松波伶奈さん(13)は「大阪城がきれいになってほしいとの思いで参加した。友人と一緒に、楽しく清掃できた」と話していた。
(2011年11月7日 読売新聞)
-
「真田の抜け穴」公開 三光神社で歴史イベント
2011年11月7日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111107/20111107018.html
大坂冬の陣で勝利した安土桃山時代の武将・真田幸村をしのぶイベントが6日、ゆかりのある大阪市天王寺区の三光神社で行われた。幸村が大阪城まで掘らせた伝説のある史跡「真田の抜け穴」が公開されるなど、多くの歴史ファンや近隣住民らでにぎわった。
大坂城の南側を守るために造られたとりで「真田丸」跡が同神社に近いことなどから、手作りの甲冑(かっちゅう)姿で幸村の活躍を啓発するNPO法人「大坂城甲冑隊」が主催。
「抜け穴」は大坂の陣のとき、幸村が大坂城まで掘らせ、脱出用に使ったなどと伝説が残り、歴史ファンのロマンを駆り立てている。
イベントでは、普段は入れない「抜け穴」を一般公開。入って数メートルで行き止まりになっているものの、来場者はかつての合戦に思いをはせていた。
ほかにも、甲冑の試着体験コーナーや殺陣の実演などが行われ、子どもから大人まで楽しんでいた。
家族で訪れた白野貴一君(11)=兵庫県西宮市=は「兵士たちが通ったかもしれない抜け穴を踏みしめることができて感激した」と喜んでいた。
-
大阪城天守閣復興から80年
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2003742021.html
大阪のシンボルとして親しまれている大阪城の天守閣が市民の寄付で復興されてから、きょうで80年を迎え、地元の子どもたちも参加して記念式典が行われました。80年を記念して、きょうは天守閣が無料で公開され観光客らが次々と訪れていました。
大阪城の現在の天守閣は3代目で、市民からの寄付で昭和6年11月7日に復活しました。
高さは地上55メートル、当時としては最先端の工法だった鉄骨鉄筋のコンクリート造りで建設されました。
きょうは天守閣前の広場で記念式典も開かれ、鉄砲隊が祝砲を鳴らしたり地元の小学生100人が風船を飛ばしたりして80年を祝いました。
また、天守閣と同じ昭和6年11月7日生まれで、きょう80歳の誕生日を迎えた大阪・中央区の関登喜子さんら2人に記念品が贈られました。
子どもを連れて訪れた大阪・平野区の女性は「天守閣の眺めはいいし、公園の緑も多いし、いい所です。昔の人たちは、すごいことをしたなあと思います」と話していました。
天守閣内部の展示室では今月27日まで天守閣復興の貴重な資料を集めた特別展が開かれています。
11月07日 12時28分
-
大阪城天守閣 復興80周年 同い年の4人を祝福
2011.11.8 02:03
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111108/osk11110802030003-n1.htm
復興から80周年を迎えた大阪城天守閣(大阪市中央区)で7日、天守閣と同じ誕生日の入館者にプレゼントが贈られたほか、記念セレモニーも行われるなどして3代目天守閣の“傘寿”を祝福した。
プレゼントを受け取ったのは、現在の天守閣が完成した昭和6年11月7日生まれの入館者。呼びかけに応じるなどして訪れた4人に、地元の伝統工芸品「大阪欄間(らんま)」の大阪城が贈られた。
このうち、関登喜子さん(同市中央区)と宮成喬子さん(同市東成区)の2人が記念のセレモニーに出席し、「お城とともに一生を過ごせて光栄」と関さん。宮成さんは「イベントのことを知らずに来たので驚きました」と話していた。
セレモニーではこのほか、大阪城鉄砲隊による祝砲の演武や、鷹匠による放鷹(ほうよう)術の実演なども行われた。またこの日は天守閣への入館料が無料となり、ふだんの平日の3倍以上に当たる7277人が訪れた。
-
大阪城よ永遠に 天守閣復興80周年祝う
2011年11月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111108/20111108017.html
1931(昭和6)年11月7日に大阪城天守閣が市民の寄付により復興して80周年を迎えた7日、「大阪城天守閣復興80周年記念セレモニー」が大阪市中央区の大阪城天守閣前本丸広場で行われ、訪れた大勢の人たちが80周年を祝った。
セレモニーでは、復興と同じ日に生まれ、この日80歳の誕生日を迎えた人にプレゼントが手渡され、大阪城鉄砲隊が祝砲を撃ち上げた。近くの小学生約100人が夢や願い事を書いた風船を空に放ち、いつまでも大阪のシンボルとして残るよう願った。
大阪城天守閣館長の松尾信裕さんから記念品を手渡された関登喜子さん(80)は「この大阪城と暮らしてきたことを誇りに思っている」と感想を述べ、松尾さんは「80年の間、愛されてきたことを痛感する。子どもたちにも親しみを覚えてもらい、また来てもらえたら」と話していた。
-
若い女性に施設の魅力PR 大阪歴史博物館、フリーペーパー発行
2011.11.9 02:18
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111109/osk11110902180000-n1.htm
若い女性にも博物館へ足を向けてもらおうと、大阪市中央区の大阪歴史博物館が「えんそくのしおり」と題したフリーペーパーを作った。女性の目線で施設の魅力や展覧会の見どころ、スイーツ情報などが紹介されている。
企業支援を手がける大阪産業創造館(同区)が今年5月、博物館や美術館を活性化させるアイデアを企業から募集。同歴博だけでも300件以上の活性化案が寄せられ、その中から「ウィルコミュニケーションデザイン研究所」(同区)が提案した「女性向け広報媒体の製作」が、「若い女性にアピールする視点がおもしろい」との理由で採用された。
遠足の前日のようなワクワク感を体験してもらおうと名付けられ、随所に写真をちりばめたカラフルでかわいらしいしおりに仕上がった。大きさもバッグからすぐ取り出せるよう四つ折りA3サイズで入館時に見せると特別展のオリジナルグッズがもらえる。
創刊号は8月に発行。現在配布中の第2号は「モダン」をテーマに、常設展「大(だい)大阪の時代」と12月4日まで開催している特別展「心斎橋きものモダン」を特集した。大正から昭和初期にかけて花開いた大大阪時代のファッションやライフスタイルなどをユーモアたっぷりに掲載。しおりを手に“えんそく気分”で館内を楽しめるよう工夫されている。
約5千部発行。抹茶カフェ「袋布向春園(たふこうしゅんえん)本店」(城東区)やジュンク堂書店大阪本店(北区)などで配布。火曜休館。問い合わせは大阪歴史博物館((電)06・6946・5728)。
-
http://www.asahi.com/kansai/travel/ensen/OSK200912260039.html
大空襲 一夜の奇跡 地下鉄・御堂筋線
年の瀬の夜、イルミネーションに彩られた大阪市の御堂筋。会社員や正月準備の買い物客らが慌ただしく行き交う。64年前、この一帯は火の海となった。
1945(昭和20)年3月13日深夜から14日未明。大阪市上空に、米軍のB29戦略爆撃機274機が来襲した。低空から投下された焼夷(しょうい)弾が、次々に木造の家屋を焼き尽くした。
12歳だった近藤豊子さん(76)=大阪府豊中市=は西区にあった自宅を飛び出した。家族は祖父母と両親、きょうだい5人の計9人。母は、水でぬらした防空ずきんをかぶせてくれた。安全な場所を求めてさまようなか、母、足の不自由な祖父とはぐれた。
御堂筋にたどり着くと、地下鉄心斎橋駅の出入り口が開いていた。やがて到着した電車で梅田へ避難した。しかし、構内で祖父と母を待ち、梅田の地下街で我に返るまでの記憶がない。どうやって電車に乗ったか。車内は込んでいたのか。はぐれた時は兵庫県の親類宅で落ち合う約束だったが、地下鉄に乗れなかった母と祖父には二度と会えなかった。
大阪市交通局によると、空襲時の地下鉄の運行は禁じられていた。強力な爆弾でトンネルが破壊され、乗客が死傷する恐れがあったからだ。45年当時の運行資料などは敗戦直後に処分され、記録は残っていないという。
でも、自分は確かに乗った。そして、命を救われた。
■命乗せ チカテツは走った
「大大阪(だいおおさか)の地下に脈うつ新生の血管/誕生だ! 我らのチカテツ」
1933(昭和8)年5月21日付の大阪朝日新聞は、大阪市営地下鉄の開業をこう報じた。梅田―心斎橋間(3.1キロ)を5分30秒で結んだ。当時、東京には民間の地下鉄があったが、公営地下鉄は国内で初めてだった。
拡幅された御堂筋沿いにはモダンなビルが立ち並んでいた。建築史家で大阪府立大教授の橋爪紳也さん(49)によると、「大大阪」の都市構想には、電化▽地下も使う都市の立体化▽高速移動の三つがあった。「御堂筋かいわいは当時、人々が思い描いた未来都市そのもの。地下鉄は欠かせなかった」と指摘する。
アーチ形の高い天井、シャンデリア風の電灯など内装にも大阪市の意気込みがうかがえた。建築家らがつくる団体「DOCOMOMO(ドコモモ) JAPAN」は2003年、近代名建築「100選」に地下鉄御堂筋線を選んだ。
◇
45年、B29機100機以上が爆撃した大阪大空襲は8回に及んだ。3月13、14日の第1次大阪大空襲では市中心部の約13万千戸が焼け、約4千人が死亡した。
京大名誉教授の村松繁さん(77)=京都市左京区=は12歳だった。猛火に追われ、父と姉、兄と心斎橋にたどり着いた。
「早く入りなさい」。駅員がホームに誘導してくれた。地下の構内には大勢の人がいた。30分ほどたったころ、難波駅方面から電車が到着した。空襲でみな混乱していたが、先を争って乗ったという記憶はない。ぎゅうぎゅう詰めではなかった。梅田に着くと、夜が白々と明けかけていた。梅田は焼けていなかった。
心斎橋にほど近い西区にある最勝寺。住職の佐野彰義さん(62)の母で、89年に亡くなった義(よし)さんも地下鉄で避難した一人だ。空襲時の恐ろしい体験を繰り返し話してくれた。護憲運動に取り組む佐野さんは来年、仲間たちと劇「地下鉄は動いていた―大阪大空襲」を作り演じる予定だ。
「若い人たちに大空襲のことを伝え、受け継がせなければならへんのです。憲法9条を守り、平和を守るために」
◇
市交通局の労働組合でつくる公営交通研究所は、市民や職員OBに第1次大空襲時の地下鉄運行について情報提供を呼びかけ、結果を98年3月に組合紙に掲載した。市民43人が地下鉄構内に避難し、うち36人が地下鉄に乗ったとの証言を得ることができた。
同研究所は、村松さんらが乗ったのは始発電車の前に駅員を各駅に送る「お送り電車」ではないかとみている。同研究所の担当者は「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と話す。
(文・鈴木 剛志 写真・寺脇 毅)
-
鉄ちゃんの聞きかじり〈香り立つモダニズム〉
地下鉄御堂筋線で最初に開業した梅田―心斎橋間の各駅のホームは、豪壮なアーチ形の高い天井が特徴だ。開業当時は、そんな天井に見合うシャンデリア風の立派な電灯も据え付けられていた。改修されても、その精神は受け継がれ、御堂筋線の照明は味のある独特な形をしている。
天王寺駅のホームから階段を上がったところにある電灯は、駅が開業した1938(昭和13)年当時の形を唯一、残している。
新しい照明では、本町駅のホームデッキにある蛍光灯もユニークだ。よく見ると「HOMMACHI」の英文字の形で配列されている。当初は直線で配置する予定だったが、冷房の吹き出し口と重なるため、できなくなった。その際、「設計担当者の発想の転換」(大阪市交通局)でこのような配列にしたという。
探索コース
大阪の威信をかけて整備された御堂筋の周辺には、モダンな建築物が多く造られた。耐震性の問題などで取り壊されたものもあるが、今も存在感を放つ建物が残ってもいる。地図の(1)〜(5)は、橋爪紳也さんが挙げたそんな建物の一部。特にお勧めは1927(昭和2)年に建設された芝川ビル。ユニークなマヤ・インカ様式の装飾が美しい。
-
http://www.youtube.com/watch?v=n7kgW6KYNh0&feature=related
八分十秒位から大阪の実業家一家が宝塚まで自家用車で遊びに行った時の戦前の映像があります。
-
「近代大阪と堀江・新町」出版 NPO活動を紹介
2011年11月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111113/20111113053.html
大阪市西区堀江地区の歴史研究などに尽力するNPO法人「なにわ堀江1500」(同区北堀江1丁目)の代表理事・水知(みっとも)悠之介さん(69)がこのほど、設立からの活動をまとめた著書『近代大阪と堀江・新町』(B6判188ページ、1500円、新風書房)を出版した。
かつて水知さんは地元に本社がある鋳鉄管メーカー「栗本鐵工所」に勤務し、在職中には創業100年史の編さんも担当するなど堀江と接点があった。関連企業の栗本人材センター社長を経て退社後の2003年にNPOを立ち上げ、1年後に法人化。現在は大阪の歴史の啓発活動を通じて新旧の住民をつなげるなどの目標を掲げて活動を展開している。
今回6作目となる水知さんの著書は、同NPOが7月、まちづくりなどユニークな活動をしている個人・団体に贈られる第14回なにわ大賞の「歴史おこし特別賞」を受賞した記念として出版。大阪を代表する花街だった堀江の歴史文化の解説をはじめ、戦災で失われたまちの面影を図上に復元する「堀江戦前住宅地図」の作成(05年)、これに関連した企画展「なつかしの昭和・堀江展」開催(08年)など、苦労話も盛り込みながら数々の活動を紹介している。
このうち住民が熱望した戦前地図は大きな反響を呼び、2年後、より詳細にした改訂版も出版。地図作成にあたっては地元の高齢者や戦後府外へ転居した堀江出身者と連絡を取り、位置関係などの情報を求めて奔走。白紙の地図を抱えた聞き取り調査は約100人に及んだ。水知さんは「遠い記憶のあいまいさもあり情報の精査に時間を要したが、皆さん一様に生き生きとした表情だったのがとても印象的。その後3割の方がこの思い出を胸に他界されました」とページをめくり振り返る。
このほか歴史や文化、産業など幅広い研究の成果に触れながら、活動の中で出会った人々とのふれあいなども紹介。「人々が住み、働き、楽しむ『なりわい』を象徴する掘江・新町にこだわった軌跡をかたちにできた。これからも終わりのない広がりが続いていくと思う」と万感の思いを込めて語った。
問い合わせは電話06(6533)1550、同NPO、または電話06(6768)4600、同書房へ。
-
天王寺商高創立100周年記念式典 節目祝う
2011年11月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111113/20111113052.html
大阪市立天王寺商業高校(大阪市天王寺区)の創立100周年(建学132年)記念式典が12日、同市北区の大阪市中央公会堂で行われ、卒業生や在校生らが節目を祝った。
同校は五代友厚が創設した「私立大坂商業講習所」を起源とし、商都大阪の発展に貢献してきた。「天商」は2年後に閉校し、その名は消えるが、来年4月には同校敷地に完成した新校舎で「大阪ビジネスフロンティア高校」として新生する。
式典には、同校生徒約500人をはじめ、卒業生や保護者、平松邦夫市長らが参列。木口誠一校長は「天商は2年後に閉校となるが、歴史と誇りをビジネスフロンティア高に託すことで悠久に対峙(たいじ)しうる存在となる」とあいさつした。
続いて在校生と卒業生が合同で記念演奏会を行い、節目に花を添えた。同高情報システム科3年の阪口捺葵さん(18)は生徒を代表し、「天商魂を受け継いだ後輩が仲間とすばらしい学校をつくってくれることを信じたい」と述べていた。
-
天守閣の隣、豪華な昭和 旧大阪市立博物館を特別公開
http://www.asahi.com/kansai/entertainment/news/OSK201111150074.html
大阪市中央区大阪城にある旧大阪市立博物館(陸軍第4師団司令部庁舎)の特別公開が15日、始まった。大阪城天守閣の復興80周年を記念した催しの一つ。同館は現天守閣と同じ1931年に完成した鉄筋コンクリート造り地下1階、地上3階の建物。西洋の古城風の外観で、2001年までの約40年間は博物館として使われた。天守閣の再建以上に工費を掛けた豪華な建築だという。入場無料。20日まで(午前10時〜午後4時30分)。
問い合わせは、大阪市ゆとりとみどり振興局観光室(06・6469・5165)へ。
-
都の錦:浮世草子作者、自筆の忠臣蔵本発見 300年ぶり大阪で
http://mainichi.jp/kansai/news/20111117ddn012040059000c.html
江戸中期の浮世草子作者、「都(みやこ)の錦(本名・宍戸与一)」が1711(宝永8)年に書いた自筆の忠臣蔵本「播磨椙原(はりますぎはら)」が約300年ぶりに発見された。現存する同書の自筆本としては2例目。鑑定した山本卓(たかし)・関西大学文学部教授は「赤穂浪士を物語的に扱った書としては最も古い部類の一つ。都の錦の自筆本はほとんど残っておらず、資料的価値は極めて高い」と話す。【渡辺亮一】
「播磨椙原」は、浅野長矩(ながのり)が江戸城中で刃傷に及び、切腹した経緯から、四十七士が敵討ちするまでを講談風に描いた作品。1675(延宝3)年大阪生まれで、「元禄大平記」などの著書がある都の錦が、流罪先の鹿籠(かご)金山(現・鹿児島県枕崎市)で執筆したと伝えられている。
自筆本はNPO法人「なにわ堀江1500」代表、水知(みっとも)悠之介さん(69)が昨年12月、大阪府枚方市の自宅で、義父の遺品を整理中に見つけた。山本教授が鑑定、筆跡などから、都の錦の自筆本に間違いないと判断した。
「播磨椙原」は出版されていないが、内容は口づてで伝わり、赤穂浪士伝説の原型になったとも言われる。1709年に書かれたといわれ、唯一現存が確認されていた同種の自筆本は鹿児島県枕崎市が所蔵し、同市の文化財に指定されている。
自筆本は水知さんから寄贈を受けた大阪市立中央図書館(大阪市西区)で、18日から12月14日まで公開される。
-
国史跡新たに2件
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111119-OYT8T00068.htm
国の文化審議会が18日、文部科学相に指定を答申した国史跡に、府内からは、戦国時代に合戦の舞台となった山城跡「烏帽子(えぼし)形城跡」(河内長野市喜多町)と、7世紀に創建された古代寺院跡「鳥坂(とさか)寺跡」(柏原市高井田)が選ばれた。府内の国史跡は69件となる。
烏帽子形城は、河内守護職の畠山氏が治め、1467年に始まった応仁の乱前後から激しい戦いの場となり、1584年には豊臣秀吉も河内の軍事拠点として使った。烏帽子の形をした山の尾根に建てられ、城兵が陣取るために斜面を平らに造成した「曲輪(くるわ)」や、敵の侵入を防ぐ堀、土塁などが残っている。
今回の答申では、「中世から近世初頭にかけての畿内の政治・軍事の歴史を理解する上で貴重」と評価された。河内長野市教委は来年度以降、整備計画を進める方針。
鳥坂寺跡は、金堂の石段や講堂、塔柱の礎石が現存。出土した土師器(はじき)に「鳥坂寺」と墨書されていたことから、756年に孝謙天皇が難波宮に向かう途中に立ち寄った「河内六寺」の一つと判明した。
(2011年11月19日 読売新聞)
-
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111122/osk11112214520007-n1.htm
古墳時代の船発掘、外洋航海でも活躍? 大阪・瓜破北遺跡
2011.11.22 14:09
大阪市平野区瓜破(うりわり)東の瓜破北遺跡で、古墳時代後期(6世紀)の木造船「準構造船」の一部が府教委の調査で見つかっていたことが21日、分かった。当時の大阪は大和政権の水上交通を担い、船は瀬戸内海から朝鮮半島への外洋航海に使われた可能性もあるという。準構造船の出土は全国で数十例しかなく、航海技術を知る上で貴重な資料になりそうだ。
見つかったのは、船べりの一部(長さ1・2メートル)や船体の側板、船内の仕切り板など数十点で、いずれもスギ材。湾曲した部材やほぞ穴の形状などから準構造船の一部と判断した。全長十数メートルの中型船で、5〜10人乗りと推定している。
準構造船は、縄文時代以来使われた丸木舟を改良し、側面や前後に板材を組み合わせて大型化した構造。弥生時代末(約1800年前)から導入され、古墳時代には大陸との交流などに使われたという。
遺跡一帯は、大阪湾から続く古代の湖「河内湖」が広がっていたとされ、今回の船は河内湖から大阪湾に出て各地の物資輸送などに使われたとみられている。
現地公開は12月3日午後1時から。地下鉄谷町線・喜連(きれ)瓜破駅から東に徒歩10分。問い合わせは府教委文化財保護課・現地事務所((電)06・6708・1213)。
-
懐かしの汽車土瓶がザックザク 大阪・吹田操車場跡で大量発見
2011.11.23 17:42
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111123/osk11112317540005-n1.htm
明治から昭和にかけ全国の鉄道駅で温かいお茶を入れて販売され、プラスチック製容器の登場で姿を消した小型陶器「汽車土瓶」が、旧国鉄吹田操車場跡地(大阪府吹田市、摂津市)で大量に見つかったことが23日、大阪府文化財センターの調査で分かった。
同操車場で大阪駅終点の客車の清掃作業が行われていた昭和初期の1928〜33年の製品で、数万点あるとみられる。担当者は「ひと昔前の汽車の旅が見えるよう」と話している。
土瓶は高さ約7〜10センチ、容量は約220ミリリットルと320ミリリットルの2種類。摂津市の跡地内にある石炭を捨てた穴で、付属の湯飲みやふたとともに見つかった。「五銭」「七銭」と販売価格のほか「空壜はこしかけの下江お置を願います」などと車窓から投げ捨てないよう注意書きがあるものも。少なくとも24種類の図柄や形状を確認した。
-
「薬の町」で健康祈願 少彦名神社・神農祭
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111123-OYT8T00056.htm
「薬の町」として知られる大阪市中央区道修町にある少(すくな)彦(ひこ)名(な)神社で22日、無病息災や健康増進などを願う「神農祭」が始まった。市内で年内最後の祭りであることから「止めの祭り」とも呼ばれている。23日まで。
同神社には、日本と中国の薬の神がまつられている。大阪でコレラが流行した江戸末期にお守りとして「張り子の虎」が丸薬に添えられたことにちなみ、ササに虎の置物を付けた縁起物を買い求める人でにぎわった。
同市淀川区新高、製薬会社員寺島誠秀さん(56)は「製薬業界で働く者として、神農さんは忘れてはならない存在。みなさんの健康を願いながらお参りした」と話した。
(2011年11月23日 読売新聞)
-
出版:伝統芸能、楽しもう 着付け講師・堀口さん解説本、鑑賞マナーなど紹介 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111127ddlk27040226000c.html
◇劇場には何を着て行けばいい?
「劇場には何を着て行けばいい?」−−。基本的なことが分からない人にも、気軽に伝統芸能を楽しんでもらおうと、大阪市の着付け講師、堀口初音さん(41)が「上方伝統芸能あんない」(創元社)を出版した。鑑賞のポイントに加え、ドレスコードや幕間の食事の要領まで、約束事の多い伝統芸能の「いろは」を丁寧に解説している。
堀口さんは03年から、大阪で着付け教室を主宰。東京でも毎月、教室を開いている。生徒は、「カジュアルに着物を楽しみたい」という30代女性が中心で、着物で劇場や演芸場に出かける人も多い。こうした生徒からの「お弁当はいつ食べるの」など、「舞台鑑賞以前でつまずいた」という声が執筆のきっかけだった。
歌舞伎、文楽、落語、能、狂言、講談、浪曲、舞を取り上げた。ジャンルごとに、座席の選び方や公演の流れ、拍手のタイミング、鑑賞マナーの目安を紹介。片岡愛之助(歌舞伎)、豊竹英大夫(文楽)、大槻文蔵(能)といった、上方を拠点に一線で活躍する演者へのインタービューや、和装のコーディネート例も掲載している。
上方舞・山村流師範でもある堀口さんは「『分からないとけない』と思うと、しんどくなってくる。初めはどこを見ればいいのか分からないことが多いが、自分の感受性を信じて足を運ぶうち、楽しめるようになります」と鑑賞のこつを語る。
A5判、128ページ。1680円。主要書店で取り扱っている。【花牟礼紀仁】
-
伝統野菜が給食に登場
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004274911.html
子どもたちに地元の食材を知ってもらおうと、大阪市の小学校で、なにわの伝統野菜「田辺大根」を使った料理が給食に登場しました。これは地元の食文化や歴史に興味を持ってもらおうと行われたもので、30日は、市内の約50の小学校などで実施されました。
このうち中央区の南大江小学校でも田辺大根の味噌汁や田辺大根の葉と白菜の煮びたしなどが給食で出され、子どもたちは、田辺大根の歴史や特徴などの説明を受けたあと、興味深そうに味わっていました。
田辺大根は、大阪・東住吉区の田辺地区が発祥で柔らかく甘みが強いことや、葉の裏に大根特有の毛がないのが特徴です。
長い間、栽培が中断していましたが、伝統野菜の復活を目指し地元の農家で栽培されていて、30日の給食には580本余りが使われました。
給食を食べた1年生たちは「おいしい、大根が甘い」などと口々に話し、中には、おかわりをする子もいました。
大阪市教育委員会では、今後も、地元の伝統野菜を給食に使用することにしています。
11月30日 20時19分
-
梅田で「初号アサヒビール復刻版」試飲イベント−当時のつまみも再現
http://umeda.keizai.biz/headline/1211/
アサヒビール(東京都墨田区)が食と健康をテーマに開設した双方向コミュニケーション拠点「アサヒ ラボ・ガーデン」(大阪市北区小松原町)で11月29日、「初号アサヒビール復刻版」発売を記念したイベント「120前に大阪で生まれたアサヒビール」が開催された。
「初号アサヒビール」は1892(明治25)年、アサヒビール前身の大阪麦酒会社吹田村醸造所(現・アサヒビール吹田工場)で製造・出荷されたもので、現在の会社名の由来ともなったもの。重くて苦いイギリス風のビールしかなかった当時、本格的な国産ビール製造を目指して同社を設立し、ドイツの最新技術を導入して製造した。
製造当時の分析値や処方を基に再現した復刻版は、「コクと飲み応えが特徴」の麦芽100%ビールで、当時のラベルデザインも忠実に再現。裏面には、出荷記念式典や「吹田村醸造所」の絵を入れ、ビールの歴史を感じられるデザインにした。今月29日から全国のスーパー、コンビニ、酒販店で350ミリリットル缶、500ミリリットル缶を数量限定で販売している。
イベントでは同社資料室の菅野直樹さんが講師となり、当時のエピソードを交えながらビールの歴史、同社の歴史を紹介。同社を設立した各人の紹介、「アサヒビール」の名前の由来、ビールびんの形状などについて話した。その後、現在の大阪市庁舎付近にあった同社直営のビアホール「アサヒ軒」を紹介し、当時の「おつまみ」を検証。1902(明治35)年当時のメニューについて、「おつまみというよりは、しっかりした洋食だった」と話した。
参加者には、「初号アサヒビール復刻版」と、西洋料理書をもとに当時の味を再現した「アサヒ軒」の「カレイライス」「サラダ」を提供。赤大根、レタス、タマネギ、ゆで卵に牛乳、砂糖、塩、練りからしで作ったドレッシングをかけたサラダ、ジャガイモの入ったビーフカレーと、再現するため現在4〜6度で提供するビールを、当時と同じ8〜10度で提供。「もっと冷たかったらおいしいのに」という参加者に、「当時はお燗(かん)も提供していた」などと解説しながら、当時のビアホールの味を味わった。
同施設では今後、芋焼酎をテーマにしたセミナーや、ブックディレクター・幅允孝さんをファシリテーターに迎え、お酒を飲みながらテーマ本について語る読書会を予定する。イベント情報はホームページで確認できる。
-
「招福娘」4人決まる 天満えびすアピール
2011年12月4日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111204/20111204028.html
来年1月9〜11日の「天満えびす」をアピールする「招福娘」の代表選考会が3日、大阪市北区の大阪天満宮であり、関西大や同志社大、同志社女子大の学生4人が選ばれた。4人は「“維新の会”に負けないくらい大阪を元気にしたい」などと機転を利かせた抱負を語り、早くもエンジンを全開にさせた。
選考会は、書類審査を通った25人が芸や特技を披露。大阪天満宮の土居年樹総代代表は「大阪らしい明るさと大阪弁のうまさ」をポイントに選び、「お客へのおもてなしの姿勢を貫いてほしい」と4人の代表招福娘に期待を寄せた。
代表招福娘に選ばれた関西大の田中愛さん(21)と林留理子さん(19)は「大阪から東日本や日本全体に笑顔、幸せ、愛を届けたい」、同志社女子大の山本麻由さん(22)は「天満えびすに来てもらえるよう笑いで奉仕したい」と抱負。
大阪市長選挙に勝利した橋下徹前府知事が代表の大阪維新の会の“勢い”を意識した同志社大の弘松優衣さん(20)は「負けないくらい大阪を元気にしたい」と笑顔で話していた。
-
「鳥坂寺跡の保存活用探る」 柏原シンポに古代史ファン150人 大阪
2011.12.5 02:06
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111205/osk11120502060000-n1.htm
続日本紀(しょくにほんぎ)に登場する「河内六寺」のひとつ、鳥坂(とさか)寺跡(柏原市)の実像に迫るシンポジウム「再び灯る古代の光−鳥坂寺を語る」が4日、柏原市安堂町のリビエールホールで開かれ、約150人の古代史ファンらが耳を傾けた。
近畿大学の大脇潔教授は基調講演で、鳥坂寺が古墳を壊して敷地を確保していたことなど過去の発掘成果を紹介。出土した●仏(せんぶつ)(粘土を型押しして作った小さな仏像)や瓦などから7世紀に活躍した河内ゆかりの入唐僧・道昭との関係を説き明かした。
パネル討論では岡本泰明市長が鳥坂寺跡について「市内の竜田古道や高井田古墳などとつなげてロマンを感じてもらえる保存活用をしていきたい」と語った。
鳥坂寺跡は調査で金堂、講堂、塔などの建物跡が確認され、11月に国史跡指定の答申を受けた。
●=つちへんの右に專
-
天王寺公園で「なにわ伝統野菜」収穫イベント開催へ−試食会も
http://abeno.keizai.biz/headline/262/
天王寺公園(大阪市天王寺区茶臼山町)で12月10日、イベント「天王寺蕪(カブラ)収穫祭」が開催される。
天王寺動物園のゾウの有機肥料で成長した「なにわ伝統野菜」を当日朝に天王寺小学校の生徒たちが収穫し、天王寺蕪は「なめらかポタージュ」に、田辺大根は「大根ステーキ」にして、試食会を開く。
水上ステージでは、天王寺商業高校音楽部の吹奏楽演奏、アカペラ・ライブ、天王蕪の話、植物なぞなぞ大会などを展開。司会はお笑いコンビ「女と男」が務める。
当日は、阿倍野・天王寺のマスコットキャラクターも集結。「ももてんちゃん」(天王寺区)、「あべのん」(阿倍野区)、「ゴーゴくん」(天王寺動物園)、「あのんくん」「てのんちゃん」(Welcomingアベノ・天王寺キャンペーン)。
会場では、なにわ伝統野菜の漬物、野菜などの販売ブースも設ける。
開催時間は11時〜14時ごろ。伝統野菜の試食会は11時30分〜(無くなり次第終了)。
入園料は150円。中学生以下、大阪市内在住の65歳以上は無料。
-
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/233 松虫塚 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20111208ddlk27070388000c.html
◆大阪市阿倍野区
◇エノキも地元に守られ 市の「粋な計らい」に拍手
松虫通を東へ行く。伊東静雄文学碑のすぐ先には、歩道に大きなエノキがせり出していて、「自転車はスピードを落として下さい」と注意書きが掲示されている。
「これが阿倍野の住民が守ったものの二つ目。松虫塚のエノキです」と大阪案内人の西俣稔さん。「聖天山」の項で、住民が守ったクスノキを紹介した。あの時、西俣さんが「地元の力で守ったものがあと二つあるんです」と話していたが、その一つがこの樹齢800年といわれるエノキなのだ。
松虫塚はその名が示すようにお墓なのだが、いろいろな説がある。塚の説明板にはその諸説が記されている。いずれにしても、大昔はこの辺りが松虫の名所であったと伝わる。
文部省唱歌「虫のこえ」は「あれ松虫が鳴いている ちんちろちんちろ ちんちろりん あれ鈴虫も鳴き出した りんりんりんりん りいんりん」と歌う。ところが、松虫塚の伝説の舞台である平安、鎌倉時代は「ちんちろりん」が鈴虫で、「りんりん」が松虫と呼ばれていたのだという。だから、松虫塚の松虫は、今の鈴虫のことなのだ。ややこしいけど。
さて、諸説とはどんなものか。一つは謡曲「松虫」説。2人の男が松虫の声を聞きながら阿倍野を歩いていた。1人が草に伏して聞きほれているうちに死んでしまい、残る1人は泣く泣く親友の亡きがらを埋めて立ち去る。そののち、酒を売っている商人のところに夜な夜な男が飲みに来る。商人に問われて男が答えるに、私が死んでしまった方の亡霊だと−−。
もうひとつは官女の出家説。後鳥羽上皇の女官だった松虫、鈴虫の姉妹が法然上人の教えに感銘して出家する。仏教を広く庶民に広めた法然上人は当時の新興宗教で、貴族や貴族と結びついた僧侶らの目の敵にされた。姉妹の出家に激怒した上皇は、法然と弟子の親鸞を流罪にする。松虫は世を避けて阿倍野に庵(いおり)を結んだ。
いつもお世話になっている三好貞司さんの「大阪史蹟(しせき)辞典」は、京都市左京区の安楽寺に姉妹の墓があることから、この説は「無理である」と退けている。ちなみに、姉妹は容姿端麗と伝えられる。薄幸の女性は美女と相場が決まっているのは、今も昔も変わらないようだ。
ほかに、才色兼備の琴の名手といわれた美女が阿倍野に住んでいたが、秘技を尽くした琴の音が松虫の音に及ばないのを嘆いて琴を捨てた−−などというのもある。
通りや町の名にもなっている松虫塚。エノキの根元に建つ石碑は、自然石の方が大正時代に建てられたという。1961(昭和36)年の毎日新聞の連載「大阪の町」は松虫塚について、「目と鼻のところに大阪の南の玄関口として発展したアベノの繁華街ができ(中略)風流とはおよそ縁遠いところになっている。高さ約一メートルの松虫塚をおさめた社の前を通っても足をとめる人はほとんどいない(後略)」と書いている。
ところが、大阪市が計画した都市計画道路が松虫塚を貫き、エノキが切られることを知った地元の人たちが保存運動に乗り出し、新聞記事にもなって一躍脚光を浴びた。交渉の結果、80年に市は計画を変更。塚がすっぽり納まるように道路北側の歩道を広げた。
塚は地元の丸山連合町会が管理している。衣斐(えび)雅一会長(55)は「晴れの日はほぼ毎日、掃除してます」という。今は、週末はまちあるきの団体らが訪れてにぎわうそうだ。
足を止める人がほとんどいない遺跡など、つぶしてもいいと思うか、復元不可能なものだから、経済的なロスは覚悟の上で残そうと考えるか−−。どっちを取るかで街のたたずまいは大きく変わる。粘り強く交渉した地元の人々と、その要望をいれて「粋な計らい」をした大阪市当局に拍手を送りたい。街は経済原理だけでは成り立たないのだから。【松井宏員】
-
枚方宿から はばたいて
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111208-OYT8T00045.htm
地元商店主ら 貸店舗 56un にぎわい再び ■ 挑戦の場に
江戸時代に宿場町として栄えた枚方市の旧街道沿いに10日、物品販売や作品展示に使える町家風の貸店舗「56un(ゴロクアン)」がオープンする。近くで青空市を開いている地元の商店主らが「若者らが将来、店を構えるためのステップにしてもらい、街のにぎわいづくりにもつなげたい」と企画。希望者に有料でレンタルする。(中田敦之)
大坂と京都を結ぶ京街道沿いの「枚方宿」は、東海道の品川宿から数えて56番目の宿場町。1840年頃には、紀州藩(和歌山県)の大名が参勤交代の際に泊まった本陣や旅籠(はたご)計約70軒が並び、旅人たちで活気にあふれていたという。
近くを流れる淀川では客船・三十石船が行き交い、「餅くらわんか(食わないか)」などと料理を売る行商の小舟「くらわんか舟」も名物として知れ渡った。
当時のにぎわいをよみがえらせようと、地元の商店主らが2007年、枚方宿くらわんか五六市実行委員会をつくり、月1回、旧街道沿いで青空市を開催。出店するのは、普段、店を持たない主婦や学生らが多く、「枚方で店舗を出すチャレンジの場にしてもらおう」と貸店舗の開設を決めた。
店名のうち「un」には、憩いの場としての「庵」などの意味を込めたという。
京阪枚方市駅の西約200メートルにあり、飲食店だった平屋(21平方メートル)を改装。冷暖房、テーブルやイスを備えている。貸出期間は1日〜1か月。料金は1日6000円で、7日以上なら1日当たり1000円割引になる。営業は午前11時〜午後5時(金・土曜は午後7時まで)で火曜定休。
10〜29日はオープン記念として寝屋川市のパン店などが共同出店し、酵母パンやアクセサリーを販売。実行委で雑貨店経営の宮地なおみさん(38)は「商品だけ持ってくれば、すぐに開店できるので気軽に使ってほしい」とPRしている。出店希望は同実行委出店受付係(080・4645・5611)。
(2011年12月8日 読売新聞)
-
「エイエイオー」元気よく 赤穂奉賛義士祭
2011年12月13日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111213/20111213022.html
「忠臣蔵」の赤穂浪士の討ち入りの時期に合わせ、浅野家大阪菩提(ぼだい)寺である大阪市天王寺区六万体町の万松山吉祥寺(村山雅雄住職)で11日、「赤穂奉賛義士祭」が行われた。近隣住民らが多数参詣する中、法要や奉納武道が行われ、義士に扮(ふん)した子どもたちが行列をつくり、大阪城などを表敬した。
47人の子ども義士は、大阪城天守閣や四天王寺を訪れ、大石内蔵助に扮した村山晟太郎ちゃん(3)を中心に、「エイエイオー」と声を合わせてかちどきを上げた。上本町YUFLAでは、天王寺署の協力を得て自転車の防犯カバーなど防犯グッズを通行人に配布、防犯啓発に努めた。
万松吉祥寺の境内では、奉納合気道や奉納無外流居合道、裏千家のお点前による野だてなどが行われ、参詣者が伝統文化とじかに触れる機会にもなった。
主催は大阪義士会(北川喜久蔵会長)。子どもたちの健全育成と伝統文化の保持継承を目指し、毎年討ち入り当日の14日に行ってきたが、2010年から子どもたちが参加しやすいようにと日曜日開催になった。北川会長は世相を憂いて「今こそ足元を見つめ直し、元気ある大阪を」と話していた。
-
百舌鳥・古市古墳群の国際的な価値探る 来月15日、堺でシンポ
2011.12.14 02:19
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111214/osk11121402210004-n1.htm
■世界文化遺産登録めざして
世界文化遺産登録を目指す「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の価値を国際的な視点で探るシンポジウムが来年1月15日午前10時半から、堺市北区の市産業振興センターで開かれる。同月13、14日に市内で開催される国際専門家会議の検討結果が報告されるほか、国内外の専門家らによる講演、討論などで登録への機運を盛り上げる。
堺、羽曳野、藤井寺の各市にまたがるわが国屈指の古墳群で、昨年11月、ユネスコの世界遺産暫定一覧表に記載された。この貴重な文化財が大阪初の世界遺産となるよう、府と地元3市で同古墳群の世界文化遺産登録推進本部会議を設置し、登録実現に向けた取り組みを進めている。
シンポジウムもその一環で、当日は府立近つ飛鳥博物館の白石太一郎館長が基調講演。英・ヨーク大のマーティン・カーバー名誉教授、中国社会科学院考古研究所の王巍所長らも海外の研究者の視点で講演する。
また、「世界の墳墓との比較から描き出される百舌鳥・古市古墳群の価値」と題してパネルディスカッション。白石館長をコーディネーターに、国内外の専門家らが意見を交換する。
シンポジウムは聴講可能(無料)で、同本部会議は参加者を募集している。定員800人で先着順。申し込み方法などの問い合わせは堺市世界文化遺産推進室((電)072・228・7014)。
-
「忠臣蔵」に思い巡らせ 箕面の旧邸や墓など散策 大阪
2011.12.15 02:27
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111215/osk11121502280002-n1.htm
■「もう一人の義士」萱野三平
元禄15(1702)年の「忠臣蔵」討ち入りの日の14日、箕面市で、「もう一人の義士」といわれる萱野(かやの)三平の旧邸や墓を訪ねるハイキングが行われ、約60人の参加者らが忠臣蔵の世界に浸った。
箕面観光ボランティアガイド「MVクラブ」が主催。萱野三平は、元禄14年3月14日、江戸城内で主君、浅野内匠頭(たくみのかみ)が吉良上野介(こうずけのすけ)に斬りかかった殿中刃傷(にんじょう)事件の第一報を、国元の赤穂城に早かごで知らせた。
あだ討ちを決心した家老、大石内蔵助(くらのすけ)の義盟にいったん加わったが、郷里(今の箕面市萱野)の父に反対され、忠・孝の板ばさみで進退きわまり、元禄15年1月14日、自宅で切腹して果てた。赤穂義士47人(46人説もある)の中には入らないが、忠義の武士として忠臣蔵ファンにはなじみの人物だ。
ハイキングではまず、切腹の前日に別れを告げに行った姉、こきんの墓(同市新稲)へ。三平はこきんの嫁ぎ先の庄屋、吉田家を訪ね、「姉さま、とんと、おさらばでございます」と言って去ったという。
一行はこのあと、三平が自刃した同市萱野の旧邸(長屋門)や墓を訪問。墓前で手を合わせ、観光ボランティアの説明に耳を傾けた。
-
「府市合わせから幸せに」 招福娘が松井知事、橋下市長を表敬
2011.12.22 14:15
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111222/osk11122215140010-n1.htm
大阪天満宮(大阪市北区)で来年1月9〜11日に行われる天満天神えびす祭を彩る、「招福娘」10人が22日、松井一郎大阪府知事と橋下徹大阪市長を相次いで表敬訪問した。府と市の関係を揶揄(やゆ)した「府市合わせ(不幸せ)」からの脱却を目指す2人に縁起物を渡し、福を授けた。
最初に訪れた府庁では、招福娘たちは「笑顔と元気と福をもって、ますます活気ある町にしてまいります」とあいさつ。
大阪締めをアレンジした「うちまーしょ」で始まる「えびす締め」では、松井知事もかけ声に合わせて一緒に手を打ち、来年の幸福を祈った。
松井知事は「ありがたい。(府と市の発展は)最後は神頼みやから」と、周囲の笑いを誘っていた。
市役所では、橋下市長が招福娘のメンバーに「みなさん大学生?就職活動厳しいですよ」と声をかけ、「今度、海外留学制度をつくるので応募してください」と話していた。
-
戦前の岸和田 勢い感じた
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111224-OYT8T01057.htm
NHK朝の連続テレビ小説「カーネーション」の舞台・岸和田市で戦前に発行された地元の新聞5紙が、大阪歴史博物館(大阪市中央区)の近代現代フロアで展示され、「ドラマの時代背景がよくわかる」と好評だ。来年3月26日まで。
岸和田市に住んでいた郷土資料収集家が寄贈したもので、1925〜37年の「岸和田新聞」や「泉州毎日新聞」など。当時の岸和田は、紡績業を中心に工業都市として発展しており、これだけたくさんの新聞が発行されたようだ。男子の普通選挙法が施行されたばかりの頃で、市長選や市議選の予想にも熱が入っている。
昭和初期の大阪の街が再現された同フロアで新聞を眺めていると、建物からふらっとドラマに出てくる頑固オヤジが現れ、「もっと記事の勉強をするように」とどなられそうだ。(司)
(2011年12月25日 読売新聞)
-
大阪天満宮で「終天神」 献湯大祭や絵馬たき上げ
2011年12月26日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111226/20111226015.html
大阪天満宮(大阪市北区)の一年を締めくくる行事「終(しまい)天神」が25日、同宮で行われた。献湯神事の最後を飾る献湯大祭や絵馬のたき上げが行われ、参拝者が「天神さん」の一年の加護に感謝した。
毎月25日は天神さんの縁日で、1月の初天神で始まり、12月の終天神で締めくくる。
本殿前で行われた献湯大祭では、みこが厳かな動作で湯の沸いた釜に束ねたササを漬けて振ると、しぶきとともに白い湯気がもうもうと立ち上った。神事に使ったササはみこによって配られ、無病息災の御利益を求めて参拝客が列をつくった。
境内では、この一年絵馬掛けに奉納された約5万枚の祈願絵馬のたき上げや元日朝の歳旦祭に供えるための餅つきも行われ、もちの一部は参拝客に振る舞われた。
東大阪市から訪れた泉満子さん(65)と西井浩さん(41)は「初めて来たが、ありがたいササをいただけて良かった。玄関に飾って運を呼びたい」と話していた。
-
泉佐野の神社で和太鼓と尺八、琴の新春特別奉納 大阪
2011.12.30 02:01
http://sankei.jp.msn.com/region/news/111230/osk11123002010002-n1.htm
泉佐野市中庄の奈加美(なかみ)神社で来年1月1日、和太鼓と尺八、琴の新春特別奉納が行われる。「春の海」など新年にふさわしい楽曲が披露されるという。
同神社は政府の神社合祀(ごうし)令により明治42年、当時の中庄、上瓦屋、湊の3村の神社を合祀、各地区の頭文字をつないで「奈加美神社」と改称し、誕生した。
特別奉納は午前10時と正午、午後2時からの3回。海外でも演奏活動を行う和太鼓の寺尾智也さんと、同市出身で今年東京・邦楽コンクール2位入賞の尺八、川崎敦久さん、関西を中心にコンサート活動を行う琴の伊藤麻衣子さんが演奏を担当する。北岡忠澄宮司は「新しい年の始めに、みやびな演奏を楽しんで」と話している。問い合わせは同神社((電)072・462・7080)。
-
どーんと大門松
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20111229-OYT8T00769.htm
成田山不動尊
寝屋川市の成田山不動尊の山門前に、新年の参拝者を迎える大門松(高さ13メートル)がお目見えした=写真=。1月末まで設置される。
男性を表す黒松と女性を表す赤松に、計26本の竹と葉ボタン、梅、南天などをあしらった。一対の松は「夫婦の和合」、束ねた竹は「家庭円満」を意味しているという。
毎年初詣に訪れるという主婦恒吉喜代子さん(70)は「こんな大きな門松は、ほかに見たことがない。正月に見上げたら、気持ちが明るくなりそう」と話していた。
(2011年12月30日 読売新聞)
-
温か大根に1年感謝 東住吉・法楽寺「終い不動」
2011年12月29日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/111229/20111229024.html
大阪市東住吉区の法楽寺(小松庸祐住職)は28日、一年を締めくくる「終(しま)い不動」の行事を同寺で行った。参拝者に地元の伝統野菜「田辺大根」とこんにゃくの炊き物を振る舞い、来年の健康や幸運などを祈願した。
法楽寺は大日大聖不動明王を本尊とし、近隣住民から「田辺のお不動さん」として親しまれている。8年前から毎年12月の縁日に、西横門周辺の畑地で栽培され「田辺横門大根」と称された田辺大根を振る舞っている。
寺に残るかまど「へっつい」に載せた二つの大鍋で職員や地域住民らが約150本の大根を炊き上げ、参拝者らに配った。受け取った親子連れやお年寄りは温かい大根を頬張りながら、この一年の無事に感謝したり来年の健康を祈ったりした。
同区南田辺の田口遼太郎君(8)は「今年は家で田辺大根を作ったけど、こっちのもおいしかった。お正月は家でテレビとか見て、ゆっくりしたい」と言い、母親の睦子さん(40)は「地域の風物などを体験することはとても意義があると思う」と話していた。
-
府内の創業100周年企業 シャープなど109社
2012年1月1日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120101/20120101038.html
帝国データバンク大阪支社は、2012年に創業100周年など節目を迎える大阪府内のアニバーサリー(周年)企業をまとめた。100周年を迎えるのはシャープ(大阪市阿倍野区)やヤンマー(同市北区)、サステック(同市中央区)など109社に上る。
創業30、50、100年など大きな節目を迎えるのは8397社。130周年の東洋紡績(同市北区)、120周年の浅沼組(同市天王寺区)、110周年の大同生命(同市西区)などがあり、最も業歴が長いのは創業350周年を迎える能勢酒造(能勢町)だった。
データベース(DB)には集計されていないが吉本興業(同市中央区)も創業100周年を迎える。
100周年企業を業種別にみると、卸売業が34社(31・2%)でトップ。次いで製造業30社、小売業15社と続く。
年商規模では「1億円以上10億円未満」48社(44%)、「1億円未満」34社(31・2%)の順に多く、「10億円未満」の中小企業が4分の3を占めた。
近畿では、神戸学院(兵庫県)、菊の井(京都府)、伊藤佑(滋賀県)、西垣林業(奈良県)など280社が創業100周年を迎える。
調査は、同社の企業概要DB「COSMOS2」(140万社収録)から集計した。
-
きょうの関西
http://www.nhk.or.jp/lnews/osaka/2004936691.html
【大阪】
大阪の国立文楽劇場で伝統芸能の「人形浄瑠璃文楽」の人形が鏡開きを行います。この鏡開きは1年の公演の成功を祈って毎年正月3日に行われています。劇場の前に設置された舞台で文楽人形が木づちで酒だるのふたを割って訪れた客たちに祝い酒をふるまいます
-
幸せ、明るく、元気に 住吉大社、初詣でにぎわう
2012年1月3日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120103/20120103023.html
新年を迎え、府内各地の神社が初詣の参拝客でにぎわった1日、大阪市住吉区の住吉大社でも多くの親子連れやカップルが訪れ、広い境内はことし1年の家内安全や商売繁盛を願う人であふれた。
急な傾斜を上り下りする太鼓橋は、手をつないで歩く親子連れや着物姿のカップルなど足元を気にしながら進む人波で埋もれ、境内では、お守りを買う人やおみくじを引く人の行列が、終日続いた。
本宮では多くの参拝客が思い思いの願いを込めてさい銭を投げ、手を合わせて祈念。五穀豊穣(ほうじょう)、庶民繁栄、家庭和楽を願い、歌い手の周囲を四人一組で踊る住吉踊りにも、参拝客が集まっていた。
家族4人で訪れた大阪市在住の植村正さん(47)は「家族が幸せに、明るく、元気に暮らせますようにとお願いした」と話していた。
住吉大社によると、1日の参拝客は165万人で、三が日の参拝客は昨年並みの250万人を見込んでいる。
-
そろばんの上達願う 大阪天満宮ではじき初め
2012年1月4日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120104/20120104026.html
大阪府珠算教育連合会の「新春奉納そろばんはじき初め大会」が3日、学問の神様、菅原道真公を祭る大阪天満宮(大阪市北区)で開かれた。小学生を中心に約1200人が参加し、ことし1年の上達を願ってパチパチとそろばんをはじいた。
大会は、学業やそろばん技能の向上を願い、同会が新春の恒例行事として開いており、ことしで28回目になる。
参加者は、境内に設けられた奉納そろばんコーナーに早朝から列をなした。「心を合わせてそろばんをはじく」という意味を込め、はじき初め用に特別に作られた長さ180センチ、127桁の巨大そろばんを3人で使い、3桁の読み上げ算に挑んだ。
参加した同市旭区の有坂和佳さん(9)は「正解できて良かった。今は暗算5級なので、ことしは3級を目指して頑張りたい」と話していた。
-
元禄時代の梅酒再現 池田で限定販売
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20120105-OYT8T00069.htm
池田市などが出資するまちづくり会社「いけだ3C」は、元禄時代の梅酒を再現した「水月」(300ミリ・リットル、740円)=写真=を限定販売している。
同市鉢塚の市立水月公園周辺は古くから梅林が広がり、「秦野の梅林」として知られてきた。現在、公園内に約250本の梅の木が植えられており、この梅の実約200キロを使い、小西酒造(兵庫県伊丹市)が江戸時代の製法を再現した。2010年12月に初めて製造したところ、限定500本が2日間で完売。今回は梅の収穫が好調だったため、製造数を1700本に増やした。澄んだ色合いとまろやかな口当たりが楽しめる。同市栄町の「引札屋」(6日から営業)や市内の酒販組合加盟店で買うことができる。
(2012年1月5日 読売新聞)
-
一年の健康祈願 住吉大社で「福の餅神事」
2012年1月5日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120105/20120105014.html
大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)で4日、新春の行事「踏歌(とうか)神事」が執り行われた。神楽奉納や神前に供えられた餅の振る舞いが行われ、参拝客が一年の健康などを祈願した。
踏歌神事は朝廷で行われた儀式に由来し、五穀豊穣(ほうじょう)と福を招く神を祈る行事とされている。式の最後に紅白の餅を参拝者に投げ渡すことから「福の餅神事」とも呼ばれている。
神事は第1本宮で行われ、神職らが祝詞を奏上し、神楽女が「白拍子」を舞った。
このあと振る舞われた餅は2斗分。大黒天などに扮(ふん)した神職が、神楽女らとともに高く投げ上げると、参拝者は競うように拾い集めていた。
-
第60代「福娘」がやってきた!
http://www.ktv.co.jp/news/date/main.html
来週の十日戎を前に5日、関西テレビに一足早く「福」が届けられました。
やってきたのは…そう、大阪・今宮戎神社の福娘14人!
【山本浩之アナウンサーー】「みなさんこんにちはー!今年は第60代。3000人の中から選ばれたんですよね」
【村西利恵アナウンサー】「すごい倍率ですね」さっそく縁起物の「辰の額」をいただきました」
個性豊かな福娘のみなさん。
中にはこんな人も…。
【山本アナ】「今、サッカーの試合真っ只中。市立西宮出身の方はいませんよね?うそー!すごい!今同点に追いつかれたで」
【福娘・宇野名都美さん】「今、同点なんですか?さっき2点勝ってたのに」
【山本アナ】「2対2になってるで!」
【宇野さん】「え、そうなんですかー?」
-
>>542
【山本アナ】「ちょっと気になったんですけど、国際色豊かですね。アーユージャパニーズ?」
【福娘・ジェイキシンダスアルチャナさん】「ノー!インド、インドです」
【山本アナ】「キャンユースピークジャパニーズ?」
【ジェイキシンダスアルチャナさん】「関西弁大丈夫!大阪生まれなんで。めっちゃ関西弁なんですよ」
その時、福娘に近付く怪しげなカメラが…。
【気象予報士・片平敦さん】「あ、いいですね、笑顔いただけますか。福娘さんが来られると聞いて、うずうずして借りてしまいました」
【山本アナ】「十日戎の天気、これを言わないと、来てる意味がないで」
【片平さん】「今年の十日戎は平年並みの冬の寒さ。朝晩は寒いんですけどめちゃくちゃ冷え込むことはなさそう。気になる天気はズバリ、晴れ。ですからみなさん安心してくだハレ」
福娘のみなさん、判定は??
【山本アナ】「せーの」
【村西アナ】「バツ多い!」
【山本アナ】「あなた笑ってたやん!」
【福娘・岡田明恵さん】「もうちょっとひねってほしい」
【山本アナ】「パンチがたりひんねんパンチが」
【福娘】「みなさま、お手を拝借。打ーちましょ、よいよい、もうひとつせい、よいよい、祝うて三度、よよいのよい。おめでとうございます!!」 .
-
今宮戎神社福娘が「十日戎」PR
2012年01月06日
http://mytown.asahi.com/osaka/news.php?k_id=28000001201060001
商売繁盛の神様として親しまれる今宮戎神社(大阪市浪速区)の福娘14人が5日、「十日戎」(9〜11日)のPRに、朝日新聞大阪本社を訪れた。
若草色の着物に白い千早、金烏帽子(えぼし)をつけた福娘らは、明るい声で「打ちましょ」「祝うて三度で」と「上方締め」を披露した=写真。
今宮戎神社では、十日戎で参拝客の福笹(ざさ)に縁起物を結ぶ福娘を毎年募集しており、今回の選考会で60回目となった。応募者2984人から選ばれた40人と立命館大と関西大の留学生10人が福娘に決まった。このほか60回を記念して歴代の福娘ら約100人も9日、十日戎に参加する。福娘代表の京都産業大4年の岡田明恵さん(22)=京都市=は「きらきら輝く福娘が憧れでした。元気いっぱいの笑顔でお迎えします」と話した。
-
関西から笑顔届けたい 今宮戎の福娘来社
2012年1月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120106/20120106021.html
“えべっさん”の愛称で親しまれる商売繁盛の神様、今宮戎(えびす)神社(浪速区恵美須西1丁目)の「十日戎」を前に5日、同神社の福娘14人が大阪市中央区の大阪日日新聞を訪れ、ことし一年の福を授けた。
福娘は、着物に白い千早を羽織り、金色の烏帽子(えぼし)をまとった華やかな姿で来社。代表の岡田明恵さん(22)が「お手を拝借」と言うと、それに続いて残りの福娘が「打ちまひょ」「もうひとつせい」「祝うて三度で」と上方締めを披露。大阪日日新聞大阪本社の畑山博史代表に今年のえとの辰(たつ)を描いた縁起物の額を手渡し、新年の門出を祝った。
今年の福娘は、外国人留学生10人を含む総勢50人。2984人の応募者の中から選ばれた。岡田さんは「今年で60代目を迎える伝統ある福娘。代表として責任を持って奉仕していきたい。関西から笑顔を届け、みんなで日本を元気にしていきたい」と抱負を語った。
福娘は十日戎で「商売繁盛でササ持って来い」の掛け声とともに参拝者に福ザサを授ける。
-
今宮戎福娘:「笑顔と元気届ける」 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120106ddlk27040247000c.html
商売繁盛などを願う「十日戎(えびす)」(9〜11日)を前に、今宮戎神社(大阪市浪速区恵美須西1)の福娘14人が5日、大阪市北区の毎日新聞大阪本社を訪れた。
そろいの若草色の着物に白い千早、金色の烏帽子(えぼし)をまとった福娘は、「上方締め」で商売繁盛を祈願。岡田明恵さん(22)は「昨年は東日本大震災の影響で暗いニュースが多かったので、笑顔と元気を届けたい」と話した。【林田七恵】
-
船場伝統の正月もてなし 北原で「初市」
2012年1月6日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120106/20120106022.html
衣料製品卸の「北原」(大阪市中央区博労町、北原祥三社長)は5日、年始あいさつに訪れた取引先に酒や料理を振る舞う船場繊維問屋街伝統の正月行事「初市」を行い、にぎやかに来訪者をもてなした。
船場の商店では、正月に店先にたる酒やおせちを置き、杯を酌み交わしながら話の輪を広げる習慣があった。近年は繊維の製造拠点が海外や地方に移り、問屋街も4日ごろまで休むなど商売のスタイルが様変わりし、“船場式”の正月のもてなしを続けているのはごく一部となった。
同社では、創業50周年を迎えた15年前に初市を復活させ、おでんやすしの屋台も設置して来訪者をもてなしている。この日は、大阪プロレスの松山勘十郎さんも訪れ「ここに来るまでに何人もびっくりされた」と会場を和ませた。このあと来訪者がペア観戦券をめぐってじゃんけん大会を繰り広げた。
北原社長は「景気の悪い時期だが、東日本大震災の復興も祈念し、経済の中心の大阪が頑張らなければいけない。今年は65周年の年で私の社長元年の年でもある。勝負の年として経済・文化をリードするかつての大阪の姿を目指したい」と抱負を話していた。
-
阪神梅田駅で「えべっさん」をPR−「戎舞」披露、大熊手の贈呈も
http://umeda.keizai.biz/headline/1233/
阪神梅田駅東改札口前で1月6日、今月9日〜11日に西宮神社で執り行われる「十日えびす」のPRイベントが行われた。
新春恒例となった十日えびすのPRと電車の安全運行を祈願する同イベント。縁起の良い「戎舞(えびすまい)」の披露や、非売品のトラッキー人形付き熊手の配布が行われることから、毎年来場する人も多い。2010年からは難波・奈良方面からの来場も見込み、梅田駅、大阪難波駅の2カ所でイベントを開いている。
イベントでは、淡路人形座による「戎舞」を披露。淡路人形芝居は約500年前、西宮の傀儡師(かいらいし=人形操りを業とする者)である百太夫が淡路島に伝えたもので、現在の文楽人形浄瑠璃の元祖とされるもの。「戎舞」は、えびす様が庄屋を訪れ、世界平和や豊漁・豊作、海の安全を肴(さかな)に酒を飲み、酔っ払って漁に出てタイを釣り上げる縁起のいいストーリーで、観客からはえびす様が願い事を言って酒を飲み干す度に拍手が起こった。
被災地で公演した淡路人形座の吉田史興さんは「復興は進んでいなかったが、そこに住んでいる人たちは笑顔で逆に勇気づけられた。笑顔は大事。西宮えびすで福をもらって、笑顔で一年を過ごしてもらえたら」と話す。戎舞披露の後には、西宮神社の巫女(みこ)が梅田駅駅長に大熊手を贈り、運行の無事を願った。
十日えびすでは、前日の8日に特大マグロを奉納する「大マグロの奉納」、9日14時からは日本最古の温泉・有馬温泉の金泉を奉納する「有馬温泉献湯式」、10日6時からは赤門が開くと同時に約5000人が走り参る「開門神事福男選び」が行われる。期間中、約800軒の露店が軒を連ね、毎年約100万人が参拝に訪れにぎわう。
8日には阪急梅田駅1階で福娘が福ザサを授与するキャンペーンも行う。
-
華やかに宝恵駕籠行列、今年も開催へ−十日戎への参拝行事
http://namba.keizai.biz/headline/2120/
商売繁盛の神様「えべっさん」として親しまれている今宮戎(いまみやえびす)神社(大阪市浪速区)の「十日戎」が1月9日〜11日に行われるのに合わせ、福娘らを乗せた宝恵駕籠(ほえかご)行列が10日、ミナミの中心部を練り歩く。
宝恵駕籠行列とは元禄(げんろく)期、南地の芸妓(げいこ)が船場の旦那衆の代わりに今宮戎神社に参拝したことから始まった新春の恒例行事で、現在はミナミの各商店街らが参加する宝恵駕振興会が主催している。毎年、芸妓や福娘のほかタレントなどが宝恵駕籠に乗り込み、今宮戎神社への参道だった「戎橋」を中心にミナミを練り歩くもので、昨年8月には、地域文化の発展に貢献したとして「第33回サントリー地域文化賞」を受賞した。
行列の本隊は、9時50分に道頓堀川遊歩道「とんぼりリバーウォーク」で出発式を行った後、10時に宗右衛門町の元・南地大和屋前(現・ホテルビスタグランデ大阪前)を出発。宗右衛門町から堺筋を回って道頓堀を進み、10時40分ごろに戎橋横に設けた「戎舞台」に到着。市川右近さん、間寛平さんら文楽、歌舞伎役者、芸能人などがあいさつし、「大阪締め」で出立を祝う。
その後行列は、「ほえかご、ほえかご」の掛け声と共に戎橋筋商店街を南下、難波センター街商店街、吉本会館など各商店街を巡りながら12時10分ごろに今宮戎神社に到着、参詣を行う。12時40分ごろ、再びなんば駅方面に向けて折り返し、神官や福娘らとともになんばCITY、高島屋、なんばマルイ、大丸などに福ザサを授け歩く。
宝恵駕籠行列は数百メートルにも及ぶ。今年は、大阪松竹座から市川右近さん、日本舞踊上方舞山村流家元の山村若さん、吉本興業の間寛平さん、NHK連続テレビ小説「カーネーション」ヒロインの小野真千子さん、OSK日本歌劇団の桜花昇ぼるさん、オリックスバファローズの選手、松竹芸能のチキチキジョニーさん、文楽劇場の文楽人形、テイチクレコードの山口ひろみさん、福娘代表の岡田明恵さん、杉本由希さん、浪速区商店会連盟から井岡弘樹さんらが駕籠に乗る予定。
-
堀川戎神社:「絆大切にし経済発展を」 福娘、毎日新聞大阪本社に縁起物届ける /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120107ddlk27040367000c.html
商売繁盛を願う「十日戎(えびす)」(9〜11日)を前に6日、堀川戎神社(大阪市北区西天満5)の福娘や神職らが同区の毎日新聞大阪本社を訪れ、福笹(ふくざさ)など縁起物を届けた。
金色の烏帽子(えぼし)に白い千早姿の福娘5人は元気よく「商売繁盛、家内安全、お神楽」と声を合わせ、鈴を振り祈願。甲南女子大4年の大塚咲季さん(21)は「昨年は東日本大震災があったが、人と人との絆が確かめられた年でもあった。この絆を大切にし、商売の街大阪から日本中に福を届け、経済発展につながれば」と話していた。【堀江拓哉】
-
野田恵美須神社で「絆」をより強く 福娘、宝の市大祭PR 大阪
2012.1.8 02:10
http://sankei.jp.msn.com/region/news/120108/osk12010802100001-n1.htm
大阪市福島区の野田恵美須神社で9〜11日に「宝の市大祭」(十日戎(えびす))が開かれるのを前に、同神社の福娘が7日、産経新聞大阪本社(同市浪速区)を訪れ、祭りをPRした。
大祭では、福島区花のノダフジをあしらったかんざしを挿した福娘たちが、参拝者に福笹(ざさ)などの縁起物を授与する。福娘のひとり、北口千裕さん(21)は「今年はみなさんが『絆』をより強められるように笑顔で福をお授けしたい」と話していた。
-
「笑顔で福を」 福娘が十日えびす控え来社
2012年1月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120108/20120108022.html
商売繁盛など新年の幸福を願う「十日えびす」(9〜11日)を前に、野田恵美須神社(大阪市福島区)の福娘3人が7日、同市中央区の大阪日日新聞を訪れた。
朱色の着物に白い羽織をまとい、地域のシンボルの花・藤の花をあしらったかんざしを挿した福娘らは、鈴でおはらいをすると、大阪締めの手打ちをしながら商売繁盛を祈願。福俵などの飾りを付けた縁起物の福ザサを大阪日日新聞大阪本社の畑山博史代表に手渡した。
同神社は、約900年前の創建とされ、十日えびすの期間中は毎年約10万人が参拝。今年は、80年ぶりに改修した朱色と金箔(きんぱく)があでやかな鯛鉾(たいほこ)を飾り付け、13人の福娘が参拝者を出迎えるという。
また、各日とも夕方ごろからだんじりばやしを奏で、祝い酒を振る舞う。福娘の梅野美紀さん(21)は「昨年は東日本大震災が起き、大変な日々が続いているからこそ、明るく笑顔で福を届けたい」と話していた。
-
軽快 邪気はらい 住吉大社で「白馬神事」
2012年1月8日
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/120108/20120108021.html
大阪市住吉区の住吉大社(真弓常忠宮司)で7日、邪気をはらう行事「白馬(あおうま)神事」が執り行われた。神事の最後で同大社の神馬が本宮の周りを駆け回り、多くの見物人から歓声が送られた。
同大社は平安時代ごろから白い馬が神馬として奉納されている。新春を向かえ、馬が境内を回ることで邪気をはらう儀式として、毎年同日に神事を行っている。今回は3連休の初日に重なったため、例年よりも多くの人出でにぎわった。
今回は昨年5月に奉納されたばかりの雄の3歳馬「白雪号」が初登場。神馬守に引かれて四つある本宮を巡拝したのち、境内を軽快に駆け回った。初めは興奮していたが、神事後、御利益に預かろうとする参拝者に鼻先などをなでられると、落ち着きを取り戻していた。
-
シャープ、ヤンマー、通天閣… 関西で100周年続々
http://www.nikkei.com/news/local/article/g=96958A9C93819A96E2E4E2E09C8DE2E4E2E3E0E2E3E09E9693E2E2E2;n=9694E3E4E3E0E0E2E2EBE0E0E4E5
シャープやヤンマー、通天閣やひらかたパークなど、関西の有力企業や名所が2012年、相次ぎ100周年を迎える。1912年は明治から大正に改元された年で、大阪は紡績業を中心に発展し、「東洋のマンチェスター」と称されるほどの繁栄を見せていた。各企業や施設では今年、記念の催しや事業が計画されており、経済効果への期待も高まっている。
9月15日に創業100周年を迎えるシャープは20年ぶりに社史を出す計画だ。「100」をかたどったロゴマークも作成。国内外で名刺や商品カタログに使う。ホームページには今月から100周年の記念コーナーを開設。創業者・早川徳次氏の功績やこれまでの代表的な商品を紹介する。
ヤンマーは同社の歴史や製品を一般客に紹介する「ヤンマーミュージアム」(仮称)を滋賀県長浜市に建設する。12年5月に着工し、13年4月に開業する。ディーゼルエンジンを使った農漁業の体験コーナーを設置。社会見学に訪れる学生や観光客らの来場を見込む。
明治から大正に変わる時期の関西は、都市化が進展し、大衆文化が生まれた時期でもあった。今年は観光やエンターテインメントの分野でも100周年が相次ぐ。
通天閣は初代通天閣の開業から100年を迎えるのを機に、大阪の街を一望できる展望台を改装する。内装を金色で統一して観光客を呼び込む狙いだ。通天閣周辺の名所、新世界でも商店会などが100周年を祝う。
京阪電気鉄道系の遊園地「ひらかたパーク」は3月から来年2月までを100周年特別イヤーとして、人気アニメ「ワンピース」のイベントなどを矢継ぎ早に展開する。
吉本興業は4月からグループの旗艦劇場「なんばグランド花月」で、吉本の歴史を題材にした芝居を1年間、月替わりで上演する。映画やテレビ、舞台を記録したDVD集やCD集も発売する。
国産魔法瓶の第1号も100年前の大阪で誕生した。当時の大阪はガラス工業の中心地で、魔法瓶の真空構造を作るのにガラスの生産技術が生かされた。象印マホービンは本社1階に開設した「まほうびん記念館」(大阪市北区)で、魔法瓶の歴史や過去の製品を紹介。100周年にちなんだ企画展も検討する。
四条烏丸周辺に出店して100周年となる大丸京都店は4月以降、年内に4回のキャンペーンを実施する計画。京都にゆかりのあるオリジナル商品を開発・販売する。
-
>>554
おお、これはまためでたい話ですね。
>9月15日に創業100周年を迎えるシャープは20年ぶりに社史を出す計画だ。
>ヤンマーは同社の歴史や製品を一般客に紹介する「ヤンマーミュージアム」(仮称)を滋賀県長浜市に建設する
節目の年に自社の歴史を再認識するのは大事なことです。
その上で、さらなる発展への目標設定をすれば、未来は安泰でしょう。
>通天閣は初代通天閣の開業から100年を迎えるのを機に、大阪の街を一望できる展望台を改装する。内装を金色で統一して観光客を呼び込む狙いだ
展望台改装はいいけど、全面金一色ってのはちょっと・・・
展望台は景色を楽しむものですから、室内は地味でいいんですよ。
金一色に染めるくらいなら、新世界の街の紹介のパネルでも展示したほうがいい気がします。
>京阪電気鉄道系の遊園地「ひらかたパーク」は3月から来年2月までを100周年特別イヤーとして
かつてほぼ全ての鉄道会社が持っていたテーマパークですが、
生き残っているのはこのひらかたパークとみさき公園のみですからね。
名物の菊人形は残念ながら終わってしまいましたが、テーマパークの部分だけでも
今後とも続いてほしいものです。
>吉本興業は4月からグループの旗艦劇場「なんばグランド花月」で、吉本の歴史を題材にした芝居を1年間、月替わりで上演する
なんだかんだでここも100年ですか。
いろいろと黒いうわさも絶えない企業ですが、曲がりなりにも大手芸能事務所であることには変わりないので、
これからは正しい方向での芸能活動を目指して生まれ変わってほしいものです。
-
今宮戎神社が「祝い箸」授与 食の安全願い、今年から
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201201040014.html
商売繁盛の神様をまつる大阪市浪速区の今宮戎(えびす)神社が、新年の台所や食卓を飾る「祝い箸」を販売している。初めての試みで、初穂料込みで3千円。
放射能汚染や生肉の集団食中毒など、食の不安が広がった2011年。新たな年、安全を願って十日戎の最終日の11日までに3千膳を授与する。
縁起物の福笹(ふく・ざさ)にちなんだ竹製で、塗り箸で有名な福井県小浜市の業者に特注した。「竹のように真っすぐな気持ちで自然の恵みに感謝する1年に」と宮司。
-
十日戎:野田恵美須神社、きょうから11日まで 福娘3人、毎日新聞大阪本社でPR /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120109ddlk27040158000c.html
野田恵美須神社(大阪市福島区玉川4、玉田義宣宮司)の福娘3人が7日、毎日新聞大阪本社(同市北区)を訪れた。
同神社では恒例の十日戎(えびす)を9〜11日に開催。境内では昨年80年ぶりに改修した鯛鉾(たいほこ)などが出迎える。毎年期間中に計約10万人が訪れる。
福娘の北口千裕さん(21)は「昨年の漢字に選ばれた『絆』を今年はより強めてもらい、みなさんが笑顔で過ごせるように福を授けたい」と抱負を語った。【三上健太郎】
季語刻々:その前にデートせえへん?宵戎
http://mainichi.jp/enta/art/news/20120109ddm041070050000c.html
◆今
◇その前にデートせえへん?宵戎(よいえびす)−−児玉硝子(がらす)
「せえへん?」は大阪弁、「しませんか」と誘っている。OKの返事、大阪弁だと「ほんまか?」だろうか。「ほんとう? うれしいなあ」という返事である。
宵戎は明日の十日戎の前夜祭。大阪の今宮、兵庫の西宮など関西各地の戎神社がにぎわう。戎信仰は関東の「酉(とり)の市」に相当し、人々が商売繁盛を願って参詣する。<坪内稔典>
-
福あめ売り:家庭養護促進協、今宮戎周辺できょうから11日まで /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/news/20120109ddlk27040160000c.html
大阪市浪速区の今宮戎(えびす)神社の「十日戎」に合わせ、家庭養護促進協会(大阪市天王寺区)は9〜11日、神社周辺で恒例の「福あめ売り」をする。
同協会は、家庭の事情などにより施設で暮らしている子どもたちの里親探しをしており、棒あめや福豆(200〜300円)の売り上げは、協会の活動資金に充てられる。
各日とも午前8時半〜午後11時ごろ(11日は売り切れ次第終了)で、出店場所は神社北門西側と、地下鉄恵美須町駅5番出口から神社に向かう参道北側の2カ所。「ぼくにもほしいパパとママ」と書かれた緑色ののぼりが目印。【矢島弓枝】
-
■十日戎始まる〜大阪・今宮戎神社
http://www.mbs.jp/news/kansaiflash_GE120109112300528306.shtml
商売繁盛の神様「えべっさん」を祀る大阪・今宮戎神社の十日えびすが9日から始まりました。
十日えびす初日の9日は「宵えびす」です。
祝日ということもあって朝から多くの人がご利益を授かろうと訪れています。
今年は「福娘」を選び始めて60年を迎えるため、現役だけでなく歴代の福娘も参加し、参拝者に笹を授けるということです。
「きょうは福をいただきに参りました。たくさんいただいて帰ろうと思います」(30年前の「福娘」)
十日えびすは11日の「残り福」まで3日間開かれ、およそ100万人の参拝が見込まれています。
(01/09 12:28)
-
http://www.nikkei.com/life/gourmet/article/g=96958A90889DE1E5E4E2E7E3E3E2E0E5E3E0E0E2E3E39393E082E2E2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE6E4
しめ飾り、大阪と東京でこんなに違う
2012/1/6 7:00
昨年末、大阪の街でしめ飾り(正月飾り)が目に入った。しめ縄が横に伸び、そこにダイダイなどが付いている。大阪で生まれ育った会社の先輩によればこの形が関西風という。関東でよく見かける縄の部分が輪になったものと形が異なる。大阪伝統のしめ飾りにはどんな特徴があるのだろうか。
大阪府豊能町で約40年にわたってしめ飾りやしめ縄を作っている「注連縄職人」を訪ねた。しめ飾りは年間8万個を生産している。
「うちで作っているものの9割はこの形かな」。代表の島袋浩二さんは大阪の街で見たものと同じ形の商品を見せてくれた。縄の部分は向かって右側が太く、左側にいくほど細くなる。
◇ ◇
ごぼうに似ていることから、縄自体は「ごぼう締め」と呼ばれることが多い。浩二さんの父親で40年のキャリアを持つ信夫さんによると、昔からこの形が出回っていたため、見よう見まねで作るようになったという。縄の形に合わせてごぼう締め型のしめ飾りと呼んでみたい。
ほかの地域はどうなのか、調べていたところ、耳寄りな情報に出合った。三重県伊賀市の伊賀鉄道上野市駅に毎年、長さ約2メートルの「関西風のしめ縄」が飾られるとのこと。地域おこしグループ「伊賀地域研究会Be」が地元繁栄の願いを込めて寄贈している。
関西風とはどのようなものか。グループ代表の池沢基善さんに聞いてみた。
「向かって右側が太いしめ縄です。同じ三重県でも伊勢地方は左側が太い。伊賀は文化圏としては関西なので、しめ縄でもそれを示したいと考えました」。しめ飾りに関しても、伊勢、伊賀ともにごぼう締め型が主流だが、伊勢は左が太く、伊賀は大阪と同じで右が太いという。
全国にはどんな形があるのか。各地のしめ飾りを調べ、絵本「しめかざり」にまとめたグラフィックデザイナーの森須磨子さんを東京の自宅に訪ねた。
「想像以上にたくさんの種類がありますよ」。森さんは各地の写真を次々と見せてくれた。例えば京都。竜が玉を抱いた形をイメージしたものもあれば、江戸時代に流行した大道芸「ちょろけん」をモデルにした変わり種もある。
-
>>560
http://www.nikkei.com/life/gourmet/article/g=96958A90889DE1E5E4E2E7E3E3E2E0E5E3E0E0E2E3E39393E082E2E2;df=2;p=9694E3E6E2E4E0E2E3E2E4EAE6E4
「大阪風」の定義は難しいかもしれないと頭を抱え始めたところ、森さんが助け舟を出してくれた。「調査不足かもしれませんが、大阪でしめ飾りというと、この形になります」
写っていたのは右が太いごぼう締め型だった。「関東などに多い、扇やエビなどいろいろなものが付いているしめ飾りに比べるとシンプルで、実質本位という印象ですね」
◇ ◇
起源を探りたいと思い、京都大学こころの未来研究センター教授(宗教学)の鎌田東二さんを訪ねた。
「アマテラスが天の岩戸から引き出されたとき、二度と戻れないようにフトダマが戸をふさいだと日本神話にあります。そこで使った『尻久米縄(しりくめなわ)』がしめ縄の始まりとされます」とのことだった。
ごぼう締め型が大阪に多い理由について「はっきりした文