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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02
2122
:
名無しさん
:2015/08/12(水) 10:07:46 ID:GblVDpUA0
<私の戦後70年>「軍都大阪」戦跡に学ぶ
2015年08月12日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20150811-OYTNT50357.html?from=oytop_ymag
◇旧真田山陸軍墓地
◇森田 敏彦さん 72
大阪市内を中心に、太平洋戦争の遺跡を訪ね歩いています。きっかけは、約1万5000平方メートルの土地に約5100もの個人墓碑や合葬墓が並ぶ旧真田山陸軍墓地(天王寺区)の存在を知ったことです。
私は1943年に大阪市阿倍野区で生まれましたが、幸い空襲には遭いませんでした。高校生の時に父が亡くなり、遺品を整理していたら、軍隊手帳が出てきました。「父はどんな気持ちで従軍していたのか。無謀と思われる戦争を、父や当時の人々は一体どう思っていたのか」。そんな思いに駆られ、満州事変と日中戦争に出兵した父に戦争体験を聞けなかったことを悔やみました。
旧真田山陸軍墓地を初めて訪れたのは、公立高校の社会科教員時代です。それは、まるで街中に突如として現れた墓石群。その時の衝撃は忘れられません。退職後、観光ボランティアガイドになり、大阪城や玉造界隈などの観光スポットを案内する中で、墓地への関心が深まりました。
よく見ると、軍人のものだけでなく、外国人捕虜や軍の仕事を助けた軍役夫ら非戦闘員の墓もある。墓石の大きさは階級ごとに異なりますが、それでも身分、立場を超えて弔われていることに意義深さを感じました。日頃は戦争の傷痕など感じられない大阪の街中に、戦争遺跡がまだ多く残されていることに気づき、訪ね歩くようになりました。
市内の寺社の境内では、焼けたご神木や、爆撃の痕跡が残るこま犬なども見ました。都島区の善源寺楠公園に残る「渡辺綱・駒つなぎの樟」は、戦災で枯死した大木の木肌が黒光りし、戦争の愚行を断罪しているように感じます。船場のレトロなビルにも弾痕があり、50回を超えた大阪空襲のすさまじさを知ることができます。
大空襲の犠牲者を悼む慰霊塔や供養碑も、戦争の惨害を語り継いでくれています。1945年6月7日の第3次大空襲では市北東部が壊滅し、多数の死者が出ました。身元不明の千数百人の遺体を集め、遺骨を埋葬した城北公園(旭区)千人塚。爆撃の無慈悲さを思い、怒りと悲しみがこみ上げます。
大阪城やその周辺には多くの軍事施設が作られ、現存する建物もあります。大阪が軍事都市であったことはあまり知られていません。戦争に実感が持てない若い人にも、想像力を働かせて、戦争の愚かさを知ってもらわなければなりません。
私が実際に足を運んだ戦争遺跡のうち、約60か所を「大阪戦争モノ語り 街かどの『戦跡』をたずねて」(清風堂書店)と題した本にまとめ、戦後70年のこの夏、出版しました。これからは身近な人に戦争体験を聞くことも、どんどんなくなります。だからこそ、身近な戦跡に触れ、戦争について考えてほしい。二度と同じ過ちを起こさないために。(聞き手 東礼奈)
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