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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02
1405
:
よっさん
◆XxkTNAUYOc
:2013/06/30(日) 20:51:35 ID:rmhcg5Ps0
>>1404
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130630/wlf13063018000015-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130630/wlf13063018000015-n3.htm
後醍醐天皇が元弘元(1331)年9月、幕府につかまり、隠岐島に遠流されて以降、孤軍奮闘をつづけたのは、護良と楠木正成であった。護良は葛城山だけでなく、吉野から十津川、熊野の山中を転々とし、各地の武士団や修験者たちのオルグに奔走した。
正成は下赤坂城の陥落後、その行方は不明であった。金剛山の山奥深くに潜伏し、河内一帯の同志たちと連絡を取り合っていたのであろう。
ふたりの共同謀議が、どこで行われたのかは分からない。ここ、転法輪寺だったと思いたい。
* * *
作家、北方謙三は『楠木正成』のなかで、正成にたいし、護良に令旨(りょうじ)を発するよう促したうえ、こう言わせている。
「とにかく、この金剛山頂の転法輪寺からは、全国に令旨を発していただきます。(略)大塔宮様がおられるかぎり、どこかで蜂起はあるだろうと、私は思っております」
令旨とは、親王が発する命令書である。天皇が発する綸旨(りんじ)よりも「格下」だが、後醍醐は配流の身だったから、当時、護良の令旨は最高の権威を持っていた。
南九州から越後までの武士団にたいし、約60通にのぼる令旨を発した。内容は軍勢の督促や、領地の安堵、拡大などである。
ふもとにある千早城で元弘3年はじめ、楠木正成が幕府の大軍をまえに100日以上も持ちこたえたのは、修験者たちからの物資や武器の補給があったからであろう。それを指示したのが、護良であったはずである。
護良も吉野に城郭を築き、3千余騎の兵とともに籠城した。正成の千早城と両面作戦で、幕府を打倒するのがネライであった。
ふたりには共通点もある。その最期が、あまりにも悲劇的であったことだ。
「大塔宮護良親王尊像」と題された肖像画がのこされている。長髪で、やや下膨れの頬にヒゲをたくわえている。眉はキッとつりあがっているが、二重瞼の目は、どこかやさしげである。
後醍醐が隠岐からの脱出に成功すると、幕府側からは足利尊氏をはじめとする謀叛(むほん)者があいついだ。幕府はあっけなく滅ぼされ、護良は元弘3年6月、意気揚々と京に入った。『増鏡』には、こう書かれている。
「大塔の法親王、都に入り給ふ。この月ごろに御髪(ぐし)おほして、えもいはず清らかなる男になり給へり」
肖像画のとおりの姿であったのであろう。だが護良の運命は、ほかならぬ父親によって暗転する。後醍醐にとって、やっかいだったのは護良が各地に発した令旨であった。みずからが発した綸旨と矛盾する内容が多く、「勝手なことをしよって」という思いだったはずである。
護良は武門の棟梁をめざし、征夷大将軍になった。当然、尊氏と悶着(もんちゃく)を起こすことになる。もちろん尊氏のほうが、武士としては一枚上であった。ヤケッパチになった護良は尊氏暗殺をこころみるが、あえなく失敗し、鎌倉に送られた。
建武2(1335)年7月、どさくさにまぎれて斬首された。28歳であった。翌年5月、兵庫・湊川の戦いで壮絶な最期をむかえる正成は護良の死に、同志をうしなったような複雑な思いを抱いたはずである。
(福嶋敏雄)
=続く
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