したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

2120名無しさん:2015/08/11(火) 18:15:23 ID:JFZ66pCY0
<私の戦後70年>卒業式で帰阪 大空襲
2015年08月10日
http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20150809-OYTNT50225.html

◇学童疎開先での集合写真

 ◇瀬戸 寛治さん 83

 学童疎開先での生活を半年間辛抱すれば、また元いた場所で暮らすことができる。そんな思いは、かないませんでした。

 疎開先は島根県出雲市。1944年9月、堀江国民学校(現堀江小学校、大阪市西区)6年生の時です。大阪駅から夜行列車で約20時間。みんなが一緒で遠足気分でした。

 私の男子西組の約30人は、宍道湖近くのお寺にお世話になりました。ただ、浮かれていたのは最初だけ。帰りたいと泣いたり、寺を逃げ出そうとしたりした友達もいました。

 写真は、疎開先の国民学校の正門で同じ組の友達と撮影したものです。普段はそんなに雪の積もらない場所らしいのですが、この冬はよう降りました。大阪では経験したことのない寒さで、寺では掘りごたつにみんなで足を突っ込んで眠りました。

 食糧事情は都会より多少良いと言いながら、いつも空腹でした。その頃の思い出といえばゴマ塩。みんな、家から送ってもらったゴマ塩の瓶を持っていて、おやつ代わりにゴマをなめては空腹を紛らわせてね。食事の時、大きい器に当たったら、うれしかった。小さい器でも量は同じやのに、大きい方がたくさん入っている気がして。

 みんな同じ境遇やったんで、疎開の暮らしを楽しいとも、特段つらいとも感じなかった。黄だんが出て1か月ほど学校に通えなかった時は、寺の周りでシイの実を取ったり、散歩したり。卒業式のため大阪に戻った日は、そりゃあ、うれしくて。卒業式は1945年3月14日。前日にリハーサルをして、「明日で学校ともお別れやなあ」と思いながら、コッペパンとみそ汁の最後の給食を食べました。

 ところが、13日夜に空襲警報が響きました。大阪大空襲です。空から、どんどん焼夷(しょうい)弾が落ちてきて、やがて辺りは火の海に。「もうあかんなぁ」と何度もあきらめかけました。

 両親、祖母、妹と弟の家族6人は無事でしたが、自宅は全焼。焼けこげた遺体がそこら中に横たわっていました。私たちは、空襲に遭うために疎開先から帰ってきたようなものでした。結局、卒業式はできず、空襲の犠牲になった同級生もいました。戦後、私は17歳で父を亡くし、食べていくために高校を中退し、必死で働きました。

 終戦から5年程した頃、同級生の所在を電話帳で調べ、同窓会を開きました。その後も疎開先の寺を訪ねるなど、定期的に集まりました。そんな中、2007年に「卒業証書をもらっていない」という話になったんです。堀江小学校にお願いし、08年3月14日に卒業式を開くことができました。「63年の月日を経て、あなたが堀江国民学校の課程を修めたことを証します」と書かれた卒業証書を受け取った時は、感無量でした。

 戦争は多くの子供も犠牲にしました。二度とあんなことがあったらいかん。戦争はもう、ごめんやね。(聞き手 久場俊子)

 

 ◆将来の戦力温存

 空襲から逃れるため、都市部の児童を地方に避難させた国の政策。防空態勢の強化とともに、将来の戦力を温存する目的があった。

 親族を頼る縁故疎開が原則だったが、戦局が不利になると、1944年6月の閣議決定で学校ごとの集団疎開も始まった。集団疎開したのは40万人以上で大阪からは滋賀、奈良、香川、島根などに移住した。

 学童疎開を巡っては、沖縄から長崎に航行していた学童疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷で沈み、780人の学童が亡くなる悲劇もあった。

2015年08月10日


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板