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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

1195よっさん ◆XxkTNAUYOc:2013/03/03(日) 05:40:52 ID:W5qWiync0
竹内街道1400年 役割変われど往来途切れず
2013.3.2 15:11
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130302/wlf13030215120019-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130302/wlf13030215120019-n2.htm

 飛鳥時代の大和(奈良)と河内(大阪)を結んだ日本最古の官道「大道(おおじ)」が整備されて、今年で1400年を迎える。国境の竹内峠を越えることから竹内(たけのうち)街道と呼ばれ、初期の「外交の道」から経済、信仰、観光の道へと役割を変化させた。その道筋には、いまも古今の旅人の歴史が詰まっている。(川西健士郎)

 日本書紀をひもとくと、推古天皇21(613)年に、「難波より京に至る大道を置く」という記述がある。海上交通の起点だった難波の港(大阪市)と飛鳥(奈良県明日香村)を結ぶいわば最初の「国道」だ。

 沿道の大阪府太子町には、聖徳太子や推古天皇が眠る「王陵の谷」や、西域のシルクロードを連想させる奈良時代の石窟寺院跡などの遺跡が残る。遣隋使や外国の使節は、巨大古墳や美しい寺院を眺めながら都に向かったのだろう。

 考古学者の水野正好さん(78)は「国家が管理する倉や馬舎が一定間隔にあった。渡来人や軍隊、聖徳太子も通った広く、きらびやかな道だったことでしょう」と想像する。

 中世になると、聖徳太子が発見を予言した「予言石」が叡福(えいふく)寺境内の聖徳太子廟で発見されたことをきっかけに、太子信仰の巡礼者が大勢訪れる。自治都市として栄えた堺と大和を結ぶ経済の道としてもにぎわった。江戸時代には、西国三十三カ所巡りやお伊勢参りの旅人も盛んに往来するようになった。

 このころ旅人を奪い合う争いがあったことが、近年の研究で明らかになった。

 当時、竹内峠の東西の村に、旅人が一夜を明かす旅籠(はたご)街があった。ところが西側の山田村(現・太子町)が、竹内街道から分岐し、観光名所の当麻(たいま)寺につながる「岩屋道」を整備した。「できるだけ山田村に一泊してもらい、翌日に当麻寺観光を楽しんでもらう旅行ツアーを開発したという感じでしょう」と、太子町立竹内街道歴史資料館の鍋島隆宏学芸員(43)は解説する。

 この“ツアー”が当たり当麻寺に人が流れたため、東側の竹内村の旅籠から客足が遠のいたとして、竹内村が奉行所に窮状を訴えた訴状が、旧山田村から見つかった。奉行所は、岩屋道との分岐点に置かれていた旅人を当麻寺へ誘導する石の道標(みちしるべ)を撤去するよう裁定を下した。

 その道標は分岐点より手前の山田村に移されたが、かわりに「(当麻寺へは)是ヨリ十三丁程東」の文字が新たに刻まれた。「井関の道標」として資料館の近くに立っており、全国的にも例のない“予告する道標”として、ユニークな歴史を伝えている。

 1400年を記念し、沿道12市町村では3〜11月にさまざまなイベントが企画されている。鍋島さんは「歴史の深みを肌で感じられるのが竹内街道の魅力。知恵と工夫で村おこしをしてきた先人を見習い、観光を盛り上げたい」と話している。


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