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大阪の歴史、伝統文化に関するスレ02

616よっさん ◆yQclIeGV9A:2012/02/11(土) 16:54:41 ID:9bE6.2LU0
わが町にも歴史あり・知られざる大阪:/239 紹鴎の森 /大阪
http://mainichi.jp/area/osaka/archive/news/2012/02/09/20120209ddlk27070401000c.html

 ◆大阪市阿倍野区−西成区

 ◇先人の恩受け継ぐ 天満宮勧請、紀州街道の元に

 「岸の姫松」が残る府立住吉高校から、さらに西へと歩を進めると、阿部野神社に行き当たる。これまで何度も触れてきた北畠顕家を祭っている神社で、境内には銅像と、「花将軍 北畠顕家」という題名の歌の歌詞まで掲げられている。

 南北朝時代、南朝について戦場の花と散った美丈夫の若武者は、いつの時代もモテるようだ。同じく南朝の若武者で、戦場の露と消えた楠木正行(まさつら)は四條畷市の四條畷神社に祭られている。死後、神様となった2人をほふったのは北朝の高師直(こうのもろなお)だから、大変な敵役だ。

 大阪案内人の西俣稔さんが、玉垣の一角を指さす。懐かしい名前があった。「大屋政子」。派手な衣装と甲高い声で「うちのお父ちゃんなあ」と言うてた。「うちのお父ちゃん」は帝人社長の大屋晋三。「天下茶屋の政子ちゃん」と呼ばれていたそうで、生まれはこの辺りなのだろう。

 阿部野神社から下っていくと、阪堺電車の天神ノ森駅。西成区になる。天神ノ森というからには、天神さんがあるはず。しばらく歩くと、天神森天満宮が現れた。ここは「安産の神様」。境内に「子安石」が鎮座する。古来から信仰を集めた霊石だといい、豊臣秀吉も淀君のご懐妊の時に安産祈願をしたと伝わる。この石の周囲にある小石を持ち帰ると御利益があるとされ、出産後は小石を元の場所に戻してお礼参りをするという。

 鳥居の脇に、大きな石塔が二つ並んでいる。「天下茶屋あだ討ち供養塔」。岡山藩士の林重次郎、源三郎の兄弟が、父を闇討ちにした当麻三郎右衛門を追って艱難辛苦(かんなんしんく)、母は病没、兄重次郎は返り討ちに遭う。かたきを追って9年、1609(慶長14)年4月7日、弟源三郎が父と兄の恨みを、ついに天下茶屋で晴らした。返り討ちもあって世間の同情を集めた「天下茶屋のあだ討ち」は、歌舞伎や浄瑠璃となって人気を博した。

 西俣さんが着目するのは、石塔の裏に刻まれた文字だ。1829(文政12)年建立の石塔に「大阪」とあるのだ。確か、江戸時代の表記は「大坂」で、明治になって「大阪」に変わるのではなかった? 「土へんは『土に還る』といって縁起が悪いとされ、厄災など悪い時代の時は大阪を使っていたんです」と西俣さんの解説。

 神社の前を通る道が旧紀州街道。境内にはこんもりと木が茂り、森閑としている。昔はもっと緑深く、「天神ノ森」と呼ばれていた。「別名、紹鴎(しょうおう)の森です」。戦国時代、天神ノ森は交通の障害となっていて、東の熊野街道か西の勝間(こつま)街道に迂回(うかい)せざるを得なかった。この辺りに茶室を構えていた茶人、武野紹鴎が私財をなげうって森を開いて道を通し、天満宮を勧請した。これが紀州街道となる。人々はこの功績をたたえて「紹鴎の森」と呼ぶようになったという。

 この連載で歩いてきた道々には、人名が冠せられた橋や町がいくつもあった。そこには、恩人を忘れまいとする人々の情が込められている。この森もそう。私たちも先人の思いを受け継いで、こういう名前を残していかなくては。【松井宏員】


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