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日本の城郭

1日帝極右保守反動分子:2003/09/08(月) 18:39
日本の城郭に関するスレッドです。

107荷主研究者:2010/04/27(火) 22:20:57

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100413/CK2010041302000145.html
2010年4月13日 中日新聞
西内惣構の復元整備完成 堀の幅拡大 江戸時代の規模に

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010041302100086_size0.jpg
堀や土居を復元整備した西内惣構=金沢市主計町で

主計町『緑水苑』

 金沢市が進めていた、同市主計町の公園「緑水苑(えん)」内の西内惣構(にしうちそうがまえ)の復元整備が完成した。堀の幅をこれまでの約二メートルから、藩政期当時に合わせて約十メートルに拡大。土を盛り上げた土居(どい)も復元し、江戸時代の規模に近い形で惣構を体感できる空間となった。(村上一樹)

 惣構とは、城下町を囲い込んだ堀や盛り上げた土居などのことで、金沢城では防衛のため内・外二重の惣構が造られた。緑水苑は城の西側にある内側の惣構(西内惣構)が浅野川に流れ落ちる地点で、市は二〇〇八年度に発掘調査を実施。調査結果に基づく復元整備を〇九年秋から進めていた。

 明治以降は埋め立てられて幅が約二メートルまで狭くなっていた堀を、長さ十八メートルにわたり、幅約十メートルに拡大。合わせて、高さ約三メートルの土居を設け、斜面にはコグマザサを植えた。土居の上部には見学所も設けた。

 また公園機能との共存を図るため、平たん部分をなるべく残し、大雨時に氾濫(はんらん)しないよう排水機能の強化も図った。復元したのは広さ約三百平方メートルで、整備費は約二千万円。

 市は週内には新たな案内板を設置する予定で「市民が気軽に立ち寄り、歴史遺産にふれ合える空間になれば」としている。

108名無しさん:2010/05/02(日) 03:15:11
http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010050120390144/
岡山城特別展 会期終盤もにぎわう 幕末の動乱 史料で紹介

 岡山城天守閣(岡山市北区丸の内)で開催中の春季特別展「幕末の動乱 会津と長州そして岡山」(同市、おかやま観光コンベンション協会、山陽新聞社主催)は9日の閉幕まであと1週間。ゴールデンウイークが重なり、続々と訪れた歴史ファンが近代日本の夜明けに思いをはせている。

 黒船来航や会津、長州両藩の激突、官軍と旧幕府軍による戊辰(ぼしん)戦争終結ごろまでを約90点の史料で紹介。志士の心得を説いた高杉晋作の書をはじめ、土方歳三の愛刀や新式ライフル銃、官軍の隊長が頭に着けた赤い毛「赤熊(しゃぐま)」が目を引く。郷土関連では岡山市長に当たる岡山区長を務めた会津藩士手代木(てしろぎ)勝任(かつとう)の遺言状などが並ぶ。

 夫と旅行中の兵庫県宝塚市、主婦川口倫子さん(39)は「坂本竜馬ら志士の筆跡や白虎隊士の絵図から動乱の生々しさが伝わってきます」と話した。

 会期中無休。午前9時〜午後5時半。入場料は15歳以上800円、5歳以上400円。

【詳しくは山陽新聞紙面をご覧ください。】(5/1 22:30)

109荷主研究者:2010/05/06(木) 23:47:50

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20100423/CK2010042302000004.html
2010年4月23日 中日新聞
戦国期のガラス工房 福井・一乗谷朝倉氏遺跡で発掘

上級武家屋敷の一角にあったとみられるガラス工房の遺構(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)

 県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館は22日、戦国大名朝倉氏の城下町だった福井市城戸ノ内町の同遺跡から、ガラス工房とみられる遺構や炉跡、原料、ガラス玉などが出土したと発表した。これまで鎌倉時代から江戸初期までは、国内ガラス生産の空白期と考えられていたが、覆る可能性が出てきたという。

 同資料館によると、工房跡が発見されたのは遺跡の玄関部に当たる南端の上級武家屋敷跡の一角。幅9・5メートル、奥行き3・8メートルの遺構からガラス片、原料の鉛や石英、鉱物を高温で溶解する炉が集中的に見つかった。

 昨年度の発掘調査でガラス玉など156点が出土した。ガラス玉は直径2・5〜4・5ミリ、中心に穴があり、色は紺、緑、水色など。奈良文化財研究所に鑑定を依頼し、奈良時代に奈良で作られていた製法と酷似していた。鎌倉時代初期に途絶えたとされていたガラス生産が、戦国期の地方で受け継がれていたことがうかがえる貴重な資料という。

 水野和雄館長は「日本のガラス史を塗り替える発見。装飾品や仏具だったガラス玉を武士が(職人らに)作らせていたのではないか」と推測している。

遺構から見つかったガラス玉やガラスの溶解片=福井市城戸ノ内町で(県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館提供)

 同遺跡は朝倉氏が5代約100年間にわたって越前国(福井県の一部)を支配した城下町跡で、国特別史跡に指定されている。

 (原田晃成)

110荷主研究者:2010/05/06(木) 23:49:44

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100424/CK2010042402000138.html
2010年4月24日 中日新聞
130年ぶり いよっ三代目 河北門デビュー

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010042402100057_size0.jpg
約130年ぶりに復元され報道関係者らに公開された河北門=金沢城公園で

職人500人 2年半かけ復元

 金沢城の三御門の一つで、四月半ばに復元が完了した河北門の報道関係者向け内見会が二十三日開かれ、一八八二(明治十五)年ごろに撤去されてから約百三十年ぶりによみがえった門の全容が披露された。(佐藤航)

 河北門は現存する石川門の北側に位置し、これまでの研究では金沢城の実質的な正門だったとされている。一七五九年の宝暦の大火で焼失した後に一度復元されたが、明治に入り旧陸軍が駐留していた約百三十年前に取り壊された。今回の復元で三代目の門になるという。

 二代目の門の絵図や明治初期の写真などを基に、約五百人の職人が二年半で仕上げた。石川門と同じ構造で、ケヤキ造りの「一の門」(高さ七・四メートル)、両側の石垣にやぐらを渡した「二の門」(同一二・三メートル)、双方の門をつなぐ「枡形(ますがた)土塀」などを備える。事業費は約十五億円。

 二十四日午前に完成の記念式典があり、同日午後六時半からはライトアップが始まる。

111荷主研究者:2010/05/10(月) 22:56:45

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20100429/CK2010042902000004.html
2010年4月29日 中日新聞
二階と三階を初公開 彦根城の西の丸三重櫓、29日から

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2010042902100062_size0.jpg
公開が始まる彦根城西の丸三重櫓と続櫓

 彦根城(彦根市)の西の丸三重櫓(やぐら)(国の重要文化財)が29日から公開される。

 櫓は、本丸に隣接する西の丸の西北に位置する。3階建てで1階はすでに公開されており、2階と3階が初公開となる。高さは約11メートル。東側と北側の1階に、それぞれ続櫓(つづきやぐら)がある。

 市文化財課によると、彦根城が築城された当初は、筆頭家老の木俣土佐が毎月20日間ほど詰めていた。江戸後期の嘉永6(1853)年に実施された大修理で柱や梁(はり)などの部材の8割近くが取り換えられたという。

 櫓は、戦国武将の浅井長政の居城だった小谷城の天守を移した建物との言い伝えがあるが、昭和30年代に行われた解体修理では、その痕跡は見つからなかった。

 29日午前9時半から、公開を祝うために人気キャラクター「ひこにゃん」が登場する。

 (伊藤弘喜)

112荷主研究者:2010/05/21(金) 00:16:02

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/170337
2010年5月9日 01:10 西日本新聞
福岡城本丸の模型披露 復元目指して講演会 福岡市のNPO法人など企画

 初代福岡藩主・黒田長政が築いた福岡城(福岡市中央区)の復元を目指す市民講演会「ふくおかの歴史を見直そう! 蘇(よみがえ)れ!福岡城&黒田家の人々」が8日、同区で開かれ、本丸の模型などが披露された。

 市民団体「つくしの歴史を学ぶ会」とNPO法人「鴻臚館・福岡城跡歴史・観光・市民の会」の共催で約130人が参加。市民団体「筑前城郭研究会」の小田原早嗣会長が制作中の福岡城の本丸模型が初めて展示され、関心を集めた。

 この日は、小田原会長がコンピューターグラフィックス映像で本丸の構造を解説。市教委職員がこれまでの復元整備の経過と展望について話した。夫と聞き入った大野城市の女性(58)は「郷土の歴史シンボルとして、福岡城の復元が進んでほしいですね」と話していた。

 福岡城復元をめぐっては3月、市と民間団体、有識者などによる官民共働勉強会が発足。「市民の会」の岡部定一郎事務局長は「市民募金につながるよう、機運を盛り上げていきたい」と参加者に呼びかけていた。

=2010/05/09付 西日本新聞朝刊=

113荷主研究者:2010/05/27(木) 22:30:38

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20100516/CK2010051602000023.html
2010年5月16日 中日新聞
交通対策待ったなし 戦国ブームで活気の犬山観光

駐車待ちの車で埋まった城下町の本町通り=5月3日、犬山市犬山北古券で

 好天に恵まれた今年の大型連休期間中、犬山市の城下町や観光施設は近年にない人出でごった返した。半面、交通対策の“不行き届き”があらためて浮き彫りとなり、観光地としての弱点を露呈した。

 市観光協会によると、人出の指標となる1〜5日の国宝犬山城入場者数は2万284人。昨年同期間の入場者数1万2193人を66%上回る大幅な増加となった。天守閣登城まで1時間半待ちの日もあり、炎天下、城郭の外まで長い行列ができた。

 同協会は、城下町の観光客が増えた要因として▽最近の戦国ブームで“本物”である犬山城が注目された▽連休序盤の4月29日、お笑いコンビ「ロンドンブーツ1号2号」の田村淳さんが市の観光特使に任命され大きく報道された▽市と名古屋鉄道が展開している「犬山キャンペーン」の町歩き企画が浸透した−などを挙げる。

 一方で、駐車場不足に伴う渋滞、歩行者の安全確保といった以前から指摘されている交通に関する行政サイドの対応の遅れは深刻だった。

 城下町の狭い通りは一方通行が多く、駐車待ちの車であふれ、歩行者がのんびり散策するどころか、江戸情緒の“かけら”すら感じられない状況が続いた。近隣の学校やグラウンドの開放も進まず、車を止めるのに3時間以上も待たされた観光客らからは不満が噴出した。通りを生活道路にしている住民も渋滞の影響で不便を強いられた。

犬山城天守閣への登城を待つ観光客らの列=5月3日、犬山市犬山北古券で

 現場で対応した観光協会職員には「犬山市の交通対策は野放し」「歩行者の安全への考えがまったくでたらめ」「ここには『もてなしの心』がないのか」「これでは犬山城という宝が泣く」といった怒りの声が観光客から浴びせられたという。

 その職員は「特に有名観光地でもないのに、今は全国から大勢のお客さんが犬山を訪れてくれる。その人たちをがっかりさせないためには、どうすれば良いのか、もう話し合っている時間などない」と言い切った。

<記者の目>
 予測を上回る観光客にわいた連休中の犬山市。だが、ここ数年、犬山観光を取り巻く状況は劇的に変化している。特に「駐車場問題は限界を超えた」と言われて久しい。行政や観光の関係者には、変化に迅速に対応するスピード感が求められる。

 (野末幹雄)

114荷主研究者:2010/05/30(日) 10:35:01

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20100517/CK2010051702000011.html
2010年5月17日 中日新聞
入場者800万人突破 伊賀上野城、開館以来74年7カ月

福井専務理事(左)から記念の花束を受け取る安江さん一家=伊賀市上野丸之内で

 伊賀市の伊賀上野城の入場者数が16日、開館以来74年7カ月で800万人を突破した。800万人目の岐阜県白川町、会社員安江好博さん(42)一家に、城を管理する伊賀文化産業協会から記念品が贈られた。

 安江さんは長女の杏さん(7つ)ら家族4人で来場。協会の福井健二専務理事(73)から記念の花束と城のガイドブックを手渡され「偶然で驚いた。初めて来たが、岐阜の城と比べても立派で美しい」と話していた。

 伊賀上野城は伊賀を治めた大名の藤堂高虎(とうどうたかとら)が1611(慶長16)年に建造したが翌年の暴風で倒壊。1935(昭和10)年に3層3階建ての大天守閣が復興、開館された。入場者数は1989(昭和64)年に500万人を突破し、90年ごろに年間20万人以上とピークを迎えた。その後減少が続き昨年は10万五千人が訪れている。

 豊臣秀吉から高虎に贈られたと伝わる「唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」(県有形文化財)など藤堂家ゆかりの武具を展示している。

 (河北彬光)

115荷主研究者:2010/06/16(水) 22:29:19

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/171710
2010年5月15日 00:27 西日本新聞
戦国末期の大名・龍造寺隆信 佐賀城内に居城遺構

初確認された戦国大名・龍造寺氏の居城「村中城」の建物跡。白いマークがついているのが掘立柱の柱穴=14日午後、佐賀市城内1丁目

 佐賀市教委は14日、佐賀藩鍋島家の居城・佐賀城の前身で、戦国大名龍造寺(りゅうぞうじ)隆信(1529−84)が拠点とした中世の平城(ひらじろ)「村中(むらなか)城」の関連建物遺構を、佐賀市城内1丁目で初確認したと発表した。佐賀城跡周辺は佐賀県が公園整備を進めているが、村中城の遺構は痕跡すら見つかっていなかった。同市教委は「九州で一大勢力を誇った龍造寺氏の実像に迫る重要な発見」としている。

 遺構が確認されたのは、佐賀城西堀に架かる西の御門橋付近の一角。約350平方メートルの調査区画から、東西に整然と並ぶ大型掘立柱(ほったてばしら)建物2棟の25の柱穴が見つかった。柱穴は江戸期の地層から約80センチ掘り下げた土中から、16世紀後半に製造された中国・景徳鎮や朝鮮半島産の磁器などと一緒に出土したことから、村中城関連遺構と判明した。

 同市教委によると、柱穴の直径は55−65センチで、当時、佐賀平野にあった建物では群を抜く規模。ただ、村中城に関する絵図や文書はないため建物の名称や用途は不明で、館や寺院など重要施設であることが推定されるという。

 龍造寺隆信は戦国末期の16世紀後半、薩摩の島津氏、豊後の大友氏と九州を三分する大名に成長。最盛期は肥前から筑後、肥後、筑前、豊前、壱岐・対馬に勢力を伸ばし、「五州二島の太守」と号した。隆信は島津氏との戦いに敗れ戦死するが、領国を継承した鍋島直茂・勝茂父子が江戸期の1608−11年、村中城を拡張。巨大な堀を有する佐賀城に整備した。

 丸山雍成(やすなり)・九大名誉教授(日本中近世史)は「幕末維新期に近代日本形成の一翼を担った佐賀藩のルーツを知る上でも、村中城関連遺構の確認は意義深い」と話している。

=2010/05/15付 西日本新聞朝刊=

116荷主研究者:2010/06/20(日) 14:54:04

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201006010079.html
'10/6/1 中国新聞
戦国の山城跡、住民が再整備
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 庄原市口和町大月の大月自治会が、戦国時代の山城だった黒岩城跡を再整備した。あずまやを設け、登山道には手すりなどを取り付けた。建設中の中国横断自動車道尾道松江線口和インターチェンジ(IC)=仮称=完成を見込み、通行客にも町に立ち寄ってもらう期待を込めている。

 黒岩山(456メートル)に築かれた山城跡は市史跡。かつて尼子氏と毛利氏の争いのときの最前線に当たり、領主は毛利方の和泉氏だったと伝えられる。

 頂上にあった旧神社(約10平方メートル)をあずまやに改修し、ベンチなどを置いた。南ルートと東ルートがある登山道(いずれも約150メートル)には、安心して訪れられるよう、手すりやプラスチック製の階段を設けた。

 ふもとには約500平方メートルの公園を整備し、トイレも改修した。桜とモミジの苗木計100本も植樹した。

【写真説明】山頂にあった旧金比羅神社を改装したあずまや

117荷主研究者:2010/06/20(日) 14:57:49

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20100602/CK2010060202000012.html
2010年6月2日 中日新聞
岐阜公園で発掘始まる 信長の居館跡

メーン通路の構造解明に向けて階段のコンクリートをはがす業者ら=岐阜市の岐阜公園で

 戦国武将の織田信長が、客人をもてなしたり政務を執ったりするための「居館」を構えたと伝わる岐阜市の岐阜公園で1日、本年度の発掘調査が始まった。屋外のメーン通路とみられる上り口の構造や、昨年度の調査で見つかった庭園遺構などの全容解明を目指す。

 市教育委員会が居館跡の発掘調査を始めたのは1984年で、現在は2007年度から始まった4次調査の4年目。本年度は、金華山ロープウエーの南東2地区約260平方メートルを掘り進める。発掘事業費は約4064万円。

 この一帯は、迎賓館や宣教師ルイス・フロイスが書き記した高層の建物、茶室などがあった“もてなしのエリア”とみられている。

 6〜9月は、迎賓館のように要人を接待する建物があったとされる明治大帝像の西側地区を重点的に調査。幅約4メートル、全長約30メートルとみられるメーン通路や、門の構造などを明らかにする。

 10〜3月は、昨年度の調査で、池や水溜めの石組みなど園池遺構が見つかった槻谷(けやきだに)の奥をさらに発掘。高層の建物の一部とみられる焼けた石垣の周囲の調査も進める。

 信長は1567年から9年間、岐阜城に住み、天下統一を目指した。城は1600年、関ケ原の戦いの前哨戦で、孫の秀信が徳川家康の東軍に敵対したため池田輝政らに攻められ落城。その際、現在の岐阜公園一帯に広がっていた居館も焼き払われたとみられる。

 発掘現場は9月まで、柵越しに常時公開されている。市教委社会教育課文化財グループの井川祥子さんは「ロープウエーの近くでやっているので、ぜひ見に来て、歴史に思いをはせてほしい」と話している。

 (森村陽子)

118荷主研究者:2010/07/06(火) 22:44:33

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20100616/CK2010061602000006.html
2010年6月16日 中日新聞
110年前にも修復の記録 改修中の飯田城「赤門」

屋根材の一部から見つかった板書

 飯田市追手町の飯田合同庁舎敷地内で改修工事中の飯田城桜丸御門、通称「赤門」の屋根から、110年前に修復をしたと見られる年号や担当した大工の名前が書かれた板書が見つかった。この時期の改修の記録は確認されていないという。19日には、改修工事の一般見学会が開かれる。

 板書が見つかったのは5月下旬ごろで、瓦などをはずしたところ、屋根材の棟札に「明治33年8月3日 大工 筒井…」などと書かれていた。大工の名前はもう一人書いてあった。

 下伊那地方事務所によると、赤門は、1985(昭和60)年に、土台を中心に改修されたほか、40(昭和15)年にも改修された記録はあるが、それ以前については不明だった。

 板書が見つかった付近の屋根の構造を見ると、それ以前とは違った方法で改修されていると見られ、今後、元の状態に戻すかどうかも検討していく。

改修工事が進められている赤門=いずれも飯田市の飯田合同庁舎敷地内で

 今回の改修では屋根瓦を取り換えるほか、赤いベンガラを塗る工事が進められる。板書した屋根材も何らかの形で保存をしていく。

 工事の見学会は19日午後1時30分から同4時まで、現地で工事業者などから工事の状況の説明や当時の建築などについて説明される。

 (吉田幸雄)

119荷主研究者:2010/07/19(月) 21:17:34

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20100628001.htm
2010年6月28日 北國新聞
橋爪門一の門 しばし閉鎖 二の門復元へ埋文調査開始 金沢城公園

橋爪門二の門の復元工事に合わせて閉鎖された一の門=28日午前8時半、金沢城公園

 金沢城公園で28日、橋爪門二の門の復元に向けた石川県の埋蔵文化財調査が始まり、一の門の扉が閉鎖された。約2年間かけて埋文調査を行い、2012(平成24)年度の本体着工を目指す。二の門の完成は14年度を見込んでおり、同年度末の北陸新幹線金沢開業に向けて金沢城の風格に厚みが増す。

 埋文調査の対象範囲は、橋爪門続櫓(やぐら)の周辺約1千平方メートルで、一の門から二の丸広場につながる園路の一部は、橋爪門二の門が完成する14年度まで、通行が禁止される。

 この日は、県公園緑地課の職員2人が左右に開いた一の門の扉を内側からゆっくりと閉め、かんぬきを通して閉鎖した。一の門は01年9月に開門式が行われ、同年の全国都市緑化フェアなどイベント時を除き、常時開放されていた。長期間の閉鎖は開門以来初めてとなる。

 県は排水路の付け替え工事などを終えた上で、10月中に鶴の丸広場を経由して二の丸広場につながる迂回(うかい)路を設置する。

 橋爪門は二の丸御殿の入り口に位置した正門で、明治期の火災で焼失した。石川門、今年4月に復元された河北門とともに「金沢城三御門」の一つに数えられる。一の門と二の門、土塀で構成される枡形門で、一の門は菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓とともに01年7月に復元された。

120荷主研究者:2010/08/12(木) 21:24:07

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/182862
2010年7月7日 00:05 西日本新聞
中津城 民間売却へ 市と所有者 評価額で折り合わず

民間に売り出されることになった中津城の天守閣(中央) 大分県中津市の中津城の天守閣を所有する中津勧業(同市)が、市と進めてきた天守閣と敷地の売却交渉を打ち切り、近く民間に売りに出すことが、6日分かった。市と同社の双方が提示した評価額の開きが大きく、交渉が折り合わなかったという。

 中津城は、九州最古の近世城郭で日本三大水城の一つとされる。1877年の西南戦争で焼き打ちに遭うなどして、石垣だけが残った。鉄筋5階建ての天守閣は1964年、最後の城主だった奥平家の子孫が中心になり本丸跡に建設。現在、奥平政幸氏が代表取締役を務める中津勧業が建物を、代表役員を務める宗教法人「奥平神社」が敷地(2175平方メートル)を所有している。

 2007年7月に中津勧業側が突然、城と敷地を3億2千万円で売り出すという広告を出し、「市のシンボルであり、観光資源として必要」とする市と同年8月から売却交渉を進めてきた。

 関係者によると、昨年秋に双方が不動産鑑定したところ、市の評価額は1億3900万円だったが、中津勧業は1億9600万円だった。今年に入り、同社は1億5000万円まで譲歩したが、市は「1億3900万円しか出せない」と譲らず6月下旬、耐震診断し正確な評価額を出したいと申し入れた。

 同社は、耐震診断の結果、さらに減額される可能性があるとして断り、結局、交渉は決裂した。同社は、今月中に不動産会社を通してインターネット上に広告を出すという。

 奥平氏は「市は天守閣の文化的な価値や観光面での経済価値を認めなかった。市民のために市に買ってほしかったが、残念だ」と話している。

=2010/07/07付 西日本新聞朝刊=

121荷主研究者@新潟遠征中:2010/08/28(土) 10:00:05
なまこ壁が印象的で昔から好きだった新発田城についでに立ち寄る。しっかりと整備保存されボランティアガイドも常駐し、非常に好感の持てる城跡である。

122荷主研究者:2010/08/29(日) 13:06:10

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20100821/CK2010082102000126.html
2010年8月21日 中日新聞
松波城跡庭園 構築 16世紀前半か 能登町教委調査で限定 火災で消失濃厚

16世紀前半の構築と推定される庭園跡の枯れ山水遺構=能登町松波で

 平らな小石を敷きつめて水の流れを表現した全国でも珍しい枯れ山水遺構のある松波城跡庭園跡(能登町)を発掘調査していた同町教委は二十日、庭園が十六世紀前半に構築され、同後半以降に消失した可能性が高いことが分かったと発表した。庭園は火災による落城とともに消失したと推測できるという。

 町教委によると、築造年代についてはこれまで「十五世紀後半から十六世紀代」と推定されていた。二〇〇九〜一〇年度の調査で新たに出土した珠洲焼や越前焼の破片などを調べた結果、十六世紀前半に絞られたという。

 さらに、枯れ山水遺構に隣接する建物跡の礎石が熱で赤く焼けていることから、町教委では建物が火災にあったと推定。意図的に庭園のあった場所を埋めた形跡もあり、地層などから十六世紀後半以降に庭園が消失したとみられる。

 火災の時期や原因は不明だが、文献によると一五七七(天正五)年に松波城が落城したとされており、消失時期ともほぼ一致しているという。

 庭園のある平たん面の段階的な造成方法、枯れ山水を構築する景石や平らな小石の配置や種類、建物の規模なども補足調査で判明。庭園の全容がほぼ明らかになり、〇六年度から進めてきた庭園跡の現場調査は今回で終了した。今後は現場から採取した炭化物で年代を詳しく測定する。また、金沢学院大の東四柳史明教授が文献資料を調査している。庭園跡の現地説明会は二十二日午後一時半から。問い合わせは真脇遺跡縄文館=電0768(62)4800=へ。 (中平雄大)

 ◇松波城跡庭園跡◇ 七尾城主畠山義統の三男義智が1474年に松波城を築城し、約100年続いたとされる。庭園跡は1962(昭和37)年に公園整備中に発見され、80年の発掘調査で枯れ山水遺構などが明らかになった。県指定史跡。

123荷主研究者:2010/08/29(日) 13:24:27

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201008170081.html
'10/8/17 中国新聞
城に隣接、和の新空間 松江
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 来年3月にオープンする松江市殿町の松江歴史館。7月末に本館工事が終了し、全容がほぼ姿を現した。「お城の見える博物館」をテーマに、松江城に隣接する絶好のロケーション。新たな観光、交流、歴史研究の拠点になりそうだ。

 開府400年の中心事業で、総事業費約39億円、敷地面積は約5500平方メートル。江戸時代の古文書や絵図などを展示する。

 武家屋敷をイメージした外観で、2007年に建設地から出土した江戸時代後期の瓦を再現し、使用している。和を感じてほしいと本館は畳敷き。中庭の日本庭園を眺められる「暮らしの大広間」は、くつろぎスペースとしてや、茶会、華道のイベントなど多目的に活用できる。

 耐火設備の収蔵庫3カ所計690平方メートルには、市が分庁舎や松江城などで管理している江戸時代の史料約2万点を選定し保管、研究を進めていく。

【写真説明】<上>松江城天守閣(手前)を見上げる場所に建設された松江歴史館(奥)<下>郷土芸能を催したり、喫茶店のテラスとして活用する「濡れ縁」

124荷主研究者:2010/09/27(月) 00:12:38

http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12841299300988&elem=kennai
2010年9月11日(土)茨城新聞
水戸城 二の丸御殿跡初調査

石組み用排水施設出土

【写真説明】初めての二の丸御殿跡調査により見つかった凝灰岩を使った石組みの用排水施設跡=水戸市三の丸

県教育財団は10日、水戸市三の丸の水戸城二の丸御殿跡の発掘調査結果を発表した。水戸徳川家の居城として知られる水戸城の中枢建物である二の丸御殿跡の調査は今回が初めて。凝灰岩を使った石組みの用排水施設跡や、井戸のような遺構などが見つかった。同財団は「初めての二の丸御殿跡の調査で、水戸城の全体像を探るきっかけになる」と話す。

調査地は県立水戸三高の敷地内で、同校図書館改築工事に伴い、6月から9月までの予定で調査が実施されている。調査面積は270平方メートル。

今回の調査では、江戸時代中期から幕末にかけての整地層を8面確認。用排水施設を持つ二の丸御殿の立っていた時代の層や、焼けて黒ずんだ土の見える1872年の建物焼失の時期の層、その後建てられた師範学校の土管などが残る層など。

ほとんどの層に同じ向き、並びで排水施設が張り巡らされている。のみで削った痕跡のあるふた付きの石樋(いしどい)や土管のほか、大量の瓦や古銭、常滑焼の陶器の破片などが見つかった。

同財団は「幕末以前から何度も建物の改修が行われ、以前の遺構を埋め、そこに同じ軸を利用して新たに建物を建てていたことが分かる。当時の基礎工事や排水施設の構築方法の一部を垣間見ることができる」と話す。

125荷主研究者:2010/10/03(日) 21:25:23

http://www.ibaraki-np.co.jp/news/news.php?f_jun=12845583226670
2010年9月16日(木)茨城新聞
土浦城櫓門の太鼓1770年製、国内3番目の古さ

墨書で判明

【写真説明】太鼓内部の墨書(左側2行)で製作年が1770年と判明=土浦市教委提供

江戸時代の土浦藩で城下の藩士、領民に朝夕の時刻を告げた、土浦市指定文化財「土浦城櫓(やぐら)門の太鼓」(刻(とき)の太鼓)が1770(明和7)年に製作されたことが、太鼓内部の墨書から分かった。市教委によると、現存する「刻の太鼓」で製作年が判明している中で3番目に古く、「歴史遺産としての価値を高める新発見」という。

市教委文化課によると、太鼓は胴部の漆がはがれ、革の張りも不均一になったのを受けて、現在の所有者の八坂神社(同市真鍋5丁目、鈴木健一宮司)が都内の業者に依頼して今年7月から修復。その際に、革を外して内部を点検したところ、墨書が多数見つかり、それにより製作年をはじめ、江戸・浅草の太鼓師が製作したこと、江戸時代に8回、大正時代に1回修理されたこと-などが判明した。

1770年の土浦藩主は土屋篤直。幕府では2年後に田沼意次が老中に就任している。製作年が明らかなものの中では、柏原(かいばら)藩(現兵庫県丹波市)の1668(寛文8)年、丸亀藩(現香川県丸亀市)の1751(寛延4)年に次ぐ古さという。

市教委文化課の萩谷良太学芸員は「修理の回数、間隔などから日常的に使われていたことが分かる貴重な発見」と評価している。

10月末に修復が終わる土浦城櫓門の太鼓は、11月3日に開かれる市制施行70周年記念式典で、「刻の太鼓の会」(須田義之会長)のバチさばきで240年の歴史の音を響かせる。

126荷主研究者:2010/10/03(日) 22:12:50

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201009180042.html
'10/9/18 中国新聞
広島城から移築?土蔵復元へ
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ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20100918004201.jpg

 広島城から移築され、貴重な建築物とみられながら取り壊しの危機にあった江戸時代後期の土蔵(広島市東区愛宕町)を、修道中・高(中区)が譲り受ける。同校の前身で、かつて城内にあった学問所の蔵の可能性が浮上。調査のうえ、復元を検討する。

 土蔵は、間口3・8メートル、奥行き5・7メートルの2階建て。老朽化のため取り壊し、マンション建設の計画がある。15年近く独自に土蔵を調べてきた西区の建築士加藤早苗さん(63)が、江戸期の広島城の図面に同じ寸法の学問所の蔵を確認。同校関係者に伝え、保存の道が開けた。

 土蔵を所有する東区の重谷昌江さん(73)方には「明治期に城の蔵を譲り受けた」との言い伝えが残る。加藤さんは、広島大大学院の三浦正幸教授(日本建築史)と調べ、梁(はり)の作り具合などから「江戸後期、城内にあった蔵にほぼ間違いない」とみている。

 同校は土蔵を無償で譲り受け、市などの協力を得て近く解体、調査する。柱や瓦は保管し、学問所の蔵と同一かなど調査結果を見て同校敷地内への復元を具体化させる方針だ。

【写真説明】広島城内にあったとされる土蔵。修道中・高が保存に乗り出す(広島市東区愛宕町)

127荷主研究者:2010/10/23(土) 12:27:17

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20101009/CK2010100902000151.html
2010年10月9日 中日新聞
観光目玉に城郭群 浜松市が国史跡の指定を目指す

 天竜川流域に点在する戦国時代の代表的な城跡を、浜松市が全国発信に乗り出す。徳川氏と武田氏が争奪戦を演じた城郭群として、2011年度から発掘や文献の調査をさらに進め、散策道などの整備も急ぐ。14年度をめどに国史跡の包括的な指定を目指しており、観光誘客の目玉とする狙いだ。

 売り出しを図る城跡は浜松城(中区)大平城(浜北区)二俣城、鳥羽山城、高根城(天竜区)など10カ所。

 平山城の浜松城を含め地形を生かした山城で、武田氏が天竜川沿いに南進し、徳川氏と攻防を繰り広げた。武田氏の滅亡後は放置されたケースが多く、堀や土塁などが良好な状態で残るという。

 市は11年秋開催の全国山城サミットを誘致しており、その後も持続的に魅力を発信しようと振興策の検討を重ねている。

 国史跡は駿府城(静岡市)や名古屋城(名古屋市)クラスを除くと単独では難しく、包括的な指定を目指す構想が浮上した。

 市は「特定水系の範囲で城跡が指定されれば全国的にも珍しい」(文化財課)と意気込む。史跡整備などで国庫補助を受けられる利点もあり、県境をまたいだ三遠南信地域を結ぶ歴史資源としてアピールする考えだ。

128荷主研究者:2010/10/23(土) 14:52:05

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/201536
2010年10月4日 13:45 西日本新聞
中津城の売却先決定 埼玉の福祉会社に5000万円

売却が決まった中津城天守閣(左側)とやぐら=大分県中津市

 戦国大名の黒田如水(じょすい)が手掛けた大分県中津市の中津城を復元した天守閣とやぐらが4日、埼玉県の福祉事業会社「千雅(ちが)」に売却されることが決まった。天守閣を所有する「中津勧業」(同市)は、引き続き歴史博物館として運営することを条件に5千万円で売却すると発表。この日、同市で開かれた中津勧業の株主総会で承認され、13日に千雅側に引き渡す。

 中津城は、黒田如水が1588年築城を始めた九州最古の近世城郭。1871年に廃城、77年には西南戦争で焼き打ちに遭い、石垣だけが残った。鉄筋5階建ての天守閣と木造2階建てのやぐらは1964年、旧藩主・奥平家の子孫が中心となり本丸跡に建設した。

 施設は現在、観光博物館として一般公開され、武具や絵画などを展示している。売却後、展示物は、奥平家の子孫である中津勧業の奥平政幸社長が有償で貸し出す方向で調整している。

 中津勧業は2007年7月、施設の維持管理が困難になったとして、敷地(2175平方メートル)を含め3億2000万円で売り出した。中津市が購入に名乗りを上げたが、双方の評価額に開きがあり、今年6月に交渉決裂。民間の売却先を探していた。

 中津勧業によると、国内外の5社から購入の打診があったが、博物館として使用継続を確約したことが決め手となり、千雅への売却がまとまった。敷地は、奥平社長が代表役員を務める宗教法人が所有を続けるという。

=2010/10/04付 西日本新聞夕刊=

129荷主研究者:2010/11/08(月) 22:55:26

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/10/20101027t15028.htm
2010年10月27日水曜日 河北新報
桃生城跡、荒れ放題 市民「歴史的価値泣く」

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雑草が生い茂る桃生城跡

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桃生城跡の歴史などを説明する立て看板と案内板。右の山道を20メートルほど進むと、政庁跡にたどり着く

 古代多賀城の関連遺跡で、国の史跡指定を目指す機運もあった「桃生城跡」(宮城県石巻市)が、雑草が生い茂る荒れた状態で放置されている。歴史ファンや見物客が訪れており、市民からは「歴史的価値のある遺跡なのにもったいない。せめて政庁跡だけでも草を刈って、後世に残す工夫をしてほしい」との声が上がっている。

 政庁跡は石巻市飯野にあり、面積約4ヘクタール。現地にたどり着くまでの山道には案内板や桃生城の歴史を示す看板があり、誰でも立ち入れる。

 だが政庁跡には人の背丈を超す雑草が一面に生い茂り、わずかな踏み跡の先に「桃生城跡」と書かれた看板があるだけで、文化財の面影はない。

 2001年に終了した県の発掘調査の後、地元民がボランティアで草刈りをしていたが、高齢化が進んだこともあって、徐々に荒廃していったらしい。

 近くに住む女性(76)は「最近も埼玉や青森から見学に来た人が残念そうに引き返すのを見た。地元の誇りなのに、申し訳なく思う」と話す。

 石巻市教委歴史文化資料展示施設整備対策室によると、桃生城跡は市や県などの史跡には指定されておらず、扱いは一般埋蔵文化財。県や市による管理もされていないという。

 担当者は「一般埋蔵文化財はほかにも数多くあり、桃生城跡だけを特別扱いして管理することはできない」と説明する。

 桃生城跡は県の調査で規模が判明し、国の史跡指定を目指す動きもあったが、具体化はしなかった。土地の多くが私有地で、地権者から許可を得る手続きが煩雑だという事情が背景にあるとの指摘もある。

 東北大埋蔵文化財調査室の藤沢敦特任准教授は「中央国家の北進政策を考える上で非常に価値が高く、国史跡になり得る価値は十分ある。あらためて国の指定を目指すなど、行政として今後の活用策を検討してもいいのではないか」と話している。

[桃生城跡]1974、75年と92〜2001年、県多賀城跡調査研究所が計10回の発掘調査を実施し、政庁と城柵の規模や位置関係などが明らかになった。石巻市の旧桃生町と旧河北町地域にまたがり、規模は東西800メートル、南北650メートル。城は、北進政策を進める中央の律令(りつりょう)国家が、桃生・牡鹿地方(石巻市)を支配する拠点として建設した。完成は760年。続日本紀によると、城は774年、牡鹿郡などの蝦夷(えみし)によって焼き打ちされ、蝦夷が律令国家に反旗を翻した象徴とされる。

130荷主研究者:2010/11/14(日) 12:39:23

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20101103/201011031600_12057.shtml
2010年11月03日16:00 岐阜新聞
金華山と岐阜城、国史跡に 今月中旬にも指定

国史跡指定を受ける見込みとなった岐阜城と金華山一帯。観光客増加などが期待される=昨年11月、本社チャーターヘリから撮影

 岐阜市指定史跡の金華山と岐阜城が、国史跡に指定される見込みであることが2日、分かった。市のシンボルとして広く親しまれている史跡が国の財産と認められることで、観光資源としての魅力アップなどに期待が集まりそうだ。

 関係者によると、既に国の文化審議会での協議を経ており、今月中旬にも指定を受ける見通し。市は今年1月、「中世から近世への転換期に当たる日本史上重要な城」などとして国に指定を申請していた。

 国史跡となる見込みなのは、岐阜城と金華山を合わせた「岐阜城跡」。指定が金華山を含む広範にわたるのは、城だけではなく、急しゅんな地形を含めて山全体が城として機能していたためで、市の申請段階で範囲は計209ヘクタールとなる。

 岐阜市内の国指定史跡は、加納城跡、琴塚古墳、老洞朝倉須恵器窯跡に続き4カ所目。

 岐阜城跡は1957(昭和32)年に市指定史跡となり、市は84年からふもとの信長居館跡を中心に発掘調査を続けてきた。調査では庭園跡や門の礎石、石垣など、織田信長が天下統一の拠点としたとみられる居館の史跡が多数見つかり、山城としての全体像の把握が進んでいる。

 市は国史跡への指定を契機に、さらなる観光客の誘客などを目指す。金華山登山道の整備などを行っている市内のボランティア団体「十時会」の藤井義康代表は「岐阜の財産が国の宝となることで、多くの人の関心が高まり、周辺の保護活動にも追い風になる。誇らしく思う」と話している。

【岐阜城】

 金華山(329メートル)山頂にある、織田信長の天下統一の出発点となった城。1201(建仁元)年〜03年に二階堂行政が最初に砦(とりで)を築いたと伝えられている。斎藤道三が造ったとされる稲葉山城を織田信長が1567(永禄10)年に攻略し、岐阜城を置いた。1600(慶長5)年の関ケ原の合戦の前哨戦で落城して以後は廃城だったが、1910(明治43)年に復興、43年に失火で消失した。現在の城は56年に再建された。

131荷主研究者:2010/11/14(日) 12:49:44

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20101105/CK2010110502000137.html
2010年11月5日 中日新聞
玉泉院丸庭園に階段状の滝 金沢城発掘調査 あす現地説明会

調査の概要を説明する担当者。担当者近くの平らな石が水受石とみられる=金沢城玉泉院丸跡で

 江戸時代に造られた金沢城玉泉院丸の庭園(金沢市丸の内)に、階段状に水が落ちる形の滝があったことが、金沢城調査研究所の発掘調査で分かった。研究所が四日、報道関係者向けの現地説明会で明らかにした。

 研究所によると、玉泉院丸跡の北東部の斜面に、大型で平らな赤戸室石が階段状に置かれていた。石は滝の水を受け止める「水受石」で、斜面には小さな滝が連続していたと考えられる。段数は三、四段で、高低差は約四メートルと推定される。

 発掘調査の担当者は「庭の一番の見どころとみられる滝の概要が分かった。今後は導水の経路を明らかにしたい」と話している。

 玉泉院丸の庭園は加賀藩の三代藩主前田利常が一六三四(寛永一一)年に造成。明治以降は埋め立てられ、陸軍の施設や旧県体育館の敷地になっていた。

 発掘調査は二〇〇九年度から本格的に始まり、一二年度まで続く予定。一般向けの現地説明会は六日午後二〜三時に開かれる。 (山本真士)

132荷主研究者:2010/11/21(日) 11:23:34

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/HT20101109401.htm
2010年11月9日03時14分 北國新聞
「松根城と切山城」加越城郭群を国史跡へ調査 金沢市が着手

国史跡指定に向けた取り組みが動き出す松根城跡=金沢市内

 金沢市は8日までに、市北東部の松根(まつね)城跡、切山(きりやま)城跡を含む一帯について、国史跡指定に向けた調査に着手した。石川、富山県境に近い二つの城跡は、文化庁も羽柴(豊臣)秀吉の天下統一に至る過程を示す貴重な歴史遺産であると高い評価を与えている。市は来年度以降に本格的な調査を進め、「加越国境城郭群」として一体的な価値付けを目指す。

 市によると、秀吉と徳川家康の天下統一をめぐる対立は北陸の地にも及び、天正12(1584)年に羽柴方の前田利家が切山城、徳川方の佐々成政が松根城をそれぞれ出城とし、加越両国を結ぶ重要な交通路である小原越(おはらごえ)を介して対峙(たいじ)した。天正13年には佐々成政が秀吉に降伏し、松根城、切山城とも廃止されたと考えられている。

 松根城、切山城とも小原越を城の中に取り込んで築城している点が特徴。いずれも本丸などの建物は現存していないが、土塁や堀などの遺構は良好な状態で残っている。

 松根城跡は一部が小矢部市にまたがる。1974(昭和49)年に金沢市史跡に指定され、市は2000年度から2年計画で史跡整備している。一方、切山城跡は樹木が生い茂り、見た目には城跡だと分かりにくい状態になっている。

 市は今年度の調査で、直線距離で約4キロの松根、切山両城跡を結ぶ小原越の状態などを確認する。小原越の一部は舗装され、現在も道路として活用されており、これまでの調査では新たに古道が見つかったという。

 文化庁が2007年度に設置した「中世城館遺跡・近世大名墓所等の保存検討委員会」ではかつての加賀、越中国境に位置する城郭群の歴史的重要性が指摘されている。既に同庁の調査官も現地視察を実施している。

 金沢、小矢部両市間では県境を越えた住民交流が活発化しており、6月の歴史講座には金沢市三谷、小矢部市北蟹谷両公民館から60人が参加した。金沢市は国史跡指定に向け、小矢部市との協力態勢も構築する。

 金沢市内では08年6月に金沢城跡、昨年2月に加賀藩主前田家墓所、今年2月に辰巳用水が国史跡に指定されている。市は二つの城郭と古道が一体的に「加越国境城郭群」として価値付けされ、市内の歴史遺産群に厚みが増すことを期待している。

●松根城 金沢市街地の北東約13キロの松根山山頂に所在する。最初に史上に登場するのは南北朝の時代の応安2(1369)年で、木曽義仲が布陣したとも伝わる。最頂部に面積約900平方メートルの本丸跡、南北に延びる尾根筋に二の丸、三の丸などの跡と推定される大小の平坦面(郭)が確認されている。

●切山城 戦国時代の天正12(1584)年ごろに築かれ、天正13年に佐々成政が降伏すると役割を終え、廃城になったとされる。規模は東西約180メートル、南北約260メートルで面積は約2万平方メートル。2001年度に金沢市が実施した測量調査事業では、城の中心部である主郭や敵の侵入を食い止める堀切、竪堀などの遺構が確認されている。

133荷主研究者:2010/11/21(日) 13:33:33

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9746857&newsMode=article
2010/11/03 08:54 福島民報
遺構に伊達氏居住時の主殿 桑折町の国史跡・西山城跡

 福島県桑折町の国指定史跡・桑折西山城跡の発掘調査で見つかった遺構が伊達氏居住時の主殿跡であることが2日までに分かった。柱と柱の間が七尺で統一されていることや四角の柱跡が残ることから、畳敷きの部屋だったとみられる。主殿の存在は、伊達氏の分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」が西山城で書かれたとされる史料を裏付ける発見で、関係者は「中世の伊達氏や伊達郡の歴史を知る上で大きな手掛かりとなる」と注目している。

 町教委などによると、主殿は本丸の北東に位置する最も高い部分にあった。広さは縦約12メートル、横約8メートルで、庇(ひさし)や縁(えん)を持った構造で、柱と柱の間も統一されていており、格調高い建物だったことがうかがえる。さらに、角柱跡や燃えて炭となった柱片なども見つかっている。

 西山城は、伊達氏14代の伊達稙宗(たねむね)が梁川城から居を移した城とされている。今回発見された主殿の構造は梁川城と似ており、城を移したことも証明する発見となった。

 町教委学芸員の井沼千秋さん(41)は「西山城の存在は分かっていたが、実際にどのような建物があったのかが判明した。大きな成果だ」と話す。

 塵芥集は戦国大名の支配を示す分国法で全171条で戦国大名の分国法としては最大級。鎌倉幕府の「御成敗式目」を基準につくられ、神社・寺院に関する法、殺人・窃盗・強盗などに関する刑事法、境界や用水に関する法など多岐にわたる。北条氏の「早雲寺殿21条」武田氏の「信玄家法」などとともに知られる。

 主殿は主に会議などで使われる公式な場とされ、文献にも塵芥集は西山城で制定作業がなされたとされていることから、主殿で書かれた可能性が高い。

 県考古学会顧問の鈴木啓さん(77)は「梁川城から西山城に移ったことを証明する核心部分が判明した。さらに、教科書にも載っている塵芥集が主殿で書かれたことに思いを巡らすことができる歴史ロマンあふれる発見ではないか」と喜んでいる。

■※桑折西山城 天文元(1532)年ごろ、伊達氏14代の稙宗によって築城されたとされる戦国時代の山城。陸奥国守護として認められ、伊達氏全盛期を築いた稙宗だが、嫡男の晴宗と対立し、南奥羽を巻き込んだ戦乱「天文の乱」が勃発。晴宗が家督を継ぎ、稙宗は隠居し、和解の条件として西山城は廃城となった。平成2年に国指定史跡となり、19年から史跡公園整備を目指し、調査が進められている。稙宗は「独眼竜」で知られる17代政宗の曾祖父。

【写真】主殿跡とみられる遺構

134荷主研究者:2010/11/23(火) 12:25:58

http://www.kahoku.co.jp/news/2010/11/20101117t15031.htm
2010年11月17日水曜日 河北新報
石巻城、南北の空堀跡確認 堀の内側に中心施設か

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20101117006jd.jpg
石巻城跡で見つかった空堀跡

 宮城県石巻市教委は16日、同市日和が丘の日和山公園で行ってきた石巻城跡の発掘調査で、南北に延びる空堀跡を確認したと発表した。1997年に見つかった別の空堀跡とつながっているとみられ、市教委は「石巻城中心施設の位置が判明した」としている。

 空堀は日和山(56.4メートル)山頂にある鹿島御児神社の南西側で見つかった。幅約4〜10メートルで、深さは約2〜3メートル。神社北側の東西方向の空堀と同じく、初期段階はV字型の「薬研堀」でその後、箱型に再構築された形跡があった。

 市教委は、構造がほぼ同じ二つの堀がつながっていると推測。長さ約130メートルの空堀が南北方向に山頂を取り囲むように掘られ、堀の内側が城の中心的役割を担った区画と考えられるという。

 石巻城は南北朝時代以降に築城され、石巻地方を支配下に置いた葛西氏一族が居住していたという説があるが、はっきりしたことは分かっていない。今回の調査でも遺物は見つからず、空堀の構築年代は不明という。

135荷主研究者:2010/12/02(木) 21:37:46

http://www.isenp.co.jp/news/20101120/news02.htm
2010/11/20(土)伊勢新聞
松坂城跡を国史跡に 文化審答申

【上空から見た「松坂城跡」(松阪市教委提供)】

【松阪】国の文化審議会は十九日、松阪市殿町の県史跡「松坂城跡(まつさかじょうあと)」を新たに国史跡に指定するよう、高木義明文部科学大臣に答申した。今回の指定は県内では同史跡だけ。国史跡は県内三十六件目、同市では七件目で、平成十二年指定の天白遺跡(嬉野釜生田町)以来。

 「松坂城跡」は、戦国武将蒲生氏郷(一五五六―九五年)が十六世紀末に築いた松坂城の城跡。同市教委によると、城の面積は約四万七千三百四十平方メートルで、本丸、二の丸、三の丸などからなり、「野面(のづら)積み」と呼ばれる自然石を積み上げた豪壮な石垣が、見どころの一つ。サクラの名所として知られ、多くの花見客でにぎわう。

 古文書の記録によると、かつて本丸西隅の天守台には、三層の天守閣がそびえていたが、正保元(一六四四)年の大風で倒壊。幅十五―三十一メートル、総延長二キロ余あった堀は明治初期に埋められ、遺構の一部は神道川などに名残をとどめている。

 平成元年と二年に実施された同市の発掘調査では、天守閣の基礎や金箔(きんぱく)を押した瓦などが確認されており、同審議会では、「石垣などは織田豊臣時代に完成された城郭としての特徴が顕著で、御三家の一つ和歌山藩領地内にあり、近世の政治・軍事を知る上で貴重」などと評価された。

 同城跡を町づくりの中心拠点と位置付けている、山中光茂市長は伊勢新聞社の取材に、「行政として、新たな責任が生まれた。文化や観光の資源として、市民と行政が一体となり、積極的に活用していきたい」と話した。

136荷主研究者:2010/12/02(木) 22:24:46
>>135
http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20101120/CK2010112002000107.html
2010年11月20日 中日新聞
国史跡に「松坂城跡」 行政と住民の協働が結実

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国の史跡に指定されることが決まった松坂城跡=本社ヘリ「まなづる」から

 国の文化審議会による答申で19日、新たに指定する国史跡に、県内から松阪市殿町の「松坂城跡(まつさかじょうあと)」が選ばれた。県内の国史跡は、これで36件になる。

 松坂城は、戦国武将の蒲生氏郷(がもううじさと)(1556〜95)が1585(天正13)年に築城を始め、1600年前後に完成したとされる。天守閣は江戸初期に倒壊。城郭や門などの建築物も明治初期までになくなったが、城跡の中心部には自然石を使った貴重な「野面(のづら)積み」の石垣が残っている。2006年には日本城郭協会の「日本百名城」にも選ばれた。

 指定対象になったのは標高35メートルほどの丘陵上にある本丸跡、二の丸跡、希代丸(きたいまる)跡、隠居丸跡など延べ約4万7000平方メートル。範囲内には国特別史跡の「本居宣長旧宅」も含まれている。ほぼ全域が「松阪公園」の敷地で、国と市が土地を所有している。

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築城当時の状態で現存する天守閣跡の石垣=松阪市殿町で

 市では1年半ほど前から松坂城跡の国史跡指定に向けて、地元住民らと協力しながら手続きを進めてきた。山中光茂市長は「行政と住民が一体となって働きかけてたことが認められてうれしい」とコメント。市文化財保護審議会委員の門暉代司(かどきよし)さん(58)は「松阪のシンボルが国史跡になった。城跡を訪れる人が増え、市街地の活性化にもつながれば」と期待を膨らます。

 松阪市内の国史跡指定は、2000年の「天白遺跡」以来で、7件目。

 (石原猛)

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希代丸跡の石垣=松阪市殿町で

137荷主研究者:2010/12/05(日) 14:43:18

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/212083
2010年11月26日 01:44 西日本新聞
国特別史跡「基肄城」跡の石塁 1300年ぶり大修復

5カ年計画で本格的な修復工事が12月に始まる基肄城跡の石塁

 築城から約1300年の歴史を誇る国特別史跡「基肄城(きいじょう)」跡の大規模な保存・整備工事を、基山町が進めている。石が積み上げられた石塁(水門跡)が傾き、崩落の危険があるためだ。町によると、698(文武2)年に城が修理されて以来の大規模な保存・整備工事で、本年度から約5年かけて工事を完成させる方針。

 基肄城は同町北部と福岡県筑紫野市にかかる基山(きざん)(404メートル)の一帯に位置する。倭国が朝鮮半島に出兵した「白村江(はくすきのえ)の戦い」で敗れた後、唐・新羅連合軍の日本侵攻に備えるため、防衛の拠点として665(天智4)年に築いたとされる。城を囲む全周4・3キロの土塁、南北にある門跡、礎石群などが残っており、県内では吉野ケ里遺跡(神埼市、吉野ケ里町)、名護屋城跡(唐津市)とともに国特別史跡に指定されている。

 基山町教委はこれまで、基肄城跡の補修工事に向け、調査を進めてきた。1993年には水門の整備、高床式倉庫の復元といった基本計画を策定。10月から進めてきた工事の準備が完了し、12月に本格着工する。

 本年度の工事個所は、南側に位置する石塁で、長さ26メートル、高さ8・5メートル、上部の幅3・3メートル。傾いている石積みを本来の状態に戻す。周辺の発掘調査なども実施する。

 歴史的建造物の保護を呼び掛けてきた同町の住民有志でつくる「ありがとう水門実行委員会」(久保山彰委員長)は、今月10日、町が誇る歴史遺産に感謝するセレモニーを開いた。地元の園児たちが基肄城の歴史をテーマにした創作劇を披露。町民約70人がシャボン玉を飛ばし、工事の安全を祈願した。

 久保山委員長は「基肄城跡は、昔から基山の象徴だった。補修は“歴史の分岐点”になる。未来の子どもたちに残していくため、大切に保存してもらえれば」と話した。

=2010/11/26付 西日本新聞朝刊=

138荷主研究者:2010/12/18(土) 16:09:26

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20101123/CK2010112302000116.html
2010年11月23日 中日新聞
信長公の地下通路? 岐阜城ふもとで金箔瓦など出土

居館跡から出土した金箔が施された瓦片

 戦国武将織田信長の居館跡とされる岐阜市の岐阜公園の一角から、居館に通じる通路の遺構が発見され、岐阜市教委が22日、発表した。通路は一部階段状になっており、中からは金箔(きんぱく)が施された瓦片や壁土も出土。市教委は「通路の上に建物があり、地下通路として使用されていた可能性もある」と指摘している。

 市教委によると、確認された通路遺構は幅約4メートル、長さ約10メートル。居館跡の中心部と推測される部分から出土した。

 過去の調査で遺構の南側部分でも、同じような通路が確認されている。今回の遺構に通じることから、通路の規模は少なくとも長さ35メートルほどと推測されるという。

 瓦片は縦横各約3センチ。金箔の瓦は、信長が築城した安土城(滋賀県近江八幡市)の天主など主要な建物にも使われている。市教委は「通路の上には、主殿や宴会に使う会所など重要な建物が建っていた可能性もある」としている。

 1569年に居館を訪れたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは著書『日本史』に「広い石段を登りますと大きい“広間”に入る」と記しており、通路上の建物の存在をうかがわせるという。

 通路の遺構から出土した陶磁器から、遺構の年代は、信長が岐阜城に入った1567年から、廃城となる1601年までのものとみられる。

 居館跡の調査は1984年から実施。今回は第4次として6月から中心部周辺の約150平方メートルを調査した。

 大阪市立大の仁木宏教授(中世史)は通路の上に建物があった可能性から「もし地下通路であれば、当時の建築物としてはかなり珍しい構造となる」と話している。

 現地説明会は27日午前10時から。

 (松山祥子)

139荷主研究者:2010/12/18(土) 16:22:46

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20101125/CK2010112502000149.html
2010年11月25日 中日新聞
金沢城跡 手水鉢は坪野石 金大・酒寄教授が調査

坪野石とわかった舟形の手水鉢を調べる酒寄教授=金沢城公園で

豪放さ 利常時代の特徴?

 金沢城跡の三十間長屋前にある手水鉢(ちょうずばち)が金沢市南部産の坪野石製であることが、金沢大の酒寄淳史教授(50)=地質学=の研究で分かった。石の使われ方などを調べる研究はこれまで、金沢の南東部から産した戸室石中心だった。同城跡での坪野石使用はほとんどなく、今後はほかにも使われていないか研究が待たれる。(今宮久志)

 手水鉢は長さ百七十六センチ、幅百十六センチ、高さ七十一センチで、水を張るくぼみの直径が五十九センチ、深さ十九センチとどっしりしている。

 石の由来を調査するため、県などが酒寄教授に岩石の解析を依頼。その結果、斜方輝石や斜長石、鉄チタン鉱物、黒曜岩レンズ、ガラス質の組織を持った溶結凝灰岩であることが判明。K−Ar法により、約二千万年前の火砕流によってできた岩で、金沢市坪野町で産出されたことも分かった。酒寄教授は「坪野石は量的に少なく、どこでも採れるわけではない」と話す。

 坪野石の使用例としては、一六五七年創建の小松天満宮にある十五重の塔、金沢城跡の玉泉院丸庭園に水を落とすV字形の石樋(とい)と周りの石組み、同城跡本丸の庭園一部(池)と考えられる遺構から出た突起部のある石造物など、ごく限られている。

 小松天満宮の塔は三代藩主・前田利常(一五九三〜一六五八年)の建立で、玉泉院丸庭園も利常の意向で築庭された。さらに、坪野石の採掘禁止(止め石)は利常の時代からとの記録があり、この舟形手水鉢も利常時代のものと考えられる。

 国立歴史民俗博物館名誉教授の吉岡康暢さんは「この手水鉢の大きさ、豪放な感じからも、戦国武将の威風をもった利常時代のものと考えていい」と話している。

 ◇K−Ar法(カリウム−アルゴン法)◇ 放射性カリウム(原子量40)は半減期12・5億年で崩壊してアルゴン(原子量40)に変わる。岩石中に残っているアルゴンを集めて年代を測定する方法。

140荷主研究者:2010/12/26(日) 22:47:58

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20101214201.htm
2010年12月14日01時36分 北國新聞
高岡市教委が「天守閣予定地」を発掘へ 高岡城本丸北端など7カ所

高岡市教委が発掘調査に着手する高岡城跡=富山新聞社ヘリ「あすなろ」から

 高岡市教委は13日までに、高岡城跡(高岡古城公園)の発掘調査で、「天守閣」予定地との指摘がある本丸北端など7カ所を今年度の調査対象にすることを決めた。高岡城は開城から5年で廃城になり、天守閣は造られなかったというのが定説であるが、本丸北端は地形などから重要施設があった可能性が高く、市教委は城の構造解明の足掛かりになることを期待している。

 高岡城は築城時の姿がほとんど分かっていない。同市教委は国史跡指定を目指し、今年度から3カ年の発掘調査を計画し、本丸北端など7カ所については年内にも着手する。

 調査対象は、本丸の北端と南端、土橋の石垣、本丸外周の土塁3カ所、北端斜面の計7カ所。これまでの測量調査などでは、7カ所は保存状態がよく、遺構が見つかる可能性が高いとみている。

 高岡城跡の本丸北端は大きな出っ張りになっており、本丸の他の方角とは異なる形状になっている。小高くなっていることからも、城全体を見渡すような天守閣など施設の建設が予定されていたとの推測もある。

 天守閣については、存在を裏付けるような絵図など史料は確認されていない。1612(慶長17)年に描かれたとされる高岡城の絵図「高岡御城景台之絵図」(高岡市立中央図書館蔵)では本丸北端は「御材木御蔵」と記されている。

 ただ、明治期以前に記されたとされる文献「瑞龍院様高岡ニ御築城ノ件」(同図書館蔵)には「天守台」の記述があり、城内に天守閣のような施設があったと推測する向きもある。

 高岡市立博物館元館長の神保成伍氏は「高岡のまちは高岡城から始まった。城の象徴といえる天守閣の有無に関して市民の関心は高い」と調査に期待している。

141荷主研究者:2010/12/30(木) 19:54:29

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/T20101223202.htm
2010年12月23日01時14分 北國新聞
高岡城跡の発掘に着手 高岡市教委、「天守閣」指摘の本丸北端から

土を削って遺構や遺物の手掛かりを調べる関係者=高岡市の高岡古城公園

 高岡市教委は22日までに、高岡城跡(高岡古城公園)の発掘調査に着手した。最初の調査地は「天守閣」予定地の指摘がある本丸北端で、遺構や遺物の手掛かりを探した。市教委は加賀藩2代藩主・前田利長公が1609(慶長14)年に築いた高岡城の構造解明を目指す。

 高岡城跡の史跡価値を判断する発掘調査は初めて。国史跡指定を目指す同市は3カ年の発掘を計画しており、今年度は本丸北端のほか、土橋の地下、本丸南端、本丸外周の土塁3カ所、城跡の北側斜面の計7カ所で行う。

 本丸北端について、市教委は地形の形状などから重要施設があった可能性が高いとみている。高岡城は天守閣は造られなかったというのが定説だが、北端は城全体を見渡すように小高い場所になっている。明治以前の文献に「天守台」の記述があり、北端から調査することにした。

 22日は本丸北端にある児童公園の裏手で、市の委託業者8人が発掘に取り組んだ。幅2メートル、面積約40平方メートルの範囲で土を削り、土の色合いなどを確認しながら数センチ単位で掘り進めた。土質に変化が見つかった場合、写真を撮影。地層の生成時期を知るため土壌の軟らかさも調べた。

 発掘対象となる土橋は、橋を支える石垣が築城時から残るとされる。石垣の地下部分を発掘し、石垣が積み直されていないかなどを確認する。本丸外周の土塁は周辺が踏み荒らされていないことが事前調査で分かっており、遺構発見が期待されている。

 今年度の発掘は来年2月末まで。調査結果は専門家でつくる高岡城跡詳細調査指導委員会に報告される。

142荷主研究者:2010/12/30(木) 20:27:16

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9766682&newsMode=article
2010/12/23 09:34 福島民報
小峰城石垣修復盛り込む 白河市歴史的風致維持向上計画

 白河市歴史的風致維持向上計画の今年度内認定に向け、市が国に申請する計画の内容が固まった。22日、市役所で開いた第3回法定協議会(会長・有賀隆早大大学院教授)で明らかになった。

 歴史的風致の維持向上のために実施する事業として、小峰城本丸と二の丸石垣修復事業、小峰城道場門遺構修復事業などを当初計画に盛り込む方針だ。

 法定協議会は歴史的風致の整備・管理に関する基本的な考え方を整理した上で、維持向上のために実施する事業14件をまとめた。小峰城の石垣修復は平成24年度、道場門跡修復は23年度から、いずれも市が事業主体となって実施する方針。蔵修復、無電柱化調査、歴史的まちなみ修景などの事業も予定している。重点区域の範囲を761ヘクタールに変更した。

 向上計画は文化庁と農林水産省、国土交通省が所管する歴史まちづくり法に基づいて定める。国認定を受ければ重点区域内のハード、ソフト事業に国補助が受けられる。白河市は県内初、東北でも青森県弘前市に次いで2番目の国認定を目指している。

 法定協議会では3日から17日まで行われた市民の意見を聞くパブリックコメントの結果も報告された。法定協議会の審議は22日で終了した。24日に開かれる市文化財保護審議会での審議を経て来年1月上旬、鈴木和夫市長名で国に申請する。

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【写真】崩落の危険性が高まっている小峰城北側の石垣

143荷主研究者:2010/12/31(金) 22:22:38

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20101215/CK2010121502000139.html
2010年12月15日 中日新聞
玉泉院丸跡 3区画に分け整備へ

14年度まで県が計画案 石垣眺める休憩所も

 金沢城玉泉院丸跡の整備について話し合う調査検討委員会の整備活用部会が十四日、県庁で開かれた。県側は二〇一四年度までに跡地を「暫定整備」「入り口部周辺」「確認調査を優先」の三区画に分けて整備する基本計画案を提示した。

 暫定整備エリアは、尾山神社の向かいにある「鼠多門(ねずみたもん)」跡と庭園を管理していた「露地役所」跡を含む約三千平方メートル。石垣や調査の様子を眺めることができる休憩所などを設けるが、将来の調査に備えて暫定的な整備にとどめる。

 広坂側の入り口部周辺エリアには、バリアフリー対応のスロープや広場を造り、石垣の眺めを遮る樹木を伐採する。ほかのエリアでは整備を始めず、遺構の調査を続ける。

 県の提示案に対し、委員からは「駐車場からの動線が不便」「休憩所まで車いすで上れるようにしてほしい」といった意見が出た。

 県は再び部会を開いた上で意見を集約し、来年三月の調査検討委員会で基本計画の承認を受ける方針。

 (山本真士)

144荷主研究者:2011/01/16(日) 16:38:39

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2011010820170122/
2011年1/8 20:17 山陽新聞
備中松山城の石垣修復始まる 昨年7月の豪雨で崩落

石垣修復で行われている石の取り除き作業

 2010年7月の大雨で崩落した高梁市内山下、国史跡・備中松山城の石垣修復が、年明けから本格化している。石の積み直しなどを行い、11年度中に元の姿に戻す計画。

 崩落したのは二重櫓(やぐら)(国重要文化財)の北東約30メートルで、後曲輪(うしろぐるわ)と呼ばれる区画の一部。高さ、幅約3メートルにわたり、長さが80センチほどもある大きな石から手のひらサイズまで約200個が崩れた。

 市教委が地元業者に委託し10年末着工。現在は崩落した石、石垣内部の砂利や土を取り除いている。国史跡のため崩落以前の状態に正確に戻す必要があり、全ての石の位置を、過去に撮影した石垣の写真と照合した上で、4月以降に積み直す。

 天守など他の建物は通常通り入場できるが、崩落現場周辺は完工まで立ち入り禁止。市教委は「二重櫓を望む格好のスポットでもあり、観光に支障は多少出るが、完全な形で修復したい」としている。

145荷主研究者:2011/01/30(日) 20:44:40

http://www.shizushin.com/news/local/west/20110113000000000044.htm
2011/01/13 静岡新聞
天守門と富士見櫓復元 浜松市、整備計画を発表

 浜松市は徳川家康ゆかりの浜松城公園を“市民の心のよりどころ”となるような歴史的空間として再整備する「浜松城公園歴史ゾーン整備基本計画」を策定し、12日、市議会建設委員会に報告した。発掘調査で構造が明らかになった天守門と富士見櫓(やぐら)を復元し、現在の市役所西別館を撤去して公園の南玄関としての整備を目指す。

 市指定文化財である野面(のづら)積みの石垣や地下に残る城郭施設の遺構を保存するとともに、公園の歴史的価値を高め、学習や観光の場とするのが狙い。

 現在ある浜松城天守閣を中心に歴史ゾーンとし、天守門、富士見櫓、土塀などを復元。石垣を保全するため樹木は伐採・剪定(せんてい)する。現在の市役所西別館を撤去し南エントランスゾーンと名付けた歩行者向けの入り口として整備し、利便性を高めていく。

 市は2008年度に整備基本構想を策定。09〜10年にかけて、広島大大学院の三浦正幸教授ら学識経験者を含む基本計画策定委員会を構成し、調査を行ってきた。

 この日の建設委員会では、発掘された天守門と富士見櫓の礎石から三浦教授が作製した、横10メートル91センチ、高さ9メートル38センチの天守門、横7メートル88センチで高さ5メートル61センチの富士見櫓の復元図案も委員に示された。

 市は2月11日午後1時半からアクトシティ浜松コングレスセンターで、市民フォーラムを開催し、市民に調査結果などを報告する。

146荷主研究者:2011/02/06(日) 11:21:13

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20110120/CK2011012002000106.html
2011年1月20日 中日新聞
黒野城で町おこし 住民ら研究会「加藤貞泰公知って」

河口さんが作成した平面図

◆平面図完成で市に活用策要望へ

 岐阜市黒野地区の有志でつくる「黒野城と加藤貞泰公研究会」が、地元でもあまり知られていない黒野城の歴史を発掘しようと、研究に取り組んでいる。「歴史の町 黒野」をPRし、城跡の公園を黒野地区の観光資源にしたいと意気込んでいる。

 黒野城は1598年ごろ、黒野藩主の加藤貞泰(1580〜1623年)が築き、1610年に廃城となった。本丸跡は高さ5・4メートルの土塁と桜の木に囲まれ公園として親しまれている。

 しかし、知名度は岐阜城に比べて低く、廃城から400年の昨年4月、城や城主の歴史を掘り起こして観光資源として活用できないかと、地元市民が集って会を結成した。

黒野城跡と、城の歴史発掘に努める河口さん=岐阜市黒野で

 会員は、歴史好きの市民や学識経験者など40〜70代の約20人。2カ月おきに会合を開いて研究内容を発表するほか、地元で講演会を開き、成果を市民に伝えている。

 「城がかつてどんな姿をしていたか、どうしても知りたかった」という会社員の河口耕三さん(62)=同市今川=は、城の構造について研究。図書館や地元市民などから入手した資料を参考に、本丸跡の測量を続け、半年間かけて平面図を完成させた。現在は、黒野城下町の全体構造を把握しようと、研究を続けている。

 河口さんは「岐阜城に匹敵するくらいに知名度をあげ、町おこしにつなげたい」と話す。会は、城跡を歴史公園として整備するなどの活用策を市に要望していきたいと考えている。

 (松山祥子)

148荷主研究者:2011/02/20(日) 12:06:37

http://www.minpo.jp/view.php?pageId=4107&mode=0&classId=&blockId=9781513&newsMode=article
2011/01/31 09:32 福島民報
神指城跡など調査状況報告 若松で城郭検討会

 東北地方の城などをテーマにした「北日本近世城郭検討会」は30日、福島県会津若松市の県立博物館で開かれた。市内の神指城跡をメーンに、各地の城跡の調査状況を研究者が報告した。

 神指城跡については市教委の近藤真佐夫さん、県文化振興事業団の本間宏さん、県立博物館の高橋充さんの3人が発表した。途中で建設が中止されたため、築城過程が分かる全国でもまれな史跡で、発掘調査を基に工法などを説明。さらに築城をめぐる時代背景などを解説した。

 この他、米沢や山形、仙台など各城跡の調査報告が行われた。検討会の鈴木啓会長が「館から都市へ」を演題に記念講演した。

 研究者や歴史ファンら200人以上が詰め掛け、立ち見が出るほどの人気ぶりだった。 検討会は平成11年に始まり、今回で5回目。県内での開催は15年の二本松市以来。

【写真】歴史ファンが大勢詰め掛けた検討会

149荷主研究者:2011/02/20(日) 12:25:43

http://www.shizushin.com/news/local/central/20110204000000000022.htm
2011/02/04 静岡新聞
徳川氏が築いた?門の礎石発見 島田「諏訪原城跡」

 戦国時代に武田、徳川両軍攻防の舞台となり、島田市教委が発掘調査を進めている同市菊川の国指定史跡「諏訪原城跡」でこのほど、徳川氏が築いたとみられる新たな門の礎石が見つかった。市博物館は「武田の城とされてきた諏訪原城が後年徳川氏によって大規模に改修された可能性が強まった。礎石のある城門の造営から恒久的に城を使用する意図が見て取れる」としている。5日午前11時10分から、現地で説明会を行う。

 市教委によると、本年度は史跡内の「二の曲輪(くるわ)」部分約350平方メートルを発掘調査し、曲輪の出入り口で門の礎石が四つ確認された。徳川家康の家臣で城主の一人だったとされる松平家忠の日記に記載された門の礎石に該当するとみられるという。

 発掘調査ではこのほか、幅20メートルの土塁の基底部や出入り口の橋台の跡なども確認された。

 市はこれまでの調査結果を踏まえ、2011年度から10年間の同史跡の整備基本計画案を策定。静岡空港周辺の立地を生かし、地域一体となった整備を目指す予定で、5日から3月6日までパブリックコメントを募集する。

 問い合わせは、市博物館<電0547(35)3008>へ。

150荷主研究者:2011/02/27(日) 11:48:21

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110207/201102071800_12901.shtml
2011年02月07日18:00 岐阜新聞
「岐阜城跡」国史跡に指定 地域発展の起爆剤に

国史跡に指定された、岐阜城を頂く金華山一帯の「岐阜城跡」=昨年12月、本社チャーターヘリから

 岐阜城がある金華山(329メートル)の山頂部と同山一帯を合わせた「岐阜城跡」が7日、国史跡に指定された。岐阜市は、岐阜のシンボルとして親しまれている岐阜城跡が国の宝と認められたことで、さらなる観光客誘致などを図るとし、地域活性化の期待が高まっている。

 岐阜城跡の国史跡指定は、同日付の官報で告示された。市内の国史跡は4件目。

 現在の岐阜城は1956(昭和31)年に再建された。岐阜城跡は、城跡の山頂部だけでなく山一帯が「山城」として機能していたとして、これらを含む計約209ヘクタールが国史跡の指定を受けた。

 市教育委員会によると、国特別史跡の安土城(滋賀県近江八幡市)、国史跡の小牧山(愛知県小牧市)など、織田信長の居城では、岐阜城跡が最も指定範囲が広い。

 細江茂光市長は「国史跡指定を機に『信長学』と岐阜公園整備を推進することで、ハード・ソフトの両面から岐阜をPRしたい」などとコメントした。

 市観光コンベンション課によると、岐阜城の来場者数は92年度には43万人を超えたが、近年は19万人台が続いた。昨年度は戦国武将らに関心を抱く女性「歴女」ブームなどで21万人を超えたという。

 岐阜市は新年度中に岐阜城跡の保存管理計画を策定し、史跡や環境の保護を進める。さらに、金華山ロープウェーの3月11日のリニューアルオープンに合わせたイベントや鵜飼観覧をセットにした宿泊プランのPRといった官民連携“戦法”で観光客らを囲い込む方針だ。

151荷主研究者:2011/02/27(日) 11:59:14

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20110211/CK2011021102000112.html
2011年2月11日 中日新聞
御城番屋敷の工事完了 松阪の国重文を2年半かけ大改修

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改修工事が終了した国重要文化財の御城番屋敷=松阪市殿町で

 紀州藩が江戸末期に建造した松阪市殿町の国重要文化財(重文)「御城番屋敷(ごじょうばんやしき)」で、東棟の改修工事が1月末までに終了した。一時的に移転していた屋敷の住民の引っ越しも本年度中に終える予定で、2年半がかりの大改修が計画通りに完了する。

 御城番屋敷は1863年、松坂城の警備を担う藩士たちの住居として整備された。東西2棟の主屋と土蔵などからなり、長さ90メートルの東棟に10戸、83メートルの西棟に9戸が連なる。現存する武家長屋では全国最大級で、2004年には国重文に指定。現在も藩士の子孫らが住んでおり、全国の文化財でも非常に珍しい。

 初の大規模改修となった今回の工事は、屋敷の重文指定後、国や県の補助を受けて06年から始まった。総工費約2億8000万円をかけ、2棟の長屋を西棟、東棟の順に改修。伝統的な外観を保ったまま、鋼材による柱や梁(はり)の補強をしたり、屋根瓦のふき替えなどを実施した。

 同市殿町周辺では、今月7日に松坂城跡が国史跡に指定され、明治・大正期の実業家・原田二郎の旧宅も公開に向けて整備事業が進んでいる。同市教委文化課では「市街地の観光振興や、子どもたちへの郷土史教育に役立てたい」と話している。 (石原猛)

152荷主研究者:2011/03/06(日) 12:57:53

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20110220101.htm
2011年2月20日02時24分 北國新聞
橋爪門の遺構確認 金沢城、焼け跡手掛かりに

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/H20110220101.jpg
橋爪門二の門の埋蔵文化財調査が進められている金沢城公園内

 金沢城橋爪門の復元整備で、石川県は19日までに、1881(明治14)年の火災で焼失した橋爪門二の門の遺構を確認した。巨大な柱の重さに耐えられるよう地盤を固めた跡と、橋爪門続櫓(やぐら)の石垣から発見された柱と屋根の焼け跡が手掛かりとなり、門の正確な位置が裏付けられた。

 県は21日に初会合を開く「橋爪門の復元整備専門委員会」で具体的な整備方針の協議を始め、2014年度の北陸新幹線金沢開業を見据えた復元を急ぐ。

 遺構が見つかったのは、橋爪門二の門があったとされる現在の鶴の丸広場の一角。地表を1・5メートル掘り下げたところに、粘土質の土や小石を敷き詰め、地盤を固めた跡が2カ所見つかった。門の重みで地盤が沈み込まないよう補強した「根固め」の跡で、この上に柱の基礎となる礎石を置いて門を建てたとみられる。

 礎石はすべて取り除かれ、地中の遺構から柱の正確な位置は特定できなかったが、橋爪門続櫓の石垣から、石垣に接していた「添(そえ)柱(ばしら)」と1階ひさしの焼け跡が発見された。石垣には敷石の切り込みも残っており、この痕跡が橋爪門の構造を記した金沢城絵図の図面と符合したため、門柱の位置や屋根の高さが特定できたという。

 埋蔵文化財調査ではこのほか、雨水などを引き込む石組みの地下水路や枡(ます)の遺構も見つかった。二の丸から流れてきた排水を橋爪門の下を通して城内の内堀に流し込んでいたとみられる。

 橋爪門続櫓の石垣は2001年の菱(ひし)櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の再建に合わせて組み直されている。県金沢城調査研究所は「石垣に焦げたような跡があるのは以前から分かっていたが、それが焼けた柱などの痕跡と分かり、門の詳細を把握する重要な手掛かりになった」としている。

 橋爪門(はしづめもん) 二の丸御殿の入り口に位置した正門で、石川門、河北門とともに「金沢城三御門」の一つに数えられる。城内で最も格式が高い門とされ、門内には番所が置かれていたほか、三御門で唯一、二の門の床に敷石で装飾が施されていた。通行の際には衣装や従事者の数など厳格な規則が定められていたとされる。

153nagamasa:2011/03/11(金) 22:29:59
福岡城についてのシンポジウム(「福岡城の実像に迫る」)が開催されるようです。
福岡市の「福岡城さくらまつり」のイベントの一つとして、「福岡城の実像に迫る」と題して、福岡城に関わるシンポジウムが開催されるようです。
日時、場所などは以下の通りです。「福岡城の天守閣存否問題を中心に開催」とされているので、「天守閣」の有無に関わる論争も正面から取り上げられるようです。
また、今、教育テレビに出演中の「城博士」千田嘉博奈良大学教授が、「織豊系城郭における福岡城」と題して、基調講演をされるそうです。
 日時 平成23年3月26日(土) 10:00〜16:10
 場所 福岡市立中央区市民センター3階大ホール
 申込先(事前申込制) C.E.Works TEL:092-432-7088
 お問合せ先 福岡市教育委員会文化財整備課
TEL:092-711-4783

 詳しくは、下記のリンクをご覧下さい。
 http://saku-hana.jp/sakura/introduction.html
 シンポジウムの詳細を記したチラシのリンクもあるので貼っておきます。
http://saku-hana.jp/sakura/introduction_symposium.pdf

 また、福岡市のホームページにも詳しい情報があったので貼ります。
「平成22年度「福岡城」シンポジウムの開催について(文化財
整備課)」
http://www.city.fukuoka.lg.jp/kyoiku-iinkai/bunsei/shisei/20110311.html
文中にシンポジウムチラシのリンクも入っています。
「福岡市の文化財 新着情報」
 「福岡城シンポジウム「福岡城の実像に迫る」の開催について」
http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/whatsnew/index.php?id=252

興味のある方はどうぞ。福岡城、天守は本当にあったんかいな?
「織豊系城郭」の話も気になるなあ、、、

154荷主研究者:2011/03/17(木) 23:02:37

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110223/201102230848_13023.shtml
2011年02月23日08:48 岐阜新聞
“国宝”大垣城よみがえる 戦災前の外観復元

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改修工事が完了し、戦災で焼失する前の姿にほぼ復元された大垣城=大垣市郭町

 大垣市は22日、大垣城(同市郭町)の改修工事が完了した、と発表した。瓦の大きさや文様、窓、外壁など、外観がほぼ戦災前の国宝に指定されていた往時の姿に復元された。

 大垣城は、1535(天文4)年に美濃の守護土岐氏に仕えた宮川安定が築城(1500年、土岐氏の家臣竹腰尚綱の築城説もある)したとされる。1936(昭和11)年に国宝に指定されたが、45年7月の大垣空襲で焼失。現在の天守は59年に再建された。

 再建から半世紀以上が経過し、瓦が落ちるなどの老朽化が進んでいたことなどから、2007(平成19)年3月に危険防止柵を設置。施設の安全性を確保するとともに、外観を焼失前の状態に可能な限り復元しようと、09年9月から改修工事を行っていた。総事業費は約2億1800万円。

 今回の外観改修は、古い写真や図面などの資料に基づき実施。4階部分の窓を小さくし、アルミサッシから鉄製に変更したり、再建時に取り付けられた破風(はふ)板の上にあった飾り金物を撤去、天守の鯱(しゃち)瓦も焼失前の姿に近付けた。また改修前は全て桃鬼瓦だったが、古写真から確認された鬼面鬼瓦を14カ所に設置した。

 同市教育委員会は「焼失前にかなり近付き、付加価値も高まった。ぜひ一度見に来てもらいたい」と話している。

155荷主研究者:2011/03/20(日) 13:35:58
>>154
http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20110223/CK2011022302000115.html
2011年2月23日 中日新聞
4年ぶり雄姿 大垣城改修完了

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改修後の大垣城。窓の大きさや金物、瓦の様子が戦前に近い=大垣市で

 大垣市教育委員会は22日、戦災で焼失する前の姿へ復元を進めてきた大垣城(郭町)の改修工事が完了したと、発表した。天守周辺の全体像を見学できるのは4年ぶりで、市民や大垣を訪れる観光客の注目を集めている。

 大垣城は、1535(天文4)年の築城とされ、石田三成が西軍の本拠地とするなど関ケ原合戦の舞台にもなった。

 戦前は国宝に指定されていたが、1945(昭和20)年7月、米軍機による空襲で焼失。市民の熱望で59年に鉄筋コンクリート造りで再建され、戦後復興のシンボルとされてきた。しかし、近年、外壁のひび割れなど老朽化が進み、屋根瓦が落下する危険もあったことから、2007年以来、城周辺に危険防止柵が設置されていた。

 市教委は、再建後の城の外観が焼失前と異なる部分が多かったため、古い写真や図面などを基に、09年9月から復元・改修工事を開始。4階部分のアルミサッシ展望窓を小さくし、しっくい塗り風の鉄製扉をつけたほか、古写真を基に天守鯱瓦や鬼面鬼瓦を再現。丸瓦や飾り金物の大きさ、文様も焼失前に近づけた。石垣も強化し、全面ふき替えした瓦計約4万3000枚はすべてリサイクルした。総工費は2億1819万円。

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改修前の大垣城=大垣市で

 改修前の鯱瓦は城内で展示している。入場料大人100円、18歳未満無料。火曜休館。 (小椋由紀子)

156荷主研究者:2011/03/20(日) 13:41:42

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110222/CK2011022202000141.html
2011年2月22日 中日新聞
橋爪門整備 文献参考に 有識者委が県庁で初会合 二の門など復元へ

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橋爪門の完成予想図。点線内が復元部分の二の門と枡形土塀で、中央上部は続櫓

 「金沢城三御門」の一つに位置付けられる橋爪門の復元整備の方針を検討する有識者委員会の初会合が二十一日、県庁であった。県は発掘調査で見つかった痕跡や古絵図などを根拠に、復元の基本的な在り方を示した。

 橋爪門は「一の門」と「二の門」、二つの門をつなぐL字形の「枡(ます)形土塀」で構成。一の門は隣接する「橋爪門続櫓(つづきやぐら)」や「五十間長屋」などとともに二〇〇一年に復元が終わっており、県は一四年までに残る二の門、枡形土塀の復元を目指している。

 二の門は二階建てで、橋爪門続櫓に連なるように建てられていたことが分かっている。県は続櫓の石垣の表面に、二の門の柱や礎石が当たっていたとみられる痕跡を確認したと報告。現存する古文書や絵図なども参考にしながら、復元を進める考えを述べた。

 金沢城は江戸時代に三度、明治初期にも火災が起きており、橋爪門二の門は明治の大火で焼失してから復元されていない。三御門のうち、石川門は江戸後期に再建されたものが現存、河北門は昨年春に復元されている。 (佐藤航)

157荷主研究者:2011/03/27(日) 20:23:18

http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20110302/201103021146_13098.shtml
2011年03月02日11:46 岐阜新聞
岐阜城下町、やはり道三が整備 市教委、発掘調査で証明

岐阜城下町遺跡で発掘された中国産磁器などと、武家屋敷地付近のイメージ図を示す市教委職員=1日午前、岐阜市役所

◆信長火攻め跡から中国磁器出土

 岐阜市教育委員会は1日、金華山の麓にある岐阜城下町遺跡で行っていた発掘調査で、織田信長の岐阜侵攻による1567(永禄10)年の火事が原因とみられる焼土層から、大型の中国産磁器など2万点が出土した、と発表した。市教委によると、文献や通説では岐阜の町の骨格をつくり上げたのは信長侵攻前の斎藤家とされているが、大規模な遺跡で明確に確認されたのは初めて。

 発掘調査は、同市松ケ枝町の市道拡幅に伴い、市歴史博物館南側の約900平方メートルの範囲で昨年9月から行われていた。調査では焼土層のほか、敷地を区画するための溝や柱穴、中国産磁器などが見つかった。

 市教委は、多数の磁器が広範囲の焼土層から見つかったことを重要視。焼土層は、信長が侵攻した際に町に火を付けた跡と見られており、当時は貴重品だった中国産磁器を多数所有しているような身分の高い武士が、侵攻以前から一帯に武家屋敷地をつくっていたと考えられるという。

 同遺跡一帯は、斎藤道三が通したとみられている街路「大道」「七曲通」「百曲通」にはさまれた区画で、これまで調査はほとんど行われていなかった。発掘された溝などの方向は、街路の中でも南北に通る「大道」と直交しており、街路を基準として建物が築かれていたと考えられる。

 市の信長居館発掘調査専門委員会の仁木宏委員(大阪市立大教授)は「普通の町人の家ではなく、斎藤道三の家臣など有力者の屋敷の一部が見つかったとみてほぼ間違いないだろう。道三が建設した城下町の計画性が明らかになったといえる」と話している。

 市教委は5日午前10時から、同遺跡と、隣接する岐阜公園内の信長居館跡発掘調査現場の一般公開を行う。問い合わせは市教委社会教育課、電話058(265)4141。

158荷主研究者:2011/03/27(日) 20:42:48

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20110306103.htm
2011年3月6日03時07分 北國新聞
絵図にない石垣確認 小松城

石垣が見つかった場所に建てられた美術品収蔵館=小松市芦城公園

 小松城の三の丸を囲む堀に護岸用の石垣があったことが、小松市埋蔵文化財センターの調査で初めて確認された。江戸前期の絵図に石垣は記載されておらず、これまで三の丸の堀に石垣は無かったと考えられていた。同センターは「小松城の実像を示す重要な発見」としており、6日に開く講演会で報告する。

 石垣は小松市芦城公園南側で整備された「美術品収蔵館」(仮称)の建設のための調査で見つかった。約200平方メートルを発掘したところ、地表から数十センチ下の位置にあり、長さ約10メートル、高さは約1・5メートル。

 江戸前期の絵図「小松城御城中(おんじょうちゅう)並びに侍(さむらい)屋(や)敷町共之(しきまちともの)絵図」には、三の丸を囲む堀が記されているが、石垣は描かれていなかった。同センターによると、水漏れを防ぐための石垣とみられ、城壁ではないという。

 石垣は1個約40センチ四方の大きさ。4段に積まれており、下2段は水に漬かっていた跡があった。石垣は5段以上あったとみられるが、詳細は不明。石垣の内部には、裏込石(うらごめいし)が約2メートルにわたって詰め込まれていた。

 同センターによると、石材は色などから小松市八里台や鵜川町、大野町などから切り出した凝灰岩で、積み方は石材を事前に加工して石と石の間の隙間を開けない「切り込みハギ積み」という。

 石垣周辺からは江戸前期のいぶし瓦などが見つかっている。同センターは、加賀藩3代藩主前田利常が同時期に小松城に隠居した以降に整備されたと推測し、「三の丸の調査はこれまでほとんど行われておらず、新しい知見が判明した。市民に小松城について関心を持ってもらいたい」としている。

 講演会は6日午後1時半から、小松市第一地区コミュニティセンターで開かれ、小松城跡については同センター職員の川畑謙二さんが報告する。このほか、八幡遺跡、月津台地の集落、南加賀窯跡群の発表も行われる。

159荷主研究者:2011/03/27(日) 20:45:33

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110301/CK2011030102000096.html
2011年3月1日 中日新聞
小牧山城に先進的石垣 信長の近世城郭、安土より13年早く

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大規模な築城技術が確認された小牧山城の石垣=小牧市堀の内で

 小牧市教委は28日、国史跡の小牧山城(同市堀の内)で、山頂の周囲に巡らせてある織田信長が築いた石垣に、築城当時としては大規模、先進的な技術が施されていたことが確認できたと発表した。天守閣と石垣を特徴とする近世城郭のルーツはこれまで、同じ信長が築いた安土城(滋賀県近江八幡市)にあるとされてきたが、さらに13年さかのぼって小牧山城に原型があることが明らかとなった。

 小牧山城は1563(永禄6)年、清洲城から移ってきた信長が築いた。斎藤氏を滅ぼし岐阜に本拠を移すまでの4年間、本拠にした。

 市教委によると、確認された石垣は長さ35メートルの上下2段で、高さは上段が2・5〜3・8メートル、下段は1〜1・5メートルだったと推測。特に上段を構成していた石垣は重さ2トン前後の巨大な自然石が整然と積み上げられ、「土が主体だった当時の城にはない技術が具体化され、これを原型にして『石の要塞(ようさい)』のような今日の城が全国に広まっていったと考えられる」と小野友記子考古学専門員(38)は話す。

 石の配列にはデザインを意識したような工夫が見られ、内部には石垣の強度を上げるために細かい石や盛り土が敷き詰められ、近世城郭の城に見られる特徴と共通している。小野専門員は「こうした築城技術ひとつを見ても、戦乱の世を生き抜くには守りを固めることが肝要とする、信長の非凡な才能がうかがえる」と語り、戦国武将として優れていたことを裏付ける資料になるとみている。

 城郭に詳しい千田嘉博奈良大教授は「信長が理想とする城郭の原点は小牧山城だったと推測され、後の岐阜城や安土城を通じて江戸時代の城にも決定的な影響を与えたのではないか」と話す。

 市教委は今回の調査結果を受け、5日午前10時と午後2時、現地説明会を開く。無料、申し込み不要。(問)文化振興課=電0568(76)1189

 (平井剛)

160荷主研究者:2011/03/27(日) 20:47:35

http://www.chunichi.co.jp/article/gifu/20110228/CK2011022802000087.html
2011年2月28日 中日新聞
金山城跡を国指定に 可児市が申請へ「織豊系城郭の特徴」

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石垣が壊されたまま残っている金山城三の丸=可児市兼山で

 可児市は、同市兼山の県指定史跡「金山城跡」を2012年度にも国指定史跡へ申請する方針を明らかにした。

 金山城は1537年に斎藤道三の養子、正義により築城された山城で烏峰(うほう)城と呼ばれた。1565年に森可成が、織田信長から城を与えられ金山城と改名。1600年に森家が国替えとなった後、城の一部が壊され、尾張藩領として一般人の立ち入りが禁じられた。

 市は5年がかりで調査を実施。城跡からは建物の柱の下に据える川原石の礎石が見つかったほか、建物や門に使ったと想定される瓦も大量に出土。城を壊した際の石垣も残り、「織豊系城郭の特徴すべてを備え、良好に保たれた東海地区で珍しい城郭」としている。石垣がない部分も岩盤を加工した跡があり、国指定を受けた岐阜城との共通性が見られるという。 (斉藤明彦)

161荷主研究者:2011/03/27(日) 20:50:37

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20110306/CK2011030602000140.html
2011年3月6日 中日新聞
個性際立つ、甲賀中世城郭 複合で防御機能を発揮か

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県史跡に指定されている小川城跡。土塁で囲われた主郭には建物礎石が残されている=甲賀市信楽町で

 甲賀地域で戦国時代に盛んに築かれた中世城郭。これまで単純な構造ばかりで軍事的発達が認められないとされてきたが、甲賀市の市史編さん調査で、独自の発展をとげた可能性が高いことが分かった。江戸時代に大名が築いた城郭に比べ、謎に包まれた中世城郭の実情に迫る手がかりとして、専門家の注目を集めている。

 甲賀は約200の城郭があったとされ、三重県の伊賀とともに全国有数の密集度を誇る。1982(昭和57)年に始まった県教育委員会の中世城郭分布調査で180の城の位置が確認されたが、土塁や堀など詳しい情報が乏しかった。

 市史編さん調査は専門家が5年かけて現地を歩き、遺構の形状を地図上に記録した。調査した長浜城歴史博物館の中井均館長は「昔に比べ城郭研究が進み、自然地形との判別ができるようになり、より複雑な形状が分かった」と話す。

 その結果、甲賀の城郭は土塁を「コ」の字形に築いた単郭方形だけという従来の見方が一変。敵が城郭へ直進して攻め入るのを防ぐ「虎口」や、地形を巧みに利用した補助的な土塁や堀の存在が多くの城郭で明らかになった。

 いくつかの城郭がセットで防御機能を発揮したとの見方も浮上。甲賀町和田には谷筋に沿って7つの城郭が並んでおり、中井さんは「谷全体で一つの城の機能を持たせた可能性もある」と推測。複合タイプの存在はこれまで甲賀の城郭を特徴付けてきた一村一城説の再検討も迫る。

 戦国時代の甲賀は、畿内中央地域から離れた山間部にあり、織田信長らの進攻まで大規模な戦乱に直接巻き込まれなかったとされる。その代わり、小規模な地域紛争に備える城郭のスタイルが定着したという。中井さんは「今回、明らかになった甲賀の城郭が、これまで分かっている歴史とどう結びつくのか、これからの研究の大きな課題」と指摘。今後、城郭の築造時期や軍事的機能の解明のためには、本格的な発掘調査が必要となる。

全国的にも珍しい中世城郭をテーマにした甲賀市史

◆市史が好評、遺構の形状など紹介
 甲賀の180の城郭遺構の形状を分かりやすく紹介する「甲賀市史第七巻・甲賀の城」が、城の愛好家の間で評判となり、県外の注文も相次いでいる。

 2004年の5町合併で誕生した市が新市の事業で甲賀市史の編さんを開始。古代から現代までの通史とは別に、地域の成り立ちに深く関わる題材として城に焦点を絞って編集。行政史では全国的に珍しい。

 B5判で500ページ。城郭の構造物の位置関係や大きさから機能を分析し、先人らの意図を推理。概要図を等高線入りの地図上に描いてあり、イメージしやすい。実際の城跡見学で使える小冊子(B5判カラー20ページ)も付録で盛り込んだ。

 評判は全国にも伝わり、これまで東海や関東、九州からの引き合いがある。市史は紙箱入りで1巻3500円。

 問い合わせは市史編さん室=電話0748(86)8075=へ。

 (林勝)

162荷主研究者:2011/04/03(日) 14:17:04

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20110317/CK2011031702000104.html
2011年3月17日 中日新聞
江戸中期の上野城下町絵図発見 伊賀市内の旧家、来春公開

正徳5(1715)年の上野城下町絵図と福井さん。指さすのは上野城の位置=伊賀上野城大天守閣で

 江戸中期の上野城と、その城下町を描いた絵図(縦152センチ、横219センチ)など約100点の資料が、伊賀市内の旧家から見つかった。藤堂藩からの拝領屋敷や町屋などが色別に分類され、当時の町の詳細が分かる貴重な資料となりそうだ。購入した財団法人・伊賀文化産業協会は「文化財級の資料」とみている。

 協会によると、絵図は藤堂藩の絵師・上西宗牧の作で、正徳5(1715)年当時の上野城一帯の町が描かれている。藤堂藩の拝領屋敷はだいだい色、町屋と農人の家は黄色、侍屋敷は水色などと塗り分けられている。さらに戸別に四方の寸法も記され、建物の大きさが分かる。

 測量目的で作られたとみられ、現在と同じ位置に菅原神社や愛宕神社、今はない東西大手門や外堀なども描かれている。上野城研究の第一人者で同協会専務理事の福井健二さん(74)は「同時期の絵図はこれまでに見つかっておらず資料的価値は高い。ほかの時代の絵図と見比べれば、さらに町の変遷が解明できそうだ」と話す。

 このほか元禄年間(1688〜1704年)に描かれた伊賀国一帯の絵図をはじめ、享保4(1719)年ごろの上野城下町絵図、屋敷の庭の絵図なども見つかった。今後、協会が上野城の研究に活用し、来年春には大天守閣で一般公開する。

 (河北彬光)

163荷主研究者:2011/04/09(土) 16:49:43

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110330/CK2011033002000139.html
2011年3月30日 中日新聞
玉泉院丸跡 整備計画を差し戻し 県調査検討委 途中の見直し求め

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011033002100046_size0.jpg
計画案で示された玉泉院丸跡整備のイメージ図(手前が西側の道路)

 金沢城玉泉院丸跡の整備について話し合う県の調査検討委員会の第四回会合が、県庁で開かれ、事務局側が示した整備基本計画案について、「遺構調査の経過を踏まえて途中で計画を見直しできる条項を盛り込んでほしい」などとして差し戻した。

 事務局案では玉泉院丸跡を「調査優先」「暫定整備」「入り口部」の三つのエリアに分け、跡地東側の庭園部分は長期にわたって調査を実施する一方、西側の鼠多(ねずみた)門周辺は二〇一四年度までに芝生園地などとして整備し、南側の入り口部は今年六月から広場の供用を始めると定めている。

 この日の会合では複数の委員が「庭園内の石垣の価値が現段階ではまだ分からない」「一体的な整備のため、庭園部分の調査経過を踏まえ、計画を修正する機会を設けることが必要だ」などと指摘。

 委員長代理の北垣聡一郎・県金沢城調査研究所長が「今日の意見を整理して、もう一度お願いしたい」と事務局側に再考を促した。

 事務局側は本紙の取材に「検討委の指摘を踏まえ、四月中に計画案をあらためて示したい」と述べている。

 事務局はこの日、本年度に実施した庭園部分の遺構調査の成果について報告。池の北東部にある斜面で階段状に置かれた石組みが見つかったと明かし、低い滝を三、四段連続させた「段落ち」形式の滝の石組みだった可能性が高いと指摘した。 (榊原崇仁)

164荷主研究者:2011/04/09(土) 16:51:28

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20110329/CK2011032902000140.html
2011年3月29日 中日新聞
江戸時代の土塁 富山城址で発見 市埋文センター

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2011032902100063_size0.jpg
敵の侵入を防ぐために江戸時代に造られた土塁=富山城址公園で

敵の侵入防ぐ

 富山市教委埋蔵文化財センターは二十八日、富山城址(じょうし)公園で、敵の侵入を防ぐために城の周囲に土を盛った江戸時代の土塁が見つかったと発表した。江戸時代の土塁の発掘は初めてで、報道陣に同日公開した。二十九日午後一時半から一般公開する。(永井響太)

 土塁は公園の南東側で見つかり、長さ約六十メートル、堀からの高さが約六メートル。公園の整備に合わせて今月上旬に始まった調査で、地表から十五センチほど掘ったところに出現。公園南側の堀に向かって土が四〇度傾斜していた。

 資料などから、富山藩の初代藩主前田利次が一六六一(寛文元)年、堀を整備した際に出た土を盛ったとみられる。当初は約七メートルの高さがあったが、明治以降の開発で一部が崩され、一九五四(昭和二十九)年には石垣に整備された。野垣好史主任学芸員は「江戸、明治、昭和と土塁がどのように移り変わったかが分かり、大変貴重」と話した。

166荷主研究者:2011/04/24(日) 15:01:07

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/236286
2011年4月10日 00:53 西日本新聞
「福岡城」の成り立ち学ぶ 市民団体企画 服部九大教授が解説

 福岡城の史跡を巡って成り立ちを考えるフィールドワークが9日、福岡市中央区城内の福岡城跡であった。九州大大学院の服部英雄教授(日本中世史)が案内役を務め、存在の有無が議論される天守閣について「強風を受けやすい立地条件で、存在したとは考えにくい」と持論を展開した。

 史実に基づいて史跡を残そうと、同市の市民団体「福岡・住環境を守る会」が企画。満開の桜を楽しむ花見客でにぎわう中、約20人の参加者が名島門や多聞櫓(たもんやぐら)などを見学した。

 福岡城の天守台跡では、服部教授が案内板に「天守閣が後年に取り壊されたという説が説得力を増している」と記されている点に注目。「福岡藩の文献に天守閣があったとの記述はない。この場所は台風の被害を受けやすく、天守閣を造ったとは思えない」と指摘した。

 不審火によって焼損し2008年に復元された下之橋(しものはし)御門では内部を見学。中央に仕切りを作った構造について、服部教授は「門の中は敵襲に備える兵士が動きやすい必要がある。復元された構造は、史実と異なるのではないか」との考えを示した。

 福岡城は、福岡藩の初代藩主黒田長政が1601年から7年をかけて築城したとされる。現在は石垣や櫓が残り、地元のNPO法人が城の復元を模索する動きがある。

=2011/04/10付 西日本新聞朝刊=

167荷主研究者:2011/06/05(日) 21:36:45

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1105120017/
2011年5月12日 神奈川新聞
小田原城の整備構想見直しへ、市が緑保護の市民意見反映/小田原

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樹木に覆われ正面から天守閣が見えにくいという課題も

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整備が完了した馬屋曲輪=小田原市城内

 お城ブームの中、小田原市は2011年度から小田原城の整備基本構想を見直す作業に入る。馬屋曲輪(くるわ)の修景整備が終わり、4月から御用米曲輪の整備に着手したが、史跡を忠実に復元するだけでなく、市民が憩いを感じられる空間も取り入れていく方針だ。

 3月で整備が終了した馬屋曲輪は登城者のための馬屋が置かれた区域。広さは約7800平方メートル。2000年度から発掘調査が始まり、馬出門(うまだしもん)や櫓(やぐら)台の復元、馬屋や大腰掛けの位置を看板で表示するなどの整備を実施した。

 本丸の南側にあるこの区域は正規の登城ルートに当たる。整備により大手正面から城の景観を見られるようになった。総整備費は約6億6千万円(国が約半額負担)。

 御用米曲輪は江戸時代に幕府が米などを保管する蔵が最大6棟あった区域。広さは約1万8800平方メートル。石垣でなく土塁で囲まれ、中世期の特徴が残されている。

 基本構想の見直しは昨年、植栽管理計画に市民団体が反発したことがきっかけになった。緑の保護を求める市民の意見を反映して「極力保全を前提に検討する」と方針を転換した。

 小田原城は国指定の史跡であることから、市は1993年に整備基本構想を策定。史跡にそぐわない動物園や遊園地などを移転・撤去、江戸末期の姿に近づける方針を採ってきた。

 一方、史跡整備とは別に60年建設の天守閣は耐震不足の問題を抱えている。年間約40万人が訪れる観光のシンボルでもあり、対策が急がれる。

 市文化財課は「中心市街地内にあり緑化や都市公園的な視点でも検討する。国の方針を踏まえながら2〜3年かけて構想全体を見直したい」と話している。

168荷主研究者:2011/06/05(日) 22:13:36

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/241154
2011年5月10日 01:01 西日本新聞
佐賀城「東堀」整備始まる 往時の風情復活へ

現地で始まった佐賀城東堀の整備事業

 佐賀藩鍋島家の居城だった佐賀城(佐賀市城内)の「東堀」を“復元”する整備事業が9日、現地で始まった。県の佐賀城跡整備計画「佐賀城下再生百年構想」(2007年3月策定)の中核事業の一つ。完成すれば、80数年ぶりの東堀復活となる。

 佐賀城を囲む堀は、北、西、南の各堀が逆コの字形に現存。しかし、幅70メートルを超えていた東堀は、開発の波にのみ込まれ1939(昭和14)年までに埋め立てられた。復元事業では、堀の一部を掘り返し、地中に眠る江戸期に築造された赤石の石積みを発掘。この石積みを生かして、往時の風情をよみがえらせ、公園として整備する。

 整備を担当する県佐賀土木事務所によると、復元エリアは佐賀城本丸歴史館や佐賀大学付属小学校の東側約1ヘクタール。数年計画で、堀の一部に当たる総延長約230メートル、幅約40メートルを深さ約1・8メートルの堀として整備し、堀端には植栽や散策道を設ける。9日は早速、NHK佐賀放送局近くの区画で重機での作業が始まった。事業費は3−5億円を見込んでいる。

 佐賀城の堀は、福岡藩黒田家の協力で築かれた北堀が「筑前堀」と呼ばれるなど、大名同士の交流を今に伝える史跡でもある。

 県佐賀土木事務所は「佐賀の歴史をしのぶことができる市民憩いの公園として整備したい」と話している。

=2011/05/10付 西日本新聞朝刊=

169荷主研究者:2011/06/05(日) 22:14:00

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/241917
2011年5月14日 01:16 西日本新聞
築城400年の佐賀城天守台 9−10月に予備調査着手

佐賀市教委が9月から予備調査に着手する佐賀城跡の天守台。天守閣の規模などの特定が期待される

 佐賀城築城400年の節目に合わせ、城跡に残る天守台(同市城内2丁目)の発掘調査を行う佐賀市教委は、9−10月にかけ、現地での「予備調査」に着手することを決めた。3年計画の発掘調査の第1弾。礎石など遺構群の現存状況を見極め、広い範囲を本格的に発掘する「確認調査」につなげる狙い。天守台には5層構造の勇壮な天守閣があったとされ、調査を通じ全体像の解明に期待がかかる。

 市教委文化振興課文化財係によると、予備調査では天守台(一辺35メートル前後、高さ約8・5メートル)上面の一部を幅2メートル、長さ10メートル程度の範囲で掘り下げ、遺構の確認を進める。天守閣の基礎構造を知る手掛かりとなる礎石の確認のほか、「穴蔵(天守閣地階)」といった地下遺構の有無も調べる。確認調査は来年度に実施する。

 予備調査実施を前に市教委は、佐賀城をめぐる古里の歴史を広く知ってもらおうと、6月中旬には講演会を開催。さらに、城郭建築や石垣研究、文献調査などの専門家でつくる調査指導委員会を立ち上げ、7月に第1回会合を開く。

 佐賀城は江戸期に35万7千石を治めた佐賀藩鍋島家の居城で、1611(慶長16)年に完成。天守閣は1726(享保11)年の大火で焼失し、以後再建されなかった。

 明治以降の天守台をめぐる歴史をみると、明治−昭和初期に県立の測候所が建設されていたほか、1957年に「佐賀の鹿鳴館」とも呼ばれた明治期の迎賓館・協和館が移築され、2004年の県立佐賀城本丸歴史館開館に合わせて解体された。市教委は、これらの建造物が天守台の遺構にどの程度影響を与えたかについても、慎重に調査する考えだ。

 調査担当者の1人、市教委文化振興課文化財係の谷澤仁(ひとし)係長は「佐賀城天守閣の存在については、絵図や文献の記録にとどまっている。築城400年の節目を機に、天守台調査を通じて佐賀城をめぐる謎のさらなる解明に向け、天守閣の真の姿に迫りたい」と話している。

=2011/05/14付 西日本新聞朝刊=

170荷主研究者:2011/06/05(日) 23:22:18

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110516/CK2011051602000093.html
2011年5月16日 中日新聞
倒壊時期の定説覆る 名古屋城・西南隅櫓

1891年の濃尾地震で倒壊したとの定説が覆った西南隅櫓(工事中)=名古屋市中区の名古屋城で

 1891年の濃尾地震で倒壊し、1923年に修復したとの説が定着していた名古屋城の重要文化財(重文)「西南隅櫓(すみやぐら)」が、実は1921年の台風で壊れていたことが市教委の調査で分かった。従来の公式見解を改め、名古屋城パンフレットやHPの解説を修正する。

 本丸の南西角にある物見や倉庫に使われた櫓で、1930年に国の重文に指定された。7000人を超える死者を出した1891年10月の濃尾地震の時に倒壊したと、著名な建築学者が戦後に唱えたのが語り継がれ、公式見解として定着していた。

 2009年、老朽化に伴う屋根と壁の修理に際し、重文を所管する文化庁が倒壊と修復の経緯の調査を指示。「倒壊から再建まで30年も放置されていたのは不自然」と従来の見解を疑っていた市教委文化財保護室の井上光夫文化財専門員が、宮内庁などに残る記録を見直した。

 濃尾地震後に被災状況を記した図面には、西南隅櫓が壊れた記録は見当たらなかった。

 井上さんは「壊れていたら、何らかの記録があるはず。濃尾地震から修復までに天皇陛下が50回以上、宿泊していることから考えても、壊れた櫓を放置しておいたとは考えにくい」と考えた。

 壊れた櫓の写真には、石垣が崩れて骨組みがむき出しになった様子が写る。「天災しか考えられない」。井上さんが原因と考えるのは、1921年6月30日に尾張地方を襲った台風。死者5人、倒壊家屋362戸の被害が出ていた。

 この直前の5月に完成した名古屋城の総図には、西南隅櫓の絵が描かれていた。修復は、この年の8月にがれきの撤去や石垣の積み直しを業者に発注し、2年後に終えたとの文書が残る。こうした記録から、井上さんは「この台風で石垣とともに櫓が崩れ、8月から修復に着手したに違いない」と結論づけた。

 調査結果は、名古屋城跡全体整備検討委員会も了承。名古屋城の知識を試す「名古屋城検定」の公式テキストの記載も修正した。

 (北島忠輔)

171荷主研究者:2011/06/11(土) 18:01:18

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201105200039.html
'11/5/20 中国新聞
福山城外堀の石垣一部を復元

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110520003901.jpg

 福山市は、JR福山駅南口で整備中の駅前広場に、福山城外堀の石垣の一部を約400年前の築城時の姿で復元した。

 花こう岩を4〜5層に積んだ石垣の高さは築城時と同じ約1・8メートル、長さ約20メートル、幅約2メートル。地中に現存する石垣の上に、新たに加工した石を積み上げた。今後は、新旧の境目が分かる表示を設置する。

 広場にはこのほか、福山城の石垣の一部で歴史的な価値が高いとされる舟入遺構の位置を示すラインを路面に表示。地下送迎場の出入り口には、石垣の断面を模した壁を設ける。駅前広場は来年3月末までに完成する。

 駅前広場整備をめぐっては、市は当初、舟入遺構の大半を撤去する計画だった。反対署名が10万人を超えたため埋め戻しによる現状保存に変更。一部を外から見える形で保存、活用する方法を検討していた。

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【写真説明】福山駅前に復元された福山城外堀の石垣

172荷主研究者:2011/06/25(土) 23:49:05

http://www.chunichi.co.jp/article/aichi/20110609/CK2011060902000105.html
2011年6月9日 中日新聞
小牧山城の石垣に墨書人名 国内最古の確認例

人名が墨書された石垣の石。職員が指をさしている部分に文字が残る=小牧市の保管施設で

 小牧市教委は8日、国史跡の小牧山城(同市堀の内)の石垣から、墨で人名が書かれた石1点が見つかったと発表した。織田信長が築いた小牧山城は近世城郭の原型とされ、文字が記されている石垣の石としては国内最古の確認例になる。

 発掘調査の過程で3月下旬に市教委文化振興課の小野友記子考古学専門員(38)が山頂付近の本丸北西斜面の石垣から見つけた。堆積岩の一種で非常に硬い「チャート」で、長さ60センチ、幅35センチ、高さ20センチ、重さ93・5キロ。石垣のどの部分に使われていたかは分かっていない。

 名古屋市博物館に持ち込んで調査し、城郭に詳しい千田嘉博奈良大教授(47)らが鑑定した結果、石の平たん面中央に草書体で「佐久間」(縦12センチ、横6センチ)と縦書きされているのを確認。千田教授は「信長の重臣だった佐久間信盛を指している可能性が高い」と指摘する。

発見された石のイラストと拡大した文字

 石垣の石には築造担当者の名前や作業上の目印となる記号が記されている事例が多く、千田教授は「信長の複数の家臣が築造に関わった中で、城の心臓部とされる本丸の石垣普請は信盛が受け持っていたのではないか」と推察する。市教委は文字が色あせないよう保管する。

 石の一般公開は10〜22日に小牧市歴史館、7月27日〜8月1日にまなび創造館4階市民ギャラリーで。(問)市教委文化振興課=電0568(76)1189 (平井剛)

173荷主研究者:2011/06/25(土) 23:51:43

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20110607/CK2011060702000142.html
2011年6月7日 中日新聞
利長の御殿 見つかるか? 高岡古城公園 本丸広場発掘へ

前田利長の御殿跡を探すため発掘される本丸広場=高岡古城公園で

市教委 周辺調査では発見されず

 高岡市教委は今月中旬から、県史跡の高岡古城公園で、初めて本丸広場を発掘するなど、学術調査に取り組む。国史跡指定を目指し、二〇一〇年度から三カ年計画で進めている調査の一環。高岡城を築いた加賀藩二代藩主前田利長が生活したとされる御殿や塩蔵といった当時の建築物の遺構を探す。(飯田克志)

 本丸広場の発掘は八月末まで。全面的な発掘ではなく、本丸広場の九カ所を、幅二メートル、深さ一メートル程度の溝状に掘る。御殿の遺構などが出土した場合は、発掘範囲を広げる方針。

 本丸広場は、一〇年度に周辺を調査したが、その際には江戸時代の遺構は発見されなかった。

 十〜十二月には、現在の朝陽橋付近にあったとされる「貫土橋」などの発掘を行う。朝陽橋付近については、学術調査をサポートする「高岡城跡詳細調査指導員会」の高岡徹委員が、江戸期の「高岡古城跡見取絵図」(金沢市立玉川図書館所蔵)を詳細に調査し、石垣と思われるものが描かれていたことが分かっている。

 高岡城の石垣について江戸初期の文献に記載はあるが、現存している当時の石垣は、本丸と二の丸を結ぶ本丸土橋だけ。朝陽橋付近の発掘では、新たな石垣の確認を目指している。

 本年度は発掘調査のほか、高岡城の石垣用に石を運び出した「石切丁場」を探すため、氷見市宇波川など三カ所の現地調査もしている。

174荷主研究者:2011/07/10(日) 21:20:07

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1106300045/
2011年6月30日 神奈川新聞
小田原城天守閣の耐震化、秋から検討も課題は山積/神奈川

 小田原のシンボルになっている城址(じょうし)公園(同市城内)の天守閣。懸案だった耐震化問題について、市は秋に検討委員会を設置して本格的な議論を始める。現行計画では2015年度までの完了を目標にしているが、課題は山積している。

 天守閣は、市が観光施設として1960年に建設した。鉄筋コンクリート造りで4階建て。高さ約39メートル、延べ床面積1820平方メートル。年間約40万人の観光客が訪れる人気スポットだ。

 1989年に実施した建物診断で劣化などが確認され強度不足も判明。市庁舎などとともに補強・補修すべき市公共施設にリストアップされた。

 一般に公共施設の耐震化は財政事情から遅れ気味。加えて天守閣は、甲冑(かっちゅう)や刀、絵図など貴重な内部展示物約800点の移動問題も抱えており、対応が事実上先送りされてきた。

 地震の多発や耐震化目標の時期が迫ってきたことから、市は秋に専門家らを加えた検討委員会を設置して年度内に再整備に向けた方向性を示したい考え。

 しかし、検討すべき課題は山積している。市観光課によると、公園内が国指定史跡になっているため、補強や建て替えいずれを選択するにしても、文化庁との協議が前提になる。

 原則は「史実に基づいた復元」。ならば木造での天守閣再建も候補の案になるが、同課は「費用面だけでなく、銅(あかがね)門の復元でも適した木材の確保に苦労した」という。

 一方、市は多額の工費費に備えて08年度から基金をスタート。現在の天守閣の工費は約8千万円で、このうち約2千万円を市民からの寄付金で賄った。

 同課は「乗り越えるべきハードルは高い。多分野の専門家から意見を聞き、目標年次までに再整備を終えるよう努力したい」と話している。

175荷主研究者:2011/07/10(日) 22:31:54

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/07/20110706t55013.htm
2011年07月06日水曜日 河北新報
伊達氏本拠論争に一石? 舘山城に新たな屋敷跡 米沢

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 山形県米沢市教委は5日までに、仙台藩祖伊達政宗(1567〜1636年)が米沢支配時代に本拠とした可能性のある舘山城跡の発掘調査で、当時、重臣以上の武将が使用したとみられる武家屋敷跡を発見した。「舘山城本拠説」を裏付ける新事実との見方もあり、現在の上杉神社の場所にあった平城の米沢城か、市西部の山城の舘山城か、という伊達氏本拠論争に一石を投じる可能性もある。

 関係者の話を総合すると、屋敷跡は本丸部分東側の二の丸に当たる川岸で見つかり、複数の柱穴や井戸、屋敷を囲む塀などの遺構、短刀が出土した。構造などを分析した結果、16世紀の伊達氏支配時代に、極めて身分の高い武将が暮らした可能性が高いという。

 従来、舘山城は関連史料が乏しく、(1)政宗の父輝宗が隠居先とした(2)政宗が有力大名に対抗するため軍備を整えたが、1591年に岩出山城(大崎市岩出山)に移る際に壊した―などの情報しかなかった。

 一方の米沢城は、政宗に続き領主となった蒲生氏、上杉氏がともに本拠とし、専門家の間では「伊達氏本拠は米沢城」が通説とされてきた。

 市教委は2001年に舘山城跡北側から、16世紀と推定される武家屋敷跡を発見。二つの川に挟まれた立地が仙台城に似ている点などから舘山城本拠説を有力とみており、昨年から3年計画で城跡一帯約28万平方メートルの発掘調査を進めている。

 6日には安部三十郎米沢市長が現地を視察する。市長は「この発見は伊達氏と舘山城をつなぐ糸口だ。新たな歴史的関心は宮城の被災者にも明るい話題となるだろう」と語った。

176荷主研究者:2011/07/24(日) 17:42:15

http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20110713/CK2011071302000125.html
2011年7月13日 中日新聞
新御殿の図面あった! 松本城の江戸中期藩主私邸

新御殿の平面図。指さしている部分が、長局があったとみられる部屋の連なり=千曲市の県立歴史館で

 江戸時代中期に国宝松本城(松本市)に建てられた松本藩主の私邸「新御殿」の平面図が、県立歴史館(千曲市)に所蔵されていることが、松本城管理事務所の後藤芳孝研究専門員の調査で分かった。これまで新御殿の存在は知られていたが、詳しい位置や規模は不明だった。後藤専門員は「藩主や家族の生活を知る手がかりになる」と期待している。

 図面は、明治維新以降に一時存在した旧筑摩県から長野県に引き継がれ、同歴史館が保存していた。縦、横約1メートルで、江戸後期に描かれたとみられる。

 図面によると新御殿は南北2棟。現在の松本市立博物館前にある広場のほぼ全体を占める広大さだった。各部屋の用途は記述がない。

 南棟は大小の部屋が無数に連なり、広い部屋は約20畳。北側に4〜8畳の部屋10余が東西に並び、付近に女性用便所が密集、台所と渡り廊下で結ばれていることから、御殿の女中が暮らした“長局(ながつぼね)”があったとみられる。その他、中庭や数寄屋なども確認できるという。庭との接続が良い西側は客人や家臣をもてなす場所、台所に近い中央部は藩主の生活空間だったと推測される。

 北棟は6〜8畳の計10間。後年の松本城絵図などに記されている「御子様方」と位置などが合致し、藩主の長男以外の子どもが暮らしたらしい。

 松本市は南西外堀の復元を進めるなど松本城の歴史的景観を街並みの中核に据えており、新御殿の位置などが分かったことは今後、観光客や研究者の関心を刺激しそうだ。

 後藤専門員は「これまで御殿での女性の生活場所は不明だったため大きな成果。現在の広場にこんな御殿があったと、観光客にイメージしてもらえるだけでも収穫」と話した。

 (杉浦正至)

【松本城の新御殿】松本城は本丸、二の丸、古山地の3御殿があったが、1727年に本丸が焼失。藩主の居住空間だった二の丸が政治に使われるようになり手狭になった。このため戸田光雄2代藩主の1732〜1756年ごろ、古山地を大幅に増改築し、新御殿を建てた。建物は明治ごろまで残ったが、取り壊され現存していない。

177荷主研究者:2011/08/14(日) 14:04:52

http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20110730/CK2011073002000129.html
2011年7月30日 中日新聞
加越国境城郭群と古道 国史跡申請へ市調査

11月から

 羽柴秀吉と徳川家康の対立を伝える「加越国境城郭群と古道」について金沢市は国史跡指定に向け、十一月から詳細調査に乗り出す。秀吉方の前田利家による切山城と家康側の佐々成政の松根城、両城を結ぶ小原越の実態を明らかにし、二〇一五年度にも国に申請する。

 二十九日の調査指導委員会で市側が方針を説明した。中世の加越国境城郭群は富山県小矢部市に一部またがる。市によると、道を挟んで対立する城跡の国史跡指定は全国でも例がなく、文化庁から〇七年度に歴史的重要性が指摘された。

 市は十一月から切山城の発掘調査に着手し約一カ月かけて築造の年代や構造などを調べる。発掘調査が済んでいる松根城跡は一二年度に測量調査をする。

 周辺には多数の山城が築かれていたため、委員から「切山、松根以外の城跡についても広く文献で調査した方がいい」などの意見が上がった。 (押川恵理子)

178荷主研究者:2011/08/28(日) 14:14:00

http://www.at-s.com/news/detail/100052635.html
2011年8/12 14:28 静岡新聞
駿府城天守閣、再建の議論加速

 静岡市葵区の駿府公園への駿府城天守閣再建をめぐり、地元関係者や市民団体の間で議論が活発化している。実際の城の設計図が発見されていないことから、これまで市は再建に慎重な姿勢を取ってきたが、4月に就任した田辺信宏市長が今月3日に「世論が盛り上がれば、可能性は大いにある」と発言。一方で、再建を求める市民団体からは市への申し入れが相次いでいる。

 推進派が期待するのは、再建による観光へのインパクトだ。市民団体「平成の駿府城をつくる会」の安池康之事務局長は「(駿府城を築城した)徳川家康の知名度を考えれば、国内外から人を呼べる。史実に基づいた“復元”は無理でも、今なりのやり方で“再建”はできる」と強調する。

 家康が残した文化遺産が「観光振興やまちづくりに十分生かされていない」との声も多い。長年、再建に向けて活動しているNPO法人「静岡文化・創造協議会」の池ケ谷恒雄理事長は「静岡に育った人間として、駿府城の価値が地元でさえよく知られていないのは寂しい」と語る。

 一方で、「史実に基づかない建物は造るべきでない」との慎重論も根強い。天守閣については、これまでに外観を示す絵巻やびょうぶ絵が発見されているが、絵柄が一致せず、設計図もない。有識者による市の建設可能性検討委員会は昨年3月、「現時点では復元すべきでない」とした報告書をまとめ、設計図のある天守台(城の土台部分)のみ再建を検討すべきと提言した。

 委員を務めた小和田哲男静岡大名誉教授は「かつては外観だけを史実に基づいて再現し、中身は現代建築という城も各地で造られたが、今は本物志向。中途半端な城を造っても観光客は呼べない」と現状での再建には否定的だ。

 田辺市長はマニフェストに駿府公園を歴史文化の拠点として活用する方針を掲げ、年度内をめどに名称を「駿府城公園」に改める考えを示している。園内では城の一部として復元された巽櫓(たつみやぐら)や東御門に加え、本年度は坤(ひつじさる)櫓の建設も始まる。

 田辺市長は今月、市内を巡回中のタウンミーティングで「天守閣がないのは画竜点睛(がりょうてんせい)を欠く」とし、まちのシンボルとして整備する可能性に言及した。再建への賛否が分かれる中で、意見集約できるかどうかは不透明だ。

179荷主研究者:2011/09/19(月) 11:12:57

http://kumanichi.com/news/local/main/20110825001.shtml
2011年08月25日 熊本日日新聞
熊本城の馬具櫓と続塀復元へ 来年1月にも着手

 熊本城の馬具櫓[ばぐやぐら]と続塀[つづきへい]の復元整備工事が来年1月にも始まる見通しとなった。23日に開かれた熊本市文化財保護委員会で復元整備計画が了承されたことに伴い、市は近く文化庁に復元許可を申請し、年内には所定の手続きを終える考え。

 市文化振興課によると、馬具櫓は行幸橋近くに位置し、江戸時代初期ごろ(慶長〜寛永年間)に作られた馬具を納める建物。続塀は同櫓から北に延びる延長約122メートルの塀。1877(明治10)年の西南戦争時までには解体されていたという。

 1966年に外観復元(骨格はコンクリートブロック造)されたが、老朽化のため2009年3月に解体。熊本城の第2期復元整備事業(2008〜17年度)として再整備を進めている。

 計画では、馬具櫓は高さ約7・2メートルの木造平屋で、床面積約130平方メートル。江戸期の絵図や明治初期の写真、史料などに基づき、すべて木造(本瓦ぶき、漆喰[しっくい]塗り)で江戸当時の建物を忠実に再現。高さ約2メートルの続塀も木造で整備する。既に終了した発掘調査などの費用を含めた総費用は4億7400万円(約2分の1は国の補助)で、約3年かけて整備する。

 復元整備計画は、文化庁の「史跡等における歴史的建造物等の復元の取扱いに関する専門委員会」が7月下旬に承諾。文化庁の許可も10月末には下りる見通しという。(浪床敬子)

180荷主研究者:2011/09/25(日) 15:03:28

http://kumanichi.com/news/local/main/20110831003shtml
2011年08月31日 熊本日日新聞
高麗門の遺構か 熊本市新町で埋蔵文化財調査

城下町を囲んでいたと考えられる堀の石垣を指さす県教委の担当者(中央)=熊本市新町

 熊本市新町に明治初期まであった高麗門跡で、県教委が埋蔵文化財事前調査を実施。31日までに門柱の基礎部分とみられる痕跡などが見つかった。遺構が高麗門である可能性もあり、地元まちづくり団体は「復元の足掛かりになる」と期待している。

 県教委などによると、高麗門は慶長3(1598)年、加藤清正が熊本城西方から城下町を守るために築いた櫓[やぐら]門。城下町への人の出入りを厳重に警戒する要の門で、高麗門踏切近くにあった。一説では2階建てで、幅約25メートル、奥行き約6メートルの大きさだったとされる。

 県のJR鹿児島線連続立体交差事業に伴い、同踏切東側約1キロ区間を7〜8月に試掘。その結果、門柱を据えたと思われる礎石下部の根固め石(直径約1メートル)が地中約40センチの深さで見つかった。

 大量の瓦や、城下町を囲んでいたと考えられる堀の石垣も確認された。石垣は3段積みで、判明分だけで約90メートルの長さがある。

 県教委は同日、現地で調査結果の報告会を開き、地元住民ら約40人が参加。県教委の担当者は「江戸時代の遺構かどうか調査を進め、歴史的、文化的な価値付けをしたい」と説明した。

 一新まちづくりの会の毛利秀士さん(69)は「高麗門の正確な場所を突き止める手掛かりとなり、新町が城域内にあった証明にもなる。城下町のシンボルとして門の復元を期待したい」と話した。(川崎浩平)

181荷主研究者:2011/09/25(日) 16:33:14

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/09/20110908t15005.htm
2011年09月08日木曜日 河北新報
仙台城跡、大広間整備へ 市教委が基本設計案

仙台市教委が作製した整備イメージ図。中央やや左に騎馬像があり、その右に大広間跡が広がる

 国史跡の仙台城跡(仙台市青葉区)で、本丸大広間の遺構を基に平面の野外展示施設が整備されることが7日、決まった。市教委が同日開いた「青葉山公園にかかる仙台城跡整備委員会」(委員長・入間田宣夫東北芸術工科大教授)で基本設計案を示し、承認を得た。大広間の規模や配置が浮かび上がり、仙台藩祖伊達政宗が築いた城の最重要建造物を体感できる空間になりそうだ。

 展示施設の予定地は「伊達政宗公騎馬像」の西側にあり、総面積は約2500平方メートル。大広間跡の整備は東西方向に33メートル、南北方向に26〜40メートルの範囲を想定している。

 大広間は藩政を執り行う中心的な施設で、藩主に家臣が謁見(えっけん)したり、将軍や天皇を迎えたりする場でもある。藩主が座した「上段の間」をはじめ、身分に応じて家臣に割り当てられた幾つかの部屋から構成される。市教委による発掘調査と江戸時代の「御本丸大広間地絵図」などから、規模や配置の詳細が判明しており、調査後に埋め戻された遺構の真上に整備する。

 設計案によると、各部屋の名称と役割を、地面に埋めた陶板パネルで解説。柱を支えた礎石や、軒からの雨水を受けていた雨落ち溝も配置する。畳敷きや板張りなど、部屋の格式の差は、舗装の色で表現する。

 隣地にある「仙台城見聞館」も改装する。館内の壁に「上段の間」の床の間にあった金箔(きんぱく)の「鳳凰(ほうおう)図」を原寸大で復元。政宗が愛した豪華絢爛(けんらん)な安土桃山文化の一端を再現する。

 ただ、市の仙台城跡整備基本計画は東日本大震災で見直し作業を強いられ、大広間跡の整備時期は未定。市教委文化財課は「被災石垣の復旧など災害対応を優先させながら、開始時期を見極めたい」と話している。

182荷主研究者:2011/10/01(土) 16:15:49

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20110909/CK2011090902000129.html
2011年9月9日 中日新聞
光秀築いた城門か 聖衆来迎寺の表門

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解体修理前の聖衆来迎寺表門。木材に移築された跡があり、坂本城築城時の建築物であることが分かった=大津市比叡辻で

 大津市比叡辻の聖衆来迎寺(しょうじゅうらいこうじ)表門(県指定文化財)が、戦国武将明智光秀が築いた坂本城(同市下阪本)の城門だった可能性が県教育委員会の調査で高まってきた。同教委は「築城時の坂本城の姿を残す唯一の建築物になる」として注目している。

 同門は2009年11月から解体修理中。地域の言い伝えで坂本城の門を移築したとされてきたが、移築の経緯や建立年代を示す史料がなく、真偽は不明とされていた。

 今回の調査で、材料の木材が城門の様式から加工され、直した跡があったほか、柱に付いたかんなの刃の跡が、坂本城で建築工事があった時期と重なり、移築されたことを示す“決め手”になったという。

 坂本城は1571年から築城され、光秀が織田信長を討った本能寺の変後の戦乱で館に火が放たれるなどして荒廃し、現在は石垣が残る程度となっている。

 城と寺との距離は1キロほどで、光秀と関係が深かった同寺が、何らかの目的で1586年ごろに移築したとみられる。

 調査では、門の隣につくられた脇扉の高さが、修理前の168センチの半分に近い98センチだったことも分かった。通行の便利さよりも防御を重視した中世の建築様式の名残とみられ、今後の組み立て工事で元の高さに修復する。

 県教委では、工事の現地見学会を10月2日の午前10時と午後2時からの2回、同寺で開き、職員がこれまでの調査内容を報告する。

 問い合わせは県教委文化財保護課=電077(528)4673=へ。

 (中尾吟)

183荷主研究者:2011/10/02(日) 16:55:59

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201109120004.html
'11/9/12 中国新聞
福山城修理へ保存計画準備

 福山市教委は、国史跡の福山城(福山市丸之内)の修理や活用の方針を示す保存管理計画を策定する。近く有識者でつくる保存管理準備会を設け、2013年度までをめどに必要な資料を集め、整理する。

 準備会は文化財や郷土史の専門家7人程度で構成し、近く初会合を開く。福山空襲で天守閣などが焼失する以前の城の姿を伝える絵図や写真などの収集、資料提供の呼び掛け、分析・整理を進める。

 国は1979年、国史跡の保存管理計画の策定経費を補助する要綱を設け、計画を策定した史跡の老朽化や防災の対策を優先している。計画では修復などで参考にするために史跡の本来の姿を示す必要があるが、福山城は焼失前を記録した資料も空襲で焼けるなどして少ないため、策定が進んでいなかった。

 市教委文化課の村上寿広課長は「計画を策定すれば修理がしやすくなる。準備会を経て、策定委員会をつくりたい」と話している。

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/Tn20110912000401.jpg
【写真説明】福山市教委が保存管理計画の策定に乗り出す福山城

184荷主研究者:2011/11/13(日) 20:02:23

http://www.isenp.co.jp/news/20111018/news04.htm
2011/10/18(火)伊勢新聞
鳥羽城跡 天守西側から石組みの溝 22日に説明会

【雨水を受けるために作られた九鬼氏の遺構と考えられる石組みの溝=鳥羽市鳥羽3丁目の発掘現場で】

【鳥羽】鳥羽市教育委員会は十七日、七月から進めていた同市鳥羽三丁目の鳥羽城跡発掘調査について発表した。鳥羽城は水軍の将として豊臣秀吉に仕えた九鬼嘉隆が文禄三(一五九四)年に築城したとされ、天守台や本丸御殿の本格的な発掘調査は初めて。

 城は明治四(一八七一)年に廃城し、跡地には昭和四(一九二九)年に鳥羽小学校が建てられるなど、城跡周辺は時代と共に様変わりしてきた。平成二十一年に鳥羽小学校が移転。今夏、城の中枢部に当たる天守台や本丸御殿の遺構確認のため、旧運動場を二百六十八平方メートルにわたり調査した。

 天守台があったとされる場所は、表面から十センチのところで地山の岩盤が現れ、石垣の痕跡は確認できなかった。しかし、天守の西側には高い構造物から雨水を受けるために作られたと考えられる石組みの溝が二列確認できた。下層に当たる幅五十センチの溝では古い特徴の瓦も見つかり、発掘に当たった市教委の豊田祥三さんは「九鬼氏の時代の遺構と考えられる」という。

 発掘現場からは、九鬼嘉隆の家紋瓦や九鬼氏の後に城主となった内藤氏の家紋瓦などが出土している。豊田さんは「今回、本丸の調査まではできなかったが、礎石など城の痕跡について継続的に調査を進めていきたい」と話していた。

 市教委では二十二日、午前十時から市民らへの発掘現場説明会を予定している。無料。

185荷主研究者:2011/11/13(日) 20:37:24

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201110200076.html
'11/10/20 中国新聞
三原城跡から土留め出土

 三原市教委が進めている国史跡の三原城跡の発掘調査で、濠(ほり)への土砂の流入を防ぐ石列「土留め」が見つかった。現存する例は少なく、市教委は共に見つかった西国街道の道路遺構とあわせ「貴重な史料になる」としている。29日午後1時半から現地説明会を開く。

 土留めは濠の北側で東西に約20メートル、西側で南北に約10メートル残っていた。濠に面して見つかった西国街道の道路遺構の脇に直径約30センチの石が列をなしている。

 道路遺構は幅約6メートルで、いずれも緩やかな傾斜がある。市教委生涯学習課は雨水が道路にたまらない工夫だったとみている。

 時元省二学芸員は「城郭の全体像や周辺の様子を知る上で貴重な発見」と話す。濠北側の門に続く石垣の一部も出土した。

 遺跡の復元などが目的の調査で、天主台跡の濠に面した約3300平方メートルを2年がかりで発掘する。説明会は無料。25日までに同課に申し込む。電話0848(64)2137。

【写真説明】濠に並行して石が連なる土留め。左側は西国街道の道路遺構

186荷主研究者:2011/11/13(日) 20:51:18

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/268704
2011年10月17日 00:49 西日本新聞
佐賀藩の石垣、台場を造営 四郎ケ島 長崎港 保全へ機運

四郎ケ島に残された大規模な石垣を視察する歴史愛好家たち

幕末に築かれた石垣の一部は崩落が進んでいる

 長崎市・長崎港の入り口に浮かぶ四郎ケ島。西欧列強の外圧が強まった幕末、佐賀藩は陸地から約230メートル沖にあるこの小島まで堤防を築き、有事に備えて大砲を据えた。現在も砲台跡や土台の石垣が残るが、長年の風雨で石垣の一部が崩れるなど風化が進んでいる。近代日本の夜明けを今に伝える貴重な史跡。国史跡指定と保全を求める動きが県境を越えて盛り上がりつつある。

 コンクリートの堤防を歩き、石垣で囲まれた四郎ケ島に入った。東西約220メートル、南北約120メートルの小さな島だが、うっそうと木々が生い茂り、昼も薄暗い。草木をかき分けて獣道を進むと再び海に出た。石垣の上から海を見下ろす。高さ10メートルほどあるようだ。

 9月17日、四郎ケ島の保存と活用を探るシンポジウムが長崎市であり、島の所有者の許可を得て、現地視察が行われた。

 引率役の1人、「幕末佐賀研究会」(佐賀市)の原田彰さん(64)が約4キロ沖の伊王島を指さした。「長崎湾の入り口で敵を挟み撃ちするため、四郎ケ島と伊王島に鉄製大砲を置いたんよ。実戦で使われることはなかったけど、列強には脅威だったにちがいない」

 島の内部には巨大な石垣を使った砲台跡などがあるが、樹木の密度が高く、立ち入ることは難しい。「佐賀藩の科学力や土木技術の高さを伝える素晴らしい史跡」と原田さんは語るが、保全の手はほとんど入っておらず、海辺の石垣には一部崩壊も確認された。

   ■   ■

 「先人たちの技術の結晶が危機的な状況にある」。視察の後、活水女子大学で開かれたシンポジウムで、佐賀大学の長野暹名誉教授(日本経済史)は史跡の現状を説明した。「石垣が一つ壊れると、連鎖して一気に崩れる可能性がある。早急な対策が必要」と訴えた。

 シンポは歴史遺産の保全活動などに取り組む佐賀、長崎両県の市民団体が主催。両県の歴史愛好家など約200人が詰め掛けた。保存を求める声は地元からも相次いだ。

 「よくぞここまで生き残ってくれた。一日も早く助けたい」「長崎にとっても大切な遺産。佐賀と協力し、保全へ働き掛けていきたい」

 長崎市は国史跡指定に向け、09年度から調査を開始。土地の所有者である地元町内会からも同意を得た。本年度内に報告書をまとめるという。しかし、保全の実現にはなお曲折がありそうだ。

   ■   ■

 修復・保全には、巨額の予算が必要となる。国指定史跡となれば、最大で国から50%の助成金を受けることができるが、県や市、さらには所有者の負担も生じてくる。シンポに集った「幕末佐賀研究会」など佐賀、長崎の市民団体が協力して、募金活動を展開する予定だが、長崎市の文化財審議会委員長を務める、活水女子大学の下川達彌教授(考古学)は「たとえ指定史跡を受けても、資金不足になれば、保全の規模が小さくなる可能性がある」と懸念する。

 近代化遺産の大半が失われた佐賀市と異なり、長崎には数多くの史跡が残っている。長崎近代化遺産研究会の宮川雅一会長(77)は「ほとんど知られていない四郎ケ島にいかにスポットを当てていくのか」と問題提起。下川教授は「佐賀と交流を深めながら、官民一体で遺構の魅力を広くアピールする戦略を探るべきだ」と提言している。

▼四郎ケ島台場

 長崎警備に当たっていた佐賀藩が1853(嘉永6)年に整備。150ポンド砲や80ポンド砲など14門の大砲が配備された。島には砲台跡や石垣が残っているが、北西の石垣は台風や大波の影響で崩壊が進んでいる。

=2011/10/17付 西日本新聞朝刊=

187荷主研究者:2011/11/23(水) 16:38:40

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/11/20111102t65008.htm
2011年11月02日水曜日 河北新報
城堀跡めぐり議論二分 相馬・新市民会館の建設予定地

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/20111101016jd.jpg
新市民会館の建設予定地にある相馬中村城の堀跡。自然石による石垣が確認できる=相馬市中村

 新しい市民会館が計画されている福島県相馬市で、建設予定地をめぐって議論が二分している。予定地に福島県史跡である相馬中村城の堀跡があるためだ。市は「復興のシンボルにしたい」と東日本大震災で中断した事業の再開を表明したが、市民からは保存を求める声も出ている。全市アンケートを行っている市は、計画通りに堀跡の上に建てる案と場所をずらして残す案を示し、結果を参考に最終決定する。

 新市民会館は、2009年に3回目の当選を果たした立谷秀清市長の公約。昨年5月、中村城東側に隣接する市有地に建設することが決まった。

 13年の完成を目指し本年度当初予算に建設費約4億6000万円を計上したが、震災で中断。9月議会で立谷市長が事業再開に意欲を示した。

 建設予定地は約1万5000平方メートル。カネボウ(現クラシエ)の工場跡地で、同社撤退後の99年に市が約8億円で購入した。2001年に調査した結果、南北に伸びる堀跡が確認された。

 長さ65メートル、幅7〜13メートル、深さ1.5メートルで、「東三の丸」を囲む堀の一部とみられる。石垣がはっきり確認できる場所もある。石垣の沈下を防ぐ「胴木」という木材なども見つかっている。

 建設検討委では「復興に向けすぐ着工すべきだ」「池として整備してはどうか」などとメンバーの意見が分かれ、市はアンケートを実施している。立谷市長は「拙速な結論は避けるべきだ。アンケートの結果を十分に検討したい」と話す。

 県史跡の指定地からは外れており、保存するかどうかは市の判断に任せられている。また、東隣には歴史収蔵館の建設も予定されている。堀跡を残すためには新市民会館を東側にずらす必要があるが、「収蔵館との間のスペースが減り、駐車場などに影響が出る」(市関係者)という。

 堀跡の保存を求める市文化財保護審議委員の岡田清一東北福祉大教授(東北中世史)は、「中村城は国史跡に指定されても遜色ない内容。その関連遺構なら、残して国史跡の指定に備えるべきだ」と指摘する。

 岡田教授はさらに「他県では、被災した文化財が国によって救済される例もある。市は保存へ向け早く対策を考えるべきだ」と求めている。

[相馬中村城]1611年、相馬家17代当主・利胤(としたね)が、伊達家の侵攻に備えて小高(現南相馬市小高区)にあった居城から移った。廃城後は公園として整備され、県史跡になっている。東日本大震災で一部被災したが、現在も大手門や堀が残っている。公園内の相馬中村神社は相馬野馬追の祭場地として知られる。

188荷主研究者:2011/11/23(水) 17:32:13

http://www.at-s.com/news/detail/100073780.html
2011年11/3 08:09 静岡新聞
名称「駿府城公園」へ 静岡市、来年度変更目指す

 静岡市は、来年4月から葵区の「駿府公園」の名称を「駿府城公園」に変更する方針を固めた。4日から市民意見の募集を行った上で、市議会2月定例会に関連議案の提出を目指す。名称変更は田辺信宏市長がマニフェスト(公約集)に掲げた政策の一つ。

 駿府公園は面積約18ヘクタールで、中心市街地にある公園として親しまれている。1949年に「中央公園」として利用を開始。51年に市民アンケートの結果、駿府公園の名前が付いた。公園は徳川家康公が築城した駿府城の本丸や二の丸部分に当たり、城の中心的役割を果たした場所だったという。

 名称変更は、城郭のイメージを出すことで市民に駿府城跡としての意識を深めてもらい、駿府城の歴史的価値を全国に発信する狙いもある。田辺市長は公園を「歴史文化の拠点」と位置付け、マニフェストの工程表でも来年度から名称変更する方針を示していた。

 都市局は「歴史を感じさせる公園を目指した再整備も進めている。市民が駿府公園が持つ価値をさらに理解する機会にしていきたい」としている。駿府公園では、天守閣再建にさまざまな意見があり、名称変更を機に再建議論の活発化も予想される。

 意見募集は12月5日まで。駿府城公園への名称変更理由などについての資料は市ホームページや各区役所などで見ることができる。意見は郵送やファクス、持参、メールで受け付ける。

 問い合わせは市緑地政策課<電054(221)1432>へ。

189荷主研究者:2011/12/11(日) 13:35:22

http://www.chunichi.co.jp/article/fukui/20111112/CK2011111202000130.html
2011年11月12日 中日新聞
福井城巽櫓、国体までに再建を 市長に3項目要望

「ぜひ福井国体までに巽櫓復元を」と切望する吉田会長(左)と栗田名誉会長(中)=福井市役所で

 福井城巽櫓(たつみやぐら)の再建を訴える「福井城の復元をすすめる会」の栗田幸雄名誉会長、吉田純一会長らが11日、福井市役所を訪れて東村新一市長に要望書を手渡し、「2018年開催の福井国体までに実現を」と求めた。

 巽櫓は、現在県庁が立つ福井城本丸跡の東南隅にあり、1669年に天守閣が焼失した後は、明治初期に取り壊されるまでは城のシンボルだった。櫓とはいえ重要文化財・丸岡城(坂井市丸岡町)の天守よりも大きく、屋根にはしゃちほこも載っていたという。

 要望事項は、福井国体の開催までに巽櫓を再建する▽今後のまちづくりにおいて、福井城の旧本丸ならびに旧西二の丸・三の丸(現中央公園)の一画の再編整備に取り組む▽事業は市が主導し、県の協力を得ながら進める−の3項目から成る。

 栗田名誉会長と吉田会長は「県都のデザイン戦略も進む中、“福井の顔”をつくるために、藩主の御座所があった中央公園から本丸跡までを一体化して城跡公園を整備するべきであり、巽櫓はその第一歩だ」と強調した。

 東村市長は「国体までに整備するのはきつい。巽櫓再建となると、県庁移転も視野に入れることになり、今後考え方を整理しなければならない」と述べるにとどまった。

 (林朋実)

190荷主研究者:2011/12/11(日) 14:40:48

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/K20111116301.htm
2011年11月16日03時10分 北國新聞
次は鼠多門・橋 金沢城復元で谷本知事

 金沢経済同友会と谷本正憲石川県知事の意見交換会は15日、金沢市のANAクラウンプラザホテル金沢で開かれ、谷本知事は金沢城の復元整備について、橋爪門、玉泉院丸跡地に続き、玉泉院丸跡と尾山神社を結ぶ鼠多門(ねずみたもん)橋、鼠多門が次の復元対象になるとの考えを明らかにした。また、原子力災害時の指令拠点となる志賀原発のオフサイトセンターについて、国が原発から30キロ圏外に置くよう指定した場合、「北陸電力石川支店もある金沢に置くのが有力な選択肢ではないか」との見解を示した。

 意見交換会には会員50人が出席し、飛田秀一代表幹事があいさつした後、意見交換に移った。

 意見交換会の後、記者会見した福光松太郎副代表幹事らによると、金沢城の復元整備について、村浜肇専務理事の質問に対し、谷本知事は橋爪門や玉泉院丸跡地に続き、鼠多門橋、鼠多門が復元されれば、「武家屋敷から尾山神社を通って玉泉院丸跡、二の丸、三の丸、石川門、兼六園という回遊ルートができる」と述べた。

 復元整備計画に、歴代藩主が政務を執った二の丸御殿を盛り込む考えを問われたのに対し、知事は「二の丸御殿は規模が大きいので、復元の最後の仕上げという認識だ」と応じた。

 玉泉院丸跡の整備では、「露地役所」があった場所に、茶室にも使える和室、靴のまま入ることができる休憩室、案内スペースを備えた施設を設けると述べた。施設からは庭園(泉水・中島)や多彩な石垣が眺められる。廃止する県営丸の内駐車場は、以前は堀であったことが分かる形で園地として整備する方針が示された。米沢寛副代表幹事が尋ねた。

 福光副代表幹事は、志賀原発のオフサイトセンターの在り方や、来年7月に施行される再生可能エネルギー特別措置法をにらんだ県庁内の態勢について質問した。知事は、企画振興部内に再生エネルギー推進の施策を検討する組織を来年度に新設する意向を示した。

 清水義博理事の質問に対し、知事は、県中央公園をイベント利用に特化した広場として再整備する考えを明らかにした。また、県庁跡地の広坂庁舎は来年夏までに取り壊し、2013年に地下駐車場として供用する。庁舎跡の地上部分は、しいのき迎賓館横の駐車場を含め、芝生公園として整備する。

 半田隆彦理事は、北陸新幹線金沢開業に向けたPR戦略を尋ねた。知事は、新幹線開業PR戦略企画検討会(仮称)を12月に開き、効果的なPR戦略を来年度の実行委員会に引き継ぐと説明。その上で、開業PRを担当する専任組織を観光交流局内に設ける意向を明らかにした。

 高澤基理事は、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)に「金沢市卯辰山麓」「加賀市加賀東谷」の2カ所が新たに決まり、県内の選定数が京都の7カ所に次ぐ6カ所になることを挙げ、全国発信の重要性を指摘した。知事は「ふるさと街並み遺産」など分かりやすいネーミングも大事だとし、関係各市や地元とアピール方法を協議したいと述べた。

 村上紀夫副代表幹事が閉会あいさつをした。

191荷主研究者:2011/12/11(日) 14:44:05

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/E20111117002.htm
2011年11月17日16時10分 北國新聞
金沢城 復元へ成果続々 橋爪門、玉泉院丸跡

 石川県が発掘調査を進める金沢城の橋爪門と玉泉院丸跡で17日、報道関係者向けの現地説明会が開かれた。県金沢城調査研究所は玉泉院丸跡の「色紙短(しきしたん)冊(ざ く)積(づ)み石垣」の下の滝つぼに水が落ちていたと指摘。橋爪門では柱の痕跡や柱を立てる礎石の根固めを確認した。金沢城公園の魅力を高める復元整備に向けて大きな成果 となった。

 橋爪門の二ノ門の復元に向けた遺構調査では、旧陸軍や金大時代の改変で遺構が大きく失われていたが、柱の礎石の根固めや、地下を通る石組みの排水溝、ますが発掘された。 現存する石垣には柱の位置を示すのみ跡や敷石も確認できた。

 柱の位置が確認できたことで、藩政期に2度再建された橋爪門は、宝暦年間の二ノ門が最も大きく、文化年間の二ノ門はそれより小さかったことが判明した。

 玉泉院丸跡は復元の検討のため発掘している。正方形(色紙型)と長方形(短冊型)の石を組み合わせた「色紙短冊積み石垣」は、上部に配されたV字型の石樋(いしどい)の 下に、落水によって掘られたとみられる滝つぼを確認。県金沢城調査研究所は石樋から水が落ちていたと解釈している。

 滝つぼには庭園を飾る石が見つかり、そこから水を流す地下水路があった。地下水路の先には昨年度に段々の滝が発掘されており、そこから池に流れ込んだとみられる。園路に 敷かれた飛び石も確認でき、さまざまな滝を配した景趣が造られたとみられる。

 県は19日午前10時半から玉泉院丸跡や石垣群を解説するガイドツアーを開く。定員は40人で、同10時から県金沢城・兼六園管理事務所前で受け付ける。

 同日午後1時半からは橋爪門と玉泉院丸跡の発掘調査の現場を公開し、担当者が説明する。希望者は二の丸案内所前に集合する。

192荷主研究者:2011/12/11(日) 15:22:52
>>191
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/20111118/CK2011111802000164.html
2011年11月18日 中日新聞
金沢城公園埋文調査 橋爪門 3段階で変化

礎石の位置などから江戸時代に3段階で変化したことが判明した橋爪門二ノ門の遺構

玉泉院丸跡 石垣から水流出か

復元へ多くの手掛かり

 県と県金沢城調査研究所は十七日、金沢市の金沢城公園で埋蔵文化財調査の本年度成果を報道陣に説明した。復元整備を行う橋爪門は、礎石の位置の変化などから江戸時代に門の大きさが改築によって三段階で変わったことが判明。今後の復元計画の参考にするため遺構の全容を調べている玉泉院丸跡では、石垣上部から水が滝として流れ込んでいた可能性が高いことも分かり、全体構造を解明する多くの手掛かりが得られた。(室木泰彦)

 橋爪門は二ノ丸の正門で、通行制限が特に厳しかったという石川門、河北門と合わせ「三御門」と呼ばれる。一八八一(明治十四)年に焼失。県は二〇一四年度末までに整備する前に、一〇年度から調査をしている。

 本年度の調査で、橋爪門の二ノ門が江戸時代に二回火災で焼失した後、改築のたびに大きさが変わっていたことを確認。ただ中央と背面の二本の大きな柱の間隔は約三・六メートルのまま変わっていないという。原因は不明。県などは、門の大きさが二回変わりながら、大きな柱二本の間隔と寸法が変わっていない理由を今後究明する。

石垣を利用した滝の水が流れ落ちていたとみられることが新たに判明した玉泉院丸跡=いずれも金沢城公園で

 一方玉泉院丸跡では、一〇年度の調査で庭園内の斜面に三〜四段の連続する滝状の流れがあったことを確認。本年度は、その水がどこから流れ込んだか調べるため、斜面のさらに上部の石垣周辺を調査した。

 その結果、石垣上部には水の流出口とみられるV字型の石でできた流路が口を開けていたが、このまっすぐ下の地面に水を受けるための平らな石が敷かれていたほか、水圧によるとみられるへこみが確認できた。このため、実際に流出口から水が滝となって落ちていた可能性が高いことが判明した。

 さらに、へこみの近くに暗渠(あんきょ)とみられる水の流入口が確認できたため、滝から流れ落ちた水が、この暗渠を通って三〜四段の連続する滝まで流れた可能性も高まった。

 今回初めて園内の散策路とみられる一部も発見。県などは散策路の配置など、庭園の構造解明につなげたい考えだ。十九日午後一時半から一般対象の現地説明会が開かれる。問い合わせは同研究所=電076(223)9696=へ。

193荷主研究者:2011/12/11(日) 15:29:28

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004628204.shtml
2011/11/19 08:00 神戸新聞
姫路城大天守に幻の窓 「大修理」で8カ所発見

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/b_04628205.jpg
築城当初の計画を再現したイメージ写真(左上)と現在の大天守(提供写真を合成)

 姫路市は18日、「平成の大修理」中の世界文化遺産・国宝姫路城の大天守最上層で、四隅の壁の中から窓のかもいと敷居が新たに8カ所見つかったと発表した。最上層の全周が窓で囲まれる構造となり、市は「410年前の築城当初は、死角を作らず360度城下町を見渡す構想があったようだ」としている。計画は途中で変更され、完成時は塗り込められて壁になったとみられるが、大パノラマを展望する計画がなぜ変わったのかは謎だ。(田中陽一)

 現在の最上層は南北に各5カ所、東西に各3カ所の引き違いの窓(縦150センチ、横160センチ)が配置され、四隅は壁になっている。

 「平成の大修理」で土壁や板壁をはがしたところ、四隅の壁8面からそれぞれ横幅160センチの敷居とかもいが見つかった。溝の幅や深さが他の窓と同じで、部材も古いことから、築城時に設けられたと判断した。

 現在の姫路城は、西国守備を任された池田輝政が1601〜1609年にかけて築いた。築城着手の前年には「天下分け目」といわれた関ケ原の戦いが終わったが、不安定な情勢は続いていた。市の担当者は「防衛のために全方位が見えるようにした」と推測する一方、「来客に360度の眺望を見せ、力を示そうとする意図もあったのでは」とみる。

 築城のどの段階で、なぜ計画が変わったのかは不明だ。大天守には8万枚もの瓦が使用され、屋根は相当の重量になる。

 「柱だけで支えるには無理があると分かり、耐力壁を設けた可能性がある」とするのは、江戸期の建築に詳しい平井聖・昭和女子大特任教授(82)。実際、新たに敷居とかもいが見つかった壁には厚さ5〜6センチもの頑丈な板壁がくさびでがっちりと固められ、強度を高めていたという。

 姫路城大天守保存修理検討会会長の多淵敏樹・神戸大名誉教授(78)は「いまだに新しい謎や資料を提示してくれる姫路城は、日本の城郭建築にとって貴重な研究対象だ」と話している。

194荷主研究者:2011/12/11(日) 15:30:18

http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0004628190.shtml
2011/11/19 08:40 神戸新聞
姫路城石垣など特別史跡に追加指定 文化審議会が答申

特別史跡に追加指定された姫路城跡南東部の石垣(県教委提供)

 国の文化審議会は18日、姫路市の特別史跡「姫路城跡」に、これまでの発掘調査で見つかった堀の石垣と、城門だった石垣のある計2地区を追加指定することを文部科学大臣に答申した。

 姫路城跡は1956年に特別史跡となった。本丸などの内曲輪や、上級家臣の居住地だった中曲輪のほぼ全域が指定されている。天守閣などの建造物は51年に国宝になり、93年には世界遺産に登録された。

 今回、特別史跡に追加されるのは、城跡南東部に位置する2地区、計約380平方メートル。1カ所は、2008年の発掘調査で見つかった中堀の石垣。現在は埋め戻され、マンションの敷地になっている。もう1カ所は中曲輪の城門「総社門」の一部で、石垣が市有地に残っている。

 県教育委員会文化財室は「いずれも姫路城の防御構造を把握する上で重要」と評価している。(本田純一)

195荷主研究者:2011/12/30(金) 20:52:06

http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201111230013.html
'11/11/23 中国新聞
松江城の耐震調査が始まる

 松江市は、国重要文化財の松江城天守閣の耐震調査に着手した。当初は4月からの予定だったが、東日本大震災の影響で財源とする文化庁からの補助額決定が遅れ、約8カ月ずれ込んだ。調査結果を基に、今後の保存活用策計画をまとめる。

 調査は文化財建造物保存技術協会に業務委託し、21日から12月17日まで実施する。天守閣を支える柱の材質や構造などを詳細に調べるほか、建物に使われている木材の痛み具合などをチェック。床の傾きに加え、天守閣周辺でボーリング調査も行い、地盤の固さや石垣のゆがみも確認する。

 市は調査を受けて、城の修理や災害対策、展示活用策を盛り込んだ保存活用計画をまとめる。来年3月までに専門家でつくる計画策定委員会を設置し、2013年度末までに策定する。一連の関連事業費を約5900万円と見込み、半額は国の補助金を充てる。

 松江城は1611年の築城。地下1階地上5階建て。1935年に国宝保存法で国宝指定されたが、50年の文化財保護法の施行で、重要文化財となった。松江市は「安土城の伝統様式を受け継ぐ唯一の正統天守閣」とし、国宝化に向けた活動に力を入れている。

【写真説明】松江市が保存活用に向けた調査を進める松江城

196荷主研究者:2011/12/30(金) 22:19:39
>>192
http://www.chunichi.co.jp/article/ishikawa/toku/genba/CK2011120402000170.html
2011年12月4日 中日新聞
城内庭園 憩いの場に 解明進む 金沢城玉泉院丸跡

本年度の発掘調査で石垣上部から落差9メートルの滝が流れ落ちていたことが分かった

滝つぼ、園路など確認

 金沢市の金沢城公園西側にある玉泉院丸跡で、二〇一一年度の発掘調査によって、石垣から落差約九メートルの滝があったことが判明した。その下に三段ほどの連続した滝状の流れがあったことも分かっており、高低差二十二メートルの立体的な庭園にあった流水の姿が明らかになりつつある。調査結果を踏まえ県は、一四年度の北陸新幹線金沢開業までに庭園跡をながめることができる休憩室などを設け魅力を発信する。(室木泰彦)

 ◇良好な状態

 玉泉院丸は、一六一四(慶長十九)年に二代藩主前田利長が高岡で亡くなり、金沢へ戻った妻の玉泉院(永姫)の屋敷が置かれ名が付いた。その後、城内に辰巳用水が引かれ、三代藩主利常が京都から庭師を招き池などがある庭園を築いた。その後も改修が繰り返され、明治時代に軍用施設として使われた時に荒れ果て、戦後は〇八年まで県体育館が立っていた。

 県は、庭園の遺構を確認し今後の保存や整備方針を定める資料を得ようと、〇八年度から埋蔵文化財調査を実施。一〇年度までに庭園の池の中島や出島、護岸の石垣、池に流れ込んだ三〜四段ほどの滝状の流れを裏付ける石を組んだ跡などを確認した。絵図などと照らし合わせ、最終段階の庭園の遺構が良好な状態で残っていることも分かった。

高低差22メートルの立体的な庭園に滝から水が流れ込んだ構造の解明が進む玉泉院丸跡。右手奥が広坂合同庁舎=いずれも金沢城公園で

 ◇手掛かり豊富

 本年度調査は、三段ほどの滝の上部の石垣付近を中心に発掘。石の構成が特徴的な高さ約十メートルの「色紙短冊積石垣」で、上部にあるV字状の水路口「石樋」の約九メートル真下に滝つぼがあるのを確認した。水が落ちたとされる付近は玉石が敷き詰められ、高さ約二メートルの板状の大きな石を中心に大小の石が組み合わされて配置されていた。石の敷面は水で洗われ、かなりの勢いで水が落ちたことを裏付けるへこみも見つかった。

 滝つぼ付近から下方へ水が流れた可能性を示す排水口のような跡も見つかり、庭園の景色を構成した重要な斜面に大小二つの滝があったことが解明された。斜面の下方の石は体育館建設の際などに抜き取られたようで詳細は不明ながら、抜き取った跡が分かるため構造を探る手掛かりは多い。また、本年度は庭園の園路の一部を初確認。今後も園路が見つかれば、庭園全体の構造がさらに詳しく解明できるという。

県、休憩室や案内所整備へ

 ◇新幹線開業控え

 成果を生かすため、県は一四年度新幹線開業までに跡地の一部に庭園の魅力を紹介する休憩施設を設け、暫定供用する基本設計を進める。庭園跡と石垣を一望できる場所に、靴のまま入れる休憩室と茶室機能を備えた和風建物を設置。香林坊など繁華街からの玄関口となるため案内所も整備する。

 休憩室では庭園の歴史や特徴を紹介、和風建物は兼六園の時雨亭のように庭園の雰囲気を味わいながらお茶を楽しめる空間を演出する。ゲストハウスや観月会など季節に合わせた文化行事開催などの活用も想定。谷本正憲知事は二日の県議会で「都心のにぎわい創出のため重要な場所。城内の庭園という歴史的、文化的空間の魅力を高めたい」と述べた。

 後記

 玉泉院丸跡は、尾山神社や県中央公園、しいのき迎賓館から歩いて数分。整備が進めば石川門などと並び金沢城公園の“顔”となる場所にある。現地で石垣から滝が落ちた場所を確認しながら、当時は一体どんな美しい光景だったのかと思いをはせた。今後の調査で、そんな庭園の忠実な再現につながる資料が出るのを期待する。

 一方、県は本年度当初予算で、玉泉院丸跡を含め金沢城公園整備に約4億5490万円を計上。多額の税金が投入されている。調査結果がきちんと県民に還元されていくかも注視したい。

197荷主研究者:2012/01/02(月) 02:02:35

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/273838
2011年11月18日 00:43 西日本新聞
志布志城跡に朝鮮古銭

志布志城跡から出土した「朝鮮通宝」。4文字が上、下、右、左の順番に並んでいる

 鹿児島県志布志市志布志町帖(ちょう)の国指定史跡「志布志城跡」で、15世紀の朝鮮半島を支配した李王朝の銅銭「朝鮮通宝」1枚が出土した。過去に琉球王国の銅銭も出土しており、市教委は「アジアに開かれた港町として発展した志布志の歴史を反映する史料」と評価している。

 志布志城跡は、志布志湾に注ぐ前川の河口付近にあり、シラス台地の高低差を生かして空堀を巡らせるなどした四つの山城で構成している。14世紀には既に城があったとされ、戦国時代には肝付氏や島津氏が支配した。

 朝鮮通宝は李氏朝鮮時代に鋳造され、直径2・4センチ、厚さ1・5ミリ、重さ4グラム。市教委は2006年から4城の中心の「内城(うちじょう)」を発掘し、今年10月17日、敷地北側で朝鮮通宝を見つけた。現場は盛り土された平地で、造成時期などの詳細は不明という。

 当時の日本では外国の貨幣も広範に輸入されて流通しており、出土自体は珍しくないが、志布志城跡では15世紀の琉球王国の銅銭「大世(たいせ)通宝」やタイ製の陶磁器の破片も出土しており、東南アジアとの交流ぶりをうかがわせる。

 市教委埋蔵文化財係の大窪祥晃さん(36)は「志布志城は南九州で最大規模の中世山城。その後の城に比べて外見が分かりにくく、地元の人にもよく知られていないが、これを機会にもっと知ってもらえれば」と話している。

=2011/11/18付 西日本新聞朝刊=

198荷主研究者:2012/01/31(火) 23:34:32

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2012011209515111/
2012/1/12 9:51 山陽新聞
津山城宮川門跡、修復工事進む 石垣解体、積み直し 3月上旬終了予定

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/2012011209515111-1.jpg
修復が進む津山城宮川門跡の石垣

 津山市教委は、崩落の危険性が高まっていた国史跡・津山城跡(鶴山公園、同市山下)の宮川門跡にある石垣の修復工事を進めている。石垣をいったん解体し積み直しており、3月上旬には作業が終わる予定。

 津山城は初代津山藩主森忠政(1570〜1634年)が築城し、1616年に完成。城の周囲には堀がめぐらされ、南東部にあった宮川門を含め六つの門が設置されていた。現在、堀はなく、門に接していた石垣の一部が残る宮川門と京橋門の位置は確認されている。宮川門跡の石垣は、数年前から外側にせり出し、崩落の危険性があった。

 修復が進められている石垣は長さ約25メートル、高さ約4メートル。40〜60センチ四方の石が約270個使われ、大きいものでは1個800〜900キロという。

 昨年10月から石に一つずつ番号を付け、石垣を写真撮影して解体。11月中旬から写真を参考にしながらクレーンを使って元の位置に積み直す作業を進めている。

199荷主研究者:2012/02/16(木) 00:04:11

http://www.chunichi.co.jp/article/toyama/20120113/CK2012011302000163.html
2012年1月13日 中日新聞
富山城 規模より広く 絵図位置10メートル外側 内堀跡を確認

発見された富山城西側の内堀跡(点線内)=富山市丸の内で

市埋文センター調査

 富山城の西側(富山市丸の内の市立図書館南側)で発掘調査をしていた市埋蔵文化財センターは、現場で江戸時代に造られた内堀跡を新たに確認した。絵図などで推定された位置より十メートルほど外側で、城の規模がもう少し広かったと考えられる。一般説明会は十三日午後一時半から発掘現場で開かれる。(山田晃史)

 センターが十二日開いた報道機関向け説明によると、内堀は敵の侵入を防ぐため城周囲にめぐらされた溝で、今回見つかったのは北西の角の部分。城の南側にある現存する堀とつながっていたが、戦後に埋められた。

 地表から六メートル下で、人工的に整えられた地質を発見。底が平面になっている「箱堀」という構造で、一六六一(寛文元)年に初代藩主の前田利次が改修したとみられる。今回の発見で、富山城の正確な配置や規模の解明が進みそうだ。

 調査は、雨水貯留施設を地下に造る工事に伴って昨年十二月十五日から開始。堀の跡は工事を進めるために再び埋める。一般説明会は参加無料で、問い合わせは同センター=電076(442)4246=へ。

200荷主研究者:2012/02/19(日) 01:12:17

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20120119/CK2012011902000111.html
2012年1月19日 中日新聞
堀の形状など調査へ 松坂城跡、再度発掘

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2012011902100055_size0.jpg
前回の調査で、堀跡の存在が確認された原田二郎旧宅の庭園=2011年10月21日、松阪市殿町で

 松阪市教育委員会は、市指定文化財「原田二郎旧宅」(同市殿町)の庭園で来週にも、再度発掘調査を始める。前回の調査では、国史跡・松坂城跡の堀が定説よりも城下町側にある可能性が指摘されており、今回の調査で、その部分の堀の形状など実態を明らかにする。

 調査は、庭園内の石敷きを残し、昨年8〜9月の調査で掘った場所を拡幅、延長して実施する。市文化財センターによると、松坂城の堀の護岸は、一部が石垣や素掘りと分かっているが、全容はつかめていない。今回の調査で、護岸の様子や堀の深さなどを調べたい考えだ。

 前回調査で、隣地との境界線を探る目的で庭園を掘ったところ、深く落ち込む場所を発見。ほか2カ所でも同様に深く掘られた跡が見つかり、城の堀跡と推定されるが、水が湧き出るなどして、底に達するまで掘れなかった。

 堀は明治以降に徐々に埋め立てられたとされる。発掘により城下町の暮らしで使われた生活用品やおもちゃなどが見つかるとも期待される。

 新たな堀跡は、江戸時代に徳川家光が全国の大名にまとめさせた「正保(しょうほう)城絵図」や明治初期の地籍図に書かれた堀の位置とは異なり、松坂城の堀の形が変わる可能性を秘めている。 (戸川祐馬)

201荷主研究者:2012/02/26(日) 17:08:21

http://news.kanaloco.jp/localnews/article/1201260038/
2012年1月27日 神奈川新聞
小田原城で謎の堀見つかる、場内の「縄張り」解明する手掛かりか/小田原

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/25_232139.jpg
見つかった北条時代の「障子堀」=小田原市栄町1丁目

 小田原市は26日、同市栄町1丁目の小田原城三の丸跡で戦国時代と江戸時代の堀が見つかったと発表した。いずれも城絵図に記載がない“謎の堀”。同市文化財課は「城内の『縄張り(配置)』を解明する貴重な手掛かりになる」と話している。

 二つの堀は、昨年11月から始まったマンション建設に伴う遺跡調査で相次いで発見された。現場は三の丸北側の出入り口だった幸田口門の手前。城の防御を固めるために造られた。

 1号堀と名付けた堀は、16世紀末から17世紀前半の江戸時代に構築されたと推定されている。堀に沿って玉石積みの石垣が一部残されていた。南北方向に延びており、過去の調査から堀の幅は約20メートルの比較的大きなものとみられる。

 一方、2号堀は東西方向に延びている。1号堀によって壊された場所があり、それ以前に造られたことが分かる。上から見ると、田のあぜ道のように十字に仕切られた構造が特徴の「障子堀」の可能性が高い。

 障子堀は北条氏が多用した築城技術。隣接する八幡山古郭西曲(くる)輪(わ)西堀跡に次いで2例目の発見になる。この堀は幅が最大約23メートル、深さ約7メートル。中世の小田原城では最大規模とされる。

 2号堀は幅約7メートル、深さ約2・5メートル。全体像は今回の調査では判明していないが、1例目よりひと回り小さそうだ。底部で出土した土器「かわらけ」の分析で、1570〜80年代の構築と推定される。

 年代の異なる堀は二の丸蓮池に沿って発見された。しかし、当時の「相州小田原古絵図」(加藤図)に描かれていない。幸田口門を守る堀の変遷を調べる貴重な資料になるという。

 交差するように見つかった堀について、調査担当者は「北条氏から大久保氏に城主が代わり、形状を変更した。地震で壊れて復旧する際に一度埋めて違う場所にしたことなどが考えられる」と話している。

 民間が実施している今回の調査は27日に終了、堀はその後埋め戻される予定。

202荷主研究者:2012/03/04(日) 13:14:52

http://www.chunichi.co.jp/article/mie/20120201/CK2012020102000118.html
2012年2月1日 中日新聞
松坂城の空堀確認 「原田二郎旧宅」の庭園

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/PK2012020102100058_size0.jpg
空堀と確認された発掘場所。手前の護岸から、奥の民家までの測量値が江戸時代の文献にある堀の幅とほぼ一致した=松阪市殿町で

 松阪市教育委員会は31日、市指定文化財「原田二郎旧宅」(同市殿町)の庭園に、松坂城の空堀が存在したとする調査結果を発表した。この部分を含む170メートルの区間で、堀の位置が定説より東側に8・5メートルずれると推定され、城南東部の「搦手(からめて)口」の構造が変わる可能性が出てきた。

 発掘調査は8〜9月に続いて2回目。前回の調査で見つかった堀の端から神道(じんどう)川に向かって2カ所で幅2メートル、長さ7・5〜8メートルを掘った。市文化財センターによると、深さ2・1メートルまで掘り進め、堀の護岸から、神道川対岸の周囲より少し高くなった民家までを測量すると18メートルだった。1647年ごろに作成された「勢州飯高郡ノ内松坂城町絵図下帳」にある堀幅(16・2メートル)や深さの記述とほぼ一致。今回の発掘結果が、江戸時代の文献で裏付けられことになる。

 空堀は明治時代以降、3時期に分けて埋め立てられたと考えられており、周囲よりも土地が低い。隣接地も空堀の延長線上は低くなっていることから、同センターの木之本和之主幹(51)は「堀の位置が定説とずれていたのは間違いない」と指摘。「松坂城跡が国史跡となって研究を進める中で、有益なデータが得られた」と話した。

 (戸川祐馬)

203荷主研究者:2012/03/04(日) 13:16:07

http://www.chunichi.co.jp/article/shizuoka/20120204/CK2012020402000131.html
2012年2月4日 中日新聞
浜松城天守閣に16万3500人 昨年入場者数が過去最高を記録

浜松城天守閣で、熱心に見学する来訪者ら=浜松市中区元城町で

家康に関心「若者のファン増えた」

 徳川家康の居城で知られる浜松城天守閣(浜松市中区元城町)の2011年(1〜12月)の入場者数は約16万3500人で過去最高になった。浜松モザイカルチャー世界博、国民文化祭・しずおか2009という二大イベントの恩恵を受けた09年の約14万3200人が最高だったが、大きく上回った。市などの関係者は「戦国武将ブームは一過性ではなく本物。天下人家康への関心はますます高まってきた」と分析する。(飯田時生)

 浜松城は1958年に市民の寄付金で、旧天守台の上に天守閣が再建された。年間入場者数は一時5万人台にまで落ちたが、指定管理者移行などを機に盛り返し、2006年は約9万5000人、天守閣再建50年目の08年は約11万2000人に達し、増加傾向が続いている。

 来訪者の案内にあたる浜松観光ボランティアガイドの会員は「とりわけ若者の姿が増え、熱心に見学してくれる。夢が持ちにくい現代だから、混沌(こんとん)とした戦国の世に天下をとった家康をもっと知りたい気持ちがあるのではないか」と話す。

 11年は、浜松生まれの徳川二代将軍秀忠が重要な役割を担ったNHK大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」の放映も追い風になったとの指摘も出ている。

204荷主研究者:2012/03/31(土) 18:25:23

http://www.chunichi.co.jp/article/shiga/20120206/CK2012020602000109.html
2012年2月6日 中日新聞
石田三成の居城“再現” 彦根商議所青年部

石田三成の居城・佐和山城をイメージした「佐和山一夜城石造」=彦根市古沢町の佐和山会館で

 戦国武将・石田三成の居城だった佐和山城をイメージした石造「佐和山一夜城石造」が、佐和山の麓にある彦根市古沢町の佐和山会館に建立され5日、披露式があった。

 佐和山城は関ケ原の合戦(1600年)後、初代彦根藩主の井伊直政が入城。没後、廃城となった。城跡には本丸を囲む土塁跡など遺構が残るが、県外から訪れた歴史好きの観光客らから「建造物がなく、写真を撮る場所がない」との不満が度々、聞かれるという。

 そんな中、佐和山城跡で、巨大なベニヤ板に佐和山城を描くイベントをかつて開いた彦根商工会議所青年部が立ち上がった。彦根城とともに新たな観光名所になればと、1年半前、市内の田中家石材に建立を依頼した。

 石造は高さ2・5メートル。1・7メートル四方の土台となる石垣の上に5層の天守を備えた。黒御影石や白御影石を材料に、西明寺に残る古絵図などを参考に仕上げた。石造の設立の経緯などを記した石碑も建てるという。

 式には、青年部の川地将人会長(41)や、同会館を管理する地元の城北東部美郷会の来本作治代表(77)ら約40人が出席。訪れた三成ファンらが早速、石造を前に、記念撮影を楽しんでいた。 (古根村進然)

205荷主研究者:2012/03/31(土) 19:09:33

http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20120215103.htm
2012年2月15日03時55分 北國新聞
金沢城鶴丸倉庫、行楽期に特別公開 石川県、観覧機会増やし魅力発信

ttp://tohazugatali.web.fc2.com/jimbun/H20120215103.jpg
新年度から行楽期に特別公開される鶴丸倉庫=金沢城公園

 国重要文化財の金沢城土蔵(鶴丸倉庫)が新年度、行楽期に特別公開される。園内の歴史遺産を観覧できる機会を増やし、多くの観光客に歴史、文化的価値に理解を深めてもらう。金沢城を紹介するホームページに中国、韓国語版も加えて海外客の利便性を図る方針で、城の魅力を発信し、国内外からの誘客促進につなげる。

 鶴丸倉庫は、1848(嘉永元)年に建てられた土蔵で、武具の蔵として使用された。延べ床面積は636平方メートルで、城郭内に残る土蔵としては全国でも最大規模とされ、2008(平成20)年6月に国重要文化財に指定された。

 これまで内部を観覧できるのはイベントなどに限られていたが、県は金沢城公園の利活用策としてゴールデンウイークや旧盆期、文化の日などの行楽期に公開することにした。

 金沢城公園では、県が河北門の復元を機に2010(平成22)年度から国重文の「石川門」と「三十間長屋」の定期公開を始めた。今年度は冬季(12〜2月)を除く土、祝祭日の年間103日に公開日を拡大しており、県は行楽期に鶴丸倉庫を特別公開することで入園者のさらなる増加を見込む。

 さらに県は金沢城を紹介するHPも充実させ、日本語や英語版に加えて中国語や韓国語版も新たに作成し、台湾や中国、韓国からの観光客に金沢城の魅力を発信する。

 県は「北陸新幹線金沢開業を前に金沢城の魅力を高め、誘客につなげたい」(公園緑地課)としている。

206荷主研究者:2012/03/31(土) 19:29:48

http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/region/news/20120218/723686
2012年2月18日 下野新聞 朝刊
新たに石列と石組を発見 唐沢山城跡の遺構調査

 【佐野】2013年度内の唐沢山城の国指定史跡化に向けて調査を進める市教委は25日、本年度の発掘成果を公開する現場説明会を開く。前年に続き、城主の下屋敷があったと考えられる「御台所」(約90メートル×約45メートル)の発掘に重点が置かれ、縁辺部で新たに石列や石組みが確認された。市教委は「今後の調査に期待が持てる発見」と評価している。

 唐沢山城は戦国時代に築かれたとされる山城。市は史跡化を目指して、08年から5カ年事業で調査しており、13年7月に国へ申請する方針を固めている。12年度は報告書作成などが中心となるため、本格的な遺構調査は本年度が最後だという。

 17日には報道陣に現場が公開された。本年度は御台所の北東で30メートル以上の石列が見つかり、下層を調べると、1辺20〜30センチの四角い平石が4個見つかった。上面は平らで、市教委は「庭園の足場に使われた飛び石の可能性もある」と説明する。

 北西部の下層では、約2・3メートルの等間隔に並ぶ石組みを確認。斜面の縁に沿う形であることから、塀などの名残とも考えられるという。御台所の周りの堀と土塁に関しては、山際まで約300メートルにわたって広がっていることが判明し「御台所の重要性をさらに裏付ける結果となった」

 説明会は田沼高東側で25日午後1時30分から。同日午前10時からは文化会館小ホールで、奈良大文化財学科の千田嘉博教授(城郭考古学)が「唐沢山城から見た日本の城」と題して講演する。講演会は事前予約が必要。

 申し込みや問い合わせは市生涯学習課電話0283・61・1174。


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