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歴史掲示板

1管理人:2012/01/12(木) 17:24:57
古代史掲示板を新設しました
古代史掲示板を新設しました。画像・動画等の投稿も可能です。古代史関連の投稿をお待ちしています。

10001 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト):2019/12/10(火) 03:51:46
Re: 題 -まだある 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」
管理人さま・キシ先生へのお返事です。

☆ (2名の方の)コメントお受けしました^^。ありがとうございます。
 ・・・、おひさしぶりになります^^。・・・、


> 平さん、ご無沙汰してます。え、、未発掘の銅鐸・・・あるんですか?

ええ^^ 総社市岩屋の金堂寺の上斜面には、(23個±α)の銅鐸が、1700年のときを隔てて眠っています。『ワシを起こすと大変なことになるぞ! ココロしてかかれい!!』と、その荒神さまは仰っていますよ^^! それが出土してから騒ぐより出土前を楽しみたいものです。

いま迄(お二方をのぞいて)、身分を伏せている理由はいろいろありますが、一番大きな理由は、その喧噪にまきこまれたくないからです。<モノ云わぬ100X名の方々さま>もふくめて、それを「スルー」した人々の様変わりはみたくありません。それと、イタズラこころもありますよ^^!。

☆ わたしとしては、<この件>は、超・古代史掲示板のほうへ移したい のですが、その一部をこちらへも移しておきますね^^。←・・・スミマセン!!? 手順で失敗しましたので後ほど(汗~)・・・、
> > 当方・・症状がでてますのでそのコメントに返信の確約はできません。 あしからず・・・~~、

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html



10002荊の紀氏:2019/12/10(火) 08:42:32
未発掘の銅鐸・・・未発掘の古墳…私の場合…
史実探偵: 平 素人(ヒイラ??モト)さんへのお返事です。
 私は20年ほど前に未発掘の古墳探しをしました。(参考になれば幸いです ↓ )
まず近隣の古墳の多い地区(主にかすみがうら市旧出島村)の古墳地図と寺社・学校などの公共施設(明治以降の廃寺社・墓などの跡地の多い)の載った地図
それらのポイントから東西南北にラインを引く(五芒星・六芒星のライをも試す)
周辺の古地名などにもアンテナを張る(インスピレ−ション・閃き・勘?)
 地図・地名・年代などが何か?の閃きに繋がると思いますお試しあれ。


10003荊の紀氏:2019/12/10(火) 08:47:07
Re: 未発掘の銅鐸・・・未発掘の古墳…私の場合…
荊の紀氏の訂正です。
未発掘→未発見・・・です。


> 史実探偵: 平 素人(ヒイラ??モト)さんへのお返事です。
>  私は20年ほど前に未発掘の古墳探しをしました。(参考になれば幸いです ↓ )
> まず近隣の古墳の多い地区(主にかすみがうら市旧出島村)の古墳地図と寺社・学校などの公共施設(明治以降の廃寺社・墓などの跡地の多い)の載った地図
> それらのポイントから東西南北にラインを引く(五芒星・六芒星のライをも試す)
> 周辺の古地名などにもアンテナを張る(インスピレ−ション・閃き・勘?)
>  地図・地名・年代などが何か?の閃きに繋がると思いますお試しあれ。
>

10004秦野北斗:2019/12/10(火) 13:48:30
Re: 未発掘の銅鐸・・・未発掘の古墳…私の場合…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010553M.jpg

荊の紀氏さんへのお返事です。

ちょっと発掘にはインスピレ−ション・閃き・勘?はないでしょ??

>  私は20年ほど前に未発掘の古墳探しをしました。
 荊の紀氏さんの成果をアップ願います。 ワクワク・・・

ここ掘れワンワン

> 史実探偵: 平 素人(ヒイラ??モト)さんへのお返事です。
>  私は20年ほど前に未発掘の古墳探しをしました。(参考になれば幸いです ↓ )
> まず近隣の古墳の多い地区(主にかすみがうら市旧出島村)の古墳地図と寺社・学校などの公共施設(明治以降の廃寺社・墓などの跡地の多い)の載った地図
> それらのポイントから東西南北にラインを引く(五芒星・六芒星のライをも試す)
> 周辺の古地名などにもアンテナを張る(インスピレ−ション・閃き・勘?)
>  地図・地名・年代などが何か?の閃きに繋がると思いますお試しあれ。
>



10005 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト):2019/12/10(火) 20:13:59
Re: 題 -まだある 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-13.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html



10006荊の紀氏:2019/12/11(水) 00:09:58
Re: 未発掘の銅鐸・・・未発掘の古墳…私の場合…
秦野北斗さんへのお返事です。

>  私は20年ほど前に未発掘の古墳探しをしました。
 荊の紀氏さんの成果をアップ願います。 ワクワク・・・
…期待には沿えないです内容でゴメンナサイ(m;_ _)m

史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト)さんへ
徐福は新しい国造りのために日本に来たと思います…

古墳 かすみがうら市…
写真14 富士見塚1号墳上から霞ヶ浦を眺める
古墳_霞ヶ浦の両岸(茨城県行方市、かすみがうら市)www.mizunotec.co.jp/zyousou/kofun/kofun.html
さて、対岸のかすみがうら市には、霞ヶ浦大橋を渡って行きます。この市も旧千代田町と旧霞ヶ浦町が合併して出来た市です。古墳が多いことでも知られています。
・・・ちなみに、古墳は全国で約20万基あり、そのうちかすみがうら市には500基あると説明板にありました。

成果
かすみがうら市には500基の古墳…
私の目指した「未発見の古墳」の近隣の農家で情報収集したところ…
私の訪れる2年前ほど前に 同じ質問をされた 何処かの高校の先生が来られてたそうで、確かに 古墳が在るとのことでした。
その場所は 杉の木が生い茂る小高い丘の上に在るとのことでした。
旧 出島(かすみがうら市)には「500基の古墳」、ライン上に古墳が「未発見の古墳」在っても不思議でない地域なのです。
地図でかすみがうら市の位置を確認してください。
北西に筑波山ー南東鹿島神宮
南西に富士山ー北東に角折の浜?
むかし、このあたりに棲んでいた角のある大蛇が、東の海に出たいと思い、浜に穴を掘って行こうとしました。
そのとき、角が折れてしまったので、この名前がついたというもの。
白鳥の里・角折の浜 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.ibaraki-isuzu.co.jp%2Fstory%2Fdetail%2Fid%3D178

北に常陸国府(石岡市)ー南に 国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)
佐倉市の文化財−史跡(1)「城跡・遺跡・古墳」www.city.sakura.lg.jp/0000005038.html
古墳時代の前方後方墳・方墳と弥生時代の墓制の流れをひく方形周溝墓とが一連の関係をなしている全国的にも珍しい例であり、墓制の変遷を知る上で重要な意義を持っています。
江原台遺跡 <えばらだい-いせき> (江原台)
  江原台遺跡は、印旛沼を北に望む海抜28mの台地上に広がっています。
  昭和50年代に継続して行われた発掘調査では、竪穴式住居跡など多数の遺構と多量の遺物が検出され、縄文時代中〜晩期、弥生時代後期、古墳時代、奈良・平安時代の集落跡が発見されました。
  縄文時代では、中期の有孔鍔付注口土器<ゆうこうつばつきちゅうこうどき>、後期の山形土偶や異形台付<いけいだいつき>土器、晩期の亀形土製品が出土しています。 弥生時代後期の集落では、3期の炉を備えた大型住居跡が検出されました。奈良・平安時代では、多数の墨書<ぼくしょ>土器が出土しました。
岩名天神前遺跡 <いわな・てんじんまえ-いせき> (岩名)
  関東地方では最も古い弥生時代の墓の遺跡で、墓からは人骨とともに東日本では最古の特徴を持つ弥生土器や管玉などの遺物が出土しました。
  調査の結果、人骨は二度埋葬されており、弥生土器は骨を納める容器として使われていたことがわかりました。 この調査を契機に、東日本にみられるこのような墓を再葬墓と呼ぶようになります。
人骨は二度埋葬…
[3698] 洗骨 紀元前の騎馬遊牧民、スキタイなんかもやっ てる ... https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/3698
・・・・
石岡の歴史を紐解いていくと1300年以上前に、この霞ヶ浦周辺に豪族が住んでいたことがわかってきた。石岡の「舟塚山古墳」は東日本第二の大きさとして国の指定を受けた史跡として知られているが、同じ五世紀末〜六世紀初に築造されたここ「三昧塚古墳」を外して考えることは出来ない。舟塚山古墳は霞ヶ浦の海の支配者として、またこちらの三昧塚古墳は陸の支配者としてかなりの力を持った豪族がいたという証拠である。土砂を掘削して大部分が破壊されて、あわてて復元保存に着手したものであるが、舟塚山の副葬品、埋葬品などがかなり無くなってしまったのとは異なり、整備されていくことは自分たちの祖先の歴史を守っていくことで大切なことである。水戸市の「愛宕山古墳」と合わせ3つの古墳が5世紀のこの国の姿を探っていくことができる
房総に渡った後の古道東海道ルートについて
東海道終点の国 常陸 「狼」と「 狐」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3707
茨城県行方市沖洲緯度 経度, 36.14953144, 140.37824071 三昧塚古墳(さんまいずかこふん)

私は、
、霞ヶ浦対岸の富士見塚古墳
橋の向こうが、かすみがうら市。ここは行方(なめがた)市。massneko.hatenablog.com/entry/2013/05/07/094329
富士見塚古墳は…富士山ー三昧塚古墳(さんまいずかこふん) ライン

レイラインとは レイラインとはですね、 古代の遺跡や神社、仏閣、巨石群、 を地図上で線で結んでみるとなぜか直線状になる。 そのラインのことをレイラインと言うわけなんですよね。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fzinja-omairi.com%2Freirain%2F
(五芒星)
レイラインは直線だけではありません。
変わり種としては、伊勢神宮の内宮(三重県)・伊吹山(滋賀県)・伊奘諾神宮(兵庫県・淡路島)・熊野本宮大社(和歌山県)・皇大神宮(京都府)を結ぶと星型いわゆる「五芒星」のレイラインが知られています。五芒星とは陰陽道における木・火・土・金・水の五つの働きを表したもので、魔除けの象徴として使われていたものです。
有名なところでは、平安時代の陰陽師・安倍晴明が五芒星を紋として用いており、京都にある安倍晴明神社でも神紋はこの五芒星が使われています。
この巨大な五芒星の中心には、平城京が位置しています。朝廷の守護となるようにあえてこの場所を選んだ可能性があるのです。

中国で発見された驚愕の世界地図
「4000年前の中国がつくった世界地図」www.y-asakawa.com/Message2012-2/12-message98.htm

縄文時代の国造り と 弥生時代の国造り /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fikejun_2018%2Fd%2F20190725
弥生時代
・秦の時代の徐福
・漢の時代
・魏蜀呉の作語句時代
と大陸が統一と崩壊を繰り返す中
大陸の一族が国を捨てて、東へ移住先を探す旅にでます。
多くは、朝鮮半島を経由し、玄界灘を船で渡り倭国へ到着
当時の倭人に大陸の文化を伝える事で新しい国造りを始めたのです。
・・・・



> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> ちょっと発掘にはインスピレ−ション・閃き・勘?はないでしょ??
>
> >  私は20年ほど前に未発掘の古墳探しをしました。
>  荊の紀氏さんの成果をアップ願います。 ワクワク・・・
>
> ここ掘れワンワン
>
> > 史実探偵: 平 素人(ヒイラ??モト)さんへのお返事です。
> >  私は20年ほど前に未発掘の古墳探しをしました。(参考になれば幸いです ↓ )
> > まず近隣の古墳の多い地区(主にかすみがうら市旧出島村)の古墳地図と寺社・学校などの公共施設(明治以降の廃寺社・墓などの跡地の多い)の載った地図
> > それらのポイントから東西南北にラインを引く(五芒星・六芒星のライをも試す)
> > 周辺の古地名などにもアンテナを張る(インスピレ−ション・閃き・勘?)
> >  地図・地名・年代などが何か?の閃きに繋がると思いますお試しあれ。
> >

10007 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト):2019/12/11(水) 01:00:24
題 -まだある 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010556M.jpg

https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs/332

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html



10008荊の紀氏:2019/12/11(水) 08:09:57
Re: 題 -まだある 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」
??史実探偵: 平 素人(ヒイラ??モト)さんへのお返事です。

>その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。?? 投稿日:2019年12月11日(水)08時05分17秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F
火球と流れ星と隕石の違いと画像!意外と実際見ると怖い!disastress.com/kakyu-nagareboshi-inseki-tigai/
…しし座流星群…
火球が出現 しし座流星群を動画で→ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fcapturelife1.net%2F
…しし座流星群…
しし座には明るい銀河が多くある。・・・




>
> 祖先はその赤く輝いた巨塊を、その風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして、犠牲を強要する荒神となって “人々の心の中” に入り込んだ。
> 神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。 この荒神様は、慈雨との交換に赤い血を欲しがる。
> 生け贄の歴史は、最初の小動物からエスカレートして、 ついには 「私達には、これ以上に大切なものは有りません。 この幼子を煙に変えますから、どうぞ、この海水を、この幼子の煙を雨雲に換えて下さい」 と迄になる。 “その天竜水神を呼び寄せ、荒神を乗り移す媒体となったのが銅鐸だ!”  それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。 朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった!
>  又来るあの大事変が!!   人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。
>

>
> 火巫女は説いた。「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。
>   その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」


10009秦野北斗:2019/12/11(水) 17:04:37
Re: 未発掘の銅鐸・・・未発掘の古墳…私の場合…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010558M.jpg

荊の紀氏さんへのお返事です。


20年ほど前・・・うそ、だったの・・ワン


> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> >  私は20年ほど前に未発掘の古墳探しをしました。
>  荊の紀氏さんの成果をアップ願います。 ワクワク・・・
> …期待には沿えないです内容でゴメンナサイ(m;_ _)m
>




10010管理人:2019/12/11(水) 23:58:14
Re: 題 -まだある 「卑弥呼が埋めた大量の銅剣と銅鐸」
??史実探偵: 平 素人(ヒイラ??モト)さんへのお返事です。

平さん、さっそく詳細お知らせありがとうございます。

なるほど、銅鐸数が合計で100になる点に注目されたんですね。

関連して、弥生時代の銅鐸を材料にして、後代の邪馬台国時代の銅鏡を製造したという指摘は聞いたことがあります。

銅原料を仕入れるのに、交換したのか、奪い取ったのか、掘り出したのか・・・、その辺の推理は興味深いところです。

あと、岩の字名と銅鐸との関係性は、どうなんでしょうね、磐座信仰と弥生文化との関連性で解けないでしょうか。もっとも磐座信仰は旧石器時代までさかのぼるように感じてるんですけどね。その件はまた後刻別途投稿いたします。

10011管理人:2019/12/12(木) 00:17:33
チャシの方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010560M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010560_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010560_3M.png

訳あって、先週からアイヌ文化について調べはじめているのですが、アイヌ時代に丘陵などを整形したチャシという砦が北海道などに多数あるようです。

これが、もしかすると、先日紹介した北海道各地の山頂や尾根を三角錐や四角錘に整形された地形群、およびそれと接合する旧石器時代遺跡群と関係するかもしれません。

図1は、その千歳にあるペサのチャシの測量図です。綺麗な三角錐型に尾根の一部が整形されています。

図2は、道央のチャシを結んでみた方位ラインですが、こうみると、先日も指摘した縄文時代の天神山遺跡にチャシがあり、それと藻岩山を結ぶ東西ラインが見えてきます。

図3は、千歳方面のチャシを結んだラインですが、こうみると旧石器時代の測量拠点となっていた祝梅三角山遺跡や、縄文時代の柏木・茂漁・恵庭公園遺跡・長都遺跡と、そのチャシ群がライン面で接合しているのがわかります。

チャシが文献にみえてくるのは中世ですが、一部のチャシには縄文遺跡も見えるとのことで、その起源は旧石器・縄文遺跡まで遡るのではないでしょうか。

一説によると、沿海州やロシアにみえるゴロディシチェという多角形の砦とも関係するとの指摘があるようですが、その起源は前1000年からのもので、後のスキタイ文化と関係するようです。

その丘陵や山岳地域の一部を整形して多角形のマウンド上にする意図は、以前もお話したように、狼煙を上げたり、焚火を焚いて、船舶や交易者への方位提供・通信、および測量にあったと予想しますが、アイヌ時代には砦や山城、狩猟用の場としての意味も持ち合わせていたようです。

アイヌ人は、そういう意味では1〜2万年前の太古の習俗を継承し続けてきた集団ともみなしうることもあり、もっと注目されてもよいように感じますね。そして、そこから、先の磐座・山岳信仰のようなものが後代の日本人にもたらされていったのではないでしょうか。



10012荊の紀氏:2019/12/12(木) 08:35:07
チャシ
北海道にはアイヌが残したチャシという遺構が数多くあります。どのようなものなのかまとめてみました。 チャシの用途 一般にチャシは砦や城として作られたとの認識が強くあります。
祭祀の場、権力者や英雄の住居、牢獄、会議場などに使われた伝承も少なからずあり、チャシは多目的な場所であったものと思われます。少なくとも用途が完全に限定された建造物では無いようです。時代によって、状況によって使われ方も変わっていたのかもしれません。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fpecodrive.net%2F%3Fp%3D3407
チャシはアイヌ語で「囲ったもの」という意味があるとされていますが、「チ・アシ」(私たち・建てた)と解釈できるともされています。
チャシは丘陵の頂上などを盛り土などで整形し、頂上を平にし、柵などで囲んで、建物を建てた状態が一般的なようです。湖などに浮かぶ独立した小島を使ったり、崖の先端を使ったりしたチャシも存在しています。初期のチャシは地形をそのまま使ったものも多く、後期は盛り土や壕など人の手がかなり使われたチャシも多く作られるようになったようです。

根室半島には16世紀〜18世紀にアイヌが構築した32ヶ所のチャシが残されています。そのうち24ヶ所が国指定史跡となり根室半島チャシ群として「日本100名城」に選定。つまりは日本最北で最東端の100名城というわけです。チャシは戦闘時の砦(とりで)のほか、周辺の部族との談判や祭祀を行なう場にもなっていました。
日本100名城の1番に登録は根室半島のチャシ跡群 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhokkaido-travel.com%2Fspot%2Fvisiting%2Fho0487%2F
一見するとただの草原のように見えますが、台地の上に人工的に盛土をして、周囲に壕を巡らせているのが歴然。
土塁と空濠で、本州でいう中世の城跡のような構造になっています。
近くには、約1500年前のオホーツク文化期の竪穴住居も発見されているので、古くから定住した場所だということがわかっています。

フゴッペ岬のチャシ(『アイヌの伝承とチャシ』ほかから)
フゴッペ岬(小樽市蘭島との境界)の上に男二人と女一人の兄弟が住むチャシがありました。この兄弟は意地悪で、忍路や余市のアイヌの人たちが岬の下を通りかかると上から石を投げて悪さをするので困っていました。
ある春のこと、ニシンの大群が浜に押し寄せて白子で海が真っ白になりました。忍路のアイヌが近くを歩いていると、岬の上へ点々とニシンのうろこが続いているのがあり、上へ通ずる路があることがわかりました。
それまでは兄弟の住処がわからなかったのですが、忍路と余市のアイヌが協力して岬の上まで続く道に沿って攻め入り、その兄弟をついに殺すことが出来ました。
その後は、そのチャシに人が住むことはなかったそうです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.town.yoichi.hokkaido.jp%2Fmachi%2Fyoichistory%2F2008%2Fsono52.html
イヨチコタンの戦い(余市町『郷土誌』ほかから)
余市にはじめてアイヌ民族が住み始めた頃、突然、フルカチャシにサルアイヌ(日高地方沙流川流域のアイヌ民族)60名ほどが赤井川方面から余市川を沿って攻め下ってきました。チャシとは「砦」、「城」、「柵囲いされた場所」を指すアイヌ語で、祭りや相談をする神聖な場所のことをいいます。フルカチャシは後に天内山チャシと呼ばれた遺跡で、現在の東中学校の北東側の丘陵にありました。
サルアイヌが攻めてきたとき、その怪しい物音を聞きつけた長老がチャシの外に出ると、敵が大勢向かってくるのが見えました。長老が驚いて戻ろうとしたとき敵の矢が放たれ、かぶっていた兜の後ろが運悪くはね上がり、あらわになった首筋に矢が刺さって死んでしまいました。
余市に住んでいたアイヌの人たちは、近くの集落に援軍を求めて戦いの準備をしましたが、急に雷が落ちて敵の大半が死にました。やがてオショロ、デタリヒラ(現白岩町)、ユウナイ(現豊浜町)、フルビラから集まった援軍とともに戦ってついに敵を全滅させました。その時の雷を余市アイヌの人たちは雷神様(カンナカムイ)として崇めました。
その後、余市アイヌはモイレ山やハルトリ(現浜中町)、河口などに集落を広げて常に油断せずに敵に備えたので、強い集団になったと言われました。


10013荊の紀氏:2019/12/12(木) 09:33:36
アイヌ語の「シャク・コタン」(夏の集落)に由来する…「シャコナ」…
コタンは間は大体5 - 7kmほどの間隔で存在していた。
コタン はアイヌ語で「宅地」をさし、アイヌ民族の生活の本拠地であり、アイヌの社会を形成する最小単位である。 一般に、狩猟や漁撈など採集により生活している民族は、採集に移動の必要があるため一箇所に定住しない。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
シコタン(色丹/大きな村の意)
シャコタン(積丹)

「シャコナ」
メノーラ(七から九枝の燭台)枝・・・占星術の九曜は七曜がもとになっている。??:2019年12月12日(木)09時23分31秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F
イスラエルの神殿…七枝の燭台…メノラー…
ユダヤ人の象徴ダビデの星はなぜあの形になったのですか?
△=男性(性器)
▽=女性(子宮)
が交わる意味とも聞いたことあるのですがよくわかりません。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1173377946

新約においてメノラーの7つのランプは、七つの教会を象徴しています。
「宇宙樹」と結びつく重要なたぶんよく知られているユダヤ教の象徴は、上記に記載した聖書「出エジプト記」(25章31〜40節)のメノラーという7つの枝をもつ燭台です。
7つの枝は、雛型で、神の御座の7つのともし火、神の7つの霊(聖ヨハネの黙示録4:5)を示します。
 数字の7を占星術では、7つの惑星(太陽、月、水星、金星、火星、木星、土星)に対応させています。
「・・・・『太陽と月と11の星が、私の前にひれ伏した夢だった』・・・・父は、このことを心にとめていた。」(創世記37:9〜11)
メノラーの想像図baramado.jugem.jp/?cid=15
12の側面を持つメノラーの台座:6角形の厚い台座が、二段に積み重なっていますが、紀元70年に神殿破壊を成し遂げたティトゥス軍凱旋行列図の中にメノラーが描かれており、それは、ローマティトゥス皇帝凱旋門浅浮彫りにあります。
 この12の側面は、教会の光の土台となる12人の長老、12人の使徒を象徴しています。
 『玉座をめぐって24の座があり、そこに24人の老翁が白い服をつけ、金の冠を頭にかぶっていた。・・・・玉座の正面には神の7つの霊である7つの燃える松明:ともし火があった。』
 (聖ヨハネの黙示録4:4,5)
・・・・・・


10014荊の紀氏:2019/12/12(木) 11:41:38
西求女塚古墳 3世紀後半の築造…アイヌってどんな民族なの?
西求女塚古墳 3世紀後半の築造…アイヌってどんな民族なの?
全長約98mの前方後方墳。
前方部は2段以上に築かれ、葺石はあるが埴輪は確認されていない。墳丘は1596(慶長元)年に発生した大地震により大きな被害を受けている。
後方部中央で確認された竪穴式石室も地震により大破していたが、遺体を納めた主室と副葬品を納めた副室からなり、室内は全面に赤色顔料(ベンガラ、水銀朱)が塗布されていたことが判明している。主室からは三角縁神獣鏡面など銅鏡12面や鉄剣、鉄槍、小札などが、副室からは鉄製武器類や農工具、漁具などが出土しており、石室石材とともに一括して国の重要文化財(考古資料)に指定されている。3世紀後半の築造。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkofun.info%2Fkofun%2F561

アイヌの歴史は、本州で弥生時代が始まったころ、北海道を中心に始まった続縄文時代(前3世紀〜7世紀)
アイヌってどんな民族なの? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftopiclouds.net%2Fsociety%2Fwhat-is-ainu-people%2F
蝦夷…
大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。
蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。
中央政権の支配地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。
大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

蝦夷と日本feb27.sakura.ne.jp/national_history21.html
東北地方の蝦夷(えみし)は、まだ桓武天皇の時代には、日本国の支配下にはなかった。古代の蝦夷(えみし)は、中世の蝦夷(えぞ)とは違うとされてきた。明らかに蝦夷(えぞ)は、アイヌ民族のことである。しかし、古代の蝦夷(えみし)も中世以降の蝦夷(えぞ)も、原日本人ではないかという説が有力である。 現在アイヌ民族は2万4千人にまで減少してしまった。白人系であるという誤解もあったが、原日本人である。日本の先住民であると国際的にも認められている。
 大和政権支配下にある古代においては、大隅・薩摩の国(現在の鹿児島県)の隼人も蝦夷とならんで、日本国の外の民とされていた。
 日本の中央部に稲作りを生業とする中国系の人々が侵入し稲作を受け入れた原日本人である縄文人と混血して弥生人が大和政権の下に、統一国家を形成していった。隼人は、8世紀末には稲作の民として同化してしまった。feb27.sakura.ne.jp/national_history21.html
「晋書」倭人伝によると天皇は、長江下流域に呉を建国した太伯(前12世紀又は前11世紀)の末裔の子孫であると自ら称したと云う箇所がある。神武天皇、盤古系(中国系)説である。稲作文明の栄えた長江流域との関連性があって興味深い。

220年の後漢の滅亡から589年の隋による中国の統一までの魏晋南北朝時代の動乱期にも中国よりの渡来人が多数あったはずである。その後の唐(618年〜907年)による日本支配があったかもしれない。宇野正美によると今日では中国系の日本人は50%を占めている。
 次に多いのが朝鮮系の日本人である。25%は朝鮮系であるという。『日本書紀』を読むと高句麗[高麗](前37年〜668年)・百済(4世紀〜660年)・新羅(4世紀〜935年)・加羅諸国(4世紀〜562年)などの諸国と日本との関係が深いことがわかる。特に百済と日本の天皇家は親戚関係にあったのではないかと推測される。7世紀後半に百済・高句麗が相次いで新羅と唐の連合軍に征服される間、多くの貴族が日本に渡来したことが記録に残されている。
 残りの25%の中に、原日本人やはるばるイスラエル・ユダヤから渡来したイスラエル・ユダヤ系の日本人がいる。
 彼らイスラエル・ユダヤ民族は、数次にわたって日本に渡来した。
 前722年のイスラエル王国の滅亡後アッシリアに捕らえられたイスラエル王国の10支族はシルクロードを東遷し、日本に到着した。さらには、前586年ユダ王国の滅亡後にもユダヤ人はシルクロードを東遷し、日本に住み着いた。ローマ帝国に迫害されたキリスト教徒ユダヤ人たちも日本に到着することとなり、今や世界最大の古代ユダヤ・イスラエル民族の居住地が日本であるというのである。
 呉の太伯の子孫であるという晋書倭人伝の記述とは矛盾するが、古代ユダヤ民族は、ダビデの子孫を奉戴して日本に王国を四国に築いたという。この王国を併合した中国系の大和王権は、この王国のダビデの子孫の王を大和国の天皇として奉戴したという。天皇の側近として、忌部氏や藤原氏のように貴族化したユダヤ・イスラエル民族の末裔がいる一方で、仏教を受け入れることを拒否して、被差別民とされたユダヤ・イスラエル民族の末裔もいるという。二極分解である。
 彼らユダヤ・イスラエル民族は、ヤハウェの神に牛を犠牲に捧げて罪穢れをあがなうという習慣をもっていた。そして、神に捧げた牛を食べるのである。仏教が国教となった奈良時代の中期、東大寺の大仏建立の頃から、殺生を嫌う仏教の教えから、牛を食べるユダヤ・イスラエル民族は、穢れ多い民として差別され隔離されるようになったという。穢多、鉢屋とかよばれた被差別民の淵源であるという説がある。
 ユダヤ・イスラエル民族の秦氏が総力をあげて建設した、平安京(エルサレム)から彼らを追放した、韓国系の母を持つ桓武天皇は、この差別を助長し、古代ユダヤ・イスラエル民族を迫害した可能性も指摘されている。
 古代ユダヤ・イスラエル民族は、被差別民族として、奴隷のような地位に置かれるが(聖書「申命記」28章29節から32節、41節から44節)、やがて、民族の尊厳を復活し神から選ばれた民としてこの世の終わりには神から祝福され世にでるという(聖書「エゼキエル書」37章「枯骨の復活」)。そうであるならば、古代のイスラエル・ユダヤで神から祝福され、仏教の穢れ思想故に、穢多とよばれた被差別民は、差別故に隔離され血統を守られた高貴な選民ということになる。これらの選民がメシア(天皇)の下に、終末の世に復活し、神の王国を築くという。この日本でも、古代ユダヤ・イスラエル民族の復活の兆候が見られるという。維新の会を率いる橋下徹の台頭である。第二の明治維新が始まるが如き勢いを得ている。正にエゼキエル書37章にある「枯骨の復活」である。


10015荊の紀氏:2019/12/12(木) 12:29:32
イトムカ(アイヌ語で”光輝く水”の意)…積丹…丹…水銀…
漢の旗が赤いのは蚩尤の血にあやかったから…
積丹…丹…水銀…????投稿日:2019年12月12日(木)12時25分46秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F


10016荊の紀氏:2019/12/12(木) 23:22:47
Re: イトムカ(アイヌ語で”光輝く水”の意)…積丹…丹…水銀…
荊の紀氏の追伸です。

蚩尤はタタラ星…『ニセ十字』????投稿日:2019年12月12日(木)23時20分4秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F

饕餮=一説によると、龍の子や蚩尤の頭だとされている。
とうてつ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdic.pixiv.net%2Fa%2F
饕餮とは、『山海経』にある中国神話の妖怪のこと。
体は牛か羊で、曲がった角、虎の牙、人の爪、人の顔などを持つ。
饕餮の「饕」は財産を貪る、「餮」は食物を貪るを意味する。
それらの意から転じて、「魔を喰らう」という考えが生まれ、後に魔除けの意味を持つようになった。
一説によると、龍の子や蚩尤の頭だとされている。
龍の子や蚩尤の頭…




> 漢の旗が赤いのは蚩尤の血にあやかったから…
> 積丹…丹…水銀…????投稿日:2019年12月12日(木)12時25分46秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F
>

10017管理人:2019/12/12(木) 23:37:13
チャシの方位ライン2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010566M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010566_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010566_3M.jpg

さっそくキシさん、アイヌ関連情報ありがとうございます。少し参考になりました・・。

また昨晩に続きでチャシの構造とチャシ同士を結ぶ方位ラインについて分析を進めています。

図1は、昨晩紹介したペサのチャシの図ですが、図のようにペサのチャシはその対角線が西10度偏角の方位ライン方向(図2参照)に向いた三角錐構造となっており、その一斜面が凹面鏡状に整形されています。この斜面に焚火や太陽光を反射させて標識替わりにしたことが予想されますが、同様な山頂部の整形事例は以前もいくらか道央の天狗岳関連で紹介しましたね。

図2も昨晩紹介したチャシの方位ラインですが、新たにそのラインの偏角を赤文字で記入してみました。こうみると、30度、60度、90度つまり直角を主に使ってラインを構成していることがわかります。

具体的なラインとしては、まず天神山遺跡(チャシ)が藻岩山と東西ライン上にあり、ここは縄文遺跡ですから、その年代以前の構築が予想されます。

また発寒チャシ⇔島松チャシ⇔都チャシのライン、茂漁チャシ⇔恵庭公園遺跡⇔祝梅三角山遺跡のラインは双方30度偏角で、後者はケネフチチャシ⇔祝梅三角山遺跡ラインと直角。

次に川下チャシ⇔江別チャシ⇔ペサのチャシのラインは、ペサのチャシ⇔フレドイのチャシ⇔祝梅三角山遺跡ラインと直角。

さらに東65度偏角の江別チャシ⇔都チャシ⇔祝梅三角山遺跡ラインは、西65度偏角の祝梅三角山遺跡⇔ケネフチチャシと東西逆で同偏角。

これらは、図に記したように10度の北偏角のラインが測量の基礎になっています。

そして図3が道内各地のチャシの分布図です。

そのうち、緑丸は近代のチャシ跡で、また赤丸で記された伝承・地名から類推されるチャシ(時代の古いもの)ですが、図のように後者の赤丸を結ぶラインの多くは、東38度偏角、西19度偏角の方位ライン上となっています。

西に9度前後傾いた時代の北極星を北として、北から60度偏角を目印に測量を行った可能性があるでしょう。

先ほどの道央のチャシを結ぶラインの基礎となっていた西10度偏角のラインとほぼ同じ偏角ですね。

それとは別に東西・南北のラインがあり正確に東西南北を測量する技術は持っていたことがわかります。

また常呂、白滝、豊里、祝梅三角山、嶋木、暁といった旧石器時代遺跡、留萌、紋別、屈斜路湖からも、同様にチャシを結ぶラインが多数分岐しています。

さらにその一部は富士山、雛岳、早坂平遺跡の本州へと接合し、加えて夕張岳、豊平山、泊天狗岳、羊蹄山、朝里天狗岳などもライン上となります。そしてそれらの山頂部も、以前も指摘したように他のチャシのように整形された痕跡があるわけです。

特に海岸沿いの航海ルートとしてのチャシのラインが多数みえることがあり、これらのことから、元は旧石器時代に航路・山路の指標としてこれらのチャシが造営され、それが後代アイヌによって継承されていったと考えうるでしょう。



10018 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト):2019/12/13(金) 11:55:23
卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-3.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html



10019荊の紀氏:2019/12/13(金) 20:57:09
m(._.)m 管理人さんにお願い///
 管理人さんにお願いがあります。
北緯44度 東経142度から音江環状列石までの2地点間の距離と方位角 (東経142度ライン)の圭さんをお願いします。
北緯43度 東経142度…同上
…北緯44度・北緯43度からの角度「9度】を距離の比率は「1:2」を期待しています。
   よろしくお願いいたします m(._.)m

音江環状列石(おとえかんじょうれっせき)は、北海道深川市音江に所在する縄文時代の環状列石群である。別称は、音江環状石籬である。
北緯43度40分26.5秒 東経142度2分1.1秒
北緯 43.673928
東経 142.033413


10020管理人:2019/12/14(土) 00:39:27
Re: m(._.)m 管理人さんにお願い///
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010569M.png

荊の紀氏さんへのお返事です。

>  管理人さんにお願いがあります。
> 北緯44度 東経142度から音江環状列石までの2地点間の距離と方位角 (東経142度ライン)の圭さんをお願いします。
> 北緯43度 東経142度…同上
> …北緯44度・北緯43度からの角度「9度】を距離の比率は「1:2」を期待しています。
>    よろしくお願いいたします m(._.)m
>
> 音江環状列石(おとえかんじょうれっせき)は、北海道深川市音江に所在する縄文時代の環状列石群である。別称は、音江環状石籬である。
> 北緯43度40分26.5秒 東経142度2分1.1秒
> 北緯 43.673928
> 東経 142.033413
>


図のように、角度も距離もキシさんのご推測とおりですが、どういう意味がありますか??



10021荊の紀氏:2019/12/14(土) 12:11:01
Re: m(._.)m 管理人さんにお願い///
管理人さんへのお返事です。

有難うございました (゚∀゚喜))<(_ _)>
    ↓  参考になれば幸いです。
>環状列石や巨石群は太陽や月、そして星などの天体の運行を観測する施設

地図を経線と緯線で区切って、その座標で各地点の位置を表すという発想は古くから存在した。…
経度の基準も、ロンドンのグリニッジ子午線を基準(本初子午線)として世界中で採用された。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ERS基準子午線が通過する地点[編集]
北緯21度50分 東経0度0分  …マリ

2つの天体について位置の線を求めると、その交点が観測位置だとわかり、同時に緯度と経度がわかる。
天測航法(てんそくこうほう、celestial navigation、astronavigation)または天文航法(てんもんこうほう)とは、陸地の見えない外洋で天体を観測することで船舶や航空機の位置を特定する航海術である。数千年に亘って徐々に発達してきた。目に見える天体(太陽、月、惑星、恒星)と水平線(視地平)の角度(仰角、天測航法では「高度角」と呼ぶ)を計測するのが基本である。太陽と水平線から太陽の高度角を計測するのが最も一般的である。熟練した航海士はそれに加えて月や惑星や航海年鑑に座標が出ている57個の恒星を使う。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

神話の世界に生きるドゴン族
マリ 北緯15度0分 東経0度0分
【ガチ宇宙人】なぜドゴン族は知っている?
祭事の多くは乾季に行われ、先祖を讃える祭り氏族のトーテムを祀るもの、男子結社による祭りなどが行われる。、
中でも60年に1度実施される、祖先の霊力を持った蛇の大仮面を奉納するシギの祭りはよく知られる。
天文学に関する知識を多く持つドゴン族は、それに由来する神話を数多く持ち、フランスのジェルマン・ディータレンやマルセル・グリオールといった研究者によりその詳細が紹介された。
…シリウスBの存在を、アフリカのマリ共和国に住むドゴン族は、はるか昔より知っていたのだという。
…夜空に1番明るく輝く母なる星(シギ・トロ)、これは、シリウスの主星であるシリウスAの事。
ポ・トロと呼ばれる方は、白色矮星の金属でできたシリウスAの伴星であるシリウスBのことだと思われる。
・・・
北緯15度0分 西経11度48分   マリ  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

北緯13度41分28秒 西経15度31分21秒
セネガンビアの環状列石(セネガンビアのかんじょうれっせき)は、セネガル、ガンビア両国に跨るセネガンビア地域で見られる環状列石群である。39,000km2に分布しており、遺跡の総数は、1,965箇所で、16,790基の石碑及び石柱が発見されている。また、1,045箇所の環状列石、3,448箇所の石をめぐらせた墓と石を使わない墓があり、9,093個の石が、石を使用した墓や環状列石を伴う墓に用いられている。また単独の石碑ないし石柱は、3,204箇所確認されている

、環状列石や巨石群は太陽や月、そして星などの天体の運行を観測する施設であり、特に環状列石によって各地の経度を求めることが出来る。すなわち、聖なるラインのネットワークにより日本列島の測地網が構成出来た。
実は古代から正確な日本地図は存在していた! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fshimonose9m%2Fentry-12337315313.html
神社の位置に関して、三つ以上の神社が直線上に並ぶ聖なるラインを引くことが出来、これを日本列島に適用すると例えば8000年前の縄文時代の環状列石や各地の巨石群(磐座)から各地の神社が一つのネットワークとして接続されることが分かった。そして、環状列石や巨石群は太陽や月、そして星などの天体の運行を観測する施設であり、特に環状列石によって各地の経度を求めることが出来る。すなわち、聖なるラインのネットワークにより日本列島の測地網が構成出来た。この測地網は地球規模に広がることも分かって来ている。地球が丸いことや地動説はもちろん、現代の天文学に匹敵する知識をもっていたのは当然である。
この測地網があれば、日本地図の作成(メルカトル図法)、暦の作成、日食の予測などが可能となる。確かに、日食の予測は遅くとも4000年前にはあったことが知られているし、卑弥呼は日食の予測に失敗して殺されたという説もある。安倍晴明の陰陽師はこの職業であった。弘法大師の真言宗は宇宙の仏の言葉
・・・
大湯環状列石(おおゆかんじょうれっせき)は、秋田県鹿角市十和田大湯にある縄文時代後期の大型の配石遺跡。国の特別史跡に指定されている。環状石籬(かんじょうせきり)やストーンサークルとも呼ばれる。
北緯40度16分18.0秒 東経140度48分14.0秒

北緯43度11分58.6秒 東経140度52分29.5秒
忍路環状列石(おしょろかんじょうれっせき)は、北海道小樽市忍路にあるストーンサークルの遺跡である。日本の考古学史上初めて学会に報告されたストーンサークルでもある。1961年(昭和36年)3月10日に国の史跡に指定された[1]。三笠山ストーンサークル、忍路環状石籬(おしょろかんじょうせきり)とも呼ばれる。

北緯13度41分28秒 西経15度31分21秒
セネガンビアの環状列石(セネガンビアのかんじょうれっせき)は、セネガル、ガンビア両国に跨るセネガンビア地域で見られる環状列石群である。39,000km2に分布しており、遺跡の総数は、1,965箇所で、16,790基の石碑及び石柱が発見されている。また、1,045箇所の環状列石、3,448箇所の石をめぐらせた墓と石を使わない墓があり、9,093個の石が、石を使用した墓や環状列石を伴う墓に用いられている。また単独の石碑ないし石柱は、3,204箇所確認されている

北緯51度10分44秒 西経1度49分34秒
ストーンヘンジ(Stonehenge)は、ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと[1]。

神話の世界に生きるドゴン族
マリ 北緯15度0分 東経0度0分
【ガチ宇宙人】なぜドゴン族は知っている?
祭事の多くは乾季に行われ、先祖を讃える祭り氏族のトーテムを祀るもの、男子結社による祭りなどが行われる。、
中でも60年に1度実施される、祖先の霊力を持った蛇の大仮面を奉納するシギの祭りはよく知られる。
天文学に関する知識を多く持つドゴン族は、それに由来する神話を数多く持ち、フランスのジェルマン・ディータレンやマルセル・グリオールといった研究者によりその詳細が紹介された。
…シリウスBの存在を、アフリカのマリ共和国に住むドゴン族は、はるか昔より知っていたのだという。
…夜空に1番明るく輝く母なる星(シギ・トロ)、これは、シリウスの主星であるシリウスAの事。
ポ・トロと呼ばれる方は、白色矮星の金属でできたシリウスAの伴星であるシリウスBのことだと思われる。
・・・
北緯15度0分 西経11度48分   マリ  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

北緯13度41分28秒 西経15度31分21秒
セネガンビアの環状列石(セネガンビアのかんじょうれっせき)は、セネガル、ガンビア両国に跨るセネガンビア地域で見られる環状列石群である。39,000km2に分布しており、遺跡の総数は、1,965箇所で、16,790基の石碑及び石柱が発見されている。また、1,045箇所の環状列石、3,448箇所の石をめぐらせた墓と石を使わない墓があり、9,093個の石が、石を使用した墓や環状列石を伴う墓に用いられている。また単独の石碑ないし石柱は、3,204箇所確認されている

、環状列石や巨石群は太陽や月、そして星などの天体の運行を観測する施設であり、特に環状列石によって各地の経度を求めることが出来る。すなわち、聖なるラインのネットワークにより日本列島の測地網が構成出来た。
実は古代から正確な日本地図は存在していた! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fshimonose9m%2Fentry-12337315313.html
神社の位置に関して、三つ以上の神社が直線上に並ぶ聖なるラインを引くことが出来、これを日本列島に適用すると例えば8000年前の縄文時代の環状列石や各地の巨石群(磐座)から各地の神社が一つのネットワークとして接続されることが分かった。そして、環状列石や巨石群は太陽や月、そして星などの天体の運行を観測する施設であり、特に環状列石によって各地の経度を求めることが出来る。すなわち、聖なるラインのネットワークにより日本列島の測地網が構成出来た。この測地網は地球規模に広がることも分かって来ている。地球が丸いことや地動説はもちろん、現代の天文学に匹敵する知識をもっていたのは当然である。
この測地網があれば、日本地図の作成(メルカトル図法)、暦の作成、日食の予測などが可能となる。確かに、日食の予測は遅くとも4000年前にはあったことが知られているし、卑弥呼は日食の予測に失敗して殺されたという説もある。安倍晴明の陰陽師はこの職業であった。弘法大師の真言宗は宇宙の仏の言葉
・・・



> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> >  管理人さんにお願いがあります。
> > 北緯44度 東経142度から音江環状列石までの2地点間の距離と方位角 (東経142度ライン)の圭さんをお願いします。
> > 北緯43度 東経142度…同上
> > …北緯44度・北緯43度からの角度「9度】を距離の比率は「1:2」を期待しています。
> >    よろしくお願いいたします m(._.)m
> >
> > 音江環状列石(おとえかんじょうれっせき)は、北海道深川市音江に所在する縄文時代の環状列石群である。別称は、音江環状石籬である。
> > 北緯43度40分26.5秒 東経142度2分1.1秒
> > 北緯 43.673928
> > 東経 142.033413
> >
>
>
> 図のように、角度も距離もキシさんのご推測とおりですが、どういう意味がありますか??

10022荊の紀氏:2019/12/14(土) 12:31:35
ユダヤ神秘主義(カバラ…)
本来なら「環状列石や巨石群」は「経緯線」の交わる所に作れば 解りやすいでしょうが…それだと測量が実施されたのが判明するので「カバラ」と思います。

カバラ (? ? ? ? qabbalah, Kabbala, Cabbala)、カバラーとは、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
聖書を神秘主義的に解釈する際、ゲマトリアやノタリコン、テムラーと呼ばれる一種の暗号解読法を用いる場合がある。これらが後に世俗化し数秘学、数秘術と呼ばれる運命解読の方法となった。

球面上の2点を通る線は、いわゆる大円コースとなり、平面を決定できると思います。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F1091695.html
また、別の2点を通る線も、平面を決定するので平面と平面の交わる角度を求めることで、球面上の三角形の角度を決定できます。
平面と平面の交わる角度は、平面の方程式が作れれば、その平面に垂直なベクトルの内積で求めることができると思います。


10023管理人:2019/12/15(日) 00:00:38
三輪山⇔香久山⇔国見山ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010572M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010572_2M.png

ちょっと、奈良のほうを調べていて、三輪山⇔香久山⇔国見山を結ぶ45度偏角のラインを見つけました。

これは舒明天皇や神武天皇の国見の歌から予想したラインですが、その成立は三輪山とピラミッド型に整形された山々と旧石器時代遺跡を結んだ図2のラインの成立時期に関係するかもしれませんね。

これらの山を整形した集団が北海度のチャシにおける丘陵整形ともかかわっていて旧石器時代人かと思うのですが、ただ縄文人にも継承された形跡があり、むしろ縄文遺跡のほうがよく見えてくることを考えると、気候の温暖な縄文時代にもそれらが造営され続けたことも考慮すべきかなとも感じ始めています。

キシさん的には縄文環状列石の時代を予想されているのですかね?



10024荊の紀氏:2019/12/15(日) 00:34:22
Re: 三輪山⇔香久山⇔国見山ライン
管理人さんへのお返事です。

新石器時代--縄文時代 と思います。・

環状石籬ともいう。巨石記念物の一つで,自然石を環状に並べたもの。ヨーロッパでは新石器時代から鉄器時代にかけてのものが多くみられ,著名なものとしてイギリスのストーンヘンジがある。太陽崇拝に関係ある祭祀遺跡ともいわれ,また墳墓に関係するものもあるといわれる。日本では直径 10〜30mの円形に立石を並べてあるものから,直径1〜2mの小さいものまでを含めている。北海道の忍路環状石籬,秋田の大湯環状列石は有名。年代は明らかではないが,発見される遺物から判断すると,縄文時代後期あるいはその流れをくむ文化の所産であろうと思われる。
東日本を中心に分布する種々の石造遺構の総称。高さ1m前後の自然石多数を環状に配置したものや,小規模な石造遺構を多数連続させて大きな環状に配置したものなどがあり,縄文(じょうもん)時代の墓葬の遺構と考えられている。なお以前はストーン・サークルの訳語として使用された。
かんじょうれっせき【環状列石】 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
新石器時代の遺構。立石などを直径数十メートルの円環状に並べたもの。日本では東北・北海道にみられる。ストーン━サークル。
新石器時代…
縄文時代(じょうもんじだい)は、日本列島における時代区分の一つであり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

新石器時代--縄文時代、弥生時代、三内丸山遺跡、上黒岩岩陰遺跡
西アジア、ヨーロッパ、中国では農耕や牧畜が始まった時期と当てはまり、最古のものは紀元前8世紀、以降でも紀元前6世紀から5世紀までは遡ることができる。アメリカ大陸では紀元前4世紀から中央アメリカやアンデス山脈などで農耕の開始が確認できる。[1]
新石器時代の文化は紀元前8500年頃、レバント(エリコ、パレスチナ)に現れる。その地域では、直接亜旧石器時代のナトゥーフ文化から発展した。ナトゥーフ文化は野生の穀物の使用を開拓し、それは現在の耕作に発展する。従ってナトゥーフ文化の人々は「プロト新石器時代」(紀元前11000年頃 - 紀元前8500年頃)と呼ばれうる。ナトゥーフ文化の人々は食事を野生の穀物に依存し、定住生活を始めていたので、ヤンガードリアスと関連した気候の変化は、農業を発展させることを人々に強制した。紀元前8500年から紀元前8000年ごろに、耕作のコミュニティはレバント地方で作られ、アナトリア、北アフリカ、および北メソポタミアに広がった。
新石器時代の前期には、耕作は、一粒小麦、ミレット、スペルト小麦(英語版)、ヒツジ、およびヤギを含む、狭い範囲の野生、あるいは家畜化された作物に限定されていた。紀元前7000年頃には、新石器時代はウシとイノシシ属の家畜化、恒久的にまたは季節的に居住する場所の設立、陶器の使用を含んだ。
新石器時代に特有なこれらの文化的な要素のすべてが同じ順序で出現したわけではない。農業は始まっているにもかかわらず土器が出現していない。最も早い近東の農耕社会は陶器を使わず、ブリテンでは新石器時代の最初期においてどの範囲の植物が穀物化されたか、あるいは恒久的に定住されたコミュニティが存在していたかどうかですら不明瞭である。磨製石器があるが農業はみられない。アフリカ、インド、および東南アジアなどの世界の他の地域で、独立な家畜化の事象は、ヨーロッパと南西アジアのそれらから完全に独立して生じた、彼ら自身の地域に特有な新石器時代の文化をもたらしていた。日本における社会では中石器時代において陶器を使った。
新石器時代には、農耕や牧畜の開始によって社会構造が変化し、文明の発達が始まったことから、一連の大変革は新石器革命(英語: Neolithic Revolution)とも呼ばれる。
中国における新石器時代 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ヨーロッパで確立された遺物考証的な考古学方法論は、ようやく近年になって盛んになってきているが、南部での多湿、北部での戦乱などで散逸している遺跡も多い。しかしながら重要な発見も相次ぎ、最古の水稲栽培が確認された長江中流域の彭頭山文化の発祥は紀元前8千年紀にまで遡り、稲籾が見つかった玉蟾岩遺跡は紀元前1万4000年前まで遡る可能性がある。現在の時代同定ではこれらの長江文明は黄河文明や遼河文明より数千年は先んじている。
DNAの研究からは、紀元前10世紀頃の殷から周への政変の混乱を避けて海洋に逃れた人たちが日本へ漂着し、彼らは渡来人として同時に稲作を中心とした弥生文化を伝えていったとし、後の日本とは重要な関わりがあったとする考え方がある。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F



> ちょっと、奈良のほうを調べていて、三輪山⇔香久山⇔国見山を結ぶ45度偏角のラインを見つけました。
>
> これは舒明天皇や神武天皇の国見の歌から予想したラインですが、その成立は三輪山とピラミッド型に整形された山々と旧石器時代遺跡を結んだ図2のラインの成立時期に関係するかもしれませんね。
>
> これらの山を整形した集団が北海度のチャシにおける丘陵整形ともかかわっていて旧石器時代人かと思うのですが、ただ縄文人にも継承された形跡があり、むしろ縄文遺跡のほうがよく見えてくることを考えると、気候の温暖な縄文時代にもそれらが造営され続けたことも考慮すべきかなとも感じ始めています。
>
> キシさん的には縄文環状列石の時代を予想されているのですかね?

10025荊の紀氏:2019/12/15(日) 00:57:17
Re: 三輪山⇔香久山⇔国見山ライン
管理人さんへのお返事です。
>三輪山⇔香久山⇔国見山を結ぶ45度偏角のラインを見つけました。…
45度は9の倍数…五芒星・六芒星測量
9の倍数表、倍数一覧 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbaisuuhyou.appspot.com%2F9.html

【簡単公式】五角形の内角の和を3秒で計算できる方法
五角形の内角の和は何度?? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmedia.qikeru.me%2Fpentagon-internal-angle%2F
三角形の内角の和は「180°」で、5角形には三角形が3つもかくれているんだ。

540÷9=60
正五角形、正六角形の一つの角は何度ですか /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1051324740
720÷9=80
540÷12=45
720÷16=45



> ちょっと、奈良のほうを調べていて、三輪山⇔香久山⇔国見山を結ぶ45度偏角のラインを見つけました。
>
> これは舒明天皇や神武天皇の国見の歌から予想したラインですが、その成立は三輪山とピラミッド型に整形された山々と旧石器時代遺跡を結んだ図2のラインの成立時期に関係するかもしれませんね。
>
> これらの山を整形した集団が北海度のチャシにおける丘陵整形ともかかわっていて旧石器時代人かと思うのですが、ただ縄文人にも継承された形跡があり、むしろ縄文遺跡のほうがよく見えてくることを考えると、気候の温暖な縄文時代にもそれらが造営され続けたことも考慮すべきかなとも感じ始めています。
>
> キシさん的には縄文環状列石の時代を予想されているのですかね?

10026荊の紀氏:2019/12/15(日) 01:34:03
「45」が基本…
「45」が基本…?? 投稿日:2019年12月15日(日)01時31分53秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F


「ノアの箱舟」の形は、アダムのゲマトリア「45」が基本。
「ゲマトリア数秘術 - 聖書から浮かび上がるメッセージ」リコメンド動画 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DQexXEAvYayQ
888
神道とゲマトリア数秘術に隠された神は、日本の八という数字に表されています。八には意味があり、ゲマトリア的には、イエスのことを指しています。
神道とゲマトリア数秘術に隠された神 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flife.jah.tokyo%2F

10027荊の紀氏:2019/12/15(日) 01:45:18
古墳時代の測量…五芒星・六芒星測量…倍数
直角三角形の斜辺以外の辺の比をみてみると、 9 : 12 = 3 : 4 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmedia.qikeru.me%2F345-right-triagle%2F
9 : 12 = 3 : 4…
>540÷12=45  …540÷3=180
>720÷16=45  …720÷4=180
3つの辺の比が3:4:5になってる直角三角形のことね。


10028 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト):2019/12/15(日) 08:00:06
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-0.html



10029荊の紀氏:2019/12/15(日) 11:07:54
銅鐸は測量の器械…
銅鐸は測量器械で、巴型銅器と有鉤銅釧は銅鐸の吊り金具でした2015年5月20日(水)
銅鐸は測量の器械なんですよぉ〜〜!! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fkagome1248%2Fe%2F2d11ecce28b5daa9d167ac12e04d1181
銅鐸や銅鏡、銅剣は測量の器械でしたが、銅鐸と銅鏡で日時計にもなりますね。

現代の測量の仕方で、銅鐸と鏡と下げ振りと糸があれば測量ができますね。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fkagome1248%2Fe%2F3f42cdf90d35cc9a6cc3844efe3a0639
銅鐸は測量器械で、巴型銅器と有鉤銅釧 は銅鐸の吊り金具でした

銅鐸 測量の画像 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%25e9%258a%2585%25e9%2590%25b8%2B%25e6%25b8%25ac%25e9%2587%258f%26qpvt%3D%25e9%258a%2585%25e9%2590%25b8%25e3%2580%2580%25e6%25b8%25ac%25e9%2587%258f%26FORM%3DIGRE

銅鐸を用いて方位を測定するという説 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1772
銅鐸の中心から鰭に引かれた直線とその中心から型持ち孔に引いた直線が 作り出す角度をAとする。基準数と角度Aが一致する位置に銅剣を配置すれば「太陰 太陽暦」の基本型が出来上がる。そしてこれにより銅剣から銅鐸の中心までの配置距離 が ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.enjoy.ne.jp%2F%7Ehisasi%2F1999-2-3.html
図のように銅鐸の中心から鰭に引かれた直線とその中心から型持ち孔に引いた直線が作り出す角度をAとする。基準数と角度Aが一致する位置に銅剣を配置すれば「太陰太陽暦」の基本型が出来上がる。そしてこれにより銅剣から銅鐸の中心までの配置距離が決定される。
解説
358本の銅剣の刳方下端部厚平均値が0.79cmであるため、
93×0.79−0.79(目盛を計るため)=72.68(93本分の目盛が作り出す円周)
これが夏至の日入方位と一致するので、仮に出雲(北緯35.25)で計るとすると、
夏至の日の入り方位が29.8°より
2πr×29.8°/360°=72.68
これを解いて、r=139.81105
よって銅剣から銅鐸の中心までおよそ140cm前後
そして円周上に並べられた銅剣179本と銅鐸の孔から覗いた視覚内との空間が太陰暦と太陽暦の年格差を表している。後はその部分を銅剣で満たすことで理論上1年365日が導き出せる。そして正確な暦が完成すれば、それ以後は月を見て暦を判断出来るので、青銅器は普段使用されないことになる。
・・・
緯度のずれで生じる誤差につて
銅鐸を用いて方位を測定するという説はこれまで何度か浮上した。その中の問題点として、日本の地形は沖縄から北海道まで緯度でおよそ20度のずれがあるので銅鐸を用いた測量は不可能であることが挙げられている。これまで銅鐸測量の可能性は理論的に無理があるために専門家もそれ以上追求しなかったが、もし「その間違いに気付かずに測量を行った」場合どうなるかについてここではあえて考えてみたい。
この測量を行った場合、同緯度上にはポイントとなるものを配置出来るはずである。
日本各地には「一の宮」、「一宮」等の地名の町や集落が多く見られる。そこにはもともと、その国の土地、集落の最も主要な神社があった。「延喜式」に言うところの一宮は時代による変更分を含むと全国に約80社近くあるが、このうちの約1割の一宮が富士山と出雲を結ぶ北緯32度21分線上近辺にほぼ東西に並んでいる。
谷川健一氏は「青銅の神の足跡」の中で、諸国一宮の成立を平安末、あるいは鎌倉期としながらも、一宮の所在地と銅鐸などの出土地が重なり合うことから、一宮の所在地に対する地域住民の尊崇がはるか弥生時代にまで、たどり得る可能性を説いている。
このことから同緯度上での測量の痕跡を窺い知ることができる。


10030荊の紀氏:2019/12/16(月) 01:03:21
3:4  5:6…
左右に数字の3と4、正中線に数字の5に対応する穴が…裏面にも、肩に相当する位置に3つの穴が2組開けられて、数字の6を示している…?
日本にも実は178ヶ所ある、ストーンサークル。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftrip-s.world%2Fstone-circle_akita
ストーンサークルで有名なのはイギリスの「ストーンヘンジ」ですね。紀元前2,500年から2,000年の間に建てられたものです。巨大な石が馬蹄形に配列されていますが、氏族や部族のまとまりを保つために行われる儀礼・祭典のために造られたいわれます。
ところで、日本ではもっと古く、6,000年前頃からストーンサークルが各地に作られていました。その数なんと178ヵ所。しかもその約4割(74ヵ所)が東北の秋田県で見つかっているのです。なぜ、ここ秋田にこんなにたくさんあるのでしょうか? またここで何をしていたのでしょうか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftrip-s.world%2Fstone-circle_akita
…出土品の中で面白いのがこの土版です。一見、人形のようですが、よく見ると、大きな口が数字の1、目が数字の2、お腹(胸?)の左右に数字の3と4、そして正中線に数字の5に対応する穴が開けられています。実は裏面にも、肩に相当する位置に3つの穴が2組開けられて、数字の6を示しているのです。
この事から、少なくとも1〜6までの数字を縄文人は知っていた事になりますが、何のためにこの土版が作られたのか分かっていません。ガイドブックには“子供に数字の数え方を教えるために親が作ったのではないか“と記されていました。
ちなみに縄文土器は一般的に“土器の口縁”に盛り上がり部が複数あり、装飾されている例が多いのですが、この盛り上がり部の数が7つ以上の物はほとんどありませんので、6までの数を教えたというのもあり得る説かもしれません。


10031荊の紀氏:2019/12/16(月) 01:27:03
八郎潟の湖底…地球の十字路 経緯度交会点…
岩手県三陸海岸から秋田県男鹿半島までの両県を北緯40 線 が貫いています。 地球上の座標を示す経緯度線と縄文時代がどう関わるのでしょうか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1245

地上に現れた地球の十字路 経緯度交会点 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.ogata.or.jp%2Fgeopark%2Fgeopark%2Fu5.html
東経140度の経線と北緯40度の緯線が大潟村のほぼ中央で交わっています。その交わる地点※にはモニュメントが建てられています。日本の陸上で、経度と緯度が10度単位で交わるのはここだけです。
 ここはかつて八郎潟の湖底でした。1957年(昭和32年)から行われた干拓工事により八郎潟は干拓され、湖底に新たな大地が誕生しました。これに伴い、経線と緯線が10度単位で交わる「地球の十字路」が日本の陸上で初めて出現したのです。
 ※日本測地系:明治時代に定められた測量の基準で、東京の旧国立天文台跡地を経緯度の原点とし、2002年(平成14年)4月1日まで使われました。GPS時代の現在は世界標準の世界測地系が適用されており、世界測地系に基づく東経140度、北緯40度が交わる位置は、モニュメントから南東に約430m離れています。

ユリゲラーの聖数11の関係性を考える /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1848
環状列石 シュメール人 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1885
緯度 042°04′′ 経度 140°35′ 浜町(はまちょう) A遺跡縄文時代後期のストーン・ サークルや 甕棺墓 ( かめかんぼ ) など様々な形態の墓が発見されたことです。 函館市 (旧戸井町北緯41度46分 東経140度44分 大森勝山遺跡環状列石 ...
サークルストーンや遺跡など、世界中に残された20万を超える共通記号の秘密に迫る。 ...
甲骨文字、楔形文字など、人類は数多くの文字を使ってきた。しかし、1万年以上前、実は世界中で同じ文字が使われていた!?
サークルストーンや遺跡など、世界中に残された20万を超える共通記号の秘密に迫る。そして、その記号が日本では北九州に集中していることに注目。北九州に巨大文明が存在していたのではないか?沖ノ島にそれを裏付ける海底神殿の遺跡を発見。
なんと、そこには神を模したと思われる両性具有の2体の金属製の像が!緻密な造りで高度な製作技術を伺わせる謎の神像がスタジオで披露される!
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.tv-tokyo.co.jp%2Fnihonmystery2%2F
阿久遺跡(あきゅういせき)は、長野県諏訪郡原村に所在する縄文時代の遺跡であり、現在のところ最古級の環状集石が構築されている。配石遺構ともいう。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww14.plala.or.jp%2Fbunarinn%2FdairyA%2Fencarta%2Fkodaisi%2Fakuiseki%2Fakuiseki.html
緯度経度は[35.93??,138.22]、


10032荊の紀氏:2019/12/16(月) 01:43:47
八郎潟…十和田湖こそ、永年探し歩いていた永住の地…
八郎太郎伝説 -南祖坊との戦い・八郎潟の起こり-「東北地方民話」
kotodama.日本伝.com/八郎太郎伝説-_南祖坊との戦い_八郎潟の起こり/
ある日、十和田湖に一人の旅人が通りかかると、彼の草鞋がプツリと切れました。
この男、名を南祖坊(なんそぼう)といい、三戸郡斗賀村(現・青森県南部町)出身の修行僧でした。
彼は熊野で修行をしたのち、熊野権現より鉄の草鞋を授かり、「これを履いて諸国を廻り、草鞋が切れた処を今生の住処とせよ。」と神託があったのでした。
南粗坊は十和田湖こそ、永年探し歩いていた永住の地と悟り、喜びました。
・・・
十和田湖…
十和田湖で、驚きの超常現象が現在進行中です。 3.11大地震後の昨年夏、十和田湖で「謎のキリスト像」が発見されました。
驚き!十和田湖ミステリー 深まる謎 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fchihoko777.exblog.jp%2F18111873%2F
地震後の昨年の夏には、かつて無いほど十和田湖の水位が下がり、水面下に沈んでいたキリストが出現したということなのです。
よく見ると、自然の岩のように見えました。
しかしながら、このキリストを守るかのように背後の岩は大きく窪んでいます。
何万年もの時の流れで風化したとしても、この岩がキリストに見える事実。
感じるか、感じないかはそれぞれですが、わたしには何かを伝えたくてそこにお立ちになっているように見えました。
さらに不思議なことが・・・。
このキリスト像は西を向いておりますが、その視線の先の対岸には
驚くことに人知れずキリスト像の方を向いて建っている小さな礼拝堂があるのです。
キリストと礼拝堂が向き合っている不思議、ただの偶然なのでしょうか。
さらに、十和田湖の東に位置する新郷村(旧戸来村)には、キリストの墓があるというのです。
戸来(へらい)の名称はヘブライに由来しているのでは、という説もあります。
キリストの墓の傍らには、イスラエル国エルサレム市と新郷村の友好の証として寄贈された石盤があります。
2004年のキリスト祭でイスラエル駐日大使が出席し、エルサレム・ストーンが国営航空エルアル・イスラエルの特別機で空輸されるという異例とも思われる特別措置がとられたそうです。
十和田という文字をよくご覧になってみてください。
「十」すなわち、十字架を意味します。
「和」は、プラス(十)、つまり十字架。
「田」は、十が口で囲まれています。

この十和田湖周辺にあるキリストミステリーを、あなたは どうお感じになりますか。


10033荊の紀氏:2019/12/16(月) 01:51:25
十和田湖(東経140度52分)…ミステリー、あなたは どうお感じになりますか。
東経140度52分
十和田湖 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
北緯40度27分53秒 東経140度52分38秒

北緯43度11分58.6秒 東経140度52分29.5秒
忍路環状列石(おしょろかんじょうれっせき)は、北海道小樽市忍路にあるストーンサークルの遺跡である。日本の考古学史上初めて学会に報告されたストーンサークルでもある。1961年(昭和36年)3月10日に国の史跡に指定された[1]。三笠山ストーンサークル、忍路環状石籬(おしょろかんじょうせきり)とも呼ばれる。


10034荊の紀氏:2019/12/16(月) 02:19:29
東経140度52分29.5秒…『エッセネ派』…消滅…新郷村(旧戸来村)?
忍路環状列石(おしょろかんじょうれっせき)は、北海道小樽市忍路にあるストーンサークルの遺跡である。日本の考古学史上初めて学会に報告されたストーンサークルでもある。1961年(昭和36年)3月10日に国の史跡に指定された[1]。三笠山ストーンサークル、忍路環状石籬(おしょろかんじょうせきり)とも呼ばれる。
北緯43度11分58.6秒 東経140度52分29.5秒
北緯35度57分52.4秒 東経138度11分23.0秒
阿久遺跡(あきゅういせき)は、長野県諏訪郡原村に所在する縄文時代の遺跡であり、現在のところ最古級の環状集石が構築されている。配石遺構ともいう。
縄文時代前期を通じて長野県八ヶ岳西麓の阿久川と大串川に挟まれた標高904メートルの丘陵上に拡がる大遺跡である。中央自動車道西宮線の工事に伴い発掘調査がなされ、遺跡を破壊して中央道を建設するか保存かが問題となった。議論の結果、中央道の設計変更がなされ、中央道の下に埋没保存という形になった[1]。1979年(昭和54年)7月2日、国の史跡[2] に指定されている。
前期初頭には30軒の住居と8基の方形柱列がつくられた。
前期中期には20軒近い住居や土壙墓群が営まれた。
前期末葉には丘陵中央に大環状集石群が構築された。
環状集石群(ストーン・サークル)
この環状集石群の規模は長径120メートル、短径90メートル、幅30メートルで、約20万個のこぶし大から人頭大の河原石をドーナッツ状に配するものである。ドーナッツ状リングの中央に立石構造があり大小24個の板状の角柱石(安山岩)と半径1メートルの円形に8個の平石が囲んでいて、その周りに人骨を埋葬したと思われる竪穴と河原石を直径2-3メートルの円形に積んだ集石遺構が多数取り巻いている。約700基余りの土壙墓があると推定されている。さらに、この集石墓から約50-100メートル程離れたところに、ほぼ同じ時期の竪穴住居址が南と東に分かれ、それぞれひとまとまりになって分布している。これらの立石・集石群は、中央の立石からドーナツ状の集石群の間を通して蓼科山を拝望できるように作られた祭祀場であったと考えられている[3]。
これだけの大遺跡が一つの集落だけで造ったものでなく、この地域に存在する集落群(村落)の労働力を集中して造られたと推測できる。このように縄文社会は、村落をあげての共同労働や共同作業を管理運営組織が存在した社会であったと想像するに難くない。
共同労働や共同作業を管理運営組織が存在した社会…
質素な共同生活を営んだ…
エッセネは【エッセネ派】 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
紀元前二世紀頃おこったユダヤ教の一派。財産の共有、独身主義が特色。死海周辺で農業を中心に質素な共同生活を営んだ。死海文書を残したクムラン教団はその一部といわれる。
…〈クムラン文書〉を蔵していた共同体がユダヤ教エッセネ派に属するという,発見当時の仮説は,その後の証拠により着々と裏付けられ,この世を光(真実の霊)と闇(虚偽の霊)との戦いの場とし,終末における光の勝利を確信し,厳格な戒めを守りつつメシアの到来を待ち望むという彼らの生活態度は,洗礼・聖餐という典礼とともに原始キリスト教会に引き継がれたと想定することもできる。一方,死海写本は旧約聖書本文の歴史や当時のヘブライ語・アラム語の解明のため,新しい光を投じたものであることは言うまでもない。…

神殿の僧侶側のサドカイ派と争っていた『エッセネ派』も、歴史的には、サドカイ派というライバル派閥の終焉とともに、自らも存在意義を消失したのか、ファリサイ派に合流する形で消滅して行ったという説があります。
 あるいは紀元前40年に起こったローマ人に対するユダヤ人の反乱の後の地震で、エッセネ派が消滅してしまったとも言われているようですが、真実はどうなのでしょうか?
「エッセネ人」も敬虔な人という意味です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fag-clinic%2Fe%2F2d94e8ca168ccb6f6021f24fbbdc8403
 今でもどこかでひっそりと、エッセネ人は暮らしているのでしょうか?
参考…
阿久遺跡と神籠石のレイラインwww.historyjp.com/article.asp?kiji=202
         www.historyjp.com/article.asp?kiji=194
    www.historyjp.com/article.asp?kiji=253
総目次www.historyjp.com/all_index.asp


10035荊の紀氏:2019/12/16(月) 15:47:32
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
??史実探偵: 平 素人(ヒイラ??モト)さんへのお返事です。

確率 高いです。 <岡山県総社市岩屋の金堂寺裏の斜面に>筆者のいう23±α個の銅鐸が1700年の眠りについている!!
岩屋寺(岡山県総社市)ada3yama.blog.fc2.com/blog-entry-94.html
北緯34.708612
東経133.805127
…たしかに 古墳や寺社のラインが交わっています。
私のは裏山の形が前方後円墳の見えます。

荒神谷遺跡
北緯35.3765
東経132.852417
荒神谷遺跡ー岩屋寺
距離  114.31084?
方位角  130.297705度(49.702295度)

兵庫県の淡路島にある石材メーカーの工場の砂の中から、弥生時代の祭りに使われたとされる銅鐸7点が見つかった。
株式会社マツモト産業の加工工場
北緯34.428274
東経134.826299
マツモト産業ー岩屋寺
距離  98.671041?
方位角  108.147446度(71.852554度)…108度 72度…五芒星の角度!

荒神谷遺跡ーマツモト産業
距離  198.642748?
方位角  111.397006度ー108.147446度=3.24956度(約 3度)

111.397006度ー130.297705度(荒神谷遺跡ー岩屋寺)=18.900699度…18度なら…五芒星の角度!
108度 72度 18度なら…五芒星の角度!縄文測量に間違いない!!!



> 管理人様、
>   コメントありがとうございます。色々に論も、興味もつきません。
>
> <モノ云わぬ70名〜200名の訪問者さまへ^^>
> 列島へ100枚の“銅鏡が”大量移入し、『一時的に』その総数・絶対数が、増大した !!
>    ここが、この時が、「銅鐸文化」から「銅鏡文化」へ変わる歴史の変換点だ!
>    その節目に、魏から得た銅鏡100枚があり、卑弥呼がいる !!。
>  大量の銅剣・銅鐸のよもやま話-?&;?
>   /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ffujorinokuukan.blog108.fc2.com%2Fblog-entry-3.html
>
>
> 銅鐸文化から銅鏡文化への移行は、何人も否定できない!!
>  厳密にいえば銅鏡のほうは、現在も神社等の御神体として使用されてますが^^!。
>
> <岡山県総社市岩屋の金堂寺裏の斜面に>筆者のいう23±α個の銅鐸が1700年の眠りについている!!
>  それが出土してから大騒ぎするより、その出土まえをたのしみませんか^^?
> 縄文・超古代史掲示板のほうでお待ちしています^^!   https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs

10036管理人:2019/12/16(月) 22:36:44
おすすめ本
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010585M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010585_2M.jpg

https://www.amazon.co.jp/DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史―日本人集団・日本語の成立史-崎谷-満/dp/4585053948



10037 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト):2019/12/17(火) 03:39:00
Re: 卑弥呼が総社市に埋めてある23個の銅鐸掘り上げませんか^^?
紀氏先生へのお返事です。

>?? 史実探偵: 平 素人(ヒイラ??モト)さんへのお返事です。
> 確率 高いです。 <岡山県総社市岩屋の金堂寺裏の斜面に>筆者のいう23±α個の銅鐸が1700年の眠りについている!!

・・言及、ありがとうございます。
銅鐸については、緒論がありますね^^・縄文・超古代史掲示板に投稿しました。

>??> 縄文・超古代史掲示板のほうでお待ちしています^^!   https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs

10038山田:2019/12/17(火) 10:38:43
RE:ユダヤ人埴輪の謎
>著者の田中氏の講演動画もありますね。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DJoilXU-ILxE

・・
イントロの部分しか拝聴してませんが、興味あり。
信長・秀吉・徳川が中世末から近世にかけいかに強かったか、キリシタンとの接触を第一に挙げてます。徳川鎖国下においては残虐誹謗の限りで、これを強いとみてはいけないのでしょうけど。天皇制との駆け引きは微妙ですね。
・・
話は変わりますが、日本人のルーツさん、心配ですね。子連れで海外在任らしいですけど、子どもの教育どうしてるんでしょう。遺伝子原理主義みたいで父親に一番影響されるでしょう。
・・

10039管理人:2019/12/17(火) 13:46:48
Re: RE:ユダヤ人埴輪の謎
山田さんへのお返事です。

> >著者の田中氏の講演動画もありますね。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DJoilXU-ILxE
>
> ・・
> イントロの部分しか拝聴してませんが、興味あり。
> 信長・秀吉・徳川が中世末から近世にかけいかに強かったか、キリシタンとの接触を第一に挙げてます。徳川鎖国下においては残虐誹謗の限りで、これを強いとみてはいけないのでしょうけど。天皇制との駆け引きは微妙ですね。
> ・・

さっそくお返事ありがとうございます!もともと古代史の専門の方ではないようですね。退職されてから本格的にやりはじめたようです。わたしもまだ一部しかみてないので、後刻みてみます。

> 話は変わりますが、日本人のルーツさん、心配ですね。子連れで海外在任らしいですけど、子どもの教育どうしてるんでしょう。遺伝子原理主義みたいで父親に一番影響されるでしょう。
> ・・

そうですね、彼の最後の投稿の際には暴れまくっていたので、今はお薬のんで静かに過ごされているのではないでしょうか・・(汗)


10040管理人:2019/12/18(水) 01:05:21
綿貫観音山古墳⇔埼玉古墳群⇔芝山古墳群ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010589M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010589_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010589_3M.png

http://www.echiba.org/pdf/kiyo/kiyo_divi/kd024/kiyo_024_08.pdf



10041荊の紀氏:2019/12/18(水) 10:10:51
距離 50?ー53?ー62?が描く 渡来アングル?
芝山古墳群ー柴又八幡神社古墳
距離 49.975012?
方位角 280.084733度…西
柴又八幡神社の古墳石室 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkofun.info%2Fkofun%2F590

三昧塚古墳
北緯36度9分17.30秒 東経140度21分57.26秒
十進数 36.154806, 140.365906
この三昧塚古墳は、墳丘・埋葬施設・副葬品・埴輪等より古墳時代中期の5世紀中葉-後半頃の築造と推定される[6]。被葬者は明らかでないが、霞ヶ浦を地理的環境を利用して治めた有力首長と想定される[2]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

芝山古墳群ー三昧塚古墳
距離 52.985024?
方位角 354.762008度…北

距離 52.985024? − 距離 49.975012? = 距離差 3.010012?
354.762008度ー280.084733度=角度差 74.677275度…(72度なら五芒星測量)

柴又八幡神社古墳ー三昧塚古墳
距離 62.493215?
方位角 44.909812度…(約45度…鬼門?)
鬼門とは、方位の項で説明したように家の中心、又は敷地の中心から見た北東45度(表鬼門)の範囲と、南西45度(裏鬼門)の範囲を指し、それぞれの範囲の中心を通る線を「鬼門線」と呼びます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fpolaris-hs.jp%2Fkaiteki%2Fkaso_kimon.html


10042荊の紀氏:2019/12/18(水) 10:13:19
Re: 距離 50?ー53?ー62?が描く 渡来アングル?
荊の紀氏の追伸です。

芝山古墳群
北緯35度40分51秒 東経140度25分11秒
十進数 35.680833, 140.419722
木戸川の上流にあたる北側の芝山町には山田・宝馬古墳群、下流の南側の山武市には千葉県指定史跡の山室姫塚古墳や大堤権現塚古墳、あるいは蕪木古墳群など多数の古墳がある。また南東側には、中台貝塚、鴻ノ巣貝塚、牛熊貝塚、山武姥山貝塚などの貝塚があり、縄文時代の丸木舟が多数発見されていることで知られた水系である栗山川と、そのラグーンであったと推定される坂田池がある。さらに、栗山川東岸の下海上国造の領域には小川台古墳群などもある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

柴又八幡神社古墳
北緯35度45分29.5818秒 東経139度52分30.1643秒
十進数 35.758217, 139.875046
葛飾・柴又の「寅さん埴輪」(東京・葛飾)www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/framepage3.htm
柴又八幡神社境内の古墳が造られた時代、日本は国家の形成期にあった。当時日本は律令時代にあって、全国に國・郡・郷(里)がおかれ、中央集権体制を強化していくために戸籍制度をつくって、人々を強制的に土地に縛りつけ、厳しい税金の徴収が行われた。www5f.biglobe.ne.jp/~kodai-musashigaku/framepage3.htm
帽子をかぶった男性埴輪。眉毛と鼻はT字状につくり、目と口は横長にあけられていて、下総型といわれる埴輪の中では首が長めにつくられているという。首には「突帯」がかけられ、耳環と首飾りが飾られていて、帽子は鰐付で頭頂部には孔があいている。(葛飾郷土と天文の博物館)
寅さん埴輪が出土したのは、京成線の柴又駅のすぐ近くにある柴又八幡神社古墳。八幡神社は、駅からすぐ近くだが、帝釈天の方向に向かって左側、帝釈天に向かう仲見世とは反対側なので(京成線の線路の南)、あまり目につかないところにある。
  柴又八幡神社は古墳の上につくられた神社で、「古墳と神社」の関係を最もよくあらわしている神社である(当ホームページの『古代武蔵学事始め』参照)。ただし、この柴又八幡神社のように、社殿の下から古墳が発掘され、しかも見事な埴輪や馬具が出土したのは大変珍しい。
  柴又八幡神社は、古くから石組みなどが露呈していて、古墳ではないかと言われていたそうだ。1975年(昭和40年)の社殿改築の際に調査が行われ、埴輪片、馬具、石室の石材が確認された。その後本格的な調査が行われ、八幡神社の社殿そのものが古墳の上に建てられていることが明らかになった。現在はすべて埋め戻されていて、神社裏手に記念碑がつくられている。
  八幡神社古墳は横穴式石室と埴輪をともなう古墳時代後期の6世紀後半に築かれた古墳で、石室は将軍山古墳(埼玉県行田市)などと同じ房州石(房総半島の鋸山周辺)で築かれているという。出土した埴輪は下総型といわれているが、比べてみるとつくりが違っているということで、この古墳が下総國と武蔵國の境界線にあったことが注目されている。



> 芝山古墳群ー柴又八幡神社古墳
> 距離 49.975012?
> 方位角 280.084733度…西
> 柴又八幡神社の古墳石室 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkofun.info%2Fkofun%2F590
>
> 三昧塚古墳
> 北緯36度9分17.30秒 東経140度21分57.26秒
> 十進数 36.154806, 140.365906
> この三昧塚古墳は、墳丘・埋葬施設・副葬品・埴輪等より古墳時代中期の5世紀中葉-後半頃の築造と推定される[6]。被葬者は明らかでないが、霞ヶ浦を地理的環境を利用して治めた有力首長と想定される[2]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
>
> 芝山古墳群ー三昧塚古墳
> 距離 52.985024?
> 方位角 354.762008度…北
>
> 距離 52.985024? − 距離 49.975012? = 距離差 3.010012?
> 354.762008度ー280.084733度=角度差 74.677275度…(72度なら五芒星測量)
>
> 柴又八幡神社古墳ー三昧塚古墳
> 距離 62.493215?
> 方位角 44.909812度…(約45度…鬼門?)
> 鬼門とは、方位の項で説明したように家の中心、又は敷地の中心から見た北東45度(表鬼門)の範囲と、南西45度(裏鬼門)の範囲を指し、それぞれの範囲の中心を通る線を「鬼門線」と呼びます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fpolaris-hs.jp%2Fkaiteki%2Fkaso_kimon.html
>

10043荊の紀氏:2019/12/18(水) 16:37:36
馬や馬具の生産にたけた渡来人の多くは、ある程度の軍事集団だった…
東経139度28分54.41秒(将軍山古墳)北緯35度40分51秒(芝山古墳群)…

東京競馬場 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
東経139度29分8秒   北緯35度39分44秒
十進数35.662222, 139.485556
大國魂神社の七不思議について 御供田の苗 現在の東京競馬場の敷地内にかつて、神社の御供田があり、そこで "くらやみ祭" の翌日、5月6日にお田植え祭という神事が行われていました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.ookunitamajinja.or.jp%2Fmame%2F

将軍山古墳-東京競馬場
距離 51.765681?
方位角 179.604375度(南)0.395625度

日本の近代化、朝鮮半島から入った技術・文化が土台に…渡来人の大きな功績 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbiz-journal.jp%2F2018%2F11%2Fpost_25616_3.html
大磯の渡来人の一部は武蔵国の高麗村(現・埼玉県日高市)に移ったといわれる。日高市にある西武鉄道池袋線の高麗駅前には「天下大将軍」「地下女将軍」と記された朝鮮半島の道祖神(将軍標)が建てられている。
 関東では5世紀の古墳の周溝などから、馬を殉葬した土壙も相次いで発見されている。おもに信濃国(長野県)、上野国(群馬県)、下総国(千葉県北部と茨城県の一部)などだ。いずれも古代国家の設置した牧の近くとみられる場所で見つかっている。牧で馬を育てるため、東国に住まわされた渡来人たちの残したものとみられる。
 馬や馬具の生産にたけた渡来人の多くは、ある程度の軍事集団だったと推測される。実際、神亀元年(724年)に起こった大和朝廷の蝦夷(えみし)に対する戦争では、武将格で高句麗系の後部王起(こうほうのおうき)という人物が東北に派遣されている。
 このことから、関東の古墳時代後期には、のちの東国の武士団の萌芽がすでに現れかけているとの見方もある。そうだとすれば、日本の武士の起源は、中央ユーラシア発祥の騎馬文化を身につけた朝鮮半島からの渡来人だったということになる。流鏑馬が草原を疾走する騎馬遊牧民を連想させるのは、自然なことなのである。
 昨今、日本の文化を賛美し、他国文化を貶める風潮が目につく。だが古代の倭人は絶えず多くの渡来人を受け入れ、異文化を受容する姿勢を常に保った。それが奥行きのある日本文化を形づくったといえる。いつの時代も、文化の本質はグローバルである。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)
<参考文献>
古代史シンポジウム「発見・検証日本の古代」編集委員会編『騎馬文化と古代のイノベーション』(発見・検証日本の古代2)角川文化振興財団
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー 大人のための世界史入門』ミネルヴァ書房
金達寿『日本の中の朝鮮文化(1)』講談社文庫
白石太一郎『古墳とヤマト政権 古代国家はいかに形成されたか』文春新書
網野善彦・森浩一『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』講談社学術文庫

ニュースサイトで読む: /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbiz-journal.jp%2F2018%2F11%2Fpost_25616_3.html
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10044荊の紀氏:2019/12/19(木) 09:40:27
雷神(田の神)…主神は高神(高句麗?)、配神に大山祇神・大雷神…
アレキサンダーと牛頭天王のルーツと雷神スサノオの本名 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fmotoharu567%2Fentry-12414556770.html
 奈良県天理市布留(フル)町の布留山の北西麓に鎮座する石上神宮に、
その秘密が隠されている。
石上神宮は「布都御魂大神(フツノミタマノオオカミ)」を主祭神とし、その他の配祭神の中で重要な2神が…

大山祇神、大雷神、高おかみの神の三紙を祀りさらに、海人たちの守り神として鳥石楠船神も合祀されていますwww.afuri.or.jp/about/
大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、今から二千二百余年以前の人皇第十代崇神天皇の御代に創建されたと伝えられている式内社でございます。 古くから相模国は許より関東総鎮護の霊山としてご崇敬を集めて参りました。海抜一二五二米の山頂からは、祭祀に使われたと思われる縄文土器が出土しており、当山の歴史の古さを物語っております。
大山は、別名「あめふり山」とも呼ばれ広く親しまれてきました。このあめふりの名は、常に雲や霧が山上に生じ、雨を降らすことから起こったと云われ、古来より雨乞い信仰の中心地としても広く親しまれて参りました。
奈良時代以降は神仏習合の霊山として栄え、延喜式にも記される国幣の社となりました。そして、武家の政権始まった後も源頼朝公を始め、徳川家等の代々の将軍は当社を信仰し、そして武運長久を祈りました。庶民からの崇敬も厚く、人々は「講」という組織を作り挙って大山へ参拝をしました。隆盛を極めた江戸期には年間で数十万が訪れたと記録されています。「大山詣り」と呼ばれた当山への参詣は古典落語の中でも語られ、著名な浮世絵師によって多くの浮世絵も残されています。そうした作品に描かれた躍動感溢れる人々の姿からも、いかに大山が当時の人々にとって身近な存在であったかを窺い知ることが出来ます。
…一年の天候を占い農作物の豊凶を占う筒粥神事、天地の魔と穢れを祓う引目祭、夏の山開き、火祭薪能などの多種多様な神事が現在も行われ、三百年以上の伝統を誇る大山固有の大山能、そして巫女舞、倭舞も今に継承されております。
阿夫利神社は、古代から人々の心の拠り所となり、国を護る山・神の山として崇められてきました。
山野の幸をつかさどる水の神・山の神として、また、海上からは羅針盤をつとめる海洋の守り神、さらには、大漁の神として信仰をあつめると共に、山岳信仰の中心として、今日に及んでいます。
春は花、夏は新緑、秋は紅葉、冬は雪と四季折々に彩られるこの大山は今もなお、伝統と文化を継承し続け、参拝をする人が絶えません。

雨乞い信仰…田の神…
田の神…将軍山古墳-東京競馬場
> 現在の東京競馬場の敷地内にかつて、神社の御供田があり、そこで "くらやみ祭" の翌日、5月6日にお田植え祭という神事が行われていました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.ookunitamajinja.or.jp%2Fmame%2F
神事…

田斉に繋がる高尾山古墳 秀真文字の「田」katomiraikoubou.sakura.ne.jp/wp/2018/09/03/田斉に繋がる高尾山古墳%e3%80%80秀真文字の「田」/
呉の水軍が倭国攻略の作戦の一環として、自軍の基地を海上・陸上から互いに識別できるように、衛温が前方後円墳、諸葛直が前方後方墳を築造したという仮説を立てた。その根拠は、水軍の渡来時期とそれぞれの古墳の出現時期が重なり、さらに将軍の名前から、衛温は円、諸葛直は四角形の名称が導き出されるからだ。
実はこの田方、田京の「田」から、別の有力氏族の名前が浮かび上がって来たのである。

五世紀半ば…田村臣は高麗系の渡来人で高田首の後裔…淡路国?? 投稿日:2019年12月19日(木)09時30分28秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F


10045管理人:2019/12/20(金) 00:06:23
関東後期古墳方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010594M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010594_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010594_3M.jpg

http://kofunmoodys.fc2web.com/sano_3.html#yoneyama



10046国家元首:2019/12/20(金) 04:38:12
騎馬民族は来なかった?
九州と関東の武士の強さは異常で、何か重要な理由があると考えるべき。栗林中将は、硫黄島に九州と関東の兵隊を集めたと聞いたことがある。栗林さん自身、真田の武将の末裔で、真田の本拠地出身者だとか。

隋は高句麗攻略に失敗して短命に終わった。高句麗は隋の予想を超えて強かった。流行りの遺伝子の痕跡話では渡来人は幻のようだが、文献や遺跡からすれば、関東地方は新羅・高句麗からの渡来人が多く住み着いた場所だった。だから、関東地方には馬に関する名前の土地が多く、騎馬民族的な遺物が多く出土する。

聖書ではユダ族は特に戦争に強かったように書かれている。だから源氏とか秦氏の系統の武士団が強かったのではないだろうか。主流派の大和民族は、ヒクソスの末裔なので、精神構造も戦闘の仕方もユダとは違うと思う。古代三韓と大和の関係も、そうした視点から考えると面白いだろう。

10047荊の紀氏:2019/12/20(金) 06:34:45
葛川-
>万年橋は毛呂山町(左岸)と. 坂戸市(右岸)を結ぶ全長250m(歩測)の鋼桁橋。 ... 万年橋とは. 永久橋(冠水しない橋)と同じ意味の普通名詞。 上流側の. 桁 ...
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Ffukadasoft%2Fbridges%2Fkomagawa%2Fwakamiya%2Findex2.html

>坂戸市は埼玉県のほぼ中央に位置し、都心から45km圏内に位置しています。 ... これは、近畿地方にある「さかど」もしくは「さかと」と読む地名が物部氏ゆかりの地にあり、本市周辺も古代には物部氏の勢力下にあったらしいことから主張されたものです。 ...
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.sakadokankou.com%2Foutline.html
近畿地方にある「さかど」もしくは「さかと」と読む地名が物部氏ゆかりの地にあり、本市周辺も古代には物部氏の勢力下にあったらしいことから主張されたものです。
 今のところ、「さかど」の起こりについては、残念ながらはっきりとわかっていません。

そこをすこし行って脚折月待戸の交差点を左折して数分走ると高麗川にかかる万年橋で出くわしました。なぜ万年橋が重要なのかについての詳細は紀氏さんこと保田氏の「古墳のこころ」を読んでいただきたく感じます
高麗郡 05.03.26www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/koma050326.htm
要点としては真東は香取(鹿嶋)神宮を望む万年橋を測量起点としてカゴメ(六角形)方向に古代の遺跡が造営されていたとのことであります。また籠目の歌を手がかりに、万年橋を中心にそばの鶴舞、鳩山市、滑川町との関連から、いわゆる「籠の中の鳥はいついつ出会う・・鶴と亀が滑った」という歌詞との対応を考えられています。そこから外来文化特に鳩とのイメージからキリスト教とのかかわりをご指摘されているのですが、確かに行ってみると西南の高麗郡方向はもとより、四方よく見渡すことができ、測量起点としても絶好の場所であることがわかりました。

万年橋は毛呂山町(左岸)と. 坂戸市(右岸)を結ぶ全長250m(歩測)の鋼桁
高麗川 - 若宮橋の周辺  [高麗川のページ一覧]fukadasoft2.sakura.ne.jp/bridges/komagawa/wakamiya/index2.html
緯度 35.945882
解度 139.361471
万年橋の下流左岸へは葛川放水路(注)が合流している。

葛飾とはもともと下総国葛飾郡一帯の広大な地の総称だったそうです。
現在というところの
北を、埼玉県北葛飾郡
西を、東京都葛飾区や墨田区・江東区の東部
東を、茨城県古河市
南を、江戸川区や浦安市付近とする一帯だったそうです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fchimei.kkf.co.jp%2Farchives%2F103

『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』(田中英道) の作品紹介・あらすじ:高い帽子、伸びた髭、豊かなもみあげをもつユダヤ人埴輪が多数出土している。それは秦氏一族である /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbooklog.jp%2Fitem%2F1%2F4585222529
葛飾 ユダヤ 埴輪 寅さんの画像 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%25E8%2591%259B%25E9%25A3%25BE%2B%25E3%2583%25A6%25E3%2583%2580%25E3%2583%25A4%2B%25E5%259F%25B4%25E8%25BC%25AA%2B%25E5%25AF%2585%25E3%2581%2595%25E3%2582%2593%26qpvt%3D%25e8%2591%259b%25e9%25a3%25be%25e3%2580%2580%25e3%2580%2580%25e3%2583%25a6%25e3%2583%2580%25e3%2583%25a4%25e3%2580%2580%25e5%259f%25b4%25e8%25bc%25aa%25e3%2580%2580%25e5%25af%2585%25e3%2581%2595%25e3%2582%2593%26form%3DIGRE%26first%3D1%26cw%3D1117%26ch%3D937

古代の「かつしか」という領域は広大なものでした。古代の「かつしか」は、(・江戸川・墨田・江東区)と、千葉県市川・柏・流山・松戸・船橋市や埼玉県栗橋および茨城県古河・総和市までおよぶ広い地域がその範囲でした。「かつしか」の地名は、当時の全体の地形的特徴を捉えることで説明ができます。
「葛」の字の不思議 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.city.katsushika.lg.jp%2Finformation%2F1000074%2F1005533.html
「かつしか」の「かつ」は丘陵や崖などを指し、「しか」は砂州などの低地の意味をもっています。「かつしか」とは、利根川流域の右岸に低地、左岸に下総台地が広がる旧葛飾の地理的な景観から名付けられたと考えられます。
「葛」
葛 カツ・くず・かずら  艸部   ※新指定の常用漢字のため下部を匂にしても可。
解字  「艸(草)+曷(請い求める)」 の会意形声。光りを求めてツルをのばして繁茂する草。つる性の植物をいう。
意味 (1)くず(葛)。マメ科のつる性の多年草。根から生薬や葛粉を作り、つるの繊維から布を作る。「葛布くずふ」「葛粉くずこ」 (2)かずら(葛)。つる草。「葛藤カットウ」(かずらや藤のつるがもつれ、からむこと。もつれ。心の迷い) (3)人名。地名。「葛飾北斎カツシカホクサイ」(江戸後期の浮世絵師)「葛飾区カツシカク」(東京都の区名)
音符 「匃カイ」 <死者のよみがえりを願う> と 「曷カツ」 「掲ケイ」
解字 篆文は、「勹ホウ(人が身体をまるくした形)+?ボウ(=亡。死者)」の会意。?ボウは死者の象形、勹ホウは人が身体をまるくして包む形、両者を合わせた匃カツは、死者を抱いて、そのよみがえることを願うこと。
意味 もとめる。請う。ねがう。
曷 カツ <請い求める>
曷 カツ・なんぞ・いずくんぞ  日部
解字 篆文は「曰エツ(いう)+匃カイ(もとめる)」の会意。匃カツは死者をだいて、そのよみがえりをねがう形。曰エツは、いう意(現代字で日に変化)。両者を合わせた曷は、よみがえりの願いを大きな声で言う形で、「請い願う」意味となる。しかし、本来の意味でなく、「なんぞ」「いずくんぞ」の助字に仮借カシャ(当て字)された。新字体の音符になるとき、下部が、匃⇒匂に変化する。
意味 (1)なんぞ(曷ぞ)。いずくんぞ。 (2)いつか。
イメージ  「仮借カシャ」 (曷)
       「請い求める」 (渇・葛・褐・謁・靄・藹)
       よみがえりを願って 「大きな声をだす」 (喝・歇)
蠍 カツ・ケツ・さそり  虫部
解字 「虫(むし)+歇(カツ)」 の形成。カツという名の虫。さそりをいう。カツのイメージは不明。
意味 さそり(蠍)。サソリ目の節足動物。尾の先の針に毒をもち刺す。蝎カツとも書く。「蠍座さそりざ」(サソリの形をした星座。夏の星座)「蛇蠍・蛇蝎ダカツ」(へびとさそり。人が恐れ嫌うものの例え)

歴史の陰に秦氏あり・・・「我は第16代ホムダスメラノミコトヒロハタヤハタマロなり・・・。」 …
「 勝 」とは{すぐり}と読み、この字が名前に付く者は秦一族の支族である。 従って辛嶋とは秦氏の系統である。uzumasa-1962.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-0624.html
カツという名の虫(蛇)
古墳時代 - 飛鳥時代
秦 河勝(はた の かわかつ)は、古墳時代から飛鳥時代にかけて存在したとされる人物。姓は造。秦丹照または秦国勝の子とする系図がある。
父:秦丹照[1]または秦国勝
弓月国出身の弓月君と一緒に渡来した部族の子孫の秦氏の一員といわれる。聖徳太子の側近として活躍した。また、弓月国を含む広い地域(中東、中央アジア、東アジア西部)で広く定着していた東方キリスト教(東方緒教会)の信徒で富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、東方キリスト教思想の慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。
…虫祭りをすることを勧めた。巫女たちも神のお告げといつわり、「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といった。このために信仰は広まり、都でも田舎でも常世の虫をとって安置し、財宝を差し出したが、何の利益もなく、損失が多かった。秦河勝は民衆が騙されるのをにくみ、大生部多を捕え打ち懲らしめたところ、巫女も恐れて祭りを勧めることをやめた。時の人は以下のような歌を詠んだ[6]。
ウヅマサハ、カミトモカミト、キコエクル、トコヨノカミヲ、ウチキタマスモ。
〈太秦(うづまさ)は神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神を、打ちこらしたのだから。〉
景教との関係
英語教師の佐伯好郎は明治41年(1908年)1月に『地理歴史 百号』(主宰:喜田貞吉)収載論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において、秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説を発表した。唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていたためである。また秦の始皇帝の父親が碧眼であった[要出典]と言われている。
ただしユダヤ人と他民族の非学問的な同祖説は世界中に多数あり、学界の通説とはなっていない。また大秦景教流行中国碑によれば、貞観9年(635年)にペルシア人の阿羅本が景教の主教として宣教団を率い、長安を訪れたのが最初と記されており、とっくに秦氏は日本に帰化したはるか後のことであって当時すでに中国には秦氏はいない。


10048荊の紀氏:2019/12/20(金) 10:03:55
田氏…李家…?
>それでライン面からみると、綿貫観音山古墳が測量起点・始祖的な位置づけになりそうな感じですが、ただ、二重周濠ではあるものの馬蹄形で長方形ではない点で相違します。
綿貫観音山古墳
北緯36度18分26秒
東経139度4分38秒
36.307222, 139.077222

妙義山
北緯36度17分55秒 東経138度44分56秒
36.298611, 138.748889

富士山
北緯35度21分45秒 東経138度43分50秒[2]
35.3625, 138.7306

加波山
北緯36度17分55.7秒 東経140度08分37.1秒
36.298806, 140.143639

「ほととぎす 尋ねきたれば 今こそは 音づれ山の かひになくなれ」
音信山(おとずれやま)は、千葉県市原市大字山口にある標高186mの山である。房総丘陵の山の一つとされる。
昔の上総の国望陀 もうだ 郡 ぐん と市原郡の境界に位置する。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
北緯35度21分35.7秒 東経140度07分21.5秒
35.359917, 140.122639
豪族藤原(勝田)長清。集中に為相の「尋ね来てかつ見るからにかつまたの花の陰こそ立ちうかりけれ」の詠がある。1310年(延慶3)ごろ成立か。編纂(へんさん)の動機は、『玉葉和歌集』撰定の際に、為世(ためよ)や為兼(ためかね)と並んで為相も勅撰集の撰者を望んだことと関係があろう。万葉以来当代までの歌で原則として勅撰集に入らなかった1万7000余首を四季・雑各18巻計36巻、約600の題(「歳内立春」以下「述懐」まで)に部類した膨大な歌集で、採録の歌人は約970名に及ぶ。曽禰好忠(そねのよしただ)・源俊頼(としより)・西行(さいぎょう)らの自由な語法の歌や寂蓮(じゃくれん)の「十題百首」(動植物を詠む)など珍しい題材の歌も多く、「山」「関」などの部はいろは順に歌枕(うたまくら)が並んでいるなど、後世歌人や連歌(れんが)師に珍重された。ただ伝本の本文に誤字や乱れが多い。題名は「扶桑(ふそう)」の省画という。
ふぼくわかしょう【夫木和歌抄】 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F

勝間田 長清(かつまた ながきよ [1] 、生没年不詳 [2] 、藤原 長清とも [3]。)は、鎌倉時代後期の武士。遠江国 蓁原郡勝田(かつまた [注 1] )郷(静岡県 牧之原市)の勝間田川流域一帯)を領する勝間田氏の頭領で、勝間田城城主。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
勝間田氏は中世に勝間田川流域を治めた一族である[5]。一族は藤原南家の工藤氏の分流であるといい[6]、本姓を藤原とした[1]。異説として桓武平氏の平良文の落胤との伝えもある[6]。一族は保元の乱(1156年)の際に源義朝勢の家人「遠江の勝田」として登場し、平安時代末期から源平合戦期を通じて当地を本貫として源氏に仕えてきたことがうかがえる[6]。
東国武士としては珍しく、長清は京都の公家に接近して深く交流した[1]。また、冷泉為相の門人となって歌道を学んだ[2]。『増鏡』には、長清の娘が、西園寺家庶流で左大臣の洞院実泰の正室(北政所)となったとある[1]。長清自身は越前太夫左近と号し、五位の官位を得た[1]。
長清は時宗に帰依し、一遍の弟子、僧他阿(1237年 - 1319年)の教導を受けたという[2]。のちに出家し、証阿弥仏蓮昭と称した[1]。

10049荊の紀氏:2019/12/20(金) 12:21:31
富士山ー妙義山ー加波山ー音信山…?
富士山ー妙義山ー加波山ー音信山…??? 投稿日:2019年12月20日(金)12時15分52秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F
修験の山伏とユダヤ教の修験者は妙に似てますどういうことでしょうか?…


10050秦野北斗:2019/12/20(金) 16:43:19
豊川稲荷
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010599_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/豊川稲荷



10051荊の紀氏:2019/12/20(金) 18:30:59
「いえずす・なざれぬす・れくす・ゆでおるむ」…
稲荷神は本来はよい神です。その正体は、聖書の神、イスラエルの神ヤハウェであり、イエス・キリストです。なぜなら、稲荷神は渡来人秦氏の氏神ですが、この一族がユダヤ系原始キリスト教徒の末裔なのです。
お稲荷様は、どのような場合に祟りを下しますか。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1043838985
「いえずす・なざれぬす・れくす・ゆでおるむ」
これが、稲荷神の本当の名です。ラテン語で「ユダヤ人の王ナザレのイエス」という意味で、キリストの十字架上に掲げられていたことばです。その頭文字「INRI」が「いなり」になったのです。また「INRI(いなり)」をヘブライ語に変換すると「父なる神」の名「ヤハウェ」になります。
この祈りを唱えて、稲荷神の本当の姿を隠した仏教のしがらみをはずしていきましょう。そして、稲荷神の本来の姿である聖書の神の姿を呼び起こしましょう。「ヤハウェ/イエス」の名を呼ぶ者はみな救われる、と聖書にあります。「いなり」の名には、本来この救いの名が二重に込められています。

!!全く無いと断言できます。理論的に考察して祟り等あるはずもありません。
祟り等は、元々稲荷神社側が営利目的の為に流したデマと考えると辻褄が合います。

惣村の発達に伴い、村が地元の寺社の維持・祭祀の遂行のために惣掟に規定を設ける事例もあった。 近世 織田政権による統一戦争から江戸幕府成立の過程で、一向宗をはじめとする寺社勢力は統一権
寺院法(じいんほう)とは、寺院に関連した法制全般を指す。神社に関する法制を含めて寺社法/社寺法(じしゃほう/しゃじほう)とも呼ばれている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
統教権と治教権
宗教に関する法制の制定権力には大きく分けて2つある。国家をはじめとする世俗権力が寺社を外部から規制する統教権(とうきょうけん)と寺社自身が自己及びその構成員を内部から規制する治教権(ちきょうけん)である。前近代の寺社は世俗権力と対抗する独立した権威として存在しており、治教権が広範にわたって認められていた。従って、前近代における寺院法は治教権に基づく法制が多くを占めており、狭義においては治教権に基づく法制のみを「寺院法」と呼称する場合がある。そもそも、初期仏教集団である僧伽(さんが)においては仏教の戒律及びこれを元にして自らの集団を規制するために定められた規則が寺院法の本来の姿であったと考えられている。この狭義における寺院法には個々の宗門あるいは寺院が個別の事情に応じて定める成文法と慣習的規範が先例の形式を採って慣習法として機能したものがあり、基督教教会における教会法のような法典形式のものは存在しなかった。更に寺院内部を対象とする法(寺内法(じないほう))と寺内町(寺辺)や荘園など寺院の権力が及ぶ外部を対象とする法があった。
古代
日本における最古の寺院法制は、推古天皇12年(604年)に聖徳太子が定めたとされる十七条憲法とされている。仏教尊重を国家の方針として打ち出し、仏教信仰と国家形成が密接に結び付けられたこの法については『日本書紀』作者の創作説もある。ただし、創作説を採るとしても『日本書紀』成立は聖徳太子の時代から100しか経ておらず、初期国家の仏教観を知る上では貴重な史料である。
太子没後の推古天皇32年(624年)には、中国南朝の制度を元にしたとされる僧正の制度が定められ、百済から来日した僧侶観勒が任じられた(僧官制度のはじめ)。続いて、大化の改新後に十師・法頭の制度が設けられ、その後一部制度の改革を経て大宝律令において僧尼令(神社に対しては神祇令)が出され、国家による僧侶・寺院に対する統制が行われた(律令法は形式上においては仏教や神道そのもの統制ではなく、それに従事している人や組織に対してのみ統制を行った)。僧尼令は厳格な規定の一方で、僧綱側の要求で施行が一時停止されるなど、その位置づけは不安定なものであった。その後編纂された延喜式の玄蕃寮式も後世の統教権に基づく規制の典拠とされた。又、特殊な形態としては菩提寺・氏寺として創建した創建者あるいはその一族によって定められた規則も統教権の変形であると言える。
治教権に基づく本格的な寺院法は従来からの僧伽内の規制、僧尼令をはじめとする統制や鑑真によって本格的に伝えられた戒律の影響を受けて形成されたと考えられている。最古のものとされるのは、最澄が弘仁9年(819年)に記した『山家学生式』である。これは延暦寺に戒壇を設置できるように朝廷に申請するために作成されたものであったが、同時に延暦寺の僧侶にも僧侶として相応しい姿を示すように求める性格も有していた。その後、延暦寺では良源によって天禄元年(970年)に起請26箇条が定められ、内部規範の確立が進められた。また、真言宗においては空海が死去の際に遺した『御遺告』が同宗の僧侶・信徒の守るべき規範として重要視された。その他個別の寺院の規則としては貞観10年(868年)に真紹が禅林寺に導入した禅林寺式15箇条や元暦2年(1185年)に文覚が神護寺に導入した神護寺45箇条起請などが知られている。また、伊勢神宮にて延暦23年(804年)に作成とされている『皇太神宮儀式帳』(『延暦儀式帳』)も神社における治教権の反映であると考えられている。

厳密に言えば、延暦寺や興福寺などの大寺院が、町屋の金貸しに金を貸していることが多かったということです。
金貸しになるには、朝廷からの許可は要りませんが、次のものが必要だったはずです。
金を貸す為の大きな資金のバックアップ
貸した金を回収したり、金を守る為の武力組織によるバックアップ
営業を妨げられないようにする為の権威によるバックアップ
延暦寺などは、上記全ての条件を兼ね備えていましたので、金貸しへの最強のバックアップをして、がっぽり稼いでいました。
平安時代に金貸しを営んでいたのは寺社以外にもあったのでしょうか。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1479718749

商人熊野起源説話
日本の商人の始祖は熊野権現の眷属www.mikumano.net/setsuwa/hakari.html
熊野権現と商人の関わり。
 熊野権現の眷属28人が日本に来て、山伏となり、そのうちの4人が商人の始祖となったと「秤の本地」では語られます。


10052秦野北斗:2019/12/20(金) 19:44:42
Re: 「いえずす・なざれぬす・れくす・ゆでおるむ」…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010601M.jpg

https://www.weblio.jp/content/行ったり来たり



10053管理人:2019/12/21(土) 01:15:13
武蔵国造の乱と屯倉方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010602M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010602_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010602_3M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/武蔵国造の乱



10054荊の紀氏:2019/12/21(土) 11:47:05
20度偏角…考…360度÷20度=18度偏角とも…
20度偏角…考…
?今回の武蔵国造のラインは図1のように20度偏角等を有してます。

現在、日本で最も偏角の大きい場所は北海 道中頓別町の敏音知(ぴんねしり)で約 11 度となっています。逆に、偏角が最も小さいのは南鳥 島の約0度で、日本で唯一、方位磁石の北と地図の北が一致する場所となっています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.gsi.go.jp%2Fcommon%2F000147949.pdf
日本各地の偏角値
※表中の値は度単位。例えば、変化量「+0.2」は、磁北が西に 0.2 度傾いたことを表す

360度÷20度=18度偏角とも考えられませんか?

格子線で囲まれる微小要素は,変形前の長方形から台形へと変形する.

経緯線とは、地球の緯度を示す緯線および経度を示す経線です。
経緯線を使用すると、位置を地理座標 (緯度と経度) で示すことができます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdesktop.arcgis.com%2Fja%2Farcmap%2F10.3%2Fmap%2Fpage-layouts%2Fwhat-are-grids-and-graticules-.htm

多面体図法とは,図郭を構成する経緯線の四隅の点を含む平面に地表面を投影する図法である。…
多面体図法 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
地図投影の一種。中縮尺以上の大きい縮尺の地形図などで、経緯線で区切られた区画(図郭)を地図ごとの表現範囲とした場合、各辺が対応する経線および緯線に対し距離が縮尺どおりに正しく表される正距となる等脚台形で表す図法。等脚台形の左右の辺のかわりに台形の高さ(中央経線)を正距としたものも含まれ、日本の旧版地形図はこれに相当する。地図内部の地点は、地図の図郭となる経緯線との経緯度差に応じて比例配分した位置に作図される。18世紀にプロシアの地形図作成に採用されて以来、20世紀中ごろまで世界中の地形図の標準的図法となっていた。

地球を球体とみなして球面三角法で解く簡便なものなので測量には使えませんが、 日本付近の緯度での2点間の距離400kmほどで誤差は0.1度を少し超える程度です。
3点の緯度経度よりそれぞれへの角度を求める(球面三角法にて) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F1091695.html


10055荊の紀氏:2019/12/21(土) 11:49:16
Re: 20度偏角…考…360度÷20度=18度偏角とも…
追伸です。

位相幾何学の話extwww.cc.saga-u.ac.jp/~tshoda/geometry-2.pdf
四角形の内角の大きさの和はいくつか?という問題に遭遇し, 対角線を引いて三角形を二つ作り内角の大きさの和が180?×2 = 360? と なることを導く.さらに五角形,六角形,??? というように,より一般の n角形の内角の大きさの和を,三角形がいくつかを数えることによって示 すわけである.
オイラー数
三枚葉の花びらっぽい図形二枚で球面全体を覆う感じ
球面上の直線とは /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmathtrain.jp%2Fkyumen
花びらっぽい図形二枚…
弧をなす2本の線…
イクトゥス(イクテュス、ichthys ichtus、ギリシャ語: ΙΧΘΥΣ/ ?χθύς 発音 [ik?t?ýs]) は、弧をなす2本の線を交差させて魚を横から見た形に描いたシンボルである。初期のキリスト教徒が隠れシンボルとして用いた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F


> 20度偏角…考…
> ?今回の武蔵国造のラインは図1のように20度偏角等を有してます。
>
> 現在、日本で最も偏角の大きい場所は北海 道中頓別町の敏音知(ぴんねしり)で約 11 度となっています。逆に、偏角が最も小さいのは南鳥 島の約0度で、日本で唯一、方位磁石の北と地図の北が一致する場所となっています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.gsi.go.jp%2Fcommon%2F000147949.pdf
> 日本各地の偏角値
>??※表中の値は度単位。例えば、変化量「+0.2」は、磁北が西に 0.2 度傾いたことを表す
>
> 360度÷20度=18度偏角とも考えられませんか?
>
> 格子線で囲まれる微小要素は,変形前の長方形から台形へと変形する.
>
> 経緯線とは、地球の緯度を示す緯線および経度を示す経線です。
> 経緯線を使用すると、位置を地理座標 (緯度と経度) で示すことができます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdesktop.arcgis.com%2Fja%2Farcmap%2F10.3%2Fmap%2Fpage-layouts%2Fwhat-are-grids-and-graticules-.htm
>
> 多面体図法とは,図郭を構成する経緯線の四隅の点を含む平面に地表面を投影する図法である。…
> 多面体図法 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
> 地図投影の一種。中縮尺以上の大きい縮尺の地形図などで、経緯線で区切られた区画(図郭)を地図ごとの表現範囲とした場合、各辺が対応する経線および緯線に対し距離が縮尺どおりに正しく表される正距となる等脚台形で表す図法。等脚台形の左右の辺のかわりに台形の高さ(中央経線)を正距としたものも含まれ、日本の旧版地形図はこれに相当する。地図内部の地点は、地図の図郭となる経緯線との経緯度差に応じて比例配分した位置に作図される。18世紀にプロシアの地形図作成に採用されて以来、20世紀中ごろまで世界中の地形図の標準的図法となっていた。
>
> 地球を球体とみなして球面三角法で解く簡便なものなので測量には使えませんが、 日本付近の緯度での2点間の距離400kmほどで誤差は0.1度を少し超える程度です。
> 3点の緯度経度よりそれぞれへの角度を求める(球面三角法にて) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F1091695.html
>

10056荊の紀氏:2019/12/21(土) 12:09:35
Re: 20度偏角…考…360度÷20度=18度偏角とも…
   追伸です。

球面距離計算
地球上の2点間の距離の求め方 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fqiita.com%2Fport-development%2Fitems%2Feea3a0a225be47db0fd4
球面である地球上でその表面の特定の1点を表現するために、古来から緯度と経度という概念が使われてきた。これは情報化が進んだ現代社会においてもそのまま使用されている。当記事では2点の緯度と経度が与えられた時、その2点間の距離を求める方法を説明する。

3点の緯度経度よりそれぞれへの角度を求める(球面三角法にて) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F1091695.html
球面上の2点を通る線は、いわゆる大円コースとなり、平面を決定できると思います。
また、別の2点を通る線も、平面を決定するので平面と平面の交わる角度を求めることで、球面上の三角形の角度を決定できます。
平面と平面の交わる角度は、平面の方程式が作れれば、その平面に垂直なベクトルの内積で求めることができると思います。

空間における平面の方程式 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.geisya.or.jp%2F%7Emwm48961%2Felectro%2F3d_plane1.htm



> 20度偏角…考…
> ?今回の武蔵国造のラインは図1のように20度偏角等を有してます。
>
> 現在、日本で最も偏角の大きい場所は北海 道中頓別町の敏音知(ぴんねしり)で約 11 度となっています。逆に、偏角が最も小さいのは南鳥 島の約0度で、日本で唯一、方位磁石の北と地図の北が一致する場所となっています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.gsi.go.jp%2Fcommon%2F000147949.pdf
> 日本各地の偏角値
>??※表中の値は度単位。例えば、変化量「+0.2」は、磁北が西に 0.2 度傾いたことを表す
>
> 360度÷20度=18度偏角とも考えられませんか?
>
> 格子線で囲まれる微小要素は,変形前の長方形から台形へと変形する.
>
> 経緯線とは、地球の緯度を示す緯線および経度を示す経線です。
> 経緯線を使用すると、位置を地理座標 (緯度と経度) で示すことができます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdesktop.arcgis.com%2Fja%2Farcmap%2F10.3%2Fmap%2Fpage-layouts%2Fwhat-are-grids-and-graticules-.htm
>
> 多面体図法とは,図郭を構成する経緯線の四隅の点を含む平面に地表面を投影する図法である。…
> 多面体図法 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
> 地図投影の一種。中縮尺以上の大きい縮尺の地形図などで、経緯線で区切られた区画(図郭)を地図ごとの表現範囲とした場合、各辺が対応する経線および緯線に対し距離が縮尺どおりに正しく表される正距となる等脚台形で表す図法。等脚台形の左右の辺のかわりに台形の高さ(中央経線)を正距としたものも含まれ、日本の旧版地形図はこれに相当する。地図内部の地点は、地図の図郭となる経緯線との経緯度差に応じて比例配分した位置に作図される。18世紀にプロシアの地形図作成に採用されて以来、20世紀中ごろまで世界中の地形図の標準的図法となっていた。
>
> 地球を球体とみなして球面三角法で解く簡便なものなので測量には使えませんが、 日本付近の緯度での2点間の距離400kmほどで誤差は0.1度を少し超える程度です。
> 3点の緯度経度よりそれぞれへの角度を求める(球面三角法にて) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Foshiete.goo.ne.jp%2Fqa%2F1091695.html
>

10057荊の紀氏:2019/12/21(土) 12:53:29
 参考…行基図…方位線…
 参考…
実測と天測の併用法でなければ絶対に行基図のような地図は出現しないだろう。
行基図は一見稚拙で、面積も形状も明らかに違う夫々の島々や各国を、北関東や東北を除く各国を、ほぼ同じ大きさに単純化した潰れた... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fsusano00kuni%2Fdiary%2F201011260000%2F
古代国家大和朝廷は、富士山を第一基点山に真西の大山を第二基点山とし熊野本宮大社(旧社地)他の熊野三山、玉置山等と大和三山を間中にぢて帝都を置く富士山と大山方向の出雲を要とした神社鎮座関係を構成させている。
 富士山、大山、八剣山、沖ノ島、宮之浦岳の五山を基点山に富士山、出雲、熊野、筑紫、大隈の地域に、伊勢を間中にする出雲と房総、鹿島、香取の房総と大隈を関係させた諏訪、房総とで近畿を日本国土の中心性と位置づける近畿逆五星の間中と方位関係の宇佐神宮を配した。各地域に対峙する組関係が基点地域の基点社にあり、この組の関係性が本宮、別宮、神山、瀬末社を構成する。
…方位線で真四方位の東西南北は絶対方位である。
 二至二分の日出日入り方位の約60度、約120度、約240度、約300度の東西から各約30度の方位の振れを絶対的方位として一方位線上の関係性を主張する論者は少なくない。
 論者は山々が多い日本の国土で二至二分の方位が絶対的方位になる事に疑問を思わないのであろうか。舎の方位やエジプトや南米のピラミッドでの太陽との関係とは違い相互の関係性の位置決めに関しての事である。
 山々の山容が関係した相互の相対的関係の方位の位置関係は一方で意味があっても他方の側には意味のない主従の位置関係になる。山が関係しない平地間の地域的関係なら相互に意味があろうが、山を越えての遠方との関係に意味はなく、遠距離で緯度が違えば山の障害以外に方位角自体が違ってくる。緯度が違えば日出、日入の方位角は違うので絶対方位には成り難く価値が創出される可能性は殆どない。それらを思う事は容易く約30度の関係性を日出日入の方位と関連付け主張を展開している論者を不思議で可笑しく思う。
 約1度程度を誤差の範囲として認めている論者もいるが、前の吉備津彦神社に記したように数十キロ、数百キロ離れると相当範囲が許容され位置関係の事実性事態が疑問となる。事実があれば事実性がある。事実性とは精度と作為のある関係で作為の立証を伴う。          一度以内を誤差範囲として主張するかもしれないが、それ以前に論理的矛盾に気がつくべきで方位性に意味や価値が前に記した事などから無いだろう。
作為による方位関係の二点以上、方位線関係の三点以上の各個所位置を決定した関係を見出せず、基点性と関係性を解明して論証せず、事実の数関係や数十関係を示して早々と既説の中から選び正当化して推論を展開させている。
…約2千社の式内社を中心とした神社本殿位置間に、東西方位の約30度の振れ角に近い関係は確かに多かったが、三角構成関係から思う事はあったが、二至二分の関係性を思う事はなかった。
…この約方位角20秒程度の誤差といえる関係性も本研究では不採用精度関係です。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fsusano00kuni%2Fdiaryall%2F

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10058管理人:2019/12/21(土) 14:14:33
石枕の起源と分布について
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010607M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010607_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010607_3M.png

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/250210/0/1



10059秦野北斗:2019/12/21(土) 17:00:04
Re: 石枕の起源と分布について
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010608M.jpg

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/zuisyo/zuisyo_wa.htm



10060管理人:2019/12/21(土) 23:09:34
石枕の起源と分布について2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010609M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010609_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010609_3M.png

秦野さん、さっそくお返事ありがとうございます。
ご指摘あった隋書倭国伝との関わりは理解できないのですが、先ほど紹介した石枕の分布図について、私のほうで方位ラインを引いてみました。

図1は関東、図2が全国の石枕の分布図です。引用元は先の投稿のとおりです。図2は見やすくするために東1度偏角を0度に修正してあります。

こうみると、大雑把ではありますが、図1では香取・鹿島神宮を起点として、30度偏角のラインと、東1度偏角の東西ラインがみえてきます。

図2は全国の分布図ですが、こちらも同様に東30度偏角と0度偏角のラインを2つ利用して測量してますね。

その東西ラインについては、図の方格で見てもわかるように、渋谷向山古墳つまり景行天皇陵を起点として、香川、東海へと延びるラインとなり、その一つ北側が先の香取神宮を起点とするラインで吉備を経由してます。

さらにそのひとつ北のラインは、群馬の白石古墳群あたりを経て、若狭の籠神社あたりを経由しています。先述した薦とこの籠とは関係あるかな?このあたりが、先の丹波道主王つまり田道間守の本拠でしょう。

また南北ラインについては、有明湾沿いの拠点、吉備と出雲を結ぶものなどがみえ、さらに東30度偏角のラインには、鹿島から房総半島西側へと延びる図1のラインがあり、また群馬から伊勢へと延びるライン、あるいは有明湾から出雲へと延びるラインがあります。吉野ケ里遺跡あたりと関係しないかな。

図2を見てもわかるように、どれも等間隔に平行にラインが造られていて、わかりやすいものです。

鹿島神宮と香取神宮、そして息栖神社を結ぶ直角三角形の意味も、こうみると理解しやすくなりますね。測量上、鹿島と香取は2つセットで必要だったわけです。

また先日お知らせした関東の後期古墳を結んだラインでも鹿島・香取神宮が起点となり、15、30度偏角が重要視されていることがありましたね。

4世紀半ばの関東進出の時点からすでに、鹿島神宮は存在しており、それと同時に伊勢神宮あたりも測量拠点としてみえてくるはずですが、その関東進出を伝承化したのが景行天皇とその息子のヤマトタケルの話だと言えるでしょう。

景行天皇陵とヤマトタケルの白鳥陵が東西ラインになるのも、図2のラインをみるよくと理解できますが、特にそのヤマトタケルの伝承ですね、ここに外来的な要素が多くみえてきます。

秦野さんのご指摘にこたえる形で、以前会報第1号に掲載したヤマトタケルの伝承と、旧約聖書のヤコブの話との比較を下記に引用しておきますね。これらは尾張氏の伝承ともかかわってくるのですが、その件はまた後日に。図3としてそのヤマトタケル関連の地名や遺跡を結ぶ方位ラインを添付しておきます。参考まで(^^)

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雄略伝承等にみられた旧約的説話が、日本武尊でもみられるのではないでしょうか?そこで以下のとおり要素比較を示してみます。

・ヤコブは「一人」後に残り、「夜中」から明け方まで「神」と戦う。神に勝ったものの、太ももに「傷」を負う。→太ももの肉を食べないことの「習慣」伝承を記載。

・日本武尊は「一人」剣をはずし胆吹山の「神」を殺しに登っていく。途中で神の化身である「蛇」を踏む。「暗い谷」で神の霧にまよう。なんとか抜け出すが、その後「病気」になる。また、信濃坂では神の化身である「鹿」と戦い勝つ。坂を越えるものは蒜を「噛」むと神気にあたらないとの「習慣」伝承へ発展している。

日本武尊伝承でも、神との対面のあり方において、「神」との戦い、「夜中」→「暗い谷」での迷い、「傷」→「病気」=「後遺症」、「習慣伝承」の発生において雄略期同様、旧約伝承との共通性を多くもっていることがわかります。そこで、日本武尊伝承も、雄略「一言主」条、霊異記「小子雷」条と同様に、旧約伝承を土台にしているのではないでしょうか。

?雄略紀「一言主」条、霊異記「小子雷」条、日本武尊伝承の背景にある氏族伝承や挿入目的はどうでしょう?

次に、上記雄略「一言主」条、霊異記「小子雷」条、日本武尊伝承の背景にある氏族伝承や挿入目的について考えてみたいと思います。

これらの日本武尊伝承に見られる拠点をラインで結んでいくと、規則性のある正確な地図ラインが出てくることが判明しました。ライン図参照。

1、白鳥陵→伊勢能褒墓→熱田神宮:西南→東北・斜め35度ライン
(景行紀の記載には、日本武尊が伊勢熊褒野(鈴鹿郡)に葬られたのち、そこから白鳥となって琴弾原の白鳥陵に入り、さらに羽曳野の日本武尊陵へさらに飛んでいったとの説話があります。多度神社には白馬伝承があり、多度神社や北隣の養老郡には白鳥が飛来することで有名で、白鳥伝承との関連が気になります。)

2、伊勢能褒墓→焼津:東西緯度34度52分ライン(焼津での草薙剣伝承と尊の最初の墓がある伊勢(鈴鹿)の能褒野)

3、多度大社(尾津)→熱田神宮:東西35度07分ライン(東国に遠征する前に剣を置き忘れた地である尾津と熱田神宮)

4、伊勢能褒墓→伊富岐神社:南北136度29分ライン(胆吹山での山の神との格闘の地にある神社と尊の最初の墓)

5、日本武尊陵→景行天皇陵:東西34度32分ライン(日本武尊と父である景行天皇の陵墓を結んだライン)

6、白根神社(草津)→酒折宮→浅間大社:南北138度35分ライン(草津、酒折宮、浅間に残る日本武尊伝承拠点を結んだライン)

7、熱田神宮→諏訪前宮→碓氷坂:西南→東北・斜め40度ライン (また、信濃坂、碓氷坂では前述したとおり山の神との格闘が記載されており、熱田神宮は日本武尊と草薙剣伝承で特に有名であります)
(足柄坂については古事記に見られ、日本書紀ではその代わりに碓氷坂が記載されています。この両者をもって東国との境を示すことが指摘されているのですが、上田正昭氏は『日本武尊』吉川弘文館1960において、古事記・常陸国風土記に足柄坂が記されていることは、上毛野氏が出てくる早くても6世紀以降であるとし、さらに日本書紀が碓氷坂を記載したことについては、陸奥地方が問題化するのは大化の改新以降であると指摘します。そして古事記のほうを、より原日本武尊伝承として考えておられます。また、次図で掲載する伊富岐神社については、古くからの山岳信仰に原型を求め、語部をとおして宮中に取り入れられたことを指摘しています。)






10061国家元首:2019/12/22(日) 03:13:57
青衣の女人
聖武天皇の東大寺・国分寺を全国に作るという布告には、その中心に「景福」という景教的な言葉が使われている。東大寺の祭りには異教的な色彩が強く、その声明は東方教会風であるところから、ネストリウス派との関係が疑われている。

私がざっと東大の祭りを調べて感じたのは、かなりペルシャ文化の影響を受けた異教的傾向の強いネストリウス派があって、それが東大寺・国分寺の建設に関わったのではないか、ということである。

華厳経は、インドの経典をもとに、中央アジアで作られたというのが通説である。仏教としては、かなり一神教的傾向が強い。だから、中国で成立した華厳宗は、一神教的である。声明では、観音(観自在)菩薩を称賛しているが、観自在は毘盧遮那(大日如来)と同じとしているのであろうか。

イエスはヤハウェと同じとする思想が、そこに込められているのだとすれば、やはり隠れイラン・ネストリウス派の疑いがある。すると、有名な「青衣の女人」は、マリアではないかという説も成り立つ。ネストリウス派は、聖なる存在、神の母としてのマリアを認めない。だから、カトリックから追い出されたという。

当然神仏としてマリアが崇められることはない。しかし、東大の「過去帳」の読み上げでは、無名の一般人の名前も読み上げられることになっている。カンジザイ(ジーザス)の生みの母、マリアとしては、やはり名前を読み上げてもらわないと筋が通らない。そこで鎌倉時代に出現し、過去帳に記録させた。(ということに、昔の東大寺関係者がした。)

「マリアの姿が出現する。」というのはカトリックの奇跡でありふれた話であり、東大寺の「お水取り」というのも、カトリック・マリア信仰的な感じがする。自分たちを極東に追い出したカトリックに対する皮肉ではないだろうが、反対のものは似ている・似てくるという原理がそこに働いているのかもしれない。

『Buddhist chant of Shuni-e Ceremony, Todaiji [東大寺お水取りの声明]』
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3Dn7FU3r4Nlek%26t%3D25s

10062荊の紀氏:2019/12/22(日) 10:45:40
大日如…観・自在・鑰(カギ)…龠ヤク(ふえ)…漢字の解字から読み解く…
>華厳経は、インドの経典をもとに、中央アジアで作られたというのが通説である。仏教としては、かなり一神教的傾向が強い。だから、中国で成立した華厳宗は、一神教的である。声明では、観音(観自在)菩薩を称賛しているが、観自在は毘盧遮那(大日如来)と同じとしているのであろうか。
観音(観自在)菩薩…
観自在は毘盧遮那(大日如来)と同じ…太陽? シリウス?
太陽…
蛭は、昼=太陽と解釈するという連想についてみてみたいです。
ユダヤはジュウとも、呼ばれるからです。 それに、恵比須、恵比寿、恵美須は当て字であることを思えば、中国的発音から見てへブル(heburu)からの音韻転化は十分あり得たと見ても良いと思えます。
えびす神社とキリスト?cova-nekosuki.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-661f.html
海老錠…
鍵は象徴として様々な紋章に使われており、例えばバチカン市国の国章に使われている。これは、初代教皇ペトロが「天国の鍵」を与えられたという故事に由来する。日本においても、門を閉ざす機能から、鍵には魔除けなどの効果があると考えられ、鍵を意匠化した家紋「鍵紋」が作られ、有名な所では土肥氏が替え紋として使用した[19]。
海老錠は古風に「魚鑰」(ぎょやく)ともいうが、もともと錠前は「鎖」「鑰」「鎰」の一字でも表記された。
日本で最古の鍵とされるのは、1998年に野々上遺跡(大阪府羽曳野市)から出土した7世紀中頃と推定される海老錠である[13]。飛鳥京跡苑池でも7世紀後半のものと見られる海老錠が出土しているほか[14]、正倉院にも唐から伝わったと思われる海老錠が納められている。海老錠は古風に「魚鑰」(ぎょやく)ともいうが、もともと錠前は「鎖」「鑰」「鎰」の一字でも表記された。地方を治める国府では、国司の印と正倉の鑰が、令制国統治の証明とされていた。又、「鎖」は「錠前」という字義から、「閉ざす」行為を意味する字にもなっている(例 : 鎖国、封鎖)。
江戸時代には、庶民にとって鍵はほとんど必要のないものだった。当時の治安は比較的よかった上に、用心する際はほとんど心張り棒で戸締りをしていたからである。鍵をかけるのは当時の金持ちが蔵にかけるぐらいであったが、その鍵は手で簡単に開けられるようなものなど、防犯の意味をあまり成さず、ほとんど飾りだけのようなものが多かった。ただし、城門の閂(かんぬき)には頑丈な錠前が備え付けられていた。なお、蔵などには雨戸などで用いられる落とし錠[15]が用いられることもあった[16]。
武器の需要が減り、仕事が減った刀鍛冶ら武器職人によって、和錠と呼ばれる手の込んだ造りの錠前が作られるようになった。阿波錠(徳島県)、土佐錠(高知県)、因幡錠(鳥取県)、安芸錠(広島県)などが著名とされる[17]。
「天国の鍵」…
天にある本物の聖所、すなわち天国の住まいの地上における模型(影)であること(へブル9章23〜24節)。また、イエス・キリストご自身の型であること。幕屋内の多くの器具もキリストの型である。meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E5%B9%95%E5%B1%8B%E5%BB%BA%E9%80%A0%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E7%9B%AE%E7%9A%84
聖所…
聖所にメノラーと呼ばれる燭台、机の上(祭壇)に供えのパンが置かれた。 大司祭が本殿に入り神前に酒を捧げた。 日本の「三方」が、幕屋で用いられた祭壇とそっくりなのである
聖所
獅子座 + おおいぬ座 =  狛犬…阿(口)吽(ム)ム口…丌(台)…
「口を開けた狛犬阿像」と「口を閉じた獅子吽像」となっていった。初期の頃には「獅子・狛犬」と呼ばれていたが、単に狛犬と呼ばれるようになった。龍田神社

さいだん座(祭壇座)の用語解説 - 略号はAra。南天の星座。さそり座の南につづく小星座で,ギリシア時代より〈犠牲をささげるもの〉と呼ばれていた /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F

> さそり座は、私の中では星空の季節を示す時計のような存在 勹 斤厩(うまや キウ )=〔勹 ...
[2597] 釣り針 勾 蠍座   航海時に目印にされた、さそり座 https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/2597
勹 ...
勾とは、曲がる、捕えるという意味の漢字である。もともと句 の異体字だが、句とは用法に違いがある。
意味 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdic.nicovideo.jp%2Fa%2F
引く、引きつける、十分、鉤型のしるしをつける、不等辺直角三角形の短辺、(句と通じて)曲がる、(拘と通じて)とらえる、(鉤と通じて)かぎ、ひっかける。

「合ゴウ」 <ふたと器の口があう> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F62695a2b9ce107045a9c2fd6941c5ea1
「会カイ」 <あう・あつまる> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F17aa71df22570eb8eb446473dd2bef2a
参[參] サン・シン まいる  ム部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F489450704ba013e5ab07530b3b83e43e
旧字は「厽 ルイ(三本のかんざし)+人+彡サン」
参宿(しんしゅく)、和名は唐鋤星(からすきぼし)、二十八宿の一つで西方白虎七宿の第7宿。距星はオリオン座ζ星(三つ星の東端の星)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
参宿は燦として斜めに懸かかれり。 凍夜疎林上、 凍夜 疎林の上、 悠々世外天。 悠々たり 世外の天。 シリウスが今まさしく爛々と輝き、そのそばにはオリオンの三ツ星が、燦然ときらめきながら空に斜めにかかっている。
Yの字・・・「干カン」 <サスマタ状の武器>・・・才は神聖を標示する木?? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3679
…Yの字型が女神の姿を形づくっています(しし座の東どなり)
北斗七星からのカーブ(春の大曲線)をさらにのばしたところの青白い星「スピカ」と、そこから連なるYの字型が女神の姿を形づくっています。しし座の東どなりにあり、全天で2番目に大きい星座ですが、星と星の間隔が大きく、1等星のスピカ以外の星は明るくないので、目立ちません。スピカまでの距離は350光年、その表面温度は2万℃ほどなので青白く見えます。スピカはラテン語で、穀物の穂という意味で、女神が手にもつ麦の穂先に輝いています。この星座が日没後に現れる頃、種まきの時期が近いことから、農業とはなじみの深い星座です。spaceinfo.jaxa.jp/ja/virgo.html
穀物の穂…
「禾カ」 <イネ科の穀物> と 「年ネン」  「穆ボク」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F8c6dbe8c26d5519c23a81ac33bf6e6b9
科は斗(ます・ひしゃく)で禾(穀物)をはかる意だが、ここでは斗(ひしゃく)の意か。ひしゃくのように頭が大きく尾が細長いオタマジャクシをいう。
龢 カ・ワ  龠部
解字 「龠ヤク(ふえ)+禾(稔った穀物)」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F8c6dbe8c26d5519c23a81ac33bf6e6b9
龠…
地球の大きさを測る 二龠で一合 子午線弧
小篆の字形について『説文解字』は「品」(3つの穴)と「侖」(秩序の意)の会意文字とするが、金文など古文字を見ると、むしろ「△」部分がなく、二三の穴と管の形に象っていることが分かる。「△」部分は後で付け加えられたもので、人の口あるいは管を束ねることを表していると考えられる。
升 が意味する容器
大きな柄杓のことを「斗」という。「斗(北斗七星)」は星座が柄杓の形をしている。)
「圭」
〔多迩具久〕は名前からしてヒキガエルの姿をした神様ですが、漢字で「蛙」の旁になっている「圭」とは、三角形や角錐が鋭く尖った形のことです(ただヒキガエルの場合は末広がりの末端から足が出ています)。人の手に乗る程度の大きさですから、目下の話題に引き寄せて、「龠」や「合」をかたどるものと見てもよい。
圭の先端にあるようなミクロの探求者です。その探究心は尋常ではなく、"無限小"という域にまで到達していたので、彼の名前とともに彼の本性を表す解答者には、かたちが蛙の一族の中で最も体がでかいピラミッドの「久延毘古」が適任であったというのは、「百分の一よりも百万分の一がほうが小さい」といえばよくわかるはなしです。
漢字で「蛙」の旁になっている「圭」とは…"無限小"…ヒキガエルの姿をした神様…
>斗(ひしゃく)の意か。ひしゃくのように頭が大きく尾が細長いオタマジャクシをいう。
オタマジャクシ…蚪 ト・トウ  虫部
「虫(むし)+斗(ひしゃく)」 の会意形声。ひしゃくの形に似た虫(両生類)のオタマジャクシ。
<ひしゃくからマスへ> 「升ショウ」 と 「斗ト」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F5fd52ae6f8ea7991bcb291046c1f65b9

丌(台)
「冊(木簡・竹簡=書冊)+丌(台)」の会意。上部は冊(書冊)で、下部にそれをのせる台を加えた形。台にのせた書物の意から、特に選ばれた大事な書、転じて、のり・手本の意となる。現代字は、冊と丌(台)が合体した典になった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fdb39be4341551408a0e0676cbc6d04c9
鑰かぎ…冊…
「冊封サクホウ」(冊書[皇帝の文書]により近隣諸国の土地を皇帝が封じた形にする名目的な君臣関係)「封域ホウイキ」(領地の境。また、領地)「封君ホウクン」(諸侯) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F69151aa2804b02be50fb3dfcc7c5732f
封フウ・ホウ寸部解字甲骨文第一字は、土盛りに植物を植えた形。第二字は土盛りが略体になった形。当時は境界に植物を植えたため領域の意味となり、領域・くに(地方勢力)などの意で使われた[甲骨文字辞典]。
穴+洼(ワ) 【圭】ケイ(▽△三角形にとがって形が良い) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3102

『説文解字』には「人の手へだつること一寸、動脈これを寸口といふ」という記述があり、ここから、手の平の下端から1寸の位置で脈を計るため、「寸」の文字がこの長さを表すようになったとする説もある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
>又⇒寸に変わり、現代字は、「土+土+寸」の形に変化した。
…又(て)…手
手(ヘブライ語: ?? yad)を描いた文字に由来する[3]。文字名称とは母音が異なるが、フェニキア語で「手」はyodと言う[4]。
(ヨッド、ヘブライ語: ?????, ???? yod)はヘブライ文字の10番目の文字。ヘブライ数字の数価は10である。
ユッド(????)とも読む[1]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ヨッド…
Yはヘブライ語のヨッド(勾玉の印と同じ形の文字)だそうで、ヨッド、ヘィ、バウ、ヘィと読むのは正しいと思いますが、多分、神の名前ではないでしょう。
 神はこの4つの発音をもって、と言われています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fogamiitousai%2Fe%2F9c93c82c2fdf00c83fb95d1147cc68af
四方を封じた…

さそり座は青い龍 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.aqumari.com%2Fmimas%2Fasia%2Fa_11.html
「心」のとなりにある「尾(び)」という星座も、この龍のシッポを表しているのです。

青龍の尾
尾宿(びしゅく)、和名で足垂れ星(あしたれぼし)は、二十八宿の一つで東方青龍七宿の第六宿。距星はさそり座μ 1 星。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
銀河に棲む亀
銀河に棲む魚

火の星座・・牡羊座、獅子座、射手座 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.tukix.net%2Furanai%2Fstar%2Fstar03%2F307.html

火の神の依座…
自在鉤はカギド,オカマなどと呼ばれ,火の神の依座と考えられていた。
自在鉤の用語解説 - いろりの上から下げ,鍋や釜を掛けてつるす道具。普通は竹筒と鉤付きの棒から成り,小ざる,手と呼ばれる横木の摩擦抵抗を利用して棒を固定する。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F

自在かぎの画像 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%25e8%2587%25aa%25e5%259c%25a8%25e3%2581%258b%25e3%2581%258e%26qpvt%3D%25e8%2587%25aa%25e5%259c%25a8%25e3%2581%258b%25e3%2581%258e%26FORM%3DIGRE
つるす道具…釣り具…
魚…「禾(稲)+(鈎)ム(ひじをまげる)」

「浦島太郎伝説」
うお座の満月に行きたい神社 豊玉姫はウガヤフキアワセズの生みの母です。 山幸彦(ホヲテミ)が失くした兄海幸彦の釣り針を探すために、カメ舟に乗りやってきたところは、八大竜王・海神(ワダツミ、ハデツミ)の宮でした。
竜宮伝説、うお座の満月に行くべき神社isonomiya.jp/uozamangetu/2/
豊玉姫は海神族の娘です。船づくりや航海の安全、海の天候を司る一族の娘です。このお話は一部「浦島太郎伝説」の元になっていて、竜宮城候補地があちこちに出ています。
阿蘇神社(あそじんじゃ)
住所 熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1
ご祭神
一宮:健磐龍命 ? 初代神武天皇の孫
三宮:國龍神 ? 二宮の父で、神武天皇の子
五宮:彦御子神 ? 一宮の孫
七宮:新彦神 ? 三宮の子
九宮:若彦神 ? 七宮の子
二の神殿(右手、いずれも女神)
二宮:阿蘇都比咩命 ? 一宮の妃
四宮:比咩御子神 ? 三宮の妃
六宮:若比咩神 ? 五宮の妃
八宮:新比咩神 ? 七宮の娘
十宮:彌比咩神 ? 七宮の妃
諸神殿(最奥、いずれも男神)
十一宮:國造速瓶玉神 ? 一宮の子。阿蘇国造の祖
十二宮:金凝神 ? 一宮の叔父。第2代綏靖天皇を指す
ホヲデミトヨタマヒメの孫が神武天皇です。神武天皇は天皇となる前、こちらを拠点としていたのです。神武天皇がヤマトに朝廷を打ち立てた後、一族の根がここに残ったのですね。

かぎ(鈎)まげる
勾 コウ・まがる  勹部
解字 「勹(身体をまげる形)+ム(まげる)」の会意形声。勹は人が身体をまげる形。さらにム(まげる)が付き、まがる意を表す。また、同音である拘コウ(とらえる)に通じ、とらえる意も表す。日本では、降コウ(おりる)に通じ、傾斜の度合いを表す。
意味 (1)まがる。まげる。「勾玉まがたま」 (2)とらえる。(=拘)「勾引コウイン=拘引」(とらえてひきつれる)「勾留コウリュウ」(とらえてとどめおく=拘留。法律用語では、勾留は調べるため、とらえてとどめること。拘留は、とらえてとどめおく刑罰) (3)[国]傾斜の度合い。「勾配コウバイ」
鈎 コウ・かぎ  金部
解字 「金(金属)+勾(まがる)」の会意形声。まがった形の金属。
意味 かぎ(鈎)。鉤コウの異体字で鉤と同字。
ム(ひじをまげる)…
私 シ・わたくし・わたし  禾部
「禾(こくもつ)+ム」 だが、ムシをスキ(耜)とする見解と、ムコウ(ひじ)で囲い込むとする見解がある。どちらが正しいか判断できないので、覚えやすいほうを、覚え方として掲げる。
覚え方 「禾(稲)+ム(ひじをまげる)」 の会意。稔った稲を自分のひじをまげて囲いとり自分のもの(私物)とすること。
意味 (1)わたくし(私)。わたし(私)。自分。自分のもの。自分ひとりの利益や考え。「私益シエキ」「私有シユウ」「私人シジン」 (2)ひそか。こっそり。「私語シゴ」「私通シツウ」

鑰かぎ
穴がある
鑰 ヤク・かぎ  金部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F3c13b3d539e130fcb2ec8f7f7f98b923
解字 「金(金属)+龠(穴がある)」の会意形声。門扉の閂(かんぬき)の横木を差し込む四角い金具(穴がある)が原義。三〜四個あり、ここに横木を通して門扉を固定する。のち、扉につけて戸締りとする錠前をいうようになった。鍵かぎを差し込んで開閉する。また、差し込む鍵を指して言うこともある。
意味 かぎ(鑰)。戸につけるかぎ。錠前。「鑰匙ヤクシ」(かぎ。錠前と穴にさす匙(さじ)のような鍵)「鍵鑰ケンヤク」(差し込む鍵と錠前。キーポイントとなるところ)

     長文に ゴメンナサイ<(_ _)><(_ _)><(_ _)>


10063国家元首:2019/12/22(日) 11:00:47
東方教会
「大秦寺」をウィキペディアで調べると、「大秦寺(だいしんじ)は、中国における景教(中国に伝来したネストリウス派キリスト教)の寺院(教会)の一般名称である。唐の時代、長安に存在した大秦寺が有名。」とある。

「中国への景教の伝来は、唐代貞観9年(635年)、ネストリウス派宣教団が長安に到着したことから始まる。このとき太宗の命により、宰相の房玄齢が宣教団の団長阿羅本(アラホン、アロベン。英語ではAlopenと表記)を迎えた(『唐会要』)。 阿羅本はアッシリア東方教会の使いとして訪れたといわれる(大秦景教流行中国碑)。・・・

3年後の貞観12年(638年)に景教は唐により公認され、唐朝は資金を援助し、長安に寺院が建立された。この段階では波斯寺(あるいは波斯経寺、波斯はペルシアのこと)と呼ばれており、「大秦寺」の名称は使われていなかった。・・・

高宗の時代(649年 - 684年)になると、阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう、詔勅が下された。ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった。・・・

745年に大秦国(東ローマ帝国)から、高僧・佶和(ゲワルギスの音写)が訪れる。同年、教団の名称が「波斯経教」「波斯教」から「大秦景教」に変更されたため、朝廷側からの寺院の呼び名が「波斯寺」から「大秦寺」に改称された。」



考えてみれば、「東大寺」という名前がネストリウス派的な感じがする。「大秦寺」がローマ教会という意味だとすれば、東大寺は「東方教会」という意味ではないのだろうか?

唐へ布教に来た阿羅本は、アッシリア東方教会に属していた可能性が高いようだが、まだ同名の教派は存在している。ウィキペディア「アッシリア東方教会」には次のようにある。「アッシリア東方教会・・・は、サーサーン朝を経由して唐代の中国に渡り景教となった、古代のネストリウス派(東方教会(英語: Church of the East)とも呼ばれる)の流れを継承し、東方諸教会に分類されるキリスト教の教派のひとつである。アッシリア教会、アッシリア東方使徒教会、東方アッシリア教会とも。」


曽根天満宮秋祭りの服装と掛け声は不思議である。
「平成25年曽根天満宮秋祭り10月14日(月)東之町一つ物出立ち」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DxGWSeehjYQ0

10064秦野北斗:2019/12/22(日) 20:40:28
Re: 東方教会
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010613M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/広隆寺



10065管理人:2019/12/23(月) 01:55:46
天日矛のレガリアについて
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010614M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010614_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010614_3M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/田道間守



10066国家元首:2019/12/23(月) 16:28:38
お菓子の神
お菓子の神様タジマモリは、新羅系のアメノヒボコの子孫だったとは、知りませんでした。徳川時代の初期に、外様大名は取り潰されないように、かなり工夫したという話を聞きます。タジマモリの忠誠の話は、外様であるアメノヒボコの一族が、何とか大和王朝の信頼を勝ち取ろうと努力した事実がベースになっているのではないでしょうか。アメノヒボコがハ種類の宝を大和王朝に引き渡したことの流れの中に、あの忠誠物語はあるのではないかと疑います。

古事記には、新羅などの朝鮮の話はあっても、倭国・邪馬台国の話はありません。大和王朝が4世紀以降の外来勢力であることの論拠は、そこにもあります。現時点でのY染色体ハプロの痕跡は、民族移動とは直接の関係はないと考えます。しかし、D型(縄文型)のハプロが、大局的に見ると2種類に別れているので、もしかすると一方のD型は外来勢力に由来するのかな、とも考えます。

そもそも、文系の素質が十分にある人なら、大和王朝を倭国や縄文勢力の延長とは思いません。ありえないからです。ギリシャとインドを一緒にするよりも無理があります。

10067秦野北斗:2019/12/23(月) 19:38:44
Re: お菓子の神
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010616M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/田道間守



10068管理人:2019/12/24(火) 00:16:06
Re: お菓子の神
国家元首さんへのお返事です。

>タジマモリの忠誠の話は、外様であるアメノヒボコの一族が、何とか大和王朝の信頼を勝ち取ろうと努力した事実がベースになっているのではないでしょうか。アメノヒボコがハ種類の宝を大和王朝に引き渡したことの流れの中に、あの忠誠物語はあるのではないかと疑います。
>
> 古事記には、新羅などの朝鮮の話はあっても、倭国・邪馬台国の話はありません。大和王朝が4世紀以降の外来勢力であることの論拠は、そこにもあります。


お返事ありがとうございます。忠誠を示す話がどうして生じて来たのかは興味深いところですね。
垂仁天皇とは何者か?がまず明らかにすべきでしょうし、その部下であった田道間守とその祖先の天日矛ですね、明らかに渡来系と思われる彼らが、誰に仕えていたのか・・・。

後刻、投稿しますが、いわゆる邪馬台国時代の王朝と、河内王朝との間で妙な関係が見えてきてます。大きな勢力交替があったのでしょう。

10069管理人:2019/12/24(火) 01:52:31
佐紀盾列古墳群方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010618M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010618_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010618_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/七支刀



10070荊の紀氏:2019/12/24(火) 09:20:42
三宅氏…田道間守…朝鮮…
スキタイ人は言語的にはインド・イラン語派でありいわゆる「アーリア人」であったと推定される。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ギリシア系スキタイ…大月氏
クシャーナ族については、大月氏の中の有力部族とみる説と、大月氏支配下のバクトリアに住んでいた土着の有力部族とみる説がある。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsekainorekisi.com%2Fglossary%2F
月氏国の用語解説 - 古代朝鮮の南部に存在したとされる国名。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
中央アジアで活躍した古代民族。人種的帰属は不明で,チベット人,トルコ人などさまざまの説がある。

参考…高句麗人はカリエン人・バビロン人… https://8906.teacup.com/toraijin/bbs
「トルコ共和国」「東トルキスタン共和国」の国旗はインドの国旗と同じく、三日月と星が描かれている。
三日月は「日向族」、星は「出雲族」のシンボルらしい。
出雲族と日向族と八幡族です。まず、出雲族ですが、古代イスラエル王国の失われた10支族(北朝イスラエル王国)をルーツに持つと考えます /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2F1357gy%2Fentry-11717971627.html
後期大和朝廷(大化の改新以後)の日向族の主体は、のちの公家に繋がっていくアーリア系騎馬民族をルーツに持ちます。おそらく、大陸から半島(百済)を経て、南九州の地に入植してきたのでしょう。

古代出雲王朝では「幸の神三神(さいのかみさんじんー久那斗(クナト)大神、幸姫命(さい姫)のみこと、およびその御子神サルタ彦)」が信仰されていた。
久奈子とはクナト大神の御子のサルタ彦のことだ。サルタとはインド南部ドラビダ人の言葉ドラビダ語で「鼻が大きい」と言う意味で、つまり象の神様「ガネーシャ」のことだ。
(※古代出雲族はインドにアーリア人が進攻してきた為に追いやられたドラビダ人の一部が紀元前5世紀頃モンゴル経由で渡来したという。これは神門臣家と向家の伝承だそうだ)
西暦80年頃に渡来した朝鮮人(辰韓の王子)ヒボコの子孫 田道間守(たじまもり)が東出雲王家(第17代少彦 野見彦)の宮殿の田和山神殿(松江市田和山町)を襲い破壊した。田道間守は直ちに日本海を東進続け 既に大和入りしていた都万豊連合王国 イクメと合流する。
田道間守は大きな勢力を持つようになり、葛城地方に腰を落ち着けて、イクメ王の指図を受けなくなったという。そのあたりの地名は 田道間守(たじまもり)のタジマが訛って 当麻(たいま)と呼ばれるようになったとか。現在の当麻寺のあたりである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fyochanh1947-kodaiizumo%2Fe%2F1dea159ba2213a0fa8270d0e01ea5003

『日本書紀』『古事記』によれば、田道間守は三宅連(三宅氏)の祖とされる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fsearch%3Fq%3D%25E7%2594%25B0%25E9%2581%2593%25E9%2596%2593%25E5%25AE%2588%2B%25E9%25AB%2598%25E5%258F%25A5%25E9%25BA%2597%26qs%3Dn%26form%3DQBRE%26sp%3D-1%26pq%3D%25E7%2594%25B0%25E9%2581%2593%25E9%2596%2593%25E5%25AE%2588%2B%25E9%25AB%2598%25E5%258F%25A5%25E9%25BA%2597%26sc%3D0-8%26sk%3D%26cvid%3DDB3BBD20CE264A4391E928C7DE28BB1B

難波津の西成・東成郡には秦氏、三宅氏、吉氏など新羅系の渡来人が多く住み、百済郡には百済系の渡来人が住んだ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

三宅連は新羅の王族であるアメノヒボコの子孫
宇喜多氏(うきたうじ、うきたし)は、備前国の戦国大名。本来は、地形に由来する「浮田」姓と思われるが、嫡流は「宇喜多」(宇喜田)、庶流は「浮田」を称した。通字は代々「家」(いえ)、後に「秀」(ひで)を用いた。代々相伝の幼名は、宇喜多興家から宇喜多秀家の子・宇喜多秀規まで「八郎」が継承されている[3]。家紋は剣片喰(剣酢漿草)、他に雨竜や亀など。近世では五七の桐や五三の桐を用いている。
宇喜多氏の出自について確実なことは不詳であり、多くの戦国大名同様に諸説がある。一般には出自に諸説有る備前三宅氏の後裔とされるが、宇喜多氏自身は百済王族子孫や平朝臣を名乗っていた。
百済王族子孫の三宅氏後裔説
藤原北家閑院流三条家後裔及び百済王族子孫説

三国時代 (朝鮮半島)
朝鮮半島および満州に高句麗、百済、新羅の三国が鼎立した紀元前1世紀から紀元後7世紀の時代をいう。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
5世紀初めに建てられた高句麗の広開土王の碑には、「新羅や百済はかつて高句麗の属国であり朝貢していたが、辛卯の年(391年)よりこの方、日本が海を渡り来て、百済、〇〇、新羅を破って日本の臣民にしてしまった」と記されている

渡来系氏族 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.his-trip.info%2Fkeizu%2Fcategory17.html

後漢末の動乱から三国時代、晋の統一までを語る三国志。 後漢の頃にはローマから商人も来ていたというけれど、では他の国や地域は一体どのような歴史を辿っていたのでしょうか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhajimete-sangokushi.com%2F2015%2F08%2F02%2Fpost-4955%2F
黒海北岸のウクライナにはスキタイ人の国がありましたが、2世紀ごろにバルト海沿岸から南下し移住した東ゴート人に滅ぼされました。
北インドでは中央アジアまで勢力を広げたクシャーナ朝という王朝が栄えました。
中国の史書で「大月氏」と記される人々で、3世紀後半にササン朝ペルシアに滅ぼされます。


10071秦野北斗:2019/12/24(火) 10:53:49
Re: 三宅氏…田道間守…朝鮮…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010620M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/月氏



10072荊の紀氏:2019/12/24(火) 13:38:07
参考…神輿の黙示録…
何故、藤原氏は騎馬民族史を抹殺・隠蔽したのか /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fminna-hiroba.com%2Fkodama%2F2019%2F02%2F17%2Fpost-70%2F
日本列島史を調べようと、仏教渡来よりも古いと信じられている神社の歴史を調べても、日本列島の黎明期を知ることができないでしょう。そして、神代の昔の文字と信じられている神代文字を調べてみても、知ることはできないでしょう。
それは、神社が、古墳の上か、その近辺に建てられているからです。古墳は、日本全国で紀元三世紀から七世紀まで築造されていたのです。その古墳の上に神社を建てるには、古くても三世紀、新しくても、七世紀以降でなくては建てられないのです。
日本列島の岩手県以南の全国に古墳を築造した民族は、六世紀北九州に渡来、そして七世紀に飛鳥ヤマトに渡来した仏教国際組織に壊滅され、その居住跡に仏寺、その後に、古墳上に神社が建てられていたからです。ですから、それらの神社から発見された神代文字なども、そう古くはないのです
…日本古来の神話が語られていると信じられている「古事記」の神話から、日本列島の黎明期を知ろうとしても、その目的は叶わないでしょう。それは、「古事記」は、平安初期812年秦氏末裔多人長が、720年藤原氏が創作した「日本書紀」の神話に対抗して、先祖からの伝聞を基に創作した物語であるからです。
その日本古来の神話と信じられている物語には、ギリシャ神話とソックリなところが多くあるのです。それは、多人長の祖秦氏とは、ギリシャ文化国バクトリア→騎馬民族国大月氏(亡命百済王朝の第三代嵯峨天皇が、814年創作した「新撰姓氏録」では「弓月国」と表示。)→ギリシャ・ローマ文化国新羅(秦羅)から渡来した民族であったからです。
「古事記」神話のクライマックスである、天皇家の祖神と信じられている天照大神の天岩窟物語が、ギリシャ神話ソックリなのは、秦氏祖の渡来元が、ギリシャ文化国バクトリアであったからです。
何故、バクトリアが大秦国と呼ばれたのかは、紀元前221年バクトリアが中国大陸で興した国が、「秦国」であるからです。ですから、その秦国の母国のバクトリアが、大秦国と呼ばれたわけです。
そして、紀元前146年ローマ共和国が、ギリシャのカルタゴを滅ぼし、ギリシャ植民都市国家を呑み込むと、中国の前秦は、絹貿易の相手国である紀元前27年建国のローマ帝国も「大秦国」と呼んだのです。オリエントから渡来の秦氏とは、そのようなギリシャ・ローマの歴史を持った民族なのです。
この天岩窟物語とは、スサノウの狼藉により天照大神が、天岩窟に隠れてしまったのを、アメノウズメが裸踊りで誘い出す物語です。しかし、この日本神話の天岩窟物語はオリジナルではなく、ギリシャ神話の地母神デメテルと巫女バウボーとの物語を基に創作されていたのです。ギリシャ神話では、
ある事件により塞ぎこんでいる地母神デメデルに、薬草を飲ませようとするが、拒んで飲みません。そこで、巫女バウボーは、裳をまくり女陰を露出すると、下腹部から女陰にかけて描かれた卑猥な顔が、笑いながら現れたのです。その下腹部をよじらせながら巫女バウボーが踊りだすと、地母神デメデルは笑い出し、元気をとりもどし、薬草を飲んで、生成の活力をとりもどした、という物語です。
学校で教える日本列島史は、藤原氏が創作した「日本書紀」を基に創作されているのです。
…ローマン・グラスが、高句麗や百済の古墳から出土しないで、百済の隣国新羅の古墳から出土するのは、ギリシャ・ローマ文化国新羅が、草原ロードの騎馬民族系だからです。
そして、そのローマン・グラスは、聖武天皇の遺品を納める正倉院にあるのは、聖武天皇が、騎馬民族系、新羅系天武天皇の流れにあったからです。因みに、正倉院の校倉造りとは、南方系建築様式などではなく、騎馬民族スキタイの越冬用建築様式であったのです。
…六世紀の飛鳥ヤマトには、騎馬民族突厥(チュルク=トルコ)文化が存在していたのです。藤原氏は、720年「日本書紀」の創作で、騎馬民族文化を消し去ったつもりでいても、「日本書紀」の中で、蘇我稲目の息子蘇我馬子の娘を、「刀自古郎女」と記述しているのです。「刀自古」とは、「トルコ」のことで、それは、「突厥」のことなのです。つまり、飛鳥ヤマトでは、蘇我馬子の娘は、「突厥の娘」と言われていたのです。因みに、架空の人物厩戸皇子(後に聖徳太子に変身)の母は、孔部間人王と云うことですが、間人(はしひと)とは、飛鳥ヤマト時代では、ペルシャ人のことだったのです。
では、藤原氏は、何を目的に、飛鳥ヤマトのオリエント渡来の騎馬民族文化を、仏教文化で、抹殺・隠蔽したのでしょうか。それは、騎馬民族スキタイ末裔突厥と伴に渡来した、高度各種技術を保持する部族連合の秦氏が存在したからです。秦氏は、遥か古のヒッタイト帝国出自のヨセフ族末裔(イスラエルの祖)で、レビ族(ユダヤの祖)出自と唯一神ヤハヴェの秘密を知っていたからです。
ですから、レビ族末裔、南インドから渡来した祭祀氏族である中臣族から変身した藤原氏には、その「消されたイスラエル十部族」の最後に残る秦氏一族は、聖滅しなければならない部族だったからです。藤原氏が、レビ族アロン一派により改竄された「旧約聖書」、百済史を基に創作した日本列島史とは、秦氏の歴史的「聖滅」が、大きな目的のひとつだったのです。
秦氏の歴史的聖滅を願う藤原氏に、危惧したことが起こるのです。それは、反ユダヤ・キリスト教のパモス島のヨハネが創作した「ヨハネの黙示録」のような、反藤原氏・反亡命百済貴族の秦氏末裔多人長が創作した「古事記」が、平安時代に現れたからです。


10073秦野北斗:2019/12/24(火) 15:11:43
Re: 参考…神輿の黙示録…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010622M.jpg

http://minna-hiroba.com/kodama/2019/02/17/post-70/



10074管理人:2019/12/25(水) 03:04:35
大和古墳群方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010623M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010623_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010623_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/佐味田宝塚古墳



10075国家元首:2019/12/25(水) 06:06:06
ヒクソス・ユダヤ理論を通して考える。
タジマモリだと、江戸時代の「但馬守」とほとんど変わらない。地位であって、本名ではないのだろう。

新羅=ユダ、大和=ヒクソスとすると、この説話の意味を考えることができる。秦氏や他の中央アジアの人たちの技術のおかげで、新羅は精巧できらびやかな工芸品が多く作られるようになり、宗教的な宝も作られるようになった。メノラーに似た王冠などは、ネット上でもよく見られる。

新羅の王族を名乗るアメノヒボコは、日本列島に拠点を移すために、大和朝廷への帰属を求める。まだパロ(ラムセス)が君臨していることから分かる政治的安定性と、日本列島の安全性が魅力だった。(日本に聖皇がいると聞いたので新羅を弟の知古(ちこ)に任せて自分は日本への帰属を願ってやって来た、と語った。『日本書紀』)帰属の意思を証明するために、八つの宗教的な宝物を差し出した。この八つの宝が、「縵四縵・矛四矛」または「八竿八縵」という話のきっかけとなる。

ユダヤの神宝を手に入れたアメン神官団(のラムセス派)は、ユダヤの伝承、「エデンの園にある命の木の実」の話を聞きつけた時、神秘的な八つの神宝とその伝承との関係を疑った。ヒクソス魔術によるバイオテクノロジーでラムセスの永遠の肉体(スメミマ)を維持している彼らにとって、その伝承は単なる物語ではなかった。つまり、トキジクノカクノミの伝説出どころは、ユダヤの「命の木の実」の伝承だった。

エデンの園(常世国)に永遠の命を得る木の実(非時香菓)があるというのであれば、それをラムセスに献上しろとタジマモリに迫ったとも考えられる。神宝を使って、何かの儀式を行うことにより、永遠の命を得ることができるのであれば、使い方を教えろと迫ったとも考えられる。

そして、天皇から八つの宝のある部屋へ入ることを許可され、エデンの園へ行って命の木の実を取ってくるように命令されてしまう。長年、八つの宝の前で色々と考え込んだが、やはり取ってくることができないうちに天皇は亡くなってしまった。一族の立場を守るためもあって、責任を取る形でタジマモリは殉死した。そして、美談として話は残された。

10076秦野北斗:2019/12/25(水) 08:07:52
Re: ヒクソス・ユダヤ理論を通して考える。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010625M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_07.html



10077国家元首:2019/12/25(水) 09:16:22
常世国
>秦野さん。

『現代語譯 古事記 武田祐吉訳』だと、『常世國』は「海外の國」と現代語訳されていますね。

アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアヘズの命は、叔母のタマヨリ姫と結婚してお生みになつた御子の名は、イツセの命・イナヒの命・ミケヌの命・ワカミケヌの命、またの名はトヨミケヌの命、またの名はカムヤマトイハレ彦の命の四人です。ミケヌの命は波の高みを蹈んで海外の國へとお渡りになり、イナヒの命は母の國として海原におはいりになりました。

ウィキペディア「常世の国」より

「・・・常世の国(とこよのくに)は、古代日本で信仰された、海の彼方にあるとされる異世界である。一種の理想郷として観想され、永久不変や不老不死、若返りなどと結び付けられた、日本神話の他界観をあらわす代表的な概念で、古事記、日本書紀、万葉集、風土記などの記述にその顕れがある。

こうした「海のはるか彼方の理想郷」は、沖縄における海の彼方の他界「ニライカナイ」にも通じる。・・・

しかしながら、常世の国には、ただ単に「海の彼方の世界」というだけでなく、例えば「死後の世界」、「神仙境」、永遠の生命をもたらす「不老不死の世界」、あるいは「穀霊の故郷」など様々な信仰が「重層的」に見て取れる。・・・」

10078荊の紀氏:2019/12/25(水) 09:50:36
Re: 参考…神輿の黙示録…
秦野北斗さんへのお返事です。

>本居宣長の創作・・・

本居 宣長(もとおり のりなが)は、江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋(すずのや)[3]にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。また、荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

本居宣長は、伊勢松坂の木綿問屋小津家の次男とあり、小津という姓がでてきました。 本居姓なのに、なぜ小津なのでしょう。 実は、本居宣長と小津家は深い関係があります。
本居宣長は、小津一族の一員 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwheatbaku.exblog.jp%2F12082614%2F
小津…
肥前国佐嘉郡小津郷末次村
末次氏 (出雲国) : 宇多源氏流佐々木氏(近江源氏)一門。出雲国法吉郡(島根郡)末次郷[1]を拠点とした(出雲源氏)
この兄弟はそのまま肥前国に土着して、弟の季次は肥前国佐嘉郡小津郷の一部(現在の佐賀市 本庄町末次)に領地を得て地頭職となり、以降末次氏を名乗るようになった。
末次氏 (肥前国) : 藤原北家秀郷流佐藤氏一門。肥前国佐嘉郡小津郷末次村[2]を拠点とした。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fjapan.fandom.com%2Fja%2Fwiki%2F
藤原北家秀郷流佐藤氏…
魚名…マナ
マナ(ヘブライ語: ?? 、 ? ? [注釈 1] 、アラビア語: ??? [注釈 2] )は旧約聖書「出エジプト記」第16章に登場する食物。イスラエルの民がシンの荒野で飢えた時、神がモーゼの祈りに応じて天から降らせたという。

神様は、天からマナという食べ物をお与えになり、100万人を超える人々の食を助けてくれるという内容が書かれているのです。 そのマナとは、どのような食べ物だったのでしょうか。angel-news.com/2017/12/08/what-kind-of-food-is-manna/
名井神社…
籠神社の奥宮である「天真名井神社」には、石碑があり、かつてそこには「六芒星」が刻まれていました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fkotoha%2Fdiary%2F200605300000%2F
「籠目」とは「カゴメ」であり、「カゴメ紋」となります。
「カゴメ紋」とは「六芒星」であり、「タビデ紋」とも称され、イスラエルの国旗にもなっていますから、いずれにしても、日本とイスラエルとの関係が示唆されることになります。
籠神社…
藤原氏…
奈良時代から平安時代にかけて、藤原氏が政治権力を握ることによって、同族の中臣氏と卜部氏が宮中祭祀を独占し、物部氏および忌部氏の力は急速に衰えていきます。
これによって、物部氏が奉じてきた古代神道は完全に封印されることになります。
いったい物部神道とは、いかなる神道だったのか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftrakl.exblog.jp%2F17689395%2F
…古代イスラエル人の渡来には、少なくとも二つの流れがあります。
一つは失われたイスラエル10支族がスキタイと共に騎馬民族となって日本にやって来た可能性。
しかし、籠神社の極秘伝では、物部氏は騎馬民族や秦氏よりも古い、大量の渡来人が
朝鮮半島からやって来る以前、すでに物部氏は王権を確立していたといいます。
籠神社のある丹波を中心にして、近江や出雲を含む広大な地域を支配していました。

遂にわかった!日本民族のルーツ。物部、秦の争いが南北朝へ /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fici05876%2Fentry-11517008918.html
「縄文人」→「弥生人」→「古墳人」となります。まず「縄文人」は、1)太平洋系海人族・安曇氏、2)シュメール系海人族・橘氏(和田、楠、葛城、尾張、犬養、春日、小野)、平氏、3)北方アイヌ人(蝦夷)からなります。
?海人族・安曇氏は、山口県下関市彦島の杉田丘陵や角島、玄界灘にある沖の島、出雲の日ノ御碕沖等に、与那国島沖と類似する神殿跡やペトログラフ(岩絵文字)があることから、主に北部九州から近畿にかけて分布した海洋民族「メネフネ族」と考えられます。
?なお、これらと同形のペトログラフは、韓国、台湾、中国では全く見つかっておらず、特に朝鮮半島では5000年以前には人が居住した遺跡が存在しません。また
メネフネ族とは別に、同じく海人系ミクロネシア人
の「熊襲」あるいは「隼人」は南九州、南四国に分布しました。
?一方、シュメール系・橘氏ですが、アッカド人に国を追われ各地に分散した一派が、海路から和歌山県近辺に渡来し居住、海人族として後に物部氏とともに蘇我氏と争って下野したため、脚光を浴びることがありませんでした。
?が、天武天皇の代から橘美千代が宮中で命婦として勤め、女帝元明天皇から橘宿禰の氏姓を賜り、その子諸兄が有名です。皇室の警察犬を使う犬養氏、葛城氏も同族で、橘氏は和田氏、楠氏につながります。平氏の起源も、平清盛の話によるとペルシャ方面にあるということです。
?他方、アイヌですが、カムチャッカ半島など北シベリア方面に分布していたスーセン族と、サハリンからアムール川周辺地域など東シベリア方面に分布していたギリヤーク族(ニブヒ族)からなり、前者「阿蘇辺族」は主に北海道東部に居住し、後者「津保化族」は本州にも居住、後に「荒覇覇吐王国」を作りました。
?次に「弥生人」は、1)古代ユダヤ10支族・海部氏(物部氏)、2)支那大陸華南地域から来た「倭族」からなります。このうち海渡人(ウミワタヒト)という海人族が海部氏(物部氏)で、秦の始皇帝の側近・徐福によって連れてこられた数十万人の古代ユダヤ人の一団という説もあります。
?なお、海部氏が社家となる丹波地方にある籠神社では、「アマテルとニギハヤヒの両神は同体なり」として、海部氏と物部氏の合族を伝えています。
?最後に「古墳人」は、1)崇神天皇の時代にやってきた突蕨系の「土師(はじ)氏」、「西文氏」、2)応神天皇の時代にやってきたツングース系の「越氏」、古代ユダヤ10支族でスキタイ+アーリア系の「秦氏」からなります。
?土師氏は半島由来の騎馬民族で、主に古墳の造営を行うゼネコンのような立場だったようです。”はじ”という呼び方も、土地を与えられない"非定着漂流民”という意味での蔑称から来ていると言われています。
?西文氏は北陸に渡来し、半島からの移民、難民の受け入れ事務所を置き、漂着する渡来民を引き受け労働力として畿内の土師氏に送り込む”手配師”でした。ツングース系越氏も西文氏と同じく北陸地方に定着しました。尚、秦氏は100万人規模の大集団でやってきたとされていますが詳細は別項で述べます。

   トンデモ? ↓
「物部氏の祖であるニギハヤヒ命は、河内に降臨する際、天磐船(あめのいわふね)に乗って大空を駆けめぐった」そうです。藤原氏の北極星、北斗七星信仰はシャンバラ信仰、物部氏 のオリオン信仰はアガルタ信仰となるといわれます /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyamadori0250.hatenablog.com%2Fentry%2F2017%2F04%2F06%2F174937
藤原氏の北極星、北斗七星信仰はシャンバラ信仰、物部氏のオリオン信仰はアガルタ信仰となる。(4) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fyamadori0250.hatenablog.com%2Fentry%2F2017%2F04%2F06%2F174937
「ヤペテ系やハム系の神域がアガルタで、シャンバラは、セム系の神域ということである」といわれます。「物部氏の祖であるニギハヤヒ命は、河内に降臨する際、天磐船(あめのいわふね)に乗って大空を駆けめぐった」そうです。藤原氏の北極星、北斗七星信仰はシャンバラ信仰、物部氏 のオリオン信仰はアガルタ信仰となるといわれます。セム系氏族が北極星、北斗七星信仰、ハム系氏族がオリオン、シリウス信仰であることを明らかにしてきたそうです。我が国の神社の大半がスサノオやニギハヤヒ、つまりバールやミトラを祭祀し、その系列神を祭神とした物部氏の神社で、オリオン信仰といわれます。天の磐船(宇宙船)に乗って日本に降臨した宇宙人の種族の末裔の氏族が、勢力争いをして、日本の歴史を形成していったようです。宇宙人の出身により、それぞれの一族に分かれていったといわれます。権力を握った藤原氏は、神と天皇を繋ぐ役割であったといわれます。宇宙人は多くがタイム・トラベラーであるといわれます。
…日本に最初に降り立ったのは、シリウス人で、彼らは東北地方の青森県を中心に、下北半島、津軽半島、十和田湖周辺から秋田県の一部に展開したといわれます。「平氏の“平”がヘライ(ヘブライ)に由来すると考えると平氏はセム系、ユダヤ系ということになってくる。源平合戦はハム系とセム系の争い」といわれます。平家がプレアデス星人の末裔で、源氏がオリオン星人の末裔と語られています。「源平合戦はハム系とセム系のオリオン、シリウスと北極星、北斗七星の戦いということになってくる」そうです。米国には、シリウス星人がウォーク・イン(憑依・人格転換)やワンダラー(転生)の形態で飛来しており、その数は、非常に多いといわれます。日本民族の原郷はプレアデスにあるという説も有力でした。プレアデス人は古代リラ星人の末裔といわれます。


> 荊の紀氏さんへのお返事です。
>
> 先祖からの伝聞を基に創作・・・?、歴史は記録ですよ、韓国史籍と日本書紀の一部は創作ですが。
> それと、秦氏は創作です。天岩戸は本居宣長の創作です、真実はどこにあるのでしょう。
>


10079荊の紀氏:2019/12/25(水) 10:05:54
プレアデス…魔法陣に描かれる「六芒星」…
ヨブ記38章31節には「あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。」という文章がある。
ヘーシオドスは夏の間、40日も太陽の後ろ側に隠されることに注目した。プレアデス星団が、太陽から離れ、初めて暁の東天の地平線に姿を現す天体現象は古代には重要な出来事であるとされた。ガイウス・ユリウス・カエサルは5月の暦にこの日を記した。
プレアデス星団[3](プレアデスせいだん、Pleiades )は、おうし座の散開星団である。メシエカタログでの名称はM45。和名はすばる[3]。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
日本では古来、プレアデス星団をすばる(昴)と呼んだ。他にも地方によって、「六連星(むつらぼし)」や「羽子板星」などと呼ばれている。その他日本各地で多くの方言が見つかっている。
「プレアデス星団の方言」も参照
「すばる(統ばる)」または「すまる(統まる)」という言葉は元来他動詞「すべる(統べる)」に対する自動詞形であり、「統一されている」「一つに集まっている」という意味をもつ。玉飾を糸でひとくくりとしたものを『万葉集』で「須売流玉(すまるのたま)」、『日本紀竟宴和歌』で「儒波窶玉(すばるのたま)」などと呼んだのと同様の用法である。
その後、中国でプレアデス星団を指す昴宿から「昴」を当てた。
奈良時代に成立したとされる『丹後国風土記』逸文に「其七豎子者(七人の童子)、昴星也。其八豎子者、畢星也」という記述があり、それぞれ隣り合っているプレアデス星団、アルデバランとヒアデス星団の事と見られる。伊勢神宮皇大神宮摂社の棒原神社には昴に由来するとされる天須婆留女命御魂が御前神と共に祭られている。
日本でプレアデス星団について言及した最古の記録は、平安時代に醍醐天皇皇女勤子内親王の命で作成された百科事典『和名類聚抄』だと考えられている。この中で、昴星の和名は須波流と記されている。
昴星 宿耀経云昴音与卯同和名須波流六星火神也
ほかに、清少納言の著した『枕草子』の一節(第236段)が有名である。
星はすばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。
星はすばる、ひこぼし、宵の明星が良い。流れ星も少し趣がある。尾を引かなければもっとよいのだけれど。
「すばる」や「すまる」という名前を呼ぶ地域の南限は鹿児島県のトカラ列島であり、トカラ列島より南ではブリブシ(群れ星)、ナナツブシ(七つ星)などと呼ばれる[5]。

プレアデス星団「すばる」 ユダヤの六芒星「ダビデの星」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblogs.dion.ne.jp%2Ftanpopo0817%2Farchives%2F10121039.html
イスラエルの国旗や、悪魔を呼び出すときに使われる魔法陣に描かれる「六芒星」
私たち日本人の多くは、「何次元の世界に来た!」などということよりも、今の出来事を嘆き悲しんでいるのである。悲しみもせず、逆に生き生きとしているのはとても日本人とは思えない。まるで仮庵の地でストレンジャーとして暮らすユダヤ人のよう。
私たちは、生きるために、自分の力で戦う決意を固めているところなのだ。
もし、この破壊を自分たちが行っているというならば、自分が犯罪者であると認めているようなものだ。誤解を生むような物言いはやめたほうがいい。
プレアデスではなく、地球支配者からのメッセージの方が分かりやすくて良いのでは、その方が真実味もあると思うが。


10080秦野北斗:2019/12/25(水) 10:33:31
Re: 常世国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010629M.jpg

http://tokyox.matrix.jp/wordpress/伊勢麻積、/



10081荊の紀氏:2019/12/25(水) 19:24:05
稗田阿礼(ヒダノアレイ)…「イェヒダアレフ」
ただの雑記hanbunningen.hatenablog.com/entry/2016/05/31/012704
最初に読むなら池澤夏樹訳が一番すんなり入ってくると思う、その後で福永武彦訳のしっかり固められた訳文を楽しむのがいいと思いました。

倉野憲司、武田祐吉、神野志隆光などの一流の学者による「古事記原文読み下し文」なら、どれも信用できます。

稗田阿礼(ヒダノアレイ)…「イェヒダアレフ」
『古事記』は昔の角川文庫(武田祐吉氏校訂)のものが原文と訳が一緒で良かったのですが、今売っているのかどうか…。
古事記と日本書紀で読みやすいのは?
初心者が読むなら断然、「古事記」ですね。
何と言っても「日本書紀」より短いですから。
…いずれもプロの国文学者が江戸時代以来の諸解釈を取捨選択しながら訳していますので、素人が読んで「解釈が微妙」なんてことはありません。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1098095220

『古事記』序文偽書説のことから話を始めなければならないangouyamanoue.sakura.ne.jp/z038.htm
阿礼(アレ)
ヘブル語アルファベットの数値 アレフ ? =1

(イェヒダは単位という意味)。そうそう、旧約聖書の詩篇で最も長い章、詩篇119篇などでも英語版を読むとアレフ、ベス、ギメル・・・と書かれています。昔からアルファベットが順番を表す数字代わりに使われているのですね。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fusako_usagiclub%2Fe%2Fa91b0ac0b8a082cfd5baecce52ad616b

古事記の神話は歴史的事実が元に! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frokuzigenkai.com%2Fgenealogy%2F
『古事記』は西暦712年に稗田阿礼(ヒダノアレイ)が口述したものを大野安磨呂(オオノヤスマロ)が筆記した日本の最も古い文献です。
(稗田阿礼とは飛騨にあれませるお方という意味でヒエダと読むのは後世の読み誤りです)
『古事記』は中国から入った漢字の音で日本古来の言葉を写したために、長い間解読ができませんでしたが、江戸時代になり本居宣長(モトオリノリナガ)が二十年の歳月をかけて解読しました。
神話といわれる神代巻(かみよのまき)は、世界に比類ない美しい神話です。さらに『古事記』には日本の先祖が素晴らしい哲学を体得しておられたことがボンヤリと書かれています。
『古事記』の哲学が日本古神道の精神になり、『古事記』の心が日本の精神性の原点なのです。『古事記』の神話は歴史的事実が元になって創られています。


10082秦野北斗:2019/12/25(水) 23:23:49
Re: 稗田阿礼(ヒダノアレイ)…「イェヒダアレフ」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010631M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_01.html



10083荊の紀氏:2019/12/26(木) 00:55:47
造化の三神…參?作造化之首…
造化の三神
天御中主神(あまのみなかぬしのかみ) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonshinwa.com%2Farchives%2F6381
高皇産霊神(たかみむすひのかみ)
神皇産霊神(かみむすひのかみ)

秦氏は京都太秦の蚕の社に、上からみると三角形の鳥居「三柱鳥居」をつくった。三角形で造化三神、また三位一体神を表したのである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fgakkenmu.jp%2Fcolumn%2F11087%2F
古事記に記された最初に出現した神──アメノミナカヌシ、タカミムスヒ、カミムスヒの三神は、造化三神と呼ばれ(造化は創造の意)、天地を造り成した神とされている。
一方、出雲大社の「心御柱」(神が宿るという本殿中央の最も神聖な柱)は、3本の木を束ねた「3本柱」だった。神道にはそのほか、3本1束の柱を立てて神聖視していることが多い。神を表す数として3が使われている。
神道では神を数える際、「一柱、二柱、三柱……」と、神の数を「柱」で表す。柱は神の象徴である。古代イスラエルでも、柱は神の象徴だった。古代イスラエル人は石の柱を立てたり、木の柱を立てたりして、神を礼拝した。
造化三神と三位一体
キリスト教では「三位一体なる神」が信じられている。この三位一体神とは、御父(神ヤハウェ)、御子(イエス)、御霊(聖霊)の三者が、互いに区別されるものの、存在と本質をひとつにした神であり、唯一の神であるという信仰だ。

参宿は燦として斜めに懸かかれり。 凍夜疎林上、 凍夜 疎林の上、 悠々世外天。 悠々たり 世外の天。 シリウスが今まさしく爛々と輝き、そのそばにはオリオンの三ツ星が、燦然ときらめきながら空に斜めにかかっている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8628.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F3679
参宿(からすきぼし・しんしゅく)
オリオン座の中央部の三つ星を含む7星を指す。二十八宿(にじゅうはっしゅく、古代中国で月が地球を一周する間に通過する28の星座)の一つで西方白虎七宿の第七宿。白虎の胸にあたる。距星(きょせい、各宿の基準点となる星)はオリオン座ζ(ゼータ)星。「三つ星」の意。名は農具の一種「唐鋤(からすき)」に見立てたもの。「三つ星(みつぼし)」「三連星(みつらぼし)」とも。唐鋤星(からすきぼし)。参(しん)。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhyogen.info%2Fgroupw%2Flist%2F5439

オリオン座の三連星は、住吉三神が天に見える姿である、というのです。
住吉三神はソコツツノオノミコト・ナカツツノオノミコト・ウワツツノオノミコトの三神です。漢字で書くと底筒男命・中筒男命・表筒男命となります。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fzinja-omairi.com%2Fsumiyosisanjin%2F

オリオン座です。中央の三つ星が「上中下の星の神」です。
このイラストでは横並びに近いから上中下には見えませんが、昇ってくる時には、縦になって一つずつ出て来るんですよ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flunabura.exblog.jp%2F15412072%2F


10084管理人:2019/12/26(木) 03:21:56
中国都城と畿内方位区画
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https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/152861/1/jor031_2_182.pdf



10085荊の紀氏:2019/12/26(木) 08:35:53
ニギハヤヒは宇宙人?さらに同じく瀬織津姫も宇宙人でシリウス文明が…(?)
「垚(土三つ。うずたかい)+兀(ひと)」兀…(祭壇座?)
炎の部分となるのが西の四角形である。祭壇と接する北の二辺(ζγ)は炎の火元となり、南の二辺(δη)が燃え盛り広がる炎の形象となる。祭壇座の北東の範囲外の星々は蠍座の長い尾の中ほどの三ツ星ζ3.6等星、η3.3等星、θ1.8等星
祭壇座 アラAra 英名the Altarhttps://ameblo.jp/mimba0621hori/entry-12347068703.html
祭壇座、Ara…原始キリスト教の奥義は、神道の中に隠されている /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4963

尭[堯] ギョウ  土部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F0fa4b97bbb9580fa5225e2ee3b639b24
解字 甲骨文は、ひざまずいた人の上に土のかたまりが二つある形。篆文第一字(古文)は、二人の人がそれぞれ土を上にのせている形で、土を運んで細工をする陶工を表していると思われる。ここから、古代の聖王のひとりが、陶唐という姓で陶器作りの祖であるという伝説と結びついてこの字が聖王「堯ギョウ」を表す字として使われたものと考えられる。
 篆文から、「垚(土三つ。うずたかい)+兀(ひと)」の堯に変化した。垚は陶工(兀)がつくった器をうず高く積んで乾燥させたり、焼くために窯に積んでいるさまと思われる。中国では、新石器文化期に窯の使用を開始しており、これにより高火度・長時間焼成が可能となり、より硬質のやきものが生産されるようになった。窯はかなり広いため、成形した器をそのまま積み上げたり、貴重なものは匣鉢(さや)に入れてから積み上げて焼成した。堯は、うずたかく積み上げることから、たかい意となる。また伝説上の聖王である堯に当てられる。堯は新字体に準じて上部の垚⇒卉に変化した尭が通用する。
意味 (1)たかい(尭い)。気高い。「尭尭ギョウギョウ」(高いさま) (2)中国古代伝説上の王の名。治水に舜シュンを起用しのちに彼に位を譲った。「尭舜ギョウシュン」(尭と舜は古代の聖王で、徳をもって天下を治めた古代の理想的帝王として並び称される)
イメージ  陶工が成形したのち乾燥させたり、焼くために窯にいれた「つみかさねた器」、うず高く器を積んださまから「ゆたか」のイメージがある。
  「つみかさねた器」(尭・焼・暁・橈・撓・蕘・遶・蟯・繞)
  「ゆたか」(饒・驍)
  「同音代替」(僥)
音の変化  ギョウ:尭・暁・僥・驍・蟯  ショウ:焼  ジョウ:遶・蕘・繞・饒
  トウ:橈・撓
ギョウ:尭・暁・僥・驍・蟯…
ぎょうしょうぶんか、ヤンシャオぶんか、英: Yangshao culture、漢語ピンイン: Yǎngsháo wénhuà)は、中国の黄河中流全域に存在した新石器時代の文化である。仰韶文化の年代は紀元前5000年から紀元前3000年あたりである。この文化の名称は初めて出土した代表的な村である仰韶にちなんで付けられた。仰韶村遺跡は1921年に河南省澠池県仰韶村で発見された。この文化が主に栄えた地域は、河南省、陝西省および山西省である。
仰韶文化は彩陶で有名である。仰韶の職人は美しい白、赤、および黒の彩陶で人面、動物、および幾何学模様を作成した。後世の龍山文化と異なり、仰韶文化は土器の作成にろくろを使わなかった。発掘調査により、子供達が彩文土器のかめに埋葬されていたことが判明した。
西安に近い半坡村の考古学遺跡・半坡遺跡は、仰韶文化のもっとも有名な溝で囲まれた集落の1つである。西安・臨潼区の姜寨と呼ばれるもう1つの主要な集落遺跡がその限界に発掘され、考古学者たちはこれらの集落が完全に環濠で取り囲まれていたことを確認した。これらの遺跡からは半坡文字と呼ばれる文字に近い記号も発見されている。

理想の天子…「玉璽ギョクジ」(天子の印章)…
堯(ぎょう)は、中国神話に登場する君主。姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。陶、次いで唐に封じられたので陶唐氏ともいう。儒家により神聖視され、聖人と崇められた。
堯の用語解説 - 中国古代の伝説上の聖王。普通,いわゆる五帝 (→三皇五帝 ) の1人に数えられる。
尭【ぎょう】 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
中国,古代神話・伝説上の帝王。天体の運行を正して暦法を定め,鯀(こん)に治水を命じ,舜に位を譲るなどの事跡が伝えられるが,むしろ天帝的神格で実在的人物でない。後世歴史化され,舜とともに理想的帝王として尊崇された。→三皇五帝

ニギハヤヒと言う神様はニギハヤヒノミコトと正式には呼ばれ、漢字では次のように書きます。
饒速日命
饒速日尊
邇藝速日命…爾(シ゛)  ジューJew(ジュー)はユダヤ人でなくユダヤ教徒では?訳と白人の奇妙さ  ←(各自検索願います)
      爾⇒尓に略される。現代の色糸の結び飾りは中国で「結」または「絡子」と呼ばれている。
      意味 (1)なんじ(爾)。おまえ。二人称の代名詞。「爾曹ジソウ」(なんじら) (2)その。それ。この。これ。「爾後ジゴ」(そののち)「爾今ジコン」(今から)「爾来ジライ」(それ以来) (3)しかり。 (4)のみ。限定の助字。 (5)ほほえむ。(=薾)。「莞爾カンジ」(にっこりほほえむ)
     「玉璽ギョクジ」(天子の印章)「御璽ギョジ」(天皇の印)「璽綬ジジュ」(天子の印と飾り紐。また、転じて、天子の印)
櫛玉饒速日命
ニギハヤヒの別名は?
天照國照彦天火明尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり の みこと)
天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)
彦火明命
膽杵磯丹杵穂命
天照御魂神
ニギハヤヒは宇宙人という説
スピリチュアルが好きな方がネット上にたくさんの意見を乗せていて、その一つにニギハヤヒは宇宙人であるという意見もあります。
これは学術的な背景を持っている説ではありません。
この説は、ニギハヤヒの妻の瀬織津姫という女神は、シリウス文明の女神であるという説や、エジプトその他神話を持つヨーロッパ・中東地域の神とつなげるという説の様です。
ニギハヤヒとユダヤ?
古代のロマンが好きな人なら「日ユ同祖論」と呼ばれる、イスラエルに存在した部族の一つが日本に流れ着き王朝を立てたというニコラス・マクラウド氏が明治時代に提唱した意見を聞いたことがあると思います。
この意見では、日本の神様の名前の音がヘブライ語に似ているウガヤフキアエズという神様がユダヤの王と同一という考え方等たくさんの説があります。
ニギハヤヒもその一つという考え方です。


10086荊の紀氏:2019/12/26(木) 09:48:06
尭【ぎょう】…賁…窯…黄泉がえり…
窯の中で陶器の色や形に予期しない変化がおこること…黄泉がえり…
黄泉がえりの井戸 の中は発見後に整備されたのか「輪廻転生」と書かれた小さい穴 があるだけですosumituki.com/hack/kyotokanko/sights/112440.html
前方後円墳は被葬者の蘇りを願った形であるといわざるを得ません。www5c.biglobe.ne.jp/~n-aichi/ronbun2.html
第二十代安康天皇、第二十一代雄略天皇、第二十五代武烈天皇は何故、前方後円墳でなかったのでしょう。それは、蘇って欲しくなかったからなのです。

古墳に用いられる埋葬施設には、竪穴系のものと横穴系のものとがある。
古墳(こふん)とは、古代の墳墓の一種。土を高く盛り上げた墳丘を持つ墓を指し、特に東アジアにおいて位の高い者や権力者の墓として盛んに築造された。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
噴き出たものが「盛りあがる」 (墳)
「賁フン」 <ふき出る> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F829d327aa24eaed5cab9ddad278a9a80
ふき出る…
最先端の脳科学から古代オカルトまで..「科学」と「非科学」を融合した成功法則 ホーム > 微生物と発酵食品の深すぎる世界 > 熱水鉱床に存在する生物、バクテリアが生命体の原始か? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fspiritual-success.com%2F50192
なぜ海底熱水鉱床を探す必要があるのか レアアースを含むレアメタルは21世 紀の技術と産業のカギとなる資源 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fshingi.jst.go.jp%2Fpast_abst%2Fabst%2Fp%2F14%2F1453%2Fjamstec_04.pdf

『風土記』編纂の背景 和銅六年(七一三)、中央政府は地方諸国に『風土記』の編纂を命じた(続日本紀)。その時、中央政府が要求したのは次の五項目であった。
?郡や郷に二字名の好字をつける。?郡内に産出する品目をあげる。?土地の肥沃の状態について記す。?山林原野についてその名称の由来を記す。?古老の伝える旧聞異事を記す。このように政府は広範な内容を含む地誌を要求したが、これらの要求事項は同一基準で統一的になされたものではなかった。それは実際に残存する『風土記』にはさきの?〜?の内容が網羅されているものの、諸書に相異がみられ、それぞれ独自性の強い内容となっていることからもうかがうことができる。www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7773
たとえば伊予国からも文武二年(六九八)七月に白□(金に葛)(なまり)・□(金に葛)鉱が献上され、次いで九月には朱砂が献上された記事などがみえ(続日本紀)、政府が国内の資源開発に熱心であったことがわかる。

『山伏』のノウハウが『大本教』通じて、神道系新宗教にも流れているわけですね。
オタク産業と『山伏』の宗教ビジネスの類似性…『聖地巡礼』って、元々『山伏』の仕事ですよね 7年前 『かんなぎ』は神道の近代史をなぞっている? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fmalcolm_x%2Fe%2F229214d2c96e305d9a13050c74d9bf96
オタクの聖地巡礼が、20年近く前から、宗教と縁があったことが判ります。

巡礼の杖をもち、ズダ袋とホタテ貝を背負っている。何故、ホタテ貝なのかは、これから調べなければ分からない。参考にした書籍では、地中海を股にかけた「海の人」としての象徴がホタテ貝であるとしている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4283
カミーノ巡礼者のしるし・ホタテ貝。
サンテイアゴへの巡礼者は、巡礼の証としてホタテの貝殻をつけて歩きます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fsignoramimi%2F19878407.html
5 ホタテガイ類は豊穣の象徴で、ギリシア神話の女神ヴィーナスとともに描かれるのは有名。
6 ヴィーナスの誕生にも描かれているホタテ貝。それには再生という意味が含まれていて、巡礼はその場所に古い自分を葬りに行き、目的地に着いた時に再生するということから。
古い自分を葬りに行き、目的地に着いた時に再生する
葬り 再生
縄文人にとって は亡くなった人を送るための場であったと同時に「再生の場」としての役割を担っていたと 考えられています /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmuseum.city.fukuoka.jp%2Farchives%2Fleaflet%2F441%2Findex02.html
出土した六体の人骨のなかで、熟年女性と判定された人骨は左腕に十四枚の貝輪を装着していました。縄文時代の貝輪は主に女性が装着するアクセサリーであったことがこれまでの発掘調査からわかっています。
仏教が入るまでは、再生・ よみがえりにとって重要な方角であったことは明白である。
古墳とレイライン・方向性に一貫性はあったか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fkawakatu_1205%2F54768792.html
倭人伝の方位についても同じことが言えるわけだが、どうも古代人は無用なところでは方角にルーズである。方角にこだわらねばならなかったのは、舟を動かす海人族だけだったはずである。

レイライン(ley line)は、古代の遺跡には直線的に並ぶよう建造されたものがあるという仮説のなかで、その遺跡群が描く直線をさす。レイラインが提唱されているケースには古代イギリスの巨石遺跡群などが … /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fakahanamai.com%2F2019%2F09%2F21%2F2723%2F
ホタテ貝が巡礼者のお守りで、この道のシンボルマーク。
ホタテ貝…
ホタテ貝 前方後円墳の画像 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%2520%25E3%2583%259B%25E3%2582%25BF%25E3%2583%2586%25E8%25B2%259D%25E3%2580%2580%25E5%2589%258D%25E6%2596%25B9%25E5%25BE%258C%25E5%2586%2586%25E5%25A2%25B3%26qs%3Dn%26form%3DQBIR%26sp%3D-1%26pq%3D%25E3%2583%259B%25E3%2582%25BF%25E3%2583%2586%25E8%25B2%259D%2520%25E5%2589%258D%25E6%2596%25B9%25E5%25BE%258C%25E5%2586%2586%25E5%25A2%25B3%26sc%3D0-10%26sk%3D%26cvid%3D4565A85924D24C8CAA8DDE33AAB54E14
ホタテ貝 古墳の画像 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%25e3%2583%259b%25e3%2582%25bf%25e3%2583%2586%25e8%25b2%259d%2B%25e5%258f%25a4%25e5%25a2%25b3%26qpvt%3D%25e3%2583%259b%25e3%2582%25bf%25e3%2583%2586%25e8%25b2%259d%25e3%2580%2580%25e5%258f%25a4%25e5%25a2%25b3%26FORM%3DIGRE
ホタテは『夫婦の和合』をあらわすとされ、 おめでたい席に登場します ホタテはフランスでは「聖ヤコブの貝」とも言われます /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.yamakiichi.com%2Ffs%2Fyamakiichi%2Fc%2Fkouhakuset
ホタテ貝古墳はヤコブのシンボル /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F1137
ロータス、 ... 帆立貝/ロカイユ (貝殻状) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fflora.karakusamon.com%2Fenter%2Fguri.html
墳丘墓(パッセージグレーヴ)
ニューグレンジには、複雑な装飾が見られる。
横穴の内外に施されている精緻な彫刻は、主として螺旋、山形、菱形などから構成されており、これらの文様が、 後にやってきたラ=テーヌ時代のケルトの職人に多大な影響を与えたと考えられている。
ニューグレンジの存在自体が、 彼らにとっても重要なもの(一説には、ターラと並ぶ重要な「妖精塚」と考えられていた) と され、 多くの伝承物語に登場する。

穴(あな)+灬(火)…『夫婦の和合』…窯 …
窯 ヨウ・かま 穴部 解字 「穴(あな)+灬(火)+羊の略体(ヨウ)」の形声。ヨウは?ヨウ(かめ・もたい)に通じ、かめを丘の斜面の穴がまにいれて火で焼くこと。陶器を焼く穴窯や登り窯をいう
「羊ヨウ」<ひつじ>と 「羔コウ」<こひつじ>
解字 前からみた羊の象形。羊の角の下部に羊のからだを描いている。牛が角を上に向けて描かれているのに対し、羊は角を下に向けている。ひつじの意を表す。羊は古くから家畜として飼われ、毛は毛織物、肉は食用として利用された。古代の中国人にとって重要な動物で神事に使われることも多かった。また、羊の字はその発音:ヨウ・ショウで同音代替されることが多い。
意味 ひつじ(羊)。ウシ科の哺乳類。「羊毛ヨウモウ」「牧羊ボクヨウ」
参考 羊は部首「羊ひつじ」になる。漢字の上部や右辺や左辺に付いて「ひつじ」の意を表す。常用漢字で7字、漢字の中字典で約40字ある。なお、羊が上につくとき、美のように羊の下部が省略されることが多い。おもな字は以下のとおり。
 群グン(羊+音符「君クン」)、義ギ(羊+音符「我ガ」)、
 羚レイ(羊+音符「令レイ」)、美ビ(羊+大の会意)、
 羨セン(羊+氵(水)+欠の会意)、羞シュウ(羊+丑 の会意)、
 着チャク(著の変形字)、羔コウ(羊+灬(火)の会意)
イメージ
 「ひつじ」(羊・養・鱶・祥・詳・遅・美・躾・様)
 「同音代替」(洋・痒・恙・翔・窯)
音の変化  ヨウ:羊・養・様・洋・窯・痒・恙  ショウ:祥・詳・翔・鱶  チ:遅  ビ:美  しつけ:躾
祥 ショウ・さいわい ネ部
解字 「ネ(示:祭壇)+羊(ひつじ)」 の会意形声。羊を神にそなえて願うこと。すると、神からの前ぶれが表れること。その結果、さいわいがもたらされる。
意味 (1)きざし。前ぶれ。「祥雲ショウウン」「祥瑞ショウズイ」(めでたい前ぶれ) 「発祥ハッショウ」(?天子となるめでたいしるしがあらわれること。?物事が起こりあらわれること)「発祥地ハッショウチ」(ある物事が初めて起こりあらわれた土地)(2)さいわい(祥い)。さち。めでたいこと。「吉祥キッショウ」(めでたいきざし)「不祥フショウ」(不吉なこと。災難や不運)「不祥事フショウジ」(不名誉で好ましくない事件)
窯 ヨウ・かま  穴部
解字 「穴(あな)+灬(火)+羊の略体(ヨウ)」の形声。ヨウは?ヨウ(かめ・もたい)に通じ、かめを丘の斜面の穴がまにいれて火で焼くこと。陶器を焼く穴窯や登り窯をいう。?に穴のついた窰ヨウは、窯の異体字。
意味 かま(窯)。すえもの。陶器。「窯業ヨウギョウ」(窯を用いる工業、陶磁器・ガラス・煉瓦などの製造業)「陶窯トウヨウ」(陶器を焼く窯)「窯変ヨウヘン」(窯の中で陶器の色や形に予期しない変化がおこること)
天子となるめでたい前ぶれ…再生…

いのち 蘇る時 時を超えて 聴こえてくる呼び声に導かれ 古代の出雲へ 魂が帰還する 満月に満願の旅 これまでの 力を抜いて 愛する大地に立つ いのちの母胎の … 古の大地蘇る時 黄泉がえりの旅 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Ftara-m0039%2Fentry-12256468538.html


10087秦野北斗:2019/12/26(木) 16:42:11
荊の紀氏さん羽根を伸ばしてます。
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これぞ!サンダー・ドラゴン大将軍!(dos/日本 、何処へ行ったのDNA先生

荊の紀氏さん羽根を伸ばしてます。



10088管理人:2019/12/27(金) 03:03:26
丹波・河内方位区画と天日矛のレガリア
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010637M.png

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https://ja.wikipedia.org/wiki/日岡陵古墳



10089国家元首:2019/12/27(金) 03:16:54
新羅=秦氏ではない。
新羅の本隊は、ユダである。秦氏も祖先は同じであるが、比較的新しく東アジアへ移動してきた集団である。秦氏は、中国や西域の進んだ文化を持って来た。秦氏は必ずしも新羅の主流派と良い関係にはなかった。古事記でも、秦氏が新羅とうまくいっていなので、大和政権の力を借りて新羅から逃げ出したことになっている。

同祖とはいえ、長い間分かれていたので、文化や容貌に違いがあった。騎馬遊牧民の価値観からは、土木や工芸を職業とする人々は、支配階層とは扱われない。秦氏は中東・中央アジアに長くいた分、色が褐色がかっていたり、白人型の人たちと混血していただろうが、新羅の支配層はそういうことに敏感だったろう。

この事情は、基本的に日本の歴史でも変わらなかった。秦氏は文化や産業、土木建築で活躍し、金持ちも多かったが、そういう人たちは支配階層ではなかった。新羅の主流の末裔である源氏等の武士が、皇室・公家による支配の後の支配層だった。(秦氏である長宗我部や島津は大分後世の家であり、しかも武士になっていたので例外である。)源氏は秦氏の神を信仰したが、秦氏とは同じグループではなかった。

この辺の事情が、最近のユダヤ話で考慮されておらず、新羅と秦氏が混同されている。最近話題になっているユダヤ人埴輪は、秦氏ではなくて、もともとユダ部族の中にいた祭祀職の人たちではないだろうか。聖書の歴史的記述は後になって宗教上の理由で作った歴史なので、本当の事実とは違っている。

おそらく、ユダ(とイスラエル?)は一神教になりきらないうちに、ヒクソスの東への移動に伴って移動したのであろう。さらに、大和政権への編入の時に、一神教的な要素は全面的になくなっている。そこは、秦氏も同様である。八幡神=高御産巣日神(高木の神)ということで、大和(ヒクソス)側も納得した。

10090荊の紀氏:2019/12/27(金) 07:44:32
矞 (矛を立てる=トゲがある)…茨城(荊木)
飛鳥時代末、県犬養三千代が元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜っ たことに始まる。その子・葛城王が橘諸兄へ改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称した
郡衙の位置や役割 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4056
海に身を投じた弟橘媛命の「櫛(くし)」を納める「橘神社」が合祀され、現在に至ります。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fflow_and_stock%2Fjisya-kanto%2Fhashirimizu.html
(くし)
串 カン・セン・くし 丨部 解字 ものを串ざしにした形の象形。つらぬく意を表わす[字統]。 篆文の字形は患から復元した。 意味 (1)つらぬく。うがつ。
つらぬく意…西から東…古東海道…日立?

古東海道の終点の都市 : 石岡www.rekishinosato.com/toukaidou.htm
古東海道は東京湾を舟で渡った
 東京湾アクアラインが開通したとき旧東海道の再現との話題があったが、昔の東海道は横須賀の走水(観音岬)より千葉県の富津岬へ舟で渡っていたという。神奈川側では鎌倉から葉山へ行き、そこから三浦半島を横断して衣笠を通って横須賀川へ歩いた。当時江戸はまだそれ程開発されていない地域であり、現在の東海道からはかなりズレていた。千葉県に入ると上総(かずさ)国=国府は市原-下総(しもうさ)国=国府は市川-常陸(ひたち)国=国府は府中(現石岡)と続いていた。江戸を中心に考えると下総の方が東京に近いが、当時の東海道で考えれば、五畿内(関西)に近い上総が上手である。
寅さん埴輪の画像
(矢切の渡しは江戸川を柴又へ渡る渡しである) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%25e5%25af%2585%25e3%2581%2595%25e3%2582%2593%25e5%259f%25b4%25e8%25bc%25aa%26qpvt%3D%25e5%25af%2585%25e3%2581%2595%25e3%2582%2593%25e5%259f%25b4%25e8%25bc%25aa%26FORM%3DIGRE
 房総に渡った後の古道東海道ルートについて
 走水を出た船が上総(かずさ)のどこについたのか範囲が広く良く分かっていない。地図で見る限りは富津岬が一番近い(約6km)ように思われますが、木更津に近いところ辺りに着くのがルートであったのではないでしょうか。上総に上陸した後は、現在の国道16号に沿って海沿いに北上する。五井駅の近くで右折し、市原市役所の近くが旧国府(上総国分寺がある)である。国道16号を更に北上すると、国道14号にかわる。このまま海沿いに進むと下総(しもうさ)国府である市川市に入る。市川市外より松戸方向に北上する県道があり、少し行ったところに下総国府である国府台である。この道をそのまま北上すると野菊の墓、寅さんや演歌で有名になった「矢切の渡し」のある矢切を通り(矢切の渡しは江戸川を柴又へ渡る渡しである)松戸へ出る。ここからは6号国道を北東し、常陸国国府石岡へ出る。江戸時代前までは利根川は現在のように銚子へ流れるのではなく、東京湾に流れており、霞ヶ浦や手賀沼などは一体の大きな内海であった。利根川に相当する川として常陸川(小貝川と鬼怒川の合流)があったが、この川をどのように渡ったかは良く分からないが、あまり流れが速くなかったのではないだろうか。
さて、千葉の房総半島には下総、上総ともう一つ安房(あわ)国がある。ここは養老2年(718年)に上総の国から分割されてできた。国府は館山市国分(三芳村府中?)である。安房の言葉の由来は忌部氏(いんべし)が四国の阿波(徳島県)の民を連れてきて、阿波の神を祀ったことによるとされる。南総里見八犬伝で有名となった。
さて、古道東海道の終点、常陸国府中(現石岡市)に都より国司、常陸介が赴任すると、国府の浜(現高浜)より舟で霞ヶ浦を渡り、鹿島神宮のお参りに行くのが習わしであった。しかし、波が荒い日は、浜に青葦で仮神社をたてお参りした。こらが始まりとなり、青屋神社が建てられ、高浜神社が建てられた。


10091荊の紀氏:2019/12/27(金) 07:56:02
まっすぐで細長い道。…>畷 テツ・なわて  田部…
石岡(常陸国府)と鹿島神宮 現在の石岡(元の府中)に常陸国府が置かれたのは大化の改新のすぐ後で、7世紀半ばです。当時すでに鹿島神宮は存在し大和朝廷より国造が派遣され統治されていたと考えられます
常陸から見た日本の夜明けwww.rekishinosato.com/essayW_15.htm
常陸から見た日本の夜明け
 4世紀中頃に成立したとされる大和朝廷はその成立に関し、未だに謎が多く残されている。邪馬台国との関係も明らかになっていない。今から1660年位前のことである。邪馬台国の女王卑弥呼が死んだのは248年頃と見られている。中国の「魏志倭人伝」に記載された内容から、対馬から水行十日、陸行一月の行程の日数の解釈によりその場所が特定されていない。石岡の歴史を調べていくうちに私は不思議な感覚におそわれた。それは鹿島神宮の創建時期とその建立されている位置についてである。鹿島神宮の創建は神武元年(紀元前660年)とされているが、当然これは神話に基づくもので本当とは思われない。しかし、日本書紀や古事記に書かれた神話の中でも重要な地位を占めている。昔は太陽は絶対的な崇高なものとされていたことは今でも想像するに難くない。太陽が最も力強い生命力を与えてくれる夏至(6月20日頃)の頃の太陽の動きを考えて見よう。(これは間違っていることが判明しました。下記に訂正コメント記載)鹿島神宮より西南23.4度の線(地軸の傾き)を引くと、この下に「皇居」「明治神宮」「富士山」「伊勢神宮」「吉野山」「高野山」「剣山(四国)」「高千穂(宮崎)」とが並ぶのである。高千穂に降り立った神々(人々)は、太陽が昇る日の出の方向に何かを感じたに違いないので、日出る地を求めて夏至の日の出の方向に日本列島を進むのです。まず四国剣山の上から日が昇る。山の上に昇ると、四国は徳島の阿南から一番先に日が昇るのです。さらに阿南に行くとその先の陸地から日が昇ります。そこが吉野山です。吉野山から眺めて日が昇る場所は伊勢です。伊勢にある二見浦の岩の間に富士山から日が昇るのが丁度この夏至の時期です。そして富士山から眺めると日本で最初に日が昇る場所が鹿島なのです。これは偶然の一致でしょうか? もちろん神=天皇の歴史として神話(日本書紀等)は作られてきましたので、高千穂に最初に神が降臨されたというのは、大和朝廷ができた後に作られた物語であることは間違いないと思います。しかし、これは日本全土を統一するために神道を広め、民族の統一を図るために必要な事柄であったものです。この民族の統一に鹿島神宮の役割は大変密接に係わっていたと思われます。下図を見て下さい。昔の人々、特に占いで人民から厚い信頼を得ていた当時の権力者達にとって、この夏至の頃の太陽の昇る方向に何か特別な力があると考えたとしても不思議はありません。今のような明かりのない時代に太陽がどのような存在であったのかを考えるととても興味深いといえるのではないでしょうか。
(訂正(2011.10.29):地球は球体ですので、平面地図に直線を引いても、これだけ長い距離では同じ日の太陽の軌跡にはなりません。また赤道上から角度をあわせていないので、23.4度もこの地図上では意味がありません。最近は写真を撮る人のために日の出、日の入を表示してくれるソフトがあり、これにより、概算の日の出の方向を確認しました。するとこの直線(本当は上に凸の円弧)に近い日の出の日時は、夏至の頃ではなく5月5日〜15日頃になります。これは下記地図上の直線の左(西)側から右(東)側にかけて追いかけて行くと、日の出の日時が少しずつ変わってきます。当然活火山でもあった霊峰富士の上に登って日の出方向を確認したとも思えませんので上記の考えは、このような日の出方向に向かって進んだのではないかとの仮説に過ぎません。
逆に、鹿島に陸路または海路で降り立った人々が富士山に日が沈むのを眺めていたとすると、これは2月4日の立春に当たるとご指摘を受けました。ご指摘感謝申し上げます。)
・・・
2世紀後半から3世紀中ごろまでは北九州(?)に女王卑弥呼が統治していた邪馬台国(その他、末盧国、伊都国、奴国などが)があったと考えられています(諸説ありますが現在の最も有力な説はやはり北九州でしょう)。魏志倭人伝(三国志の時代)によると3世紀前半には邪馬台国の最大のライバルとして男の国王の国「狗奴国(くなこく)」があったとされています。この狗奴国はおそらく南九州(熊本)にあったのではないでしょうか。この魏志倭人伝に書かれているのは主に九州一帯には多くの諸国があったと思われます。卑弥呼が死ぬとその後男王が就くが国が乱れて13歳の壱与(いよ)が女王に就き、乱れは治まるのですがその後の大和朝廷の誕生まで100年〜150年が謎に包まれています。そして大和朝廷が誕生して日本は現在の天皇家が代々続くことになります。古事記や日本書紀には最初の天皇として「神武天皇」が日向国(宮崎県)の高千穂から東征し、紀元前660年2月11日に大和橿原の宮で即位します。そして斎場(まつり場)を鳥見山(桜井市東部?)に造営しました。これが伊勢神宮へと発展していきます。しかし、この神武東征は後から神話として作られたもので、どこまでが歴史的な史実に基づいているかははなはだ疑問といわざるを得ません。(橿原から伊勢はほぼ真東です)
 古事記や日本書紀が編纂されたのは7世紀後半から8世紀前半にかけてであり、大和朝廷が成立後300年程たっていますので、1000年以上も前の天皇の誕生については作り話であると考えるのが普通でしょう。さて、では何故神が最初に降り立ったのが日向国高千穂なのでしょうか?高千穂は邪馬台国の中心でも、狗奴国でもなく、九州のほぼ真ん中にあたる場所です。ここに降り立った神(天皇)が「日いずる国」を統一するために夏至の太陽の昇る方向へこの壮大なレイラインを追い求めて東へ進むと富士山を越えて、東端が常陸国鹿島神宮となります。ここが日本の日の出る最初の場所となるのです。
・・・
高浜入り江からの筑波山
 右の地図は筑波山から石岡方面に東南方向に23.4度傾けた線を引いたものです。これによると夏至の6月20日頃、高浜の入り江あたりからみて、筑波山に夕日が沈みます。石岡の国府からは筑波山より少し北側の加波山との間に沈み、筑波山に日が沈むのは夏至よりも1月前後ずれた時期になります。茨城百景に「高浜の入り江から見た筑波山」が選ばれています。男体山、女体山の2つの頂の間に沈む夕日は本当に素晴らしい風景です。お勧めポイントは高浜少し手前の恋瀬側に架かる橋上です。日が沈む方向は「死」を示す方向かもしれませんが、死者が眠る方向も尊いのです。参考までに、徳川家康の眠る日光は徳川御三家の水戸藩からみて丁度この方角です。これも方角がたまたま一致しているとばかりは言えないのではないでしょうか。
・・・


10092秦野北斗:2019/12/27(金) 09:05:54
Re: 新羅=秦氏ではない。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010641M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=-lX9gssexrk



10093管理人:2019/12/28(土) 03:11:04
河内王朝の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010642_2M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/垂仁天皇



10094秦野北斗:2019/12/28(土) 12:05:14
Re: 河内王朝の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010643M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_10.html



10095国家元首:2019/12/28(土) 14:19:16
倭の五王
秦氏の渡来について記述があるのは、古事記ではなくて日本書紀のほうのようです。勘違いしていました。

ウィキペディア「倭の五王」より

「倭の五王とは、古代中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、讃・珍・済・興・武をいう。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡って主に南朝の宋(420年-479年)に朝貢した。・・・

宋の歴史をまとめた『宋書』には、宋代を通じて五人の倭王の使者が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。・・・

方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は朝貢の事実を記していないが、倭の五王に比定される天皇の時代に「呉国」と使者のやり取りがあったという記述があり、「呉」とは中国南東部の地域に当たることからこれが南朝の宋を意味するとも考えられる。

・・・また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における権益に関して国際的承認を得ることも重要な目的であった。

・・・最終的には「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に任ぜられ、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓についての公認を得たものの、百済に関してはついに認められなかった。」

古代の朝鮮と日本の歴史を考察する上では、今の日本(人)と朝鮮(人)という枠組みで考えてはいけないことが、「倭の五王」の問題ひとつとっても分かります。

この「秦韓」という国と秦氏は、文字の上からは関係がありそうですが、古代朝鮮の国家や民族の実態を解明するのはかなり難しそうです。

10096秦野北斗:2019/12/28(土) 15:53:56
Re: 倭の五王
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010645M.jpg

国家元首さんへのお返事です。

舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝に倭の五王が書かれています。

倭国の五人の王、讃・珍・済・興・武は、夫(日本)からの依頼で、中国から韓半島の平定のために送った将になる。
秦氏は創作で存在しない、「秦韓」の意味は220年の馬韓、辰韓、弁辰の辰韓=秦韓になる。
秦は中国の民族を意味する。

当資料は史記、古事記、日本書紀、万葉集の原文です。


> 秦氏の渡来について記述があるのは、古事記ではなくて日本書紀のほうのようです。勘違いしていました。
>
> ウィキペディア「倭の五王」より
>
> 「倭の五王とは、古代中国の歴史書に登場する倭国の五人の王、讃・珍・済・興・武をいう。5世紀初頭から末葉まで、およそ1世紀近くに渡って主に南朝の宋(420年-479年)に朝貢した。・・・
>
> 宋の歴史をまとめた『宋書』には、宋代を通じて五人の倭王の使者が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。・・・
>
> 方、日本側の史料である『古事記』と『日本書紀』は朝貢の事実を記していないが、倭の五王に比定される天皇の時代に「呉国」と使者のやり取りがあったという記述があり、「呉」とは中国南東部の地域に当たることからこれが南朝の宋を意味するとも考えられる。
>
> ・・・また朝鮮半島諸国との外交を有利に進め、なおかつ4世紀後半以降獲得した半島における権益に関して国際的承認を得ることも重要な目的であった。
>
> ・・・最終的には「使持節 都督 倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に任ぜられ、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓についての公認を得たものの、百済に関してはついに認められなかった。」
>
> 古代の朝鮮と日本の歴史を考察する上では、今の日本(人)と朝鮮(人)という枠組みで考えてはいけないことが、「倭の五王」の問題ひとつとっても分かります。
>
> この「秦韓」という国と秦氏は、文字の上からは関係がありそうですが、古代朝鮮の国家や民族の実態を解明するのはかなり難しそうです。



10097管理人:2019/12/29(日) 02:05:34
三韓諸国の位置推定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010646M.png

http://en.wikipedia.org/wiki/Samhan



10098秦野北斗:2019/12/29(日) 08:04:14
Re: 三韓諸国の位置推定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010647M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=HJjoxKE_bEw



10099国家元首:2019/12/30(月) 03:14:21
とりあえず、三韓征伐時の古代朝鮮の図について
長文だと、NGワードがあるということで投稿できないかもしれません。投稿を分割します。

とりあえず、ネット上で見つけた、三韓征伐時の古代朝鮮の図があるWebサイトをリンクします。


任那(みまな)日本府(検索サイト2017~2019)より
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkousin242.sakura.ne.jp%2Fwordpress018%2F%3Fpage_id%3D3921

「任那」(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)より
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
( /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fu0u1.net%2FwmRI

10100国家元首:2019/12/30(月) 03:16:37
三韓征伐
私は三韓征伐について学校などで教わった記憶がありません。世界史には比較的詳しいはずなのですが。ウィキペディアで確認しただけですが、かなり史実に近い神話だと思います。管理人さんが提示するあの半島図は、新羅・百済が成立する前のものに見えます。

三韓征伐時には、新羅と百済が成立しているようですから、新羅・百済の成立や実態を考える上では役に立っても、三韓征伐のあり方について調べるのには不適切ではないでしょうか?と思って、任那が掲載されている図を探したのですが、見つかったものがどこまで信用できるのか分かりません。

管理人さんの図を見て思ったのは、古代日本について中国人があてた地名と同じ漢字を使った地名が多く見られ、それらは対馬沖の対岸から広がっているように見えることです。もともと南朝鮮には倭人のテリトリーが広がっていたが、三韓征伐の時点では海辺まで縮小していて、そこがヤマト軍の侵攻の出発点となったのではないでしょうか。倭人はヤマトに吸収されていたので、倭人のテリトリーは、大和の支配下だったはずです。

対馬の対岸の海辺から周囲の国々を制圧し、その後西の新羅に侵攻して、国境付近の村々を制圧した、ということのようです。神武東征時には、同様のことが九州側で起きた可能性があります。ヤマト勢力を日本列島に引き入れたのは倭人の一部でしょう。

10101国家元首:2019/12/30(月) 03:32:42
命の木の実
管理人さんの「非時香菓(ときじくのかくのみ)」の8竿8縵(やほこやかげ)がメノラー型のレガリアと関係があるのではないかという説は、ヒクソス・ユダヤ理論からは鋭い見解です。西方では、メノラーは「命の木」のイメージで捉えられることがあるようですが、それは新羅でも同じだったと思われます。

ウィキペディア「ハヌッキーヤー」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
( /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fu0u1.net%2FS8Ay

国立慶州博物館の名品:天馬塚の金製王冠(KOREA.net)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fjapanese.korea.net%2FNewsFocus%2FHistory%2Fview%3FarticleId%3D137337

すると、永遠の命を与える「命の木の実」は、メノラーまたは8枝のハヌッキーヤーになっているとイメージされたのは自然なことです。私の考えでは、アメノヒボコが渡した8つの神宝の中に、そういうものが含まれている可能性があると思います。

日本に来た新羅集団の長が、天皇に「エデンの園に行って、永遠の木の実を取って来い」と命じられたのだと思います。その人はそれが出来なかったので、集団の立場を守るためもあって殉死した事件があったのだとも考えられます。その人の神話上の名前が「タジマモリ」(但馬の領主)になったのは、外国から来たその地域の集団は天皇に忠義心がある、ということを示してあげるための政治的な配慮からではないでしょうか。

10102管理人:2019/12/30(月) 05:40:15
三韓諸国の位置推定2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010651M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010651_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010651_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/



10103秦野北斗:2019/12/30(月) 09:37:21
歴史捏造 韓国すごい
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010652M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=mbbSJ4q8G6c



10104荊の紀氏:2019/12/30(月) 11:21:05
いかがでしょうか?
   私的に ↓ 似ていると思いますが いかがでしょうか?
国立慶州博物館の名品:天馬塚の金製王冠 と ドゴン族
ドゴン族 被り物の画像 と 新羅 被り物の画像


10105国家元首:2019/12/30(月) 17:55:35
カラ
どこかで聞いたことのある説を元に考える。

高霊・コウレイ→コウライ(高麗)、カラ(加羅)

高霊原 タカタマハラ→タカアマハラ

高い所にある霊・・・天神?

こういうのは、こじつけかもしれないので、参考程度ですね。

10106 史実探偵: 平 素人:2019/12/30(月) 17:57:19
Re: 鬼の岩屋と、温羅遺跡と、鬼の釜を結ぶ三角形について
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html



10107管理人:2019/12/30(月) 23:31:51
武寧王と継体王朝
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010656M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/武寧王陵



10108管理人:2019/12/31(火) 01:35:32
馬韓諸国の位置推定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010657M.png

https://map.konest.com/



10109国家元首:2019/12/31(火) 09:30:39
古代極東を単純に考えることはできない。
>さら西方に軍を進めて、比利(ひり) 辟中(へちゅう) 布弥支(ほむき) 半古(はんこ)の四つの邑を降伏させた記事がある。

そうですね。最初に制圧した地域から西は、新羅方面ではなくて、その逆ですね。勘違いしていました。


私の感覚だと、やはり昔からの噂どおり、ヤマト勢力ともっとも関係がありそうなのは百済である。ヤマトはもともと百済と同じ集団だった。それが分かれて、一方は日本列島に入りヤマトとなり、半島に残ったほうが百済になった。

百済には、中国や西域からの文化や技術を持った人々の流入があり、独自の文化を持つようになった。ヤマトは、倭人勢力を吸収したことで、基礎体力が爆発的に増加した。土木工事や軍事に強く、文化は旧来の伝統が維持されやすかった。縄文勢力は吸収合併されなかったため、ヤマトとの交戦がつづくことになった。

ヤマトの出自としてはやはり夫余が怪しい、と思って夫余を調べたが、どうも高句麗や新羅との類縁性はあってもヤマトとは違う感じがする。ユダヤ本隊(非秦氏)との関係は強くても、ヒクソス(ヤマト)との関係は薄いと思う。

ウィキペディア「夫余」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A4%25AB%25E4%25BD%2599

ヤマト勢力は実に不思議な集団である。どう考えても倭人とか江南文化の系統とは違うのに、西方・北方アジアに移動経路を辿ろうとしても見つからない。その一方で、文化的な実態は強く持っている。それに比べると、ユダヤ集団(本隊と秦氏の2系統)のほうは、分かりやすいと思う。

遊牧民の国家というのは、色々な勢力が離合集散を繰り返しながら成立してきた。「ヒクソス」という言葉も、一つの民族を表す言葉ではない。いくつもある異なる諸グループの中の一グループが優勢となって、それが国家の代表になったところで、他のグループが消えたわけではない場合もある。

だから、ある勢力・文化が長期間歴史的上に現れないからといっても、それが消えてしまったとは限らないし、また歴史上に新たな形をまとって現れないとは限らないのである。私にとって、ヤマトとはそのようなものの代表例なのである。

「古代装飾模様 九州の装飾古墳」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.netpia.jp%2Fhistory%2Findex.htm

10110秦野北斗:2019/12/31(火) 10:32:25
『唐会要』倭国・日本国伝(天智天皇の朝貢)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010659M.jpg

古代韓国は 天智天皇が領主になる、其の辺りが、整理できていませんな、みなさん、大丈夫ですか。
天智天皇は(六五四年) の意訳、は初めて見るだろう、万葉集にも同文がある・

天智天皇は(六五四年) 永徽五年十二月に唐の高宗に朝貢している。文章は以下、
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。頗有絲綿。出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者。云海中湧出。
意訳、永徽五年(654年)十二月。遣(つか、)い使わし、獻(たてまつ、)る、琥珀、瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗は降書で慰(なぐさ、)める、労(いた、)わる。此れ随い云う。倭王國は新羅を与える、新羅は高麗、百濟と接し近い、新羅は常(つね、)、高麗、百濟の地を侵す。もし、危急が有れば、倭王は宜しく遣(つか、)い兵で救う。此れ倭国は東海嶼(韓半島の南部)中の野人。有る、耶古。波耶。多尼の三國。皆、素(もと、)より倭。北は限る(狗耶)大海、西北を接する百濟。正北(せいきた、)は触れる新羅。南は与える越州に相接する。偏り有る絲綿。出(で、)る瑪瑙。有り黄白二色。其の琥珀好者。云う海中に湧き出る。

万葉集
茜草指武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流  額田王
意訳、
茜は伽耶を指す、武士よく先、田舎やに行く、標す田舎や道、田舎や守と言えるない、あらわれるかな。君(天智天皇)そで広げながす。(仲裁する)

http://



10111秦野北斗:2019/12/31(火) 13:47:07
大化の改新は捏造
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010660M.jpg

https://ja.wikipedia.org

http://



10112管理人:2020/01/10(金) 01:09:27
辰韓・弁韓の位置推定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010661M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010661_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010661_3M.png

https://map.konest.com/



10113秦野北斗:2020/01/12(日) 01:57:52
百済、倭国位置推定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010662M.jpg

管理人さん、辰韓・弁韓の位置推定 は出鱈目ですな、

つい最近、白村江と八咫烏の場所が、判明したので、提供します。
八咫烏は地名で、烏の名前で在りません。烏は「エボシ」と読みます。



10114国家元首:2020/01/20(月) 01:47:46
1500年間、天皇陛下はどこにいたのか。
明けましておめでとうございます。


ウィキペディア「夫余」より抜粋

「夫余が建国する以前のこの地には濊(わい)族が住んでいたと思われ、松花江上流の弱水を渡河南進して夫余を建国する以前の慶華古城(濊城)も発見されている。・・・

また『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。

『三国史記』や『三国遺事』には、解夫婁が治めていたがのちに太陽神の解慕漱が天降ってきたので解夫婁は東に退去して別の国(東夫余)を建てたという。・・・

夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝の時代に夫余王の尉仇台が遼東郡に属したいと申し出たため、遼東郡に属した。この時期は玄菟郡にしろ遼東郡にしろ公孫氏の支配下になっており、東夷諸国は公孫氏に附属した。時に高句麗と鮮卑が強盛だったので、公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。・・・

夫余王の王印には「濊王之印」と刻まれており、国内には「濊城という名の故城」があることから、もともとは濊族の地であったことがわかる。・・・

武帝(在位:265年 - 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝貢した。太康6年(285年)、鮮卑慕容部の慕容廆に襲撃され、王の依慮が自殺、子弟は沃沮に亡命した。・・・

賈沈は慕容廆と戦い、これを大敗させると、夫余の地から慕容部を追い出すことに成功し、依羅を復国させることができた。しかしその後も慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえて中国に売りさばいた。そのため武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、司州,冀州では夫余人奴隷の売買を禁止させた。・・・

人々は体格が非常に大きく、性格は勇敢で、謹み深く親切であり、あまり他国へは侵略しない。通訳が言葉を伝える時、みな跪いて両手を地につけ、小声で話をする。・・・

中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ、沃沮と濊もほぼ同じとされる。」


日本人のベースは倭人で、そこに外来の血統が乗っかっているのだとすれば、朝鮮人のベースは濊族で、そこに外来の血統が乗っているのではないだろうか。

よく言われる、日本人と朝鮮人の衛生感覚や排せつ物に対する感覚の違いとかは、倭人と濊族の感覚の違いによるところが大きいのかもしれない。

朝鮮人に、長身でガッチリした体格の人が多いのは、夫余の人々の影響が大きいとも考えられる。Y染色体ハプロからは、中国人と倭人の影響が大きいが、あれは遺伝子そのものの話ではないので、民族の特質を考える上では、私はあまり参考にしない。顔つき等を見ると、モンゴル人の影響も強いようだ。

新羅と高句麗は、一時は夫余の中にあったと考えるのが自然。地理的な条件から、百済とヤマトも、一時は夫余の構成要素だったと考えるのが、とりあえずは妥当だろう。夫余は多様な集団だったが、それを構成する諸集団が朝鮮半島や日本列島に移動していき、残された夫余(の本隊)は、鮮卑との抗争で弱体化し、消滅していった、と推測する。

10115秦野北斗:2020/01/21(火) 01:08:34
天皇は始皇帝の末裔
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010664M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=9cz3HLwy11s



10116管理人:2020/01/21(火) 01:44:11
馬韓諸国の位置推定2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010665M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010665_2M.jpg

https://map.konest.com/



10117秦野北斗:2020/01/21(火) 02:07:16
(無題)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010666M.jpg

管理人さん、資料は有るんですか? どこかで高い値段で購入したんですか?
帯方郡は島ですよ、




10118秦野北斗:2020/01/22(水) 02:07:03
(無題)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010667M.jpg

人口分布

現在5000万人 馬韓、辰韓、弁辰で50万人
百分の一 内陸部人口0



10119管理人:2020/01/30(木) 01:02:32
帯方郡の位置
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010668M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010668_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010668_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/帯方郡



10120国家元首:2020/01/30(木) 03:43:24
東南アジアなのか北方アジアなのか古代オリエントなのか。
古代国家の領域を考える上で、空間的な境界に意味があるのかと思います。問題となるのは、その村(国)や部族が、どこの政治勢力に服属しているかではないのですかね。広域指定暴力団のシマに境界はあっても、固定的なものではないでしょう。

村長(首長)とか部族長が、新羅・高句麗・百済・日本(倭)・夫余のどの政治勢力(王室)の指揮監督下に入るかによって、その人が支配する領域がどの国家に属するか決まったというのが真相だと思います。

ムロというのは、日本語で石室を意味しますから、ムロという発音の地域は、古墳が多くあったのかもしれません。石という漢字を使った地域とムロという発音のある地域に何か関係はありませんかね。

古代朝鮮には、倭人の村(国)がたくさんあったのではないでしょうか?地名を見ていると、そんな気がしてきます。日本(ヤマト)と倭の合体は、朝鮮半島ですでに始まっていて、ヤマトによる日本列島侵攻は、そのためにやりやすかったのだと考えます。三韓征伐も同じ理由で、やりやすかった。仲間の倭人国という橋頭保が初めからある。

ヒクソスとエジプトの関係が、元や清と中国の関係に似ているのに比較して、ヤマトと倭の関係は鮮卑と中国の関係に似ていると思います。ヒクソスはエジプトの影響を強く受けたのに、融合度合いは低かった。私は、ヤマトと倭の宗教のあり方や気質が偶然あまりにも似ていたので、極めて速く自然に融合してしまったのだと思います。

私は、倭人の国々は、対馬対岸から北西に向かって伸びており、伯済の南あたりまであったと考えます。近代化以降の日本のアジア諸国への対応の仕方は、かつての自分たちの融合経験が無意識にベースになっていたとも考えられます。

10121国家元首:2020/01/30(木) 04:33:04
勝手に推測
古代朝鮮語でフルには、村という意味があったと聞いたことがあります。だとすると、「ヒリ」みたいな発音の地域は、倭人から見て、朝鮮人(ワイ族)居住地域を意味したと考えられないでしょうか。「フィル・イ」みたいな意味だったとか。

「ソト」の発音の地域は、よそ者の住んでいるところ・異文化のところ、という意味で、倭人から見てかなり異質な文化の地域を意味したということはないでしょうか。「フシ」はよく分かりません。漢語で流刑地的な意味があるのですかね?

高句麗よりも早期に夫余から離脱していた新羅集団(ユダ)のところに秦氏がやって来た。「衝撃、古代ユダヤ人を発見」みたいな感じで近づいていって、文化的発展をもたらしたが、ガイジン扱いで不利な状況に追い詰められていった。そのうち、日本に助けを求めて離脱。秦氏が百済から来たというのは情報操作であり、新羅が本当のようです。

新羅王室には、倭人(または縄文人)も入っていて、かなり複雑な文化的・政治的状況の時期もあったのだと思います。



10122秦野北斗:2020/01/31(金) 01:13:36
帯方郡の位置
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010671M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=VWZ__gzSRuk



10123国家元首:2020/01/31(金) 02:35:56
馬韓
訂正です。管理人さんの古代朝鮮地図を眺めていると、やはり倭人の国々は、伯済の南までは伸びていないですね。中央あたりで終わっていたようです。伯済の南の月支国あたりも百済(≒ヤマト)勢力のテリトリーだったと思います。古墳がたくさんあったかもしれません。地名による推理です。

古代朝鮮人(ワイ族ではなくて、中国人に近かったかも)が「フル」、つまり「村・国」と言っていたのを倭人が聞き取り、彼らは朝鮮人居住地域を、フルに近い音で把握していた。それに倭人語のイを付けた言葉を中国人に伝えたところ、「ヒリ」と記録された。このように仮定する。

すると、「ヒリ」は、昔からの朝鮮人勢力が統治するテリトリーだということになり、その勢力は馬韓だと思われます。つまり、馬韓≒ヒリ地域でよいのではないでしょうか。

10124国家元首:2020/01/31(金) 03:17:31
高きところにいます霊
夫余集団は、諸部族共通して、「天の神」を崇拝していて、自分たちの運命は天の神の意思に左右されると考えていた。組織としてのまとまりは、各部族・各個人が共通して崇めるところの、天の神によるところが大きかった。こうした文化スタイルは、遊牧民には珍しくないと思います。天には太陽が輝いているので、太陽(神)は天の神の親類である。このくらいまでは、各部族がほぼ共通して持っていた観念だったと思います。

そうすると、国号には、自分たちの国家を成り立たせている神の名前をつけたくなります。天の神は高いところにいる霊的な存在なので、中国人に対しては「高霊」と言いました。コウレイです。これがなまって、コウライとかカラとなっていきます。天神=クリにもなったとすれば、コウクリで「高きにいます天神」となって、同じ意味になります。

つまり、高霊=高句麗コウクリ=高麗コウライ=韓カラということになります。これは国号でした。ヤマト集団(百済を含む)も、ごく基本的な宗教観は同じでした。タカミムスビ(高御産巣日神)という神様がいます。「高木の神」という呼び名もありますが、「高・タカ」という言葉は共通していて、高いところにいるということに力点があります。

コウレイ=コウクリ=コウライ=カラ=タカミムスビ(タカギ)ノカミという図式が見えてきます。遅れてきた秦氏は、ユダヤ教の確立・キリスト教の成立を通過してきていますが、宗教的にまったく入り込む余地がないわけではないことは、分かり切ったことです。

八幡神=タカミムスビ神ということで、神道と合体することができました。あまり一神教的な主張とか、イエスの物語を表面に出すと怪しまれるので、出さないようにしたようです。このやり方は日本に来る前、新羅でも通用したはずです。

ヤマト勢力は、太陽神アマテラス=スメラ・ミコトへの信仰に力点がありますから、国号をヒノモト(太陽の魂)、つまり日本としたのです。神を意味する言葉を国号としたことは、コウクリとかと同じなのだと思います。日本・アマテラスが国号ですが、タカミムスビノカミよりもアマテラスのほうが偉いということには、なっていません。

10125国家元首:2020/01/31(金) 08:19:25
漢文の学習
>秦野さん。

明けましておめでとうございます。


漢文について分かっていないと、秦野さんの説について判断することができません。

私は文系でしたが、漢文はあまり勉強をしませんでした。

受験は思い通りの結果を出せましたが。

面白そうなので、今から勉強してもよいと思っています。


漢文の勉強法(全部入りVer.)|教科別勉強法
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DcY7zgzoAxG8

基礎漢文
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DwNeIPjaAZ-w

10126秦野北斗:2020/01/31(金) 09:16:20
漢文の学習
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010675M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_10.html

http://



10127管理人:2020/01/04(土) 01:49:55
新・魏志倭人伝方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010676M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010676_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010676_3M.png

https://www.its-mo.com/



10128秦野北斗:2020/01/04(土) 18:42:47
漢文の学習
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010677M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/卑弥呼

http://



10129管理人:2020/01/05(日) 04:54:50
高良山・鎌田原・平塚川添ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010678M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010678_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010678_3M.png

http://www.e-kama.net/area/鎌田原弥生墳墓群/



10130秦野北斗:2020/01/05(日) 10:33:09
魏誌倭人伝 塚田敬章、よくやるよ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010679M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=VWZ__gzSRuk



10131国家元首:2020/01/05(日) 11:05:00
倭と日本は別
よく知られている色々な情報から、古代の中国南部・ヴェトナム人→倭人=弥生人で良いと思う。ただし、支配層は中国文化をかなり取り入れていたと思われる。卑弥呼が使っていた鬼道は、中国の道教に近いものだからである。支配層は、朝鮮半島で中国文化を摂取したした倭人か、中国人だった可能性がある。

夫余は、典型的な遊牧騎馬民族の文化を持っていて、その文化は倭人の文化とは大きく異なる。寒冷地の遊牧文化と温暖地域の稲作文化ということで、対称的な違いがあったとさえ考えられる。夫余の風俗・文化は、大和(日本)の風俗・文化とも違いが大きいと思う。新羅・高句麗の風俗・文化とは共通点もあるし、古代の文献上も高句麗と夫余は人的な関係が指摘されている。

倭とヤマト(日本)との関係については、中国側の記述に混乱が見られる。日本と倭は別種という記述があるが、日本が倭を併合したとなっていたり、倭が日本を併合したとなっていたり、文献によってその関係についての説明が違っている。混乱の原因は、日本側が中国人に対して、併合についての説明を避けていたからと思われる。それは、古事記に出雲の国譲りの話はあっても、倭の国々の併合の話がないのと軌を一にしている。

ヤマト(日本)は、倭人とヤマトの同化政策を取っていた。だから、別の民族だったということは不都合なので隠したかった。「天孫降臨」という宗教上の概念も、支配層の空間的な移動を誤魔化すことができたので、同化政策のための情報操作に利用できた。

「Hyksos Scarab」で画像検索すると、古代九州の古墳の壁画とかなり類似したモチーフが見られる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fu0u1.net%2FYJi7

装飾古墳データベース 九州内検索 模様検索
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fu0u1.net%2FAsWk

複数の同心円(円紋の一種)のもの、蕨手紋、S字渦巻き等である。私が注目するヒクソスの紋に、紐を曲げて立体的に交差させたタイプのものがある。あれらの立体的な組み合わせは、高度な文明に接触していないと、古代の遊牧民では維持が難しそうである。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.numisbids.com%2Fn.php%3Fp%3Dlot%26sid%3D2526%26lot%3D1237

それと、古代日本の紋で特徴的な「直弧文」との関係を疑っている。直弧文は紐の立体交差紋のなれの果てではないだろうか。

10132秦野北斗:2020/01/05(日) 11:59:50
夫余は夫の余り
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010681M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=ItL8wF0vpD0



10133秦野北斗:2020/01/05(日) 12:20:41
日本の始まり 徐福伝説
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010682M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010682_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=9cz3HLwy11s



10134管理人:2020/01/06(月) 23:38:43
新中国方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010683M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010683_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010683_3M.png

http://cnrail.geogv.org/jajp/



10135秦野北斗:2020/01/07(火) 00:15:39
古朝鮮の記録は捏造
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010684M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/綏靖天皇



10136管理人:2020/01/08(水) 03:48:04
中東・欧州方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010685M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010685_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010685_3M.png

また、秦野さん、わかちあいありがとうございます・・・。

先日の中国方位ラインに続いて、中東・欧州の方位ラインについても調べてみました。図1がそのライン図です。図2はその拡大図です。図3は昨晩もお知らせした東アジアの方位ラインの簡略図です。

以前からその中東・欧州の方位ラインの存在を予想してはいたのですが、ここまで精度が高いとは思いませんでした。

まず中東では、アラビアのマスカット、インドのニューデリーを主な起点としてあり、それに加えてカイロ、バグダッド、テヘラン、サマルカンドといったところが起点となっています。

また先日の中国方位ラインで西方の測量起点として予想したウルムチも、図のように欧州方面へのラインの起点となっています。

具体的にニューデリーを起点としたものは、ムンバイ⇔ニューデリー⇔ウルムチのライン、ニューデリー⇔サマルカンド⇔モスクワ⇔タリン、ニューデリー⇔グラスノダール⇔オデッサ⇔ブタペスト、ニューデリー⇔テヘラン⇔ガズィテアン⇔アンタルヤ、ニューデリー⇔バスラ⇔カイロのラインがまずあります。

またマスカットを起点としたものは、マスカット⇔テヘラン⇔ブリャンスク、マスカット⇔バグダッド⇔ガズィテアン⇔イスタンブール⇔ソフィア⇔ミラノのラインがあります。

欧州ではそれに接続するソフィアが主要拠点となっており、ソフィア⇔ブタペスト⇔ベルリン、ソフィア⇔キエフ⇔ブリャンスク⇔モスクワ、ソフィア⇔デュッセルドルフ⇔ハーグ、ソフィア⇔ミュンヘン⇔ロンドン、ソフィア⇔チューリッヒ⇔パリへのラインが見えます。

また、そこにみえるモスクワやパリも起点となっており、チェニス⇔リヨン⇔パリ⇔ロンドン⇔マンチャスター、パリ⇔ハーグ⇔オスロ、モスクワ⇔ミンスク⇔ワルシャワ⇔プラハ⇔チューリッヒ⇔ベルン⇔リヨン⇔トゥールーズ⇔マドリードへのラインがあり、そしてモスクワ⇔ベルリン⇔パリのラインは、またモスクワ⇔アスタナ⇔ウルムチ⇔成都へと至り、昨晩の中国方位ラインへと接続します。

同様に、チュニス⇔ソフィア⇔ウルムチ⇔西安、ベイルート⇔サマルカンド⇔西安といった西安への接続もみてとれます。

そして、成都⇔西安⇔天津⇔鶏西、広州⇔西安⇔鳥海、酉海⇔成都⇔昆明、広州⇔鶏西などのラインは昨晩の中国方位ライン分析でも指摘したとおりです。

それに加えて、カイロ⇔ベイルート⇔エレバン⇔アスタナ⇔鶏西⇔岩木山周辺へのラインがあり、これも昨晩の中国方位ラインの北東の測量起点として指摘した鶏西へと接続するラインです。

特にその岩木山周辺には大森勝山遺跡などの縄文時代後期の遺跡があり環状列石などを残していますので、やはりこれらのラインは、昨晩も指摘した紀元前2000年前後にストーンサークルや環状列石、支石墓を、欧州から東アジア各地、その東北・北海道等に多く残した集団による測量の結果だと考えるのが妥当かと感じます。

要するにストーンサークル・環状列石というのは、測量のための道具であり、日時と特定の太陽偏角、星位をもとにして、その拠点の位置を割り出す道具だったのではないでしょうか。それで地図を作成して、交易や支配を確実なものにしていったのでしょう。

ただ、問題はその測量方法ですね。ストーンサークルや環状列石を用いたことは予想がつくのですが、ここまでの精度をもたらすには、さらにひとつふたつ工夫が必要だったでしょう。

また、彼らの造ったであろう上記の都市が、後代の大都市としてほとんど変わらない位置で継承され続けているというのも考えてみると不思議です。

電子地図をみるかぎり、ひとつの特徴として、ほとんどが同心円状の都市構造をなしていることがありますが、それは当たり前といえばそうかもしれません・・。

ただその測量された位置の都市に住むことによって、交易・交通の目標が明確になるなど、人類の生存に好適な条件が生み出されていったことが、後代までその都市が継承され続けた理由なのではないでしょうか。

その辺の測量手段と都市構造についても、また少し考えてみたいところですね。




10137国家元首:2020/01/08(水) 08:44:01
マンモスを追ったのか、太陽を追ったのか。
>中東・欧州方位ライン
>新中国方位ライン

偶然ではないのだとしたら、何か意味があるのでしょう。測量の結果ではないのではないですか?人間集団もある生物種の集合体だと捉えれば、粘菌の集団としての動きと類似性があるかもしれません。

地球規模・数万年規模での人類の移動の仕方を一生物種としてマクロ的に捉えたときに、また別次元の法則や構造が見えてくる可能性はあると思います。

個々の民族や個人の違いや思いを超えた何か、が見えてくるかもしれません。諸民族・諸個人は争いを繰り返しているにしても。


Y染色体とかのハプロ(遺伝子の突然変異の痕跡)の移動については、議論が混乱するので避けるとしても、身体を構成する遺伝子の流れは重要だと思います。

縄文人と中央アジアの先住民の間に系統的な近縁性がないか、疑っています。今はウイグル人に残っている昔の中央アジア人は、白人に見えたようですが、今の欧州人とは別系統ではなかったか、調べてみるべきだと思います。

10138荊の紀氏:2020/01/08(水) 10:57:38
(無題)
測量 三角網の画像・・・

10139荊の紀氏:2020/01/08(水) 11:06:31
36度、54度、90度の直角三角形
角度が、36度、54度、90度の直角三角形があります。この直角三角形の斜辺の長さを10とする時、残りの二つの辺の長さを知りたいです
正5角形をつくる36°-72°-72°の二等辺三角形ABCを描いて(AB=AC=10)
BからACに下ろした垂線の足をDとします。
△ABDが問題の三角形です。
この三角形は有名な黄金比の三角形ですから


10140荊の紀氏:2020/01/08(水) 11:22:15
六角形で球面が覆えるか?
六角形で球面が覆えるか??? 投稿日:2018年10月25日(木)08時17分32秒
三角比は二千年近くかかり三角関数に変身しました。さて、この変身の原動力こそ「抽象化」です。具体的な三角比はそれなりに十分に役立つ道具でした。しかし、三角関数はその比較にならないほど強力な道具です。数学の二千年の歩みとは「関数」という抽象概念完成への歩みだったということです。
すべては「地球を測る」に始まり「地球を測る」に終わる
「地球を測る(Geometry)」ためには膨大な計算が必要であることを身をもってわかっていたのが、天文学者であり数学者です。人類がずっと追いかけてきたこと、それは「自分たちがいったいどこにいるのか」です。
「地図を作ること(Geography)」こそ、時空を超えた人類共通の夢であり願いです。
すべてはここから始まりました。かくして地図と数学と計算機の夢は絡み合いながら発展し、今日、究極の地図を手に入れることになりました。何も描かれていない地上に緯線・経線を描き、地図を作るためにすべての数学が投入されてきました。同時に地図作成の中から新しい数学が作られました。
「地球を測る」ための三角比の計算、それは二千年近く続き、そのおかげで抽象概念「関数」を手にし、長年の夢「コンピューター」が実現し、コンピューターのおかげでGPS測量が誕生しました。はたして新次元の「地球を測る」ことが実現しました。

15度の三角比,黄金比が登場する18度の三角比は簡単に導くことができます。
頂角が36°の二等辺三角形の辺の比は黄金比です。
一辺が1の正五角形の対角線の長さは黄金比です。


10141秦野北斗:2020/01/08(水) 14:01:49
マンモスを追ったのか、太陽を追ったのか。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010690_2M.jpg

>中東・欧州方位ライン
>新中国方位ライン

人類の移動ですな、近世ではアメリカ、オーストラリア、カナダですな、

>縄文人と中央アジアの先住民の間に系統的な近縁性がないか、疑っています。今はウイグル人に残っている昔の中央アジア人は、白人に見えたようですが、今の欧州人とは別系統ではなかったか、調べてみるべきだと思います。
何処の情報>中央アジア人は、白人に見えたようですが、・・・・
アメリカインデアン、オーストラリアアボリニジは白人など、差別は言っていない、・・・・
歴史をみると、武力で略奪したのが白人が圧倒的に多い・・・

日本の場合はハッキリしている、食料と争いをさける、遠回しに史記にある。
しかし、顛末は古事記にある、山のあなたの空とおく・・・のようです。

マンモス、太陽でもない、ただ、争いのない新天地を目ざしただけ。
アメリカ、オーストラリア、カナダは祖国からの逃亡かな・・

白人といい勝負をするのが、百済人(韓国)、日本に来て手始めに藤原を名乗り
大化の改新を捏造・・・楽をする、のには嘘でも騙しでもする。
また、百済の末裔の記録がある、偶像(秦河勝)を造り、成りすます。また、よい例が仏教のお経です、
悟ったと、云って、お経にデタラメのルビを打つ、お経を視ず空で読む・・さすが坊主は百済の末裔ですな。
現在の韓国を見ればよく解る。約束をやぶる、常習犯、すごいですな。




10142管理人:2020/01/09(木) 00:33:19
ユーラシア方位ラインの測量手段・年代
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010691M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010691_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010691_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/ソフィア_(ブルガリア)



10143秦野北斗:2020/01/09(木) 07:10:39
キシさんからご指摘あった三角測量の件
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010692M.jpg

疑問は東西南北の存在でしょう、距離単位はボンヤリ存在するでしょう、方位ラインの角度 例とするが西10度、20度、35度、50度、東20度、40度、70度・・・何処から来たのか疑問です。何故か北が基準になる?
 小学生が分度器を知り、世界地図を測量している模様ですな。

キシさん得意のインスピレーション



10144管理人:2020/01/10(金) 03:58:51
4大文明方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010693M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010693_2M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/ギザの大ピラミッド



10145秦野北斗:2020/01/10(金) 10:18:09
神武東征に夫余
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010694M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=SNNVc6H3OkU



10146国家元首:2020/01/10(金) 12:40:16
別種
『旧唐書』日本国伝に、「日本國者倭國之別種也。」とあります。

「別種」というのは、「違う種」とも解釈できるし、「分かれた種」と考えれば、「元は同じ」という意味にも取れます。私は前者に解釈していますが、後者で解釈する人たちもいます。

それにしても、中国側の記述に、倭国と日本があって、一方が一方を併合したという記述があるのは、有名な話です。

秦野さんの漢文解釈がどこまで適切なものか、私には分かりませんが、従来の解釈を疑うのは良いことだと思います。

遊牧民国家は、別々の民族が集まって、一つの国家を形成している場合が多いはずです。遊牧民の一民族の中にいくつも部族がありますが、それらは、もともとは別の民族だったこともあるでしょう。

「民族」、というのは生物学的・血統的な同一性に基づく集団ではなく、歴史的・言語的な同一性に基づく集団ですから。

千六百年前の倭人に起きたことは、大昔のギリシャ人に起きたことに類似していると思います。ヒクソスと急に合併して、突然文明や国家の性質が変わったのです。日本とギリシャの神話が似ているのはそのためだと考えます。

ギリシャに侵入したヒクソスは、倭国を吸収したヒクソスに比べて人数が少なく、しかも彼らのファラオがいなかったので、ヒクソス性の影響は日本に比べて限定的となったのだと思います。

しかし、古代ギリシャの黄金時代は、ヒクソスの血統によるところが大きかった可能性はあります。

10147秦野北斗:2020/01/10(金) 14:01:13
「別種」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010696M.jpg

国家元首さん、「別種」を理解するなら、日本の古代史全般になりますな、要点をだけなら・・・
日本国伝の「別種」は関東日本王国(創作名)、日ユ同祖論とか言っている連中が、居るが創作です。
「別種」は230年、卑弥呼を追って来た呉の連中になる、卑弥呼を追って神風(黒潮)で遭難して、
同化する、領地を貰い、今の鎌倉幕府の祖になる。
詳細にしりたければ、メールをして下さい。指導します。「別種」を貼り付けます。

『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或曰:日本、舊小國併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限山外即毛人之國。

意訳、日本国者、倭国とは別者なり、その国は日のほとりに在る。ゆえ、名は日本なり、云うに、倭国はその名は雅(雅州)であるが、雅でないことを憎む、此れを改め日本にする。日本、古く小さい国と併せる、和国此れ地。その地の人が入朝する、多く慎み、無口であるが、中国は疑わない。この日本国は東西南北に数千里あり、西と南は大海に至り尽きる、東と北は大山の尽きる所を堺とする。堺の外は毛人の国になる。




10148管理人:2020/01/11(土) 00:45:25
4大文明とハプロタイプ
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https://ja.wikipedia.org/wiki/遼河文明



10149国家元首:2020/01/11(土) 12:05:18
「私の遺伝子は特別優れているの。」
染色体のハプロを民族的な集団の移動と結び付ける考え方は、話が不確実になるだけで、あまり生産的な感じがしません。肉体的(そしておそらく精神的な)特徴を与える遺伝子そのものではなく、突然変異の痕跡なのですから。Y染色体は染色体そのものなので特別ですが、人種を決定するような要因ではありません。

Yハプロの拡散のしかたを見ると、民族の移動とか人種構成とは無関係に、地理的な条件を基礎にして、数学的法則に則って拡散しているだけに見えます。

犬の品種の維持・改良のような仕組みで、各民族の容貌とか特徴は維持される傾向はあるとしても、必ず混血はしているのです。民族の移動がなされた場合は、移動してきた側は通常は少数なのだから、混血の影響は大きいのです。それでも、ハプロの拡散とは別次元の仕組みによって、民族性は維持・拡散されうるのです。

そもそも現行の科学的な見地では、Yハプロの分岐は数万年前の話が多いはずで、歴史時代に入ってからのことではないでしょう。その科学的な見地が間違っている可能性はありますが。

10150秦野北斗:2020/01/11(土) 15:21:51
「私の遺伝子は特別優れているの。」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010699_2M.jpg

国家元首さん、[10697] 4大文明とハプロタイプ では紀元前2700年前後など云っていますが、実の所七世紀の文章(古事記)すら、読めないのが現実です。ハプロタイプで創作が限界ですな、・・・
Yハプロと古文書をあわせて、理解できるのですな、添付は三世紀の古墳の埴輪

埴輪は卑弥呼の遣いのようですな、出兵祝い、入場行進?


>そもそも現行の科学的な見地では、Yハプロの分岐は数万年前の話が多いはずで、歴史時代に入ってからのことではないでしょう。その科学的な見地が間違っている可能性はありますが。



10151管理人:2020/01/12(日) 01:00:47
4大文明と分子時計論
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https://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループA_(Y染色体)



10152管理人:2020/01/12(日) 11:14:34
「79万年前の巨大隕石」が生んだクレーター
ちょうど今朝のヤフーニュースに下記の記事が掲載されていましたのでご紹介します。


およそ79万年前、巨大な隕石が地球に衝突した。これは巨大隕石の衝突としては最も新しいもので、吹き飛んだ破片や粉塵で地球全体が覆われるほどの規模だった。直径1キロ級と推定される隕石の衝突で形成されたテクタイトと呼ばれるガラス質の石は、アジアやオーストラリアのみならず南極からも発見されている。

その巨大さや年代が比較的新しいことから衝突地点は簡単に特定できそうだが、これまで明確なクレーターが発見されていなかった。

しかし、先日、学術誌「米国科学アカデミー紀要」に発表された論文で、この巨大隕石がラオス南部に衝突し、直径13〜17キロのクレーターが形成されたことが指摘された。クレーターはその後、溶岩によって埋まってしまったため、これまで発見されなかったという。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fheadlines.yahoo.co.jp%2Farticle%3Fa%3D20200112-00031717-forbes-int

有史でも隕石落下の可能性があった事を示してますね。小さいものならば、数万年単位、あるいは数千年単位で落下しているはずで、その度に人類は気候変動や津浪などで滅亡の危機に遭遇していたことも考慮すべきかもしれません。

あともうひとつ留意しておきたいのは、溶岩で埋もれてしまったとのこと、これは以前も指摘したように、その隕石落下にともない、マントルを刺激し、噴火を誘発する可能性を示すものでしょう。その火山灰がまた二次的な気候災害をもたらした可能性もありそうです。

10153管理人:2020/01/13(月) 00:56:53
4大文明と津波地層
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010702M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010702_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010702_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/インダス文明#滅亡



10154国家元首:2020/01/13(月) 01:36:59
埴輪
>今城塚古墳

あの女性の埴輪は、葬式関係の儀式をしているように見えますが。

私のヒクソス・ユダヤ理論では、ヒクソス集団がファラオの死に際して、太陽神であるスメラ・ミコトの魂と共にあったファラオの魂が冥界に旅立つのを見送っていることになります。

埴輪が開発されるまでは、ファラオの周囲の人たちが生き埋めにされることがかなりあったようです。死後も仕えるように、ということでしょう。

「今城塚古墳の埴輪2019」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Furx.blue%2Ff8tW


関東地方で出土するユダヤ教徒みたいな恰好をした埴輪は、祭祀に携わるレビ人の類ではないでしょうか。関東は新羅や高句麗から来たユダヤ勢力が多かったので、関西とは信仰形態に違いがあって、それが出土する埴輪のあり方の違いになるのだと思われます。


「レビ記 19章27節」より
「・・・ あなたがたのびんの毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない。・・・」


10155 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト):2020/01/13(月) 08:12:28
Re: [10702] 4大文明と津波地層
管理人様> 超・古代史版へのコメントからきました。
 短日間のうちにすごい量の情報量ですね。それ等を四大文明にからめてのご考察、大変参考になります。じっくりと消化したいと思います。ありがとうございます。

岩淵先生や平の名前を出して頂きましてありがとう御座います。二人は、「四千年前の東北巨大隕石説」を持っているのですが、先さまも挙げられている、ミドルインパクトによる地球規模の気温降下、地震や巨大津波、そして火山の誘発等、人類を含めた生物への影響は多大なものがあります。それの一番身近なものである4000年前のものにしぼって喚起を願っているのですが未だ日の目を見ていません。

中で、世界共通の“地球規模の事象”として論じ合えることは、隕石の冬がおこす “海水位の後退” があります。わたしは推量値で、約1.6mの後退。気温ではおよそ13℃の降下とみています。これが短期2〜3年のうちに変動することに大きな問題があります。生物相の変化移動はもちろんですが、稲作文明を持つ大陸では大きな影響が考えられます。そして浅海化がありますので魚介類の変移等を地球規模で「共通の論題」として論じあえたらいいなと思っています。ありがとうございました。

追記 「年代の決定合意の難しさ?」
 こういったものを論じ合うとき、何時の場合もその年代の食い違いが出ることがあります。巨大隕石の衝突という“一瞬のできごと”でも、何がしかの補正があったり、堆積する地層についても “巨大津波” の発生によって経年の異なるものが混ぜ合わされたり、津波が第二波、第三波・・による堆積状をていすることから、一般的な斉一説をとれない難しさがあります。そして、現科学の多くは、巨大津波が内陸奥深くまで運んだ貝やサンゴ類を『かつてここは海だった!』とする考えが定着しており、この考えを取り除くのは至難です。

 十年以上前だったと思います。九州大の女先生が貝類の年代測定に着目されたことがありました。ご存知のように貝類の生息地はあまり移動しません。ところが巨大津波の性質として、それ等を根こそぎして津波の端部や、先端部へ置き去ることがあります。これはすべての事象に当てはまることですが『流体が媒体となって各々の物質を運ぶ時、それ等は非常に効率よく似たものは似たもの同志で分別される同似集合の原理・作用(筆者提唱)』があります。この考えは現科学が巨大(orミドル)隕石と、それによって生じる巨大津波へ、シフトしないかぎり難しいと考えています。(そこで素人的ヒラメキ^^!、人のDNA調査は著しく進歩しているが貝やサンゴのDNAは変わらないのかな??、汗~~!)

 そして、津浪についても一元的な論じ方がされていることに問題があります。津波の波高は、地形・地勢によって 震源地の直近にあっても大きく変わります。津波のやつはズルい^^!から抵抗の少ない方へ方へと移動します。「津波は川を上る」といわれますが、これは川が遠浅状になっていて津波は楽に登れるからだと申し上げたことがありました。□

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html



10156秦野北斗:2020/01/13(月) 11:34:26
[10703] 埴輪
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010705M.jpg

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https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010705_3M.jpg

>ユダヤ教徒みたいな恰好をした埴輪は・・・議論は年代が基準になる、
今城塚古墳の 埴輪ですが、モデルに成った情景が存在したのでしょうな。
ユダヤ教の恰好?当時、ユダヤ教は三角帽子をしていたのか?疑問です。
ところで、ユダヤ教は古代の葬式で埴輪を使ったの?埴輪は偶像ですな?

>あの女性の埴輪は、葬式関係の儀式をしているように見えますが。

>関東地方で出土するユダヤ教徒みたいな恰好をした埴輪は、祭祀に携わるレビ人の類ではないでしょうか。関東は新羅や高句麗から来たユダヤ勢力が多かったので、関西とは信仰形態に違いがあって、それが出土する埴輪のあり方の違いになるのだと思われます。
>「レビ記 19章27節」より
「・・・ あなたがたのびんの毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない。・・・」



10157国家元首:2020/01/13(月) 12:50:27
ハプロは集団移動を考察する基礎にならないと思う。
ハプロというのは、実際に肉体的な要素を形作る遺伝子そのものではなくて、(ミトコンドリアとかの)DNA上の変異パターンに過ぎないのではないですか。だから、進化(変化)とは無関係。

ただし、Y染色体ハプロの場合は少し特別で、Y染色体そのものと一緒にハプロも移動する。しかし、Y染色体は、肉体的な特徴を大きく規定するようなものではない。

そのように理解しています。

ハプロが生存競争に関わることも、異性の選択の基準となることもない。

人種や民族とは無関係に、歴史的集団の移動とも無関係に、ただ人類の海の中を、地理的な条件に従って、拡散していく。

それだけのことでしょう。

頭蓋骨の形とか、目の色がY染色体と関係があるのだとすれば、Yハプロと顔相に関係があるとは言えるかもしれませんが、

それでも人種や民族とは直接の関係はありません。実際にそうなっています。

「ハプロの分布からは、過去にこういうハプロを持った人が移動してきた」ということがわかるだけで、歴史的な集団の移動は分かりようがありません。

地元にもともといた人々が多数派なのですから、よほどの大量虐殺でもしないかぎり、集団の移動によって、ハプロの構成比が変わるということはないでしょう。

普通に考えれば、移動してきた側のハプロは、時間が経つとともに消えると思います。それは、移動してきた集団の民族的特徴が消えることを意味するわけではありません。

ハプロと民族的特徴に関係がないだけです。ハプロと歴史的集団を紐づけることはできないのです。

ハプロはDNA上の変異のパターンですから、いつ発生したものか、直接測る方法はないのではないですかね。確率を基に推測するしかないでしょう。


太古の大洪水については、キリスト教の創造論の立場から、面白い見解を述べる人がいます。

【ノアの大洪水発生!】後編:科学の説明が聖書に近づいた(創造論5)久保有政・解説
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DcD8WeEEPf8s

10158秦野北斗:2020/01/13(月) 18:11:38
[10706] ハプロは集団移動を考察する基礎にならないと思う。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010707_2M.jpg

Y-DNA、mtDNAをどう理解するかですな。
生命 の 進化 図をDNAで統一して表したようですな・・、動物、植物、・・・
ハプロは犬でいいますと、外観はデカイ柴犬、柴犬とシベリアンハスキー雑種。注、秋田犬でない

仰るとうり、拘りすぎですな




10159管理人:2020/01/14(火) 01:36:58
N系統とR系統の拡散
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010708M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010708_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010708_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループN_(Y染色体)



10160秦野北斗:2020/01/14(火) 10:26:27
サピエンス全史
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010709M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=xHbcJuOwUOM



10161国家元首:2020/01/14(火) 13:23:16
ハプロの拡散≠人の移動
ハプロの拡散は、人の移動ではなくて、ハプロの移動でしょう。基本的には、人の移動に伴うのではなく、ハプロだけが移動しているのです。ゲルマン民族の大移動とか、英米植民地の拡大みたいな例は、あまり聞いたことがありません。

ハプロを特定の集団に結び付けることはできませんし、特定のハプロの人たちが集団を構成することもありません。

Yハプロの拡散図から見えることは、それが地理的な条件にしたがって、社会集団とは無関係に広がっていくということです。

たとえば、現在の日本では、いくつものY-ハプロがありますが、その人が保有するYハプロによって肉体や精神の特徴が規定されているわけではありませんし、ましてやハプロの種類ごとに集団を形成しているわけではありません。

こうした状態は、今の日本だけでなく、世界中、昔から同じです。特定のハプロを保有する集団そのものが、よほど特殊なケースを想定しないかぎり、存在しないのです。

ある特定のハプロを持つ集団を仮に想定して、その集団に強固な民族意識があったとしても、その状態を維持するのは困難です。

社会的に劣位な他集団の女性が混血児を生む傾向があるから、世代交代が少し進めばYーハプロは混交します。少数派のハプロは消える場合も多いでしょうね。

10162国家元首:2020/01/14(火) 14:09:44
ストーンサークル
古代のストーンサークルが、日本とイギリスにしか見られないのであれば、両者の間に何か関係がないか疑ってみるべきでしょうね。

ウィキペディア「Drombeg stone circle」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fen.wikipedia.org%2Fwiki%2FDrombeg_stone_circle

「大湯環状列石」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.kazuno.akita.jp%2Fkanko_bunka_sports%2Fbunkazai%2F7%2Findex.html

「佐田京石」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.usa-kanko.jp%2Fspots%2Fdetail%2F56

10163秦野北斗:2020/01/14(火) 14:37:20
[10711] ストーンサークル
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010712M.jpg

https://en.wikipedia.org/wiki/Drombeg_stone_circle



10164管理人:2020/01/15(水) 00:32:44
ストーンサークルとハプロタイプ
また、みなさん、わかちあいありがとうございます・・。

ストーンサークル、確かにイギリスのそれと縄文のそれ、とてもよく似てますね。

似ているというのは、可能性としては、あまりその拡散に時代差がないということを意味しているのかもしれません。

仮に1世代いないならば、ほぼ同じ形状のものを残す可能性がありますね。文字もそうでしょう。

数世代だと、双方で少しづつ特徴が違ってくるかも。

そして、元首さんご指摘のように、ハプロも混交していくでしょう・・・。

ただ、特殊ケースでユダヤ人のようにきわめて排他的な集団においては、初期のハプロの種類のまま維持される可能性もなくはないでしょう。

そして、ストーンサークルをつくった集団については、どうだったかも気になるところですね。

あと、いま見つけたんですが、これなんだろうね・・ユダヤ・タート語


ユダヤ・タート語(Judæo-Tat)、ジュフリ(JuhuriあるいはJuwri)は東部コーカサス地方、特にダゲスタンのジュフリーム(山岳ユダヤ人)の伝統的な言語。

この言語は中世ペルシア語と近接性が深く、印欧語族のイラン分派に属している。アゼルバイジャンのイスラム教徒タート人(英語版)(かつて山岳ユダヤ人もこのグループに属していたという説がある)の言語とも近いが、やはり異なっている。ジュフリの話者はジュフロ(Juhuro)と呼ばれる。ユダヤ人という意味である。

この言語はあらゆる側面でセム語(ヘブライ語・アラム語・アラビア語)の特徴を備えている。近隣言語にないヘブライ語の発音'ain(?)を持つのは、その一例である。

20世紀初頭、この言語はヘブライ文字を使って表記していた。1920年代にラテン文字で表記されるようになったが、のちにキリル文字で記されるようになった。最近では再びヘブライ文字で表記することが一般的になっている。

現在、ユダヤ・タート語の話者の数は10万1000人と見積もられている。

イスラエルに7万人
アゼルバイジャンに2万4000人
ロシアに7000人
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%25A6%25E3%2583%2580%25E3%2583%25A4%25E3%2583%25BB%25E3%2582%25BF%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2588%25E8%25AA%259E

山岳ユダヤ人の言い伝えによると、彼らが東部コーカサス地方に住み着いたのは西暦722年のことである。ペルシア系の言語を話すのは、かつてペルシア南西部に住んでいた名残と考えられている。その起源については諸説が唱えられている。

遊牧民の侵入を防ぐ目的でパルティア朝とサーサーン朝の王たちの意向で配備された、ユダヤの武装入植者の子孫であるという説。
ユダヤ教に改宗したタート人の子孫であるという説。(ただし、イスラム教徒タート人こそイスラム教に改宗した山岳ユダヤ人であるという説もある。)
ハザール人の子孫であるという説。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25B1%25B1%25E5%25B2%25B3%25E3%2583%25A6%25E3%2583%2580%25E3%2583%25A4%25E4%25BA%25BA

ブハラ語(Bukhori)は、インド・イラン語派の言語の一つ。ユダヤ・タジキ・ペルシア語、ユダヤ・タジク語とも呼ばれる。ブハラ・ユダヤ人の主要な言語である。

概要
古典ペルシア語に基づくが、ヘブライ語から多数の語彙を借りている。また、ウズベク語やロシア語からも少数の語彙を借りている。永い歴史を持つにも拘らず、タジク語の話者はブハラ語をおおよそ理解できるし、ジーディ(ユダヤ・ペルシア語)とも多くの共通点がある。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2596%25E3%2583%258F%25E3%2583%25A9%25E8%25AA%259E


やはりこのような閉鎖的な集団内だと、周辺諸民族の影響をうけながらも、2000年以上、独自の習俗や言語を保持する可能性を示してますね。


ハプロを当てにできるかどうかは、その集団の閉鎖性、環境的な孤立性にかかってきそうです。

10165国家元首:2020/01/15(水) 12:16:42
マリモ同祖説
マリモの場合は、遺伝子そのものを調べているのでしょうか。ハプロではなくて、遺伝子そのものを調べるとよいですね。

縄文人が白人と関係がない、とされるようになった理由は、Y染色体ハプロがD型だったことが大きいようですが、それはおかしいと考えます。

ハプロと人種は関係がないのです。Y-O、Y-C、Y-Dの白人がいたとしても少しもおかしくありません。

昔は、尿による遺伝子検査では、縄文と白人は同じ遺伝子配列が見られるという話がテレビでもありました。

私には、ハプロの不用意な取扱いが、合理的な思考や観察を阻害するような面があるように思えます。



「マリモは日本が起源、渡り鳥が運搬か 釧路の研究員ら、遺伝子調査で確認」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.nikkei.com%2Farticle%2FDGXNASDG0701B_X00C12A1CR8000%2F

「・・・オランダなどの研究者と共同で日本やドイツ、フィンランド、アイスランドなど33カ所の湖のマリモの遺伝子を調査。最も古いタイプの"祖先型"は日本に集中。祖先型のマリモが最も時間をかけて変異を重ねたものが琵琶湖(滋賀県)にあることなどを理由に日本が起源と結論付けた。・・・」

10166秦野北斗:2020/01/15(水) 13:44:26
神功皇后の陵を発見
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010715M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/神功皇后



10167国家元首:2020/01/15(水) 19:17:17
邪馬台国は神功皇后に滅ぼされたか。
ウィキペディア「神功皇后」より

「・・・3月25日には筑後川下流域の山門県に移動して田油津媛という女酋を討ちとり、兄の夏羽は戦わずして逃げ出した。この女酋田油津姫は邪馬台国女王の末裔とする説もある。いずれにせよ最後まで抵抗していた九州北部もヤマト王権の支配下になり、ここにヤマト王権の全国制覇が完了したとされる。」

ウィキペディア「田油津媛」より

「・・・田油津媛(たぶらつひめ)は日本書紀によれば山門郡に居たとされる土蜘蛛族の巫女女王。日本書紀では仲哀9年3月丙申に神功皇后により誅殺されたとされるが、事実とすれば4世紀半ば頃の出来事になる。・・・

田油津媛には夏羽という兄がいたが、夏羽率いる軍は妹の死を聞いて逃亡したとされる。 (日本書紀原文)丙申 轉至山門縣 則誅土蜘蛛田油津媛 時 田油津媛之兄夏羽 興軍而迎來 然聞其妹被誅而逃之

山門郡の女王という記述から、邪馬台国連合の女王卑弥呼(西暦248年死去)の100年後の子孫の可能性がある。

福岡県みやま市の老松神社には、田油津媛(葛築目)を葬った蜘蛛塚とよばれる古墳が残されている。雨が降ると古墳から血が流れるという言い伝えがある。・・・

別名大塚。明治時代までの旧称は女王塚だった。 しかし大正2年の頃神社南の田の中まであった古墳を分断する形で新道建設がなされたとき、皇室への忖度で蜘蛛塚へと改称された。」

10168秦野北斗:2020/01/16(木) 00:26:12
邪馬台国は神功皇后に滅ぼされたか。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010717M.jpg

https://osaka-info.jp/page/kishikijinja



10169管理人:2020/01/16(木) 01:04:49
ストーンヘンジ・環状列石の構造と位置測量
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010718M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010718_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010718_3M.png

https://www.youtube.com/watch?v=QAM3yOb5sqA



10170国家元首:2020/01/16(木) 03:30:46
謎の土版
「大湯の土版」と「ネブラ・ディスク」は似ているところもあるような。

「夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Furx3.nu%2F2axW

「紀元前1600年頃の天文盤?ネブラ・ディスク。」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Furx3.nu%2F4eow


10171秦野北斗:2020/01/16(木) 10:13:21
ストーンヘンジは神殿
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010720_2M.jpg

https://rutsu.exblog.jp/12380356/



10172管理人:2020/01/17(金) 01:30:08
ストーンヘンジ・環状列石の構造と位置測量2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010721M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010721_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010721_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウッドヘンジ



10173国家元首:2020/01/17(金) 01:52:43
大湯の土版
「秋田・大湯環状列石(ストーンサークル)観光で知る縄文時代の世界観」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.travel.co.jp%2Fguide%2Farticle%2F37654%2F

大湯の土版をざっと眺めると、もしかしたらあそこでは6進法を使っていたということはないですかね。シュメールの60進法は、天文学と関係があるはずです。

縄文人が天文学を持っていたという話は聞いたことがありませんが。


URL短縮を使うと、ウイルス感染の警告が出やすい傾向があるようです。普通にリンクしたらどうでしょうか。

「夏至冬至を環状列石に記し計数器を手にしていた縄文人」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fsyokota888.ec-net.jp%2Fmeasurement-news-site%25E3%2583%25BC2017-1-%2Fmeasurement-news-sice-2017-c1-%2F2018-02-13-stone-circle-ooyu-kanjyo-resseki-kaduno-kazu-no-doban-to-kazu-no-gainen-measurement-news-.html

10174国家元首:2020/01/17(金) 02:20:25
JVC(ヒト・ポリオーマ・ウイルス)
ウイルスの遺伝子というのも、肉体を構成している遺伝子はないのですが、過去にどういう人たちが来たかを推理する材料にはなりそうです。


『興亡古代史』(小林惠子、文芸春秋社)
「・・・東大の余郷嘉明、北村雄一氏ら医学研究グループによると、弘前・秋田・仙台など北日本の住人の一部からは一〜二割の割合で欧米の白人にしかみられないウイルスの遺伝子(ポリオーマ・ウイルスA型)が見つかるという。」


「青い目の東北人」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.tankyu3.com%2Fentry%2F20090222%2Fblueeyes

10175鳩摩羅童子:2020/01/17(金) 08:07:38
禾(のぎ)偏(へん)の「のぎ」は、タミル語 かも。  【国語・中国語・インド語・英語、のお勉強】
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/220px-Danwon-Byeo.tajak.jpg

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10176国家元首:2020/01/17(金) 11:55:49
JCウイルス(JCV)
先に紹介したJCウイルス(ヒトポリオーマウイルス2)についての情報は、正確さに欠けるようです。

ウィキペディア「JCウイルス」より

「・・・JCウイルスを用いたヒト集団の系譜を探る試みも行われている。JCウイルスは感染するために、純粋なヒト集団の系統を反映するわけではないが、ある程度の参考になる。西南日本には中国北部で高頻度のCYタイプが、東北日本には国外では朝鮮とアメリカ先住民にみられるMYタイプが、それぞれ高頻度である。

また、秋田県や青森県西部ではヨーロッパ人の系統に近いEu-a2(JK)がみられるとされ 、秋田美人や伝説上の鬼との関連性が指摘されることがある。 しかしながら、同様のEU型のハプロタイプは朝鮮半島にも見られることから必ずしもヨーロッパ人のみの系統を示すというわけではないということに留意すべきである。」

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2FJC



一番科学的に正確な最新分析は、以下のサイトでしょうか。このサイトの分析からすると、日本の白人型JCVは、一部のヨーロッパ型に近い。


「JCウイルス(JCV)から見たヨーロッパ系の人々の分岐と移動/最古のヨーロッパ系JCVを極東アジアの先住民から発見!」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftogetter.com%2Fli%2F1452702

10177秦野北斗:2020/01/17(金) 15:32:27
秒は蘖(ひこばえ)のようです
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010726_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/稲孫

http://



10178鳩摩羅童子:2020/01/17(金) 21:38:57
Re [10726] 秒は蘖(ひこばえ)のようです
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_SanTami.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10179管理人:2020/01/18(土) 01:26:00
印欧語族の拡散と縄文人
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010728M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010728_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010728_3M.png

https://www.yfull.com/tree/R1a/



10180国家元首:2020/01/18(土) 14:43:38
ゲルマン民族東方大移動かノルマン東方コンクウェストか
先に紹介した余郷嘉明さんのHP(togetter)からすると、

先ず、イギリスに行った集団と近い集団が日本に来て、その後ドイツ・オランダに行った集団と近い集団が来たという感じですかね。

「以前も述べたように,JCVは移動の際、人類集団と行動を共にしてきたと考えられるから(Suzuki et al., 2002)、図2はA型JCVをもったヒト集団の分化と移動を示していることになる。もしそうなら、図2は太古におけるヨーロッパ系の人々の、東方への大移動が三回あったことを示している。

第一波はEU-cをもった集団の移動である。彼らは東北シベリアに辿り着いて、そこに永住した。彼らの一部は北海道に渡り、アイヌの中核になった。第二波と第三波はほぼ同時に進行し、それらのうちの一つはEU-a1/JKをもって東進し、極東に至った後に南下して日本列島と朝鮮半島に渡来した。

もう一つはEU-a1/Arcをもってアジア大陸の東端まで進み、その後、北上してベーリング海峡の周辺や北極圏に住み着いた。以上は私が描いたヨーロッパ系の人々の東方への大移動のシナリオだが、信じてもらえるか。」


何度も言いますが、民族集団とかその移動をYハプロと紐づけて考えることに、合理性も現実性もないと思います。

普通に考えて、そう思いませんか?仮にAという民族の民族意識が強くても、異民族との混血女性が生む男性にはAの要素が強い人たちがいるので、Y染色体はどんどん混ざっていきますよ。

白人縄文人のYハプロは「Dが多い」で良いのです。RとかIとかを考える必要はありません。Yハプロは人種や民族と関係がないのですから。

(中国人は男系の宗族のシステムがあるから、Yハプロとの紐づけは可能かもしれません。)

最初に来た縄文白人集団は、日本に来る前から「Dが多い」になっていた可能性もあると思います。むしろ、日本にY-Dを持ち込んだのは、白人かもしれません。

10181秦野北斗:2020/01/18(土) 17:56:34
東方への大移動が三回あった?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010731M.jpg

国家元首さん、ヒト集団の移動ですが、疑問があります。例ですがもしです、ヨーロッパ系集団が東北シベリアに移動、アジア系集団が東北シベリアに移動、東北シベリア移動がアイヌに移動すると、ヒト集団はヨーロッパ系集団、アジア系集団、東北シベリア、アイヌの単純な確率で、4集団Yハプロになる。
東方への大移動が三回あった、は疑問で一回の可能性がある。混血の移動もあるよ・・・

>「以前も述べたように,JCVは移動の際、人類集団と行動を共にしてきたと考えられるから(Suzuki et al., 2002)、図2はA型JCVをもったヒト集団の分化と移動を示していることになる。もしそうなら、図2は太古におけるヨーロッパ系の人々の、東方への大移動が三回あったことを示している。



10182国家元首:2020/01/18(土) 23:04:15
re:東方への大移動が三回あった?
>東方への大移動が三回あった、は疑問で一回の可能性がある。混血の移動もあるよ・・・

日本に入って来た状況のことを説明しているのではなく、東アジアに移動して来た状況を長期間のスパンで説明しているのだと思います。

余郷さん曰く、「ヒトポリオーマウイルスの一つであるJCウイルス(JCV)は、ヒトの腎に寄生し、殖えた仔ウイルスは尿中に排泄される。JCV DNAは健常人の尿から容易に得ることができるので、分子疫学的な研究の格好の材料となる。

加えて、?JCVは日常的に接する大人(通常は両親)から子へ伝播する、事実上の垂直感染により伝播すること、?JCVの進化速度が適度に早いこと(JCVの塩基置換速度はヒトの染色体の約100倍であり、全長約5100塩基対のJCV DNAに進化の足跡を残すのに十分早い)、

?異なる株間での組み換えが起きないこと、?ヒト集団の移動に伴って寄生しているJCVも移動することなどが、JCVのヒト集団の指標としての有用性を高めている。」

CYが弥生人(倭人)から、MYが縄文人から、EUが縄文支配勢力から、という感じですかね。

私のヒクソス・ユダヤ理論からすると、夫余の地域からの移動の痕跡がほしいところです。その観点からは、甲府と鹿児島にB1-aがあるのは、興味深いです。甲府は新羅とか高句麗の影響が強そうです。

B1-aだとすると、侵入時にはかなり少数派だったのでしょうか?EUはマンモスでも追って、大陸と地続きだった時代にやって来たのでしょうか。

4世紀以降に日本に来るとなると、海を渡る必要があります。女性が渡るのは困難だったでしょうね。支配層は、子育てを妻に任せきりになる場合も多いので、JCVが感染しにくいとも考えられます。

まあ、こういう話は、参考資料程度でしょう。


「JCウイルスから見た現代日本を築いた人々/ヨーロッパ系の渡来人も貢献!」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftogetter.com%2Fli%2F1450392


10183秦野北斗:2020/01/19(日) 00:03:01
長期間のスパン?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010733M.jpg

>日本に入って来た状況のことを説明しているのではなく、東アジアに移動して来た状況を長期間のスパンで説明しているのだと思います。

長期間のスパン?とは時間軸で、何年?  高句麗、新羅は400〜700年ぐらいの歴史になるが?

どう見ても最低2万年は・・・小生は思う。



10184国家元首:2020/01/19(日) 01:49:15
蘇るか騎馬民族侵入説。
甲府のB1-a、割合けっこうあります。12%。日本全体では、わずか0.8%。なぜ甲府は、B1-aの割合が特別に高いのでしょうか?

沖縄を除いて829人から尿を採取した結果の資料のようです。


陛下、研究のためでございます。

○子様、研究のためでございます。

この紙コップに・・・。


感染だから、母親に他の民族が入ったら、JCVの種類は入れ替わりそうです。皇室でさえ維持が難しいと思います。


田舎の閉鎖的な集団でないと、JCVの種類も維持されないでしょうね。JCVもあまりアテにはなりません。

どこから人が入って来たかの、参考資料程度ですね。

10185管理人:2020/01/20(月) 00:55:34
エジプト天文学
元首さん、秦野さん、またわかちあいありがとうございます。
ちょっとバタバタしており手がつかないのですが、同系集団の複数回の移動も視野にいれておきたいところですね。

関連していまみていたエジプト天文学についての下記の動画で、古代人が砂漠に北の方角を示すための石を置いていった様子を取り上げているのですが、星の位置から北を割り出していたようで、しかも数千年単位で変化していくその星の位置にあわせて、その目印とする石の位置も変化させていったことが指摘されています。
これなども複数回にわたって同系の集団が移動する際に、目印を変化させていったことを示すものでしょう。参考になります。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DK8qTwIgw5H4

10186国家元首:2020/01/20(月) 03:53:24
Y染色体の特定の配列の紡ぎだす真実。
Y染色体ハプロはダメ。根拠の無い前提の上に思い込みを積み重ねて、妄想を固める役にしか立たない。

例えば、白人のYハプロなるものはないのに、あるように思いこむ。または、縄文人のハプロタイプなるものをでっちあげる。

人種とも民族とも、いかなる社会集団ともハプロは無関係なのは、理論的にも実際上もはっきりしているのに。

あるハプロが突然変異で発生した時点で、それは一人の人間に発生したものであって、集団で発生したわけではない。

奇妙な話を勝手にでっち上げて良いのだったら、こういうのはどうだろうか。

日本列島にいる日本化した白人のハプロがY-Dなのだとしたら、もともと白人は全員Y-Dのハプロだった。白人は、全員縄文人だった。すなわち、白人は日本人から派生した。

だから、環状列石が日本列島にあるのである。オリンポスの神々の神話は、高天原の神話に似ているのである。

一神教を人類に与えたアクエンアテンが日本人のおっさんにしか見えないのも同じ理由による。

世界の全アーリア人は、その魂と肉体の故郷である大日本帝国に帰依しなければいけない。

ハイル・ウセルマートラー!スメロギイヤサカー!ラムセスの永遠なる治世に栄光あれ!

10187秦野北斗:2020/01/21(火) 13:41:40
古墳の円方判明
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010737_2M.jpg

古事記に円方の表現がある、円は縵(ゆるやか)、方は矛(ほこ)他の文章で確認がが必要かも・・・
尚、古墳は御陵だそうです。

参考文献、古事記

又天皇、以三宅連等之?・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。





10188国家元首:2020/01/21(火) 14:00:43
Yハプロが歴史学にもたらす害毒
Yハプロに基づく推論の最大の問題点は、不確かな前提に基づいていることと、非合理的な思考と結びつきやすいことである。

ある地域や社会集団における過去のハプロの拡散状況については、どうしても情報量が限られている。議論の基礎にするのは無理がある。

さらに、イメージで物事を判断したり、単語を基礎にものを考えるという人間の習慣から、Yハプロを個々の社会集団と結びつけてしまうことが起きる。ハプロはDNA上の配列にすぎないので、JCウイルスと同様に、特に肉体的・精神的な性質、民族の特徴と結びついているものではない。だから、人種や民族と無関係なのである。

しかし、人種や民族とYハプロを結びつけてしまいがちである。この傾向がさらに進むと、個々の社会集団の精神的・肉体的性質とYハプロを結びつけるようになる。つまり、Yハプロが遺伝子に昇格する。これは科学にも実態にも合っていない。

閉鎖的な社会でない限り、ある地域の社会集団のYハプロの構成が変わらないということはありえない。人間の顔にハプロタイプが書いてあるので、お互いのハプロが確認でき、さらに性交・結婚するときにハプロ番号を考慮する、という条件は歴史上今まで存在しなかった。社会集団どうしが融合するときには、少数派のハプロとかウイルスは減少・消滅する傾向にあるだろう。

最近、保守派のアイヌや縄文人に対する発言に混乱が生じている原因の一つには、Yハプロの非合理な取扱いがある。「独立した民族である縄文人は存在しなかった。」、「独立した民族であるアイヌは存在しなかった。」、「縄文人がヤマトに征服されたことはなかった。」、「倭人は縄文人だった。」、「アイヌ人は先住民ではなく、中世にシベリアから日本にやって来た。」等々。

Y染色体と民族を結びつけようとするから、考古学や歴史的文献、ある集団で見られる人の容貌と無関係に、思い込みだけで歴史をねつ造し、しかもそれを科学に基づく説だとするのである。Y-Dハプロについて言えば、日本にあるタイプは大きく2種類に分かれるのだが、それを無視して話を作っていくので、余計に非合理性が強くなる。

歴史を考察するときは、社会と人間、文化を観察し、遺物や遺跡を推理の手掛かりとし、文献を調査検討することを基本とするべきである。Y-Dハプロを奇妙に取扱い、逆にそこから歴史を解釈することは科学的行為でもなければ歴史の正しい考察でもない。

私の感覚では、まだJCウイルスのほうが、実際の観察や文献、考古学と一致していると思う。ハプロ話では白人も、渡来人も消される傾向にある。

10189鳩摩羅童子:2020/01/21(火) 14:13:13
沖縄弁 vs. インド弁
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_O.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10190管理人:2020/01/22(水) 00:41:45
印欧祖語の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010740M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010740_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010740_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/インド・ヨーロッパ祖語



10191管理人:2020/01/23(木) 23:44:12
四大文明とY-R,Q系統の拡散
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010741M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010741_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010741_3M.png

https://www.eupedia.com/europe/Haplogroup_Q_Y-DNA.shtml



10192秦野北斗:2020/01/24(金) 20:32:03
烏(からす):えぼし
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010742M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=SNNVc6H3OkU



10193管理人:2020/01/25(土) 00:16:55
亀ヶ岡文化と殷墟
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010743M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010743_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010743_3M.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/324248/0/1



10194鳩摩羅童子:2020/01/25(土) 02:49:31
re [10742] 烏(からす):えぼし
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_SanTami.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10195鳩摩羅童子:2020/01/25(土) 03:42:58
烏帽子岳(えぼしだけ) とは、 --- 国境の 山、 みたい。
https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=18114

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10196秦野北斗:2020/01/25(土) 07:19:13

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010746M.jpg

https://www.kanjipedia.jp/kanji/0001680900



10197管理人:2020/01/26(日) 23:10:22
夏王朝と夏文字の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010747M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010747_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010747_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/夏_(三代)



10198秦野北斗:2020/01/27(月) 14:39:46
甲骨文字は古代の秦の文字?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010748M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/甲骨文字



10199鳩摩羅童子:2020/01/27(月) 16:24:20
re[10748] : 「ひもろぎ」 は、 インド弁の roast 似
燔(ひもろぎ)の補足です。
>ひもろぎ:祭りに供える焼いた肉。骨に詩を書き、肉、骨を焼き祭りを催したのだろう。
→ インド弁に有る。

【サンスクリット語】paribhrajj(= only pr. p. %{-bhRjjyat} (with pass. meaning ,??%{-bhujyat}) and Caus. %{-bharjayati} (Bhpr.) , to fry 〔食材を〕フライにする、油で揚げる、いためる, roast??ロースト, parch 〔トウモロコシなどを〕日で乾燥させる、あぶる.)??ひもろぎ (r-m, jj-g)

c. 【英】roast = ロースト、〔肉の塊・野菜などを〕あぶり焼きにする、ローストする[◆じか火で焼くこと。またはオーブンで強く熱すること。同じオーブン調理でも、パン・菓子類のように時間をかけて繊細に焼く場合はbakeで表す。]

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10200秦野北斗:2020/01/27(月) 21:55:46
神籬(ひもろぎ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010750M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/依り代



10201管理人:2020/01/28(火) 01:48:27
卜占
秦野さん、またお返事ありがとうございます。

甲骨文字の起源、気になるところですね。

日本でも下記のように、卜占に類するものが古代からあります。


牡鹿(おじか)の肩甲骨を[2]波波迦(ははか)(カニワザクラ、カバザクラ、カンバなど上溝桜(うわみずざくら)の古名[3])の樹皮を炭火にしたもので焼き、その町形(まちがた、骨の表面の割れ目の模様[4])によって占う[1][4][3](『古事記』天岩屋戸段[5])。鹿の骨を用いることから鹿占(しかうら)とも称される[1]。「ふと」は美称[4]。
古代日本において行われた[1]。『古事記』では、伊弉諾(いざなき)尊、伊弉冉(いざなみ)尊が国土生成のおりに、いかにして良き子を得ることができるか問うたところ、天つ神(あまつかみ)が太占によってうらなって教えてくれた、とみえる[5]。『魏志倭人伝』に「骨を灼きて以って吉凶を占う」とあるのはこの太占のこととされる[3]。
のちに、中国から亀卜(きぼく)の方法が伝わるとこれを神祇官の卜部氏が管掌して廃れた[6][3]が、現在でも東京都の武蔵御嶽神社[7]・群馬県の貫前神社[8]でのみ行われている。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A4%25AA%25E5%258D%25A0


魏志倭人伝に出てくるというのは興味深いところで、弥生時代に日本に持ち込まれたとすると、その起源は中国にあった可能性がありそうですが、縄文時代には卜占の痕跡は見えないようですね。動物儀礼の可能性は指摘はされてますが。

こちらなど参照。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.ichihara.chiba.jp%2Fmaibun%2Fisekifile46.htm


仮に殷の王族が日本へ渡来したならば、卜占もやっていてもおかしくないのですが、いまのところその痕跡はないとのことですね。


10202管理人:2020/01/28(火) 02:06:51
亀ヶ岡遺跡方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010752M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010752_2M.png

http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_02-03/shishi_02-03-05-00-05.htm



10203鳩摩羅童子:2020/01/28(火) 07:09:52
re[10750] 神籬(ひもろぎ) のインド辞書結果
https://ja.wikipedia.org/wiki/御嶽_(沖縄)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10204秦野北斗:2020/01/28(火) 10:21:18
ウタキ:御嶽。沖縄県で崇拝の対象とされる聖地。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010754M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/御嶽山



10205秦野北斗:2020/01/28(火) 10:59:08
ひもろぎもの=干者=干物(ひもの)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010755M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010755_2M.jpg

https://w.atwiki.jp/houji/pages/45.html



10206管理人:2020/01/29(水) 04:08:45
三星堆・二頭里・殷墟・龍山・大モン口・亀ヶ岡・三崎山・大湯・常呂・富士山方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010756M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010756_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010756_3M.png

また、皆さん、わかちあいありがとうございます。インド方言と古代日本語との間で相関性が多くみえるようですね!

昨晩の続きで、殷と関係が予想される亀ヶ岡文化について、今度はダイレクトに古代中国の遺跡と、日本の縄文晩期の遺跡とのラインについて調べてみた結果、図1〜3のラインが明らかになりました。

まず図1は三星堆と洛陽東部の二里頭遺跡を起点としたもので、図2はその拡大図です。

具体的には、まず三星堆遺跡⇔二里頭遺跡⇔大モン口遺跡⇔煙台⇔亀ヶ岡遺跡のラインが見えます。

また、三星堆遺跡⇔漢城⇔三崎山遺跡のライン、そして三星堆遺跡⇔金海⇔富士山のラインがあります。

さらに、二里頭遺跡⇔龍山遺跡⇔朝里天狗岳へのラインがあり、そして昨晩も指摘した富士山⇔三崎山遺跡⇔亀ヶ岡遺跡⇔朝里天狗岳へのラインがありますね。

なお、昨晩のライン分析では手宮洞窟を比定したのですが、図法の関係でしょうか、以前北海道の旧石器・縄文方位ラインの中心拠点として位置づけた朝里天狗岳のほうがもっと適切な位置にあるようです。

これらのラインの造営年代ですが、まず三星堆遺跡が上限を新石器時代晩期(紀元前2800年)とし、下限を殷末周初期(紀元前800年)とされており、また洛陽の二里頭遺跡が紀元前2100年頃-紀元前1800年頃または紀元前1500年頃、龍山文化は,紀元前3000年頃-紀元前2000年頃、大汶口文化は、中国山東省を中心に紀元前4100年頃から紀元前2600年頃にかけてとなります。

なお、亀ヶ岡文化、大洞貝塚は縄文時代後期〜晩期、大湯遺跡は縄文時代後期とされており、三崎山遺跡からは殷代の刀子が見つかっていることも昨晩お話したとおりです。

次に図3ですが、こちらは三星堆遺跡とともに、新たに殷墟を起点とした方位ラインになります。

具体的にはまず、三星堆⇔殷墟⇔常呂遺跡のライン、また殷墟⇔平壌⇔亀ヶ岡遺跡のライン、そして、殷墟⇔龍山遺跡⇔煙台⇔三崎山遺跡⇔大洞貝塚に至るラインがあります。

そして、昨晩も指摘した亀ヶ岡遺跡⇔大湯遺跡⇔大洞貝塚のライン、また亀ヶ岡遺跡⇔三崎山遺跡⇔富士山のラインがあり、さらに常呂遺跡⇔大湯遺跡⇔三崎山遺跡のラインも確認できます。

なお殷墟については、殷王朝後期(BC14世紀ごろ - BC11世紀ごろ)とされており、先に二里頭遺跡をメインとした図1のラインより、図3のほうが新しいことになるでしょう。

ただどちらも共通した拠点が見え、先日からお話してきた紀元前2700年以降の中国での都市構築に伴い徐々に朝鮮半島、日本列島へと拡大していったものではないかと思います。

それで、昨晩は殷滅亡時の遺民が、亀ヶ岡文化や三崎山遺跡の刀子をもたらしたことを予想したのですが、ただ、こうみていくと、そうではなく日本列島においても、かなり計画的に測量された位置に移住して都市構築をしていったことが明らかになります。

夏・殷(商)王朝の間で継続して測量と交易・移住が行われ続けていった結果として、縄文後期から晩期の遺跡にその影響がこれらの遺跡の位置等に見て取れるのではないでしょうか。

この方位ラインの構築年代を明らかにできれば、縄文時代の年代推定もさらに鮮明になってくる可能性がありそうですね。



10207fourfours:2020/01/29(水) 23:35:46
日本語の起源
初めて投稿いたします。fourfoursと申します。
日本語の起源に興味がある理系の大学院生です。
いろいろ知らないことがあり、この掲示板にて、勉強させていただいております。

この掲示板では、日本語とシナ・チベット語族が近縁であると仰っている方々がいらっしゃるようですね。
ただ、金平譲司氏の見解によれば、日本語はウラル語族とも関係があるそうで、そちらがベースかもしれないようです。言語は「意味の変化パターン」を捉えると系統関係が見えてくるようですね。
このサイト、はじめは「本当なの?」といった疑問が生じていましたが、納得する部分も増えてきました。

具体的には、以下のようです↓

http://www.jojikanehira.com/archives/number1.html



10208fourfours:2020/01/29(水) 23:55:43
言語の成立について
早速、連投失礼いたします。

言語の成立について追記いたします。

かつて、言語は、現代よりはるかに多く存在していたと考えられます。それのごく一部が現在まで生き残っているのでしょう。
そのため、生き残った言語は、消えていった言語の話者と語彙を大量に取り込んで生き残っていることを忘れてはいけないと考えています。

テュルク諸語・モンゴル諸語・ツングース諸語・ウラル語族などが共通の語彙を持っていると議論されるのも、かつて北ユーラシアに広がっていた言語の語彙(インディアン諸語・ケット語などのエニセイ語族、その他諸々)を大量に取り込んでいるからなのでしょうね。

デイヴィッド・ライクの「交雑する人類」にも記載されている通り、かつて北ユーラシアに住んでいた「ゴースト集団」が存在するので、その人らの言語の語彙も、現代の言語に取り込んでいるのかもしれません。

他言語から取り入れられてきた語彙を明らかにすることが大切そうですね。

10209管理人:2020/01/30(木) 00:40:18
RE 日本語の起源
fourfoursさん、はじめまして!わかちあいありがとうございます。

私自身は、言語についてはずぶの素人なのですが、最近までこちらに(^_-)を出しておられた方が、よく日本語とシナ・チベット語族との比較をなされていましたね。

またご紹介ありましたホームページで指摘されているウラル語族とY-N系統の流れ、そこにかかわる遼河文明と日本語への影響は大変興味深く感じます。

Y-N系統の割合は日本語では2〜7%と少ないようですが、その言語的な影響が大きかったとすると、かつては現在以上に勢力があったことも考えうることですし、逆に現在ではゴースト集団に近くなってしまっているのかもしれませんね。

また言語面での詳しいことは、みなさんからのご意見をお待ちしたいと思いますが、今後ともよろしくお願いします。

10210管理人:2020/01/30(木) 01:19:32
中国文明・縄文方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010760M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010760_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010760_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/新楽遺跡



10211秦野北斗:2020/01/30(木) 11:04:56
fourfoursさん、[10757] 日本語の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010761M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=sZQp5gfQvLs



10212fourfours:2020/01/30(木) 18:51:21
[10759],[10761]へのご返信
管理人様、秦野北斗様

ご連絡ありがとうございます。
秦、渡来の記録に関しては今後の勉強にさせていただきます。
こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。

10213管理人:2020/01/31(金) 00:18:23
日本語と古代中国・朝鮮語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010763M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010763_2M.png

http://www.jojikanehira.com/archives/number14



10214fourfours:2020/01/31(金) 09:42:11
[10763]の返信
早速、「日本語の意外な歴史」を読み進めてくださり、誠にありがとうございます。このブログの記事で、実りある内容を知っていただければと思います。

朝鮮半島でなにかあったのか(4)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2Faugust2018-5

でも挙げられていますが、この記事でも「消滅した言語についての考察」をしていることで、日本語の複雑な語彙の構成を明らかにしようとしており、ユニークです。

同記事で「?」にされている部分も、以降の記事で明らかにされてきていますよ。

下記リンクの「97〜122」の記事で、消滅した言語についての説得力の高い説明をされていますので、気が向いたら是非お読みになってください。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2Flist


私はHLAハプロに関しては詳しく把握していないため、HLAハプロの各民族が見せる傾向など、どのような事実が分かるのか、勉強させてください。

10215管理人:2020/02/10(月) 01:12:50
HLAハプロタイプとゴースト集団
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010765M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010765_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010765_3M.png

https://en.wikipedia.org/wiki/HLA-B46



10216管理人:2020/02/20(木) 01:11:28
渤海・契丹と日本
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010766M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010766_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010766_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/渤海_(国)



10217管理人:2020/02/04(火) 01:08:10
契丹古伝と和訓
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010767M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010767_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010767_3M.png

http://sazanami.sitemix.jp/koden001.html



10218秦野北斗:2020/02/04(火) 10:59:03
[10767] 契丹古伝と和訓
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010768M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010768_2M.jpg

契丹古伝を意訳してみます、欠落字があるな・・・ 意訳は別ものだな、

辰?繾翅報 斡南易羅祺 駿蔘冉謨律辨扈陪
意訳:辰(東南東)・・報せる、巡る南に代わる、並べ安らか勝れる、朝鮮、危うい図る則、わきまえる、広い従う、
蘊杜乍喃吟 綿杜乍喃密 伊寧枚?汶枚氣冉
意訳:穏やか杜(もり)、忽ち、喋る歌う、列なる杜(もり)、忽ち、喋る親しい、伊(い)平?る、汚れ、平氣危うい、

原文

辰?繾翅報 斡南易羅祺 駿蔘冉謨律辨扈陪
蘊杜乍喃吟 綿杜乍喃密 伊寧枚?汶枚氣冉
滿婆載娜摩矩泥克 羊袁暘弭沚緬

辰?繾翅報 斡南遏浪祺
億扈瑪尹冉濟 紆凱湄烏架樂遊
絶斿麗奄斿例 斡浸播圭婁可洛
資斿麗絆斿例 耶那奈資婁可洛
固牟畢滿呂魏克 遏浪謨納岐

辰?繾翅報 案斜踧岐 賁申釐倪叔斿厲
珂洛秦弁支廉 勃剌差笏那蒙緬




10219管理人:2020/02/05(水) 02:18:38
契丹古伝と濊貊
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010769M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010769_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010769_3M.png

http://sazanami.sitemix.jp/koden001.html



10220秦野北斗:2020/02/05(水) 10:38:29
[10769] 契丹古伝と濊貊
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010770M.jpg

翻訳が出鱈目ですな、何を言ってるのか、訳と一致しない・・・

[10769] >また、その2つ前の38条では、匈奴の冒頓単于の時代に、殷と関わる淮伯?族、つまりワイ族が安泰となった後、情勢変化で再び行き場を失って、そこで「至是辰招以率發符婁之谿臼斯旦烏厭旦之壤。高令乃之臻。」、つまり彼らを朝鮮に招いて土地を提供したというように見て取れますね。

どうも、朝鮮に開港を求めている模様・・・

至是辰招以率發符婁之谿臼斯旦烏厭旦之壤。高令乃之臻
意訳:
到る此れ辰(東南東)、招く以って率いる。開く割符を繋ぐ、谷臼、此処に明らか、烏(えぼし)は嫌う、
此れ湊。高まる則、即ち此れ多い、



10221 史実探偵: 平 素人(ヒイラ モト):2020/02/05(水) 16:00:28
此処に卑弥呼が埋めた大量の銅鐸23個が眠っている !!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010771M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010771_2M.jpg

https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-1.html



10222秦野北斗:2020/02/06(木) 14:13:58
神功皇后の陵(みささぎ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010772_2M.jpg

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世徳私纂に遂建寺、神功皇后の陵(みささぎ)の大きさが記録される。

宮内庁、神社本庁は知らないのですな

神功皇后の陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ、位置)と云われるが、世徳私纂(岸和田)に寛永17年(1640)に岸和田藩により補修
される。神功皇后の古墳、また、宗教施設、遂建寺と遂建寺領地は堺にある。

神功皇后の陵(みささぎ)は、方形墳になる(世徳私纂に大きさが記録されている)墳の長さは1km
になる。

宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「五社神古墳」で、墳丘長275メートルの前方後円墳である。
「五社神古墳」など小さい、

世徳私纂(セトク シサン)三宅 源

世徳私纂は岸和田の資料であるが、岸和田では内容を読取れない、解読できる人材がない。
内容は織田信秀から岸和田(当時、堺は岸和田に属する)の歴史になる、正親町天皇の神野、栄の離宮を千の利休に譲り、開国(ポルトガル)、戦国時代に入り、織田信長の死で江戸時代、図の湾は現在、堺と読むが、本来は栄である。この栄を霊元天皇が埋め鎖国にはいる。栄の神、神功皇后は戦乱中は転封、遷封される、亀山、福知山、大垣、龍野、高槻、岸和田(現在の堺)最終は岸城に落ち着く。神功皇后の陵(城)は岸和田(現在の堺)にある。以上が大まかだが・・・三宅 源 は、元は宮家と読める。




10223管理人:2020/02/07(金) 04:05:13
契丹古伝の分析
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010774M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010774_2M.png

http://sazanami.sitemix.jp/koden001.html



10224秦野北斗:2020/02/07(金) 09:48:32
[10774] 契丹古伝の分析
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010775M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010775_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/契丹



10225秦野北斗:2020/02/07(金) 11:37:51
本能寺の変  愛宕百韻
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010776M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010776_2M.jpg

[10772] 神功皇后の陵(みささぎ)の 世徳私纂 で行動が読取れる、

愛宕百韻によると、本能寺の変は数年前から計画され、天正10年(1582年)5月24日明智光秀が山城国愛宕山で計画を遺すため「明智光秀張行百韻」「天正十年愛宕百韻」とした。百韻は正親町天皇の命令からはじまる。「ときは今 あめが下知る 五月かな」

明智光秀が徳川家康に堺見物を勧める、実の処は、堺は栄のことで神功皇后、遂建寺見物である。図
栄には千の利休、神野の茶屋(離宮)で茶をいっぷくした模様、尚、徳川家康の伊賀越えは利休の案

織田信長は配下(公家に接待され、本能寺にはいない)の者はいない、本能寺で側近と・・・
新月の明け方近くに明智光秀が討ち入る・・・

明智光秀は豊臣秀吉を馬鹿にしていたのが命取りになる・・・

愛宕百韻によると、本能寺の変は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の暗殺計画では・・・。
織田信長は直接殺害する。一人の処を、恨みたらたら殺害
徳川家康は罠に掛ける。逃げ惑わせ、追い詰め殺害
豊臣秀吉は銃殺を計画する。火縄銃で蜂の巣にして、殺害
全て失敗、ただし、織田信長は自殺する。

暗殺計画者は正親町天皇、実行者(殺し屋)は明智光秀
go サインは「ときは今 あめが下知る 五月かな」

本能寺の変、計画失敗 豊臣秀吉が関白につく、関白の意味:「関(あず)かり白(もう)す」
正親町天皇は権威剥奪、豊臣秀吉、徳川家康が監視する。謹慎ですな。
明智光秀は計画失敗で死亡

先輩方の創造には恐れ入ります。愛宕百韻は全訳しています。秦野北斗



10226秦野北斗:2020/02/07(金) 18:01:22
栄を霊元天皇が埋め鎖国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010777M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010777_2M.jpg

https://kotobank.jp/word/新田開発-82285



10227国家元首:2020/02/07(金) 20:44:52
本能寺の変は世界史的な大事件
昔から、以下の3人が主犯であるという説があって、私もその説が最も合理的だと考える。さらに足利義昭が光秀に援護射撃をし、正親町天皇は黙認していた、というのが真相だろう。

近衛前久

勧修寺晴豊

吉田兼見

そういう説の一つの例として、以下のものがある。

「立花京子氏の朝廷黒幕説」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Feikorekken.client.jp%2Fcollaborate%2Fhon-nohji%2Ftheory%2F3.htm


国体を守るのは、皇族や公家の本質的な使命である。それは彼らの存在の前提に関わることで、相手がどんなに恐ろしい独裁者であっても、やる時はやる。

民族としての日本人の立場からも、明智光秀は国体を守った英雄であると言える。

信長ならば、倭寇と同じルートで中国南部沿岸から大型船で明に侵入したはず。(宣教師もそのような話を聞いていたらしい。)

そこからジワジワと勢力を拡大したら、明の征服が成功したかもしれない。そうしたら、今頃日本人は中国人との混血になって、違う生き物・文明になっていたとも考えられる。

また、東南アジア・アメリカ大陸を巡って、欧州諸国との長期間の抗争に巻き込まれたり、カトリックの介入を招いたりして、基本的に良いことはなかっただろう。

光秀の日本史における巨大な功績は、もっと評価されるべき。

10228国家元首:2020/02/07(金) 20:53:13
カトリック
信長は功績も大きいが、危険性も大きい。彼はカトリックの布教活動に寛大だったが、あのままカトリック勢力が拡大していたら、日本の歴史におけるその弊害は、かなり酷いものになっただろう。

信長は、日本統一の道筋を準備し、本願寺を抑え込んだあの時点で死ぬのが正しかったとしか、いいようがない。

10229秦野北斗:2020/02/07(金) 22:35:21
[10779] カトリック
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010780M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010780_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=VWZ__gzSRuk



10230管理人:2020/02/08(土) 00:19:27
本能寺の変
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010781M.png

https://www.amazon.co.jp/「本能寺の変」本当の謎-円堂-晃/dp/4890631852



10231 史実探偵: 平 素人:2020/02/08(土) 04:26:36
触らぬ神(暴論)に祟りなし^^?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010782M.jpg

https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-31.html



10232秦野北斗:2020/02/08(土) 07:12:23
カトリック
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010783M.jpg

千の利休はカトリックなんです。

管理人さんもお茶、いっぷくどうですか・・?





10233秦野北斗:2020/02/08(土) 14:04:32
立花京子氏
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010784M.jpg

http://eikorekken.client.jp/collaborate/hon-nohji/theory/3.htm



10234秦野北斗:2020/02/08(土) 16:16:24
魏誌倭人伝 投馬国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010785M.jpg

http://www7b.biglobe.ne.jp/~smkodai/28touma.html



10235国家元首:2020/02/08(土) 17:37:43
巨大な心中でもあったのでは。
古代史と関係がない話だが、光秀と信長の関係は心理的な依存関係が強かったと思う。京都の伝統的勢力との調整役だった光秀と伝統を破壊する信長は、対称的なまでに性格が違うので、かえって信長にとって貴重な人材だった。

信長のような赤ん坊がそのまま大きくなったタイプの人は、母親・父親のような存在に依存することになるが、光秀がそのような存在になったのだろう。信長と光秀がたびたび口論していたことは、宣教師の記録などにも書かれている。

信長に逆らったら、殺されてもおかしくない。むしろ、殺されるくらいことが起きるのが普通なのに、光秀は口論をしている。信長にとって光秀は特別な存在だった。

本願寺勢力が光秀の立て籠もる天王寺砦を大軍で包囲した時に、信長は少ない兵力で突撃して光秀たちを救い出したことがあった。この時、信長は足を銃で撃たれて負傷している。信長自ら体を張って突撃したと思われる。

末期の信長は、狂的な行為が過激化し、国体を破壊しようとしていた。本能寺の変は、朝廷・伝統勢力と信長の板挟みにあった光秀が、保護者が責任を取るようにして信長を処分した、という面もあったと思う。

つまり、大きな親子心中みたいな要素もあって、そのことが、信長が明智の来襲と聞いて「是非もなし」と言った背景だったのだと思う。

10236秦野北斗:2020/02/08(土) 20:51:42
モンタヌス日本誌
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010787M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010787_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010787_3M.jpg

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879653



10237管理人:2020/02/09(日) 00:54:02
本能寺の変2
こんばんは。みなさん、ご興味あるようなので、ちょっと脱線して、このまま本能寺の変について推理していきましょう・・。

壬申の乱などもそうですが、一般的に古代史家は理詰めで推理したいものですね。あまり偶然とか、深層心理といったものは根拠にしないものです。

ただ、元首さんのおっしゃるように、深層心理面での動きというのはもっとこれから歴史学でも取り込んでいってもよいように感じるんですね。先に紹介した円堂氏もユングの話を持ち出してますし、参考になります。

昨晩お話した忌部氏、源氏といった家系的なものにかかわる心理も影響を与えているように感じますし・・・。

深層心理というのは、当人が意識しないままに、勝手に必然的な行動を起こすことを前提とするものでしょう。

逆にいえば、特定人物の明らかに不合理な行動や言動を列挙していくなかで、その深層心理を読み解くことができるかもしれません。

円堂氏が最後にふれている安土城の天守閣の構造なども、読んでいくと、信長の心理を映し出しているようにみえますし、別の視点で切り込むと、これは石窟寺院にもみえる八角形と四角形天井の組み合わせ、つまり生死と復活を意味する図形なわけです。

だから、あの天守閣は、円堂氏が述べるように、軍事的なものではなく、信長の天皇より上にたつ神に近い存在としての心理を象徴する塔のようなものだったでしょう。

強いていえば、天上へと復活する儀式の場に近いものだったのかもしれません。天皇より上のものになれるとの観念を誰が植ええつけたか?ここがまずひとつの重要なポイントでしょう。

円堂氏の推理としては、本能寺の変の当日、信長が明智兵を意図的に呼び返して、そのまま天皇のところに向かい、軍事的に脅しかけて、信長を将軍職につかせるよう計画していたとのことで、しかし光秀はそれを行うと逆賊扱いとなるので、その意には従えず、それを聞いてすぐに、各地の大名に謀反を起こす旨を手紙で送っていたとのことのようですね。

もともと光秀が、織田家とは縁が薄く、かつての主人の足利将軍家を再興したいと考えていたことも確かでしょうし、偶然にもよい機会が巡ってきたので、すぐに実行に移したとのことなのでしょう。

その偶然という要素を、なんとか理詰めで解釈したいと歴史家は考えるわけですが、偶然は偶然、それこそ必然として受け止めることもありかなと感じます。

大災害が現実化する際にいわれることは、それ以前に無数の小さな災害・予兆があり、その氷山の一角が、あるときにタイミングが一致して、それが大きく膨れ上がって現実化する、どんな場合でも後から見直すと予兆が多くあるものです。

原発災害にしても、大地震にしてもそうですね。

本能寺の変にしても、おそらくは、それ以前に謀反に近い行動がいくらか信長の周りにあったのかもしれません。ただタイミング悪く、つかまったり、表面化しなかったのかもしれませんが、光秀のときは、すべてがうまくいくタイミングだったのでしょう。それで見事に成功した。

しかし、その後の計画は、逆にタイミングがくるっていて、彼の描いたストーリー通りにはいかず、ああいう結果になったわけです。

大局的な流れとしては、光秀がやらなくても、いずれ信長は殺されていたのかもしれません。
信長自身も近い将来、自身が殺されることを予想していたかもしれませんね・・・。

その偶発的ともいえる、絶好のタイミングを造り出すものは何か?が次の課題といえそうですが、これも確率論で考えるのには、あまり賛同できないように感じます。

やはり、そのタイミングを造り出すかのように、人間集団がその目的とでもいうべきものに向かって、無意識的、人によっては意識的に動いていく、その結果として、そのタイミングがやってくるわけです。

本能寺の変についていえば、やはり秀吉が遠くに行ったというのが大きな要素だったのでしょう。戻ってくるのには、かなり時間のかかるところにいたわけです。しかも交戦中ですぐには動けない。

信長のボディガードが欠けたような状態がまず造り出されることが必須条件にあったはずです。

ただ、暗殺という視点からいけば、何も茶に毒を飲ませることで済むわけで、それをしようと思えばできるのも多くいたでしょう。

それをあえてする人が出てこなかったのは、まだ信長を使う必要があると周囲が認めていたからかもしれませんね。

天下を統一するには、信長と秀吉が必要だと誰もが認めていた・・・・。

しかし、状況が変化して、信長が必要ないと判断する時期に差し掛かっていったので、明智がそれを実行したのではないでしょうか。

どうして必要なくなったのかですが、ひとつには、秀吉が信長に取って代わるだけの力量をもちはじめていたから、またさらにいえば家康も同様に力をつけていたからかもしれません。

かれらの上に乗っかっている重しのような信長を取り払う必要があったんでしょう。信長がいるかぎり、かれらは自由に動けないわけです。

カリスマ性のあるリーダーがいなくなった後には、やはり混乱があるものですが、それなりの後継者が現れて、その権威を引き継いでいく、その後継者たちが育つところまでは、そのリーダーの役割なわけですね。

その交代時期が、信長の場合は、他の大名よりも比較して早く来てしまったというか、彼の言う人生五十年で、彼の意図通りに起こった交替だったわけです。

ただ、息子に引き継がせようと考えていたところが計算外で、実際は臣下がそれを引き継いだ。織田の血縁者を残す方向で、謀反が動いていたら、また展開がかわっていたかもしれませんが、外様の光秀が謀反を起こしたことと、秀吉がそれを討伐する手柄を手にしたことにより、生き残った織田の血縁者は権力を引き継げなくなったわけです。

そういう意味でも、光秀が織田信忠を殺し、織田家家臣団にダメージを与え、秀吉がさらに光秀を殺して手柄を挙げて、織田家や家臣団を黙らせる、このストーリーが、ある時期から見え隠れしはじめていたのでしょう。

そのストーリーどおりに、合目的的な力にしたがって、各人が演技とでもいうべき動きを無意識・意識的におこなっていった結果として、ああなった。

結局、朝廷も足利も権威を回復することなく、秀吉、家康へと権力が引き継がれていったのですが、それは前者がいくらあれこれ画策しても、大局的な流れからいって覆せるものではなかったんでしょうね。

ただ、光秀を動かすには、もうひとつふたつ条件が整う必要があり、やはり秀吉の高松城攻めがキーだったのではないでしょうか。

秀吉的には勝算があり、それは時間の問題でもあったのですが、なぜか援軍を求めるように使いを出す。

そこに、光秀が動くことまで彼が読んでいたかどうかが気になるところですが、残っていた武士が、信忠や光秀だけだったとすれば、やはりどちらかが来ることは理解していたのかもしれません。

そのまま毛利と足利を潰すならば、やはり光秀を送ると読んだかもしれませんね。

ただ光秀的には足利義昭の討伐には向かいたくなかった、しかし信長は近江の領地をとりあげてでも、光秀に向かうように急き立てたので、仕方なく秀吉の援軍として向かわざるを得ない状況に追い込まれた。

そこで、足利と織田のどちらを主人に選ぶかの選択をしなおした結果として、信長を殺すことにした。

そこでユダにサタンが入ったごとくして、見事なまでの策略で信長を葬ったのでしょう。

信長は光秀がひきかえしてくることを理解していたかどうか?ここが面白いところですが、円堂氏は信長が意図的に光秀の大軍を呼び寄せたことを立証している点で興味深い。

信長はなぜ光秀を呼ぶことを考えだしたのか?ここが、おそらくは無意識のなす実に興味深い行動形態なのかもしれません。自分で死を引き寄せる。自ら進んで武装を解き、丸裸にされるような状況へと追い込んでいくわけです。

実に奇異なことが続けざまに起こっていったはずですが、大局的にみれば、それも偶然のようで必然だったのかもしれませんね。

あと、家康の動き、彼はすぐそばにいたのに、起きる直前に逃げるかのようにして、自国へと戻ってしまった。

動物的なまでに危険察知能力が高かったのか、するりと災難をかわすことに長けてますね。生き残る人というのは、そういうものなのかもしれません。

大物とされる戦国大名で、戦死したのは、その戦数に比して実に少ないですね。信玄、謙信、秀吉、家康、毛利、伊達・・・。ほとんどは戦死してないのは、単に家臣団が守ったからというわけではなく、そういう歴史的必要性とでもいうべきものが終わるまでの間、死ぬに死ねないようになっていたのかもしれません。あえて死ぬ場合は、真田とか石田のような死に方でしょう。ぎりぎりまで生き延びて、死を自分で決める。

大物の中で、ただ信長だけが、早い死を選んでいる、そこが彼の面白いところなのかもしれませんね・・・。

10238国家元首:2020/02/09(日) 13:19:44
日本で独裁は可能だったか。
明智は源氏で、織田は源氏ではない。(自称平家)これは、意識的・無意識的に影響していたと思う。当時の武士・公家たちにとっては、そういうことは常識だったと思う。源氏問題が徳川に強く関わっていることは、表面的な歴史でも明らかである。

秦の始皇帝と信長は明らかに類似型、同型の独裁者なのだが、その人生の結末には大きな違いがある。この違いを考えることは、日本で中国やロシアで行われたような独裁が困難である理由を考えることにもなる。

やはり、日本の独裁者は、根強い伝統文化(国体)の壁とぶつかり、それを破壊しようとすると、潰されてしまうということがある。朝廷から国師号を与えられた快川紹喜を焼殺したことは、伝統勢力に対する信長の挑戦状だったはずで、公家たちもあの時点で信長との対決を覚悟したことだろう。

信長の残虐性は赤ん坊性の一面であって、赤ん坊状態では、ある種の精神分裂が起きやすい状態だったろう。本能寺の変に至るまでの経過に、自滅的・自殺的要素が感じられる。始皇帝のような殺伐とした心理状態の中でも、光秀との関係においては、人間関係らしきものや愛情らしきものが見られる。

光秀が長期間かけて構築した長宗我部人脈を突如廃棄して、長宗我部征伐路線に切り替えた理由は、信長王国の中で作られていた光秀人脈に対する攻撃だったとも疑われる。信長は、自分が考える将来の織田政権にとって邪魔になりそうなものは破壊したかったろう。

しかし、赤ん坊ゆえに心理的に光秀から自立できず、伝統勢力と結託した光秀の心中攻撃には勝てなかった。客観的に自殺にも見える要素があるが、精神分裂がもたらした自殺という要素もあったような感じがする。

伝統と人間性の力が強い日本的な風土では、独裁者はそれに反発する必要もあって戯画的なまでの独裁者になっていったが、結局は伝統と人間性に負けて失敗してしまう。

ほとんど自殺に近い形で、唯一人間関係らしきものがある部下に、ほとんど心中に近い形で殺害される。本能寺の変には独特の哀しさが漂うが、昔からこの辺の事情が日本人に感じられているからだと思う。



10239秦野北斗:2020/02/10(月) 00:54:59
モンタヌス日本誌が理解できないようですな、
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010790M.jpg

国家元首さん 洗脳が・・・

>秦の始皇帝と信長は明らかに類似型、同型の独裁者なのだが、????

モンタヌス日本誌が理解できないようですな、



10240管理人:2020/02/10(月) 01:58:13
戦国城跡方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010791M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010791_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010791_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/明智光秀#南光坊天海説



10241管理人:2020/02/11(火) 01:15:41
新田・太田・徳川氏と関東城跡ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010792M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/世良田氏



10242国家元首:2020/02/11(火) 04:36:05
名探偵明智小五郎
明智光秀は源氏の武士という印象の強い人だと思います。本当に土岐源氏の流れの人でもおかしくないと思います。

家康は源氏を名乗りますが、寺の前で行き倒れ(のふりをし)て寺に入り込んで、寺を乗っ取ってゲリラ集団を結成した男の2・3代目だというような説をテレビで見た記憶があります。

そのテレビ番組では、インチキくさい小さな金属製のオブジェが出てきましたが、それが家康と源氏の間を繋ぐ証拠だとされているとか。

関東武士の血が少しでも流れているなら、少しは源氏の末裔である可能性が高いし、源氏的な存在形態を受け継いでいるのであれば、源氏と名乗ってもあまり問題がないでしょう。


ウィキペディア「源氏長者」より

「・・・武家源氏で源氏長者となったのは、清和源氏の足利義満が最初であり、足利将軍家と徳川家康に始まる徳川将軍家(清和源氏の新田氏の流れを汲むと自称)は武家のまま源氏長者になっている。・・・」

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F

10243秦野北斗:2020/02/11(火) 10:07:52
[10793] 名探偵明智小五郎
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010794M.jpg

https://news.livedoor.com/article/detail/6977367/



10244fourfours:2020/02/11(火) 23:48:35
テュルク系言語の位置づけについて
戦国武将から日本の文化を知ろうとする視点がなかったため、今後は戦国武将など、日本史を勉強しようと思います。

今回も金平譲司氏のブログの引用です。

戦国武将の議題からかなりそれますが、テュルク系言語は、消えてしまった大語族(もしかしたらシナ・チベット語族も?)と関係があるそうですね。

朝鮮語・アイヌ語の起源もいずれ公開されるそうです。

同じ人の記事の貼り付けばかりで申し訳ございません。正説のように感じられ、共有したい気持ちが強くなりました。

http://www.jojikanehira.com/archives/17088428.html



10245管理人:2020/02/12(水) 01:31:34
土師氏と関西城跡ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010796M.png

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toki_k.html



10246管理人:2020/02/12(水) 02:14:19
日本語の変遷
fourfoursさん、さっそくまたお知らせありがとうございます!金平さんのブログ、拝読させていただきました。

テュルク系言語の件は興味深く感じます。ウラル、ツングース、モンゴル語とも大きく相違するのですね。そして比較的新しい時代に拡散した可能性があるとのことも、スキタイ系集団の東遷とか関わってこないかとも感じます・・・。

そして、日本語とも共通性が多いことも、以前、こちらでも指摘されていた方が数人おられたかと感じます。

あと、以前から感じているのですが、記紀や万葉集にみられるような日本語の語彙と、平安時代のそれ、また関東武士の影響が出てくる時代のそれとで、少しづつ変化しているように感じるんです。

それで縄文人由来の日本語の場合は、アイヌ語や九州・琉球方言とも関係してくるでしょうから、そこからその古さの度合いがはかれるとおもいますし、金平さんのブログでもアイヌ語関連も発表されるとのことでとても興味深いのですが、一方で、まったく、記紀万葉はもとより、アイヌ語などにもみられない語彙群ですね、これをどう考えるかも課題になってくるでしょう。

具体的には先日もお話した紀元後1100年ごろから日本人に現れ始めるHLAB44にみられるような北朝鮮、渤海、契丹といった集団との関わりが見えないかと感じます。

なお契丹語については、下記のようにモンゴル諸語との見方があるようです。

契丹語
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A5%2591%25E4%25B8%25B9%25E8%25AA%259E


それで、最近思うのは、日本語というのは文法的にはおおむね一つの言語のように感じるのですが、語彙的にみると、2つ、3つの言語を使い分けているような気がするんです。

先の金平さんのブログでも紹介されていた水関連の語彙や動詞についても、そうですし・・・。

たとえば「食」だと、たぶ、はむ、くふ・・など2〜3の言語を使い分けているように見えます。それに加えて漢語のショクも加わりますから、日本語が難しいわけです(汗)

だから、あらかじめ、3つなら3つの言語が先に前提とあるとの設定で、それに今ある日本語の語彙を、カテゴライズして振り分けしていくと、その3つにならずに2つしかない語彙とかがあれば、すでに消えた語彙なり言語なりが浮かび上がってきたするのではないでしょうか。

この辺の統計技法とでもいうべきシステム化ができてくると、古代史面でも応用がききますし、そこから文献史料の成立年代なども逆算できるかもしれない点で重要です。

スパコンの時代ですから、これからの新進気鋭の研究さんさんたちに、ぜひ期待したいところですね!


10247fourfours:2020/02/12(水) 08:58:04
[10797]への返信
http://www.jojikanehira.com/archives/october2018-2

http://www.jojikanehira.com/archives/14818949.html



10248fourfours:2020/02/12(水) 09:05:57
記紀万葉に出現することばについて
記紀万葉で出てくる言葉も、消滅した言語群の一部で、他の言語群と結びつくのかもしれませんね。

10249fourfours:2020/02/12(水) 09:13:11
契丹語について
契丹語は謎に包まれていますが、この言葉はモンゴル系言語をベースとし、様々な言語が混じっているのでしょうね。
解読できれば、モンゴル系言語・ツングース系言語などの、北ユーラシアに広がっていた言語群の接点が見えてきそうですね。


10250管理人:2020/02/13(木) 00:03:15
言語と認識方法
fourfourさん、お返事ありがとうございます!

ご紹介ありました「足」や「水」にみられるような多彩な語彙変化についても、視野にいれながら進めていく必要がありそうですね。

またご紹介あった金平さんのブログを読んでいて感じたのは、人間や人種の認識論にまで踏み込む必要がありそうだとのことでしょう。

ちょうど先ほどは知人に関する別件で、特定の単語を被験者に発音させたり、連想させるときに、言語脳の特定部位に血流が流れて反応するものの、個人差があるようで、それが精神病疾患の判定などにも応用されているとのことを知ったところでした。

ご興味ある方は下記サイトなどご参照ください。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fstyle.nikkei.com%2Farticle%2FDGXDZO54372730V20C13A4EL1P01%2F
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.research.johas.go.jp%2Fbooklet%2Fpdf%2F10-2.pdf
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkogusoku.com%2Farchives%2F10407
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.kanazawa-med.ac.jp%2Fgraduate%2Foutline%2Fgakui%2Fdoc%2Ffullk450.pdf
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.carenet.com%2Fnews%2Fgeneral%2Fcarenet%2F38831


そして驚いたのは一卵性双生児では、その部位の反応が高い比率で同じなのにたいして、二卵性では低いと相違するようなケースがあることです。

ある意味、遺伝的な脳構造に由来するのでしょうけど、その遺伝をつきつめると、人種にまでいくつくかもしれず、そうすると、特定の人種は、特定の言語に対して、特定の認識方法をするというところまで明らかになってきそうです。

関連して、最近アイヌ語の本を最近読んでいて、その語彙認識の仕方が、日本人のそれとは少し異なるように感じたことを思い出します。

下記のアイヌ語の語彙一覧をみると、その件を理解できると思います。

アイヌ語語彙一覧
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2582%25A2%25E3%2582%25A4%25E3%2583%258C%25E8%25AA%259E%25E3%2581%25AE%25E8%25AA%259E%25E5%25BD%2599%25E4%25B8%2580%25E8%25A6%25A7

たとえば、カイ(kai)が、強い(怖い≒強い の意味を含む)※アイヌ人が自らをさす時の名称との説もある。

とありますね。つまり日本語のコワイなのですが、強い(つよい)の意味とも重なっていて、かつての原日本語の忘れられた意味付け方法だったのかもしれません。

オンカミonkami拝む、拝礼するなども、日本語のオガムとなりそうですが、元はオン+カムイ(カミ)の二つの単語の合成語だった可能性もありそうです。

オンは尊敬語の御でしょうか・・・。

また カムイノミ(kamuynomi) 神に祈る  も、神(カミ)と祈る(イノル)の合成語のようにみえますね。この場合は、アイヌ語のほうが合成語として伝わっていったようにもみえます。

先ほどのオンカミ(onkami)の拝礼の意味と、この語は日本人的には同じような気がするのですが、アイヌ人における神に祈りることと、目上の人に礼をすることとの意味付けの相違が、これらの異なる語彙を生み出していったようにもみえますし、そこにはアイヌ独特の観念なり習俗が影響していたのかもしれません。

ただ、概して、上記のようにアイヌ語と日本語との間には、やはり相関性があるように見えますし、まったく関係が見出せないとしていたらしい?かつての言語学が、どうしてそう理解したのがかいまいち理解できないんですよね。

文法的な面では大きくことなるので、そのことを言っているのか、語彙的なことも含めてそうしたのかも気になります。

語彙と文法の相違とともに、その認識方法がどうであるかについても、判定基準を造っていくべきかもしれませんし、それがないと、スパコンでカテゴライズする上で支障が出てくるでしょう(笑)

あと、こちらは上代日本語の語彙一覧(一部のようですが)です、よろしくご参照ください。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E4%25B8%258A%25E4%25BB%25A3%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E8%25AA%259E



10251管理人:2020/02/13(木) 02:08:17
鴨方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010802M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010802_2M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/土岐頼貞



10252管理人:2020/02/14(金) 00:24:41
鴨方位ラインと修験道
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010803M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010803_2M.png

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&amp;item_id=30386&amp;item_no=1&amp;attribute_id=19&amp;file_no=1



10253国家元首:2020/02/15(土) 00:53:28
カモ
上賀茂神社HP
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kamigamojinja.jp%2F

「・・・賀茂別雷神社は、通称「上賀茂神社」「上社」の名で親しまれる神社です。御祭神は賀茂別雷大神。」


下鴨神社HP
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.shimogamo-jinja.or.jp%2F

「・・・鴨川の下流にまつられているお社というところから「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがもじんじゃ)」と親しくよばれています。・・・

ご祭神
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと) 西殿
玉依媛命(たまよりひめのみこと) ??東殿

・・・」


ウィキペディア「賀茂建角身命」

「・・・『新撰姓氏録』によれば、賀茂建角身命は神魂命(かみむすびのみこと)の孫である。神武東征の際、高木神・天照大神の命を受けて日向の曾の峰に天降り、大和の葛木山に至り、八咫烏に化身して神武天皇を先導し、金鵄として勝利に貢献した。・・・

賀茂建角身命には建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)と建玉依比売命(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)の2柱の御子神がいる。建玉依比古命は後に賀茂県主となる。建玉依比売命は、丹塗矢に化身した火雷神(ほのいかづちのかみ)を床の近くに置いていたところ、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと、上賀茂神社の祭神)を懐妊し出産したとされる。 ・・・」




10254管理人:2020/02/15(土) 00:56:32
中国文明、縄文、朝鮮考古
ちょっと調べものをしていて興味をひいた動画をお知らせします。参考まで。

《中??秘》 中原?古 大河村?址博物? 凝聚仰韶文化灵魂
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3De_ttWBrv13A

彩陶,仰韶文化,河姆渡文化
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3Df8yTVHPsPhc

ところ遺跡の館 縄文時代の解説
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DPD8EEztmq5s

常呂遺跡の館 旧石器時代の解説
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DeHMhdj3u62I

【国宝は語る】(9)甲骨文字
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DrXP2xkYGNu0

世界??在中国 E31 河南殷墟
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DP90CXQIlqwY

(3)Jomon Letters = Quipe Theory 縄文文字=キープ(結縄文字)byはやし浩司Hiroshi Hayashi, Japan
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D4iNB4KcA0Sc

神秘の古代王国伽耶
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DAevyvZtR7ow

知られざる文明、滇(てん)王国
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DrtNaycM308U

全国邪馬台国連絡協議会 第5回 全国大会 (2日目)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DrNx4WuwiFNs%26list%3DPL1whCoQaFL1Z0I1KUV2AUVNfGTnciBYwP

10255管理人:2020/02/15(土) 02:56:54
賀茂氏、光秀=天海説
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010806M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010806_2M.png

https://www.youtube.com/watch?v=0uQ0PSdShXg



10256管理人:2020/02/16(日) 02:12:44
秀吉と賀茂氏
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010807M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/豊臣秀吉#cite_ref-18



10257fourfours:2020/02/16(日) 23:32:43
データ提供ありがとうございます
上代日本語の語彙一覧を提供してくださり、誠にありがとうございました。
「占」が、中央方言では「ura」、東国方言では「mura」となっています。

このデータではサンプルが少ないですが、中方方言と東国方言で「頭子音mの有無」の違いがみられる単語がある程度存在するのではないかと予想しています。原因として、「まれに起こる音韻変化がおこった」または「聞き取る人がそれぞれ異なった解釈をした」のでしょう。
もしこの「まれに起こる違い」が世界に普遍的な音韻変化であると立証されれば、ツングース系言語満州語"muke"(水)、モンゴル系言語"us"(水)は、もとは同じ単語の可能性があるかもしれません。
ツングース系言語でke/geとなっている言葉でモンゴル系言語でse/ze/?e/?e/?e/?e/tse/dzeになっている単語は複数存在する(満州語eigen(夫)⇔モンゴル語ezen(ぬし)など)で、"us"と"muke"も対応するかもしれません。


モンゴル民族はインド=ヨーロッパ民族やテュルク民族の影響を受けて遊牧化したと考えられていますが、そこで言葉の認識方法が大きく変わった可能性もありますね。
モンゴル系言語を深く研究することは、そのような認識方法をどう変わったか把握するのに役立つ可能性がありますね。

10258管理人:2020/02/17(月) 00:48:19
秀吉ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010809M.png

fourfoursさん、こちらもお役に立てたようでうれしいです。
また、後日、アイヌ語と日本語祖語、印欧祖語についての本も借りてきたので、いくらかサンプルお知らせできると思います。しばしお待ちください。

また昨晩の秀吉の出自について考えているのですが、昨晩紹介した秀吉の出自伝承に関連する地名を結んだものが図1となります。

昨晩の一宮市の加茂、中村区の鴨付、水野氏のいた常滑城、安土城を結ぶラインに加えて、伊勢国の木下氏の伊勢国鈴鹿郡木下邑、遠江国の木下氏に関連する天野景泰文書、手負人数に「木下藤三、木下虎景」とあるその天野氏の居城の秋葉城、そして、その天野氏の出身地である伊豆の国市を結んだのが図1です。

こうみると、秋葉城⇔岡崎城の東西ラインがあります。岡崎城は加茂郡ですから、やはり秋葉城も賀茂氏との兼ね合いが予想しうるでしょう。

秀吉が木下氏を名乗っていたことと、中村区にいたことの背景には、おそらくは親族の秋葉城にいた木下氏とのつながりで、意図的に秀吉の祖先が中村区に移住していったことに関係するのではないでしょうか。

そこにはもちろん賀茂氏の特殊技能者集団との関わりがあったろうと感じます。

その特殊技能なしで、秀吉や家康、光秀の高度で戦略的な動きはありえなかったのではないでしょうか。

その辺を見込んで彼らを取り込んでいった信長という男も驚くべき人物だったような気がしますが、あるいはまたその信長のカリスマ性を見込んで近づいていった集団がいたのかもしれませんね。



10259管理人:2020/02/18(火) 23:37:03
日本祖語と印欧祖語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010810M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010810_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010810_3M.jpg

先日お話した日本語祖語やアイヌ語と印欧祖語との関係について、以前も紹介した鳴海 日出志 『日本祖語とインド・ヨーロッパ祖語―共通語根を探る 』から、先日話題にありました占(ura),(mura)に関する項目についての記載を引用したものが図1となります。

ここで注目すべきは、村(mura) 群れ(mure)万葉集の群立(uradatu) ⇔ 印欧祖語のflock??(群れ) のへ変換でしょうか。

mur<pur/pul>pleuk と整理されてますね。

図2、3はそれに続くm行の単語についてですが、こうみると鳴海氏は、日本語祖語:m⇔P:印欧祖語の語音変換を予想しているようにも見えます。

なぜそうなるのかはわかりませんが、語音変換には法則性があるとのことなのでしょう。

ぜひ、この本も参考にしてみてください。



10260鳩摩羅童子:2020/02/20(木) 11:09:39
Re 日本祖語と印欧祖語
https://shimakotoba-navi.jp/use/speak/

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10261秦野北斗:2020/02/20(木) 14:18:05
[10811] Re 日本祖語と印欧祖語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010812M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=QYi8jGJ7e08

http://



10262鳩摩羅童子:2020/02/20(木) 20:12:45
「こめかみ」の語源 from インド弁
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/2005-tusker-musth-crop_convert_20160305114608.jpg

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10263管理人:2020/02/21(金) 00:06:09
シュメール文字と甲骨文字
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010814M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010814_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010814_3M.jpg

https://www.amazon.co.jp/世界最古の文字-シュメール語入門-飯島-紀/dp/4812101271/ref=sr_1_22?qid=1582210597&s=books&sr=1-22



10264管理人:2020/02/21(金) 03:26:32
古代アメリカ文明方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010815M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010815_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010815_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/テオティワカン



10265鳩摩羅童子:2020/02/21(金) 16:51:11
Re[10814] シュメール文字と甲骨文字
>なるほど、「p-m」で検索すると、興味深い対応が複数でてきますね。

>日本語祖語の動詞のm(ム)が、インド語ではp(プ)に対応するとのことでしょうか。

→ 伝言ゲームの途中で、p が m に化けたのです。 空耳アワーの連鎖で、
子音は化けるのです。


一番有名なのは、「グリムの法則」という、グリム童話の作者のグリム兄弟が見つけた音通則です。

濁音化、破裂音化、強意化、等で、別の音に「空耳アワー」します。
伝達途中で、音感がオカシイ民族がいたら、なおさらです。


例えば、 m が n に化けるの(鼻音化)と、 k が g に化ける(濁音化)のは、
p が m に化けるのと、大差無いです。

m を濁音化 「 ム゛」の発音がどうなるか、脳内想像してみて下さい。v に近いかも。

「赤(あか)」は、強調すると「真っ赤(まっか)」に化け、子音の m が付与されます。
honest ホネストは、 h??がサイレント化し、 オネスト に化けます。
Henry ヘンリー、は、仏(フランス)読みは、 「アンリ」 です。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10266管理人:2020/02/21(金) 21:26:33
700年周期の惑星発見
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010817M.png

https://sorae.info/030201/2016_07_12_2015.html



10267管理人:2020/02/22(土) 01:31:11
弥生人と南インド
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010818M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010818_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010818_3M.jpg

https://www.amazon.co.jp/弥生文明と南インド-大野-晋/dp/4000023233



10268鳩摩羅童子:2020/02/22(土) 13:13:27
「こめかみ」の語源 のつづき
https://ja.wikipedia.org/wiki/こめかみ

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10269管理人:2020/02/23(日) 01:26:59
海のシルクロード
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010820M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010820_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010820_3M.jpg

http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/Kyushu2a.htm



10270鳩摩羅童子:2020/02/23(日) 05:18:18
タミル・ナードゥ州 の件 in [10818]
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/240px-Karthigai_Deepam.jpg

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10271アストライアの会:2020/02/23(日) 15:00:56
(無題)
タイムカプセルから現れた美しい人たち
 日本考古学史上の一大発見として世間の耳目を集めた高松塚古墳の玄室壁画、とりわけ
西壁の鮮やかな色彩の女子群像は、額田(ぬかだ)の王(おおきみ)もかくやと思われる鮮やかさで、後に「飛鳥
美人」の呼称で親しまれることとなる。
しかし保存の不行き届きにより、やがて絵に黒カビが生じ、一部では剥落が始まっていた。
この知らせを受けた関係者たちの顔色がみるみる土色(つちいろ)に変り、部屋の空気が重苦しく沈ん
でゆくのを、当時居合わせた講師は目撃しているという。墓を暴いた祟りで次々と人が亡く
なって行ったという風説とともに、この文化遺産に暗い影を投げ掛け、修復の見通しは未だ
公表されていない。

それはそれとして、この古墳はいわゆる古墳時代の末期に作られた円墳で、時代的には紀元700年前後の飛鳥時代の終わり、奈良に都が出来る前の藤原京を中心に白鳳文化が栄えていた。大宝律令が完成し、歌人の柿本人麻呂などが活躍した頃でもある。墓は何のために
作られ、どんな願望が秘められてていたのか、再考して行きたい。

「世界古代文明の謎を探る」(41)高松塚古墳とその時代
主 催 アストライアの会  協 力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 谷口陽子筑波大学准教授
日 時 令和2年3月27日(金)午後2時から5時
会 場 豊島区イケビズ第2会議室(池袋駅西口約9分)
費 用 お茶代込み参加費二千円
連絡先 TEL049(258)3218 松原まで



10272国家元首:2020/02/23(日) 19:10:06
日本と古代インド
顔つきとか雰囲気だけで言うと、千葉県・茨城県の一部に、インド人ぽい人たちがいます。政治家とか、活躍している人が多い感じがします。

インド人の源流の一つに、千葉・茨城県人がいると考えるべきなのか、千葉・茨城県人の中に古代インドの一部が流れ込んだのか。

石原慎太郎は、自分の父はインド人みたいで、母は中国人みたいだったと言っています。そういえば、子供たちには、濃い顔をした人たちがいますね。

ちなみに、慎太郎の母親は、中国人だったという説があります。裕次郎と母親が違うというのですね。

10273管理人:2020/02/24(月) 00:52:10
九州支石墓方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010824M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010824_2M.png

http://www5a.biglobe.ne.jp/~mt2000/Kyushu2a.htm



10274秦野北斗:2020/02/24(月) 10:53:19
【出雲弁】からさでさん
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010825M.jpg

https://chashi-uniwa.com/blog/2017/12/21/【基礎知識】天津神と国津神の違い。/



10275鳩摩羅童子:2020/02/25(火) 03:03:55
沖縄弁語彙は、インド弁語彙の完全部分集合
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/oki.gif

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10276管理人:2020/02/26(水) 00:09:59
朝鮮支石墓方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010827M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010827_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010827_3M.png

https://map.konest.com/



10277 史実探偵: 平 素人:2020/02/27(木) 01:13:12
[402] 大量の銅鐸銅剣、地名繋がり!
https://8023.teacup.com/shimoeda/bbs

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-0.html



10278管理人:2020/02/27(木) 01:37:42
朝鮮方位ライン02
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010829M.png

また昨晩の続きで、朝鮮の支石墓群の方位ラインについて考えているのですが、昨晩紹介したものとは別に図1のようなラインも別に見えてきます。

ここでは、まず起点となる下通理五流川支石墓⇔大洞徳山里支石墓の南北ライン、下通理五流川支石墓⇔駕鶴洞支石墓⇔八道山支石墓群⇔新基支石墓へと延びる50度偏角のラインがあります。

また同じく下通理五流川支石墓⇔康津松江里支石墓⇔邑里支石墓⇔済州島記念物2号支石墓へと延びる5度偏角のラインがあります。

そして、その済州島記念物2号支石墓⇔鶴山里支石墓⇔茂渓里支石墓⇔新基支石墓⇔倉平洞支石墓群へと延びる50度偏角のラインがみえます。

さらに、その倉平洞支石墓群⇔近南面守山里支石墓群を結ぶ南北ライン、そして、その近南面守山里支石墓群⇔下通理五流川支石墓ラインが20度偏角となります。

図のように、これらの拠点は方格メッシュ(黒ライン)上に載ることから、正確な距離尺の下で、上記の5度、10度偏角単位で測量をしていたことは、先日からお知らせしている支石墓のラインと同様です。

あと、九州の支石墓ラインとの接続については、また後刻別途お知らせいたします。



10279管理人:2020/02/27(木) 02:12:14
九州・朝鮮支石墓方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010830M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010830_2M.png

https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/files/public/4/40627/20171010171851736889/cheonghak8_202.pdf



10280管理人:2020/02/28(金) 01:41:55
朝鮮支石墓方位ライン03
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010831M.png

追記;20/03/02 また添付図に支石墓とラインを追加し文面も追加修正しました。これで概ねの韓国の支石墓群はこのライン上に掲載したことになります。

ちなみに、図の方格メッシュ(黒線)の1区画が約36.5km前後なので、これがそのまま当時の尺単位となっていたことがわかります。元は36.5m×千里の尺度になるでしょうか。36.5m×2≒73m尺でいわゆる短里=75m説に近くなるでしょう。後代の朝鮮や九州の弥生遺跡を結ぶ52.5m×千里の超短里(秦野さんご指摘の秦野距離)とは異なりますね。

追記:20/02/29、昨晩の添付図と文明の一部を追加・訂正しました。
−−−−

また昨晩の続きで、朝鮮の支石墓を結ぶ方位ラインを作成しています。

今回は、また先日の朝鮮支石墓方位ラインに、あらたに複数の支石墓群を入れてライン図を作成してみました。添付の図1のとおりです。

こうみると、以前弥生時代の九州の遺跡を結んだ際にみえたような四角形の方格区割が複数見えてきます。

具体的には図のように、江華支石墓群⇔大洞徳山里支石墓⇔海南蓮井里支石墓群へと延びる西端の南北ラインがあり、また東端には倉平洞支石墓群⇔近南面守山里支石墓群の南北ラインがあります。

そして、江華島支石墓群⇔洪川君業里支石墓群の東西ラインや高敞支石墓群⇔丹月里支石墓群⇔昌寧支石墓群の東西ラインあたりも、それらの方格区割の四角形を構成しています。

また目立つラインとしては、江華島支石墓群⇔駕鶴洞支石墓⇔八達山支石墓群⇔清道凡谷里支石墓群⇔新基里支石墓群へと延びる50度偏角のラインがあり、さらに江華支石墓群⇔扶安亀岩里支石墓群⇔康津松江里支石墓⇔莞島古今島支石墓群⇔邑里支石墓⇔済州島記念物2号支石墓へと延びる西5度偏角のライン、済州島記念物2号支石墓⇔広里支石墓⇔新基支石墓⇔倉平洞支石墓群へと延びる50度偏角のラインがあります。

その他、康津松江里支石墓⇔鳳西里・求礼竹麻里支石墓群⇔近南面守山里支石墓群へと延びる50度ライン、高敞支石墓群⇔鳳西里支石墓群⇔新碧洞支石墓⇔鶴林里支石墓⇔広里支石墓を結ぶ20度偏角のライン、大洞徳山里支石墓⇔鳳西里支石墓群⇔新基里支石墓を結ぶ10度偏角のライン、海南蓮井里支石墓群⇔康津松江里支石墓⇔高興桃原里支石墓⇔広里支石墓を結ぶ10度偏角のライン、扶安亀岩里支石墓群⇔昌寧支石墓群⇔新基支石墓を結ぶ10度偏角のライン、清道凡谷里支石墓群⇔早洞里支石墓群⇔鉄原郡の支石墓を結ぶ60度偏角のライン、康津松江里支石墓⇔和順碧松里支石墓⇔丹月里支石墓群⇔如意谷支石墓群⇔早洞里支石墓群への70度偏角ライン、八道山支石墓群⇔孟里支石墓群⇔早洞里支石墓群への20度偏角ラインなどにも注目すべきでしょう。

そして図の方格メッシュ(黒線)上に支石墓群および方位ラインの多くが載ることからみても、その距離・位置どもに正確な尺度のもとで、10度偏角単位で測量されていったことがわかります。

あと、さらに沢山の支石墓群があるので、それも考慮していく必要があるのですが、ともあれ、大まかな朝鮮の支石墓の方位ラインの構造はこれで明らかになったと思います。

年代的には日本でいけば支石墓の現れる縄文時代晩期から弥生時代初期、中国ならば戦国時代の構築となりそうですが、朝鮮半島でいえば、その紀元前500年代となると、北部の箕子朝鮮や燕、あるいはその南にあったとされる真番や馬韓の影響下にあったことが予想されますね。

そして、先日お話したように、インド南部から中国華南、東南アジアを経て、朝鮮南西部から、これらの支石墓や甕棺墓を構築した集団が、九州含めて朝鮮周辺に渡来したと考える場合、この朝鮮の支石墓の分布の特徴として挙げうることとしては、済州島や江華島など、島地や海岸沿いに支石墓をしていることでしょう。

これは、同じ朝鮮の方位ラインでも、その前代の夏・殷代に関係するそれや、後代の漢代のそれとも異なり、海洋民的な特徴を備えた立地といえるでしょう。

この件は先日の九州の長崎、島原、糸島半島といった海岸沿いの支石墓群を結ぶ方位ラインにもみられる特徴です。

ここから、航海民の交易拠点としての位置づけがこれらのライン分析から明らかにしうるのではないかと感じますね。

その航海民としての特性が、また言語面や習俗にも関連してみえてくると面白いのですが、また皆さんのほうで、何か気づくことありましたら、よろしくわかちあいください。




10281管理人:2020/03/30(月) 03:23:05
東アジア支石墓方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010832M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010832_2M.png

https://baike.baidu.com/item/石棚墓



10282管理人:2020/03/04(水) 01:57:16
中国の支石墓と倭人
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010833M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010833_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010833_3M.png

https://baike.baidu.com/item/棋?山/18183009



10283鳩摩羅童子:2020/03/04(水) 03:23:50
Re [10833]
>奄美群島のハジチ
>奄美・琉球では「ハジチ(針突・ハドゥチ・パリツク・ピッツギ)」と呼ばれる入れ墨文化があった。

沖縄弁の検証
【タミル語】paccai(= 1. green colour 緑色; greenness; 2. emerald; 3. pulse or cereals; 4. betel leaf; 5. seaside Indian saltwort; 6. a fragrant grass; 7. ★tattoo 入れ墨;) ハジチ

【タミル語】paccaippoTTu (= 01 a round mark ★tattooed on the forehead おでこの入れ墨) ハドゥチ (c-t)

【タミル語】poTTukkuttu-tal(= to ★tattoo with a kind of vegetable extract 野菜の汁で入れ墨をする) ピッツギつ

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10284国家元首:2020/03/04(水) 21:48:52
支石墓
支石墓(読み)しせきぼ (ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

「朝鮮半島を中心として,中国東北地区から日本の北九州地方にまで広がる巨石墓の一種。ドルメンと共通する要素が多い。扁平な4枚の板石を地上に立てて四角に組み,その上に大きなふた石を載せた卓子式 (北方式) 支石墓と,地下に石棺や石室をもち,数個の支石の上に塊石を載せる碁盤式 (南方式あるいは変形) 支石墓がある。前数世紀頃から紀元前後頃までの初期金属器時代のものである。日本では弥生時代の前・中期に行われ,その分布は北九州が中心となっている。」


まあ、誰しも思いつく形ですから、民族の分布や移動を考える場合のヒントにはなりにくいものだと思いますね。

世界のあちこちに、似たようなものがあるようですし。

しかし、日本では北九州を中心に分布している、というのは、民族的な背景がありそうですね。


10285管理人:2020/03/05(木) 00:13:34
支石墓の種類とルーツ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010836M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010836_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010836_3M.jpg

http://inoues.net/ruins/sito_sisekibo.html



10286国家元首:2020/03/05(木) 22:13:44
誰が作っても同じようになる。
支石墓のアイデアは平凡で必然的。大きな石を立てて、大きな石を載せたら、自然にああなる。

どこの誰でも思いつきうるし、同じような構造になる。

広域・長時間の範囲における、支石墓の種類と分布に関しては、とくに重要な意味はないと思う。


エチオピアにゲタと(コーヒー)茶道があると聞いたことがあるが、

それも日本のゲタと茶道と関係があると、必ずしも考える必要はない。

ゲタについては、あるいは何か関係があるかもしれないが。

両国とも「失われたアークがあるのではないか」という話があるし。

10287管理人:2020/03/07(土) 02:28:08
アジア支石墓ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010838M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010838_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010838_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/サータヴァーハナ朝



10288三国志マニア:2020/03/07(土) 18:26:46
近畿説は破綻だな
 今年に入り、あるブログで近畿説を徹底批判していたので読んでみたが、その中で紹介されてた中島 信文 著「陳寿『三国志』が語る 知られざる 驚異の古代日本」を読んでみたが、これが文献学的にすごい。ブログ者も述べているが、近畿説はこの作品に対して反論できないであろうし、近畿説を主張するなら、この本を否定できる論証を出すべきと言ってるくらいだ。
 邪馬台国所在論議をする人間は、この本を読んで検証すべきだね。近畿説は完全に破綻だよ。

10289秦野北斗:2020/03/07(土) 19:25:43
[10839] 近畿説は破綻だな
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010840M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=dhHFr26Vp5g



10290鳩摩羅童子:2020/03/08(日) 22:27:47
『沖縄弁は、言語での東洋のガラパゴス』と教科書に載せよう
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_O.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10291鳩摩羅童子:2020/03/08(日) 23:58:09
『沖縄弁は、言語での東洋のガラパゴス』と教科書に載せよう
http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_O.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10292管理人:2020/03/10(火) 00:58:45
韓国古墳方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010844M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010844_2M.png

https://translate.weblio.jp/web/korean?lp=&amp;url=https://www.google.co.kr/search?source=hp&amp;ei=_ERmXu3IIfKEr7wP8YGSuAI&amp;q=%EA%B3%A0%EB%B6%84&amp;oq=%EA%B3%A0%EB%B6%84&amp;gs_l=psy-ab.3..0j0i30l7.828651.828651..829641...1.0..0.154.297.0j2......0....2j1..gws-wiz.....6..0i362i308i154i357.N2QHWNB91gE&amp;ved=0ahUKEwjttpqRwI3oAhVywosBHfGABCcQ4dUDCAg&amp;uact=5&amp;rdt=tl&amp;sentenceStyle=spoken



10293秦野北斗:2020/03/13(金) 16:29:38
美人≠きれいな Beautiful woman
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010845M.jpg

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10294鳩摩羅童子:2020/03/13(金) 19:22:31
RE 美人≠きれいな Beautiful woman
https://ja.wikipedia.org/wiki/首里

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10295管理人:2020/03/14(土) 19:25:50
九州神籠石・支石墓ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010847M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010847_2M.png

秦野さん、童子さん、わかちあいありがとうございます。
美人王族といえばやはり・・・卑弥呼でしょうね・・・、沖縄とも関係するか・・。

先日の九州の支石墓を結ぶ方位ラインと、同じく以前分析した九州の神籠石を結ぶ方位ラインとの関係を図にしてみました。図1のとおりです。図2はその拡大図です。

まず、先日の分析でも指摘したように、大野台支石墓群、桑田遺跡、志登支石墓群あたりの縄文晩期から弥生初期の支石墓群がラインの起点となります。

その大野台支石墓群⇔風観岳支石墓群⇔桑田遺跡ライン、同じく大野台支石墓群⇔菜畑遺跡⇔志登支石墓群ラインも、先日指摘したとおりで、その菜畑遺跡、桑田遺跡からは、ジャポニカ米のプラントオパールが出土しています。

そして、図のように大野台支石墓群⇔高良山(神籠石)⇔玖珠方面にいたる東西ラインがあり、また志登支石墓群⇔高良山(神籠石)⇔国見山⇔阿蘇山(高岳?)に至る45度偏角のラインがあります。

ここで、図のように、この国見山と阿蘇山(高岳もしくは中岳)あたりがこの当時の測量の目印となっていたことがわかります。

すなわち、国見山を起点とするものとしては、桑田遺跡⇔国見山⇔把木神籠石へと至る南北ライン、原山支石墓群⇔国見山⇔玖珠付近へと至る40度偏角のライン、国見山⇔女山神籠石⇔大野台支石墓群への10度偏角のライン、国見山⇔高良神社の東西ライン等があり、また阿蘇山を起点としたものとしては、阿蘇山⇔風観岳支石墓群の東西ライン、阿蘇山⇔おつぼ山神籠石⇔大野台支石墓群への20度偏角のライン、阿蘇山⇔玖珠周辺への南北ライン等があります。

なお、図の方格(黒線)を見てもわかるように、他の多くの拠点がその方格上に載ることに比して、阿蘇山の位置は、その方格上には載っておらず、これは自然地形を測量起点とした際に、その尺度・位置を変更できないことによるものです。

この図をみるかぎり、最初の測量起点は最西の大野台支石墓群、あるいは最南の桑田遺跡であり、また阿蘇山⇔国見⇔高良山神籠石⇔志登支石墓群の45度ラインをもとにして、その他の周辺拠点の位置を定めたのではないでしょうか。

あと、志登支石墓群を起点としたものとしては、新町支石墓群⇔志登支石墓群⇔板付遺跡北部⇔宇美神社周辺へと至る東西ライン、また志登支石墓群⇔金立支石墓群⇔桑田遺跡へと至る70度偏角のライン、志登支石墓群⇔吉野ヶ里遺跡北部(北墳丘墓付近)⇔女山神籠石へと延びる60度偏角のライン、志登支石墓群⇔原山支石墓への南北ライン等があり、ここも二次的な測量起点だったことがわかります。

その他、菜畑遺跡⇔おつぼ山神籠石周辺⇔原山支石墓群への75度偏角のライン、菜畑遺跡⇔国見山への25度偏角のライン、大野台支石墓群⇔金立支石墓群⇔吉野ヶ里遺跡最北辺⇔把木神籠石へのライン、新町支石墓群⇔おつぼ山神籠石付近⇔風観岳支石墓群へと至る10度偏角のラインなども見えてきます。

ただ、把木神籠石やおつぼ山神籠石の位置などが方位ラインから若干のずれがあり、これが山城としての性格を保つために、海岸部や平地を避けた結果だと考えれば理解しやすくなります。

関連して以前会報でも指摘した宇美神社⇔大野城(大城山)⇔基肄城(基山)⇔女山神籠石への南北ラインについては、それぞれ魏志倭人伝の不彌国⇔烏奴国⇔支惟国⇔(不彌国の南の)邪馬台国方面へと至る諸国であることは、先日も述べたとおりです。

そして、これらの支石墓群や神籠石、弥生遺跡が、その倭人伝の諸国の中心拠点であったことは間違いないでしょう。

また先の測量拠点としてみえてくる国見山については、全国各地にある国見山が国を見渡す場所とのことで支配や測量地点を意味することがあり、その件は先日お話した奈良の秋津にある国見山と天香久山、三輪山を結ぶ方位ラインの件からもうかがえます。

阿蘇山と同様に、この国見山、あるいはその両者の延長線上にある高良山あたりが起点となっていることも、その支配・測量拠点としての意味合いが強かったことを示しますが、高良山の場合は特に神籠石という形で石列が残っており、その石造加工技術が、また支石墓のそれとも関係し、元はインド中南部の支石墓文化にあった可能性も考慮すべきでしょう。

少なくとも、上記のように5度、10度偏角単位での測量は、先日お知らせした中国、朝鮮の支石墓群を結ぶ方位ラインと同類であり、その技術系譜をこの弥生人が継承していることはあきらかです。

そして、そのインドの場合は当時すでに高度な鉄製道具による石材加工技術があり、これらの石材加工技術が、中国華南を経て、南西諸島経由で、九州に至ったと考えるならば、そのルート沿いにも同様な石造物が残っていることも考えうることです。

特に沖縄のグスク群については、高度な石材加工技術が見られており、その起源は弥生時代まで遡るのではないかともいわれているとおりです。

そして華南やインドにも同様な石造物や石材加工技術の系譜がたどれるならば、ここまで明らかにしてきた支石墓や甕棺、タミル語に類似する語彙を日本にもたらした集団がいたことの傍証となるかもしれない点で重要です。

さらに言えば、邪馬台国についても、弥生時代がはじまった当初からあったその支配に相応しい神聖な場にある拠点を、その図のライン上から導きだすことによって、明らかにしうるのかもしれません。高良山、女山の位置とその神籠石の存在は、それに適う場であるように感じます。



10296秦野北斗:2020/03/15(日) 21:16:56
首里(しゅり、沖縄方言: シュイ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010848_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/首里



10297管理人:2020/03/16(月) 14:26:48
新銅鐸方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010850M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010850_2M.png

http://japantemple.com/2017/03/28/post-2321/



10298管理人:2020/03/17(火) 22:35:08
元伊勢方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010851M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010851_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010851_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/元伊勢



10299fourfours:2020/03/21(土) 18:30:23
「群れ」と*pleukの対応について
金平さんのブログから引用します。
mとpが対応する語が存在するのは、以下???のようなカラクリがあるのでしょう。
?「固さ」を表す語が「集まり」を意味するようになる語になることの説明
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2F1988759.html

?「氷」を表す語が「固さ」を意味するようになる語になることの説明
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2F14818949.html

?「群れ」(もしかして*pleukも?)の元々の言葉の詳細についての説明
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.jojikanehira.com%2Farchives%2F10052106.html


また、私は言語学を専攻しているわけではありませんが、日本語の起源解明のためには、以下の6項目を念頭に入れることが、早期解決のための必要十分条件でしょうね。そのように感じます。

i) 比較言語学の拡張をすること
ii) 予想できないような音韻対応を発見すること
iii) 日本語とアルタイ諸語を過度に結び付けないこと
(起源が複数存在する可能性を捨てないこと)
iv) 琉球語も視野に入れ、再構を試みること
v) アイヌ語・朝鮮語・ニヴフ語などの周囲言語の再構も試してみること
vi) 日本語が完全に孤立言語である可能性を捨てないこと

10300fourfours:2020/03/21(土) 22:11:04
「涙」を意味する言葉の様子
閑話休題、「涙」を意味する言葉についてです。

「水」を表す語が「水」以外の液体を表すことはあると思いますが、「涙」を表す語は「目」と「水」を組み合わせて作るケースが多いですよね。

例えば東アジア・東南アジアの言語では、
・朝鮮語 nunmul(nun「目」+mul「水」)
・インドネシア語 air mata(air「水」+mata「目」)
・チベット語 mig chu(mig「目」+chu「水」)

と組み合わせています。

なので、モンゴル語もひょっとして
「目」と「水」の組み合わせではないのかと考えるようになりました。
現代のモンゴル語で「涙」は"nulims"です。(古形は"*nilbusunと推測されることが多いようです)
また、「目」は"nud"、「水」は"us"です。「目」と「水」の組み合わせだとしたら、"nulims"の前半部分"nu~"の部分が「目」でありそうです。では、"ms"の部分は何なのでしょうか。特に"m"の部分は、格助詞ではなさそうであり、「水」が"ms"に対応しそうです。

もしこれが正しければ、元来、モンゴル語の「水」は唇音(上唇と下唇を使って作る音)が初めに来たのかもしれませんね。

現在、契丹語は言語学者によって再構の途中ですが、契丹語の「涙」が解明すると、モンゴル祖語がどのような語であったか解明でくるでしょう。
ツングース祖語にも結びつけられるのかもしれません。

10301秦野北斗:2020/03/22(日) 00:32:29
[10854] 「涙」を意味する言葉の様子
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010855M.jpg

https://www.google.com/search?q=閑話休題&rlz=1C1ASRM_us-enJP559JP586&oq=閑話休題&aqs=chrome..69i57.1450j0j8&sourceid=chrome&ie=UTF-8



10302鳩摩羅童子:2020/03/22(日) 05:44:13
re 10855「涙」を意味する言葉の様子
>「泪」は千利休の後悔「なみだ」の意味でしょうな。

>文脈から後悔になれば、正解ですな。

千利休の茶杓の名の「なみだ」は、「後悔」の象徴なのですか?。  --- 知りませんでした。

インド弁で 「後悔」 を確認しました。
【サンスクリット語】manastApa (= m. `" burning of the mind "' , mental pain 精神的痛み, anguish 〔精神的・肉体的な激しい〕苦痛、苦悶、苦悩, ★repentance 後悔 MBh.) なみだパ
【タミル語】man2astApam(= 1. grief 悲しみ, heart-burning 焦燥; 2. displeasure, aversion; 3. being illdisposed, being on unfriendly terms; 4. ★repentance) なみだーの
【サンスクリット語】kaukRtya(= n. (fr. %{ku-kRta} , or %{-kRtya}) , evil doing , wickedness L. ; ★repentance L.) ぐ ぐやしー (R-y)

■涙(なみだ)とインド弁
【宮城弁】べんぞ(= (泣き)べそ。)
【賛】 bASpa (= m. (sgl.) ★tears 涙(なみだ), vapour.) べんぞ
【賛】 bASpakaNTha (= f. {I} choking with tears (lit. having ★tears in the throat) 涙で喉が詰まった.) べそかいた
-なみだ 系-
【賛】 nirmath  (= or %{manth} P. A1. %{-manthati} , %{-te} RV. ; %{-mathati} , %{-te} MBh. ; %{-mathnAti} Ka1t2h. (fut. %{-mathiSyati} ind. p. %{-mathya} MBh.) ; to grind (fire) out of (wood) , to produce (fire) by rubbing (wood together) , rub or churn anything out of anything (double acc.) RV. ; to stir or churn (the sea) MBh. ; to ★tear or draw or shake out of , extract MBh. ; to shake , agitate (the mind) MBh. ; to grind down , crush , destroy MBh. : Pass. %{-mathyate} (p. %{-yamAna}) , to be rubbed or churned &c.) なみた◎
【民】 nIrmuTTu-tal  (= 01 1. to be full to the the brim, as eyes with ★tears; 2. to make water) なみた ◎
【韓】 ヌン?ムル? 〇 --- 近い。

■世界
【アッカド語】nadû (nadā'u) (= v.; 1. to throw water or fire....3.to excreate, discharge saliva 唾, mucus 粘液, ★tears 涙, blood 血, feces 糞, semen 精子, vomit げろ, sweat 汗, ... 涙(なみだ)[涙が代表として、動詞が日本で名詞に化けた。 or 目+水(めみず→なみだ)である。]) なだ  △

もっと似ているのは、アフリカ。
file 11-300. 涙(なみた) - tears | mundi (=★tears) @Niger ナイジェリア/ Benin, manyochi (=★tears) @Tanzania タンザニア, nyembezi (=★tear, tears) @South Africa 南アフリカ (Zulu)
c. アフリカ・オンパレード でおます。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10303秦野北斗:2020/03/22(日) 08:02:04
[10856] re 10855「涙」を意味する言葉の様子
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010857M.jpg

https://sengoku-his.com/836



10304管理人:2020/03/23(月) 00:52:41
夔鳳鏡方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010859M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010859_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010859_3M.png

http://wi12000.starfree.jp/forGmap/html/kihou_kyou.html



10305管理人:2020/03/25(水) 01:43:31
楽浪・九州方位ラインと金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010860M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010860_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010860_3M.png

http://wi12000.starfree.jp/forGmap/html/kihou_kyou.html



10306秦野北斗:2020/03/26(木) 00:13:17
[10860] 楽浪・九州方位ラインと金銀錯嵌珠龍文鉄鏡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010861M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010861_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/楽浪国



10307管理人:2020/03/26(木) 02:21:59
高良山北の古墳状地形
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010862M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010862_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010862_3M.png

まず、昨晩の夔鳳鏡を出土した古墳を結ぶ方位ラインを一部修正しました。昨晩の投稿図を新しいものに入れ替えておいたので、ご確認ください。

訂正箇所としては、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を出土した日田ダンワラ古墳⇔(誤・楯築墳丘墓→正・七つぐろ古墳)⇔一之宮神社古墳となります。赤ラインでそのラインを示しておきました。

その七つぐろ古墳は銅製、一之宮神社古墳は鉄製の夔鳳鏡を出土しているので、日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が夔鳳鏡と一緒に取得(賜与)・分配されていたことが、このことから一層明らかにしうるでしょう。

そこで、また昨晩最後に触れた、夔鳳鏡を出土した十三塚遺跡と金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を出土した日田ダンワラ古墳(そばに巨大古墳状地形がある)を結ぶ方位ライン上にある高良山北部の古墳状地形について調べを進めていますが、この古墳状地形の位置は、昨晩もお話したように、十三塚遺跡とダンワラ古墳から2:3の位置にあること等から、測量拠点として設置されたことを考えますが、その古墳状地形の航空写真は図1のとなります。

また図2の上図はその古墳状地形の測量図と、この古墳状地形の東方に位置する弥生時代末期の高地性集落の白岩遺跡、さらに古墳時代前期の箸墓の測量図を比較したものです。

こうみると、白岩遺跡等にみられる左右不均等なバチ型の前方部(右か左に大きくバチが開く)や、初期の前方後円墳にみられる多角形状の後円部をこの古墳状地形が有していることがわかります。

また図2の下図はこの古墳状地形の断面図で、箸墓のそれと比較したものですが、こうみると箸墓と同様な後円部を持つように見えます。左右均等の円墳状であることは、その方格(黒線)をみていただくと理解できるでしょう。

その前方部は山の尾根を流用する初期の前方後円墳の形をしており、箸墓のそれとはことなりますが、ただその前方部の尾根の切れ目の位置が、図のように箸墓のサイズと同じ270m前後で切れ目があり、後円部の長さも同様にほぼ同じで120〜150mとみられること、そしてその高さも30〜40m前後であることも近似するように見受けられます。

したがって、後代の箸墓・纏向型の規格に沿っている可能性がありますが、先のように形状自体は高地性集落時代の不均等な形状をしていることからみて、この古墳状地形のほうが、定型化した後の纏向型前方後円墳より古いのではないでしょうか。

ライン面で接続する日田のダンワラ古墳の上にある巨大古墳状地形も同様な左右不均等な形状をしていることは、先日もお話したとおりです。

そして、魏の時代のものとされる金銀錯嵌珠龍文鉄鏡や、2世紀後半〜の夔鳳鏡がこのライン上の古墳から出土していることからみて、2世紀後半〜3世紀中葉までの間にこの古墳状地形が造営された可能性が高いでしょう。

さらにこのラインと平行関係にある与止日女神社⇔吉野ヶ里遺跡⇔安国寺甕棺墓群において、その与止日女神社に関わる豊姫を、女王・台与とみなせるならば、3世紀中葉あたりの造営と考えうるでしょう。その場合も箸墓よりは古く、夔鳳鏡を出土する桜井茶臼山あたりと同年代となるかもしれません。

あと図3のように、この古墳状地形は祇園山古墳⇔鷲尾岳(大社歴代宗主墓)⇔奥社(武内宿禰墓?)を結ぶ20度偏角の方位ラインと関連づけうることがあり、すなわち、祇園山古墳⇔古墳状地形ラインの偏角20度偏角となり、また鷲尾岳⇔古墳状地形の偏角が45度となります、図の方格(黒線)上の交点に位置してきますので、やはり意図的にこの角度・位置にこの古墳状地形の後円部が設置されたことが明らかになります。

すでに祇園山古墳はその60体にも及ぶ殉葬の痕跡から、侍女百人が殉葬されたと記載される卑弥呼の墓とも指摘されているところで、その祇園山と同様な方墳状の鷲尾岳(歴代宗主墓)、および武内宿禰墓ともされる奥社の古墳状地形も同時代のものであろうことは以前指摘したとおりです。

そこで、この3者(ライン)と、今回の北部の古墳状地形のどちらが古いのか?が問題となるのですが、鷲尾岳(歴代宗主墓)の真北に横隈山遺跡があり、そこに5世紀中ごろとされる帆立貝型の前方後円墳がありますがここは弥生遺跡ともされており、元は纏向型前方後円墳などのもっと古い時代の墳墓だったのではないでしょうか。

その2点間の距離が14055mとなり、×3=42165mとなるので、420mの漢尺を使っているように見えます。

尺度面から考えると、この鷲尾岳あたりに、弥生時代(前漢〜後漢)の方墳があり、次に同様な方墳として弥生時代末に祇園山古墳が造営され、その後の古墳時代初期(魏・晋)にこの古墳状地形が造営されたのではないでしょうか。その魏晋尺がこの古墳状地形設置に関して使用された件は昨晩お話したとおりです。

なお、祇園山古墳出土の後漢鏡とされる鋸歯文縁方格規矩鳥文鏡と同型鏡は、先の夔鳳鏡を出土した十三塚遺跡からも出ており、年代を決めるヒントとなりそうですが、またその辺のことについては、明日あたり考えてみましょう。




10308鳩摩羅童子:2020/03/27(金) 08:16:45
豊国(とよくに) = 邪馬台国(やまたいこく)。【サンスクリット語】vimudra
https://www.youtube.com/watch?v=nFL33uoIm54

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10309秦野北斗:2020/03/27(金) 12:04:21
[10863] 豊国(とよくに) = 邪馬台国(やまたいこく)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010864M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010864_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=nFL33uoIm54



10310管理人:2020/03/27(金) 15:03:37
朝鮮支石墓・神籠石ラインと邪馬台国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010865M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010865_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010865_3M.png

http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=28



10311秦野北斗:2020/03/30(月) 21:52:38
[10865] 朝鮮支石墓・神籠石ラインと邪馬台国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010866M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_05.html



10312鳩摩羅童子:2020/03/31(火) 16:50:06
re [10866] 豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?。
https://ameblo.jp/indiaindia-27/entry-11950704367.html

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10313秦野北斗:2020/03/31(火) 19:30:47
[10867] re [10866] 豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010868M.jpg

鳩摩羅童子さん、正解は、図添付で身近なんです。
おまけ、古事記に勾玉は水穗國に似せて、長の百が造ったとのこと。
現在、馬山は埋め立てされ、勾玉の輪郭だけですな、津(入り江)だったのですが・・・





10314鳩摩羅童子:2020/03/31(火) 21:37:46
re [10868] ・・豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?
https://ja.wikipedia.org/wiki/馬山市

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10315秦野北斗:2020/04/10(金) 00:00:32
[10869] re [10868] ・・豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010870M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=ItL8wF0vpD0



10316秦野北斗:2020/04/11(土) 04:44:04
高志之八俣遠呂智、毎年來喫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010871M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_03.html

http://



10317鳩摩羅童子:2020/04/11(土) 06:46:34
[10869] re [10868] ・・豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?
https://www.youtube.com/watch?v=LkWhxZN46c0&amp;feature=youtu.be

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10318鳩摩羅童子:2020/04/11(土) 07:27:06
鉾(hoko), 彦(hiko), 肥後(higo), 日向 (hyuga), 卑弥呼(himiko) の空耳アワーの件
福永晋三 は、奈良の大和三山は、豊国の英彦山(ひこさん)、がルーツ、で、奈良は copy だ
と言っている。

英彦山は、大昔は、単に、彦山(ひこさん)と呼ばれ、英彦山が有る田川(たがわ)は、鷹羽(たかは)
と呼ばれていた。鷹 hawk ホーク。 英彦山の3つの神様は、鷹、の関係者。

鹿児島 (kago-shima) も、hiko が kago に化けた ? 。

九州の名前は、何故、 hiko の関係者なのか?。 偶然とは思えません。

鉾 hoko の青銅器文化をもった渡来人が立てた国だから、hiko の名が入っている ?。

---- 誰か、教えて。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10319管理人:2020/04/12(日) 03:41:17
彦・日子
秦野さん、童子さん、面白そうな話をしてますね・・・!

彦については、卑狗が倭人伝に記されており、その分布が対馬・壱岐あたりにまで及んでいることが、朝鮮南部にまで及び可能性を示すように感じます。

馬韓に数多みえる卑彌(ヒミ)、卑難(ヒナ)のつく国名なども、どこかしら、卑弥呼とか、卑狗と関係しないでしょうか。

先日の契丹古伝を考慮すると、太陽信仰にちなむ日子の可能性が高くなりますね。日女。

そこに賀茂とか八咫の烏が関わってくる。

ご指摘の鷹も日鷹、日高と関係して、太陽信仰と関わらないでしょうか。

ある意味、そのご指摘のホークも、確かにヒクに近いのかな・・。日向もヒコウとなるのか・・。日高はどうかな?

やはり、日本語祖語を考え直す必要がありますね。また後日、日本語祖語と印欧祖語、アイヌ語との比較についての鳴海さんの本について、いくらか紹介します。

10320秦野北斗:2020/04/20(月) 01:23:55
[10872] [10869] re [10868] ・・豐葦原之千秋長五百秋之水穗國 は、どこ?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010875M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010875_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=LkWhxZN46c0&amp;feature=youtu.be



10321秦野北斗:2020/04/22(水) 01:31:04
[10873] 鉾(hoko), 彦(hiko), 肥後(higo), 日向 (hyuga), 卑弥呼(himiko) の空耳アワーの件
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010876M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010876_3M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_05.html

http://



10322管理人:2020/04/06(月) 00:01:40
キングダム
秦野さんへの答えになるかどうかわかりませんが、今晩の0時15分からキングダムとかいう以前ルーツさんが話してたアニメが放送されるようです・・・・。面白そう!


■あらすじ
紀元前、中国西方の秦国(しんこく)に、今は亡き親友と夢見た「天下の大将軍」を目指す若き千人将・信(しん)がいた。

かつて王都で起きたクーデターに巻き込まれ、現在の秦王・嬴政(しんおう・えいせい)と運命的に出会った信は、自身の夢をかなえ、嬴政が目指す「中華統一」をともに成し遂げるため戦場に身を置くことになる。戦地で散った師・王騎(おうき)の死を乗り越え、蒙恬(もうてん)や王賁(おうほん)ら同世代の隊長たちと切磋琢磨しながら、着実に夢への階段を上ってゆく信。 一方、嬴政もまた、壮大な目標に向け、相国・呂不韋(りょふい)から国の実権を奪い返すべく宮廷内での勢力拡大に力を注ぐ。

そんな中、軍事最重要拠点のひとつ山陽(さんよう)の攻略に成功した秦国は、これにより中華統一へ一歩近づくこととなった。だが、七国の勢力図を塗り替えかねないこの一手に危機感を抱く趙国(ちょうこく)の天才軍師・李牧(りぼく)は、楚国(そこく)の宰相・春申君(しゅんしんくん)を総大将に、楚、趙、魏(ぎ)、燕(えん)、韓(かん)、斉(せい)の六国による合従軍を興し秦国への侵攻を開始する!

未曾有の危機に、秦国は持てるすべての武力を結集して、合従軍を迎え撃つ!!

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww6.nhk.or.jp%2Fanime%2Ftopics%2Fdetail.html%3Fi%3D6317

10323秦野北斗:2020/04/06(月) 21:09:43
[10877] キングダム
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010878M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=9cz3HLwy11s



10324荊の紀氏:2020/04/07(火) 07:29:53
会報誌 注文の件
 会報第8号発行おめでとうございます。
荊の紀氏めに 1冊 ですが お分け下さい
送金先の口座もよろしくお願いいたします。


10325管理人:2020/04/07(火) 23:39:39
会報
さっそくキシさん、ご注文ありがとうございます。

とりあえず、送料含めて2000円となりますので、到着後お手数ですが、お振込みよろしくお願いします。2年分・625ページあるので分厚いです。

また、皆さんのほうでもご注文されたい方おりましたらお知らせください。

10326管理人:2020/04/08(水) 00:22:00
徐福と御嶽
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010881M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010881_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/御嶽_(沖縄)



10327秦野北斗:2020/04/08(水) 08:45:52
御嶽
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010882M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010882_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/御嶽



10328鳩摩羅童子:2020/04/09(木) 05:02:24
YouTube 『沖縄弁は、言語での東洋のガラパゴス』と教科書に載せよう
沖縄県の掲示板で、沖縄弁の単語と対応インド弁の単語を、毎日投稿していたら、
YouTube に投稿して欲しい、と言われまして、....。

そんなこと言われても、作るのは私なので、疲れます。
しかし、呼び水として、おもちゃのビデオを作りました。 スライド+音声合成ソフト、の合作※。

https://www.youtube.com/watch?v=33PUn3bAc-o

※ free のビデオ編集 tool にマトモのものが無く、 water mark というロゴを付けてくる。エゲツ無いったら、ありゃしない。
beecut の中国語?、や、 filmora とか。日本の free の toolは、AviUtl でロゴは付かないが、 spec. が古過ぎて動かない。どう見ても、技術立国日本とは言えない。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10329秦野北斗:2020/04/09(木) 11:40:06
[10883] YouTube 『沖縄弁は、言語での東洋のガラパゴス』と教科書に載せよう
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010884M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010884_2M.jpg

>沖縄県の掲示板で、沖縄弁の単語と対応インド弁の単語を、毎日投稿していたら、
YouTube に投稿して欲しい、と言われまして、....。

いいですね、沖縄、インド・・・伝説など、YouTubeに投稿しては、これは、誰にもまねはできない・・
現代語でお願いいたします。



10330管理人:2020/04/09(木) 23:28:56
YouTube
童子さんのユーチューブ拝見しました。頑張っておられますね!

最近は、コロナの件もあり、講演会なども中止となることが多く、YouTubeや生放送の需要が増えてきているようです。その辺の活用法についても、今年は考えてみたいですね。

10331秦野北斗:2020/04/11(土) 18:53:23
高千穂宮の住所が判明
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010886M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010886_2M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_07.html



10332管理人:2020/04/13(月) 15:50:18
古代科学史掲示板の新設
新年度になりましたので、少し研究会のほうも整理をしはじめようかと考えてますが、まず縄文・超古代史掲示板のほうを、あらたに古代科学史掲示板に名称を改めました。科学ネタについては、下記の古代科学史掲示板で論議しましょう!

古代史科学史掲示板
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8023.teacup.com%2Fshimoeda%2Fbbs%3F

また、こちらの歴史掲示板では、超古代史から近現代史まで、一般の歴史全般にわたって論議していただいて構いませんので、今後ともよろしくお願いします。


10333管理人:2020/04/18(土) 00:23:27
夷洲
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010888M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010888_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010888_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/衛温



10334秦野北斗:2020/04/18(土) 12:11:27
[10888] 夷洲
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010889M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010889_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010889_3M.jpg

http://www.chukai.ne.jp/~a-yamataikoku/entrance3.html



10335管理人:2020/04/21(火) 00:27:13
夷州の古代犬
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010890M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010890_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010890_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/犬食文化



10336秦野北斗:2020/04/22(水) 13:37:22
[10890] 夷州の古代犬
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010891M.jpg

https://kotobank.jp/word/?髪-1321947

http://



10337管理人:2020/04/24(金) 00:48:44
亶州
秦野さん、お返事ありがとうございます。

そう、その隋書というと、夷州の記載がありましたね。


「都斯麻國迥在 大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也 又經十餘國 達於海岸 自 竹斯國以東 皆附庸於倭」

この場合、秦王国、つまり周防国のことでしょうか、ここの習俗が中国のそれと似ているので、ここが夷州(夷人の住む島々の意味?)であるとは思えない、理解できないと言っているわけです。ある意味、中国的でない周辺の島々はみな夷州と呼ばれていた可能性もありそうです。

しかし、それに対して「会稽東県人海行有遭風流移至亶洲者 所在絶遠卒不可得至 但得夷洲数千人還」の亶洲ですね、これがさらに夷州より遠くにあるとされてます。

その亶については下記のような意味があります。

?あつ(厚)い。ゆたか。 ?まこと。まことに。 ?ほしいまま。もっぱら。類専・擅(セン)

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kanjipedia.jp%2Fkanji%2F0004613900


なぜ、この亶をおそらくは琉球・沖縄方面に充てたのかが解せない感じです。

夷というのは、中国周辺の異民族を意味する用語のように感じるんですね。ある程度、従属の意を示す場合がある。

それに対して、亶は、ほしいままに好きなように生きている、つまり中国の従属圏にいない、動物や魚のような異民族という具合の観念だったと考えるとどうでしょう。

それに似た観念として、同じく琉球方面を指すと考えた会稽の東のテイ(魚へんに是)の記載がありましたね。

後漢書東夷伝
「会稽の海外に、東テイ(魚へんに是)人あり。分かれて20余国となる。また、夷洲 およびセンさんずいに亶)洲あり。 伝に言う「秦の始皇(帝)、方子の徐福を遣わし、童男・ 童女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅(殺)を恐れ、あえて還らず。ついに此の洲に止まる」と。
   世々相承けて数万家あり。人民、時に会稽に至りて市す。会稽東冶の県人、海に入り行きて風に遭い、流移してセン(さんずいに亶)洲に到る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkamodoku.dee.cc%2Fgokanjo.html

つまり、徐福が住み着いて戻ってこなかった20国となるのですが、ここを亶洲としている。

ここでさんずいを用いるのは、水つまり海に関わる「亶」を意味しているはずですから、やはり魚のようなきままな存在を示しているのではないでしょうか。

そして、そのテイ=魚+是でイワシの意味でしたね。半魚人とでもいうべき表現の仕方です。

ただ、徐福の子孫なら、習俗も中国風だったでしょうから、夷つまり異民族風ではない可能性もあったでしょう。

だから台湾=夷州と、その遠くにある琉球方面=亶州は区別する必要があったのではないでしょうか・・・・。20国あるというのも、国として交易・通交できるだけの文化があったことを示している。

それゆえ、孫権は興味を示したのかもしれません。文化的に高ければ、戦力・財力になりますからね。しかし、結果として夷州に行っただけで、そこからあまり戦力にならない1000人を連れて帰ってきたので怒ったのでしょう。

そういう意味では、亶州については、別格の文化地域との観念が中国人にあった可能性が見えてくるでしょう。

グスクや支石墓、御嶽に見られるような高度な石造文化もそうですね。当時からそれらは存在していて、縄文時代晩期には、海のシルクロードを経て華南経由でインド系のそれらが稲作とともに琉球方面へともたらされ、一部が九州へと伝来していく。

徐福の話というのは、山海経の分析からみても、それ以前にあった同様な逃亡民の移住伝承を元にしていることもあり、それらが亶州の観念として形作られていったのでしょう。

そして亶州と邪馬台国ですね。ここがこれから重要なポイントとなってきます。


10338秦野北斗:2020/04/24(金) 21:19:02
[10892] 亶州
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010893_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010893_3M.jpg

さっそく亶州 (センシュウ)ですか・・・

『隋書』倭国伝(裴世清、聖徳太子)
明年(六〇八年)、 上遣文林郎裴?使於俀国。 度百濟行至竹島 南望?羅國經「都斯麻國逈在大海中。 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀。」
『隋書』倭国伝の抜粋ですか・・・「・・・」部分です。この文章は既に翻訳済みです。
管理人さん、説明とは異なります、

意訳、翌年(六〇八年)、上(天子)は文林郎の裴世清を俀国に遣わす。百済(倭)に渡る、竹島(済州島)に至り、南に耼羅国(五島列島の宇久島)を望み、都斯麻国(対馬)を経て、大海中を巡る。また東の一支国(壱岐)に至り、また竹斯国(志賀島)に至り、また、東の秦=奉王国(末盧国(まつるこく)、香椎)に至る。「そこの人は華夏(中華)と同じ、以って夷洲となす。」疑(うたが)うも、解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東、皆俀に属する。奉=秦、倭=俀、この2文字は異字体、書き間違い。紛らわしいな。

「都斯麻國迥在 大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也 又經十餘國 達於海岸 自 竹斯國以東 皆附庸於倭」倭を書き換えてますな。

この場合、秦王国、つまり周防国のことでしょうか、ここの習俗が中国のそれと似ているので、ここが夷州(夷人の住む島々の意味?)であるとは思えない、理解できないと言っているわけです。ある意味、中国的でない周辺の島々はみな夷州と呼ばれていた可能性もありそうです。管理人さんの推測ですな、・・・

詳細は古事記に書かれている、夷洲、澶洲、蓬萊の図を添付。澶洲に邪馬台国があるにです。

http://



10339fourfours:2020/04/24(金) 23:43:52
東アジアの遺伝子分布が明らかになりつつあります
記事が英語ですが、191体の東アジアの古人遺伝子データから、東アジア地域の8000年来の人の群れの起源、移動と混合の歴史を解析した論文が2020年3月25日に公開されました。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.biorxiv.org%2Fcontent%2F10.1101%2F2020.03.25.004606v1


東アジアの地域では最大規模の調査です(調査地域:モンゴル・中国北方・台湾・アムール盆地・日本)。
デイヴィッド・ライク「交雑する人類」でも挙げられていた「アムール盆地集団」は紀元前6000〜前3600年に遡り、かつて北ユーラシアに広がっていたようです。また、モンゴル内では、東方(アムール盆地集団)と西方(アファナシェヴォ文化の集団、トカラ語を話しているという説が有力)などが混ざり合ったそうです。

また、縄文時代の狩猟民族についても議論がされていました。
詳しくは、下記のURLを参照してください。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.biorxiv.org%2Fcontent%2F10.1101%2F2020.03.25.004606v1.full

10340管理人:2020/04/28(火) 00:03:42
遺伝子
fourfoursさん、さっそく最新情報お知らせありがとうございました。

英語論文・・・、頭が英語・遺伝子モードに切り替わるまで時間かかりそうです(汗)

またゆっくり拝読させていただきますね。

10341秦野北斗:2020/04/28(火) 00:06:31
[10892] 亶州 徐福
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010897M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010897_3M.jpg

https://www.weblio.jp/content/



10342管理人:2020/05/12(火) 03:44:53
亶州 徐福
東の鯷人の件で、その鯷は一般的にイワシと解釈されているようですね。

秦野さんご指摘のように、イワシの種類によって形状に相違がある点は興味深く感じます。

なぜ、イワシと呼んだか?も課題ですが、航海民であることに加えて、頭部に比して目が大きいという意味もあったのではないでしょうか。琉球方面に多い人種のように感じます。

縄文人に近く、比較的小柄で目が二重で大きく彫が濃い人種だったのかもしれませんね。

その人たちの中に、ある時期に徐福伝承のモデルとなった集団が逃亡していったわけですね。

山海経でいけば、以前指摘した困民でしょう。逃亡伝承があります。

この集団は、江南方面から琉球、さらに九州へと移住していった可能性を考えます。

10343管理人:2020/05/20(水) 01:32:52
日田の古墳状地形群
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010899M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010899_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010899_3M.png

以前、日田に二つの古墳状地形があることをお知らせしましたが、その双方の位置関係について再考してみたところ、次のようなことが明らかになりました。

まず図1のように、図左下の古墳状地形?(日田市日高・魏の曹操墓出土の鉄鏡と同類の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を出土したダンワラ古墳に隣接)があり、その東に日田古代史研究会の方が発見した古墳状地形?(日田市日高)があります。

そして、図のようにその北方にもうひとつ古墳状地形?(日田市有田)があることに気づきました。

図2はその3つがある地域の航空写真です。

この3つは、その古墳状地形周辺の道路からみてもわかるように前方後円墳状をしています。

そして、その後円部の中心点を結んだのが図1、2の青ラインです。

こうみると、30度、60度、90度の直角三角形を成していることがわかります。

距離的には1:2:√3になることは、その距離表を見てもわかるように、819m:1634m:1428mとなっていることからも明らかです。

なお、この直角三角形は図中の分度器のように9〜10度偏角を有しており、これは古墳時代前期の奈良や各地の古墳を結ぶ方位区画にみえる偏角で、北極星などを北とした場合の偏角のようにも考えうるでしょう。

距離尺としては、819m/2=409.5m=1里 もしくは、1428×3=4284m/10=428m=1里の尺単位のような気がしますが、どちらでしょうね。

また図2で、それらの古墳軸の向きに注目すると、古墳状地形?の古墳軸は古墳状地形?のほうを向いており、また古墳状地形?の古墳軸?の向きが古墳状地形?のほうを向くとともに、その古墳軸?の向きは古墳状地形?の古墳軸の向きと平行です。

これらのことから、この3つの古墳状地形の位置と方向が意図的になされたものであり、人工物であったことが明らかにしうるでしょう。

あと、図3は今回指摘した古墳状地形?の断面図ですが、サイズ的には250〜300mの箸墓サイズで、平坦に削られる前の元の高さは30m前後あったのではないでしょうか。これも箸墓の高さ30mに近いものです。

その「あやめ台」の字名のように、若干の台地になっていることからみて、その住宅地造営の際に、台地の上部を削ったことがわかります。その周囲を低地(掘)が囲んでいたはずで、そこが現在河や道路になっているのでしょう。

そのそばを求来里川が流れており、その求来里(ククリ、キュウクリ)に古い語源を見出しうるかもしれません。

その西方の會所神社で祀られる比佐(久)津媛(ひさつひめ)の久=キュウ音に関係しそうですね。

また求来里(ククリ、キュウクリ)は高句麗(コウクリ)の発音にも似てますが、同じく西方にある法恩寺山古墳群の壁画などは、後代の高句麗系渡来人とやはり関係してくるのではないでしょうか。元は高句麗と同族関係がある北燕遺民=新漢人との関連ですね。

とくにこの古墳状地形?の位置が、先日も邪馬台国の女王・台与との関係を考えた与止日女社⇔吉野ヶ里遺跡(高床倉庫群)⇔安国寺甕棺墓群⇔日田古墳状地形?を結ぶ方位ライン上にあることが重要ですが、この件についてはまた後日、改めて考えなおしてみたいと思います。



10344秦野北斗:2020/05/22(金) 02:25:49
[10898] 亶州 徐福
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010900M.jpg

後漢書東夷伝を集団が逃亡ですか、 山海経でいけば、以前指摘した困民でしょう。逃亡伝承があります。
後漢書東夷伝、山海経は逃亡伝承なんですな。古代史は魏誌倭人伝に始まるが、管理人さんには、陳寿が
書いた逃亡伝承なんでしょうな。[10899] 日田の古墳状地形群 は、どう見ても、ウンコの盛り土でしょうな。

>ある時期に徐福伝承のモデルとなった集団が逃亡していったわけですね。
山海経でいけば、以前指摘した困民でしょう。逃亡伝承があります。
この集団は、江南方面から琉球、さらに九州へと移住していった可能性を考えます。

後漢書東夷伝
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不,得徐福畏誅不,敢還遂止此洲,世世相承,有數萬家人。民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在?遠不,可往來。

意訳:会稽海の外に東鰯人、分れ成す20余国、また、夷洲、及び 澶洲あり。伝わる言葉、秦始皇帝使い正に侍、徐福將、童息子、娘、数える頭人、入海し、求める蓬莱に天津神、仙人なく悟る。徐福は賢く責めるない、敢えて再び、遂に止まる、この洲で行き年、受継ぐ、受ける有る数える万(よろず)、家人。民は其の頃に到る会稽市、會稽東冶縣人、入海道、遭う習わし有り。慰め移り到る澶洲といえる。所在る渡る遠いない、聞くに古(いにしえ)に来る。



10345秦野北斗:2020/05/31(日) 04:56:51
令和  お楽しみに・・・ 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010901M.jpg

令和の出典は万葉集からであると公表されていますね。万葉集の「梅花(うめのはな)の歌三十二首の序文」の一部にあたります。

万葉集巻第五「梅花謌卅二首 ?序」の序、を全訳する。お楽しみに・・・

天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是蓋天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。請紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。



現在の令和の訳、

白文:于時初春令月氣淑風和梅披鏡前之粉蘭薫珮後之香
初春の令月にして、気淑く風和らぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす
読み:しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす




10346fourfours:2020/05/31(日) 09:51:57
[10894] 補足
みなさん、[10894]の記事に関心を持ってくださりありがとうございます。
大変な時期にありますが、お体にお気を付け下さい。

雑記帳さんのブログ記事に日本語でまとめてありました。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsicambre.at.webry.info%2F202004%2Farticle_41.html

もしよろしければ、ご参照ください。

10347秦野北斗:2020/05/04(月) 15:53:49
[10901] 令和 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010903M.jpg

天平二年(730年) 土岐(時)の元服(げんぶく、げんぷく)になる。

于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。

於いて土岐(とき)、初春(うぶ、とし)令月(おさ、つき)、壱岐(いき)は淑(しと)やか習わし倭、梅開く鏡前(かがみ、まえ)を飾る。蘭薫(あららぎ、かおる)帯び玉、遅れ此れ香(かぐわ)しい

原文:天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春令月、氣淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾蓋、夕岫結霧、鳥封縠而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是蓋天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以攄情。請紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。

意訳:天平二年正月十三日、集まる、於いて帥老(しろう)これ家、重ねる宴(うたげ)に集まるなり。於いて土岐(とき)、初春(うぶ、とし)令月(おさ、つき)、壱岐(いき)は淑(しと)やか習わし倭、梅開く鏡(かがみ、)前(まえ)を飾る。蘭薫(あららぎ、かおる)帯び玉、遅れ此れ香(かぐわ)しい。加わる以ち、曙嶺(あけぼの、みね)を移し行く、松(まつ、)掛かり連なる、然るに覆し被う、夕峰(ゆう、みね、)透(す)く霧(きり、)、鳥(とり、)封じる縠(から、)然るに惑う多い。庭弄(にわ、もてあそ)ぶ、沙羅蝶(さら、ちょう)、虚ろ贈る元雁(もと、かり)、於いて此れ被う、天座る津地、迫る膝、跳ぶ盃、忘れる言葉、初家(うぶや)此れ裏、開(はだ)ける衿(えり、)、烟(けぶ)る霞(かすみ、)此れ外(そと)。うすい然り、自ら赦(ゆる)す、快い然り自ら足す。汝非(なんじ、あら)ず飛ぶ盃、何(いず)れ以ち述べる心、請(う)ける記す村、梅此れ篇(ふみ、)。古(いにしえ)今は夫、何(いず)れ妖(あや)しいだろう。宜しく分かつ庭(にわ)、梅を楽しむ成る、短く詠う。




10348管理人:2020/05/04(月) 23:26:33
Re: [10894] 補足
fourfoursさんへのお返事です。
>
> 雑記帳さんのブログ記事に日本語でまとめてありました。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsicambre.at.webry.info%2F202004%2Farticle_41.html
>
> もしよろしければ、ご参照ください。

さっそく和訳ありがとうございました。また後でゆっくり拝読させていただきます!

10349管理人:2020/05/05(火) 00:55:55
日田の超巨大古墳状地形
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010905M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010905_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010905_3M.png

https://www.shundaichi.com/37034393402148822269123923506937444.html



10350fourfours:2020/05/06(水) 23:56:31
「水」にみられるような語彙変化はかなり多彩だったのか?(序編)
ゴールデンウィークも終わりますが、いかがお過ごしでしょうか。

再び、金平譲司さんのブログ記事を引用いたします。興味があれば、お読みください。

金平さんによれば、日本語(縄文時代で話されていた系統ではなく、大陸で話されていた系統のほう)は、「遼河流域」で話されており、のちに「山東省」に移動し、弥生時代に話されていた言語へと進化したそうです。

「山東省」には、春秋戦国時代(BC770年〜)より若干前の時代に、
「遼河流域」には、BC6200からBC2200年の流域砂漠化までの期間にいることを想定しています。その言語は、ウラル語族(以下UR)と同祖であると推定されています。

「山東省」では、「インド・ヨーロッパ系の言語(以下IE)」「テュルク系の言語(以下TU)」「モンゴル系の言語(以下MO)」「シナ・チベット語族の言語(以下ST)」「ベトナム系の言語(以下AA)」「タイ系の言語(以下TK)」と接し、

「遼河流域」では、「かつて北ユーラシアに存在した複数(4〜5ほどを想定されている)の言語群」と接していたと仮定しています。

それぞれの言語には「水」を表す語がありますが、「水」そのものを表す語と「水」そのものを表さない語があります。

「水」そのものを表さない語は外来語であると考えられ、「川」「湿り」「干潟」「氷」「雪」「霧」「水の隣接部分」「隣接部分の盛り上がり」「高さ」「山」「天」「境」「床」「群がり」「糸」「島」「印」「方法」「向き」「耳」「手・腕・肩・脇」etc....などの意味で残っているそうです。意味変化は、非常に多岐にわたります(びっくりだ!!!!)。


現時点で、大昔に東アジア・北ユーラシアに存在した言語群のなかで、「水」のことをどういっていたかで9種類公開されています。今後新種のものが増えるかもしれません。「水」を表す語は変わりにくいため、同じように言っていれば起源が同じとしています(ただし決定事項ではありません)。

これをまとめると以下のようになりますが、バリエーションが多いことが分かります。バリエーションが多いのは、長い期間経っているためです。特に外来語として入ってくる場合変化します。
バリエーションが多いものは、より古い時代から存在していることが言えます。


?wat-/d-,wit-/d-,wut-/d-,wet-/d-,wot-/d- :UR,IE
※ただしwの部分はv,bに変わっているケースあり

?jak-/g-,jik-/g-,juk-/g-,jek-/g-,jok-/g- (jはヤ行音) :インディアン系の言語のうちの1つ,ST,AA,ニヴフ語
※ただしjの部分は?,?,?,?,t,d,s,z,lに変わっているケースあり
※jの部分は消えていることがあり
※k-/g-の部分はi-/j-に変わっているケースあり
※「母音」と「k-/g-」の間に子音nが挿入されているケースあり、それに伴い「k-/g-」が「ŋ-(ガ行の鼻濁音)」に変化しているケースあり(「jaŋk-/g-」のような語形)、さらにk-/g-がとれているケースあり(「jan-」のような語形)

?am-,um-,om- :?とは別のインディアン系の言語のうちの1つ
※mの部分はb,pに変わっているケースあり

?mVrk-/g- (Vは任意の母音) :アイヌ語・朝鮮語・ツングース諸語
※ただしmの部分はw,b,p,v,fに、rの部分はlに変わっているケースあり
※rk-のrの部分は後ろの子音に同化しkk-に変わっているケースあり
※さらにrまたはkが消えているケースあり

?sam-,sim-,sum-,sem-,som-:TU
※ただしm-の部分はb-,p-,w-,v-に変化しているケースあり
※TU(テュルク系の言語)はw-またはv-として残っているものが多い

?kata-:語源不明(遼河流域近辺)
※日本語などで外来語としてのみ存在(方、潟、片、肩など)
※?????のような意味変化をしていることが確認されている

?sula-:語源不明
※UR,IEなどに外来語としてのみ存在(フィンランド語 sulaa「溶けた」、ラテン語insula「島」)

?tura-:語源不明
※日本語などに外来語として存在(つらら、弦(turu)、蔓(turu))

?us-,is-,es-:MO(モンゴル語族)
※日本語では「石(isi)、磯(iso)」として入っていると想定
※「石」は「水や川の隣接部分に存在している」ために表すようになったのでは

≪参考≫
?to-:
※これは北アメリカのインディアンの諸言語のもので、東アジアの言語には存在していないかもしれません。


情報過多となってしまいましたので、ここまでといたします。
近いうちに続きの投稿を書きます。そこで、私の考察を加えます。


ここまでの話は、過去の金平さんのブログ記事のバックナンバーをもとにまとめています。詳しくは、バックナンバーをご覧ください。下記URLから確認することが出来ます。

http://www.jojikanehira.com/archives/list



10351秦野北斗:2020/05/07(木) 17:03:43
石上?宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010907M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010907_2M.jpg

http://www.isonokami.jp/



10352fourfours:2020/05/07(木) 23:09:05
Re: 石上?宮
秦野北斗さんへのお返事です。


> 石上神宮[いそのかみじんぐう]をご存知ですか、石(isi)をいそ磯(iso)と読みます。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.isonokami.jp%2F
> 金平譲司さんの言語は紀元後の様ですな、
>
> 石上神宮は、古事記 神武東征に記される、所在は、奈良県天理市に在り、石上神宮[いそのかみじんぐう]は古事記に基づき、建てられた神宮になる。本来、石(いし)=美し(うまし)と読む、現在の学者には、読めない。美しは、韓国になる、韓国は660年までは、日本の領地であった、現在の韓国人は古代の歴史など知らない。正式名は、石上?宮(うましほとりかみみや)
>
>
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.isonokami.jp%2F


ご返事ありがとうございます。崇神天皇7年に建てられたといわれているのですね。
「石」をisiといったり、isoといったりしていましたが、砂子(isago)のように、*isaといっていた場合もあると思います。

日本語は子音で終わることが出来ないため、「i」や「a」や「o」を補って日本語として入っていったことが分かります。

崇神天皇は紀元後2〜300年頃に生きていたとするならば、2〜300年代には、「石」のことを、「いし」「いそ」「いさ」とバラバラになっていたということですが、それは、もともと日本語にあった語ではなく、近くに存在した言語群から入ってきたことを物語っています。奈良時代の日本語にも、母音の揺れが存在する単語はありますが、それらは外来語であると考えられるでしょう。

崇神天皇の生存していた時代に大陸からの移動があったかはわかりませんが、弥生時代ごろの日本語の話者が子音の連続を避けるためにiまたはuまたはaという母音を挿入していたのがわかります。

その言語群がモンゴル系の言語だということです。
ただし、後の投稿でも触れますが、「モンゴル系言語→アイヌ系言語→日本語」で日本語に入った可能性があり、否定はできません。アイヌ語にも「iso(磯)」という言葉があり、長い間アイヌ民族と大和民族は接触していました。アイヌ語はアイヌ語で過去にモンゴル語と接していた可能性はあります。そうすれば崇神天皇時代の「いし」「いそ」「いさ」のばらつきも説明できるかもしれませんね。

ひょっとしたら借用の向きは逆で「日本語→アイヌ語」もあるかもしれませんが。


長文、失礼いたしました。




10353管理人:2020/05/07(木) 23:31:48
Re: 石上?宮
fourfoursさんへのお返事です。

>
> 「石」をisiといったり、isoといったりしていましたが、砂子(isago)のように、*isaといっていた場合もあると思います。
>
> 日本語は子音で終わることが出来ないため、「i」や「a」や「o」を補って日本語として入っていったことが分かります。
>

そうですよね、母音で終わるのは現代の日本語の大きな特徴です。


> 崇神天皇は紀元後2〜300年頃に生きていたとするならば、2〜300年代には、「石」のことを、「いし」「いそ」「いさ」とバラバラになっていたということですが、それは、もともと日本語にあった語ではなく、近くに存在した言語群から入ってきたことを物語っています。奈良時代の日本語にも、母音の揺れが存在する単語はありますが、それらは外来語であると考えられるでしょう。
>
> 崇神天皇の生存していた時代に大陸からの移動があったかはわかりませんが、弥生時代ごろの日本語の話者が子音の連続を避けるためにiまたはuまたはaという母音を挿入していたのがわかります。
>
> その言語群がモンゴル系の言語だということです。


私も、同様に特に高句麗祖語あたりが日本列島へと入るときに、母音が加わっていく過程があったように感じてます。

逆に言えば、母音を抜くことによって、モンゴル語とか、さらにはアラム語系統の言葉などへと復元できる語彙が多いのではないかとも感じてますが、その件はまたの機会に。。


>
>

10354fourfours:2020/05/07(木) 23:54:56
Re: 石上?宮
管理人さんへのお返事です。

ご返事ありがとうございます。

アフロ・アジア語族、ドラヴィダ語族、その他南アジア・西アジアで話されていた消滅言語(例えばシュメール語)、南アジアの孤立言語(たとえばクスンダ語)、さらにはアフリカで話されている言語は日本語と結びつくかもしれませんが、「弥生時代の言葉」に関しては、間接的は関係もあったかもしれません。

例えばある言語Aが存在したたときに、A→日本語、A→タミル語に伝わった可能性はあるかもしれません。

これらも、生き残っている言語の単語を綿密に調べることによって、示すことができますね。

また、さらに進むと、縄文時代に話されていた言語については、上記に挙げたような言語と系統関係もひょっとしたら示されるかもしれませんね。



10355管理人:2020/05/07(木) 23:55:57
九州北部の古墳状地形方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010911M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010911_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010911_3M.png

先日お知らせした日田の巨大前方後円墳状地形と、以前からお知らせしてきた北九州各地の古墳状地形を結ぶ方位ラインを作成してみました。以前も同様なものを作成はしているのですが、今回は最新版です。

図1がその古墳状地形を結んだラインとなりますが、まず先日指摘した日田の巨大前方後円墳状地形?と、同じく先日分析した高良山北部にある前方後円墳状地形とが図のように東西ラインで接合してきます。その延長線上に印鑰神社があり、ここに邪馬台国時代の役所があった可能性を指摘したとおりです。

次に、この日田の古墳状地形?とその北西の伊川の巨大前方後円墳状地形(図2参照)を結ぶライン上に鎌田原遺跡(図3の前方後円墳状地形がある)が綺麗に載ることがわかります。ほぼ誤差がないことからみても、これらの二つ(日田と伊川)の1000m級の巨大古墳状地形が人工的な位置に構築されたことがわかります。

また、その伊川の巨大古墳状地形は、図1のように赤村で発見された前方後円墳状地形の真西にあたり、その延長線上に、初期の(纏向型)前方後円墳である名島4号墳が接合することも以前指摘したとおりです。

さらに、その伊川の巨大古墳状地形の真南に平塚川添遺跡があり、また図1のように鎌田原遺跡(前方後円墳状地形)と高良山北の古墳状地形を結ぶライン上に、この平塚川添遺跡が載ることもわかります。

その平塚の字名もおそらくは古墳が存在したことによるものであり、この地域が弥生時代から邪馬台国時代の中心的な都市機能を有していたであろうことは先学が指摘しているところです。

そして、これらの古墳状地形が人工的・意図的に構築されたことは、図の方格(黒線)上の交点にこれらが載ることからも確認することができ明らかです。

これらは特定の距離尺と方角に造営されたのであり、高精度な技術で測量されていると言えるでしょう。

ほぼ偏角なしの直角三角形を多用した測量を行っていることからみて、偏角がある弥生時代前期のものではなく、より精度の高い後期の測量によったことが予想されます。

これらの古墳状地形を結ぶ中に邪馬台国の諸国があり、また女王・卑弥呼・台与の都・墳墓もあったのかもしれませんが、その是非については、これらの未発掘の古墳状地形を調査することから、徐々に明らかにされていくのではないでしょうか。今後の発掘調査に期待したいところです。



10356秦野北斗:2020/05/08(金) 09:00:23
[10908] Re: 石上?宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010912M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/石上神宮



10357fourfours:2020/05/08(金) 09:34:00
Re: [10908] Re: 石上?宮
秦野北斗さんへのお返事です。

失礼いたしました。

紀元前1世紀であれば、なおさら「弥生時代の言語」と関係が深そうですね。

10358fourfours:2020/05/08(金) 09:36:29
「水」にみられるような語彙変化はかなり多彩だったのか?(中編)※完成版です。お騒がせいたしました。
http://www.jojikanehira.com/archives/15703219.html

http://www.jojikanehira.com/archives/list



10359fourfours:2020/05/08(金) 10:48:30
Re: 石上?宮
管理人さんへのお返事です。

高句麗祖語を話していた人々が遺伝的に解明できると、他言語との関連性も見えてくるかもしれません。

今後も注目したいところです。

10360荊の紀氏:2020/05/08(金) 11:11:04
飯塚市遺跡情報システム
様々な情報が地図と共にご覧になれます
飯塚市遺跡情報システム /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftrc-adeac.trc.co.jp%2FHtml%2FImageView%2F4020505100%2F4020505100300010%2Fiseki-map%2Findex.html
飯塚市の遺跡情報システムのサイトでは、飯塚市に所在する「遺跡(埋蔵文化財包蔵地)」についての様々な情報が地図と共にご覧になれます。 利用上の注意 遺跡(埋蔵文化財包蔵地)は、調査の成果等によってその範囲を変更する場合や、現在空白となっている地点に新たに登録されること ...


10361鳩摩羅童子:2020/05/09(土) 04:49:07
Re[10907] 石上?宮 うましほとり..
> 引用 start
石上神宮[いそのかみじんぐう] 〜:
石上神宮は、古事記 神武東征に記される、所在は、奈良県天理市に在り、石上神宮[いそのかみじんぐう]は古事記に基づき、建てられた神宮になる。本来、石(いし)= 美し(うまし)と読む、現在の学者には、読めない。美しは、韓国になる、韓国は660年までは、日本の領地であった、現在の韓国人は古代の歴史など知らない。正式名は、石上?宮(うましほとりかみみや)
> 引用 end

の 「石(いし)= 美し(うまし)」 をインド弁辞書の 「石 stone」 で検証してみる。

【タミル語】umicam 又は ummicam(= 1. groove in the frame work of a jewel in which ★stones are to be set 石がセットされる宝石のフレームワーク(枠組み)の溝; 2. notch V字型の刻み目[切り込み] 。階段 (TLS)) うましの、いその (m 無音)

何かのヒントになりますかネ。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10362秦野北斗:2020/05/09(土) 11:55:39
太 安万侶
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010918M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010918_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010918_3M.jpg

https://kobun.weblio.jp/content/美し



10363fourfours:2020/05/09(土) 23:03:39
「水」にみられるような語彙変化はかなり多彩だったのか?(後編)
http://www.jojikanehira.com/archives/15703219.html

http://www.jojikanehira.com/archives/list



10364fourfours:2020/05/10(日) 23:50:50
[10906][10914][10919]について
長文を多く投稿してしまいました。
うまくまとめられたかはわかりませんが、読んでいただければ幸いです。

今後もよろしくお願いします。

10365アストライアの会:2020/05/11(月) 12:13:29
銛(もり)とイルカと縄文人
昔より海の幸に恵まれて
 温暖な気候に恵まれた日本列島の縄文時代も、後期になると徐々に寒冷化が進み、環境も
 大きく変化していった。しかも東京、神奈川の辺りでは、箱根山や富士山が噴火したこと
で、食料を山野だけで確保する事が難しくなっていた。そのため寒さの影響を受けにくい貝
や魚などの海産物を確保するため、殊に入り江や遠浅(とおあさ)の海岸に恵まれた地域などで、漁労へ
のシフトが進み、その捨て場所である貝塚が各地に多く出来て行ったと考えられる。
貝塚からはアサリやハマグリなどの貝のカラは勿論のこと、銛(もり)や釣り針などの骨角器、魚の骨、土器や石器の破片などが出土し、当時の自然環境や食生活、縄文人の暮らしを知る上で、極めて重要な手段となっている。時には人骨が発見される事も有り、貝塚は単にゴミ捨て場ではなく、死者の埋葬の場をも意味し、破棄(捨てる)という行為そのものも、現代とは違う事が伺い知れる。
横浜の称名寺(しょうみょうじ)貝塚からはイルカの骨が多数出土し、丸木舟で漁(りょう)をしたものと思われる。この貝塚の研究者である講師により、漁労の民としての縄文人の暮らしの再現を試みたい。

「世界古代文明の謎を探る」(45)「銛(もり)とイルカと縄文人」
主 催 アストライアの会  協 力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 高橋 健 横浜ユーラシア文化館学芸員
日 時 令和2年8月25日(火)午後2時から5時
会 場 豊島区イケビズ美術室(池袋駅西口徒歩約9分)
費 用 お茶代込み参加費二千円
連絡先 TEL049(258)3218 松原まで
備 考 後半はゲストを交えたお茶会です。



10366秦野北斗:2020/05/12(火) 14:37:12
イワシは、何語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010922M.jpg

鳩摩羅童子さん、イワシ(鰯・鰛・鰮)中国語イワシ(鯷・鮷)ですが、インド弁saaradain
鮷:カタクチイワシ 鰯:沙丁魚、Sardine 鯷:ウルメイワシ?
イワシは何語ですか、

後漢書倭伝
會稽海外有東鯷人,分為二十餘國。又有夷洲及澶洲。傳言秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海,求蓬萊神仙不,得徐福畏誅不,敢還遂止此洲,世世相承,有數萬家人。民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風,流移至澶洲者。所在絶遠不,可往來。

 会稽海(上海)の外に東鰯人、分れ成す20余国、また、夷洲、及び 澶洲あり。伝わる言葉、秦始皇帝使い正に侍、徐福將、童息子、娘、数える頭人、入海し、求める蓬莱に天津神、仙人なく悟る。徐福は賢く責めるない、敢えて再び、遂に止まる、この洲で行き年、受継ぐ、受ける有る数える万(よろず)、家人。民は其の頃に到る会稽市、會稽東冶縣人、入海道、遭う習わし有り。慰め移り到る澶洲といえる。所在る渡る遠いない、聞くに古(いにしえ)に来る。

http://



10367鳩摩羅童子:2020/05/12(火) 16:58:52
Re [10922] イワシは、何語
> 引用 start
鳩摩羅童子さん、イワシ(鰯・鰛・鰮)中国語イワシ(鯷・鮷)ですが、インド弁saaradain
鮷:カタクチイワシ 鰯:沙丁魚、Sardine 鯷:ウルメイワシ?
イワシは何語ですか
> 引用 end

インド弁saaradain 、と 書いてありますが、ケルン大のインド弁辞書には「saaradain」は、載っていません。
どこからの参照でしょうか?。
---

しかし、「いわし」は、多分、インド弁です。

【タミル語】cUTaippoTi(= ★sardine) かたいわし (c-k)
【タミル語】cUTai(= 02 1. ★sardine, bluish-green, clupea fimbriata ; 2. sardine, golden spot with purple, attaining 4 in. in length, clupea lile ; 3. sea-fish, silvery, attaining 20 in. in length, pellona lechenaultii) かた (c-k)
【タミル語】naRcALai(= a superior kind of ★oil-sardine or ca1l2ai) めざらい → 目刺し、イワシ (n 無音)

c. 「鰯の頭も信心から (「鰯」は「いわし」が正しい)」 in 上方いろはかるた
→ 「かぶり」の同音異義語の言葉遊び。

【タミル語】kavalai(= 02 1. a rooted creeper; 2. malabar ★sardine of beautiful green colour, attaining 7 in. in length dussumieria acuta) かぶり
【サンスクリット語】kavarIbhara (= m. a fine ★head of hair Gi1t.) かぶりばら
【タミル語】kOpAlam (= a ★religious vow to beg on Saturdays in the month) かぶり

c. 沖縄弁では、「ミジュン」と言うが、これも、インド弁にある。
■ミジュン(みじゅん)/ ミジュン/ / 意味/ 鰯

【タミル語】naRcALai (= a superior kind of oil-★sardine オイルサーディン or ca1l2ai) ミジュン (L-n)
c. oil sardine とは、魚の名前である。日本では、油漬(オイルサーディン)と、料理の名前であるが、 wikipedia で 「oil sardine」を引くと、「Indian oil sardine - Wikipedia」が一番に表示され、魚の名前である。「サージン」鰯(イワシ)のことである。インド弁辞書には sardine では、下記 7 個の名前が登録されている。「いわし」の発音似は、無い。
ayigkavalai/ cALai/ cITai/ cUTai/ cUTaippoTi/ kavalai/ naRcALai

→ しかし、cUTaippoTi は、「かたイワシ」、-- 「かたくち イワシ」に見える。

c. ロシア語のイヴァシー (иваси) も日本語からの借用である。 from wikipedia 「イワシ」

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10368鳩摩羅童子:2020/05/12(火) 18:45:35
RE[10923]
> インド弁saaradain

と、あるのは、Google 翻訳の 【英】sardine に対する 「ヒンディー語」の結果

???????
saaradain

みたいですね。 「インド弁」という言葉は、対象が広いので、
私が「インド弁」という言葉を使っているのは、良くないかも知れない。
「古代インド弁」と言う名前に変えた方がイイかも、と、考える、今日この頃、でオマス。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10369鳩摩羅童子:2020/05/12(火) 21:52:39
イワシ と ニシン
https://medakasuisan.com/sardine/post-1854/

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10370秦野北斗:2020/05/13(水) 13:43:26
かど
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010926M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010926_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/門松

http://



10371秦野北斗:2020/05/14(木) 17:31:22
門松の由来  平安時代
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010927_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本書紀



10372管理人:2020/05/15(金) 00:18:15
過去の言語・歴史の復元
またみなさん、わかちあいありがとうございます。
言語・語彙関連で盛り上がっておられるようですね。

コロナウイルスも短期間で遺伝子配列が変化しているそうで、過去のウイルスの原型を探し出す、つまり歴史を調べることも必要となってきそうです。

歴史研究とは、ある意味、すでに断片的にしか存在しないものを、法則性とともに復元していくことだともいえそうですね。

その法則性を明らかにすること、これが重要だと言えるでしょう。

日本語の変遷でもそうですね。過去に発音されていたものが、現在は半ば失われているようなケースもご指摘にあったとおりです。

ある大きな変異が、その大きな流れの中で起こるわけですね。その大きな変異が、また時間とともに、形を少しづつ変えていく。

渡来人の渡来、その技術革新などは、その大きな変異に属するものでしょう。

その技術が徐々に日本風土に合わせたものへと変遷していく、大陸では石材でできていたものが、日本では木材へと変化していく、そういう事例が多くあります。

日本的という媒介項がそこに影響を与えていくわけですが、イワシという語彙にも、どこか日本語特有の要素が加わっているのかもしれません。母音が云々とか。

その法則性を明らかにできれば、すべての歴史上の語彙や言語を調べなくても、ある程度の予測がつくようになるでしょう。

人工的に、過去のある時代の特定地域の言語をシュミレートするわけですね。

その変異をもたらすべき要因が、どういうものなのか?、ここも重要な視点で、環境的要因、人種的、技術的要因…と様々ですが、それらがランダムに突発的にもたられるように見えることもあれば、あるいは気候変動周期のように周期的に繰り返されるものもあり、拡散、消滅、結合の過程というのもまた考えていく必要があるのですが、その辺を、これから日本古代史の中で明らかにしていく必要があります。

すでに、日本語の変遷に関する研究において、そのような試みがなされてきてますが、古墳や土器の形状、形質、そういうものも、やはり同様に特定の条件を加えたときに、どういう風にそれらが変遷するかをシュミレートすべき指標を構築すべきでしょう。

同様に、渡来人にもたらした金属精錬技術などについても、その渡来人の人口なり、年代、世代数・・といった要因をもとにしながら、結果として、こうなった!、こうなるためには、こういう変遷過程がそこに加わるべきだ、そのためにはこのくらいの年代が必要だという部分の法則性を追求していく必要があるでしょうし、同様に、その宗教観や習俗、伝承の変遷・拡散過程についても、記録に残っているものだけを分析するのではなくて、その記録の元となった文章なりを、人工的に復元していくシステム化を立ち上げていく必要があるでしょう。

元テキスト論とも言いますが、その元テキスト、元文面といったものが、どういうものであったのか?その復元のためには、何が必要なのか?、方程式のxを説く試みですね、ここの部分を明らかにすべき時期が来ているように感じます。ある程度しっかりした資料群が手に入る時代になってきましたから、あとはそこから法則性を見出す知恵、その辺を、ぜひみなさんにとりくんでいただきたいところです!

10373荊の紀氏:2020/05/15(金) 08:53:04
>ニシン(かど)一見なんの関係があるの?ですが、関係があるんですな・・・
ガド族の一支族がマナの壷を継承し、それが、日本にもたらされ伊勢神宮の外宮にあるという説…
鰊 レン・にしん…かど(鰊)…束柱???2020年 5月15日(金)08時47分30秒 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%3F
東トウ(ひがし)とは別字。柬(えらぶ)⇒東に変化する。
レンという魚。レンのイメージは不明。日本では、にしんに当てる。古くは鯡 ヒと書くことが多かった… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fd%2F20141005
鯡 ヒ…「まだ成魚になりきっていない魚」…
二身(にしん)…
「ニシン」の語源には、「二親」説と「二身」説がある。「二親」とは父母のことであり、盆や正月に両親の長寿を祈って食べる魚であったことに由来する説である。「二身」は身を二つに割いて食べることに由来する説である。他にも、二つに身を割ることから「妊娠」を語源とする説もある。
漢字の「鰊」のつくり「柬」は「若い」という意味。小魚を指すことからニシンに字が当てられた。また、「鯡」のつくり「非」は否定を表し、「まだ成魚になりきっていない魚」という意味を表す。「鰊」と「鯡」どちらが先にできたかは不明だが、室町時代の『節用集せつようしゅう』に両方の字が出ている。
祖先…


10374秦野北斗:2020/05/15(金) 19:24:03
日ユ同祖論と伊勢神宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010930M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010930_2M.jpg

https://nihonshinwa.com/archives/75



10375fourfours:2020/05/16(土) 00:07:08
アメリカ大陸北極域とシベリアにおける人類集団の変遷(追記有)
雑記帳さんのブログ記事です。

ご存じの方も多いと思いますが、シベリア北東部に、31600年前頃に人が住んでいた証拠があるようですね。
現時点で最古のシベリア北東部の遺跡です。ヤナRHSと呼んでいます。

Sikoraら(2019)は、シベリア北東部における後期更新世〜完新世にかけての人類集団の3回の主要な拡大と、それに続く大規模な置換を明らかにしました。

1度目は、ヤナRHSに関連する民族である。2度目はアメリカ大陸先住民に関連する民族で、20000〜18000年前頃。そして3度目は、新シベリア集団。13000頃。

新シベリア集団は、13000年前頃の2度目の民族との交雑と、5000年前頃以後の、アジア中央部草原地帯からの青銅器時代集団との交雑を通じて、1度目の民族との遺伝的影響を間接的に受けている。

https://sicambre.at.webry.info/201906/article_17.html



10376荊の紀氏:2020/05/16(土) 16:54:37
>中国語イワシ(鯷・鮷)…おおなまず…
>中国語イワシ(鯷・鮷)
鯷(テイ)
訓読み
しこ
ひしこ
意味
大きななまず。おおなまず。魚の名。ナマズ科の淡水魚。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkanji.jitenon.jp%2Fkanjio%2F7006.html
日本しこ。ひしこ。カタクチイワシ科の海水魚
ナマズ科…
祖先?…体は鱗のない、ツルツルの魚のような姿…
>かんむり座は、紀元前3200年頃にはできていた星座ですが、ギリシャ神話では、コップ座とも関係する酒神・ディオニュソス(バッカス)に結び付けられています。
神話の物語によると、この冠はディオニュソスがミノス王の娘・アリアドネに贈った冠だと伝えられています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fseiza.imagestyle.biz%2Fsinwa%2Fkanmuri.shtml
コップ座…
コップ座は春に見られる星座で、からす座と一緒に、うみへび座の背中に乗っているように描かれています。
四等星と五等星からできているので暗い星座ですが、うみへび座の尻尾辺りを頼りにして探してみれば、案外簡単に見つけることのできる星座です。
コップ座はギリシャ時代につくられた古い星座で、このコップは、ギリシャ神話に伝えられている酒神・ディオニュソスがもっていた杯だと言われています。
ディオニュソスは、大神・ゼウスとテーバイ王の娘・セメレとの間に生まれた若者で、半分はゼウスの血を引いているので、神のような力を持っていると伝えられています。
このディオニュソスがいつも愛用していた杯がコップ座になっているのですが、「コップ」と名前についていますが、このコップは現在使われているような形ではなく、耳飾りの付いた杯の形で描かれています。
…ディオニュソスの周りには鳥や獣達が現れ、周りを固めて海賊たちを寄せ付けません。
驚いた海賊たちは海に飛び込んで逃げようとしますが、手足はひれに変わり、体は鱗のない、ツルツルの魚のような姿になってしまいます。
このような物語がギリシャ神話に伝わっていますが、イルカはこの時に生まれたものだとも伝えられています。
体は鱗のない、ツルツルの魚のような姿…イルカはこの時に生まれたもの…紀元前3200年頃?…

紀元前3500年頃 - 岡山県総社市の南溝手遺跡で、熱帯ジャポニカのプラント・オパールが見つかっている。
西暦による紀元前4000年から紀元前3001年 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
「クルガン文化」? - スレドニ・ストグ文化(アゾフ海流域)とマイコープ文化(コーカサス地方)を包含する仮説の文化、インド・ヨーロッパ語族の候補。
紀元前4000年頃、黒海北部から南ロシアに懸けての草原地帯で、はじめて野生種の馬が家畜化された。アンデスの高地でリャマの飼育が始まった。リャマは、毛と皮を利用するほか食用や運搬用に用いられている。稲の栽培がインド北東部のアッサム地方から中国雲南の雲貴高原にかけての山岳地帯でも始まった。
紀元前40世紀 - メソポタミアの都市国家ウルの創建
紀元前4000年-3000年頃 - ナイル川流域にナカダ文化(en:Naqada culture)
紀元前3761年 - 近代ユダヤ暦の起算年;10月7日を起算日とする
紀元前3760年 - ユダヤ歴による天地創造の始まり:9月25日または3月29日
紀元前36世紀 - シュメール文明、都市国家分立
紀元前3500年頃 - 岡山県総社市の南溝手遺跡で、熱帯ジャポニカのプラント・オパールが見つかっている。この頃すでに日本で陸稲稲作が始まっていたと思われる。
メソポタミア、キシュ第1王朝から第4王朝
イヌイットの祖先、ベーリング海峡を超え、アジアからアラスカへ至る
中国で龍山文化が誕生。黄河文明がおこる。
紀元前3123年 - この年の6月29日にオーストリア上空付近で小天体が爆発し、地球の環境に多大な影響を与えたと推測されている
紀元前3114年 - この年の8月13日または8月11日にマヤ文明の長期暦(GMT対照法)が始まる(=マヤ文明による天地創造の日)
紀元前3102年2月18日 - ヒンドゥー教神話によるカリ・ユガ時代の始まり、伝承によるクリシュナの没日
紀元前3000年 - エジプトで、メネス王が上エジプトと下エジプトの二王国を統一。ファラオとなる。
クルガン文化…
インド・ヨーロッパ語族の拡散を、騎馬民族に起源するクルガン文化の … /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frepository.kulib.kyoto-u.ac.jp%2Fdspace%2Fbitstream%2F2433%2F240160%2F1%2Fshirin_094_1_5.pdf
インド・ヨーロッパ語族…
19世紀後半、インド・ヨーロッパ祖語の話し手を「アーリヤ人」とする説をドイツ生まれのオックスフォード大学教授マックス・ミュラーが唱える。
「アーリヤ」とはサンスクリット語で「高貴な人」を表し初期のインド・ヨーロッパ語族の研究ではサンスクリット語がインド・ヨーロッパ諸語の祖先言語であるという考え方があり、話し手を「アーリヤ人」という人種として捉えるようになった。
20世紀に入るとナチスによって、インド・ヨーロッパ語族を「高貴なアーリヤ人」=優秀な人種とみなし、ユダヤ人の言語ヘブライ語はセム・ハム語族に属するとし排斥した。ナチスの影響の強い時代は、祖地をゲルマン民族の地に求めた。
戦後、(言語学では)インド・ヨーロッパ祖語の祖地をめぐる研究はタブー視されてしまった。
 ギンブタスとクルガン文化説
1950〜60年にかけて、カリフォルニア大学の考古学者マリヤ・ギンブタスが、クルガン文化説を提唱。クルガン文化とはヴォルガ川下流域からアラル海にかけて広がる考古学上の文化の総称。紀元前4500年前からはじまるクルガン文化とインド・ヨーロッパ語族の話し手を同一とみなしている。
黒海沿岸ステップ起源説(南東ヨーロッパ説)
 支持学者:キンブタスなど
※言語学者はこちらを支持している人が多い。
理由は、「紀元前2000年以後におけるインド・ヨーロッパ語族のメソポタミヤ、アナトリアへの侵入、さらに遡ってはウラル語派、フィン・ウゴール語族との接触、河川名などの固有名詞のつながりなど、古い資料を持つ語派の動きは、この地域を始点にすることによって比較的無理なく説明できる。」からである。


10377荊の紀氏:2020/05/16(土) 18:10:28
クルガン文化…海豚(イルカ)と河豚(ふぐ…)
>紀元前3200年頃…イルカはこの時に生まれたものだとも…

クルガン(кургáн, kurgan)は、ユーラシア大陸中緯度のステップ帯に分布する、青銅器時代の土による墳丘を伴う墓もしくは積石塚のマウンドを伴う墳墓である。墳丘墓の一種で、日本の古墳に近い。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
「クルガン」はトルコ語起源のスラヴ人の単語である。 クルガン型の墳墓は、青銅器時代のステップで活動した遊牧民の特徴を表す墳墓であって、アルタイ 地方から コーカサス、ルーマニアにまでまたがる範囲に分布している。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rui.jp%2Fruinet.html%3Fi%3D200%26c%3D400%26m%3D244319
スラヴ人
ユダヤ教に改宗した スラヴ人 がアシュケナジムの主体となったと説明しており [27] 、 ハザール起源説と言うよりスラヴ起源説の色がある /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkabukachan.exblog.jp%2F25167733%2F

ギンブタスは、地中海世界の地母神信仰が、ゼウスの語源に見られるような言語的に軍事的性格を持つ雷神信仰に代るこの文化的転換がより暴力的に行なわれたことをますます強調するようになった。これは、フェミニスト考古学の形成にかかる特有の議論である。インド・ヨーロッパ語族の移民説を受け入れる多くの研究者は、インド・ヨーロッパ化への移行は、ギンブタスが考えるよりももっと平和的で漸進的なものであったと考えている。 原インド・ヨーロッパ語族の移民は、確かに突然で、協同的な軍事行動ではなかったが、まとまりのない雑多な民族や文化、何世代にもわたる勢力の拡大であった。 しかし、インド・ヨーロッパ化への定着が、古ヨーロッパ文化とどの程度平和的に融合していったのか、又は、暴力的とさえいいうるほど強制的に置き換わっていったのかは、クルガン仮説の支持者たちに間での論争の課題となった。
ジェームス・マロリー (James Mallory) は、クルガン仮説をインド・ヨーロッパ語族の起源についての事実上の定説として支持した。しかし、ギンブタスの軍事的侵略による変化というラディカルなシナリオに対して妥当といえる批判を加えている。「軍事的侵略とか文化の転換というような議論は大体において、クルガンの分布の拡大に言及することを除いた場合には、非常にうまい説明になっている。」 ドイツの考古学者であるアレクサンデル・ホイスラー (Alexander Häusler) は、ギンブタスの考えている黄土墓文化や竪穴墓文化などいくつかの独自の文化が融合したものとしての「クルガン文化」 という概念について鋭い批判を展開してきた。(ただし竪穴墓文化では埋葬に黄土を他に比べてはるかに大量に用いており、現在では黄土墓文化と竪穴墓文化は用語としては同じ文化区分を指す。)
クルガン仮説のシナリオは、インド・ヨーロッパ語族の起源についての尤もな答えとして広く受け入れられてきたが、あくまでも推論の域を出ていない。ギンブタスのクルガン仮説に対する主要な代替論としては、コーリン・レンフリュー (Colin Renfrew) によるアナトリアを「原郷」として、インド・ヨーロッパ語族の言語のひろがりは、農業の普及の結果であると考える説である。 この見解は、クルガン仮説のような約6000年前という見解とは全く異なって約10000年前頃が、インド・ヨーロッパ語族にとって画期となる重要な時代であったと考える説でもあるのだが、言語学者の間では、言語年代学上の根拠のみならずインド・ヨーロッパ語族が分岐して地理的にひろがっていく過程から考えても農業の発展と関連づけるのは難しいことから、クルガン仮説よりも支持を得られていない。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
クルガン文化の担い手の遺伝的特徴
Y染色体ハプロタイプSNPマーカーR1a という特殊な遺伝的形質をもつ人々は、いくつかの点でクルガン文化と関連性がある。この遺伝的形質は、中央アジアから西アジア、インド、イラン、ヨーロッパ中部や東部のスラヴ人、ヨーロッパ北部のスカンジナヴィア人にもっとも頻繁に見られ、その周辺に向かってだんだんと稀になっていく特徴である。ヨーロッパで全般的にR1aが最も顕著に出る民族集団はスラヴ人、次いでスカンジナヴィア人(デンマークを除く)である。特に、先史時代に球状アンフォラ文化の中心地であったポーランドで顕著。スカンジナヴィアではノルウェーで顕著である。一方、このR1aはヨーロッパの最西端にあたるバスク地方、イベリア半島西部、ブリテン島西部といった、西からの男系の家系が社会的支配層(すなわち上流階級)を除くとほとんど入り込まなかった地域には広がらなかったようである([1][2]参照) 。
Ornella Semino などの研究者によると([3]を参照) 、バスク人など Eu18 に属するハプロタイプの人々やハンガリー人やウクライナ人に見られる Eu19 に属するハプロタイプの人々は、2万年前から1万3千年前の最終氷期(ヴュルム氷期)に(アフリカから)イベリア半島を経由して移り住んできたことが確かめられたとする。そして、パキスタン、インド、中央アジアに見られる Eu19 に属するハプロタイプの人々が移り住んだ範囲が拡大していくこととクルガン文化の広がっていく過程と関連づける。
対立仮説
アナトリア仮説 - 約9000年前の古代アナトリアがインド・ヨーロッパ語族の源流であるとする仮説。ラッセル・グレー(英: Russell D. Gray)とクェンティン・アトキンスン(英: Quentin D. Atkinson)両博士が2003年に発表した言語年代学による研究の中で強く主張し、「クルガン文化」のほうが第二次原郷である可能性も示唆していた[2]。しかしこれはあくまで言語学研究であり、アナトリアが原郷であったという地理的証拠とはなっていない。グレー博士の研究結果は単に古い時代にヒッタイト語派に発展する集団が、ほかのインド・ヨーロッパ祖語の集団からの言語学的な分化が紀元前7千年紀に開始されたことを示すのみである。この研究では非ヒッタイトのインド・ヨーロッパ祖語の集団がアナトリアから北へ移動したのか、それともヒッタイトのほうが非ヒッタイトのインド・ヨーロッパ祖語の集団から分かれて南下していったのか、いずれにしてもはっきりした証拠を示していない。ちなみに従来の考古学研究では、ヒッタイトに発展した集団のほうがほかのインド・ヨーロッパ祖語の集団から分かれて南下していったとする後者の説が支持されており、この説でもグレー博士による言語年代学の研究結果そのものと矛盾していない。ところがグレー博士は2003年の論文のなかでアナトリア学説、すなわち地理的結論を行ってしまった。
アーリアン学説 - 現在は完全に否定されている。
ケルト人に関連する遺伝子としてハプログループR-S116が挙げられる。ハプログループR-S116はイタリック語派とも関連しており、イタロ・ケルト語派仮説を支持するものである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
アーリア人はハプログループR1a (Y染色体)が高頻度である。インド北部では48.9%[9]、パシュトゥーン人に51%[10]、タジク人に44.7%[11]みられる。
アーリア人と関連した出来事 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
インド
紀元前2千年紀に、北西インド、パンジャーブでの牧畜が確認される[12]。インド・アーリア人となる。
中央アジア
イラン・アーリア人となる。
一部が古代アフガニスタンのアーリヤーナ(Aryana、アーリア人の土地の意味)に興る。
中央アジアにはその後もアーリア人種が残り、後にスキタイ人が黒海からアゼルバイジャンまでの範囲に栄える。
紀元前2500年頃には、アーリア人種のものと思われるアンドロノヴォ文化や類似する様式がアラル海やキプチャク草原、南西のトルキスタンで見られる。東トルキスタンでは紀元前4000年頃より遊牧が始められていた。
紀元前10世紀頃より、インド北西部から東のガンジス川に向かって移動するにつれ、宗教的な融合も始まる。後にアーリア人は、言語と宗教により認識されるようになる。
紀元前5世紀頃になり、ヴェーダが完成し、バラモン教の宗教的な形式が整えられる。
紀元前5世紀に成立した仏教がブラフミンの特殊性を否定したため、ブラフミンの支配を良く思わなかった王族クシャトリヤ階級に支持され、ブラフミンの地位は落ちて行く。
4世紀、新しい王の支持を受け、バラモン教を発展・継承するヒンドゥー教が作られる。

>それまで存在しなかったイルカ…
河豚計画(ふぐけいかく)とは、1930年代に日本で進められた、ユダヤ難民の移住計画である。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
イルカはなぜ「海豚」と書くのですか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkanjibunka.com%2Fkanji-faq%2Fmean%2Fq0323%2F
イルカ(海豚)…
いるか座(いるかざ、海豚座、Delphinus)は、天の川の近くにある星座で、トレミーの48星座の1つ。最も明るい星でも4等星と暗い星座ではあるが、星々が密集しているため見つけやすい。
神話 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
偽エラトステネスは、ポセイドンの妻になることを拒んで逃げたアムピトリーテーを探し出して連れ戻ったイルカを記念したもの、としている[1]。
ヒュギーヌスやオウィディウスは、紀元前7世紀の詩人アリオン (詩人)(英語版)にまつわる話を伝えている。アリオンがシチリア島や南イタリアの音楽会から故郷に帰る際、彼の持つ報酬に目がくらんだ船員がアリオンを殺害しようとした。アリオンは死ぬ前に琴を弾かせて欲しいと願い、船員たちはこれを許した。アリオンが弾き始めると、どこからともなくイルカの群れがやってきて、曲を鑑賞した。アリオンが身を投げると、イルカがその背にアリオンを乗せて故郷に連れ帰った。イルカはその功績が称えられ星座になったとされる[1]
イルカをポセイドンが創造…
一説にはそれまで存在しなかったイルカをポセイドンが創造し、贈り物にすることでアムピトリテとの仲が深まったという説もあります。こうしてイルカの働きによってポセイドンはアムピトリテと結婚することができたのでした。ポセイドンはイルカの功績を讃え、感謝のしるしにイルカを空に輝く「いるか座」に変えました。ポセイドンとアムピトリテのあいだには、魚の下半身を持つ「海神トリトン」、太陽神ヘリオスの妻となる「ロデー」、トラキア王エウモルポスを育てる「ベンテシキューメー」が産まれています。地震引き起こす大地の神だったポセイドンはアムピトリテとの結婚により、海洋を支配する海の力を手に入れたといわれています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.gibe-on.info%2Fentry%2Fposeidon%2F

ゼウス(弟)とハーデス(兄)は兄弟であることをご存知の方は多いと思います。もうひとり有名な兄弟で「ポセイドン」がいますね。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fpachiseven.jp%2Farticles%2Fdetail%2F255


10378秦野北斗:2020/05/16(土) 22:46:37
日本の歴史書に見るイルカの姿
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010934M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/イルカ



10379管理人:2020/05/17(日) 01:48:15
卑弥呼の都と宮殿
ちょっとまた邪馬台国について考えはじめているのですが、卑弥呼の宮殿記載で、侍女が1000人いたとされますね。そのうち100人は卑弥呼とともに殉死してます。

1000人の侍女が住むとなると、住居も必要でしょうし、1日3000食は容易しないといけないわけですから、相当な経済基盤が必要でしょう。

邪馬台国7万戸とされますから、1戸5人で計算すると35万人いたとして、そこから侍女を1000人かき集めたわけですね。

しかし、1000人もいて、彼女たちが日々何をしていたのかも気になります。

巫女集団として祈祷ばかりしていたわけでもないでしょうし・・・・。

文官として文書行政をしていたのでしょうか。畑を耕していたとは思えない。
裁縫とか衣服を造っていたのか??

卑弥呼の身の回りの世話だけなら10人いれば足りるでしょう。

強いて言うと、日本でも後代存在していた後宮がありますが、日本型ではなく、中国の後宮を参考にすべきなのかもしれません。

こちらはそのwiki説明。

中国で後宮とは、宮廷内で天子が家庭生活を営む場所であり、また皇后以下、妃嬪が暮らす場所でもあった。そのため后妃のこと自体を後宮ということがある。その他、後宮には多くの女官や宦官たちが暮らし、後宮内での職務に従事した。

前漢の制度では、昭儀、婕妤、?娥、容華、美人、八子、充衣、七子、良人、長使、少使、五官、順常、無涓、共和、娯霊、保林、良使、夜者を指す。後漢の光武帝は節約を理由に後宮の簡素化を施行し、妃嬪の位号も4級(貴人、美人、宮人、采女)にした。

晋代の制度では、三妃(貴嬪、夫人、貴人)、九嬪(淑妃、淑媛、淑儀、修華、修容、修儀、婕妤、容華、充華)、美人、才人、中才人。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25BE%258C%25E5%25AE%25AE


特に、上記にみえる?娥の「娥」は美人の意味で、以前分析した『翰苑』では卑弥娥として、つまり卑弥という美人として表現していることと関係してきます。


その文面は下記のとおり。

倭國

憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻
倭國

山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。 軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。 卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。 邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww001.upp.so-net.ne.jp%2Fdassai%2Fkannenn%2Fkannenn_mame.html


この書物の記載は、魏志倭人伝ではない伝承に由来すること、特に物部氏のそれと関係することを以前考えたことがありましたが、再考してみると、
「山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。」の部分は、前述のように、高良山や女山神籠石のように、当時の海岸沿いのそばにある山地で、台地となった部分に、都を建てたと解釈できるかもしれません。

高良山神籠石ならば、筑後川ですね、これが当時、海に近い状態として存在していたでしょうし、女山神籠石でも同様に瀬高西部の山門のあたりが海に近かったはずです。

そして、そこの都では「軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。」とあるように、女官たちが、前述の中国の後宮のような形で部として分類されていたこともわかります。

「卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。」とあるのは、これは卑弥呼が呪術や美貌で惑わせていたのに対して、台与は幼少である故にちょうど当時の王族たちにとって擁立するのによい存在であったことを対比的な形で記しているわけですね。

この両人が孝元・開化妃の物部系の鬱色許(うつしこ)と、その姪の伊香色許(いかがしこ)のことであることも、以前お話した次第です。

その鬱は惑わせる美人の意味ですね。名の伊香(いこう)は、つまり台与を記し違えて壱興(いこう)と解釈したために生じているわけです。この両人の女王の伝承は、後代の物部系譜に継承されているわけです。

「 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。」は、後代の隋唐大の日本についての文献から引用したものでしょう。

また「邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。」も、同様に中国の史書からとったもの、つまり魏志倭人伝のそれですが、邪馬台国とはいわずに邪として馬台とは分けている点が重要です。

邪を国名、馬台を地形・地名として理解しているわけですね。邪国=倭国でしょうか。

傍ら斯馬は、倭人伝で略載された20国の最初に出てくる「斯馬国」のことですが、つまり、この20国は邪(馬台)国ではないと理解しているわけです。

伊都國から奴・不彌国までが邪(馬台)国の支配領域と考えたのでしょう。

この筆者は、(馬台)を地形・地名を示す語であることを、何らかの中国的な知識で理解していたように見えます。だからそれをはずした邪だけを正式な国名だと考えたのでしょう。

そういう意味では、邪国の中にある「馬台」な地形の地域に、女王の都があったとの理解をしているわけで、その都は海岸そばの山地であったことも、別の文献などから知識として仕入れていたことがわかります。

だから、卑弥呼以前、あるいは以後の王の都は平地にあったのかもしれませんが、卑弥呼の時代の都は海岸沿いの山地にあったと理解すべきかもしれません。

そして、その地形の「馬台」ですが、馬の背中のような台地と理解すると、山の尾根を馬の背中として、その上を平らにしたような場所となりそうですね。

確かに高良山も女山も尾根沿いですし、頂部が平らになっているので、それに見合う土地とも感じます。

そして、1000人を住まわすだけの空間が卑弥呼の宮殿には存在していたはずで、少なくとも100戸くらいの大型住居が建てられていたのでしょう。

あるいは学校みたいなサイズの巨大建造物の中に部屋を区切って住んでいたのか・・・。

巫女集団がこもる山岳地帯の城郭みたいな場所だったとすると、やはり高良山や女山のような神籠石で囲まれた領域内に男子禁制で女性のみ1000人が住んでいて、その周囲の平地にさらに男性の兵士なり、官人、農夫が住んでいたのではないでしょうか。

しかし1日3000食を必要とするわけですから、相当大型の食料備蓄用の倉庫なり、台所や大型の竈なども必要だったでしょうし、機能的に宮殿内が配置されている必要があるわけです。

そして、水源となる湧き水や井戸が必要ですね。神籠石内だったとすると、そのどこかに水源があったでしょう。

それらの様子を記録しているのは、魏志倭人伝だけですが、後代の記紀伝承や高良山縁起などにも断片的に残っている可能性はありそうですね。

卑弥呼の後の男王は、卑弥呼の侍女900人をどうしたのか?も気になるところですが、その後の台与がそれを継承した可能性が高いように感じます。

台与は幼少なので、10年以上摂政をした人物がいたでしょう。武内宿祢の伝承にそれに近いものがありますね。

高良山奥社に武内宿祢の墓所があるのも気になるところですが、高良山の構造を再確認する必要がありそうです。

祇園山古墳からは60名以上の殉死者とみられる痕跡もあるようですから、その宮殿に関係していた可能性はあるでしょう。

卑弥呼の前の男王たちの時代の宮殿と、その卑弥呼の宮殿とは構造的にも大きく異なっていた可能性を感じますね。

その男王時代は、吉野ヶ里や岡本遺跡のような平地に居を構えるタイプの宮殿構造であったのに対して、卑弥呼は巫女として山奥に籠る、つまり神籠石タイプの宮殿域を構築した可能性があります。

ただ、卑弥呼と10人くらいのみがこもるのではなくて、1000人も籠るわけですから、その領域も町ひとつくらいの大きさが必要となるのですが、奇しくも高良山も女山もそのサイズに見合うような領域をその神籠石で囲んでいるわけです。

神籠石の高さが、後代の山城の城壁に比して低いのは防御面での必要性を有していたかったと考えるべきでしょうか。

ただ、女性のみの禁域としての囲みが必要だったのかもしれません。

そもそも、女性1000人がこもったところで戦いにはならないでしょうから、防御という観念はその当時薄かったのかもしれませんね。

その代わり、その周辺に別に男性兵士用の集落が散在していた可能性があります。

ともあれ、こう考えていくと、卑弥呼の時代の都・宮殿は、九州各地にある神籠石内にあった可能性が高いのではないでしょうか。

もう少し神籠石の発掘や地形調査を行う必要がありますね。そして、現在の九州の邪馬台国研究家自体の神籠石への研究意識が低いことを、今年は改善する必要があるように感じますね。

10380荊の紀氏:2020/05/17(日) 08:44:07
>太伯の苗と稱す。…呉の祖 苗族?
苗族の、頭飾りのデザインと、蚩尤の漢字が良く似ているようにも、私は思います。太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物です。
苗族(倭人と刺青)
魏志倭人伝によると、倭人は「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っており、古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを太伯(呉の祖;周の系譜)の子孫と称していると記されています。
黥面とは顔に刺青を施すことであり、文身とは身体に刺青を施すことであり、南方の海洋民族によくみられる特徴のようであります。
漁師なら分かりますが、何故に魏への使者が刺青者?と思われると思いますが、倭人の祖が苗族と考えれば話があいます。
中国の伝説によれば、BC26世紀頃に漢民族の原型である華夏民族の君主・黄帝が蚩尤(しゅう)を破り、敗れた蚩尤民族は苗(みゃお)族と黎(リー)族に分裂。  周王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚や呉を建国します。
蚩尤(しゅう)…
蚩尤は牛のような顔をしており、背中には二本の羽があったといいます。
今から4500年くらい前に、九黎と炎帝及び黄帝の部族が涿鹿(たくろく)の戦いを起こしました。この戦いで蚩尤は敗北し戦死したとも言われており、蚩尤の率いた部族連盟は黄帝と炎帝に吸収融合されました。prometheusblog.net/2017/01/27/post-2571/
蚩尤と九黎、三苗族
蚩尤は九黎の首領であるという記載は多く、論争もあります。蚩尤は九黎と三苗の関係を代表しています。《尚書》と《国語》などの多くの古籍に記載が見られ、三苗は九黎から別れて形成されました。九黎が戦争に敗れた後、一族は流散し、三苗に変わりました。この三苗は今の苗族とは無関係です。

マオリ人…
イギリス人流入前 マオリの伝承では1,000年前にポリネシアのハワイキという島からカヌーで来たことになっています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.compathy.net%2Fmagazine%2F2016%2F05%2F05%2Flets-learn-about-the-culture-of-maori-newzealand%2F
ポリネシア…
ポリネシア・ミクロネシア・メラネシアの違い /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fworld-note.com%2Fpolynesia-micronesia-melanesia%2F

南太平洋のアジア人 今から3600年ほど前、ポリネシアに一番乗りしたのは、後世にラピタと名づけられた人々だったと考えられています
広大な海を開拓したポリネシアの人々(前編)
ラピタ文化が花開いたのは、紀元前1500年から紀元500年頃と考えられていますが、ラピタ人のルーツについては、アジア起源説が最も有力です。ラピタ土器には文化面で先行していた台湾の土器と似通った部分があります。また、人類学の観点からも、注目すべき点があります。東アジアの日本人や中国人から発見され、「アジア人特有遺伝子」と呼ばれているミトコンドリアDNAの9塩基対欠損という特殊な遺伝子が、ラピタ人がかつて分布した地域やラピタ人がルーツであると考えられるポリネシア人に、さらに高頻度で見つかっています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.wastours.jp%2Fweb_tabihiro%2Fhyakka_ryoran%2F2015%2F0807.html

ラピタ人の航海 (約3,000年前) Voyage of Lapita Peaple Expedition ラピタ文化は、今から約3,000年前に太平洋のメラネシア(Melanesia)で発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器(Lapita pottery)を残しました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.stampmates.sakura.ne.jp%2Fgv-Lapta.html

呉族(ごぞく)は、中国福建省辺りの発祥と考えられる海洋民族であるが、大元は「ポリネシア群島辺りから中国大陸に沿岸部に移り住んだ人々ではないか?」と考えられる。
呉族(ごぞく/海洋民族) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fjiyodan.exblog.jp%2F13523256%2F
…任那(みまな)の国そのものの国内も農耕山岳民族(加羅族系)と海洋民族(呉族系/加那・カナ)は混在し、日本列島同様に覇権を争い新羅(シルラ/しらぎ)に後押しされた農耕山岳民族(加羅族)と百済(ペクチュ/くだら)に後押しされた海洋民族(呉族)との勢力争いは存在した。
一方で隼人系の「呉族」の様に一旦中国大陸で大国(呉帝国)を作り、文明を携えて一気に東シナ海を渡り日本列島に渡来して来た者達も居ただろう。
今に伝わる浦島竜宮伝説などは、その名残とされている。
この農耕山岳民族(天一族・加羅系)と海洋民族(隼人族・呉族系)と言う二つのまったく違う民族が、幾つかのルートを経て九州の地で遭遇し、生きる為の土地をかけて覇権を争う。
この争いの期間が、神代の時代だったのだ。
…日本列島の氏族が呉族(ポリネシア)系部族と加羅族(中国雲南省発祥の山の民)系部族の二系統が存在する証拠は、漢字と呼ばれる文字の読み方にも名残を残している。
例えば原(はら)の文字は、呉族(ポリネシア)系の「海の民」が原(バル)が「はら」と読み、加羅族(中国雲南省発祥)系の「農耕民族(山の民)」の原(ユェン)が「げん」と読むのではないだろうか?


10381秦野北斗:2020/05/17(日) 10:19:40
倭人は「皆面黥面文身」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010937M.jpg

『魏志倭人伝』(黥面文身)間違ってますよ・・・

>魏志倭人伝によると、倭人は「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っており、古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを太伯(呉の祖;周の系譜)の子孫と称していると記されています。

よくやるよ、引用は誤訳です。現在と文法は少し異なるのです。例は英語と日本語は文法、同じですか?
一部意訳しましょう。

男子無大小(むすこ、むだいしょう)、皆黥面(みな、いれずみつら)文身(もんしん)。自古(みずからいにしえ)以來(もってくる)、其使(そのつかい)詣中國(もうでる葦原中国)、皆自(みなみずから)稱大夫(たたえるタイフ)。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、(先祖は夏后の少康これこ)・・・

原文
男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國(葦原中国)、皆自稱大夫。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。



10382荊の紀氏:2020/05/17(日) 13:54:35
黥面文身…「黥首ゲイシュ」…
「黥面ゲイメン」(入れ墨をした顔)「黥徒ゲイト」(入れ墨の刑罰を受けた罪人)
黥 ゲイ・ケイ・いれずみ  黒部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Faa3426a2edf8a959fc448e3f22c8127d
解字 「黒の旧字(くろ)+京(ケイ)」の形声。ケイは刑ケイ(刑罰)に通じ、顔に黒い入れ墨をする刑罰をいう。多くは目の周辺、鼻の上、額(ひたい)・頬(ほお)などに施したという。ゲイの発音はケイが変化した慣用音。
意味 いれずみ(黥)。罪人の顔に墨をいれる刑罰。「黥首ゲイシュ」(刑罰で顔に入れ墨をすること)「黥面ゲイメン」(入れ墨をした顔)「黥徒ゲイト」(入れ墨の刑罰を受けた罪人)

ブリトン人 ( Briton 、ブリタニアの住民である ケルト 人 ) は皆、自分の体を 細葉大青 ( ホソバタイセイ ) [ アブラナ科の 菘藍 ( ショウラン ) ] で染めている。この薬草からは青色染料が取れ、戦闘中の野性的な外観を与える
と記していましたが、体に文様を書き色を塗る ボディ ・ ペインティング ( Body Painting ) だけではなく、 入れ墨もしていました。西暦前 54年の ブリタニア遠征から帰還した ローマ軍団の兵士により、 ブリトン人の入れ墨の風習 が ローマ帝国全土に広がりましたが、古代 ローマ皇帝 コンスタンチヌス一世 ( 在位306〜337年 ) の頃には、 キリスト教徒の間では顔と腕に十字の印を入れ墨する者が増えました。
[ 4:入れ墨文化の日本への伝搬 ] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.rose.ne.jp%2F%7Eooha%2Firezumi.htm
入れ墨の伝搬経路をたどることは、とりもなおさず日本人の ルーツに直接関係してきます。南方系、北方系、大陸系 ( 半島系を含む ) の混血である日本人の中で、次項で述べる魏志倭人伝に書かれた 三世紀頃に [ 入れ墨文化 ]  が存在したことが知られていますが、ではそれがいつの時代に、どこからもたらされたのか正確には分かりません。
黒潮に乗って島伝いにやって来た南方系の人々 ( 原日本人の一部 ) がもたらした [ 入れ墨文化 ] は、大和朝廷成立後から奈良時代初めまでの間に消滅しましたが、一説によれば [ 入れ墨文化を持たない ] 別の部族によって [ 入れ墨文化 ] を持った人々が征服されたためであり、新しい支配者が入れ墨を野蛮な風習とみなしたためとされました。
しかし大和文化圏から遠く離れた沖縄や、北方系の人々の間では オホーツク文化、 擦文 ( さつもん )文化が [ アイヌ文化 ] へと発展し、東北、北海道の アイヌ人の間では、明治時代まで何千年もの間 入れ墨の風習が受け継がれてきました。
…台湾の先住民のうちで高砂 ( たかさご ) 族 といわれた [ タイヤル族 ] ですが、中国大陸系ではなく 南方系の種族といわれています 。
倭人の黥面 ( げいめん )も、このような [ 入れ墨 ] を顔にしていたのかも知れませんが、残念なことに日本の気候風土が湿潤温暖なために、特別な場合を除き日本では ミイラや死蝋化した遺体は発見されませんので、僅かに埴輪 ( はにわ ) や土偶 ( どぐう ) などに描かれた文様を基に、推測せざるを得なくなります。
黥面 ( げいめん、入れ墨をした顔 )をした猪甘 ( いかい、朝廷の豚を飼う仕事の猪飼部 )…
猪飼部:大化前代、大王へ献上する猪を飼養するのを職とした部民。
部…
部は〈ベ〉とも〈トモ〉ともよむ。日本では大化改新以前に,朝廷あるいは天皇・后妃・皇子・豪族などに隷属し,労役を提供し,また生産物を貢納した人々の集団をいう。部は,中国・朝鮮などにもひろく存在した社会制度で,日本の部の制度も,それらの影響下に成立したと思われる。中国では漢・魏から唐代にかけて,豪族のもとに部曲(ぶきよく)とよばれる集団が隷属し,その内容も軍伍→私兵→私賤というように変化したが,奴婢よりは上位の身分とされた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F

一定の地域に住み同族意識をもつ集団
部 ブ・べ  阝部おおざと /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fb3a3971b92ef5f8b7336fc1550647ac7
解字 「阝(邑。人の住む地域)+咅(分かれる)」の会意形声。いくつかに分かれている人の住む地域。
意味 (1)集落。むれ。「部族ブゾク」(一定の地域に住み同族意識をもつ集団) (2)分ける。分けたものの一つ一つ。「部品ブヒン」「部分ブブン」「一部イチブ」 (3)組織上の区分。「部署ブショ」「部員ブイン」
分ける…
放浪をイスラエル人たちに課す…
モーセはシナイ山にて神との契約である『十戒』を受けることとなる。
 このため、モーセは「立法者」と呼ばれることとなる。
 この戒律は、神と人との関係と、人と人に関する法を意味している。
 この後に、モーセは土地の王と戦いつつカナンの地へ至った。
 しかし、カナンを前に民が神とモーセに不平を言ったため、神はさらに40年の放浪をイスラエル人たちに課す。
 モーセもまたメリバの泉で、神の命令に従わなかったため、カナンの地へ入ることを許されなかった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fw.atwiki.jp%2Fminnasaba%2Fpages%2F271.html
メリバの泉…
彼らは徒党を組んでモーセとアロンに逆らった /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.tomisatochristchurch-baptist.net%2Findex.php%3F%25E3%2583%25A1%25E3%2583%25AA%25E3%2583%2590%25E3%2581%25AE%25E6%25B0%25B4%25E3%2580%2580%25EF%25BC%2588%25E6%25B0%2591%25E6%2595%25B0%25E8%25A8%2598%25EF%25BC%2592%25EF%25BC%2590%25EF%25BC%259A%25EF%25BC%2592%25EF%25BD%259E%25EF%25BC%2591%25EF%25BC%2593%25EF%25BC%2589
「あなたたちは、ツインの荒れ野にあるカデシュのメリバの泉で、イスラエルの人々の中で私に背き、イスラエルの人々の間で私の聖なることを示さなかったからである。あなたはそれゆえ、わたしがイスラエルの人々に与える土地をはるかに望み見るが、そこにはいることはできない。」(申命記32:51〜52)
メリバの水は、わたしたちすべての罪を洗い清めて下さる恵みの水なのです。この命の水を出して下さる岩こそ、十字架のイエス・キリストご自身だったのです。…
水人…
こうした水人たちの棲息する広域の沿岸地域が「倭」とよばれていたのである。 中国書物に「倭」という文字が登場する最古のものは『山海経』である。(『隋書』倭国伝が使っている倭の異字体と同じものが『史記』にも登場する /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fdogs_ear%2Fe%2Fb2a87dcc6a49e0117405dc7b36b94037
…水人に共通するのが「裸足・断髪・文身(刺青)」である。
 雲南省西南部には、左衽(左前の襟合わせ)・裸足・断髪・文身の習俗をもつ少数民族がいるが、こうした南方民族のことと思われる記録が後漢代に成立した『論衡』にみえる。
 周の時、越掌、白雉を献じ、倭人、□草を貢す。
 成王の時、越掌、雉を献じ、倭人、暢草を貢す。
 周の成王は紀元前1100年ごろの人物である。この時期の列島は縄文時代にあたるから、時代的にもここでいう倭人は、やはり原義に近い人種(南方沿海の倭人)ではなかったと思われる。越掌はベトナムあたりを指し、白雉は白いキジ、□草は祭祀薬草(一説によるとマンネンタケ)のことをいう。暢草も芳香性の祭祀薬草である。
紀元前1100年…
紀元前1100年前後 モーセの後継者であるヨシュアがリーダーとなって、パレスチナ侵略を開始。獲得した土地を各支族ごとに分割統治する。 士師のもとで、イスラエル民族史は200年の暗黒時代に入る。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Finri.client.jp%2Fhexagon%2FfloorA1F%2Fa1f1101.html

「倭」…
倭 ワ・イ・やまと  イ部
解字 「イ(ひと)+委(曲がって低い)」の会意形声。背が曲がって低い人。
 委 イ <女が身体をなよなよさせる> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fd54b192c223e1a1bb600e10a9e17d690
「禾(穂先がなよやかに垂れたイネ)+女」の会意…
穂+女… 女神の穂(スピカ)…
??豊穣を司る女神 オセロニア ペルソナ2 罪と罰 麦の穂 乙女座 愛娘ペルセポネ(コレー)の身に起こった悲劇 母心が大飢饉を起こす 冥界の女王と四季の誕生 デメテル(メーテル)〜冥界の女王と四季を誕生させた豊穣の女神〜 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmonspedia.com%2Fdemeter%2F

古代ヘレニズム世界で、智慧を象徴する女神とも考えられた。 グノーシス主義やユダヤ教などではアイオーンの名で、この世の起源に関して重要な役割を持つ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
アイオーンは「時代」や「ある期間」を意味し、占星術における魚座の時代、水瓶座の時代などの時代と通じるところがある。魔術やオカルトにおいては、「テレマ」の概念と関係する
ホーラは単数形で、複数形ではホーライ(?ραι, Hōrai)という。いずれも時間の意味。また、季節女神とも意訳される /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwpedia.goo.ne.jp%2Fwiki%2F
ヘーラーあるいはアプロディーテーの侍女であり、ディオニューソス、ペルセポネー、デーメーテール、アポローンなどにも従ったりしている。それゆえ彼女達は、花あるいは植物を手にした優雅な三人の美しい乙女の姿で表される[2]。
ホーライ… 蓬莱…
史記の三神山(蓬莱山、方丈山、瀛洲山)は日本にあるのか。富士山の名の由来は方丈山だった?
蓬莱岩、蓬莱峡、蓬莱町と、全国に蓬莱の地名が散らばってるのは、おそらく徐福渡来伝説に関係してるのかもです。日本が蓬莱山の土地であるとの伝承を踏まえて、日本各地に蓬莱の名が名付けられていったとすれば、日本は古来より秦の影響を強く受けていたのは間違いないです。
蓬莱が「よもぎ」だとすると、よもぎと黄泉(よみ、よも)は関係するかもですが。発音からしても似ていますし。何故かと言うと『出雲国風土記』で、蓬莱山のことを「常世国」と言っているからなのですね。常世国と黄泉は、いずれも出雲に関係があるとされます。
瀛洲(エイシュウ/ヨウシュウ)について /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftacchan.hatenablog.com%2Fentry%2F2015%2F05%2F25%2F041719
『学研漢和大字典』によると「瀛洲」とは「中国の伝説にある三神山の一つ。東海(渤海)中にあって仙人が住んでいると伝えられる。「海中有三神山、名曰蓬莱、方丈、瀛洲、僊人居之海中に三神山有り、名付けて、蓬莱、方丈、瀛洲と曰ふ、僊人ここに居す」『史記』新始皇」とあります。
そういえば、瀛洲山に似た名前を、日本人は知ってるではないですか。
阿蘇山。『隋書』に倭国を代表する山として登場しています。富士山ではなく九州の阿蘇山なのが重要ポイント。瀛洲(えーしゅ)阿蘇(あそ)はなんとなく似てるので、もしかするともしかします。
瀛洲が日本を表す言葉なのは、本来阿蘇山=瀛洲山のある九州こそが倭国だったことを表していると思えるのですが。
九州こそが倭国だった…
蓬莱山の用語解説 - 中国,古代における想像上の神山。三神山 (蓬莱,方丈,瀛〈えい〉洲) の一つ。山東地方の東海中にあり,仙人が住み,不死の薬をつくっており,宮殿は金玉,白色の鳥獣がおり,玉の木が生えているとされた。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
瀛〈えい〉…
(秦と江は同じ嬴姓の国で、同盟もしていたようです)
古代の笠氏…?嬴姓高丘系図 https://8220.teacup.com/toraijin/bbs/4137
その子孫らは殷に仕え諸侯となり、周の 穆王の頃、造父が馬をよく御するので寵幸された。造父は四疋の珍しい色の馬を献し たり御者として乱が起こった地に馬を馳せ、乱を鎮めた。そこで穆王は趙城に造父を封じ た。

リリス(Lilith)は、ユダヤの伝承において男児を害すると信じられていた女性の悪霊である /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
タルムードにおいてリリスは翼と長い髪を持つとされているが、これは現存する最古の言及(ギルガメシュ叙事詩)にまで遡る。
女性の悪霊…現代ではリリスは女性解放運動の象徴の一つとなっている。
倭水人が女王国を含んでいる…
大陸の書物には、倭人の祖は自称"夏"系列の越とか、自称"周"系列の呉という記載がある。しかし、魏志倭人伝のココでは、倭水人が女王国を含んでいるからといって、同一概念とは限らない。
これより古い時代の倭人とは、山東半島対岸の朝鮮半島東南部を中心とした勢力。広義ではおそらく、多島海〜済州島〜対馬/壱岐〜北部九州。奈良盆地を含む日本列島を「倭」とみなしていたとは思えないからだ。www.randdmanagement.com/c_gs/gs_004.html
黥面文身 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.randdmanagement.com%2Fc_gs%2Fgs_004.html
日本列島では、黥面や文身型土偶は珍しくないから、入墨風習は古くからあったのは間違いないところ。その点では、呉越との共通海人文化を共有しているのは間違いない。
「古事記」でも、伊須氣余理比賣のもとに、天皇の婚姻申し出を伝えるべく出向いた大久米命の黥利目は驚きを持って受け止められている。
入れ墨…
神秘的な入れ墨は、湾岸で不運を保つと信じられており、何世紀もの間、カンボジア人に保護を提供してきました。 伝統、マジックタトゥー、または サック・ヤント クメール語では、悪霊を追い払い、危険を避け、所有者を不幸から守ると言われています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.yourtripagent.com%2Fhow-magical-tattoo-artists-in-cambodia-ward-off-bad-luck-8683

弥生人の化粧や入墨の風習
顔や手、足などに白粉や紅を塗り、美しく飾る慣習は大昔からあるものです。古代エジプトでは前1200年にはすでに化粧の慣習が存在しました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fcamera-gakkou.com%2F6-yayoijin%2Fentry45.html
日本では3世紀後半の古墳時代の遺跡から、顔や身体に化粧がなされた埴輪が出土しており、今のところ、これが日本人が化粧をしていたことを示す最古の史料となっています。
…魏志倭人伝の記述を裏付けるように、弥生後期からは入墨を表した土偶が出現しています。このような入墨は、上記の記述にあるように漁の際、大魚を威嚇する目的に彫られたほか、成人や戦士の印に通過儀礼として与えられたものだとも考えられています。
魏志倭人伝には、弥生時代終わり頃の倭人の髪型についての記述があります。
【※引用 男子はかぶり物を付けず、木綿の布で頭をしばる(以木緜招頭) 衣服は幅広い布を(其衣横幅)ただ結んでつないでいるだけで(但結束相連)、縫ってはいない(略無縫)。夫人はかぶり物をし、後ろで髪を結っていた(婦人被髪屈?)※】
弥生人の髪型が美豆良に再現される理由とは…

>美豆良(みずら)の正体はユーラシア大陸の奥地に見つかる ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftacchan.hatenablog.com%2Fentry%2F2014%2F10%2F23%2F173718
みずら状髪型の年代を追っていくと、最も古いのは中央アジアのアーリア人であると見られました。紀元前1500年頃のみずら状髪型の人形が見つかってます。


10383秦野北斗:2020/05/17(日) 14:56:55
『魏志倭人伝』(黥面文身)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010939M.jpg

原文
男子無大小、皆黥面文身。自古以來、其使詣中國(葦原中国)、皆自稱大夫。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、封於會稽、斷髪文身、以避蛟龍之害。今倭水人好沈没捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。計其道里、當在會稽東治之東。

男子無大小(むすこ、むだいしょう)、皆黥面(みな、いれずみつら)文身(もんしん)。自古(みずからいにしえ)以來(もってくる)、其使(そのつかい)詣中國(もうでる葦原中国)、皆自(みなみずから)稱大夫(たたえるタイフ)。夏后(夏・殷・周)少康(夏朝の第6代帝)之子、(先祖は夏后の少康これこ)・・・
封於(ほうずるおいて)會稽(かいけい)、斷髪(さだめるかみ)文身(もんしん)。以避(もってさける)蛟龍(みずちりゅう)之害(これわざわい)。今倭(いまみなと)水人(うみひと)好沈(このむうき)没捕(しずむとらえる)魚蛤(さかなはまぐり)、文身(もんしん)亦以(またもって)厭大魚(きらうもとさかな)水禽(うみとりこ)、後稍(おくれるようやく)以爲飾(もってなすかざる)。諸國(もろもろくに)文身(もんしん)各異(おのおのあやしい)、或左(あるたがう)或右(あるたすける)、或大(あるもと)或小(あるさ)、尊卑(うやまうひくめる)有差(あるたがう)。計(かぞえる)、其道里(それたとえるみちのり)、當在(まさにいます)、會稽東治(かいけいとうじ)之東(これひがし)。

「倭」…
倭 ワ・イ・やまと  イ部
これは、やまと、とは読まないのだ、みなと、読む。万葉集にある。

http://



10384秦野北斗:2020/05/18(月) 11:01:04
[10935] 卑弥呼の都と宮殿
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010940M.jpg

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kannenn/kannenn_mame.html



10385荊の紀氏:2020/05/18(月) 15:54:15
>倭國(みなと、くに)
「倭」…参宿…みなと・あつまる…オリオン座ζ星(三つ星の東端)…
日本へと 波状的に海を渡って行った。聖書のどこに「東の島々の国」と書いてありますか?
多くのイスラエルの民は、遠く離れた大陸の端に浮かぶ東の島々を夢見ながら旅をすることになります。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.historyjp.com%2Farticle.asp%3Fkiji%3D52

漢字の起源 参 私 ム  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4742
三つ星が古代から航海の神として重要な位置にありましたが、東の方位にあり天上界の 登り口として宮古島では捉えられていますから、ここから神様や死者 .... 耒 鋤 耜 犂 鍬 臿【唐鋤星】からすきぼし 〔補説〕 唐鋤に見立てていう 二十八宿の参(しん)宿の和名。 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F716
「三女神」というのは、航海の守り神であったオリオンの三ツ星から来て いる可能性もあります。 この宗像大社の祭神である市耒姫(いちきひめ)を移したのが 、広島にある厳島神社です。
「三輪神社」の命名にも、三ツ星が関係しているかもしれません…。
航海の守り神…
倭 >みなと読む。…みなと(湊)…奏(あつまる)
湊 ソウ・みなと・あつまる  氵部
解字 「氵(みず)+奏(あつまる)」の会意形声。水上で人や物資を載せた船があつまる場所をいい、みなと・あつまる意となる。
意味 (1)みなと(湊)。ふなつきば。「湊泊ソウハク」(船が湊に停泊すること) (2)あつまる(湊まる)。あつめる。「輻湊フクソウ」(輻は車のスポークで集まる意、湊も集まる意、方々から一か所にあつまること)
輳 ソウ・あつまる  車部
解字 「車(車輪)+奏(あつまる)」の形声。車輪の輻(スポーク)が軸にあつまること。
意味 あつまる(輳まる)。一か所にあつまる。「輻輳フクソウ」(スポークが軸にあつまるように、四方からあつまる。=輻湊)
若木の枝+…
下部が天に変化した(若木が「屮+大+十」の形)奏になった。秦(シン)…二つの禾(こくもつ)をうつ形。(変光している・スピカ)…
禾(穂が実ってたれたイネ等)…女が身体をなよなよとさせる形…(変光している)… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fturupura.com%2Fguide%2Fstar%2Fsupika.html
「委イ」 と 「季キ」 <禾の下に女と子がついた字> と「魏ギ」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fd54b192c223e1a1bb600e10a9e17d690
解字 「禾(穂先がなよやかに垂れたイネ)+女」の会意。女が身体をなよなよとさせる形で、力なく他人に身をまかせる女の意。ゆだねる、まかせる意味を表わす[学研漢和]。
意味 (1)ゆだねる(委ねる)。「委任イニン」「委託イタク」 (2)まかせる(委せる)。「委員会イインカイ」「委譲イジョウ」 (3)くわしい(委しい)。こまかい。「委細イサイ」
イメージ
 女が身体をなよなよさせる形から「身をゆだねる」(委)
「曲がって低い」(萎・倭・矮)
「その他」(魏・巍)
音の変化  イ:委・萎  ギ:魏・巍  ワ:倭  ワイ:矮
委 イ・ゆだねる …禾(穂)+女(女神)…
麦の穂 女神 生死 翼 低い…検索 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F5075
翼:麦の穂を持っち翼のあるこの女神は、大地を守る農業の神です
女神:乙女座は黄道12星座のひとつで、現在の秋分点でもあります。左手に麦の穂を持っちのあるこの女神は、大地を守る農業の神です。
麦の穂:スピカは女神の持つ麦の穂先に輝く星です。青みがかった光を放つ星ですが、低い空では、真珠のように白く輝いて見えます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.ksky.ne.jp%2F%7Etatsuo%2Fbirthday%2F10-2.htm
低い(南): /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.tottori.lg.jp%2Fwww%2Fcontents%2F1425107882625%2Fhtml%2Fcommon%2F54f66b0d107.htm
生死: 生と死 の世界をつなぐ存在…豊穣の女神デメテル…
おとめ座は,正義の女神アストライア,穀物神デメテルの娘ペルセフォネ,あるいはデメテル自身の姿に見立てられ,スピカは女神の手にした麦の穂の位置に輝いている。
おとめ座のα星。この名はラテン語で麦などの穂を意味する。おとめ座は,正義の女神アストライア,穀物神デメテルの娘ペルセフォネ,あるいはデメテル自身の姿に見立てられ,スピカは女神の手にした麦の穂の位置に輝いている。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
おとめ座:天関(天にあるとする関所の番人)。七曜の行く所。この星が明らかであると王道は太平。
二十八宿とは 古代中国28星座 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkomonjyo.net%2F28syuku.html
おとめ座:内朝(宮中で天子の居る室)。疫病を司る
…世界中で使われている七曜と十二星座を組織的に広めたのは、ミトラ教である。
インドの占星術は、『宿曜経』という経典にもとづくもので、「宿」は月を中心とするインド伝統のもので「曜」は惑星や太陽を中心とする西方起源のもの。この占星術は中央アジアを経て中国で整備されたものが日本に伝わった。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Ftaishi6764%2Fentry-12001563058.html
「ミトラ教と妙見信仰と秦氏のなぞ 1」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblogs.yahoo.co.jp%2Fyopico_0105%2F17213431.html
秦氏は大陸にルーツを持つ渡来人です。マダラのルーツがミトラであるなら、秦氏のルーツもインドかペルシヤかローマ帝国に求めることができます。
『古代ユダヤの暗号』(月海黄樹・石沢貞夫著、日本文芸社)の中の「魔陀羅の色は、ペルシャにおける最高神を表わす色であり、広隆寺の本尊が弥勒菩薩であることから考えると、この牛にまたがっている魔陀羅が、ミトラであることは間違いない」という記述です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Frandynewman%2Fe%2Fc207024621bea1ab0516917e4c302917
弥勒=ミトラ=シリウスの信仰が日本に公的に伝わったと考えるのがわかりやすい シリウス信仰の聖方位という ...
この期間、太陽が獅子座に入り、シリウスが地球とオリオン座の三つ星を ライオンズゲートは毎年開くそうです。
ライオンズゲートは、毎年8月8日から12日に開きます。この期間、太陽が獅子座に入り、シリウスが地球とオリオン座の三つ星をつなぐ位置に入るのです。
太陽が獅子座!
シリウスが地球とオリオン座の三つ星をつなぐ位置に入る!
三つ星をつなぐ…
住吉三神はオリオンの三ツ星 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flunabura.exblog.jp%2F15412072%2F
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)
「筒」とは「星」の事です。
宗像三女神は、三柱が並んでいることから星の中でも重要視されるオリオン座の真ん中の3つの星(オリオンのベルト)を神格化したと言われます。宗像三女神はオリオンのベルトを意味するという説
宗像三女神を辺津宮・中津宮・沖津宮に配置…
津…みなと。渡し場。…みなと(湊)
先が三本にわかれた筆を手にもつ形。
津 シン・つ  氵部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fb94201e8602dd9f5260317dfbba6e9c3
解字 「氵(かわ)+聿(シン)」の形声。シンは進シン(すすむ)に通じ、川を舟で進んでついた向こう岸、船の渡し場をいう。また、滲シン(しみ出る)に通じ、身体からしみ出てくる汗・なみだなどをいう。
意味 (1)つ(津)。みなと。渡し場。「津駅シンエキ」(船着き場の宿場)「津波つなみ」(津を襲う大波)「大津おおつ」(地名)(2)しる(汁)。あせ・なみだ・つばき、など。「津液シンエキ」(つばき)「津津シンシン」(つばがわくように次々とわき出る)「興味津々キョウミシンシン」
向こう岸、船の渡し場をいう。また、滲シン…

おとめ座のα (アルファ) 星の固有名。 スピカとはラテン語で「小麦の穂」の意で、正義の女神アストライアが左手に持つ小麦の穂の位置にあたる部分にある。アラビア名はアジメクAzimechで「守られていない」の意。実視等級は0.97等(変光している) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
線スペクトルの形も種々のモードの非動径振動(星が球形からずれて揺さぶられる振動)のため複雑に時間変化している。

滲シン…参宿(しんしゅく)、和名は唐鋤星(からすきぼし)、二十八宿の一つで西方白虎七宿の第7宿。距星はオリオン座ζ星(三つ星の東端の星)。
参[參] サン・シン まいる  ム部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F489450704ba013e5ab07530b3b83e43e
解字 金文第一字は、三本のかんざしを頭に挿した人が、ひざまずいている形。第二字は、かんざしの玉が光ることを示す彡サンを加えた形。かんざしを付けて盛装した人が宮中などに参内しひざまずく形で、「まいる・もうでる」意となる。多くの人が行くので、加わる・集まる意ともなる。旧字は「厽 ルイ(三本のかんざし)+人+彡サン」の形になり、新字体は旧字の厽 ⇒ムに簡略化され、「ム+大+彡」の参となった。
意味 (1)まいる(参る)。目上の人の所へゆく。宮中などへ行く。「参内サンダイ」「見参ケンザン」 (2)寺社などに詣でる。「参詣サンケイ」 (3)加わる。集まる。まじわる。いりまじる。「参加サンカ」「参集サンシュウ」「参差シンサ」(いりまじる。ふぞろい。ちぐはぐ) (4)くらべる。しらべる。「参考サンコウ」「参照サンショウ」 (5)人蔘ニンジンの代用字。「人参」 (6)「三」の代用字。
イメージ  「まいる・くわわる」 (参・驂)
       「同音代替」 (惨・滲・蔘)
       「その他」 (鰺)
ひざまずいている形…ムムム
春の大三角 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftentaitenmon.com%2F664.html
冬の大三角 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkids.yahoo.co.jp%2Fzukan%2Fastro%2Fwinter%2F0015.html
夏の大三角 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkids.yahoo.co.jp%2Fzukan%2Fastro%2Fsummer%2F0016.html

スピカ
スピカは二十八宿の起点角宿の「すぼし」だった
中国星座の黄道12星座に相当するのが「二十八宿」と呼ばれる28の星座です。
月が27.5日かけて天球を1周するとき,一晩ごとに1つの「星座=星宿(せいしゅく)」を移動するように割り振られたもの。

黄道12星座の出発点は春分点(現在のうお座)ですが二十八宿の起点は秋分点に近い「角宿(かくしゅく)おとめ座中央部」にあります。
星宿名 角宿
和訳名 スボシ
現代星座での概略位置 おとめ座中央部
距星 おとめ座α(スピカ)…春の三角形…冬の星座オリオン座のベテルギウス、

四季の大三角形と大四辺形ペガススの大四辺形を「秋の大四辺形」と呼んでいる
冬のダイヤモンド(大六角形) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fstella-record.net%2Fsiki_daisankaku
おおいぬ座の「シリウス」と、オリオン座の「リゲル」、おうし座の「アルデバラン」、ぎょしゃ座の「カペラ」、ふたご座の「ポルックス」、こいぬ座の「プロキオン」の6つの星を結んだもの
冬の星座を紹介する上で欠かせないのが、「冬の大三角形」と「冬のダイヤモンド(六角形)」です。
六角形 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.nobikoto.com%2Fentry%2Forionza_huyunoseiza_daisankakkei
冬の大三角形は、おおいぬ座のシリウス(写真下)、こいぬ座のプロキオン(写真左)、オリオン座のベテルギウス(写真右)によって構成されます。

夏の大三角形と春の大三角系が気になりました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fyukistage3%2Fentry-12387729487.html

三角 四角…台形…平行な2本の対辺を台形の底辺といい、そのうち一方を上底(じょうてい)、他方を下底(かてい)とよぶ。
上底…昊天上帝(こうてんじょうてい)…
昊天は中国神話中の至高神である天帝の尊号です。夏文明における上帝で、古くより朝廷の公式な祭祀で祀られました。古い文献には、虞舜、夏禹の時代にすでに上帝があったと記載されています。
天帝:中国の天帝って誰の事?天帝について徹底解説 prometheusblog.net/2018/01/21/post-7375/
東皇太一は楚人の屈原の《九歌》の中に見られます。この九歌中には天神として描写され、中国の戦国時代の楚国の最高神で、天空星辰を主宰していました。
太一は天一とも言われ《晋書・天文志上》には、”天一星は紫宮門の右にある。”とあり、《星経》には、”太一星は紫宮門外の天一星の南にある。紫宮は北極星がある天区であり、天一、太一ともに大変暗い。”とあります。
太一は神の名であり泰一とも書きます。《史記・封禅書》には、”天神貴太一”とあり北極神の別名と書かれています。《天官書》には、”中宮天極星、その一明者、太一は常に居るなり。”とあり、”泰一は天帝の別名なり、泰一は天神の最も尊貴者なり。”とあり北極神であり天帝とされています。
泰…大と両手を合わせて 「三+人」の形 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F7d0b4e9827abfaa51a0f89d4e7dc84b7

太一神が九宮を巡行…
長安城の南東郊に薄忌(はくき)太一とよばれる祠壇が設けられたのを最初としそこでは天一,地一,太一の3神が祭られた。… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
太一(たいいつ、拼音: tàiyī)とは古代中国における宇宙の根元を表す哲学的概念、または天の中心に位置する星官(星座)、またはその神格。大一・泰一・太乙とも書く。
「中宮天極星、其の一に明るきは太一の常居」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
太は至高を、一は唯一・根元を表す語であり、『荘子』天下篇に戦国時代の諸子百家のうち道家が軽んじたものとして登場する。また『呂氏春秋』大楽篇では道のこととし、道は形がなく、名づけることもできないが、強いて名づけるなら「太一」であるとし、太一から始まって太一、両儀、陰陽、万物という宇宙生成論を唱えた。また1993年、郭店楚墓から出土した竹簡『太一生水』に太一から始まる太一、水、天、地、神明、陰陽、四時、倉熱、湿燥、歳という生成論が見られる。
漢代の『淮南子』天文訓において「紫宮は太一の居」としたり、『史記』天官書において「中宮天極星、其の一に明るきは太一の常居」とされるように、天上世界における宮殿である紫微宮のなかに位置する星として認識されるようにもなっていた。また『史記』封禅書では謬忌なるものが漢の武帝に太一を祀ることを進言しており、そこでは太一を天神の尊きものとし、太一の補佐を五帝としている。武帝はこの進言を入れ、太一壇を設けて天一・地一・太一の3神を祀っている。
中国古書『荊州占』では、「黄竜は太一の妻」とある。 以後、太一は天の中心に位置する北極神と解され、天皇大帝や昊天上帝といった至高神と同定されることもあった。後漢の鄭玄は『易』の注釈において太一を北辰(北極)の神とするとともに八卦に配当された9つの宮殿(九宮)を順次めぐってゆく「太一九宮の法」を記した。唐・宋代には太一・摂提・軒轅・招揺・天符・青竜・咸池・太陰・天一の9神が支配する9つの宮殿とし(九宮貴神)、太一神が九宮を巡行としてそれにもとづき禍福を占ったり、九宮貴神壇を設けて祭祀を行ったりした。

東から西へ大きな弧を描きながら、時計の針と同じ方向に、1時間で15°ずつ動く。
四季の星座www.hello-school.net/primrika006001.html
(2)1年の動き
同じ時刻に見える星の位置は1日に約1°、1ヶ月で30°東から西にずれる。
星が同じ位置に見える時刻は1日に約4分、1ヶ月で約2時間ずつ早くなる。


10386秦野北斗:2020/05/18(月) 21:52:24
古事記を翻訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010942M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_02.html

http://



10387荊の紀氏:2020/05/19(火) 11:55:47
三女神…
アマテラスとスサノオのウケイから誕生した三女神とはいかなる神か。これら三女神の出現を記す神代紀(じんだいき)の六段本文では単に筑紫の宗像君(むなかたのきみ)らの祭神とするのみで降臨の場所さえ記していない
記紀以前に知れ渡っていた三女神=玉依姫 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkenkokusi.web.fc2.com%2Fhimiko%2F2.1.html
…712年以前には玉依姫七社、三女神一社、比売大神一社であった。それ以降から宝亀元年(770)までを見ると、三女神九社、玉依姫三社、比売(ひめ)大神一社、木花開耶姫(このはなさく や ひめ)一社とトップが入れかわっている。すなわち、比売大神とは本来玉依姫であって、その後、三女神(田心姫(たこりひめ)[多紀理姫(たきりびめ)]、瑞津姫(たぎつひめ)、市杵島姫(いちきしまひめ))へと変化していったことがわかった。
『書紀』は『古事記』の八年後に完成しているので、その頃、三女神=玉依姫は公然の事実であったといってよかろう。 ここにこの公然の事実を通じて、『書紀』の第二のメッセージ(アマテラス=三女神)と、第三のメッセージ(アマテラス=日向の姫[玉依姫])の左辺どうしが結びつき、よって、アマテラス=三女神=玉依姫が単なる妄想でなかったことが確認できるのである。
 三女神は玉依姫と結びついているだけではない。日向の姫のもう一神、木花開耶姫とも強く結びついている。
三女神と木花開耶姫の不思議な接点 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkenkokusi.web.fc2.com%2Fhimiko%2F2.2.html
アマテラスの化身である三女神が玉依姫であり、かつ木花開耶姫でもあるという一見不可思議な関係が導かれるのである。
神代紀(じんだい き )上下巻に横たわる系譜の謎kenkokusi.web.fc2.com/himiko/3.1.html
木花開耶姫と玉依姫とが異名同体の可能性が暗示されている。
神武が、200〜210年に三十五歳で即位したとすれば、神武の誕生年は165〜175年頃ということになるので、玉依姫が神武の母とすれば、玉依姫は150年前後の誕生年ということになる。一方、ヒミコは247、8年頃没したと『魏志』にあるので、もし玉依姫=ヒミコが成り立つならば、ヒミコはおよそ百歳の長寿を全(まっと)うしたことになるのであるが、古代人の寿命はせいぜい五十歳程度とする学説に惑わされて、ヒミコ百歳はありえないと確信しているような論調に出会うことが多いので、次にこの点を考証してみたい。
ヒミコの生涯は生誕150年前後〜没247、8年 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkenkokusi.web.fc2.com%2Fhimiko%2F3.3.html


10388荊の紀氏:2020/05/19(火) 11:58:43
玉依日女の三柱の神は、蓼倉の里にある三井の社に坐す…
北緯34度30分線上の都(その10)−伊豆の式内社「伊古奈比咩神社」のある「賀茂郡」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fmagnoliachizu.blogspot.com%2F2016%2F05%2F34302.html
「下賀茂 鵜の羽葺不合の尊、叔母、玉依姫を后となして、神武帝を産めり。是を人王の始となす。下賀茂の社、御祖の神と称し、玉依姫を勧請し奉るものなりと。」とあります。
…逸文の最後に可茂建角身命、丹波伊可古夜日女、玉依日女の三柱の神は、蓼倉の里にある三井の社に坐すとあります。「蓼倉」は和名抄にある 山城国愛宕郡蓼倉郷で、現在の京都市左京区下鴨蓼倉町にあたり、下賀茂神社と隣接したところとなっています。三井の社は、式内社三井神社で、「三井」は『三身』で、先の三柱をさします。現在は、下賀茂社の境内摂社として鎮まっています。可茂建角身命・丹波伊可古夜日女は、玉依日女の両親です。
…「山城国風土記」(逸文)に「葛野河と賀茂河との會ふ所に至りまし、賀茂川を見迥かして、言りたまひしく、『狹小くあれども、石川の?川なり』とのりたまひき。仍りて、名づけて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川より上りまして、久我の國の北の山基に定まりましき。」
…大和から移ってきた「カモ」一族は、この川の合流点に居を構え、後にすぐそばの上流側に下賀茂神社を立てたのでしょう。その位置が、松尾大社-比叡山を結ぶ直線上に位置しているということは、偶然かもしれませんがおもしろいものです。
 松尾大社は、その位置からして、松尾山にある磐座を対象とした信仰の場の山口の神社と考えられます。松尾大社からの夏至の日の日の出のシミュレーション図を上にあげました。その日の出は、比叡山山頂から少し南にずれます。このずれを、気にするかしないかは、難しい所です。
 ということで、もっともらしい理屈をつけるため、松尾山に近い桂川沿いの、夏至の日の出が比叡山から見られる、松尾山のふもとの地として、妙珠寺(京都府京都市西京区嵐山元録山町 緯度35.003599 経度135.682446)を選びました。目印として選んだだけで、此の地の由緒に何か意味があるわけではありません。ここからなら、比叡山からの夏至の日の出が観察されそうです。ここは、松尾大社から、北北西 500m弱、磐座のある松尾山から西 600m弱の位置になります。現在の松尾大社は、比叡山からの夏至の日の出を意識した地にあるとみてもいいかと考えています。これらを結ぶ線上に下賀茂神社を建てたことは大いに考えられるところです。上賀茂神社はさらに後で建てられたと考えています。下賀茂神社が、川合の地に建てられたのなら、それは陰で、当然陽を考えなければなりません。そのため近くにある神南備型をした山「神山」を対象とした陽の神社として上賀茂神社がたてられたのでしょう。その神体山である「神山」の山容は、日吉大社の神体山八王子山に酷似しています。
 なお、比叡山からの夏至日の出に関係する神社として、木嶋坐天照御魂神社があります。この神社は、三柱鳥居で有名で「天照」を名前に持つことから「天照大御神」を考えるとき重要な神社です。境内の北西隅には「元糺の池」と称する神泉があるそうです。


10389秦野北斗:2020/05/19(火) 21:59:22
[10944] 玉依日女の三柱の神は、
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010945M.jpg

https://magnoliachizu.blogspot.com/2016/05/34302.html



10390荊の紀氏:2020/05/20(水) 11:53:54
>・・・こんな文章はない  誓約(ウケイ)…
古事記からの引用
宗像三女神の誕生 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonsinwa.com%2Fpage%2F2014.html
すると速須佐之男命(ハヤスサノオノミコト)が 「誓約(ウケイ)をして子供を生みましょう」 と言いました。

宗像三女神の誕生 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhimeluna.exblog.jp%2F14644654%2F
そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、アマテラス大御神が先に、スサノオの命の佩(は)いた十拳剣(とつかのつるぎ)を貰い受けて、三段に折ってユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、息吹きの霧に生まれた神の名は、タキリビメの命。
またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタギツヒメの命。三柱です。
…、最初に生まれた神、タキリビメの命は宗像の奥津宮にまします。
次にイチキシマヒメの命は宗像の中津宮にまします。
次にタキツヒメの命は宗像の辺津宮にまします。
この三柱の神は宗像の君らが斎きまつる三柱の大神です。
こうして、スサノオの命がアマテラス大御神に言いました。
「私の心は清く、正しかった。だから、私の生んだ子は手弱女(たおやめ)でした。ウケイの結果から言うと、私の勝ちですね。」


10391秦野北斗:2020/05/20(水) 12:49:34
 宇氣布:誓約(ウケイ)…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010947M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010947_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/本居宣長

http://



10392外野席:2020/05/20(水) 20:38:32
>[10947]  宇氣布:誓約(ウケイ)…
爾天照大御?詔「然者、汝心之?明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」(自宇以下三字以音、下效此。)
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御?、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇(此八字以音)、下效此振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音、下效此)、…   古事記

*天照大?復問曰「若然者、將何以明爾之赤心也。」對曰「請與姉共誓。夫誓約之中(誓約之中、此云宇氣譬能美儺箇)必當生子。如吾所生是女者則可以爲有濁心、若是男者則可以爲有?心。」…    書紀

*一書曰、…時天照大?、復問曰「汝言虚實、將何以爲驗。」對曰「請吾與姉共立誓約。誓約之間、生女爲?心、生男爲赤心。」…  書紀

*一書曰、日?與素戔嗚尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰「汝若不有奸賊之心者、汝所生子必男矣。如生男者、予以爲子而令治天原也。」…   書紀



宇氣比 ウケヒ  宇氣布 ウケフ  ウケヒは四段活用連用形、ウケフは連体形。
書紀では、誓約または誓とある。
書紀の作者は、ウケヒ=誓約と解釈してたようです。卜占ですね。



10393秦野北斗:2020/05/20(水) 23:03:21
[10948] >[10947]  宇氣布:
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010949M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010949_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=-lX9gssexrk



10394荊の紀氏:2020/05/21(木) 21:43:40
(無題)
古事記・日本書紀・万葉集を読む
無文字文化としてのヤマトコトバ研究 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fkatodesuryoheidesu%2Fe%2Fc25f2294a819159811a27a466c9939e2

「古事記」も「日本書紀」も、日本の国がどのようにして出来たのか、皇室は先祖からどんなに立派なものであったかということを、人々にわからせようしたのです。
古事記・日本書紀・風土記・万葉集・懐風藻!書物が作られた奈良時代! /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwakariyasuku-rekishi.com%2Farchives%2F714

古事記の万葉仮名づかいは、中国600年頃の切韻によるもので、太安麻呂が、日本語を分析し、50音図にあたるものを作った上で万葉仮名を使用したらしい。
古事記の表記法 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fpopomi2575%2Fdiary%2F200903010000%2F

実は『古事記』と『日本書紀』は、似て非なるもの。ぜんぜん違う性質をもつ書物だったのです。
『古事記』と『日本書紀』のちがい〜なぜ日本神話は2つ必要だったのか〜inishie.atelier-aditi.jp/2018/11/10/kojikitonihonsyoki/
つまり『古事記』も『日本書紀』も、日本が一つの国としてまとまるために絶対必要なアイテムだったのです。
日本が一つの国としてまとまるために絶対必要なアイテムだったのです。

 古事記(712年)と日本書紀(720年)は大和朝廷側の歴史書・伝承であり、朝廷側に不利な事や都合の悪い事はなるべく避けて記されています。あるいは粉飾して都合の良いように書かれています
古事記・日本書紀・万葉集 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fenkieden.exblog.jp%2F18924843%2F

「古事記」には、「イザナギ」と「イザナミ」の結婚式の話が出て来ます。その時、二人は柱のまわりを回ったとありますが、元駐日イスラエル大使エリ・コーヘン氏は、この場面はユダヤ教の結婚式を思わせると言います。

古事記の天地創造と、旧約聖書の天地創造は確かに似ています。
ヨセフアイデルバーグ氏は、古事記や日本書紀が形を変えた旧約聖書であるといっておれれるようです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsoudan1.biglobe.ne.jp%2Fqa3776554.html
古事記や日本書紀が形を変えた旧約聖書である理由について

イザナギ神話に潜むイスラエルの影 ! ! |www.historyjp.com/article.asp?kiji=50


10395荊の紀氏:2020/05/21(木) 21:47:56
『聖書』と『古事記』の創世神話 …
??2020年 5月20日(水)11時42分0秒 https://8906.teacup.com/toraijin/bbs


『聖書』はユダヤ教徒だけでなく、キリスト 教徒やイスラム教徒にとっても聖典とされ、世界宗 教の基盤となっているといえる。世界で最も読まれ てきた書物であり、ゆえに聖書の世界観は、文字通 りグローバルな世界観ということもできると思われ る。
…『古事記』の神々は、 「獨神」で「身を隠しき」とされ、存在自体も「観 念的」とされることで実在を否定されてさえいるよ うな感がある。神の名前さえも、象徴やシンボルな のではないだろうかと考えさせられるからである。 古代から神道には明確な教義や経典がないことも、
…このように目に見えないものを目に見えないままで 受容し、その存在を確かに信じるという心意構造に よるのかもしれない。これは、キリストの次の言葉 を思い起こさせる。
…『聖書』と『古事記』の創世の世界観からそ れぞれの神の観念を比較してみると、意外にも思え るが、その神観念には共通の要素が見られるように 思われる。創世の前に何かがあったか、なかったか の根本的な違いは否めないが、それも「無」の観念 の相違によるとする解釈も可能であるといえる。も し、そのように考えてもよいならば、両者の神観念 には、非常に興味深い相似が見えてくるように思わ れる。

聖書の天地創造と「記紀」のそれが似ているのではと思う人もいるようです。 ちなみに厩戸皇子は、厩戸の前で出生したことによるとの伝説があるがこれなどもそ
一説によると、古事記の書かれた時期にユダヤ系の移民が存在しており
朝廷内ですでに地位を確立していたためと思われます
秦氏と呼ばれる一族がそうではないかと /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1138886201
当時日本国ができた時、唐の書物がたくさん輸入されたというか、持ち込まれました。
その中に、当時唐で大流行した大秦景教という宗教がありました。
大秦(ローマ)景教(Nestorian Christianity 380年~451年が起こしたキリスト教)以下ウィきより
【中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等)らによって伝えられ、
景教と呼ばれた。当初、唐の朝廷は、初期には皇族を含めて支配層が濃厚な北族(鮮卑・匈奴など)的要素を有したこともあり、景教や仏教など、非中華由来の宗教に寛容で、
信仰を容認、保護したため、盛んであった。】
ということで、日本の信仰を創作するときに参考にしたと推測してもしすぎではないでしょう。
なにしろアマテラスとお話しできる不比等の先祖の祭司は=アメノコヤネとかいいまして、
あの鎌足の先祖という設定(もちろん信仰)ですね。
アメは、当時の倭王の系統で、問題は「コヤネ」は英語風に言うとコーエン
イスラエル人のヨセフアイデルバーグは、日本の神社に修行に入り、失われた十支族との共通点を探ったようですが、その過程で司祭を意味するヘブライ語のコヘンと非常ににていることを発見しました。
つまり、景教の聖書のなかから参考にしたのでは?と思える事例です。
・・・・

10396外野席:2020/05/21(木) 22:10:09
古事記
奈良時代の歴史書。3巻。天武天皇の勅命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が誦習(しょうしゅう)した帝紀や先代旧辞を、元明天皇の命で太安万侶(おおのやすまろ)が文章に記録し、和銅5年(712)に献進。(デジタル大辞泉)

…稗田阿礼が文字で書かれたものを誦習すべく一度声音に翻訳。その誦習を太安万侶が耳で解釈して文字で記録した歴史書(翻訳)。稗田阿礼⇔太安万侶の間でどのような伝授があったか具体的なものはわからない。安万侶が無垢のまま阿礼の誦習を聞いたのならそれはほとんど音楽であったでしょう。音を意味のある文字に写す際、安万侶の知的操作だけでなく阿礼のサジェスチョンがあったやもしれぬ。…どうしてもうまい写しができないときは音に一文字づつあててクラスターの旋律をそのまま表記したでしょう。その時の文字の選びはやはり才能が要るでしょうね^^

>爾天照大御?詔「然者、汝心之?明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」(自宇以下三字以音、下效此。)
故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御?、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇(此八字以音)、下效此振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音、下效此)、…   古事記

10397秦野北斗:2020/05/22(金) 00:18:21
[10952] 古事記
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010953M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010953_2M.jpg

古事記 の世界も知ることです。

>爾天照大御?詔「然者、汝心之?明、何以知。」於是、速須佐之男命答白「各宇氣比而生子。」(自宇以下三字以音、下效此。)

故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御?、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劒、打折三段而、奴那登母母由良邇(此八字以音)、下效此振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(自佐下六字以音、下效此)、…   古事記

翻訳
近し天照大御?を諭し、「然りと云えり、汝、裏此れ、爽やか明ける、何れ、以って知らせる。」於いて此れ、速須佐之男命 答え、九十九「おのおの、宇、氣、並ぶ、然るに、成す子。」

もと、近し、おのおの、当て置き、天の安んじる河、然るに、宇、氣、広げる其のとき、天照大御?、先ず乞う、渡り帰る速須佐之男命のする所の帯び玉、十拳劒、打つ挫け三つきざはし(十拳劒の三つにだんだんの打ち傷)、然るに、奴はなに登る母、母由り眞近い、下る倣う此れ掬う洗う、天これ眞名、井、然るに、佐は悦び、美し近いであろう、美し然るに、

九十九と美し、は地図添付

本居宣長は、この程度の詐欺師です、庶民を馬鹿にしている、秦野も騙された、日本中ですがね
宇氣布、これが、誓約(ウケイ)馬鹿にしている・・・、この意味が理解できる。




10398秦野北斗:2020/05/22(金) 01:18:16
古事記は、どの様に書かれたか
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010954M.jpg

…稗田阿礼が文字で書かれたものを誦習すべく一度声音に翻訳。その誦習を太安万侶が耳で解釈して文字で記録した歴史書(翻訳)。稗田阿礼⇔太安万侶の間でどのような伝授があったか具体的なものはわからない。

古事記は、どの様に書かれたかは、文章中にある。
太安万侶の監督、稗田阿礼は万葉集を記憶(内容が多少異なる)し、膨大な資料800年間をまとめる、筆記者の3名で書かれた。歴史書は紀元前2世紀からになる、未だ古い万葉集6世紀があるが確認できていない。
6世紀は史記に頼ることになる。太安万侶は万葉集6世紀、史記、古事記、日本書記、魏志倭人伝を通読している。



10399荊の紀氏:2020/05/22(金) 06:54:21
稗田阿礼⇔太安万侶…
古事記がギリシャ神話や東南アジアの神話に似ているところがある事からこの時代も渡来人が多かったのでもしかしたらと思いました。
稗田阿礼は渡来人という事はないですか?
売太神社(めたじんじゃ)は奈良県大和郡山市の稗田環濠集落の端にある神社である。式内社で、旧社格は県社。
古事記編纂に携わった稗田阿礼を主斎神(主祭神)、天鈿女命、猿田彦命を副斎神(配祀神)として祭る。
稗田阿礼命は学問の神、物語の神。天鈿女命は芸能の始祖神。猿田彦命は土地・方位の神であり、天鈿女命の夫神である。稗田阿礼は猿女君稗田氏の出で、天鈿女命は猿女君の祖神・氏神である。
但し、中世には「祭神不詳」とされていた。毎年8月16日に行われる阿礼祭(あれいさい)は、稗田阿礼の遺徳を偲ぶ祭である。その他として亀岡市街地の西、湯ノ花温泉の入口近くに鎮座する稗田野(ひえだの)神社がある。但し此処は、古事記の編纂者「稗田阿礼(ひえだのあれ)」とは無関係見たい。

稗田阿礼と太安万侶の背後にいたのは、渡来人系書記官人組織・史(ふひと)。
彼らが唐の漢字を使って日本の歴史書を編纂したのです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnewjomon.exblog.jp%2F29751070%2F
…女帝を擁立すれば、渡来人の藤原氏が側近となり意のままにこの国を動かすことができる。
超古代からの日本の歴史に封印を施し、
秩序ではなく序列の世界を構築してこの国は自然の法則に逆らった世界を体験することになったのです。
…藤原不比等(史)は記紀編纂のフィクサー。
記紀は稗田阿礼による口伝のとおりに記述されたものか確かめようもないけれど、この国は国造りの神々を封じて、逆さまの世界を体験する必要があったのです。

大和郡山…
【邪馬台国大和郡山説】yamataikokudaiou.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/post-0bee.html
北九州から東征し、当時の河内湖現在の東大阪から侵攻し大和の豪族長脛彦を制圧帰順させ、大和郡山矢田に都を築き、北は富雄、南は桜井の忍坂まで勢力を拡大していたと考えられます。

『太安万侶の暗号シリーズ』の第四巻である。いつも通り編集も表紙カバー作成も福士亜矢子の手になる。感謝の意と共に紹介しておきたい。さて、日の本国の大規模な攻撃により、百済系の崇神天皇以来続いた王朝は新羅系の助力を得るため息長帯媛を仲哀天皇の皇后とする。… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F

太安万侶をネットで探すと、多(太)氏は新羅系とか、百済系とか、出てきます。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq1096695130
「日本書紀天智紀元年条」の前の所に「織冠を百済の王子豊璋に授け、また、多臣蒋敷(おおのおみこもしき)の妹を妻(めあは)せたまひき」とあります。
百済復国の為の一大事に、本国に帰還する百済王の妻に「多氏」の娘を選定しています。
「多氏」が百済系の官僚であるのは間違いないことです。
また「天智」が、「白村江」で唐ー新羅の連合軍により大打撃を受けて、その戦後処理に大混乱の最中に、近江に百済からの亡命王族や遺民を結集して政権を樹立します(天智の乱)」。
でもこの政権は、「九州倭国」の承認などありません、「壬申の乱」により「九州倭国」に潰されてしまいます。
その後、「九州倭国」は、対唐対策や、対新羅対策もあり、近畿地方に遷都してきます、その時に大活躍するのが「多治比嶋(丹比真人嶋)」と言う人物です。
「日本書紀」は「天智ー藤原系」に先行先在した「九州倭国」の存在を隠蔽していますが、「九州倭国」が関与する大事な記事には、必ず「多氏」が登場します。
「多氏」と言うのは、半島百済にも、九州倭国内にも、勢力基盤を持っていた百済からの渡来氏族ではないでしょうか。
彼、太安万侶は、そのような流れを受け継いでいる人物だと思われますが如何でしょうか。

藤原鎌足として知られることになる中臣鎌足。中大兄皇子と協力して大化の改新を成功させ、時の権力者となった中臣鎌足は、 百済からの渡来人なのではないか という説があることをご存知でしたか? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fizinden.net%2Fkamatari%2F

藤原鎌足とは何者だったのでしょうか。この阿武山古墳を造営したのは、息子の 不比等 になりますね。そして、 定恵 がここから鎌足の遺体をほりだして多武峯に移したことになっています。
鎌足の墓は何処か? /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ftizudesiru.exblog.jp%2F23775565%2F
藤原鎌足は明日香村の大原で生まれたといいます。飛鳥寺や飛鳥坐神社のある辺の東で大原神社があり、今は小原という地名になっているそうです。

大和郡山・鎌足神社
鎌足神社は、奈良県大和郡山市にある藤原鎌足を祭る神社。 鎌足墓所の多武峰にある談山神社は、かつて豊臣秀長の命で大和郡山城下に遷座させられた。 数年で多武峰に戻ったが、この神社はその旧跡を偲ぶものである。ただし、鎮座地は、談山神社があった跡地とは異なる位置と思われる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshinden.boo.jp%2Fwiki%2F

大和郡山にはこの様な伝説が伝わっています。 推古21年(613)、太子が稗田の里に寄られた時、村人から稗飯を出されました。
推古21年(613)、太子が稗田の里に寄られた時、村人から稗飯を出されました。なぜ稗飯なのかと問いただすと、村に水が無く稲が実らないと村人が嘆いたので太子は不憫に思い、菩提山川の水を引きいれる溜池を造らせ西へ2km離れた稗田郷(稗田町・上三橋町・下三橋町)へ灌漑用の水を送られました。
また太子はこの池の近くに広大寺を建立したと伝えられています。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkikimanyo.info%2Ftaishi%2Fstorymap%2F

百済からの渡来人であろうと推測できる天智や 藤原鎌足と王家との争いを考えてみます。 ふたりの聖徳太子とは、竹田皇子と押坂彦人大兄皇子です。
聖徳太子の謎 (聖徳太子はふたりいた)
中臣鎌足と藤原鎌足、藤原氏の謎 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fnagusa777%2Fe%2F2d6e6ac9257efa30225f76b96a79223e
百済から亡命してきた人々が多数いました。
この渡来百済人と、以前から渡来していた渡来人が百済復興の兵をあげたのです。
本来は、倭国、唐、新羅の三国同盟だったのです。
この時代の唐との国力の差を考えれば、唐と敵対する選択をするはずがありません。
倭国は、唐、新羅と結び百済を討とうとしていたのです。
その百済討伐のための朝鮮出兵が、渡来人によるクーデターにより百済救援の出兵に代わってしまったのです。
その中心人物が、百済復興を画策していた渡来人である天智と後の藤原鎌足である。
661年から、天智が白村江に兵を派遣する663年まで渡来人と王家の争いが起きている。
…正史である日本書紀に記述があるから真実であるといつまでもこういう姿勢では真の歴史はみえない。
彼らを謀反の疑いで静粛し、百済復興のために朝鮮に出兵した天智や藤原鎌足は渡来人である。
渡来人である天智は王であるはずがない。天智は天皇に即位していたと改竄したのは桓武天皇である。
その天智から繋がる桓武は渡来人の王である。
百済救援を画策していた、百済からの渡来人であろうと推測できる藤原鎌足と王家との争いを
考えてみます。古代の王家は藤原に乗っ取られている。
…藤原氏は、近江にも関係します。その近江には多数の百済から亡命してきた王族などの人物の居住地だということが日本書紀などにも記述されています。
桓武天皇のお母さんである高野 新笠は、百済からの渡来人である和乙継の娘であり、この和氏は百済武寧王の子孫を称しています。
本当に武寧王の子孫かどうかはともかく、本来は言いたくはないところでもあるので、渡来人であるのは事実だと思われます。
そして、この百済からの渡来人が中臣氏と繋がりを持つのは、この中臣氏の本拠地は山科だからなのではないのか?
秦氏の山背国と近江に挟まれた位置にあるのが山科です。
…「白鳳−朱鳥−朱雀−大宝・・・九州年号の謎」のところで書きましたが、・・・
天智天皇は大化の改新と呼ばれる改革を断行したとされます。しかし、そうではないとの木簡が出土しました。
「評」から「郡」に変更されているはずなのに使用されている。
そして、日本書紀に記述されている大化の改新は、およそ60年後に完成した大宝律令と一致する文が存在するのです。
どうしてこんなことをしたかというと、この時大王だったのが長屋王だからです。
つまり、大宝律令は長屋大王が作った律令だということになります。大化の改新ではなく、本来は、長屋大王や忍壁大王が行った「大宝の改革」ということになります。
その功績を天智天皇の功績として取り込んでいる。それは、桓武天皇は天智系天皇だからです。
日本書紀は編纂後に改竄された偽書である。


10400荊の紀氏:2020/05/22(金) 07:09:46
古事記や日本書紀は古史古伝を参考にして編集された…
天照大神は異民族文化を取り入れたとか。特に文化神パール(バアル神)の貢献を大いに喜んだようです。
神武天皇は鳥見山(奈良県宇陀市と桜井市の境に位置する山)に天神エホバ(ヤハウェ)をお祭りしたとか。
ヒッタイト帝国はセム族によって押し出され、日本の島にやってきたのだとか。ところがセム族は彼らを北海道まで追い上げるのでした。
今も歌い継がれる民謡にはヘブル語がいっぱいだ。「ヨーイヤサ」「ドッコイショ」「チョエナ チョエナ」「スチャラカホイ」「エンヤラサ」「ヨチャエ ヨチャエ」「アーリャ アーリャ」「ションガイナー」沢山あるものですネ。

海石榴市の八十の街… https://8628.teacup.com/toraijin/bbs

日本古代の市の一つ。《万葉集》に〈海石榴市の八十衢(やそのちまた)〉とあり,《日本書紀》武烈即位前紀に〈海柘榴市巷(ちまた)〉,同推古16年(608)条に難波より大和川を遡上してきた隋使裴世清(はいせいせい)一行を〈海石榴市街(ちまた)〉に迎えたとあるごとく,水陸交通の要衝に立地した。比定地としては,横大路と山辺の道の交点付近の桜井市金屋の集落付近,横大路と上ッ道の交点近くの同市三輪字上市〜金屋字上市口付近が考えられるが,前者から後者への変遷も想定しうる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
桜井市金屋…
金屋集落 そこは古代王城の地「しきしま」 港「海拓榴市」 の一帯は「やまと」の「まくらことば」である「しきしま」(磯城嶋)の地。 金屋集落へ入る橋のたもとに仏教伝来の地の碑が建っている
古代 初期大和政権(三輪王権)が王城の地に求めた産鉄の地 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.infokkkna.com%2Fironroad%2F2011htm%2Firon7%2F4iron08.pdf
大和盆地を大阪に流れ下る大和川(初瀬川)が青垣・吉野の峰々が連なる東の壁から大和盆地に流れ出る所に 秀麗なピラミッド型の三輪山がそびえている。この奈良県桜井市「三輪山」の麓は古代日本誕生の黎明の時 代「やまと」の枕詞「しきしま」と呼ばれた王城の地。4世紀三輪王権と呼ばれる初期大和政権成立の舞台。 ここで大和朝廷の基礎が養われたという。 また、北に伸びる三輪山山麓には3世紀に遡れる巻向 地区には纏向古墳群があり、邪馬台国畿内説を唱える 人はこのこの三輪山北山麓の地が卑弥呼 邪馬台国の 地という。 この山裾を縫って明日香から北へ古代の道 山辺の道 が王城の地を貫き、麓にはこの三輪山をご神体とし、 出雲の神「大物主命」を祭神とする日本最古の神社大 神神社がある。 鉄との深い関連が考えられる神社で、産鉄地・産鉄の 民と関係の深い地と見られ、今もその山麓には金屋・ 穴師・金刺などの産鉄地名が残り、南麓の金屋からは 鉄滓が出るとの文献もある。 そう考えるとこの三輪山山麓は古代の重要な産 鉄地で三輪山は鉄の山ではなかったか・・・。 この地を得た人たちが、この三輪山の鉄および 鉄の技術を背景にこの地を本拠として、日本誕 生がなしとげられたのではないか・・・・・・ おぼろげに三輪山は古代の産鉄地と思っていま したが、もっと強く 三輪山の鉄が直接に日本 誕生に重要な役割


10401秦野北斗:2020/05/22(金) 09:12:39
額田王 万葉集、第一巻:0020
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010957M.jpg

第一巻:0020 茜草指武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

翻訳
茜は伽耶を指す、武士よく先、田舎やに行く、標す田舎や道、田舎や守と言えるない、あらわれるかな。君(天智天皇)そで広げながす。(仲裁する)

意味
新羅を茜と言う、新羅は高句麗とよく揉めていた、其の都度、天智天皇は、仲裁に田舎や守に行く、そで広げながす。

天智天皇は(六五四年) 永徽五年十二月に唐の高宗に朝貢している。内容は新羅は高句麗とよく揉めていた、其の都度、仲裁に・・・である。

文章は以下、原文『唐会要』倭国・日本国伝
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。頗有絲綿。出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者。云海中湧出。

現在の万葉集の意味
(茜色の光に満ちている)紫(むらさき)の野、天智天皇の御領地の野で、あぁ、あなたはそんなに袖を振ってらして、野守が見るかもしれませんよ。歴史記録には此れはないでしょう。



10402荊の紀氏:2020/05/22(金) 16:42:49
海人は宗像の女神を祭っている。…
宗像系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和及び伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にある
宗像三女神 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。
この三女神は、日本から大陸及び古代朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神、要として海北道中の島々(沖津宮・沖ノ島、中津宮・筑前大島、辺津宮・宗像田島)に祀られ、大和朝廷によって古くから重視された神々。遣隋使や遣唐使もこの島を目印として渡海した。ムナカタの表記は、『記・紀』では胸形・胸肩・宗形の文字で表している。
天照大神が国つくりの前(天孫降臨より以前)、「うけい」により生まれたこの三女神に対し「九州から半島、大陸へつながる海の道(海北道中)へ降りて、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と神勅を示した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀されるようになった。これが宗像大社が祀る、沖津宮の「田心姫神(タゴリヒメ)」、中津宮の「湍津姫神(タギツヒメ)」、辺津宮の「市杵島姫神(イチキシマヒメ)」である。
この三女神は天照と素戔男の誓(うけい)の結果から生まれたという。素戔男の邪心を疑った天照は彼の本心を確かめるために誓約する。素戔男がたばさんでいる剣を天の真名井ですすぎ、口で噛みくだいてキリとして吐き出した。そうして生まれたという。娘たちに「あなたたち三神は、道中(みちなか)に降臨して天孫を助け奉り、天孫に祭(いつ)かれよ」と命じた。道中とは玄界灘である[1]。
『古事記』神代上巻に「この三柱の神は、胸形君等のもち拝(いつ)く三前(みまえ)の大神なり」とあり、元来は宗像氏(胸形氏)ら筑紫(九州北部)の海人族が古代より集団で祀る神であったとされる。海を隔てた大陸や半島との関係が緊密化(神功皇后による三韓征伐神話など)により土着神であった三神が4世紀以降、国家神として祭られるようになったとされる。
アマテラス…海女照らす…星?
海女は全国でおよそ2000人、そのうち志摩760人、鳥羽250人と半数を占める。それだけの数のプロが存在するということは生業(なりわい)として成立しているからだ。ちなみに能登半島・輪島の海女は200人だ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Ff-uno%2Fe%2F248715b5091fceadd19ec0ec8a657818
海女さんの発祥の地…
古代、宗像海人族と呼ばれた海の民の末裔たちは、今もなお、漁業に従事しています。しかし、日々かれらの生業の場である海の環境が変化し、彼らの生活を脅かしています。 例えば、海女さんの発祥の地であるここ宗像鐘崎には、後継者はおらず、残すところ1名のみになりました。
福岡県 宗像鐘崎 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Freadyfor.jp%2Fprojects%2Fumi-sodate

鐘崎は海女発祥の地です。 2017年に世界文化遺産に登録された、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群。宗像の漁師たちは古代からずっと宗像大社の三女神への信仰篤く、今も禁忌を守り続けます。 そ
「みあれ祭」 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fchiakimatsuyama.com%2Famaaruki-kanesaki%2F
みあれ…水脈(みを)我(あれ)…
我(あれ)を頼めて あさましものを 」 巻14−3429 作者未詳 ( 遠江の引佐細江(いなさほそえ:浜松市、浜名湖の入江)の みをつくし。 その澪標のように私をあてにさせておいて、やがて疎ましくするのでしょう。
澪標とは「水脈(みを)つ串」の意で、船が安全に通過できる水深を示すための標識として立てられた杭のことです。
この歌の「みをつくし」の原文表記は「水咫衛石」となっています。
「咫:あた」は中国の尺度を表し、1咫は約8寸 (約24cm) 。
八咫烏(ヤタガラス)は大きいカラスだったのですねぇ。
「難波の澪標」は杭の上に三角形のしるしをつけたもので、後の人々に多く詠われ、現在大阪市の市章にもなっています。
三角形のしるし…三つの星を中国では心宿三星としまし田…商星(さそり座の三つ星)…

神武天皇を迎えた宇佐都比古、宇佐都比売は兄妹で三女神の神裔だといいます。(三女神社縁起)。水沼族は三女神を祀る氏族ですが、ここ安心院でも祀っていたことが分かりました。
賀茂神社(3)足一騰宮2・賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Flunabura.exblog.jp%2F24574876%2F
神武天皇は母の玉依姫を祀るための仕組みを作りました。それは安心院が安曇族の統治する地だという宣言でもあります。
安曇族…
御生れ/御阿礼(みあれ)とは。意味や解説、類語。《「あれ」は生まれることの意》神または貴人の誕生・来臨をいう語。ご生誕。ご来臨。⇒賀茂 (かも) の御生 (みあれ) 賀茂神社の異称。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.goo.ne.jp%2Fword%2F
「あれ」は生まれること…神または貴人…
アレース…ギリシア神話に登場する神…
アレースもしくはアーレース(ΑΡΗΣ、Arēs、?ρης, Ārēs)は、ギリシア神話に登場する神で、戦を司る[1] /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
ローマ神話のマールスに相当し[1]、また火星と同一視される。このため黄道上に位置し火星とよく似た赤い輝きを放つ天体であるさそり座のα星はアンタレス[注 1]と呼ばれる[14][15]。火星の衛星フォボスとダイモスはアレースの子の名から採られている。
アンタレス…航海の道標…
アンタレスは、さそり座の心臓部分にある一等星です。古来より、船乗りの間では『目当て星』『方角星』と呼ばれ、航海の道標とされてきました。また、『かごかつぎ』『豊年星』『商人星』とも呼ばれ、アンタレスが赤く輝くほど豊作だと言われています。
蠍座-中国の神話。
  中国では、この星座を進賢冠という冠をかぶって空に立つ巨人と見ていました。
  蠍の頭部(房宿)が巨人の口と鼻となり、その上にある星が冠をつくり、アルファと左右の星(心宿三星)が背と肩で、尾宿の九つの星が、衣が風にひるがえる形としています。
  蠍座のアルファは、変光星で高度1〜1.8等星、距離600光年で、ギリシャ語でアンチ・アーレスがつまったものとされています。
  「火星に敵対するもの」という意味で、それはこの星が火星と同じように赤い星だからだそうで、古くから火、大火、火星と呼んだそうです。
  アンタレスを挟んで前後に二つの星があり、この三つの星を中国では心宿三星としました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpleasuremind.jp%2FASTRO%2FASTROsummer012B.html
  「心宿の火星(アンタレス)は天王で、前後の星は太子である」と説明されています。
ビクトリア州北西部のブーロン族は、この恒星とさそり座τ星をアンタレス(Djuit)の妻とみなしていた[17]。
心宿 三星…さそり座σ星(さそりざシグマせい、σ Sco, σ Scorpii)は、さそり座にある恒星で3等星。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
三星…
商星(さそり座の三つ星) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F
? (正しくは「しんしょう」。参星(しんせい)と商星の意で、参星は西、商星は東にあって遠く隔たっているところから) 互いに離れていて会うことのできないたとえにいう。
天津甕星??宗像三女神の龍脈
宗像三女神の伝説は、本島と石垣島で伝えられてきた。
「大和の国から琉球に渡来した三女神
その長女は首里の弁ヶ岳に、
次女はこの於茂登岳に、
三女は久米島に降臨した」のだと。

五芒星は道教の太一。水金火木土の5つの門を図案化したもの。
別名セーマンは安倍清明の「せいめい」が訛った。
ちなみにダビデの星はドーマンで、ライバル芦屋道満から。
いずれも蛇を示す三角紋の組み合わせと考える。
星、蛇、土は道教最高のもの。
三つ星は蛇であり、オリオン座。
一つ星は北極星、7つは北斗、5つは蠍座あるいは南十字?1,3,5,7の聖数を足すと16になる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.oct-net.ne.jp%2Fhatahata%2Fkouryuuji.html
天皇家の御紋16菊花紋。空想ですよ。

セーマンドーマンまたはドーマンセーマンとは、三重県志摩地方(現・鳥羽市と志摩市)の海女が身につける魔除けである。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
能登半島では、海女(あま)とはかつて北東アジア海域で漂流生活をしていた人々だと言い伝えられている /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fourworld.unu.edu%2Fjp%2Fjapans-ama-free-divers-keep-their-traditions
安曇の海人神社と対比される、宗像三女神をまつる宗像神社…
安曇の海人神社を奉ずる海人族… /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.honnet.jp%2Fmetro%2Fkodaishi%2Fk228%2Fkodaishi10.html
インドシナ系苗族の航海漁労民と江南から発した隼人系の潜水漁労民という二つの系統が南方から九州に入っている。 安曇の海人神社を奉ずる海人族は漁業を専従とする海人ではなくて、舟をこぐほうの海人であった
 -ふたたび海人族・倭について-www.honnet.jp/metro/kodaishi/k228/kodaishi10.html
三世紀の「魏志倭人伝」よりも遙かに古い「山海経」に倭という文字がでてくることを、前回の「わだつみに生きる海人・倭(人)」で紹介した。
ここに登場する倭は、紀元前の昔から、日本列島周辺をはじめ、遙かに中国の南部沿岸から山東半島、遼東半島、南朝鮮の多島海の島々、済州島などの広い世界で活躍する海人であったと想像できる。
子安貝
 何故、中国人が倭(人)に関心を示し、古い歴史書に「倭」が登場するのだろうかという謎の答に、「貴重な子安貝(タカラガイ)を中国にもたらすのが倭人だったからだ」という説明をしたのは、ロマンあふれる壮大な仮説「騎馬民族征服王朝説」を提唱した故江上波夫氏である。
若い頃、江上氏は「極東における子安貝の流伝に就きて」という論文を「人類学雑誌」に発表している。
1932年のことであるが、当時はまだ沖縄諸島での子安貝の産出は確認されておらず、中国での子安貝の使われ方に重きをおいた研究であった。中国大陸では、日本の縄文後期、晩期、弥生時代、古墳時代、その後の時代にかけて、子安貝は貨幣に相当する価値をもつものとして珍重されていた。「財」や「貯」など、今日、経済活動に関する漢字には貝偏が多く、旧字体の「賣」「買」などにも貝がついている。
…日本人の起源を考える上で重要な「古事記」と「日本書紀」の神代の説話に、中国の江南、呉あたりの南方海人族と共通の「海幸・山幸」の伝説、また北方民族に共通の「国の成り立ちは天から降臨した神によるものである」という神話がふくまれていること、即ち南北の伝説が合体していることに注目すべきであるという。
このことは南から北から海を渡っていろいろな人種が列島にやってきて定着し混血したことをしめしている。
 海人族すなわち漁労民と言っても、そのなかには潜水漁労民、釣り漁民、網漁民といった職業の技術的な違いが明らかに存在する。
海にもぐる刺青をした海人は隼人系であり、薩摩・大隅の南九州だけでなく、九州の沿岸に広く分布していた。土蜘蛛・女酋といわれていたのは、隼人系の特に女を中心にした潜水海女の集団であったと考えられる。
もう一つは安曇系で漂海民的、航海民的な種族としての特長が強く、苗族が漢民族に追われて海上に去り、漂海民として生活するようになったのが、ずっと北上して九州の北岸まで来て安曇になったのではないか?
このインドシナ系苗族の航海漁労民と江南から発した隼人系の潜水漁労民という二つの系統が南方から九州に入っている。
 安曇の海人神社を奉ずる海人族は漁業を専従とする海人ではなくて、舟をこぐほうの海人であった。家船系統の漂海民的海人であって、やがて九州から瀬戸内海に入り、朝鮮半島と九州、瀬戸内を通して大和との通商航海に活躍する。
安曇の海人神社と対比されるのが、宗像三女神をまつる宗像神社であるが、これを信仰する海人は九州から日本海を北に越の国まで、すなわち潜水漁労民の潜れる海の範囲まで出て行く。現在でも能登半島・舳倉の海人は宗像の女神を祭っている。

アミス族…中国,台湾省の原住民諸種族のこと。そのうち漢族化したものを熟蕃(じゆくばん),そうでないものを生蕃(せいばん)と呼んだが,これは日本の台湾領有(1895‐1945)に先立つ清朝時代からの称呼であり,たとえば大陸の少数民族であるミヤオ(苗)族を,その漢族化の程度によって,熟苗と生苗とに分ける流儀である。しかし〈蕃〉には軽侮の語感を伴うので,日本時代の中ごろから生蕃という称呼を高砂族と改め,公文書などにもそれが用いられるようになった。…
台湾…高砂族…
約5200年前に一部が台湾を後にして南方に向かった。台湾に残ったグループは台湾諸語となった
オーストロネシア語族の祖形を残す台湾原住民(中国語では高山族、日本語では高砂族)諸部族の言語はアタヤル語(タイヤル語)群、ツオウ語群、パイワン語群に大別され、このうちパイワン語群に属するアミ語の話者が10万人前後と最も多く、その他の言語の話者は数千人以下である。
オーストロネシア語族(オーストロネシアごぞく)は台湾から東南アジア島嶼部、太平洋の島々、マダガスカルに広がる語族である。アウストロネシア語族とも。日本語では南島語族とも訳される。
かつてはマレー・ポリネシア語族と呼ばれていたが、台湾原住民諸語との類縁性が証明された。この台湾原住民の諸語が言語学的にもっとも古い形を保っており、考古学的な証拠と併せて、オーストロネシア語族は台湾からフィリピン、インドネシア、マレー半島と南下し、西暦 5 世紀にインド洋を越えてマダガスカル島に達し、さらに東の太平洋の島々に拡散したとされる。ただしパプア・ニューギニアの大部分(パプア諸語)とオーストラリアの原住民の言語(オーストラリア・アボリジニ諸語)は含まない。
1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてた…
3世紀頃の南京にあった呉の官僚の報告書に同時代の東南アジアの国家が出ている。しかし、扶南という名称は出ておらず、当時の現地人がどのような名前で国を呼んでいたかは明らかではない。後述する民族についての考察からも、1世紀頃にオーストロネシア系が扶南をたてたとする説が有力である。
扶南国(ふなんこく)は、1世紀から7世紀にかけてメコン川下流域(現在のカンボジア、ベトナム南部)からチャオプラヤーデルタにかけて栄えたヒンドゥー教・仏教(5世紀以降)の古代国家。
1世紀…ローマ帝国の金貨が出土…
オケオとは ポイントはローマ帝国の金貨が出土していることです。
オケオ遺跡は、カンボジアから南部ベトナムにかけて繁栄した扶南国の中心都市であるオケオの遺跡です。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fglossary.sekainet.com%2Foc-eo-remains
このことから、ローマ帝国と東南アジアを結ぶ、海上交易が行われていたことがわかります。
他にも、インドの仏像やヒンドゥー教の神像、後漢時代の鏡なども出土しています。
たくさんの地域の物品が出土していることで、オケオがいかに海上交易の中心地として発展していたかがわかりますね。

オケオ(ベトナム語: Óc Eo/ 喔?、クメール語: ??????, ラテン文字転写: O'keo)は、ベトナム南部のメコンデルタ地方、アンザン省南部のトアイソン県にある考古学的な遺跡群。また今日において、オケオ市鎮(ベトナム語版)はトアイソン県を構成する行政区画である。「オ・ケオ」はクメール語で「水晶の運河」を意味する。
1世紀から7世紀にかけて、扶南国の最も賑わった港があったとされる。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
オケオは、メコンデルタの低地平原を縦横に結ぶ古代の運河ネットワークの中に位置しており、オケオと海の港を繋ぐ運河の一つは、北北西に約67km離れたアンコール・ボレイまで繋がっていた。オケオは運河によって南北に分断され、更に4つの運河が東西に走り、その運河はメコンデルタ地域に現在でも見られる高床式の水上住宅に囲まれていたと思われる[1]。
オケオは、メコンデルタで紀元1世紀から6世紀に存在した歴史上の王国である扶南に属していたと考えられる。扶南については、旅行者や外交官の証言、朝貢使節の記録に基づき正史を編纂した、古代中国の多くの史家たちの記録によって知られている。
扶南は中国史にその名を残しているが、ベトナムやカンボジアの古文書には「扶南」の名は見られない。しかし漢文史料によって、中国人によって扶南と呼ばれた国が、メコンデルタにおける支配的な政体であったと判断できる。その結果、この地域で発見されるこの時代の遺物は歴史上の扶南のものと認識され、オケオとその関連遺跡での発掘品は扶南の存在を示す重要な情報源となっている。
古代クメール領域の地理の記憶を伝える名前を採用し、「扶南」の名は使わないようにすべきだというクロード・ジャック(Claude Jacques)の観点[7] も支持している。
新石器時代後期から金属器時代初期に、オケオは徐々にメコンデルタの経済と文化の中心になってゆき、また東南アジアの航路上の重要な位置を占めることによって職人や交易人の集まる場所となり、インドのような外部文化の影響が十分な都市化を促したとも、ハー・ヴァン・タンは論じている[8]。
また扶南は、インド人たちが「スヴァルナブーミ(英語版)」(黄金の野原)と呼んだ東南アジアの地域の最初の現れであった可能性がある[9]。


10403秦野北斗:2020/05/22(金) 19:03:43
[10958] 海人は宗像の女神を祭っている。…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010959M.jpg

>宗像三女神(むなかたさんじょしん)は、宗像大社(福岡県宗像市)を総本宮として、日本全国各地に祀られている三柱の女神の総称である。記紀に於いてアマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。

外野席さん、古事記伝の、宇氣布 ウケフ ウケヒ、誓約の出所が日本書紀だと教えてくれた。

*一書曰、日?與素戔嗚尊、隔天安河、而相對乃立誓約曰「汝若不有奸賊之心者、汝所生子必男矣。如生男者、予以爲子而令治天原也。」…   書紀

翻訳
*一書曰、日?、与える、素戔嗚尊、距てる天安河、然るに、相対して、すなわち立てる、誓約、曰く、「汝もしなく、有り奸賊のこころ者、汝ところ、生む子必ず男だろう、如し生む男者、予め以って爲る子、然るに、令(のり)治める天原也。」… 何を考えているのか、誓約(うけい)を説明している。

本居宣長さん、日本書紀をカンニングしたんですな、単語が読めないですな。当時は資料はない・・・
荊の紀氏 さん、誓約(うけい)は、ないんです、宗像三女神は、ないんです。



10404荊の紀氏:2020/05/23(土) 03:17:25
赤き心…赤い星…「…アンタレスは天王で、前後の星は太子である」…
「 汝若(も)し賊(あたな)う心有らざれば汝が生める子は必ず男ならん。如(も)し男を生まば、予(われ)以ちて子と爲して天原(あまのはら)を治(しら)しめん」
www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/06_03/fr.htm
赤き心…【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 原文】
其の素戔嗚尊の生める兒は皆已に男なり。 故、日の?、方(まさ)に素戔嗚尊の元より赤き心有るを知りて、便(すなわ)ち其の六はしらの男を取りて、以ちて日の?の子と爲し、天原(あまのはら)を治(しら)しむ。 即ち日の?の生める三はしらの女?を以ちては葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。 今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る?、是也。

>蠍座-中国の神話。
  中国では、この星座を進賢冠という冠をかぶって空に立つ巨人と見ていました。
  蠍の頭部(房宿)が巨人の口と鼻となり、その上にある星が冠をつくり、アルファと左右の星(心宿三星)が背と肩で、尾宿の九つの星が、衣が風にひるがえる形としています。
  蠍座のアルファは、変光星で高度1〜1.8等星、距離600光年で、ギリシャ語でアンチ・アーレスがつまったものとされています。
  「火星に敵対するもの」という意味で、それはこの星が火星と同じように赤い星だからだそうで、古くから火、大火、火星と呼んだそうです。
  アンタレスを挟んで前後に二つの星があり、この三つの星を中国では心宿三星としました。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fpleasuremind.jp%2FASTRO%2FASTROsummer012B.html
  「心宿の火星(アンタレス)は天王で、前後の星は太子である」と説明されています。


10405秦野北斗:2020/05/23(土) 11:52:29
[10963] 赤き心…赤い星
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010966M.jpg

賊(あたな)う、如(も)し、治(しら)しめん 凄いな、こんな読みないぞ・・・
どこから、引用したのですか??? ヤケクソだな。

>「 汝若(も)し賊(あたな)う心有らざれば汝が生める子は必ず男ならん。如(も)し男を生まば、予(われ)以ちて子と爲して天原(あまのはら)を治(しら)しめん」
www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/01/06_03/fr.htm
赤き心…【日本書紀 卷第一 第六段 一書第三 原文】
其の素戔嗚尊の生める兒は皆已に男なり。 故、日の?、方(まさ)に素戔嗚尊の元より赤き心有るを知りて、便(すなわ)ち其の六はしらの男を取りて、以ちて日の?の子と爲し、天原(あまのはら)を治(しら)しむ。 即ち日の?の生める三はしらの女?を以ちては葦原中國(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降(あまくだ)り居(ま)さしむ。 今には海の北道の中に在り、號(なづ)けて道主貴(ちぬしのむち)と曰う。 此は筑紫の水沼君(みぬまのきみ)等の祭(いつきまつ)る?、是也。



10406荊の紀氏:2020/05/23(土) 13:17:11
賊(あたな)う、如(も)し、治(しら)しめん…
賊…
戎 ジュウ・えびす…ユダヤ?
意味 (1)つわもの。兵士。軍隊。 (2)いくさ。戦争。「戎器ジュウキ」(戦争に使用する刀剣・銃砲など) (3)えびす(戎)。古代中国の西方異民族。「戎夷ジュウイ」(野蛮な国の人。戎は中国西方の、夷は東方の異民族)
あたな?…世の中の秩序を武力でそこなう悪者の意。そこなう・秩序に刃向かう悪者・どろぼう、の意となる。
賊 ゾク  貝部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F51ad4b26b2b98069f14a0eec204e92aa
解字 金文は左から、「逆向きの刀+鼎(かなえ)+戈(ほこ)」の形。「刀+鼎(かなえ)」は鼎に刀で刻した銘文のことで則ソク(のり・規範)を表す。篆文は鼎⇒貝になった、「則(貝+刀)+戈(ほこ)」の会意形声。世の中の規範(則)を戈(ほこ)で打ち破ること。世の中の秩序を武力でそこなう悪者の意。そこなう・秩序に刃向かう悪者・どろぼう、の意となる。現代字は、篆文の刀⇒十に変化した賊になった。篆文から形が大きく変わったので戎と結びつけて覚えると便利。ただし、発音は則ソクが濁音になったゾクである。
覚え方 「貝(財貨)+戎(武装した兵士)」で、武装した兵士が財貨を奪って盗賊になる。
意味 (1)そこなう。傷つける。「賊害ゾクガイ」(そこなう)(2)ぞく(賊)。国家や君主にそむく。「国賊コクゾク」「賊臣ゾクシン」(3)ぬすむ。どろぼう。「山賊サンゾク」「盗賊トウゾク」

如(も)し…神意を「はかる」?
如(も)
如は、女(みこ)が神へ願いをかけ、また、その結果として神のお告げを受ける状態をいう。そこから神意を「はかる」、神意に「したがう」意となる。また、甲骨文は女の手の向きが通常と逆で、女が身をよじって口(器)に向く形で、祈祷や神託をうける時に、神がかりとなる動作を伴ったものと思われる。そんな巫女の状態をあらわす「ごとし」の意となる[字統を参考]。
如 ジョ <神のお告げをうける>
如 ジョ・ニョ・ごとし  女部  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2Fe216a624463d8319de4417bd6a1de18d
ごとし…不確実な断定を表す。…のようだ。…らしい。→ごとき
如し(ごとし)とは。意味や解説、類語。[助動][ |ごとく|ごとし|ごとき| | ]活用語の連体形、体言、助詞「の」「が」に付く。1 比喩 (ひゆ) 的に、同等・類似の意を表す。…と同じだ。…のとおりだ。…のようだ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.goo.ne.jp%2Fword%2F

治(しら)しめなさい /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fphoton1122%2Fe%2F5fbb52723ea6be3716b227cdc2806aeb
治(しら)せ。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.solyruna.com%2F
下治(しら)しめしし /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww004.upp.so-net.ne.jp%2Fdassai1%2Fgangoji%2Fgangoji_yomi1.htm
しらしめ…その音から「司(シ)」に通じ、おさめるの意 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq13132906988
祈りの言葉を「神へつげる」(詞) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F289ab71a0eec58e2b520d495662b39cf
「治」は、〔さんずい+台〕ですから、まず、水に関係のある字であることがわかります。そして、音符である台(イ)は、その音から「司(シ)」に通じ、おさめるの意味を表しているのだそうです。
治 チ・ジ・おさめる・おさまる・なおる・なおす  氵部 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fishiseiji%2Fe%2F40334e1d50763cb0661e877626a8b32b
解字 「氵(水)+台(ジ・シ)」 の形声。台の古音シは司シ(つかさどる)に通じ、水をおさめる意。台に始シの音がある。さらに転じて、世の中をおさめる、病気をおさめる意ともなる。
意味 (1)おさめる(治める)。おさまる(治まる)。整える。取り締まる。「治水チスイ」「治安チアン」「政治セイジ」 (2)なおす(治す)。なおる(治る)。「治療チリョウ」「治癒チユ」「全治ゼンチ」


10407秦野北斗:2020/05/23(土) 15:20:06
[10967] 賊(あたな)う、如(も)し、治(しら)しめん…
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010968M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/51ad4b26b2b98069f14a0eec204e92aa



10408秦野北斗:2020/05/24(日) 12:53:25
場違いな投稿「美し国」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010972M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=8GriExbxJZM

http://



10409秦野北斗:2020/05/25(月) 01:17:55
神武東征 令和
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010973M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=VQpUKLsBsu4



10410外野席:2020/05/25(月) 12:59:12
落梅
>請紀落梅之篇。

「落」を村と訳す根拠は、何?

10411秦野北斗:2020/05/25(月) 15:02:36
[10974] 落梅
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010975_2M.jpg

https://www.kanjipedia.jp/kanji/0007035000



10412外野席:2020/05/25(月) 15:50:52
落、さと
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010976M.jpg

落 村でもいいと思います。
貴殿の翻訳方法を以前から思考してます。
絵画の印象派の分割描法に近いかな、と。
因みに、誤訳というのは有りません。



10413鳩摩羅童子:2020/05/25(月) 17:31:57
[10975] [10974] 落梅
■村(むら) village の インド弁  空耳アワー

【タミル語】muRi(= 03 1. piece; 2. half; 3. broken half of a cocoaunt; 4. deed, written bond; 5. receipt written on a piece of ola; 6. piece of cloth; 7. rough cloth; 8. sprout, shoot; 9. tender leaf; 10. leaf; 11. part of a ★village or town; 12. room; 13. corner; 14. alloy of a superior quality, especially bell-metal) むら(村)

【タミル語】vATi(= 02 1. garden; 2. wall; 3. courtyard; 4. house; 5. fish-curing yard; 6. ★village, hamlet; 8. hut of bamboo and grass, of ka1n2i-k-ka1rar ; 9. enlosure, fenced place; 10. yard, shed where firewood is stored for sale) おち(落)、まち(町) (v-m)

【タミル語】ciRukuTi(= 1. ★village in a hilly tract; 2. small ★village; 3. poor family 1.丘陵地帯の村; 2.小さな村。 3.貧しい家族)  しゅうらくダ(集落ダ)、集落地(しゅうらくち)

【サンスクリット語】sadvasatha(= m. a ★village L. (w.r. for %{saMv-}).) さと(里)

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10414秦野北斗:2020/05/25(月) 19:55:47
君が代
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010978M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/パンドーラー



10415外野席:2020/05/26(火) 23:26:17
きみがよ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010979M.jpg

やはり似ている。
みな印象以上には読まないと思うよ。



10416管理人:2020/05/27(水) 00:04:22
豊姫神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010980M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010980_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010980_3M.png

http://snk.or.jp/cda/ohokisi/furoku/4toyohime.html



10417秦野北斗:2020/05/28(木) 00:28:36
[10979] きみがよ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010981M.jpg

https://manapedia.jp/text/3815

http://



10418秦野北斗:2020/05/29(金) 00:12:56
[10980] 豊姫神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010982M.jpg

http://snk.or.jp/cda/ohokisi/furoku/4toyohime.html



10419管理人:2020/05/30(土) 01:22:04
豊姫神社・与止日女神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010983M.png

https://lunabura.exblog.jp/23326458/



10420秦野北斗:2020/05/30(土) 08:28:13
[10983] 豊姫神社・与止日女神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010984M.jpg

https://lunabura.exblog.jp/23326458/



10421鳩摩羅童子:2020/05/30(土) 09:32:57
縄文語 = インド弁(サンスクリット語+タミル語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/沖縄県の歴史

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/AA_Indo.html



10422秦野北斗:2020/05/30(土) 11:08:28
沖縄弁は、古代日本語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010986M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=9cz3HLwy11s



10423管理人:2020/06/20(土) 01:25:59
御井郡と鏡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010987M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010987_2M.png

http://www.snk.or.jp/cda/miimachisi/nenpyo.html



10424外野席:2020/07/01(水) 03:40:44
>朝妻の井
今朝行きて明日は来なむと言ひし子が 朝妻山に霞たなびく 巻十1817
子らが名に懸けの宜(よろ)しき朝妻の 片(かた)山岸(やまぎし)に霞たなびく 巻十1818

朝妻という名は古来よく見かける。古いのでは万葉集にある人麻呂の歌に見る。この朝妻山は奈良県御所市朝妻にあるようだ。ほかによく見られるのは湖北米原市に見る朝妻の地名。こちらも昔より交通の要所で由緒が古い。江戸期、英一蝶が描いた「朝妻舟図」は密かにスキャンダルになり、綱吉により三宅島へ流罪となる。

久留米の朝妻の井。
この朝妻の命名の由来は何でしょう?


10425秦野北斗:2020/07/01(水) 03:53:16
何か大きな遺跡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010989M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_07.html

http://



10426管理人:2020/06/04(木) 02:11:54
卑弥呼・台与の系譜伝承
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010990M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010990_2M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/ミカシキヤヒメ



10427秦野北斗:2020/06/04(木) 09:26:01
巻十1817 は、集団お見合い
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010991M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/御井郡



10428秦野北斗:2020/06/04(木) 10:01:58
巻十1818は、泣き言
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010992M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0f583bfc0c2764e3329c8f59be80a7ed



10429秦野北斗:2020/06/04(木) 16:00:50
巻十1813は、巻向は紅葉
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010993_2M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0f583bfc0c2764e3329c8f59be80a7ed



10430秦野北斗:2020/06/04(木) 19:32:49
卑弥呼・台与の系譜伝承
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010994M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウマシマジ#:~:text=宇摩志麻遅命(うま,『古事記』での表記。

http://



10431秦野北斗:2020/06/05(金) 14:30:41
巻十1812は、芳しい山都(やまと)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010995M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0f583bfc0c2764e3329c8f59be80a7ed



10432管理人:2020/06/06(土) 00:43:47
卑弥呼・台与と岩戸神話
秦野さん、さっそくお返事ありがとうございます。
ご指摘の朝妻と朝倉の件ですが、朝というと普通は東を指しそうなものですが、朝妻の井の場合は西を示すんですよね。益影の井は逆に東にあって、影が益のは日暮れ=西を示すようにもみえますから、方位的には逆です。

ただ、測量的な意味からいくと、ノーモン棒を立てて、朝と夕は影が長い時間帯ですから、それにちなんだ名を持つ井戸と言えるでしょう。

それらはまた太陽測量は太陽信仰とも関わってきますが、先日お話したように、スサノオを仮に帯方郡からきた張政等だとして、彼らが卑弥呼を死に追いやったとすると、スサノオがアマテラスを岩穴に押し込めた話に対応してくるでしょう。

その後、闇夜が訪れたので周囲は慌てて、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八尺鏡(やたのかがみ)を作らせた。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせたわけですね。

ここで、この伊斯許理度売命ですが、この鏡作りの女性は、ニニギに従ってやってきたことになってますね。

ニニギ=ニギハヤヒ=魏(帯方・楽浪)の張政等の可能性を先日から考えはじめているのですが、魏からやってきた鏡作りの女性に象徴される技術者集団となるでしょうか。つまり物部氏の祖先ですね。

ただ、ここで造っているのは鉄の鏡である点が重要で、魏の曹操の墓から出土したのと同類の鉄鏡が日田から出土していることと関係するでしょうか。

また、八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠については、台与が魏に張政等に渡し献上した白珠五千孔、?大勾珠二枚に対応するでしょう。

すなわち2枚の大きい勾玉=八尺の勾玉、五百の御統・美須麻流(みすまる)珠=五千の白珠孔の対応です。

そして後者はどうも首飾り用の穴の開いた珠のようですね。だから魏志にも「孔」と記しているわけです。

そうすると、偶然とは思えないような天岩戸神話と魏志倭人伝の記載とに接点がでてくることに気づきます。

つまり、台与が宝として重宝していたものをあえて魏に贈ったことがわかるのですが、これが岩戸神話におけるアマテラス女神の似姿=女王装飾だったことも理解できるでしょう。

なお、岩戸神話では、岩戸に籠ったアマテラスが、その鏡に映った自分のことを、周囲のものがいう「自分より尊い神」だと勘違いして、岩戸を開いたことによって、引っ張り出されることになったのですが、これが日食のことだとする説もあることはよく知られているところです。

ここでも卑弥呼をアマテラスとすると、その似姿で自分より尊い女神は台与との見方もできるでしょうか。あるいは復活した太陽女神を台与とみなすか。

いずれにせよ、この手の洞窟と太陽神・犠牲神の死と復活の神話は、オリエント経由で朝鮮へと伝わったものでしょうし、それをある時期に、おそらくは邪馬台国時代の末期に日本にもたらしたのが、天岩戸神話として物部氏や皇族等によって継承されていたような気がしますね。

その後、八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放したわけですが、これが台与が張政を魏への朝貢品を渡して追い返したとの記載に対応しそうです。

張政等が行ったであろう暴虐は、岩戸神話からいくと、天斑駒の皮を逆さに剥ぎ御殿の中に投げ入れりしたとなりますが、馬のない日本列島に、馬を持ち込んだ集団ともいえそうですね。機織りの巫女がいる宮殿に糞をまき散らす話も馬糞の話のようにも見えます。

この機織りの巫女が重要で、関連して台与の朝貢品に異文雑錦二十匹というのがありますが、その品々の詳細についてはこちらのサイトに説明があるのでご参照ください。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq13126913783

卑弥呼時代の朝貢した班布がここで言うように1匹で4.7mとして、それが20匹ですから、相当な量の反物を朝貢したことになりますね。しかもそれらには珍しい紋様がおりこめられていたわけですから、これらは卑弥呼の数十〜百人いた巫女集団によって織りなされたいたと考えるべきでしょう。そして卑弥呼の巫女集団を台与も継承していたはずです。

それが岩戸神話では機織りをする女性として描かれている点が重要です。

そして、そこに張政等が馬で乗りこんできたので、驚いてアマテラスは籠ってしまったわけですね。

そのまま籠ったまま彼女は死んでしまったのかもしれません。倭人伝の「以て死す」です。


その様子は、記紀の一書に下記のように描かれてます。


その時、磐戸の側に隠れていた天手力雄神が引き開けると、日神の光が国中に満ち溢(あふ)れた、とある。

そこで、神々は大いに喜び、素戔嗚尊に贖罪の品々を科し、手の爪を吉の物として切り棄て、足の爪を凶の物として切り棄てた。そして天兒屋命をして其の解除(はらえ)の太諄辭(ふとのりと)を掌(つかさど)りて宣(の)らしめき、とある。

後、素戔嗚尊は「神々は私を追い払い、私はまさに永久に去ることになったが、どうして我が姉上に会わずに、勝手に一人で去れるだろうか」と言い天に戻る。すると天鈿女命がこれを日神に報告する。

日神は、「我が弟が上って来るのは、また好意(よきこころ)からではないはず。きっと我が国を奪おうとしているのだ。我は女だが逃げるほどでは無い」と言って武装した、とある。そして二神で誓約が行われる運びになる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A4%25A9%25E5%25B2%25A9%25E6%2588%25B8%23cite_note-8


この場合、スサノオは追放されてから、再度アマテラスのもとに戻ってきたことになるわけです。

つまり、張政等が武装してやってきて宮殿に乗り込んだので、卑弥呼が驚いて籠ってしまって死んだ後、騒ぎになって彼らは一度追放されたものの、その後、再度弁明しようと台与に会いに来たようにも見えるでしょう。

そこで、武装した台与と張政との間での対峙があったのかもしれませんね。

結果としてスサノオが優位に立ったわけですが、いずれにせよスサノオは居残らず、故地に戻ったわけです。

新羅の前身のワイ族のいたあたりでしょうか。秦韓や同族の楽浪遺民のいたあたりで、帯方の役人張政もその血縁ではなかったかと感じます。

スサノオはアマテラスを姉と呼ぶわけですが、張政等が卑弥呼を同族として認識していたとすると面白いですね。

関連して卑弥呼の墓と言われる祇園山古墳は楽浪の阿残(つまり秦韓の阿を称する集団の同族)墓と共通する要素があり、また伊都國の甕棺墓の影響もあるので、楽浪→秦韓→伊都方面の血筋の出身だったことも考慮すべきかもしれません。

それで、卑弥呼もしくは台与は張政等がやってくると聞いて、国をとられると危惧して武装したようにも見えるわけです。

ただ、この辺の話は、朝倉での斉明女帝亡き後の唐軍と天智との張り合いにも似ていて、モチーフ的にはその辺からもたらされている可能性も考慮すべきでしょう。

しかし、魏志倭人伝の断片的な記録のみを元にして、先のようなアマテラス神話を造り出すだけの創作力が白鳳〜奈良の官人にあったのかな?との疑問もありますけどね。

確かに神功皇后の話を新たに創作して卑弥呼・台与に重ね合わそうとした意図は理解できるのですが、そこに物部氏系の古い伝承要素が入り込んでいるような気がするんですね。楽浪・秦韓(新羅)経由である時期に神道祭祀とともに上記のアマテラス伝承が持ち込まれて、それがベースになって存在しているように考えます。

邪馬台国時代の古い元テキストと、新たに追加された創作要素ですね、これをもう少し分離させれれば、卑弥呼と台与の実像が浮かび上がってくるような気がするんですが、またご意見あればどうぞよろしくわかちあいください。


10433秦野北斗:2020/06/06(土) 03:13:00
古田武彦、安本美典ともに、アホです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010997M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/古田武彦

http://



10434秦野北斗:2020/06/06(土) 12:46:35
箸墓古墳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010998M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/箸墓古墳

http://



10435管理人:2020/06/07(日) 01:14:42
台与の伝承
秦野さん、お返事ありがとうございます。畿内説で卑弥呼もしくは台与の墓ではないかとみなされている箸墓古墳の件は気になるところですね。

昨晩お話したように、台与をニギハヤヒの妻・トミヤヒメとした場合、ニギハヤヒは畿内へと東征していますから、台与も畿内へと移住した可能性を考えるべきかもしれません。

それで、ニギハヤヒとトミヤヒメの別名として櫛玉の称号がみられることがありましたね。

これを、昨晩は櫛玉=豊玉姫=台与との関連を予想したのですが、また同じく天岩戸神話において、アマテラスの似姿を演出した玉祖命が豊玉と記されていることに注目すべきでしょう。

ニギハヤヒを示す櫛玉命は、また『伊勢国風土記』逸文では出雲建子命(いずもたけこのみこと)、またの名を伊勢津彦神、櫛玉命(くしたまのみこと)、『播磨国風土記』では伊勢都比古命、『住吉大社神代記』では伊瀬川比古乃命と表記されています。

櫛玉は出雲の武神であり、かつ伊勢へと東征したような側面をもっているように見えるんですね。これがニギハヤヒの東遷と関係するでしょうか。

昨晩予想したスサノオ=ニギハヤヒ=ニニギと考えるならば、スサノオは出雲の武神ですから、ヤマタノオロチ退治とともに共通性をもっています。

ここで思い出すのがスサノオが保護した櫛名田比売(くしなだひめ)の存在です。

在地系の豪族から娶った妻である点で、昨晩も指摘したニギハヤヒの妻で在地系のナガスネヒコの女・トミヤヒメの存在、またニニギの妻となった在地系のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメの存在と同様です。

それでその櫛名田比売(くしなだひめ)の別名を見ていくと、『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫(くしいなだひめ)、稲田媛(いなだひめ)、眞髪觸奇稲田媛(まかみふるくしいなだひめ)、『出雲国風土記』では久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)と表記されることがあり、最後の久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなだみとよまぬらひめ)の中に、「等与(トヨ)」が見えてくる点に注目すべきでしょう。

そもそも稲田姫は、童女として描かれており、これも台与の童女としての側面と共通しますが、また稲田姫の子孫から大国主との日本の支配者が出てくる点も、先日の台与=イカガシコ(孝元・開化天皇妃)が後の皇族を生んだ母祖、もしくはトミヤヒメ=物部氏の祖を生んだ女性とで、始祖を生んだ女性との点でも共通性をもってきます。

その女性の旦那はどれも武人として描かれているわけですね。彼らはみな遠征します。

それで、先の豊玉=玉祖命を祀る神社として、玉祖神社(山口県防府市)、石作玉作神社(滋賀県伊香郡)などがあり、後者には伊香(いか)がつき、これが先の台与とみなした伊香(イカガ)シコと関係しそうです。

その伊香郡については、近世までは「いかごぐん」とも呼ばれ、郡名の由来として、『近江国風土記』逸文に「伊香小江(イカゴエ)」の記述があり、余呉(ヨゴ)湖を指すと見られる。この項は羽衣伝説の内容で、羽衣を盗んだ人物の名もまた「伊香刀美(イカトミ)」となっています。

つまり、その「イカゴ」が先の「イカガ」を継承した地名であることも考えうるでしょう。またその「伊香刀美」の「トミ」が台与との関わりを予想したニギハヤヒの妻トミヤヒメのトミと関わるのではないでしょうか。

そして、羽衣女神の話はそれに付随してくるのですが、ここで天に帰れなくなった天女もしくは童女の話がでてくるのでして、その童女は台与を想起させます。

具体的には下記のようになります。


日本の羽衣伝説では、ここから近江型と丹後型でわかれる。

近江型(昇天型)
天に帰れなくなった天女は男と結婚し子供を残す(幸をもたらす)。
天女は羽衣を見つけて天上へ戻る
後日談

丹後型(難題型)
天に帰れなくなった天女は、老夫婦の子として引き取られる
天女は酒造りにたけ、老夫婦は裕福となる
老夫婦は自分の子ではないと言って追い出す
天女はさまよった末ある地に留まる(トヨウケビメ)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%25BE%25BD%25E8%25A1%25A3%25E4%25BC%259D%25E8%25AA%25AC

ここで天に帰れなくなった女性として豊受姫が出てくる点が重要で、この豊が台与と関係するとの見方があることは先日紹介したとおりですが、また童女でもあり、伊勢と関係する点で、先の出雲・伊勢に関係する櫛玉命=伊勢都比古命ともかかわってくるでしょう。

この豊受は先日お話したように、オオゲツヒメともいわれて、やはりスサノオ神話に関係するわけですね。

そのスサノオについては、櫛にした稲田姫を自分の髪に差し込んでヤマタノオロチと戦うわけですが、スサノオを昨晩考えたように魏・帯方の張政等とすると、その妻として娶った童女が台与で、台与を滅ぼそうと毎年挑んでくるのが、狗奴国王の卑弥弓呼だったと考えるとどうなるでしょうか。

このようにみていくと、ニニギ・ニギハヤヒに象徴される中国・朝鮮系の系譜を引く集団がある時期に九州にあった邪馬台国へと渡来し、その後、台与の時代になり、彼らは台与と婚姻を結ぶ条件の代わりに、周辺諸国の武力征伐を行って南・東へと勢力を拡大していったようにも見受けられます。

その子孫が、物部氏や皇孫として畿内に現れていったのではないでしょうか。

だから箸墓の年代としては台与の時代以降になるはずで、250年以降と考えるとつじつまが合いそうです。

その出雲から近江経由で畿内へと進出していくわけですね。

そして台与に関しては昨晩もお話したように、玉作りが特に重要視していたようで、その玉作りの拠点が近江に弥生時代半ばあたりから見えることも、そこに関わってくるかもしれません。

特に先の伊香郡のあった琵琶湖東北部の長浜市の一部(高月町各町・木之本町各町・余呉町各町)のあたりには、古墳時代まで続く高月南・鴨田遺跡あたりがあるので、その辺の遺跡と台与関連のそれとが関係するようなものが発掘されてくれば面白いですね。

遺跡詳細はこちらをご参照ください。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshiga-bunkazai.jp%2Fdownload%2Fkiyou%2F09_nakamurat.pdf
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.nagahama.lg.jp%2Fsection%2Frekihaku%2Fnews%2Finfo277%2Findex%2520s.html
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fshiga-bunkazai.jp%2Fdownload%2Fkiyou%2F09_hosokawa2.pdf


10436秦野北斗:2020/06/07(日) 08:28:09
[10999] 台与の伝承
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011000M.jpg

https://gejirin.com/src/Ku/kusitamanomikotojinja.html



10437外野席:2020/06/09(火) 00:29:19
> 卑弥呼・台与
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011001M.jpg

外野からは遠く見るだけ。
レオナルドの「聖アンナ三体」はヨセフを飛ばした「聖家族」をモチーフとした。
多様な解釈がなされている。
卑弥呼・台与についてもその構造とコンセプトは明晰な分析は可能でしょう。

外野は無能ですけども^^



10438秦野北斗:2020/06/09(火) 07:51:23
[11001] > 卑弥呼・台与
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011002M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハネの黙示録



10439外野席:2020/06/10(水) 12:18:36
>ヨハネ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011003M.jpg

:Leonardo da Vinci - Virgin and Child with Ss Anne and John the Baptist
1499年頃と1500年頃の間
ヨハネはヨハネでもバプテスマのヨハネ。後、ヘロディアスの娘に望まれて首を切られます。

娘が望んだのではなく王妃ヘロディアスが望んだのです。



10440秦野北斗:2020/06/10(水) 15:46:29
集歌八一
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011004M.jpg

https://dictionary.goo.ne.jp/word/性_(さが)/



10441秦野北斗:2020/06/11(木) 11:24:29
集歌1826 俺、養子になった!!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011005M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011005_2M.jpg

https://www.543life.com/seasons24/post20200210.html



10442秦野北斗:2020/06/11(木) 15:29:49
四面楚歌
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011006M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=5dRUXbe1jwM



10443管理人:2020/06/12(金) 01:43:32
卑弥呼の男弟
また皆さんわかちあいありがとうございます。

先日の続きですが、神功皇后伝承とアマテラス神話に関しては、以前も会報でも指摘したとおり、キリスト教の影響があるように感じてますから、その後代の装飾部分を抽出して除外した後に、邪馬台国時代の卑弥呼と台与に関する情報を明らかにしていく必要がありそうですね。


それで、卑弥呼の男弟の存在と、卑弥呼死後に立った短期間の即位で終わったであろう男王について考えはじめてます。

卑弥呼を仮に以前から指摘してきた孝元・開化天皇妃の老年まで影響力を及ぼした欝色謎(ウツシコメ)だったとすると、同母兄に欝色雄命(穂積氏祖)がおり、また彼女は大綜麻杵命(伊香色雄命・伊香色謎命の父)の同母姉(妹)とされます。

卑弥呼に仕えていたのは弟ですから、大綜麻杵命がその弟になるはずです。

この大綜麻杵命は、台与のことと考える伊香色謎(イカガシコ)の父となるので、卑弥呼と台与は、叔母と姪の関係となり、倭人伝では卑弥呼の宗女=親戚の娘と記されたいるわけですね。このイカガシコから、崇神天皇が産まれてくるので、皇室の祖先としてのイカガシコの存在がクローズアップされていった過程は先日論じたとおりです。

ここで、重要人物となるのが大綜麻杵命という老年の男性と言えるでしょう。物部氏の祖先にあたるわけですが、外戚として権力を握っていたことが予想されます。

なお、イカガシコは、孝元天皇と開化天皇の后となっており、これは王朝交替の際に、その后をそのまま継承した男性=開化天皇であったことを予想させます。ウツシコは開化の際には皇太后となっているようですが、后の可能性もありそうです。

系譜上では孝元と開化は親子なのではありますが、孝元妃のウツシコの子の開化が、同じく孝元妃であったイカガシコを妻にした形となっており、特異な継承をしているわけです。

似たような近親婚としては、崇神天皇の息子の八坂入彦命の娘の八坂入媛命を、崇神の息子の垂仁の息子の景行天皇が娶っているようなケースはありますが、親の后をそのまま息子が継承するのは、あまりないのではないでしょうか・・・。

レビィラト婚だとすると、兄の妻を、兄が亡くなったのちに弟が継承するケースがありますね。遊牧民に多い風習ですが、孝元と開化が親子ではなく、遊牧民系の集団の風習を持つ兄弟だったとすると、その可能性が出てくるでしょう。

そうでない場合は、王朝交替の可能性が出てくるわけです。

それで話は戻って、ウツシコ(卑弥呼か?)の弟で、イカガシコ(台与か?)の父の大綜麻杵命ですが、「おおへそき」と読ませており、その父は大矢口命で、また息子の伊香色雄(イカガシコオ)からは、後代の物部氏系の氏族が多数出てくることになります。こちら参照。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Frekichi.net%2Fs%2F06254010

その息子にみえる十市根命(とおちね)あたりは、魏に派遣された都市(といち)牛利(ギュウリ)の可能性もありますね。

つまり、卑弥呼は男弟の息子を魏に遣使したことになるわけです。

この都市(といち)牛利は次使であり、大夫(長)として派遣されたのが難升米でした。

それで卑弥呼の弟が、卑弥呼死後に即位したとすると、相当な高齢での即位となり、可能性は低いのではないでしょうか。むしろその男弟の息子の伊香色雄あたりが即位するのがちょうどよい年齢だったはずです。

このイカガシコオについては、崇神7年に大物主神をまつる「神班物者」(かみのものあかつひと)に任じられたとあり、ここにみえる「物」が物部氏の由来となったと考えられていますね。

さらに、崇神天皇の時、疫病が流行したことがあり、人民が多くなくなった際に、天皇の夢枕に大物主大神が現れ「意富多々泥古(おおたたねこ)という人に自分を祭らせれば、祟りも収まり、国も平安になるであろう」と神託を述べた。天皇はその人物を捜し出すのですが、下記のようにあります。

即(すなは)ち意富多々泥古命(おほたたねこのみこと)を以ちて神主(かむぬし)と為(し)て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(いつ)き祭りたまひき。又伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰(おほ)せて、天(あめ)の八十(やそ)びらか(=平らな土器。平たい皿様の器)を作り、天神地祇(あまつかみくにつかみ)を定め奉(まつ)りたまひき。(後略)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E4%25BC%258A%25E9%25A6%2599%25E8%2589%25B2%25E9%259B%2584


イカガシコオの役割は、神具を造ることにあるのですが、おそらくは、中国の宮廷工房・尚方のように、王宮で用いる器具も造っていたのでしょう。だから鏡作りとか剣の管理の話も物部氏に継承されるわけです。

ここで、イカガシコオはその妹であるイカガシコメが産んだ崇神天皇の時代に、それなりに重職を担っていたように見えますし、その関連伝承を後代の物部氏が受け継いでいる点で重要です。

イカガシコオが卑弥呼の後に即位したならば、混乱が起こってなかったかもしれませんから、すると別人がやはり即位したことになりそうです。

そして、アマテラスの岩戸籠後の暗闇として、その男王時代の混乱を表現していたとするとどうなるか。

ともあれ、その卑弥呼の次の男王は後日また考えるとして、卑弥呼の弟を大綜麻杵命とすると、そのヘソの意味をどう捉えるかが課題ですね。

ヘソは、母と子をつなぐもの、外界との橋渡しの意味とするならば、卑弥呼の宮殿でただ一人出入りできた男性とか、あるいは卑弥呼の代わりに外交を司っていた仲介者の意味ともとれなくもないでしょう。

この大綜麻杵命については、その妻の高屋阿波良姫とともに、四国阿波との関係が下記サイトで次のように指摘されてますね。


徳島県吉野川市(旧麻植郡)鴨島町麻植塚字堂の本鎮座の五所神社の祭神は、物部の五世孫の欝色謎命と同世代の物部の大麻綜杵命(おおへつきのみこと)。大麻綜杵命を祀る神社は全国でここ一社。麻の字のない大綜杵命は尾張国葉栗郡の高田波蘇伎神社にも祀られている。名前から麻を除き、忌部との関連を消したとの説もある。その妃が高屋阿波良姫。「高屋」からは讃岐(香川県坂出市高屋町)が思い浮かぶ。高家神社が鎮座。観音寺市高屋町には式内高屋神社が鎮座、強く四国が意識される。「阿波良」姫の名からはまさに阿波が想像される。

 大麻綜杵命と高屋阿波良姫の間の子が伊香色謎命・伊香色雄命で、伊香色謎命は崇神天皇の生みの親となる。不思議なことに高屋阿波良姫と伊香色謎命を祀る神社が丹波国船井郡の住頭神社(すみどじんじゃ)である。

『阿波風土記』の逸文は手持ちの書物に採録されていないが、『麻植郡郷土史』に下記のような引用があると言う。「大麻綜杵命の母は伊香色謎命なり按するに大麻綜杵命は阿波忌部族なるべし〜」。これは、「崇神天皇の母は伊香色謎命なり。伊香色謎命は大麻綜杵命と高屋阿波良姫の女であるから、両親に「麻」、「阿波」の文字がある所から、伊香色謎命は阿波忌部の血を受けている。」との理解でいい。阿波国麻殖郡に式内社の伊加加志神社が鎮座している。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkamnavi.jp%2Fjm%2Fketusi8dai.htm

なんだかいまいちよくまとまらないので、また後刻整理して考えてみましょう。




10444管理人:2020/06/14(日) 01:39:28
台与の東遷
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011008M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/神大市比売



10445秦野北斗:2020/06/16(火) 00:14:39
集歌?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011009M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011009_2M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/c/be376fe73e4d519ce5fc2a5e02bc14f4



10446秦野北斗:2020/06/16(火) 15:59:01
背水陣
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011010M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=-ssLFbC3-RM



10447管理人:2020/06/19(金) 00:53:59
卑弥呼・台与の子孫
秦野さん、万葉集のほうを探っておられるのですね・・・。

また、こちらも先日の続きで、卑弥呼と台与の系譜について考えてます。

仮に先日考えたように、ニギハヤヒとニニギ、スサノオ、開化天皇が同一人物だとすると、その妻・トミヤヒメ、コノハナサクヤヒメ(豊阿多津媛)、クシナダ姫、イカガシコメも同一人物で、つまり台与のことだと思うわけです。

そうすると、そのニギハヤヒ夫婦の子である天香語山命、宇摩志麻遅命、熟穂屋姫命と、ニニギの子の火闌降命、彦火火出見尊、天火明命、そしてスサノオ夫婦の子の五男三女神、八島士奴美神、大年神、宇迦之御魂神、須勢理毘売命等、さらに開化天皇の子の御間城入彦五十瓊殖尊(崇神天皇)、御真津比売命、彦湯産隅命、彦坐王、建豊波豆羅和気王との間にも相関性が見えてきておかしくないでしょう。

そこで、まず注目したいのは、ニギハヤヒの息子のウマシマジで、これは以前考えたように、味間見命ともしるされているように、ミマミ=三間=水沼君(物部系)のことであり、また上記の開化天皇の子・崇神天皇(ミマキイリヒコ)であることを予想した次第です。どれもミマが付くんですね。

それで、そのニギハヤヒの子に天香語山命(ウマシマジの異母兄)がおり、尾張氏の祖先なのですが、「手栗彦命(たくりひこ)」、「高倉下命」ともなります。北陸への征伐伝承もありますが、これが開化天皇の子で崇神の異母兄の彦坐王になるかもしれません。

この彦坐王からは丹波道主王など丹波・北陸・奈良春日にかかわる氏族が子孫に見えてくることがあり、また書紀では和珥臣(和珥氏)遠祖で老女を意味する姥津媛を母としていますが、古事記では丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと)としている点が興味深いところです。

ここで、その母・姥津媛(老女)を、同じく老年のウツシコメとし、さらに老女・卑弥呼とみなしうるならば、そのウツシコメの息子に北陸征伐をしたオオヒコが見えてくる点で、上記の彦坐王や、天香語山命=高倉下の東征伝承と関係してくるかもしれません。

また、その母である姥津媛を意祁都比売命(おけつひめのみこと)、つまり、スサノオ神話におけるオオゲツヒメとしている点が重要で、オオゲツヒメ(大宜都比売)は先日もお話したように、スサノオに切り殺されてその代わりにそのバラバラになった体から食物が育った伝承、つまり豊受やウケモチ神のそれとにかかわってくることがあります。

これは先日、外来の侵入者がやってきて卑弥呼を殺して、台与を擁立し妻とするまでの過程を表した伝承と考えたことがありましたが、その老女を殺しその替わりに若い姪っ子が王となること、つまり、オオゲツヒメの体の一部(親族)から新たな子孫が生れ出ていくことを示しているのではないでしょうか。

だから書紀では姥津媛とし、古事記では意祁都比売命としているわけですね。双方、和珥氏の伝承を別々の資料から引用しているのでしょう。

その老女=卑弥呼の子としてのオオヒコ、彦坐王や天香語山命=高倉下が見えてくるわけですが、彼らは若女の台与の子孫の系統ではなく、同族の別系統としての位置づけになっており、これが和珥氏や丹波道主王、つまり丹波王朝の祖となる垂仁天皇やヒバス姫などの奈良北部の佐紀盾列古墳群の主たちと関係していくわけです。

ここで崇神天皇の系統と、その子とされる次代の垂仁天皇の系統とが上記のように同族でありながら別系統であることが理解できてくるのですが、この2系統の祖として、崇神と彦坐王、ウマシマジ(味間)と天香語山、さらに言えばニニギの子の天火明命、彦火火出見尊の兄弟として表現されていったのかもしれません。

つまり、天火明は物部氏の直系の祖とされているとおりで、ウマシマジ=崇神に掛かってくるわけですが、それに対立する系統として、彦火火出見尊=彦坐王=天香語山があり、ここで彦(日子)が共通要素としてみえてくるわけです。

その彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、山幸彦のことであり、海神の宮でトヨタマヒメ(豊玉=台与?)を娶って、またその妹のタマヨリヒメから後の神武につながる子孫を儲けるのですが、この神武系の王統というのが、以前から論じてきたように南方海人族と関わり、また大彦とその子・弟の武ヌテガワのことであり、それ以前に畿内にいた物部系の王朝を制圧・併合したと考えるわけです。

その時期は4世紀中葉?となるわけで、南方海人系の遺物を出す佐紀盾列古墳群が奈良北部に見えてくる時期で、それ以前の奈良南部の柳本・纏向といった古墳群の主たちとは同族でありながら別系統であろうと考えてきたところでしたね。つまり、物部系の集団がそれ以前に畿内にいて、これが上記のウマシマジ(三間君)=崇神王朝だったのでしょう。

先の天香語山命というのは熊野から入ってきますが、上記のように山幸彦のことだとすると、対立する物部・崇神系の王統に対して、潮満玉など海岸方面から有利に畿内へと侵攻していったのかもしれません。そのバックには海神に象徴される航海民族がいたのでしょう。

その彼らの親の時代には、ニギハヤヒ・トミヤヒメ夫婦、開化天皇・イカガシコメ夫婦=台与の時代がおり、おそらくは九州・瀬戸内方面から、大和へと東遷したのではないかと考えます。

そして、その親の代にあたる天忍穗耳尊(あめのおしほみみ)、孝元天皇(ヤマトクニクル)・ウツシコメ=卑弥呼の時代には、まだ九州に本拠があったので、天忍穗耳は九州メインで祀られているのでしょう。

その時代はスサノオ・アマテラスの時代でもあり、ある時期に天岩戸が起こって、追放劇・・・が生じていくわけですね。

もう少し、この辺の系図を整理したいと思いますが、また何かお気づきのことがあれば、お気軽にわかちあいください。


10448秦野北斗:2020/06/19(金) 18:28:29
台与は卑弥呼の娘だった
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011012M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=Oy_vE2czFH4



10449秦野北斗:2020/06/20(土) 14:07:59
古事記上卷 ?序
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011013M.jpg

https://dictionary.goo.ne.jp/word/魚心あれば水心/



10450管理人:2020/06/25(木) 00:33:08
卑弥呼以前の男王系譜
こんばんは。ちょっとバタバタしていて更新遅れてます・・・。

秦野さんご指摘の卑弥呼と台与の血縁関係、気になるところですね。

娘と記さずに宗女と記したことが重要かもしれません。親族の娘となりそうですから、卑弥呼の男弟の娘といった具合で姪っ子だと思うんですけどね・・・。

ウツシコメの姪がイカガシコで、この2人が孝元・開化天皇妃となっているここが重要です。ウツシコメの娘ではなく、姪になっている・・・、ここがただの創作の系譜ではなく、実在の二人の女性をモデルとした伝承であることが明らかになってくるわけです。

よく創作だといわれるその欠史天皇についても、なぜか複雑な親族系譜がそこにみられる点に留意すべきでしょう。何かモデルがあるんですね、実在した王たちの・・・。

そのウツシコメ=卑弥呼か?の旦那・孝元天皇から考えていくと、稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)、大彦命、少彦男心命が息子としてみえてきますが、先日お話したように、この開化天皇は息子ではなく別系統の親族と考えて、大彦がこの孝元天皇の嫡男というべき存在で、それとともにみえる少彦男心というのは、大きいと少ないの対比関係にあり、これが大国主(大穴牟遅)と少彦名とかんがえれば理解しやすいでしょう。

つまり、この二人が国造り(征討)を行ったわけです。この件は記紀にもしるされているとおりですね。

この大彦、少彦の話自体は、以前も会報でも論じたように、中国の後漢の外戚トウ氏の伝承に由来するところがあり、つまり迫害を逃れて王宮に仕えてきた少君(トウ皇后の弟)の話に現れてくるわけです。

一部は高句麗の子孫伝承にも関係してくるのですが、もともとは中国後漢時代に遊牧民・月氏の関係で宮廷に入ってきた伝承と関係しているはずで、その中国・高句麗系の系譜・伝承を保持した集団のそれが、どういうわけか、ウツシコメ・イカガシコメを輩出した外戚・物部氏に伝わっていたことがあるのですね。

開化・崇神王朝の時代まで、その魏の影響が続いていたはずで、それが奈良の柳本・纏向古墳群の造営や、その位置・方位区画にも色濃く反映していることも、以前指摘したとおりです。

つまり漢魏楽浪城を模した区画が、柳本・纏向といった奈良南部の特定領域に構築されていったのも、この集団の影響と考えると理解しやすいでしょう。ここに物部氏と台与が絡んでくるのですが、その後、時代が変わって、ウツシコの系統にあたるオオヒコ(神武)に象徴される存在が畿内の物部氏のいたところへ九州日向方面から東征してやってくることになります。

4世紀中葉あたりだと思いますが、奈良北部に佐紀盾列古墳群というのを造りはじめるわけですね。この集団は丹波・河内王朝へとつながっており、一部は石枕などを関東方面までもたらしていくことになります。

先の魏の影響を受けた物部氏に関わる集団とは、別系統と考えるべきですが、遠い血縁関係があったようにも見受けられるわけですね。天羽々矢の話として象徴的にあらわされています。

ともあれ、この集団以前の系統に連なるオオヒコの系統ですが、これが後漢・楽浪郡の影響を受けた集団であり、さらにさかのぼれば月氏やワイ族の東遷・南下と関係しそうですが、系譜的にいくと孝元天皇、あるいはそれ以前の孝霊・孝安天皇あたりに、その痕跡を見いだせないかと感じます。

孝霊天皇というのは、黒田庵戸宮に都をおいていますが、吉備の鬼退治・桃伝承ともかかわっていますが、ねむくなってきたので、その件については、また後日考えてみましょう。

10451秦野北斗:2020/06/25(木) 17:02:19
卑弥呼は?沼河耳命の末裔
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011015_2M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html

http://



10452秦野北斗:2020/06/27(土) 17:39:48
古事記上卷 并序1
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011016M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011016_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=w76xHECMbEo



10453外野席:2020/06/29(月) 12:50:05
翻訳
>懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬?蕃息與

この部分だけ訳していただけると幸甚でございます。

10454秦野北斗:2020/06/29(月) 14:36:51
[11017] 翻訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011018M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011018_2M.jpg

>懸鏡吐珠而百王相續、喫劒切蛇、以萬?蕃息與

懸鏡(かける、かがみ)吐珠(つく、たま)而(しかるに)百王相續(なり、おう、さが、つぐ)、喫劒切蛇(こうむる、つるぎ、きる、くちなわ)、以(もち、)萬?(よろず、あまつかみ)。
蕃息與(えびす、むすめ、あずかる、)この文章は別文章です。

古事記上卷并序2 でアップします、少しリークさせましょう。

文章は君が代、です。皇(神武天皇)が中国に行き、萬が残り、おさめる。
石(美し国)・・・。萬が残り、おさめる。この部分です。

君が代
皇祚連(きみ、しあわせ、つれ)、綿兮久長(つらなる、なる、ひこ、かしら)
萬世不(よろず、ゆき、ない)、變兮悠長(かえる、なる、とおい、かしら)
小石凝(わずか、いし、こごる)、結成巖兮(ゆう、なす、いわお、なる)
更巖生(かえる、いわお、なす)、?苔之祥(あお、こけら、これ、きざし)

古事記并序は、内情が書かれるので、秦野もおいおい、それは無いでしょうが、飛び出し
ビックリです、太安万侶のボヤキも、飛び出す・・・ぞ、

?

http://



10455管理人:2020/06/30(火) 02:23:59
欠史天皇と卑弥呼1
またまた多忙につき更新遅れてます。秦野さん、お返事ありがとうございます。

欠史天皇の件ですが、ともあれ、ひとつひとつ再考していく必要がありそうですね。

まずは孝霊天皇について考えてみましょう。

日本足彦国押人天皇(孝安天皇)の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見えます。


その母に忍がつくのは、先日の分析からいくと、ニギハヤヒ等の父の代の九州にいたであろう忍穂耳などのオシと関係しそうですね。

また兄弟にみえる吉備+進の意味も、九州から吉備へと侵攻していった集団を思わせるところです。

父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移しますが、ここが以前も指摘したように、漢魏楽浪城を模した奈良の四方区画の宮殿域になることからみて、この天皇の代に、そのそばの鏡作神社のそれとあわせて、後漢と関わる物部氏系の集団がこの地に移住したのかもしれません。

その孝霊の霊は後漢末の霊帝の時代を暗喩していることも以前指摘したところですが、淡海三船が別にこの天皇の年代を推算していたことによるものでしょう。

大日本根子彦太瓊天皇(紀)
大倭根子日子賦斗邇命(記)

との名については、この太瓊は大きい勾玉の意味でしょうから、これは卑弥呼、特に台与が魏に贈ったの大きい珠に対応するもので、当時の天皇の愛用物、後代の三種神器のそれに関わる名だと言えますね。

ちなみに次代の大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)は、魏の曹 奐(そう かん)・元帝(260〜65)になぞらえて元をつけた名であり、年代としては台与の時代になるでしょう。この孝元天皇は、

大日本根子彦国牽天皇(紀)
大倭根子日子国玖琉命(記)

で、クニヒク、クニクルで、外来の新参物を意味しているわけですが、クニビキ神話とも関わるであろうことも以前指摘したとおりです。

あと、孝霊の子女ですが、下記のとおりです。

大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)
千千速比売命
倭迹迹日百襲姫命
日子刺肩別命
彦五十狭芹彦命
倭迹迹稚屋姫命
彦狭島命
稚武彦命

これは3つくらいのグループに分けれるでしょう。

つまり、千千速比売命、倭迹迹日百襲姫命、倭迹迹稚屋姫命は、チチ、トトのつく姫の意味で、同じ人物ではないかと感じますね。

同じく、日子刺肩別命、彦五十狭芹彦命、彦狭島命も、ヒコ、サシのつく同一人物。

別も彦も当時の男性名ですね。倭人伝時代のヒコです。

そして、稚武彦命ですが、これは彦五十狭芹彦命と同様に吉備に関わります。


また孝霊の皇后:細媛命(くわしひめのみこと/ほそひめのみこと、細比売命)ですが、このクワシが先日分析したクシタマ・クシナダのつく女帝、つまり台与のことであり、またニギハヤヒの妻となった在地系のトミヤヒメ、トビでしょう。

『日本書紀』本文・『古事記』では、磯城県主(または十市県主)大目の娘。
ただし、書紀第1の一書では春日千乳早山香媛、第2の一書では十市県主祖の真舌媛となり、纏向から桜井方面のシキ、トイチあたりの首長の娘となりそうですが、このチチのつく姫は、トト、トトビとも共通し、トイチとも関係するでしょうか。

倭迹迹日百襲姫命については、トトビですが、次世代の崇神の時代にみえてきますが、元はトイチにあるのでしょう。

つまりトイチ、トチ、トイ、に語源があり、その中国人の解釈からいくと、トヨ、トイとなったのではないでしょうか。

倭人伝にみえる都市牛利の(ツイチ)も同じで、ともあれ、トイチ姫とでもいうべき巫女、おそらくは台与のことを、これらの女性名は示しているわけです。

崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたといいますが、大物主は、物部氏の祖のことで、このモモソヒメの守護者、おそらくは外戚と考えるべきでしょう。

同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったとの伝承も、上と同じ伝承ですね。

大水口というのは、物部氏の祖のミマミのことで、三間とか崇神・ミマキイリヒコのことと考えますが、和珥坂とか物部氏の領地で継承された伝承を元にこれを記載したわけです。

大田田根子命と市磯長尾市も、オオタタのタタは先のチチと関係しそうですし、イチイソナガオイチも、つまり、さきのイチ、磯城県主のシキですね、それらにかかわってくる纏向、桜井方面の首長を示すものでしょう。

倭迹速神浅茅原目妙姫のアサチハラは、伊勢麻績君のアサツミと同じことで、同一の巫女とみてよいでしょう。それに物部氏系の大水口を加えて3人になっているわけです。大和の巫女伝承と、物部の巫女伝承、伊勢の巫女伝承の3つでそれぞれ異なって記載されたので3人になっているわけです。みな同じ夢を見たとの話になります。

アサチ、アサシで、先の孝霊の息子にみえるサシの語音とも関わりそうですね。

同じく、崇神天皇10年9月27日条では、四道将軍の1人の大彦命が和珥坂(現・奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会う。 少女は詠う 「ミマキイリビコはや おのが命を殺せんと ぬすまく知らぬに 姫遊びすも」。 大彦命は気になって尋ねる「なんじが言は何辭ぞ」。 少女は答える「物言はず、ただ歌うのみ」。 少女はもう一度同じ歌を詠うと姿を消したとありますね。

これも、物部系の崇神とは別系統にあたるオオヒコ、つまり神武ですね、これも、似たような構造を持っていることがわかります。巫女の託宣なのですが、少女の託宣に変化している。物部系の崇神王朝が、滅ぼされたことを意味していそうですが、この反乱の主の武埴安彦とその妻の吾田媛というのが、日向にちかい阿多にかかわる集団の東征と関係し、つまり神武東征伝承となるのでしょう。

ともあれ、崇神朝時代には、何等かの災害があり、疫病や飢饉などがあったのでしょう。

その時代に、物部氏の祖がそれらの手助けをした、それが巫女の占い伝承として継承されていったのかもしれません。

そして、その後に物部系の崇神王朝は、神武・オオヒコ系の王朝に取って代わられたわけですが、畿内へと東征してきた日向系集団として描かれていくわけですね。

その災害の詳細について考えるべきですが、下記のとおりです。


即位5年、疫病が流行して人口の半ばが失われた。祭祀で疫病を治めようとした天皇は翌年に天照大神と倭大国魂神を宮中の外に出すことにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせた。倭大国魂神は渟名城入媛命に託し長岡岬に祀らせた。しかし渟名城入媛は身体が痩せ細って倭大国魂神を祀ることが出来なかった
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25B4%2587%25E7%25A5%259E%25E5%25A4%25A9%25E7%259A%2587

ここで、まず天照大神、卑弥呼でしょうか、これが宮の外へと出されるわけですね。

なぜ、そんなことをするのか?解釈できないように感じるでしょうけど、先日も指摘したように、卑弥呼が外来系の集団に何らかの理由で殺されたと考えれば、そのアマテラスを外に出したの意味も解けてくるように感じます。岩戸隠れなわけです。


そして、天照大神は豊鍬入姫命に託して笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせるとの記載は、卑弥呼=アマテラスが、豊鋤=台与へと王位を継承させたことを示していることもわかるでしょう。

つまり、この人口の大半を失わせる災害が、卑弥呼から台与へと交替させるきっかけとなったことも予想しうるわけですが、それを疫病と崇神紀では記しているのですね。

祭祀場を大和の三輪方面へと移動させているのですが、これも首都の移住を示しているかもしれず、ニギハヤヒ・崇神の東征とも関係してくるでしょう。

この崇神5年の大災害ですね、これが以前紹介した2000年前の巨大プレート地震・大津波・それにともなう塩害・飢饉によるものなのか、あるいは天然痘などの流行だったのか、それを特定する必要がありそうですが、年代としては、こうみていくと、卑弥呼の晩年〜台与の年代の時期にあたるはずで、その年代の海外の災害資料再度調べていくべきかもしれません。

崇神の崩年干支を318年または258年とする見方がありますが、先のとおり、崇神10年のオオヒコのときに崇神朝が滅んだとすると、258年とすれば248年即位となりそうですね。

つまり卑弥呼が死んだ248年に崇神が即位し、その5年後の253年に疫病を伴うような大災害があり、農民も離反・流浪、その後2年後に首都や祭祀場の移転があり、大和東南部や伊勢方面へと東遷していったと考えるとどうでしょう。

255年ごろに、巫女の託宣というべきことがあり、台与が即位して国内が治まったことになるでしょうか。

その後10年して台与は晋成立に際してあいさつのための使いを送るわけですね。

だから、253年に諸外国で疫病なり、大地震・大津波なりの記録がみえてくればいいわけです。中国史料だと下記のようにありますね。



吴建?二年(253)十一月,在春申(今地不?,或即今上海西部)五次出?大?,吴遂改年?五?元年。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbaike.baidu.com%2Fitem%2F253%25E5%25B9%25B4


大きな鳥が5つ見えたとのことですが、もしかすると隕石や彗星の落下・接近と関係しないでしょうか。

隕石落下と疫病の関係は以前指摘したとおりで、その際の放射線の増大が、天然痘などの有害ウイルスの変異を起こし、疫病流行へと至るプロセスを考えたことがありましたね。

この崇神朝の疫病流行も同様に、その時期の隕石落下・彗星接近の影響と考えれば何か見えてくるものがあるかもしれません。

10456秦野北斗:2020/06/30(火) 12:27:02
[11019] 欠史天皇と卑弥呼1
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011020_2M.jpg

日本書記、まるで頓知(とんち)

大倭根子日子(ヒコ)は彦(ヒコ)、賦斗(フト)は太(フトる)
大倭根子日子(ヒコ)は彦(ヒコ)、国玖(ヒさ)琉(ル)は国牽(ヒっぱル)

日本書記の首(おびと)なかなか、やるな・・・まともに読めないな・・・

大日本根子彦(ヒコ)太(フトる)瓊(ニ)天皇(紀)
大倭根子日(ヒ)子(コ)賦(フ)斗(ト)邇(ニ)命(記)

大日本根子彦(ヒコ)国牽(ヒっぱル)天皇(紀)
大倭根子日(ヒ)子(コ)国玖(ヒさ)琉(ル)命(記)

古事記712年、日本書記720年の差、八年は頓知(とんち)、 創作に費やした模様

?

http://



10457すなみまさみ:2020/07/22(水) 01:03:53
「キツネ目の男」こと「角南雅道(すなみまさみち)」
https://kituneme.web.fc2.com/

http://sunami.x.fc2.com/



10458秦野北斗:2020/07/03(金) 21:16:03
集歌六四二
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011022M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011022_2M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0f7924bd03bb65bd8753ea317a6f675f



10459秦野北斗:2020/07/04(土) 17:37:16
古事記上卷 并序2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011023M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011023_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=4YbPc_Ef3Ms



10460管理人:2020/07/07(火) 01:10:51
崇神朝の年代と疫病記載
またバタバタしているうちに1週間経ってしまいました・・(汗)

秦野さん、お返事ありがとうございます。欠史天皇の名に隠された意味、気になるところですね。

そして、前回もお話した崇神天皇の没年干支と、その直前期に起きた疫病・災害の件がありましたね。

前回は疫病の起こった年を253年で考えてみましたが、313年、あるいは373年で考えるとどうなるでかとも感じるのですが、関連して250年からはじまったローマの疫病の話があるようです。下記のとおり。


キプリアンの疫病は250年に始まり、20年間続きました。ピーク時には一日5000人が亡くなり、ローマ帝国に打撃を与えました。疫病の正体は、天然痘、インフルエンザ、あるいはウィルス性出血熱(例:エボラ)のような伝染病だったと言われています。疫病は、トラヤヌス・デキウス(在位249-251)が皇帝に即位して1年後に発生しました。彼は全国民に、ローマの神々に犠牲を捧げ、崇拝せよという勅令を出しました。儀式は行政官の前で行うこと、また供犠証明書の発行などが義務づけられました。偶像崇拝を拒否した多くのキリスト教徒が処刑されました。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.excite.co.jp%2Fnews%2Farticle%2FEpochTimes_52041%2F%3Fp%3D2

こちらも参照ください。

この時代は「キプリアヌスの疫病」と呼ばれる感染症が大流行したことで知られる。北アフリカ沿岸の都市カルタゴで司教を務めたキプリアヌスの記述によれば、この疫病にかかると「絶え間ない嘔吐(おうと)に腸は震え、目には感染した血液の炎が燃え、場合によっては足あるいは手足の一部が腐って落ちる」とされ、多くは失明したり聴覚障害が残った。ローマだけで1日に推定5000人がこの疫病のために死亡し、当時のローマ皇帝ホスティリアヌスとクラウディウス2世も犠牲になったほか、エジプトのアレクサンドリアでは人口の3分の2が死滅したと見る研究者もいる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.cnn.co.jp%2Ffringe%2F35049830.html

これはこちらの論文を参考にして、上記の記載を比較すると視覚障害が残る点等に共通性があり、やはりマーブルグ病、エボラ熱がその症状比較からみてもその可能性が高そうです。つまりインフルや天然痘とは異なるわけですね。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2Furl%3Fsa%3Dt%26rct%3Dj%26q%3D%26esrc%3Ds%26source%3Dweb%26cd%3D%26ved%3D2ahUKEwjv8vu19bjqAhWPPXAKHXVLAa4QFjADegQIAxAB%26url%3Dhttps%253A%252F%252Fsaitama-med.repo.nii.ac.jp%252F%253Faction%253Drepository_uri%2526item_id%253D125%2526file_id%253D18%2526file_no%253D1%26usg%3DAOvVaw1CBMnA-54SjjIea0mgXBZ-


かなりの感染力があり、3年後に日本までこの疫病が伝来した可能性もあるでしょう。

その場合、その疫病記載に、上記のような嘔吐や高熱、視覚障害・・・といった話がでてくれば、その可能性が高くなりそうです。

崇神5〜7年の2年間の疫病記載についても、崇神7年を先のとおり255年とすると、その2年前の253年には日本へもたらされていたことになるでしょう。


その期間の崇神紀の記載は下記のとおりです。


五年、國?多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以?治之。是以、晨興夕惕、請罪?祇。先是、天照大?・倭大國魂二?、並祭於天皇大殿之?。然畏其?勢、共住不安。故、以天照大?、託豐鍬入?命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城?籬。?籬、此云比莽呂岐。亦以日本大國魂?、託渟名城入?命令祭、然渟名城入?、髮落體痩而不能祭。

七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰「昔我皇?、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意今當朕世數有災害、恐朝無善政、取咎於?祇耶、蓋命?龜以極致災之所由也。」於是、天皇乃幸于?淺茅原、而會八十萬?、以卜問之。是時、?明憑倭迹々日百襲?命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰?也。」答曰「我是倭國域?所居?、名爲大物主?。」

時、得?語隨教祭祀、然猶於事無驗。天皇、乃沐浴齋戒、潔淨殿?而?之曰「朕、禮?尚未盡耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢?恩。」是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主?曰「天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。」

秋八月癸卯朔己酉、倭迹速?淺茅原目妙?・穗積臣遠?大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢而奏言「昨夜夢之、有一貴人誨曰『以大田々根子命爲祭大物主大?之主、亦以市磯長尾市爲祭倭大國魂?主、必天下太平矣。』」天皇、得夢辭、?歡於心、布告天下、求大田々根子、?於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、?親臨于?淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大?、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。」天皇曰「朕當榮樂。」乃卜使物部連?伊香色雄爲?班物者、吉之。又卜便祭他?、不吉。

十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄而以物部八十平瓮作祭?之物。?以大田々根子爲祭大物主大?之主、又以長尾市爲祭倭大國魂?之主。然後、卜祭他?、吉焉。便別祭八十萬群?。仍定天?・國?及?地・?戸。於是、疫病始息、國?漸謐、五穀既成、百姓饒之。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.seisaku.bz%2Fnihonshoki%2Fshoki_05.html



まず、国民の半数が死ぬという高い致死率の疫病だったことがわかりますね。天然痘の致死率も30〜50%とされているので、その可能性もあるでしょう。なおエボラは50〜90%とされていますね・・・。

コチラ参照。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.eiken.co.jp%2Fuploads%2Fmodern_media%2Fliterature%2FMM0911_02.pdf

その症状については、下記の記載がヒントになるかもしれません。

渟名城入?、髮落體痩而不能祭


この記載は、髪が抜け落ちて痩せてしまった様子となりますが、女性で髪が抜け落ちるというのはちょっと奇異に感じますね。痩せるのは下痢の症状とも関係しているかもしれませんから、エボラや天然痘のそれに対応しそうです。

この崇神朝の疫病がエボラなのか天然痘なのか、もう少し調べていきましょう。

10461秦野北斗:2020/07/07(火) 09:45:46
[11024] 崇神朝の年代と疫病記載
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011025M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_09.html

http://



10462管理人:2020/07/11(土) 01:02:02
大宰府羅城と邪馬台国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011026M.png

https://www.youtube.com/watch?v=xvElxYBjXls



10463秦野北斗:2020/07/11(土) 17:53:04
[11026] 大宰府羅城と邪馬台国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011027_2M.jpg

http://home.t02.itscom.net/izn/ea/kd3/47c.html

http://



10464管理人:2020/07/13(月) 23:58:46
九州山城ライン02
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011028M.png

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/140214



10465秦野北斗:2020/07/14(火) 16:38:13
『孫権伝』二三〇年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011029M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=OyyVazsUIuo



10466秦野北斗:2020/07/15(水) 09:34:44
次回のyoutube、并序4
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011030M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_01.html



10467秦野北斗:2020/07/15(水) 23:45:17
[11028] 九州山城ライン02
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011031M.jpg

古代航路と陸路を見渡される所に城壁を築いてますな。
240年に陸の防衛ですか・・・。凄い

注)時代は魏誌倭人伝の頃になります。




10468秦野北斗:2020/07/17(金) 00:06:59
韓国の東海は、北海なんです。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011032M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011032_2M.jpg

http://www.pref.hokkaido.lg.jp/ks/bns/yurai.htm

http://



10469管理人:2020/07/19(日) 00:21:03
全国山城ライン01
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011033M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011033_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011033_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/神籠石



10470秦野北斗:2020/07/21(火) 19:38:15
[11033] 全国山城ライン01
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011034M.jpg

>その時期としては、先日紹介した大野城の水城の初期段階の構築年代、c14でいくところの240年前後となるのかもしれません。

>これらの山城の初期段階がその卑弥呼の時代だとして、その後、瀬戸内・畿内方面へと山城を展開していったとすると、その展開はそれ以後の年代となるでしょうか。

山城の初期段階がその卑弥呼の時代、倭国大乱になる、当時、援軍の武者も大乱が終わり、褒美を持ち、故郷に帰還し、山城を築いたのではないか。これが、瀬戸内・畿内方面の山城と考える。また、同時代の古噴も関係する。管理人さんの山城、その展開はそれ以後の年代となるでしょうか。は、いい線いってる。山城ライン?

古墳:古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。
万葉集によると、祖先の墓参りに相当する、裳(も)があった模様(意外だが)3世紀から7世紀まで
現在、仁徳天皇陵にも裳(も)の習慣がのこる、地元の人は意味を知ることはない、風習である。



10471管理人:2020/07/24(金) 01:34:11
全国山城ライン02
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011035M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011035_2M.png

http://kamnavi.jp/as/yamanobe/toyohi.htm



10472秦野北斗:2020/07/24(金) 11:33:06
関東王朝(日本)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011036M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011036_2M.jpg

http://home.t02.itscom.net/izn/ea/kd3/47c.html

http://



10473秦野北斗:2020/07/25(土) 13:46:55
古事記上卷 并序4
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011037_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011037_3M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=daY78BTqZeA



10474秦野北斗:2020/08/11(火) 00:06:40
集歌2646 干鰯(ほしか)漁
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011038M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/干鰯#:~:text=干鰯(ほしか)とは,作った肥料のこと。

http://



10475管理人:2020/08/04(火) 00:19:24
高地性集落ライン01
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011039M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/高地性集落



10476秦野北斗:2020/08/04(火) 08:44:45
集歌2648 云云(うん ぬん)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011040M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/b06b9272ab247f59dc501ef5ea017da3

http://



10477秦野北斗:2020/08/05(水) 00:13:57
[11038] 集歌2646 干鰯(ほしか)漁
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011041M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/b06b9272ab247f59dc501ef5ea017da3



10478ふじ:2020/08/05(水) 13:49:26
日本の歴史ー縄文時代
#日本の歴史#縄文時代#日本人のルーツについて
https://www.youtube.com/watch?v=Q96Bymp2StM

https://youtu.be/Q96Bymp2StM



10479ふじ:2020/08/05(水) 14:13:02
日本の歴史ー弥生時代
#日本の歴史 #弥生時代 #神武天皇 #水田稲作 #高床式倉庫

https://www.youtube.com/watch?v=ZqaKoaLlU0k

https://youtu.be/ZqaKoaLlU0k



10480ふじ:2020/08/05(水) 14:25:26
日本の歴史ー古墳時代
#日本の歴史#古墳時代#ヤマト政権#仁徳天皇#漢字の伝来#大仙陵古墳
https://www.youtube.com/watch?v=mxYlA8UmwzY

https://youtu.be/mxYlA8UmwzY



10481秦野北斗:2020/08/05(水) 14:52:02
[11043] 日本の歴史ー弥生時代
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011045M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=M4M7IlDg5Ho

http://



10482ふじ:2020/08/06(木) 17:45:24
Re: [11043] 日本の歴史ー弥生時代
秦野北斗さんへ
ご視聴コメントありがとうございます。
歴史を勉強しながら作成して見ました。
歴史は奥深くて難しいですね。
もっと勉強して、リニューアルできたらと思います。
よろしくお願いします。

> ふじさんへ
>
> >#日本の歴史 #弥生時代 #神武天皇 #水田稲作 #高床式倉庫
> youtubeですが、詳細に掘り進めていませんな、秦野も、詳細には欠けるが、・・・
>
> 志賀島の金印を説明します。未だ不完全でバグあり、ですが・・
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DM4M7IlDg5Ho
>
> 『ウィキペディア(Wikipedia)』
> 二松學舍大学名誉教授・大谷光男は、『後漢書』から皇帝が周辺の蛮夷に授けた金印紫綬の史料7例を再検討し「金印紫綬は、一国(国家)に授け、国内の一部族(国)に授けられることはなかった。したがって、金印『漢委奴国王』の読み方で、『カンのワのナのコクオウ』と訓む三宅説は退けられることになる」[20]としているが、そもそも一国と一部族(民族)の定義や概念そのものを問うている論争なので、「倭」と「奴」と「委奴」がそれぞれ一体どのような範囲の何を示すものなのかが定まらない以上、それぞれの説を退ける退けないの結論はいまだ出ていない
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25BC%25A2%25E5%25A7%2594%25E5%25A5%25B4%25E5%259B%25BD%25E7%258E%258B%25E5%258D%25B0

10483秦野北斗:2020/08/06(木) 22:35:47
>歴史は奥深くて難しいですね。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011047M.jpg

https://ja.wikisource.org/wiki/万葉集/第一巻



10484秦野北斗:2020/08/08(土) 18:41:53
古事記上卷 并序5
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011048_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=xnv2x67i12k

http://



10485管理人:2020/08/10(月) 02:13:44
高地性集落ライン02
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011049M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/高地性集落



10486秦野北斗:2020/08/10(月) 19:54:56
集歌八一〇 武(たけし)なに
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011050M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/c/16222a89a55737d1185a1126f926e41a



10487管理人:2020/08/11(火) 00:47:38
高地性集落ライン03
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011051M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011051_2M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/布留遺跡



10488秦野北斗:2020/08/11(火) 15:19:26
Re: 高地性集落ライン03
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011052_2M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html

http://



10489管理人:2020/08/12(水) 01:12:21
布留式土器の起源
秦野さん、お返事ありがとうございます。ご紹介の墓誌銘の話はちょっと興味深いですね・・。

昨晩、高地性集落のライン上に位置するであろう天理市の布留遺跡の件を考えましたが、その布留式土器をもたらしてその地に都市を構築したであろう物部氏の祖先たちの移動について考えはじめています。

ニギハヤヒの東遷伝承からいけば、九州北部あたりに起源があるはずですが、布留式土器の出現については、調べていくと、下記の論文に引用された次の文面が特に重要に感じました。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.google.com%2Furl%3Fsa%3Dt%26rct%3Dj%26q%3D%26esrc%3Ds%26source%3Dweb%26cd%3D%26ved%3D2ahUKEwjxz6umtJPrAhUiK6YKHTaBAa8QFjADegQIBRAB%26url%3Dhttps%253A%252F%252Frepository.kulib.kyoto-u.ac.jp%252Fdspace%252Fbitstream%252F2433%252F240334%252F1%252Fshirin_097_1_7.pdf%26usg%3DAOvVaw2gsAwfQ5fRhgJaaDsjdsMv


寺沢薫は、河内・摂津など近隣地域でみられる高率の搬入土器の存在は、弥生時代中期からみられた社会的状況である一方で、大和では弥生時代を通じて搬入土器が一割を越えることはなく、纏向遺跡における土器の搬入率がきわめて高いことを指摘し、庄内式土器にみられる搬入・搬出関係や、この時期における搬入率の増加傾向を、弥生時代以来の集団関係と土器組成上の補完関係といった地の社会的分業の発展として捉えることは、纏向遺跡に関してはあたらないとした。
さらに、搬入の対象地域の広さを指摘し、このように汎日本的な搬入対象地域を有する背景は、地域の集団関係や分業上上の交易品では解決できないと遺跡の特殊性を強調した。そして、「纏向遺跡に多量の土器がもたらされた背景を、より政治的な意図のもとに行われた集団の移動の歴史的な端緒とみること」は不可能ではないとし、入貢や出仕などの結果や市を媒介とした土器の移動を想定する。


寺沢薫は、布留0式段階(古墳時代前期初頭)の畿内系土器の分布を検討し・・・・また、西日本にみられる庄内形甕の大多数が、布留0式期の所産であることを指摘し、庄内形甕の方が布留式土器に比 べて分布域が広い一方で、布留式土器のように多量の艶がともなうことや、セット関係が保持されることがないことから、 庄内形甕の展開はむしろ社会経済的背景のあるものとした。そして、布留式土器を携えて居住した集団、あるいはそれを 大量に搬入ないし製作した集団の性格を、政権中枢やその中継的地域との社会的関係の表徴として把握する必要性があるとし、このような土器の展開を、「初期ヤマト政権」の政治的・祭祀的伸張の実存姿態として捉えることを主張する。


思うに、庄内式土器以前の弥生時代中期ごろまでは、大和は銅鐸文化圏といった形で周辺地域との交流の中で存続していたものの、庄内式土器の段階になって、急に東西交流の市がここに生じ、それゆえに全国各地からの土器が搬入されるようになったのでしょう。その背景には以前指摘した漢・魏洛陽城型の都市が、突然大和に構築されたことの影響と考えるべきで、その洛陽城構造における大市の場所が、そのままの写しであるマキムク地域になったと考えれば理解しやすいわけです。その年代はおそらくは紀元後180年代からではないでしょうか。

その後、上記の報告にあるように、第二段階の外来勢力の流入が布留遺跡、つまり布留式土器の中心制作地であろう石上神宮周辺、物部氏等の拠点に起って行ったのではないでしょうか。

なぜこの布留式土器がこの地にもたらされたのかについて考えていくと、大雑把にいえばニギハヤヒの東遷といった政治・祭祀勢力の侵入として捉えれば理解しやすいわけですね。経済交流的な要因ではない。

その布留0式期の始まりの年代と、その土器形式がどこからもたらされたのかが昨晩も気になっていたところですが、関連して先の報告に下記のようにありますね。



各類型の集落は、それぞれ公海岸部・内陸部(A類)、海岸部あるいは内陸奥部(B類)、内陸部(C類)、海岸部の限定された地域(D類)に立地し、D類に拠点的な性格、B類に港湾集落、A・C集落に「閉鎖的」「開放的」という階層差を読み取る。そして、このような遺跡間の相違の要因を、移入者の目的的な侵入と在地集団の対応の相違に求めた。
特に移動の顕著な畿内系土器に着目した井上裕弘は、これらをさらに技術系統にもとづいて門伝統的第V様式系」、「庄内系」、「布亜系」に区分し、それぞれの受容の時期的なありかたを検討した。また、北部九州でみられる布留形甕について、畿内からの搬入ばかりでなく北部九州での製作を示唆した。畿内系土器が出土土器の大半を占める遺構、遺跡のありかたを移住者集落と考えている。
久住猛雄は、当該期の土器を在来系(A系統)と、畿内系の伝統的V様式系(B系統)・庄内潮懸(C系統)・布留式系
?? (D系統)に区分し、畿内系土器(B・C・D系統)のありかたに着目して編年関係を整理した。庄内形甕の中に在地生産された特徴的な}群のあることを指摘し、従来は大和形とされることのあったグループを型式学的な特徴を詳述した上で「筑前型」庄内東部とし、大和形との関係を読み取った。そして、比恵・那珂遺跡群(群居遺跡なども含む可能性ありいし博多遺跡群周辺(堅粕遺跡なども含む可能性あり)で生産・搬出されたものとした。}方、筑後地方には河内形庄内形甕の影響のあるものが存在するとしてこれを「筑後型」と仮称し、さらに、「北部九州型布五型甕」を提唱している。
そして、北部九州地域にみられる畿内系土器主体への様式変化と農開が、地域内での生産と流通の側面の強いものであ ることを主張した。すなわち、「畿内系」土器群の北部九州での展開は、福岡平野中枢部(比恵・那珂遺跡群、博多遺跡群) において、「畿内」と特殊な(政治的な)情報の共有を背景に、工人集団を移植することにより半ば独自に生成・進化したものとし、北部九州各地への波及は、各地の首長層が福岡平野の勢力との関係から受容し、在地に広がる場合のあること、 前代の遺跡の希薄な地域に突然「畿内系」土器を主体的にもつ集落が出現する場合も「福岡平野系」集団である可能性を 示唆した。
筑前地域での庄内形甕の成立にあたり、生産と流通に関わる技術移転が、供給圏がきわめて狭いとされた大和形影、さらには「大和」との関係において成立したことの指摘は、今後、畿内系土器の受容過程の検討を進めるうえでの重要な視点となろう。



これらの論説では畿内から九州など全国各地へと庄内式土器がもたらされたといった形で論じられているわけですが、布留式も同じように捉えてよいのかどうかはちょっと気になるところですね。

こちらのサイトにその反論が見えてます。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.furutasigaku.jp%2Fjfuruta%2Fnikki11%2Fnikki879.html


難しいのですが、まず弥生時代末期、後漢時代の末ですね、この次期に大和に突如入ってきた後漢系の都市構築技術をもった集団がいたでしょう。後漢末期に失脚したトウ氏に関わる集団で朝鮮経由で渡ってくる、大国主ですね。

彼らはもしかすると北九州はかすめて渡来したか、山陰経由で渡来してダイレクトに畿内へと入っていったのではないでしょうか。出雲神話などにも関連し山陰から北陸経由で畿内へと進出する・・・。そして庄内式土器を各地へともたらした。欠史天皇として系譜と宗廟の位置情報だけが後代へと残っていった・・・。

その時代に邪馬台国は北九州方面にあり、卑弥呼の時代までは北九州の範囲を治めていたものの、台与の時代になって、なんらかの災害要因などで畿内へと東遷を開始する。

それが九州にいた物部氏つまりニギハヤヒの東遷で、250〜70年代あたりに布留遺跡あたりに都市を構築し、前勢力である大国主等を支配下に置く事となった。布留式土器の出現、全国展開へ。

さらに300年代前半になり、神武天皇(大彦=景行+ヤマトタケル)に象徴される日向系集団が宇佐経由で畿内へと進出し、前勢力である物部・ニギハヤヒ勢力を支配下に置き、奈良に南方系の要素が強い佐紀盾列古墳群を構築する。

そして、最後に東晋・百済系の渡来人である丹波・河内王朝の勢力が吉備経由で河内へと進出していくのが370年代以降となるわけです。

上記の展開を土器形式の変遷あたりから、うまく説明できると面白いんですが、どうですかな?

10490秦野北斗:2020/08/12(水) 10:55:13
Re: 布留式土器の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011054M.jpg

http://www.seisaku.bz/shoki_index.html

http://



10491ガーゴイル:2020/08/16(日) 19:27:18
どこのドイツ
戸来村にやってきたのはヘロデである。

10492秦野北斗:2020/08/17(月) 09:40:02
Re: どこのドイツ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011056M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ガーゴイル#:~:text=ガーゴイル(英: gargoyle)は,かたどった彫刻である。



10493管理人:2020/08/19(水) 00:48:12
物部氏の東遷
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011057M.png

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm



10494秦野北斗:2020/08/19(水) 15:27:17
物部は誤訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011058M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html

http://



10495管理人:2020/08/20(木) 01:17:16
物部氏の東遷2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011059M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011059_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011059_3M.jpg

秦野さん、さっそくお返事ありがとうございます。
物部系譜の分析は重要ですね。特に藝速日(ニギハヤヒ)命と登美夜(トミヤ)毘賣から宇摩志麻遲(ウマシマジ)命が生まれ、そこから物部連、穂積臣が出てくるわけですが、このウマシ・マ・ジが、つまり味間(ミマ)=三間・水沼君であり、ミマキイリヒコ=崇神となることを予想したとおりです。

ニギハヤヒとトミヤヒメから崇神が生まれてくる系譜ともいえそうですが、世代的にはそうすると崇神よりニギハヤヒとトミヤヒメ=台与のほうが1世代前となるでしょう。崇神を3世紀末〜4世紀初頭とすると、彼らは3世紀後半あたりに持ってくるべきでしょうか。

その崇神の前に挟まる開化天皇というのが、外来者の可能性を感じるわけですが、彼はその前の孝元天皇妃の物部氏から出たイカガシコメを継承するわけですね。叔母のウツシコメも同時に引き取っている。

このイカガシコが台与に、叔母のウツシコメを卑弥呼とにらんでいるわけですが、どちらも物部氏系で、ある時期に孝霊・孝元王朝から手を引いて、開化天皇に象徴される王と再婚するような事態が生じたといえるでしょう。

孝霊・孝元天皇がどこにいたかも気になるところですが、田原本町の黒田庵戸宮に弥生時代末に侵入してきた集団ではないかと思います。その周辺に鏡作神社などの宮廷工房を思わせる区域があったわけで、すでにこの時期に物部氏がそこにかかわっていたはずです。

この開化天皇というのが曲者で、奈良でも中部の春日に宮を置いてます。稚日本根子彦大日日天皇で、若宮信仰とかかわってくるはずですが、その「春日率川坂上陵」は春日寄りにあるのですが、年代的にも相違しており、別のところに墓所があると考えるべきでしょう。

それで、昨晩もお話した石上神宮南西の神宮外苑公園にある古墳状地形と、春日山、そして西殿塚を結んだラインが図1となります。

こうみると、東1度偏角の南北ライン上にあり、3.1?:9.4kmで1:3の位置にあることがわかりますね。

尺度的には、1・05km単位ですから420mの漢尺ではないでしょうか。九州の弥生遺跡を結ぶ尺度と偏角ですね。

その九州系の集団が饒速日の東遷という形で、この春日、石上神宮から布留遺跡、西殿塚あたりに進出していったのではないかと感じます。

図2は、その神宮外苑公園の古墳状地形の地形図ですが、こうみると、九州の弥生遺跡や高地性集落、初期の前方後円墳に多い左右不均等の撥型の前方部を有していることがわかります。

だから先日の図のように瀬戸内の高地性集落を結ぶライン上にこの神宮外苑公園が位置してくるわけです。もとは高地性集落でしょう。

直径は200m前後で西殿塚よりやや小さいくらいでしょうか。周囲の池は周濠の名残でしょう。図3はその衛星写真ですが、周壕がよく見て取れるとともに、石上神宮の位置は後円部の古墳軸上の先端あたりにあり、もとはもっと後円部側にあって、その造り出し部分などの祭祀場と関係していたのではないですかね。


それで、古墳というよりは高地性集落の狼煙台の名残ではないかと感じますが、この左右不均等な尾根を削るタイプのマウンドが、徐々に平地・港湾部へと移行して造営されはじめたのが前方後円墳と思います。

そして、黒塚にその左右不均等な前方部を見て取れることがあり、これが奈良でも古い部類の古墳だろうと感じます。その黒塚と同時期もしくはやや古いのが、この神宮外苑公園の古墳状地形や西殿塚ではないでしょうか。

黒塚からは三角縁神獣鏡が多数見えてますから、ここもただの墓ではなく、軍防上の通信拠点だったと考えたほうがよいでしょう。桜井茶臼山と同様の半武器庫ですね。

箸墓はその西殿塚と桜井茶臼山の中間点に意図的に造営されていますから、それよりも新しい可能性もありますが、同時期かもしれません・・・。

ホケノ山は箸墓を意図してライン上にありますから、それより新しいか同時期ですね。これが布留式土器の時代となるわけですから、布留遺跡の造営以後とみてよいでしょう。

それで、先の石上神宮周辺にみえる字名:豊井・豊田・豊日にかかわる人物が、図の外苑公園の古墳状地形に埋葬されていた可能性もありそうですが、豊ですね、これがキーワードです。

安本氏が九州の宇佐・京都群、豊国あたりに台与の都があり、さらにそこから饒速日の東遷が起こったことを指摘していることとも関係するかもしれませんが、その豊=台与との関係性をどこまで立証できるかも気になるところです。

まず饒速日の東遷が先にあり、その上で安本氏は九州を南下した勢力に由来する日向の神武が東征していくことを考えているようで、その件は記紀神話にも見えてくるとおりでしょう。物部氏の祖の饒速日・トミヤヒメ=台与か?の世代と、神武・オオヒコ?の世代との間にも年代差があります。

オオヒコはご紹介の穂積氏の話にも見えてくるとおりで、航海民の阿部氏の祖先ですね。オオヒコとは景行天皇の大(帯)彦のことです。息子のヤマトタケルが、オオヒコの子・弟のタケ・ヌテガワワケになります。親子で東征するわけですね。神武親子と同じ。

開化天皇からのちの垂仁・丹波王朝にかかわる集団と、物部系の崇神王朝とに分かれるのですが、後者が先に畿内に入り饒速日伝承を残し、前者はニニギ伝承とともに日向を経由して遅れて畿内へと進出する。ともに同族で、物部氏の祖と繋がるわけですが、ニギハヤヒもニニギもニギで同じ称号を持ち、一部は穂積の穂と関係して饒と関連づけられていたのかもしれませんね。

もとはニギの発音があって、伊都国の長官・爾支(ニギ)と関係しないかと感じます。

一大率とかかわる武官でもあり、北九州から瀬戸内全体の交易も管理していたでしょう。物部氏の祖だったのではないでしょうかね。

春日率川坂上陵の率川と関係すると面白いのですが、古事記では「伊邪河」と記して「イザ」と読ませているのが興味深いところです。

伊邪については、魏志倭人伝の伊邪国や伊邪那美神話の瀬戸内関連を想起させますが、出雲のイズとも関係しないでしょうか。

並び順としては、伊都国あるいは不弥国、あるいは女王国に隣接して斯馬国 (筑後川下流域の島地か)? 百支国(三養基か) ? 伊邪国 ? 都支国 (竹野郡か)? 彌奴国(水沼君のいた筑後川中流域か)となると思うのですが、伊邪国の位置を、北九州方面とすると、出雲へと隣接していくことと、その一大率のそれとがかかわてきて、整合性がついてこないでしょうか・・・。

のちに出雲や瀬戸内へと進出していく過程で、伊予や淡路島から明石海峡あたりの伊邪へと伸びていったのかもしれません。


http://



10496勉強中:2020/08/20(木) 10:56:38
シュメール文明の少年事件について
大学のの授業で少年事件がシュメール社会に与えた影響についてとゆう課題が出ましたしかし調べましたが少年事件についての記事を見つけることは出来ませんでした。知っている方がいれば教えていただけたら幸いです

10497秦野北斗:2020/08/20(木) 14:45:28
石上?宮は倭の遠飛鳥にあった
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011061M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html

http://



10498秦野北斗:2020/08/20(木) 17:31:57
Re: シュメール文明の少年事件について
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011062M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=PWWHx51XOXs



10499荊の紀氏:2020/08/20(木) 19:31:35
Re: シュメール文明の少年事件について
秦野北斗さんへのお返事です。
古代メソポタミアにも教育パパや非行少年がいた!初めて文字を発明し、最初の都市社会に生きた人々の生活は、どのようなものだったのか?膨大な粘土板に刻まれた楔形文字を読み解き、自意識過剰の王様、赤ん坊に子守歌を作ったお妃、手強い敵を前にして王に泣きつく将軍、夫の家庭内暴力から逃れた妻など、人間くさい古代人の喜怒哀楽を浮き彫りにする。
五〇〇〇年前の日常 : シュメル人たちの物語 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fci.nii.ac.jp%2Fncid%2FBA81054600
小林登志子著
(新潮選書)
新潮社, 2007.2
タイトル別名
五〇〇〇年前の日常 : シュメル人たちの物語
5000年前の日常 : シュメル人たちの物語
タイトル読み
ゴセンネンマエ ノ ニチジョウ : シュメルジン タチ ノ モノガタリ




> 勉強中さんへのお返事です。
>
> > 大学のの授業で少年事件がシュメール社会に与えた影響についてとゆう課題が出ましたしかし調べましたが少年事件についての記事を見つけることは出来ませんでした。知っている方がいれば教えていただけたら幸いです
>
> シュメールの文献は在りません、シュメール語すごいですな。日本の古代でも少年が何歳か不明です。
> 力になれませんな、・・・
>
> シュメール人と日本人、 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DPWWHx51XOXs
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DZfowvrYqSH8
> youtubeに騙されないように・・・
>
> 日本の始まりは、史記から読み取れる。紀元前500年
>
> 中国文明が早いだろう・・・2000年
>
> ノアの洪水 紀元前2800年   エジプト文明 シュメール、アトランテス文明
>
>

10500管理人:2020/08/21(金) 02:21:59
物部氏の東遷3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011064M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011064_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011064_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/倭迹迹日百襲姫命



10501秦野北斗:2020/08/21(金) 08:53:21
夜麻登登母母曽毘売
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011065M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html

http://



10502秦野北斗:2020/08/21(金) 09:27:03
Re: シュメール文明の少年事件について
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011066M.jpg

https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA81054600



10503管理人:2020/08/22(土) 01:35:56
倭迹迹日百襲姫命
秦野さん、お返事ありがとうございます。ヤマトトトビモモソヒメの件ですが、オオヤマトとヤマトの相違が気になりますね。

ご紹介あった下記の文面で行くと、

孝霊天皇
大倭根子日子賦斗邇命、坐?田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之?大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅

春日之千千速眞若比賣の子が、千千速比賣命で、千千速を親子で継承してますよね。

同様に、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の子が、その夜麻登登母母曾毘賣命や倭飛羽矢若屋比賣で、倭・夜麻登を継承しているのですが、意富は子には受け継がれていない・・・・。その毘賣、比賣の相違は底本の相違によるもので、もとは同じでしょう。

夜麻登登母母曾毘賣命(ヤマト・ト・モモソ・ヒメ)と倭飛羽矢若屋比賣(ヤマト・トビヤ・ワカヤ・ヒメ)とが別系統の写本に記された同一人物だとすると、モモソヒメはトビつまりニギハヤヒの妻のトビヤヒメと同一とのことで、昨晩の推測のとおりになるわけです。

そういう意味では日本書紀の倭迹迹日百襲姫命(ヤマト・ト・トビ・モモソ・ヒメ)は上記の2者を融合したような名に仕上がっているといえますね。ト+トビ+モモソです。

この3者は同一人物なのですが、写本系統の相違で、異なる表記になったのではないでしょうか。

その原型はトビヤかモモソか・・・。

あと、母には大がつき、娘にはそれがつかないこと、子には若が付くことなども、大きいをもって親とか祖とか年長・権威者を意味し、若は若い=子の意味で名付けたと考えると理解しやすくなるでしょう。


その孝霊天皇ですが、『古事記』には大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔に書かれている。 蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、これが外来系を示すのではないでしょうか。

大と若の親子もしくは兄弟によって吉備を平定したのちに、畿内はと進出したのが正解ではないですかね。

この親子・兄弟の征伐伝承は、オオヒコと子のタケヌテガワワケのそれや、オオタラシヒコと子のヤマトタケルの話とも構造的に同じですね。神武と子の東征伝承も同じ構造で、これら3つはもとは一つの伝承だったのでしょう。

孝霊天皇と吉備津彦・桃太郎のそれですね、ある時期に吉備経由で畿内へと進出した集団の長を想起させますが、桃というのが、キーワードになりそうです。

また、蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けたというのは、徐福伝承などにみえる山海経にも記された当時の蓬莱観念の世界に、同じく山海経に北朝鮮の白頭山を示す不威山つまりフジサンの名称をもたらしていったと解釈すると、この集団は後漢時代に、楽浪郡あたりを経由して、吉備を経て、畿内に入り、最終的に東海の富士山あたりまで東征を行ったということなのではないでしょうか。中国的な観念をもともと有しているわけですね。

纒向遺跡で大量に見つかった桃の種の件は案外その中国的な観念に関係しているのではないでしょうか。

その中国の桃の観念については下記のサイトから引用しますね。


孫悟空のお話にも出てくる「西王母」という人物をご存じですか?
彼女は玉皇大帝(ぎょっこうたいてい)という道教の最高位の神様の奥さんであり、女神の中では最高位の神様で、長寿の神様なんです。
彼女は多くの伝説に名前を残しており、漢の武帝が天界で桃を賜った話や、西遊記のなかで孫悟空は西王母の桃を盗むなど、数えれば切りがないらしいです。
それだけ人気のある神様だというわけですね。
西王母を描いた絵にはたいてい桃が描かれており、古来中国では、桃は魔よけの力があるといわれ、仙人の杖に使われたり、お札に使われたりしてきましたが、崑崙山(中国古代の伝説上の山岳)には王母桃または蟠桃といわれる桃があるといわれていました。
(日本でも古事記で、イザナキノミコトが現世に帰ろうとする時に雷神に桃を投げつけ退散させることに成功し、桃にオホカムズミノミコトの名前が付いていますよね。)
この桃が不老長寿の桃なのです。
伝説に出てくるこの桃はとても小さく、銃の玉ほどの大きさしかないと言われています。
そして3000年に一度しか実らないのだそうです。
西王母が、この桃が実ったのをお祝いして「蟠桃宴」を開きます。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kannonyama.com%2Fshopdetail%2F044000000002%2F


桃が魔除けであり、不老長寿の観念とも関わっているわけですが、西王母は三角縁神獣鏡に描かれているとおり、鏡作り職人にはよく知られた存在だったでしょう。当然に日本の鏡職人、おそらくは物部氏の祖も理解していたはずです。

蓬莱山自体が不老長寿の観念と結びついてますし、それを富士山と改めたというところにも中国・大陸的な要素が見て取れるわけです。

孝霊天皇の黒田庵戸宮のそばには鏡作神社があり、これが後漢の宮廷工房に対応する位置にあたるわけですね。

モモソヒメをあえて、古事記では、母母曽ヒメと記した背景にも、あるいは西王母の母を充てた可能性も考慮すべきかもしれません。

モモに百を用いた日本書紀とは違う見方をしているのかな?

ヤマト・ト・トビ・モモソ・ヒメ・・・、ニギハヤヒの妻のトビヤヒメからトビを継承したか、あるいはトビヤヒメ自身の名に、さらに上帝の妻であり最上級の女帝としての桃・モモの称号、西王母のそれを取り付けたようにも見えなくもないですね。

三輪山の大物主・三輪神の妻としての位置づけに書紀でされているのもわけがある。大物主の正体の蛇は後漢の外戚氏族の竇(トウ)氏の伝承では竇武の兄弟でしたよね。ここで後漢末期の外戚の伝承をかれらが持参して畿内へと進出していったことがわかるのですが、その際に吉備を通過しているわけですね。

竇の字は、穴+士+四+貝 で、大国主=大穴牟遅=オオ・アナ・ム・ジの穴、シ音、貝に助けられる伝承と関わってくるはずで、昨晩も指摘した箸墓の古墳軸が向いている穴師兵主神社の穴師(アナシ)にかかるわけです。大物主ですね。

後漢末の党錮の禁(176年まで)でその外戚氏族の竇氏は権力を失い追放の憂き目にあうわけです。そののち、縁故を頼って、楽浪郡へ向かい、さらに出雲・吉備経由で畿内へと進出。そこで黒田庵戸宮や鏡作神社といった後漢の洛陽城を模した都を造っていったのだろうと予想します。

岡山の楯築墳丘墓あたりにその名残があるのもそのせいでしょう。

その党錮の禁で敗れた竇武ですが、その娘が竇 妙(とう みょう、? - 172年)は、後漢の桓帝の3番目の皇后で、のちに皇太后となるわけです。

竇武についてはこちらのウィキを参照ください。


後漢の頃、定襄郡の太守竇奉の妻が武(竇武)という男児を産んだとき、一緒に蛇を一匹産んだ。奉(竇奉)はその蛇を野原へ持って行って放した。その後、武は成長して、天下に名の聞こえた人物となった。やがて母が死に、これから埋葬をしようというとき、弔問客がたくさん集まっているところへ、草むらの中から1匹の大蛇が出て来た。そして一目散に棺のところまで来ると、そこにうずくまって天を仰いだりうなだれたりした上、頭を棺に打ちつけて血涙を流し、いかにも悲しみに耐えないという様子であったが、やがて立ち去った。当時の人々は、これは竇家の栄える印だと考えたのであった
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%25AB%2587%25E6%25AD%25A6


竇奉の子が武なのですが、ここで親・奉(ホウ)と子・武の構造が出てきます。先のオオヒコと子の武ヌテガワワケ、あるいはオオタラシヒコ(景行天皇)とヤマトタケル(倭武)の親子の構造と比較すると、奉(ホウ)をオオとみなせれば、その子が武になるのも、それと関係するでしょうか・・・。大国主のオオも同じですね。



10504秦野北斗:2020/08/22(土) 08:26:02
Re: 倭迹迹日百襲姫命
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011068M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/水戸黄門

http://



10505山田:2020/08/23(日) 18:49:44
>ハラミ山
>蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、

これってどこの典拠でしょう?

10506秦野北斗:2020/08/23(日) 23:54:01
Re: >ハラミ山
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011070M.jpg

山田さんへのお返事です。

> >蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、
>
> これってどこの典拠でしょう?

『孫権伝』二三〇年、求蓬萊神山及仙藥の蓬萊神山を蓬莱身山(ハラミ山)誤転記&誤読だろう・・・
古代読みは、蓬萊神山(ブ、ライ、ジン、セン)富士山(フ、ジ、セン)共通点ありですな、

典拠: 徹底解説 ホツマツタヱ講座  注、自信はないが、このサイトだろう、
https://gejirin.com/index.html
https://gejirin.com/src/Ha/harami.html

>蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、典拠、見つけられず

『孫権伝』二三〇年
二年春正月,魏作合肥新城。詔立都講祭酒,以教學諸子。遣將軍衛?、諸葛直將甲士萬人,浮海求夷洲及亶洲。亶洲在海中,長老傳言:秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海,求蓬萊神山及仙藥,止此洲不還。世相承有數萬家,其上人民。時有至會稽貨布,會稽東縣人海行,亦有遭風流移至亶洲者。所在?遠,卒不可得至,但得夷洲數千人還

夷洲及亶洲:夷洲は阿蘇山、亶洲(泉州)は堺県:堺、奈良  蓬萊神山は富士山になる。

堺県(さかいけん)は、明治元年(1868年)に和泉国(現・大阪府南西部)の旧幕府領・旗本領を管轄するために設置された県。 のちに和泉国、河内国(現・大阪府東部)、大和国(現・奈良県)のそれぞれ全域を管轄した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E7%9C%8C#:~:text=%E5%A0%BA%E7%9C%8C%EF%BC%88%E3%81%95%E3%81%8B%E3%81%84%E3%81%91%E3%82%93%EF%BC%89%E3%81%AF,%E3%81%9D%E3%82%8C%E3%81%9E%E3%82%8C%E5%85%A8%E5%9F%9F%E3%82%92%E7%AE%A1%E8%BD%84%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82

 
?

http://



10507管理人:2020/08/24(月) 00:09:00
Re: >ハラミ山
山田さんへのお返事です。

> >蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、
>
> これってどこの典拠でしょう?

典拠ないですね・・・


調べていくうちに興味深いサイトを見つけました。

記紀系譜で詳細が記されてない人物についても、地方伝承にその詳細が描かれていることがあるようですね。推定年代も含めて参考になります。


/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmb1527.thick.jp%2FN3-16-9koureiensei.html

10508山田:2020/08/25(火) 10:32:07
Re: >ハラミ山
管理人さんへのお返事です。

> 山田さんへのお返事です。
>
> > >蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、
> >
> > これってどこの典拠でしょう?
>
> 典拠ないですね・・・
>

一応、ホツマツタヱみたいです。訳がいくつかあって、孝霊は富士山に登ったとあります。

> 調べていくうちに興味深いサイトを見つけました。
>
> 記紀系譜で詳細が記されてない人物についても、地方伝承にその詳細が描かれていることがあるようですね。推定年代も含めて参考になります。
>
>
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fmb1527.thick.jp%2FN3-16-9koureiensei.html

こちらのサイトは、孝霊の出雲遍歴は私も初耳です。

10509管理人:2020/08/26(水) 03:26:51
欠史天皇宮ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011073M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011073_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011073_3M.png

https://blog.goo.ne.jp/fineblue7966/e/8a902b18a88e33c0368dca7c7b08894a



10510秦野北斗:2020/08/26(水) 17:16:15
安寧天皇の陵はどちら
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011074_2M.jpg

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_04.html

http://



10511管理人:2020/08/29(土) 01:34:59
欠史天皇宮+陵墓ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011075M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011075_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011075_3M.png

秦野さん、お返事ありがとうございます。ご指摘の安寧天皇陵の位置など含めて、欠史天皇陵についても考えなおす必要がありますね。過去に少し欠史天皇の宮と陵墓のラインを作成したことがあるのですが、すでにあれから7年たちますから、ここで再考してみたいところです。

図1は、先日お知らせした欠史・初期の天皇の宮を結ぶ方位ラインとともに、その陵墓を加えたラインになります。図2はその拡大図です。


こう見ると、欠史・初期天皇陵と欠史・初期天皇の宮とがライン面でダイレクトに結合していることがわかりますね。

特に起点として重要になってくるのが孝霊天皇陵、神武天皇の橿原宮、三輪山、開化天皇の率川宮です。

まず、孝霊天皇陵から伸びるラインについて考えていくと、孝霊天皇陵⇔孝霊天皇の黒田庵戸宮⇔三輪山のラインがあり、このラインは図のようにまた、開化天皇の率川宮⇔黒田庵戸宮⇔安寧天皇の片塩浮孔宮⇔綏靖天皇の葛城高岡宮を結ぶラインと直交します。

また孝霊天皇陵⇔神武天皇陵⇔孝元天皇陵があり、さらに孝霊天皇陵⇔橿原宮へのラインは三輪山⇔橿原宮⇔孝昭天皇陵のラインと直交しています。

あと、孝霊天皇陵⇔孝昭天皇陵⇔孝安天皇の室秋津宮を結ぶラインがありますね。

なお孝霊天皇陵⇔黒田庵戸宮⇔三輪山へのライン上に纏向古墳群の矢塚古墳が載ることに留意しておきましょう。

次に図2の神武天皇の橿原宮関連のラインを見ていきたいと思いますが、まず橿原宮⇔安寧天皇陵⇔安寧天皇の片塩浮孔宮へと伸びる20度偏角のラインがあり、また橿原宮⇔神武天皇陵⇔綏靖天皇陵⇔開化天皇の率川宮へと至る10度偏角のラインがあります。ここで綏靖天皇陵の位置が少しずれてますが、これは図のようにもう少し西に是正すべきでしょう。

その綏靖天皇陵⇔片塩浮孔宮の東西ラインがありますから、これも本来の位置を推定する目安となります。

同様に橿原宮⇔懿徳天皇陵を結ぶ東西ラインがあり、関連して片塩浮孔宮⇔懿徳天皇陵⇔孝元天皇陵へと伸びるラインも確認できます。

そして先ほどの三輪山⇔橿原宮⇔孝昭天皇陵を結ぶラインに加えて、また垂仁天皇の纏向珠城宮⇔箸墓古墳⇔橿原宮⇔孝昭天皇の掖上池心宮⇔孝安天皇の室秋津宮:宮山古墳へと至る50度偏角のラインもあります。

ここで箸墓古墳が見えてくる点が重要で、年代推定に役立つかもしれません。

さらに図2でいくと、懿徳天皇の軽曲峡宮:牟佐神社にかかわるラインも多く見え、軽曲峡宮⇔孝安天皇陵⇔掖上池心宮⇔葛城高岡宮へと伸びる30度偏角のラインがあり、また軽曲峡宮⇔孝元天皇陵⇔三輪山へと伸びる45度偏角のラインもあります。このラインは同じく軽曲峡宮⇔懿徳天皇陵へのラインと直角になっていることもわかります。

そこで最後に開化天皇の率川宮に関するラインを図1で見ていきたいと思いますが、まず化天皇の率川宮⇔黒田庵戸宮⇔安寧天皇の片塩浮孔宮⇔綏靖天皇の葛城高岡宮を結ぶ20度偏角のラインは前述したとおりで、また同じく10度偏角の橿原宮⇔神武天皇陵⇔綏靖天皇陵⇔開化天皇の率川宮のラインも前述したとおりです。ここで10度、20度と半角の関係が見て取れますね。

そして、率川宮⇔垂仁天皇の纏向珠城宮⇔崇神天皇の磯城瑞 宮へと至る10度偏角のラインも先日お知らせしたとおりです。

さらに図のように、率川宮⇔石上神宮外苑公園:古墳状地形⇔三輪山のラインも見え、ここで物部氏・饒速日・台与?のラインとの接点が見えてきそうです。

なお、孝霊天皇陵と開化天皇の率川宮は40度偏角となり、孝霊天皇の黒田庵戸宮との3点で直角三角形を構成するわけですが、この3点+三輪山が橿原宮を含めた各遺跡の相対的な位置関係を決定づけているようにも感じます。絶対的な指標はまず三輪山ですね。それに加えて孝霊天皇陵と橿原宮が生じてくる。

年代的にはそれより新しくなってから、崇神天皇の磯城瑞籬宮⇔景行天皇の纏向日代宮⇔成務天皇の志賀高穴穂宮へと至る南北ラインが生じていったように見えますね。

あわせて、石上神宮外苑公園⇔崇神天皇陵⇔景行天皇陵⇔纏向珠城宮へと至る南北ラインとがそれに並行する形で造営されていったのではないでしょうか。

崇神天皇の磯城瑞籬宮の位置がもう少し北だったとすれば、三輪山⇔橿原宮ラインを意識して設置されたようにも見えるでしょう。

それで、これらのラインが構築された年代をどこにもってくるかが最終課題となるわけですが、これらのラインと関連してくる宮山古墳や牟佐神社、玉手遺跡、珠城山古墳群あたりは5世紀代、渡来人や屯倉制度の時代あたりまでくだりそうな感じですが、ただ、黒田庵戸宮、橿原宮、孝霊天皇陵あたりは、もっと古い可能性があるでしょう。纏向矢塚古墳や箸墓古墳、布留遺跡あたりの年代まで遡る可能性があるかもしれません。

関連して図3の孝元天皇陵あたりは周濠の池も含めてよく当時の原型を残していますが、測量図をみると前方後円墳ではないように見えますね。

孝安天皇陵も同様に楕円形で、孝霊天皇陵も同様に変形した楕円形の丘陵となり、先日、高地性集落とのラインで解析した石上神宮外苑公園の古墳状地形とよく似ています。

これらは九州の弥生遺跡のマウンドや高地性集落のその形状、初期の纏向型前方後円墳の左右不均等な前方部、いびつな突出部を持つ後円部のそれに似ているように感じますが、その辺はまた後日、各天皇陵の測量図などを比較しながら、あきらかにしていきましょう。




10512秦野北斗:2020/08/29(土) 12:57:19
記紀の地名は同一の場所
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011076M.jpg

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_04.html

http://



10513管理人:2020/08/31(月) 01:55:38
欠史天皇宮・陵墓比較図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011077M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011077_2M.png

秦野さん、お返事ありがとうございます。安寧天皇陵の位置は畝山周辺のようですね。位置的には昨晩の図のようにライン面でも綏靖天皇陵の真西に位置し、橿原宮とも関連づけられています。

それでそれらの欠史天皇陵や宮がいつ頃造営されたのかを検証するために、その天皇陵を比較したものが図1です。ここでは測量図と3D写真を載せてます。

図1をみると、まず上からいくと孝元天皇陵は楕円形の後円部に左右不均等な前方部が接続したような形状で、これは九州の津古生掛古墳などにみえるような初期の前方後円墳の特徴に似ている気がします。周壕の形も後代の前方後円墳のような撥型ではなく、尻すぼみになっていますね。

次の孝安天皇陵は双方中円墳のように見えますね。岡山の楯築墳丘墓や櫛山古墳のような形状のようにもみえます。日向の笠置山墳丘墓とも同類の形状でしょう。

次の孝霊天皇陵は前方部が半分住宅街と化してますが、小さな前方部がつく初期の纏向型前方後円墳のような形をしてますね。

次の孝昭天皇陵も同様に円墳に近いですが、小さな前方部があったのではないかと感じます。

次の安寧天皇陵と懿徳天皇陵は双方後代の前方後円墳のように見えますが、ただ懿徳天皇陵の周壕の位置をみると、もっと前方部が短かったものを後代伸ばしたようにもみえるんですね。安寧天皇陵も同様な構造でしょうか。

そのほか神武天皇陵と綏靖天皇陵はすでに丘陵部分がなくなっているようで、道路や川も残ってないので、元の形状が確認できない感じです。この二つは位置的にややズレがあるのは昨晩指摘したとおりです。

次に図2の欠史天皇宮(推測地含む)にある丘陵の測量図と3D写真ですが、まず崇神天皇の磯城瑞牆宮付近ですが、ライン的には現在の推定値より北の神坐日向神社付近に宮地があったのではないかと予想しうることがありました。

それで現在の推定地からその神坐日向神社までの地形を地図と航空写真でみていくと、図のように纏向古墳に似た前方後円墳が存在していたことがわかります。ちょうど志貴御縣坐神社が前方部に載る形になり、神坐日向神社が後円部の上部をかすめています。

直径にして270m前後でこれも箸墓と同サイズです。この古墳状地形と箸墓は50度偏角のラインで接合しますが、この件の詳細は後日に回しましょう。

また次の纏向珠城宮と考えた珠城山古墳群周辺ですが、この古墳群自体が図のように前述した孝安天皇陵や櫛山古墳と同様な双方中円墳ではないかと感じます。

直径にして孝安天皇陵や櫛山古墳と同様な150m、周囲の池が元は周壕だったのではないでしょうか。後代、渡来人がその上に群衆墳を造営したのでしょうね。ということはこの墳丘墓の造営は5世紀代よりずっと古いことになるでしょう。孝安天皇陵⇔珠城山古墳群は50度偏角で距離が13.6?。50度偏角は先の箸墓と崇神宮との関連でも見えてきて留意しておきたいところです。

あと、軽曲狭宮と推定した牟佐坐神社周辺ですが、ここも図のように楕円形の墳丘がありますね。

このようにみていくと、これらの欠史天皇陵や宮の造営は、弥生時代末期の高地性集落や楯築墳丘墓の時代から、初期の纏向型前方後円墳が出てくる時代にあり、その後、箸墓古墳のような撥型に開いた前方後円墳が崇神の宮とかかわりながら三輪山周辺に造営されていったのではないでしょうか。

そして、さらにある時期に渡来人がその周辺に住み着き、群衆墳を造営していったり屯倉といった天皇の宮地の管理に携わったので、珠城山古墳群や宮山古墳、牟佐坐神社(屯倉)といったあたりに渡来人の影響が見えてくるのではないかと予想します。

もともとはこれらも上記の欠史天皇時代からの天皇家の所領だったんでしょうね。

こういうことから、欠史天皇陵と宮は弥生時代末期にまで遡るかなり古いものであった可能性が見えてくるのですが、その年代が実際にいつ頃だったのかについて、またどこから最初の集団がやってきたのかについても、これから少し考えていきましょう。



10514秦野北斗:2020/08/31(月) 11:43:30
Re: 欠史天皇宮・陵墓比較図
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011078M.jpg

管理人さんへのお返事です。

> 秦野さん、お返事ありがとうございます。安寧天皇陵の位置は畝山周辺のようですね。位置的には昨晩の図のようにライン面でも綏靖天皇陵の真西に位置し、橿原宮とも関連づけられています。
>

泰始二年に、墳丘は円丘・方丘の2種類ある、円丘は円墳、方丘は前方後円墳になる。
この文章は卑弥呼が埋葬した方丘、埋葬古墳になる、円墳は卑弥呼のもの。図添付
管理人さんへ 欠史天皇陵は全て、方丘(前方後円墳)で卑弥呼からになる。
前方後円墳は今なら軍の慰霊碑。

中国史籍

泰始二年十一月己卯、倭人来献宝物。并円丘・方丘於南北郊、二至之祀合於二郊

意訳、二六六年十一月己(み)卯(う)に倭人が宝物を奉納する。云う、円墳、前方後円墳は南北の効(こう)に至る、東、西の二効を併せ、円丘壇(オタカ古墳)で郊祀(こうし)する。

泰始二年(二六六年)戦死者の冥福を祈った祭殿(箸墓)を、円丘壇(オタカ古墳)に移し、卑弥呼の耳成山(円墳)、王都天地(東西南北の効)を加え祀った模様。詳細は不明。



10515管理人:2020/09/30(水) 01:24:12
孝霊天皇陵・纏向珠城宮ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011079M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011079_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011079_3M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/茶臼山古墳_(大阪市)



10516秦野北斗:2020/09/03(木) 20:04:06
小治田宮
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011080M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011080_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=DMDfjs-iGqg



10517管理人:2020/09/10(木) 01:08:42
奈良都城区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011081M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011081_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/中山大塚古墳

http://



10518秦野北斗:2020/09/11(金) 09:23:36
堺県
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011082M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_02.html

http://



10519管理人:2020/09/12(土) 00:17:25
三角測量と都城区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011083M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/三角測量



10520秦野北斗:2020/09/15(火) 11:46:10
Re: 三角測量と都城区画
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011085_2M.jpg

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm



10521管理人:2020/09/19(土) 23:42:42
倭人伝の官職・称号
秦野北斗さんへのお返事です。


>
> 魏志倭人伝
>
> 南至投馬國 水行二十日 官日彌彌 副日彌彌那利 可五萬餘戸
> 「南、投馬国に至る。水行二十日。官は弥弥と曰い、副は弥弥那利と曰う。五万余戸ばかり。」
>

秦野さん、お返事ありがとうございます!

いよいよ魏志倭人伝ですな・・

ミミは、神八井耳などの耳で、日向系の集団の称号だと言われてますね。

耳の後にナリがつくと副官の称号になる。

つまり、ナリが副とか二番目とかいう意味の方言なり言語をもつ地域を探せばいいわけですよね。

これは邪馬台国の官職にもいえるかもしれません。

官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、


つまり、長官がイチマ、次官がミマ+ショウ、その次がミマ+ワクキ、次がヌ+カダイ


イチマとミマの間には、イチ、ミマ +馬(マ)とも分解できそうです。

このイチは、伊都国のイトだとおもうんですね。ここに一大率がいましたし。イチダイですね。 ヌカダイともかかわっていて、ダイが長官の称号なんでしょう。高句麗の長官職にもみえるなどでもみえる大と関係するか・・。

ミマは、ミマキイリヒコのミマであり、物部系の三間君や水沼県主のミマ、ミヌマとみてよいでしょう。筑紫川沿いの御井郡あたりに本拠地があります。のちにニギハヤヒとして東遷する。


ミマのマが、イチマ同様に何らかの称号なのでしょう。

ミマキイリヒコのミマキは、上記のミマワクキじゃないですかね。

三間君のミマとワクキがワケだとすると、ミマワケ、ミマ別といった名が文献にみえてくるかもしれません。ミマワケでミワになる。三輪山のミワですね。


ショウは難升米のショウですね。ナンショウのマイと訳してますが、ミマショウのマイだった可能性はないですかね。

M/n音で語頭音は共通する。


似たような皇族としては、豊城イリヒコ・ヒメがいて、豊鍬(トヨスキ)とも記されてますね。


あと、大彦の息子ともいわれる武渟川別(たけぬなかわわけ)、ここでワケが出てくるのですが、ヒコの子・下位の称号として、ワケがでてくるように見えます。

武(タケ)は装飾語として抜かして、ヌナカワワケ、これがもしかすると、上記のヌカダイと関係しないでしょうか。

建沼河別命(タケヌマカワワケ)とも記されていて、ヌナカワ、ヌマカワですね。

このオオヒコ、ヌナカワワケは神武親子とも関係していて、日向系・航海民の可能性があるのですが、その子孫の阿部氏は後代まで航海にたけてましたからね。


それで、先の日向とみなす投馬国の長官ミミですが、これが上記の邪馬台国の次官のミマと関係しないでしょうか。


次官のミミ+ナリは、ミマキイリヒコのイリと関係しないかな?


ただ、ナリとイリを一緒にできるかどうかですが、ナリ、ニリといった具合で、ナ→ニへの変換を適用できないか・・。


つまり、ミマがミミへと変換する背景に、マ⇔ミへのa⇔iの方言があって、それゆえに、ナリもイリ・ニリへと相互変換がおこっていたとか・・・。

ナリがニリだったとすると、二番目のニ音と関係するでしょうか。

邪馬台国の官職でいけばイチマのイチは一、ミマのミは三・・。

伊都国の長官・爾支(ニギ)はニギで二・・・、これがニギハヤヒなりニニギのニギになったか。。。

伊都国の一大率のイチ+ダイも、一番目の大=長官の意味にも取れますね。

率は中国系の官職の率でしょう。

邪馬台国のヌカダイは、ヌカの大=長官。

ヌカは、邪馬台国諸国につく奴(ヌ)のことで、カがそれをまとめるかなにかの意味なのか・・・。後代になって、ヌカをヌマカワとしたりヌナカワとして沼川などを当て字として記していったのでは。

加をつけて長の称号とするのは、朝鮮にあったような気がしますね。

牛加とか、扶余系の称号ですね。ウィキに下記のようにあります。


官職の名称はすべて六畜の名でよんでおり、馬加・牛加・豬加・狗加の諸加があり、諸加はそれぞれ四出道を守り、勢力の大きな者は数千家、勢力の小さな者は数百家を支配していた。諸加の下には大使・大使者・使者の諸使がある
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A4%25AB%25E4%25BD%2599



倭人伝諸国にみえる〜奴国の奴は四道の意味で、その奴加の長官=大が、邪馬台国4番目の官職のヌカダイとかんがえると納得いくでしょう。


その大使者につく大も長とか統率者の意味ですね。これが一大率の大でもあり、率の中国官職の由来は、扶余・楽浪郡あたりにあると考えればよいのでしょう。

ある時期にそれらの官職が朝鮮南部を経由して九州へと伝わっていったわけですね。

扶余の習俗と倭人のそれとには相関性があるのですが、この件についても倭人伝から考えなおしていきましょう。





10522福永晋三:2020/09/20(日) 19:45:19
無題
諸君の投稿のどこに、私の権利を守り、私への思いやりや温かみなどが示されているのかな?

10523秦野北斗:2020/09/20(日) 21:02:46
Re: 無題
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011088M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=kk3vSbey72Q



10524管理人:2020/09/22(火) 07:12:53
Re: 無題
秦野北斗さんへのお返事です。

> 福永晋三さんへのお返事です。
>
>

福永さん、秦野さん、いつもお世話様です、わかちあいありがとうございます!

ちょっと道東に外出中で詳しいことは対応できませんが、また週末には戻ります。

10525管理人:2020/09/26(土) 00:12:35
新北海道縄文ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011090M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウポポイ



10526秦野北斗:2020/09/26(土) 17:55:25
白村江(はくすきえ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011091M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=I0IVENJ5iTE



10527管理人:2020/10/10(土) 00:41:56
新北海道縄文ライン2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011092M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011092_2M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道神宮#cite_ref-ise-p118_6-2



10528秦野北斗:2020/10/05(月) 18:28:21
藤ノ木古墳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011093_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=y5dMmfnz6o4



10529秦野北斗:2020/10/05(月) 22:58:37
集歌210 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011094_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=y5dMmfnz6o4

http://



10530秦野北斗:2020/10/07(水) 09:41:31
都道府県
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011095M.jpg

天智天皇の命令で、北海道、東北地方に領地を広げたのはこの頃になる。当時の区割り方法に興味がある、

区割り方法は道に成っている模様、都道府県の道ですな、現在の都道府県とは違うようだ。



10531管理人:2020/10/11(日) 00:36:42
箸墓・天河神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011096M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/天河大弁財天社



10532ワープ:2020/10/11(日) 04:56:54
和多津美神社(対馬)彦火火出見尊(神武)→天河神社ライン
対馬に存在する数多くの式内社の中でも、圧倒的な存在感を誇るのが、仁位の和多津美神社と木坂の海神神社です。その風格と歴史の重み、美しい境内のレイアウトは、訪れる人を魅了します。和多津美神社は「ワタツミノ」と呼ばれ、837年に授位されて以来、国史にはすべて「和多津美神」と記載されているとおりです。また、対州神社誌(1685年)には、和多津美神社は「渡海宮」と記されており、中世からは頻繁に「渡海」と記載されていることから、「ワタツミ」とも呼ばれていたことがわかります
対馬の神々が証する古代海路とイスラエルのルーツを解明 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.historyjp.com%2Farticle.asp%3Fkiji%3D148

対馬に存在する数多くの式内社の中でも、圧倒的な存在感を誇るのが、仁位の和多津美神社と木坂の海神神社です。その風格と歴史の重み、美しい境内のレイアウトは、訪れる人を魅了します。和多津美神社は「ワタツミノ」と呼ばれ、837年に授位されて以来、国史にはすべて「和多津美神」と記載されているとおりです。また、対州神社誌(1685年)には、和多津美神社は「渡海宮」と記されており、中世からは頻繁に「渡海」と記載されていることから、「ワタツミ」とも呼ばれていたことがわかります
対馬の神々が証する古代海路とイスラエルのルーツを解明 ... /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.historyjp.com%2Farticle.asp%3Fkiji%3D148


10533秦野北斗:2020/10/12(月) 00:38:06
Re: 和多津美神社(対馬)彦火火出見尊(神武)→天河神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011098M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ワタツミ

http://



10534秦野北斗:2020/10/13(火) 20:16:35
伊勢国 采女(うねめ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011099_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=hdJVU-xE-TA



10535管理人:2020/10/14(水) 23:13:20
大和郷ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011100M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011100_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011100_3M.png

http://yamatai.cside.com/tousennsetu/yasumotosetu3.htm



10536秦野北斗:2020/10/15(木) 00:01:37
華夏、夷洲、符(わりふ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011101M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=0_5FI4J613M



10537ワープ:2020/10/16(金) 08:46:49
華夏・・・蛇目(カカメ)→鏡(カガミ)
華夏・・・カカ 見・・・巳
蛇目(カカメ)→鏡(カガミ) 蛇身(カカミ)→かがみ(蔓状植物
蛇信仰蛇の語の変化蛇目(カカメ)→鏡(カガミ) 蛇身(カカミ)→かがみ(蔓状植物) ... その鏡の裏に現わされてあつた ものがはじめは模様とのみ見られたが それは模様に あらずして 驚くべし,ヘブル語で ある事が 明 ( あきら ) かになつた。
世界史掲示板??投稿日:2014年 4月 7日(月)09時25分4秒


10538秦野北斗:2020/10/16(金) 09:30:01
Re: 華夏・・・蛇目(カカメ)→鏡(カガミ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011103M.jpg

ワープさんへのお返事です。

蛇信仰蛇の訳は(み、まこと、おおせ、み)になる、蛇は御家(みけ)
現代訳:御家は誠である仰せ(お言葉)は御家

ワープさん、頭がワープしてますな、

> 華夏・・・カカ 見・・・巳
> 蛇目(カカメ)→鏡(カガミ) 蛇身(カカミ)→かがみ(蔓状植物
> 蛇信仰蛇の語の変化蛇目(カカメ)→鏡(カガミ) 蛇身(カカミ)→かがみ(蔓状植物) ... その鏡の裏に現わされてあつた ものがはじめは模様とのみ見られたが それは模様に あらずして 驚くべし,ヘブル語で ある事が 明 ( あきら ) かになつた。
> 世界史掲示板??投稿日:2014年 4月 7日(月)09時25分4秒
>



10539管理人:2020/10/18(日) 00:49:46
九州・夜須町ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011104M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011104_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011104_3M.png

秦野さん、ワープさん、わかちあいありがとうございます・・・。
蛇神信仰といえば、やはり三輪の大物主の話ですよね。

先日の続きで、安本氏が指摘する大和郷と夜須町周辺の地名の相関性について、今回はその九州の地名を結んだラインを作成してみました。

図1、図2、図3へと夜須町周辺へと拡大していきます。

まず図1をみていくと、笠置山を中心として、平群郷(飯森山・吉武遺跡そば)⇔墨江神社(住吉神社)⇔笠置山⇔田原へと伸びる30度偏角のラインがあります。

また、春日(岡本遺跡)⇔笠置山⇔山田へと伸びる45度偏角のラインがあり、さらに笠置山⇔平塚川添遺跡への南北ラインも見て取れますね。その南北ラインそばに、以前指摘した伊川の古墳状地形も載ってきます。

その平塚川添遺跡については、図のように吉野ケ里遺跡⇔平塚川添遺跡⇔鳥屋山へと伸びる20度偏角のラインがありますね。

また御笠山については、平群郷⇔岡本遺跡⇔御笠山の東西ラインがあり、宇佐方面へと伸びていくことも以前指摘したとおりです。

宇佐方面からは図のように、今任原(赤村の古墳状地形)をかすめて、笠置山へと伸びるラインもありそうです。

その今任原(ヤマト?)から、北九州の山田の字名が南北ラインとなりそうですが、鳥屋山の北にも田原の字名がみえますね。

あと、吉野ケ里⇔久留米⇔鷹取山⇔玖珠に至るライン、また玖珠⇔鳥屋山⇔御笠山へと至る30度偏角のラインなどにも留意すべきでしょう。

そして鳥屋山⇔池田・黒水遺跡⇔平群郷へと至る15度偏角のラインも重要です。

そこでその夜須町周辺についての拡大図をみていくと、まず図2,3のように、夜須郷周辺の三輪の字名を中心としたラインがみえてきます。

まず図2のように、御笠山⇔池田・黒水遺跡⇔三輪⇔高取山を結ぶ60度偏角のラインが見て取れます。

その高取山と女山神籠石が東西ラインで、さらに女山神籠石⇔大穴貴神社⇔長谷山を結ぶ60度ラインがあり、その長谷山は池田・黒水遺跡と東西ラインで接合していますね。

あと、小田⇔池田・黒水遺跡⇔長谷山の50度偏角のラインもあり、そのほか、池田・黒水遺跡⇔大己貴神社⇔香山(高山)への40度偏角のラインも見て取れます。

高取山⇔香山ラインも50度偏角で、おおむね10度偏角単位でこれらのラインが構成されていることもわかるでしょう。

先日分析した安本氏が指摘する大和郷の字名を結んだラインと、今回の九州のラインを比較していくと、やはり御笠山、笠置山、三輪、山田、田原、池田、長谷山、高取山といった地名を結ぶラインは、かなり厳密の測量されており、双方偶然にその位置にあるわけではないことは間違いないでしょう。計画的配置といっても過言ではありません。

安本先生が言うように、やはりある時代に九州から奈良大和へと東遷した集団がいたのではないでしょうか。

その集団のキーワードとなってくるのが三輪信仰なのではなかったかと感じますが、年代的にいえば、九州の弥生遺跡と上記のラインが接合してくることからみて、九州時代におけるこれらの字名・地名の起源はその時代までさかのぼる可能性を感じますね。

大和へと東遷した時期については、やはり鳥見山あたりがかかわるならば、ニギハヤヒとかかわる物部氏の東遷年代からを視野にいれておくべきでしょうか。布留遺跡の年代だとおもいますが、ただそれ以後の神武東征の年代、あるいはその後のタケウチスクネにかかわるような渡来系集団の東遷によったことも考慮しておくべきかもしれませんね。

複数回の九州勢力の東遷、これらをどう区別していくかも課題ですが、いずれにせよ、測量方式が時代ごとに変化してますから、それを調べることで自ずからあきらかになってくるようなきがします。







10540秦野北斗:2020/10/20(火) 09:37:24
英(はなぶさ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011105M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=sa8WOKjx2_Y



10541秦野北斗:2020/10/21(水) 17:24:30
Re: 九州・夜須町ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011106M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/命名#:~:text=命名(めいめい)、ネーミング(,を与える行為である。



10542秦野北斗:2020/10/24(土) 07:30:05
伊勢神宮創祀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011107_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=SdXHLgZwm8A



10543秦野北斗:2020/10/25(日) 20:01:01
古事記の編纂
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011108M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=eyd5vY6MxBQ



10544秦野北斗:2020/10/28(水) 09:15:46
万葉集、高山波
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011109M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=ybfURmBcDFw



10545秦野北斗:2020/10/31(土) 08:36:28
字難(あざなにくい)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011110M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=i9d8D5GAWXc



10546秦野北斗:2020/11/30(月) 09:52:54
併序全文の翻訳完了
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011111M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=230qT75TTjI



10547管理人:2020/11/04(水) 23:25:52
戻りました!
秦野さん、みなさん、こんばんは。

昨日ようやく九州から帰宅しました。1週間、安本先生の関係所説にもとづいて、奈良、九州を巡ってきたのですが、いろいろ発見もありました。

また機会をみてその様子なども報告していきたいと思います。



10548秦野北斗:2020/11/07(土) 13:36:45
皇極天皇は結構、人騒がせで、わがままな天皇
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011113M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=sFtP-Y9BO78



10549管理人:2020/11/08(日) 23:47:22
平塚川添遺跡⇔小迫辻原遺跡ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011114M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011114_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011114_3M.png

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku384.htm



10550鳩摩羅童子:2020/11/09(月) 01:08:15
中学生でも検証できる「日本語の起源」
中学生でも検証できる「日本語の起源」


掲題のタイトルの web ページを作りました。中学生以上への啓蒙ページです。
「日本語の起源」に興味ある方はお読み下さい。

尚、現在は、まだ未完成ですが、追々完成させます。

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_O3.html



10551秦野北斗:2020/11/09(月) 09:47:03
Re: 中学生でも検証できる「日本語の起源」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011116M.jpg

https://ja.wiktionary.org/wiki/

http://



10552秦野北斗:2020/11/10(火) 09:19:15
愛想を尽かされるわ、・・・
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011117M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011117_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=RO7W1TQkSJo



10553秦野北斗:2020/11/10(火) 15:23:27
和同開珎
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011118M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=RO7W1TQkSJo



10554管理人:2020/11/13(金) 23:18:10
支石墓群
童子さん、秦野さん、こんばんは。
インドと支石墓・甕棺墓、ジャポニカ米の渡来の件がありましたね。
個人的に、これから再度この辺を解析したいようには感じてます。
今回の九州探索では、支石墓群は回れなかったのですが、後々、また近いうちに巡りたいようには感じますね。コロナ禍がどうなるかが気になるところですが・・・。

支石墓群の動画リスト
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fresults%3Fsearch_query%3D%25E6%2594%25AF%25E7%259F%25B3%25E5%25A2%2593

韓国の支石墓
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyoutu.be%2Fh4eTYiWI8Mw

韓国の甕棺墓

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyoutu.be%2FvOCUML91NE8

10555秦野北斗:2020/11/20(金) 13:00:13
好太王碑
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011120M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑



10556秦野北斗:2020/11/23(月) 08:49:01
徐福伝説 淮南衡山列伝
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011121M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/徐福



10557秦野北斗:2020/11/26(木) 09:58:39
徐福伝説 淮南衡山列伝2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011122M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/



10558秦野北斗:2020/11/27(金) 21:23:09
徐福伝説 淮南衡山列伝3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011123M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=ciJwE5WLc7M



10559管理人:2020/11/28(土) 01:43:34
広開土王碑の欠字と解釈
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011124M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011124_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011124_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/好太王



10560秦野北斗:2020/11/28(土) 07:13:17
耒卯年≠辛卯年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011125_2M.jpg

https://ja.wiktionary.org/wiki/



10561秦野北斗:2020/11/28(土) 17:44:29
広開土王碑の欠字と解釈 2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011126M.jpg

管理人さんへのお返事です。

広開土王碑の欠字は、碑文を翻訳して、他の古文書の内容を比較して初めて解釈できる。
他の古文書は結構沢山ある、心配することはない。ただし、苦労するぞ・・・

【第一面】(11行41文字)

惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有聖□□□□□□命駕巡幸南下路由夫餘奄利大水王臨津言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮龜應聲即為連葭浮龜然後造渡於沸流谷忽本西城山上而建都焉不樂世位天遣黄龍來下迎王王於忽本東岡黄龍負昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業□至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚號為永樂太王恩澤洽于皇天威武振被四海掃除□□庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九晏駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勳績以示後世焉其辭曰永樂五年歳在乙未王以碑麗不口□人躬率往討過富山負山至鹽水上破其丘部洛六七百営牛馬群羊不可稱數於是旋駕因過襄平道東來候城力城北豊五備海遊觀土境田獵而還百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百殘□□新羅以為臣民以六年丙申王躬率水軍討伐殘國軍□□首攻取壹八城臼模盧城各模盧城幹弖利城□□城閣彌城牟盧城彌沙城□舍蔦城阿旦城古利城□利城雜彌城奧利城勾牟城古須耶羅城莫□城□□城分而能羅城場城於利城農賣城豆奴城沸□□




10562秦野北斗:2020/11/28(土) 22:05:04
古事記1 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011127M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=0hQ_k5w-4vw



10563鳩摩羅童子:2020/12/22(火) 01:30:11
日本語はタイ語にも似ている みたい
Google 翻訳 online tool 辞書等によるスワデシュ207 基本単語の日本語単語のソックリさん単語探しによると、
【サンスクリット語 + タミル語】 100%、に対し、【タイ語】 49% であった。




http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20.html



10564秦野北斗:2020/12/03(木) 23:33:10
Re: 日本語はタイ語にも似ている みたい
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011129M.jpg

http://www5d.biglobe.ne.jp/~the_imai/etymology/Grimm's_Law_in_J_20_B.html



10565秦野北斗:2020/12/03(木) 23:46:42
古事記2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011130M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=591Lf5cR56A



10566管理人:2020/12/04(金) 23:29:43
Re: 日本語はタイ語にも似ている みたい
鳩摩羅童子さんへのお返事です。

> Google 翻訳 online tool 辞書等によるスワデシュ207 基本単語の日本語単語のソックリさん単語探しによると、
> 【サンスクリット語 + タミル語】 100%、に対し、【タイ語】 49% であった。
>
>
> <PRE>賛  民  民'  カ  タ  ベ  マ  ビ  モ  ラ
> 90%  76%  28%  20%  49%  37%  21%  21%  15%  36%
> 尼  箍  韓  チベ  ネ  羌
> 40%  32%  35%  43%  26%  43%</PRE>
>
>  民 はケルン大学の Tamil 辞書、
>  民' は、Google 翻訳の Tamil 辞書。
>
> ---

童子さん、お知らせありがとうございます!

タミル語となると、やはり弥生時代初期の支石墓との兼ね合いですかね。タイ語とのかかわりからいくと、先日お話した熱帯ジャポニカの移動とかかわるでしょうか。

韓国語の一部ともかかわりそうですね。



10567管理人:2020/12/04(金) 23:32:35
Re: 広開土王碑の欠字と解釈 2
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 広開土王碑の欠字は、碑文を翻訳して、他の古文書の内容を比較して初めて解釈できる。
> 他の古文書は結構沢山ある、心配することはない。ただし、苦労するぞ・・・
>
> 【第一面】(11行41文字)
>
> 惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有


そうですね!この卵生神話と、インド、朝鮮、北九州の甕棺墓の流れですね。でも、高句麗扶余方面まで卵の話が出てくるというのが興味深いところで、支石墓で行けば、先日の支石墓ラインで紹介した吉林省のそれと関係するのかな。

10568秦野北斗:2020/12/05(土) 15:22:33
Re: 広開土王碑の欠字と解釈 2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011133_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

> > 惟昔始祖鄒牟王之創基也出自北夫餘天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有
>
>
> そうですね!この卵生神話と、インド、朝鮮、北九州の甕棺墓の流れですね。でも、高句麗扶余方面まで卵の話が出てくるというのが興味深いところで、支石墓で行けば、先日の支石墓ラインで紹介した吉林省のそれと関係するのかな。

"高句麗扶余方面まで卵の話が出てくる"

韓国人、卵生神話を創造したようですな、漢字、降(ふる)は現代の読み、古代は降(くだる)になる。
女(おんな)郎(おとこ)を卵に、例えた様です。

北夫餘(きた、ふよ)天帝(あま、みかど)之子(これ、こ)母(はは)河伯(こう、はく)女(おんな)郎(おとこ)剖(わける)卵(たまご)降世(くだる、いく)而(しかるに)聖(ひじり)■





10569秦野北斗:2020/12/05(土) 21:51:11
古事記3  国産み
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011134M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=QbX8TDyTkqI

http://



10570秦野北斗:2020/12/07(月) 22:34:40
古事記4 嶋の神々
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011135M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=oX9mwEiPreQ



10571管理人:2020/12/09(水) 00:11:33
日高見国と日本国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011136M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011136_2M.png

秦野さん、お知らせありがとうございます。再度下記の記載を分析する必要があるかもしれませんね・・・。
過去ログからまとめていくとこうなります。

『書紀』景行紀では、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察し「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」とあり

神武紀
「皇輿巡幸 因登腋上嗛間丘 而廻望國?曰 ?哉乎國之獲矣 雖?木綿之眞迮國 猶如蜻蛉(アキツ)之臀呫焉 由是 始有秋津洲之號也。昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣。」


饒速日が空飛ぶ磐舟にのって(太)虚空(コク=国)を駆け巡り終えて、睨んで降りた場所=(国見)日本国との観念。

万葉集の舒明天皇の歌として「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉(アキツ)島 大和の国は」とあり、この歌が上記の神武の国見話に対応。

蜻蛉(アキツ=トンボ)=奈良の秋津=細戈千足国(日本列島の形状)の対応。

秋津の国見山⇔天香久山⇔三輪山(大穴貴の本拠)の45度ラインがある。太陽測量における地図作成の話をもとに上記伝承が成立か。日本とは元は太陽測量の起点を示した用語だったのでは。日高見も測量起点・日本からみて緯度が高い等の意味をもっていたか。

その他、大和(ヤマト)は北朝音で「タイカォ」=太虚(国)≒大化(天智朝の元号)となる。天智の父・舒明が大和にやってきて国見(測量をはじめた)ことを記念して、北朝系の新漢人等が神武の国見譚として書紀に挿入したのでは。

図のように国見山と三輪山を起点として舒明天皇陵が設定されており、その舒明陵と小山田古墳(舒明改葬墓か?)、岩屋山古墳等、後代の皇族墓や遺跡が位置づけられている。

上記が以前考えたことですが、日高見の解釈を再考すべきでしょうね。

まず、

饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之

ニギハヤヒが天かける岩船にのって、この郷をにらんで、その上でそこに降ったので、

故に因るは、之を目して曰はく、虚空見(=国見)+日本の国

というんですよね。

空の上から郷、つまり大和の盆地を睨んだ。ここが重要な視点で国見にかかるわけです。

(ニギハヤヒ=日)が本を見る⇔日が高いのを見る

おもうに、日高は緯度が高いのではなくて、山や丘陵地の上、つまり標高が高いという意味か?

実際、飛騨=日高説だとまさに、飛騨は標高が高いですからね。日高説のある日田も標高は高いですし、同様に埼玉の日高も丘陵地、茨城以北にあった日高見国も同様に山地でしょう。

本はそうすると国見るする際に、標高の低いところで大和・秋津の盆地を示すことになりますね。日本見国が原義かな。

あと、当時の東方にある国の話で、日辺国の話が中国文献にありましたが、日の登る辺りの国の意味で、ある意味、同義なんです。

日辺(ニッペン)=日本(ニッポン)

日高(ニッコウ)とすると、日光(ニッコウ)がありますよね。蝦夷の領域で日高見国となるか。


いずれにせよ、日(饒速日)が高いところを見るの意味から来てるんでしょうね。

低く大和盆地を国見山からみたので、日が本を見る国 で日本号とした。


測量つまり領域支配面における用語で本とか辺とかがあって、日という主語とかけあわせたのではないですかな。





10572秦野北斗:2020/12/09(水) 17:21:10
何を捏造するか注意が必要だ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011137M.jpg

管理人さんへのお返事です。

現在の古事記の文章翻訳に間違いが多い、秦野も洗脳されている、洗脳から抜け出すには、まだ時間が必要。

大己貴大神目之曰。玉牆内国。及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣。


大己(もと、おのれ)貴大?(たかい、もと、あまつかみ)目之曰(かしら、これ、いわく)「玉牆(たま、かき)内國(うち、くに)。」及至(すなわ、いたる)饒速日命(ゆたか、まねく、たつ、みこと)乘(のり)天磐船(あま、いわ、ふね)而(しかるに)翔行太(かける、みち、ふとい)?也(うつろ、なり)、睨是(にらむ、これ)?(くに)而(しかるに)降之(くだる、これ)、故因(もと、ちなむ)目之曰(かしら、これ、いわく)「?空(うつろ、うつろ)見(まみえる)日本國矣(にほんくに、だろう)。」蝉(うつ、せみ)、空蝉(うつ、せみ)

日本書紀、神武紀に?蝉、空蝉があるのが不思議です、伊弉諾尊。年代は空蝉三世紀、?蝉7世紀、伊弉諾尊紀元前2世紀、まあ、7世紀に書いたもの、これだから日本書紀は信用できん、何を捏造するか注意が必要だ



> 秦野さん、お知らせありがとうございます。再度下記の記載を分析する必要があるかもしれませんね・・・。

> 神武紀
> 「皇輿巡幸 因登腋上嗛間丘 而廻望國?曰 ?哉乎國之獲矣 雖?木綿之眞迮國 猶如蜻蛉(アキツ)之臀呫焉 由是 始有秋津洲之號也。昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣。」
?

http://



10573秦野北斗:2020/12/10(木) 09:14:31
古事記5 堺(さかえ)栄
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011138_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=sPv-hzHfaNo



10574秦野北斗:2020/12/10(木) 11:26:45
Re: 日高見国と日本国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011139M.jpg

管理人さんへのお返事です。

近いうちに、 神武紀を YouTube します。


> 秦野さん、お知らせありがとうございます。再度下記の記載を分析する必要があるかもしれませんね・・・。

> 神武紀
> 「皇輿巡幸 因登腋上嗛間丘 而廻望國?曰 ?哉乎國之獲矣 雖?木綿之眞迮國 猶如蜻蛉(アキツ)之臀呫焉 由是 始有秋津洲之號也。昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。細戈千足国。磯輪上秀真国。復大己貴大神目之曰。玉牆内国。及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣。」
>
>
> 饒速日が空飛ぶ磐舟にのって(太)虚空(コク=国)を駆け巡り終えて、睨んで降りた場所=(国見)日本国との観念。
>
> 万葉集の舒明天皇の歌として「大和には 郡山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉(アキツ)島 大和の国は」とあり、この歌が上記の神武の国見話に対応。
>
> 蜻蛉(アキツ=トンボ)=奈良の秋津=細戈千足国(日本列島の形状)の対応。
>




10575秦野北斗:2020/12/13(日) 07:30:30
古事記6黄泉(よみ)霞
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011140M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=KklHxx0VFN0



10576秦野北斗:2020/12/14(月) 09:06:57
日本書紀 神武天皇
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011141M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=pQRq4Upinas



10577秦野北斗:2020/12/17(木) 09:29:24
古事記7 住吉三神
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011142M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=AiZudOWBeQo



10578秦野北斗 :2020/12/18(金) 07:19:55
古事記8 三貴子
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011143M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=YXwdieh9NvE



10579秦野北斗 :2020/12/20(日) 00:16:24
イザナギトとイザナミ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011144M.jpg

古代史も詳細に姿を表して来ました

本居 宣長(もとおり のりなが)の古事記伝は、理解できない・・・

古事記伝
「わたしは、お母さんのいる黄泉の国へ行きたくて、泣いております。」
と答えたので、イザナギノミコトは、たいへんお怒りになり・・・

原文直訳
黄泉の国(住吉)から、知らない国(別の国、韓国)に往くことになる。悪い神に、
別の国の青山(あお、やま)は枯山(かれる、やま)如(ごとし)、河海(かわ、うみ)枯(かれる)・・・
スサノウは、いじめられ泣く。イザナギノミコトは、悪い神を叱る・・・

古事記伝のアマテラスとスサノウは、空想がいっぱい、本居 宣長の頭は狂っている。




10580管理人:2020/12/20(日) 01:13:42
鹿島・諏訪・伊勢・白山・浅間社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011145M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011145_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011145_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/富士山本宮浅間大社#創建伝承



10581秦野北斗 :2020/12/20(日) 07:44:28
アマテラス、スサノウ 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011146M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=yHcukgQpa9s



10582史実探偵: 平 素人:2020/12/20(日) 08:05:53
Re: 鹿島・諏訪・伊勢・白山・浅間社ライン
管理人さま、古代科学史掲示板へのコメントありがとう御座います^^。
 ご多忙のよし、なによりです。こちらへも投稿しておきますね。

<鹿島・浅間・伊勢・>ラインを再考されているのですね。

わたしは、先様方が掲げておられる<ライン>が、恥ずかしながらよく分っていません^^!。

土地の私有化が定まっていない古代に(縄文弥生代〜)、何故「その地、その場所」と定めて "聖地”とするには、何かの由・わけがなければなりません。

その始まり(発端)は、いつ(頃)で、だれ(人間) が、なんで、その場所(聖地と)定めたのか?? 歴史を識らない中坊ですが、挑戦してみます(汗〜^^!)

> 古代史掲示板で、図法の件で投稿してみました。隕石の落下ルート解明の件でも役立つかもしれません・・。

ええ、私は上記の考方法で四千年前の東北に降臨した巨大隕石の軌道を割り出しましたよ^^。地球表面、丸平(まるべた^^)その地を聖地と定めたには大自然への驚愕があった!
イースター島(モアイ)→ナスカ(地上絵)→ドーバー海峡(ストーンヘンジ&カルナック列石)→東北地方・大湯(忍路・竜飛崎・大槌)これ等は、地球儀表面で一直線上にあります!!!

 コロナ禍の拡大、心配ですね・・・、どうぞお気をつけて・・・

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



10583秦野北斗:2020/12/22(火) 09:12:46
アマテラス、スサノウ 折三段、井(イゲタ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011148M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=n2AM4r5Zi-o



10584秦野北斗:2020/12/24(木) 00:26:33
魏志倭人伝の里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011149M.jpg

http://www.moonover.jp/bekkan/mania/unit.htm



10585 秦野北斗:2020/12/25(金) 01:05:45
魏志倭人伝の里 2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011150_3M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/春秋穀梁伝



10586秦野北斗:2020/12/26(土) 09:21:30
女王(台)の葬儀
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011151M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=8EW9J0mgVUk



10587秦野北斗:2020/12/27(日) 10:00:17
大里、小里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011152M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=El2Vc01KLkg



10588秦野北斗:2020/12/28(月) 06:44:03
天狗(てんぐ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011153M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=Roga8gv-9yg



10589秦野北斗:2020/12/29(火) 10:09:51
女王(台)祭壇
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011154M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=DSzB2SBU5BA



10590秦野北斗:2020/12/30(水) 09:37:39
アマテラス出産
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011155M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=HJQinwGOl3k



10591秦野北斗:2020/12/31(木) 08:28:53
ヤマタノオロチ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011156M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=mvt6jJ30Jy8



10592管理人:2020/12/31(木) 16:46:25
今年もお世話になりました
秦野さん、みなさん、今年もわかちあいありがとうございました!
なかなかコロナの件もあり、かえって私のほうは多忙だったりして、なかなか更新できてない感じですが、また正月休みもどうぞわかちあいしてくださいね。

お話にあった長里・身里説の件は別件で調べているところで、明確化する必要がありそうですね。

どういう里を使っていたかを特定するには、まず尺度を確定しないといけませんね。つまりどの里をつかったかは、それに影響をあたえている尺度を探すことからはじめねばならないでしょう。

里と歩、丈、尺はセットですからね。



10593秦野北斗:2020/12/31(木) 21:13:51
Re: 今年もお世話になりました
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011158M.jpg

https://komonjyo.net/nagasanotani.html#syousai



10594青面金剛:2021/01/10(日) 06:33:46
黒柏鶏と高志之八俣遠呂智
 明けまして、おめでとうございます。善き年に成ります様に。長鳴き鶏は、山口県防府発祥の鶏で、天然記念物の黒柏鶏(くろかしわけい)を意味します。周防国一之宮である、玉租神社(山口県防府市大字大崎1690)の社務所前の鶏小屋で飼われています。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fxn--n8ja1ax8hx09vzyhxtan6s.club%2F2019%2F10%2F25%2Fhoufu-tamanooyajinja%2F

 12世紀に成立したとされる「今昔物語」に「今ハ昔シ周防ノ国ノ一宮ニ、玉祖ノ大明神ト申ス神在ス」との記述があり、周防国でもっとも社格の高い一ノ宮として崇敬を受けていたと書かれています。

 神社の創建についてはあまりにも古くはっきりしませんが、日本最古の正史『日本書紀』に、景行天皇12年に九州の熊襲(くまそ)征伐に戦勝祈願のために宝剣を奉納したとの記載が残っています。

 大変由緒ある玉祖神社の御祭神は、玉祖命(たまのおやのみこと)です。
玉祖命は三種の神器のひとつである「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」を作った神とされています。

「 天孫降臨と共に地上に来た鶏で、原産は佐波(山口県)が中心。玉祖命(タマノオヤノミコト)がこの地にとどまられた昔は沢山いて、神々の御心を慰め奉ったと伝えられており、一名長鳴き鳥とも言われておりました。昭和26年6月9日天然記念物に指定されました。(玉祖神社社務所)」

 黒柏鶏の長鳴き音声  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonsinwa.com%2Fpage%2F747.html

 大阪府八尾市にある、玉祖(たまおや)神社は、和銅三(七一〇)年周防国から分霊を勧請したものです。境内を黒柏鶏が散歩しています。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fsupercub-c125.com%2Ftamaoya%2F

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 高志之八俣遠呂智の意味するところは、出雲と高志(古志)は友好国同士で、治水の土木事業や古墳の造営の際に、お互いに人手を出し合い、助け合ったと伝えられます。高志は糸魚川の翡翠の産地で、翡翠の加工技術も伝わったものと思われます。

 「八俣遠呂智」は、幾つもの意味を重ねて描いている、と思われます。斐伊川の氾濫を意味したり、大山祇神の子供である、足名椎(アシナヅチ・アシナズチ)と、その嫁である、手名椎・手摩乳(テナヅチ)を意味します。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnihonsinwa.com%2Fpage%2F2047.html

 更に、加茂岩倉遺跡の南側にある、布須神社 ( 島根県雲南市加茂町延野251番地)には、スサノオノミコトが「八塩折の酒」を造らせた釜石が残されています。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fosyaberi35%2Fentry-12641475210.html

 また、布須神社の西約1キロには、ホオリとトヨタマヒメが神武天皇の父神を養育された。阿吾神社
: 旧名称:阿具社(あぐのやしろ)が有ります。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww5.hp-ez.com%2Fhp%2Fnakasa%2Fpage139

 記紀では、物部勢力の出雲への進駐の後、
「 天照大神(卑弥呼)の次男の天穂日に下賜された。その御子の天夷鳥が出雲大神の宮に神宝として祭り、出雲振根に伝えていた。それを崇神天皇が所望したのである。もちろん、崇神天皇は天叢雲剣の名前を知って興味を覚えたのであろう。その剣を振根の弟の飯入根(いひいりね)がやすやすと崇神天皇に献上してしまった。天叢雲剣は崇神天皇が宮殿で飾った。出雲では、飯入根の軽率な行為に不満を抱く振根と飯入根の間に兄弟喧嘩がおこり、飯入根は謀殺された。また殺した振根も、崇神天皇が派遣した二人の将軍の吉備津彦と武渟川別により誅された。」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.kunakoku.info%2Fsub-05%2Fsub-05-11.html

と記されていますが、出雲王家の弟君が大事な神宝を渡す訳も無く、実際は、飯入根が物部方との和議の席上で、強い酒である「八塩折の酒」を勧められた後、剣を抜かれて誅殺され、布須神社の南東約600メートルにある、神原(神財)神社から、神宝が強奪された、と推察できます。

 神原(神財)神社の西約100メートルには、飯入根の墓と思われる、「すくも塚」が残されています(案内板も石碑も有りません。)



10595秦野北斗:2021/01/11(月) 01:48:49
Re: 黒柏鶏と高志之八俣遠呂智
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011160M.jpg

https://xn--n8ja1ax8hx09vzyhxtan6s.club/2019/10/25/houfu-tamanooyajinja/



10596秦野北斗:2021/01/21(木) 00:04:05
ヤマタノオロチ2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011161M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=FqNUONHa0CQ



10597管理人:2021/01/30(土) 01:06:05
尺貫法と倭人伝
皆さん今年もよろしくお願いします!また青面さん、秦野さんわかちあいありがとうございます。

それでまず秦野さんご指摘の尺貫法の件ですが、ウィキによると下記のようになりますね。


里は元々は古代中国の周代における面積の単位であり、300歩四方の面積を表していた[1][2]。のちにこの1辺の長さが距離の単位となった。

周・漢の1歩は1.3m余りであったと推定され、したがって1里の長さは400mほどであった。のちに1歩を5尺、360歩(=1800尺)を1里とし、この関係が清まで続いたが、時代によって1尺の長さが変動したため、1里の長さもそれにしたがって変化した。清の営造尺とメートル法の関係は清朝滅亡後の1915年に定義され、1尺=32cmであったため、1里は576mだった。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E9%2587%258C%23%25E4%25B8%25AD%25E5%259B%25BD

つまり、1尺×5=1歩 1歩×360=1里 よって、1里=1800尺となるわけですが、ここで、1町、1間という単位が挟まってくるかどうか、つまり、1町=60間1間= 6尺よって1町=360尺ですね。

したがって、1歩×1町=1里となるわけです。

ちなみに倭人伝の時代とされる三角縁神獣鏡の平均直径が約23cm前後ですから、つまり漢の1尺で、この1800倍が1里ですから、414m前後、23.5cmで考えると423mですから、いよいよ後漢尺に近いと考えうるでしょう。

この尺度を用いた銅鏡制作集団は、魏尺は用いてなくて、楽浪・帯方郡あるいはその南の朝鮮南部から日本のあたりで後漢尺をそのまま継承していたのではないでしょうかね。

それで話は戻して1町、1間が当時用いられていたかどうかが課題なのですが、おそらく、間、町の導入は後代のもので、1歩×360=1里との単位がまず弥生時代から倭人伝の時代にあったはずです。

その360倍が重要な単位なのですが、まず23・5cm×5=117.5?の歩の単位を基礎として、そこから、90×4=360の単位を考えていたのではないでしょうか。

つまり、117.5cm×90=105.75mですね。その半分の52.875m単位も使用してます。

この倍数単位で九州の弥生時代の遺跡の距離が出てくることは以前お話したとおりです。
平原⇔宇佐間の105?、宇佐⇔西都原間の158=105+53km、釜山⇔帯方郡、帯方郡⇔楽浪郡、にも158?が出てくる。

この53?の1000分の1の53mが倭人伝の里の基礎単位で、秦野さんのおっしゃる超短里なわけです。

だから、先の1町=360=45×8歩の計算をしているのですが、45歩、あるいは90歩を示す単位がなかったかどうか・・・。1部の短里説にあわせるなら、90歩=短里でしょうね。

また一部の短里説の短里だと、360=72×5の計算をしないといけないくて、つまり、72mもしくは36m前後を単位としていた可能性もあります。

ここで、また青面さんのお話にもあった八尺瓊勾玉とか八岐大蛇の八ですね、八咫(アタ)も関係するでしょう。

この8が上記の45×8の8単位とかかわるか・・・。


この単位の起源が楽浪郡・帯方郡、あるいはそこから南下した秦韓の集団、つまり後代そこからさらに天孫降臨、あるいは秦氏の渡来から周防国の秦王国・・・への流れともかかわってくるんですが、かれらの基礎単位としてでてくる八尺の意味を解明すべきでしょう。

咫については、こちらにウィキの記載を引用しておきますね。

中国
「咫」(シ、zhǐ) は古代の長さの単位である。 『説文解字』九、尺部「咫」に、「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也。」とある。一般にはこの文章は「周代の尺で8寸を咫という」という意味に解釈されている。「尺」字の説解にも「周制、寸・尺・咫・尋・常・仞諸度量、皆以人之体為法。」とある。

日本
「あた」は動詞「あつ(当)」を名詞化したもので、手を開いて測ることを意味する。具体的には手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さを咫としており、これは尺の元々の定義と同じである。実際、日本書紀では「咫」と書いているものを、古事記では「尺」の字で書いているもの(八尺鏡など)がある。日本神話では、八咫鏡、八咫烏など「八咫」という長さがよく登場する。

「あた」は「さか」とも言う。八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)も、「尺」の字が宛てられているが本来は「あた」である。

八咫鏡に関する特殊な説
上記『説文解字』にいう「周」を円周と解釈して、咫とは円周の単位であり、円周率は約 3.14 であるが、これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫としたという説がある[1]。この説によれば、日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、福岡県糸島市の平原遺跡から現在5面の大型内行花文鏡が出土している。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%2592%25AB


ここで、なんで咫という単位が必要だったかと理解する必要があるんですが、これは以前三輪山神話の件でに話しした測量用の糸をまくリール、つまり三輪の輪ですね、これにかかわる単位でしょう。

大物主がモモソヒメのいた箸墓あたりから三輪山まで戻っていったときにその糸の長さがちょうどリール用の輪の3倍だったから三輪といったわけですが、箸墓古墳から三輪山までが2420mですから、その3分の1は806mです。

これが1つの距離単位となっていたと考えると、806m。

これをまたここで上記の咫にかかわる円周率の単位で割っていくと、まず八咫=2尺×3.14=147.58cmで1咫=18.45cmです。

それで806mを、18.45?で割ると、4368咫になるのですが、これを八咫単位で割ると、546倍となるわけです。

つまり八咫の鏡をリール替わりにしたとすれば、これを546回回転させた長さの糸なり、その回転ローラーの長さが箸墓⇔三輪山間の距離の3分の1となるでしょう。

とりあえず、眠くなってきたので、この続きはまた後日に。

10598秦野北斗:2021/01/30(土) 08:11:54
大国主
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011163M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=hgQJw-CKyDk



10599青面金剛:2021/01/04(月) 05:55:10
古代出雲王国は主王の大国主と副王の事代主の二王制で17代続く
 古代出雲王国は、主王の大国主と副王の事代主(少名彦)の二王制で17代続いた。兄弟や子供が多く思われてしまうのは、そのため。
 「国を譲ってくれ」と言われて「ハイそうですか」と国を渡してしまう王など居ない。
戦に勝った側が、後の占領地を統治する為に、侵略王朝である事を隠蔽した。


 『 248年、ついに物部・豊連合王国軍は、山陰側と瀬戸内方面とに分かれて進軍した。
軍の一方を受け持った田道間守は、出雲王国を攻めると称して、黄色幡4本を持って軍船に乗り、日本海を東へと向かった。
 田道間守は、出雲王とその親族を皆殺しにすると宣言し、これを伝え聞いた富王家と神門臣王家の親族は震え上がった。
 当時の出雲主王、大名持は第17代神門臣家の「遠津山崎帯」(トオツヤマサキタラシ)であった。

 東を富王家が守り、神門臣王家は西から攻める物部軍を防衛することになった。
その付近は平野なので、王官の西側と東側に幾重にも堀を作つて防衛線としたのだった。

 物部・豊連合軍は石見国に陣を敷き、さらに多伎の小田を通って出雲平野を目指した。
ところが物部軍は、出雲兵が待機する防御用の堀をかわすように、北方から神門臣王宮に向かって進軍してきた。 』

「山崎帯様、ひとまず久那子の丘へ退避ください。そこを最終の陣とするのです。」

将軍「振根」は主王を、出雲王国の祭場「久那子の丘」に避難させた。

「さて、これで憂いもない。物部の兵どもよ攻めてくるがよい、一人でも多く道連れにしてくれようぞ。」

振根は兵を率い、王宮で最後の戦に望んだのだった。

( 物部第2次東征で西出雲王家の振根将軍が戦死した事件を、記紀は誤魔化すため、架空の人物ヤマトタケルとイズモタケルの神話に変えてしまいました。)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fomouhana.com%2F2018%2F02%2F15%2F%25e9%2595%25b7%25e6%25b5%259c%25e7%25a5%259e%25e7%25a4%25be%25ef%25bc%259a%25e5%2585%25ab%25e9%259b%25b2%25e3%2583%258b%25e6%2595%25a3%25e3%2583%25ab%25e8%258a%25b1%25e3%2580%258045%2F

古事記・日本書紀ではもう、満足できない人へ 〜富王家伝承考察への誘い ? 偲フ花
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fomouhana.com%2F2018%2F09%2F09%2F%25e5%2587%25ba%25e9%259b%25b2%25e3%2581%25a8%25e8%2598%2587%25e6%2588%2591%25e7%258e%258b%25e5%259b%25bd%2F




10600秦野北斗:2021/01/04(月) 09:54:00
国を譲ってくれ、ハイそうですか
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011165M.jpg

http://www15.plala.or.jp/kojiki/kuniyuzuri/kuniyuzuri_04.html



10601青面金剛:2021/01/05(火) 00:36:46
穂日家は隠中であった
『 物部・豊連合軍は石見国に陣を敷き、さらに多伎の小田を通って出雲平野を目指した。
ところが物部軍は、出雲兵が待機する防御用の堀をかわすように、北方から神門臣王宮に向かって進軍してきた。
 後で分かったことであるが、この物部軍の攻撃の道筋は、穂日家の「甘美韓日狭」(ウマシカラヒサ)と息子「宇加都久奴」(ウカツクヌ)が、物部軍におもむき、あらかじめ教えた道筋であった。
穂日家はまたしても、出雲王家を謀ったのだ。 』
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fomouhana.com%2F2018%2F02%2F15%2F%25e9%2595%25b7%25e6%25b5%259c%25e7%25a5%259e%25e7%25a4%25be%25ef%25bc%259a%25e5%2585%25ab%25e9%259b%25b2%25e3%2583%258b%25e6%2595%25a3%25e3%2583%25ab%25e8%258a%25b1%25e3%2580%258045%2F

 出雲大社の造成費用は、東出雲王家である『富家』が負担した。西出雲王家である神戸臣家は隠岐・島後の水若酢神社の地に移り、物部方との停戦交渉を続けた。

 古の出雲大社の高層神殿は、平均して約60年毎に倒壊し、その都度、再建された。これは、東出雲王家である『富家』の財力を削ぐ目的が有った。


※ 時の政権公認の歴史書は、常に勝者にとって都合の良い形で編纂される。
諸国から集めた筈の、各『風土記』は、現存するのは数える程で、大半が、集めた後に「焚書」された。





10602弓張月:2021/01/05(火) 12:17:15
Re. 日高見国と日本国
お久しぶりです。チョットだけ
日高見国の「日高」ですが、
『古事記』応神天皇記 応神天皇記の系図の多遅摩比多訶の「比多訶」が怪しい思っています。そして、=巨勢楲田荒人(現人神誕生,応神天皇から八代目のアナレンマの太陽神では?
「比多訶」とは、ヒダ下(か=日・火・家・香・鹿・嘉・華)と
また、「見」は、茨城県稲敷郡阿見町中郷(旧信太郡阿見村)と茨城県稲敷郡阿見町竹来(旧信太郡竹来村)の「阿彌神社(あみじんじゃ、阿弥神社)」と竹(多家)内宿禰から妄想すると、彌(弥)を「み」としていることは、弥の年代から「見=剣」の時代に変わった。とのことではないでしょうか?
斐太国は、「律令国の等級区分の一つである下国(げこく)。小国とも言う。」でしたね。
日本国も、読みが「いっぽん国」ではなく、「にほん国」になった訳かな?









10603秦野北斗:2021/01/05(火) 12:32:08
大国主1 稲羽(いねは)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011168M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=E_z5NTcM0Uw



10604青面金剛:2021/01/06(水) 06:06:58
白兎神は、和邇の大軍と淤岐ノ島で戦った。
白兎神社先代宮司の考察   /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhakutojinja.jp%2Fmythology%2F

『 白兎というのは、実は野に住む兎でなく、神話時代にこの地方を治め信望の高かった一族のことを言ったもので、白兎と呼ばれたのは、兎の如くおだやかであったからだと言われています。

 その一族が航海を業としており、沿海をおびやかしていた「わに」と呼ばれていた賊と淤岐之島付近で戦ったのです。
 最後の一戦で負傷して苦しんでいる白兎の一族が、大穴牟遅命(大国主命)に助けられ、後に大穴牟遅命と協力して「わに」を討伐してこの地方を治め、大穴牟遅命には八上比売を嫁とらせたというのであります。

 そのこともあって、縁故の深い此の山に宮居を定めるに至り、後世までも白兎神として崇敬される様になったものであろう。  』

以上が、宮司の考察ですが、大正の鳥取新報にも同様な記事がありましたので紹介します。

大正9年11月発行 「鳥取新報」記事

『 この付近を領していた白兎神は、和邇の大軍と淤岐ノ島で戦った。和邇と云うのは日本海を荒らして居る乱暴な船乗り共であった。

 古事記には此の戦いの有様を面白く書いて居る。和邇の大軍が押し寄せた模様を、「頭を並べて」と記し火花を散らして白兎の神々が、この和邇と戦う姿を、「和邇の頭を数えつ、飛んだ」と書いて居る。

 白兎神は淤岐ノ島から気多ノ前まで押し寄せて来る和邇の大軍を物ともせず戦ったが、最後の和邇の為に打ち破られ血に塗れて倒れた。これを見ると和邇軍は、勝鬨を挙げて引き揚げたのである。

 古事記にはこの様を「最後の和邇、我を捕えて我が衣を剥げり」と書いて居る。
勇敢な白兎の神様も、虫の息となりて打ち倒れていたのであろう。      』


気多ノ前から約150m沖合にある淤岐ノ島(おきのしま)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fhakuto.tea-nifty.com%2Fblog%2Fokinosima.html


10605秦野北斗:2021/01/06(水) 09:44:24
大国主2 兎神(うさぎ、あまつかみ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011170M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=9dTmS9Yugfs



10606秦野北斗:2021/01/06(水) 10:16:12
Re: 白兎神は、和邇の大軍と淤岐ノ島で戦った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011171M.jpg

https://honz.jp/articles/-/44393



10607青面金剛:2021/01/06(水) 23:52:49
Re: 白兎神は、和邇の大軍と淤岐ノ島で戦った。
秦野北斗さんへのお返事です。

> 大正9年11月発行 「鳥取新報」記事は、月刊 ムー?
> 注)和邇:和(倭)に近い、と読みます。白兎神は和の神でしょうな・・・

★ 私がリンクを張った白兎神社HPの、そのページを確かめもせず、熟考もしない短時間で、茶化した冷やかし文、しか返せないのでは、これ以上、議論を続ける意味も無い。言葉足らずの超短文では、論旨不明だし、中身が空っぽ。

※ 相手のコメント全文を、引用で返すのも、掲示板を読みずらくするだけ。

★ 秦野さんは、大阪から出た事の無い、方の様ですが、鳥取へ行くなら、智頭急行の
「スーパーはくと」が便利です。白兎海岸を直に目で見ないと分からないと思います。
私は、一昨年に行って来て、気多之前の2ヶ所の展望台にも登ってきました。

1、白兎海岸  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhakutojinja.jp%2Fshinnseki%2F

『 神社の北方150メートルの海岸で、白兎神と和邇族との古戦場でありました。

 海岸は、東は「岩木の鼻」、西は「気多之前」で限られ小さな湾になっています。
海水は清く澄み、海底の砂が数えられるくらい透明です。
夏は東方の水平線からの日の出、夕方は、西の海上への夕日のながめは、実に絶景です。』

11、菊座石

『 本殿を支える土台石に菊の紋章が彫刻(二十八弁)してあります。 近郷の社は、全国的にも珍しく、神社創設が皇室と何らかの関係があったものと云われています。 』


スーパーはくと  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.chizukyu.co.jp%2Fchizukyu%2Fjikoku_unchin%2Fjikoku_kudari%2F








10608秦野北斗:2021/01/07(木) 03:14:31
Re: 白兎神は、和邇の大軍と淤岐ノ島で戦った。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011173M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

和邇なんですか、白兎神なんですか、白兎海岸の名前ですか、こちらは歴史を知りたいのです。
展望台など興味ありません、鳥取でアゴ食べたわ

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 大正9年11月発行 「鳥取新報」記事は、月刊 ムー?
> > 注)和邇:和(倭)に近い、と読みます。白兎神は和の神でしょうな・・・
>
> ★ 私がリンクを張った白兎神社HPの、そのページを確かめもせず、熟考もしない短時間で、茶化した冷やかし文、しか返せないのでは、これ以上、議論を続ける意味も無い。言葉足らずの超短文では、論旨不明だし、中身が空っぽ。
>
> ※ 相手のコメント全文を、引用で返すのも、掲示板を読みずらくするだけ。
>
> ★ 秦野さんは、大阪から出た事の無い、方の様ですが、鳥取へ行くなら、智頭急行の
> 「スーパーはくと」が便利です。白兎海岸を直に目で見ないと分からないと思います。
> 私は、一昨年に行って来て、気多之前の2ヶ所の展望台にも登ってきました。
>
>



10609秦野北斗:2021/01/07(木) 12:45:19
大国主3 祖命哭(おや、みこと、なく)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011174M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=KXztzPCaTVE



10610青面金剛:2021/01/08(金) 05:14:40
赤猪岩神社と清水井
「赤猪岩神社」(あかいいわじんじゃ)の在る『手間要害山』は、吉備軍との激戦が有った古戦場です。

『 第一次出雲戦争にて、西出雲王国の神門臣家が恭順したことで、吉備王国との争いは、一時の平和を得ました。しかし東出雲王国の富家が神門臣家と分離し、吉備に恭順していないことを知ったフトニ大王は、今度は東出雲王国の東の領土、伯耆国へ向けて進撃しました。

 吉備軍は四十曲峠を越えて、伯耆国に侵入しました。熾烈を極める吉備軍の攻撃に、東出雲軍は夜にゲリラ戦を行ってこれを防いだと云います。吉備軍は出雲兵を「鬼」と呼び、彼らがこもった、日野川中流の長山の一部は、「鬼住山」と呼ばれるようになりました。

 次に出雲兵は、西方の要害山(西伯郡南部町天万)に陣を構えてゲリラ戦を繰り返し、徹底抗戦を行い続けました。しかし敵兵に囲まれ、要害山の出雲兵は一人残らず戦死します。この要害山の麓に、赤猪岩神社が鎮座していました。
 東出雲軍はここより西の国境の母塚山を防衛線に死闘を繰り返したと云います。この溝口と要害山の攻防戦が、出雲王国時代での最大の戦いであり、実に東出雲王国軍の兵士の3分の1が、戦死したと伝えられています。  』
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fomouhana.com%2F2018%2F01%2F04%2F%25e8%25b5%25a4%25e7%258c%25aa%25e5%25b2%25a9%25e7%25a5%259e%25e7%25a4%25be%25ef%25bc%259a%25e5%2585%25ab%25e9%259b%25b2%25e3%2583%258b%25e6%2595%25a3%25e3%2583%25ab%25e8%258a%25b1%25e3%2580%2580%25e7%2595%25aa%25e5%25a4%2596%2F

※ 溝口とは、伯耆町溝口で、東に貴住(きすみ)山、西には『とっとり花回廊』の丘が在ります。
『手間要害山』の陣地に、実際に大国主が居たのかは、定かでは有りませんが、戦死した多くの武将と兵士、傷の手当てに尽力した地元の方々の想いを、大国主の再生神話として象徴しているのかも知れません。


10611秦野北斗:2021/01/08(金) 14:02:32
大国主4 葦原中国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011176M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=kuceiW7oIuY



10612青面金剛:2021/01/09(土) 04:52:51
継体天皇
 継体天皇については、以前に一度、書き込みましたが、忘れられてる方も多いと思いますので、再度、紹介します。

東出雲王家(富家)から三国国造家(蘇我総本家)への婿入り

『 蘇我総本家とイズモの富家は親戚関係なのです。その蘇我総本家では振り比売の時代には 子供は振り比売一人になったといいます。そこで富家から次男の彦太(ひこふと)を婿養子にもらう事になり、その年の熊野山の大祭に、越前の蘇我総本家から振比売が訪れて参加しました。そして大祭の後、彦太は振り比売を送って越前へ行き、そのまま婿入りしたのです。 』
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fyochanh1947-kodaiizumo%2Fe%2F13a6870a71930aec7db40344f4d4e895

『 彦太と振姫は、越前の福井で祝言をあげ「オホドの君」と呼ばれて活動を開始した。水害の多かった九頭竜川の河口を切り広げて、三国港を整備した。そして日本海交易を盛んにし莫大な財をなした。     』

『 記紀の作成を命じた持統女帝や不比等たちが、一番嫌がったことが「自分達の祖先の秦国人で、渡来人の徐福の子孫達が倒した、出雲王家の末裔の若様を、大和の大王に迎えた」と言うことでしょう。

 そのため オホド大君は ホムタ大王の6世子孫だとしています。しかしこれは明らかに間違いです。第一ホムタ大王とオホド大王に血縁関係はないし、それに作り話の記紀に拠れば、ホムタ大王から11代目がオホド大王です。
 実際はホムタ大王の後はオオサザキ(仁徳)、イザホワケに始まる和の五王(ミツハワケ、オアサヅマ、アナホ、ワカタケ)、オケ(仁賢)それにワカサザキ(武烈)その次がオホドで9代目です。        』
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fyochanh1947-kodaiizumo%2Fe%2Fb8b2bff0da6fefa464e0656811321952

※ 継体天皇の出自が不明と記している本が多いのは、国立大学を頂点とするアカデミズムの学閥が、継体天皇が東出雲王家である富家の次男、で有る事を隠したいからです。



10613秦野北斗:2021/01/09(土) 10:32:34
継体天皇の時代には越前はない
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011178M.jpg

https://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/13a6870a71930aec7db40344f4d4e895



10614青面金剛:2021/01/10(日) 05:20:08
.goo.ne.jp/yocha344f4d4e895">https://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/13a6870a7
秦野北斗さんへのお返事です。

> 舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝、「国引き神話」に越前"越前の蘇我総本家から振比売が訪れて参加しました。"。この越前は継体天皇の時代にはないの、「国引き神話」7世紀になる。
> 出雲國風土記(白村江の引き上げ)
> 国引き神話   出雲國風土記、神宅臣金太理 勘造[他] [江戸中期]


10615青面金剛:2021/01/10(日) 12:53:58
八束水臣津野命
秦野北斗さんへのお返事です。

> 「国引き神話」に越前”越前の蘇我総本家から振比売が訪れて参加しました。”。この越前は継体天皇の時代にはない、「国引き神話」7世紀になる。
>(天武天皇が越を分割(越前、越中、越後、)。
> 出雲國風土記(白村江の引き上げ)
> 国引き神話   出雲國風土記

☆ 『出雲國風土記』の編纂は白村江以後ですが、「国引き神話」自体は、第六代大名持 八束水臣津野(やつかみずおみつぬ)西出雲王家神門臣家の時代の事で、紀元前70〜30年頃と思われます。

※ 「三つ地の綱」は『三本綯いの太い綱を結び』

☆「三国」の地名は全国数か所あり、『三国国造家』だけでは、何処かと分かる人は少ない。当時の地名である『高志』では、範囲が広すぎる。「越前」の地名を用いるならば、「後の越前の地に当たる」の前書きを置くべき、との御意見であれば、同意しますので、大元出版の新刊・再刊の編集校正へ、指摘しようと思います。

◎ 長浜神社(島根県出雲市西園町上長浜4258)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.nagahamajinja.com%2Fsite2%2Findex.html

 出雲国風土記の冒頭を飾る「国引き神話」は、綱をかけ海のむこうから土地を引き寄せ縫い合わせた国土生成の話です。

読み下し文

『 意宇と号る所以は、国引き坐しし八束水臣津野命詔りたまひしく「八雲立つ出雲の国は狭布の雅国なるかも。初国小く作れり。故、作り縫はな。」と詔りたまひて、「拷衾志羅紀の三埼を、国の余ありやとみれば、国の余あり」と詔りたまひて、童女の胸鉏取らして、大魚の支太衝き別けて、波多須々支穂振り別けて、三身の綱打ち挂けて、霜黒葛闇耶闇耶に、河船の毛曽呂毛曽呂に「国来、国来」と引き来縫へる国は、去豆の折絶よりして、八穂米支豆支の御埼なり。
 かくて堅め立てし加志は、石見国と出雲国の堺なる、名は佐比売山、是なり。亦、持ち引ける綱は、薗の長濱、是なり。(略〜同様に佐田の国・闇見の国・三穂の埼と計4回国引きする) 「今は国引き訖へつ」と詔りたまひて、意宇杜に御杖衝き立てて「意恵」と詔りたまひき。故、意宇と云ふ。    』


訳文(一部)

『 最後に「北陸の能登半島の珠洲の岬に余った土地があった。」と見つけて、鋭い鉏で魚のエラを一刀両断にたつように切り取り、三本綯いの太い綱を結び「国来い、国来い。」と掛け声をかけながら、ゆっくりゆっくりと引き寄せて縫い合わせて行かれました。そうしてできた土地は、美保関です。綱は弓ヶ浜で、杭は伯耆国にある大山です。 』


出雲国風土記の編纂

 『 713年(和銅6年)に太政官が発した風土記編纂の官命により、出雲国国司は出雲国庁に出雲国造の出雲臣果安(いずもおみはたやす)を招き、出雲国風土記の編纂を委嘱した。
 733年(天平5年)になって、出雲国造の出雲臣広島の監修のもと、秋鹿郡(あいかのこおり)の人、神宅臣金太理(かんやけのおみかなたり)の手によって出雲国風土記は編纂された。 』

10616秦野北斗:2021/01/10(日) 18:18:16
舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011181M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

> ☆ 『出雲國風土記』の編纂は白村江以後ですが、「国引き神話」自体は、第六代大名持 八束水臣津野(やつかみずおみつぬ)西出雲王家神門臣家の時代の事で、紀元前70〜30年頃と思われます。

舊唐書卷八十四/列傳三十四/劉仁軌伝がよめないのか・・・

> 訳文(一部)青面金剛さん、読めないんだな・・・ゆっくりゆっくりと、何処にあるの?

『 最後に「北陸の能登半島の珠洲の岬に余った土地があった。」と見つけて、鋭い鉏で魚のエラを一刀両断にたつように切り取り、三本綯いの太い綱を結び「国来い、国来い。」と掛け声をかけながら、ゆっくりゆっくりと引き寄せて縫い合わせて行かれました。そうしてできた土地は、美保関です。綱は弓ヶ浜で、杭は伯耆国にある大山です。 』




10617 秦野北斗 :2021/01/10(日) 19:08:01
大国主5 白村江、穢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011182M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=uhNAXmroHCw



10618青面金剛:2021/01/10(日) 20:20:31
須勢理比売は架空の神
秦野北斗さんへの御答えです。

『(出雲大社)本殿の方を見ると、手前に2社あります。
手前が「天前社」(あまさきのやしろ)と呼ばれ、大国主が兄弟の八十神に殺されかけた時、助けた二女神の「蚶貝比賣命」「蛤貝比賣命」を祀っています。
 奥は「御向社」(みむかいのやしろ)と呼ばれ、大国主の后である「須勢理比売命」(スセリヒメノミコト)を祀っているそうです。
 ただ、須勢理比売は架空の神であるらしく、本来は向家の祖神を祀る場所だったようです。 』
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fomouhana.com%2F2017%2F08%2F07%2F%25e5%2587%25ba%25e9%259b%25b2%25e5%25a4%25a7%25e7%25a4%25be%25ef%25bc%2588%25e6%259d%25b5%25e7%25af%2589%25e5%25a4%25a7%25e7%25a4%25be%25ef%25bc%2589%25e5%25be%258c%25e7%25b7%25a8%25ef%25bc%259a%25e5%2585%25ab%25e9%259b%25b2%25e3%2583%258b%25e6%2595%25a3%25e3%2583%25ab%25e8%258a%25b1%25e3%2580%258002%2F


国立国会図書館デジタルコレクション「訂正出雲風土記-上下-」(河内屋喜兵衛版/文化3年7月刊-1806年)
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fdl.ndl.go.jp%2Finfo%3Andljp%2Fpid%2F2609041
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdl.ndl.go.jp%2Finfo%3Andljp%2Fpid%2F2563531%3FtocOpened%3D1

毛曾呂毛曾呂
『 また、高志 (こし:北陸) の都都の三埼 (つつのみさき:能登半島の珠洲岬) を国の餘り有りやと見れば「国の餘りが有る」と詔りたまいて  童女 (おとめ) の胸鉏き取らして
大魚 (おふお) の支太(きだ)衝き別けて  波多須須支 (はたすすき) 穂振り別けて
三身 (みつみ) の綱な打ち挂 (か) けて  霜黒葛 (しもつづら) くるやくるやに
河船の毛曾呂毛曾呂 (もそろもそろ) に
「国々来々 (くにこくにこ)」と引き来縫いたまいし国は、三穂の埼である。持ち引ける綱は、夜見島 (よみのしま:弓ヶ浜半島) である。 固堅め立てたまいし加志 (かし:杭) は、伯耆国 (ははきのくに) 有る火神岳 (ひのかみのたけ) である。                                     』

10619 秦野北斗 :2021/01/11(月) 08:45:24
Re: 須勢理比売は架空の神
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011184M.jpg

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2609041



10620青面金剛:2021/01/12(火) 00:09:16
三穂津姫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011185M.png

http://mutualfundsassociation.top/index.php?main_page=product_info&amp;products_id=2751



10621秦野北斗:2021/01/12(火) 09:12:14
大国主 高志国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011186M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=klOw6n1vyLA



10622秦野北斗 :2021/01/12(火) 14:44:36
国引き神話
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011187M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

歴史家なら、自分で翻訳しろ、金があっても買えないぞ、ここはどこ、三掎の碇を、三本綯いの太い綱で結び、魚のエラを引っ掛ける様に、「国来い、国来い。」と掛け声をかけながら、ゆっくりゆっくりと引き寄せて縫い合わせて行かれました。そうしてできた土地は、美保関です。綱は弓ヶ浜で、杭は伯耆国にある大山です。美保関の位置が違いますよ。図参照

国引き神話 原文 秦野北斗校正

所以号意宇者国引垡八束水臣津野命詔八雲出雲国者狭布之堆国在哉初国小所作故将作縫詔而櫨衾志、羅紀乃三掎矣、国之餘餘有耶見者国之餘有詔而童女离鉏所取而火魚之支大衝別而波多須、支穂振別而三身総打挂與霜黒葛聞耶、众国来引来縫国者自去豆乃折絶而八穂朱、支豆、支乃郷掎以此而堅立加志者石見国與出雲国之堺有名佐比黄山是也、持引綱者薗之長濱是也亦北門佐伎之佐之餘有耶見者国之餘之餘有詔而童意女离鉏取與火魚之支大衝別而波多須支穂振別而三身之綱打挂而霜黒聞耶众河船之毛、曽、呂众国来引来綱国者自多久乃折絶與 狭田之国是也亦北門良波乃国矣国之餘有詔而童意女离鉏聆取而大魚之支大衝別而波多須支穂振別而三身之綱打挂而霜黒葛聞耶众河舩之 毛曽豆众国来引時引縫国者自乎波縫折絶而闓見是也亦高志之都乃三掎矣国之餘有耶見者国之餘有詔而童意女离鉏所取而火魚之支大衝別而波多須支穂振別而三身之綱黒葛聞耶众河船之毛呂众国来引来縫国有三穂之掎接引綱夜見堅立加志者有伯耆国、火神岳是也今者国引記詔而意乎社众御枝衝立而意恵登詔故云










10623青面金剛:2021/01/12(火) 18:19:15
夜見島(よみ)が足りない
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011188M.jpg

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536283



10624秦野北斗 :2021/01/12(火) 20:19:28
Re: 夜見島(よみ)が足りない
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011189M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

具体的な距離を示せ、古代史では距離が最大の問題だ、二十七里一百六十四歩は何mですか・・

>  郡家の正東二十七里一百六十四歩の所にある。

どうせ、受け売りだろう・・・


> 美保郷
>  郡家正東廿七里一百六十四歩。所造天下大神命、娶高志國坐神、意支都久良為命子、俾都久良為命子、奴奈宜波比賣命而、令産神、御穂須々美命、是神坐矣。故云美保。
>
>
> 美保郷(みほごう)。
>
>  郡家の正東二十七里一百六十四歩の所にある。所造天下大明神命が高志国(こし)いらっしゃる神意支都久辰為命(おきつくしい)の子、俾都久辰為命(へつくしい)の子、奴奈宣波比売命(ぬなかわひめ)と結婚してお産みなさった神、御穂須須美命(みほすすみ)、この神が鎮座していらっしゃる。だから、美保という。
>
>
> ☆ 弓々浜半島を夜見島(よみ)と呼びます。安来市の東南部にも「楯縫郷」は在ります。
>
>



10625秦野北斗:2021/01/13(水) 00:20:50
夜見島『ウィキペディア(Wikipedia)』
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011190M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/夜見島



10626青面金剛:2021/01/13(水) 00:50:28
福浦三保大明神 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011191M.jpg

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/2403



10627青面金剛:2021/01/13(水) 05:11:36
夜見ヶ浜半島
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011192M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011192_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011192_3M.jpg

http://houki.yonago-kodaisi.com/F-geoB-yumigahama.html



10628秦野北斗:2021/01/13(水) 08:11:34
Re: 福浦三保大明神 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011193M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝



10629青面金剛:2021/01/14(木) 05:34:35
Re: 福浦三保大明神 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011194M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 魏志倭人伝の文章になる、對馬國の広さになる。
> 對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶?、方可四百餘里
> 1里=300歩≒534.54メートル:1歩≒1.7818メートルで計算しますと約14,724.8メートル。
> 對馬國の広さになる。添付みろ、国引き神話の原文には距離などない、
> 方可四百餘里は一辺400×1里=534.54メートル=213kmの方形になる。

☆ 『出雲国風土記』の冒頭に「神話」として紹介されているのは、「日本海交易や婚姻関係(嫁ぎ先や婿入り先など)により国が栄えました」、その流れを象徴して「神話」の形を借りているものです。
 『出雲国風土記』の冒頭に紹介されている事で、出雲の領地内に引き寄せた、のが前提と成ります。
 もっとも、人力で土地を引き寄せる事など、有り得ませんので、あくまでの例え話です。

 秦野さんの言われる通り「国引き神話の原文には距離などない」事から、「国引き神話」の第2段と第3段「北門佐岐」「北門農波」についても、異説が唱えられています。

☆ 北陸の能登半島の珠洲から、引き寄せたのが「對馬國」だと、主張されたいのですな。
それならば、固堅め立てたまいし加志 (かし:杭) に当たる伯耆大山に変わる山と、綱に当たる「夜見」の地名は、何処かを示さないと、新説としては、不十分に成ります。

 更に、奴奈宣波比売命(ぬなかわひめ)と、御穂須須美命(みほすすみ)を祀る神社が、「對馬國」に無くては、説得力も有りません。





10630秦野北斗:2021/01/14(木) 07:00:05
沼河比売
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011195M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=g8mvrndERvw



10631秦野北斗:2021/01/14(木) 07:16:27
Re: 福浦三保大明神 
青面金剛さんへのお返事です。

>  更に、奴奈宣波比売命(ぬなかわひめ)と、御穂須須美命(みほすすみ)を祀る神社が、「對馬國」に無くては、説得力も有りません。

神の名前だと、奴奈宣波比売命 訳は”奴は何を述べる命”「神社が對馬國」に無くては、頭はウィルスだな



10632秦野北斗:2021/01/14(木) 10:03:41
出雲国風土記、youtubeアップ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011197M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=2KaH0wdAfjQ



10633青面金剛:2021/01/14(木) 22:29:24
宇佐の女王「豊玉姫」は大和の女王を偽装した
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011198M.jpg

https://ameblo.jp/makoto-kodama/entry-12401338620.html



10634秦野北斗:2021/01/15(金) 10:22:38
国引き神話1
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011199M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=vUgrvIB8yo8



10635秦野北斗:2021/01/15(金) 11:20:42
Re: 宇佐の女王「豊玉姫」は大和の女王を偽装した
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011200M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=El2Vc01KLkg



10636秦野北斗:2021/01/15(金) 21:04:44
Re: 宇佐の女王「豊玉姫」は大和の女王を偽装した
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011201M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

どうせ1000里は確認出来ないだろう、添付図を確認してくれ。
古代名が井(いげた)になる、誰も知らないだろう。

>
>  『魏志倭人伝』の一里は50〜100m(平均75m)程
>
> 『  狗邪韓国・釜山港から対馬国・厳原港迄が約100?程であるのに対し、
> 対馬国・厳原港から壱岐国・郷ノ浦港迄が約70?程、
> 壱岐国・郷ノ浦港から末蘆(松浦)国・唐津港迄は50?程しかありませんでした。
>
>  このように大きな差がついてしまった理由も私は【倭国報告書】にあると思います。
> 【倭国報告書】は帯方郡使が倭国を訪問した際に書いたものと思われます。
>
>  すると、帯方郡使の団長である悌儁らは洛陽から派遣された中国人官僚と思われるが、
> 実際に【倭国報告書】を書いていたのは帯方郡で雇われた朝鮮人使役に違いないから、
> 中国の里程を知らずに自分等の里程で【倭国報告書】を書いた可能性があります。
>
>?? 更に、帯方郡出身の使役たちも対馬海峡の地理や渡海距離に詳しいはずも無く、
> 彼らを運ぶ船を動かしていた海人族と相談して、渡海情報を得ていたものと思われます。
>
>  すると、距離を測る機械などはない時代の話ですから、海人族達は自分らの感覚で、
> 各渡海区間を一律に一千余里に設定していたと云うのも十分あり得る話となります。
>
>  更には【倭国報告書】を読んだ陳寿の方も、三つの渡海距離を『魏志倭人伝』に、
> 【倭国報告書】の記載のまま、全て概数として千余里に揃えて書き込むことで、
> 『魏志倭人伝』の里程記事を美しく纏め上げたかったのではないかと考えられます。
>
>?? 以上の事象から推定して、一応結論として想定できるものは、
>??一千余里は50〜100?のことであり、一里は50〜100m(平均75m)なのでしょう。
>
>  『倭人伝』で使われる里程が、この通りに一里=50〜100m(平均75m)だとすると、
> 『韓伝』に、韓国が方四千余里と記されることにも十分通じています。
>




10637青面金剛:2021/01/16(土) 01:54:57
稲田姫は出雲王国初代王「菅之八耳」(スガノヤツミミ)の妻
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011202M.jpg

https://omouhana.com/2018/04/30/鳥髪山:伝・八岐大蛇(1)/



10638秦野北斗:2021/01/16(土) 11:19:13
Re: 稲田姫は出雲王国初代王「菅之八耳」(スガノヤツミミ)の妻
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011203M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=FuEjONKb3fQ



10639秦野北斗:2021/01/16(土) 12:39:19
国引き神話2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011204M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=Tc0FQIPu-zY



10640青面金剛:2021/01/18(月) 06:26:06
出雲(いずも)国府(こくふ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011205M.jpg

http://www.arai-hist.jp/thesis/archeaology/metrology/izumo.pdf



10641秦野北斗:2021/01/18(月) 11:51:39
Re: 出雲(いずも)国府(こくふ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011206M.jpg

https://www.yomeishu.co.jp/genkigenki/trivia/091029/index.html#:~:text=「2008年版食育白書,で約5.3kmです。



10642秦野北斗:2021/01/18(月) 12:22:41
須世理毘売
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011207M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=YNkfnve1BAQ



10643秦野北斗:2021/01/19(火) 09:44:12
十七世神
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011208M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=hKO4l-wokUo



10644秦野北斗:2021/01/19(火) 11:08:03
Re: 出雲(いずも)国府(こくふ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011209M.jpg

http://arai-hist.jp/profile/index3.htm



10645秦野北斗:2021/01/19(火) 15:07:58
[11209] Re: 出雲(いずも)国府(こくふ) 訂正
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011210M.jpg

青面金剛さんへ
国引き神話なかなか深いな、出雲の世界を楽しみました、

出雲の神戸川河口が三穂になる、
穂は東、南、北の三つ
東(一百三十七里一十九歩)宍道湖方向
南(一百八十三里一百九十三、一百歩)神西湖(じんざいこ)方向
北(七十三里三十二歩)出雲大社方向

出雲風土記、なかなか、やるな。



10646秦野北斗:2021/01/21(木) 14:02:45
大国主まとめ国引き神話
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011211M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=sLznaVfQqF4



10647秦野北斗:2021/01/21(木) 23:26:55
国引き神話
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011212M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/国引き神話



10648青面金剛:2021/01/22(金) 05:57:59
素鵞社そがのやしろ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011213M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011213_2M.jpg

https://izumooyashiro.or.jp/precinct/keidai-index/setumatu#content1



10649秦野北斗:2021/01/22(金) 12:40:51
大国主まとめ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011214M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=Sc55V4g_5es



10650秦野北斗:2021/01/22(金) 13:35:54
Re: 素鵞社そがのやしろ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011215M.jpg

https://www.hotel-nagata.co.jp/2014/02/18/13397



10651青面金剛:2021/01/22(金) 23:50:36
石川麻古(蘇我馬子)、石川雄正(蘇我蝦夷)、 雄正の息子「林太郎」が蘇我入鹿
 秦野北斗さんへの御返事です。

『 オホド大王(継体天皇)以降、カナヒ大王(安閑天皇)の子孫「石川臣稲目」は、二人の娘をヒロワニ大王(欽明天皇)に嫁がせ、そこから次々に有力な皇子が生まれたため、大和の大豪族の地位を築いていました。
 推古女帝の子、尾治大王までは、石川臣系の大王が続いていたことになります。
 尾治大王は聖徳太子のモデルとされる上宮法王の息子、石川臣系の「山背王」を、大兄に指定していました。彼は名実ともに優秀で、民に人気があったと云います。そこに次期大王の座を狙っていたのが、息長系の田村王でした。

 田村王は麻古が病床に伏したとき、出家した石川臣家の関係者の人数に驚きました。この石川麻古は、記紀に、世に名高い「蘇我馬子」と記された人物です。彼はその勢力に恐怖を感じ、石川臣勢力を壊滅させる必要があると考えます。
 田村王は、当時宮中祭祀役の家柄であった中臣御食子に相談しますが、彼は大王の側近になり、石川家の大物を一人ずつ、誅殺することを提案します。
 また、御食子は、すでに石川武蔵の妻となっている宝姫を、理由をつけて離縁させ、后とするように田村王に進言します。

 宝姫は息長系の姫であったので、息長勢力を味方につけるのに、都合が良かったのです。その時、宝姫には、石川武蔵との間に「大海人彦皇子」が生まれていました。彼は後の「天武天皇」となる人物です。
 武蔵は宝姫が大海人彦を連れて去ったことに落胆し、以後は僧侶のような孤独な生活を送ったと云われています。

 628年3月に田村王は、大王の方針で自分が次の大王になる、と大臣の石川雄正に伝えました。これに麻古の弟「境部摩理勢」は、大兄である山背王が後継者である、との主張を曲げなかったと云います。中臣御食子は官兵を集めて、摩理勢王を追い、これを誅殺しました。

 ここで石川臣家のことを説明しておかなければなりません。記紀では石川麻古を蘇我馬子、石川雄正を蘇我蝦夷と名を変えて記しました。雄正の息子「林太郎」が蘇我入鹿です。そもそも馬子や蝦夷、入鹿といった名前を高貴な人物が名付けるはずもありませんでした。

 本来の蘇我氏は、福井の三国越前国を中心として栄えた豪族です。大和に基盤を築いた石川家も蘇我家も、元は武内襲津彦を先祖としています。しかし両家が分かれて長い時を経ているので、それらは別の家柄として考えるべきだと思われます。

 記紀において、なぜそのような作為を行ったかというと、二つの理由が考えられます。まずは万世一系を目論む記紀の製作者は、各王朝の変遷を隠したいと考えました。なのでオホド大王の蘇我王朝の存在は消されてしまったのです。

 次に記紀制作の責任者、右大臣の藤原不比等は、父が行った石川臣家撲滅の黒歴史を正当化したかったようです。藤原鎌子(鎌足)は、大王家と縁のある大豪族、石川臣家を不当に抹殺したのです。それはいわば、クーデターと言えるものでした。

 不比等は石川家の存在を隠し、横暴な豪族、馬子・蝦夷・入鹿として書き換えさせたのです。しかし記紀の筆記者は、偉大な蘇我王家の名前だけでも残したいと思い、石川臣家を蘇我家としたのです。

 628年3月に尾治大王が没し、田村王(舒明大王)が王位に就きました。しかし大和国では、新しい大王の押坂宮に貢ぎ物を運ぶ者が少なかく、山背王のいる岡本宮に運ぶ貢ぎ物が奪われ、舒明大王の押坂宮に運ばれるという混乱が続いたと云います。
 630年に大王は宝姫を皇后としました。宝姫の前夫、石川武蔵との間に生まれた息子は大海人彦、後の「天武天皇」であり、大王との間に生まれた皇子は葛城皇子「天智天皇」でした。

 641年の3月15日に、大臣、石川雄正の豊浦の邸宅を、葛城皇子と中臣鎌子ひきいる軍勢が襲い、誅殺しました。これは全くの不意討ちであり、石川臣家という大豪族があっけなく亡びた瞬間でした。

 出雲国には伝承が残っており、山背大兄一家が富家を頼って出雲に逃げて来たと云います。そうして出雲郡健部郷の丘に隠れ住みました。
 大兄はその丘の東に三井寺を造り修行し、その北方には一緒に来た三輪氏が大神神社を建てて住み、山背大兄一家を守った、と云うことです。

 記紀にある「乙巳の変」は、全くの虚説でした。蘇我入鹿のモデルは、石川林太郎であり、この後も死んでいないと云います。

 横暴な入鹿の死の話は、鎌足の手柄を示すために創作された話でした。
実際に、「蝦夷」や「入鹿」という人は存在しなかった、と越前蘇我国造家でも伝承されていると云います。                    』

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fomouhana.com%2F2018%2F05%2F12%2F%25e8%25ab%2587%25e5%25b1%25b1%25e7%25a5%259e%25e7%25a4%25be%25ef%25bc%259a%25e5%2585%25ab%25e9%259b%25b2%25e3%2583%258b%25e6%2595%25a3%25e3%2583%25ab%25e8%258a%25b1%25e3%2580%258069%2F




10652青面金剛:2021/01/22(金) 23:55:58
石川麻古(蘇我馬子)、石川雄正(蘇我蝦夷)、 雄正の息子「林太郎」が蘇我入鹿
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011217M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011217_2M.jpg

http://www.komainu.org/simane/izumosi/hachiman-ookami/hachiman-ookami.html



10653秦野北斗:2021/01/23(土) 09:45:24
Re: 石川麻古(蘇我馬子)、石川雄正(蘇我蝦夷)、 雄正の息子「林太郎」が蘇我入鹿
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011218M.jpg

http://www.seisaku.bz/shoki_index.html



10654秦野北斗:2021/01/24(日) 00:35:55
葦原中國の平定、豐葦原之千秋長五百秋之水穗國
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011219M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=D2UutR2lCc8



10655青面金剛:2021/01/24(日) 05:41:45
武内大田根の息子「蘇我宿祢石河」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011220M.jpg

https://omouhana.com/2018/02/15/鏡作坐天照御魂神社:八雲ニ散ル花 44/



10656秦野北斗:2021/01/24(日) 10:32:06
Re: 武内大田根の息子「蘇我宿祢石河」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011221M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/台与



10657青面金剛:2021/01/24(日) 13:02:27
浦嶋神社(宇良神社)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011222M.jpg

https://omouhana.com/2020/12/30/鵜戸神宮



10658秦野北斗:2021/01/24(日) 17:36:00
Re: 浦嶋神社(宇良神社)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011223_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝



10659青面金剛:2021/01/25(月) 01:00:11
河南町一須賀にある「壹須何神社(いちすかじんじゃ)」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011224M.jpg

https://omouhana.com/2018/03/31/伊勢神宮・外宮:斎王 04/



10660秦野北斗:2021/01/25(月) 09:22:42
Re: 河南町一須賀にある「壹須何神社(いちすかじんじゃ)」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011225M.jpg

https://omouhana.com/2018/03/31/伊勢神宮・外宮:斎王 04/



10661秦野北斗:2021/01/25(月) 09:43:07
葦原中國の平定2 湯津楓
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011226M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=4ZjOCRpl0og



10662管理人:2021/01/25(月) 23:13:01
翰苑と倭人伝
卑弥呼と台与の件ですが、やはり以前分析した翰苑に注目したいところですね。


翰苑 倭國

憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻
倭國

山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。 軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。 卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。 邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww001.upp.so-net.ne.jp%2Fdassai%2Fkannenn%2Fkannenn_mame.html


軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。という記載はどこの文献にもないんですよね。

倭人伝以外の資料から、女王のそれを引用しているはず。

馬臺に鎭し以って都を建つ。

との記載も独自の記載で別資料を元にしてますね。

馬のような背中の台地?に都を造ったとのことでしょうか。

吉野ケ里なども、海進状態にすると馬の背中のような半島の上の台地になりますよね。
平塚川添あたりもどうかな?

邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。

も倭人伝とは少し異なる解釈。

邪を倭のその女王の支配領域とみているようにも見えますね。

馬臺は邪の領域内にある地形のことか。

邪というのは倭の別名、蔑称と解釈していたのではないですかね・・・。

斯馬国は、邪馬台国の領域外の隣国と理解している。

逆に伊都国は領域内の最北端との理解ですね。

卑弥呼をあえて卑弥娥として、娥という美人の字を充てている点が重要で、つまり、卑弥呼を卑弥と呼ぶといった具合の解釈をしているんですね。だから、卑弥の娥(美人)と解釈している。

ある時期の中国人の倭人伝の解釈として、卑弥呼は卑弥と呼ぶという読み方で理解していた可能性がありますね。

それが正解なら、卑弥とか姫(ヒメ)ですかね・・・、倭人の女王の称号は。


たとえば、

倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と旧より不和である。


の部分で、卑弥呼と卑弥弓呼があり、両方に呼ぶとの動詞が加わってますよね。

つまり、卑弥と呼ばれる女王と、卑弥弓と呼ばれる男王と理解していた可能性がある。

それで、この記載ですよね。


乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國


名を日く、卑弥と呼ぶ とでも解釈すべきか。



それにしても、その一文は何か変だね。

女子の時点で王となり、それが現在、既に年老いているとの解釈が一般的だけど・・・



もっとその前後とみると次のようになりますね。



其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛



その国、本よりまた、男子(少年?)を王と為していた。往くこと七〜八十年、・・


ここで、その男の王というのが、つまり倭国王の帥升だとすると、住の字は、往くの間違いで、「その後」の意味となるかな。110年ごろから7〜80年後に至って、次の文になる。


倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王

についても、倭国は相乱れて、攻め伐すること歴年にいたり・・・すなわち、1人の女子を共に立てて王と為した。


名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國


ここの解釈も、名を曰く、卑弥と呼ぶもの?  (卑弥は)鬼道に事し、能く衆を惑わす



年は已に長大で 夫婿は無く、男弟があり、その国を佐治する。


実質的には政治は弟が行っていたとのことでしょうね。卑弥呼は祭祀王。


なんで夫+婿と同じ意味の字を並べるのかな・・、

男弟も男はなくても意味は通じるよね。


これね、婿というのは、むこ。娘の夫。「女婿」の意味で、つまり、卑弥呼の夫は既に亡くなっているものの、娘の婿がいるとの解釈にならないかな。


年已に長大にして、 夫は無くし、 ただ、娘の婿と、 男弟があり、彼らが国を佐治しているとの解釈。


そうすると、卑弥呼は結婚していて、王の后姫だったものの、先に王が亡くなり、その王位を卑弥呼が継いだとの解釈になるのかな??


孝元天皇の后の欝色謎命、これが卑弥呼で、その姪っ子の伊香色謎命、これが台与で孝元・開化天皇の后だと以前解釈したことがありましたね。

つまり、皇后欝(ウツ)色謎命
    夫人伊香(イカ)色謎命

なのですが、この伊香(イカ)が台与(臺與)と関係していて、壱興(イコウ)とある時期に解釈されたと考えたわけです。

だから卑弥呼のことを翰苑では、謎めいた女性と言っているのも、その欝(ウツ)色謎の謎の部分と鬱の部分とをかけて解釈しているわけです。


その場合、卑弥呼=欝(ウツ)色謎だとすると、卑弥呼の娘がいたことになるはずですが、これが倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)になりますね・

この女性は王にはならなかった。



そして、卑弥呼の娘婿と男弟がいるはずですが、


男弟と欝(ウツ)色謎の関係から考えていくと、同母兄に欝色雄命(穂積氏祖)がいるので、かれが政治を司っていた男弟となるでしょうか。あと気になるのが次の文章ですね。



同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視される


大水口宿禰というのが、物部氏の祖でもあり、この時代の有力者ですね。

その卑弥呼の娘婿を、倭迹迹姫命の旦那として、倭迹迹姫命をモモソヒメのことだとすると、その旦那は三輪大物主となりそうですが、三間(ミマ)君=水沼県主=水口宿祢と考えると、三間=味間=ウマシマジ=ミマキイリヒコ=崇神となる。

ともあれ祭祀男王の可能性がでてきますね。崇神の一世代前の人物か・・・。あるいは崇神か。







10663秦野北斗:2021/01/26(火) 12:07:05
Re: 翰苑と倭人伝
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011228M.jpg

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/kannenn/kannenn_mame.html



10664弓張月:2021/01/26(火) 16:08:48
Re: 翰苑と倭人伝
管理人さんへのお返事です。

チョットだけ。
大水口宿禰ですか、東海道五十三次の50番目の宿場は水口宿です。天皇系図の五十代は桓武天皇。桓武天皇の桓は「木に亘」で、亘(わた)は、上下に一を持った日。
毛利氏の紋は一文字三ッ星、渡辺氏の紋は三つ星に一文字(渡辺星)
上下合わせて一対の両目で、50(半分)+50(半分)=百の考えに至るのでしょうかね?


> 卑弥呼と台与の件ですが、やはり以前分析した翰苑に注目したいところですね。
>
>
> 翰苑 倭國
>
> 憑山負海 鎭馬臺以建都 分軄命官 統女王而列部 卑弥娥惑翻叶群情 臺與幼齒 方諧衆望 文身點面 猶稱太伯之苗 阿輩雞弥 自表天兒之稱 因禮義而標袟 即智信以命官 邪屆伊都 傍連斯馬 中元之際 紫綬之榮 景初之辰 恭文錦之獻
> 倭國
>
> 山に憑き海を負い、馬臺に鎭し以って都を建つ。 軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。 卑弥娥は惑翻(わくほん)して群情(ぐんじょう)に叶う。 臺與は幼齒にして、方(まさ)に衆望に諧(かな)う。 文身點(鯨)面し、猶(なお)太伯の苗と稱す。 阿輩雞弥は、自ら天兒の稱を表す。 禮義に因りて袟を標す。 即ち智信を以って官を命ず。 邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。 中元の際、紫綬の榮あり。 景初の辰、文錦の獻を恭ず。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww001.upp.so-net.ne.jp%2Fdassai%2Fkannenn%2Fkannenn_mame.html
>
>
> 軄を分かち官を命じ、女王に統(す)べて部を列す。という記載はどこの文献にもないんですよね。
>
> 倭人伝以外の資料から、女王のそれを引用しているはず。
>
> 馬臺に鎭し以って都を建つ。
>
> との記載も独自の記載で別資料を元にしてますね。
>
> 馬のような背中の台地?に都を造ったとのことでしょうか。
>
> 吉野ケ里なども、海進状態にすると馬の背中のような半島の上の台地になりますよね。
> 平塚川添あたりもどうかな?
>
> 邪は伊都に屆き、傍ら斯馬に連なる。
>
> も倭人伝とは少し異なる解釈。
>
> 邪を倭のその女王の支配領域とみているようにも見えますね。
>
> 馬臺は邪の領域内にある地形のことか。
>
> 邪というのは倭の別名、蔑称と解釈していたのではないですかね・・・。
>
> 斯馬国は、邪馬台国の領域外の隣国と理解している。
>
> 逆に伊都国は領域内の最北端との理解ですね。
>
> 卑弥呼をあえて卑弥娥として、娥という美人の字を充てている点が重要で、つまり、卑弥呼を卑弥と呼ぶといった具合の解釈をしているんですね。だから、卑弥の娥(美人)と解釈している。
>
> ある時期の中国人の倭人伝の解釈として、卑弥呼は卑弥と呼ぶという読み方で理解していた可能性がありますね。
>
> それが正解なら、卑弥とか姫(ヒメ)ですかね・・・、倭人の女王の称号は。
>
>
> たとえば、
>
> 倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と旧より不和である。
>
>
> の部分で、卑弥呼と卑弥弓呼があり、両方に呼ぶとの動詞が加わってますよね。
>
> つまり、卑弥と呼ばれる女王と、卑弥弓と呼ばれる男王と理解していた可能性がある。
>
> それで、この記載ですよね。
>
>
> 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
>
>
> 名を日く、卑弥と呼ぶ とでも解釈すべきか。
>
>
>
> それにしても、その一文は何か変だね。
>
> 女子の時点で王となり、それが現在、既に年老いているとの解釈が一般的だけど・・・
>
>
>
> もっとその前後とみると次のようになりますね。
>
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>
> 其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國 自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
>
>
>
> その国、本よりまた、男子(少年?)を王と為していた。往くこと七〜八十年、・・
>
>
> ここで、その男の王というのが、つまり倭国王の帥升だとすると、住の字は、往くの間違いで、「その後」の意味となるかな。110年ごろから7〜80年後に至って、次の文になる。
>
>
> 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王
>
> についても、倭国は相乱れて、攻め伐すること歴年にいたり・・・すなわち、1人の女子を共に立てて王と為した。
>
>
> 名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟 佐治國
>
>
> ここの解釈も、名を曰く、卑弥と呼ぶもの?  (卑弥は)鬼道に事し、能く衆を惑わす
>
>
>
> 年は已に長大で 夫婿は無く、男弟があり、その国を佐治する。
>
>
> 実質的には政治は弟が行っていたとのことでしょうね。卑弥呼は祭祀王。
>
>
> なんで夫+婿と同じ意味の字を並べるのかな・・、
>
> 男弟も男はなくても意味は通じるよね。
>
>
> これね、婿というのは、むこ。娘の夫。「女婿」の意味で、つまり、卑弥呼の夫は既に亡くなっているものの、娘の婿がいるとの解釈にならないかな。
>
>
> 年已に長大にして、 夫は無くし、 ただ、娘の婿と、 男弟があり、彼らが国を佐治しているとの解釈。
>
>
> そうすると、卑弥呼は結婚していて、王の后姫だったものの、先に王が亡くなり、その王位を卑弥呼が継いだとの解釈になるのかな??
>
>
> 孝元天皇の后の欝色謎命、これが卑弥呼で、その姪っ子の伊香色謎命、これが台与で孝元・開化天皇の后だと以前解釈したことがありましたね。
>
> つまり、皇后欝(ウツ)色謎命
>     夫人伊香(イカ)色謎命
>
> なのですが、この伊香(イカ)が台与(臺與)と関係していて、壱興(イコウ)とある時期に解釈されたと考えたわけです。
>
> だから卑弥呼のことを翰苑では、謎めいた女性と言っているのも、その欝(ウツ)色謎の謎の部分と鬱の部分とをかけて解釈しているわけです。
>
>
> その場合、卑弥呼=欝(ウツ)色謎だとすると、卑弥呼の娘がいたことになるはずですが、これが倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)になりますね・
>
> この女性は王にはならなかった。
>
>
>
> そして、卑弥呼の娘婿と男弟がいるはずですが、
>
>
> 男弟と欝(ウツ)色謎の関係から考えていくと、同母兄に欝色雄命(穂積氏祖)がいるので、かれが政治を司っていた男弟となるでしょうか。あと気になるのが次の文章ですね。
>
>
>
> 同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視される
>
>
> 大水口宿禰というのが、物部氏の祖でもあり、この時代の有力者ですね。
>
> その卑弥呼の娘婿を、倭迹迹姫命の旦那として、倭迹迹姫命をモモソヒメのことだとすると、その旦那は三輪大物主となりそうですが、三間(ミマ)君=水沼県主=水口宿祢と考えると、三間=味間=ウマシマジ=ミマキイリヒコ=崇神となる。
>
> ともあれ祭祀男王の可能性がでてきますね。崇神の一世代前の人物か・・・。あるいは崇神か。
>
>
>
>
>
>

10665青面金剛:2021/01/26(火) 21:14:05
宇佐神宮は豊玉姫の陵墓の上に遷宮された
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011230M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011230_2M.jpg

https://omouhana.com/2018/01/01/村屋坐弥冨都比売神社:八雲ニ散ル花 34/



10666秦野北斗:2021/01/26(火) 22:29:30
『後漢書』卷85 東夷列傳第75 訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011232M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/倭国大乱



10667管理人:2021/01/27(水) 00:14:48
倭人伝と中国皇帝
さっそく、秦野さん、弓張月さん、青面さん、お返事ありがとうございます!

弓張月さんご指摘の水口宿・・・、近江甲賀にあるようですね。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25B0%25B4%25E5%258F%25A3%25E5%25AE%25BF


水口は物部系の末裔の移動地でしょうか・・・物部系の地には岩舟信仰がありますね。

桓霊の間の桓は、ご指摘の桓武のそれでもありますね・・・。桓武のように、日本の天皇の名には中国皇帝のそれとのかかわりがあります。

青面さんご指摘のように「馬台」を九州の形状とみる見方は特に興味深く感じます!
山海経の分析でもそうでしたが、中国人が地形を動物に例えるケースがありましたからね・・・。

倭=邪の領域内にある「馬台」に都をおいたとのことになるでしょうから、この語を追求する必要があるでしょう。

またご指摘の孝安天皇ですね、、確かに倭国王の師升の可能性があります。

以前お話したように、後漢の安帝の年代になぞらえて、淡海三船は孝安天皇と名付けてますから、その安帝の年代が在位期間106年9月21日 - 125年4月30日ですから、ちょうど西暦107年に倭国王の師升が朝貢した年代と重なります。

倭国王の師升の記録を三船が知っていて、その年代が安帝の時代であることも知っているわけですが、その年代を記した書物については、後漢書を参考にしたのか、あるいは独自に伝わっていた日本の古記を参考にしたのか、ここが重要なんですね。

その倭国王の師升が、ご指摘のように、孝安の国押人の発音と関係してくるとすると面白いですね!

あと、後漢書では下記の記載となります。

安帝永初元年 冬十月倭國遣使奉獻(本紀)安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(列伝)



倭國王帥升=孝安天皇で間違いはないのですが・・・。


なお、次の孝霊天皇は、後漢の霊帝の時代、つまり168年2月17日 - 189年5月13日とみなしているわけです。この孝霊の末年あたりに卑弥呼の即位がかかわってくる・・・孝霊天皇の子として、大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)、千千速比売命、倭迹迹日百襲姫命が出てくるのですが、年代的には先の卑弥呼とみなした鬱シコメの若かりし頃の年代でもあるわけです。

次の孝元天皇の時代が、魏の第五代の元帝の時代で、260年 - 265年となり、この時代に台与が魏に朝貢してますね。

だから孝元天皇の時代を、三船は台与の朝貢の記載とともに設定したと考えるべきですが、孝元天皇の后は先のとおり鬱シコメと、その姪っ子の伊香(イカガ)シコメがいて、後者が台与(トヨ)と考えて、後代の記録の記載上では壱興(イコウ)と継承された可能性があります。

その次の開化・崇神天皇あたりの年代も、三船等は知っていた可能性があるものの、なぜか開化と、王朝交代があったような名をつけているところが重要で、春日方面の率川宮と都を移動させていく時代にあたるわけですね・・。

このようなことからも、ある時期の帝紀の撰者は正確に、古代の天皇の年代や系譜を知っていたんじゃないかな・・・とは感じてるわけですが、秦野さんのおっしゃるように、我々は数百年にわたり彼らに騙されているのですかな・・・。

10668青面金剛:2021/01/27(水) 01:27:17
宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011234M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011234_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011234_3M.jpg

https://omouhana.com/2021/01/04/宇奈岐日女神社:八雲ニ散ル花 土雲歌譚篇 00/



10669秦野北斗:2021/01/28(木) 08:38:17
Re: 宇奈岐日女神社(うなぐひめじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011235M.jpg

https://omouhana.com/2021/01/04/宇奈岐日女神社:八雲ニ散ル花 土雲歌譚篇 00/



10670秦野北斗:2021/01/28(木) 20:50:42
田道間守の読み判明
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011236M.jpg

田道間守 は、田路間守(タジマモリ)

た‐みち【田▽路/田道】
田の間の道。あぜ道。畷?(なわて)?。

路 訓 じ  外 みち・くるま
道 訓 みち 外 いう

『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」

古事記と日本書紀の意味が異なる、古事記では橘の木實、日本書紀では橘の香菓になる。
常世國(済州島)に木實、菓子のどちらを取らせに行かせた。青面金剛さんは済州島の
菓子屋に菓子を買いに行かせた、だろう。

古事記  ”木實:たちき、さね”者、”是今橘者也”。
日本書紀 ”香菓:香る菓子”。”今謂橘是也”。

古事記、垂仁天皇
又天皇、以三宅連等之?・名”多遲摩毛理”、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能”木實:たちき、さね”者、”是今橘者也”。

日本書紀、垂仁天皇
九十年春二月庚子朔、天皇命”田道間守”、遣常世國、令求非時”香菓:香る菓子”。”今謂橘是也”。

九十九年秋七月戊午朔、天皇崩於纏向宮、時年百卌?。冬十二月癸卯朔壬子、葬於菅原伏見陵。

明年春三月辛未朔壬午、田道間守至自常世國、則齎物也、非時香菓八竿八縵焉。田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則?仙祕區、俗非所臻。是以、往來之間、自經十年、豈期、獨凌峻瀾、更向本土乎。然、頼聖帝之?靈、僅得還來。今天皇既崩、不得復命、臣雖生之、亦何?矣。」乃向天皇之陵、叫哭而自死之、群臣聞皆流?也。田道間守、是三宅連之始?也。





10671管理人:2021/01/29(金) 00:09:19
宇佐
青面さん、わかちあいありがとうございます。

宇佐と豊(台与?)との関係は、安本先生あたりのお話にも出てくるようですね・・・。

物部、海部・・系譜・関連の統合も課題ですね。そこに天皇家や和爾氏の系譜なども絡んでくるのでしょう。

三角縁神獣鏡の件は、確かに枚数が多すぎるきらいがありますね。日田の鉄鏡が今年も正月早々注目を浴びているようです。

なるほど、当時の道教思想の禁制と神獣鏡製造との兼ね合いのお話は初耳で興味深いです。



10672管理人:2021/01/29(金) 01:09:03
剣山・菰野(三保山)ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011238M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011238_2M.png

https://books.google.co.jp/books?id=6IISEAAAQBAJ&amp;pg=PA17&amp;lpg=PA17&amp;dq=菰野町 三保山&source=bl&ots=FhpIp2iYcf&sig=ACfU3U10DZ5oa7NQIQAJW3kdmZGI7QPXSA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjzwZybqbzuAhVVfXAKHReuDiIQ6AEwBnoECAcQAg#v=onepage&q=菰野町 三保山&f=false



10673青面金剛:2021/01/29(金) 06:16:09
和多都美神社
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011239M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011239_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011239_3M.jpg

https://omouhana.com/2017/08/10/和多都美神社〜神功皇后紀 25-5外伝/



10674秦野北斗:2021/01/29(金) 09:35:17
倭国大乱
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011240M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=GRWP048GBPk



10675弓張月:2021/01/29(金) 11:19:22
Re: 倭人伝と中国皇帝
管理人さんへのお返事です。

五十代天皇は、桓武天皇 に続いてこれダジャレ

あるブログに、  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fgold.mmc.co.jp%2Ftoshima_t%2F2021%2F01%2F3191.html

「さて、今日の原稿ではネズミ小僧を例えとして使ったが、若い読者は知らないかもね。セミナーで語った時、若い参加者がポカンとしていた。まぁ私は私でAKB48或いは乃木坂46と言われ???ということも。AKO47なら知ってるよ。忠臣蔵、赤穂47士。となると若い人は何のこと???(笑)。」と。

四十七代天皇は淳仁天皇で、  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25B7%25B3%25E4%25BB%2581%25E5%25A4%25A9%25E7%259A%2587
漢風諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれるが、歴代に加えた史書も存在する。諱は大炊(おおい)。
天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻老の娘・当麻山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。
756年に没した聖武天皇の遺言によって新田部親王の子の道祖王が立太子したが、天平勝宝9年3月29日(757年4月22日)に孝謙天皇によって道祖王は廃され、4日後の同年4月4日(4月26日)、光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により大炊王が立太子した。 と書かれています。
当麻山背ですと、山背大兄王や東北地方に冷害をもたらす「やませ」を連想しますね?
やませ=偏東風(山背)とは、北日本の(主に東北地方)太平洋側で春から夏(6月〜8月)に吹く冷たく湿った東よりの風のこと。

寒流の親潮の上を吹き渡ってくるため冷たく、水稲を中心に農産物の生育と経済活動に大きな影響を与える。やませが続いた場合、太平洋側沿岸地域では最高気温が20℃程度を越えない日が続く。 とのことですね。
東北地方でも、陸奥国のあたりですね。
そこで、この陸奥国の「奥」は古代史上、『古事記』では別名を奥津島比売命(おきつしまひめのみこと)を連想します。また、御岩神社(茨城県日立市)から東には、神峰神社と小木津駅、そして、澳津説神社  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Fkappa1959%2Fentry-12050602182.html
ちょっと、北に進むと蚕養(こがい)神社  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fibamemo.com%2F2019%2F06%2F15%2Fkogai%2F
養蚕業の養蚕が「ようさん」なのは「陽産」なので、「日立ち市」が出来たのでしょうね?
前年行われた茨城国体では、どこでの競技をご覧になるのかとおもっていたら、日立市池の川体育館の卓球だったこと。前にお話しした、消防出そめ式でよく目にする、くるくる回している物に日立市は天皇家の菊の紋になっています。やっぱり、歴史は続いているようですね。
AKB48或いは乃木坂46も女性グループです。これもやっぱり、人間は何かを考えるとき、歴史に学ぶのでしょうか?



> さっそく、秦野さん、弓張月さん、青面さん、お返事ありがとうございます!
>
> 弓張月さんご指摘の水口宿・・・、近江甲賀にあるようですね。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25B0%25B4%25E5%258F%25A3%25E5%25AE%25BF
>
>
> 水口は物部系の末裔の移動地でしょうか・・・物部系の地には岩舟信仰がありますね。
>
> 桓霊の間の桓は、ご指摘の桓武のそれでもありますね・・・。桓武のように、日本の天皇の名には中国皇帝のそれとのかかわりがあります。
>
>

10676青面金剛:2021/01/30(土) 09:24:56
左手宮(さでみや)八幡神社
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011242M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011242_2M.jpg

http://awa-otoko.hatenablog.com/entry/2016/09/04/213817



10677秦野北斗:2021/01/30(土) 09:31:37
Re: 和多都美神社
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011243M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=FuEjONKb3fQ



10678青面金剛:2021/01/30(土) 12:26:06
徐福と共に来た秦族は、中国の秦に亡ぼされた「斉」の国の子孫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011244M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011244_2M.jpg

https://omouhana.com/2017/08/12/島大國魂神社:八雲ノ王 03/



10679弓張月:2021/01/30(土) 13:04:57
前回、続き
忠臣蔵、赤穂47士の事件は、四十七代天皇は淳仁天皇と四十六代孝謙(=貢献)天皇・四十八代称徳(=聖徳)天皇の延長戦で、舒明(=除名)天皇=蘇我蝦夷と皇極・斉明天皇の時代の泥沼からでしょう?皇極・斉明天皇の諱は寶女王ですね。寶(たから)は高良で、皇極の「皇(こう」は「光」になりますか?
さて、前にも書きましたが茨城県東茨城郡城里町にある御前山には、「弓削道鏡を愛し、重用していた孝謙天皇が、失脚して下野国の薬師寺別当に左遷された道鏡を追って御前山に移り住み、その「御前様が住んだ山」から、この地名がついたと言われており、「皇都川」と呼ばれるのもこの由縁で、上伊勢畑には天皇所在の後と伝えられる場所もあるといわれるなど、このなぞを秘めたロマンスは、今なお伝えられています。山頂付近には、庚辰2年(1220)に菅原時房が築いたといわれる御前山城跡があり、堀、土塁、馬場、鐘つき堂などの跡が見られます。」の伝承があります。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww7b.biglobe.ne.jp%2F%7Enoasobi%2Fbio12.html
この御前山の不思議は、旧:茨城県東茨城郡御前山村(茨城県常陸大宮市)でなく、旧:茨城県東茨城郡桂村(茨城県東茨城郡城里町)にあることです。そして、御前山は、真弓神社・馬場八幡宮と埴科古墳群の東西ライン上でしたね。
御前山に孝謙・称徳天皇(訂正しました)に係る伝承があり、真弓神社・馬場八幡宮と埴科古墳群の東西ライン上であると言うことは?と思い調べたら、面白いレイラインがありますね。それは次回とします。


10680弓張月:2021/01/30(土) 14:46:30
前回、続き(書き忘れ)
皇極・斉明天皇の諱は寶女王ですね。寶(たから)は高良で、
高良の「良」は、カタカナの「ラ」のようですね。となると、イメージは良=ラーですか?
「良」からは、吉・義・葦(よし,あし)。「よしあし(良し悪し)」は反対語ですから、両面宿儺(りょうめんすくな)。「すくな」は、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)を連想。不思議と並びます。
西洋柊は、「冬になる赤い実が美しく、クリスマスの装飾の定番としても使われる。英語名からホーリー(Holly)とも呼ばれるが、Hollyはモチノキ属の総称としても使われるので、区別するためにEuropean holly、English hollyともいう。」
面白いのは徳川家の葵の紋の「葵」で、水戸ホーリーホックの(英語: Mito HollyHock)クラブ名の「ホーリーホック (HollyHock)」は英語で「葵(タチアオイ)」を意味し、水戸藩(水戸徳川家)の家紋の葵 から採られた。とあります。じゃあ、「Hock」の意味を調べると、 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdictionary.goo.ne.jp%2Fword%2Fen%2Fhock%2F
1飛節,後脚くるぶし関節(◇ブタなどの後脚の球節の上の関節;その肉)
2鶏のひざ    だそうです。
まさしく、葦を=足と考えると、両刀使いが可能ですね。 賀茂(かも)も、茂(も)=毛(け)とすると、かげ(影・蔭)です。


10681秦野北斗:2021/01/30(土) 18:55:54
Re: 徐福と共に来た秦族は、中国の秦に亡ぼされた「斉」の国の子孫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011247M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

> 『 徐福は最初の来日で出雲西岸に上陸し、「火明」(ホアカリ)と名乗りました。
> この時徐福は2000人の童男童女を連れて来たとありますが、その先行部隊に出雲国造の祖「天穂日」(アメノホヒ)とその息子「武夷鳥」(タケヒナドリ)がいました。

徐福は2000人の童男童女を連れて来たとありますが、?
佐賀では3000人、陳舜臣(ちん しゅんしん、1924年2月18日 - 2015年1月21日)も3000人ですが・・・

>、唐突に秦国へ帰国してしまいます。はて、古事記には、徐福は伊邪那岐神に改名され、神に成ってるぞ、

伊邪那岐の意味は、
伊は、秦国は始皇帝の名字、国名でないんだ、国名は伊になる。
邪は、徐福の出身地名、秦の方士。斉国の琅邪郡(現在の山東省臨沂市周辺)。
那は、ともの意味
岐は、別れる、始皇帝の命ですな、

邪馬台国の邪は琅邪郡の邪になる、徐福は韓国で死んでいる。
ところで、アマテラス、スサノウ、ツキヨミは誰の子供か知ってるか、始皇帝の子供だ

どおせ、本居宣長の世界だろう、神社の神は理解できないから存在は追及しない・・・
云い放題なんだな、99%は創作

>
>  徐福は8代出雲王「大国主・八千戈王」の娘「高照姫」(タカテルヒメ)を妻にもらい受けます。高照姫は徐福の子、「五十猛」を儲け、徐福はしばし穏やかな日々を過ごしますが、唐突に秦国へ帰国してしまいます。
>
>  スサノオはソシモリへ向かう途中に対馬を通ったとありますが、実際は秦国へ帰国する途上で立ち寄ったものと思われます。
>  始皇帝に謁見した徐福は、一度は嬴政の機嫌を損ねるも、言葉巧みに説得し、再び多くの童男童女や工人らを引き連れて日本へやってきます。
>  二度目の上陸地は九州の佐賀平野でした。彼はそこに集落を拓き、そして二度と秦国へ帰ることなく、吉野ヶ里の里で寿命を全うしたと云います。
>




10682青面金剛:2021/01/30(土) 21:51:50
Re: 徐福と共に来た秦族は、中国の秦に亡ぼされた「斉」の国の子孫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011248M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> > 『 徐福は最初の来日で出雲西岸に上陸し、「火明」(ホアカリ)と名乗りました。
> > この時徐福は2000人の童男童女を連れて来たとありますが、〜。』
> 徐福は2000人の童男童女を連れて来たとありますが、?
> 佐賀では3000人、陳舜臣(ちん しゅんしん、1924年2月18日 - 2015年1月21日)も3000人ですが・・・

★ 陳舜臣は、「徐福が出雲西岸に上陸した時に、2000人の童男童女を連れて来た」事には、異論を言ってない訳ですな。こちらが書いて居ない部分については、「補足して、説明しますが、〜。」で始めなさい。

> >、唐突に秦国へ帰国してしまいます。
>はて、古事記には、徐福は伊邪那岐神に改名され、神に成ってるぞ、

★ 秦野さんは「徐福は秦国へ帰国してない。」との新説を立てたいのか?論旨が不明瞭です。

> 邪馬台国の邪は琅邪郡の邪になる、徐福は韓国で死んでいる。

★ エピデンスの論文・報道解説を示せ。

> ところで、アマテラス、スサノウ、ツキヨミは誰の子供か知ってるか、始皇帝の子供だ
>> どおせ、本居宣長の世界だろう、

★ その三貴神の画像にある系譜とは、違う系譜を、こちらが繰り返し言及している。相手が説明した部分と、言っていない部分とを、明瞭に分けて書きなさい。

>不老不死の薬、富士山(この名前は蓬莱山に因む)これ捏造なの、

★ ヨモギは、悪性腫瘍を治す良薬、アカザも胃腸薬、喉の炎症、虫刺され、歯痛、等に効く良薬。朱は殺菌・防腐剤。
 説明が長くなるので、短く「不老不死の薬」と訳しても、誤訳とは言えない。

 秦野さんは、「徐福は三河〜伊豆〜武蔵の地には来ていない」、との新説を立てたいのか?
言葉足らずの超短文では、論旨不明です。


☆ 神魂神社(島根県松江市大庭町563)には、物部氏の祖であるスサノオ・徐福の御神体は鉄の釜であると伝わります。毎年12月13日には御釜神事(おかましんじ)が斎行されています。
 伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)を主祭神とし、伊弉諾大神(いざなきのおおかみ)を合祀しています。

『 お釜神事は、アメノホヒがお釜に乗って天下ったとされることに因んで行われています。
 神事は、笛・太鼓の音色にそって、神職が社殿に入って始まります。
  神職の中には、ひときわきらびやかな衣装をまとった女性があり、主役級の役割を演じます。
 社殿には、収穫された野菜など多くのお供え物があり、順次、高層の本殿へと運び込まれていきました。 開けられた戸口には、極彩色の壁画が描かれていました。
 神事の進行に伴って、本殿からお供え物が下におろされ、最後に関係者が玉串を捧げ神事を終えます。         』




10683秦野北斗:2021/01/30(土) 23:33:56
Re: 徐福と共に来た秦族は、中国の秦に亡ぼされた「斉」の国の子孫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011249M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

>  説明が長くなるので、短く「不老不死の薬」と訳しても、誤訳とは言えない。

不老不死の薬、富士山(この名前は蓬莱山に因む)これ捏造なの、二つ並べたのよ。

翻訳しましょう、

曰:「願請延年、益壽藥。」、

訳、願いを請け延べる年(年は族名)は言う、益す壽(ことぶき)が藥。
  始皇帝は、めでたいこと、ここでは、日本が降伏し、領地が増えました。
  全部始皇帝様の力です、お祝いします。これが薬なんです。
壽?ことぶき。ことほぐ。めでたいことを祝う。

神曰:「汝秦王之禮薄得觀而不得取。」即從臣東南至蓬萊山、見芝成宮闕、

訳、汝の秦王これ禮薄(書付)を宛てる示すに、ない宛てを取る(徐福)。即ち、従う臣は
東南に到る蓬(ヨモギ)、萊(アカザ)、山が見える、湊(みなと)成す宮を駆ける。

「不老不死の薬」誤訳ですな。本居宣長も年(年は族名)と知らず、訳している

死亡日: 1801年、からすると220年ですな、

本居宣長を信じたのに、全部、振り出しです。大化の改新は百済の歴史ですよ。


>
> >不老不死の薬、富士山(この名前は蓬莱山に因む)これ捏造なの、
>
> ★ ヨモギは、悪性腫瘍を治す良薬、アカザも胃腸薬、喉の炎症、虫刺され、歯痛、等に効く良薬。朱は殺菌・防腐剤。
>  説明が長くなるので、短く「不老不死の薬」と訳しても、誤訳とは言えない。
>
>  秦野さんは、「徐福は三河〜伊豆〜武蔵の地には来ていない」、との新説を立てたいのか?
> 言葉足らずの超短文では、論旨不明です。
>
>
> ☆ 神魂神社(島根県松江市大庭町563)には、物部氏の祖であるスサノオ・徐福の御神体は鉄の釜であると伝わります。毎年12月13日には御釜神事(おかましんじ)が斎行されています。
>  伊弉冊大神(いざなみのおおかみ)を主祭神とし、伊弉諾大神(いざなきのおおかみ)を合祀しています。
>
> 『 お釜神事は、アメノホヒがお釜に乗って天下ったとされることに因んで行われています。
>  神事は、笛・太鼓の音色にそって、神職が社殿に入って始まります。
>   神職の中には、ひときわきらびやかな衣装をまとった女性があり、主役級の役割を演じます。
>  社殿には、収穫された野菜など多くのお供え物があり、順次、高層の本殿へと運び込まれていきました。 開けられた戸口には、極彩色の壁画が描かれていました。
>  神事の進行に伴って、本殿からお供え物が下におろされ、最後に関係者が玉串を捧げ神事を終えます。         』
>



10684秦野北斗:2021/01/31(日) 09:35:08
公租康の進行 196〜220年
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011250M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=IyC1bL3Ncq4



10685青面金剛:2021/02/10(水) 02:52:31
Re: 徐福と共に来た秦族は、中国の秦に亡ぼされた「斉」の国の子孫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011251M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011251_2M.jpg

https://omouhana.com/2017/11/15/五十猛神社:八雲ニ散ル花 20/



10686妄想探偵: 平 素人:2021/02/10(水) 07:18:26
「不老不死」のくすりについて、
http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-13.html

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



10687秦野北斗:2021/02/11(木) 01:30:18
Re: 徐福と共に来た秦族は、中国の秦に亡ぼされた「斉」の国の子孫
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011253M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=XaEQDEo5Qlk



10688秦野北斗:2021/02/11(木) 02:18:44
崇神天皇2 美和
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011254M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=O8YehcdQ5cU



10689秦野北斗:2021/02/11(木) 04:06:16
Re: 「不老不死」のくすりについて、
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011255M.jpg

https://ja.wiktionary.org/wiki/



10690青面金剛:2021/02/11(木) 04:57:51
阿吾神社 ( あごじんじゃ )
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011256M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011256_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011256_3M.jpg

https://ameblo.jp/fudasyosanpai/entry-12481542265.html



10691秦野北斗:2021/02/11(木) 09:09:54
Re: 阿吾神社 ( あごじんじゃ )
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011257M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/延岡市



10692想像探偵: 平 素人:2021/02/20(土) 00:48:16
Re: 「不老不死」のくすりについて、
秦野北斗さまへのお返事です。

ご教示ありがとう御座いました.。
当方のは、歴史ちょろっとかじりで大部分が想像です^^!。
その後の<徐福>と<徐福たち>が、日本史に与えた影響については興味深く拝読中です、、、

それから、歴史とはまったく他事で恐縮なのですが・・・^^!、
御文はレベルが高くてわたしには完読できませんが、ご記事の挿絵は何方が作者なのでしょうか。当を得た画があげられているし、又その絵に描かれている人達は他でも多く見かけるのでわたしには「だれが?」との思いがあり不思議でなりません。それから、動物をつかったお写真は絶妙^^。これも又「どのようにして撮影か?」との想いを馳せています・・・、「老人の皮を被った漫画世代の少年」より、


http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



10693秦野北斗:2021/02/21(日) 01:15:17
Re: 「不老不死」のくすりについて、
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011259M.jpg

想像探偵: 平 素人さんへのお返事です。

> 御文はレベルが高くてわたしには完読できませんが
知らないことが多すぎるでしょうな、複数の文章、古事記、万葉集、中国史籍の訳文の突合せです。
それと遺跡と実測の突合せです。欠点は見えすぎることです、

例、忠臣蔵は天皇が絡む、これにも徐福、戦国時代の後始末なんです。本能寺の変と忠臣蔵が関係します。

興味深く、面白いのが、本能寺の変で、正親町天皇、織田信長の仲間割れなんですな、
計画は正親町天皇です、部下の光秀がチヨンボし、秀吉は正親町天皇の皇位に制限、徳川家康の秀吉同様
(本能寺の変で命を狙われる)制限、秦野は本能寺の変の計画書を翻訳しました、皆さん興味がないようです。
古事記、万葉集、中国史籍には欠落字も多少あります。注意して下さい。


>
>??ご教示ありがとう御座いました.。
> 当方のは、歴史ちょろっとかじりで大部分が想像です^^!。
> その後の<徐福>と<徐福たち>が、日本史に与えた影響については興味深く拝読中です、、、
>
> それから、歴史とはまったく他事で恐縮なのですが・・・^^!、
> 御文はレベルが高くてわたしには完読できませんが、ご記事の挿絵は何方が作者なのでしょうか。当を得た画があげられているし、又その絵に描かれている人達は他でも多く見かけるのでわたしには「だれが?」との思いがあり不思議でなりません。それから、動物をつかったお写真は絶妙^^。これも又「どよようにして撮影か?」との想いを馳せています・・・、「老人の皮を被った漫画世代の少年」より、
>



10694秦野北斗:2021/03/03(水) 00:34:00
三角縁神獣鏡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011260M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=VHTQ0eKt-5g



10695管理人:2021/02/04(木) 00:03:59
Re: 倭人伝と中国
ヒートショック??で救急搬送されて、しばし静養してました。

弓張月さん、お返事ありがとうございます


>
> 四十七代天皇は淳仁天皇で、  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25B7%25B3%25E4%25BB%2581%25E5%25A4%25A9%25E7%259A%2587
> 漢風諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれるが、歴代に加えた史書も存在する。諱は大炊(おおい)。



淳仁天皇については、あまり調べたことはなかったですね・・・


敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていたが、『新唐書』日本伝では「大炊」、『宋史』日本伝では「天炊天皇」と記されて歴代に加えられている。これは10世紀に宋に渡った僧・奝然が伝えた『王年代紀』を参照したものである。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25B7%25B3%25E4%25BB%2581%25E5%25A4%25A9%25E7%259A%2587


どうして、この僧は天皇とみなしていたんだろう・・


奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』が『宋史』日本伝に収録されている。また『新唐書』日本伝も、史料名は示されていないが『王年代紀』を参照したと考えられている。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A5%259D%25E7%2584%25B6


『王年代紀』って何だろう・・・、現存の記紀のそれより古い天皇系譜を残していた可能性がないだろうか。確か、そう、唐書の天皇名はあきらかに現存の記紀の天皇名と異なっていて古い可能性を以前考えたことがありましたね。この『王年代紀』をもとにしていたのか・・・。

『王年代紀』について調べている人がいるね・・・



984年、日本国の僧〓然(ちょうねん)が宋の太宗に「王年代紀」を献上した。平安時代の東大寺に伝わっていたようだが、現在は失われ、中国の「宋史日本国伝」に残されていた。記紀と異なり「初めの主は天御中主(あめのみなかぬし)と号す。次は天村雲尊(あめのむらくものみこと)と曰う、其の後は皆尊(みこと)を以て号と為す」として、天八重雲(あめのやえくも)、伊弉諾(いざなぎ)、素戔烏(すさのお)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、正哉吾勝速日天押穂耳(まさかあかつはやひあめのおしほみみ)、天彦(あまつひこ)、彦瀲(ひこなぎさ)など21人の尊を連ね、「凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮(ひむかしのみや)に都す。彦瀲の第四子を神武天皇と号す」と記している。大胆に「万世一系」の系譜と、神武に直結する二十三世の王(神)が記されている。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fhorubai.jp%2Fcontent%2Fnnp_news%2F132



もっとこの書について調べたいところです。

10696管理人:2021/02/04(木) 00:17:55
Re: 左手宮(さでみや)八幡神社
青面金剛さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > 剣山を起点に30度偏角で、剣山⇔高尾山⇔春日(三笠山)⇔菰野(三保山)⇔名古屋城へと伸びるラインです。
> > 曽根遺跡あたりもかすめてますし、淡路島の南辺あたりもかすべて行く・・・。
> > 全体的に弥生時代の物部系のラインの上に、後代の秦・忌部氏系の伊勢・松尾といった要素が加わっていく中で、菰野(三保山)といった地が聖地とされていったのではないでしょうか。
> > そこにさらに春日・中臣の要素も関係しているようにも見えますね。
>
> ☆ 阿波国の北半分(吉野川・鮎喰川流域)は忌部氏の担当する領域で、南半分(那賀側流域)は中臣氏の担当域です。
>


そうですね、徳島方面は忌部神社などが多くありますしね・・。


> ☆ ライン上に神山町が在ります。古代の神山では、スサノウの事を「青鬼」と呼び、大山杭神の事を「福の神」と呼んでいたそうです。節分の起源は此処からきています。
>
>  松尾神社( 徳島県名西郡神山町阿野字 福原525?1)祭神:大山杭神。
>
>  鬼籠野(おのろ)神社( 徳島県名西郡神山町鬼篭野字東分2-2 )
>
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fawa-otoko.hatenablog.com%2Fentry%2F2016%2F09%2F04%2F213817
>


節分とかかわるとは・・・驚きですね。



> ☆ 鮎喰川の上流沿いに、サウスポーの神様として、テレビで時々、紹介されます、『左手宮(さでみや)八幡神社??通称 あさみやはん(名西郡神山町阿野字宮文728)
> 』
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fawa-jinjacho.jp%2Fshrine%2Fdetail.html%3Fid%3D801
>
>  は、アマテラスが左利きだった事を伝えていますが、祭神からは外されています。
> (祭神:応神天皇、神功天皇、高良大神、式内宿彌公、大山祗神、大御中主神、素盞鳴命)。
>  天照神の化身を意味するクジラ石が置かれています。スサノウ神は下の天王神社に祀られています。(スサノウ神の海亀、天照神はクジラ、神功皇后はシャチ)。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Ftokushimazyumoku.la.coocan.jp%2Fshrine-temple%2Fkamiyama-sadenomiya-shrine%2Fsadenomiya-shrine.html
>


スサノオの話は、先日お話した契丹古伝の解読のように、新羅、もしくはそれ以前の辰韓や秦韓の伝承だと思うんですね。秦氏の渡来とも関係しているでしょうし、それ以前の天孫降臨のそれでももたらされていたでしょう。一部は秦王国あたりから対岸の四国北部へ移動したのかな・・・。秦・蘇我氏と祭祀家の忌部とのつながりは深そうです。




> ☆ 徐福(饒速日・スサノウ)の妃は、「宗像三女神」(むなかたさんじょじん)の三女の「市杵島姫命」(イチキシマヒメノミコト)。記紀の編纂後に、後付けで、アマテラスと名付けられた、と思われます。
>  元々は、出雲の「神奈日山」を拝む太陽信仰でしたから、記紀の唱える太陽信仰とは、大きなズレが有ります。
>  徐福は支那秦国の道教の方士でしたので、神山町内には、「妙見宮」「妙見神社」が沢山あります。徐福は後の「大和への東遷」の為に、阿波の地を、前哨・兵站の要として、拠点を置いた、と言えます。
>


徐福伝承ですか・・・。秦のそうですが、それ以前からすでに戦国時代には山海経に描かれているように、南西諸島や日本列島への亡命移民の伝承があったはずですから、弥生時代初期、あるいは縄文時代末期あたりの中国系、特に西方遊牧民系の移民の名残を探す必要があるでしょうか・・・。神ナビ信仰とか神社の神殿構造ですね。ワイ人と関係する。



>  地元の郷土史家の説明では、
> 『 江戸の中期に蜂須賀藩主は、左手宮八幡神社の上の山手に湯宮神社があった、と記録がある(湯の玉神社か湯の丸神社?)』。ユダヤを彷彿させます。
> 〔 左手宮(さでみや)八幡神社は、江戸時代以前に、北北東・約1キロ『二ノ宮八幡神社』の地に在ったそうです。〕
>  その元の地の北北西への稜線上に、「ソロモンの秘宝」が眠っているのでしょうか。ドローンを飛ばすには、絶好の景勝地らしいです。
>


そうですね、神殿なりが、いわゆる方位ライン上にあることは確かでしょう。彼らの考え方を理解すれば、そこを掘るのが必然です!


10697想像探偵: 平 素人:2021/02/04(木) 09:58:35
Re: 倭人伝と中国
 管理人さまへのお返事です。

> ヒートショック??で救急搬送されて、しばし静養してました。
>

それは大変!! 気温が一日のうちでも大きくかわるこの時期、どうぞおだいじに・・


http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



10698管理人:2021/02/04(木) 23:09:44
Re: 倭人伝と中国
想像探偵: 平 素人さんへのお返事です。

>  管理人さまへのお返事です。
>
> > ヒートショック??で救急搬送されて、しばし静養してました。
> >
>
> それは大変!! 気温が一日のうちでも大きくかわるこの時期、どうぞおだいじに・・
>

平さん、ご心配ありがとうございます。また科学史掲示板のほうもおいおいお邪魔します!



10699管理人:2021/02/04(木) 23:28:28
アラハバキ
ちょっと、アラハバキ神について調べはじめてます。ウィキには下記のようにありますね・・・



起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。

荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。

『東日流外三郡誌」では遮光器土偶が荒脛巾神の姿とされるが、『東日流外三郡誌』は偽書であるため実際の姿とは異な

武内裕/縄文神説

縄文時代に信仰されていた神とする説。『東日流外三郡誌』を独自に援用した武内裕が70年代に唱えたのが最初である。

吉野裕子/蛇神説

吉野裕子の、かつての日本の、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説。

吉野によれば、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。

伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(土用にあたる)の「巳の刻」に行われるという。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」として、蛇と深い関わりがあるとする[2]。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。

氷川神社との関係
「氷川神社」を参照

荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社でも見られる。この摂社は「門客人神社」(氷川神社#摂社参照)と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである[7]。これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説[8]もある。

一方アラハバキを客人神として祀る神社は武蔵を始め、三河、出雲、伊予にも点在するため、武蔵先住の神と見ることはできない。出雲の佐太神社や出雲大社は出雲国造と、伊予は小市国造・風速国造と、三河は三川蘰連と、氷川神社は武蔵国造とそれぞれ関連し、これら諸氏はいずれも製鉄氏族の物部氏と同族であった。陸奥にある丹内山神社は、神体がアラハバキ大神の巨石(胎内石)という巨石とされ、当地の物部氏が関与したと伝わる[9]。

この大宮を中心とする氷川神社群(氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっているとみる説もある[誰?]。氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない[要出典]。

四天王寺との関係

聖徳太子が、物部守屋との仏教受容をめぐる戦いを制して、日本初の大寺である大阪市の四天王寺を建てたが、この四天王寺について、アラハバキ及び縄文系との関わりを指摘する者もいる[誰?]。

四天王寺の敷地の元来の地名は「荒墓邑」(あらはかむら)である。四天王寺の北側に磐船神社(饒速日命の降臨地)が元々あったとされ、物部氏は饒速日命を始祖とする一族であるから、この四天王寺の地は本来、物部発祥の聖地であったという説もある[要出典]。
砥鹿神社

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2582%25A2%25E3%2583%25A9%25E3%2583%258F%25E3%2583%2590%25E3%2582%25AD

こちらのサイトのほうが詳しく調べてくれてますね。



近江雅和氏は、弥生時代前後に始まる古代製鉄の存在を追っているうちに、アラハバキ神という謎の信仰にぶつかったという。
近江氏は、アラハバキが西日本では「大元尊神」とよばれることがあることに注目する。

この大元尊神とは、古代インドの一種族の土俗信仰であった鬼神ないしは夜叉である「アーラヴァカ・ヤクシャ」の漢訳である。
芦田献之氏は、このアーラヴァカ・ヤクシャについて次のように述べている。

「古代インドの一種族の土俗信仰であった鬼神ないしは夜叉であるアーラヴァカ・ヤクシャは、仏教に取入れられると強力な仏法の守護神となり、紀元前三世紀の原始仏教経典『スッタ・ニパー夕』や『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』に説かれるようになった。
五世紀になるとインドでは密教がさかんになり、土俗信仰をはじめとして、ヒンズー教の神々も受けいれて、高度に教理化された密教仏典が成立した。」

このときアーラヴァカ・ヤクシャは梵語名でアータヴァカ・ヤツカと呼ばれて仏法守護神の明王部に入れられた。

東晋の時代になるとインドや西域の密教僧による訳経が行なわれるようになり、「アータヴァカ.ヤクシャ」は「阿臈鬼(あらき)」「褐陀披鬼(わたばき)」「アタバクダイヤシャ」と漢字で音写されている。

七、八世紀の唐代になると、中国に密教がもたらされ、密教経典の訳出が行われた。
この時代になるともはや音写ではなく、義訳による漢訳経典が現れて、「大元帥」の形になっていく。
そして、道教と習合し「大元帥明王法(たいげんみょうおうほう)」という皇帝独占の国家鎮護の秘法が形成される。

大元尊神の原点である「アーラヴァカ・ヤクシャ」を信仰した古代インドの種族は、「アーラヴィー」(林住族)である。
この「アーラヴィー」は、南アラビアからインドに入って住み着いた一団であり、その後、アーリア系の侵入で森林曠野に住んでいたことが、紀元前三世紀のインド・マウリヤ王朝の宰相カウテリャの著書『実利論』に記されていると近江氏は指摘する。
このことから、アラハバキ信仰の原点が南アラビア地方にあるという。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.fafner.biz%2Fact9_new%2Ffan%2Freport%2Fai%2Fryuh%2Farahabaki.htm


巨石信仰と関係してそうですね。弥生初期のインド系の支石墓とか、縄文環状列石、あるいは旧石器時代の巨石のそれともかかわるのか・・・。福島のほうに、そういえば田村大元帥社があったな・・・中世の蝦夷との交易の影響も考慮すべきなのか・・・



10700弓張月:2021/02/05(金) 16:03:23
前回、続き
真弓神社・馬場八幡宮と埴科古墳群の東西ライン上の御前山ですが、
御前山県立自然公園は、那珂川大橋を望む光景が京都の嵐山と重なることから、「関東の嵐山」と呼ばれています。関東ふれあいの道沿いにあるケヤキ林は、これからの紅葉シーズンには鮮やかに色づき、美しい光景に。秋が深まるにつれ、ますます優美な姿を披露してくれます。 とのこと。
そして、京都の嵐山と言えば秦氏。

さて、前回の続き。茨城県東茨城郡城里町(旧 桂村)の位置は、ちょっと東に違和感があります。もし、東にしたかっとすると、「ひがし(東)」は、=比嘉(日下)氏を意識したのかも?
そして、城里町には岩船神社 北緯36度31分1.25秒 (ただし、ご祭神は、鳥之石楠船神(別名、天鳥船神)),高根山大山寺 北緯36度31分7.26秒 ,阿波山上神社 ご祭神は、少彦名命 (別名、降木明神」)北緯36度31分9秒 がオリオン三ッ星のように並んでいます。日立市の澳津説神社,神峰神社,御岩神社も同じく並んでいます。
御岩神社のある日立市入四間町の「入四間(いりしけん)」は、=入り四見(剣)の藤原四家かも?そして、四家は、=鹿? 御岩山神社全体で188柱の神が祭られている。とは、四国霊場八十八,八十八夜,明治神宮の三の鳥居の88度と秩父三十四観音霊場と西国33ケ所、坂東33ケ所とともに日本百観音霊場。よって、188柱の神でしょう。
本題に戻って、城里町のこの社寺は、日立市水木町の泉神社 ご祭神は、天速玉姫命 北緯36度31分6.79秒と東西のレイライン上です。境内にある湧泉は『常陸国風土記』に「密筑の里の大井」として記述がある。
そして、レイラインの続きで、高根山大山寺と御前山が辰巳と戌亥の45度のレイラインになっていて、 不思議なことに、この間に白山神社  /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.komainu.org%2Fibaraki%2Fhigasiibaragi%2FHakusanGozenyama%2Fhakusan.html
白山神社のご祭神は菊理媛命でしょうから、やっぱり、「ククリ」は、九十九里=白里≒城里」となりますか。また、金精神社とは、「栃木県日光市と群馬県利根郡片品村の境にある金精峠に鎮座する金精神社の由来によれば、「生きた金精様」といわれていた弓削道鏡の巨根にある。とのこと。「栃木県日光市と群馬県利根郡片品村の境の峠」となれば、この境は、「山の上半分と下半分」の意味でしょうか?
少彦名命は、『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされ、系図史料には天湯河桁命の子とされる。 まさしく、両面宿儺ですね?
結局、祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。
「真の古代史にたどり着くのは大変難しい」と言うことですね。


10701弓張月:2021/02/05(金) 16:59:12
Re: アラハバキ
管理人さんへのお返事です。

アラハバキ神は、北海道に住む「ヒグマ」で琵琶湖の「琵」でしょう。「ツキノワグマ」は、琵琶湖の「琶」で三つ巴ではと? 日高見は、ヒダ神でしょうから、樋熊・日熊さん,樋本さん,樋上さん

> ちょっと、アラハバキ神について調べはじめてます。ウィキには下記のようにありますね・・・
>
>
>
>

10702秦野北斗:2021/02/05(金) 19:21:46
卑彌呼
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011268M.jpg

http://www.inoues.net/nyumon/wa12.html



10703青面金剛:2021/02/06(土) 00:14:12
Re: アラハバキ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011269M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011269_2M.jpg

https://www.genbu.net/data/houki/hahaki_title.htm



10704秦野北斗:2021/02/06(土) 00:45:18
Re: アラハバキ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011270_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/新垣



10705管理人:2021/02/06(土) 01:59:33
アラハバキ神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011271M.png

https://ameblo.jp/dr-hirokon/entry-11498555303.html



10706想像探偵: 平 素人:2021/02/06(土) 03:10:55
Re: アラハバキ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011272M.jpg

 管理人さまへのお返事です。こんばんわ^^ 科学史掲示板のほうから来ました。

> ちょっと、アラハバキ神について調べはじめてます。ウィキには下記のようにありますね・・・
> 起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。

「アラハバキ神」はじめて知りました。
南北海道、東北地方あたりを源とする神(?)なのかな~~?。であれば、私たちが〇〇している「4,000年前の東北大事変」に、関係ありそうですね^^! ご記事の気になるところをピックアップして想うことを述べたいと思います。

> 荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。
> 武内裕/縄文神説 縄文時代に信仰されていた神とする説。

 卑弥呼より400年?ほど前の縄文代に、大陸から徐福<集団>がやって来ました。大陸人は「4,000前、大陸までとどいた巨大津波によって良渚文明を滅ぼされています(岩淵先生)」 この事から神仙思想が生まれました。当時の列島人と、大陸文明(占星術・医術・建築・造船・機織・陶芸・五穀水稲栽培・兵器・等々)には、圧倒的な差異があります。この人達は、不老不死の薬石探しが目的であり、史学の多くの人が云うような「列島支配」ではありません。それどころか、道通神として列島人に施術治療(新薬試験も)して居ます。もし、始皇帝の存命中に「列島の王となり安穏と暮らしている」との噂でも大陸に伝わろうものなら、たちまちの内に10万20万の大軍に殲滅されるとの恐怖(四百数十名の穴埋め)トラウマがあります。

 縄文人は大陸方向へ進んだ大地震や巨大津波の歴史を覚えていますから、その西方から来た彼等をみて「客人神」と思うことになんの不思議がありましょうか。大陸では、東海(地震や津波の巣)から文明に大打撃を与えるほどの、台風や地震や津波を度々経験しています。そこを強大な荒神が棲むところと見ていますから、徐福たちは選りすぐりの兵士を連れています。この格好を見た列島人は「四千年前の荒神が来た」と思い込んで遮光面土器としたと謎解きしました。ちなみに、遮光はその時の大隕石の閃光により、眼底がやけたことに起因します。

> 吉野(裕子)によれば、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。
> 伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(土用にあたる)の「巳の刻」に行われるという。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」として、蛇と深い関わりがあるとする[2]。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。

 地方によって、巨大地震が襲来する方向や、大津波の届く時間は異なりますが、おおむねの方向は、鬼門である「丑寅」方向から、地震は10分以内? 津波は列島の端々まで届くのは、am8:30(瀬戸内)〜9:00頃(九州)かなと思っていますから、伊勢あたりに津波とその余波がとどくのは辰巳刻かも知れません??・・


 荒(顕)波波木(アラハバキ): の表現は、面白いですね。
荒(顕) = 4.000年前の大事変、つまり東北巨大隕石。荒やぐ神が顕われた。
波波  = 巨大津波。波を二つ重ねたのは普通の波と区別するためかな^^?
木   = 木を御神木にする発想が推めていませんでした。

 <なぜ、御神木の発想が生まれたのか?>
この三つを連ねることにより、つぎのように想像・推理します。
3/11の、巨大津波で「奇跡の一本松」のように、その樹姿と津波地形により、一本だけ、あるいは二三本だけで残ることがあります。樹枝が低ければ「根浜」のように根元あたりだけを残し上部を折りとられることがあります。浜松の神社境内でも、そのような巨木地名がありましたから。このような巨木の生命力に感嘆して「御神木化」したのではないでしょうか。例えば「〇本松や、〇本杉」のように、・・・、蛇足ながら「大草、瑞穂、草津、千種、千木」等々の地名はこの時の津波が、それ等を大量に積み上げた地名だとしました。

 そして、『その木を登って竜が天にかえる』。
この発想に大きなヒントを頂きました。というのは・・・・
出雲市の、くなと神社の境内に2m近くも根上りした大木があります。別記で東北発の巨大地震や巨大津波が出雲半島にとどき、長さ60km程の島根半島がまるで「海を泳ぐ竜蛇ごとくに見えた」と申し上げました。山陰の海岸や三瓶山古木林にもその化木石がありました。しかしながら、津波や経年の土壌流出で、いくら大木でも「2m近くも根上り」しません。あとでこれは、続年してその大木の根元に荒縄を巻き付ける信仰があると知りました。このように経年して荒縄を巻き付けられると幹は根化してしまいます。この方法は接ぎ木や盆栽手法にあります。このような御神木信仰は簡略化してシメ縄だけになったのではと思います。白紙(神)を垂らしているのは、津波の白波を模していると謎解きしました。


> 氷川神社との関係> 「氷川神社」を参照
オリオン座 四天王寺

 すこし疲れてきました・・・~~!
氷川とか、氷見市というのは、大隕石の衝突直後にくる「隕石の冬」に由来するのでしょうか。いみじくも、オリオン座や、四天王寺は、冬の大四角形であり、筆者がいっているように、その大隕石の衝突が12月25日だったことに起因するように思います。

> 巨石信仰と関係してそうですね。弥生初期のインド系の支石墓とか、縄文環状列石、あるいは旧石器時代の巨石のそれともかかわるのか・・・。

 そうですね^^。先さまもかな^^? ・・諸事の大元(根源)は<東北巨大隕石>にありそうですね。「中国四千年の歴史」といいますが、この歴史大国には一万年以上前からの歴史があり、それを「四千年」に区切る理由がわたしには分かりません。・・・(^-^!)。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



10707秦野北斗:2021/02/06(土) 10:18:10
山代国(やま、かわる、くに)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011273M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=9Y5RCRr6eUc



10708秦野北斗:2021/02/06(土) 12:52:53
Re: アラハバキ神社ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011274M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=GRWP048GBPk



10709秦野北斗:2021/02/06(土) 17:07:13
Re: アラハバキ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011275M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki_index.html



10710秦野北斗:2021/02/06(土) 22:09:36
アラハバキ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011276M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/藤ノ木古墳



10711想像探偵: 平 素人:2021/02/06(土) 22:14:13
Re: アラハバキ
秦野北斗さま、皆さまへ。想像(妄想?)探偵の参加です^^!

> > 《 ホウキは、古くは実用的なお掃除道具ということ以上に、神聖なものとして考えられており、箒神(ははきがみ)という産神(うぐがみ、出産に関係のある神様)が宿ると言われていました。・・・、

> 古事記の原文で「玉箒」「箒」を検索するが、ヒットしない、”日本最古の書物『古事記、(712年 奈良時代)』”どこの誰が言ったの「箒」の字がないよ・・・

 四千年前の東北に衝突した巨大隕石は彗星軌道をとりました。これにより、日の出前や夕方の地平ちかくにホウキ星として姿を現しました。この時は衝突に至ったのですが、卑弥呼の時の彗星はニアミスに終わりました。この妙なる光を放つ星は、不吉な星として、のちの妙見信仰にいったと想像しています。地名での「妙見山、妙光山」と、その山名を付けた人達が住んでいた位置関係を調べれば、その方角が分かるかもです^^。

ほかにも「妙」の付く地名はいっぱいあるようで・・・、鳥の付く地名、高知県の尾長鶏、一番鶏、お神輿の上の鳳凰、等々・・・・、これ等は、その彗星軌道をとった天体に関するものと想像しています(^~!)。そうそう、ヨーロッパの黒衣の魔女もホウキに乗って空を飛びました^^!。

「BC.2001年の12月25日、未だ暗い朝の6時頃、地球を半周した彗星が、龍飛崎の上空を通過し、三陸地方に巨大隕石となって光臨した!」
祖先はその赤く輝いた巨塊を、その風切り音から“竜”と命名した。この巨大隕石は、隕石の冬による慈雨と、津波による魚介類や瑞穂という恵みを打ち上げ、そして、犠牲を強要する荒神となって “人々の心の中” に入り込んだ。神の発生は大集団社会へと展開する核となる。その過程で雨水の必要性もだんだんと増してきて“雨乞い”が始まる。願う相手は、その慈雨をもたらした八大竜王だ。・・中略・・

 それ等の “雨乞い生贄文化” が永々と続いていた3世紀の初頭に、言い伝えの箒星が現れた。朝夕の空にあるその星は日々に大きさを増していった! 又来るあの大事変が!! 人々が恐れおののくなかで、ヒミコは云った。
「やがて、あの星は全天を覆うだろう。私がその難を逃れるお祈りをしてあげる」と、
   結果的に、この彗星はニアミスに終わり、人々は大きく安堵した。
 火巫女は説いた「真は、お日様が主神で荒神彗星は、そのお使者であるよ。その証しに、その星は、朝夕のお日様の方から来たでしょ。悲しい習慣りは、止めにしましょう」・・・、

“卑弥呼” の通常は「口寄せ」であったが、この大祈祷の一件でよりカリスマ性を増し、列島にその名を馳せていった。今でも、御祈祷や口寄せ・お告げをなさる人は列島にいっぱいます。その昔にはこのような人が一集落に一人はいて、神からの受託者と為政者の二人立て社会のことも、皆さまの知るところです(^-^)。 

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-0.html



10712青面金剛:2021/02/07(日) 05:35:39
Re: アラハバキ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011278M.jpg

https://omouhana.com/2020/07/29/早吸日女神社:八雲ニ散ル花 海祇ノ比賣巫女篇/



10713秦野北斗:2021/02/07(日) 10:13:30
Re: アラハバキ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011279M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ニビル_(仮説上の惑星)



10714秦野北斗:2021/02/07(日) 12:39:04
Re: アラハバキ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011280M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=IyC1bL3Ncq4



10715史実探偵: 平 素人:2021/02/07(日) 18:13:54
Re: アラハバキ(荒波波木)の底流にあるもの
皆さまへ、
 「アラハバキ」の底流には、4.000前の東北巨大隕石あり !!

  【 竜王山文化(銅鐸文化)の 展開と概略図 】('01/12/24作成)   絶版報告書より、

   ・ ・・ ・・・    大陸文化   →        →                                                    → 仏教
           → 神仙思想・東方神起      →
                徐福集団渡来 → 薬石探索 → 列島文化に影響

                                      ↓
                やがて首長・豪族に    →         お寺
          医術     /      /賭場の発生     お盆の送り船
           (塩)    租税の発生   札所・  八幡信仰 →竜神舟が変化
                   (米の提出)    算所(役場)                                   寄進
   大地震   祈祷師現る   専業化   →祀り  祭りに変化 →  政り事に
          兼業      荒行   祈祷医術
   →  石器文明 → → 天空巨石
 BC2001年末   竜神文化が生まれる →   【竜王山文化】  →  龍王山

【巨大隕石】→ 大津波  荒神の降臨 →大陸より風鐸? →“銅鐸文化”→ 毘沙門天・
                               衆生儀式 門神・仁王
  彗星       精神的語彙の発達・集団社会へ展開         ↓
 12/25未明                                                                         →銅矛   弓・鐘楼
    東北地方に落下(火山誘発)  神 戸  → 戸 張 → 戸口     ↓
               (戸の地名は津波限)   (津と陸の境界)    ↓
                           3世紀初め頃か?
      隕石の冬      貝塚文化の発生     彗星が大接近    天神様
                (骨の不滅性から)

      爆雨が→慈雨に  ”雨乞い“ 盛り塩  銅鏡文化へ変換 →神道・太陽神
          (海水を雨水に!→呼び水)  護摩火 【卑弥呼の出現】   ↓
                         卑弥呼239年魏に贈り物  古墳文化
                生け贄→ 抜歯の風習(お歯黒に) → 土器                         角・獣頭(再生願望)  土偶の破壊  → 埴輪     天皇制
                 ↓         死者の食椀の破壊    殉死
             頭骨を巨大隕石と共通視
              長耳赤目獣 朱土器 → 人身供儀 →人柱 →人名札焼き
                          (雨乞い)       身代わり
                       底流に慈雨と物々交換思想
                         → 集合で、 →  市・交通発達

                                   → 都市化
                                     (^-^!)。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-17.html



10716秦野北斗:2021/02/07(日) 22:58:23
Re: アラハバキ(荒波波木)の底流にあるもの
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011282M.jpg

史実探偵: 平 素人さんへのお返事です。

年表だな彗星がきっかけに成っているかも・・・但し、歴史は1秒に満たない。

ノアの洪水???
ニビル?隕石?
ピラミッド 4500年前
孔子 2600年前
徐福 2200年前
キリスト2000年前 黙示録は難解
倭国大乱1800年前
彗星(天狗?)
日本の仏教1300年前

まあ、文章を読むだけで、人生を棒に振るだろうな


>  「アラハバキ」の底流には、4.000前の東北巨大隕石あり !!
>
>   【 竜王山文化(銅鐸文化)の 展開と概略図 】('01/12/24作成)   絶版報告書より、
>
>    ・ ・・ ・・・    大陸文化   →        →                                                    → 仏教
>            → 神仙思想・東方神起      →




10717管理人:2021/02/08(月) 01:06:21
アラハバキ2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011283M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011283_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011283_3M.png

http://www.fafner.biz/act9_new/fan/report/ai/ryuh/arahabaki.htm



10718史実探偵: 平 素人:2021/02/08(月) 05:30:52
Re: アラハバキ2
管理人さま、秦さま、皆さんこんばんわ0^^。

「謎の神 アラハバキ」精読できていませんが "東北巨大隕石" の先入観^^!をもって見ると、あれもかこれもかと増々の意がかたくなりそうです。ありがとうございました。

 レイラインの件ですが、わたしは徐福集団が"薬石探索"のため、徐福を社長として列島の各所・とくに海にちかい現在の県庁所在地あたりを<支部>として活動したか?との想いがあります。彼らは、皇帝命の薬石のほかにも列島の珍品珍宝を収集して大陸へとどける義務(?)のようなものを背負っていますから、徐福の最初の着岸地だと思える出雲を<本社>として、とくに日本海側では、その昔の駅馬車や宿場町の発達があったように、一日の航行距離で決まっていったと見ています。いみじくも、それが先さまのレイラインの拠地に重なり合う不思議を感じます。探索が進んだ陸内においても、彼らは<仲間内はもちろん後々の人であっても>互いにその居住地を知り合っていなければなりませんから、先さまの仰るような正確な測量・レイライン網を成したのではないでしょうか。

 秦さまだったかな。列島の多くに「鏡山」の所在をいって居られましたが、その多くは住居の近場にあり、しかも600m程度の登りやすい山だったの不思議をおぼえます。鏡をつかっての方位ラインの観測法はこの掲示板で詳しく論じられていましたね^^。このように言うと「列島を最初に測量したのは我々中国人だから・・・」と云いだすお人がでてくるかも分かりませんね(笑い)。蛇足ながら、彼らは「不老不死探索の秘密結社-sigechan izumo氏」だから地名をつける必要はなく、とくに東北地方では十三湖等々をはじめとして、番号付けの地名が多いと別紙で申し上げました。もし、そのような薬石があれば列島人には絶対知られてはなりませんからね~~!!

 話は、まったく変わりますが^^!
先日、テレビ途中からの視聴で、その場所が確認できなかったのですが、岩手県あたりの海岸近くの祭りです。特に異に感じたのは、1トンもあろうかという二基のお神輿を漁船団に載せて近くの小さな島をまわり、今までに見たこともないような重量級のお神輿を二百余段上の境内まで担ぎ上げるというお祭りです。各人には60Kgもの重量がかかるそうですから、それはそれは・・。先さまは、かつてこれに似たお舟を担ぎ上げるお祭りがある瀬戸内の「戸島神社」へ探訪されました。「同様文化には、同様事象あり!」。

 そして、その先導として、少し小ぶりではありますがその輿状台を女子衆が、二百余段を担ぎ上げるのですから、これもそれは!! しかも、踊るような足運びに特徴があり、全員が同じ動きをしなければ腰をやられてしまいます。わたしには、この祭りが。その足運びが白波に。三陸のV字湾奥を駆け昇る巨大津波に見えてなりませんでした。さらに、今の時期、こんなことを言うと叱られそうですが、島根県から(宿港)隔県で混血美人が多い?(Dr.izumo氏)と云われましたが、その担ぎ手たちは面長美人たちでしたよ^^。
さらに言い足せば、日本海側には、薬売りや内蔵を持つ豪商が多いのはご存知のとおりです。さらにさらに言い足せば、銅鐸の列島への拡散は、徐福たち秦系の人達が通商の交換品として拡散したと推んでいます。

 「中国人は商売上手。華僑を始めとして、中国人のいない国はない」といいます^^。
この人達は、年一の旧正月にお土産をもって帰るのを楽しみにしていますから(大移動)、かつての徐福達の流れをくむ人達(八百万の神?)も、出雲にその(神議?)情報や集荷品を集め、大陸に近い唐津まで運び、そこで体制をととのえて海流の速い津島海流をわたり大陸へ渡ったと。・・・そして時代が進めば航行術も発達するので、より大陸に近くて運行中の糧の調達もし易い<北九州へ>とその本拠地が移っていったのではないでしょうか。出雲大社が西向きなのも気になります。こんなこというと誰かさんからお叱りを・・^^!

<独論:巨大津波上端の記録遺跡!>
岩手県田野畑、村(?)に、石列遺跡がありました。よくは覚えていませんが・・、海抜〇〇?のその石列は「巨大津波がこの高さに来た!」との記録遺跡だとしたことがありました。
myブログから、それをさがします^~!。・・・さがしました。

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-entry-17.html



10719秦野北斗:2021/02/08(月) 11:52:44
Re: アラハバキ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011285M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

>
> 《 宮崎市生目に「生目神社」(いきめじんじゃ)があります。ここはコノハナサクヤヒメとされるアタツ姫が、イクメ王子を生んだ場所と伝えられています。        》

イクメ大王(垂仁)




https://blog.goo.ne.jp/yochanh1947/e/cc42e244fca5ed5ad3ed4be39392c0ba



10720秦野北斗:2021/02/08(月) 14:29:33
Re: アラハバキ2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011286M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=vUgrvIB8yo8



10721史実探偵: 平 素人:2021/02/08(月) 23:09:05
Re: アラハバキ2
秦野北斗さまへのお返事です。コメントありがとうございます。

> 内容を見る限り、古代ですが、海のを渡ってくる者を全てが、徐福集団に成っている。これは、が現実です。

わたしの「概略図」をご覧になって「海のを渡ってくる者を全てが、徐福集団」と受けとられたのであれば、ゴメンナサイ。それは私の作図が拙いからで、わたしの本意ではありません。それにPCでは倍率等で同じ画面が相手に伝わっていないこともあります。
神仙思想で、すでに東海の三神山に蓬莱頭の仙人(=長生き人)が棲むとの情報が入っていますから徐福以前にも何らかの行き来があったと思われます。その少ない情報からバサバサ頭の縄文人をその仙人と思い込んだのではないでしょうか。中国は地下の大炭田に野火がついたと思われる"火カ山"はあったでしょうが、列島のように火を噴いている火山は有りません(?)。これも神仙の由来かと・。さらに、その他の渡来人は先さま方のほうが^^。

大陸人がもっとも恐れたのは、東海列島発の地震とか津波です。とくに恐れたのは、良渚文明を滅亡させた大洪水(=巨大津波)を経験しています。ほかにも列島は火山や地震の巣であり、その度に大陸にも被災があったと思われます。杭州湾の川を溯る津波は有名。ここは、巨大なV字湾形をしており大潮でさえも津波が発生して観光にまでなっています。津波の恐ろしさはチリ地震の時のように、遠く離れた地へもとどきます。そこにV字湾があれば、その湾奥を駆け上ります。

列島から大陸へ渡るのは、流れの速い津島海流があることから難しくても、大陸から列島に渡ることは難しいことではありません。近時でも北朝鮮の小舟が漂着したことが有りました。ただ大軍を組むには、その兵糧米を用意するため秋の収穫後となり、台風時期と重なります。これを神風と称したのは歴史の知るところです。

徐福の一度目は、この大鯨(=台風)にやられ散々な目にあいました。しかし、これで尻込むような始皇帝ではありません。東海の荒神に臆したとあっては名折れになるからです。中国では東海の荒神(龍)を制することが為政者の権威につながる考えがあります。今でも東海で米軍が演習をするのをとても嫌がります。それを許せば為政者のメンツ丸つぶれだからかな^^? 「東海の荒神何するものぞ!?」といって再度徐福に大資を持たせて出帆させたのは、先さま方の知るところです。

大資のなかで、とくに注目するのは「三千人の童男童女」です。遣唐(隋)使の代にあっても一人の男を設え「航海がうまくいけば贅沢三昧^^、うまくいかなかった時は全ぇんぶお前のせいと云って命を・・」潮来一枚下は地獄と云われた古代の小船、それだけの子供を連れるには相応の婦女も連れねばならない。推力はますます落ちる。その大舟団の全てが列島の一ヶ所に着岸出来たとは限らない。その大半は海のモクズと・・・、米大陸のレディファーストは、その婦女子を少なくしたからだ~~! ・・・、このやり取りのつづきは、 myブログで<いずものこころ> Dr.izumo氏としています・・・^^!  ↓

http://fujorinokuukan.blog108.fc2.com/blog-category-13.html



10722青面金剛:2021/02/09(火) 05:15:18
加毛利神社(かもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011288M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011288_2M.jpg

https://xn--u9jta474uoyc71cky0m6xj.jp/category6/entry32.html



10723弓張月:2021/02/09(火) 10:26:00
Re: 加毛利神社(かもりじんじゃ)
青面金剛さんへのお返事です。

チョットだけお邪魔します。
鳥居が無い(縄鳥居)の神社は、青面金剛様の添付ユーチューブの大神神社の他に、
埼玉県さいたま市浦和区岸町にある調神社(つきじんじゃ)も同じですね。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%25AA%25BF%25E7%25A5%259E%25E7%25A4%25BE
別称は「調宮(つきのみや)」。社名の「ツキ」により月待信仰が古くからあり、狛犬ではなく狛ウサギがある神社として知られる。
創建は、社記(寛文8年(1668年)の『調宮縁起』)によれば、第9代開化天皇の乙酉年3月に奉幣の社として創建。そして、調神社は、七不思議が伝わっているようです。
神社の鳥居の有無についで考えるには、新潟県妙高にある斐太遺跡当たりが適当ですか?
斐太神社の北側に観音平古墳群,南側に天神堂古墳群があり、 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.city.myoko.niigata.jp%2Fdocs%2F689.html
夜の光は「火」・昼の光は「太陽」で、フィフティー‐フィフティー(fifty-fifty)。
日高見国の「ヒダ神」も、日田と斐太とは、日田=太陽(妙高山),斐太=火打(火打山)
常陸国も、日立ち(日立市)と敏達(ひだつ)天皇=巨勢楲田朝臣荒人=多遅摩比多訶(たぢまひたか)の火打つ(常陸太田市)となり、フィフティー‐フィフティー(fifty-fifty)てことかな?
なので、村松皇大神宮の話にも、
水戸光圀公が、苦労して遠くまで足を運ばずともお伊勢参りが出来るようにと、伊勢の皇大神宮を分祀して村松皇大神宮をつくりました。その時、伊勢の阿漕ヶ浦から魚を持ってきて、池に放したのです。その魚が不思議なことに背片目だったのだそうです。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.bunkajoho.pref.ibaraki.jp%2Fminwa%2Fminwa%2Fno-0800100204%3Ff%3D1
片目の話は、他にもたくさんありますね。法然上人や伊達政宗も同じ意味かも知れませんね?そして、波多八代宿禰に。


> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> ☆ 出雲市斐川町にある加毛利神社(かもりじんじゃ)。加毛利社(かもりのやしろ)として出雲国風土記に記載されています。
>
>  主祭神:天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと)
>  配祀神:豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)
>     天津日高日子波瀲武鵜草葺不合命(ひこ なぎさたけ うがやふきあえず の みこと)
>

>

10724秦野北斗:2021/02/09(火) 14:48:30
Re: 加毛利神社(かもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011290M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_07.html



10725管理人:2021/02/09(火) 17:35:53
アラハバキ方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011291M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011291_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011291_3M.png

http://kamnavi.jp/jm/arahaba.htm



10726青面金剛:2021/02/10(水) 05:53:53
Re: 加毛利神社(かもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011292M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011292_2M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 作り話ですからご自由に、鵜戸神宮もありますよ。
> 豊玉姫が鵜草葺不合命をご出産の・・・、名前は長いですよ、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命です、
> 出産の理由が書かれている。天?之御子はない聞く、産む海ゆるす、跡継ぎがないので産む、
> 入港は、鵜羽、になる。鵜羽は出雲でなく、宮崎になる。> 鵜羽
> 九州日向国の鵜戸だそうです。> 鵜戸神宮

☆ 鵜戸神宮の地形と周辺環境も知らないの?集落から離れた断崖絶壁の地。身投げに行くような所。鵜戸山八丁坂の石段を上り下り計815段も通らねばならない。身重の妊婦が、わざわざ、こんな不便な所に来る訳が無い。

 「産屋跡」と言われる海面近くの洞窟内は、ひんやりとし過ぎて体温を奪い流産を引き起こしかねい訳だし、長時間こんな処に横に成って居たら、満ち潮で波に浚われ溺死してしまう。

 豊玉姫を乗せて来た海亀が「石化」して、亀石と成り、その背中の凹みに「運玉」を投げ入れると願いが叶う?参拝客参加型の日本初のテーマパークですな。

 子供を産むのに、余りに適さない土地を、何故選んだのか?

 それは鵜戸神宮の西隣に、吾平山上陵 (あひらのやまのうへのみささぎ:鵜戸陵墓参考地)が在るから。此処が、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の本当の陵墓だから。

 観光客に鵜戸神宮を参拝させる形で、本当の陵墓を拝ませるカラクリに成っている。この推理は関裕二が十数年前に本で披露していたが、参拝客の大半も「こんな所で子供を産む訳ない。」と思っている事でしょう。

 



10727秦野北斗:2021/02/10(水) 10:52:45
Re: 加毛利神社(かもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011293M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_07.html



10728青面金剛:2021/02/11(木) 04:44:06
Re: 加毛利神社(かもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011294M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011294_2M.jpg

https://www.xhimiko.com/諸説検証/九州説/日向-高千穂説/



10729秦野北斗:2021/02/11(木) 10:59:08
Re: 加毛利神社(かもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011295M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/本居宣長

佐土原藩(さどわらはん)は、江戸時代に日向国那珂郡および児湯郡を領有した藩。藩庁は佐土原城(宮崎県宮崎市佐土原町)。藩主家は島津氏支族の佐土原島津家であり、薩摩藩の支藩とされるが、その関係の正確性は「薩摩藩との関係」を参照。

島津氏支族の末裔が産湯ですか、天皇の産湯(歴史に残るぞ・・・)



10730秦野北斗:2021/02/11(木) 11:12:29
常世国(済州島)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011296M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=D6Hj6zCAeOg



10731青面金剛:2021/02/11(木) 19:17:32
Re: 加毛利神社(かもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011297M.jpg

http://sawadasanti.sakura.ne.jp/kiki/ookimi/cyuu/00OKMcyuu.html#00029



10732秦野北斗:2021/02/12(金) 10:00:06
Re: 加毛利神社(かもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011298M.jpg

https://ameblo.jp/kagawa1000see/entry-12627874448.html



10733秦野北斗:2021/02/12(金) 11:16:52
Re: 加毛利神社(かもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011299M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=KklHxx0VFN0



10734管理人:2021/02/13(土) 00:09:49
アラハバキ方位ライン2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011300M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011300_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011300_3M.png

http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/shinwa/details/view/3104



10735青面金剛:2021/02/13(土) 02:47:38
「鰐河神社」「和爾賀波神社」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011301M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011301_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011301_3M.jpg

https://ameblo.jp/kagawa1000see/entry-12471141319.html



10736秦野北斗:2021/02/13(土) 08:22:50
海幸彦と山幸彦
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011302M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_07.html



10737弓張月:2021/02/14(日) 10:48:46
前回、続き
加毛利神社(かもりじんじゃ)ですが、「加毛利」の大元の字は、「加(か)」は火・日、「毛(け)」=化=か、利(り)で、「光(ひかり)」だったのでは?
もし、そうだとしたら「かもり」とは、「比嘉(日下)の里」と「日の守(森)」のフィフティー‐フィフティー(fifty-fifty)の意味で、具体的には「山幸彦」とワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)で一対〔八十八(=矢+矢)〕の百となるようですかね?
戦国時代時代を経て、江戸時代の神仏分離の風潮に変わってきましたからね。
以上のことを天皇名で表すと、宣化天皇になり、宣(せん)は、「君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて」ですから、「せん」は、=川,山,船,仙に化けたと。そして、「火・樋」は、縄文時代の別扱いになるのでしょう。
鹿島神宮の参道が夏至の日の出ラインで、参道とは関係ないが筑波山は冬至の日の出ラインでした。筑波は、九十九(つくも)ですから、九十は「つく」ですね。そして、90は、「くわ」なので、桑=秦氏ですね。
また、不思議に鹿島神宮の本殿の方位は冬至の午前零時のシリウスに向いていますね。参道は夏至ですと、藤原南家,本殿は午前零時のシリウスですと平家。藤原北家は秦氏系。
茨城県那珂市額田には、額田南郷・額田東郷・額田北郷があり、額田西郷はありません。なので、水戸徳川の世になり、鹿島と八幡が合体した鹿島八幡神社(額田神社)なる名称になったのでしょう。常陸三宮は吉田神社で、ご祭神は日本武尊ですが、常陸太田市瑞竜町の白鷺神社のご祭神は日本武尊です。
これらの不一致の原因の大本は、光(ひかり)でしょう?
それと、「東(ひがし)」とは、「ひが」=比嘉(日下)士あたりかな?吉は、士と口なので。



10738青面金剛:2021/02/15(月) 05:31:58
久武神社(くむじんじゃ)火守神社(ほもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011304M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011304_2M.jpg

https://www2.izumo-net.ne.jp/oyashiro/2012/03/post_85.html



10739弓張月:2021/02/15(月) 11:58:02
Re: 久武神社(くむじんじゃ)火守神社(ほもりじんじゃ)
青面金剛さんへのお返事です。

神奈日山(仏教山)をちょっとネットサーフィンしてみました。
ホームページアドレス いずもる | 石神だらけの神名火山 仏経山 (izm.gr.jp) に、「神奈日山(仏教山)の山頂にあった伎比佐の社が北の曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ) と南の阿吾神社(あぐじんじゃ)にそれぞれ別けて祀られるようになったのかもしれない。」と書かれていました。
曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ) には、「夜」があり、阿吾神社は、出雲風土記に「阿具社」と記されている。とのことで、「阿具」と言えば阿具沼を連想しますね。そして、古事記には、
また昔、新羅の国王の子ありき。名は天之日矛(アメノヒホコ)といふ。この人参渡り来ぬ。参渡り来ぬる所以は、新羅国に一つの沼あり。名は阿具奴摩(アグヌマ)といふ。この沼の辺に一の賎しき女、昼寝したりき。ここに日の耀き虹の如くその陰上(ホト)を指しき。また一の賎しき夫ありて、その状を異しと思ひて、恒にその女人の行を伺ひき。かれ、この女人、その昼寝せし時より妊身みて、赤玉を生みき。ここにその伺ひし賎しき夫、その玉を乞ひ取りて、恒に裹(ツツ)みて腰に著けたりき。とあります。
「日の耀き虹の如く」とありますから昼ですね。一方、北は子の方角で、子の刻(ねのこく)は深夜0時を中心とする約2時間ですね。よって、曽枳能夜神社は北の夜、阿吾神社は南の昼で合いますね。もう少し十二支から深く考えると、子年・千手観音菩薩,午年・勢至菩薩(馬頭観音を隠しるのでは?法然は、幼名:勢至丸で、漆間ですからね)なので、観音様を南北にフィフティー‐フィフティー(fifty-fifty)。千手観音菩薩の「千手(せんじゅ)」とは、「千=川・山・船」寿かな?


> 弓張月さんへのお返事です。
>
> > 加毛利神社(かもりじんじゃ)ですが、「加毛利」の大元の字は、「加(か)」は火・日、「毛(け)」=化=か、利(り)で、「光(ひかり)」だったのでは?
> > もし、そうだとしたら「かもり」とは、「比嘉(日下)の里」と「日の守(森)」のフィフティー‐フィフティー(fifty-fifty)の意味で、具体的には「山幸彦」とワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)で一対〔八十八(=矢+矢)〕の百となるようですかね?
>


10740青面金剛:2021/02/16(火) 06:36:25
Re: 久武神社(くむじんじゃ)火守神社(ほもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011306M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011306_2M.jpg

https://www.kamigamojinja.jp/about-shinwa.html



10741弓張月:2021/02/16(火) 11:06:47
Re: 久武神社(くむじんじゃ)火守神社(ほもりじんじゃ)
青面金剛さんへのお返事です。

それと、「東(ひがし)」とは、「ひが」=比嘉(日下)士あたりかな?吉は、士と口なので。
賀茂(かも)も、茂(も)=毛(け)とすると、かげ(影・蔭)です。 で、
比嘉(日下)「ひが」は、=「かげ(蔭・影)」なんですよね。
イギリスのストーンヘンジでは、太陽の光を石の影で太陽を観測します。一方、岐阜県にある岩屋岩蔵遺跡では、岩屋の中で、太陽の光がとおる穴を作り、岩屋の床に当たる光の変化を観測する。
ストーンヘンジは、一日の太陽の位置と一年間の太陽の出入りを観測するのに適していて、岩屋岩蔵遺跡は、アナレンマ現象によって太陽の観測したようで、西洋と違う所を知らせたかったのか、古代天皇の年齢(半年一年暦 / 一年二歳論)はアナレンマ現象による8・∞によるものでしょうね。
そして、御蔭神社の「蔭」はくさかんむりなので比嘉(日下)なのでしょうね?
それと、出雲風土記にある母里の郷の「もり」ですが、現在の島根県安来市伯太町の「母里」の伯太川を挟んで東八幡宮と西八幡宮があるようですね。 西八幡宮には鈴森稲荷神社もあるようです。桐紋で考えると、東八幡宮は五七桐紋,西八幡宮は五三桐紋になりますかね?(四天王では、東の持国天=蘇我馬子ですね)
西八幡宮 | 秦河勝のブログ (ameblo.jp)
出雲風土記にある母里の郷の産上様 もりのさとのうぶすさま - iタウンページ (itp.ne.jp)



> 弓張月さんへのお返事です。
>
> >「神奈日山(仏教山)の山頂にあった伎比佐の社が北の曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ) と南の阿吾神社(あぐじんじゃ)にそれぞれ別けて祀られるようになったのかもしれない。」
> > 曽枳能夜神社(そきのやじんじゃ) には、「夜」があり、阿吾神社は、出雲風土記に「阿具社」と記されている。とのことで、「阿具」と言えば阿具沼を連想しますね。そして、古事記には、「〜〜〜。」
> >曽枳能夜神社は北の夜、阿吾神社は南の昼で合いますね。
>


10742秦野北斗:2021/02/16(火) 14:03:27
[11304] 久武神社(くむじんじゃ)火守神社(ほもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011308M.jpg

神戸(かむど)は、なに、神戸(かんど)?。阿吾神社、出雲大社、日御碕神社この先に何かあるの・・・
加毛利神社は二番煎じ、正三角形に特別な意味が有るのですか・・・

神様の通り道である、神戸(かむど)

☆ 加毛利神社と火守神社と阿吾神社は、神奈日山(仏教山)を取り囲む形で、正三角形を描きます。
 更に、加毛利神社と久武神社と火守神社を弓の形に例えると、阿吾神社は矢を構える位置と成り、矢が狙う延長線上には、出雲大社と日御碕神社が並びます。

 この矢(破魔矢)の飛んで行く方向が、神様の通り道である、神戸(かむど)を示します。




10743青面金剛:2021/02/17(水) 05:00:03
Re: 久武神社(くむじんじゃ)火守神社(ほもりじんじゃ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011309M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011309_2M.jpg

https://omouhana.com/2018/05/11/山辺神社:八雲ニ散ル花 66/



10744秦野北斗:2021/02/17(水) 11:35:36
宗像三女人
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011310M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=n2AM4r5Zi-o



10745青面金剛:2021/02/18(木) 06:09:06
Re: 宗像三女人『姫巫女』
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011311M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011311_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011311_3M.jpg

https://munakata-taisha.or.jp/yuisyo.html



10746秦野北斗:2021/02/18(木) 19:00:56
Re: 宗像三女人『姫巫女』
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011312M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/天叢雲剣



10747管理人:2021/02/19(金) 01:57:41
アラハバキ・物部ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011313M.png

先日に続いて、またアラハバキ信仰拠点を結ぶラインについて考えているのですが、先日指摘したように、天孫降臨の諸社とかかわってくることがありましたね。そしてさらに調べていくと、図1のように、九州の平原遺跡や高良山神籠石、あるいは物部氏の拠点・磐舟社などもかかわってくることがわかります。

具体的には、まず先日も指摘した出雲大社⇔籠神社⇔氷川神社へのラインがあり、また那久路神社⇔籠神社⇔砥鹿神社のライン、そして那久路神社⇔加毛利神社⇔客人神社⇔大人神社へのラインで直角二等辺三角形を構成することは先日お話したとおりです。

これらのラインは、縄文色の強いアラハバキ信仰の拠点を結ぶラインであるわけですが、そこに弥生時代にやってきたであろう出雲大社、籠神社、氷川神社などを構築していった集団がそのそばに新たな拠点を置いて行ったであろうことも予想したとおりです。

それで、図をみていただくとわかるように、出雲大社⇔天岩戸神社⇔物部(高知)の直角三角形のラインは、それ以前のものであろう加毛利神社⇔物部⇔大人神社の直角三角形の位置と少しずれていることがわかりますよね。

このズレが、新旧両者の測量方法の相違であろうと考えうるわけです。

さらにみていくと、図のように平原遺跡⇔客神社⇔物部(高知)への東西ラインがあり、また平原遺跡⇔客人神社⇔籠神社のラインに直交する形で、籠神社⇔磐舟神社⇔唐子・鍵遺跡へのラインがあり、また客人神社⇔
唐子・鍵遺跡への東西ラインも見てきます。

ここで以前も指摘したように、アラハバキ信仰拠点である客人(まろうど)社と物部氏の磐舟社や物部などの拠点が接点をもっており、その起点としての平原遺跡が見えてくるわけです。

加えて、図のように平原遺跡⇔高良山神籠石⇔天岩戸神社のラインも接合していますが、高良山も物部とは深くかかわってますが、その年代としては、唐子・鍵遺跡のできたであろう弥生時代中期、あるいはそのそばの鏡作神社や黒田庵戸宮がみえてくる弥生時代末期から古墳時代初期あたりに、これらのラインの成立があった可能性がありそうです。

物部氏にかかわるであろう天孫集団と、それ以前にいたアラハバキ信仰の集団との入れ替わりですね、その年代を弥生中期とするか古墳時代初期とするか、またその両者を縄文人系とするか、弥生人系、あるいはその後の古墳時代初期にきた大陸系集団とみなすか、この辺の区別を考えていきたいところです。



10748青面金剛:2021/02/19(金) 05:57:42
天叢雲剣(草薙剣)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011314M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011314_2M.jpg

https://omouhana.com/2017/12/12/葛木坐火雷神社:八雲ニ散ル花 30/



10749秦野北斗:2021/02/19(金) 13:47:18
Re: 天叢雲剣(草薙剣)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011315M.jpg

http://fuefukijinja.org/keidai.html



10750青面金剛:2021/02/20(土) 07:08:48
Re: 天叢雲剣(草薙剣)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011316M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 波々迦木(ハハカノキ)本来の訳、皆々めぐり合う九州、になる、何処かの万葉集の語句の一部でしょう。
> 人が都に集まれば笛吹も吹くだろう、

☆ その訳は、記紀の記述にある「神武が日向の国から東征して大和の初代大王に即位した。」が正しければ、の前提の訳であって、『海家出身で丹波国主となつた「海ノ村雲」(アメノムラクモ)王が、大和入りして、初代大王に即位した』ならば、従来の訳は誤訳となる。

 天村雲尊(海ノ村雲)は丹波国主ゆえ、海路で宗像や宇佐の地を訪れる事は有っても、九州に住む事は有り得ない。
 さらに、天村雲尊は、大和に先住していた出雲王国の分家に当たる、登美家・高鴨家との協調の下に、大和の大王として即位したのであって、筑紫の物部が球磨・阿蘇の先住の民を抹殺してきた経緯を毛嫌いしていた。
 さらに、第一次物部東征において、海家は物部五瀬を倒している。だから、日向出身の物部イクメ王が大和入りした時に、尾張家は「村雲ノ剣」を、磯城家に渡さなかった。

※〈 物部イクメ王は、後に「垂仁天皇」(すいにんてんのう)と呼ばれるその人のことですが、記紀には「活目入彦五十狭茅尊」(イクメイリビコイサチノミコト)、「伊久米伊理毘古伊佐知命」(イクメイリビコイサチノミコト)などと記されています。〉

《 椎根津彦(しいねつひこ)、この聞きなれない神は『日本書紀』に記され、『古事記』では「槁根津日子」(さおねつひこ)と記され、または「珍彦」(うずひこ)と呼ばれる。
 記紀では神武天皇の道行を先導した人物とされますが、富王家の伝承では珍彦は海家の子孫であり、第一次物部東征において物部五瀬に毒矢を射たと伝えられています。》

☆ 第一次物部東征において物部五瀬を倒した側と、好んで巡り合うなど有り得ない。






10751秦野北斗:2021/02/20(土) 16:47:59
Re: 天叢雲剣(草薙剣)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011317M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=VQpUKLsBsu4



10752青面金剛:2021/02/21(日) 04:58:39
Re: 天叢雲剣(草薙剣)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011318M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> 君が代の原文 > 皇祚連綿兮久長、萬世不變兮悠長、小石凝結成巖兮 、更巖生?苔之祥
> 現代の嘘訳 > 君が代は、千代に八千代に、さざれ石の、いわおとなりて、苔のむすまで
> 東征して大和の初代大王に即位した。これはありません。

☆ wikiによると、漢訳文は、香港占領時に、公式漢訳として発表された後付けですので、訳しても意味ないです。元々の和歌の初句は「我が君は」だった様です。

《 古代出雲王家の子孫に伝わるところによると、記紀に記されている初代「神武天皇」の話は、大和王国に関連した三人の人物の話を、一人の人物に見せかけたものだと云います。一人は初代大王「天村雲」、一人は第一次物部東征の「ウマシマジ」、もう一人は第二次物部東征の「イクメ」です。

「ウマシマジ」とは五瀬(イツセ)の弟「三毛野」(ミケイリノ)と「稲飯」(イナイイ)のどちらかを指します。五瀬の死後、弟二人のうちどちらがリーダーとなったか、記紀の編纂者たちには分からなかったので「ウマシマジ」という仮名で呼びました。ウマシマジの名は、3世紀に第一次物部東征とよく似たルートを通った武内宿禰の弟「甘美内宿禰」(うましうちのすくね)から採られたようです。

 筑紫の物部王国「彦渚武」(ヒコナギサタケ)の子らは、フトニ王による和国大乱(倭国大乱)の機に乗じて、大和へ東征をすることにしました。有明海へ出航した五瀬らは九州の南岸を兵を募りつつ迂回し、四国の南岸を進み、紀ノ川河口の左岸へ上陸。そこから紀ノ川を遡って南から大和へ入る計画でした。
 それまで物部王国のシンボルは大型の「銅矛」でしたが、船での移動に不向きであったためシンボルを「鋼鏡」に変えることにしたと云います。
 紀ノ川河口に上陸した五瀬らは守備に有利な名草山に登ることにしました。
ところがそこで、名草軍の待ち伏せを受けることになります。名草軍を率いていたのは女首長・戸畔の「名草姫」でした。
?? 旧事本紀の尾張家の系図によると、6世の建田背が紀伊国の和歌山から、名草姫を奥方に迎えたことが記されています。名草姫は嫁に行く前に、戸畔として村の軍隊を組織し、侵入軍と戦う役目を担っていました。

 物部軍に対し名草軍は毒矢を射かけました。その矢は五瀬の肘と脛に当たり、その毒が体にまわって五瀬は戦死したと云います。残った物部の者らは名草軍が退いたのを確認し、近くの竈山に五瀬を葬りました。五瀬を当地に葬った後、墓を守るため、彼の息子たちがこの地に残りました。残ったのは少人数であったため、敵は攻撃しなかったと云うことです。

 五瀬の敵とは「高倉下」の子孫「珍彦」(ウズヒコ)だったと伝えています。名草姫らを統括する紀伊国の王は、当時は珍彦だったということでしょう。高倉下は物部に恨みを抱いていたものと思われます。その物部に、珍彦と名草姫はまさに一矢報いたのです。

 五瀬の死の数日後、紀ノ川の対岸には、おびただしい数の磯城・大和王国軍が現れました。五瀬に代わって指揮官となったウマシマジは、勢力を強化する必要があると考え、一旦船にもどり、南の潮岬をまわって紀伊半島の南岸、熊野浦の付近から上陸することにしました。しかし彼らは、その道行においても厳しい攻撃にさらされるのです。 》

※ 紀ノ川河口、和歌山市和田に鎮座する「竈山神社」(かまやまじんじゃ)祭神:彦五瀬命





10753秦野北斗:2021/02/21(日) 11:12:22
Re: 天叢雲剣(草薙剣)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011319M.jpg

http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_08.html



10754青面金剛:2021/02/22(月) 05:21:06
Re: 天叢雲剣(草薙剣)
秦野北斗さんへのお返事です。

> 古事記には五瀬が死んだとは書いてない。> 到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。「血気」の血、いきいきとさかんなさま。血は、さかん、と読むの、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。訳は、いたる、さかん<沼海、かえる其の御手、これさかん、ゆえ、云う、さかん沼海なり
> 於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。〜故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」〜、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵在紀國之竈山也。

☆ 於是〔ここに〕登〔ト〕美〔ミ〕毘〔ビ〕古〔コ〕と戰〔たたかひ〕たまふ時〔とき〕に 五?〔いつせ〕の命〔みこと〕 御手〔みて〕に登〔ト〕美〔ミ〕毘〔ビ〕古〔コ〕が痛矢串〔いたやぐし〕負〔おわし〕き。 。故〔かれ〕賤奴〔やつこ〕が痛手〔いたで〕負〔おもなひつる〕。
 其地〔そこ〕從〔よ〕り廻幸〔めぐりいでまし〕て 紀〔キ〕の國〔くに〕の男〔を〕の水門〔みなと〕に到〔いたり〕まして 詔〔のりたまはく〕

  負賤奴手乎〔やつこがておひてや〕死〔いのちすぎなむ〕。

 と。男建〔をたけび〕爲〔し〕て崩〔かむあがりまし〕ぬ。
 故〔かれ〕號〔‐〕其〔そ〕の水門〔みなと〕を男〔を〕の水門〔みなと〕とぞ謂〔いふ〕。陵〔みはか〕は即〔やがて〕紀〔キ〕の國〔くに〕の竈山〔かまやま〕に在〔あり〕。

「ワシは、あんな下賤の輩の手傷によって死ぬというのか!」

※ 水門神社社伝(和歌山市小野町2丁目1番地)
《 彦五瀬命が、和泉で長髄彦の流失に当り、出血甚だしく、崩御されたと言われる旧跡である。『古事記』に言う「男水門」とはこの地であると伝えられ、境内には、聖跡記念碑が立っている。》

※ 大阪和泉に茅渟神社(ちぬじんじゃ大阪府泉南市樽井5-11-9)が在るが、距離が遠すぎる。
 大阪の観光案内には、「神武と長脛彦との生駒山決戦の時に、大阪湾が血沼と成った。」と解説しているのが有るが、第一次物部東征で、大阪湾での決戦は無かった。

◎《五瀬を当地に葬った後、墓を守るため、彼の息子たちがこの地に残りました。》
《五瀬(イツセ)の弟「三毛野」(ミケイリノ)と「稲飯」(イナイイ)》

☆ 五瀬の息子たちも、第一次東征軍に参加していた、のだから、五瀬(イツセ)の弟「三毛野」と「稲飯」と共に、「神武」が加わって居ないのは、不自然である。つまり、「神武」は存在しない、と結論できる。



10755秦野北斗:2021/02/22(月) 14:43:48
Re: 天叢雲剣(草薙剣)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011321M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

少しは読める?バカ学者レベルですな、

於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。〜故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」〜、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵在紀國之竈山也。

訳、於いて此れ、与える上る美(うましくに)助ける古い軍、此れ時、五瀬命、於いて御軍。背く上る美(うましくに)助ける古い、此れ終わる矢、貫く。〜しかるに、背く賎しい奴、此れ労しい軍、自ら今と云える道廻り、然るに背くの後ろ、日(神武天皇、五瀬命)以って討つ。〜到る、治める国、此れ水門、然るに、諭す。「背く賎しい奴、此れ軍かな、殺す。」水門、立つ、然るに崩れる。陵ある、治める国、此れ竈山(倭、伊勢国)なり、注)水門は神武天皇の兄の様だ 、それと、日は、お日さんでなく、日子(神武天皇、五瀬命)ですよ

昔の人は、比喩を使うの注意、改めて訳すと未だ洗脳された痕跡が覘きみえる。

青面金剛さんの訳は、古代の人を馬鹿にしているな、太安万侶が生きていれば・・・
いのち、がないぞ、


> > 於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。〜故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」〜、到紀國男之水門而詔「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵在紀國之竈山也。
>
> ☆ 於是〔ここに〕登〔ト〕美〔ミ〕毘〔ビ〕古〔コ〕と戰〔たたかひ〕たまふ時〔とき〕に 五?〔いつせ〕の命〔みこと〕 御手〔みて〕に登〔ト〕美〔ミ〕毘〔ビ〕古〔コ〕が痛矢串〔いたやぐし〕負〔おわし〕き。 。故〔かれ〕賤奴〔やつこ〕が痛手〔いたで〕負〔おもなひつる〕。
>  其地〔そこ〕從〔よ〕り廻幸〔めぐりいでまし〕て 紀〔キ〕の國〔くに〕の男〔を〕の水門〔みなと〕に到〔いたり〕まして 詔〔のりたまはく〕
>
>   負賤奴手乎〔やつこがておひてや〕死〔いのちすぎなむ〕。
>
>  と。男建〔をたけび〕爲〔し〕て崩〔かむあがりまし〕ぬ。
>  故〔かれ〕號〔‐〕其〔そ〕の水門〔みなと〕を男〔を〕の水門〔みなと〕とぞ謂〔いふ〕。陵〔みはか〕は即〔やがて〕紀〔キ〕の國〔くに〕の竈山〔かまやま〕に在〔あり〕。
>
> 「ワシは、あんな下賤の輩の手傷によって死ぬというのか!」
>
> ※ 水門神社社伝(和歌山市小野町2丁目1番地)
> 《 彦五瀬命が、和泉で長髄彦の流失に当り、出血甚だしく、崩御されたと言われる旧跡である。『古事記』に言う「男水門」とはこの地であると伝えられ、境内には、聖跡記念碑が立っている。》
>
> ※ 大阪和泉に茅渟神社(ちぬじんじゃ大阪府泉南市樽井5-11-9)が在るが、距離が遠すぎる。
>  大阪の観光案内には、「神武と長脛彦との生駒山決戦の時に、大阪湾が血沼と成った。」と解説しているのが有るが、第一次物部東征で、大阪湾での決戦は無かった。
>
> ◎《五瀬を当地に葬った後、墓を守るため、彼の息子たちがこの地に残りました。》
> 《五瀬(イツセ)の弟「三毛野」(ミケイリノ)と「稲飯」(イナイイ)》
>
> ☆ 五瀬の息子たちも、第一次東征軍に参加していた、のだから、五瀬(イツセ)の弟「三毛野」と「稲飯」と共に、「神武」が加わって居ないのは、不自然である。つまり、「神武」は存在しない、と結論できる。
>
>




10756青面金剛:2021/02/23(火) 09:58:32
竈山墓
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011322M.jpg

https://taptrip.jp/696/



10757秦野北斗:2021/02/23(火) 23:16:14
Re: 竈山墓
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011323M.jpg

https://taptrip.jp/696/



10758秦野北斗:2021/02/23(火) 23:42:39
崇神天皇6 平定
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011324M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=-MIVGkNcNP4



10759青面金剛:2021/02/24(水) 06:20:56
Re: 竈山墓
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011325M.jpg

http://www7b.biglobe.ne.jp/~iichirou/sub26.html



10760秦野北斗:2021/02/24(水) 23:36:06
「国学の四大人」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011326M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/本居宣長



10761青面金剛:2021/02/25(木) 04:21:07
青森県にある日本中央の碑「ひのもとまなかのいしぶみ」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011327M.jpg

http://www.t-aterui.jp/aomori/a-tubonoisibumi2.htm



10762秦野北斗:2021/02/25(木) 10:09:41
Re: 青森県にある日本中央の碑「ひのもとまなかのいしぶみ」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011328M.jpg

https://ja.wiktionary.org/wiki/



10763青面金剛:2021/02/26(金) 01:27:31
津軽十三湊・安藤水軍
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011329M.jpg

秦野北斗さんへのお返事です。

> このころは、九州・四国南岸経由の地名も方位も、間違っている、何処かの神武東征を鵜呑みにしてるの・・・方位が違うでしょ・・

☆ 東国人にとっては、西日本と半島の方位なんか興味薄いんだから、人試してないで、とっとと自説を展開すれば良いでしょ。大阪中心に考えるな。

> 7世紀の白村江、日本書紀の百済の創作文しか知らないだろう、> 実は、経緯をすべて記録されてるな、

☆ そのサイトへのリンクを貼ってください。

> 青森県が日本に成ったのは、7世紀。> 記録では、北海道も入っている、北海道を入れると、東北の中央に成るな。

☆ 東北・北海道人が怒るぞ。津軽十三湊を母港とする、安藤水軍は、樺太・千島だけではなく、カムチャッカ半島の南部も治めていて、北米西海岸とも交易を行っていた。
 3代目征夷大将軍文屋綿麻呂による、侵略戦争が終結したのは、812年。それまでの「日ノ本」であった「日高見国」の国名を、大和朝廷側が、パクったのさ。

> アマテラスの墓、知ってたら教えて欲しいな、アマテラス 墓・・(九州)
> 不明なんだよ、アマテラスの名、木(たちき)なんだ、木国(九州)のどこかな????
> 初代、アマテラス、木(たちき) 墓・・(九州) 中国の阿房宮(あぼうきゅう)に祀られる、(中国人は知らない)
> 二代目、アマテラス、美和 墓、大和三山 耳成り山 伊勢神宮に祀られる、(日本人は知らない)
> 三代目、アマテラス(跡、神功皇后) 墓、堺市津久野 岸和田、岸城神社(地元の人は知らない)> こんな狭い、日本の話しでないの・・・

☆ 月照・ツキテラスなら宇佐神宮。

※ 相手の引用文を全文折り返す手抜き投稿を見せ付けられると、時間をかけて答えるのもバカらしくなるので、手短に。




10764秦野北斗:2021/02/26(金) 09:52:37
Re: 津軽十三湊・安藤水軍
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011330M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

出雲の二番煎じ、国引き神話の毛人は安藤水軍に成りましたか・・・
もしや、アイヌ民族と出雲は親戚じゃないか・・・

>
> > 青森県が日本に成ったのは、7世紀。> 記録では、北海道も入っている、北海道を入れると、東北の中央に成るな。
>
> ☆ 東北・北海道人が怒るぞ。津軽十三湊を母港とする、安藤水軍は、樺太・千島だけではなく、カムチャッカ半島の南部も治めていて、北米西海岸とも交易を行っていた。
>  3代目征夷大将軍文屋綿麻呂による、侵略戦争が終結したのは、812年。それまでの「日ノ本」であった「日高見国」の国名を、大和朝廷側が、パクったのさ。

よく見ろ、7世紀の文章だ、日本舊小國(日本は昔は小国)、北界有大山為限山外即毛人之國(・・・毛人の国(北海道)、理解できるかな。安藤水軍は末裔だな。
230年に日本国ができる、、現在は鎌倉、神奈川なんだな、孫権(呉)の兵士の末裔になる。三国志の孫権
だから、鵜呑みなんだよ、812年。それまでの「日ノ本」???

『旧唐書』倭国・日本国伝
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或曰:日本、舊小國併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限山外即毛人之國。

>
>
> ※ 相手の引用文を全文折り返す手抜き投稿を見せ付けられると、時間をかけて答えるのもバカらしくなるので、手短に。
>



10765青面金剛:2021/02/26(金) 11:56:59
二風谷アイヌは古代アルメニア系
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011331M.jpg

http://www.usajinguu.com/guide/#



10766秦野北斗:2021/02/26(金) 20:57:26
Re: 二風谷アイヌは古代アルメニア系
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011332M.jpg

https://manyoshu-japan.com/13260/



10767管理人:2021/02/27(土) 00:34:16
アイヌ・蝦夷の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011333M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011333_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011333_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/北海道アイヌ



10768青面金剛:2021/02/28(日) 06:27:33
Re: アイヌ・蝦夷の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011334M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011334_2M.jpg

http://www.isis.justhpbs.jp/18ouchou.html



10769管理人:2021/03/12(金) 03:09:53
アイヌ・蝦夷の起源2
青面さん、さっそくお返事ありがとうございます。二風谷アイヌ資料館、今年は行ってみたいですね!
ご指摘のエジプトから追放された一神教のアテン神信仰者はヘブライ人の祖先だとする説が有力ですね。
私もその可能性が高いのではと感じてます。かれらはヒッタイト領域に一度入り、そこで感染病者として隔離されていた節があります。

その逃亡者の一部が仮にアルメニア人とかウラルトゥ、アイヌの祖先とかかわってくるとすると興味深いです。ヘブライ人の兄弟ということになりますね。ウラルトゥはシュメール語を継承していたとされてますから、インダス・シュメール語、エジプトも含めて、原エラム語との関係を模索すべきでしょうか。

先日の山海経とのかかわりからいくと、殷を起こした集団と深くかかわりそうです。縄文晩期の亀ヶ岡文化とかかわっていて、東北から北海道各地へと移住していったことでしょう。

殷代の甲骨文字はインダス文字とも相関性があるとされていて、それはもとはエラム文字系列でしょうから、ある時期に西方から来た集団の影響を強く受けているはずです。

それでその一部が北海道方面へと移住していったとして、先日の方位ライン図のように手宮洞窟あたりとかかわってくるとすると、その洞窟(フゴッペにもある)の先刻文字と甲骨文字、さらにはエラム系の文字とが一致してくるはずですし、実際よく似ていることも以前お話したとおりです。

それで、その文字に対応する音声言語ですね、これもなおアイヌ語に継承されていたとするならば、当然、殷代の中国語やエラム系の言語との相関性がみえてくるべきですし、それがもしかすると風=シュン=俊とのことだったのかもしれません・・・。

アイヌ語と印欧祖語との比較研究はすでになされていて、一定の相関性は確認されてますから、その印欧祖語と原エラム語(インダス・シュメール語とか・・・)との比較をして、さらにアイヌ語と殷代の古中国語との比較ができれば何かみえてきそうですが、どうやってやるかが課題ですね・・・

我々でも神話面での比較研究はできそうな気がしますが、先のとおり殷の祖となる帝・俊の伝承には多分に旧約聖書にあるような中東系の父子継承・迫害に関する要素があって、それがアイヌ神話にみれるかどうか、ここも気になるところです。

アイヌの通過儀礼の伝承がいくらかウポポイにあったような気がするんですが、その辺の資料を探して比較分析してみたいところですね。縄文色を残すと言われる出雲神話などとも比較すると興味深いことがあるかもしれません。






10770管理人:2021/03/04(木) 00:15:35
アイヌ・蝦夷の起源3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011336M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011336_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011336_3M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/三足烏



10771管理人:2021/03/06(土) 00:13:09
アイヌ・蝦夷の起源4
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011337M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011337_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011337_3M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/イナンナ



10772秦野北斗:2021/03/06(土) 01:03:43
大昔には10の太陽が存在し、
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011338M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/三足烏



10773管理人:2021/03/08(月) 00:29:36
アイヌ・蝦夷の起源5
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011339M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011339_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011339_3M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/シャマシュ



10774管理人:2021/03/11(木) 00:38:32
アイヌ・蝦夷の起源6
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011340M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011340_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011340_3M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/盤瓠



10775管理人:2021/03/18(木) 01:12:19
アイヌ・蝦夷の起源7
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011341M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011341_2M.jpg

また先日の続きで、アイヌ神話の比較研究をしています。

先日も紹介した畑中武夫著『アイヌの信仰』先住民族文化研究会,1972。に、入れ墨とコロポックルの話があり、興味深く感じたので、図1,2として引用しておきますね。

ここで、興味を引くのは、アイヌが来る以前にコロポックルという入れ墨をした小人がいたとの前提で話が進んでいる点です。

思うに、コーカソイドや弥生人などに比べて比較的背の低かった縄文人の子孫のことをコロポックルとみなしていたのではないでしょうか?

記紀の記載でも、タケウチスクネが対面した蝦夷といった原住民は入れ墨をしていたようですし、吉野の原住民とされる国栖なども思い浮かぶところですね。その国栖については、人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたとされ、このコロポックルの性格と共通しています。

アイヌの入れ墨と、沖縄の入れ墨に共通要素があることなども、縄文人の子孫の影響が強いことを意味しているように感じますが、ただ問題は、アイヌ自身が、それ以前にいた原住民のコロポックルからそれらの習俗を継承したとされていることでしょう。

それではアイヌのもう片方の祖先は、いつ、どこからやってきたのか?ここが問題となってきます。

先日の分析から、ひとつには縄文晩期から弥生初期にわたってきたであろう殷からきた集団との見方ができそうですが、もうひとつは、その後、春秋時代末期から戦国時代にかけて東遷してきた白テキなどの西方遊牧民の子孫の可能性、特に中東方面に起源をもつ集団を想定してきたことがありますね。中国の舜・シュン帝などの神話をもたらした集団です。

高辛氏・高句麗や沿海州を経由して、北海道や東北方面へと渡ってくる・・。

再度、アイヌ語やDNA面から、その痕跡を探す必要があるかもしれませんね。




10776管理人:2021/03/19(金) 00:52:46
縄文・アイヌ遺跡ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011342M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011342_2M.png

ちょっと別件で青面さんご紹介の二風谷のアイヌ資料館の件で調べものをしていて、方位ライン関係を調べていくうちに図1のようなラインが浮かび上がってきましたのでお知らせしておきます。

これは先日紹介した図2の縄文遺跡を結ぶラインと、後代のアイヌ時代の拠点を接合した構造となっています。

具体的には、まず図1では先日の図2でも指摘した大船遺跡(環状列石)⇔カリンバ遺跡⇔冷水遺跡(岩見沢公園)⇔神居古潭環状列石を結ぶ60度偏角のラインがあり、また、大船遺跡⇔二風谷遺跡⇔嶋木遺跡を結ぶ約30度偏角のラインがあり、そのラインを斜辺として大船遺跡⇔黄金山⇔嶋木遺跡で直角三角形を構成しています。

また、図1のように、二風谷遺跡⇔神居古潭⇔手宮洞窟を結ぶ60度角の正三角形と、同じく二風谷遺跡⇔大船遺跡⇔手宮洞窟を結ぶ60度角の正三角形、さらに二風谷遺跡⇔嶋木遺跡⇔神居古潭を結ぶ60度角の正三角形がみてとれます。

関連して二風谷遺跡⇔発寒チャシ⇔手宮洞窟のラインがあり、また二風谷遺跡⇔冷水遺跡⇔黄金山へのラインは、嶋木遺跡⇔大船遺跡のラインと直交しています。

そのほか、白老ポロトコタン⇔二風谷遺跡⇔帯広空港遺跡への5度偏角のラインもあり、加えて、二風谷遺跡⇔カリンバ遺跡北方⇔発寒チャシ⇔手宮洞窟へのラインもみてとれるでしょう。

このようにみていくと、二風谷遺跡は、これらのライン拠点の中でも、比較的中心・重要な位置にあったと言えるはずで、縄文時代にはじまり、アイヌ文化期までなお重要視されていたことも理解できるような気がしますね。

方位ライン面での特徴としては、30度、60度、90度のラインを多用していることで、これらは東北・北海道の旧石器・縄文遺跡を結ぶラインの特徴ともなるのですが、一部、アイヌ文化期までその測量技術継承されていた可能性も考慮すべきでしょうか。

今年は特に、この二風谷の遺跡や資料館と、浜益の黄金山(チャシ?)、その間の冷水遺跡(いわみざわ公園)を見に行きたいところですね。





10777管理人:2021/04/04(日) 22:17:05
発寒環状列石ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011343M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011343_2M.png

https://rubese.net/gurucomi001/?id=2439100



10778管理人:2021/04/15(木) 20:55:01
札幌遺跡方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011344M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011344_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011344_3M.png

また、先日に続いて、北海道の遺跡を調べてますが、今回は我が家のある札幌の遺跡を結ぶラインを考えはじめてます。


図1は、先日もお知らせしたアイヌのチャシや縄文・旧石器時代の遺跡を結んだラインと、札幌のT204遺跡を結ぶラインです。

この遺跡の重要性は、白老チャシと黄金山を結ぶラインと、手宮洞窟と二風谷遺跡を結ぶラインの交点上にあることでしょう。

この遺跡については下記サイトを参照いただきたいですが、ここからは、縄文・続縄文の連続した遺跡が出土しており、他の縄文遺跡と異なり、続縄文時代まで活用されていることから、重要な拠点であったことがわかります。

なお、縄文遺跡とともに、それ以降の遺物を出土した札幌の遺跡を結んだラインが図2となり、これも意図的なラインといえるでしょう。

そのT204遺跡周辺の地形と、古地図を重ねたものが図3ですが、こうみると、この遺跡(オレンジ)の周辺が尾根上に伸びており、河川(月寒川)が蛇行していることがわかります。

この尾根上に伸びたところに、チャシがあった可能性があるでしょう。

実際現地にいくと、若干の丘陵となっているのですが、今後の調査に期待ですね・・。








10779弓張月:2021/04/18(日) 18:00:28
あれあれ、不思議
またまた、これなに?
バラが有名な県立フラワーパークがリニューアルオープンするとのことで、4月29日開業。パークは、九つのエリア,約900種,九千株が咲き誇る県花のバラを満喫できるのが魅力とのこと。住所は、石岡市(旧:八郷町)下青柳
この文、「90」が無いですね。
古代史から「90」は、九十九(つくも)とつくば(筑波)から、九十波とすると、90は、くわ(桑)になりますね。
鹿島神宮は筑波山の冬至の日の出の方位、栃木県小山市の寺野東遺跡も同じです。
また、鹿島神宮は、富士山の夏至の日の出の方位は、正確には富士山ではなく富士山本宮遷宮神社のようですね。富士山レイライン(パワースポット)の研究 (fujigoko.tv)
そして、筑波山と鉾田市子生の厳島神社と長野県松本市並柳の弘法山古墳は真東西のレイラインにあります。
よって、鹿島神宮の本殿は、冬至の日のシリウスの方位になっている。
常陸国風土記にみえる「富士筑波伝説」もあり、正しい古代史は、現在も残してあるのでしょうね?


10780弓張月:2021/04/21(水) 15:26:23
あれあれ、不思議(続き)
九十九は、「つくも」,筑波(つくば)=九十波=桑波(90はクワと)と考え、もう少しこの考察を進めると、十九は「くも=雲」ですね。出雲は、出十九です。そして、十九代天皇は允恭天皇。桑(九十)と十九を合わせると、十が重なり二重(にじゅう=二十)です。日本国憲法二十条は信教の自由で、伊勢神宮の遷宮は二十年ごと。:憲法十九条は、思想・良心の自由の規定のようです。
記紀や風土記には、土蜘蛛(つちぐも)も書かれています。これも、暗号ですかね?


10781秦野北斗:2021/04/26(月) 17:39:50
アイヌ aynu 人間、アイヌ民族
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011347M.jpg

https://city.hokkai.or.jp/~ayaedu/udic/sdic.html



10782青面金剛:2021/04/27(火) 14:11:50
委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011348M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011348_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011348_3M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=_3XwTYce08I



10783秦野北斗:2021/04/27(火) 23:13:12
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011349M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=_3XwTYce08I



10784青面金剛:2021/04/28(水) 04:42:18
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011350M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011350_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011350_3M.jpg

https://omouhana.com/2020/07/14/宗像大社 辺津宮:海祇ノ比賣 03/



10785秦野北斗:2021/04/28(水) 08:23:48
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011351M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

伝えられています。ですか、出雲・・・古事記読んだら、出雲も青面金剛も七世紀から創作されたもの
、宗像三女神は紀元前2世紀ですぞ。畿内に大和王国など、ないの・・・

神籬(あまつかみ、かき)御神木(み、あまつかみ、たちき)

青面金剛には御神木の意味が理解できんやろな、御神木はアマテラスなのよ。


◎宗像大社の御神木と神籬と高宮斎場

『 畿内に大和王国が誕生する以前、日本で最も大きな支配力を持った国が出雲王国でした。その出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の子である「吾田片隅」(アタカタス)が筑紫にて宗像家の祖となります。

> 玉垣に囲われたその奥を包む深い神気。禁足の聖域奥には、更なる結界で囲われた連理の木が立っています。社伝ではここに宗像三女神は降臨したと伝えられています。






10786青面金剛:2021/04/30(金) 04:31:05
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011353M.jpg

https://kodaishi.net/nature/himorogi



10787秦野北斗:2021/04/30(金) 15:28:18
Re: 委奴(いと)国の成立
青面金剛さんへのお返事です。

なんだ、これは、日本書紀の捏造文でも読んでろ。真実の白村江は旧唐書、古事記、万葉集に記録される。
久々に見直すと、天智天皇の母が斉明天皇に成ってる、天智天皇の生みの親は母なんですな。斉明天皇は
皇極天皇の名です、日本書紀に書いてある。youtubeで紹介してやるよ。
旧唐書に出雲の国引き神話があるぞ、天智天皇に従い、若狭国、越前、越後、越中に来たのよ。
白村江は韓江(漢江)に北(北朝鮮)になる、韓国と学者の馬鹿は白村江(現在の錦江河口付近)だと・・・

> ※ 白村江の経緯を記録したサイトへのリンクを貼らないのならば、これ以上、議論を深めようも無いので、秦野さんとの議論は打ち切らせて頂く。
>




白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。 ...



https://www.youtube.com/watch?v=I0IVENJ5iTE



10788秦野北斗:2021/04/30(金) 15:52:49
Re: 委奴(いと)国の成立
https://www.youtube.com/watch?v=I0IVENJ5iTE

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10789青面金剛:2021/05/10(月) 04:11:41
Re: 委奴(いと)国の成立
秦野北斗さんへのお返事です。

> 旧唐書に出雲の国引き神話があるぞ、天智天皇に従い、若狭国、越前、越後、越中に来たのよ。
> 白村江は韓江(漢江)に北(北朝鮮)になる、韓国と学者の馬鹿は白村江(現在の錦江河口付近)だと・・・

※ 白村江の位置は長い事、不明瞭だったが、「韓江(漢江)に北(北朝鮮)」の説も、二十年ほど前から北側の主張として、把握している。

☆ 白村江の時は既に、百済の陸軍は壊滅していた。大和朝廷側は、百済の王族・貴族を日本に避難させるべく、救援の船団を出した。そのルートが示されていない。また、従来説の通り、大規模な艦隊決戦が果たして有ったのかも、疑問が残る。

☆ 加治木義弘氏の説く様に、白村江で敗戦したとしても、博多湾から関門海峡に掛けての、第一次日本本土決戦、そして明石海峡から大阪湾に掛けての最終決戦が為された筈。

☆ 「天智天皇に従い、若狭国、越前、越後、越中に来たのよ。」。それが白村江以後の事ならば、日本側の地元水軍との抵抗に遭ったのか。


◎ 天智天皇=新羅武列王(金春秋)説が結構多い。

1.中臣鎌足と中大兄皇子との出会いは、けまり大会で皇子のぬげたくつを鎌足が拾ったなれそめエピソードと同じ話が新羅本紀にある。(金春秋と金ユシン)

2.中大兄皇子が蘇我石川麻呂の長女を嫁にもらおうとしたら、誘拐されてしまった。父親が狼狽していると妹が進んで嫁になった。(これも同じ話が新羅本紀にある)

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fplaza.rakuten.co.jp%2Fsystemwelware%2Fdiary%2F201207150000%2F



10790秦野北斗:2021/05/11(火) 02:07:49
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011357M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=I0IVENJ5iTE

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10791青面金剛:2021/05/11(火) 03:25:15
Re: 委奴(いと)国の成立
秦野北斗さんへのお返事です。

> 日本書紀の白村江の戦いはなかったのですな、
> 新羅の建国が広開土太王、好太王碑の文章がある。
> 714年に唐は韓半島の管理を放棄し、新羅に移している。
> 韓国は棄てられている。


☆ 古田説では、「倭国酋長は薩夜麻」(『古田武彦の古代史百問百答』175頁、『古田武彦と百問百答』136頁)とされ、薩夜麻は九州王朝の摂政とされます。そして俀國のトップである天子は斉明であるとされます。つまり薩夜麻は王者ではないと考えられています。

??薩夜麻が俀國の王者ではないとするならば、私の考えと同等であり、その上で「倭国酋長は薩夜馬」とする古田説ならば、よく理解できます。
??なぜなら、薩夜麻は、「百済を救う役」の661年から天智天皇10年(671年)まで唐に居たと考えられますので、高宗の封禅の儀が行われた麟?二年(665年)には、薩夜麻は唐にいました。その薩夜麻が倭の王者ではなく倭の酋長として参列した可能性は高いと考えます。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fameblo.jp%2Ffurutashigaku-tokai%2Fentry-12597384774.html

※ 九州王朝の摂政とされる筑紫君薩夜麻は、百済の王族・貴族を救援する船団を送り込む事を第一とし、軍船は、その護衛程度しか付けなかった為に、唐・新羅連合軍の奇襲によって、薩夜麻は捕虜となってしまった、のでは無いか、と考える。

10792秦野北斗:2021/05/11(火) 05:06:46
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011359M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=FuEjONKb3fQ

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10793青面金剛:2021/05/11(火) 08:41:42
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011360M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011360_2M.jpg

https://omouhana.com/2018/04/08/田手神社:斎王 番外/



10794秦野北斗:2021/05/12(水) 01:21:47
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011361M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10795青面金剛:2021/05/12(水) 03:48:17
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011362M.jpg

https://omouhana.com/2018/04/07/別宮・倭姫宮:斎王 09/



10796秦野北斗:2021/05/20(木) 09:54:58
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011363M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=8EW9J0mgVUk

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10797青面金剛:2021/05/30(日) 04:15:14
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011364M.jpg

https://ameblo.jp/314416tg/entry-12212445260.html



10798秦野北斗:2021/05/31(月) 02:37:41
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011365M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/大神神社

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10799弓張月:2021/05/31(月) 08:27:44
前回、続き
土師氏,土井氏,渡会氏の言霊関係

土の子,土蜘蛛の「土」は「と」ですから、土師氏は、渡治氏で、土井氏は、渡井(とい)で「わたらい」も含まれていますね。
「渡井」(わたい / とい / わたらい)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力 (name-power.net)
となると、土井氏=渡会氏ですね。
ウィキペディアには、「土井氏は、江戸時代に徳川幕府に提出した資料によれば、清和源氏土岐氏の庶流とされ、土岐五郎光定(光貞)の次男土井孫太郎定親から始まり、師親、貞秀と続き、途中不詳ながら戦国期に(早乙女)利重、(土居)利昌、利勝へとつながる。これは当時家系を名流に求めるのが常であったので、真偽は疑わしい」とある。
茨城県小美玉市と鉾田市の境を流れる巴川の両岸には、宮脇鹿島神社(小美玉市下吉影)と主石神社(鉾田市大和田)があります。
鹿島神社(茨城県小美玉市下吉影字宮脇) - 神が宿るところ (goo.ne.jp)
古代史の謎の鍵ようです?

そして、土井氏は、利勝,利重と必ず利(とし)が付きます。「とし」は、土師となりますからでしょうか?また、利根川は、「とし」ならば土師根川、「と」でしたら土根川かな?


10800秦野北斗:2021/05/04(火) 02:21:42
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011367M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=w9Kq4MVP2Yo

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10801青面金剛:2021/05/05(水) 01:52:21
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011368M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011368_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011368_3M.jpg

http://embamuseum.ec-net.jp/



10802秦野北斗:2021/05/05(水) 03:10:54
三角縁神獣鏡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011369M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/檀石槐

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10803青面金剛:2021/05/05(水) 11:17:25
Re: 三角縁神獣鏡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011370M.jpg

http://www12.plala.or.jp/himukai/index.html



10804秦野北斗:2021/05/05(水) 13:25:11
Re: 委奴(いと)国の成立
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011371M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/土蜘蛛

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10805秦野北斗:2021/05/05(水) 17:46:30
Re: 三角縁神獣鏡
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011372M.jpg

http://www12.plala.or.jp/himukai/index.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10806青面金剛:2021/05/05(水) 20:13:39
神門(みかど)神社。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011373M.jpg

http://blog.livedoor.jp/ushijimatoshihiro/archives/45107723.html



10807秦野北斗:2021/05/05(水) 22:54:38
Re: 神門(みかど)神社。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011374M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=ln9KBz74Vh8

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10808秦野北斗:2021/05/06(木) 00:42:02
扶桑国
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011375M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/扶桑

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10809弓張月:2021/05/06(木) 15:45:15
前回、続き
委奴(いと)の逆は、「とい」樋・土井=渡井で、渡会
委奴(いと)の「い」ですが、「良い」の良の読みです。漢字の「良」から、カタカナの「ラ」になったようですね。古代エジプトの「ラー」は太陽神。イネ科の葦は、ウィキペディアに、「和名ヨシの由来は、もともと本来の呼び名はアシであったが、「悪し」に通じるため、「ヨシ」と言い換えられたものである。日本の在来植物で、『日本書紀』に著れる日本の別名「豊葦原千五百秋瑞穂国」とあるように、およそ平安時代までは「アシ」と呼ばれていたようである。『更級日記』においても関東平野の光景を「武蔵野の名花と聞くムラサキも咲いておらず、アシやオギが馬上の人が隠れるほどに生い茂っている」と書かれている。」とあります。たぶん、吉や義も「良(ラー)」からですかね?
津島の逆は島津ですが、島津の紋は、”丸に十”〔チョット苦しいですが逆さまで、”に十丸”(=に本国憲法20条)〕
「よい」と「いい」の違いは、
「今日は天気がよい」とも「今日は天気がいい」とも言う。何か違いがあるのか。また、「よい」と「いい」はどういう関係なのかという質問を受けた。
 この2語に意味の大きな違いはなく、どちらも物事の性質、状態、様子、機能などが好ましく、満足すべきさまであるという意味である。だが、ことばとしては「よい」のほうが格段に古い。「よい」の文語形は「よし」だが、『日本書紀』『万葉集』といった奈良時代や平安時代初期の文献にも用例が多数ある。
 これに対して「いい」はかなり新しい。最も古いものは江戸時代中期の用例である。このようなこともあって、『日本国語大辞典』は、「江戸時代前期に見られる『えい』の関東なまりとして生じた語か。」と推定している。この「えい」は、たとえば、『雑兵物語』(1683頃)にも「もはやゑい時分だ程に今にこべい」などとある。『雑兵物語』は江戸時代の兵法書で、雑兵(下級武士)の心得を説いたものだが、江戸初期の口語資料としても貴重である。文中の「こべい」にも注目していただきたいのだが、この「べい」は「べいべいことば」「関東べい」といわれた「べい」である。「こべい」で、来るにちがいないといった意味である。
 「えい」は『日本国語大辞典』によると、
 「明和、安永頃(1764〜81)から広まり使われたらしく、明和八年(1771)頃「遊子方言・発端」には通り者が「ゑい」を用い、明和八年「俠者方言」に「ゑゑ」が見えるなど、俠(きお)い者や、それに近い人から用い始めたようである。」とある。
 「通り者」「俠い者」とは、義俠・任俠をたてまえとしている者、つまり俠客(きょうかく)のことである。
 このように口頭語として使われていた「えい」が「いい」となり、徐々に文章語にも定着し、意味も「よい」と同じように用いられるようになるのである。
 以上のことからもおわかりのように、「よい」は文章語的、「いい」は話しことば的と言える。だが、それ以外にも大きな違いがある。
 「よい」は形容詞としての活用をすべて持っているのに対して、「いい」は終止形(「・・・したほうがいい」など)と連体形(「いい感じ」など)の用法しかない。このため、「よい」と「いい」を別語と考えずに、「よい」の終止形・連体形に「よい」と「いい」の両形があるとする立場もある。
 しかし、最近は「よい」よりも「いい」の方が優勢になりつつあるため、終止形と連体形に限っては「よい」を使うと文語的なニュアンスを持つと受け止められることが多くなった。
 たとえば「頭がよい」と「頭がいい」、「腕のよい料理人」「腕のいい料理人」などの違いである。
 なお、「いい」には、終止形・連体形以外の活用形「よく・よかった」(連用形)や「よければ」(仮定形)などに当たる形はないと書いたが、実は方言としては「いく」「いかった」などの形も見られるのである。日本語は本当に面白い。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fjapanknowledge.com%2Farticles%2Fblognihongo%2Fentry.html%3Fentryid%3D280
まあ、平家物語には、「 驕れる者は久しからず」とありますし、万世一系の平和国に出来た訳でしょうかね?



10810青面金剛:2021/05/06(木) 22:47:06
隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011377M.jpg

https://asia-u.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&amp;item_id=13011&amp;file_id=22&amp;file_no=1



10811秦野北斗:2021/05/07(金) 13:35:37
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011378M.jpg

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou72/kai07206.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10812青面金剛:2021/05/07(金) 19:07:41
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011379M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011379_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011379_3M.jpg

https://plaza.rakuten.co.jp/utiwauke/diary/?PageId=6



10813秦野北斗:2021/05/08(土) 11:42:42
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011380M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/癸未

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10814青面金剛:2021/05/09(日) 04:34:23
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011381M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011381_2M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011381_3M.jpg

https://note.com/spinozaist1/n/n1b8e5522cddb



10815秦野北斗:2021/05/09(日) 09:05:06
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011382M.jpg

青面金剛さんへのお返事です。

何これ、鏡の銘文が相当、異なるな、全文不明のため、参考

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

添付してある、銘文の赤が訂正部分

癸未年八月日十大王年男弟王在意朱(あけ、)以加宮時斯麻念長奉(まつる)遣開中費直穢人今州利二人尊(みこと)所(ところ)白上同二百旱作此竟


癸未八月、日十(あき、すべて)大王年(ね:種族)男弟王、在(あり)意い、朱(しゅ、)(大(たい、)朱(しゅ、)王(おう、))以(い)(あか、もって)加わる宮を時(とき)斯(ここ)に麻念長(あざ、おもう、おさ)、奉(まつる、)(まつる)遣わす、開(ひ)らく中(あたる)費(つい)やす、直(まこと)穢(けが)人、今州(いま、くに)利(よ)し二人尊(みこと、)所(ところ、)白(つくも)、上同じ、二百(ふた、なり)旱(陸地)作る、此れ竟(さかい)。
?


第51回 韓国史 広開土太王、好太王碑 ?改定(原文直訳)

?

https://www.youtube.com/watch?v=ln9KBz74Vh8

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10816秦野北斗:2021/05/09(日) 12:01:03
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011383M.jpg

https://note.com/spinozaist1/n/n1b8e5522cddb

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10817青面金剛:2021/05/09(日) 22:43:23
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011385M.jpg

https://note.com/spinozaist1/n/n1b8e5522cddb



10818秦野北斗:2021/05/10(月) 08:41:59
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011386M.jpg

https://note.com/spinozaist1/n/n1b8e5522cddb

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10819青面金剛:2021/05/10(月) 16:24:14
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011387M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011387_2M.jpg

http://www.ten-f.com/suda-kagami-to-oshisakamiya.html



10820秦野北斗:2021/05/10(月) 22:57:35
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011388M.jpg

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_27.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10821秦野北斗:2021/05/12(水) 08:21:42
Re: 隅田八幡鏡銘文
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011393M.jpg

https://dictionary.goo.ne.jp/word/空しい/

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10822秦野北斗:2021/05/13(木) 10:27:36
Re: 磨溝(甘粛)、金蝉口(青海)、石?(Shimao、陝西)、牛河梁(遼寧)、夏家店(内蒙古)、バヤン・ウルギー(西モンゴル)制覇!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011396M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

青面金剛さんと同類だな・・・?

> 黄土高原で青銅器社会を形成し殷商と激しく対立した

黄土高原は古代には荒地で鍬もなかったの、海岸でイワシ漁で貧しく生きてたようだ。
史記を読め・・・

>
> もう一点。夏家店下層文化集団を気候変動で南に移動した「原殷人」と見なすと、殷の人々は古羌と同じ祖先を持っていたことになる。女系MT-haploで見れば、古羌と中原の人々とはさらに区別が付かない。羌と殷商の人々の互いに対する敵意は、彼らの生業の違いからのみ来ていたことが確認できるんだよ!!
> 感動だろ。
>

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10823管理人:2021/05/13(木) 15:22:00
Re: アイヌ・蝦夷の起源7
シマオゥさんへのお返事です。


>
> アイヌのもうひとつのルーツといえば、オホーツク人に決まっている。彼らが熊送りをはじめとして、アイヌの精神文化に多大な影響を及ぼした。
>
> では、オホーツク人はどこから来たか?文化的には靺鞨の強い影響下にあった。しかし、オホーツク人の骨格の研究では、アイヌ人とは全く異なることは当然として、靺鞨やツングース系とも異なる北の渡来人。ニヴフやコリャークが関わってくる。1ー2年前からの遺伝人類学的研究の進展で古墳時代人の来歴もだいたい分かったし、あとはオホーツク人の全ゲノム解析が行われると面白い。
>


ルーツさん、おひさしぶりです。1年半ぶり・・ですね、お元気そうで何よりです。

アイヌ人のルーツ、興味深いですね。先日はアイヌ神話を分析してみましたが、その構造に中東的?要素が多く、いつごろそれらの神話伝承が持ち込まれたのか、その起源に興味があります。

ご指摘のニブフやコリャークの言語なり成立過程がどうなっているのか、気になるところです。

あと、こちらの掲示板は来るものは拒まず、去る者は追わずの方針ですが、誹謗中傷の度が過ぎている場合は削除対応しますので、よろしくご了承ください(^^)

10824管理人:2021/05/14(金) 07:50:45
Re: 発寒環状列石ライン
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > ここ最近胃の調子悪く、更新滞ってます。
>
>
> なんじゃこれ。新興宗教?

中学レベルの幾何学がわかる知能指数に達してないと決してこの図の意味は理解できないと思う・・。

強いて言うと、旧石器時代から縄文時代にかけて、かなり知能指数の高い人種が紛れ込んできた可能性を示しているのだが、どこのどういう人種だったか?を突き止めたいところだね・・・。

朝から血圧あげてくれるのは毎度感謝していますよ(^^)

10825管理人:2021/05/14(金) 22:38:48
発寒環状列石
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011406M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011406_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011406_3M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークル#世界のストーンサークル



10826秦野北斗:2021/05/14(金) 23:03:15
Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011407M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=BQxh2H0iaio

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10827秦野北斗:2021/05/15(土) 01:26:33
Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011410M.jpg

http://www.daido-it.ac.jp/~sawaoka/kyoiku/index14.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10828aoide:2021/05/15(土) 09:33:26
額田王 
https://blog.goo.ne.jp/yuki0805/e/547ce56f34986418d2b6166ee8df161d

https://blog.goo.ne.jp/yuki0805/e/547ce56f34986418d2b6166ee8df161d



10829秦野北斗:2021/05/15(土) 13:40:48
Re: 額田王 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011414M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=y5dMmfnz6o4

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10830aoide:2021/05/15(土) 14:55:33
Re: 額田王 
有り難うございます。YouTube見ました。高槻という地名がありますが、古名は高月ですね。
槻の一族という意味もあり、弓月君のように、月の属性があるという意味ではないでしょうか。槻は弓の材料でもありますね。
額田王の事で間違いないと思います。

https://blog.goo.ne.jp/yuki0805/e/547ce56f34986418d2b6166ee8df161d



10831秦野北斗:2021/05/15(土) 16:31:31
Re: 額田王 
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011416M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/イカル

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10832aoide:2021/05/15(土) 17:06:17
Re: 額田王 
秦野北斗さんへのお返事です。

藤ノ木古墳はいいですね。
私は神武から数代は九州と奈良で激しい往来があったと考えています。
中原氏の祖先、十市首の祖先が、饒速日に同行したホホロ。
戦後、熊本の鹿子木氏によって公開された家系図から、中原氏は熊本に拠点を置いたまま、奈良で活動していたようです。
安寧天皇の皇子の子孫とされています。
阿蘇山周辺では、綏靖天皇は金属の神(金凝神・かなこりがみ)として祭られています。
鹿子木氏の人々は、熊本を出るとカノコギと名乗りますが、熊本ではカナコギと名乗っています。最近ではあまり気にしないようですが。
blog貼っておきます。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fblog.goo.ne.jp%2Fyuki0805%2Fe%2Fb6e777afe925f1340741113e290fbc31

10833秦野北斗:2021/05/16(日) 01:33:11
Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011420M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

黄土高原は、広いな、中国も尖閣など言わず、黄土高原を開発したら・・・と思うよ、
ところで、DNAと関係あるの、文献がないな・・・どうせ史記だろう。黄帝は総称で、史記には
これ何々(太郎)で記録されてる。

黄土高原の侵食は速いようだな・・・馬鹿な秦野です。
島尾は、エジプト?同様に古代には黄河を溯った・・・
島(しま):海や湖沼にあって、常に水上に出ている陸地。
尾(お);うしろ。あと。すえ。「尾行」「船尾」、番外の意味に入り江の港がある。

> エリートの埋葬、そして豊富な遺物。私たちの最近の学際的調査は、後者の発見に沿って、以前は黄土高原と見なされていた地域である黄土高原からオルドス(以下、北黄土高原と呼ぶ)への移行帯で発達した予期しない先史時代の複雑な集落システムを明らかにしました。集落の多くは丘の上に建てられた石の要塞であり、このシステムの主要な中心は陝西北部のShimaoにある巨大な石壁の場所でした。これらの新しい発見は、課題と研究の機会をもたらします。
>
> 2. Shimaoの発見
> Shimaoは、陝西省楡林市神木郡の南西約40kmの高家堡郵町にあります。この場所は、翡翠との関連性から1970年代から知られています。世界中の美術館や個人のコレクションに保管されている約3000から4000の翡翠は、おそらく島尾に由来すると推定されています。
> Shimao遺跡と翡翠の関係を明らかにすることを目的として、1970年代から1980年代にかけて小規模な発掘調査が行われた(西安番浦博物館、1988年)。しかし、収集された翡翠の正確な出所も、Shimao遺跡の規模も明らかにされていません。
> 何千年もの間立っていた壁は、王朝時代に建てられた万里の長城の一部であると考えられていました。 1990年代以降、Shimaoの城壁の翡翠に関する噂が地元の村々に広まり、略奪活動が激化し、敷地に甚大な被害をもたらしました。サイトを保護し、その歴史的重要性をよりよく理解するために、陝西省考古学研究所は2011年からShimaoとその周辺地域で体系的な調査と発掘を行い、この壮大な場所の正体を徐々に明らかにしてきました。



https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10834管理人:2021/05/16(日) 01:41:35
続中国方位ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011421M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011421_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011421_3M.png

シマオゥさんが今回紹介してこられたShimao遺跡について、ちょっと気になったので、方位ラインで結んでみました。図1のとおりです。

以前、図2,3のラインもこちらでお知らせしたとおりですが、今回このShimao遺跡を含めて再検討してみた結果、いくらかまた新たな位置関係がわかってきましたね。

中国方面における測量の起点としては三星堆遺跡があることは以前も申したとおりなのですが、そこから龍山文化に属する鹿台崗遺跡と大汶口遺跡へと伸びるラインですね。

これが重要で、その大汶口遺跡から烏海に至るライン上に、SHIMAO遺跡が位置しています。

この烏海については、どういうわけか多くの遺跡の測量起点となっており、当時の遺跡があるんじゃないかとおもうんですね・・、いや、あったかな、記憶がおぼろげ・・・?

それで、その烏海から陶寺遺跡、そして洛陽そばの二里頭遺跡へのラインがあり、また同様に鳥海から鹿台崗遺跡をへて長江方面の良渚文化へと伸びるラインも見えてきます。

あと、後代になると、昆明から二里頭遺跡をへて殷墟へと伸びるラインが出てくるわけですが、この辺のラインは時代的に相違があるので、他の拠点とは図をみても関係してこないこともわかりますね。その殷墟については図2のように亀ヶ岡方面へと伸びるラインがあるのですが、今回は説明は割愛します。

今回のSHIMAO遺跡に関しては、これらのライン関係をみるかぎり、大汶口文化ともっとも深くかかわる可能性があり、また次点として龍山文化の一部や良渚文化、あるいは三星堆文化とかかわってくるように予想しますが、どうでしょうね・・・。

そのSHIMAO遺跡の年代としては、ご紹介の翻訳によれば、西暦前2300年から1800年とされますから、夏家店下層文化や、大汶口文化の後期、あるいは三星堆文化の年代と重なりそうですが、ちょうどそのころに、縄文人の世界に先の環状列石があらわれてくるわけですね。一部は図2のように、朝鮮の漢城周辺も経由しているはずです・・・。

以前も図3で示したように、インダス、あるいはシュメール文化方面から南まわり、あるいは北方経由で東遷してきた集団の影響があるのではないでしょうか。この時期に急激に都市構築や金属精錬などの特殊技能が発達したようにみえます。

もちろん、その担い手の多くはそれ以前にいた中国の集団であることは間違いないのですが、一部の支配層・技術者層に西方からの移民が混じっていた可能性もあるんじゃないかなと思いますよ。その痕跡をDNAなり言語面から見いだせれば面白くなりそうです。




10835秦野北斗:2021/05/16(日) 06:54:58
Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011423M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

史記には、種族も出ているの・・・

この世界は不公平なの・・・

>
> > 黄土高原は、広いな、中国も尖閣など言わず、黄土高原を開発したら・・・と思うよ、
> > ところで、DNAと関係あるの、文献がないな・・・どうせ史記だろう。黄帝は総称で、史記には
> > これ何々(太郎)で記録されてる。
> >
>
> ん?「黄土高原が広い」んじゃなくて、秦野よ、「あんたらの世界」が狭すぎんの!!
>
> 勉強不足以外の何ものでもない。卑小だからこそ、蚊蜻蛉は跳ね返ろうとする。
> そうして、井の中の蛙のような夢を作り出す。そう、これは表裏一体なのだよ。
>
> 中国の古人骨データもこの1ー2年でかなり蓄積されて来た。いまどき、遺伝人類学の最新データを知らずに古代史を語ることなどできない。
>
> 黄帝そのものが実在したかはともかく、黄帝に類する有力者やその部族が存在したのは確かだろう。紅山文化晩期の牛河梁遺跡で出た五号大墓双亀老人(ハプログループF8〔威信財から当時の宗教的統率者と推定〕)か大?(Shimao)文化のF8-A9459-F438-Y17728-F2137-MF15397あたり。黄帝の本拠地はまさに黄土高原北部とされるから後者がより可能性がある。年代も近い。
>
> F8は紀元前2000年から紀元前1000年にかけて最も有力な農耕牧畜集団であり、夏殷周から、秦漢、五胡十六国時代までこのハプログループF8を中心に歴史が展開して行ったと言っても過言ではない。中国人においてF8としては15%、F438としては5%を占める。漢代以降、北方・南方の諸民族を編入し割合を下げた。
>
> 当然、我が国の歴史、日本人の形成にも大きく関わる。原日本語集団はおそらく遼河〜山東で成立したはずだ。F8としては現代日本人の5%、F438としては2%を占める。日本人も、中国の場合がそうであったと同様に、列島で異民族の縄文人や縄文人との混血である弥生人を多く組み込み割合を下げる。現代人に5%残っているというのはかなり凄いことなのだよ。
>
> 毛玉さんがこのグループに残ってたら張り合いも出るが、今の面々では学ぶところがなさ過ぎる。
> さて、そろそろ、管理人の別ハン「通りすがり」君が登場する頃じゃないか?・・・

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10836秦野北斗:2021/05/16(日) 13:53:08
Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011424M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

> 毛玉さんがこのグループに残ってたら張り合いも出るが、今の面々では学ぶところがなさ過ぎる。
> さて、そろそろ、管理人の別ハン「通りすがり」君が登場する頃じゃないか?・・・

般若心経で送ってやるよ、
仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切[注 5]顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪
即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経

誰も読めないな、農業技術の伝来の記録だが、百姓の4000年の歴史



https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10837秦野北斗:2021/05/16(日) 22:54:09
Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011429M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

ハプロでは、説明が出ないだろ・・・

中国文献も読めず、ハプロだけじゃダメなの

ヒントは倭国なんだ、こいつらが匈奴になる、フン族だよ・・・

ユーラシア帝国をつくる、モンゴル帝国より大きい。

ハプロのごちゃごちゃが説明できるだろう。

次ぎは、ハプロの混血説明できるかな・・・


>
> 諸君に共通して言えることですが、「想像」だけではダメなんですよ。そんなもん子どもにもできる。
> 「証拠」が伴わないとね。

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10838管理人:2021/05/17(月) 00:39:38
続中国方位ライン2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011432M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011432_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011432_3M.png

https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12619747152.html

http://



10839秦野北斗:2021/05/17(月) 08:18:14
Re: 続中国方位ライン2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011435M.jpg

https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12619747152.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10840管理人:2021/05/17(月) 12:55:03
Re: 続中国方位ライン2
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> まー、どうせ暇つぶしでやる分には良いんじゃないですか?こちらも批評するの面倒くさい。
> 最後に管理人さんの年齢当ててみましょう。
> 「ムー大陸とかオカルトが流行った世代」の宮台真司くらいで、1960年前後生まれ、つーと、60歳前後、でしょ。>元オウム真理教の上祐も同じ世代なんだね。秦野は高次脳機能障害の終末期老人。


こちらも、たくさん投稿されても読むのが大変だよ・・笑
シマオウ(ルーツ)くんは、そのマンガ世代の言葉遣いからみても、20代後半くらいかな??博士論文まで書いたんだから、研究所や大学の金食い虫で終わらないようがんばってね!


10841秦野北斗:2021/05/17(月) 16:47:24
「遮光器土偶」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011437M.jpg

https://www.baobuzz.com/info/115528.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10842秦野北斗:2021/05/17(月) 22:40:36
Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011439M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/邪馬台国

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10843管理人:2021/05/18(火) 00:58:19
続中国方位ライン3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011441M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011441_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011441_3M.jpg

秦野さん、シマオウさん、わかちあいありがとうございます。

まずは秦野さんの遮光器土偶の件から・・・、確かによく見ると、遮光器土偶と西周時代の青銅器の紋様には共通性があるようですね。

以前、殷と亀ヶ岡について、その遮光器土偶等との両者の関連を指摘されているサイトがありましたが、やはり殷の影響が大きいのではないでしょうか。年代的にも重なってきますしね。

以前もお知らせした殷墟と亀ヶ岡遺跡などの亀ヶ岡式土器を出土した遺跡を結んだラインについて、もう少し精度を上げたものを作成しなおしてみました。

図1、2です。両者は図法が異なり、図1は緯度・経度の位置が正確です。図2は角度を見る際に役立ちます。図3は拡大図。

ここでは、まず三星堆遺跡を起点として、殷墟を経て、常呂遺跡に至るラインがありますね。その常呂遺跡自体は亀ヶ岡遺跡よりはるかに古いのですが、ただ亀ヶ岡式土器が出土しているそうですから、後代の前1000年前後にも、この遺跡が再活用されいたのでしょう。

そして、殷墟⇔平壌南部⇔亀ヶ岡遺跡へと伸びるライン、殷墟⇔城子崖遺跡北部⇔三崎山遺跡へと伸びるラインがあります。

その三崎山遺跡からは殷代の刀子が出てますから、殷との関係が疑われるのですが、また図のように、三崎山遺跡と亀ヶ岡遺跡をさらに北へ伸ばすと手宮洞窟へと至ります。手宮洞窟からはフゴッペ洞窟と同様な先刻文字がありますね。これも縄文時代のものと考えてきたとおりです。

そして、亀ヶ岡遺跡⇔大湯環状列石北部⇔大洞貝塚へと伸びるラインがありますが、また常呂遺跡から大湯環状列石北部を経て三崎山遺跡へと至るラインもあります。

加えて、図のように手宮洞窟⇔亀ヶ岡遺跡⇔三崎山遺跡へのラインもあります。

あと、図のように平壌南部⇔漢城中心部⇔金海へと伸びるラインがありますが、また漢城⇔手宮洞窟⇔常呂遺跡へと伸びるラインも確認できます。

そのほか、殷墟⇔城子崖遺跡北部⇔三崎山遺跡⇔大洞貝塚へのラインもあるかもしれません。

これらのラインの誤差については、図3の各遺跡と、そこを通過するラインについての拡大図を確認していただきたいのですが、まず、上記の三星堆⇔殷墟⇔常呂遺跡に至るラインについては、殷墟の位置において北へ3KM前後の地点をラインが通過している、つまり誤差があることがわかります。

三星堆⇔殷墟間=1096?、三星堆⇔常呂遺跡=4925?に対して、3?のズレですから、3/1000 前後のズレが生じていたと考えてよいでしょう。

また、同じく漢城⇔手宮洞窟⇔常呂遺跡へと伸びるラインですが、これも手宮洞窟の北1km前後の地点をラインが通過してますから、同様に漢城⇔常呂遺跡=1605?で、漢城⇔手宮洞窟=1340km となりますから、1/250くらいの最大誤差がありますね。

なお、この漢城⇔手宮洞窟⇔常呂遺跡は、先の平壌南部⇔漢城⇔金海に対して直交、つまり90度になってますから、意図的な角度とみなしうるでしょう。偏角は東30度となるわけです。

そして、手宮洞窟⇔亀ヶ岡遺跡⇔三崎山遺跡については、亀ヶ岡遺跡の東の500mあたりをラインが通過してますから、手宮洞窟⇔亀ヶ岡遺跡=265?、亀ヶ岡遺跡⇔三崎山遺跡=201?ですから、最大で1/400くらいの誤差があると考えるべきでしょう。

あと、大湯環状列石の北部2kmあたりを上記の亀ヶ岡遺跡⇔大湯環状列石北部⇔大洞貝塚へのライン、また常呂遺跡⇔大湯環状列石北部⇔三崎山遺跡へと至るラインが双方通過していますが、大湯環状列石⇔三崎山遺跡=152?、大湯環状列石⇔大洞貝塚=156?ですから、2/150前後のズレがあり、ややこの時代の測量としては誤差が大きいですね。この誤差発生には何らかの別の理由があるはずです。

ちなみに三崎山遺跡⇔大洞貝塚=160?ですから、正三角形の領域を構築しようとした可能性も考慮すべきかもしれません。

このようにみていくと、幾何学的な測量方法を用いて、殷代からその末期あたりにかけて、朝鮮半島、日本の東北部へと移住していった集団がいたと考えるべきかと思いますし、それが亀ヶ岡式土器や三崎山の殷の遺物と、殷との相関性にあると考えれば理解しやすくなりますね。

その測量精度としては、ばらつきはありますが、概ね1度以内の誤差に納める精度はあったのではないでしょうか。距離が数百キロ単位ですから、GPSもない当時としてはよく測量していたと思います。

そして、これらのライン上、特に交点には、まだ明らかにされてない当時の遺跡が多くあるはずですし、そこにポイントを絞って発掘すれば、自ずから結果がついてくるでしょう。

ローラー作戦的な考古発掘は数十年となされてきたわけですが、ここらでもう一段階、その発掘精度を上げて、経費や労力を削減ために、方位ライン分析をそろそろ採用してみてはいかがですかね・・・。

また、これらのライン上の遺跡については、同一集団の移動が予想されるわけですから、当然その遺骨にも同じ遺伝子が混じっている可能性が高いと言えるでしょう。

これもローラー作戦的に遺伝子を把握する段階から、ライン上の都市を絞り込んでその遺伝子を調査していけば、もっと目的の遺伝子を持つ人物が多く見えてくることも予想できますし、目的達成までの効率が良いと思います。

ローラー作成が終わるまで待たずとも、早い期間で結果を出せれば、それだけ早く学問を発展させうるわけです。

方位ライン分析にこだわる理由は、研究を効率よく進めるためといっても過言ではありません。地道なローラー作戦をしている時間や資金は、そろそろ日本人にはなくなっていくような気がしますからね・・・。






10844管理人:2021/05/18(火) 01:26:55
Re: 文化とDNA自慢
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> それでも、ミトコンドリアは体重の1割をも占めるんで、MT-haploはY-haploより存在感があります。6リットルの水って結構重たい。Y染色体DNAを抜いても生きていられるだろうが、ミトコンドリア抜いたら死ぬだろうね。しかし、私のY-haplo O-F438は「自閉症リスクが低い」という研究結果もあるので、「重要ではない」とは言い切れない。
>

なるほど、、ミトコンドリアって、確かに細胞内でも体積占めてますよね、そこまで重くなってくると、ミトコンドリアダイエット!とかもできるかも・・・・!体への影響力が大きいですね。



> 以上、DNA的アイデンティティをまとめると、「現代北東アジア人の私は、ルーツを辿れば過去の黄土・チベット高原、シベリア集団、もっと絞れば、黄土高原・長城地帯の集団の一員だった」ということになります。古墳文化を日本に齎した北方集団です。彼らの故郷は、北方中国とくに遼西・遼東半島、そして朝鮮半島(北京漢族に最も近いのは奈良県人)。
>

なるほど、偶然か必然か、そのご自身のルーツに近いところへとお出かけになられているようですから、本能的なものもあるのかもしれませんし、また帰国される際には、日本の渡来人の遺跡もめぐってみてくださいね・・・!



> あと、おまけで、
> (5) 「トレジャー遺伝子」ー良いものにも悪いものにも感謝!
> ? 中国の長寿遺伝子
> ? 炭水化物代謝が早い遺伝子
> ? 脂質代謝が早い遺伝子
> ? アルツハイマー・リスク低減遺伝子
> ? トップアスリート遺伝子
> ? ハゲ遺伝子ー管理人さんにあげたいですが、今は良い薬もあるようだから、早期発見・早期治療を目指します。
>
> 管理人さんのトレジャー遺伝子は何ですか?



いやはや遺伝子調査をしたことないので、遺伝子面では何も言えませんけど、?のハゲ遺伝子は父型にはなく、母方に多いようですので、気にし始めてますが、まだ幸いにも白髪が少々出始めたくらいですから助かってますよ(笑)

長寿遺伝子は、うちも双方そのようですが、細胞のエネルギー代謝の早いのは短命だとかいう研究もあるようですね。ラットとかはそれが人間の2倍近くで短命だとか・・。

あと、やはり脳とか神経系の遺伝の影響は大きいと思いますね。父型は機械系、祖父の父は宮大工だったらしく、祖父もバイクとか何も見ないで分解して組み立てなおせるくらいの空間認知能力があったようです・・・。逆にあまり話し上手ではない、文科系に向いてないというのもそうでしょう・・・だからこんなところでこんなわけのわからない幾何学図形を書いてるわけです(汗)

仕方ないですよね、本能とか適性には逆らえないこともありますから、だましだまし欠点を隠して、その長所を生かせるように使っていくべきでしょう。

グループ作業や研究の利点は、その欠点を補い、長所を生かしあうところにあるとおもうんですよね・・・・。相手の欠点を言い始めたらキリがないですし、双方無駄な時間になるでしょう。

野球でも、先発投手と抑えの投手が役割分担してたりしますが、大局的な準備をするのがうまいひとがいれば、素早い詰め将棋が得意な人もいて、それぞれ適性あるとおもいますし、双方を一人でこなす必要もないかと感じてます。

ハプロタイプの組み合わせ論などでも、о系統とD系統は双方うまくやっていける?とかいけないとか、相性みたいなもののあったんじゃないですかね。牧畜と漁業者の協同みたいなもので、その辺のパートナー論も、見えてくれば面白いですね。

10845秦野北斗:2021/05/18(火) 01:36:45
Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011443_2M.jpg

https://kknews.cc/history/blgbopn.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10846秦野北斗:2021/05/18(火) 09:40:02
Re: 続中国方位ライン2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011447M.jpg

http://konchan.net/x/archives/11014

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10847秦野北斗:2021/05/18(火) 23:20:00
Re: Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011451M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/魏志倭人伝

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10848管理人:2021/05/18(火) 23:46:23
続中国方位ライン4
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011453M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011453_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011453_3M.png

https://www.yfull.com/tree/O/



10849秦野北斗:2021/05/19(水) 13:06:27
Re: 続中国方位ライン4
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011455M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/史記

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10850管理人:2021/05/19(水) 13:39:31
Re: 文化とDNA自慢
シマオゥさんへのお返事です。

> 似とるな。
>
> 私は自分のMT-haplo G3a2繋がりでオホーツク文化にも関心があるので、北海道住まいの管理人が羨ましい。G3a2はロシア沿海地方のウデヘに見られる。「私の血の中に、北海の怪獣狩人の血がまじっていることを知っただけで豊かな思いを持っ

ちょうど、昨日は蔦屋でアイヌ文化の雑誌を立ち読みしてましたが、オホーツク文化は、粛慎、後代の靺鞨とかかわりがあるとみなされているようですね。

粛慎
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%25B2%259B%25E6%2585%258E_%28%25E4%25B8%25AD%25E5%259B%25BD%29


確かに、毒矢や住居形式など現在のアイヌ文化ともかかわり深そうです。その起源は、紀元前の粛慎の風俗にあるということになると、実に長い伝統を継承してきたことになるはずです・・・・。


>
> 2. Okhotsk culture 牙製婦人像
>
> オホーツク文化(プレ期3世紀〜終末期13世紀頃)
> この文化を特徴づける遺物のひとつとして,骨・牙製の婦人像がある。それらはすこし前かがみで,手を前に組んだり,合掌したりしている姿をし,そのモティーフはモンゴル出土の牙製婦人像や遠くセミレチエ地方の突厥の女性石像に類似している。この文化の発生については,南サハリンと北海道北部において自立的に生まれたとする説と大陸からの影響を受けて生じたとする説がある。
> →大陸起源が通説。紅山文化の後裔で、靺鞨と関係。




突厥ですか・・!合掌するのは宗教者っぽい雰囲気ありますよね・・・。

ソグド人の石像、ルーツさん的には突厥のそれなんでしたっけ、その石像文化が、6世紀代に北九州へともたられて磐井の墓の石人となったという見方もありましたね。

同じ突厥の石人文化が、九州と北海道にもたらされていったとすると面白いですね。文化的に双方に共通性が見いだされればもっと興味深い!

個人的には、その磐井等のご先祖の北燕遺民ですね、これらが新漢人として天智系の天皇家のパトロンとして白鳳時代から平安時代ごろまで活躍、靺鞨粛慎との交易ルートを、彼らはもっていて、片方が渤海・新羅からの交易ルート、もう片方が北海道、サハリン、沿海州ルートで、そこに靺鞨人が行き来していたと思うんですね。

その末裔には当然、同じ遺伝子が見えてくるはずですしね・・・。



10851秦野北斗:2021/05/20(木) 08:48:14
Re: 文化とDNA自慢
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011464M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ムックリ

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10852管理人:2021/05/20(木) 16:55:21
Re: キラータ(Kirata)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011465M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011465_2M.png

https://hollywoodsnap.com/black-people-bleached-skin-turned-into-a-white/



10853管理人:2021/05/20(木) 17:13:17
Re: 文化とDNA自慢
シマオゥさんへのお返事です。

> ニヴフが基調だと思います。
> サハリンのニヴフはYに次いでD4mが多く、大陸側のニヴフではYに次いでGです。D4mは悪魔の門の洞窟で出たものと同じです。図は悪魔の門の洞窟集団のデータ。
>
> 図から分かるように、悪魔の門の洞窟の人々は北東アジア人と極東ロシアの先住民とのハイブリッドです。私は、日本人との遺伝人類学的関係において、アイヌよりもオホーツク人の方に関心があります。もっとも、アイヌの女系の多くは彼らが由来なので、アイヌに伝わる文化の中にオホーツク人を感じることができると思っています。



アイヌ文化を考える際に、そうですね、オホーツク人の文化と縄文人、和人のそれの区別も必要でしょうし、さらにオホーツク人のそれもいくらかに分類しながら識別作業が必要ですね。

アイヌのチャシなどは、東北方面にも似たようなものが多くあり、オホーツク人のそれとは異なる縄文人起源だと考えているのですが、神話面では東北のそれと比較したことはないですが、どこか西方的な要素が強く、中・近世にロシア方面からもたらされたのか、やはり縄文系なのかも気になるところです。

入れ墨や刺繍については沖縄と共通要素が多いそうで、縄文系のようですが、ただ、先のアイヌ神話を読む限り、入れ墨をしていたコロポックルのような小柄な先住民がいて、そこにある時期に、文化人であるアイヌの祖先がどこからか移住して、その入れ墨文化を継承したような構造になっているんですよね・・・。

かなりはっきりした歴史記録を継承しているところからみて、それほど遠くない時代にアイヌのもう片方の祖先がどこからかやってきたように感じるのですが、ニブフとかその辺の兼ね合いを考えていくと何かみえてくるでしょうか・・・

あと、アイヌのムックリは有名ですね!呪術で使うのでしょうし、呪術の楽器って、結構その民族において根幹をなすものだったりするので、解明のカギになるかもしれません・・。



10854管理人:2021/05/20(木) 22:07:34
Re: 文化とDNA自慢
シマオゥさんへのお返事です。

> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > アイヌの楽器(ムックリ)ですか、なんじゃ
>
> 近世アイヌへはニヴフから入ったんだとよ。

確かに形状的にもムックリとニブフのそれは、よく似てますね。

起源は、なぜかShimao遺跡が出てくるところが興味深い・・・・。


「Jew's harp」

History

The earliest depiction of somebody playing what seems to be a Jew's harp is a Chinese drawing from the 3rd Century BC, and curved bones discovered in the Shimao fortifications in Shaanxi, China are believed to be the earliest evidence of the instrument, dating back to before 1800 B.C.E.[4][5] Archaeological finds of surviving examples in Europe have been claimed to be almost as old, but those dates have been challenged both on the grounds of excavation techniques, and the lack of contemporary writing or pictures mentioning the instrument.[6]

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fen.wikipedia.org%2Fwiki%2FJew%2527s_harp%23cite_note-6


10855管理人:2021/05/20(木) 23:08:07
北燕遺民
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011473M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/龍城



10856秦野北斗:2021/05/21(金) 11:59:29
Re: 紅山文化の人たち
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011479M.jpg

https://wenku.baidu.com/view/e594e7e8bdeb19e8b8f67c1cfad6195f312be8e0.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10857秦野北斗:2021/05/21(金) 16:25:07
高句麗の歴史
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011482M.jpg

紀元0年夫余、好太王碑【第一面】韓半島の歴史が記録される。
夫余は臨津江 まで、その後、臨津江を越え韓半島に、時(種族)が欲しがり、高句麗は韓半島に取り込まれた部族。高宗の大唐大將軍(白村江の戦い)で滅亡する。「栄光ナル朝鮮語族」だ、流れ者だぞ、現在の韓国と同じ、アメリカに活かされている。尚、時(種族)は土岐氏、明智君の先祖

好太王碑【第一面】
鄒牟王は大水王(別名)こと臨津と云う。母は河伯と云う、世子(子供)は弱いため、留める黄龍を迎王とする、黄龍こと大朱王(別名)の十七世孫が永楽太王になる。

日本書紀
冬十月、大唐大將軍英公、打滅高麗。高麗仲牟王初建国時、欲治千?也、母夫人云「若善治国、不可得也、但當有七百年之治也。」今此国亡者當在七百年之末也。

解説する、高麗は高宗の大唐大將軍、英公に滅ぼされた。高麗仲(鄒)牟王が建国した国、時(種族)が欲しがり治める、治める善い千(かしら)は歳なり、母は夫(種族)人は云う。此の国は若くないと聴くなり、当り有る700年此れ治めるなり、今此の国亡き者、当り在る700年此れ末(終る)なり。
高宗:母: 文徳皇后長孫氏
在位期間: 649年7月15日? - ?683年?12月27日?
没年: 弘道元年12月4日; (683年12月27日)
父: 太宗(第9子)

朝鮮語族はハプロではゴミ、考えないほうがいい・・・




https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10858秦野北斗:2021/05/21(金) 20:23:26
Re: 紅山文化で行われていた言語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011485M.jpg

https://www.weblio.jp/content/

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10859秦野北斗:2021/05/21(金) 23:34:02
Re: 紅山文化で行われていた言語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011489M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

理解できないだろうな、

秦野が史記、古事記、・・・が読めるのは共通語を見つけたからなんですな。

DNAには、記憶もありそうだな、シマオゥさんはコロナワクチンで復活???・・・

夢、夢・・・

シマオゥさんへ、好太碑の碑文(文献)訳したら教授になれるぞ、

> > 例、シベリアは痺れる、らしいな。
> > 大変だ、百済、新羅、高句麗、日本(倭)、匈奴、中国・・・は共和国ですな
> >
>
> 秦野さん、きちんとお薬飲んでますか?DNAは、記憶

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10860管理人:2021/05/21(金) 23:34:19
Re: 北燕遺民
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011490M.jpg

https://youtu.be/6eILFgXv4yM



10861管理人:2021/05/21(金) 23:48:11
Re: オホーツク人研究の発展
シマオゥさんへのお返事です。

オホーツク人の研究史お知らせありがとうございます!


>

> 1974年
> モヨロ貝塚などの人骨を総合的に分析した結果、もっとも類似した関係にあるのがアムール・サハリン地方の諸集団で、その中でもウリチ人が最も近いとされた(山口敏)。
>
> アイヌの精神文化との関係1 クマの牙偶
> 胴部に観察される腹帯がサハリン・アイヌのクマ送り儀礼のものと酷似しており、アイヌ文化の精神世界はオホーツク文化からの強い影響を受けている(渡辺仁)。
>


なるほどですね・・・。



> 1975年 山丹人との関係
> アムール河流域の黒水靺鞨が直接にサハリンから北海道に移住したとされたさらに、アムール河流域の黒水靺鞨はウリチ人であり、彼らの子孫が後に山丹として山丹交易を担ったとされた(加藤晋平、大塚和義)。
>
> 1976年
> 土器、石製品、鉄製品、青銅・銅製品、ブタ、イヌの飼育、仰臥屈葬、木棺墓などにより、オホーツク文化は黒水靺鞨文化を主体としながらも、その前後の文化との類似性も強く認められる。その一方で住居形態や墓制など社会の基本形態の違いが大きいことを重視すると、靺鞨文化や女真文化の直接的な波及はなかった。オホーツク文化の担い手については、中国唐代の『通典』などに登場する「流鬼」すなわちニヴフが該当する(菊池俊彦)。
>
> →こうして、オホーツク文化の成立過程については、北海道の在地文化の影響を受けながらも、基本的には大陸にルーツを持ち、サハリンで成立、北海道に南下したということに一応落ち着いた。
>

ふむふむ。



> 1981年 北アジア人としてのオホーツク人
> オホーツク人の信仰
> 牙製女性像の衣装には鈴や鐸、帯飾りが付けられており、集団内のシャーマンであり、弁髪を結い、スカートをはき、前かがみで手を組むなどの特徴から、北アジアの古代習俗との結び付きがある(加藤晋平)。
>

牙製女性像ですね・・。


> 1989年 アイヌの精神文化との関係2
> オホーツク文化遺物に集中して登場するクマ、海獣、鳥がアイヌ文化の動物信仰と共通していることから、オホーツク文化の信仰はアイヌ文化に受け継げられた(宇田川洋)
>

アイヌ神話には、思うに、動物などを主体としたシリーズと、それとは別のヤタカラス神話によく似た西方遊牧民・中東系のそれとがあるように感じてます。前者がオホーツク人の影響で入ってきた可能性ありですね・・。


> 1990年
> 年代譜が明らかにされた。
> プレ期 3ー4世紀
> 前期・後期 5ー9世紀
> 終焉期 9ー12世紀
>

7世紀の阿部の遠征に出てくる粛慎でしょうね。石狩川より西の道東に本拠をもっていたはず。



> 1994年
> 目梨泊遺跡の墓の副葬品として鉄刀類や鉄鉾、曲手刀子、耳飾りなどの組み合わせがモヨロ遺跡と類似するとともに、帯金具はアムール河中流域の靺鞨文化のものと類似しており、大陸文化の強い影響がある。一方で、両遺跡とも本州文化からの渡来品である蕨手刀が見られ、南北交易の拠点であった。


思うに、その帯金具などの金属精錬技術の確保あるいは輸入が、西方遊牧民や中東系の集団から取りいれたものでしょう。

ステップルートで遼東や沿海州周辺で交易していた集団から、オホーツク人が取り込んでいって、それに付随して、中東・西方系の神話なども、アイヌ神話の原型に導入されていったのかな??



10862管理人:2021/05/22(土) 00:36:21
続中国方位ライン5
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011493M.png

https://kotobank.jp/word/廟底溝遺跡-121364



10863管理人:2021/05/22(土) 00:40:39
Re: 北燕遺民
シマオゥさんへのお返事です。


>
> 紅山文化の古人骨のadmixtureは現代人ではホジェンが近いのでツングース寄りだったんじゃないですか?コリアンにも近いですかね。
>

なるほど・・・、ツングース系の先祖のY-C?と、その後に出てきたY-N、あるいはOの混血の可能性もありますかな・・・



>
> ウラル祖語は、ウラル諸語に現れる動植物や養蜂、塩関係の語彙の分析から割り出された東西南北の境界の推定から、ウラル山脈東西どちらかで起源したという説が一般的なので、紅山文化の人たちがウラル語を行っていたとは思えませんが、サハ(ヤクート)はどうですかね。バイカル方面にいたとされるんですが、でも、サハはMT-haplo D5が多いので結構南にいたのかもしれません。あとは、紅山文化は朝鮮語族の可能性もあります。


バイカル湖周辺の集団・・・気になりますね!!また明日に・・!




10864秦野北斗:2021/05/22(土) 09:56:33
Re: 北燕遺民
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011499M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011499_2M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=FuEjONKb3fQ

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10865秦野北斗:2021/05/22(土) 11:35:31
Re: 北燕遺民
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011502M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

PDFだよ、お前の頭じゃ、理解できないだろう
淮南衡山列伝原文よむか、2,3回生まれ変わるな

> ま、秦野は単純にアホな分、キシさんよりマシだ。短文しか書けないから掲示板も見やすい。
ところで、キシさんの漢字遊び懐かしいな、コロナで引きこもりかな・・・
古代史研究家の最先端だな、こじ付け、最先端研究家だよ。古田武彦の影響だろうな

淮南衡山列伝原文+ハプロで教授席は間違いなし、難あり、中国人は読めんな、

>
> >??紅山文化集団は牧畜(秦、以降は農業、コウリャン)
> > 仰韶文化集団は牧畜
> > 騎馬民族ですな、史記の記述がただしいな。
> >
>
> 紅山文化=騎馬民族説?
> 騎馬?最先端じゃん?すごいね!ところで、秦野君は、大学行けたの?
> ま、秦野は単純にアホな分、キシさんよりマシだ。短文しか書けないから掲示板も見やすい。

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10866秦野北斗:2021/05/22(土) 12:08:54
Re: 口琴の発祥地
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011503M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=e-1Qp9Y0RKE

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10867管理人:2021/05/22(土) 20:34:03
Re: 口琴の発祥地
秦野北斗さんへのお返事です。

> シマオゥさんへのお返事です。
>
> > SHIMAOからは最古の口琴が見付かっている。アイヌのイメージくずれる。
>
> 口琴演奏《黄昏》|依然?得从你口中?出再??决如【吹口琴的小园园】
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3De-1Qp9Y0RKE
>
> Olena UUTAi. Earth music festival
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DLH2J81ZjsGk
>
> 口琴好き中学生No.6
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DDHvD5QliFTg
>
>

ひとつめの動画は口琴?ではないような・・。2つ目と3つ目は、確かにアイヌのムックリとよく似てますね。

アイヌのムックリ演奏
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DPvv6xzfLyT8


こちらがシベリア方面?のkhomusですね。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fyoutu.be%2FipsdHA3gLnM



口琴についての呼び方ですが、ムックリの語源ってどこからきたんでしょうね?


ハカス語xомыс(khomys)ホムス
トゥバ語xомус(khomus)ホムス
アルタイ語komusコムス
ヤクートkhomusホムス
キルギスtemir komuz, jugach komuz, ooz komuzテミル・コムズ、ジュガチ・コムズ、オオズ・コムズ
カザフshan qobyz, temir qobyzシャン・コブズ、テミル・コブズ
中国口弦、嘴琴
アイヌmukkuriムックリ
北インドmorchangモルチュン、モルチャン
南インドmorshingモールシン
フィリピンkubing, kumbing, afiw, kinabanクビン、クンビン、アフィウ、キナバン
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10868秦野北斗:2021/05/22(土) 21:52:48
Re: 口琴の発祥地
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011505M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=e-1Qp9Y0RKE

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10869管理人:2021/05/23(日) 00:43:03
続中国方位ライン6
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011509M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011509_2M.png

シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > ちょっと先ほど目についた遺跡に廟底溝遺跡がありますが、これが図のように、三星堆遺跡と殷墟を結ぶライン上にあるようです。
> >
>
> 常識ですが、廟底溝は甘粛・青海の馬家窯、斉家文化の母胎です。Y-haploは紀元前3500年頃のO-M133(F5)-F8が出ています。


シマオウさん、お返事ありがとうございます。なるほど、ハプロ系統図からいくと、廟底溝遺跡から馬家窯、斉家文化へと向かうわけですね!

そこで、その馬家窯、斉家文化の遺跡も交えて、ここ数日明らかにしてきた中国各地の遺跡を結ぶラインを整理してまとめてみました。図1はラインの方向性をみるために、図2は距離と方角をみるために図法を変えてあります。

なおこれらのラインとまったく関係がなかった他の遺跡は外してあります。こうみるとほとんどは前3000〜2000前後の遺跡だと言えるでしょう。つまりそれ以前の文化の遺跡は、これらのライン上にはまず載らないことも確認しています。

そして新たに、長江文明と遼河文明の遺跡も追加してあります。

すなわち、三星堆⇔大渓⇔屈家嶺(石家河)⇔良渚遺跡のラインや、良渚⇔呉城鎮⇔昆明へのライン、呉城鎮⇔屈家嶺(石家河)⇔馬家窯遺跡へのラインなどは長江文明と関係しますが、その一部が良渚⇔鹿大崗⇔烏海へのライン、大渓⇔廟底溝⇔陶寺遺跡へのラインのように、黄河文明へと橋渡ししていることもわかりますね。

そして遼河文明の夏家店遺跡、これがやはり測量の起点となっており、図のように夏家店⇔鹿大崗⇔石家河遺跡へのラインのように、3文明を橋渡ししているものも見て取れます。

夏家店⇔SHIMAO⇒馬家窯遺跡へのライン、あるいは夏家店⇔城子崖⇔大エン口遺跡へのラインなどもあるでしょうし、ラインの交差面からみるとやはり三星堆遺跡へのラインもあったはずです。

そしてその三星堆遺跡が測量の起点であり、先日もお話した三星堆⇔廟底溝⇔殷墟へのライン、同じく三星堆⇔二里頭⇔大エン口遺跡へのラインなどもありますし、あとは烏海市中心部も測量起点であり、烏海⇔陶寺⇔二里頭、烏海⇔SHIMAO⇒大エン口遺跡へのライン、などもありましたね。

このように、おそらくは前3000〜2500年前後あたりから中国に移住してきて青銅器などを広めたであろう彼らは、一種の三角測量を用いて、都市の位置を決めてその構築を行っていったことが明らかになります。

ただ、図のように馬家窯⇔陶寺⇔殷墟のラインは、似たような位置にある斉家坪⇔陶寺⇔大エン口遺跡へのラインへのラインと1〜2度前後のズレが生じており、前者のほうが500年ほど新しいので、それが原因でこのズレが生じているのではないでしょうか。

その誤差の発生については、測量方法や北極星の位置のずれ、あるいは冬至の日の出角が緯度によって増減する件を先ほどは考えていたのですが、後者については具体的には三星堆や昆明の緯度での日の出角と、殷墟など北方都市のそれとは1〜2度相違しており、どちらを起点とするかで、それらの誤差が出る可能性を感じます。

なお、地軸の歳差運動の誤差は5000〜1万年単位とかでないと1〜2度はずれないので、違う原因の可能性がありそうですね。

また日の出角を測るためには、ストーンヘンジとか環状列石を立てて、その日の出位置を正確に測りだす必要があり、大きな列石ほど測量精度の正確性が増すので、ストーンヘンジなどは巨大化していったはずです。月の位置を使えば経度の測量も可能だったでしょう。

ちょうどこの前3000〜2000年ごろは、その環状列石が世界に拡散していく時期ですから、中国や縄文時代後期前半の日本の環状列石もその日の出角から緯度を割り出して、三角測量で経度も割り出し、結果として特定の測量起点となる複数の都市から、図のようなラインを放射状に伸ばして、その交点にも都市を造営しながら、地域支配を確立していったように見えますね。

その進出の細かい年代推移については、シマオウさんご紹介のようなハプロ系統図、そこに見える各遺跡の人骨の年代と分岐から、明らかにできるのかもしれませんし、日本における縄文人なり弥生人、渡来人の渡来から地域進出の過程までも、同様な方法で明らかにすることができるでしょう。

そして日本においても、同様な遺跡や古墳を結ぶ方位ラインが多数あるわけですから、双方を比較分析することで、より正確な年代推定や血縁推定ができるようになるわけで、結果として邪馬台国はどこにあって、その人たちはどこへ拡散・移動していったのかなどといったテーマも明らかにできるかも知れない点で、貴重な資料となるだろうと感じますね。何か新しいプロジェクトを立ち上げたいですね。古代測量とハプロ・・・と掛け合わせて、古代史を本格的に解明するような・・・。その辺をまとめていく知恵が必要です。




10870秦野北斗:2021/05/23(日) 01:17:43
Re: 北燕遺民
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011510M.jpg

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000345549

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10871秦野北斗:2021/05/23(日) 18:09:39
Re: O2(旧O3)とN1、C2は過去も現在も「同じような人々」です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011518M.jpg

https://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/iseki/

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10872秦野北斗:2021/05/23(日) 21:42:05
Re: 北燕遺民
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011519M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

合掌・・・成仏しろ、迷うなょ

>
> キシが冥土から呼んどるぞ。
>

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10873秦野北斗:2021/05/23(日) 22:13:28
甲骨文字
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011521M.jpg

史記卷一百一十八淮南衡山列傳第五十八作者:司馬遷

抜粋、昔秦?(むかし、しん、たやす)、聖人之道(きよい、ひと、これ、いう),殺術士(そぐ、すべ、さむらい),燔詩書(やく、うた、かく),棄禮義(すてる、れい、よい)

燔詩書(やく、うた、かく),です、燔:ひもろぎ。祭りに供える焼いた肉。
これ、甲骨文字ではないか。詩書・・・図添付
読めそうだな・・・

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10874管理人:2021/05/23(日) 23:50:35
Re: 長城地帯vs東方大平原
シマオゥさんへのお返事です。


> ハプログループの分布からは、長城地帯vs東方大平原の構図が見えてくる。東方大平原への進出を図りたいO-M133と東方大平原の旧勢力。しかし、いずれにせよ、控えめに見ても、夏殷周、秦漢まではO-M133の政治的世界だろう。
>
> とくに、紅山文化晩期やSHIMAOといった王権の萌芽が見とめられる重要な遺跡群でF438の勢力が強い。
>
> 漢はM133-F438-F155でほぼ確定している(日本・朝鮮半島にはF155は皆無)。
> 子沢山の皇帝や王族が出た時期にどのサブグループが膨張した等細かく分析されている。
> 現在、F438-F155は中国に2%、F438全体では5%、M133全体では15%にのぼる。
>


なるほど、そういう見方もできそうですね・・・。

今回のラインで取り上げた文化の時期に、そのM133-F438が長江方面まで進出していったのでしょうね。

M133-F438がその後の中国の文化の主体、王朝のハプロとなっていたとのことも、系統図をみるとうなづけるように感じますが、やはりそこには、金属精錬技術を何らかの形で手に入れたことが大きいのではないでしょうかね。

青銅器や鉄器は、武具にもなるし農具にもなり、石器や木器を使用していた他を圧倒したはずです。


> 一方、日本にもF438は2%、M133全体では5%もいる。
> 当然、日本の初期の王権もこの中国大陸の強大な集団の動きから免れ得たというわけには行かないだろう。古人骨を調べられたら、必ずM133やF438辺りが多く出るはず。
>

おそらくは、縄文時代の中期後半、あるいは晩期の亀ヶ岡文化の時代に、それぞれ大陸の影響を強く受けた技術者集団が渡来したはずですが、青銅器が定着するまでには至らなかったような感じがしますね。

後者は殷の時代で、殷の青銅刀子なども出土しているわけですが、それが時代がたつにつれて石で模造した刀子になることからみると、青銅精錬技術が継承されなかったのか、そもそも精錬技術をもった人物が渡来してこなかったようにも見えます。

つまり金属器は輸入等に頼り、自前で掘削・精錬するほどのことは考えていなかったケースです。

この技術者の渡来の有無の件は、後代の壁画古墳のような場合にも当てはまっていて、大陸系の技術者が渡来した場合は、大陸そっくりな絵画や彫刻を描いたりするわけですが、渡来しなかった場合は、その絵画や彫刻の真似を素人がやったような稚拙な作品が残ったりしてます。

あるいは技術者が来ても、その継承者がいなかった、あるいは数代で途絶えてしまったケースですね。言語の継承にも同様な現象はあるでしょう・・。


> 日本に狩猟採集民系のD1a2aや中国では周縁化された漁業・園耕民系のO1b2が多く残っているのは、東国の土豪の膨張も理由のひとつだが、第一に共存を許す自然環境があった。つまり、深い森林の東日本、海に囲まれた日本という自然環境。弥生・古墳文化人の側にも犠牲を出してまで文化程度の劣る彼らを殲滅するよりは、緩やかな同化によって労働力を確保しようという意図もあった。
>


はたして、M133-F438が有していたであろう大陸系の技術・文化・言語は、日本へ渡来したのちに、圧倒的に多数だった先住民に対して、どれほどの影響を与えれたのか?ここが課題となるでしょう。

> 列島にやって来た日本人が優しかったとか、土着の「ヤポネシアン」の勢力が根強く妥協せざるを得なかったというわけではなく、戦争し殲滅することで得られる利益と、狩猟採集や漁業をさせて得られる利益や得られる労働力とを比較考量した上での施策だったと言えるだろう。そして、古墳時代を通じて東北まで一気に北方日本人化される。東北にO-M133が多いのもこのためだ。弥生・古墳文化人すっごーい!笑



そうですね、先住民を殲滅することを避けた、明らかに無理があった・・・、妥協・共存のほうが有益と見て取れたのかもしれませんね。

縄文時代のM133-F438の日本文化への影響は、それほどでもなかったのかもしれませんが、あとは古墳時代後期の渡来人の影響ですね、金属精錬技術も卓越していたでしょうし、文書技能も同様で、大陸文化を全国レベルで波及させていく、、、この影響がどのくらい日本人の遺伝子ハプロや言語の変遷等から読み取れるか?気になるところです。


10875秦野北斗:2021/05/24(月) 22:14:10
Re: 朝鮮半島で見付かる最も古いハプログループMT-haplo G3a
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011528M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

> 韓国の掲示板でイルボン、エソという字を見つけて、何やら日本のG3a2に関わることを言っている
古事記に韓国は倭で日本である、紀元前200年ぐらいですな。此のあたりで、ぐちゃぐちゃになる。

シマオゥさんのルーツはシルクロードの流れ者のようだな、秦野はシルクロードが妙に懐かしく感じた、
ぐちゃぐちゃが原因か?


> > しかし、G3a2aは現代韓国人にもいることが分かっているので、朝鮮半島から日本に来た可能性は非常に高いです。朝鮮半島にいたのであれば、広義の遼河文明圏において櫛目文土器文化(紀元前8000年〜紀元前1500年頃)に参加していたのでしょう。朝鮮半島のG3aが南方の縄文人に対して文化的影響を与えた可能性はあり、場合によっては縄文期の列島に渡ったこともあり得ないことではありません。
> >
>
> 韓国のMT-haplo G3a2
>
> 韓国にも私のMT-haplo G3a2がいる。その事は以前から知っていた。で、図2の韓国の掲示板でイルボン、エソという字を見つけて、何やら日本のG3a2に関わることを言っていると発見した!ハングルと「イルボン・エソ」が「日本から」くらいのことは私にも分かる。
>
> 面倒くさかったが、コピー&ベイストできないので、ひとつひとつハングルを打ち込んでグーグル翻訳にかけてみる。こういう時の対処法は前に教えてもらってはいたが忘れてしまった。
>
> 労力に比して、得られたもの「日本からカザフへG3a2が行った」くらい。
> 旧石器時代の朝鮮半島のG3aから日本でG3a2が起源し、それがカザフまで逆走して行ったということか?!G3aが北東アジアで起源して、遼河文明人として、モンゴル、中央アジア、青海方面に移動したこと自体はあり得る。
>
> ただ、G3は東より西の方が比率が高く、古人骨の所在地も西北モンゴルのフブスグル(G3a)と青海の斉家文化(G3a2)なので、西から東への移動の線も依然としてある。
>

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10876管理人:2021/05/24(月) 23:15:17
ハプロタイプと言語系統
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011529M.png

シマオゥさんへのお返事です。

> 図は計算言語学の手法による Jägerらの研究(2015)。
> こういった手法では、言語接触による語彙の借用による類似や偶然によっても「同系」として扱われてしまう可能性が高いですが、チュクチ・カムチャッカ語族が印欧語族と同クレードにあったり、さらにウラル語族やニヴフ語、ユカギール語とも近い関係にあるところが面白いでしょう。
>
> 日本語もアイヌ語とともにオーストロアジア語族のようになっています。
> これは、日本語の基層言語にオーストロアジア系言語があったことを窺わせると解釈した方が良いでしょう。アイヌ語は、日本語との借用語の要素が強く結果に反映されたのだろうと思います。
>
>


こちらの言語比較系統図は大変興味深いですね!
その精度はともかく、ハプロタイプとの比較をしていくとどうなるかが気になりました。

今回は、Y染色体ハプロタイプの系統図と、ご紹介の言語系統図とを、個人的に比較してみたのが図1です。

ウィキで適当にその語族を話す集団とY染色体ハプロの関係をみながら、図に青文字で対応ハプロを書き込んでみました。


こうみると、Y染色体ハプロの系統図とは相関性は見出しうるものの、きれいに割り切れてないことがわかりますね。

つまり父系のみで言語が継承されるという規則がないかぎり、母系の影響も多大に受けている、、、下手すると母系のほうが強いかもしれない可能性を感じます。

特に本来はY染色体系統では、O系統はC系統の下層にあるNやR系統に近いはずなのに、実際はD系統とのアジアでの混血によって、その言語を取り込んだのではないでしょうか。

日本人の場合は、シマオウさんのお話にもあったように、オーストロアジア語族、つまり縄文人の言葉がやはり基層にあるのでしょうね。Y-Dと関係するでしょう。

北東アジアの集団はN系統とQ系統との混血が多いので、双方が絡んでいるようにみえますし、ただR系統やC系統は父系が強いのか、あるいはほかの集団と混じらなかったのか?で。比較的きれいにY染色体系統で割り切れているようにも見えます。

そして、母から子へと父親からよりも言語が自然に継承されるであろうことを考慮すると、むしろ母系のミトコンドリアハプロタイプの系統図に、言語の系統図が近似する可能性を感じますが、その辺は、秦野さん、シマオウさんのお話にでてきているミトコンドリアハプロとアジア系集団との兼ね合いあたりからも、はっきりしてくるような予感がしますね・・・。

また明日あたり、ミトコンドリアハプロについても考えてみます。




10877秦野北斗:2021/05/25(火) 21:51:12
Re: 伽倻の始祖首露王の妃「許黄玉」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011537M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

伝説は嘘ぽいな・・

> 伝説
> 『三国遺事』巻二「紀異」の駕洛国記の条に、次のような記述がある。古代朝鮮の部族国家ができあがる時の神話として解釈されている[3]。
>

駕洛国の原文に総て百が姓になっている?。百の姓は史記、古事記にもあるぞ・・・

古代朝鮮の部族国家・・・これ正しい??文章添付



> こりゃ面白いね!
> なんと!伽倻の始祖首露王の妃「許黄玉」はサータヴァーハナ朝から来たインド人!
>
> 遺伝学的根拠があり、子孫は「インド南方系のMT-haplo」を持っているという。インド南方系ということは、インド人の1割を占め、インドにしか見られないM2だ。ドラヴィダ語族に関係すると言われている。
>
> 釜山広域市と金海市は、「許王后婚行ロード」として世界遺産登録を目指しているという。
>
> --------------------
> 参考
> サータヴァーハナ朝
> 公用語 マハーラーシュトリー語
> テルグ語
> サータヴァーハナ朝(Sātavāhana、紀元前3世紀/紀元前1世紀? - 後3世紀初頭)は、古代インドの王朝である。プラーナ文献では、アーンドラ朝とよばれる。サータヴァーハナが王家名で、アーンドラが族名である。ヴェーダ文献ではアーンドラ人はダスユ(夷狄 非アーリア人)と呼ばれており、恐らくドラヴィダ系の集団であったといわれている。
>
> 許黄玉
> 許 黄玉(きょ こうぎょく、???、32年 - 189年)は、金官伽倻の始祖首露王の妃[1]。金官伽倻の第2代の王居登王を生む。
>
> 許黄玉はインドのサータヴァーハナ朝の王女で、インドから船に乗って48年に伽耶に渡来し、首露王と出会い、その時にインドから持って来た石塔と鉄物を奉納した。許氏は首露王との間に10人の息子をもうけたが、そのうち2人に許姓を与え、それが金海許氏の起源とされる[2]。
>
> 2004年の学会発表によると、許氏の「インド渡来説」には遺伝学的根拠がある。金海にある古墳の、許氏の子孫と推定される遺骨を分析した結果、ミトコンドリアDNAは(韓民族のルーツである)モンゴル北方系ではなくインド南方系の特徴を備えていた[2]。
>
> 伝説
> 『三国遺事』巻二「紀異」の駕洛国記の条に、次のような記述がある。古代朝鮮の部族国家ができあがる時の神話として解釈されている[3]。
>
> あらすじ:阿踰陀(あゆだ)国の黄玉の両親に夢のお告げが下った。曰く駕洛国(金官伽倻)の首露王は天が遣わした特別な人間であるが、いまだ独身だ。黄玉を送り妻とするようにと。黄玉は海から蒸棗(なつめ)を求め、天に昇って蟠桃を得ると[3]首露のもとにやってきた[4]。なお、蟠桃は神仙思想に現れる長生不死の桃で、昆崙山にある「玉桃」とか仙桃山に実る「仙桃」とも呼ばれる[5]。
>
> 釜山広域市と金海市は、「許王后婚行ロード」の観光商品化にむけた「許王后婚行ロード再現および祝祭事業」に共同で取り組んでいる。同ロードは、インドからやってきた黄玉が金海に到着した地点をスタートとし、結婚式を挙げたところをゴールとする(望山島(鎭海龍院)→維舟岩→興国寺→金首露王凌)。長期的ビジョンとしては、同 ロードのユネスコ世界文化遺産登録を目指している[6]。
>
> その他
> 金官伽倻は良質の鉄に恵まれ、中国や日本に輸出して栄えた。鉄の武器のほか、小さな鉄のインゴットを製造した。これは貨幣のような交換手段に使用した[7]。
>
> 釜山広域市海雲台区の冬柏公園には、「海を渡って恩恵王に嫁いだ黄玉姫」の伝説に基づく人魚のブロンズ像がある[8]。ここでの黄玉姫を許黄玉と同一視する郷土史家もいる[9][10]。

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10878管理人:2021/05/25(火) 23:47:00
ハプロタイプと言語系統2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011539M.png

https://en.wikipedia.org/wiki/Human_mitochondrial_DNA_haplogroup



10879管理人:2021/05/27(木) 00:46:52
ハプロタイプと言語系統3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011545M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/オーストロアジア語族



10880秦野北斗:2021/05/27(木) 21:13:33
陝西省の歴史
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011549M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本人

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10881管理人:2021/05/27(木) 22:25:59
Re: ハプロタイプと言語系統3
シマオゥさんへのお返事です。


>
> そういう単純な考え方は10年以上前のネットでは通用したかもしれないですが、今では噴飯ものですよね。AもN9もNから直接分岐する根の深いものなので、現代に至るまでの言語的な関係はないですよ。だって、4ー5万年以上も前の関係でしょう?
>
> 4ー5万年以上も前のハプログループの「兄弟関係」なんて、現在の言語系統に影響を及ぼしません。語族形成期、だいたい印欧語でもトランス・ヒマラヤ語族、ウラル語族でもどんなに遡れても紀元前4000年くらいを目安にします。
>

なるほどそうなんですね・・・。言語というのは、伝言ゲームに例えることができるでしょうか。同じ文章を伝えても、100人も伝言すると、まったく別の文章になってたりするものですよね。特に語彙が変化してしまう・・、意味も変化するし、しかし、語順とか文法は100人伝言してもそれほど変わらない・・・のかな?

また、100人で伝言ゲームするにしても、文字にしてあれば、グッと伝言の変化も抑えれますし、また1人が1人に伝言するより、10人が10人に伝言するほうが、相互で間違いを補完できるので、伝言精度があがるでしょうね。。

つまり、ど田舎の移動生活をする数家族で言語で継承すると、都市部の数十家族で文字を用いて伝言しあうような文明が起こってからのほうが、言語の変化が少なくなるということでしょう。



> そこにおいて圧倒的意味を持つのが「農耕牧畜民の言語」です。印欧語族やトランス・ヒマラヤ語族は言うに及ばず、コリャークやウラルなどもトナカイ牧畜民の民ですね。新しくシベリアに拡がった人々。
>

そうそう、そういうことですね。定住生活者、集団生活、都市の形成、文字文化の発達・・・ですね、これらの要因で言語が固定化していくのでしょうね。

それでも明治の言語と現在の言語では大きく異なっているように、年代とともに語彙が変化していくのが免れないのですが、文法ですね、これは明治も平安もそれほど変化してないので、もし縄文人とか旧石器時代人の言語から継承している部分があれば、語彙の近似よりも、文法の近似に求めるべきということになりそうですね。


> > つまり、弥生人はオーストロアジア語族であった可能性が高いということになると、サンスクリットやドラヴィダ語族のそれとも相関性が出てくる可能性もありそうですね。
> >
>
> O1b2が元はO1b1と同じオーストロアジア系であったとしても、中国沿岸を北上してO2と接触するのですから、言語転換から免れることはないでしょう。形質的にも北方化していたでしょうね。
>


確かに弥生人の人骨なりを考えていくと、北方系新モンゴロイドの影響大きいように感じますね。

そして、他の集団と混合する可能性ですね、、ルートとその時間差によっては、どうしても避けれないケースがあり、日本列島への渡来に関しては特にその件が重要要素になりますね。

朝鮮半島と、南西諸島、この辺でどうしてもほかの集団と混合しますから。ただ、先日の5〜6世紀の北燕遺民のケースのように、1世代あるかないかで朝鮮半島を通過してしまうケースでは、ほとんど朝鮮語の影響を受けずして、北方遊牧民などの言語が九州などにもたらされた可能性を感じます。


> そうでなければ、「超南方系」の先住D1a2aと「南方系」のオーストロアジア系を掛け合わせても、非常に南方系の形質やDNAになってしまいます。これでは北方系の古墳文化人がいくら流入しても、「現代日本人の北方形質やDNA」にはとても近付かなかったでしょうね。
>

そうですね。弥生人と縄文人(それ以前の旧石器時代人の形質も保持)は、あまり混合してないと思うんですね。ごく最近になってからでしょう。今でも田舎にいくと、まったく弥生人的な形質を持ってない人を多くみかけますからね。農耕に適しない土地には弥生人はあえて進出しなかった・・・・。言語的にも混合してなかった可能性がありますね。出雲とか東北とか、今でも一般的な日本語のそれとは相違があるようです。

> 東アジアのハプログループと言語系統の関係で、一番スッキリしているのは、Y-haplo O-M133(F5)-F8またはO-M134とトランス・ヒマラヤ語族との系統関係です。これは古人骨と現代人の両方で確認することができるので申し分ありません。
>
> 古人骨では、甘粛磨溝の古羌遺跡で見られるF8-A9459-F438ですね。現代人ではチベット高原を除くチベット・ビルマ系はF8-A9459-CTS4658です。青海喇家、金蝉口の古羌遺跡ではF8-YP4864です。
>

海外のモデルケースを、日本でもあてはめたいですね。その土地出土の人骨やハプロ、言語(方言)の扱い方とか・・。サンプルケースがいくらかあって、それを日本のそれにあてはめたときに、どのサンプルケースに似た現象が起きていたか?を確認しながら、その土地の成り立ちを類推するみたいな方法論ですよね。日本の各地の方言の構造と、ハプロの対応関係があきらかになれば、彼らがどこからどこへいつ移動したのか?みたいなことも日本古代史の研究成果として取り上げれるような時代もくるのかな・・・


>
> チベット・ビルマ系も類型的には膠着語ですね。しかし、基本的なことですが、類型論は原則系統論と別です。形成論も違います。類型が似ているからといって同系統というわけではないんですよ。分析的な傾向の強い英語と漢語は同系ですか??語順が同じの日本語とヒンディー語は同系ですか??
>
> > 例えば、「飛ぶ」という動詞だと
> >???? tob という語幹[2]に、
> >???? tob anai:「飛ばない」
> >???? tob imasu:「飛びます」
> >???? tob eba:「飛べば」
> >???? tob ô:「飛ぼう」(発音はトボー)
> >
>
> 日本語と朝鮮語とニヴフ語の類似として、語根と接辞との間に特定の母音を介入させる点が挙げられます。形容詞も活用する、これも同じです。これはモンゴル語やトルコ語等には見られない形式です。
>
> たとえば、日本語の「飛ぶ」tobuの語根はtob-です。これに否定の接辞-naiを付ける際に、tob-naiではなく、tob-と-naiの間に母音aを介入させますね。
>
> 日本語と朝鮮語とニヴフ語間の言語接触はあったと見て良いでしょう。SHIMAOにも関わって来ると思います。
>
> --------------
>

こういうのは不思議ですね。文法面での構造的な類似ですよね・・・。語彙が同であるか否かにかかわらず、その根底に流れる文法が同じということですから、その3つの言語については、同じ祖先がいて、その文法構造を継承していったとのことになるでしょうか。

現存しない集団を浮き彫りにしていく作業、、、興味深いところです

10882秦野北斗:2021/05/27(木) 23:10:26
Re: 陝西省の歴史
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011553M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/秦河勝

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10883秦野北斗:2021/05/28(金) 09:05:16
Re: 陝西省の歴史 SHIMAOと秦人, 戎狄(西戎)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011559M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/西戎

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10884秦野北斗:2021/05/28(金) 22:55:50
Re: 陝西省の歴史 SHIMAOと秦人, 戎狄(西戎)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011561M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/華夏族

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10885秦野北斗:2021/05/29(土) 10:10:27
Re: 陝西省の歴史
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011566M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本人

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10886管理人:2021/05/29(土) 11:29:53
Re: ハプロタイプと言語系統3
シマオゥさんへのお返事です。


>
> それは、とても間違った認識です。音韻は変わるからこそ、変わらないのです。音韻の規則的対応を見出すことが比較言語学のオーソドックスな方法です。これと比較すると、文法はランダムに変わって行きます。
>

おっしゃる意味がよくわからないのですが・・・。音韻については、語彙というより、文法・・ですよね?


> > 朝鮮半島と、南西諸島、この辺でどうしてもほかの集団と混合しますから。ただ、先日の5〜6世紀の北燕遺民のケースのように、1世代あるかないかで朝鮮半島を通過してしまうケースでは、ほとんど朝鮮語の影響を受けずして、北方遊牧民などの言語が九州などにもたらされた可能性を感じます。
> >
>
> そうですか。北方遊牧民というと、トルコ、モンゴル、ツングース諸語ですか。
> では、例を示してもらおうか!笑



そうですね・・・、まずは、同じ渡来人でも北燕遺民(新漢人)より前に、やってきた東漢氏の系譜に、遊牧民に多い「腹(ハラ)」と兄弟のことを呼ぶことがあり、その東漢氏が製鉄や馬の飼育にたけていたことから、遊牧民系とみなされていることがありますね。


坂上氏の上奏文にその腹が記されてます。

臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。・・・・乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。


後漢の霊帝の時代、つまり三国志の時代ですね、牛の教え(インド系の占術に多い牛宮のそれです)に従って、朝鮮の帯方郡にまず向い、そこで優遇されて、立派な都市や村を建てるまでに至ったとあります。相当な人数だったことがわかりますよね。技術者で優遇されていた。それで、また何らかの要因で壊滅されるとおもったので、母弟である迂興徳および、七姓民を率いてやってくるわけです。

これが4世紀末〜5世紀初頭とされる応神朝とされますが、当時の百済・東晋・日本との間での同盟関係を通じて、派遣された技術者の子孫が彼らとのことになるようです。

製鉄技術と乗馬技術を日本にもたらしますが、同時に漢字など大陸系習俗を多くもたらしたことでしょう。その習俗の中に、なぜか遊牧民系のそれがあったわけですね・・。

東晋と山東半島、百済・・、ここに遊牧民系の集団の痕跡を求める必要がありそうです。


それから6世紀になって、北燕遺民とかかわるであろう新漢人が渡来して、一部がこの東漢人等の中に同族として取り込まれた可能性も考えられてます。


それで、問題は腹(ハラ)の語彙ですが、彼らの七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)姓をみると、特に高姓、段姓は、高句麗・鮮卑系ですよね。

遼西の段姓は有名。


段部



前史

段部の始祖である段日陸眷は幼い頃に売り飛ばされ、漁陽烏桓の大人である庫?官の奴隷となった。漁陽で大飢饉が起きると、庫?官は段日陸眷が強壮であることから、遼西に移って糧食を集めるよう命じた。段日陸眷はこれを機に庫?官に叛いて自立すると、流亡の人々をかき集めてその勢力を強大化させ、かつて漢代に放棄された遼西郡令支県にある城郭を根拠地とした。

段日陸眷の死後は弟の段乞珍が位を継ぎ、その死後は子の段務勿塵が継いだ。段務勿塵は遼西の地を統べて西晋に臣従し、その部民は3万家余り、騎兵は4・5万にも及んだ。
王浚に従属
303年12月、幽州刺史王浚は幽州での地盤確立の為に、娘の1人を段務勿塵に嫁がせた。これ以降、王浚とは親密な関係となり、王浚の上表により遼西公に封じられた。


319年4月、段匹?の兵は食糧不足のために四散したので、薊を離れて上谷に拠点を移した。だが、代王拓跋鬱律より攻撃を受け、段匹?は邵続の統治する楽陵郡に身を寄せた。

12月、遼東を治める東晋の東夷校尉崔毖の呼びかけにより、段末波は慕容部討伐の兵を挙げ、宇文部・高句麗もまた呼びかけに応じてそれぞれ軍を動かした。三国連合軍は慕容部の本拠地棘城に攻撃を仕掛けたが、慕容廆の離間工作に引っ掛かり、兵を退却させた。


356年1月、慕容恪が河を渡ると、段龕は迎え撃ったが、大敗を喫して数千の兵が捕虜となった。段龕は広固に逃げ戻ると、慕容恪はそのまま軍を進め、広固を包囲した。

2月、慕容恪は長期戦の構えを取った。また、段龕の治める諸城に降伏を促し、段龕配下の徐州刺史王騰・索頭部の単于薛雲らを帰順させた。

8月、段龕は東晋に救援を要請すると、穆帝は徐州刺史荀羨を救援に派遣したが、荀羨は前燕軍を恐れて進軍しなかった。

10月、慕容恪が糧道を断ったので、広固城内では飢餓により共食いが発生する有様であった。追い詰められた段龕は城から打って出るも慕容恪に敗れ、かろうじて単騎で城内に逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅した。

11月、段龕は遂に降伏を決断し、面縛して出頭した。段龕は目を潰された後に殺され、その配下3千人余りは生き埋めとなった。これにより、段部は完全に滅亡した。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25AE%25B5%25E9%2583%25A8



概して東晋と高句麗との間で友好関係があったようですが、356年に滅んでます。
またこの段部のいた遼西が後の北燕の本拠ともなるわけです。

だから先の腹の概念は、鮮卑の習俗と関係する可能性がありますね。


あと、この坂上氏のうち、坂上浄野の子孫の田村氏から私の父がたの姓が分かれ出てきます。



坂上浄野の子孫。
摂津守に任じられた清和源氏の源満仲が多田盆地に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成し、武士団の中心として坂上党の棟梁坂上頼次を摂津介に任じ、山本荘司に要請して西政所、南政所、東政所を統括して多田院の警衛にあたらせた[14]。34代坂上頼泰が足利義輝に仕えたものの、同じ多田御家人の一人であった塩川国満に侵攻され山本坂上氏は衰微する。その後一時豊臣秀吉の親衛を務めるが、後に退隠して町人となり、山本膳太夫と号して山本で庄屋や酒造、銀鉱採掘、両替業などを営み、園芸をして余生を過ごした。
紀伊国の在地領主小島氏は坂上望城の末裔という。大坂の陣で豊臣方につき本家は滅亡したが、庶流が後に大庄屋と成った。
紀伊の山口氏は田村麻呂の5世の孫である坂上五郎の末裔の武士。紀伊山口西に坂上田村麻呂の墓である「将軍塚」や山口西は坂上村とも呼ばれて、紀伊坂上氏の本貫地であった(『和歌山県神社誌』)[15]。山口喜内が大坂夏の陣にて活躍。[16]
田村氏は、陸奥国田村郡に起こり坂上浄野の曾孫の田村古哲にはじまるという。奥州屈指の大豪族で、伊達政宗の正室を出し、江戸時代も名望大名家として続いた。
氏族は山本氏、町口氏、小島氏、山口氏、田村氏、田母神氏など。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%259D%2582%25E4%25B8%258A%25E6%25B0%258F


この氏族のハプロがわかれば、ある程度私の父系のハプロはわかるでしょう・・・。
特に田母神氏ですね、これが血縁的には近い。前航空幕僚長の田母神俊雄さんの顔は祖父の家系の顔ですよ(笑)

田母神 俊雄(たもがみ としお、1948年(昭和23年)7月22日 - )は、日本の軍事評論家[1][2]、航空自衛官、政治活動家。予備役ブルーリボンの会顧問、「日本をまもる会・大東亜聖戦大碑護持会」会長[3]。

第29代航空幕僚長、太陽の党代表幹事兼国民運動本部長[4]、次世代の党副代表[5]を歴任。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%2594%25B0%25E6%25AF%258D%25E7%25A5%259E%25E4%25BF%258A%25E9%259B%2584



10887秦野北斗:2021/05/29(土) 14:36:04
Re: 陝西省の歴史
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011571M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本人

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10888秦野北斗:2021/05/29(土) 22:32:55
Re: 陝西省の歴史
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011574M.jpg

https://www.gizmodo.jp/2017/11/how-do-animals-recognize-each-other.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10889管理人:2021/05/29(土) 23:02:45
漢人の故地
シマオゥさんへのお返事です。


>
> これはね、例えばチベット文語で「鷹」はbyargotと言うのね。現代語の発音はchagöで似てないでしょ。
>
> 他のチベット・ビルマ語でも音節を落として「byargot鷹」を「チャ」と発音したり「ゴ」と発音したりしてる。似てないでしょ?でも法則性に気付けばbyargotと再建できる。
>
> 今は似つかない語との間で一定の法則性を見つけるという作業が比較言語学のオーソドックスな方法です。


ご説明、ありがとうございます。なるほどですね・・・・。


>
> カラー。トルコ諸語でも「腹」をカルンと言いますね。で、日本語とツングース諸語ないしトルコ諸語との間の類似する語をもっと見付けて来て、そこに音韻の対応が見い出せれば、借用語である可能性があります。借用語でも音韻が規則的に対応しますので。でも、そういうことが出来ないんですよ。無理です。
>

カラですか・・!

あと、先の段姓ですが、6世紀の継体朝の百済から派遣された人物なんですよね。東漢氏に組み込まれた新漢人ともいえそうですが、詳しくは下記のとおりです。


段楊爾(だんように、生没年不詳)は、継体天皇の在位中である西暦513年に朝鮮半島の百済から来日したとされる、文献に最初に現れる古墳時代後期の五経博士である。
記録

『日本書紀』によると、西暦513年、継体天皇7年の6月に、穂積押山が百済から帰国するときに、姐弥文貴(さみもんき)・州利即爾(つりそに)両将軍とともに同行したとされる[1]。

前年12月、穂積押山は百済への「任那四県割譲」問題で大連大伴金村の賛同を得て、四県への百済の進出を許している[2]。さらに、大和政権は段楊爾来日の同年11月に己汶(こもん)・帯沙(たさ)を百済に賜与している[3]。これらに対する返礼の結果として段楊爾の来日が実現しており、帰化ではなく、貢上・交替制度であったところに特色がある。また、高句麗や新羅に対抗する百済の外交政策のひとつであったともとれる。

西暦516年、継体天皇10年の9月に、百済からの要請により、漢高安茂と交替させられて、帰国している[4]。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25AE%25B5%25E6%25A5%258A%25E7%2588%25BE



つまり東漢氏の中で腹とみなされていた七姓の漢人自体は、段姓、そして上記の高安茂の高姓・・といった百済に流れ込んでいたであろう漢人集団であったと考えるべきですが、またその皀姓と皀郭姓ですね、これが興味深いのは、サイカ、サカイといった発音だった可能性があることです。


皀 象形。食器に盛られた食物の象形で、穀物のよい香りの意味を表す。『説文(せつもん)解字』では、会意で、白+ヒ。白はもみ殻の中の米の象形、ヒは、それをすくうさじの象形とする。(新漢語林より)
皀(さいかち)
→「皀」を使う名字は全国で、これ一種のようです。
皀郭(きゅうかく)、皀莢(さいかち)、皀角(さいかち)。
(新漢語林より) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fnozomi.a.la9.jp%2Fkaijitbl139.htm



この皀郭姓については、 坂合部首、佐大首の祖。であり、皀姓は 大和国宇太郡佐波多村主、長幡部の祖。ですから、皀郭(サイカク・サイカチ)が、坂合(サカイ)、佐大(サダイ)となり、また皀も佐波多(サハタ)村主(スグリ)、長幡部(ナガハタ+ベ)となるのですから、この集団の元の名は、「サカ(タ)+(イ)」の可能性がありますよね。


サカイというと、サカ族の語音となり、ソグド地方の遊牧民のそれと重なるあたりが、気になるところですが、また細かいことは後日に・・。





10890秦野北斗:2021/05/30(日) 12:22:15
Re: 陝西省の歴史賈湖遺跡(Jiahu, 7000 BC〜5700 BC)の集団は陝西出自。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011581M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/賈湖契刻文字

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10891アストライアの会:2021/05/30(日) 14:07:01
豊饒の海に消えたオホーツク人とは
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011582M.jpg

流氷と共にやって来た謎の民族
アイヌ人が広く北海道に定住する以前の5〜13世紀頃、サハリン南部から北海道北岸、
 南千島のオホーツク海岸部に栄えた海洋狩猟民の文化が有った。
 大正2年、在野の学者であった米村喜男衛氏が、網走の河口岸の断崖でふと目にした貝塚(モヨロ貝塚)が、オホーツク文化として日本考古学史上に現れる端緒である。この発見は当時、世界的にも注目され、作家の司馬遼太郎も米村氏を、トロイの遺跡を発掘したシュリーマンになぞらえた程であった。
 それにより、オホーツクの豊かな海の恵みを受け、高い航海技術と海獣狩猟や漁場の技を
持っていたオホーツク人の存在が明らかになったのである。
オホーツク人は何処から来て何処へ去ったのか。アイヌのコロボックル伝説はオホーツク人のことなのか。
古代人が残した爪痕は、訪れる者を果てしない想像の世界へと駆り立てずにはおかない。

「世界古代文明の謎を探る」(52)「豊饒の海に消えたオホーツク人とは」
主 催 アストライアの会  協 力 日本セカンドライフ協会
ゲスト 高橋 健 横浜ユーラシア文化館学芸員
日 時 令和3年7月6日(火)午後2時から5時
会 場 としま区民センター会議室401(池袋駅東口)
費 用 お茶代込み参加費二千円
連絡先 TEL049(258)3218 松原まで
備 考 後半はゲストを交えたお茶会です。





10892秦野北斗:2021/05/31(月) 01:47:10
Re: 北の渡来人と西の渡来人
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011586M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/衛温

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10893秦野北斗:2021/05/31(月) 06:56:49
Re: わがMT-haplo G3a2aの原郷
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011589M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

> ボケ老人のウリジナルは海を越える、、、か。笑

>わがMT-haplo G3a2aの原郷
>1. 旧石器時代晩期韓国江原道淵堂洞窟ーG3a
>2. 西北モンゴルの後期青銅器時代フブスグル遺跡ーG3a
>3. 青海省北東部金蝉口遺跡ーG3a2
>4. 朝鮮半島ーG3a2aが見られる(現代人)。
>5. ロシア沿海地方ウデヘーG3a2-a*が見られる(同)。
>6. 南シベリア・中央アジアーG3aが比較的多い(同)。ウイグルにG3a2-a*が、ウイグルにG3a2aが見られる(同)。
>7. 新疆ハミ市石人子遺跡ーG3b。現代チベット人にG3b、G3a1が多い。

ウリジナルは海を越えるの、日本は南から北への移動がある、
この移動は紀元前1から紀元後2世紀ものだ。檀石槐の一族の領地

3. 青海省北東部金蝉口遺跡ーG3a2  女王国
4. 朝鮮半島ーG3a2aが見られる(現代人)+日本。東女王国

檀石槐の一族の領地(>1.から>7.)
檀石槐は自らの領有する土地を東・中・西の三部に分けた。右北平から東方は遼東の夫余や濊貊(わいはく)と接するあたりまでの20余邑を東部、右北平から西の上谷に至るまでの10余邑を中部、上谷から西方の敦煌,烏孫に至るまでの20余邑を西部とし、各大人を置いて統領させた。

よく、見つけたな。檀石槐の孫が美和(卑弥呼と誤訳する)、魏誌倭人伝の女王(アマテラス)なの・・・


https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10894秦野北斗:2021/05/31(月) 21:35:17
Re: わがMT-haplo G3a2aの原郷: "我がモヨロ人(オホーツク人)"ではなかった!笑
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011592M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/モヨロ貝塚

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10895管理人:2021/05/31(月) 22:12:57
Re: 日本のO-F438の原郷と「父系出自集団に基づく騎馬民族的社会」
シマオゥさんへのお返事です。

なかなか体調悪く、読み込めてない感じですが、お返事、情報ありがとうございます。


>
> 4. 朝鮮半島
> (1) 新羅ーM117が多い。
> (2) 加羅ー金海金氏がF438(F438*を含む)。
>
> 加羅には注目している。
> KAYAやKARA/KALAが江上波夫が言うように「父系出自集団に基づく騎馬民族的社会」を象徴するものであるならば、牛河梁遺跡の「時の統率者」O-F8や「戦闘的雰囲気」が濃厚なSHIMAO遺跡のF438がその中枢にいた可能性が非常に高い。
>
> なお、牛河梁遺跡のF8のサブグループは不明であるが、古人骨の紀元前3000年頃という年代から、ちょうどそのときに起源したSHIMAOのF438-MF15397(漢族に多いサブグループ)である可能性がある。
>


F438の極東への動きも興味深いですね・・。


> 李基文は本例を日本語の「to(戸・門)」や満州語の「duka」と結び付け、高句麗語ら夫余系言語の影響を示唆している。
>

そうですね、加羅方面へは扶余系の集団の影響強いと思います。ただ、その南下自体は、弥生時代後期あたりではないでしょうか。


> その他では、『三国史記』の加羅地域の地名表記から加羅語を再構する試みも行われている。李基文は、「玄驍県、本推良火県。一云三良火。」(巻34)から「推」の訓「mir」に基づき数詞「mir(三)」を、「漆隄県、本漆吐県。」(同)から普通名詞「to(堤)」を、それぞれ再構し、前者については高句麗語及び日本語と、後者については高句麗語と、それぞれ結び付けることができるのではないかと指摘している。
>

日本語の数詞は、高句麗祖語と扶余系でしょうか、明らかな関係がありますね。。



>
> 江上波夫. 騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ引用
> ウカラ・ヤカラ について は、 すでに 岡 氏 の 見解 を 紹介 し た が、 大野 氏 も、「 ウカラ・ヤカラ は、 朝鮮語・満州語・蒙古語・トルコ 語 に、 同源 の 単語 を 見いだし うる。 古代 朝鮮 では、 しきりに 加羅・伽耶 という 語 が 国 の 名 の 下 に つけ られ て いる。 当時 は 国 と いっ ても 氏族 で あり、 その カラ・カヤ は、 日本 の カラ と おなじ 起源 で あっ た と 思わ れる。 満州語 にも ハラ( hara = 一族) という 単語 が あり、 ツングース の ビラル・クマル・ 興安嶺 方言 では、 カラ( kala = 一族) として 現在 用い て おり、 オロチ・ゴルジ・ソロン の 方言 では、 ハラ( xala) の 形 で、 やはり 一族 の 意味 で ある。 満州語 では、 その ハラ は、 その なか の 人々 の あいだ での 結婚 が 禁止 さ れる 一族 の 意味 を もつ。 蒙古語 では ダグール 方言 に、 やはり ハラ( xala = 一族) として 用いる が、 これ は 満州語 からの 借用語 らしい。
> 古い トルコ 語 に カヤ シ( kaya) という 形 が ある が、これ は 朝鮮語 の カヤ と 類似 する 形 で あり、 l という 音 は しばしば y に 転じ 得る ので、 これ も 起源 を 同じく する で あろ う」 と 説い て おら れる。   この よう に、 日本 古代 の 政治・社会組織 において 基本 的 単位 を なし た ところ の、 父系 出自 集団 の 名称 が、 朝鮮語、 ツングース 語、 蒙古語、 トルコ 語 などに 連なる もの が ある と すれ ば、 それ は たんに 言語 上 の 同系 問題 に とどまら ず、 その 政治社会 組織 自体 において 本質的 に 同類 の もの が、 内陸 アジア、 東北 アジア、 朝鮮半島、 日本 にわたって、 ひろく 存在 し た こと を 示唆 する もの で あろ う。 そう し て それ は 騎馬民族 社会 に 普遍的 な 父系 出自 集団 に ほかなら ない。
> 江上波夫. 騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ [改版] (中公新書) (Kindle の位置No.3267-3276).??. Kindle 版.
>
>

興味深いのは、弥生時代ごろは、カヤと表記されていたのに、その後、カラと変わることです。

ここで別の集団が朝鮮半島に流入した可能性を考えているのですが、上記の論説をみていくと、トルコ系?集団がまず先にいて、その後、古墳時代の前後で、ツングース系集団が新たにやってくる、そういう可能性はないでしょうか。




10896秦野北斗:2021/06/10(木) 09:21:36
Re: ヤマト王権を作った古墳文化人, 「天孫族」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011597M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/宝賀寿男

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10897秦野北斗:2021/06/11(金) 01:02:19
Re: ヤマト王権を作った古墳文化人, 「天孫族」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011599M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/忖度

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10898秦野北斗:2021/06/11(金) 04:19:47
Re: ヤマト王権を作った古墳文化人, 「天孫族」,宝賀説ー「天孫族」とは長城地帯がルーツのO-F438を中核とした、朝鮮半島から渡来したO2(旧O3), C2, O1b2の民だった!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011602M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

>??キシさんと一緒にきちんと成仏しなはれ...

 キシさんの現住所は、極楽だろう、
 青面金剛は、コロナだろう、

 秦野は、行いが悪いので、現状維持なんですな、

 シマオゥさんは、現世で忖度修行ですな、


https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10899秦野北斗:2021/06/20(日) 09:47:30
Re: 古代日本の「天孫族」は「炎黄子孫」ということ: 遺伝人類学的に見た「炎黄子孫」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011606M.jpg

https://ja.wiktionary.org/wiki/炎黄子?

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10900秦野北斗:2021/06/21(月) 00:29:55
Re: 古代日本の「天孫族」は「炎黄子孫」ということ: 遺伝人類学的に見た「炎黄子孫」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011608M.jpg

https://kotobank.jp/word/天人-102647

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10901秦野北斗:2021/06/22(火) 03:58:58
Re: 古代日本の「天孫族」は「炎黄子孫」ということ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011610M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/天神

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10902管理人:2021/06/30(水) 00:06:57
弥生人・渡来人とO-F438系統
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011611M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011611_2M.png

https://www.yfull.com/tree/O/



10903秦野北斗:2021/07/01(木) 05:00:51
Re: 古代日本の「天孫族」は「炎黄子孫」ということ。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011619M.jpg

https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_999913_po_064705.pdf?contentNo=1

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10904管理人:2021/06/03(木) 23:53:16
Re: Re: 弥生人・渡来人とO-F438系統; O-CTS5308の「北燕(高雲)・高句麗王族ハプロ」
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> 図1は北燕を含む五胡十六国時代のマップにO-M133(F5)-F8系統のサブグループを落としたマップ(古人骨がある場合は遺跡名を付記)。
>
> 管理人さん、ビンゴですパチパチパチ(笑)
> ふむふむ、図2でチベット人に多いハプグループO-M133(F5)-A9459-CTS5308のサブグループMF1001が「冀魯高氏」ですから、北燕(407-436)と関係がありそうです。冀魯は河北と山東です。
>
> 高句麗王族の高雲が馮跋によって擁立され北燕天王を名乗ります。
> 高雲が近臣に殺害されると馮跋が自ら天王に就き、北燕は436年まで続きました(北魏により滅亡)。
>
> 馮氏のハプログループは既に分かっていたので、次のようになります:
> 北燕
> ・高雲(慕容雲, 高句麗人):O-CTS4658-CTS5308-MF1001(紀元前900年頃)〜MF91689(西暦440年頃)
> ・馮跋:O-F6800-MF56285(共祖年代紀元前840年頃)〜MF60645(西暦570年頃)
>

さっそくご確認、情報ありがとうございます!やはりそうでしたか・・・、直感的に、渡来人については、嗅覚みたいなもので、どこからいつやってきたかは判断できる自信はあります(^^)

しかし、中国のハプロ研究は進んでますね、日本の十年先を行っているように見えます。




> 日本人の5%を占めるM133(F5)は、A9459から分かれたF438とCTS5308がそれぞれ45%ほどを占めています。このうちCTS5308は本当に北燕由来っぽい。北燕遺民が日本に渡来し様々な大陸の文物を齎したとも言われています。李舜臣もCTS4658なので同祖かもしれないね。アッパレ!笑
>
> 馮跋に傀儡にされた高雲は高句麗の王族なので、高句麗の王統もCTS5308である可能性が極めて高いです。実際、高句麗王朱蒙(東明聖王)・?城高氏がO-P201とは言われていました。P201だからサブグループは曖昧でしたが、CTS5308の「高雲ハプロ」で決まりでしょう。おめでとうございます!早速O-M133ファミリー図に北燕の高雲・高句麗CTS5308と北燕王室(馮氏)F6800を加えて置きました(図3)。F6800にはひとつ古人骨での裏付けが欲しいところです...
>

なるほどですね・・・。5パーセントいるとすると、500万人レベルですから結構いますよね。

特に北燕遺民・新漢人は、近畿から東北の日本海側に分布しているはずですが、実はHLAハプロタイプでも、この系統らしきハプロがあり、日本でも五本指に入る大ハプロ集団になるようです。

なぜ多いのか?について考える必要があるのですが、渡来した北燕遺民が多かっただろう要因とともに、継体朝の影響ですね、、、そこを考える必要があるでしょう。




> 東方のA94t59のF438、F6800、CTS4658で何か共通の言語集団を形成していたら面白いですね。
> 日本語じゃないかな?
>

現在の日本語の起源ですね、、継体朝以降の宮中の言語がどうだったか?にも関係しそうですが、少なくとも朝廷、官僚が使っていた文字や大陸の知識は、この北燕系集団によってもたらされたものを使っていた可能性が高いでしょう。

官僚が動くためには、文書に書いている文字と、同じく彼らが毎日話していた言葉ですね、これらがまったく異なる場合に、官僚が働くことができるのか?が気になるところです。

英語を話す人たちが、日本語で文章を書いて仕事のやりとりをしているようなものでしょうか・・。どちらかに統一する必要があったでしょう。

仮名文字などはその問題をクリアしようとした努力の節のようにもみえますが・・・・


> A9459
> ・F438 (黄帝部族=陝北):磨溝(甘粛)、SHIMAO(陝北)、夏家店(内蒙古)、[漢王室]
> ・F6800(炎帝部族=渭水流域):[斉王室(姜氏)]、[北燕王室(馮氏)]
> ・CTS5308(チベット高原):[北燕王室(高雲)]、[高句麗王室]
>
> どうでしょうか?O-M133面白いでしょ?こんなに興味深いハプログループは東アジアにないんですよ。「王気聚るO-M133ファミリー」に北燕王室と高句麗王室を足して置きました(図3)。
>
> ーーーーーーーーー
> 参考
> 北燕
> 後燕の中衛将軍馮跋は、407年7月に主君であった皇帝慕容熙を殺害して後燕を滅ぼした[1]。馮跋は後燕の第2代皇帝慕容宝の養子慕容雲を新たな皇帝(天王)に擁立して自らは実権を掌握したが、これが北燕の建国といわれる[1]。慕容雲は高句麗人の後裔で、天王に即位してからは姓を高氏に戻している[1]。高雲の即位で高句麗との関係は後燕時代よりかなり好転したが、逆に北魏とは幽州刺史の慕容懿が離反するなどしたため悪化した[2]。また傀儡として立てていた高雲が409年10月に寵臣の離班や桃仁に殺害されたため、馮跋はこの混乱を鎮定して自ら天王に即位した[2]。なお、馮跋が即位した時点を北燕の建国とする説もある[1]。
>

天王に即位するんですよね。天王号を用いていた集団、官僚が日本の継体天皇のそばにいて官僚として働くとすると、当然、当時の大君の称号にも天王号を推奨したりする動きもあったでしょうね・・・。



> 「有名人のハプログループ」Y染色体ハプログループO2a2系統
> 朱蒙(東明聖王)・?城高氏
> 高句麗王朱蒙(東明聖王/Dongmyeong of Goguryeo)の子孫といわれる?城高氏のY染色体は、ハプログループO2a2(O-IMS-JST021354/P201)である(注1)。
> これは、?城高氏の男性1名から得られたサンプルに基づく解析であるため、確定的な結果ではない。歴史的には、668年に唐・新羅に滅ぼされ日本に亡命した高句麗からの帰化人たちを、朝廷は現在の埼玉県日高市の一部および飯能市の一部にあたる高麗郷および上総郷に移住させた。703年には高麗王・若光が朝廷から王姓が下賜されたとされ、716年には武蔵国高麗郡が設置された。現在は、その場所に高麗神社が鎮座している。



あと、そう、この高麗氏とか高句麗系亡命遺民の件ですが、これも7世紀代の朝廷・官僚に大きな影響を与えているはずです。その痕跡がハプロや言語にみえるとおもしろいな・・・。


10905秦野北斗:2021/06/04(金) 14:06:47
Re: Re: 弥生人・渡来人とO-F438系統; O-CTS5308の「北燕(高雲)・高句麗王族ハプロ」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011624M.jpg

http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_27.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10906秦野北斗:2021/06/05(土) 01:49:53
Re: 弥生人・渡来人とO-F438; 「北燕(高雲)・高句麗王族ハプロ」CTS5308; 高句麗語、朝鮮語と日本語(O-M133-F438, CTS5308, F6800)「戎狄語」(Rongdic)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011627M.jpg

https://books.google.co.jp/books?id=HNUrEAAAQBAJ&amp;pg=PT136&amp;lpg=PT136&amp;dq=北燕 原文&source=bl&ots=cNjnjQXkNy&sig=ACfU3U3HWFBbTuvXAxTC-DR1CU5ALXiW8Q&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjvm6XErv7wAhXZP3AKHbhjCH4Q6AEwCXoECAsQAw#v=onepage&q=北燕 原文&f=false

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10907秦野北斗:2021/06/05(土) 13:16:34
Re: 長宗我部氏はチベット高原に多いO-CTS5308(秦氏よりも重要!)。秦氏はO-CTS9678で「始皇帝の子孫」は箔付けと判明(大笑!)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011632M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011632_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/承久の乱

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10908管理人:2021/06/05(土) 23:12:43
Re: 弥生人・渡来人とO-F438; 「北燕(高雲)・高句麗王族ハプロ」CTS5308; 高句麗語、朝鮮語と日本語(O-M133-F438, CTS5308, F6800)「戎狄語」(Rongdic)
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > あと、そう、この高麗氏とか高句麗系亡命遺民の件ですが、これも7世紀代の朝廷・官僚に大きな影響を与えているはずです。その痕跡がハプロや言語にみえるとおもしろいな・・・。
> >
>
> 北燕の初代皇帝高雲のY染色体ハプログループは冀魯高氏O-M133-CTS5308でいいだろうね。でも、私が日本から取り寄せた『五胡十六国時代』には「高雲は高句麗人らしいが」としか書いていないな。ウィキには鮮卑が高句麗の宮殿を連行して来た王族と書いてある。この箇所の出所は不明。
>
> しかし、高雲が高句麗王族で、しかも日本に来たのも高句麗王族であれば、日本の高句麗系渡来人もCTS5308の可能性が高い。そして、そのことは、中国人にはごく僅かなCTS5308が日本ではF438と張り合うほどの比率を持っていることの説明になるかもしれない。
>


さっそくお返事ありがとうございます。CTS5308系統が多い理由・・・、気になりますね。
扶余・高句麗系の日本語への影響はかなり大きいように感じますね。扶余の習俗は日本神道のそれとも深くかかわっており、天皇家の外戚氏族の物部氏、初期の神道の祭祀氏族ですが、彼らの影響をCTS5308系統あたりから垣間見れると興味深いのですね・・・。


> さらに、彼らエリートの渡来より時代は前だが、ヤンフネンの言う「大陸で前日本語集団に影響を与えて原日本語を成立させた高句麗語や朝鮮語」もCTS5308周辺の言語だということになる。やはり、O-M133-F8-A9459のサブグループF438、 CTS5308、F6800あたりの言語が「日本語系統解明の鍵」となりそうだ。
>

そうそう、まったくおっしゃるとおりです。


> 高句麗語が僅かしか残っていないのが障壁だが、場合によっては、高句麗語そのものが日本語、さらに朝鮮語の姉妹言語にあたる可能性も含めて。SHIMAOの人たちも近縁な言語を行っていたのだろう。トランス・ヒマラヤ語族、高句麗・朝鮮・日本語に跨る大語族ー。そのうち、高句麗・朝鮮・日本語のグループはトランス・ヒマラヤ語派と並列の関係になる性質のものとなるだろう。「戎狄語派」(Rongdic)だ。
>


高句麗祖語・・、もっと資料があればよいのですが、なかなか見つからないですね。



> 【参考】
> ウィキ「高句麗語」
> 高句麗語と朝鮮語
> 高句麗地名から導き出された語彙中には中期朝鮮語との間にも多数の類似する単語が存在することが指摘されており、高句麗語で「横」を意味する*esと、中期朝鮮語の*as、「黒い」を意味する高句麗語の*k?m?rと中期朝鮮語のk?m、「牛」を意味する高句麗語*šüと中期朝鮮語syoなどが比較される[19]。アレキサンダー・ボビンは自身の研究成果に基づいて高句麗語が古代朝鮮語の一種であるとしている[30](Vovin 2013)。
>
> 日本語と高句麗語
> また、高句麗地名から復元可能な語彙の中に日本語と類似したものが多数みられることから、高句麗語は日本語の系統論においても古くから注目されている[32]。日本語との比較においては数詞である*mil(三)、*ütu(五)、*nan?n(七)、*t?k(十)や、動物名である*usaxam(ウサギ)、地形を表す*tan(谷)など基本的な語彙に類似した語形のものが数多く見出されている[33][32](板橋2013)。
>


数詞が一致していることの意味は大きいですよ。
数詞は商業取引や官僚の財務管理など、政権中枢で統一してもちいられなければならないものですから、それが高句麗祖語であるならば、ある時期の日本の支配者はその影響がつよかった集団だったと言えるでしょう。ひとつには物部氏が外戚だった皇族集団の支配、3〜4世紀ごろですね、、、


> クリストファー・ベックウィズ(英語版)が高句麗語を日本語の姉妹語と仮定し、両者の共通祖語としてCommon Japanese-Koguryoicを想定した[34][35][注釈 7](Beckwith 2004)。
> 李基文(2011)はあるいは高句麗語は日本語と朝鮮語の中間的な言語であったと想定できるかもしれないとも述べている[38](李2011)。
>
> ウィキ「高雲」
> 生涯
> 高雲の出身は355年、前燕の慕容皝が楽浪郡を落として冊封された高句麗の王族である。高句麗の王族は姓を高氏として青山に移り、前燕や後燕に仕えた。高雲は後燕の慕容宝に仕えた。
>
> He was ethnically Korean and a descendant of the royal house of Goguryeo, whose ancestors were captured by Former Yan.
>
> Early life
> Gao Yun's ancestors were from the Goguryeo royal house. When Murong Huang defeated Goguyreo forces and temporarily occupied its capital Hwando, he took many members of the Goguryeo royal house captive and moved them to Qingshan (青山, in modern Jinzhou, Liaoning), and their descendants became Former Yan and Later Yan subjects. Because the surname of Goguryeo's royal family, in Chinese, was Gao (高, meaning high, great, strong, elder), they largely took Gao as their family name.



この高雲と北燕遺民の引き受けですね、彼らは高句麗と親族関係だったので、遺民の引き受けを可能にしたのですが、そもそも遺民について、当時の北朝の世界では、数十万、数百万単位で、あちこち支配した住民を強制移住させるのが常でしたから、北燕の支配していた遼西あたりの王族・貴族や住民、技術者なども、それを恐れて、高句麗方面や山東半島の東晋へと逃亡を試みたのでしょう。結果として数十万人が朝鮮の高句麗、百済、新羅に流れ込み、各国とも抱えきれなくなって、さらに一部が九州へと渡来したようです。

日本からは北燕系の甲冑が滋賀のほうから多く出土しているのですが、これは軍人が渡来したことを意味するはずです。馬の甲冑までありますからね。

彼らが九州の新羅コネクションが強い首長・磐井君や、滋賀の近江毛野氏、この毛野氏等はのちに関東へと進出し、高崎の騎馬民族風の埴輪と造るわけですが、また東北まで向かうものもいたようです。オオ(多)氏ですね。

彼らが強かった理由は、その軍事的な力、甲冑もそうですし、騎馬もそうですし、製鉄、技術あらゆる面で、それ以前の渡来人を超えており、それが継体朝やその後の宣化朝あたりを力づけていったはずです。新しくやってきたので、新漢人と呼ばれる集団となっていきます。


かれらは、北九州から近江、継体天皇が出てきた越(北陸)へと勢力を拡げますから、そのハプロをみていけば、先のCTS5308系統あたりが見えてくることと重なってくるのも当然と言えそうです。

一部は尾張、名古屋方面から東海へと勢力を拡大しますし、かれらのもたらした宗教とか神話というのは、ヤマトタケルの伝承として記紀にしるされているので、参考にされるとよいと思います。オリエントに多い白鳥伝承とか、新羅王墓に当時描かれていた白いペガサスのような模様・・・、その辺に共通要素が多くみられます。



10909管理人:2021/06/05(土) 23:22:09
Re: 長宗我部氏はチベット高原に多いO-CTS5308(秦氏よりも重要!)。秦氏はO-CTS9678で「始皇帝の子孫」は箔付けと判明(大笑!)
秦野北斗さんへのお返事です。

> シマオゥさんへのお返事です。
>
>
> 長宗我部は、百済系なの、承久の乱で一掃される。それと秦氏は、『新撰姓氏録(しんせん ... ハタは、朝鮮語で「海」?を意味する「パダ」に由来するとの説もある。鵜呑みですか?秦野はペンネーム・・
>
>
> 長宗我部は秦氏後裔ですな、成り済ましです、日本ではない。秦氏は承久の乱(1221)では後鳥羽上皇が隠岐、順徳上皇が佐渡、そして土御門上皇が望んで土佐に配流(後に、より都に近い阿波へ)されました。
> 土佐の長宗我部は末裔で戦国時代の三好になる。承久の乱の復建になる、歴史は繋がる・・・織田信長さん
> 暴走して、正親町天皇に嫌われ、織田信長さん暗殺される図参照・・・本能寺の変、計画書が有るんですな
> そこに、計画者は正親町天皇て書いてあるよ。
>
> 秦氏の始皇帝の子孫という自称は、詐称。漢王室を出自とする渡来系も日本に劉邦ハプロF155がいないので箔付けだろう。さすが、見つけましたか。秦氏は百済系。成り済ましの秦氏・・、秦河勝、弓月君の原文
> は後日説明してやるよ。
>
>
> >
> > ちょっとこの投稿は秦野さんをガッカリさせてしまうかも...。
> > 図はFamily Tree DNAの日本人グループより。"Chosogabe"はO-S21320でCTS5308のサブグループ。面白いことに、チベット高原に多い型に近縁。
> >
> > 現当主の17代目長宗我部友親は「ちょうそがべ」の読みを用いているそうだ。秦氏の後裔を自称するが、関係は不明とある。
> >
> > いずれにせよ、CTS5308ということが重要で、この型とF438が日本のM133(F5)の大半を占める。漢族にはCTS5308は稀なので、CTS5308は日本にいるM133に特徴的なグループと言っていい。
> >

秦氏の話も興味深いですね。新漢人より少し遅れて、秦氏はおそらくは、つまり6世紀前半に渡来したはずです。後者は、支配者層には、先の北燕遺民に関連する遊牧民の習俗をもっていたはずで、これは秦河勝の伊勢への商いとオオカミが絡み合うのを仲裁する話などからも理解できます。

ただ、全体的には朝鮮南部の秦韓の集団とその王族を率いてきたはずですね。



> > 一方、「秦氏」の方はというとCTS9678で、ありふれた漢族やコリアンの型。日本には少ない。秦氏ハプロは嬴姓趙氏のZ44091とも異なる。したがって、秦氏の始皇帝の子孫という自称は、詐称。漢王室を出自とする渡来系も日本に劉邦ハプロF155がいないので箔付けだろう。当時は中国から来たってだけでもてはやされた時代。
> >


つまり、普通の一般的な伽耶方面の集団が大量に渡来してきたということでしょうから、そういう結果になるのだと思います。秦の始皇帝の話は、秦氏については考えなくてよいです。

ただ、秦韓自体は、西方胡人の習俗をすでに紀元前後からもってますから、周辺諸国の言語とは異なると記されているように、西方遊牧民系のハプロが見え隠れしてくる可能性も考慮しておくべきかもしれませんね・・・。

あと、長宗我部のソガは、つまり蘇我氏のことで、高知方面に進出していた蘇我氏の後裔でしょう。蘇我氏の部民の長の意味です。

この蘇我氏は、秦氏の親分、秦韓の王族でしょうね、ただ、高句麗と蘇我氏は血縁関係があったようです。母型とおもってましたが、あるいは父系にもあったのかな??




10910秦野北斗:2021/06/06(日) 00:45:26
Re: 長宗我部氏はチベット高原に多いO-CTS5308(秦氏よりも重要!)。秦氏はO-CTS9678で「始皇帝の子孫」は箔付けと判明(大笑!)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011635M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/イムジン河

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10911秦野北斗:2021/06/06(日) 11:55:18
Re: 弥生人・渡来人とO-F438; 「北燕(高雲)・高句麗王族ハプロ」CTS5308; 高句麗語、朝鮮語と日本語(O-M133-F438, CTS5308, F6800)「戎狄語」(Rongdic)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011639M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=QbX8TDyTkqI

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10912秦野北斗:2021/06/06(日) 13:32:52
Re: 長宗我部氏(O-CTS4658)はチベット人。太公望(O-F6800)の姜氏(炎帝)と劉邦(O-F438)の劉氏(黄帝姫姓の祁姓の劉氏)は戎狄
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011640M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/神農

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10913秦野北斗:2021/06/07(月) 11:43:54
Re: 福建・台湾の「林氏」O-M133(F5)-Z25853-CTS6987
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011645M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/アグネス・ラム

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10914秦野北斗:2021/06/07(月) 16:22:24
Re: 福建・台湾の「林氏」O-M133(F5)-Z25853-CTS6987
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011647M.jpg

https://spc.jst.go.jp/hottopics/1508/r1508_crcc1.html

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10915秦野北斗:2021/06/07(月) 19:12:02
Re: 福建・台湾の「林氏」O-M133(F5)-F8-A9459-F14249-Z25853-CTS6987; M133(F5)-F8の構造
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011649M.jpg

https://dictionary.goo.ne.jp/word/張王李趙/

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10916管理人:2021/06/07(月) 21:26:12
Re: 弥生人・渡来人とO-F438; 「北燕(高雲)・高句麗王族ハプロ」CTS5308; 高句麗語、朝鮮語と日本語(O-M133-F438, CTS5308, F6800)「戎狄語」(Rongdic)
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。>

>
> んだ、んだ。環渤海経済圏はO-M133(F5)-F8-A9459圏(図1)。
> 海岸線には弥生人の祖と思われる「汙人」がいた。
>
> 今のところ、この圏内の古人骨は、O系統では
> 1. 紅山文化牛河梁O-M133-F8の牛河梁(紀元前3000年頃の宗教的統率者)
> 2. 同じ紅山文化に属す半拉山のO-P164(O-M134の親ハプロ)
>
> 少し圏外では、
> 3. 内蒙古東南部の夏家店下層のO-M164(O2〔旧O3〕)
> 4. 同じく夏家店上層のO-F438
>
> 牛河梁O-M133-F8のサブグループは権力者らしいので、「戦闘的な」陝北の石?(SHIMAO)や夏家店上層と同じF438と予想している。
>


なかなか体力気力、、追いつかず、お返事遅れてます(汗)

F438シリーズが、その権力を保持し続けれた理由は、やはり前2500年以降に中国にもたらされたであろう鉄器・青銅器技術の継承でしょうね・・・、殷の王族なども、諸侯にはその金属精錬技術を教えず、機密にしていたようで、それが周辺諸民族にやられなかった理由のようです。

その後、周の時代の末期あたりに、周辺諸民族に青銅精錬技術が別の経由、サカ・月氏だと思いますが、もたらされてから、春秋戦国時代へと突入していったようです。姫氏が活躍し始める時代ですね。その技術をもたらしたのが、具体的には遊牧民の白テキだと思うのですが、この系統のハプロがわかると面白いですね・・・。


> ところで、四国(図2)。
> 『古事記』の国産み神話では、四国は淡路島に続き、日本列島で二番目に創造された島であるという。
>
> O-M133(F5)-F8-A9459-CTS5308である長宗我部氏の「四国の日本人」が日本人の中で最も北京漢族に近く、四国人は最も古墳文化人に近いと言える(図3)。
>

なるほど・・・。


> 現代日本人の形成には弥生人と縄文人との混血では不十分で、古墳文化人の流入が必須であったことも分かっており、古墳時代人が現代日本人の直接の祖先集団となる。
>
> そして、古墳文化人の原型は北京漢族やコリアン、Devil's Gate Caveの人たちであって、大陸の古代集団では夏家店文化の人たちに最も近縁。全ゲノム解析で「仰韶・馬家窯文化由来8割、中国東北由来2割」の人々。コリアンは夏家店上層に近いが、日本人は先行の弥生人やその頃まだ東国にいた縄文人と交雑するので夏家店上層よりやや中国東北由来が少ない夏家店下層文化集団に近い。
> Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals (2020).
>
> ええ、ここ1ー2年の、古墳時代人の古代DNAと大規模な現代日本人ゲノムの研究、中国古代DNAの研究成果から、現代日本人の直接の祖先集団の姿が決定的に見えて来た。大陸での原郷は遼東、河北、山東といった「環渤海地域」で、さらに淵源を「黄土高原」に求めることができる。
>





> 2. ウィキ「河北」
> 中国の神話上の人物である黄帝・炎帝も河北で活動しており堯・舜・禹の足跡も数多く残されている。
>
> 殷代には現在の邢台市南西部に遷都されている。戦国時代なると中国は「戦国七雄」により分割された群雄割拠の時代を迎え、河北省は北部に燕、南に趙、中部には中山国が立てられた。
>

この中山王国、これが先の白テキの建てた国ですね。ギリシャとも関連する銅鐸風の楽器をその王墓に埋葬してますから、その白テキが東西交易を一気に引き受けていたことでしょう。

>
> 3. ウィキ「北狄」
> 翟人は紀元前2000年頃にはオルドス地方一帯で繁栄していたようで、考古物から時代ごとの人口の増加と経済的発展が確認される。その後、水と草を追い求めながら東方や南方へ向かって居住地域を拡大、夏・殷前期には翟人の遊牧地域は華北一帯(主に山西・河北・陝西)で存在していた事が確認されている。殷後期・周の時代へ入ると遊牧生活や習俗が礼記に記録されるなど中原の文献にも登場し始め、長狄、赤狄、白狄といった集団が史書に記されている。それらの首長家系は晋の公室と通婚するなど中原諸侯を構成した諸国とも密接な関わりを持ち、居住地も中原北部に点在し北方諸侯に属する都市国家群の点状に分散する領地の間に広く居住していた。
>

特に、この白狄ですね。北方にあった晋の王室に入り、外戚として勢力を増長、一方で軍事的にも優れており、その将軍の一部が、呉へと流れたの呉越が戦国時代に伸びてくる要因となっていたはずです。そこには金属精錬技術の獲得で、周辺諸侯が武器や農具を獲得できたことがあるのでしょう。


> 春秋戦国時代
> 周王朝が衰えると、河北や山西などの長城沿いに居た白狄が大挙して南下を始め、中山と呼ばれる強大な狄人国家を建て、後に諸侯国となった。また、晋の文公重耳に仕え、外戚ともなった重臣狐偃ら狐氏一族が、白狄の出身であったことがよく知られる。中山国は春秋戦国時代、中原の争乱へ参与したが趙に滅ぼされ、白狄人は華夏人の中に同化していった。
>

この白狄のハプロですね・・・、これがわかってくると、面白いんですが・・・。

10917管理人:2021/06/07(月) 21:35:15
Re: 弥生人・渡来人と「戎狄三兄弟」O-F438, O-CTS5308, F6800
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。

> ごっめーん、「管理人さん、ビンゴですパチパチパチ(笑)」じゃなかった(笑) 北燕はF6800です。
> お詫びに、中国のO-M133-F8ブラザーから貰った図をどうぞ!
>

了解です・・、情報ありがとうございます。



> MF1001というのはチベット人に多いCTS5308のサブグループで、日本人の型もこれに当たります。「河北・山東」に高頻出ですね。甘粛にも多いというのが意味深でしょう。
>
> 吉林のは「闖関東」(19世紀後半から、20世紀前半にかけて行われた山東半島に住む中国人の遼東以北への民族移動)の影響もあるので余り考えなくて良いですが、この山東一帯に鼎立するF438、斉の姜姓F6800、そしてCTS5308の「戎狄三兄弟」、彼らは同時期に一緒に半島・列島方面に渡来したと言えそうですね!CTS5308は西南夷なのでもしかして江南ルートかとも思っていましたが。
>
> F6800は日本人に少ないですが、北燕遺民?にもいたでしょうね。
>


そうですね、日本人のハプロの検体が非常に少ない中で、稀なハプロがこうやって見えてくることは興味深いですよ。実数はかなり多いから、ハプロが2人・・と重なって見えてくるのでしょう。ただ遺伝子検査の会社調べてみましたが、結構高額ですね・・・、安いところ知ってたらお教えください(^^)



10918管理人:2021/06/07(月) 22:15:40
白狄の系譜
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011652M.png

https://www.yfull.com/tree/O/



10919秦野北斗:2021/06/08(火) 14:03:52
Re: 「中国のユダヤ人」客家の系譜; 福建・台湾の「林氏」O-M133(F5)-F8-A9459-F14249-Z25853-CTS6987; M133(F5)-F8の構造
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011655M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

台湾客家に徐の名字多いぞ・・・

不老不死で有名な 徐福



> Agnes Lum
> 何というか、アグネス・ラムは、遼河文明紅山文化の女系社会全盛期を彷彿とさせるのぉ〜。当時の青少年にとっては性欲が沸いただけだったろうが笑。
>
> さて、彼女の父系でもあろう、中国東南に拡がる「東南林氏O-A9459」を「戎狄」に入れていいか迷った。戎狄の主な活動域である長城地帯から遠いからだ。だが、それを言ったら日本も遠いし、個人的には戎狄の要素を日本人から切り離すことはできない。また、東南林氏の南部への移住はそう古くはない。八王の乱(291年 - 306年)と五胡十六国時代(304年-439年)の混乱を避けて移住(後述、「八姓入?」の流れ)。いいでがんす、Welcome to Rongdi(戎狄)!!!笑
>
> 彼らは、戎狄出自の客家だ、客家としてのアイデンティティーをとうに失った者も含めて。ちょっと歴史や事情を整理して見ましょう。
>
> 「中国のユダヤ人」客家の系譜
> 1. 遺伝人類学的系譜
> O-M133(F5)-F8
> (1) F8-A9459-F14249-Z25853-CTS6987
> 「東南林氏(姫姓/子姓)」(阿?法父系研究会)
> 「アグネス・ラムのお父さんハプロ」でもあるだろう。
> [参考]M133は林氏の多い台湾漢族で22%、福建泉州漢族で40%、台湾客家で38%と非常に高比率。中国東南部において林氏は陳氏に次いで多い姓氏である。
>
> (2) F8-F7634
> 「陳姓」(mofang23)《陳国(現代の河南省周口市淮陽区)→中国東南部》
>
> [参考]劉鎮発は、客家は北方からの移民ではなく、広州人との械闘の中で起源の正当性を主張したことが誤まって定説とされたと主張した。これは半分正しくて、男系Y-haploで見れば濡れ衣だが、女性MT-haploで見ると南方中国に多い型に入れ替わった。
>
> 2. 客家の南方中国への移住の波
> 中国内の移動・定着の歴史は、およそ6段階に分類される。
> (1) 秦代辺りから江西地帯へ入植
> (2) 西晋の八王の乱から永嘉の乱にかけて黄河流域の中原や華北の北方住人が長江以南に避難。
> (3)??唐末の黄巣の乱に江西、福建、広東の奥地に南下。
> (4)??南宋末期の元軍の侵攻により広東に拡がる。
> (5)??清の時代の領土拡大に伴い、西は四川省、東は台湾に展開。
> (6)??海南島まで南下した。
>
> 八姓入? (林、陳、黄、鄭、詹、丘、何、胡)
> 八王の乱(291年 - 306年)と五胡十六国時代(304年-439年)の混乱を避けて移住。「東南林氏」=OM133(F5)-F8-A9459-F14249-Z25853-CTS6987「東南林氏」やF8-F7634「陳姓」もこの流れにある。
>
> 八姓入?(???平?字:Báik Sáng ?k Mìng)
> 八姓は西晋・懐帝・永嘉時代(308年)に福建省に入り定住。福建の海岸沿いに定住した人は非常に少なかったが、その後、東晋の勅令により、多くの人々は福建省から江蘇・浙江・江西の?州(朝廷中枢所在地)に移った。なるほどー。
>
> 3. 客家を含む中原出自集団の南方移住によるインパクトー。
> 移住のようなさまざまな移住の波は、福建省福州のさまざまな陳家族の起源である。これらの大規模な移住は、北部とは異なり平和的に行われたため、中国南部の人口増加、経済、農業、文化の発展につながった。五胡から逃れて東晋とともに南下した漢民族北部の貴族の子孫と、すでに華南にいた地元の貴族が合体し、唐の時代に「華南貴族」を形成。
>
> 中国南部の道教は、地元の漢民族南部の貴族と、五胡から逃れてきた漢民族北部の移民の宗教的信仰の融合の結果として発展した。一方で、北方中国の漢族の貴族は非常に保守的で、部外者に対して閉鎖的だった。
>
> 南方の在来集団との軋轢
> 土客械闘
> 土客械闘(とかくかいとう)とは客家と本地人との対立を指す。
> 広東省・広西省・福建省・江西省・湖南省・台湾などで発生した。類似の対立構造は明朝中期から見受けられるが、衝突の大部分は清末に発生した。客家人は沿岸後背地の山岳部から新たに進出してきた移住民であり、本地人は土着の方言を話す漢民族やチワン族などの少数民族である。
>
> 戦闘の原因は本地人からみると、客家の人口増によって彼らの土地が浸食されたことである。一方、客家側には地域社会から疎外され、険しい土地で耕作せざるを得ないことへの怒りがあった。
>
> 特に最大規模だったのは清末の1855年から1867年にかけて広東省で発生した械闘である。特に激しかったのは珠江デルタ周辺にある五邑の台山であった。民国期の客家研究の第一人者であった羅香林によると、その戦闘の死者と難民は百万人にのぼったとされる。
>
> 4. 中国のユダヤ人
> ほとんどの客家に古代からの族譜があり、祖先信仰が強く、風習も頑なに守ってきたため、周囲から隔絶されて発達した客家語には古代の文語がうずもれるように残っている部分があるといわれている。
>
> 子弟の教育にも熱心なことで知られる。商業の他には教育の高さから教職に就くことが多い。これらの特色から「中国のユダヤ人」などと呼ばれることもある。客家を含む華僑はユダヤ人・アルメニア人・印僑と共に「四大移民集団」の一つと言われる。
>
> 客家の多い地域に中国共産党が非常に強い影響力を持った為、客家には共産党勢に加わった者が多かった。また伝統的な中国人の階級意識において卑しめられることの多かった軍人となった者や、反乱や革命に参加する者も近代以前から多い。そのため、太平天国の指導者である洪秀全や、中国国民党の孫文、中国共産党の鄧小平やシンガポールのリー・クアンユー(李光耀)などが輩出した。台湾総統の李登輝、蔡英文や映画監督の侯孝賢も出自は台湾に移住した客家であり、タイの首相を務めたタクシン・チナワット/インラック・シナワトラ兄妹も出自はタイに移住した客家である。
>
> 山間民族としての客家ー。
> 客家の人々は、周辺に住む他の集団とは異なり、山間部に好んで居住することが多く、独特の言語・文化を持っている。言語は古代の漢族語を今に伝えているといわれる。そのために歴史的に他の集団と軋轢を起こすことも多い。しかし、少数派であるがゆえに劣勢であるため、中央政権や王朝と良好な関係を保とうとする傾向がある。このような背景から、客家には漢人としての意識が比較的強いとも言われる。なお纏足の習慣はなかった。
>
>
> > 【修正版】中国のO-M133(F5)-F8-A9459 ブラザーからいくつか指摘を受けて一部修正。
> >
> > O-M133(F5)-F8
> > ・楊官寨遺跡古人骨(3500 BC)《陝西》、汪溝遺跡古人骨(3000 BC)《河南》、牛河梁遺跡古人骨(3000 BC)=五号大墓双亀老人F8黄帝説《遼寧》
> >
> > 1. F8-A9459 戎狄(獫狁[Xianyun])=黄帝部族(姫姓の軒轅[Xuanyuan]氏)
> > (1) A9459-F438 《黄土高原》
> > ・殷=F1754-MF15397(石?[Shimao]遺跡古人骨[2000 BC]黄帝説) 姫姓の子姓
> > ・周=F438*/Y17728*(姫昌) 姫姓→姫姓の祁姓の杜・士・范氏(わし説)
> > ・漢=F316-F155(劉邦) 姫姓の祁姓の劉氏(mofang23姓氏研究)
> > ・その他F438の古人骨=磨溝(甘粛, ~2000 BC)、大槽子(青海, 100 AD)、、夏家店上層(内蒙古, 2000 BC)、バヤン・ウルギー(モンゴル, 1116 BC)
> >
> > (2) A9459-F6800=戎狄(渭水流域→冀魯)・炎帝部族F6800(姜姓)
> > ・斉=MF14555(太公望) 、「華東姜氏」「北燕馮氏」「西北李氏」(mofang23, 阿?法父系研究会 )
> >
> > (3) A9459-F14249-CTS6987=「東南林氏(姫姓/子姓)」(阿?法父系研究会) [参考]M133は林氏の多い台湾漢族で22%、福建泉州漢族で40%、台湾客家で38%と非常に高比率。
> >
> > (4) A9459-CTS4658
> > 西南夷=CTS4658
> > ・チベット・ビルマ系=CTS4658
> > ・・チベット、古代ネパール古人骨(1000 BC)=CTS5308 《西蔵高原》、「河北・山東で高比率」=MF1001(阿?法父系研究会)、長宗我部=CTS5308(Family Tree DNA Japanese group)
> >
> > 以下は、A9459を経ずにF8から直接分岐。
> > 2. F8-Z44091《中原》
> > 秦・趙=Z44091、嬴姓趙氏「山西趙氏」「山西白氏」(阿?法父系研究会)、「江蘇嬴姓徐氏O-M133」(分子人類學論壇)
> >
> > 3. F8-F7634
> > 陳=F7634、「陳姓」(mofang23) 《陳国(現代の河南省周口市淮陽区)→中国東南部》
> >
> > 4. F8-CTS10738
> > 周=CTS10738?(Eupedia)
> > ・・O-CTS9678=秦氏(Eupedia, Family Tree DNA Japanese group)
> >
> > 5. F8-YP4864
> > 「西羌」金蝉口・喇家遺跡古人骨(2000 BC)《青海》
> >
> > 6. M133*
> > 中央アジア支

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10920秦野北斗:2021/06/08(火) 23:04:18
Re: 「中国のユダヤ人」客家の系譜; 福建・台湾の「林氏」O-M133(F5)-F8-A9459-F14249-Z25853-CTS6987; M133(F5)-F8の構造
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011663M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

徐福は、日本にきている、足取りはこと詳細に、古事記に記される。

徐福は、秦の始皇帝の使いで日本に来る。それも、統治のために来る。しかし、事件をおこし、
韓国に追放される。徐福は、バリバリの中国ですぞ。徐は古代に秦の船で、ウロウロしたようだな、
台湾、沖縄、日本の九州、韓国、フィリピン後の海のシルクロード?

秦野は、船は赤壁(レッドクリフ)の船と見ている。

> 秦野さん、もしかして、変なブログに影響されて「秦の始皇帝と同じ嬴姓の徐福徐氏」が日本のD1a2aとかいう幻覚が見えていないですか?D1a2aは彼らと最も遠いハプログループですよ?D1a2aの地上唯一の兄弟はアンダマンD1a2bだけですよ?もしかしてD1a2aが中国の先住でO2(旧O3)やC2に抹殺されたなんてお話しをまだ信じている?
>
> 縄文人ゲノムを共有しているのは東南アジアの狩猟採集民の古人骨、現代人ではほとんどフィリピンと台湾の先住民だけですよ?大陸はおろか海岸線にも居なかったんじゃないですか?それでもD1a2aが中国に拡がっていたんですか?ウリジナル?
>

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10921管理人:2021/06/08(火) 23:47:33
白狄の系譜2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011665M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011665_2M.png

https://www.23mofang.com/ancestry/family/5d53c7918f5cd700013d8523



10922秦野北斗:2021/06/09(水) 01:19:11
戎狄
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011667M.jpg

https://kotobank.jp/word/戎狄-527305

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10923秦野北斗:2021/06/09(水) 14:13:12
Re: 東アジアで最も重厚なハプログループO-A9459;F438, F6800, CTS4658, F14249
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011669_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/漢委奴国王印



10924秦野北斗:2021/06/09(水) 19:08:20
Re: 戎狄とは、中原と新疆の間、中原とモンゴル高原の間にあった人々のこと
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011674M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

戎狄(獫狁)の姓なので、史記/卷110,訳す 戎狄は人だな。

戎狄至洛邑:つわもの、えびす、至る、洛陽の都
故娶戎狄女為:もと娶る、つわもの、えびす、娘なす
與戎狄兵:与える、つわもの、えびす、兵
開戎狄,戎狄以:はだける、つわもの、えびす,つわもの、えびす、もって

史記の文章には、「西戎」や「北狄」はない。天智天皇の母の名、庫狄はあった。

文章の読めないものが、、「西戎」や「北狄」で創造して議論か。

邪馬台国に到達していない連中の言葉を鵜呑み、同様にDNAハプログループですか・・・

日本学者にレベルが低いの・・・

古代の日本は、漢になる。漢は九州と現在の韓国になる、古事記、日本書紀は漢の歴史。
現在の日本学者の頭は、日本列島で韓国はないの。此の違いは、シマオゥさんの頭では理解不可能ですな。
倭から日本に成ってから1300年になる。DNAハプログループ1千年程度の短い時間は特定できないの・・・

1300年前に、日本になった文章だ、高学歴のシマオゥさんなら、軽いですな

 『旧唐書』日本国伝
日本國者倭國之別種也以其國在日邊故以日本為名或曰倭國自惡其名不雅改為日本或云日本舊小國併倭國之地、其人入朝者多自矜大不以實對故中國疑焉又云其國界東西南北各數千里西界南界咸至大海、東界北界有大山為限山外即毛人之國



> 西戎は「西の人」。多くの日本の一般人が誤解しているが、「西戎」や「北狄」というのは何も印欧語族や匈奴の類じゃない。
>
> 元来これらの人びとー戎狄(Rongdi)ーとは、中原と新疆の間、中原とモンゴル高原の間にあった人々のこと。研究者は早くからそのことを指摘していたけど、どういうわけか日本の一般人は「飛躍好き」・・・。
>
> 今ではY染色体DNAハプログループがあるから、戎狄がO-M133(F5)-F8主体の人々であったとも確認することができる。
>
>
> >
> > > シマオゥさんへのお返事です。
> > >
> > > 戎狄(獫狁)の姓なので、史記/卷110,訳す 戎狄は人だな。
> > >
> >
> > 人は合ってるが人物ではないね。人そのもの。人は合ってるが人物ではないね。
> > 「狄」はケモノ偏で「奴」という侮蔑的意味。
> >
> > 一方、「戎」は自称で「人」の謂で、「戎」の音を民族名として残す集団として、ギャロン、ロン、ガルロン、トゥーロン、ヌンなどを挙げることができる。
> >




10925秦野北斗:2021/06/09(水) 22:22:34
Re: 戎狄とは、中原と新疆の間、中原とモンゴル高原の間にあった人々のこと; 黄帝は戎なり。秦は寿なり。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011676M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

> 「獫狁」というのは、「犬戎」のことなんだよ。
> 獫は犬、狁と戎の上古音の語頭音は同じ流音で、同じ概念のものに別の漢字をあてているに過ぎない。羌が「羊人間」なら犬戎は「犬人間」。

「獫狁」周代の北方民族、犬戎という,古代中国の民族
 古代は漢字1字で一つの意味を持つの、狁は欠落字で古代の文章から読み取るしか意味がわからないの、
 頭の中味が短絡してる、「獫狁」=「犬戎」どこにあるの、ところで犬の意味知ってるの・・・
 羌、戎は”えびす”

 羌が「羊人間」なら犬戎は「犬人間」。

「秦は寿なり」(『公羊伝』)というのも一理ある。史記に、曰:「願請延年、益壽藥。」文章が有るの
 馬鹿が頭を使い、益壽藥を壽と読み、「秦は寿なり」ですか・・・子供の字遊びですな。

 ところで、日本の始まり、訳せたの・・・大学教授でも、ダメでしょうな・・・

> > シマオゥさんへのお返事です。
> >
> > 戎狄(獫狁)の姓なので、史記/卷110,訳す 戎狄は人だな。
> >
>
> 秦野さんは爺のくせにほんとに何も知らないんだなぁ・・・奇抜な思い付きや勝手解釈が学問ではないのだよ?秦野さんはもっと勉強しないとそのまま誰も相手にしてくれないよ。
>
> 「獫狁」というのは、「犬戎」のことなんだよ。
> 獫は犬、狁と戎の上古音の語頭音は同じ流音で、同じ概念のものに別の漢字をあてているに過ぎない。羌が「羊人間」なら犬戎は「犬人間」。
>
> 黄帝の氏「軒轅」も同義で、黄帝とは犬戎に他ならないか、あるいは「羌渠」同様に犬戎を征服したのでその名を冠した(匈奴の羌渠というのは羌を破ったから付けられた)。私は黄帝とは犬戎に他ならないと考える。
>
> 黄帝も犬戎も同じ姫姓だし、「戎」(人)に本来蔑みのニュアンスは見られない。当時の中原人と犬戎は、互いに多少の違和感を持っていたとしても、「全くの別人種」のごとき違和感や敵対心は持っていなかったと解される。周にしても犬戎に故地を奪われて南下したわけで元々は犬戎と同類だったと考えられる。秦も、王族は山東からの外来でも、秦人一般については、戎と一体化していた馬家源文化からも察しが付くように元は「戎」であり、「秦は寿なり」(『公羊伝』)というのも一理ある。
>
>
>
> Y-haploでは、羌・戎狄をO-M133(F5)-F8一般として、黄帝部族と犬戎はF8-A9459-F438、周はF8-CTS10738、秦王室はF8-Z44091、秦人は混合ってとこだな。
>



10926秦野北斗:2021/06/10(木) 12:23:35
Re: 戎狄とは、中原と新疆の間、中原とモンゴル高原の間にあった人々のこと; 西戎、戎狄とモンゴル
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011680M.jpg

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12194424187



10927管理人:2021/06/11(金) 00:08:57
白狄の系譜3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011681M.png

https://www.23mofang.com/ancestry/family



10928秦野北斗:2021/06/11(金) 13:08:40
Re: 戎狄とは、中原と新疆の間、中原とモンゴル高原の間にあった人々のこと; O-A9459-F14249, F438
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011684M.jpg

https://ctext.org/shiji/zh?searchu=黄帝



10929秦野北斗:2021/06/11(金) 17:58:47
Re: 戎狄とは、中原と新疆の間、中原とモンゴル高原の間にあった人々のこと; O-A9459-F14249, F438
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011687M.jpg

https://ja.abadgar-q.com/wiki/Chinese_immigration_to_Hawaii



10930管理人:2021/06/11(金) 23:42:48
ヘブライ人の拡散
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011690M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011690_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011690_3M.png

https://anthrogenica.com/showthread.php?17915-Major-Jewish-Y-lineages



10931秦野北斗:2021/06/12(土) 08:40:48
Re: 戎狄とは、中原と新疆の間、中原とモンゴル高原の間にあった人々のこと
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011693M.jpg

https://kotobank.jp/word/忌寸-32262



10932秦野北斗:2021/06/12(土) 13:47:47
Re: ヘブライ人の拡散
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011694M.jpg

管理人さんへのお返事です。

> かなり詳しくわかっているんですね・・・、うちの家系もそろそろ調べてもらいますかな(笑)

シマオゥさんなら、管理人さんの家系を調べるのは、軽い軽い、でしょうな・・・

アグネス ラムの親戚かも、まさか、シマオゥさんと親戚?



>
> かなり詳しくわかっているんですね・・・、うちの家系もそろそろ調べてもらいますかな(笑)
>
>
> 特にその中国人ですが、R-Y233410 Y233451 * Y233410 * Y233445+5 SNPs formed 3600 ybp, TMRCA 2800 ybp ですから、やはり紀元前800年ごろに離散したイスラエル王国の支族で、その形成が紀元前1600年ごろのアブラハムとかイサク、もしくは子孫がエジプトへ向かう時期にあったように見えますね。
>
> この中国人の居所が、xinjiang、つまりウイグル自治区となってますから、この辺にその北イスラエル人の子孫が紀元前800年ごろにやってきて定住した可能性がありそうです。
>
> この辺にやはりサカ・月氏、あるいは匈奴がいたでしょうから、年代的にはそれらの集団の一部にイスラエル人もいて、同じく中国に流れたであろうQ1b系統、つまり昨晩も触れた月氏か匈奴の墳墓の件ですね、彼らとともに、このR1a-Z93の彼らも一緒に移動していた可能性が見えてきます。
>
> もう少し、詳しく、そのウイグル自治区の中国人の住処がわかるとおもしろいですけどね・・・。ウルムチなのかホータンなのか・・・。
>



10933秦野北斗:2021/06/12(土) 17:07:58
Re: 戎狄とは、中原と新疆の間、中原とモンゴル高原の間にあった人々のこと
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011697M.jpg

https://www.sankei.com/article/20171107-FZSY3VDSXJKKBG6DLWZ77KKM5I/



10934秦野北斗:2021/06/12(土) 19:31:22
Re: 「西域・秦系」O-M134
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011699M.jpg

https://ctext.org/shiji/zh?searchu=黄帝



10935管理人:2021/06/12(土) 23:09:02
ヘブライ人の拡散2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011702M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011702_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011702_3M.png

https://anthrogenica.com/showthread.php?17915-Major-Jewish-Y-lineages



10936管理人:2021/06/13(日) 22:18:07
日本人の祖先は「港川人」? 旧石器時代、DNAで解析
面白い記事がでていますね・・

日本人の祖先は「港川人」? 旧石器時代、DNAで解析

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fnews.yahoo.co.jp%2Fpickup%2F6395946

10937秦野北斗:2021/06/13(日) 23:38:26
Re: 「西域・秦系」O-M134; モンゴル高原
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011708M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/金印



10938管理人:2021/06/14(月) 21:46:01
Re: Sanxingdui
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 三星堆文化(Sanxingdui)を担った人々の復元だそうです(韓国のF438ブラザーからの提供)。東南アジア系寄りと思っていましたが、思ったより北方形質ですね。日本人にもこんなのいる。
>
>
> 三星堆文化
> 概要

ううん、私の顔に少し似てるかも?(ね、秦野さん? 笑)

でもうち父と祖父とは、まったく風貌も気質も違うし、男系で伝わるものはごくわずかな気がしますね。頭脳の遺伝とか顔かたちの遺伝子のルーツも知りたいような・・・それも近いうちにわかる時代がくるんでしょうな。。楽しみですね!

それでも男系って、何か重要な気がするんですよね・・・、Y染色体に隠された民族的な気質を支える何か・・・があるような。



http:



10939管理人:2021/06/14(月) 23:36:55
ヘブライ人の拡散3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011711M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011711_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011711_3M.png

https://anthrogenica.com/showthread.php?17915-Major-Jewish-Y-lineages



10940秦野北斗:2021/06/15(火) 00:22:39
Re: Sanxingdui
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011713M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011713_2M.jpg

管理人さんへのお返事です。

> > 三星堆文化(Sanxingdui)を担った人々の復元だそうです

もともと、三星堆文化の末裔が呉越になるな、呉は日本側になる、一方、越は韓国側で日本の山陰、越前、秋田の日本海側になる。星堆文化の末裔、呉越で南方系。シマオ遺跡、北方系の図を添付します。

管理人さんは、南方の呉系? 眉毛に特徴が見られる。

> > 三星堆文化(Sanxingdui)を担った人々の復元だそうです(韓国のF438ブラザーからの提供)。東南アジア系寄りと思っていましたが、思ったより北方形質ですね。日本人にもこんなのいる。
> >
> >
> > 三星堆文化
> > 概要
>
> ううん、私の顔に少し似てるかも?(ね、秦野さん? 笑)
>
> でもうち父と祖父とは、まったく風貌も気質も違うし、男系で伝わるものはごくわずかな気がしますね。頭脳の遺伝とか顔かたちの遺伝子のルーツも知りたいような・・・それも近いうちにわかる時代がくるんでしょうな。。楽しみですね!
>
> それでも男系って、何か重要な気がするんですよね・・・、Y染色体に隠された民族的な気質を支える何か・・・があるような。
>
>



10941管理人:2021/06/15(火) 23:39:47
Re: Sanxingdui
秦野北斗さんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > > 三星堆文化(Sanxingdui)を担った人々の復元だそうです
>
> もともと、三星堆文化の末裔が呉越になるな、呉は日本側になる、一方、越は韓国側で日本の山陰、越前、秋田の日本海側になる。星堆文化の末裔、呉越で南方系。シマオ遺跡、北方系の図を添付します。
>
> 管理人さんは、南方の呉系? 眉毛に特徴が見られる。
>


秦野さんのおっしゃるように・・・、三星堆の影響は、呉越にはありそうですが、やはり百越が勃興してくるのは春秋時代末期から戦国時代初期ですから、、、そこには北方遊牧民の南下が仲介してないといけないわけですね。

倭人は越人の影響が強いようですが、文化的には半分はその北方系のかつてのビルマ・チベット語族、半分は南方系のベトナム・タイあたりの稲作農耕民ですね・・・。

弥生人の言語や習俗も当然、その双方の要素があったでしょう・・・。




10942管理人:2021/06/16(水) 00:04:31
O-CTS1642系統
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011718M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011718_2M.png

https://www.yfull.com/tree/O/



10943秦野北斗:2021/06/16(水) 09:06:39
万里長城を築く
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011724M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011724_2M.jpg

史記によると、百(種族)励まし築くとある。

図の上段が百(種族)の男、女になる、どこかで居たな・・・

史記卷一百一十八淮南衡山列傳第五十八
轉負海之粟致之西河。當是之時,男子疾耕不足於糟?,女子紡績不足於蓋形。遣蒙恬”築長城”,東西數千里,
”築長城” 築いた民を添付

キングダム (漫画) の舞台は明代の長城
アホだね、




10944管理人:2021/06/16(水) 23:15:15
Re: O-CTS1642系統 チベット・ビルマ語族
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> > そのA9459のすぐ下層の分岐に、ひとつ不思議な系統がありますね。インド方面まで進出している・・。
> > チベット・ビルマ語族と記されてますが、なにかきになりますね・・・。
> >
>
> ええ、これはいつも私が使うCTS4658のことですよ。チベット・ビルマに独占的なハプログループで古人骨でもそうです。
>
> CTS1642/CTS4658は比率では西南分布型ですが、いわゆる西南夷全体、そして東南方の江南にも多いことが分かります。客家にもいますね。歴史的にF438は西北、F6800とF14249は華東。F14249は特に中国東南部で独占的です。客家の動きにも重なります。


なるほどですね!チベット・ビルマ語族の起源はおもったより古いですね・・・。



10945管理人:2021/06/17(木) 00:09:54
百越のハプロと言語
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011728M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011728_2M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/百越



10946秦野北斗:2021/06/17(木) 12:12:03
Re: アムール盆地集団
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011729M.jpg

http://www.cnta-osaka.jp/heritage/mount-taishan



10947秦野北斗:2021/06/17(木) 17:59:10
Re: アムール盆地集団
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011733M.jpg

https://kotobank.jp/word/魏志倭人伝-50540



10948管理人:2021/06/17(木) 23:01:11
百越のハプロと言語2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011737M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011737_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011737_3M.png

https://www.wegene.com/question/4844



10949管理人:2021/06/18(金) 00:18:01
Re: 百越のハプロと言語2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011740M.jpg

https://translate.weblio.jp/web/chinese?lp=&amp;url=https://baike.baidu.com/item/%E5%82%A3%E6%97%8F&amp;rdt=tl&amp;sentenceStyle=spoken



10950秦野北斗:2021/06/18(金) 00:32:45
Re: SHIMAO
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011742M.jpg

https://cjjc.weblio.jp/content/?



10951秦野北斗:2021/06/18(金) 01:20:33
倭の五王 《旧唐?》靺鞨?
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011743M.jpg

https://zh.wikipedia.org/wiki/靺鞨

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10952秦野北斗:2021/06/18(金) 11:47:23
Re: 唐薛仁貴 M117-F8-A9459-F438-MF15397-MF14287
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011747M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

シマオゥさんどこのマンガ見てるの・・・

高句麗を滅ぼしたの唐の高宗だぞ。白村江は高句麗が原因になった。なに寝言、言ってるだ”高句麗人をいたわり、才能あるものを任用して、現地の治安を安定させた。”マンガだな・・・

> ・劉仁軌とともに平壌に駐屯するよう命じられ、本衛大将軍に任ぜられ、平陽郡公に封ぜられた。安東都護を検校し、治所を新城に移した。高句麗人をいたわり、才能あるものを任用して、現地の治安を安定させた。
>
> ・670年、吐蕃に滅ぼされた吐谷渾を復興させるのを名分として、唐軍による吐蕃侵攻が決定された。仁貴は邏娑道行軍大総管に任ぜられ、阿史那道真・郭待封らを率いて、大非川から烏海城へ向かった。しかし、吐蕃軍40万が来襲し、唐軍は大敗を喫した(大非川の戦い)。仁貴は吐蕃の論欽陵と和約を結び、帰還できたが、吐谷渾の故地が吐蕃領となることは確定した。仁貴は官職を奪われて庶人に落とされた。



https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10953管理人:2021/06/19(土) 00:03:55
百越のハプロと言語3
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011749M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011749_2M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/南詔



10954秦野北斗:2021/06/19(土) 14:22:25
池田満
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011751M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=pjg1ntLIBmA

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10955秦野北斗:2021/06/19(土) 18:55:30
Re: Central Eurasia
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011753M.jpg

https://ats5396.xsrv.jp/6571/

https://www.youtube.com/channel/UC0S1Wl7M5js_1zRueXEmwpw/videos



10956管理人:2021/06/19(土) 22:19:26
亀ヶ岡土器と甲骨文字
昨晩お話した亀ヶ岡土器には甲骨文字が刻まれていたとの説を記している著作ですが、その著者の佐藤国男さんのサイトがありましたので、お知らせします。こちらにその縄文土器と甲骨文字との比較開設が載せられてますね。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.nhakodate.com%2Fjomon_site%2Fdogu.html


殷と亀ヶ岡文化との関係性は、以前も紹介したとおりで、可能性は強いと思いますし、その文字が縄文晩期の文化に継承されていたことも考慮すべきかとおもいますが、また佐藤さんはアイヌ文化との関係性も指摘されているようです。ぜひご興味ある方は、ご覧なってみてくださいね・・・。

こちらから購入できます。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.amazon.co.jp%2F%25E5%25A6%2584%25E6%2583%25B3%25E3%2581%258B%25E5%25A4%25A7%25E7%2599%25BA%25E8%25A6%258B%25E3%2581%258B%25E2%2580%25A6-%25E4%25BA%2580%25E3%2583%25B6%25E5%25B2%25A1%25E5%259C%259F%25E5%2599%25A8%25E3%2581%25AB%25E3%2581%25AF%25E7%2594%25B2%25E9%25AA%25A8%25E6%2596%2587%25E5%25AD%2597%25E3%2581%258C%25E5%2588%25BB%25E3%2581%25BE%25E3%2582%258C%25E3%2581%25A6%25E3%2581%2584%25E3%2581%259F-%25E3%2580%258C%25E7%25B8%2584%25E7%259B%25AE%25E3%2581%25AF%25E8%259B%2587%25E3%2580%258D%25E3%2581%258C%25E3%2582%25AD%25E3%2583%25BC%25E3%2583%25AF%25E3%2583%25BC%25E3%2583%2589%25E3%2580%2582%25E5%25B1%25B1%25E7%258C%25AB%25E5%258D%259A%25E5%25A3%25AB%25E3%2580%2581%25E7%25B8%2584%25E6%2596%2587%25E3%2582%2592%25E8%25AA%25AD%25E3%2581%25BF%25E8%25A7%25A3%25E3%2581%258F-%25E4%25BD%2590%25E8%2597%25A4-%25E5%259B%25BD%25E7%2594%25B7%2Fdp%2F4906833055


10957管理人:2021/06/19(土) 22:41:37
Re: 正統;マクロな視点で科学的に日本人を見ること
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
>
> 古墳文化人と1万人規模の現代日本人のゲノム解析によって、既に日本人起源論は解決しました。縄文人ゲノムが現代日本人に10%しか残っておらず、D1a2aがアンダマンのD1a2bと兄弟であることが分かった時点で、とうに終わっています。化けの皮が剥がれてしまったいう感じですね(笑)(これは日本人にとっての縄文人の化けの皮が剥がれたという意味なのであしからず。日本人のルーツは古代北東アジア人です。縄文人は、日本人に侵略され権利を奪われたアイヌの重要なルーツのひとつです。ルーツを盗んではいけません)
>

まー、縄文人、旧石器時代人の影響については、以前いらしたasiさんでしたっけ、Y−D論者の意見をおききしたいところですね・・・。

アイヌ文化とのかかわりは重要です。

> 日本人にも関わるハプログループで今一番ホットなのはO-F438です!図の通りです。
> 現代日本人に2%しかいませんが、「正統」というのはそんなところでしょう(笑)
>
>??図1のアファナシェヴォの"Patoral farmers"というのは、F438古人骨が分布している長城地帯の「牧畜型農耕民」と同じですね。アファナシェヴォに農耕を齎したのは、中央アジアのBMACに加えてバヤン・ウルギーのF438かもしれない。図2では、雑穀と小麦の混合を示す黄緑色の帯が、河西回廊からサヤンに延びているのが分かります。
>

なるほど・・。

> このようにF438は大陸と大きく関わるという点でもとても重要で、やっとマクロな視点で科学的に日本人を見ることができるようになったという気がします。私も中央ユーラシアとの接点がないとつまらない質ですから喜ばしいです!D1a2aやO1b2、O2のM134以外だと大陸の隅っこだけですからね〜。あとは日本の他のM133やF444、C2がどこまで加わって来るか。
>


O1b2論者も、そろそろ出てこないかな???


> 西戎の正統な祖はF438ー。
> これは古代DNAの分布からほぼ間違いないです。私が睨んでいた通りでした。
>
> だって、西戎がチベット・ビルマ系O-CTS1642だったとすると、羌が殷代に黄土高原に拡がっていて、その後も中国内地に盛んに進出した割には漢族にCTS1642が少な過ぎますからね。甘粛・青海の羌の古人骨にもCTS1642系統が全くいなかったのは正直意外でしたが。
>

そうですね、CTS1642だけでは少なすぎる・・・、月氏や百越の動きを考える上でも、もうひとつ、ふたつ、同様にして彼らにCTS1642同様に、混じっていたハプロを探す必要がありますね。




10958秦野北斗:2021/06/21(月) 06:57:29
Re: 日本人も決して「Y-haplo Dの民」などではなく、「MT-haplo D」の民である。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011760M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

> MT-haplo D: Japanese 41.2%, Korean 36.4%(South Korean), Han 30%(Beijing)

Japanese 41.2%, Korean 36.4%(South Korean), Han 30%(Beijing)
これ何を意味するの・・・日本人?

正しく、「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」拘(こだわ)るのは虚しい。

> Limbu
> MT-haplo D=43.32% (D4a/D=100%) Subba (Limbu) 0.432 44??D4=19
> MT-haplo D: Japanese 41.2%, Korean 36.4%(South Korean), Han 30%(Beijing)
>
> 日本人も決して「Y-haplo Dの民」などではなく、「MT-haplo D」の民である。
>
> Limbu people
> The Limbu (exonym) or Yakthung (endonym) (IPA: [jakt?uŋ]) are an Kirati people of the Himalayan Limbuwan region of Nepal. However, a small number of Limbu also live in the western Sikkim, Kalimpong and Western Bhutan.[5][6][7]
>
> あ、秦野さんは英語は全然読めないかな。漢字もろくに読めないようだし(笑)



10959管理人:2021/06/22(火) 00:17:43
匈奴と月氏のハプロ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011762M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011762_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011762_3M.png

https://www.yfull.com/tree/Q/



10960秦野北斗:2021/06/22(火) 20:36:28
Re: 匈奴と月氏のハプロ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011765M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

匈奴のハプロは、どこまで進んでいますか、ユーラシアの覇者なんですな・・・


> > その周辺の系統は、イランやウズベキスタン、ロシア黒海周辺、トルコ、青海省あたりですから、まさに匈奴やフン族の領域と重なってきます。
> >
>
> 現代人ではなく、古人骨で辿れれば良いんですが、ね。匈奴が逆走して中東へというのは、ちょっと有り得ないですね...
>
> > またQ-M120(Q1a1a1)は、遼河あたりから山東半島方面へと降りてくる以前論じた系統で、これも月氏の可能性が低いです。
> >




10961秦野北斗:2021/06/23(水) 00:17:01
Re: 匈奴と月氏のハプロ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011768M.jpg

https://www.y-history.net/appendix/wh0301-000.html



10962管理人:2021/06/23(水) 22:54:19
匈奴と月氏のハプロ2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011773M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011773_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011773_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/フン族の起源



10963秦野北斗:2021/06/23(水) 23:17:58
Re: 非科学的なナショナリスト
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011774M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

なかなかやりますな、縄文時代、弥生時代は何ですか?
ハプロで年代の特定できるかな・・・記録は一応だが10,000年ぐらしい。

> 引用
> 「この5年間で、人間の先祖についての研究は 、今まで知られてきたことをはるかに超えたと言われています。なぜ、こうした研究の結果がもっと一般的に知られないかというと、単一民族という考え方やナショナリズムを完全にひっくり返してしまうからです。・・・さて、こうした科学研究を邪魔と見ているのはナショナリスト、愛国主義者と一部の神秘主義者です」。
>
> 「朝鮮半島の南で文明を作っていた人々を「弥生人」(あるいはProto-Japanese)と呼ぶのに反発をしている人々が多くいる。どちらでも、自分たちが日本とつながりがあることをあまり認めたくない状況になっている。日本にも神秘主義に包んでわけの分からない非科学的な状態のままにすることを好むナショナリストがいる」。
>
> 「韓国で歴史をよく研究している人には「弥生人」と韓民族が現在の韓国人の先祖であって、日本は縄文時代に住んでいた多くの部族と弥生人の混血であるとと認めるべきだと書いている。日本語は弥生人の言葉と九州に縄文時代に住んでいた人々の言葉が中心に混ざっていると言語学者は最近発表している」。



10964秦野北斗:2021/06/24(木) 14:06:01
Re: 匈奴と月氏のハプロ2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011776M.jpg

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/776331/65?tocOpened=1



10965秦野北斗:2021/06/25(金) 21:38:56
Re: 匈奴と月氏のハプロ2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011779M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=Khgu_ySoOjI



10966管理人:2021/06/25(金) 23:06:49
弥生人の起源とO1B2
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011780M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011780_2M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011780_3M.png

https://ja.wikipedia.org/wiki/ハプログループO1b2_(Y染色体)



10967秦野北斗:2021/06/26(土) 16:15:19
月氏は存在しない、誤訳です。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011784M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/月氏



10968管理人:2021/06/26(土) 22:58:07
サカ・月氏の起源
また、シマオウさん、秦野さん、情報ありがとうございます。
特に月氏の実態について、少し考えなおす必要がありそうですね。

秦野さんの情報にある下記の記載が重要ですね。

月氏(げっし、拼音:Yuèzhī)は、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア、中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになる。大月氏時代は東西交易で栄えた。漢書西域伝によれば羌に近い文化や言語を持つとあるが、民族系統については後述のように諸説ある。


要するに中国語では「ゲッシ」ではなく「ユエチ」なんですね。これが百越の越「エツ」となる。

百越のうち、雲南の滇越の王族の墳墓からは後述する動画にみえるような北方遊牧民のものとしか考えにくい青銅意匠が多数でていますから、したがって、百越の祖先あるいは支配者層に、北方遊牧民がいたと考えるのは自然でしょう。

そのサカ・月氏など北方遊牧民の雲南諸族(のチベット・ビルマ語族やドンソン文化)への影響については、白鳥倉吉の息子の白鳥芳郎氏が『華南文化史研究』で指摘されているので、よろしくご参照ください。

問題はその北方遊牧民がどういう集団だったか?を特定したいわけですが、雲南と関係が深いのは位置的にもチャン族(羌族)でしょう。

彼らが、この百越の現れる年代、春秋時代末期あたりに、チャン族に何らかの異変が起きて、そこから南下、あるいは東遷して、一部は北上いった集団がいて、それが百越となった可能性があります。

先の雲南の滇王国の墳墓の年代は、荘蹻(紀元前278年 - 紀元前256年)から嘗羌(M6墓主)(紀元前123年 - 紀元前85年)となってますから、戦国時代にはこの周辺に勢力を拡張していたことがわかりますね。

嘗羌に羌の字があてられているのは偶然か、必然か。

ぞれで、あえてサカ・月氏の影響を滇王国のそれと結びつけるのには訳があって、その遺物とサカ・月氏の墳墓のそれとにある種の共通性があることからくるのですが、話すと長くなるので、まずはその墳墓の出土遺物の動画をみてみましょう!

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DdCBJiRZj2GA


この動画に描かれている神殿の千木の部分が日本の神社と同じ構造であることも知られており、日本文化の起源を考える上でも、この滇王国および、その前身の滇越の由来を考えることが日本民族にとって重要なわけです。

あと、関連してシマオウさんご紹介の 「この点、「デネ・エニセイ語族」を提唱しているE.ワイダは、ケットのミトコンドリアDNAハプログループFと服装に着目、雲南から北方への集団の移動があったことを仄めかしている。」との指摘は興味深いですね。

そのケット人についてはウィキに下記用にあります。


ケット人のY染色体ハプログループはアメリカ先住民で高頻度のQ系統が90%以上を占め[4]、遺伝子からもアメリカ先住民との同系性が示されている。

mtDNAは周辺諸族と異なりハプログループF (mtDNA)が23.7%の頻度で観察される[5]。このタイプは東南アジアに多い型で、シベリアには珍しい。


古代シベリア南部に栄えたタシュティク文化やテュルク系の丁零との文化的関連を考える説もあるが、地理的に重なる以外に積極的な証拠はない。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2582%25B1%25E3%2583%2583%25E3%2583%2588%25E4%25BA%25BA


確かに、氷河期明けの温暖化した時期に東南アジア方面から雲南経由で北上した集団がいたんでしょうかね。

また、そこにみえるタシュティク文化について調べていくと下記のようにあります。

タシュティク文化(英語Tashtyk culture、ロシア語Таштыкская культура)とは、紀元1世紀から4世紀にかけて、シベリアのエニセイ川中・上流域、現在のクラスノヤルスク地方・ハカス共和国・ケメロヴォ州東部に栄えた文化である。エニセイキルギス人に関係があると見られている。タシュティク文化の集落、砦や墓地などの遺跡はエニセイ川流域、特にミヌシンスク盆地から南のサヤン渓谷に多く発見されている。墓地からは多数の副葬品が知られている。

特に有名なのは、ミヌシンスク北方のオグラハティ墓地遺跡でレオニート・クィズラソフにより発見された多数のミイラで、石膏製の葬儀用仮面が付けられていた。他に毛皮や絹の衣類なども見つかっている(エルミタージュ美術館蔵)。また火葬骨を入れた皮製の人形なども見出されている。

仮面によれば彼らはコーカソイド的な顔立ちをしている。『史記』などの中国史料によればこの地域には、漢代には堅昆、後の時代には契骨(キルギス・クルグズの音写)などと呼ばれた遊牧民族がおり、紅毛碧眼で鼻の高いコーカソイド風の顔立ちをしていたという。彼らはエニセイキルギス人の祖先とされており(ただし現在と違いテュルク系民族ではなかった可能性もある)、タシュティク文化も彼らによるものであったと推定される。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2582%25BF%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25A5%25E3%2583%2586%25E3%2582%25A3%25E3%2582%25AF%25E6%2596%2587%25E5%258C%2596


位置的にはその関連項目にみえているパジリク古墳群のそれとも近いでしょう。パジリク古墳群についてはこちら参照。


パジリク古墳群(パジリクこふんぐん)、または、パジリク遺跡(パジリクいせき)とは、ロシア連邦、南シベリアのアルタイ地方中央付近、アルタイ共和国の標高1600mのパジリク河岸にある大型円墳5基、小型円墳9基からなる墳墓(クルガン)群。


遺物に用いられる紋様で特に多いのはスキト・シベリア様式というスキタイ独特の動物意匠の紋様で各種の植物をモチーフにした紋様も多く見られる。この遺物に見られる文化の担い手については、議論があり、ルデンコ、M.I.アルタモノフは、イラン系のサカ族で、中国史料でいう月氏であるとしているが、江上波夫らは月氏にしては、北方でありすぎるとしてこれを認めていない。実際の被葬者は、東枕で、墳墓中に男女一組の合葬とするのを原則としたこと、男性は170cm以上、女性は150cm以上と長身で、短頭、毛髪は剛直毛ではなくやわらかで栗色やブロンドがあり、人類学の分類でコーカソイド(ヨーロッパ人種)に属すると思われるが、モンゴロイドの混血がある可能性もあると考えられている。遺体は、脳と内臓、筋肉を除去してミイラとして納めている。男子のうち2号墳で発見された1体には、両手と胸背部及び右足に四足獣や怪獣、魚などを表現した黒色の刺青がある。副葬品には、現存最古と考えられる西アジア産のコリアンダーの種子、西アジアの中でもペルシャ産の精巧な毛織物や絨毯、エジプトからの宝飾品やビーズ、インド洋岸産の子安貝、中国産の青銅鏡、絹織物が、西方のスキタイ文化の系譜に連なる動物文様で飾った遺物に加えて出土し、当時の東西交流の盛んな実態を示す貴重な資料となっている。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2583%2591%25E3%2582%25B8%25E3%2583%25AA%25E3%2582%25AF%25E5%258F%25A4%25E5%25A2%25B3%25E7%25BE%25A4


そのミイラにしているあたりは、双方、同様な文化圏の集団だったことを示すような気がします。

東西交易を司っていた集団の首長墓と考えるのが妥当でしょうし、その交易範囲が中国の青銅鏡からインド、西アジアまでと極めて広いことを考えても、サカ・月氏の王族と考えるべきではないかなと感じます。

ただ、スキタイ系のサカ族のようなとんがり帽子など独特の衣装を装着しているわけではなく、むしろ月氏ではないかと感じますね。

そしてモンゴロイドとの混血の可能性、ここに先のケット人なりが絡んでくると面白い・・・。

こちらにそのパジリク古墳群の動画があります。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3D0pJ9-JnsiAY

完全なコーカソイドではないようですね・・・。その入れ墨の文化は、のちの呉越のそれにも関係してくるのかもしれませんし、一部は倭人のそれにも伝わっていったのでしょうか。




10969秦野北斗:2021/06/27(日) 01:14:39
Re: サカ・月氏の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011788M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=dCBJiRZj2GA



10970秦野北斗:2021/06/28(月) 00:23:22
Re: サカ・月氏の起源
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011793M.jpg

https://kotobank.jp/word/忌寸-32262



10971管理人:2021/06/28(月) 20:58:49
Re: 渡来人は四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ
シマオゥさんへのお返事です。

> 管理人さんへのお返事です。
>
> 東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、許諾の得られたものを解析した。1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。
>

いろいろ情報ありがとうございます・・・!この地図の件、別の方からも昨日話きいておどりきましたよ。。。、

ちょっと今、急性の原因bで、左目充血してて、細かい文字読めないので、また回復次第・・・お返事します。


10972秦野北斗:2021/06/30(水) 08:35:37
Re: 中国西北の馬家窯文化の前半期には羌族は河西回廊を通って新疆に入っていた!
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011801M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=W3bIkKFvM0s



10973秦野北斗:2021/07/11(日) 07:00:42
Re: 日本人と漢族と「楼蘭ゲノム」; 【結論】甘粛・青海の漢族と原初の古墳文化人には「楼蘭ゲノム」が僅かに入っているが、現代日本人には入っていない。
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011804M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/大秦



10974秦野北斗:2021/07/22(木) 01:34:11
Re: 北方漢族、コリアン、日本人、オランケ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011807M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。


> 北方漢族、コリアン、日本人はDNA的に最も近しい集団であることは確か。その事実を否定するのは者は非科学的な一部の神秘主義者のみ(爆)

史記が読めれば、こんな簡単なもの・・・なんでもない・・・

北方漢族、これなんだ、コリアン、日本人はDNA的に最も近しい集団?

コリアンを単一DNAでない、コリアンはモンゴル、日本人、中国のバイレイシャル【biracial】だぞ。



>
> 図を見ると、若干日本人の方が「オランケ成分」(オレンジ色の部分)が多く、韓国人の方が若干「彝族・ナシ族成分」(茶色)が多いか。
>
> 韓国人の方が一重まぶたが多いので、彼らの方がオランケ成分が多いと思ってたが。まー、大した差ではない、誤差の範囲。(北朝鮮はオランケが多いと思うけどw)
>
> 北方漢族、コリアン、日本人はDNA的に最も近しい集団であることは確か。その事実を否定するのは者は非科学的な一部の神秘主義者のみ(爆)
>
> 参考資料
> Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration (2020).
>



10975秦野北斗:2021/07/31(土) 02:11:57
Re: 北方漢族、コリアン、日本人、オランケ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011810M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハネの黙示録



10976秦野北斗:2021/07/03(土) 23:51:27
金の切れ目が縁の切れ目
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011814M.jpg

http://kotowaza-allguide.com/ka/kanenokireme.html



10977秦野北斗:2021/07/04(日) 08:20:26
Re: 金の切れ目が縁の切れ目
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011817M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

> この掲示板は有料サイトだ、

 たぶん、経費処理だ、

> ぽくぽくぽくΩ\ζ°)チーン

アーメンが正しい。主のもとえアーメン

シマオゥさんは、古来の仏教?

般若心経は、実のところ、鋤の伝来伝承ですな。

色即是空の意味でも解説するか、色(すがた)即ち是(これ)空しい

鋤で耕したが、芽が出ない(種を撒いていない)。古代は完全自然農法ですな、漁師と同じ

空しいものよ・・・




>
> > シマオゥさんへのお返事です。
> >
> > この掲示板は有料サイトだ、金の切れ目が縁の切れ目
> >
>
> 無料じゃねーの?月いくら払ってたのあの人?!(笑)
> しかし、カネ出してまでやってた割に繁盛してないよな〜(爆)
> ぽくぽくぽくΩ\ζ°)チーン



10978秦野北斗:2021/07/04(日) 23:35:02
Re: 金の切れ目が縁の切れ目
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011819M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/ナツメヤシ



10979秦野北斗:2021/07/05(月) 14:27:38
Re: ウデへと私と北海道縄文人と
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011823M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮族



10980管理人:2021/07/05(月) 20:42:09
しばらく休みます
すいません、左目の角膜の感染症につき、まだ細かい文字が読めない状態です。もうしばらく、お返事などできないと思いますが、気にせずすすめてください・・・。コロナには気を付けて・・・。

10981秦野北斗:2021/07/06(火) 08:36:50
「ジャハンナム」
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011827M.jpg

https://fj-com.co.jp/articles/blog/lifestyle/949/



10982管理人:2021/07/06(火) 21:53:51
Re: 「ジャハンナム」
あの。。。言葉足らずでした。コロナにかかったわけではないのです。

おやじがワクチン受けてきてから、角膜の感染症になったんですよね。ワクチンの抗体が家族に移る可能性が指摘されてますが、そのせいではないかと考えてます。おやじは昨日から血尿で急遽入院。ワクチン売ってから血尿はじまり・・・先ほど結石の手術しましたよ。

コロナワクチンも副作用あるようです。お気をつけてお過ごしください。

コロナとワクチンの正体については、こちらの動画などご参照ください。


/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DHLSWy46Np8k

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fwatch%3Fv%3DDJXisefR4Yk






秦野北斗さんへのお返事です。

> シマオゥさんへのお返事です。
>
> > やはりコロナだったか。秦野、後へ続け、大親友キシも待ってるぞ!
>
> 管理人を殺すから、生きてるぞ・・・よみがえったな。
>
> 大親友キシは、地獄で字遊びしてるな、閻魔さん難儀してるで、
>
> シマオゥさんはイスラム、「ジャハンナム」ゴミ捨て場に行くようだな。
>
> イスラムの死後の世界は、清掃員(地方公務員)、安定するな ”死んでも仕事・・・”
>
> そうか、古代は大秦(大いに奉れ)だったな、
>
> ムスリムは、1日5回の礼拝を行います。 礼拝の時間は、夜 明けの礼拝、昼の礼拝、午後の礼拝、日没時の礼拝、夜の礼拝 となっており、定められた時間の間に行います。 礼拝時間は季 節や滞在地によって異なります。 礼拝はイスラームの聖地 メッカの方角(キブラ)に向かって行われます。
> /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Ffj-com.co.jp%2Farticles%2Fblog%2Flifestyle%2F949%2F
>
>
>

10983史実探偵: 平 素人:2021/07/07(水) 05:00:24
Re: 「ジャハンナム」
  管理人さまへのお返事です。

> あの。。。言葉足らずでした。コロナにかかったわけではないのです。
>
> おやじがワクチン受けてきてから、角膜の感染症になったんですよね。ワクチンの抗体が家族に移る可能性が指摘されてますが、そのせいではないかと考えてます。おやじは昨日から血尿で急遽入院。ワクチン売ってから血尿はじまり・・・先ほど結石の手術しましたよ。
>
> コロナワクチンも副作用あるようです。お気をつけてお過ごしください。
>

 やはりそうでしたか・、誤変換があるので、再発を心配してました・・
  どうぞ、おだいじに・・

http://



10984秦野北斗:2021/07/07(水) 08:15:39
ファイザー
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011833M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

ファイザー凄いな、原液を生理食塩水で薄めているが、原液を打ったの・・・

毒も薬になる、ことわざの再認識しました。

シマオゥさんも生理食塩水で薄めて、無毒にするか、毒のないフグはね・・・



> うっそー!?ファイザーやっべ!
>
> いや、管理人さん、やっぱやっべ笑。「抗体がうつる」って何?(爆)そんな効果があるなら、アンチワクチン者の元に、ワクチン接種者を接触させに行けばいいって話になるでしょw



10985秦野北斗:2021/07/08(木) 11:47:46
Re: 沃沮->白山靺鞨(白山部); 白山靺鞨(白山部)が拠った白山(白頭山,長白山)と日本海寒帯気団収束帯(JPCZ)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011834M.jpg

https://kotobank.jp/word/衛満-35998



10986管理人:2021/07/08(木) 13:48:44
Re: 「ジャハンナム」
史実探偵:?? 平 素人さんへのお返事です。

お気遣いありがとうございます!

> >
> > コロナワクチンも副作用あるようです。お気をつけてお過ごしください。
> >
>
>  やはりそうでしたか・、誤変換があるので、再発を心配してました・・
>   どうぞ、おだいじに・・

10987秦野北斗:2021/07/08(木) 22:56:47
Re: 沃沮->白山靺鞨(白山部); 扶余・高句麗=沃沮=靺鞨=ウデヘ→ツングース語集団
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011837M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

沃沮は靺鞨の地ですな。扶余の末裔が高句麗になる・・・

>高句麗語については九大の板橋義三が詳しい。
 高句麗語は、沃沮、扶余語同様、ツングース語族だ。

扶余の末裔が高句麗なんだけど、関西弁と大阪弁の違い?

高麗人と高句麗は、関東弁と大阪弁だろうな・・・


>
> 1. ミトコンドリアDNAハプルグループGの朝鮮半島における分布図から朝鮮半島東部から日本へ進入しただろうという一応の目処は付き、集団名としては「沃沮」あたりが怪しいということになる。
>
> 沃沮に限らず、高句麗から靺鞨までの地域にいた名称を同じくする集団ということで、高句麗でも扶余でも良い。対応するY染色体DNAハプログループはC2(日本人に6%)、N1(1%)、O-M134(9%)が主だろう。
>
> 2. 中国の史書の記述を普通に解釈すれば、扶余、高句麗、沃沮などは全て同系統の言語集団となる。粛慎は別系統。以下の通り。
>
> (1)『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 高句麗「東夷旧語以為夫餘別種,言語諸事,多与夫餘同」、『後漢書』東夷列伝 高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」。
>
> (2)『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 東沃沮「其言語与句麗大同,時時小異」。
>
> (3)『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 挹婁「其人形似夫餘,言語不与夫餘、句麗同」、『後漢書』東夷列伝 挹婁「人形似夫餘,而言語各異」。
>
> 3. 高句麗語については九大の板橋義三が詳しい。
> 高句麗語の方向詞は ツングースに一致する。また、板橋の「高句麗の地名から高句麗語と朝鮮語・日本語との史的関係をさぐる」を読むと、いわゆる高句麗地名のうち、日本語類似の語彙群は、日本語族の遺残地名だ、というということになる。一方、高句麗語は、沃沮、扶余語同様、ツングース語族だ。
>
> このことは沃沮(Woju)、勿吉(Wuji)-、靺鞨(Mohe)/靺羯(Mojie)、ウデヘ(Udie/Udehe)というように一貫して見られる名称の一致と一致する。彼らの主要な集団はツングースだったと言い得る。一方、名称も異なる粛慎の言語は別系統とされるが、これはニヴフ語などの古シベリア系、つまり北海道のオホーツク文化にも関連する集団だろう。
>
> 4. そして、私の女系MT-haploはG3a2-T152でロシア沿海地方のウデヘに見られる。彼らは黒水靺鞨の子孫だ。しかし、ロシア沿海地方やカムチャッカに見られるGはG1bが主なので、私のG3a2-T152Cは、内陸から西進して来て先住の古シベリア系を征服したツングースまたはモンゴル系由来だろうということになる。
>
> G3aの古人骨がモンゴル西北、G3a2の古人骨が青海で出ていること、その比率が西から東へ行くにつれ減少していることも、バイカルからの西進という推定を支持する。
>
> ...というように、私は秦野のように単に「劣等感」と「勝手な解釈」によって話しをこじつけているわけじゃないのです。



10988秦野北斗:2021/07/09(金) 08:31:45
Re: 扶余・高句麗/沃沮/勿吉/靺鞨/ウデヘ=ツングース語集団; 【熊】黄帝部族においてC-B90が有熊氏、O-F438が軒轅(獫狁・戎狄)氏を代表している
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011840M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/イオマンテ



10989秦野北斗:2021/07/09(金) 11:12:50
Re: 扶余・高句麗/沃沮/勿吉/靺鞨/ウデヘ=ツングース語集団; 【熊】黄帝部族においてC-B90が有熊氏、O-F438が軒轅(獫狁・戎狄)氏を代表している
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011842M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/好太王碑



10990秦野北斗:2021/07/09(金) 23:18:24
Re: 「腹いせ」に歴史捏造はありがちなシナリオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011844M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本人



10991秦野北斗:2021/07/10(土) 12:54:50
Re: 東夷の雄ツングース
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011848M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/アワ



10992秦野北斗:2021/07/10(土) 17:50:13
Re: 「腹いせ」に歴史捏造はありがちなシナリオ
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011851M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

大丈夫か、考古学が実証された。まだまだ、夢だな。人類の単純な分布だけ・・・

ハプロで、進化論説明してないな、

シマオゥさんは、渡来人(よそ者)で故郷に帰れない(証明書ないから)

> ん?私のこれまでの議論は、考古学および言語学、さらに遺伝人類学的証拠でほぼ完璧に実証されてるから仮説ではなく定説だが?







10993秦野北斗:2021/07/11(日) 07:31:56
Re: 東夷の祖ツングース; 東北中国・ロシア沿海地方少数民族のY染色体DNAハプログループO
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011855M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

宮本一夫『中国の歴史1神話から歴史へ』
どうも、理解できん?「紀元前 六 〇 〇 〇 年 から 紀元前 三 〇 〇 〇 年 の 気候 が 温暖 湿潤 期 で ある ヒプシサーマル 期 は・・・、この年代、デタラメですな、

宮本一夫は、歴史を知らんのか?紀元前200年だぞ・・・


『後漢書』に地図がある、北與濊貊の位置は図参照、年代は220年

> 東北中国・ロシア沿海地方少数民族のY染色体DNAハプログループO
> Udehe: O-M188=13%
> Ulch: O-M122*=12%
> Hezhen: O-M122=44%
> Oroqen: O-M122=19%, O*=3.2%, (O1b=7%)
> Nanai: O-M122=10%
> Nivkh: O-M122*=8%

まさに、朝鮮(朝(天子の治めている)、すくない))

『後漢書』馬韓伝(韓半島の諸国と統治状況)
韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓 在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東十有二國、其北與濊貊接。弁辰 在辰韓 之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海?、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。

追記、疑うなら、地図に距離を入れてある、実測してみな・・・

>
> 東北中国・ロシア沿海地方少数民族のY染色体DNAハプログループO
> Udehe: O-M188=13%
> Ulch: O-M122*=12%
> Hezhen: O-M122=44%
> Oroqen: O-M122=19%, O*=3.2%, (O1b=7%)
> Nanai: O-M122=10%
> Nivkh: O-M122*=8%
>
> O-M122はヒプシサーマル期に北上した初期農耕集団で、サブグループはO-M122*かO-M188(xM7)と考えて良い。ウデヘのO-M188=13%は、遼河の夏家店上層文化で2割を占めたサブグループだ。
>
> ナナイ(南ツングース)はN=39%, C2=37%, O-M122=10%。
> Nが多い点で紅山文化集団(N=40%)に最も近い。
>
> ナナイと同民族とされて来た中国側のホジェン(北ツングース)ではO-M122=44%、C=29%、N=18%で、こちらは全ゲノム解析の結果から紅山文化集団に最も近い。
>
> オロチョンはC=61%, N=7%。彼らは故地が一致するので鮮卑拓跋部の末裔。
>
> ----------
> ツングース遼西起源説
> Li et al (2020)は、ツングース祖族が紀元前3500年頃に中国東北部の遼西地域から内陸ルートで沿海州に雑穀を持ち込んだ農耕集団であったとし、この移住に伴い沿海州に先住していたニブフ祖族の一部はツングース語への言語交替を起こした可能性があるとしている。この農耕の伝播には集団の移動を伴った。
>
> ツングース語族話者を特徴付ける遺伝子として、Y染色体ハプログループC-F5484とその下位系統を特定し、これがツングース語族話者の誕生と各民族集団への分化を反映するとした。このタイプは3,300年前に誕生し、1,900年前から徐々に下位系統へ分化したと算出され、ツングース語族の誕生、分化のおよその年代が遺伝子から示されたことになる。
>
> 宮本一夫『中国の歴史1神話から歴史へ』 Kindle 版から引用:
> 「紀元前 六 〇 〇 〇 年 から 紀元前 三 〇 〇 〇 年 の 気候 が 温暖 湿潤 期 で ある ヒプシサーマル 期 は、 華北 に 生まれ た アワ・キビ 農耕 が 次第に 南 から 北 へ 拡散 し て いく 時期 で あり、 新石器時代 前期( 紀元前 六 〇 〇 〇 年頃) には 遼 西・遼東 といった 狩猟 採集 社会 にも アワ・キビ 農耕 が 拡散 し て いく ので ある。 遼東 の 紀元前 五 〇 〇 〇 年頃 の 遺跡 で ある 遼寧省 瀋陽 市 新楽 遺跡 では、 キビ が 発見 さ れ て いる のが その 例 で ある」。



10994秦野北斗:2021/07/12(月) 18:41:43
Re: どんどん出てくるモンゴル高原のO-F8古人骨♪ , しかし、重要な点は、、、圧倒的多数の日本人(男性)には全く関係がない!(爆)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011861M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

ところで、日本国内のハプロは調査されたのか?

九州の甕棺は「匈奴じゃ〜、鮮卑じゃぁ〜」ほざきます。


> 秦野、お前がほざく「日本人は匈奴じゃ〜、鮮卑じゃぁ〜」(笑)は、"ことO-M133-F8に関する限り"部分的には合ってるんだよ。O-M134下の兄弟ハプロO-F444もいたと見て良いだろう。日本人のC2の一部にもいたかもしれない。
> しかし、重要な点は、、、圧倒的多数の日本人(男性)には全く関係がない!(爆)
>
> さて、モンゴル高原新出1〜3は中世晩期と遅めだが、予想どおりやっぱりどんどん出てくるモンゴル高原のO-F8古人骨♪ 紀元前2000年頃の黄土高原北部(石?[Shimao]遺跡)や甘粛(磨溝遺跡)でも出ているF438がやはり強いね。こうして見ると、F8の古代DNAは今のところ全てモンゴル高原北縁地域で見付かっている:
>
> 1. 蒙古東方省Ugoomor遺跡 O-F8(中世晩期モンゴル東北部ドルノド県)
>
> 2. 蒙古色楞格省蘇赫巴托爾Ulaanzuukh遺跡O-F8-A9459-F438-F813(中世晩期モンゴル北部セレンゲ県)
>
> 3. 蒙古 色楞格省蘇赫巴托爾Shar Khad遺跡??O-F8-F7634-M317(同上)
>
> 4. 蒙古巴彦烏列蓋-臣勒格-Biluut 2, barrow 3 O-F8-A9459-F438-F2137(紀元前1116年頃のモンゴル西端バヤン・ウルギー県)
>
> 2のF813はいわゆる「劉邦ハプロ」の子孫にあたり(異論もあるが)、中央アジアのカラカルパクにも見られるという。漢代や唐代のモンゴル・中央アジア遠征に漢の王族クラスの将軍が参加したのだろうか?!



10995秦野北斗:2021/07/13(火) 08:59:19
Re: 黄河ゴースト集団を親に持ち、チベット人と兄弟にあたる「何かしらの集団」;漢・コリアン・日はいずれかが親とかではなく、対等な兄弟関係
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011862M.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=ghMy1CbdLmg



10996秦野北斗:2021/07/13(火) 12:32:24
Re: 漢・コリアン・日はいずれかが親とかではなく、対等な兄弟関係 ; 南蒙古語派のシロンゴル語群に属す東郷族(サルタ)、保安族(ボーナン)、土族(白蒙古)も対等な兄弟
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011865M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

ハプロ、凄いな・・・性格まで遺伝するか。

甘粛、青海の両者は理解し合えないようである。シマオゥさんだな・・・

シマオゥさんは、甘粛系?

> 中国ムスリム研究会編『中国のムスリム』には、甘粛のボーナン語と青海の土族のモングォル語は全く同じと書いてあるが、モンゴル語の権威ユハ・ヤンフネンの本によると、両者は理解し合えないようである( Yuha Yanhunen, The Mongolic languages, 2005)。



10997秦野北斗:2021/07/14(水) 12:57:31
Re: 中国西北の少数民族のY染色体DNAハプログループ サルタ、ボーナン、トゥ、東部ユグル、西部ユグル、サラル
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011869M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本人



10998秦野北斗:2021/07/14(水) 15:56:07
Re: 中国西北の少数民族のY染色体DNAハプログループ サルタ、ボーナン、トゥ、東部ユグル、西部ユグル、サラル
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011871M.jpg

シマオゥさんへのお返事です。

なに言っているんだ、お前は、在日か・・・

過去に祖国に送金した、税金返納してくれ、(韓国政府と組み税金取り戻し)脱税したな・
あの、在日か

古代には、韓国(イゲタコク)なんだよ・・・

日本人にも井桁弘恵(いげた ひろえ)おるがな、

あたま、大丈夫か、シマオゥさんは朝鮮通信使?


> お前、韓国人見下すためにあれこれやってるんだろ?老いても惰性で。
> 可哀想な奴めw
>
> そういう姿勢じゃ何やっても駄目だ。
> そんなところに拘泥してちゃ、その先のことなど見えるハズがない。
> ま、今更更生もムリだから、いっそ墓まで持ってけw



10999秦野北斗:2021/07/14(水) 23:56:53
Re: 匈奴や鮮卑に代わって私が言ってやろう!「蚊蜻蛉がつけ上がるなよ?」(爆)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011873M.jpg

https://ja.wikipedia.org/wiki/百済



11000秦野北斗:2021/07/15(木) 18:27:10
Re: 匈奴や鮮卑に代わって私が言ってやろう!「蚊蜻蛉がつけ上がるなよ?」(爆)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011877M.jpg

https://kotobank.jp/word/イスラム商人-1504279






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