したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

歴史掲示板

10295管理人:2020/03/14(土) 19:25:50
九州神籠石・支石墓ライン
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010847M.png

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0010847_2M.png

秦野さん、童子さん、わかちあいありがとうございます。
美人王族といえばやはり・・・卑弥呼でしょうね・・・、沖縄とも関係するか・・。

先日の九州の支石墓を結ぶ方位ラインと、同じく以前分析した九州の神籠石を結ぶ方位ラインとの関係を図にしてみました。図1のとおりです。図2はその拡大図です。

まず、先日の分析でも指摘したように、大野台支石墓群、桑田遺跡、志登支石墓群あたりの縄文晩期から弥生初期の支石墓群がラインの起点となります。

その大野台支石墓群⇔風観岳支石墓群⇔桑田遺跡ライン、同じく大野台支石墓群⇔菜畑遺跡⇔志登支石墓群ラインも、先日指摘したとおりで、その菜畑遺跡、桑田遺跡からは、ジャポニカ米のプラントオパールが出土しています。

そして、図のように大野台支石墓群⇔高良山(神籠石)⇔玖珠方面にいたる東西ラインがあり、また志登支石墓群⇔高良山(神籠石)⇔国見山⇔阿蘇山(高岳?)に至る45度偏角のラインがあります。

ここで、図のように、この国見山と阿蘇山(高岳もしくは中岳)あたりがこの当時の測量の目印となっていたことがわかります。

すなわち、国見山を起点とするものとしては、桑田遺跡⇔国見山⇔把木神籠石へと至る南北ライン、原山支石墓群⇔国見山⇔玖珠付近へと至る40度偏角のライン、国見山⇔女山神籠石⇔大野台支石墓群への10度偏角のライン、国見山⇔高良神社の東西ライン等があり、また阿蘇山を起点としたものとしては、阿蘇山⇔風観岳支石墓群の東西ライン、阿蘇山⇔おつぼ山神籠石⇔大野台支石墓群への20度偏角のライン、阿蘇山⇔玖珠周辺への南北ライン等があります。

なお、図の方格(黒線)を見てもわかるように、他の多くの拠点がその方格上に載ることに比して、阿蘇山の位置は、その方格上には載っておらず、これは自然地形を測量起点とした際に、その尺度・位置を変更できないことによるものです。

この図をみるかぎり、最初の測量起点は最西の大野台支石墓群、あるいは最南の桑田遺跡であり、また阿蘇山⇔国見⇔高良山神籠石⇔志登支石墓群の45度ラインをもとにして、その他の周辺拠点の位置を定めたのではないでしょうか。

あと、志登支石墓群を起点としたものとしては、新町支石墓群⇔志登支石墓群⇔板付遺跡北部⇔宇美神社周辺へと至る東西ライン、また志登支石墓群⇔金立支石墓群⇔桑田遺跡へと至る70度偏角のライン、志登支石墓群⇔吉野ヶ里遺跡北部(北墳丘墓付近)⇔女山神籠石へと延びる60度偏角のライン、志登支石墓群⇔原山支石墓への南北ライン等があり、ここも二次的な測量起点だったことがわかります。

その他、菜畑遺跡⇔おつぼ山神籠石周辺⇔原山支石墓群への75度偏角のライン、菜畑遺跡⇔国見山への25度偏角のライン、大野台支石墓群⇔金立支石墓群⇔吉野ヶ里遺跡最北辺⇔把木神籠石へのライン、新町支石墓群⇔おつぼ山神籠石付近⇔風観岳支石墓群へと至る10度偏角のラインなども見えてきます。

ただ、把木神籠石やおつぼ山神籠石の位置などが方位ラインから若干のずれがあり、これが山城としての性格を保つために、海岸部や平地を避けた結果だと考えれば理解しやすくなります。

関連して以前会報でも指摘した宇美神社⇔大野城(大城山)⇔基肄城(基山)⇔女山神籠石への南北ラインについては、それぞれ魏志倭人伝の不彌国⇔烏奴国⇔支惟国⇔(不彌国の南の)邪馬台国方面へと至る諸国であることは、先日も述べたとおりです。

そして、これらの支石墓群や神籠石、弥生遺跡が、その倭人伝の諸国の中心拠点であったことは間違いないでしょう。

また先の測量拠点としてみえてくる国見山については、全国各地にある国見山が国を見渡す場所とのことで支配や測量地点を意味することがあり、その件は先日お話した奈良の秋津にある国見山と天香久山、三輪山を結ぶ方位ラインの件からもうかがえます。

阿蘇山と同様に、この国見山、あるいはその両者の延長線上にある高良山あたりが起点となっていることも、その支配・測量拠点としての意味合いが強かったことを示しますが、高良山の場合は特に神籠石という形で石列が残っており、その石造加工技術が、また支石墓のそれとも関係し、元はインド中南部の支石墓文化にあった可能性も考慮すべきでしょう。

少なくとも、上記のように5度、10度偏角単位での測量は、先日お知らせした中国、朝鮮の支石墓群を結ぶ方位ラインと同類であり、その技術系譜をこの弥生人が継承していることはあきらかです。

そして、そのインドの場合は当時すでに高度な鉄製道具による石材加工技術があり、これらの石材加工技術が、中国華南を経て、南西諸島経由で、九州に至ったと考えるならば、そのルート沿いにも同様な石造物が残っていることも考えうることです。

特に沖縄のグスク群については、高度な石材加工技術が見られており、その起源は弥生時代まで遡るのではないかともいわれているとおりです。

そして華南やインドにも同様な石造物や石材加工技術の系譜がたどれるならば、ここまで明らかにしてきた支石墓や甕棺、タミル語に類似する語彙を日本にもたらした集団がいたことの傍証となるかもしれない点で重要です。

さらに言えば、邪馬台国についても、弥生時代がはじまった当初からあったその支配に相応しい神聖な場にある拠点を、その図のライン上から導きだすことによって、明らかにしうるのかもしれません。高良山、女山の位置とその神籠石の存在は、それに適う場であるように感じます。






掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板