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歴史掲示板

10886管理人:2021/05/29(土) 11:29:53
Re: ハプロタイプと言語系統3
シマオゥさんへのお返事です。


>
> それは、とても間違った認識です。音韻は変わるからこそ、変わらないのです。音韻の規則的対応を見出すことが比較言語学のオーソドックスな方法です。これと比較すると、文法はランダムに変わって行きます。
>

おっしゃる意味がよくわからないのですが・・・。音韻については、語彙というより、文法・・ですよね?


> > 朝鮮半島と、南西諸島、この辺でどうしてもほかの集団と混合しますから。ただ、先日の5〜6世紀の北燕遺民のケースのように、1世代あるかないかで朝鮮半島を通過してしまうケースでは、ほとんど朝鮮語の影響を受けずして、北方遊牧民などの言語が九州などにもたらされた可能性を感じます。
> >
>
> そうですか。北方遊牧民というと、トルコ、モンゴル、ツングース諸語ですか。
> では、例を示してもらおうか!笑



そうですね・・・、まずは、同じ渡来人でも北燕遺民(新漢人)より前に、やってきた東漢氏の系譜に、遊牧民に多い「腹(ハラ)」と兄弟のことを呼ぶことがあり、その東漢氏が製鉄や馬の飼育にたけていたことから、遊牧民系とみなされていることがありますね。


坂上氏の上奏文にその腹が記されてます。

臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。・・・・乃勅遣臣八腹氏。分頭發遣。其人民男女。擧落隨使盡來。


後漢の霊帝の時代、つまり三国志の時代ですね、牛の教え(インド系の占術に多い牛宮のそれです)に従って、朝鮮の帯方郡にまず向い、そこで優遇されて、立派な都市や村を建てるまでに至ったとあります。相当な人数だったことがわかりますよね。技術者で優遇されていた。それで、また何らかの要因で壊滅されるとおもったので、母弟である迂興徳および、七姓民を率いてやってくるわけです。

これが4世紀末〜5世紀初頭とされる応神朝とされますが、当時の百済・東晋・日本との間での同盟関係を通じて、派遣された技術者の子孫が彼らとのことになるようです。

製鉄技術と乗馬技術を日本にもたらしますが、同時に漢字など大陸系習俗を多くもたらしたことでしょう。その習俗の中に、なぜか遊牧民系のそれがあったわけですね・・。

東晋と山東半島、百済・・、ここに遊牧民系の集団の痕跡を求める必要がありそうです。


それから6世紀になって、北燕遺民とかかわるであろう新漢人が渡来して、一部がこの東漢人等の中に同族として取り込まれた可能性も考えられてます。


それで、問題は腹(ハラ)の語彙ですが、彼らの七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)姓をみると、特に高姓、段姓は、高句麗・鮮卑系ですよね。

遼西の段姓は有名。


段部



前史

段部の始祖である段日陸眷は幼い頃に売り飛ばされ、漁陽烏桓の大人である庫?官の奴隷となった。漁陽で大飢饉が起きると、庫?官は段日陸眷が強壮であることから、遼西に移って糧食を集めるよう命じた。段日陸眷はこれを機に庫?官に叛いて自立すると、流亡の人々をかき集めてその勢力を強大化させ、かつて漢代に放棄された遼西郡令支県にある城郭を根拠地とした。

段日陸眷の死後は弟の段乞珍が位を継ぎ、その死後は子の段務勿塵が継いだ。段務勿塵は遼西の地を統べて西晋に臣従し、その部民は3万家余り、騎兵は4・5万にも及んだ。
王浚に従属
303年12月、幽州刺史王浚は幽州での地盤確立の為に、娘の1人を段務勿塵に嫁がせた。これ以降、王浚とは親密な関係となり、王浚の上表により遼西公に封じられた。


319年4月、段匹?の兵は食糧不足のために四散したので、薊を離れて上谷に拠点を移した。だが、代王拓跋鬱律より攻撃を受け、段匹?は邵続の統治する楽陵郡に身を寄せた。

12月、遼東を治める東晋の東夷校尉崔毖の呼びかけにより、段末波は慕容部討伐の兵を挙げ、宇文部・高句麗もまた呼びかけに応じてそれぞれ軍を動かした。三国連合軍は慕容部の本拠地棘城に攻撃を仕掛けたが、慕容廆の離間工作に引っ掛かり、兵を退却させた。


356年1月、慕容恪が河を渡ると、段龕は迎え撃ったが、大敗を喫して数千の兵が捕虜となった。段龕は広固に逃げ戻ると、慕容恪はそのまま軍を進め、広固を包囲した。

2月、慕容恪は長期戦の構えを取った。また、段龕の治める諸城に降伏を促し、段龕配下の徐州刺史王騰・索頭部の単于薛雲らを帰順させた。

8月、段龕は東晋に救援を要請すると、穆帝は徐州刺史荀羨を救援に派遣したが、荀羨は前燕軍を恐れて進軍しなかった。

10月、慕容恪が糧道を断ったので、広固城内では飢餓により共食いが発生する有様であった。追い詰められた段龕は城から打って出るも慕容恪に敗れ、かろうじて単騎で城内に逃げ戻ったが、取り残された兵は全滅した。

11月、段龕は遂に降伏を決断し、面縛して出頭した。段龕は目を潰された後に殺され、その配下3千人余りは生き埋めとなった。これにより、段部は完全に滅亡した。

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25AE%25B5%25E9%2583%25A8



概して東晋と高句麗との間で友好関係があったようですが、356年に滅んでます。
またこの段部のいた遼西が後の北燕の本拠ともなるわけです。

だから先の腹の概念は、鮮卑の習俗と関係する可能性がありますね。


あと、この坂上氏のうち、坂上浄野の子孫の田村氏から私の父がたの姓が分かれ出てきます。



坂上浄野の子孫。
摂津守に任じられた清和源氏の源満仲が多田盆地に入部、所領として開拓すると共に、多くの郎党を養い武士団を形成し、武士団の中心として坂上党の棟梁坂上頼次を摂津介に任じ、山本荘司に要請して西政所、南政所、東政所を統括して多田院の警衛にあたらせた[14]。34代坂上頼泰が足利義輝に仕えたものの、同じ多田御家人の一人であった塩川国満に侵攻され山本坂上氏は衰微する。その後一時豊臣秀吉の親衛を務めるが、後に退隠して町人となり、山本膳太夫と号して山本で庄屋や酒造、銀鉱採掘、両替業などを営み、園芸をして余生を過ごした。
紀伊国の在地領主小島氏は坂上望城の末裔という。大坂の陣で豊臣方につき本家は滅亡したが、庶流が後に大庄屋と成った。
紀伊の山口氏は田村麻呂の5世の孫である坂上五郎の末裔の武士。紀伊山口西に坂上田村麻呂の墓である「将軍塚」や山口西は坂上村とも呼ばれて、紀伊坂上氏の本貫地であった(『和歌山県神社誌』)[15]。山口喜内が大坂夏の陣にて活躍。[16]
田村氏は、陸奥国田村郡に起こり坂上浄野の曾孫の田村古哲にはじまるという。奥州屈指の大豪族で、伊達政宗の正室を出し、江戸時代も名望大名家として続いた。
氏族は山本氏、町口氏、小島氏、山口氏、田村氏、田母神氏など。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%259D%2582%25E4%25B8%258A%25E6%25B0%258F


この氏族のハプロがわかれば、ある程度私の父系のハプロはわかるでしょう・・・。
特に田母神氏ですね、これが血縁的には近い。前航空幕僚長の田母神俊雄さんの顔は祖父の家系の顔ですよ(笑)

田母神 俊雄(たもがみ としお、1948年(昭和23年)7月22日 - )は、日本の軍事評論家[1][2]、航空自衛官、政治活動家。予備役ブルーリボンの会顧問、「日本をまもる会・大東亜聖戦大碑護持会」会長[3]。

第29代航空幕僚長、太陽の党代表幹事兼国民運動本部長[4]、次世代の党副代表[5]を歴任。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%2594%25B0%25E6%25AF%258D%25E7%25A5%259E%25E4%25BF%258A%25E9%259B%2584






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