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歴史掲示板
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卑弥呼・台与と岩戸神話
秦野さん、さっそくお返事ありがとうございます。
ご指摘の朝妻と朝倉の件ですが、朝というと普通は東を指しそうなものですが、朝妻の井の場合は西を示すんですよね。益影の井は逆に東にあって、影が益のは日暮れ=西を示すようにもみえますから、方位的には逆です。
ただ、測量的な意味からいくと、ノーモン棒を立てて、朝と夕は影が長い時間帯ですから、それにちなんだ名を持つ井戸と言えるでしょう。
それらはまた太陽測量は太陽信仰とも関わってきますが、先日お話したように、スサノオを仮に帯方郡からきた張政等だとして、彼らが卑弥呼を死に追いやったとすると、スサノオがアマテラスを岩穴に押し込めた話に対応してくるでしょう。
その後、闇夜が訪れたので周囲は慌てて、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八尺鏡(やたのかがみ)を作らせた。玉祖命に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(八尺瓊勾玉・やさかにのまがたま)を作らせたわけですね。
ここで、この伊斯許理度売命ですが、この鏡作りの女性は、ニニギに従ってやってきたことになってますね。
ニニギ=ニギハヤヒ=魏(帯方・楽浪)の張政等の可能性を先日から考えはじめているのですが、魏からやってきた鏡作りの女性に象徴される技術者集団となるでしょうか。つまり物部氏の祖先ですね。
ただ、ここで造っているのは鉄の鏡である点が重要で、魏の曹操の墓から出土したのと同類の鉄鏡が日田から出土していることと関係するでしょうか。
また、八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠については、台与が魏に張政等に渡し献上した白珠五千孔、?大勾珠二枚に対応するでしょう。
すなわち2枚の大きい勾玉=八尺の勾玉、五百の御統・美須麻流(みすまる)珠=五千の白珠孔の対応です。
そして後者はどうも首飾り用の穴の開いた珠のようですね。だから魏志にも「孔」と記しているわけです。
そうすると、偶然とは思えないような天岩戸神話と魏志倭人伝の記載とに接点がでてくることに気づきます。
つまり、台与が宝として重宝していたものをあえて魏に贈ったことがわかるのですが、これが岩戸神話におけるアマテラス女神の似姿=女王装飾だったことも理解できるでしょう。
なお、岩戸神話では、岩戸に籠ったアマテラスが、その鏡に映った自分のことを、周囲のものがいう「自分より尊い神」だと勘違いして、岩戸を開いたことによって、引っ張り出されることになったのですが、これが日食のことだとする説もあることはよく知られているところです。
ここでも卑弥呼をアマテラスとすると、その似姿で自分より尊い女神は台与との見方もできるでしょうか。あるいは復活した太陽女神を台与とみなすか。
いずれにせよ、この手の洞窟と太陽神・犠牲神の死と復活の神話は、オリエント経由で朝鮮へと伝わったものでしょうし、それをある時期に、おそらくは邪馬台国時代の末期に日本にもたらしたのが、天岩戸神話として物部氏や皇族等によって継承されていたような気がしますね。
その後、八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放したわけですが、これが台与が張政を魏への朝貢品を渡して追い返したとの記載に対応しそうです。
張政等が行ったであろう暴虐は、岩戸神話からいくと、天斑駒の皮を逆さに剥ぎ御殿の中に投げ入れりしたとなりますが、馬のない日本列島に、馬を持ち込んだ集団ともいえそうですね。機織りの巫女がいる宮殿に糞をまき散らす話も馬糞の話のようにも見えます。
この機織りの巫女が重要で、関連して台与の朝貢品に異文雑錦二十匹というのがありますが、その品々の詳細についてはこちらのサイトに説明があるのでご参照ください。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fdetail.chiebukuro.yahoo.co.jp%2Fqa%2Fquestion_detail%2Fq13126913783
卑弥呼時代の朝貢した班布がここで言うように1匹で4.7mとして、それが20匹ですから、相当な量の反物を朝貢したことになりますね。しかもそれらには珍しい紋様がおりこめられていたわけですから、これらは卑弥呼の数十〜百人いた巫女集団によって織りなされたいたと考えるべきでしょう。そして卑弥呼の巫女集団を台与も継承していたはずです。
それが岩戸神話では機織りをする女性として描かれている点が重要です。
そして、そこに張政等が馬で乗りこんできたので、驚いてアマテラスは籠ってしまったわけですね。
そのまま籠ったまま彼女は死んでしまったのかもしれません。倭人伝の「以て死す」です。
その様子は、記紀の一書に下記のように描かれてます。
その時、磐戸の側に隠れていた天手力雄神が引き開けると、日神の光が国中に満ち溢(あふ)れた、とある。
そこで、神々は大いに喜び、素戔嗚尊に贖罪の品々を科し、手の爪を吉の物として切り棄て、足の爪を凶の物として切り棄てた。そして天兒屋命をして其の解除(はらえ)の太諄辭(ふとのりと)を掌(つかさど)りて宣(の)らしめき、とある。
後、素戔嗚尊は「神々は私を追い払い、私はまさに永久に去ることになったが、どうして我が姉上に会わずに、勝手に一人で去れるだろうか」と言い天に戻る。すると天鈿女命がこれを日神に報告する。
日神は、「我が弟が上って来るのは、また好意(よきこころ)からではないはず。きっと我が国を奪おうとしているのだ。我は女だが逃げるほどでは無い」と言って武装した、とある。そして二神で誓約が行われる運びになる。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E5%25A4%25A9%25E5%25B2%25A9%25E6%2588%25B8%23cite_note-8
この場合、スサノオは追放されてから、再度アマテラスのもとに戻ってきたことになるわけです。
つまり、張政等が武装してやってきて宮殿に乗り込んだので、卑弥呼が驚いて籠ってしまって死んだ後、騒ぎになって彼らは一度追放されたものの、その後、再度弁明しようと台与に会いに来たようにも見えるでしょう。
そこで、武装した台与と張政との間での対峙があったのかもしれませんね。
結果としてスサノオが優位に立ったわけですが、いずれにせよスサノオは居残らず、故地に戻ったわけです。
新羅の前身のワイ族のいたあたりでしょうか。秦韓や同族の楽浪遺民のいたあたりで、帯方の役人張政もその血縁ではなかったかと感じます。
スサノオはアマテラスを姉と呼ぶわけですが、張政等が卑弥呼を同族として認識していたとすると面白いですね。
関連して卑弥呼の墓と言われる祇園山古墳は楽浪の阿残(つまり秦韓の阿を称する集団の同族)墓と共通する要素があり、また伊都國の甕棺墓の影響もあるので、楽浪→秦韓→伊都方面の血筋の出身だったことも考慮すべきかもしれません。
それで、卑弥呼もしくは台与は張政等がやってくると聞いて、国をとられると危惧して武装したようにも見えるわけです。
ただ、この辺の話は、朝倉での斉明女帝亡き後の唐軍と天智との張り合いにも似ていて、モチーフ的にはその辺からもたらされている可能性も考慮すべきでしょう。
しかし、魏志倭人伝の断片的な記録のみを元にして、先のようなアマテラス神話を造り出すだけの創作力が白鳳〜奈良の官人にあったのかな?との疑問もありますけどね。
確かに神功皇后の話を新たに創作して卑弥呼・台与に重ね合わそうとした意図は理解できるのですが、そこに物部氏系の古い伝承要素が入り込んでいるような気がするんですね。楽浪・秦韓(新羅)経由である時期に神道祭祀とともに上記のアマテラス伝承が持ち込まれて、それがベースになって存在しているように考えます。
邪馬台国時代の古い元テキストと、新たに追加された創作要素ですね、これをもう少し分離させれれば、卑弥呼と台与の実像が浮かび上がってくるような気がするんですが、またご意見あればどうぞよろしくわかちあいください。
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