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歴史掲示板

10337管理人:2020/04/24(金) 00:48:44
亶州
秦野さん、お返事ありがとうございます。

そう、その隋書というと、夷州の記載がありましたね。


「都斯麻國迥在 大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也 又經十餘國 達於海岸 自 竹斯國以東 皆附庸於倭」

この場合、秦王国、つまり周防国のことでしょうか、ここの習俗が中国のそれと似ているので、ここが夷州(夷人の住む島々の意味?)であるとは思えない、理解できないと言っているわけです。ある意味、中国的でない周辺の島々はみな夷州と呼ばれていた可能性もありそうです。

しかし、それに対して「会稽東県人海行有遭風流移至亶洲者 所在絶遠卒不可得至 但得夷洲数千人還」の亶洲ですね、これがさらに夷州より遠くにあるとされてます。

その亶については下記のような意味があります。

?あつ(厚)い。ゆたか。 ?まこと。まことに。 ?ほしいまま。もっぱら。類専・擅(セン)

/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kanjipedia.jp%2Fkanji%2F0004613900


なぜ、この亶をおそらくは琉球・沖縄方面に充てたのかが解せない感じです。

夷というのは、中国周辺の異民族を意味する用語のように感じるんですね。ある程度、従属の意を示す場合がある。

それに対して、亶は、ほしいままに好きなように生きている、つまり中国の従属圏にいない、動物や魚のような異民族という具合の観念だったと考えるとどうでしょう。

それに似た観念として、同じく琉球方面を指すと考えた会稽の東のテイ(魚へんに是)の記載がありましたね。

後漢書東夷伝
「会稽の海外に、東テイ(魚へんに是)人あり。分かれて20余国となる。また、夷洲 およびセンさんずいに亶)洲あり。 伝に言う「秦の始皇(帝)、方子の徐福を遣わし、童男・ 童女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅(殺)を恐れ、あえて還らず。ついに此の洲に止まる」と。
   世々相承けて数万家あり。人民、時に会稽に至りて市す。会稽東冶の県人、海に入り行きて風に遭い、流移してセン(さんずいに亶)洲に到る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。」
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fkamodoku.dee.cc%2Fgokanjo.html

つまり、徐福が住み着いて戻ってこなかった20国となるのですが、ここを亶洲としている。

ここでさんずいを用いるのは、水つまり海に関わる「亶」を意味しているはずですから、やはり魚のようなきままな存在を示しているのではないでしょうか。

そして、そのテイ=魚+是でイワシの意味でしたね。半魚人とでもいうべき表現の仕方です。

ただ、徐福の子孫なら、習俗も中国風だったでしょうから、夷つまり異民族風ではない可能性もあったでしょう。

だから台湾=夷州と、その遠くにある琉球方面=亶州は区別する必要があったのではないでしょうか・・・・。20国あるというのも、国として交易・通交できるだけの文化があったことを示している。

それゆえ、孫権は興味を示したのかもしれません。文化的に高ければ、戦力・財力になりますからね。しかし、結果として夷州に行っただけで、そこからあまり戦力にならない1000人を連れて帰ってきたので怒ったのでしょう。

そういう意味では、亶州については、別格の文化地域との観念が中国人にあった可能性が見えてくるでしょう。

グスクや支石墓、御嶽に見られるような高度な石造文化もそうですね。当時からそれらは存在していて、縄文時代晩期には、海のシルクロードを経て華南経由でインド系のそれらが稲作とともに琉球方面へともたらされ、一部が九州へと伝来していく。

徐福の話というのは、山海経の分析からみても、それ以前にあった同様な逃亡民の移住伝承を元にしていることもあり、それらが亶州の観念として形作られていったのでしょう。

そして亶州と邪馬台国ですね。ここがこれから重要なポイントとなってきます。





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