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歴史掲示板
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矞 (矛を立てる=トゲがある)…茨城(荊木)
飛鳥時代末、県犬養三千代が元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜っ たことに始まる。その子・葛城王が橘諸兄へ改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称した
郡衙の位置や役割 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2F8906.teacup.com%2Ftoraijin%2Fbbs%2F4056
海に身を投じた弟橘媛命の「櫛(くし)」を納める「橘神社」が合祀され、現在に至ります。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.geocities.jp%2Fflow_and_stock%2Fjisya-kanto%2Fhashirimizu.html
(くし)
串 カン・セン・くし 丨部 解字 ものを串ざしにした形の象形。つらぬく意を表わす[字統]。 篆文の字形は患から復元した。 意味 (1)つらぬく。うがつ。
つらぬく意…西から東…古東海道…日立?
古東海道の終点の都市 : 石岡www.rekishinosato.com/toukaidou.htm
古東海道は東京湾を舟で渡った
東京湾アクアラインが開通したとき旧東海道の再現との話題があったが、昔の東海道は横須賀の走水(観音岬)より千葉県の富津岬へ舟で渡っていたという。神奈川側では鎌倉から葉山へ行き、そこから三浦半島を横断して衣笠を通って横須賀川へ歩いた。当時江戸はまだそれ程開発されていない地域であり、現在の東海道からはかなりズレていた。千葉県に入ると上総(かずさ)国=国府は市原-下総(しもうさ)国=国府は市川-常陸(ひたち)国=国府は府中(現石岡)と続いていた。江戸を中心に考えると下総の方が東京に近いが、当時の東海道で考えれば、五畿内(関西)に近い上総が上手である。
寅さん埴輪の画像
(矢切の渡しは江戸川を柴又へ渡る渡しである) /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%25e5%25af%2585%25e3%2581%2595%25e3%2582%2593%25e5%259f%25b4%25e8%25bc%25aa%26qpvt%3D%25e5%25af%2585%25e3%2581%2595%25e3%2582%2593%25e5%259f%25b4%25e8%25bc%25aa%26FORM%3DIGRE
房総に渡った後の古道東海道ルートについて
走水を出た船が上総(かずさ)のどこについたのか範囲が広く良く分かっていない。地図で見る限りは富津岬が一番近い(約6km)ように思われますが、木更津に近いところ辺りに着くのがルートであったのではないでしょうか。上総に上陸した後は、現在の国道16号に沿って海沿いに北上する。五井駅の近くで右折し、市原市役所の近くが旧国府(上総国分寺がある)である。国道16号を更に北上すると、国道14号にかわる。このまま海沿いに進むと下総(しもうさ)国府である市川市に入る。市川市外より松戸方向に北上する県道があり、少し行ったところに下総国府である国府台である。この道をそのまま北上すると野菊の墓、寅さんや演歌で有名になった「矢切の渡し」のある矢切を通り(矢切の渡しは江戸川を柴又へ渡る渡しである)松戸へ出る。ここからは6号国道を北東し、常陸国国府石岡へ出る。江戸時代前までは利根川は現在のように銚子へ流れるのではなく、東京湾に流れており、霞ヶ浦や手賀沼などは一体の大きな内海であった。利根川に相当する川として常陸川(小貝川と鬼怒川の合流)があったが、この川をどのように渡ったかは良く分からないが、あまり流れが速くなかったのではないだろうか。
さて、千葉の房総半島には下総、上総ともう一つ安房(あわ)国がある。ここは養老2年(718年)に上総の国から分割されてできた。国府は館山市国分(三芳村府中?)である。安房の言葉の由来は忌部氏(いんべし)が四国の阿波(徳島県)の民を連れてきて、阿波の神を祀ったことによるとされる。南総里見八犬伝で有名となった。
さて、古道東海道の終点、常陸国府中(現石岡市)に都より国司、常陸介が赴任すると、国府の浜(現高浜)より舟で霞ヶ浦を渡り、鹿島神宮のお参りに行くのが習わしであった。しかし、波が荒い日は、浜に青葦で仮神社をたてお参りした。こらが始まりとなり、青屋神社が建てられ、高浜神社が建てられた。
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