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歴史掲示板
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アラハバキ
ちょっと、アラハバキ神について調べはじめてます。ウィキには下記のようにありますね・・・
起源は不明な点が多く、歴史的経緯や信憑性については諸説ある。
荒脛巾神の祠がある神社は全国に見られるが、その中には客人神(門客神)としてまつられている例が多い。客人神については諸説があり、「客人(まれびと)の神だったのが元の地主神との関係が主客転倒したもの」という説もある。
『東日流外三郡誌」では遮光器土偶が荒脛巾神の姿とされるが、『東日流外三郡誌』は偽書であるため実際の姿とは異な
武内裕/縄文神説
縄文時代に信仰されていた神とする説。『東日流外三郡誌』を独自に援用した武内裕が70年代に唱えたのが最初である。
吉野裕子/蛇神説
吉野裕子の、かつての日本の、蛇を祖霊とする信仰の上に五行説が取り入れられたとする説。
吉野によれば、「ハバキ」の「ハハ」は蛇の古語であり、「ハハキ」とは「蛇木(ははき)」あるいは「竜木(ははき)」であり、直立する樹木は蛇に見立てられ、古来祭りの中枢にあったという。
伊勢神宮には「波波木(ははき)神」が祀られているが、その祀られる場所は内宮の東南、つまり「辰巳」の方角、その祭祀は6、9、12月の18日(土用にあたる)の「巳の刻」に行われるという。「辰」=「竜」、「巳」=「蛇」として、蛇と深い関わりがあるとする[2]。ちなみに、「波波木神」が後に「顕れる」という接頭語が付いて、「顕波波木神」になり、アレが荒に変化してハハキが取れたものが荒神という説。
氷川神社との関係
「氷川神社」を参照
荒脛巾神が「客人神」として祀られているケースは、埼玉県さいたま市大宮区の氷川神社でも見られる。この摂社は「門客人神社」(氷川神社#摂社参照)と呼ばれるが、元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていた。だが、現在の氷川神社の主祭神は出雲系であり、武蔵国造一族とともにこの地に乗り込んできたものである[7]。これらのことを根拠として、荒脛巾神は氷川神社の地主神で先住の神だとする説[8]もある。
一方アラハバキを客人神として祀る神社は武蔵を始め、三河、出雲、伊予にも点在するため、武蔵先住の神と見ることはできない。出雲の佐太神社や出雲大社は出雲国造と、伊予は小市国造・風速国造と、三河は三川蘰連と、氷川神社は武蔵国造とそれぞれ関連し、これら諸氏はいずれも製鉄氏族の物部氏と同族であった。陸奥にある丹内山神社は、神体がアラハバキ大神の巨石(胎内石)という巨石とされ、当地の物部氏が関与したと伝わる[9]。
この大宮を中心とする氷川神社群(氷川神社、中氷川神社、女氷川神社に調神社、宗像神社、越谷の久伊豆神社まで含めたもの)はオリオン座の形に並んでおり、脇を流れる荒川を天の川とすれば、ちょうど天を映した形になっているとみる説もある[誰?]。氷川神社は延喜式に掲載されている古社ではあるが、氷川神社の主祭神がスサノオであるという明確な記述は江戸時代までしか遡れない[要出典]。
四天王寺との関係
聖徳太子が、物部守屋との仏教受容をめぐる戦いを制して、日本初の大寺である大阪市の四天王寺を建てたが、この四天王寺について、アラハバキ及び縄文系との関わりを指摘する者もいる[誰?]。
四天王寺の敷地の元来の地名は「荒墓邑」(あらはかむら)である。四天王寺の北側に磐船神社(饒速日命の降臨地)が元々あったとされ、物部氏は饒速日命を始祖とする一族であるから、この四天王寺の地は本来、物部発祥の聖地であったという説もある[要出典]。
砥鹿神社
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E3%2582%25A2%25E3%2583%25A9%25E3%2583%258F%25E3%2583%2590%25E3%2582%25AD
こちらのサイトのほうが詳しく調べてくれてますね。
近江雅和氏は、弥生時代前後に始まる古代製鉄の存在を追っているうちに、アラハバキ神という謎の信仰にぶつかったという。
近江氏は、アラハバキが西日本では「大元尊神」とよばれることがあることに注目する。
この大元尊神とは、古代インドの一種族の土俗信仰であった鬼神ないしは夜叉である「アーラヴァカ・ヤクシャ」の漢訳である。
芦田献之氏は、このアーラヴァカ・ヤクシャについて次のように述べている。
「古代インドの一種族の土俗信仰であった鬼神ないしは夜叉であるアーラヴァカ・ヤクシャは、仏教に取入れられると強力な仏法の守護神となり、紀元前三世紀の原始仏教経典『スッタ・ニパー夕』や『雑阿含経(ぞうあごんきょう)』に説かれるようになった。
五世紀になるとインドでは密教がさかんになり、土俗信仰をはじめとして、ヒンズー教の神々も受けいれて、高度に教理化された密教仏典が成立した。」
このときアーラヴァカ・ヤクシャは梵語名でアータヴァカ・ヤツカと呼ばれて仏法守護神の明王部に入れられた。
東晋の時代になるとインドや西域の密教僧による訳経が行なわれるようになり、「アータヴァカ.ヤクシャ」は「阿臈鬼(あらき)」「褐陀披鬼(わたばき)」「アタバクダイヤシャ」と漢字で音写されている。
七、八世紀の唐代になると、中国に密教がもたらされ、密教経典の訳出が行われた。
この時代になるともはや音写ではなく、義訳による漢訳経典が現れて、「大元帥」の形になっていく。
そして、道教と習合し「大元帥明王法(たいげんみょうおうほう)」という皇帝独占の国家鎮護の秘法が形成される。
大元尊神の原点である「アーラヴァカ・ヤクシャ」を信仰した古代インドの種族は、「アーラヴィー」(林住族)である。
この「アーラヴィー」は、南アラビアからインドに入って住み着いた一団であり、その後、アーリア系の侵入で森林曠野に住んでいたことが、紀元前三世紀のインド・マウリヤ王朝の宰相カウテリャの著書『実利論』に記されていると近江氏は指摘する。
このことから、アラハバキ信仰の原点が南アラビア地方にあるという。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.fafner.biz%2Fact9_new%2Ffan%2Freport%2Fai%2Fryuh%2Farahabaki.htm
巨石信仰と関係してそうですね。弥生初期のインド系の支石墓とか、縄文環状列石、あるいは旧石器時代の巨石のそれともかかわるのか・・・。福島のほうに、そういえば田村大元帥社があったな・・・中世の蝦夷との交易の影響も考慮すべきなのか・・・
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