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歴史掲示板

10047荊の紀氏:2019/12/20(金) 06:34:45
葛川-
>万年橋は毛呂山町(左岸)と. 坂戸市(右岸)を結ぶ全長250m(歩測)の鋼桁橋。 ... 万年橋とは. 永久橋(冠水しない橋)と同じ意味の普通名詞。 上流側の. 桁 ...
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>坂戸市は埼玉県のほぼ中央に位置し、都心から45km圏内に位置しています。 ... これは、近畿地方にある「さかど」もしくは「さかと」と読む地名が物部氏ゆかりの地にあり、本市周辺も古代には物部氏の勢力下にあったらしいことから主張されたものです。 ...
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近畿地方にある「さかど」もしくは「さかと」と読む地名が物部氏ゆかりの地にあり、本市周辺も古代には物部氏の勢力下にあったらしいことから主張されたものです。
 今のところ、「さかど」の起こりについては、残念ながらはっきりとわかっていません。

そこをすこし行って脚折月待戸の交差点を左折して数分走ると高麗川にかかる万年橋で出くわしました。なぜ万年橋が重要なのかについての詳細は紀氏さんこと保田氏の「古墳のこころ」を読んでいただきたく感じます
高麗郡 05.03.26www.asahi-net.or.jp/~rg1h-smed/koma050326.htm
要点としては真東は香取(鹿嶋)神宮を望む万年橋を測量起点としてカゴメ(六角形)方向に古代の遺跡が造営されていたとのことであります。また籠目の歌を手がかりに、万年橋を中心にそばの鶴舞、鳩山市、滑川町との関連から、いわゆる「籠の中の鳥はいついつ出会う・・鶴と亀が滑った」という歌詞との対応を考えられています。そこから外来文化特に鳩とのイメージからキリスト教とのかかわりをご指摘されているのですが、確かに行ってみると西南の高麗郡方向はもとより、四方よく見渡すことができ、測量起点としても絶好の場所であることがわかりました。

万年橋は毛呂山町(左岸)と. 坂戸市(右岸)を結ぶ全長250m(歩測)の鋼桁
高麗川 - 若宮橋の周辺  [高麗川のページ一覧]fukadasoft2.sakura.ne.jp/bridges/komagawa/wakamiya/index2.html
緯度 35.945882
解度 139.361471
万年橋の下流左岸へは葛川放水路(注)が合流している。

葛飾とはもともと下総国葛飾郡一帯の広大な地の総称だったそうです。
現在というところの
北を、埼玉県北葛飾郡
西を、東京都葛飾区や墨田区・江東区の東部
東を、茨城県古河市
南を、江戸川区や浦安市付近とする一帯だったそうです。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fchimei.kkf.co.jp%2Farchives%2F103

『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』(田中英道) の作品紹介・あらすじ:高い帽子、伸びた髭、豊かなもみあげをもつユダヤ人埴輪が多数出土している。それは秦氏一族である /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fbooklog.jp%2Fitem%2F1%2F4585222529
葛飾 ユダヤ 埴輪 寅さんの画像 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.bing.com%2Fimages%2Fsearch%3Fq%3D%25E8%2591%259B%25E9%25A3%25BE%2B%25E3%2583%25A6%25E3%2583%2580%25E3%2583%25A4%2B%25E5%259F%25B4%25E8%25BC%25AA%2B%25E5%25AF%2585%25E3%2581%2595%25E3%2582%2593%26qpvt%3D%25e8%2591%259b%25e9%25a3%25be%25e3%2580%2580%25e3%2580%2580%25e3%2583%25a6%25e3%2583%2580%25e3%2583%25a4%25e3%2580%2580%25e5%259f%25b4%25e8%25bc%25aa%25e3%2580%2580%25e5%25af%2585%25e3%2581%2595%25e3%2582%2593%26form%3DIGRE%26first%3D1%26cw%3D1117%26ch%3D937

古代の「かつしか」という領域は広大なものでした。古代の「かつしか」は、(・江戸川・墨田・江東区)と、千葉県市川・柏・流山・松戸・船橋市や埼玉県栗橋および茨城県古河・総和市までおよぶ広い地域がその範囲でした。「かつしか」の地名は、当時の全体の地形的特徴を捉えることで説明ができます。
「葛」の字の不思議 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=http%3A%2F%2Fwww.city.katsushika.lg.jp%2Finformation%2F1000074%2F1005533.html
「かつしか」の「かつ」は丘陵や崖などを指し、「しか」は砂州などの低地の意味をもっています。「かつしか」とは、利根川流域の右岸に低地、左岸に下総台地が広がる旧葛飾の地理的な景観から名付けられたと考えられます。
「葛」
葛 カツ・くず・かずら  艸部   ※新指定の常用漢字のため下部を匂にしても可。
解字  「艸(草)+曷(請い求める)」 の会意形声。光りを求めてツルをのばして繁茂する草。つる性の植物をいう。
意味 (1)くず(葛)。マメ科のつる性の多年草。根から生薬や葛粉を作り、つるの繊維から布を作る。「葛布くずふ」「葛粉くずこ」 (2)かずら(葛)。つる草。「葛藤カットウ」(かずらや藤のつるがもつれ、からむこと。もつれ。心の迷い) (3)人名。地名。「葛飾北斎カツシカホクサイ」(江戸後期の浮世絵師)「葛飾区カツシカク」(東京都の区名)
音符 「匃カイ」 <死者のよみがえりを願う> と 「曷カツ」 「掲ケイ」
解字 篆文は、「勹ホウ(人が身体をまるくした形)+?ボウ(=亡。死者)」の会意。?ボウは死者の象形、勹ホウは人が身体をまるくして包む形、両者を合わせた匃カツは、死者を抱いて、そのよみがえることを願うこと。
意味 もとめる。請う。ねがう。
曷 カツ <請い求める>
曷 カツ・なんぞ・いずくんぞ  日部
解字 篆文は「曰エツ(いう)+匃カイ(もとめる)」の会意。匃カツは死者をだいて、そのよみがえりをねがう形。曰エツは、いう意(現代字で日に変化)。両者を合わせた曷は、よみがえりの願いを大きな声で言う形で、「請い願う」意味となる。しかし、本来の意味でなく、「なんぞ」「いずくんぞ」の助字に仮借カシャ(当て字)された。新字体の音符になるとき、下部が、匃⇒匂に変化する。
意味 (1)なんぞ(曷ぞ)。いずくんぞ。 (2)いつか。
イメージ  「仮借カシャ」 (曷)
       「請い求める」 (渇・葛・褐・謁・靄・藹)
       よみがえりを願って 「大きな声をだす」 (喝・歇)
蠍 カツ・ケツ・さそり  虫部
解字 「虫(むし)+歇(カツ)」 の形成。カツという名の虫。さそりをいう。カツのイメージは不明。
意味 さそり(蠍)。サソリ目の節足動物。尾の先の針に毒をもち刺す。蝎カツとも書く。「蠍座さそりざ」(サソリの形をした星座。夏の星座)「蛇蠍・蛇蝎ダカツ」(へびとさそり。人が恐れ嫌うものの例え)

歴史の陰に秦氏あり・・・「我は第16代ホムダスメラノミコトヒロハタヤハタマロなり・・・。」 …
「 勝 」とは{すぐり}と読み、この字が名前に付く者は秦一族の支族である。 従って辛嶋とは秦氏の系統である。uzumasa-1962.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-0624.html
カツという名の虫(蛇)
古墳時代 - 飛鳥時代
秦 河勝(はた の かわかつ)は、古墳時代から飛鳥時代にかけて存在したとされる人物。姓は造。秦丹照または秦国勝の子とする系図がある。
父:秦丹照[1]または秦国勝
弓月国出身の弓月君と一緒に渡来した部族の子孫の秦氏の一員といわれる。聖徳太子の側近として活躍した。また、弓月国を含む広い地域(中東、中央アジア、東アジア西部)で広く定着していた東方キリスト教(東方緒教会)の信徒で富裕な商人でもあり朝廷の財政に関わっていたといわれる。四天王寺の建立や運営については、聖徳太子に強く影響を及ぼし、東方キリスト教思想の慈善事業制度(四箇院)の設置に関わった。
…虫祭りをすることを勧めた。巫女たちも神のお告げといつわり、「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といった。このために信仰は広まり、都でも田舎でも常世の虫をとって安置し、財宝を差し出したが、何の利益もなく、損失が多かった。秦河勝は民衆が騙されるのをにくみ、大生部多を捕え打ち懲らしめたところ、巫女も恐れて祭りを勧めることをやめた。時の人は以下のような歌を詠んだ[6]。
ウヅマサハ、カミトモカミト、キコエクル、トコヨノカミヲ、ウチキタマスモ。
〈太秦(うづまさ)は神の中の神という評判が聞こえてくる。常世の神を、打ちこらしたのだから。〉
景教との関係
英語教師の佐伯好郎は明治41年(1908年)1月に『地理歴史 百号』(主宰:喜田貞吉)収載論文「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において、秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族であったとする説を発表した。唐に東方キリスト教の「景教」が伝わっており、その寺院は大秦寺と呼ばれていたためである。また秦の始皇帝の父親が碧眼であった[要出典]と言われている。
ただしユダヤ人と他民族の非学問的な同祖説は世界中に多数あり、学界の通説とはなっていない。また大秦景教流行中国碑によれば、貞観9年(635年)にペルシア人の阿羅本が景教の主教として宣教団を率い、長安を訪れたのが最初と記されており、とっくに秦氏は日本に帰化したはるか後のことであって当時すでに中国には秦氏はいない。





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