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歴史掲示板

10048荊の紀氏:2019/12/20(金) 10:03:55
田氏…李家…?
>それでライン面からみると、綿貫観音山古墳が測量起点・始祖的な位置づけになりそうな感じですが、ただ、二重周濠ではあるものの馬蹄形で長方形ではない点で相違します。
綿貫観音山古墳
北緯36度18分26秒
東経139度4分38秒
36.307222, 139.077222

妙義山
北緯36度17分55秒 東経138度44分56秒
36.298611, 138.748889

富士山
北緯35度21分45秒 東経138度43分50秒[2]
35.3625, 138.7306

加波山
北緯36度17分55.7秒 東経140度08分37.1秒
36.298806, 140.143639

「ほととぎす 尋ねきたれば 今こそは 音づれ山の かひになくなれ」
音信山(おとずれやま)は、千葉県市原市大字山口にある標高186mの山である。房総丘陵の山の一つとされる。
昔の上総の国望陀 もうだ 郡 ぐん と市原郡の境界に位置する。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
北緯35度21分35.7秒 東経140度07分21.5秒
35.359917, 140.122639
豪族藤原(勝田)長清。集中に為相の「尋ね来てかつ見るからにかつまたの花の陰こそ立ちうかりけれ」の詠がある。1310年(延慶3)ごろ成立か。編纂(へんさん)の動機は、『玉葉和歌集』撰定の際に、為世(ためよ)や為兼(ためかね)と並んで為相も勅撰集の撰者を望んだことと関係があろう。万葉以来当代までの歌で原則として勅撰集に入らなかった1万7000余首を四季・雑各18巻計36巻、約600の題(「歳内立春」以下「述懐」まで)に部類した膨大な歌集で、採録の歌人は約970名に及ぶ。曽禰好忠(そねのよしただ)・源俊頼(としより)・西行(さいぎょう)らの自由な語法の歌や寂蓮(じゃくれん)の「十題百首」(動植物を詠む)など珍しい題材の歌も多く、「山」「関」などの部はいろは順に歌枕(うたまくら)が並んでいるなど、後世歌人や連歌(れんが)師に珍重された。ただ伝本の本文に誤字や乱れが多い。題名は「扶桑(ふそう)」の省画という。
ふぼくわかしょう【夫木和歌抄】 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fkotobank.jp%2Fword%2F

勝間田 長清(かつまた ながきよ [1] 、生没年不詳 [2] 、藤原 長清とも [3]。)は、鎌倉時代後期の武士。遠江国 蓁原郡勝田(かつまた [注 1] )郷(静岡県 牧之原市)の勝間田川流域一帯)を領する勝間田氏の頭領で、勝間田城城主。 /toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F
勝間田氏は中世に勝間田川流域を治めた一族である[5]。一族は藤原南家の工藤氏の分流であるといい[6]、本姓を藤原とした[1]。異説として桓武平氏の平良文の落胤との伝えもある[6]。一族は保元の乱(1156年)の際に源義朝勢の家人「遠江の勝田」として登場し、平安時代末期から源平合戦期を通じて当地を本貫として源氏に仕えてきたことがうかがえる[6]。
東国武士としては珍しく、長清は京都の公家に接近して深く交流した[1]。また、冷泉為相の門人となって歌道を学んだ[2]。『増鏡』には、長清の娘が、西園寺家庶流で左大臣の洞院実泰の正室(北政所)となったとある[1]。長清自身は越前太夫左近と号し、五位の官位を得た[1]。
長清は時宗に帰依し、一遍の弟子、僧他阿(1237年 - 1319年)の教導を受けたという[2]。のちに出家し、証阿弥仏蓮昭と称した[1]。




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