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Re: 天叢雲剣(草薙剣)
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0011316M.jpg
秦野北斗さんへのお返事です。
> 波々迦木(ハハカノキ)本来の訳、皆々めぐり合う九州、になる、何処かの万葉集の語句の一部でしょう。
> 人が都に集まれば笛吹も吹くだろう、
☆ その訳は、記紀の記述にある「神武が日向の国から東征して大和の初代大王に即位した。」が正しければ、の前提の訳であって、『海家出身で丹波国主となつた「海ノ村雲」(アメノムラクモ)王が、大和入りして、初代大王に即位した』ならば、従来の訳は誤訳となる。
天村雲尊(海ノ村雲)は丹波国主ゆえ、海路で宗像や宇佐の地を訪れる事は有っても、九州に住む事は有り得ない。
さらに、天村雲尊は、大和に先住していた出雲王国の分家に当たる、登美家・高鴨家との協調の下に、大和の大王として即位したのであって、筑紫の物部が球磨・阿蘇の先住の民を抹殺してきた経緯を毛嫌いしていた。
さらに、第一次物部東征において、海家は物部五瀬を倒している。だから、日向出身の物部イクメ王が大和入りした時に、尾張家は「村雲ノ剣」を、磯城家に渡さなかった。
※〈 物部イクメ王は、後に「垂仁天皇」(すいにんてんのう)と呼ばれるその人のことですが、記紀には「活目入彦五十狭茅尊」(イクメイリビコイサチノミコト)、「伊久米伊理毘古伊佐知命」(イクメイリビコイサチノミコト)などと記されています。〉
《 椎根津彦(しいねつひこ)、この聞きなれない神は『日本書紀』に記され、『古事記』では「槁根津日子」(さおねつひこ)と記され、または「珍彦」(うずひこ)と呼ばれる。
記紀では神武天皇の道行を先導した人物とされますが、富王家の伝承では珍彦は海家の子孫であり、第一次物部東征において物部五瀬に毒矢を射たと伝えられています。》
☆ 第一次物部東征において物部五瀬を倒した側と、好んで巡り合うなど有り得ない。
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