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歴史掲示板

10355管理人:2020/05/07(木) 23:55:57
九州北部の古墳状地形方位ライン
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先日お知らせした日田の巨大前方後円墳状地形と、以前からお知らせしてきた北九州各地の古墳状地形を結ぶ方位ラインを作成してみました。以前も同様なものを作成はしているのですが、今回は最新版です。

図1がその古墳状地形を結んだラインとなりますが、まず先日指摘した日田の巨大前方後円墳状地形?と、同じく先日分析した高良山北部にある前方後円墳状地形とが図のように東西ラインで接合してきます。その延長線上に印鑰神社があり、ここに邪馬台国時代の役所があった可能性を指摘したとおりです。

次に、この日田の古墳状地形?とその北西の伊川の巨大前方後円墳状地形(図2参照)を結ぶライン上に鎌田原遺跡(図3の前方後円墳状地形がある)が綺麗に載ることがわかります。ほぼ誤差がないことからみても、これらの二つ(日田と伊川)の1000m級の巨大古墳状地形が人工的な位置に構築されたことがわかります。

また、その伊川の巨大古墳状地形は、図1のように赤村で発見された前方後円墳状地形の真西にあたり、その延長線上に、初期の(纏向型)前方後円墳である名島4号墳が接合することも以前指摘したとおりです。

さらに、その伊川の巨大古墳状地形の真南に平塚川添遺跡があり、また図1のように鎌田原遺跡(前方後円墳状地形)と高良山北の古墳状地形を結ぶライン上に、この平塚川添遺跡が載ることもわかります。

その平塚の字名もおそらくは古墳が存在したことによるものであり、この地域が弥生時代から邪馬台国時代の中心的な都市機能を有していたであろうことは先学が指摘しているところです。

そして、これらの古墳状地形が人工的・意図的に構築されたことは、図の方格(黒線)上の交点にこれらが載ることからも確認することができ明らかです。

これらは特定の距離尺と方角に造営されたのであり、高精度な技術で測量されていると言えるでしょう。

ほぼ偏角なしの直角三角形を多用した測量を行っていることからみて、偏角がある弥生時代前期のものではなく、より精度の高い後期の測量によったことが予想されます。

これらの古墳状地形を結ぶ中に邪馬台国の諸国があり、また女王・卑弥呼・台与の都・墳墓もあったのかもしれませんが、その是非については、これらの未発掘の古墳状地形を調査することから、徐々に明らかにされていくのではないでしょうか。今後の発掘調査に期待したいところです。






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