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歴史掲示板

1管理人:2012/01/12(木) 17:24:57
古代史掲示板を新設しました
古代史掲示板を新設しました。画像・動画等の投稿も可能です。古代史関連の投稿をお待ちしています。

2管理人:2012/01/12(木) 17:48:45
日下部氏
先の九州オフ会で、日田市刄連(ゆきい)町の法恩寺山古墳群に向かいました。
ここは、日下部氏との関わりが指摘されています。

『 豊後国風土記 』日田郡 靭編(ゆきあみ)郷の条に、 日下部君の祖である 邑阿自(おうあじ) がこの村に宅を構えたとあります。

その辺の詳細はこちら参照。
http://www.e-obs.com/heo/heodata/n663.htm

この古墳群には装飾壁画をもつものもあります。
http://www.hita.ne.jp/~city/isn/hoon2.htm

日下部氏の詳細。
http://homepage2.nifty.com/amanokuni/kusakabe.htm


日下部氏と当地の装飾古墳がどうつながっていくのか?
そこが課題ですが、ご意見お待ちしています。

3秦野北斗:2012/01/14(土) 22:41:27
日下部氏
日下部氏

起源にはいくつかの説がある。
開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)

狭穂彦王(さほひこのみこ、生年不詳 - 垂仁天皇5年(紀元前24年)10月没)とは、記紀における皇族(王族)。『日本書紀』では狭穂彦王、『古事記』では沙本毘古王。彦坐王の子で、開化天皇の孫に当たる。日下部連・甲斐国造の祖。母は春日建国勝戸売の娘、沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ)。同母の兄弟に葛野別・近淡海蚊野別の祖袁邪本王、若狭耳別の祖室毘古王、垂仁天皇皇后狭穂姫命がいる。ウィキペディア

彦坐王(ひこいますのみこ、生没年不詳)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。彦坐命、日子坐王、彦今簀命とも。開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父。神功皇后の高祖父にあたる。
                          ウィキペディア

三角縁神獣鏡:開化天皇の孫は卑弥呼とその弟になる。卑弥呼(170年頃 - 248年頃)
『新唐書』日本伝:開化天皇の曾孫は神功皇后(じんぐうこうごう)、(170年-269年)

日下部氏は開化天皇とは考えずらい。それより、彦坐王、日子坐王、日子、ヒルコ(水蛭子、蛭子神、蛭子命)えびす(ゑびす)夷、戎、胡、蛭子、恵比須、恵比寿、恵美須に当たると思われる。


4管理人:2012/01/15(日) 01:52:52
ヒコ・クサカ
秦野さん、こんにちは。さっそく日下部についてご意見ありがとうございます。
日下部で「クサカベ」と読みますが、もとはそうすると「ヒコ+ベ(部民)」ということになりそうですね。沙本毘古王。彦坐王、日子坐王・・、確かに「ヒコ」が強調されているように感じます。

仁徳天皇の大草香・若草香王の部民との説もありますが、こちらは「クサカ」の読みに変化していて、クサカという地名なり氏族のもとで育った皇子、という感じもします。

あと雄略天皇の時の日下部連使主の記事が、比較的信憑性があるように感じます。この反乱伝承と、垂仁の時の伝承が類似性を持っていることを考えると、後者から、前者の伝承が派生したのではないかと感じます。

おそらく宮中・地方等の相違で伝承、天皇の代は異なるものの、実は同じものという具合ですね。

ヒコと呼ばせて、また別のところではクサカと呼ばれた。それぞれ話す言葉が違うとかいう線もないでしょうか。時代によるかもしれません。

隅田八幡鏡の銘文で

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」


男弟王がいわゆるヲヲド王で継体なのですが、継体の父親が彦主人王と言うんですね。継体自身も袁本杼命・男大迹王・彦太尊と言うらしいのですが、

その「日十大王年」とあるのも、「ヒコ大王」の年と読めれば、「日十」「彦」「ヒコ」という連関が出てくると思うんです。

だから「日下」とかいて、「ヒコ・ヒカ」と読ませた可能性があって、継体のころの読みの話で、欽明の時代になって朝廷で使えはじめたという線になるでしょうか。

オキナガ・ワニは新漢人と極めて関わるの深い系統で、滋賀・吉備・そして九州日田・八女方面へと流れた、その辺の話ではないかと感じます。

それで白鳳時代になると草壁王、草香部キシとかいう氏族が出てくるのですが、日下の読みを、和風に変えている、避けている、忌んでいる・・・という線で、仁徳紀のあたりに、草香・・が代替えされて記載されていく・・。

ヒコと、後代のクサカは、宮中でも使う言語が変ってきたことを示すのかもしれません。

もちろん、この辺は推論にすぎませんが、勘としてそんなことを考えてみました。

5秦野北斗:2012/01/15(日) 19:33:20
継体天皇
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000005M.jpg

継体天皇

秦野著作、徐福と邪馬台国で韓半島の地図を読み取り。越の特定、地図添付

越は韓半島南部越国(倭奴国)、(モッポ)
『日本書紀』では、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。
上記文章から韓半島南部に越(倭奴国)になる。その名は出雲風土記、国引き神話にも登場する。越前地方(近江地方説もある)でなく、韓半島南部越国(モッポ)

注、『日本書紀』の解釈に間違いが多く、地名は韓半島南部に存在する。しかし、総て日本の地名を当てはめている。韓半島南部の筑紫は白村江のキーポイントになるが、九州の筑紫になっている。

『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述の通り議論が分かれているものの原帝紀の編纂(欽明朝か)と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。

『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の子孫であり、父は彦主人王である。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが、幼い時に父を亡くしたため、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で育てられて、男大迹王として5世紀末の越前地方(近江地方説もある)を統治していた。

『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて、武烈天皇とは血縁の薄い男大迹王をヤマト王権の大王に推戴した。これを承諾した王は、翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。
ウィキペディア
彦主人王に接近したい。



6秦野北斗:2012/01/15(日) 22:49:10
魏志倭人伝の行程
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000006M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000006_2M.jpg

魏志倭人伝の行程を公開します。秦野北斗 詳細は徐服と邪馬台国を参照


HP秦野北斗の古代史  6 魏志倭人伝の行程

距離は実測し秦野距離とし換算している。陸行1月の確認のため、倭国の大きさの地図を添付。


1.帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。

2.始めて海を1000余里渡ると対海国に至る(「始度一海千餘里、至對海國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。

3.また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。

4.また海を1000余里渡ると末廬国に至る(「又渡一海千餘里、至末盧國」)。4000余戸が有る。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。

5.東南へ500里陸行すると伊都国に到着する(「東南陸行五百里、到伊都國」)。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。丗、王が居る。皆は女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。

6.東南に100里進むと奴国に至る(「東南至奴國百里」)。長官は?馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。

7.東へ100里行くと不弥国に至る(「東行至不彌國百里」)。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。

8.南へ水行20日で投馬国に至る(「南至投馬國水行二十日」)。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。

9.南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る(「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」)。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳?があり、推計7万余戸。        ウィキペディアより

 『旧唐書』倭国・日本国伝

 倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。

 倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。代々中国と通じている。
 その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。





7秦野北斗:2012/01/16(月) 20:09:51
出雲国風土記
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000007M.jpg

国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。
八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼         ウィキペディア

秦野は地図でしめします。




8シモ:2012/01/16(月) 20:11:02
Re: 魏志倭人伝の行程
秦野北斗さんへのお返事です。

秦野さん、ご意見ありがとうございます。
ちょうど先日、都内の古代史例会で下記行程についての議論を聞いていたところでした。

個人的な興味は、韓国南岸から対海国までの「方位」が示されてない点、同じく壱岐に至るまでの方位が「南」になっている点、そこに挟まる海は何を示すのか?

「また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る」

壱岐から末廬国に至る方位が示されてない点です。

この理由を解明したいと考えてます。

9秦野北斗:2012/01/16(月) 21:25:18
Re: 魏志倭人伝の行程
シモさんへのお返事です。

> 個人的な興味は、韓国南岸から対海国までの「方位」が示されてない点、同じく壱岐に至るまでの方位が「南」になっている点。

魏志倭人伝は韓半島の倭奴國を基準に、倭奴國を極南界、北を北岸の狗邪韓国としている。南へ、東へは正規の東西南北です。魏志倭人伝には倭奴國の記入はないが、場所を文章で暗示している。

> そこに挟まる海は何を示すのか?

この海は日本神話にも出てきます。日本神話、卑弥呼で説明します。

> 「また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る」
> 壱岐から末廬国に至る方位が示されてない点です。

謎を解く鍵になるのは、倭奴國の金印です。

> この理由を解明したいと考えてます。

疑問があれば、協力します。期待します。

10シモ:2012/01/16(月) 22:30:57
Re: 継体天皇
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそく情報ありがとうございます。特に下記の部分が興味深いです。

鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。

「ワケ」、「ヲオ(ド)」、「ヌシ」、「オオキミ(王)」あたりの発音の是非が、気になりますね。

たぶん、もともとは、名前しかなくて、後から「王」を適当につけたのではないかと感じます。だから「オオキミ王」とかいう変な名称が出てくる。かなり古い文献を元にしているのではないでしょうか。

あと、越と朝鮮南部、朝鮮南部から山陰、滋賀方面への流れは、海流面から考慮してもとても重要ですね。




11シモ:2012/01/16(月) 22:36:39
Re: 出雲国風土記
秦野北斗さんへのお返事です。

なるほど、カヤ地域を引っ張って自国の領土にする、あるいは島根方面を・・という視点はとても面白い感じがします。

八束水臣津野命という名前は、たくさん「八」の水(地域?)をつかみとるの意味に解せそうですね。水が挟まっているという部分がキーでしょうか。


個人的には、「大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという」という話が、今調べている豊後国風土記逸文との関連で興味を感じました。これらは大陸的な伝承要素を多く含有してます。


12秦野北斗:2012/01/17(火) 19:13:42
魏志倭人伝の解説書
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000012M.jpg

魏志倭人伝の行程は現在の訳本では間違いが多く役に立たない。

秦野の著書、徐福と邪馬台国で現在の誤訳を訂正し、これを元に三角神獣鏡の銘文
、日本神話、卑弥呼、神功皇后、変わった所で黙示録、・・・の解読を行っている。
出雲風土記は神武天皇の解読中に読み取り、意外に出雲風土記が白村江と関係がある。

魏志倭人伝は紀元前1700年からの日本の歴史を暗示している。この本、徐福と邪馬台国は
魏志倭人伝の解説書であり古代史の入門書になる。






13秦野北斗:2012/01/17(火) 22:51:08
Re: 出雲国風土記
シモさんへのお返事です。

八束水臣津野命は次となる。

1.八束(はちたば)とは次の郡条

意宇郡条 島根郡条 秋鹿郡条 楯縫郡条 神門郡条 飯石郡条 仁多郡条 大原郡条

2.水臣津野命は水(水神=水伯)、臣(つかえる)、津野(津=港、停泊する所)

水伯(水神)の停泊する所

以上から八郡条は水伯(水神)の停泊する所、と成る。

韓半島との交易、と移住を描いた神話と思われる。水(水神=水伯)、杜(もり)は卑弥呼に関係あり。

>「意宇の杜(おうのもり)」豊後国風土記は大陸的な伝承要素を多く含有してます。

八束水臣津野命は出雲国の統率者(大国主)では、少し難解です。


14管理人:2012/01/18(水) 18:27:33
Re: 出雲国風土記
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそくご意見ありがとうございます。「シモ=管理人」です。

先の出雲の八束水臣津野命の八束というのは、なるほど八つの郡とのことになるのですね。
そしてご指摘のとおり、水伯(水神)の停泊する所(人)との兼ね合いで解釈できそうです。

> 韓半島との交易、と移住を描いた神話と思われる。

とのご意見にも同感ですね。


それで八郡の名前の由来をもう少し詳しく調べてみたいところですが、

意宇郡、仁多郡は、氏族名等の「音」を示しているように感じます。楯縫郡というのは、職業部民の感じを受けますね。盾を製作する部族という具合でしょうか。

この手の意味がはっきりする漢字を入れているケースでは、おそらくは後代の移住者によってつけられた名称だと思います。

それらの集団を束ねて、最後に杖を突きたてて鎮守の杜をつくったのが、八束水臣津野命という航海氏族だったということでしょう。
細かくみていくと、だんだんその人物なり集団の姿が復元してきますね。
??

15秦野北斗:2012/01/19(木) 20:51:10
Re: 出雲国風土記
管理人さんへのお返事です。

> 意宇郡、仁多郡は、氏族名等の「音」を示しているように感じます。楯縫郡というのは、職業部民の感じを受けますね。盾を製作する部族という具合でしょうか。

見直しました。

出雲風土記の意宇郡条、仁多郡条、・・計10郡条に秦野距離を適応し測った所。出雲風土記は郡条から郷までの里歩を羅列している模様。

10郡条:玖郡条、意宇郡条、島根郡条、秋鹿郡条、楯縫郡条、出雲郡条、神門郡条、飯石郡条、
    仁多郡条、大原郡条

10郡条は杜(神社)を中心に形成されている模様。
尚、郡条と郷の特定は神社を基点に秦野距離で測ればだいたいの場所が出てくる。
注)郡条、郷は田畑、原野の可能性が大きい。
魏志倭人伝の行程(徐福と邪馬台国)の経験からです。伊都国、奴国等は田畑に成っている。

八束水臣津野命は人物でなく、八束水臣津野命詔で詔(みことのり)ですな。
八百(やお):百の八倍。はっぴゃく。また、非常に数の多いこと。

内容は八百(やお)の杜(神社)を水伯(水神)に仕える津野(水軍港)とする。でしょう。
これが、日本神話、八岐大蛇、・・、白村江の戦いに関係が出てくるのです。

見直しが正解みたいです。ここに訂正と反省します。秦野北斗


16管理人:2012/01/19(木) 22:52:22
Re: 出雲国風土記
秦野北斗さんへのお返事です。


秦野さん、さっそく詳細情報ありがとうございます。

8郡ではなく、10郡でしたね。失礼しました。八はご指摘のとおり、たくさんの意味だと思います。


> 出雲風土記の郡条と距離の関係了解しました。

また
> 10郡条は杜(神社)を中心に形成されている模様。

この点、重要だと思います。
今特に、楯縫郡について調べてみました。

杵築大社という神社の神事道具として楯を造ることと関係があるそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/楯縫郡

その杵については、ちょっと管理人的には今別件で興味を持っている部分なのですが、ともあれ、先の意宇郡と杜の関係のように、神社や神話伝承との兼ね合いが、郷名に影響している様子を見て取ることができますね。

ご指摘の白村江など、後代の歴史事象との兼ね合いを考えていくことも重要です。


17秦野北斗:2012/01/20(金) 06:39:14
出雲国の領地
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000017M.jpg

出雲国風土記から領地を描きました。

出雲国に出雲郡条、日本神話に出雲、出雲国は首都?

参考程度です。






18管理人:2012/01/20(金) 22:38:48
Re: 出雲国の領地
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそくお返事ありがとうございます。

> 出雲国に出雲郡条、日本神話に出雲、出雲国は首都?

とのことですが、出雲郡の杵築郷(支豆支里)に杵築(出雲)大社があったようで、隣の出雲郷ではなかったとことにちょっと興味を感じてます。

後代の国府は意宇郡にあったそうです。

青銅器が多く出土する出雲西部と、鉄器が多く出土する東部との2拠点があったようです。

東部の米子のあたりは昨年訪問しましたが、大陸系の渡来人との関わりが強い地域と見受けられました。

出雲神話の起源を考えるときに、青銅器時代からの西部のものと、鉄器時代の東部のものとが、どう結合していったのか、その辺がちょっとキーになるかと感じ始めてます。

古事記に稜威母(イズモ)、後に出雲となるわけですが、先の支豆支(キズキ)と杵築の事例のように、神話伝承に絡ませて、神社系の用語を重ねた節がありますね。

邪馬台国関連だと、投馬国を出雲のことだとする説がありますが、秦野さんはその辺どう思われますか?

19秦野北斗:2012/01/21(土) 01:39:06
Re: 出雲国の領地
管理人さんへのお返事です。

> 邪馬台国関連だと、投馬国を出雲のことだとする説がありますが、秦野さんはその辺どう思われますか?

未公開ですが日本神話では豊雲野国が出雲国の正式名です。領土は韓国南部に及んだ模様。
投馬国から厳島(出雲国)まで水行10日に成る(秦野北斗書、徐福と邪馬台より)。また、出雲国(九州側)は投馬国の隣りに成っている。出雲国は首都になるのでは?。

投馬国と出雲国は別ものです。

>出雲郡の杵築郷(支豆支里)に杵築(出雲)大社があったようで、隣の>出雲郷ではなかったとことにちょっと興味を感じてます。

出雲國風土記を元に地図を描くと豊雲野国の数十分の1に成っている。

出雲國風土記 ゚國之大體 '首震尾坤 ゚東南西山 ゚北属海
東西一百卅七里一十九歩 ゚南北一百八十三里一百九十三歩

郡条(杜)は十郷程度を合わせた、16Km程度の地域になる。統廃合が在ったのでしょう。
杜は駐屯地の意味のようです。

>出雲神話の起源を考えるときに、青銅器時代からの西部のものと、鉄器時代の東部のものとが、どう結合していったのか、その辺がちょっとキーになるかと感じ始めてます。

日本神話の国生みの痕跡です。日本神話は真実の記録のようです。整理中です。

>古事記に稜威母(イズモ)、後に出雲となるわけですが、先の支豆支(キズキ)と杵築の事例のように、神話伝承に絡ませて、神社系の用語を重ねた節がありますね。

古事記を元に訳すと、稜威母(イズモ):アマテラスが威嚇する隅の隣に合う国。


20管理人:2012/01/21(土) 22:32:36
Re: 出雲国の領地
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそく、秦野さん、投馬国について、ご説明ありがとうございます。

> 投馬国と出雲国は別ものです。

私も投馬国=出雲説には、いささか疑問を抱いています。


「南に投馬国がある。海上を20日かかる。(水行20日)
大官を弥弥(みみ)、次官を弥弥那利(みみなり)という。
50,000余戸の人々が住む。」

個人的には、ぜんぜん違う地域に興味を持っているのですが、ともあれ、官の名前に今回は注目してみたいと思います。

ミミという長官の名前があり、ナリ(那利)と言う語をもって、「副」の意味を成しているようにも見えます。

それで官職のほうを、魏志倭人伝から拾ってみると、だいたい共通文化圏が見えてくるようです。

こちら倭人伝本文です。
http://www1.ocn.ne.jp/~matsuo3/books/gishiwajinden.htm

対馬から、奴国、不弥国あたりまでは、副官に「卑奴母離」、官名に「〜コ」が出てくるので、同一文化圏だとわかります。

ところが投馬国になると、大官を弥弥(みみ)、次官を弥弥那利(みみなり)となりますから、構造的には似ているものの、言語的に異なる感じがします。

また邪馬台国になると、「官に伊支馬あり、次を弥馬升といい、次を弥馬獲支といい、次を奴佳鞮という」

とありますから、これは弥馬升と弥馬獲支の構造が、投馬国の弥弥と弥弥那利の構造と類似しているでしょう。これらは同一の文化圏にあるのではないでしょうか。


前者の文化圏では、ヒコ→ヒコモリにならず、ヒコ→ヒナモリになっていることは、言語的な用法で、おそらく条件によって、「コ」から「ナ」へと、音韻が変化しやすいことを意味しているのだと思います。

ところが、後者の文化圏では、前部の名称について音韻の変化なしに、ダイレクトに「ミミ+ナリ」とつなげているところを見ても、違う言語圏だろうと感じます。

この辺の差を、朝鮮語文化圏、オーストロネシア語文化圏、元日本語文化圏で追えば地域が特定できるかもしれないと、今調べてみて感じますね。・・・

また、ご指摘のように、出雲と投馬国・・・が隣国とかであることを想定する場合も、同様な官職名などの近似性が出てきてもよいかもしれません。

あと、最後の奴佳鞮の「鞮」の字は、漢書の匈奴の記載にみられる漢字で漢書、史記の時代による当て字?の用法と考えると、倭人伝の著者が、あるいは魏より古い時代の書物に当たった可能性も考慮すべきかもしれません。

http://ja.wikipedia.org/wiki/且テイ侯

21秦野北斗:2012/01/22(日) 00:51:26
Re: 出雲国の領地
管理人さんへのお返事です。

人名は変わりますが官職でどうでしょうか。

大官 對海國:大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。
   一大國:官は対馬国と同じ。

長官 伊都國:長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。
   奴國:長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。
   投馬國:長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)

官  邪馬壹國:官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮

> あと、最後の奴佳鞮の「鞮」の字は、漢書の匈奴の記載にみられる漢字で漢書、史記の時代による当て字?の用法と考えると、倭人伝の著者が、あるいは魏より古い時代の書物に当たった可能性も考慮すべきかもしれません。

奴佳鞮の「鞮」は匈奴、鋭い、そのとおりです。陳寿はこんな所に潜ませていたんですな。官職ですが大官、長官、邪馬壹國は官、理由:卑弥呼は独自に兵を持っていた。兵は陳寿作の三角縁神獣鏡の三公の吏人、です。
                             HP秦野北斗の古代史、卑弥呼参照

古代の倭国の組織は国、群条(杜)、郷で形造られ、各国に大官、または長官を置いたようですな。
中枢は天皇、秦野はここまで、はまる、とは考えていませんでした。

22管理人:2012/01/22(日) 23:53:32
Re: 出雲国の領地
秦野北斗さんへのお返事です。

秦野さん、お返事ありがとうございます。

> 人名は変わりますが官職でどうでしょうか。

官職の紹介ありがとうございます。
あと、狗奴国が抜けてました。
理論的には、この国と投馬国の位置がわかれば、同じ方角にある邪馬台国の位置も特定できる点で重要です。

狗奴国には、官職として、狗古智卑狗という官職があります。私はてっきり後代の「ヒコ」との兼ね合いで、人名だと思っていたんです。

でも狗古智+卑狗(官職)です。副官の卑奴母離もいたかもしれませんね。

別に男王の名前がでており、男王・卑弥弓呼(ひみここ・ひこみこ)とのことです。

ヒコの官職名は、前述の対馬〜伊都・奴国方面のそれと同系であることを想定して、かつ邪馬台国とは対立する別国の官制ということを考慮すると、ともあれ、文化圏として同じ地域に、これらの国があったと感じます。

邪馬台国の南のこの国が、北の諸国と同じ官職を有しているということも、挟まれているはずの邪馬台国を考える上で重要です。

そこでさらに人名に焦点を移していくと、ヒミコ、ヒミココで、やはり両国は、極めて近い文化圏にあります。

あと、鹿児島方面のニニギ、ヒコホデミあたりの記紀の人名と共通性があります。

伊都国の長官は「ニキ」ですし、他の長官「ヒコ」もそうですね。


23管理人:2012/01/23(月) 01:52:29
魏志倭人伝の国名(呉音)
ちょっと魏志倭人伝の国名を、呉音(ウィクショナリーより)で調べてみました。忘れぬうちにメモしておきます。

「次に斯馬(シメ)國有り。次に己百支(キヒャクシ)國有り。次に伊邪(イヤ)國有り。次に郡支(グンシ)國有り。次に彌奴(ミヌ)國有り。次に好古都(コウクツ)國有り。次に不呼(フク)國有り。次に姐奴(シャヌ)國有り。次に対蘇(タイス)國あり。次に蘇奴(スヌ)國有り。次に呼邑(クオウ)國有り。次に華奴蘇奴(ケヌスヌ)國有り。次に鬼(キ)國有り。次に為吾(イグ)國有り。次に鬼奴(キヌ)國有り。次に邪馬(ヤメ)國有り。 次に躬臣(クウジン)國有り。次に巴利(ヘリ)國有り。次に支惟(シユイ)國有り。次に烏奴(ウヌ)國有り。次に奴(ヌ)國有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。」
http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

★傾向(下記の定冠詞は、位置・立地・拠点等を示す語ではないか?)

●〜+奴(ヌ)
彌奴(ミヌ) 姐奴(シャヌ) 対蘇(タイス)→ 蘇奴(スヌ) 華奴蘇奴(ケヌスヌ) 鬼(キ)→ 鬼奴(キヌ) 烏奴(ウヌ)→ 奴(ヌ) 狗奴(クヌ)

●〜+支(シ)
己百支(キヒャクシ) 郡支(グンシ)

●〜+馬(メ)
斯馬(シメ) 邪馬(ヤメ) 邪馬+台?(ヤメダイ) 対馬(タイメ) 投馬(ヅメ)

●イ+〜
伊邪(イヤ) 為吾(イグ) 伊都(イツ) 一大(イチダ)(+率(シュチ))

●タイ+〜
対蘇(タイス) 対馬(タイメ) 邪馬+台?(ヤメダイ)

●都(ツ)
伊都(イツ) 好古都(コウクツ)

●ク(コ)+〜
好古都(コウクツ)→ 不呼(フク)
躬臣(クウジン)→ 巴利(ヘリ)→ 支惟(シユイ)
呼邑(クオウ)

●フ+〜
不彌(フミ) 不呼(フク)

●その他
末盧(マチル)

●中国人が命名?
侏儒(スニュウ)→体が小さいの意
裸(ラ)
黒歯(コクシ)

倭(イ)


24秦野北斗:2012/01/23(月) 20:57:25
Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
管理人さんへのお返事です。

魏志倭人伝の国名は、まず、魏志倭人伝の行程を読み取り、古代の地域を明確にした後なら可能です。秦野は行程を読み解きましたので、その他の国、女王国より北方は、結論を言えば、物部の地である。民衆の伝承しか特定の方法がない様に思う。どうも、一大率は出雲国と異なり、奴から別物のようだ。伊都国、出雲国、一大率、は古事記、日本神話で述べたい。

定かではないが、他のHPより
已百支國 イワキ 石城国(福島県)
都支國  タキ  多紀国(丹波国多紀郡)
彌奴國  ミノ  美濃国(岐阜県)
鬼奴國  キノ  毛野国(栃木・群馬県)

女王国より北方に一大率がある。遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国があり、女王国はこれら20数カ国を支配していた。


25管理人:2012/01/24(火) 03:28:17
Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
秦野さん、さっそくお返事ありがとうございます。

私も伊都国、一大率との関係に注目しています。「一大国」をもって「壱岐(イチキ)島」を意味しているのでして、「伊都」も、「一の都」の意味かもしれません。
定冠詞「伊」=「一」となりますね。

ここには「一」という明確な漢字が使用されており、魏志倭人伝にも、文書をもって各国を収めているとの記載を考慮すると、もともと漢字を使用した文化圏だったのではないかと考え始めてます。

漢字一文字をもって、拠点や地域名を表記しているんですね。それに定冠詞がついてくる。

またその漢字に「都」「一」「率」「郡」・・・と意味があるようです。「侏儒国」をもって、シュジュ=小人としているのも、あるいは現地の中国語とその意味を理解した住民がそう名づけて読んでいた可能性も感じます。

そうすると、「己百」は、「己を知れば百戦危うからず」のことわざかもしれません。その後の「支」は拠点の意味でしょうか。だから「已百支」「郡支」は、そういう防御なり、官があった町ということになるかと感じます。


それで、私は九州説、畿内説のどちらが・・という見方はないのですが、たとえば九州説に沿って、九州の地名で探していくと、

その前の「斯馬国」は「斯」+定冠詞「馬」で、九州北部の糸島にある「志麻」のこととすると、定冠詞「馬」に「島」の意味が見て取れます。「対馬」も同様に「対になった島」とも読めますね。

また、続く国名を順に追っていくと、定冠詞「対」+「蘇」、「蘇」+定冠詞「奴」という国があるのですが、蘇という地域は、いわゆる「阿蘇」かもしれません。

彌奴国は、「彌」+定冠詞「奴」ですが、書紀の景行天皇上に、水沼(水間)県主の伝承があります。八女津姫という山奥に住む姫のことが記載されていて、これは「八女」の伝承となります。「八女」=「邪馬国」ですね。
http://inoues.net/yametuhime.html

八女地方の山奥の台地にいたミコだから、「邪馬+台」国というふうに理解することなども可能かもしれません。

あと、呼邑国(クオウ)については、あるいは西都原あたりを児湯(コユ)と延喜式で読ませていることを考慮すると、日向(ヒュウガ)の地名に関係してこないかと感じます。呉音から漢音にかえて「クユウ」と読ませると、響きが近くなります。

そのほか
「好古都国」→「高来郡」(島原・諫早)
「投馬」→「薩摩郡}(鹿児島)
なども浮かびます。


そしてご指摘のとおり、後代の伝承から意味を解釈していく努力が重要です。

上記の例だと、仮に「彌奴」で「水沼」とするならば、定冠詞「彌」は水、「奴」は「沼地・池」などと解釈できるでしょう。

同じく「邪馬」が「八女」なら、定冠詞「耶」は「八」で「たくさんの」の意味ですね。

また「斯馬」「対馬」から「馬」が「島」の意味だとすると、「八女」はもともと「たくさんの島のある地域」で、その八女(邪馬)地方の山奥の「台地」にあったので、「邪馬+台」国になったのかもしれません。



ともあれ、これらの国名は、倭人伝に書いてあるとおり、位置も方角もわかっていたものので、省略したものでありますから、筆者のほうでは特定の配列で並べたと考えるべきかと感じます。

後代の延喜式などは、諸道にしたがって、並べてますが、この倭人伝の国名も同じく、並び順を見て、類似の地名が出てくることを考慮すると、やはりそう考えざるを得ない感じがします。秦野さんもその辺、注目なされているのではないでしょうか。

ただ、並べ方と対象とする地形で、ジグザグだったり、直線的だったりすると思います。

たとえば、九州から畿内に向かう場合は、直線的配列、九州北部から、南部に向かう場合は、ジグザグ配列になることも予想できますね。

そういう方位視点からみると、「對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国」、の配列は、「蘇」という地域を中心においてあるものの、呼邑という部分が挟み入っているように見えます。

同じく、「鬼国、爲吾国、鬼奴国」 の配列でも、「鬼」という地域の元で、爲吾が挟み込まれています。

その前の伊都国周辺の諸国の記載は、伊都から放射線状に、国名を示していると考えているのですが、同様な論理である中心拠点から、放射状等に配列した可能性も考慮してみたいところです。

あと、後代の延喜式などは、下記のような道順になってます。
http://homepage2.nifty.com/toka3aki/geography/kokugun9.html

この辺の配列順も、もう少し注目していきたいところです。下記は倭人伝の国名。


斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国

26秦野北斗:2012/01/24(火) 20:53:18
Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
管理人さんへのお返事です。

己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国の位置は分かるが。国名は変わり、特定は不可能、無理。

出雲風土記は1300年、魏志倭人伝は1700年この時間の壁は大きい。しかし、この壁も秦野の調べでは、誰もが知る。雅楽、だんじり、は古く、1700〜2200年の歴史がある。祭りはこの当たりが起源かも。もしかすると、諏訪のだんじりが糸口に成るかも。

魏志倭人伝の国は総て、地名は失われるが、痕跡は残すが総ての人は通り過ぎてしまう。
よい例は邪馬台国である。目の前に在るのに気ずかず、通り過ぎてしまう。

1.帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。

2.始めて海を1000余里渡ると対海国に至る(「始度一海千餘里、至對海國」)。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。

3.また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る(「又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國」)。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000の家族が住める。田畑はあるが足りず、市へいく。

4.また海を1000余里渡ると末廬国に至る(「又渡一海千餘里、至末盧國」)。4000余戸が有る。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。

5.東南へ500里陸行すると伊都国に到着する(「東南陸行五百里、到伊都國」)。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。丗、王が居る。皆は女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。

6.東南に100里進むと奴国に至る(「東南至奴國百里」)。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離。2万余戸が有る。

7.東へ100里行くと不弥国に至る(「東行至不彌國百里」)。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離。1000余の家族が有る。

8.南へ水行20日で投馬国に至る(「南至投馬國水行二十日」)。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。

9.南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る(「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」)。官に伊支馬、弥馬升、弥馬獲支、奴佳鞮があり、推計7万余戸。


27管理人:2012/01/25(水) 21:49:34
Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
秦野北斗さんへのお返事です。

そうですね、神楽や風習というのは、元のまま持続させようという意識が働き変らないことが多いですから、古い形を維持していることも多いかと感じます。

先の八女津姫関連でも、八女津姫神社で伝等行事が受け継がれているそうです。
http://www.yokaocha.com/yametuhimezinja.htm

女王国の習俗がどういうものだったかについては、千人ものミコがヒミコに侍っていて、一人だけ男性の侍者がいるという記載に興味を感じてます。

他の国が男王と立てていることを考慮すると、非常に特殊な形であり、なんらかの伝承が残っている可能性も感じてます。先の八女(邪馬?)の語も、「八=たくさんの女たち」とも見えますね。

女性たちによる政治の時代が、邪馬台国のある一時期だけあったはずです。
女王国の官の名前も女性を意味していた可能性はないでしょうか。


「伊支馬、弥馬升(ミメショウ)、弥馬獲支(ミメワクシ)、奴佳鞮(ヌケダイ)があり、推計7万余戸。」

長官(伊支馬)は、王たるヒミコとは別人だったのでしょうか。

伊支馬は、一番目の馬→女?

弥馬升、弥馬獲支は、弥馬+升 弥馬+獲支 で、

魏への使人・「難升米(ナンショウマイ)」「都市牛利(ツジグリ)」「掖邪狗(ヤクヤク)」あたりの語と関係してきます。

「升」の字は他には見えず、この国で特有の意味を持つ「漢字」だったはずです。
「掖邪狗(ヤクヤク)」は「獲支(ワクシ)」に近いですね。
あるいは後代書紀で「掖久」をもって屋久島(ヤク)を意味してますから、「掖久」(ヤクク)と読めるかもしれません。

ただ、「難+升」になっており、「弥馬+升」ではないんですね。これは男女の性差とも関係してくるでしょうか?

「難→男」という具合にですね。難も男も呉音では、「ナン」だそうです。
「弥馬→女」とすると、後代の「ヒメ」などの語も思い浮かびますね。

ともあれ、男女の性差と、特殊な女性祭祀集団の政治形態、この辺が、後代の伝承なり習俗・儀式にどこかの地域の風習にみえないかどうか、その辺も関心事でありますし、それらしきものもなくはないようです。

本当におっしゃるとおり、ヒミコの祭祀場の目の前を知らずに通り過ぎている可能性がありますね。

28秦野北斗:2012/01/26(木) 21:02:26
Re: 魏志倭人伝の国名(呉音)
管理人さんへのお返事です。

名前は表音ではないか、『隋書』倭国伝から地名を抜き出す。

竹斯国(つくし国)、竹島(つく島)都斯麻国(つしま国)の名前は表音になっている。

明年、上遣文林郎裴清使於倭國。度百濟、行至竹島、南望○羅國、經都斯麻國、迥在大海中。又東至一支國、又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲、疑不能明也。又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。  『隋書』倭国伝

翌年(608)、上(天子)は文林郎の裴世清を使者として倭国に派遣した。百済を渡り、竹島『竹島(つく島)=済州島』に行き着き、南に○羅国を望み、都斯麻国『都斯麻国(つしま国)= 対馬国』を経て、遙か大海中に在り。また東に一支国に至り、また竹斯国『竹斯国(つくし国)=筑紫国(博多)』に至り、また東に秦王国に至る。そこの人は華夏(中華)と同じ、以て夷洲となす。疑わしいが解明は不能である。また十余国を経て、海岸に達した。竹斯国より以東は、いずれも倭に附庸している。

では「伊支馬、弥馬升(ミメショウ)、弥馬獲支(ミメワクシ)、奴佳鞮(ヌケダイ)を訳すと。

伊支馬=いしば 石場(いしば)
弥馬升=いばし 伊橋(いばし)
弥馬獲支=いばほし 岩星(いわほし)
奴佳鞮=のじて 野路田(のじた)


29管理人:2012/01/26(木) 22:40:31
表音
さっそく秦野さん、御返事ありがとう御座います。
表音の問題は、まだ迷いはあるのですが、ある時期に九州全域に呉音の漢字文化圏が広まり、それで地名が呉音表記になったものを、後に魏からの使人がきて、漢音で表記しなおしたり、その後の大和朝廷の漢音表記にしたがい、読み替えられた線で考えはじめています。

伊支、一大国、一大率→ 数字の「一」

都市牛利(ツジグリ)→ 都市という官職(都市の支配者)の牛利という男性

掖耶狗(ヤクヤク) → 掖(掖久島?)という地名の耶狗という男性(航海人?)

という具合ですね。漢字の意味が混じってます。

通常は漢音で、掖耶狗(エキヤク)と読ませてますが、呉音表記で(ヤクヤク)という連続が正解だと思います。というのも、同じ音が連続する確率が少ないことがあり、ヤクとヤクとの必然的な関係でそうなったと感じるんです。

ただ、後の時代の読みは、それを漢音表記に直して、記紀に載せていると思われるので、逆算していく必要があるかもしれません。

邪馬台国では、文書行政がありましたから、部分的には漢字を使っていたのかもしれません。地名を書いた地図や地名を、そのまま文書で魏の使人等に手渡した可能性もあります。




30秦野北斗:2012/01/27(金) 03:33:28
Re: 表音
管理人さんへのお返事です。

> 表音の問題は、まだ迷いはあるのですが、ある時期に九州全域に呉音の漢字文化圏が広まり、それで> 地名が呉音表記になったものを、後に魏からの使人がきて、漢音で表記しなおしたり、その後の大和> 朝廷の漢音表記にしたがい、読み替えられた線で考えはじめています。

一大国は一大国=一大率=一大率国(最大の駐屯地)、

ある時期に九州全域に呉音の漢字文化圏が広まり、・・。ある時期の特定が必要です。
私の調べでは、九州全域より大きく日本に渡来した。年代はだいたいです。以下

紀元前1700年(三苗,夏)
紀元前400年(呉)
紀元前200年(秦)
紀元前160年(大陸へ進出)
紀元後220年(卑弥呼)
紀元後280年(ユダヤ)
紀元後500年(ユダヤ)
紀元後700年 鎖国       詳細は日本神話、中国史籍に書いてあります。
                近い内に日本神話、卑弥呼をまとめ出版します。

もともと漢字圏、その後ユダヤなんです。日本語の古語は三苗語でしょう。

卑弥呼は陳寿と通訳なしで話、文章を交わしている。魏志倭人伝に伊都国の項、壱輿にもそれらしい文章がある。

例を挙げると、三角縁臣神獣鏡の文章に見られる。母、杜、地命(地名)などは倭国で使われていた模様。三角縁臣神獣鏡は京師、狗耶韓国から14000里が理解できないと読めない。
徐福と邪馬台国参照。

母:母屋(おもや)の母(おも)
杜地命出:杜(もり)、地命(地名):地名は杜、杜の出
(鎮守の杜:今は神社の杜になっている。本来は京師の杜駐屯地)

三角縁神獣鏡(卑弥呼の鏡)

鏡の銘文を誰も正確に読んでいないので、秦野が鏡の銘文を読みます。説明のため(言+名)を銘と記している。

景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮

景初三年、陳寿が自ら経述した鏡を作る。もとは京師(杜)の出、銘は位至三公の吏人、銘は母人(おものひと)、保子(開花天皇)の孫(卑弥呼)、金印(親魏倭王)をもって祝う。

陳:陳寿
孫:宜孫、宜しい孫を約し孫
母:母屋(おもや)の母(おも)
杜地命出:杜(もり)、地命(地名):地名は杜、杜の出
(鎮守の杜:今は神社の杜になっている。本来は京師の杜駐屯地)
京師:韓半島(開城)の楽浪郡から西に2000里にある。駐屯地
金石:金印(親魏倭王) HP秦野北斗の古代史、卑弥呼より

陳寿は魏志倭人伝に表音表記したと考えるのが自然でしょう。
結論を言えば、魏志倭人伝の人名、国名は表音になる。


31管理人:2012/01/27(金) 21:41:26
Re: 表音
秦野北斗さんへのお返事です。

そうですね、呉音で、魏の使いと会話していたのではないかと感じます。彼等が向こうにいっても、自分の名前や漢字を毎回間違いなく伝えているので、「難升」という官職の「米」という男だと、相手にも伝わっているのでしょう。

後代の「アマタラシヒコ・・・、セインコウ」とは少し違う感じがします。この時代になると訓読みの完全な当て字になってますからね。

松浦を示す末廬国についても、「末」は呉音で「マチロ・マツロ」なのでして、漢音の「バチリョ」ではないことなども、呉音文化圏が広まっていたことお傍証になるかと感じます。

ただ問題はいつ呉音の文化が入ってきたかですね。
ご紹介のとおり、弥生時代のある時期かと感じるのですが、HLAハプロタイプのほうを、以前から調べています。

骨髄バンクでサンプル数が多いので、比較的正確な分布データが期待できます。

http://blog.livedoor.jp/touxia/archives/50929736.html#
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/5.htm

その年代推定
http://www.pag1u.net/kodai/hla.html

この辺を調べていくと、人種的な動きが読めますから、秦野さんのおっしゃる倭人の動きとも関係してくることでしょう。すでにご存知でしたかな・・?

不思議なのは、ミャオ族や、北方遊牧民、さらには中東・アイルランド系に多いHLAまで出てくるところですね。我々が想像するよりも、ずっと激しい動きがあったものと考えてます。

あとご紹介の三角縁神獣鏡の問題、これはとても重要です。

一般には、漢字文化圏ではないから、銘文は理解できていなかった。それで漢字が左右逆になったような鏡が出てくるという説ですが、かならずしもそうだとは言い切れない部分もあるんですよね。

少なくても呉音を理解していた九州北部方面での文化圏では、それが通用しなかったことも考慮しておくべきでしょう。分布地域と、その銘文の反転とかズレとかある度合いなども調べてみるとよいのかもしれません。


景初三年
http://bell.jp/pancho/travel/izumo/kanbara jinja.htm

関連記事
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-3/2010_0201.htm


ただ、その前に邪馬台国がどういう地域にあったのか?について考えてみると、先ほど読んでいてほとつの考えが浮かんできました。

邪馬台国の南の狗奴国の後に、風俗記載が列記されている件ですね。会稽の東に位置する云々の部分です。文章的にみて、これは狗奴国の風俗ではないでしょうか。

http://www.g-hopper.ne.jp/bunn/gisi/gisi.html

また女王国というのとは、別に北に30国余りがあって、これも一応女王国の属国で、全体として邪馬台国とも見えます。旧ソ連とか戦国時代みたいなものですね。日本国の中に、和泉国があるのと同様です。中には以前、マツラ国のように、官職のほかに、王がいた国もあった。

これらの属国は一大率という伊都国の警察が監視して巡回していたわけです。そして彼等が外国との交渉もしていたわけですね。

ところが、その女王国の南?のほうには、「大倭」という別の警察がいることになっていて、いわゆる「倭」という別?の国の習俗とかが記載されているのです。

おそらく秦野さんも、この辺の分離に疑問を感じて、任那地域にまで踏み込まれたのではないでしょうか。

そして神獣鏡をいつどこが受け取って、どう配ったかという問題へと進んでいくわけですね。

陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮
>

32秦野北斗:2012/01/27(金) 23:27:28
Re: 表音
管理人さんへのお返事です。

> 松浦を示す末廬国についても、「末」は呉音で「マチロ・マツロ」なのでして、漢音の「バチリョ」> ではないことなども、呉音文化圏が広まっていたことお傍証になるかと感じます。

呉音でなく中国語(普通話)に対応させ翻訳する。
表音で末廬はmò lú:もる、まら、もる、まる、もら

検索:馬羅島(まらとう)【韓国】馬羅島(マラとう)とは、大韓民国の済州島から南に11km離れた所に位置する絶壁の島。韓国最南端。

済州島の地名、馬羅をあて馬羅国=末廬国。気がつきませんでした。
金印:漢委奴国王印から推測すると、倭奴国の対岸の島が馬羅島(済州島)の関係から博多を馬羅国、末廬国と言ったようですな。

筑前国那珂郡志賀島村:聖徳太子のころは筑紫国になっている。


当時、済州島は倭国の領土で魏志倭人伝の行程で説明済み。



33管理人:2012/01/28(土) 03:28:56
訂正
先の投稿で一文を読み飛ばしてました。


その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。> >

郡から女王国まで1万2千里とありまして、その後に風俗記載になるので、やはり会稽の東との記載は、女王国の記載と思われます。訂正いたします。

会稽の東というのは、正確には南九州になります。沖縄方面は南に行き過ぎですね。


おそらく帯方郡(ピョンヤンあたり)から、7000里で、プサンにいたり、そこから、3千里で松浦へ、そして2千里で奴国、つまり女王国の北辺の支配領域に至るとの意味だと思います。

ただ、「女王の都するところ、南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。」かかるということでしょう。

つまり今の日本でいえば韓国から首都東京までは遠いものの、同じ国にある九州の福岡まではもっと近いのと同様ですね。

それで倭国(島部分)の周囲を5000里と申しているのも、朝鮮半島7000里に比して、倭国が5000里と申しているのではないでしょうか・・・。ただいわゆる一般論ですので・・・例外があっても構いません。

あと、伊都国に軍(警察)をおいたとして、女王国より北方を監察するとすると、対象地域は、九州説だと九州中北部のこと、畿内説だと山陰・山陽のこととなり、任那説?とするとその地域となりそうですが、伊都のある糸島半島という地域が、果たしてそれらの地域を軍隊で治めるのに適した場所かどうかが課題になると思います。ケースに寄っては北九州や下関、吉備のほうがよかったりしますよね・・・。

34秦野北斗:2012/01/28(土) 08:30:09
Re: 訂正
管理人さんへのお返事です。

郡から女王国まで1万2千里とありまして、その後に風俗記載になるので、やはり会稽> の東との記載は、女王国の記載と思われます。訂正いたします。

女王国の意味はアマテラスを指します。日本神話、日本書記、記録しています。この件は、古代航路で総て解決しますので、まとめて、amazon.co.jp 秦野北斗で発刊します。尚、魏志倭人伝の行程は徐福と邪馬台国で発刊済みです。

日本書記で卑弥呼をアマテラスと言っている。壱與がアマテラスを祭る所、伊勢を探している。最近、見つけた。

注、アマテラスの意味を明確にする必要がありそうですな・・。

> おそらく帯方郡(ピョンヤンあたり)から、7000里で、プサンにいたり、そこから、3千里で松浦へ、そして2千里で奴国、つまり女王国の北辺の支配領域に至るとの意味だと思います。
> ただ、「女王の都するところ、南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。」かかるということでしょう。

『女王の都(みやこ)する所』は誤訳で、都は中国語で合わせてになる。以下、水行十日、陸行一月で行程が2つあります。
1つは水行十日、1つは陸行一月です。

>あと、伊都国に軍(警察)をおいたとして、女王国より北方を監察するとすると、対象地域は、九州説だと九州中北部のこと、畿内説だと山陰・山陽のこととなり、任那説?とするとその地域となりそうですが、伊都のある糸島半島という地域が、果たしてそれらの地域を軍隊で治めるのに適した場所かどうかが課題になると思います。ケースに寄っては北九州や下関、吉備のほうがよかったりしますよね・・・。

一支国(一大国)に一大率の兵を置いていたので糸島半島で防衛しなくてもいいのでは・・
伊都国は現在の大宰府より東南方向の太刀洗(兵士の剣を洗う、適切な地名です。因みに奴国はここです。)までに在った。ここが総本部、軍隊は奴国にあった。古代史の問題点は距離を言いながら完全に無視している。距離は秦野距離で狗耶韓国から郡、京師まで遡れる。北九州や下関、吉備は該当しない、北九州は泰王国になる。さぞ、沢山の遺跡(年代は紀元前200〜紀元700年)が出るでしょうな。

泰王国は弥生時代が中心で縄文遺跡の該当地域でない模様

35秦野北斗:2012/01/28(土) 14:28:00
Re: 表音
管理人さんへのお返事です。

>不思議なのは、ミャオ族や、北方遊牧民、さらには中東・アイルランド系に多いHLAまで出てくるところですね。我々が想像するよりも、ずっと激しい動きがあったものと考えてます。


HLAが多い理由は、総てが天地開闢神話が暗示している。文中の『天と地は九万里』里は秦野距離になる。秦野が確認した所を大筋で述べる。 2万年前に最終氷期に入り、1万年前に終了した。一番新しい氷期(ヴュルム氷期、ウィスコンシン氷期)の状況が『盤古神話』に記録されている。2万年の確認は文中の『一万八千年を経て』、『天と地は九万里』の地点に来た時期が紀元前2500年から2万年前になる。氷期は1万年前に終了。その後の第一文明がアトランテス(7000年で消滅)、創世記をへて、三苗に至る。創世記、他の洪水伝説はアトランテス消滅の原因を記している。また、古事記に三苗から来た年代の記録がある。秦野はまだ古代史の入口に立っているだけ、これからの議論が古代史を明らかにすることを信じたい。


天地開闢神話   堀貞雄 古代史探訪館より

 漢語の史籍に神話という用語はない。十九世紀末、日本人学者が英語の「a myth」を神話と翻訳したもので、古代中国では神の神秘の教えを説いた経典を神書、老荘の説いた道(宇宙の原理)を示した教えを「神道」と称したが、「神話」という表現はない。
 漢語では神は「神、精神、神経、顔色、注意力、非凡、利口」を意味し、神話には荒唐無稽な話、神道には奇怪な言動という側面がある。従って、表題は神話ではなく、「伝承」としたほうが適切かもしれないが、現在では日本語の「神話」が中国にも導入されて、一般的に使用されているので表題とした。

『盤古神話』(中国)
 盤古神話は倭国や古朝鮮の「天地開闢神話」の原典だが、「三五暦記」「五運歴年記」「述異記」などに記述があったようだが、早くから散逸しており、現在では「芸文類聚」「太平御覧」などの逸文から断片的に物語を観るしかない。

「三五暦記」
 天地渾沌如雞子、盤古生其中。萬八千?、天地開辟、陽清為天、陰濁為地、盤古在其中、一日九變。神於天、聖於地。天日高一丈、地日厚一丈、盤古日長一丈。如此萬八千?、天數極高、地數極深、盤古極長。后乃有三皇。數起于一、立于三、成于五、盛于七、處于九、故天去地九萬里。

 天地は鶏子(卵殻の中身)のように渾沌としていた、そのなかで盤古は誕生した。一万八千年を経て、天地が開けると、陽(あきら)かで清らかな部分は天となり、暗く濁れた部分は地となり、盤古はその中間に在って、一日に九回変化した。天では神、地では聖となる。天は日に一丈高くなり、地は日に一丈厚くなり、盤古は日に一丈背が伸びた。このようにして『一万八千年を経て』、天は限りなく高く、地は限りなく深くなり、盤古は伸長を極めた。後に及んで三皇が出る。一にして数え始め、三にして立ち、五にして成り、七にして盛んとなり、九にして場所が定まる。それ故に、『天と地は九万里』離れた。

「五運歴年記」
 首生盤古、垂死化身:氣成風雲、聲為雷霆、左眼為日、右眼為月、四肢五體為四極五岳、血液為江河、筋脈為地里、肌肉為田土、髮髭為星辰、皮毛化為草木、齒骨為金石、精髓為珠玉、汗流為雨澤。身之諸蟲、因風所感、化為黎氓(民)。

 初めに盤古が生まれ、死が近づくと、吐いた息は風雲、声は雷鳴、左目は太陽、右目は月、手足と胴体は四方の極地や五岳、血は河川、筋と血管は道、皮膚は農地、髮髭は星辰、産毛は草木、歯と骨は金属、精髓は珠玉、汗と涙は雨や露に化身した。身中の寄生虫は風によって各地に広まり、多くの民と化した。


最終氷期(さいしゅうひょうき)は、およそ7万年前にはじまり1万年前に終了した一番新しい氷期のことである。ヴュルム氷期、ウィスコンシン氷期とも呼ばれる。
最終氷期の時に最も氷床が拡大したおよそ2万年前を最終氷期の最寒冷期(最終氷期最盛期、Last Glacial Maximum、LGM)と呼ぶ。この時期は氷期の中でも地質学的、地理学的、気候学的にも最も詳しく研究されており、気温や、大気・海洋の状態、海水準低下により変化した海岸線など緻密な復元が進んでいる。俗に「氷河期」という言葉を使うときはこの時代を指すことが多い。


36秦野北斗:2012/01/28(土) 14:49:50
Re: 訂正
管理人さんへのお返事です。

> それで倭国(島部分)の周囲を5000里と申しているのも、朝鮮半島7000里に比して、倭国が5000里と申しているのではないでしょうか・・・。ただいわゆる一般論ですので・・・例外があっても構いません。

倭国(島部分)の周囲を5000里の根拠は次の文章です。よく、倭国(島部分)の周囲を5000里と言っている。これは下記の裸国の周囲の距離で秦野が実測するとほぼ五千里ありました。五千余里で正解です。

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黒歯國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や黒歯国も在り、船で行くこと一年で至るとか。倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。

引用元:『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)


37管理人:2012/01/28(土) 20:42:46
Re: 表音
秦野北斗さんへのお返事です。

ご指摘のなかで、特に氷河期や、縄文海進、邪馬台国時代の小氷期について考えていくことは重要かと感じます。

こちらのページに邪馬台国時代の寒さ、つまり海水面の低下具合の図が示されています。
http://d.hatena.ne.jp/it-tosyo/20090712/1247406468

それで、邪馬台国時代は現在より2メートルくらい海水面が低かったようで、それがだんだん暖かくなり、AC300年前後になると、1メートルくらい上昇していくんですね。古墳時代になるとさらに1メートルくらい上昇する。ところによっては海岸線も変化します。

それで邪馬台国の記載をみると、冬夏と野菜がとれるとありますから、やはり寒い時期にもかかわらず、海流などで暖かった場所を考えるべきかなと感じてます。

また沖縄邪馬台国説について一昨日調べていて、与那国の海底遺跡の件がありました。
http://www.yonaguni.jp/iasekiyouchikei-kenkyu-mokuji.htm

表面照射年代測定法というので、年代測定したそうです。
http://www.yonaguni.jp/20040104-ryuudai.htm

1万年前くらいの宮殿遺跡らしいのですが、2000年前くらいに一度地表に出てきているとのことで、ちょうどこの時期が上記の小氷期で、海面が後退した時期と重なるのではないかと感じました。

だからといって、それが宮殿として再活用されたというわけでもないのでしょうけど、海岸地形や遺跡が海進によって、変っていくいい事例ではないかと思います。


38秦野北斗:2012/01/28(土) 22:57:21
Re: 表音
管理人さんへのお返事です。

> また沖縄邪馬台国説について一昨日調べていて、与那国の海底遺跡の件がありました。

> 1万年前くらいの宮殿遺跡らしいのですが、2000年前くらいに一度地表に出てきているとのことで、ちょうどこの時期が上記の小氷期で、海面が後退した時期と重なるのではないかと感じました。
>
> だからといって、それが宮殿として再活用されたというわけでもないのでしょうけど、海岸地形や遺跡が海進によって、変っていくいい事例ではないかと思います。


秦野はあまり話したくないのですが、現在の技術では、回避できないのです。隕石の衝突です。その状況を神話が伝承しています。アトランテスは起源前2〜3000年に4発の隕石で島の7割か吹き飛び、沈み、泥の海に成っています。他はモヘンジョダロ、与那国、・・がこの直撃を受けたと思われる。

旧約聖書を上げますが他にも神話があります。

旧約聖書の『創世記』のノアの洪水

神は地上に増えた人々が悪を行っているのを見て、これを洪水で滅ぼすと「神と共に歩んだ正しい人」であったノア(当時500〜600歳)に告げ、ノアに箱舟の建設を命じた。
箱舟はゴフェルの木でつくられ、三階建てで内部に小部屋が多く設けられていた。箱舟の内と外は木のヤニで塗られた。ノアは箱舟を完成させると、家族とその妻子、すべての動物のつがいを箱舟に乗せた。洪水は40日40夜続き、地上に生きていたものを滅ぼしつくした。水は150日の間、地上で勢いを失わなかった。その後、箱舟はアララト山の上にとまった。
40日のあと、ノアは鴉を放ったが、とまるところがなく帰ってきた。さらに鳩を放したが、同じように戻ってきた。7日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉をくわえて船に戻ってきた。さらに7日たって鳩を放すと、鳩はもう戻ってこなかった。

ノアは水が引いたことを知り、家族と動物たちと共に箱舟を出た。そこに祭壇を築いて、焼き尽くす献げ物を神に捧げた。神はこれに対して、ノアとその息子たちを祝福し、ノアとその息子たちと後の子孫たち、そして地上の全ての肉なるものに対し、全ての生きとし生ける物を絶滅させてしまうような大洪水は、決して起こさない事を契約した。神はその契約の証として、空に虹をかけた。
? 旧約聖書『創世記』より

ノアの方舟がたどり着いたところは、今のアララト山(現在のトルコ共和国東端の標高5.165mの山)の山頂、あるいは山腹だと記されている。またアララト山にノアの方舟の痕跡を見たと証言する者たちが、昔から今に至るまで多い。また、アララト山とイランのザグロス山脈の中腹のどこかであると言う説も存在する。

ノアの洪水は、『聖書』研究者など多くの見解では(『聖書』にある年代をそのまま計算すると)、西暦前2370年(紀元前3000年ころとも)に起こったとされている。

記録では4〜5000mの津波が生じたことになる。日本なら太平洋から日本海に津波は抜ける。当時の住民は壊滅したでしょう。

今の内にノアの方舟バージョンの家を造るか、しかし、隕石の直撃には無意味になる。因みに隕石の大きさは直径100kmクラスに達する。数は神話から最低7発以上で、1発直撃すれば東京でも数秒で蒸発する。無理か。神頼みですな。


39秦野北斗:2012/01/28(土) 23:29:09
Re: 表音
管理人さんへのお返事です。

> また沖縄邪馬台国説について一昨日調べていて、与那国の海底遺跡の件がありました。

秦野の調べでは奄美大島、沖縄に三角縁神獣鏡が配られているのですが、興味があれば探すのも
いいかも。尚、破片らしきものはあったの噂は聞いてます。

三角縁神獣鏡100枚、奄美大島、沖縄に2枚、九州は20枚、中部は20枚、中国地方、近畿に58枚
だいたいの数字です。

40管理人:2012/01/29(日) 07:12:44
Re: 表音
秦野さん、さっそくお返事ありがとうございます。

それで与那国島の海底遺跡なのですが、先の表面照射年代測定法だと1万年前とのことで、いつごろ沈んだのかがきになるところですね。

こちらの台湾のほうにも、与那国同様な海底遺跡があるそうで、確か以前聞いた話だと、回廊で与那国島までつながっているとのこともあるそうですから、同時代のものでしょう。
http://mypaper.pchome.com.tw/phantomuk/post/1321387236

ただ、台湾側でも1万2千年前と言っているのですが、どこにその根拠があるのか気になるところです。また洪水神話が台湾にもあるそうです。

最近スフィンクスの年代が1万年前だという新説が流れたのを思い出しますが、実のところ、そこまで古くないとの見方もあるそうです。
http://www.moonover.jp/bekkan/ooparts/2.htm


ともあれ、邪馬台国の時代の小氷期で海面が低い時期に、与那国島の海底遺跡の一部が地表に顔を出していたということは、確かであろうと感じますね。

浅瀬の地域は、その後の温暖化の時代に海が侵食してきて水没したので、山幸神話みたいな話が出来たのかもしれません。

もうひとつは、白鳳大地震の際のときに高知の海岸沿いが水没したように、地震で土地の隆起や水没が起こるケースです。

木村さんという方が、邪馬台国沖縄説で、先の海底遺跡を炭素年代法で、BC200年ころから作られたものだと話しているそうです。
http://dairoku126.exblog.jp/15078179/

その木村教授が、先の表面照射年代測定法の詳細結果を記した方なので、それなりの根拠があるのかなとも感じます。下記のページに、地震による遺跡の地形の傾きとか、その辺の説明がなされてます。
http://www.yonaguni.jp/iasekiyouchikei-kenkyu-siryou-3.htm

それで遺跡全体のはじまりは1万年前、この遺跡の一部に、3800年前と、1600年前、600年前の3期に別れて、構築の跡があるとの見方は興味深いところです。

確かにAD400年以降は、温暖化による海進で、遺跡自体はまた沈んでいたかもしれませんね。AD1400年あたりは、先のグラフでいけば、やはり小氷期なので、遺跡は顔を出していたのでしょう。

とすると、邪馬台国時代に、この遺跡が再活用されていた件はありうるかなと感じます。アーチ門が沖縄のグスクに似ているそうです。

個人的には、その遺跡の40度傾いて立てられている石垣の並びと、九州各地の弥生時代〜の神籠石の並び具合との比較をしてみたい感じがします。こちら女山神籠石。

http://www.geocities.jp/bicdenki/newpage47.htm

ここに魏志倭人伝のひとつの国があった可能性も考えてみたいですね。

41秦野北斗:2012/01/29(日) 10:31:26
Re: 表音
管理人さんへのお返事です。

古代史上の興味がある内容でした。アトランティス(7000年で消滅)の歴史が見えそうです。

> それで与那国島の海底遺跡なのですが、先の表面照射年代測定法だと1万年前とのことで、いつごろ沈んだのかがきになるところですね。
> こちらの台湾のほうにも、与那国同様な海底遺跡があるそうで、確か以前聞いた話だと、回廊で与那国島までつながっているとのこともあるそうですから、同時代のものでしょう。


氷期は1万年前に終了。その後の第一文明がアトランティス(7000年で消滅)、のアトランティスが与那国まで来てたようですな。アトランティス消滅から1100年後になるが神話に約400日かけ中南米まで行った。記録がある。アトランティスは中南米を知っていたんでしょう。

>ただ、台湾側でも1万2千年前と言っているのですが、どこにその根拠があるのか気になるところです。また洪水神話が台湾にもあるそうです。

神話の中南米への出航地の近くですからあるでしょう。

> 最近スフィンクスの年代が1万年前だという新説が流れたのを思い出しますが、実のところ、そこまで古くないとの見方もあるそうです。

スフィンクス。エジプトは洪水から逃れた。その後、紀元前2500からピラミッドの建造が始まっている。もしですが、エジプトがアトランティスのポリスなら1万年前の可能性がある。スフィンクスの場所にポセイドーンの神殿が在ったことになる。

> ともあれ、邪馬台国の時代の小氷期で海面が低い時期に、与那国島の海底遺跡の一部が地表に顔を出していたということは、確かであろうと感じますね。
> 木村さんという方が、邪馬台国沖縄説で、先の海底遺跡を炭素年代法で、BC200年ころから作られたものだと話しているそうです。
> その木村教授が、先の表面照射年代測定法の詳細結果を記した方なので、それなりの根拠があるのかなとも感じます。下記のページに、地震による遺跡の地形の傾きとか、その辺の説明がなされてます。

邪馬台国沖縄説には悪いが邪馬台国は奈良に20年程度存在した国です。卑弥呼は卑弥呼の母と同年代に死んでいます。木村さんの話しと歴史の流れを整理すると、BC200年に大きい歴史の変化、縄文から弥生が沖縄にもあった事を暗示しているのでは。しかし、海底遺跡との関係は整理できない?。


42管理人:2012/01/30(月) 21:26:41
Re: 表音
秦野さん、さっそく御返事ありがとうございます。

>邪馬台国は奈良に20年程度存在した国です。卑弥呼は卑弥呼の母と同年代に死んでいます。
・・・・BC200年に大きい歴史の変化、縄文から弥生が沖縄にもあった事を暗示しているのでは。


ご指摘のこの件について、もうすこし深く掘り下げてみたいと感じました。

まず、小氷期による倭国大乱の様子について考えてみたいところです。

「その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。 」

下記はウィキの記載より。

建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書』

永初元年(107年) - 倭国王の帥升が安帝に拝謁を願う。『後漢書』

倭国、男性を王とした七、八十年

桓帝と霊帝の間(146年 - 189年) - 倭国大乱。『後漢書』

173年 - 倭の女王卑弥呼が、使者を送って、新羅に交際を求める(二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使来聘)。朝鮮半島の『三国史記』新羅本紀:光和年間

(178年 - 184年) - 卑弥呼が共立され、倭を治め始める。『梁書』


こう見ていくと、秦野さん注目の倭奴国というのが、後の倭国と関係してくるように感じますね。
先の魏志の国名一覧でも「奴」のつく国が、個人的には奴国周辺に多くあったと考えてます。

そのうちに「倭国王の帥升」という記載が出てきますが、こちらは先述したとおり、女王国時代の「難+升(官職)+米」「弥馬+升」と類似の「帥升」の語を使用していることを考慮すると、女王国の原型となった国と組織であった可能性を感じます。「升」という語は、他の魏志の国には出てこないんですね。

AD50年前後あたりが、ひとつの倭人地域での変動の時期だったのではないでしょうか。
もちろん弥生人の先祖自体はBC200〜年あたりにやってきたものと感じます。


彼等は、室・楼観・城柵を設けるなど、大陸的な建築技術を有していた軍事・技術者集団ではなかったと考えてます。

ただ、ヒミコについては、「王となりしより以来、見るある者少なく」とあり、おそらくは政治も戦にもでかけず、完全に籠っていたようですね。だから見る人もいない。249年ごろにヒミコが死ぬまで50年近く籠っていたことになるでしょうか・・(・_・;)

あと、王でありミコである卑弥呼と、官職の長である難升米等とでは、魏王の対処の仕方も異なっているようですね。それはまた別記いたします。


43管理人:2012/01/30(月) 22:18:13
金印
続いて下記で触れました魏王から見た、女王、難升米への対処の仕方の相違についてです。

「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。

その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。

汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。

今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。

還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。


女王である卑弥呼には、「金印紫綬」を授け「親魏倭王」とし、「種人を綏撫」するよう命じていますね。「綏撫」は、安らかになるようにしずめおさめること。慰めいたわることの意味だそうです。文書による統治を感じさせます。

また、大夫と呉風に自称した難升米・牛利には、中郎将等の官職のほか、「銀印青綬」を授けてます。もちろん、その印字には、その文字が刻まれていたはずです。

それで金印は「帯方の太守に付し仮綬せしむ」、銀印と鏡の類は難升米・牛利にそのまま持って行かせています。

ここから帯方の太守が直接、卑弥呼に会いに向かったことがわかるのですが、「金印」を授ける際の取り決めなどが、中国側にあって、王もしくは太守から直接、当人に授けなければならないような何かがあったのではないでしょうか。

結局、社長の印鑑を、部長に渡してどこかで彼等が悪用されては困るというようなことかもしれません。

逆に、鏡の類は、倭国中に示せとあるので配って配布しても構わないということだったのでしょう。

だから倭奴国王の金印も、同様に楽浪郡の太守等が直接出向いて授けた、もしくは奴国の王が直接やってきて授かったのかもしれません。

金印が、その後の王に継承された可能性は感じます。次の王やイヨには授けてないんですね。もちろん、その間にやってきた使者には「印綬」はしているケースもあります。

しかしそうすると、後漢代に渡された倭奴国時代の金印を卑弥呼が継承していたとしても、魏から見るとそれは無効だったとも受け取れますし、魏はそのことを知っていたのかどうか、知っていたとしても、新たに金印を渡す必要があったとのことは理解できます。

ただ、次の晋代にはいって、その金印が有効だったかどうかはまたわからないところですね。

420年代に入って、宋から倭王の讃がやはり「除綬」されているわけですが、その後の王は「除綬」はされてないんですね。ここでも金印を授かったのかもしれない。

ともあれ、金印が継承されたとすれば、鏡のように王の墓から出ることはありえないわけでして、どこかの官庁があった場所とか・・・で出土するだろうと感じます。

糸島市の神社に「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたというのも、奴国の印を扱っていた役所が、外交・政務の中心地、伊都国だったからではないでしょうか。

44秦野北斗:2012/01/30(月) 23:25:36
Re: 金印
管理人さんへのお返事です。

> 続いて下記で触れました魏王から見た、女王、難升米への対処の仕方の相違についてです。
> 「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。

京都は皇帝の都になるか?
京師は帯方郡から2000里の位置にある。
京師はもと、卑弥呼の居た杜。難升米は三公かもしれない。
文章より京師、京都の行程になる。
三公は三角縁神獣鏡で説明済み。


> その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。

生口は杜氏(とうじ),卑弥呼は酒を送った。当時は高価なもので皇帝も懐かしい酒である。
この件を話すと、古事記からの話なので整理がつかないため、省略する。

> 汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。

>??汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮し、引見労賜し遣わし還す。
> 今、絳地交竜錦五匹・絳地スウ粟ケイ十張・セン絳五十匹・紺青五十匹を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また、特に汝に紺地句文錦三匹・細班華ケイ五張・白絹五十匹.金八両・五尺刀二口・銅鏡百牧・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。

絳地交竜錦五匹:これが竜のマントか。これを着て雨乞いをしたみたいですな。
神社の竜の手洗いはこれでしょう。奈良の卑弥呼像はマントを着けたものが情けない鳥になっている。

> 還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
> 女王である卑弥呼には、「金印紫綬」を授け「親魏倭王」とし、「種人を綏撫」するよう命じていますね。「綏撫」は、静かに安らかに治めるとの意味だそうです。文書による統治を感じさせます。


答えは卑弥呼の出生にある。金印、親魏倭王の訳:魏に親しい倭王、魏を親とする倭王、
この訳に総てが隠されている。

> だから倭奴国王の金印も、同様に楽浪郡の太守等が直接出向いて授けた、もしくは奴国の王が直接やってきて授かったのかもしれません。

倭奴国王は韓半島の倭国に送ったお墨付きで大きな意味はない。

> 糸島市の神社に「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたというのも、奴国の印を扱っていた役所が、外交・政務の中心地、伊都国だったからではないでしょうか。ただ女王がここにいたわけではないので、政務と王(ミコ)が、完全に居住地ともども分離していたことが伺えます。

韓半島から引き上げるとき、糸島市の神社に祭ったのでしょう。伊都国とは別物、


45管理人:2012/01/31(火) 20:03:31
Re: 金印
秦野北斗さんへのお返事です。

そこでですが、次に卑弥呼以後の時代、250年〜350年代について話を進めてみたいと思います。ご指摘のとおり、私も韓半島との関わりが強くなる時期ではないかと見ています。


> 倭奴国王は韓半島の倭国に送ったお墨付きで大きな意味はない。
>
> > 糸島市の神社に「漢委奴國王」の金印が宝物として伝わっていたというのも、奴国の印を扱っていた役所が、外交・政務の中心地、伊都国だったからではないでしょうか。ただ女王がここにいたわけではないので、政務と王(ミコ)が、完全に居住地ともども分離していたことが伺えます。
>
> 韓半島から引き上げるとき、糸島市の神社に祭ったのでしょう。伊都国とは別物、
>

204年前後に公孫氏が帯方郡を建てた際に、韓・濊族を撃って、「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」との記載がありますね。その後238年に公孫氏が敗れて、魏が帯方郡を吸収していくわけですが、徐々に大陸との関わりが強くなっていく時期だろうと感じます。

景初2〜3年に、韓・濊に「邑君・長」の称号を与えて「印綬」を授けながら冊封関係を広げていく。

倭国も当然、周囲の韓・濊の動きを察知していたでしょうし、それで難升米を派遣した。
正始元年(240年)に、太守となった弓遵は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて卑弥呼のもとへ送ってます。

卑弥呼に鏡を大量に配布するよう命じているのも、冊封支配を広める狙いもあったのでしょう。この鏡は女王国から「倭種」を治めるため、「倭国中」全域に配布されたこととでしょう。だから、島根でも桜井でも出てくる。

その後、245年に「難升米」に黄幢を賜与。

247年に卑弥呼は、太守王頎に「載斯烏越(サイシウエツ)」を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。

女王に就いた壹与は、帰任する張政に「掖邪狗」ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。(266年)

神功皇后紀にて
「六十六年。〈 是年。晋武帝泰初二年 晋起居注云 武帝泰初二年十月 倭女王遣重訳貢献 〉」

そして150年の空白の4世紀があり、(413年)の倭王讃による朝貢記事。


特に注目したいのは「難升米」が5年程度見えたのちに消えたのに比して、その後の「掖邪狗」が20年近く在職し続けていることですね。

「難升米」は、247年までに、女王国からいなくなったかに見えます。桜井あたりで黄幢や鏡を抱えたまま墓に眠っている可能性もあるでしょう。大和に先に入り込んだ物部氏の祖・ニギハヤヒかもしれません。

伊都國の官を爾支「ニキ」、副を「泄謨觚(エ(セチ)ボク・ボコ)・柄渠觚(ヒョウゴク・ヘイゴコ)」があるのですが、その「ニギ」という発音がニギハヤヒを思い起こさせますね。

この国について、「世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。」というのも、ここから使者が派遣されたことによるものでしょう。王もいて、ある程度女王国から独立した立場にあったのかもしれません。スイスみたいなものでしょうか。だから女王国は奴国が「北限」なんですね。

ただ、張政も掖邪狗と同様に20年も女王国にいたことになりそうです。もっともヒミコやイヨが、大和まで向かったかどうかは不明ですが、千人の侍女をかかえた籠り症のヒミコが、大和まで行ったかどうかは疑問がありますね。行ったとしたら次のイヨ以降ではないでしょうか。

そして空白の4世紀に入るわけですが、下記のページに、2〜3世紀の任那地域と北九州との関係、その後の3〜4世紀の畿内との遺物関係が指摘されてます。 http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_03.html
巴型・筒型銅器も出ているそうですが、巴型銅器は吉野ヶ里から復元されているように、北九州もので、ある時期から任那地域の首長にも渡されたように感じますね。

確かにこれらの銅器が、茨木・交野の前期古墳から出てくるのも、北九州・任那地域からの畿内への移動を示すようにも見えますし、舟形木棺とか朱の関連も同様な大陸遊牧民系の流れかと感じてます。

このあたりは、やはり313年の高句麗が楽浪郡を占領して、帯方郡の流民が三韓地域に流れ込んだこととも関係しているでしょうし、それ以前の流れもあっただろうとかんじます。

46秦野北斗:2012/01/31(火) 22:11:17
Re: 金印
管理人さんへのお返事です。

> そこでですが、次に卑弥呼以後の時代、250年〜350年代について話を進めてみたいと思います。ご指摘のとおり、私も韓半島との関わりが強くなる時期ではないかと見ています。

250年〜350年代

250年代の前と後では韓半島は様変わりしています。

韓(馬韓+弁韓+辰韓)+濊は百済と高句麗に、倭に新羅が居候している。
これは魏志倭人伝の距離を秦野は秦野距離と命名した。
秦野距離を中国史籍に当てはめると当時の状況が明確になる。
現在の韓半島の古代地図は曖昧でこの辺、あの辺で制作している。

まあ言える事は、魏志倭人伝の単里が分らなければ古代史は解けません。
秦野は神功皇后を調べていて、陸行1月と単里を知った。

この頃に『日本書紀』、『先代旧事本紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命
ヤマトタケルが韓半島に現われる。(日本では関東、名古屋をウロウロしている。)
神話でヤマトタケルが壱與=神功皇后をアマテラスと呼んでいる。

47秦野北斗:2012/02/21(火) 09:34:02
「掖邪狗」=武内宿禰?
> 特に注目したいのは「難升米」が5年程度見えたのちに消えたのに比して、その後の「掖邪狗」が20年近く在職し続けていることですね。

卑弥呼以後の歴史の流れを推測しました。

5年程度「難升米」、

20年近く「掖邪狗」この点に注目すると。

248年 卑弥呼の死

8〜18年 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。

266年 壱輿=神功皇后 13〜23歳

286年 33〜43歳で三韓征伐、55〜65歳?「掖邪狗」=武内宿禰?


48管理人:2012/02/21(火) 09:50:26
Re: 「掖邪狗」=武内宿禰?
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそく御返事ありがとうございます。個人的に気になっているのは壱輿の寿命ですね。王としての在位期間も考慮せねなばりません。

13歳で即位して、たとえば80歳まで生きたとすると、310年ころ死んだと仮定します。

>
> 8〜18年 男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
>
> 266年 壱輿=神功皇后 13〜23歳
>
> 286年 33〜43歳で三韓征伐、55〜65歳?「掖邪狗」=武内宿禰?
>

そうすると、彼女の古墳の形態は、古墳時代中期のものになってしまうかもしれませんよね。その前に死んだヒミコの墓の形態とは大きく異なるかもしれません。むしろ、先に死んだであろう「掖邪狗」とかの墓のほうが、古い形態を保っているのかもしれません。

ただもちろん、譲位(あまりない)あるいは、討伐されたりして死んでしまったこともありうるでしょうから、なんともいえませんけど。

だから、古墳の形態が新しいからといって、その時代の中心人物だったとは限らないわけでして、難しいものを感じます。


49秦野北斗:2012/02/22(水) 01:02:04
Re: 「掖邪狗」=武内宿禰?
管理人さんへのお返事です。

> そうすると、彼女の古墳の形態は、古墳時代中期のものになってしまうかもしれませんよね。その前に死んだヒミコの墓の形態とは大きく異なるかもしれません。むしろ、先に死んだであろう「掖邪狗」とかの墓のほうが、古い形態を保っているのかもしれません。

卑弥呼の古墳は円墳です。1年ほど前に行ってきました。確かに円墳でした。
壱輿は前方後円墳、五社神古墳(神功皇后陵)。でしょう。

日本人なら一生に一度は、卑弥呼と壱輿の祭られている所へ行きます。
あとは推理してください。注、誰も卑弥呼と壱輿が祭られている事は知りませんな。

尚、神功皇后の応神天皇は韓半島、任那日本府で死んだと思われる。
枯野(からぬ)の船の詩から九州の伊都国に船を作らせ・・・。名を枯野(からぬ)と言う、『からぬ』は八咫烏の烏と奴を合わせ『烏奴』。建造の目的は多分、航路の防衛兵、今の海上保安庁ですな。この船が、任那の港,武庫で新羅の役人が火を出し、炎上、消失。応神天皇が怒り、・・新羅王が船の修理のため、船大工を派遣している。


50管理人:2012/02/03(金) 21:06:35
Re: 「掖邪狗」=武内宿禰?
秦野北斗さんへのお返事です。

枯野(からぬ)の船というと、伊豆国に応神天皇がそれをつくらせた伝承が残っているようですね。秦野さん的には、すると伊豆=伊都ということでしょうか。

枯野の船について
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page410.html

それで武内宿禰の件について、もう少し調べてみたいところです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/武内宿禰

景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇と五代に仕えて、紀・巨勢・平群・葛城・蘇我氏などの中央諸豪族の祖ともされる人物ですね。

また景行や応神など、九州、朝鮮との関わりも出てきます。

この人物の寿命が200〜300と延びたのは、記紀の年代を延ばしたことと関係がありそうです。

葛城の宮山古墳に、彼と息子のソツヒコの伝承があり、盾・ユキ型の埴輪や、長持形石棺があるとのことで、山陰・北九州とのつながりを感じさせますね。
http://inoues.net/club/katuragi_kodo2_6.html
http://74589594.at.webry.info/200807/article_8.html
http://wiki.livedoor.jp/ksg_recon/d/????????

http://www.jpn-hayashi.com/cgi-bin/pjdetail.cgi?mode=&title0=???{?R?Õ?&choice0=k4400010&printer=&photoview=02&index=194&browser=99&colum=24&font=20&screen=240&life=

前方部と後円部に、埋葬施設が複数あり、石棺・木棺と種類も分かれていて、珍しいタイプの古墳あだと感じます。三角縁や割竹形木棺など、古い要素もあり、武内宿禰のような「長い歴史変遷」を集約した古墳のように見えます。

51秦野北斗:2012/02/04(土) 12:48:38
Re: 「掖邪狗」=武内宿禰?
管理人さんへのお返事です。

検索するのが速いですね。

> 枯野(からぬ)の船というと、伊豆国に応神天皇がそれをつくらせた伝承が残っているようですね。秦野さん的には、すると伊豆=伊都ということでしょうか。

地名は表音に成っている。魏志倭人伝:対馬国(つしまこく)、『隋書』倭国伝:都斯麻国(つしまこく)がよい例です。

日本書紀、この文章の枯野(からぬ)は長さ十丈(30m)になる。遣唐使船クラスになる。
どうも、鳥船(とりふね)、八咫烏、烏奴が混在している。烏の意味は案内人を指すと思われ、神社数は五百寵の塩から500社になる。

諸国から五百の船が献上された。それが武庫の港(釜山の忠武港)に集まった。釜山=狗耶韓国で新羅と倭の境界に位置する。任那日本府はこの辺になる。

仁徳天皇の詩はどこで歌われたか未だ特定、出来ない。韓半島は間違いないが。

日本書紀 応神天皇の処
五年冬十月伊豆国に命じて船を造らせた。長さ十丈の船ができた。ためしに海に浮かぺると、軽く浮かんで早く行くことは、走るようであった。その船を名づけて枯野といった。
−--船が軽く早く走るのに、枯野と名づけるのは、道理に合わない。もしかすると軽野と
いったのを、後の人がなまったのでなかろうか。

三十一年秋八月、群卿に詔していわれるのに、「官船の枯野は、伊豆の国から奉ったものであるが、いまは朽ちてきて用に堪えない。しかし長らく官用を勤め、功は忘れられない。その船の名を絶やさず、後に伝えるには何かよい方法はないか」と。群卿は有司に命じて、その船の材を取り、薪として塩を焼かせた。五百寵の塩が得られた。それをあまねく諸国に施された。そして船を造ることになり、それが武庫の港に集まった。そのとき新羅の調の使が武庫に宿っており、そこから失火した。その延焼で多数の船が焼けたので新羅の人を責めた。新羅王はこれを聞き、犬いに驚いてすぐれた工匠を奉った。これが猪名部らの先祖である。
前に枯野船を塩の薪にして焼いた日に、あまりものの焼け残りがあった。その燃えないのを不恩議に思って献上した。天皇は怪しんで琴を造らされた。その音はさやかで遠くまで響いた。このとき天皇が歌っていわれるのに、
枯野塩焼其余、琴作、掻弾由良之門、
カラヌヲ、シホニヤキ、シガアマリコトニツクリカキヒクヤ、ユラノトノ
門中海岩触立浸欄木亮々
トナカノイクリニ、フレタツ、ナヅノキノ、サヤサヤ。
「枯野」を塩焼きの材として焼き、そのあまりを琴に造って、かき鳴らすと、由
良の瀬戸の海岩(海中の石)に触れて、生えているナズの木が、潮に打たれて

古事記  仁徳天皇の処にに書かれている
この御世に、免寸河の西に一つの高樹ありき。その樹の影、旦日に當たれば、淡道島に逮び、タ日に當たれぱ、高安山を越えき。故、この樹を
切りて船を作りしに、甚捷く行く船なりき。時にその船を號けて枯野と謂ひき。故、この船をもち旦夕淡道島の寒泉を酌みて、大御水献りき。
この船、破れ壊れて塩を焼き、その焼け遺りし木を取りて琴に作りしに、
その音七里に響みき。ここに歌ひけらく、

枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り かき弾くや 由良の門の
門中の海石に 觸れ立つ 浸漬の木の さやさや
とうたひき。こは志都歌の歌返しなり。



52管理人:2012/02/04(土) 22:53:59
枯野
秦野さん、またいろいろ情報ありがとうございます。

枯野の船を焼いて塩を作るという話が面白いですね。
製塩をするのに、大量の木材が必要だと言っているわけです。

最近聞いた話で、倭と朝鮮の間で、鉄と塩を交換していた可能性があるそうです。岩塩も九州の山地では採れたそうです。

木材は倭つまり日本のほうが取れやすかったかもしれませんね。

また琴の話は、6世紀前後の話になりますが、カヤ琴の話が有名です。

そう考えていくと、任那と応神・仁徳との関わりは、重要かもしれません。

あと、補佐役という視点からいくと、コノハナサクヤヒメとセット出てくる塩土翁の存在があります。その塩の意味は、潮から転じて潮流のことだとか、製塩の神としても祀られるとのこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/シオツチノオジ

古事記では「塩椎」とも書かれていて、「椎」は、堅いシイの木のことだそうです。塩と木・船の関係が見て取れますね。書紀では「塩土」になって、製塩土器を思わせるように変化していく。

似たような船頭役をする人物に、宇豆毘古・シイネツヒコ(椎根津彦)というのがいます。
http://gejirin.com/src/U/utuhiko.html

九州南部の隼人から北部の大分、畿内にまで関係する重要人物です。「椎の竿の末を持たせてタケヒトの船に引き入れた」とのことで、別のところでも、蓑笠姿の翁として、香具山から、埴輪の土を持ってくる。

上記の流れで考えると、「海の老人」、製塩土器との関わりも考えうるでしょうし、黄憧を持って船で乗り込んだ人物、ニギハヤヒやニニギとの関わりも感じさせますね。

何か実在するイメージを元にして、できあがった人物像だろうと感じます。

53秦野北斗:2012/02/06(月) 15:35:15
Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。

> 枯野の船を焼いて塩を作るという話が面白いですね。
> 製塩をするのに、大量の木材が必要だと言っているわけです。

当時の船の材料は檜・杉・樫・椎で造られている?。

弦楽器はトンコリ系:アイヌに伝わる伝統的なでカラフトアイヌが用いていた五弦琴(三弦や六弦の物もある)。

エゾマツ材は淡黄色で着色した心材がない。木目もまっすぐに通っており美しく、建築材料に多く用いられる。また繊維が長く製紙用原料(パルプ材)にも非常に適している。切削などの加工も容易で、家具、箱材、楽器(ピアノ、バイオリン、ギター等)、経木、マッチの軸、碁盤など様々な用途に利用されている。



54管理人:2012/02/06(月) 22:50:00
Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそく情報ありがとうございます。

> > 枯野の船を焼いて塩を作るという話が面白いですね。
> > 製塩をするのに、大量の木材が必要だと言っているわけです。
>
> 当時の船の材料は檜・杉・樫・椎で造られている?。
>

魏志倭人伝に記された植物について研究したサイトがありました。
こちら参照ください。

http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/namae.htm


上記サイトより引用

------------------
要旨
『魏志倭人伝』に記された樹木名は、クス、シイ、タブ、クヌギ、カシ、カエデなど、西日本の森や林を、構成する極めて一般的な樹木である。


『其木有、(だん)・杼(ちょ)・予樟(よしょう)・(じゅう)・櫪(れき)・投(とう)・橿(きょう)・烏号(うごう)・楓香(ふうこう)。其竹、篠(じょう)・(かん)・桃支(とうし)。有、薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・何(じょうか)・不知以為滋味』

--------------------

それで、塩椎爺、椎根津彦の「椎」の木は、どうもその「杼」とのことです。

上記サイトによると、
「また杼とは機織りの横糸を走らせる『ひ』のことでもある。察するに『ひ』を作った材であろう、器具材としては、小径で曲がったコナラよりシイの方が適材である。したがって杼とはシイのことである。
わが国のシイにはコジイ(ツブラジイ)とスダジイがあるが、どちらであるかは定かでない。いずれも高さ25mに達する高木であり、上記のクスと共に西日本の照葉樹林を構成する代表的樹木でもある。」


http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/gisi/bunnpu.htm

こちらにその分布図がまとめられています。特に注目したいのは、
楓香(カエデ)と目される(イロハモミジ)の分布で、鹿児島方面が入ってないことです。

全体的には西日本の特性をもちながらも、鹿児島以北、その辺に絞られてくるのでしょうか。

(追記:一部誤記を修正しました)

55秦野北斗:2012/02/07(火) 21:18:26
Re: 枯野
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000055M.jpg

管理人さんへのお返事です。

> 『魏志倭人伝』に記された樹木名は、クス、シイ、タブ、クヌギ、カシ、カエデなど、西日本の森や林を、構成する極めて一般的な樹木である。

> 『其木有、(だん)・杼(ちょ)・予樟(よしょう)・(じゅう)・櫪(れき)・投(とう)・橿(きょう)・烏号(うごう)・楓香(ふうこう)。其竹、篠(じょう)・(かん)・桃支(とうし)。有、薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・何(じょうか)・不知以為滋味』

西日本の森や林は当時の生活圏を表わしている。秦野書、徐福と邪馬台国で倭国、『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。』の中部地方以西が地図上(添付)に描かれた。樹木の分布と三角縁神獣鏡の分布と一致する。不思議ですね。現在、徐福と邪馬台国で紹介した、茅渟(ちぬ)の道(日本最古の道)を調べています。

 倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中、依山島而居。東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木為柵、以草為屋。四面小島五十餘國、皆附屬焉。其王姓阿毎氏、置一大率、檢察諸國、皆畏附之。設官有十二等。             (「旧唐書」倭国・日本国伝)

倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。』代々中国と通じている。 その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。(堀貞雄の古代史・探訪館より)

> それで、塩椎爺、椎根津彦の「椎」の木は、どうもその「杼」とのことです。

椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)は同じものを言っている。『書記』では天皇が勅で椎の棹を授けて・・、椎根は『椎の棹』の椎、槁根は『椎の棹』の棹=槁。秦野が知る限り『日本書紀』と『古事記』は対に成っている。

シオツチノオジの文章は古事記を読み解けば理解できる。心配はない、難解ですが理解できます。

シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名 事勝因勝長狭神(ことかつくにかつなぎさ)。
『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。
海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。
『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある。





56管理人:2012/02/08(水) 10:42:19
Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。


秦野さん、こんにちは。ここ数日パソコンが調子悪く、昨晩も書き込み終えた途端に文書が消えてしまいました(・_・;)


> 西日本の森や林は当時の生活圏を表わしている。秦野書、徐福と邪馬台国で倭国、『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。』の中部地方以西が地図上(添付)に描かれた。樹木の分布と三角縁神獣鏡の分布と一致する。不思議ですね。現在、徐福と邪馬台国で紹介した、茅渟(ちぬ)の道(日本最古の道)を調べています。

呉人が、台湾、沖縄経由で、九州南部から北部へ、吉備、畿内へと入っていくルートがあったようですね。

>??倭国とは、古の倭奴国なり。京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。』代々中国と通じている。 その国、居住地に城郭がなく、木を以て柵とし、草を以て屋根とする。四面の小島、五十余国、皆、これに附属している。その王姓は阿毎氏、一大率を置き、諸国を検察させ、皆はこれを畏怖している。官には十二等級を設けている。(堀貞雄の古代
史・探訪館より)

この文書は、漢書から魏志・・と抜書きしている感じが見受けられます。

魏志の方位がおかしいことは、後代気付いたので、ちゃんと修正してますね。南が逆さまになった日本地図の話が出てこないようです。ただ、一大率という警察・軍隊の話は、よく把握できていなかったのでしょう。


> 椎根津彦(しいねつひこ、『日本書紀』)、槁根津彦(さおねつひこ、『古事記』)は同じものを言っている。『書記』では天皇が勅で椎の棹を授けて・・、椎根は『椎の棹』の椎、槁根は『椎の棹』の棹=槁。秦野が知る限り『日本書紀』と『古事記』は対に成っている。

日本における節刀関連の文書のはじまりが見えるというになるでしょうか。椎根津彦は重要です。

あと、「塩筒老翁」と神武東征のイメージこそが、後に記紀に出てくる海の老人の原型だと思いますね。「筒」の字を当てているのがまた興味深いところです。

同じくイザナギの息子で、住吉三神が、やはり「底筒男命」のように、「筒」を名前に入れてますね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/住吉三神

住吉は、元は「住江」とのことで、「スミ」というところにあった港のことだったのでしょう。

上記の呉とか隼人と結びつけるなら、安住・安曇、大隈といった「スミ」音の意味あたりまで追求したいところですが、元の根っこは弥生時代の発音にあって、後代の「澄んだ水」とかいう、文献学者の解釈では不十分であることをしみじみ感じますね。古代史やる人は、まず魏志倭人伝の読みからやらなければならないということなのでしょう。

57秦野北斗:2012/02/08(水) 23:17:55
Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。

> 呉人が、台湾、沖縄経由で、九州南部から北部へ、吉備、畿内へと入っていくルートがあったようですね。

おっしゃる通り、呉人、越人のルートは存在しています。秦野の調べでは台湾、沖縄経由はない。呉人は直接、九州南部になっている。越人は日を改めて・・。

> 魏志の方位がおかしいことは、後代気付いたので、ちゃんと修正してますね。南が逆さまになった日本地図の話が出てこないようです。ただ、一大率という警察・軍隊の話は、よく把握できていなかったのでしょう。

ちゃんと修正してますね。一大率という警察・軍隊の話は、よく把握できていなかった。?
この件は魏志倭人伝と古事記、日本神話。の解読して明らかになりますが、専門家、一般人で解読した話は聞いていないのですが?。解読できれば、同じ土俵で秦野は話をしたい。


古田、安本、鷲崎、桂川光和・・説では中国史籍の文中の距離表記を地図に書き起こせない。完全に間違っていると言ってよい。秦野はこれまでの説とは違う方法で古代史を紐解きたい。



58管理人:2012/02/09(木) 22:48:10
Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそく御返事ありがとうございます。
距離の件ですが、海にある沖縄などの孤島を入れて測量するとなると、相当高度な測量技術がないと、正しい距離数値を出せないかと感じます。3ヶ月・5ヶ月と日程として書いてあるのも、アバウトであることを意味してますね。


> 古田、安本、鷲崎、桂川光和・・説では中国史籍の文中の距離表記を地図に書き起こせない。完全に間違っていると言ってよい。秦野はこれまでの説とは違う方法で古代史を紐解きたい。
>


ただ個人的には、邪馬台国時代には、すでに海をもすべて考慮した精度の高い測量技術を持っていたと考えてますので、不可能ではなかったと感じます。詳細は研究会の会報あたりにて記しているので、参考まで。



59秦野北斗:2012/02/10(金) 02:10:20
Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。

> 距離の件ですが、海にある沖縄などの孤島を入れて測量するとなると、相当高度な測量技術がないと、正しい距離数値を出せないかと感じます。3ヶ月・5ヶ月と日程として書いてあるのも、アバウトであることを意味してますね。

> ただ個人的には、邪馬台国時代には、すでに海をもすべて考慮した精度の高い測量技術を持っていたと考えてますので、不可能ではなかったと感じます。詳細は研究会の会報あたりにて記しているので、参考まで。

3ヶ月・5ヶ月と日程・・、は日程でなく距離で現在のメートル法に換算可能です。
参考ですが1月は7000里です。魏志倭人伝の1月で、どこにも書いてないですよ。
唯一、知る方法は実測しかない。詳細な里は徐福と邪馬台国を参照

高い測量技術を・・・詳細は研究会の会報、どうも研究会の会報は未だ子供です。参考にも成らない。どうも、根拠が万葉集、伝承が中心です。注意点は、万葉集の詩は韓半島で歌ったもので日本には該当しない。秦野の調べでは魏志倭人の距離測定はセンチメートル (cm)まで測定している。

研究会の研究が進み、自信を持った専門家が、帯方郡さえ特定ができず、玄菟郡を楽浪郡と言っている。日本に在りもしない欠史八代の古墳を奈良に比定している。現実は大陸に散在している。



60管理人:2012/02/10(金) 23:00:05
Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。

あらら、拙い会報のほうもすでに拝読いただいているとのことで、ありがとうございました(*^_^*)

それで先の旧唐書の

「京師から一万四千里、新羅の東南の大海中に在り、山島に依って暮らす。『東西に五カ月の行程、南北に三カ月の行程。」

の部分なのですが、帯方からの距離は、魏志の記載から変化してないんですよね。新羅という国名が新たに出てきており、その後新たな距離情報が入りこんでます。先日の新羅の文献を引用しましたね。

それにしても3ヶ月、5ヶ月というのは、魏志で陸行1月とか水行10日とかいう記載との対応でどうなるのか、その辺が課題です。

ただ東西5ヶ月については、唐代になれば、馬や駅宿のある時代の話ですから、いささか長すぎる感じもします。

そうすると、やはりもっと古い時代で、馬を使わない徒歩や、小型船での距離感覚によるのかもしれません。

ご指摘の徒歩と距離換算の件は、そういう意味で重要です。馬や大型ガレー船での距離・時間感覚ではないのでしょう。

したがって、魏志も旧唐書も、ともに徒歩での距離感覚を、わざと記載しているのではないかと感じます。

邪馬台国までは魏志では、陸行1月(OR、+、水行10日)。 それが、南北3ヶ月、東西は5ヶ月の記載に変化する。

九州から茨城までを東西として5ヶ月とすると、1ヶ月でいける距離は、5分の1で、せいぜい岡山くらいまでとなるでしょうか。

当時の道は獣道でしょうし、主に沿岸沿いや坂道を多く歩いたでしょうから、我々の想像よりはるかに時間がかかるのかもしれません。獣道に慣れない人なら、1日にせいぜい15キロ程度でしょう。1月・450キロがいいところではないでしょうか。

また、水行は風向きや海流の向き、船の構造によって、大きく時間が異なってくると感じます。

61秦野北斗:2012/02/11(土) 00:31:27
Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。

> 邪馬台国までは魏志では、陸行1月(OR、+、水行10日)。 それが、南北3ヶ月、東西は5ヶ月の記載に変化する。
> 九州から茨城までを東西として5ヶ月とすると、1ヶ月でいける距離は、5分の1で、せいぜい岡山くらいまでとなるでしょうか。
> 当時の道は獣道でしょうし、主に沿岸沿いや坂道を多く歩いたでしょうから、我々の想像よりはるかに時間がかかるのかもしれません。獣道に慣れない人なら、1日にせいぜい15キロ程度でしょう。1月・450キロがいいところではないでしょうか。

水行10日は潮流から1〜0.5Knot:1.8〜0.9km/h で200Km程度。意外でしょう。
魏志倭人伝は中国から陳寿が来て文章にしている。いろんな事情があり陸行(月)、水行(日)としている。中国史籍を読み解けば、陳寿、卑弥呼の事情を知ることができる。

九州から茨城まで:約1000km、5分の1で:約200km。せいぜい広島です。感覚で1 月・450キロですか、1単里で64m近いです。しかし、正確でなければ、命取りに成りますよ。魏志倭人伝、中国史籍の距離に対応します。正確でなければ、魏志倭人伝の帯方郡、京師まで辿れる。中国史籍の韓半島の新羅、百済、扶余の位置が判明します。
注意が必要なのは、東西5ヶ月、南北3ヶ月は直線距離です。またも、意外でしょう。
陸行1月(OR、+、水行10日)は行程距離、道のりです。

尚、道は獣道に慣れない人なら・・。これは、大きな間違いです。通常の街道です。現在もこの道を使用している。名まえは変わり、現在は国道に成っている。途中から・・線(茅渟(ちぬ)の道)なり、道幅は5mはある。国道?号線は伏せておきます。楽しみが無くなるため。

本件は、韓半島の京師、帯方群から邪馬台国までの行程を纏めて出版『徐福と邪馬台国』してます。
古事記の解読は終わり、校正しています。

62管理人:2012/02/11(土) 23:08:37
Re: 枯野
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそく御返事ありがとうございます。

> 水行10日は潮流から1〜0.5Knot:1.8〜0.9km/h で200Km程度。意外でしょう。
> 魏志倭人伝は中国から陳寿が来て文章にしている。いろんな事情があり陸行(月)、水行(日)としている。中国史籍を読み解けば、陳寿、卑弥呼の事情を知ることができる。

中国文献のあり方については、私も興味深く感じてます。特に漢書・魏志の時代のほかの諸国についての書き方ですね。

魏書(列伝)
http://ja.wikipedia.org/wiki/魏書

魏志・東夷伝
http://yumiki.cocolog-nifty.com/station/2006/05/post_e624.html

魏志・韓伝
http://kamodoku.dee.cc/gishi-kanden.html

ちょっと時間がかかりそうなので、ピックアップして読み進めたいと思います。


尚、道は獣道に慣れない人なら・・。これは、大きな間違いです。通常の街道です。現在もこの道を使用している。名まえは変わり、現在は国道に成っている。途中から・・線(茅渟(ちぬ)の道)なり、道幅は5mはある。国道?号線は伏せておきます。楽しみが無くなるため。

本件は、韓半島の京師、帯方群から邪馬台国までの行程を纏めて出版『徐福と邪馬台国』してます。
古事記の解読は終わり、校正しています。

また、秦野さんのご本を近いうち拝読させていただきたく感じてます。

63秦野北斗:2012/02/11(土) 23:31:48
Re: 枯野
管理人さんへのお返事です。

> 本件は、韓半島の京師、帯方群から邪馬台国までの行程を纏めて出版『徐福と邪馬台国』してます。
> 古事記の解読は終わり、校正しています。
>
> また、秦野さんのご本を近いうち拝読させていただきたく感じてます。

魏志倭人伝の行程と邪馬台国、卑弥呼の墓の所在を明らかにしています。
本の疑問、問題点を聞かせて下さい。

64秦野北斗:2012/02/13(月) 22:58:10
『三国志魏書』倭人伝の訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000064M.jpg

『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)の翻訳であるが、翻訳に一部不備があるので修正している。(倭奴国)の存在は中国史籍の文章は当時、存在する国は記入するが無くなった国は空白としている。乍南乍東は文法から導かれる。

 倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國。

 倭人は帯方郡の東南の大海中に在り、山島に拠って邑落国家を為している。昔は百余国、漢代には朝見する者がおり、今は使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。

 從郡至倭、循海岸、水行歴韓國、乍南 (倭奴国) 、乍東到其北岸狗邪韓國、七千餘里。始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。

 帯方郡より倭に至るには、海岸に沿う、水行で歴韓国、南へ(倭奴国)、東へ北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、四方は四百余里ほど。土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。   堀貞雄の古代史・探訪館より


状況を添付



65管理人:2012/02/14(火) 04:11:03
Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野さん

さっそく情報ありがとうございます。特に引用の下記の箇所は行程を考える上で重要です。

帯方郡より倭に至るには、海岸に沿う、水行で歴韓国、南へ(倭奴国)、東へ北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。


陸路を使わずに沿岸航路をたどってます。これがおそらく当時の魏の船の航路方法なのでしょう。ただ海流に乗らないので手漕ぎで遅いわけです。沿岸に何度も立ち寄って数十日かけて狗耶韓国へと向かったのでしょう。

「一海を渡り、千余里」からすると、確かに船の速度から本来の距離をだいたい割り出してますね。
「船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。」を読むと、まだ対馬までは南北の観念は東西に逆転してないわけです。

次の壱岐についても同じで

「又南に一海を渡ること千余里、...一大國に至る。・・・竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。」

この場合も、南北は、松浦と対馬との間にある南北の観念で、まだ方位がここでも逆転してないわけですね。

「郡より女王國に至ること萬二千余里」も、

帯方郡から狗邪韓国までが七千余里+対馬まで1千余里+壱岐まで1千余里+松浦まで1千余里+伊都国まで500里+奴国(すなわち女王国の属国の北限の境界にある国)まで100里で、おおよそ1万2千里という意味だろうと感じます。ソ連のウラジオストク州からモスクワまでのような感じでしょう。

それとは別に女王国の都するところまでが陸行1ヶ月、水行10日かかったわけですね。
その間の属国のことを「以北」としているので、ここでもまだ南北の観念が見えます。


もちろん途中で陸路を通った可能性もあります。

ただ、そうすると船を乗り捨てなければならないわけでして、完全に現地人の案内に寄らないとたどり着けないことになるでしょう。多くの鏡や宝物を運ぶには、船が便利ですが、陸路を使う場合は、人手が必要です。

ともあれ「使訳(通訳を連れた使節)が通じるのは三十国。」ところを経由しないといけません。

同様に女王国への行程も、主に沿岸航路沿いに、使訳が通じる国を経由して、数十日かけて向かったものと感じます。

「乍南乍東」は、おおむねの意味で、かならずしもいつも同じ方角ではないといっているのでしょう。

【乍ち】たちまち 非常に短い時間の内に行われるようす。またたく間に。すぐに。 ある物事・行為が急に起こるようす。にわかに。 【乍ら】ながら 〜しつつ。二つの動作が平行して行われることを表す。


興味深いのは、投馬国と女王国については、「南」としか方角が記されてない点です。「乍南乍東」とは記さなかったんですね。だから、この両国の方位は、おおむね伊都国もしくは不彌国から「南」だった。

ただし、投馬国は船だけで20日かけて向かうのに対して、女王国は陸行で1月、加えて(もしくは)水行で10日かかる場所。その相違は地形的な条件が絡んでます。

確かに対馬について、「土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。」とあることを考慮すると、以前ご指摘いただいたとおり、他の諸国は、そこまではひどくない「道」であったと感じます。

この国の道だけがひどいので、こういう形でピックアップされているのでしょうね。

66秦野北斗:2012/02/14(火) 22:48:53
Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
管理人さんへのお返事です。

> 帯方郡から狗邪韓国までが七千余里+対馬まで1千余里+壱岐まで1千余里+松浦まで1千余里+伊都国まで500里+奴国(すなわち女王国の属国の北限の境界にある国)まで100里で、おおよそ1万2千里という意味だろうと感じます。ソ連のウラジオストク州からモスクワまでのような感じでしょう。

帯方郡から狗邪韓国まで1万2千里、壱岐から松浦は六百里しかないんです。1万2千里の意味は水行で歴韓国、歴韓国から陸行になる。歴韓国が基点で狗邪韓国までが7千里になる。後の5千里は暦韓国から帯方郡の陸路の距離です。魏志は海岸に2千里沿い。陸行で5千里(海岸に2千里+歴韓国から海岸3千里)になる。何か事情があった模様です。

> それとは別に女王国の都するところまでが陸行1ヶ月、水行10日かかったわけですね。

南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。

 南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。

『都する』をミヤコと読んでいませんか?、『女王之所』は『女王の所』でミヤコとは言っていない。これは、行程を読み解かないと読めない。『女王之所都、水行十日、陸行一月』を中国語を熟知した人でも『女王の都に至る』と訳している。この訳は間違いです。これじゃ一生かけてもたどり着かない。400年のなぞは理解できる。


67管理人:2012/02/15(水) 20:30:01
Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそく御返事ありがとうございます。

> 壱岐から松浦は六百里しかないんです。

私も秦野さんご紹介の地図をみながら、かなりアバウトな距離数値だと感じてました。
帯方から狗邪韓国まで7千余里という数値は、おそらく海沿いに回った距離ではなく、内陸の距離を示しているものと感じます。魏以前の時代から、すでにそこまでの距離は測量で確定していたことでしょう。それを陳寿が引用したのでしょうね。

たとえば漢書の朝鮮関連の記載に下記のようにあります。

「以故滿得兵威財物侵降其旁小邑 眞番・臨屯皆來服屬 方數千里」

すでにこの時点で、かなりまだアバウトですが、測量記載がありますね。

http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/shiki/chousen/gen.htm

同様に、ご指摘の「南至邪馬壹國、女王之所都」の「都」に関する記載についても、中国文献の記載の仕方を分析していくと、わかってくるかもしれません。上記の続きでこんな記載もあります。

「滿亡命 聚黨千餘人 魋結蠻夷服而東走出塞 渡水 居秦故空地上下鄣 稍役屬眞番・朝鮮蠻夷及故燕・齊亡命者王之 都王險」

「燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、?水(清川江)を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣(長城)を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城(王倹城とも)を都とした。」
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kochosen/kochosen4-eisichosen.htm

68秦野北斗:2012/02/15(水) 23:30:33
Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000068M.jpg

ぎし管理人さんへのお返事です。

燕王盧綰反、匈奴、滿亡命、聚黨千餘人、魋結蠻夷服而東出塞、渡?水、居秦故空地上下鄣、稍役屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡命者王之、都王險。

 燕王の盧綰(ロワン)が背き、匈奴に亡命すると、髷(まげ)を結い、蛮夷の衣服を着た満は千余の人々を連れて長城を出て東に逃れ、?水(清川江)を渡り、秦の時代の昔の空地に居を構えて鄣(長城)を出入し、真番に軽く属していた朝鮮蛮夷や、その地に暮らす昔の燕や斉からの亡命者らの王となり、王険城(王倹城とも)を都とした。


南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮、可七萬餘戸。

 南に邪馬壹国の女王の都に至るには、水行十日、陸行一ト月。官には伊支馬があり、次を彌馬升といい、その次が彌馬獲支、その次が奴佳鞮という。七万余戸ほどか。

上の2文書を比較します。翻訳には少し問題があるがおおむね理解できるので秦野も使用しています。
文中の『都』には名詞と副詞があります。ご存知でしょうね。

齊亡命者王之都、王險。斉からの亡命者らの王の都、王険城(王倹城とも)
女王之所、都水行十日、陸行一月。女王の所、都水行十日、陸行一ト月。

齊亡命者王之都と女王之所で都=所になる。女王之所、都・・は副詞と考えるのが自然です。


> 私も秦野さんご紹介の地図をみながら、かなりアバウトな距離数値だと感じてました。
> 帯方から狗邪韓国まで7千余里という数値は、おそらく海沿いに回った距離ではなく、内陸の距離を示しているものと感じます。魏以前の時代から、すでにそこまでの距離は測量で確定していたことでしょう。それを陳寿が引用したのでしょうね。

海沿いに回った距離は史籍の文中に2千里余り(行程)と記述があります。当時の港の名前も確定しています。言える事は、松浦ルートは存在しないのです。また、陳寿は壱岐(一支国)の大きさを測っています。距離数値は秦野距離で換算しています。添付





69案山子:2012/02/16(木) 14:19:24

>陳寿は壱岐(一支国)の大きさを測っています。

「對海【馬】國・・方可四百余里」
「一大國・・・方可三百里」
は、邑の「尊卑有大小」が記述されている。
「尊卑有大小」とは
清代段玉裁『?文解字注』に
「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」とあります。
「邑」を説文解字により解釈するなら、
「對海【馬】國」の「尊卑」は「矦」で「大小」は「方四百里」。
「一大國」の「尊卑」は「伯」で「大小」は「方三百里」。
となり、「方可四百余里」「方可三百余里」は実測数値ではないでしょう。










70秦野北斗:2012/02/16(木) 19:27:14
Re: 邑
案山子さんへのお返事です。

> >陳寿は壱岐(一支国)の大きさを測っています。
>
> 「對海【馬】國・・方可四百余里」
> 「一大國・・・方可三百里」
> は、邑の「尊卑有大小」が記述されている。
> 「尊卑有大小」とは
> 清代段玉裁『?文解字注』に
> 「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」とあります。
> 「邑」を説文解字により解釈するなら、
> 「對海【馬】國」の「尊卑」は「矦」で「大小」は「方四百里」。
> 「一大國」の「尊卑」は「伯」で「大小」は「方三百里」。
> となり、「方可四百余里」「方可三百余里」は実測数値ではないでしょう。

女王國東渡海・・・、では状況から陳寿は行ってない。文中に參問倭地と尋ねたとある。しかし、「對海【馬】國・・方可四百餘里」「一大國・・・方可三百餘里」では、それらしい文章はない。


女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、?齒國復在其東南、『船行一年可至。』參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

 女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や?歯国も在り、『船で行くこと一年で至るとか。』倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。


帯方郡より倭に至るには、海岸に沿って水行、韓国を経て、南へ行ったり、東へ行ったりして、北岸の狗邪韓国に到ること七千余里。初めて一海を渡り、千余里で対馬国に至る。そこの大官は卑狗、副は卑奴母離という。極めて険しい島に住み、『四方は四百余里ほど。』土地は山が険阻で、深い林が多く、道路は獣や鹿の小道(獣道)。千余戸あり、良田は無く、海産物を食べて自活しており、船で南北の市(物々交換の場)に出かけて、糴(てき=穀物を買い求める)する。


又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。『方可三百里、』多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。

また、南に一海を渡ること千余里、名を瀚海という、一大国に至る。官もまた卑狗、副は卑奴母離という。『四方は三百里ほど。』竹木の密林が多く、三千ほどの家があり、農地はあるが不足しており、耕作しても食べるには足らないので、また南北に物々交換に出かける。


「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」

この文章はなにを言っているのですか。訳すと、先の王制では尊卑(身分などが尊いことと卑しいこと)大小があり、? から公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の順に、大小は四方五百里、四方四百里・・・四方百里なり。? =王都でしょうか。領地分けでしょうか。尊卑には大官はないが?。



71秦野北斗:2012/02/16(木) 20:05:58
Re: 邑
案山子さんへのお返事です。

> 「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」とあります。
> 「邑」を説文解字により解釈するなら、
> 「對海【馬】國」の「尊卑」は「矦」で「大小」は「方四百里」。
> 「一大國」の「尊卑」は「伯」で「大小」は「方三百里」。
> となり、「方可四百余里」「方可三百余里」は実測数値ではないでしょう。

「先王之制。尊卑有大小。从?。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,方四百里,方三百里,方二百里,方百里也。」

尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,・・の領地を計算すると大きすぎるので、方四百里で九州ぐらいの大きさになる。「對海【馬】國」「一大國」は小島ですな。当時の公矦伯子男の領地がわかれば、
韓半島の倭奴国の地位がわかるかも。公爵・侯爵・伯爵クラスになるか。

秦野は驚きました。

72管理人:2012/02/16(木) 22:38:50
Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野北斗さんへのお返事です。

ご指摘のとおり、松浦までの距離の短さは確かに気になりますね。

> 海沿いに回った距離は史籍の文中に2千里余り(行程)と記述があります。当時の港の名前も確定しています。言える事は、松浦ルートは存在しないのです。また、陳寿は壱岐(一支国)の大きさを測っています。距離数値は秦野距離で換算しています。添付


おそらく狗邪韓国から対馬までの距離についてですが、対馬北部から南部まで陸行しているものと考えます。

同様に壱岐も南北に陸行してから、松浦(唐津方面)へと向かうので、両島の陸路の記載があるんですね。

とすると、距離としては、狗邪韓国から対馬の北端までの間の海の距離、そして対馬の南端から壱岐の北端までの距離、壱岐の南端から松浦の北端までの距離が記されていると看做すべきかもしれません。

それでも、やや距離差が大きいですけど、島の長さを含まない分、3つの距離差は少なくなります。

そうすると、やはり魏使は、毎回海路と陸行を、倭国側の船を借りて行き来したように見えますね。

それで松浦に寄ったかどうかですが、個人的には、松浦、つまりマツロ国は唐津の半島だと思うんです。

そこで伊都国を、その東南だといっているのが気になります。本来なら東にあたるはずですよね。


狗邪韓国、対馬、壱岐の方角についても、本来東南であるべきところを、南と記載したので、東であるべきところも、東南になってしまった、そういうふうにも見て取れます。

対馬で狂うんですよね。対馬に行くとわかるのですが、南北に長く伸びていて、北岸から見る(考える)韓国・壱岐と、南岸から見る(考える)韓国・壱岐とでは全然方角が異なるんです。

ところが、対馬という長い島を、短い小さな島だと勘違いすると、韓国・壱岐の方角がここで大きくずれてしまうのでしょう。

この辺の方角の狂いは、魏の使いの特有のミスだと思います。

それ以前に九州に入った漢・・系の測量集団はしっかり南北を理解してますし、おそらくは邪馬台国自身も南北の観念はしっかり理解していたはずです。理解していなかったのは魏使だけということになるでしょうか。

この辺の要素は、さらに詳しく抽出して、本来の方位を確認していく必要があるでしょう。

73秦野北斗:2012/02/17(金) 00:19:52
Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
管理人さんへのお返事です。

> とすると、距離としては、狗邪韓国から対馬の北端までの間の海の距離、そして対馬の南端から壱岐の北端までの距離、壱岐の南端から松浦の北端までの距離が記されていると看做すべきかもしれません。

おっしゃる通りです。行程で島内の100里未満は表記が無いんです。著書、徐福と邪馬台国で苦しめられました。著書では文章の欠落部を追加しています。結構、省略されていますよ。しかし、松浦にこだわると方位に矛盾がでますよ。上陸地は博多ですから・・。

志賀島(しかのしま)の金印との関係を無視ですな。
志賀島は、福岡県福岡市東区に所属する島。博多湾の北部に位置し、海の中道と陸続きである。
松浦は博多湾の南部方向で逆ですな・・。

> それ以前に九州に入った漢・・系の測量集団はしっかり南北を理解してますし、おそらくは邪馬台国自身も南北の観念はしっかり理解していたはずです。理解していなかったのは魏使だけということになるでしょうか。
>
> この辺の要素は、さらに詳しく抽出して、本来の方位を確認していく必要があるでしょう。

著書、徐福と邪馬台国で徐福が始皇帝の命で佐賀に来ている。この当時は北斗七星、(北極星)航海に使用、日の出の2方法で現在と変わらない。北前舟は北斗七星を使って航海をしている。徐福は始皇帝の命で日の出を追って2回航海している。魏志の測量は方位を使用。南、北は日の出を使ったと思われる。これが混在するので注意、見分ける方法は距離がでれば方位。距離が出なければ日の出でいいのでは。狗耶韓国は日の出の北、倭奴国は日の出の南、九州は南、奈良は北になる。
どうも、測量集団は方位磁石を使用したのでは、また、海上の距離も測定している。当時を知らない現代人は古代人を馬鹿にしているみたいです。

尚、三角縁神獣鏡は上が日の出の北、下が南になり、銘文は魏志倭人伝と同じ内容になっている。悲しいことに、銘文の翻訳に失敗している。


74管理人:2012/02/17(金) 22:08:27
Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
秦野北斗さんへのお返事です。

> おっしゃる通りです。行程で島内の100里未満は表記が無いんです。著書、徐福と邪馬台国で苦しめられました。著書では文章の欠落部を追加しています。結構、省略されていますよ。しかし、松浦にこだわると方位に矛盾がでますよ。上陸地は博多ですから・・。

特に対馬の南北間の行程の省略が大きいですね。対馬の長さを軽くみると、その後大きく方角が変わってしまうわけですが、案山子さんも引用されたように、「方百里」の測量記載は、かなりアバウトです。対馬はどうみても方形にはならないですから。本来なら「南北二百里」とか記されるべきところを、「方」としてしまっているところに、あまりこの島のことを詳しく理解してない感じが見て取れます。

松浦については、唐津の半島の先っぽですね。壱岐島には一番近いことは確かです。もっとも博多のほうが便利だとは思いますけど、どうだったんでしょうね。

興味深いのは、マツロ国に上陸してから、伊都国まで陸路を用いている件です。海路のほうが楽だとおもうのですが、どういうわけか陸行している。

マツロ国というのが、昔王がいたとの記載にあるとおり、ある程度女王国から独立した立場にあった可能性を感じてます。マツロ国の首都をあえて訪問しないといけないような理由があったのでしょうか。あえて訪問する代わりに、安全に陸路で送迎してもらうことができたのかもしれません。いつも最短距離を行けるというわけではなかったのでしょう。


>魏志の測量は方位を使用。南、北は日の出を使ったと思われる。これが混在するので注意、見分ける方法は距離がでれば方位。距離が出なければ日の出でいいのでは。狗耶韓国は日の出の北、倭奴国は日の出の南、九州は南、奈良は北になる。

確かに対馬・壱岐・松浦の方位が、ここまでいい加減だと、方位を何で測ったかが気になります。
伊都国にいたるまでの方位は対馬で狂って、東南を南と考えていた節がありますね。
ご指摘の日の出などアバウトな方位観念で旅した可能性はあります。

ただ個人的には、伊都→不彌、伊都→奴国の方位は間違ってないんです。過去の測量結果に基づく正確な情報をどこかで聞いて記載してます。ただ、投馬国と女王国の方位記載はまたアバウトな記載になっており、どのくらいずれているかは未知数です。距離と行程は魏志の記載にあるとおり、全部把握してあるけれど、省略しているとのことなんですね。

思うに海路を使うと方位観念がずれるのではないでしょうか。陸行の場合はしっかり方位を把握できますが、海の場合は、目印によって左右されますし、距離感覚がつかめないのでしょう。

> どうも、測量集団は方位磁石を使用したのでは、また、海上の距離も測定している。当時を知らない現代人は古代人を馬鹿にしているみたいです。
>

方位磁針を魏が使用していた件は会報でも記載したとおりですが、当時魏の時代になって、コンパスの記載が正式に出てくるようになります。すでに漢代から類似するものはあったのですが、実用化されたのは魏の時代で、特に軍事行動と関連して使用されたと見てます。

ローマでもそうですが、いつもコンパスが必要なのは、航海もしくは軍隊ですね。方角のわからないところに行く必要のない一般人は必要ないんです。


ただ方位磁針というのは、磁北の編年誤差があって、時代とともに最大15度程度真北からずれてしまうんです。時代経過による東西誤差でいれば最大で30度まで変化可能です。

そうすると、東西観念が大きくずれる可能性はあります。会報で記したとおり、奈良の古墳は磁北が時代によって大きく変化しているのですが、これは方位磁針の使用に頼ったせいだと解釈してます。それらをもたらしたのは魏の軍隊もしくは魏の使人たちでしょう。張氏も長く女王国にいましたからね。

ただ、魏の時代の磁北は東に15度ほどずれていたはずなんです。もしこの15度東を真北として測量したとすれば、南の女王国は九州南部よりさらに西にないといけないんですね。沖縄とか・・・。

この辺の地磁気編年がどの程度頼りになるかどうかとか、魏の時代にどの程度、軍隊や航海でコンパスが導入されたかは、今後の課題だろうと感じてます。


>三角縁神獣鏡は上が日の出の北、下が南になり、銘文は魏志倭人伝と同じ内容になっている。悲しいことに、銘文の翻訳に失敗している。

三角縁も、会報で記したとおり、方位磁針である指南魚を浮かべるための水がめだったと考えているわけですが、東西南北を、魏や倭がどう考えていたかは未知数です。西王母・東王父は東西を示しますね。漢代は南を重視しましたから、「左東王父」となるわけです。

彼らは方位磁針を見るときに、われわれと違って、北極星を背にして、南をみながら、聖なる方位だと考えたかもしれません。地図も南が上になっていたことでしょう。

ただ奈良の古墳をみると、主体であるはずの後円部を北や東にするケースが多く、南に向いているケースは少ないんですね。そこに漢代から引き継がれた方位観念が、すこし変化しているように感じるんです。






75秦野北斗:2012/02/17(金) 23:58:25
Re: 『三国志魏書』倭人伝の訳
管理人さんへのお返事です。

> 思うに海路を使うと方位観念がずれるのではないでしょうか。陸行の場合はしっかり方位を把握できますが、海の場合は、目印によって左右されますし、距離感覚がつかめないのでしょう。

方位には間違いは見当たりません。不彌國は「東行至不彌國百里」平塚川添遺跡になります。投馬国と女王国は「南至投馬國水行二十日」の文章の読み方です。

沖縄までに行くのは少なくとも半年はかかる。水行二十日では行けない。日数は魏志の文章にあります。現代の古代史の学者は古事記との関連性も無視している。女王国はアマテラス国を言っている、理解できないでしょうね。

> ただ奈良の古墳をみると、主体であるはずの後円部を北や東にするケースが多く、南に向いているケースは少ないんですね。そこに漢代から引き継がれた方位観念が、すこし変化しているように感じるんです。
>
皇帝は北にいますので北が上になります。オーストラリアなら南でしょう。後円部を北や東にするケースが多く、これは日の出の方向から北が定まるので、やっぱり北です。
>


76案山子:2012/02/18(土) 12:00:59
Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。

> 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、?齒國復在其東南、『船行一年可至。』參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
>
Ø女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や?歯国も在り、『船で行くこと一年で至るとか。』倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。

『女王国から四千余里。』の解釈は「去」を『さる』としていますね。
「去」は『行く』と解釈するのが正しいでしょう。
ですから、上記の起点は「侏儒國」で着点が「女王」です。
「去女王四千餘里」は『(侏儒國)より行く女王、四千餘里。』です。
「侏儒國」はフィリピン・ルソン島になるでしょう。
この「女王」とは「次有奴國 此女王境界所盡」の「女王」を刺しています。
又、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」の「女王國」とは
「自郡至女王國萬二千余里」の「女王國」です。「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」の位置は北海道です。


とりあえず。 

77案山子:2012/02/18(土) 12:47:16
Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。

Ø尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,・・の領地を計算すると大きすぎるので、方四百里で九州ぐらいの大きさになる。「對海【馬】國」「一大國」は小島ですな。

『方四百里で九州ぐらいの大きさになる。』の『四百里』を一辺『四百里』の正方形と解釈すればその面積は約三万ヘーホーキロになる。
が、『方四百里』とは『方里』が『400個』との解釈が正しいだろう。


今有田。 廣一里。 従一里。 問「為田幾何」。答曰「三頃七十五畝」。
案。゚此術「廣・従、里数相乗。得積里」。
方里之中`有三頃七十五畝。・・・・・九章算術
『方四百里』
一里=1800尺×24cm=432m
方一里=432m×432m÷1000000=0.186624平方キロ
方四百里=0.186624×400=74.6496平方キロ。

「方可四百余里」の「方可」は『差し渡し』なら、直径が四百里の領域を刺すことになる。
一里=1800尺=432m
四百里=432m×400÷1000=172.8km
その領域は、
(172.8km÷2)×((172.8km÷2)×π=24,927.863平方キロ。



78秦野北斗:2012/02/18(土) 14:14:15
Re: 邑
案山子さんへのお返事です。


『新唐書』日本伝に『日本は小国で、倭に併合された』の文章がある。咸亨元年(670年)に併合、魏志倭人伝(240年)に北海道はありえない。ところで倭国の大きさはご存知ですか。今の歴史家は誰も知らないはずですが?。

『新唐書』日本伝

 咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、國近日所出、以為名。『或云日本乃小國、為倭所并』、故冒其號。使者不以情、故疑焉。又妄夸其國都方數千里、南、西盡海、東、北限大山、其外即毛人云。

 咸亨元年(670年)、遣使が高麗平定を祝賀。後にやや夏音(漢語)を習得し、倭名を憎み、日本と改号した。使者が自ら言うには、国は日の出ずる所に近いので、国名と為した。あるいは、『日本は小国で、倭に併合された』故に、その号を冒すともいう。使者には情実がない故にこれを疑う。またその国都は四方数千里だと妄りに誇る、南と西は海に尽き、東と北は大山が限界となり、その外は、すなわち毛人という。


> 秦野北斗さんへのお返事です。
>
> > 女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、?齒國復在其東南、『船行一年可至。』參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。
> >
> Ø女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や?歯国も在り、『船で行くこと一年で至るとか。』倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。
>
> 『女王国から四千余里。』の解釈は「去」を『さる』としていますね。
> 「去」は『行く』と解釈するのが正しいでしょう。
> ですから、上記の起点は「侏儒國」で着点が「女王」です。
> 「去女王四千餘里」は『(侏儒國)より行く女王、四千餘里。』です。
> 「侏儒國」はフィリピン・ルソン島になるでしょう。
> この「女王」とは「次有奴國 此女王境界所盡」の「女王」を刺しています。
> 又、「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」の「女王國」とは
> 「自郡至女王國萬二千余里」の「女王國」です。「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」の位置は北海道です。





79秦野北斗:2012/02/18(土) 14:34:35
Re: 邑
案山子さんへのお返事です。

魏志倭人伝は単里になる。『四百里』を一辺『四百里』の正方形は里と考えます。
中国史籍は単里になっている。

案山子さんの一里=1800尺×24cm=432mで計算すると
方四百里は一辺:400×432m=172800=172.8km
九州:162km×240km

古田の単里=77m
方四百里は一辺:400×77m=30800=30.8km
対馬(厳原):24km×25km

伯爵で九州の領地は、これは1つの国ですな。伯爵の領地としては対馬(厳原):24km×25kmぐらいが妥当でしょう。中国史籍に従い単里に訂正です。注、古田の単里=77mは間違っていますので注意してください。実際もっと小さい。


尚、領域を円で示されてますが、魏志倭人伝の文書には四方、方位+直線距離で記されている。円はありません。


> Ø尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里,・・の領地を計算すると大きすぎるので、方四百里で九州ぐらいの大きさになる。「對海【馬】國」「一大國」は小島ですな。
>
> 『方四百里で九州ぐらいの大きさになる。』の『四百里』を一辺『四百里』の正方形と解釈すればその面積は約三万ヘーホーキロになる。
> が、『方四百里』とは『方里』が『400個』との解釈が正しいだろう。
>
>
> 今有田。 廣一里。 従一里。 問「為田幾何」。答曰「三頃七十五畝」。
> 案。゚此術「廣・従、里数相乗。得積里」。
> 方里之中`有三頃七十五畝。・・・・・九章算術
> 『方四百里』
> 一里=1800尺×24cm=432m
> 方一里=432m×432m÷1000000=0.186624平方キロ
> 方四百里=0.186624×400=74.6496平方キロ。
>
> 「方可四百余里」の「方可」は『差し渡し』なら、直径が四百里の領域を刺すことになる。
> 一里=1800尺=432m
> 四百里=432m×400÷1000=172.8km
> その領域は、
> (172.8km÷2)×((172.8km÷2)×π=24,927.863平方キロ。
>


80管理人:2012/02/18(土) 21:50:58
Re: 邑
秦野北斗さん、案山子さんへのお返事です。

そう、方里の問題がありましたね!
面積か、距離か・・・。

個人的には、陸行で示された九州諸国の距離は、76・5メートルで測量されたことを確認してます。

ただ、その測量を行ったのは、弥生時代中期に入った集団のもので、魏の使者が計ったものではありません。魏の使者の多くは文官ですから、測量自体することは無理だったろうと感じます。どこからか過去に計った数値を聞いたのでしょう。ただその後、魏の軍隊が入ったとしたら、測量の可能性はあったと感じます。


同様に「方数百里」の記載も、彼らが計ったわけではなく、どこからか聞いたものだろうと感じます。

その場合は、「方」の用法も、過去のおそらくは漢代の書き方を参考にすべきかもしれません。

対馬という島をよく調べていくと、南北の長さが50キロ近くあるのに比して、東西が5キロくらいしかないんですね。

また壱岐島との比較でも面積は4倍くらい違うわけです。

ただ魏志では、
「對海【馬】國・・方可四百余里」
「一大國・・・方可三百里」


これも対馬にいくとわかるのですが、対馬というのは、2つの島なんですね。途中で橋を渡ります。

名前の意味自体は魏志の時代から対になった二つの島という意味なのでしょう。

対馬の記載には、船に乗って南北を行き来する記載があるのですが、壱岐島には南北にはいくものの、船に乗る件はでてきません。対馬が2つの島で船に乗らないと両方いけないからでしょう。壱岐は丸い島ですからね。

対馬国の都があった島だけ測量した可能性も考慮すべきではないでしょうか。

それで案山子さん注目の「方可」の語ですが、仮に方形区画の斜線を意味するとしたら、さらに壱岐島と対馬のどちらかの島の測量値が近くなりそうです。

対馬の南北の長さは、壱岐島までの間の海の長さに等しいくらいで、いわゆる1千里もあるわけです。
魏志では、この1千里を省略してしまったのでありまして、明らかにおかしいですね。

もともと、南の島、あるいは北の島は、距離計算から除外して考えていたので、そういう省略が起きてしまったと考えることがでるのではないでしょか。

魏の使いはいつもどちらかの島にしか行ってないんです。
あえて対馬のところで「土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。」と記しているのも、陸行が困難であるから、船で直接、壱岐に行くように諭しているようにも見えます。



81秦野北斗:2012/02/18(土) 22:34:32
Re: 邑
管理人さんへのお返事です。

陳寿は皇帝の使いで邪馬台国に来たと考えると、護衛兵と共に来たと考えるべきです。
観光ツアーで行ってきました。現地の人が何里と言っていました。では、『隋書』には距離を知らないと書いてあるぞ?。どちらかが嘘を言っている。陳寿は茶を濁したのでしょうか。陳寿は茶を濁す様なら死罪でしょう。『隋書』を見る限り、陳寿は最低でも海南島まで行っている。文章はよく描写できています。

陳 寿(ちん じゅ、建興11年(233年) - 元康7年(297年))は、三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。巴西郡安漢の人。俗説では、蜀漢の将であった陳式の末裔と言われているが根拠は無い。甥に陳符・陳莅(兄の子)・陳階(弟の子)。『三国志』の著者である。自身の伝は『晋書』にある。

『隋書』倭国伝

 倭國、在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海之中依山島而居。魏時、譯通中國、三十餘國、皆自稱王。夷人不知里數、但計以日。其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里、在會稽之東、與儋耳相近。

 倭国は、百済や新羅の東南に在り、水陸を越えること三千里、大海中の山島に依って居する。三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。
 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。その地形は東高西低。都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。古伝承では楽浪郡の境および帯方郡から一万二千里、会稽の東に在り、儋耳と相似するという。

> ただ、その測量を行ったのは、弥生時代中期に入った集団のもので、魏の使者が計ったものではありません。魏の使者の多くは文官ですから、測量自体することは無理だったろうと感じます。どこからか過去に計った数値を聞いたのでしょう。ただその後、魏の軍隊が入ったとしたら、測量の可能性はあったと感じます。

>
> 同様に「方数百里」の記載も、彼らが計ったわけではなく、どこからか聞いたものだろうと感じます。
>
> その場合は、「方」の用法も、過去のおそらくは漢代の書き方を参考にすべきかもしれません。
>
> 対馬という島をよく調べていくと、南北の長さが50キロ近くあるのに比して、東西が5キロくらいしかないんですね。
>
> また壱岐島との比較でも面積は4倍くらい違うわけです。
>
> ただ魏志では、
> 「對海【馬】國・・方可四百余里」
>??「一大國・・・方可三百里」
>
>
> これも対馬にいくとわかるのですが、対馬というのは、2つの島なんですね。途中で橋を渡ります。
>
> 名前の意味自体は魏志の時代から対になった二つの島という意味なのでしょう。
>
> 対馬の記載には、船に乗って南北を行き来する記載があるのですが、壱岐島には南北にはいくものの、船に乗る件はでてきません。対馬が2つの島で船に乗らないと両方いけないからでしょう。壱岐は丸い島ですからね。
>
> 対馬国の都があった島だけ測量した可能性も考慮すべきではないでしょうか。
>
> それで案山子さん注目の「方可」の語ですが、仮に方形区画の斜線を意味するとしたら、さらに壱岐島と対馬のどちらかの島の測量値が近くなりそうです。
>
> 対馬の南北の長さは、壱岐島までの間の海の長さに等しいくらいで、いわゆる1千里もあるわけです。
> 魏志では、この1千里を省略してしまったのでありまして、明らかにおかしいですね。
>
> もともと、南の島、あるいは北の島は、距離計算から除外して考えていたので、そういう省略が起きてしまったと考えることがでるのではないでしょか。
>
> 魏の使いはいつもどちらかの島にしか行ってないんです。
> あえて対馬のところで「土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。」と記しているのも、陸行が困難であるから、船で直接、壱岐に行くように諭しているようにも見えます。
>
>

82管理人:2012/02/18(土) 23:05:53
Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。

さっそく情報ありがとうございます。

「三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。」


随書のこの記載は面白いですね。女王国に属しているのにもかかわらず、各国は王と自称したとあることは、いわゆる倭国がかなり緩やかな連合国だったことを意味してます。ここの部分は、魏志とは別の記録を引用してますね。しかし同じくらい古い倭について記した文献。魏志は省略されているとの秦野さんの意見と関連するかもしれません。

ただ、この里数を知らないので日数で距離を示すという記載は、7世紀当時のもので、もはや中国式の測量技術も廃れ忘れられたころの話かと感じます。しかし魏・漢の時代はしっかり把握していたと考えてます。

この隋書の記事も、倭人に距離つまり日数をあえて尋ねているんですね。自分ではもはや計ってません。

でも、魏使は多少は簡易的な測量をした可能性はあります。方位とか日数とかですね。
しかし正確な方位に基づく面積の測量は、これは人手も半端ではないですし、できる時期も限られてきます。精度の高い里数77メートルとかは、倭人との大掛かりな協力体制、あるいは過去に倭にやってきた中国人?の測量結果に頼らざるを得なかったという感じがします。

83秦野北斗:2012/02/19(日) 00:39:24
Re: 邑
管理人さんへのお返事です。

鋭い、おっしゃる通り、倭人も単里で測定しています。おまけに中国語も話しています。『三国志魏書』倭人伝に記録があります。当時の倭人は距離を知り尽くし、1月で歩ける距離を知っていたのが現実の様です。これから言える事は倭人の行動範囲は現代人のスケールを遥かに超えたものと考えるべきです。倭人伝に『船で行くこと一年で至るとか。』一年の航行を可能としている。航行距離は大きいものではない(特定済みです)。単里は歴史が古く紀元前2万年ぐらいに定められたものらしい。里数77メートルは間違っている。神話に出てくる。本来、歴史は連続するものです。古事記のアマテラス(女王)、大国主の国譲り、スサノオ、神武天皇、神功皇后。これらを考察に入れなければ・・・。そう深刻に考えなくてもいい、魏志倭人伝の女王国は古事記の初代アマテラス(女王)を指している。難解ですか。


『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)

女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、?齒國復在其東南、『船行一年可至』。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。

 女王国の東に海を渡ること千余里、また国がある。いずれも倭人である。その南に侏儒(こびと)国が在り、身長は三、四尺、女王国から四千余里。また、その東南に裸国や?歯国も在り、『船で行くこと一年で至るとか。』倭の地と比較して訊いてみると、絶海の中央の島の上に在り、隔絶あるいは連結し、周囲を旋回すること五千余里ほど。


> 「三国魏の時代、通訳を伴って中国と通じたのは三十余国。皆が王を自称した。東夷の人は里数(距離)を知らない、ただ日を以って計っている。 その国の境は東西に五カ月、南北に三カ月の行程で、各々が海に至る。」
>
>
> 随書のこの記載は面白いですね。女王国に属しているのにもかかわらず、各国は王と自称したとあることは、いわゆる倭国がかなり緩やかな連合国だったことを意味してます。ここの部分は、魏志とは別の記録を引用してますね。しかし同じくらい古い倭について記した文献。魏志は省略されているとの秦野さんの意見と関連するかもしれません。
>
> ただ、この里数を知らないので日数で距離を示すという記載は、7世紀当時のもので、もはや中国式の測量技術も廃れ忘れられたころの話かと感じます。しかし魏・漢の時代はしっかり把握していたと考えてます。
>
> この隋書の記事も、倭人に距離つまり日数をあえて尋ねているんですね。自分ではもはや計ってません。
>
> でも、魏使は多少は簡易的な測量をした可能性はあります。方位とか日数とかですね。
> しかし正確な方位に基づく面積の測量は、これは人手も半端ではないですし、できる時期も限られてきます。精度の高い里数77メートルとかは、倭人との大掛かりな協力体制、あるいは過去に倭にやってきた中国人?の測量結果に頼らざるを得なかったという感じがします。

84案山子:2012/02/19(日) 13:39:00
Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。

>ところで倭国の大きさはご存知ですか。今の歴史家は誰も知らないはずですが

「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里」の行程は、
洛陽⇒長垣→威海市(迄715.978km)→沙里院(迄337.781km)→済州島(迄561.657km)→台湾満州郷(迄 1,392.369 km)

長垣から台湾満州郷迄、約3,007.785km≒六千九百六十二里≒七千余里。

「其北岸狗邪韓國」とある「狗邪韓國」の領域の南端が現・台湾満州郷で
北端は「会稽東治【冶】之東」、所謂北緯26度より南の宮古島迄。


「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」の「周旋可五千余里」の「可」は差し渡しであるから、
「倭地」の一方の端は、「狗邪韓國」の領域である現・宮古島と「会稽東治【冶】之東」との境界で、他の一端は「自郡至女王國萬二千余里」である北緯39度の現・平泉である。(平泉を中心とした直径2160km(五千里)の円を描くとその弧は宮古島をかする。)

倭地の「周旋可五千余里」内、にある、女王国と倭国。
女王国は、「会稽東治【冶】之東」・現沖縄本島から北緯39度の現・平泉迄。
倭国は「会稽之東」、所謂北緯30度の種屋久島から北緯39度の現・平泉迄。





85案山子:2012/02/19(日) 14:50:00
Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。

> 魏志倭人伝は単里になる。『四百里』を一辺『四百里』の正方形は里と考えます。
> 中国史籍は単里になっている。
>
>案山子さんの一里=1800尺×24cm=432mで計算すると
>方四百里は一辺:400×432m=172800=172.8km
>九州:162km×240km

案山子は、方里の解釈の根拠を九章算術の方里においています。
方里とは 「廣・一里、従一里 」ですから、(1800尺×24cm)の二乗です。
方里400個の集合面積が「方四百里」です。
「方可四百里」という解釈は全く別解釈です。
「可」は差し渡しですから、「方可四百里」とは直径400里の円に名依存する正方形の対角線に相当するでしょう。
「方可四百里」に相当する面積は、
一辺が122.188kmになりますので、1492.907平方キロになりますが、
「方可四百里」は面積を記述したものではありません。
「對海【馬】國」の両端の差し渡し距離です。
「方可四百里」の國邑は列島では沖縄本島以外に存在しません。
故に、「對海【馬】國」とは沖縄本島を刺します。

とりあえず。



86秦野北斗:2012/02/19(日) 17:24:16
Re: 邑
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000087M.jpg

案山子さんへのお返事です。

沖縄本島に1492.907平方キロの円をかきました。こんなものですか。
何か、理解できない。地図から半分は海です?

沖縄の全長は約102Km

1492.907平方キロ=3.14×r×r
r=21.8km


> 案山子は、方里の解釈の根拠を九章算術の方里においています。
> 方里とは 「廣・一里、従一里 」ですから、(1800尺×24cm)の二乗です。
> 方里400個の集合面積が「方四百里」です。
> 「方可四百里」という解釈は全く別解釈です。
> 「可」は差し渡しですから、「方可四百里」とは直径400里の円に名依存する正方形の対角線に相当するでしょう。
> 「方可四百里」に相当する面積は、
> 一辺が122.188kmになりますので、1492.907平方キロになりますが、
> 「方可四百里」は面積を記述したものではありません。
> 「對海【馬】國」の両端の差し渡し距離です。
> 「方可四百里」の國邑は列島では沖縄本島以外に存在しません。
> 故に、「對海【馬】國」とは沖縄本島を刺します。
>
> とりあえず。
>
>



87秦野北斗:2012/02/19(日) 17:55:00
Re: 邑
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000088M.jpg

案山子さんへのお返事です。


秦野は頭が悪いのか、理解できない。案山子説を地図で表記しました。

文中で出発地が洛陽⇒長垣→威海市・・・ですが、本文は帯方郡になっている。

距離ですが一般には単里ですが里になっている。根拠があるのですか。

韓半島が女王国になる。誰が神武天皇か?。

洛陽  長垣 218km
長垣  威海市 690km
威海市 沙里院 289km
沙里院 済州島  690km
済州島 台湾満州郷 1370km
 長垣から台湾満州郷迄  3039km   里:434m


> >ところで倭国の大きさはご存知ですか。今の歴史家は誰も知らないはずですが
>
> 「從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國 七千余里」の行程は、
> 洛陽⇒長垣→威海市(迄715.978km)→沙里院(迄337.781km)→済州島(迄561.657km)→台湾満州郷(迄 1,392.369 km)
>
> 長垣から台湾満州郷迄、約3,007.785km≒六千九百六十二里≒七千余里。
>
> 「其北岸狗邪韓國」とある「狗邪韓國」の領域の南端が現・台湾満州郷で
> 北端は「会稽東治【冶】之東」、所謂北緯26度より南の宮古島迄。
>
>
> 「參問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周旋可五千余里」の「周旋可五千余里」の「可」は差し渡しであるから、
> 「倭地」の一方の端は、「狗邪韓國」の領域である現・宮古島と「会稽東治【冶】之東」との境界で、他の一端は「自郡至女王國萬二千余里」である北緯39度の現・平泉である。(平泉を中心とした直径2160km(五千里)の円を描くとその弧は宮古島をかする。)
>
> 倭地の「周旋可五千余里」内、にある、女王国と倭国。
> 女王国は、「会稽東治【冶】之東」・現沖縄本島から北緯39度の現・平泉迄。
> 倭国は「会稽之東」、所謂北緯30度の種屋久島から北緯39度の現・平泉迄。
>
>
>
>



88案山子:2012/02/20(月) 11:45:56
Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。

> 沖縄本島に1492.907平方キロの円をかきました。こんなものですか。

大変失礼致しました。1492.907平方キロは14,929.07平方キロの書き間違いです。

> 何か、理解できない。地図から半分は海です?
>
「方可四百里」は面積を記述したものではありません。
對海【馬】國の差し渡し距離です。
四百里は≒432km×0.4=172.8kmになります。
糸満から沖永良部迄178.618 kmですから

「對海【馬】國」の差し渡しは、現沖縄本島・糸満から沖永良部島迄ということになります。

魏尺・一尺の原器が3点ほど出土していますが、いずれも一尺約24cm前。
魏尺から追うと、一里=1800尺 一尺=24cm 一里=432m。

画像地図、有難うございます。




89案山子:2012/02/20(月) 12:34:02
Re: 邑
秦野北斗さんへのお返事です。

> 文中で出発地が洛陽⇒長垣→威海市・・・ですが、本文は帯方郡になっている。
>
「從郡至倭」並びに「自郡至女王國萬二千余里」の「郡」を「帯方郡」とするのは、誤りでしょう。
清代陳昌治刻本『?文解字』
從:隨行也。从辵从,从亦聲。慈用切
清代段玉裁『?文解字注』
隨行也。以从辵。故云隨行。齊風。並驅從兩肩兮。傳曰。從,逐也。逐亦隨也。釋詁曰。從,自也。其引伸之義也。又引伸訓順。春秋經從祀先公。左傳曰順祀先公。是從訓順也。

清代陳昌治刻本『?文解字』
自:鼻也。象鼻形。凡自之屬皆从自。棹,古文自。疾二切
清代段玉裁『?文解字注』
鼻也。象鼻形。此以鼻訓自。而又曰象鼻形。

王部曰。自讀若鼻。今俗以作始生子爲鼻子是。

> 距離ですが一般には単里ですが里になっている。根拠があるのですか。
>
魏尺の原器が出土していますがいずれも一尺は約24cm前です。

> 韓半島が女王国になる。誰が神武天皇か?。
>
意味が解りません。

> 洛陽  長垣 218km
> 長垣  威海市 690km
> 威海市 沙里院 289km
> 沙里院 済州島  690km
> 済州島 台湾満州郷 1370km
>  長垣から台湾満州郷迄  3039km   里:434m
>


90案山子:2012/02/20(月) 14:30:51
千余里
地平線からの北極星の角度が緯度とほぼ同じであることが知られていたため、
緯度を計測することは比較的容易であった。
さて、会稽での地平線と北極星の角度はほぼ30度、又、
会稽東冶が存在した福州市での地平線と北極星の角度は26度。
会稽の北緯は30度で会稽東冶の北緯26度その緯度差は4度で
二点間は4度×111km=444km。
千里は約432kmで会稽〜会稽東冶間の距離にほぼ一致する。
故に
会稽・会稽東冶の東に当たる、口之島と糸満市間の緯度差は千余里である。
会稽東冶の東に当たる、糸満市から緯度的に4度南下した北緯22度が
台湾・満州郷に当り、会稽の東に当たる口之島から緯度的に千余里(432km)北上した地は北緯34度の下関にあたる。
北緯34度から緯度的に4度北上した北緯38度は、帶方(沙里院)の東にほぼ一致する。
故に
始度一海千余里 至對海【馬】國
 又南渡一海千余里名曰瀚海 至一大國
又渡一海千余里 至末廬國
の至對海【馬】國は沖縄、一大國は種屋久島で末廬國は下関にあたる。




91秦野北斗:2012/02/20(月) 18:52:48
Re: 千余里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000092M.jpg

案山子さんへのお返事です。

案山子説には無理がある。

韓半島には馬韓があるが、以下の文章の説明ができますか。

案山子説で地図をかくと添付になる。倭国も馬韓に含まれる、ありえない。

 『後漢書』馬韓伝

 韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。凡七十八國、伯濟是其一國焉。大者萬餘戸、小者數千家、各在山海?、地合方四千餘里、東西以海為限、皆古之辰國也。馬韓最大、共立其種為辰王、都目支國、盡王三韓之地。其諸國王先皆是馬韓種人焉。

 韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰という。馬韓は西に在り、五十四カ国、その北に楽浪、南に倭と接する。辰韓は東に在り、十有二国、その北に濊貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また十有二国、その南はまた倭と接する。およそ七十八国、伯済はその一国である。大国は万余戸、小国は数千家、各々に山海の間に在り、土地は合計四千余里、東西は海が限界で、いずれも昔の辰国である。馬韓が最大、その苗裔を辰王として共立し、都は目支国、三韓の地の大王である。そこの諸国王の先祖は皆、馬韓の血族である。

「韓は帯方郡の南、東西は海をもって限りと為し、南は倭と接している。広さはおよそ四千里四方。三つの国があり、一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁韓という。辰韓は昔の辰国である。(魏志韓伝)」 辰国の辰は東南を表し、朝鮮半島東南の国という意味のようです。

秦野のHP:秦野北斗の古代史に解答があります。






92管理人:2012/02/20(月) 20:48:23
Re: 千余里
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000093M.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000093_2M.jpg

http://ja.wikipedia.org/wiki/会稽郡

http://



93秦野北斗:2012/02/20(月) 21:40:31
Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。

魏志倭人伝の会稽東治は上海になります。内容は単純で海南島と相似であると書いてある。要約すると韓国南部と九州が海南島に相似する。古代史の専門家はまともに理解しない、困った人達です。

> もうひとつ気になるが、会稽・東治の位置です。
>
> 計其道里當在会稽東冶之東

ストーンサークルは魏志倭人伝より遥か昔の話しになります。測量技術は現在より進んでいたと思われる。ストーンサークルは世界各地に有るといってよい。聖書の天地創造より少し現代よりでしょうか。まあ、邪馬台国とは関係はありませんな。

> この手のストーンサークルは太陽観測と関係があるといわれてますね。
>
> 同じく楯築の弧帯文石あたりとともに、台湾ルートでの邪馬台国への文化・測量技術の伝来も、最近考えはじめているところです。


94案山子:2012/02/21(火) 13:08:51
Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。

> もうひとつ気になるが、会稽・東治の位置です。
>
> 計其道里當在会稽東冶之東
> http://ja.wikipedia.org/wiki/会稽郡
>
計其道里當在会稽東冶之東
の会稽東冶は、
http://ja.wikipedia.org/wiki/冶県
で、
遺跡は↓
http://heartland.geocities.jp/zae06141/fukusyuu.html

会稽東冶之東は北緯26度の沖縄。

> 緯度的には、奄美大島と鹿児島の間くらいになるはずです。
>
は、会稽で越、呉の国都があった所。
越は、会稽東冶に、呉は建康へ国都をうつしている。


建康は北緯32度03分37秒で西都市(32度06分31秒)と一致し、

会稽山は、北緯35度34分27秒で出雲大社(北緯35度24分07秒)とほぼ同緯度。


95案山子:2012/02/21(火) 13:17:17
Re: 千余里
秦野北斗さんへのお返事です。

>
> 案山子説には無理がある。
>
> 韓半島には馬韓があるが、以下の文章の説明ができますか。
>
> 案山子説で地図をかくと添付になる。倭国も馬韓に含まれる、ありえない。
>
>  『後漢書』馬韓伝
>
>  韓有三種:一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁辰。・・・・
>?? 地合方四千餘里、

「地合方四千餘里」の面積は一辺が四千里ではありません。
「地合方四千餘里」とは、縦・横一里の正方形、4000個に相当する面積です。
ですから、「地合方四千餘里」を平方キロに換算すると、
1800尺×24cmの二乗で0.432km×0.42km×4000=746.496平方キロ
に、成ります。



96案山子:2012/02/21(火) 13:27:45
お願い
秦野北斗さん

恐れい入りますが、
台湾から北緯39度までを時計方向に90度反転させた地図をUPして頂けるとありがたいのですが。

宜しくお願い致します。



97案山子:2012/02/21(火) 14:07:14
Re: 千余里
管理人さんへのお返事です。

> 同じく楯築の弧帯文石あたりとともに、台湾ルートでの邪馬台国への文化・測量技術の伝来も、最近考えはじめているところです。
>

翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國

 「魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也 自帯方至女國 万二千餘里 」

の「自帯方至女國」の起点は「帯方」ですね。
「帯方」から大陸へ、大陸から台湾そして女國=倭国ですね。
「自帯方至女國」という記述は韓国を経由していません。



98秦野北斗:2012/02/21(火) 18:30:26
Re: お願い
https://img.shitaraba.net/migrate1/8220.toraijin/0000099M.jpg

案山子さんへのお返事です。

> 台湾から北緯39度までを時計方向に90度反転させた地図をUPして頂けるとありがたいのですが。
>
> 宜しくお願い致します。
>
>



99秦野北斗:2012/02/21(火) 18:59:07
Re: 千余里
案山子さんへのお返事です。



自帯方至女國」帯方から女國に至る。万二千餘里。これはもろに韓国です。

帯方郡から倭国に至るには水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する(「従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國七千餘里」)。



>??翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國
>
>  「魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也 自帯方至女國 万二千餘里 」
>
> の「自帯方至女國」の起点は「帯方」ですね。
> 「帯方」から大陸へ、大陸から台湾そして女國=倭国ですね。
> 「自帯方至女國」という記述は韓国を経由していません。
>



100管理人:2012/02/21(火) 22:46:39
Re: 千余里
案山子さん、秦野さん

さっそくお返事ありがとうございます。

> 翰苑 卷第卅 蕃夷部 より 倭國
>
>  「魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰拘右智卑狗 不属女王也 自帯方至女國 万二千餘里 」
>

この唐代の文書はおもしろいですね。「拘右智卑狗」と記しており、「ククチヒコ」ではなく「キユウチヒコ」と読ませていることがわかります。「ク」ではなく「キュウ」なんですね。この差は個人的に大きな意味を感じてます。

「女男子爲王」とあるのも、魏志の「男王ヒミクコ」だけの記載から進化しており、魏志と別の文献があったのではないかと感じます。

先日の文献『隋書』倭国伝で、女王国だけではなく、属国である30余国の「諸王」も、それぞれ王を自称しているとの記載も、魏志から「進化」しているケースでした。

魏の時代も、女王ヒミコが死んだのちに、イヨが就くまでの間、一時諸国がバラバラになっていた時代があり、あるいはこの時代に諸王が、女王国同様に魏に同時に朝貢等をした可能性もあるでしょうし、その記載がどこか魏志以外の文献にあった可能性も感じます。


当然、狗奴国も、どこかに朝貢したかもしれませんし、王の変遷もあったかもしれません。狗奴国がイヨの時代以降もなおまだ存在し続けた可能性も感じますよね。

また、90度反転させて図を見ると、いろいろ考えさせられます。

呉から倭に向かおうとするならば、確かに朝鮮半島よりも、台湾、琉球経由で行こうとするだろうこともよくわかりますし、DNAの流れがそれを裏付けているようです。

あと楯築古墳の石柱の件は、問題は墳丘の上にあることなんですね。そばだったなら私も縄文ストーンサークルで処理したんですけどね・・。




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