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歴史掲示板

10307管理人:2020/03/26(木) 02:21:59
高良山北の古墳状地形
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まず、昨晩の夔鳳鏡を出土した古墳を結ぶ方位ラインを一部修正しました。昨晩の投稿図を新しいものに入れ替えておいたので、ご確認ください。

訂正箇所としては、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を出土した日田ダンワラ古墳⇔(誤・楯築墳丘墓→正・七つぐろ古墳)⇔一之宮神社古墳となります。赤ラインでそのラインを示しておきました。

その七つぐろ古墳は銅製、一之宮神社古墳は鉄製の夔鳳鏡を出土しているので、日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が夔鳳鏡と一緒に取得(賜与)・分配されていたことが、このことから一層明らかにしうるでしょう。

そこで、また昨晩最後に触れた、夔鳳鏡を出土した十三塚遺跡と金銀錯嵌珠龍文鉄鏡を出土した日田ダンワラ古墳(そばに巨大古墳状地形がある)を結ぶ方位ライン上にある高良山北部の古墳状地形について調べを進めていますが、この古墳状地形の位置は、昨晩もお話したように、十三塚遺跡とダンワラ古墳から2:3の位置にあること等から、測量拠点として設置されたことを考えますが、その古墳状地形の航空写真は図1のとなります。

また図2の上図はその古墳状地形の測量図と、この古墳状地形の東方に位置する弥生時代末期の高地性集落の白岩遺跡、さらに古墳時代前期の箸墓の測量図を比較したものです。

こうみると、白岩遺跡等にみられる左右不均等なバチ型の前方部(右か左に大きくバチが開く)や、初期の前方後円墳にみられる多角形状の後円部をこの古墳状地形が有していることがわかります。

また図2の下図はこの古墳状地形の断面図で、箸墓のそれと比較したものですが、こうみると箸墓と同様な後円部を持つように見えます。左右均等の円墳状であることは、その方格(黒線)をみていただくと理解できるでしょう。

その前方部は山の尾根を流用する初期の前方後円墳の形をしており、箸墓のそれとはことなりますが、ただその前方部の尾根の切れ目の位置が、図のように箸墓のサイズと同じ270m前後で切れ目があり、後円部の長さも同様にほぼ同じで120〜150mとみられること、そしてその高さも30〜40m前後であることも近似するように見受けられます。

したがって、後代の箸墓・纏向型の規格に沿っている可能性がありますが、先のように形状自体は高地性集落時代の不均等な形状をしていることからみて、この古墳状地形のほうが、定型化した後の纏向型前方後円墳より古いのではないでしょうか。

ライン面で接続する日田のダンワラ古墳の上にある巨大古墳状地形も同様な左右不均等な形状をしていることは、先日もお話したとおりです。

そして、魏の時代のものとされる金銀錯嵌珠龍文鉄鏡や、2世紀後半〜の夔鳳鏡がこのライン上の古墳から出土していることからみて、2世紀後半〜3世紀中葉までの間にこの古墳状地形が造営された可能性が高いでしょう。

さらにこのラインと平行関係にある与止日女神社⇔吉野ヶ里遺跡⇔安国寺甕棺墓群において、その与止日女神社に関わる豊姫を、女王・台与とみなせるならば、3世紀中葉あたりの造営と考えうるでしょう。その場合も箸墓よりは古く、夔鳳鏡を出土する桜井茶臼山あたりと同年代となるかもしれません。

あと図3のように、この古墳状地形は祇園山古墳⇔鷲尾岳(大社歴代宗主墓)⇔奥社(武内宿禰墓?)を結ぶ20度偏角の方位ラインと関連づけうることがあり、すなわち、祇園山古墳⇔古墳状地形ラインの偏角20度偏角となり、また鷲尾岳⇔古墳状地形の偏角が45度となります、図の方格(黒線)上の交点に位置してきますので、やはり意図的にこの角度・位置にこの古墳状地形の後円部が設置されたことが明らかになります。

すでに祇園山古墳はその60体にも及ぶ殉葬の痕跡から、侍女百人が殉葬されたと記載される卑弥呼の墓とも指摘されているところで、その祇園山と同様な方墳状の鷲尾岳(歴代宗主墓)、および武内宿禰墓ともされる奥社の古墳状地形も同時代のものであろうことは以前指摘したとおりです。

そこで、この3者(ライン)と、今回の北部の古墳状地形のどちらが古いのか?が問題となるのですが、鷲尾岳(歴代宗主墓)の真北に横隈山遺跡があり、そこに5世紀中ごろとされる帆立貝型の前方後円墳がありますがここは弥生遺跡ともされており、元は纏向型前方後円墳などのもっと古い時代の墳墓だったのではないでしょうか。

その2点間の距離が14055mとなり、×3=42165mとなるので、420mの漢尺を使っているように見えます。

尺度面から考えると、この鷲尾岳あたりに、弥生時代(前漢〜後漢)の方墳があり、次に同様な方墳として弥生時代末に祇園山古墳が造営され、その後の古墳時代初期(魏・晋)にこの古墳状地形が造営されたのではないでしょうか。その魏晋尺がこの古墳状地形設置に関して使用された件は昨晩お話したとおりです。

なお、祇園山古墳出土の後漢鏡とされる鋸歯文縁方格規矩鳥文鏡と同型鏡は、先の夔鳳鏡を出土した十三塚遺跡からも出ており、年代を決めるヒントとなりそうですが、またその辺のことについては、明日あたり考えてみましょう。







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