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歴史掲示板

10237管理人:2020/02/09(日) 00:54:02
本能寺の変2
こんばんは。みなさん、ご興味あるようなので、ちょっと脱線して、このまま本能寺の変について推理していきましょう・・。

壬申の乱などもそうですが、一般的に古代史家は理詰めで推理したいものですね。あまり偶然とか、深層心理といったものは根拠にしないものです。

ただ、元首さんのおっしゃるように、深層心理面での動きというのはもっとこれから歴史学でも取り込んでいってもよいように感じるんですね。先に紹介した円堂氏もユングの話を持ち出してますし、参考になります。

昨晩お話した忌部氏、源氏といった家系的なものにかかわる心理も影響を与えているように感じますし・・・。

深層心理というのは、当人が意識しないままに、勝手に必然的な行動を起こすことを前提とするものでしょう。

逆にいえば、特定人物の明らかに不合理な行動や言動を列挙していくなかで、その深層心理を読み解くことができるかもしれません。

円堂氏が最後にふれている安土城の天守閣の構造なども、読んでいくと、信長の心理を映し出しているようにみえますし、別の視点で切り込むと、これは石窟寺院にもみえる八角形と四角形天井の組み合わせ、つまり生死と復活を意味する図形なわけです。

だから、あの天守閣は、円堂氏が述べるように、軍事的なものではなく、信長の天皇より上にたつ神に近い存在としての心理を象徴する塔のようなものだったでしょう。

強いていえば、天上へと復活する儀式の場に近いものだったのかもしれません。天皇より上のものになれるとの観念を誰が植ええつけたか?ここがまずひとつの重要なポイントでしょう。

円堂氏の推理としては、本能寺の変の当日、信長が明智兵を意図的に呼び返して、そのまま天皇のところに向かい、軍事的に脅しかけて、信長を将軍職につかせるよう計画していたとのことで、しかし光秀はそれを行うと逆賊扱いとなるので、その意には従えず、それを聞いてすぐに、各地の大名に謀反を起こす旨を手紙で送っていたとのことのようですね。

もともと光秀が、織田家とは縁が薄く、かつての主人の足利将軍家を再興したいと考えていたことも確かでしょうし、偶然にもよい機会が巡ってきたので、すぐに実行に移したとのことなのでしょう。

その偶然という要素を、なんとか理詰めで解釈したいと歴史家は考えるわけですが、偶然は偶然、それこそ必然として受け止めることもありかなと感じます。

大災害が現実化する際にいわれることは、それ以前に無数の小さな災害・予兆があり、その氷山の一角が、あるときにタイミングが一致して、それが大きく膨れ上がって現実化する、どんな場合でも後から見直すと予兆が多くあるものです。

原発災害にしても、大地震にしてもそうですね。

本能寺の変にしても、おそらくは、それ以前に謀反に近い行動がいくらか信長の周りにあったのかもしれません。ただタイミング悪く、つかまったり、表面化しなかったのかもしれませんが、光秀のときは、すべてがうまくいくタイミングだったのでしょう。それで見事に成功した。

しかし、その後の計画は、逆にタイミングがくるっていて、彼の描いたストーリー通りにはいかず、ああいう結果になったわけです。

大局的な流れとしては、光秀がやらなくても、いずれ信長は殺されていたのかもしれません。
信長自身も近い将来、自身が殺されることを予想していたかもしれませんね・・・。

その偶発的ともいえる、絶好のタイミングを造り出すものは何か?が次の課題といえそうですが、これも確率論で考えるのには、あまり賛同できないように感じます。

やはり、そのタイミングを造り出すかのように、人間集団がその目的とでもいうべきものに向かって、無意識的、人によっては意識的に動いていく、その結果として、そのタイミングがやってくるわけです。

本能寺の変についていえば、やはり秀吉が遠くに行ったというのが大きな要素だったのでしょう。戻ってくるのには、かなり時間のかかるところにいたわけです。しかも交戦中ですぐには動けない。

信長のボディガードが欠けたような状態がまず造り出されることが必須条件にあったはずです。

ただ、暗殺という視点からいけば、何も茶に毒を飲ませることで済むわけで、それをしようと思えばできるのも多くいたでしょう。

それをあえてする人が出てこなかったのは、まだ信長を使う必要があると周囲が認めていたからかもしれませんね。

天下を統一するには、信長と秀吉が必要だと誰もが認めていた・・・・。

しかし、状況が変化して、信長が必要ないと判断する時期に差し掛かっていったので、明智がそれを実行したのではないでしょうか。

どうして必要なくなったのかですが、ひとつには、秀吉が信長に取って代わるだけの力量をもちはじめていたから、またさらにいえば家康も同様に力をつけていたからかもしれません。

かれらの上に乗っかっている重しのような信長を取り払う必要があったんでしょう。信長がいるかぎり、かれらは自由に動けないわけです。

カリスマ性のあるリーダーがいなくなった後には、やはり混乱があるものですが、それなりの後継者が現れて、その権威を引き継いでいく、その後継者たちが育つところまでは、そのリーダーの役割なわけですね。

その交代時期が、信長の場合は、他の大名よりも比較して早く来てしまったというか、彼の言う人生五十年で、彼の意図通りに起こった交替だったわけです。

ただ、息子に引き継がせようと考えていたところが計算外で、実際は臣下がそれを引き継いだ。織田の血縁者を残す方向で、謀反が動いていたら、また展開がかわっていたかもしれませんが、外様の光秀が謀反を起こしたことと、秀吉がそれを討伐する手柄を手にしたことにより、生き残った織田の血縁者は権力を引き継げなくなったわけです。

そういう意味でも、光秀が織田信忠を殺し、織田家家臣団にダメージを与え、秀吉がさらに光秀を殺して手柄を挙げて、織田家や家臣団を黙らせる、このストーリーが、ある時期から見え隠れしはじめていたのでしょう。

そのストーリーどおりに、合目的的な力にしたがって、各人が演技とでもいうべき動きを無意識・意識的におこなっていった結果として、ああなった。

結局、朝廷も足利も権威を回復することなく、秀吉、家康へと権力が引き継がれていったのですが、それは前者がいくらあれこれ画策しても、大局的な流れからいって覆せるものではなかったんでしょうね。

ただ、光秀を動かすには、もうひとつふたつ条件が整う必要があり、やはり秀吉の高松城攻めがキーだったのではないでしょうか。

秀吉的には勝算があり、それは時間の問題でもあったのですが、なぜか援軍を求めるように使いを出す。

そこに、光秀が動くことまで彼が読んでいたかどうかが気になるところですが、残っていた武士が、信忠や光秀だけだったとすれば、やはりどちらかが来ることは理解していたのかもしれません。

そのまま毛利と足利を潰すならば、やはり光秀を送ると読んだかもしれませんね。

ただ光秀的には足利義昭の討伐には向かいたくなかった、しかし信長は近江の領地をとりあげてでも、光秀に向かうように急き立てたので、仕方なく秀吉の援軍として向かわざるを得ない状況に追い込まれた。

そこで、足利と織田のどちらを主人に選ぶかの選択をしなおした結果として、信長を殺すことにした。

そこでユダにサタンが入ったごとくして、見事なまでの策略で信長を葬ったのでしょう。

信長は光秀がひきかえしてくることを理解していたかどうか?ここが面白いところですが、円堂氏は信長が意図的に光秀の大軍を呼び寄せたことを立証している点で興味深い。

信長はなぜ光秀を呼ぶことを考えだしたのか?ここが、おそらくは無意識のなす実に興味深い行動形態なのかもしれません。自分で死を引き寄せる。自ら進んで武装を解き、丸裸にされるような状況へと追い込んでいくわけです。

実に奇異なことが続けざまに起こっていったはずですが、大局的にみれば、それも偶然のようで必然だったのかもしれませんね。

あと、家康の動き、彼はすぐそばにいたのに、起きる直前に逃げるかのようにして、自国へと戻ってしまった。

動物的なまでに危険察知能力が高かったのか、するりと災難をかわすことに長けてますね。生き残る人というのは、そういうものなのかもしれません。

大物とされる戦国大名で、戦死したのは、その戦数に比して実に少ないですね。信玄、謙信、秀吉、家康、毛利、伊達・・・。ほとんどは戦死してないのは、単に家臣団が守ったからというわけではなく、そういう歴史的必要性とでもいうべきものが終わるまでの間、死ぬに死ねないようになっていたのかもしれません。あえて死ぬ場合は、真田とか石田のような死に方でしょう。ぎりぎりまで生き延びて、死を自分で決める。

大物の中で、ただ信長だけが、早い死を選んでいる、そこが彼の面白いところなのかもしれませんね・・・。




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