したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

歴史掲示板

10503管理人:2020/08/22(土) 01:35:56
倭迹迹日百襲姫命
秦野さん、お返事ありがとうございます。ヤマトトトビモモソヒメの件ですが、オオヤマトとヤマトの相違が気になりますね。

ご紹介あった下記の文面で行くと、

孝霊天皇
大倭根子日子賦斗邇命、坐?田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之?大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅

春日之千千速眞若比賣の子が、千千速比賣命で、千千速を親子で継承してますよね。

同様に、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の子が、その夜麻登登母母曾毘賣命や倭飛羽矢若屋比賣で、倭・夜麻登を継承しているのですが、意富は子には受け継がれていない・・・・。その毘賣、比賣の相違は底本の相違によるもので、もとは同じでしょう。

夜麻登登母母曾毘賣命(ヤマト・ト・モモソ・ヒメ)と倭飛羽矢若屋比賣(ヤマト・トビヤ・ワカヤ・ヒメ)とが別系統の写本に記された同一人物だとすると、モモソヒメはトビつまりニギハヤヒの妻のトビヤヒメと同一とのことで、昨晩の推測のとおりになるわけです。

そういう意味では日本書紀の倭迹迹日百襲姫命(ヤマト・ト・トビ・モモソ・ヒメ)は上記の2者を融合したような名に仕上がっているといえますね。ト+トビ+モモソです。

この3者は同一人物なのですが、写本系統の相違で、異なる表記になったのではないでしょうか。

その原型はトビヤかモモソか・・・。

あと、母には大がつき、娘にはそれがつかないこと、子には若が付くことなども、大きいをもって親とか祖とか年長・権威者を意味し、若は若い=子の意味で名付けたと考えると理解しやすくなるでしょう。


その孝霊天皇ですが、『古事記』には大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔に書かれている。 蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けること、これが外来系を示すのではないでしょうか。

大と若の親子もしくは兄弟によって吉備を平定したのちに、畿内はと進出したのが正解ではないですかね。

この親子・兄弟の征伐伝承は、オオヒコと子のタケヌテガワワケのそれや、オオタラシヒコと子のヤマトタケルの話とも構造的に同じですね。神武と子の東征伝承も同じ構造で、これら3つはもとは一つの伝承だったのでしょう。

孝霊天皇と吉備津彦・桃太郎のそれですね、ある時期に吉備経由で畿内へと進出した集団の長を想起させますが、桃というのが、キーワードになりそうです。

また、蓬莱身山(ハラミ山)を富士山と名付けたというのは、徐福伝承などにみえる山海経にも記された当時の蓬莱観念の世界に、同じく山海経に北朝鮮の白頭山を示す不威山つまりフジサンの名称をもたらしていったと解釈すると、この集団は後漢時代に、楽浪郡あたりを経由して、吉備を経て、畿内に入り、最終的に東海の富士山あたりまで東征を行ったということなのではないでしょうか。中国的な観念をもともと有しているわけですね。

纒向遺跡で大量に見つかった桃の種の件は案外その中国的な観念に関係しているのではないでしょうか。

その中国の桃の観念については下記のサイトから引用しますね。


孫悟空のお話にも出てくる「西王母」という人物をご存じですか?
彼女は玉皇大帝(ぎょっこうたいてい)という道教の最高位の神様の奥さんであり、女神の中では最高位の神様で、長寿の神様なんです。
彼女は多くの伝説に名前を残しており、漢の武帝が天界で桃を賜った話や、西遊記のなかで孫悟空は西王母の桃を盗むなど、数えれば切りがないらしいです。
それだけ人気のある神様だというわけですね。
西王母を描いた絵にはたいてい桃が描かれており、古来中国では、桃は魔よけの力があるといわれ、仙人の杖に使われたり、お札に使われたりしてきましたが、崑崙山(中国古代の伝説上の山岳)には王母桃または蟠桃といわれる桃があるといわれていました。
(日本でも古事記で、イザナキノミコトが現世に帰ろうとする時に雷神に桃を投げつけ退散させることに成功し、桃にオホカムズミノミコトの名前が付いていますよね。)
この桃が不老長寿の桃なのです。
伝説に出てくるこの桃はとても小さく、銃の玉ほどの大きさしかないと言われています。
そして3000年に一度しか実らないのだそうです。
西王母が、この桃が実ったのをお祝いして「蟠桃宴」を開きます。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fwww.kannonyama.com%2Fshopdetail%2F044000000002%2F


桃が魔除けであり、不老長寿の観念とも関わっているわけですが、西王母は三角縁神獣鏡に描かれているとおり、鏡作り職人にはよく知られた存在だったでしょう。当然に日本の鏡職人、おそらくは物部氏の祖も理解していたはずです。

蓬莱山自体が不老長寿の観念と結びついてますし、それを富士山と改めたというところにも中国・大陸的な要素が見て取れるわけです。

孝霊天皇の黒田庵戸宮のそばには鏡作神社があり、これが後漢の宮廷工房に対応する位置にあたるわけですね。

モモソヒメをあえて、古事記では、母母曽ヒメと記した背景にも、あるいは西王母の母を充てた可能性も考慮すべきかもしれません。

モモに百を用いた日本書紀とは違う見方をしているのかな?

ヤマト・ト・トビ・モモソ・ヒメ・・・、ニギハヤヒの妻のトビヤヒメからトビを継承したか、あるいはトビヤヒメ自身の名に、さらに上帝の妻であり最上級の女帝としての桃・モモの称号、西王母のそれを取り付けたようにも見えなくもないですね。

三輪山の大物主・三輪神の妻としての位置づけに書紀でされているのもわけがある。大物主の正体の蛇は後漢の外戚氏族の竇(トウ)氏の伝承では竇武の兄弟でしたよね。ここで後漢末期の外戚の伝承をかれらが持参して畿内へと進出していったことがわかるのですが、その際に吉備を通過しているわけですね。

竇の字は、穴+士+四+貝 で、大国主=大穴牟遅=オオ・アナ・ム・ジの穴、シ音、貝に助けられる伝承と関わってくるはずで、昨晩も指摘した箸墓の古墳軸が向いている穴師兵主神社の穴師(アナシ)にかかるわけです。大物主ですね。

後漢末の党錮の禁(176年まで)でその外戚氏族の竇氏は権力を失い追放の憂き目にあうわけです。そののち、縁故を頼って、楽浪郡へ向かい、さらに出雲・吉備経由で畿内へと進出。そこで黒田庵戸宮や鏡作神社といった後漢の洛陽城を模した都を造っていったのだろうと予想します。

岡山の楯築墳丘墓あたりにその名残があるのもそのせいでしょう。

その党錮の禁で敗れた竇武ですが、その娘が竇 妙(とう みょう、? - 172年)は、後漢の桓帝の3番目の皇后で、のちに皇太后となるわけです。

竇武についてはこちらのウィキを参照ください。


後漢の頃、定襄郡の太守竇奉の妻が武(竇武)という男児を産んだとき、一緒に蛇を一匹産んだ。奉(竇奉)はその蛇を野原へ持って行って放した。その後、武は成長して、天下に名の聞こえた人物となった。やがて母が死に、これから埋葬をしようというとき、弔問客がたくさん集まっているところへ、草むらの中から1匹の大蛇が出て来た。そして一目散に棺のところまで来ると、そこにうずくまって天を仰いだりうなだれたりした上、頭を棺に打ちつけて血涙を流し、いかにも悲しみに耐えないという様子であったが、やがて立ち去った。当時の人々は、これは竇家の栄える印だと考えたのであった
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E7%25AB%2587%25E6%25AD%25A6


竇奉の子が武なのですが、ここで親・奉(ホウ)と子・武の構造が出てきます。先のオオヒコと子の武ヌテガワワケ、あるいはオオタラシヒコ(景行天皇)とヤマトタケル(倭武)の親子の構造と比較すると、奉(ホウ)をオオとみなせれば、その子が武になるのも、それと関係するでしょうか・・・。大国主のオオも同じですね。






掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板