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歴史掲示板

10667管理人:2021/01/27(水) 00:14:48
倭人伝と中国皇帝
さっそく、秦野さん、弓張月さん、青面さん、お返事ありがとうございます!

弓張月さんご指摘の水口宿・・・、近江甲賀にあるようですね。
/toraijin/bbs?M=JU&;JUR=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E6%25B0%25B4%25E5%258F%25A3%25E5%25AE%25BF


水口は物部系の末裔の移動地でしょうか・・・物部系の地には岩舟信仰がありますね。

桓霊の間の桓は、ご指摘の桓武のそれでもありますね・・・。桓武のように、日本の天皇の名には中国皇帝のそれとのかかわりがあります。

青面さんご指摘のように「馬台」を九州の形状とみる見方は特に興味深く感じます!
山海経の分析でもそうでしたが、中国人が地形を動物に例えるケースがありましたからね・・・。

倭=邪の領域内にある「馬台」に都をおいたとのことになるでしょうから、この語を追求する必要があるでしょう。

またご指摘の孝安天皇ですね、、確かに倭国王の師升の可能性があります。

以前お話したように、後漢の安帝の年代になぞらえて、淡海三船は孝安天皇と名付けてますから、その安帝の年代が在位期間106年9月21日 - 125年4月30日ですから、ちょうど西暦107年に倭国王の師升が朝貢した年代と重なります。

倭国王の師升の記録を三船が知っていて、その年代が安帝の時代であることも知っているわけですが、その年代を記した書物については、後漢書を参考にしたのか、あるいは独自に伝わっていた日本の古記を参考にしたのか、ここが重要なんですね。

その倭国王の師升が、ご指摘のように、孝安の国押人の発音と関係してくるとすると面白いですね!

あと、後漢書では下記の記載となります。

安帝永初元年 冬十月倭國遣使奉獻(本紀)安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見(列伝)



倭國王帥升=孝安天皇で間違いはないのですが・・・。


なお、次の孝霊天皇は、後漢の霊帝の時代、つまり168年2月17日 - 189年5月13日とみなしているわけです。この孝霊の末年あたりに卑弥呼の即位がかかわってくる・・・孝霊天皇の子として、大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)、千千速比売命、倭迹迹日百襲姫命が出てくるのですが、年代的には先の卑弥呼とみなした鬱シコメの若かりし頃の年代でもあるわけです。

次の孝元天皇の時代が、魏の第五代の元帝の時代で、260年 - 265年となり、この時代に台与が魏に朝貢してますね。

だから孝元天皇の時代を、三船は台与の朝貢の記載とともに設定したと考えるべきですが、孝元天皇の后は先のとおり鬱シコメと、その姪っ子の伊香(イカガ)シコメがいて、後者が台与(トヨ)と考えて、後代の記録の記載上では壱興(イコウ)と継承された可能性があります。

その次の開化・崇神天皇あたりの年代も、三船等は知っていた可能性があるものの、なぜか開化と、王朝交代があったような名をつけているところが重要で、春日方面の率川宮と都を移動させていく時代にあたるわけですね・・。

このようなことからも、ある時期の帝紀の撰者は正確に、古代の天皇の年代や系譜を知っていたんじゃないかな・・・とは感じてるわけですが、秦野さんのおっしゃるように、我々は数百年にわたり彼らに騙されているのですかな・・・。




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