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歴史掲示板

10060管理人:2019/12/21(土) 23:09:34
石枕の起源と分布について2
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秦野さん、さっそくお返事ありがとうございます。
ご指摘あった隋書倭国伝との関わりは理解できないのですが、先ほど紹介した石枕の分布図について、私のほうで方位ラインを引いてみました。

図1は関東、図2が全国の石枕の分布図です。引用元は先の投稿のとおりです。図2は見やすくするために東1度偏角を0度に修正してあります。

こうみると、大雑把ではありますが、図1では香取・鹿島神宮を起点として、30度偏角のラインと、東1度偏角の東西ラインがみえてきます。

図2は全国の分布図ですが、こちらも同様に東30度偏角と0度偏角のラインを2つ利用して測量してますね。

その東西ラインについては、図の方格で見てもわかるように、渋谷向山古墳つまり景行天皇陵を起点として、香川、東海へと延びるラインとなり、その一つ北側が先の香取神宮を起点とするラインで吉備を経由してます。

さらにそのひとつ北のラインは、群馬の白石古墳群あたりを経て、若狭の籠神社あたりを経由しています。先述した薦とこの籠とは関係あるかな?このあたりが、先の丹波道主王つまり田道間守の本拠でしょう。

また南北ラインについては、有明湾沿いの拠点、吉備と出雲を結ぶものなどがみえ、さらに東30度偏角のラインには、鹿島から房総半島西側へと延びる図1のラインがあり、また群馬から伊勢へと延びるライン、あるいは有明湾から出雲へと延びるラインがあります。吉野ケ里遺跡あたりと関係しないかな。

図2を見てもわかるように、どれも等間隔に平行にラインが造られていて、わかりやすいものです。

鹿島神宮と香取神宮、そして息栖神社を結ぶ直角三角形の意味も、こうみると理解しやすくなりますね。測量上、鹿島と香取は2つセットで必要だったわけです。

また先日お知らせした関東の後期古墳を結んだラインでも鹿島・香取神宮が起点となり、15、30度偏角が重要視されていることがありましたね。

4世紀半ばの関東進出の時点からすでに、鹿島神宮は存在しており、それと同時に伊勢神宮あたりも測量拠点としてみえてくるはずですが、その関東進出を伝承化したのが景行天皇とその息子のヤマトタケルの話だと言えるでしょう。

景行天皇陵とヤマトタケルの白鳥陵が東西ラインになるのも、図2のラインをみるよくと理解できますが、特にそのヤマトタケルの伝承ですね、ここに外来的な要素が多くみえてきます。

秦野さんのご指摘にこたえる形で、以前会報第1号に掲載したヤマトタケルの伝承と、旧約聖書のヤコブの話との比較を下記に引用しておきますね。これらは尾張氏の伝承ともかかわってくるのですが、その件はまた後日に。図3としてそのヤマトタケル関連の地名や遺跡を結ぶ方位ラインを添付しておきます。参考まで(^^)

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雄略伝承等にみられた旧約的説話が、日本武尊でもみられるのではないでしょうか?そこで以下のとおり要素比較を示してみます。

・ヤコブは「一人」後に残り、「夜中」から明け方まで「神」と戦う。神に勝ったものの、太ももに「傷」を負う。→太ももの肉を食べないことの「習慣」伝承を記載。

・日本武尊は「一人」剣をはずし胆吹山の「神」を殺しに登っていく。途中で神の化身である「蛇」を踏む。「暗い谷」で神の霧にまよう。なんとか抜け出すが、その後「病気」になる。また、信濃坂では神の化身である「鹿」と戦い勝つ。坂を越えるものは蒜を「噛」むと神気にあたらないとの「習慣」伝承へ発展している。

日本武尊伝承でも、神との対面のあり方において、「神」との戦い、「夜中」→「暗い谷」での迷い、「傷」→「病気」=「後遺症」、「習慣伝承」の発生において雄略期同様、旧約伝承との共通性を多くもっていることがわかります。そこで、日本武尊伝承も、雄略「一言主」条、霊異記「小子雷」条と同様に、旧約伝承を土台にしているのではないでしょうか。

?雄略紀「一言主」条、霊異記「小子雷」条、日本武尊伝承の背景にある氏族伝承や挿入目的はどうでしょう?

次に、上記雄略「一言主」条、霊異記「小子雷」条、日本武尊伝承の背景にある氏族伝承や挿入目的について考えてみたいと思います。

これらの日本武尊伝承に見られる拠点をラインで結んでいくと、規則性のある正確な地図ラインが出てくることが判明しました。ライン図参照。

1、白鳥陵→伊勢能褒墓→熱田神宮:西南→東北・斜め35度ライン
(景行紀の記載には、日本武尊が伊勢熊褒野(鈴鹿郡)に葬られたのち、そこから白鳥となって琴弾原の白鳥陵に入り、さらに羽曳野の日本武尊陵へさらに飛んでいったとの説話があります。多度神社には白馬伝承があり、多度神社や北隣の養老郡には白鳥が飛来することで有名で、白鳥伝承との関連が気になります。)

2、伊勢能褒墓→焼津:東西緯度34度52分ライン(焼津での草薙剣伝承と尊の最初の墓がある伊勢(鈴鹿)の能褒野)

3、多度大社(尾津)→熱田神宮:東西35度07分ライン(東国に遠征する前に剣を置き忘れた地である尾津と熱田神宮)

4、伊勢能褒墓→伊富岐神社:南北136度29分ライン(胆吹山での山の神との格闘の地にある神社と尊の最初の墓)

5、日本武尊陵→景行天皇陵:東西34度32分ライン(日本武尊と父である景行天皇の陵墓を結んだライン)

6、白根神社(草津)→酒折宮→浅間大社:南北138度35分ライン(草津、酒折宮、浅間に残る日本武尊伝承拠点を結んだライン)

7、熱田神宮→諏訪前宮→碓氷坂:西南→東北・斜め40度ライン (また、信濃坂、碓氷坂では前述したとおり山の神との格闘が記載されており、熱田神宮は日本武尊と草薙剣伝承で特に有名であります)
(足柄坂については古事記に見られ、日本書紀ではその代わりに碓氷坂が記載されています。この両者をもって東国との境を示すことが指摘されているのですが、上田正昭氏は『日本武尊』吉川弘文館1960において、古事記・常陸国風土記に足柄坂が記されていることは、上毛野氏が出てくる早くても6世紀以降であるとし、さらに日本書紀が碓氷坂を記載したことについては、陸奥地方が問題化するのは大化の改新以降であると指摘します。そして古事記のほうを、より原日本武尊伝承として考えておられます。また、次図で掲載する伊富岐神社については、古くからの山岳信仰に原型を求め、語部をとおして宮中に取り入れられたことを指摘しています。)









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