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【資料】神秘主義の系譜【探索】

71キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:51:26
ええじゃないか


1867年(慶応3)8月から翌年4月ころにかけ,伊勢神宮の神符等が降下したということを契機に,畿内・東海地区を中心におこった狂乱的な民衆運動。名称は民衆が踊りながら唱えた文句に〈ええじゃないか〉〈よいじゃないか〉〈いいじゃないか〉等の語があったためであるが,慶応当時はお下り(駿河,近江),御札降り(遠江),おかげ(伊勢,河内),おかげ騒動(伊勢),おかげ祭(信濃),大踊(阿波,備前),雀踊(淡路),チョイトサ祭(信濃),ヤッチョロ祭(信濃)などと呼ばれることが多かった。学術用語として〈ええじゃないか〉が学界に定着したのは1931年以後のことである。その形態は,(1)神符類の降下を発端とし,(2)降下した神符類をまつる,(3)数日にわたる無礼講的な祝宴,(4)それに参加する男の女装,女の男装にみられるような日常的な規範の否定,(5)民衆の唱える〈ええじゃないか〉の文句を繰り返す歌と踊り,(6)領主側の命令・指導による平静化と日常性の回復といった六つの要素からなっていた。意識面では世直りの意識とそれへの期待,神符類の降下によるお蔭参りの記憶の復活,日常性からの逸脱,性的規範の無視などを特色とする。ただ,お蔭参りにみられた伊勢参宮は例外的である。

 その初発は現在まで知られているところでは1867年8月4日,東海道の御油宿に秋葉神社の火防の札が降下したのが最初であった。以後,東海道,畿内を中心に,三河,遠江,駿河,伊豆,相模,武蔵,尾張,美濃,信濃,伊勢,近江,大和,山城,丹後,但馬,因幡,摂津,河内,和泉,紀伊,播磨,備中,備後,美作,安芸,淡路,阿波,土佐,讃岐,伊予の30ヵ国での事例が報告されている。その終末は68年4月22日の丹後加佐郡野村寺村の事例である。この民衆運動の契機となったのはどの地域でも神符類の降下であったが,この降下はいうまでもなく人為的なものであった。その背後にあったのは討幕派の人々だともいわれるが,その確証は発見されていない。降下した神符類のうちでは伊勢の御師(おし)の配布した御札・御祓(おはらい)が多かったが,その他その地域で信仰されていた社寺の御札,仏画,仏像など雑多であった。神符類の降下により民衆が動員されたのは,1830年(天保1)の御祓の降下によりおこったお蔭参りの記憶,さらには空から神聖なものが降下してくるとする伝統的な意識のほかに,幕末の危機的な政治情勢による民衆への圧迫感,第2次長州征伐の中止に伴う米価をはじめとする物価の下落による生活の安定などの諸要素が,神符類の降下を神意として民衆に受けとめさせたためと考えられる。民衆の意識はその囃言葉のうちに〈今年は世直りええじゃないか〉(淡路),〈日本国の世直りはええじゃないか,豊年踊はお目出たい〉(阿波)などの世直りの文句,〈御かげでよいじゃないか,何んでもよいじゃないか,おまこに紙張れ,へげたら又はれ,よいじゃないか〉(淡路)という性の解放,〈長州がのぼた,物が安うなる,えじゃないか〉(西宮),〈長州さんの御登り,えじゃないか,長と醍と,えじゃないか〉(備後)の政治情勢を語るもの,〈諸神諸仏の御降りが,日本国中いちじるし,弥勒仏の御威光で,五穀成就ありがたい〉(阿波)と弥勒下生による浄土の実現を示すものなどさまざまであり,そこにこの民衆運動の複雑さが示されている。その評価については定説というべきものはないが,1866年に高まった百姓一揆・打毀(うちこわし)に示される民衆の幕藩体制への抵抗がこの運動により弱まったとするもの,幕藩体制の基盤である封建的共同体からの離脱をはかった世直し運動の変型として評価すべきであるとするもの,またそこに伝統的な宗教意識や行動が再生されている点に注目するものなどがある。なお,E. H. ノーマンの〈日本におけるマス・ヒステリア〉(1945)は先駆的な研究として記憶される。
                        西垣 晴次

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72キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:52:02
益山
えきざん Iksan

韓国,全羅北道益山郡金馬面を中心とする,いわゆる益山の地は,三国時代百済の遺跡が多い。金馬面の街の南郊1kmほどのところには,幅約230m,長さ約450mの長方形平面をした土塁があり,益山王宮址と推定される。その南郭の王宮里廃寺跡には,五重石塔が残る。そこから,東方に約1.5kmのところにも,帝釈寺跡がある。王宮里から北方6kmあまりの弥勒山には,山城が築かれている。弥勒山の南西麓で,金馬面の街からは北西方に約3kmのところには,弥勒寺址があり,朝鮮半島で最大級の石塔が現存する。この塔の東方でも塔跡がみつかったが,東西2塔の中間で北寄りのところに,別の建物跡が知られ,3院からなる特殊な伽藍配置を示す。弥勒寺址の北西方およそ3km,蓮洞里には,光背を備えた石仏座像がある。また,弥勒寺址の直南3kmあまり離れたところに,石旺里双陵と呼ばれる大小2基の円墳があり,百済の武王とその後妃の陵とする伝承がある。これらの遺跡群は,主として百済後期の所産であり,京都市青蓮院所蔵の《観世音応験記》に,〈百済武広王遷都〉とみえることなどから,益山の地を,7世紀前半の武王の時期の別都とする見方が強くなっている。益山はまた,百済に先立つ馬韓50余国のなかの乾馬国に比定されている。また益山郡多松里出土の多鈕(たちゆう)粗文鏡をはじめ,数ヵ所の青銅器の出土地としても知られる。                    西谷 正

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73キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:53:03
円空 1632‐95(寛永9‐元禄8)
えんくう

江戸初期の遊行造像僧。美濃国(岐阜県羽島市上中町)の生れ。若くして出家,尾張国(愛知県)師勝村の高田寺で金剛・胎蔵両部の密法を受け,諸国遊行の旅にでる。1664年(寛文4)ころまで美濃地方にいて名古屋荒子観音寺などで造像,65年蝦夷(えぞ)地に渡る。74年(延宝2)には志摩半島,その後は美濃・飛舞地方に入り,袈裟山千光寺や山間僻地(へきち)に多くの仏像をのこす。89年(元禄2)には伊吹山,日光などに遊行,翌90年ふたたび美濃・飛舞地方にもどって晩年の円熟した彫像を刻む。生涯,東日本を遊行し,造像活動をつづけた。円空の没年は岐阜県関市の弥勒寺にある墓碑銘から明らかであり,生年については不明であったが,上野国(群馬県)一宮の貫前(ぬきさき)神社旧蔵の写経の断簡に〈壬申生美濃国円空(花押)〉とあることから,1632年の生れであることが判明した。円空は12万体の造像を発願して,多くの木彫仏を特異な彫法で刻んだ。現存作だけでも5000体を数える。丸木の原材をいくつかに割り,割った面を巧みに生かして,そこに岩肌のような面(プラン)の構成を生み,正面性を強調した。その〈鉈(なた)ばつり〉といわれる荒彫り彫法の生むバイタルな表出は,現代造形の根底を刺激して大いに注目された。             丸山 尚一

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74キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:53:43
往生
おうじょう

この世で命をおえたのち,他の世界に往(い)って生(しよう)を受けること。とくに念仏の功徳(くどく)によって,臨終のとき阿弥陀仏の来迎にあずかり,阿弥陀仏の国土である西方の極楽浄土に往き生まれること。往生を願うことを願生,願往生といい,往生する人を往生人という。往生を願う浄土の種類によって極楽往生(阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること),兜率天(とそつてん)往生(弥勒菩醍の兜率天に往生すること),補陀落(ふだらく)往生(観音菩醍の補陀落山(せん)に往生すること),浄瑠璃(じようるり)往生(薬師如来の浄瑠璃世界に往生すること),そのほか釈梼の霊山(りようぜん)および無勝荘厳(むしようそうごん)国に往生するもの,毘盧遮那(びるしやな)仏の蓮華蔵(れんげぞう)世界に往生するものなどに分けられる。また,浄土に往生するための方法として念仏往生(阿弥陀仏のみ名を称えることによって往生する),諸行(しよぎよう)往生(念仏以外の諸善行(ぜんぎよう)により往生する),助念(じよねん)往生(念仏の助けとして諸善行を修めて往生する),聞名(もんみよう)往生(仏の名を聞き信じて往生する)などがある。また特異な往生の方法として,自然な死期をまたずに焼身,入水,埋身といった自殺的行為により往生するものがあり,これらを異相往生という。日本で古くより広く信仰されたのは,浄土教に説く極楽往生である。奈良時代における極楽往生観は死者に対して縁者がその冥福を祈り,死者が極楽浄土に往生することを願うという,追善的な性格を有するものであった。平安時代中・末期に至って,律令体制の動揺から生じた社会秩序の混乱に,末法思想による末世の到来という精神的不安が重なって,人々は現世を穢土(えど)(穢れた国土)と観ずるようになり,来世に安らぎを求めるようになっていった。死者の追善ではなく,自身が極楽に往生できることを願ったのである。この願望から人々の間で,阿弥陀仏のはたらきとしての来迎引接(らいごういんじよう)(阿弥陀仏が臨終に来迎して,浄土へ引導接取すること)が強く想念された。来迎引接(摂)を絵画化したのが来迎図であり,儀礼化したのが迎講や来迎会である。立形の阿弥陀仏像が造られ,法然の教団では重視された。《観無量寿経》に極楽浄土に往生するものに9等の段階(九品(くぼん)。上品,中品,下品のそれぞれに上生,中生,下生の3等がある)が説かれ,どのような悪人でも称名によって下品下生者となれるとあるので,下層社会でも往生願生者を広く育てた。《日本往生極楽記》《続本朝往生伝》などの〈往生伝〉にはさまざまな往生人とその信仰生活が記されている。鎌倉時代に入ると,法然,親鸞などの新仏教の教祖たちにより他力本願,悪人正機,女人往生などの思想が打ち出され,浄土教帰依者は社会的身分,職業に関係なく急増した。これ以降,日本人の来世観に極楽往生の観念が定着していった。しかし往生が死を契機として説かれていたため,後世その意味が転用され,〈この世を去ること,死ぬこと〉〈困り果てること,閉口すること〉を,〈往生する〉というようになった。    伊藤 唯真

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75キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:54:46
大峰山
おおみねさん

紀伊山地の中央を南北にのびる脊梁山脈が大峰山脈で,広義の大峰山は大峰山脈の峰々をさし,狭義にはその北部の主峰山上ヶ岳(1719m)をさす。大峰山脈は北の吉野山から南の玉置山まで,南北約50kmの山地で,近畿地方の最高峰八剣(はつけん)山(1915m,仏経ヶ岳,八経ヶ岳ともいう)をはじめ,北から大天井ヶ岳(1439m),山上ヶ岳,大普賢岳(1780m),弥山(みせん)(1895m),釈梼ヶ岳(1800m),大日岳(1593m)などの峰々が連なり,大和アルプスともいわれる。山地の地質は,北部は古生層,中部以南は中生層を貫いた大峰酸性岩類と呼ばれる石英粗面岩などが分布している。山頂にはお花畑があり,山頂からの眺望が雄大である。山上ヶ岳は古くから西日本の修験道の根本道場で,信仰の山となっており,今も女人禁制の霊山である。山の戸開き(5月8日)から戸閉め(9月27日)まで,大山参りとか大峰参りといわれる白衣姿の信者の登山でにぎわう。登山路は下市口から洞川を経るコースが一般的で,1970年に登山口の竜泉寺まで自動車道が通じて清浄大橋まで女性も入れるようになり,竜泉寺の境内も女性に開放されるようになった。
                  水山 高幸+清水 弘

[信仰]  吉野から熊野に連なる大峰連峰は,中世以来修験道の根本道場とされてきた。平安朝以来多数の修行者が吉野,熊野に入山し修行を続けてきたが,御嶽詣,熊野詣に在俗者の参詣が多くなると修行者たちはさらに奥山に入り修行するようになった。修行者たちの集団化がすすみ修験道が形成され,その修行形態も山岳抖芹(とそう)に重点がおかれたものとなるにつれて大峰連峰各所に散在する行場に宿が設けられるなど相互に関連づけられていった。こうして熊野,吉野を結ぶ行場が成立し,近世以降はほぼ大峰七十五靡(なびき)(宿)として固定した。行場はおもに岩場,洞窟,滝,池などによって構成され,蔵王権現,不動明王,金剛童子,神変大菩醍をはじめとする多数の諸仏諸神や高祖開祖がまつられている。75靡は熊野本宮(1番),那智山(2番),熊野新宮(3番)に始まり,玉置山(10番),深仙の宿(38番),孔雀ヶ岳(42番)の両部分け岩によって吉野側の金剛界と熊野側の胎蔵界に分けられ,八経ヶ岳(51番),弥山(54番),弥勒ヶ岳(61番),笙の岩屋(62番),小笹の宿(66番)を経て山上ヶ岳(67番)に至る。さらに愛染の宿(70番),金精明神(71番),吉野蔵王堂(73番)を経て柳の宿(75番)をもって終わる。このうち山上ヶ岳には大峰山寺(山上本堂)や役行者(えんのぎようじや)が蔵王権現を出現させたとする涌出岩のほか表行場,裏行場など多数の行場がある。小笹の宿は聖宝が竜樹菩醍から秘伝を伝授されたといわれる場所で,当山派入峰修行の最大の拠点となっている。一方,本山派では深仙灌頂を行う深仙の宿が最も重要なものとされている。                宮本 袈裟雄

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76名無しさん:2013/07/20(土) 22:56:49
鹿児島神宮
かごしまじんぐう

鹿児島県姶良(あいら)郡隼人町に鎮座。祭神は天津日高彦穂々出見命,豊玉姫命,相殿に品陀和気尊ほか4座。式内社,旧官幣大社。一名正八幡宮(大隅宮)。708年(和銅1)現地に遷座したと伝える。承平の乱で八幡神を配祀した。八幡の陳王伝説を流布させて社領を増加させ,中世に将軍の寄進を受け,近世には黒印領200石。6回の災にあい,現社殿は1756年(宝暦6)島津重年の改造によるもの。神宮寺は弥勒院と号したが,近世末に廃絶した。1874年鹿児島神宮に改称。例祭日旧8月15日。隼人舞等の芸能がある。    中野 幡能

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77キーワード:弥勒:2013/07/20(土) 22:57:27
笠置山地
かさぎさんち

大和高原ともいう。奈良県の北東部と京都府,三重県が隣接する付近を南北にのびる山地。山地の標高は北部で200〜300m,南部で500〜600m,ほぼ400〜500mの高原状の山地で,鮮新世初めに形成された準平原が隆起して,隆起準平原となったものである。多くの断層が見いだされ,西は三百断層(春日山断層)で奈良盆地と,北は木津川断層に沿う木津川峡谷により信楽(しがらき)山地と,南は名張断層に沿う宇陀川の河谷によって竜門山地と,東は花ノ木断層,笠間断層などの雁行する断層により上野盆地と接している。山地の地質は領家複合岩が広く分布するが,南東部に室生火山群の貝ヶ平山,額井(ぬかい)岳などがみられる。高原状の地形を利用して,広い谷底に多くの集落が立地し,水田のほか,茶園,抑制野菜の栽培などに利用されている。またゴルフ場もみられる。山地の北端にある笠置山(288m)は京都府に属し,風化しやすい花コウ岩よりなり,山腹は険しく,山頂には多くの巨岩がある。山頂の笠置寺は,平安時代から弥勒信仰の地として栄え,南北朝時代には後醍醐天皇の行在所(あんざいしよ)がおかれた。山全体が史跡,名勝に指定され,笠置山府立自然公園に含まれる。山地の西部は大和青垣国定公園に指定されている。  水山 高幸

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78名無しさん:2013/07/20(土) 22:58:38
笠置寺
かさぎでら

京都府相楽郡笠置町の笠置山頂にある寺。笠置山は木津川の南岸にあり,奈良県の柳生街道に面した登山口から登ると,本坊,弥勒石・薬師石・文殊石・虚空蔵石の石仏群があり,弥勒石の後山に後醍醐天皇の行在所(あんざいしよ)跡がある。笠置寺ははじめ法相宗に属したが,現在は真言宗智山派。山号は鹿鷺山。磨崖の弥勒菩醍石像を本尊とする。開創について《今昔物語集》《東大寺要録》などは天智天皇の皇子によると伝えるが,確かなことはわからない。高さ15.7m,幅12.7m の弥勒像をはじめとする石仏群は,奈良時代末の製作とされ,そのころ寺院ができたものと考えられる。東大寺の良弁(ろうべん)がここで秘法を修し,空海もここにこもったと伝えられるが,優婆塞(うばそく)や聖(ひじり)が多く集まっていたらしい。平安時代には,弥勒信仰の中心として知られ,吉野の金峰山と並ぶ修験の霊場となり,花山院や藤原道長をはじめ貴賤の参詣がさかんになった。さらに鎌倉時代初頭,興福寺の貞慶がここに隠退してから,諸堂が建立され,住僧も増加した。ついで東大寺の宗性が貞慶の跡を慕って入山し,ここで弥勒信仰に関する多くの書を著した。1331年(元弘1),元弘の乱の際には後醍醐天皇は,東大寺別当聖尋の計らいでここを行在所(あんざいしよ)とし,笠置山が戦場となったため,伽藍のほとんどが焼失した。室町時代に入って修験道の中心として復興されたが,再び火災にあい,現在の正月堂(本堂,懸崖造),毘沙門堂,大師堂は15世紀末の造営とされる。江戸時代には藩主藤堂家の保護で維持され,現在はかつての子院の一つである福寿院を笠置寺と改称し,重源の寄進になる建久7年(1196)の銘文のある銅鐘,貞慶筆と伝える《地蔵講式》《弥勒講式》各1巻をはじめ,南北朝時代の古文書など,数多くの文化財を伝えている。                    大隅 和雄

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79名無しさん:2013/07/20(土) 22:59:21
笠置山
かさぎやま

京都府南部,相楽郡笠置町にある山。標高288m。木津川南岸に位置し,西側を白砂川,今川,東側を布目川が流れ,いずれも深い峡谷を形成し,南へは尾根が続き柳生へ通じている。黒雲母花コウ岩からなる険しい山で,ふもとから山頂まで各所に絶壁,巨岩がある。山上に笠置寺や,虚空蔵石などの石仏群があり,平安時代には弥勒信仰の中心として尊崇を集めた。北麓に笠置温泉があり,西側山麓を中心に旅館などが多い。
                        金田 章裕

[信仰]  元弘の乱において後醍醐天皇は笠置山に入って倒幕の挙兵をした。それは地理的な条件以上に笠置寺を中心とする修験,山伏の勢力に期待してのことであったと考えられている。元弘の乱を含めた南北朝の内乱において,吉野,熊野を中心とした修験者の活躍には目覚ましいものがあったが,笠置山も1194年(建久5)に南都の解脱上人貞慶が般若台院を設けて中興して以来,修験道場として一大勢力を形成していた。平安中期以来,吉野,大峰,熊野が修験道の根本道場となるに及んで吉野金峰山を弥勒兜率天の内院,笠置山をその外院とする考えが示すように,この山は弥勒浄土の霊場と想定され,山中の30宿の行場をめぐる抖芹(とそう)修行も成立した。また金峰山への御嶽詣が盛んになるにつれて,その代行地,前行地とされた。しかし元弘の乱によって一山はことごとく灰燼(かいじん)に帰してしまい,1381年(弘和1‖永徳1)に笠置寺が再建されたものの,かつての繁栄を再現するまでには至らなかった。
                      宮本 袈裟雄

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80名無しさん:2013/07/20(土) 23:00:20
鹿島踊
かしまおどり

履城県鹿嶋市鎮座の鹿島神宮の信仰を持ち歩いた〈鹿島の事触(ことぶれ)〉と称する宗教芸能者が広めた歌舞。歌に〈誠やら鹿島の浦に弥勒(みろく)お舟がついたやら〉と弥勒菩醍の来訪を賛美する詞章があるところから弥勒踊ともよばれる。神奈川県の湘南海岸から静岡県伊豆半島の東海岸にかけて分布する鹿島踊は,烏帽子・白丁(はくちよう)姿の青年がひしゃくや日月を象徴する採物(とりもの)や白幣などを持ち,太鼓・鉦のリズムにのって陣形を変えながら踊るもので,履城・千葉県には年輩の婦人集団や少女たちが円陣になって踊る弥勒踊や鹿島踊もある。他に東京・埼玉・長野県などにも点在するが,東京都西多摩郡奥多摩町小河内(おごうち)の鹿島踊は《三番叟(さんばそう)》から始まる古風な歌舞伎踊で注目される。なお歌舞伎舞踊にも鹿島神人の事触を舞踊化した長唄曲があり,本名題《四季詠寄三大字(しきのながめよせてみつだい)》,1813年(文化10)江戸中村座で3世坂東三津五郎初演。《俄(にわか)鹿島踊》ともいう。⇒鹿島信仰           山路 興造

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81名無しさん:2013/07/20(土) 23:04:06
鹿島信仰
かしましんこう

〈かしま〉という地名は,鹿島,神島と表記され,全国的に分布しているが,共通するのは,海辺に近く,海と陸地との接点あるいは境界領域に位置していることである。陸地のさいはての地域あるいは最先端の場所と意識されている。その中でも履城県鹿島地方は,古代より,大和朝廷を中心とした畿内の地域からみると,東国の涯(はて)とみなされていた。そうしたイメージを基礎として,鹿島には二つの民俗信仰が形成された。一つは,鹿島の地にさまざまの漂着神がたどりつき霊力を発揮したというものである。鹿島・香取神宮の祭神や,大洗磯前(いそざき)明神をはじめ,大小の漂着神をまつる神社が,鹿島とその周辺地域にまつられている。近世初期に,弥勒の舟がこの地に着き,ミロクの世が出現するという信仰も広まっていた。これは,鹿島神宮の大物忌と称する巫女王の託宣による予言が基礎となっている。鹿島の事触(ことふれ)たちが,鹿島の予言を東日本の各地に伝播させていったときに,救い主弥勒の乗った船の到来も告げられたのである。弥勒仏の到来を鑽仰(さんぎよう)する弥勒踊は,現在も鹿島地方に濃厚に分布している。さらに鹿島の神が流行病などの災厄を払ってくれることを説いた鹿島踊も派生しており,鹿島踊と弥勒踊は,伝播する過程で習合した形で地域社会に受容された。

 第2に,鹿島の地に,さまざまの災厄を追い払おうとする鹿島送りの信仰が展開した。鹿島送りは,東日本の各地にみられる人形送りの民俗である。6〜7月ごろに集中しているが,等身大の人形を作り,この人形を中心に行列を作り,村中を練りまわった後,人形を浜辺か川辺で流してしまう。このとき人々が踊った踊りが,形式化して鹿島踊となったらしい。人形は災厄がこめられた悪神であり,この悪神を,現世の周縁部にあたる鹿島の地へ送りこむという神送りの形式を示している。災厄を送り出す代りに幸運をもたらしてくれる,そうした境の両義的性格が鹿島信仰の特徴といえる。⇒鹿島踊‖鹿島神宮‖弥勒信仰        宮田 登

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82名無しさん:2013/07/20(土) 23:05:14
梼葉山
かしょうざん

群馬県北部,沼田市北部にある山。標高1322m。第三紀中新統のレキ岩,砂岩からなり,浸食が激しく奇岩,怪石が多い。中腹900mに梼葉山竜華院弥勒寺がある。創建は不詳で,はじめは天台宗であったが,天巽(てんそん)慶順禅師により曹洞宗に改宗,1456年(康正2)伽藍が建立された。天巽に随伴したという神童の神通力を象徴して天狗信仰が盛んで,顔の長さ5.5m,鼻の高さ2.7mの大天狗面がある。関東三天狗(ほかに高尾山,古峰原(こぶがはら))の一つであり,養蚕,商売繁盛に霊験があるとして年間数十万の講組織の参詣者がある。夏季は好ハイキングコースとして登山者も多い。ブッポウソウが鳴く静かな山で,上田秋成の《雨月物語》にも記される。付近に玉原(たんばら)温泉がある。              徳久 球雄

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83名無しさん:2013/07/20(土) 23:05:58
勝尾寺
かつおじ

大阪府箕面市粟生(あお)の山中にある真言宗の寺。山号は応頂山。本尊は十一面観音。西国三十三所第23番札所となっている。寺の縁起では奈良末の山林修行者善仲・善算および開成(かいじよう)皇子を開基とし,もと弥勒寺と称したという。880年(元慶4),清和太上天皇が〈摂津国勝尾山〉に巡幸したと《三代実録》にあるのが史料上の初見である。平安末,叡山浄土寺門跡に属する天台寺院で,十一面観音,薬師如来を本尊とした。源平争乱のとき源氏に焼打されたのを復興。1230年(寛喜2),寺領山林四至を確定して司示の〈八天石蔵〉を築造し,その遺構は国の史跡に指定されている。付近の箕面の滝とともに北摂の紅葉の名所で,訪れる人が多い。当寺には寺宝の仏像・経巻等のほかに,約1200点の中世文書を主とする〈勝尾寺文書〉が所蔵され,寺領山林関係の公文書や寄進状,書状,寺院記録など,豊富な中世史料を伝えている。                戸田 芳実

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84名無しさん:2013/07/20(土) 23:06:48
金沢実時 1224‐76(元仁1‐建治2)
かねさわさねとき

鎌倉中期の武将。北条実泰の子,執権義時の孫にあたる。官位は越後守,従五位上。幕府の小侍所別当,引付衆,評定衆,引付頭,越訴奉行(おつそぶぎよう)などを歴任。1275年病により自領の武蔵国六浦(むつら)荘金沢の館に引退し,翌年10月没した。武芸とくに騎射に優れたが,学問にも早くから関心をよせ,儒家清原教隆に師事して経史,律令を学び,これを政道に生かすことにつとめたが,勉学の範囲は政治,法制にとどまらず農政,軍学,文学の分野にも及んだ。その書写校合,収集したたくさんの和漢の書物は金沢に引退したおり鎌倉から移され,金沢文庫の基をつくった。また金沢の居館に隣接した東谷に阿弥陀堂を建立して父母の菩提を祈ったが,のち西大寺の叡尊に帰依して67年(文永4)これを律院称名寺と改め,発展させた。現在の称名寺の本尊弥勒菩醍立像(建治2年銘,重文)は実時の発願により造立されたものであろう。墓所は同寺境内の山腹にある。
                        前田 元重

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85名無しさん:2013/07/20(土) 23:08:02
花郎
かろう

朝鮮,新羅の青年貴族集会の指導者。上級貴族の15,16歳の子弟を花郎として奉戴し,そのもとに多くの青年が花郎徒として集まって集会を結成していた。花郎に奉戴された者は,半島統一の英雄金輝信(きんゆしん)を含め新羅滅亡までに200余人を数え,各花郎に属した花郎徒はそれぞれ数百人から1000人に及んだと伝えられている。彼らは平時は道義によってみずからを鍛え,歌楽や名山勝地での遊楽を通じて精神的,肉体的修養に励んだ。そして戦時には戦士団として戦いの先頭に立ち,活躍した。その起源について,《三国史記》《三国遺事》ともに真興王代(540‐576)の制定によるものと伝えているが,川前里書石(慶尚南道蔚州郡)の〈乙巳年銘文(525)〉に花郎と思われる人名がみられ,法興王代(514‐540)にはすでに存在していた可能性が強い。その原型は部族社会の青年集会に求められるが,6世紀初頭における新羅の国家的発展の過程で,花郎を中心とする青年戦士の集会に変化し,国家的公認を受けたものと思われる。自己犠牲の精神を養う花郎集会は,国家にとっては人材の養成,登用のための格好の組織であった。花郎は新羅固有の習俗に根ざすものであったが,同時に儒・仏・道三教と結びついて独自の発展をとげた。特に弥勒信仰の影響のもとに寺院,僧侶と密接な関係をもった。また神仙思想と結合して,やがてその習俗は〈風流〉〈風月道〉と称され,花郎も〈国仙〉〈仙郎〉と称されるようになった。             木村 誠

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86名無しさん:2013/07/20(土) 23:08:48
経塚
きょうづか

経典を主体として埋納したところ。写経供養の一形態で,古来,慈覚大師円仁(794‐864)を創始者に擬しているが,確証はない。今日知られている最も早い確実な事例は,藤原道長が1007年(寛弘4)に金峰山(きんぷせん)(奈良)に埋納した例で,発見された経巻,経筒は《御堂関白記》の記事と一致している。埋めたのは紺紙金字の法華経(開結とも),阿弥陀経,弥勒経,般若心経であるが,これらの経巻が竜華の晨,すなわち56億7千万年の後,弥勒が世に出る時まで伝えられることを念じている。また,願意として仏恩報謝,出離解脱,極楽往生などがうかがえる。なお,これより早く,覚超の《修善講式》(989)には,経巻を卒概婆の基に仏画や名帳とともに埋めることが記されているが,経巻を主体としていない。一方,中国には経塚と考えられる遺跡は未発見であるが,朝鮮半島では近時になってわずかながら高麗時代と思われる例が注意されはじめている。しかし,正確な年代,製作意図などは不明であり,現時点では,〈経塚は日本で10世紀の終りごろ,末法思想を背景に,浄土教の発達に伴う仏教的作善業の一種として始められた〉とするのが妥当な考え方であろう。その後1031年(長元4)に慈覚大師の如法経保存の手段として埋納のことが相談されたが,これを契機に経塚の営造は如法経書写供養と密接な関係を持つようになり,急速に全国に広まった。やがて願意にも現世利益,追善供養,災害防止などが加わったが,16世紀以降には廻国納経の流行に伴い,その一手段としても用いられた。江戸時代には礫石経(一字一石経)経塚が全盛を示したが,経塚は今日も営まれつづけている。

 経典は法華経が圧倒的に多く,無量義経,観普賢経,阿弥陀経,弥勒経,般若心経などがこれに次ぐ。その他,大日経,金剛頂経,蘇悉地経,金光明経,仁王経,理趣経などもあり,大般若経,一切経といった大部の埋納例もある。材質面では紙本経が一般的であるが,埋めるという経塚の特色に即して,瓦経(粘土板に錐などで書いて焼いたもの),銅板経(銅板に刻したもの),滑石経,青石経(青石に刻したもの),貝殻経,礫石経などがある。これらのうち,紙本経は銅製の筒形容器(経筒)に納めて埋めることが多いが,木製,竹製,鉄製,石製,瓦製,陶製,磁製などもあり,また箱形もある。なお,ていねいな場合は,さらに外容器(外筒)に収めている。経典に副えて埋めたものには鏡,利器,合子,銭貨,仏像,図像,仏具,さらに檜扇,侯,提子,小皿,硯,鋏,水滴,火打鎌,兜,鈴などがあるが,これらの組合せや数量は各経塚によって異なる。

[遺跡,遺構]  各時代を通じて,社寺となんらかのつながりをもつ所,すなわち社寺境内やその近傍,あるいは霊地と目されている所を選んでつくられているが,一方,墳墓の近くや,江戸時代には路傍などにも営まれた。構造は一概には言い難いものの,小石室を構築したものと,単に土壙を穿ったのみのものとに分けられ,盛土,盛石をしているのが普通である。ほかに岩陰や岩窟など自然地形を利用した例もある。また,単独経塚と,同一地域内に複数の経塚が営まれた経塚群とがあり,後者には同時,または比較的短い期間をおいてつくられたものと,長期にわたって営まれたものとがある。おもな経塚は,次のとおりである。福島県米山寺経塚,履城県東城寺経塚,東京都白山神社経塚,山梨県柏尾山経塚,石川県蓉岳(おいずるがたけ)経塚,静岡県伊豆山神社経塚,三重県朝熊山(あさまやま)経塚,滋賀県横川経塚,京都府鞍馬寺経塚,花背経塚,稲荷山経塚,奈良県金峰山経塚,和歌山県熊野三山経塚(本宮・新宮・那智),高野山経塚,粉河経塚,比井経塚,大阪府槙尾山経塚,鳥取県倭文(しどり)神社経塚,岡山県安養寺経塚,愛媛県奈良原山経塚,福岡県四王寺経塚,武蔵寺経塚(図),永満寺経塚,求菩提(くぼて)経塚,佐賀県背振山経塚など。                    三宅 敏之

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87名無しさん:2013/07/20(土) 23:09:45
行人塚
ぎょうにんづか

行人塚は供養塚に属するものと行者・修験者の自埋入定(にゆうじよう)を伝える塚とに大別でき,供養塚でありながらも後に入定伝説が付着したものもある。入定伝説をもつ塚は行人塚のほか,入定塚,山伏塚,法印塚,念仏塚などとも呼ばれ,関東地方を中心として東日本に多く分布している。入定した後の数日間は読経,念仏,鉦をたたく音が聞こえたとも伝えられる。入定の例としては,湯殿山の一世行人と称される修験の入定がよく知られており,現在即身仏としてまつられている本明海上人の場合は,一千日の十穀断ちなどの木食行をした後に61歳で入定したと伝えられている。入定者は死後に神としてまつられ,生前の誓願によって各種の効験を示す。この信仰は弥勒信仰の衆生救済観にもとづき,空海の入定信仰の影響を受けて成立したといえる。なお供養塚としての行人塚は千葉県下の出羽三山登拝者が築く塚が代表的なものといえる。         宮本 袈裟雄

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88名無しさん:2013/07/20(土) 23:10:54
金峰山
きんぷせん

奈良県中部,吉野の金峰山は修験道発祥の山として知られ,全国に分布する金峰山やそこにまつられる蔵王権現は,この吉野金峰山を模倣し勧請したものである。金峰山の境域は明確ではなく,およそ吉野山から大峰山にかけての山々を指すが,本来は青根ヶ峰(858m)を主峰とし,その信仰も神奈備(かんなび)信仰に発したと思われる。しかし忿怒相で火索を背負う金剛蔵王権現が主神となるに及んで,山上蔵王堂が存在する山上ヶ岳が金峰山の主峰になったのである。吉野金峰山は奈良時代末より平安時代中期にかけて多くの修行者が入山し,吉野の愛染,岩倉を中心に多数の堂塔が造立され修験の一大勢力を形成した。また古くから〈金の御嶽(かねのみたけ)〉と呼ばれ,黄金を蔵する山とする観念があり,さらには弥勒浄土の兜率天(とそつてん)内院に擬されて宇多法皇,白河上皇の御幸をはじめ,藤原道兼,道長,師通なども参ったほど御嶽詣が流行した。なかでも1007年(寛弘4)の道長の御嶽詣,納経は世に広く知られている。

 蔵王権現はすでに9世紀に出現しているが,後に修験道の開祖役行者(えんのぎようじや)(役小角(えんのおづぬ))の蔵王権現感得譚が流布したこと,山上ヶ岳より出土した多数の遺物のうち神仏像の大半が蔵王権現であること,江戸時代の制作が多いものの,蔵王権現を中央に配し,天満天神,佐抛明神,子守明神,勝手明神,役小角,八王子などを描いた吉野曼荼羅が存在することなどからも蔵王権現に対する信仰の強さがうかがわれる。また吉野山は空海や聖宝との関係から修験道当山派の拠点とされてきた。   宮本 袈裟雄

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89名無しさん:2013/07/20(土) 23:12:20
玄中寺
げんちゅうじ

中国,山西省交城県の標高900mにある寺。文水に面した石壁山の山号をもつ玄中寺は,中国でもっとも由緒ある浄土教の寺院である。北魏の曇鸞(どんらん)が,浄土教へ回心して,晩年にこの寺に住した。のちに涅槃経を修めていた道綽(どうしやく)が,609年(隋の大業5)48歳のときにこの寺にきて曇鸞の碑文をよみ,浄土教に帰したとされる。さらに善導が,この寺に道綽を訪ねて教えを請うた。つまり浄土宗の三祖ゆかりの仏跡として知られる。唐代には隆盛をきわめ,795年(貞元11)には甘露義壇が設けられ,長安の霊感壇,洛陽の会善壇と並んで天下三戒壇の一つとなった。大雄宝殿の前庭に〈石壁山鉄弥勒像頌碑〉と〈唐石壁禅寺甘露義壇碑〉の二つの唐碑があり,七仏殿には印相の異なる7体の阿弥陀如来像が並び,また日本から贈られた曇鸞・道綽・善導三師の画像をまつる三祖堂もある。            礪波 護

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90名無しさん:2013/07/20(土) 23:13:27
広隆寺
こうりゅうじ

京都市右京区にある寺。山号は蜂岡山。別に太秦寺(うずまさでら),蜂岡寺,川勝寺,秦公寺(はたのきみでら)ともいい,俗に太秦の太子堂と呼ばれる。真言宗別格本山。秦河勝(はたのかわかつ)が,603年(推古11)に聖徳太子から仏像をさずかり,その像を安置するため622年に創建したのが当寺で,京都では最古の寺院の一つである。創建当初の寺地は,いまの場所から北東数kmの地点とされ,現地には平安遷都時あるいはそれ以前に移った。秦河勝は当寺付近の損野(かどの)一帯の地域に勢力をもった渡来系氏族の秦氏の首領であって,秦公寺の別称が示すように,当寺は聖徳太子ゆかりの秦氏の氏寺として,歴史の幕をあけた。だが,818年(弘仁9)に全焼,840年ごろ(承和年間)に道昌僧都が再建したが,1150年(久安6)再び全焼,65年(永万1)藤原信頼が中心となって再興したが,往古の伽藍の制はいまはない。近世まで三論・真言兼学の寺で,朱印高は600石,塔頭(たつちゆう)10余ヵ寺を数えたが,明治維新によって諸院の多くは廃絶した。秦氏が衰退した以後の当寺は,秘蔵する仏像の霊験を宣伝して,信仰の寺として寺運を保った。信仰の中心は古代・中世・近世を通じて薬師信仰と聖徳太子信仰だった。病気平癒の現世利益を願う薬師信仰は,平安初期から当寺安置の薬師如来の霊験が世にきこえ,貴賤が群参し参籠する風が広くおこった。また,太子を神格化する聖徳太子信仰は,とくに鎌倉時代から高まり,当寺はその中心寺院の一つとなって寺運を一時もりかえした。太子像を安置した上宮王院(しようくうおういん)(太子堂)や桂宮院(けいくういん)の八角円堂が太子信仰の中心となり,当寺にちなむ種々の太子の伝承が生まれ,また足利将軍家歴代の保護も続いた。なお,有名な〈太秦の牛祭〉は,当寺の伽藍神である大酒(おおさけ)神社の祭礼で,毎年10月12日の夜に境内で行われる。当寺の僧侶5人が異形の面をつけ,そのうち1人は摩押羅神(まだらじん)となって牛に乗って境内を一巡し,仮金堂の前の祭壇に登って奇妙な祭文を読みあげ,終わると堂の中に駆け込んでこの祭りは終わる。摩押羅神の異形な面をかたどった紙の面が,悪疫除災のお守りになるといわれ,参詣者に売られる。京都の三奇祭の一つである。摩押羅神は慈覚大師が入唐のとき,勧請し持ち帰った神だといわれ,はじめ叡山にまつられたが,のち当寺に移され,この祭りが生まれたという。
                         藤井 学

[美術]  境内には八角円堂である桂宮院本堂(国宝・鎌倉時代)や講堂(重要文化財・1165)のほか,楼門,上宮王院本堂,宝物殿などがある。宝物殿では2体の木造弥勒菩醍半跏像(国宝・飛鳥時代),十二神将像(国宝・平安時代後期)をはじめ多くの古仏や絵画・書籍が公開されている。軽くほおに指をあてうつむきかげんに思いをこらす弥勒の姿は,隋様式になるもので,韓国国立中央博物館所蔵の銅造半跏像との類似が指摘されている。講堂内には,本尊阿弥陀如来座像,不空羂索観音立像,千手観音立像(いずれも国宝・平安時代初期)をはじめ地蔵菩醍像,虚空蔵菩醍像などが安置されている。            益田 兼房

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91名無しさん:2013/07/20(土) 23:14:50
小谷喜美 1901‐71(明治34‐昭和46)
こたにきみ

宗教法人霊友会初代会長。神奈川県三浦に生まれ,1925年に霊友会の教祖となる久保角太郎の実兄小谷安吉と結婚。久保の教導にふれ,霊友会創立につくし,30年7月会長に就任,布教に専念して,社会奉仕活動に尽力,霊友会の基礎をきずいた。64年には伊豆遠笠山に弥勒山を建立。霊友会は,夫と妻両家代々の先祖をまつる先祖供養を説き,戦後の新宗教に大きな影響をあたえた。                     大濱 徹也

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92名無しさん:2013/07/20(土) 23:15:45
蔵王権現
ざおうごんげん

金剛蔵王菩醍ともいう。修験道の開祖役行者(えんのぎようじや)が金峰山(きんぷせん)の頂上で衆生済度のため祈請して感得したと伝える魔障降伏の菩醍で,釈梼仏の教令輪身。胎蔵界曼荼羅虚空蔵院の金剛蔵王(こんごうぞうおう)菩醍とは別体。形像は一面三目二臂(ひ),身色青黒の忿怒形(ふんぬぎよう)で,左手は剣印を結んで腰につけ,右手は三鈷杵(さんこしよ)を奉持して頭上高く掲げ,左足は磐石を踏み,右足は空中に躍らす。役行者の祈請により山上湧出岩から躍り出たそのときの姿を表したものとされる。経軌(きようき)には見えず,日本の山岳信仰の中で生まれた独自の権現で,磐境(いわさか)の巨石信仰に由来すると思われる。《本朝法華験記》に,849年(嘉祥2)に没した僧転乗が生前金峰山の金剛蔵王宝前に参詣した話を載せているので,平安初期に奉斎されていたことは確実である。平安中期に弥勒(みろく)信仰が盛んになり,金峰山は弥勒浄土の兜率(とそつ)内院に擬せられ,金剛蔵王は弥勒の化身とされた。これによって御嶽詣(みたけもうで)するものが多く,金峰山は天下第一の霊験所,蔵王は日域(日本)無二の化主とまでいわれた。修験道の隆盛,普及にともない,その本尊として諸国の霊山に勧請,奉斎された。最古の像は東京都総持寺(西新井大師)所蔵の毛彫鏡像(国宝)で,1001年(長保3)の作である。           鈴木 昭英

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93名無しさん:2013/07/20(土) 23:17:15
慈恩寺
じおんじ

山形県寒河江市にある慈恩宗本山,現在3院17坊からなる寺の総称。山号は瑞宝山。寺伝に746年(天平18)婆羅門僧正の開基といい,今日まで法相宗の法式を伝える。平安末にはこの地方の荘園の主摂関家の力に負い,寒河江荘の大寺として繁栄した。閑寂なたたずまいの萱葺きの本堂(弥勒堂)を中心に,平安末期,鎌倉期,室町期の諸仏像,中世の仏具,絵画,文書などを多く伝蔵する。また,平安末の慈恩寺一切経は,宮城県名取新宮寺一切経の一部として伝存している。江戸時代には朱印寺領2812石を得,衆徒22ヵ寺,宮仕役僧6人を支配していた。一子相伝の名のもとに伝承された林家の舞楽の奉納が,毎年5月8日に行われる。                竹田 賢正

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94名無しさん:2013/07/20(土) 23:19:55
貞慶 1155‐1213(久寿2‐建保1)
じょうけい

鎌倉初期の法相宗の僧。解脱上人と号する。藤原貞憲の子で,保元の乱の立役者信西の孫にあたる。1162年(応保2)8歳で南都に下向,11歳で出家して以来,82年(寿永1)28歳で維摩会の研学竪義,86年(文治2)32歳で維摩会講師を務めるなど,興福寺学侶としての栄達の道を進んだ。この間,九条兼実をはじめとする貴族の帰依も得たが,92年(建久3)生涯の転機となる笠置寺への隠筒を行った。この笠置隠筒の理由についてはこれまでも諸説があげられているが,弥勒浄土とされた笠置寺を拠点として弥勒信仰を広めることで,顕密仏教改革派の立場から法然の浄土教学に対抗せんとしたことがその一つの理由であろう。1205年(元久2)の著述になる,法然を批判した《興福寺奏状》がある。08年(承元2)海住山寺に移り,観音信仰を修め,同時に戒律興行を図った。著書に《愚迷発心集》がある。        細川 涼一

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95名無しさん:2013/07/20(土) 23:20:28
論山
ろんさん (R)Nonsan

韓国,忠清南道内陸の郡。人口15万0190(1995)。韓国の穀倉,湖南平野の一画を占める論山平野に位置し,稲作中心の農業地帯である。郡内には古くからの河港都市である江景,陸軍第2訓練所を中心とする錬武,交通の要衝として江景にかわる商業地を形成した論山の三大邑がある。最大の論山邑は湖南線の要駅で,バス交通の結節点としてにぎわい,サービス業に従事する人口の比率が高い。郡北方に名峰鶏竜山,また恩津には高麗石仏として有名な弥勒菩醍のある灌燭寺がある。                    谷浦 孝雄

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96名無しさん:2013/07/20(土) 23:21:30
六郷満山
ろくごうまんざん

大分県国東(くにさき)半島には古くは国埼(東)郡として六つの郷があった。この六郷に成立した多くの天台宗寺院を六郷山または六郷満山と総称する。750年(天平勝宝2)国埼郡来縄(くなわ)・安岐・武蔵郷内は宇佐八幡宮比黄神封戸となったが,また970年(天禄1)公家貢進の330余戸(《宇佐託宣集》)が宇佐八幡宮神宮寺の弥勒寺領とすれば,これによって国衙領国前(東)郷を除くすべては宇佐八幡宮寺領となった。この地域には古くから草堂寺院が多く,10世紀ごろからこれらは山岳寺院となり,平安末期には65ヵ寺800余といわれる院坊を形成した。これらの寺ははじめ惣山以下諸職を分担し教団を作ったが,末期に弥勒寺を離れ比叡山に本家職を寄進した関係もあり,天台系の本・中・末の三山組織をもった。開基は人(仁)聞菩醍というが,建立したのは弥勒寺または宇佐宮である。富貴寺,伝乗寺(真木大堂)の仏像,長安寺の太郎天童等々には宇佐の民俗仏教や天台,熊野修験,朝鮮半島の文化様式がみられる。平安末期に最も隆盛となり,鎌倉期より衰えたが,武士が檀那に代わり,種々の石仏,石造塔婆を創造し,修正鬼会,盲僧教団などを護って,衰退を続けたものの現存している。⇒国東半島 中野 幡能

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97名無しさん:2013/07/20(土) 23:22:02
立石寺
りっしゃくじ

山形市にある天台宗の寺。山号は宝珠山。俗に山寺(やまでら)と称される。860年(貞観2)慈覚大師円仁の開山と伝え,東北屈指の慈覚大師信仰と庶民信仰の霊山である。慈覚大師入滅の地は比叡山とされるが,当寺でも山頂南面の絶崖にある岩窟が大師の入定(にゆうじよう)窟とされている。1144年(天養1)にはその霊窟上部に如法経所碑(重要文化財)が建てられた。その碑文では弥勒信仰に慈覚信仰が重ね合わされている。また日蓮の書状は〈御頸は立石寺にあり〉との鎌倉時代の風聞を伝えており,分骨埋葬説が有力である。今も霊窟に眠る頭部彫刻や遺骨の一部がそれとされる。霊窟周辺の岩窟から,納骨した木製五輪塔など鎌倉時代の遺品も発掘され,死者の霊のかえる山として,この風習は今なお歯骨や卒塔婆,後生車が納められ息づいている。江戸時代には朱印寺領1420石,衆徒18ヵ寺,坊跡12坊,末寺3ヵ寺,門徒2ヵ寺を抱える大寺であった。全山いたるところ風水食による岩穴や奇岩に満ち,松尾芭蕉も訪れた景勝地で,現在も根本中堂,三重小塔(ともに重要文化財)など多くの伽藍諸堂が点在する。                      竹田 賢正

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98名無しさん:2013/07/20(土) 23:23:01
来訪神
らいほうしん

1年に1度,時を定めて異界から人間の世界に来訪して,さまざまな行為をし,人々に歓待される神々を一般に来訪神とよぶ。来訪神はいわば異人の一種であり,〈まれびと〉である。われわれは,われわれの住む世界が自己(もしくは自己の仲間たち)と異人という二元的構成をとっているとみなしており,異人に対しては畏敬の観念をもつとともにこれを厚くもてなす異人歓待の観念が発達している。来訪神の多くは人々が仮面仮装した異形の姿であらわれるが,こうした来訪神信仰は,日本のみならず未開社会と文明社会にわたる多くの社会に存在している。未開社会の例としては,メラネシアのニューブリテン島のドゥク・ドゥクがよく知られているし,文明社会の例としては東ヨーロッパのベルヒテンとかイェガーとよばれる仮面仮装来訪神がある。

 日本においてもこの来訪神信仰は強く認められ,とくに東北地方や九州の南の南島においてきわめて盛んである。日本の来訪神には三つの形態がある。ひとつは仮面仮装した異形の姿で来訪するものであって,秋田のナマハゲ,能登のアマメハギ,三陸のナモミ,ヒガタタクリ,需島(こしきじま)のトシドン,吐菓喇列島悪石島のボセ,宮古のパーント,八重山のアンガマ,アカマタ・クロマタ,ミルク(弥勒),マユンガナシ,フサマラーなどがある。仮面仮装する者の多くは若者であり,また特別の資格を備えた村人である。仮面仮装来訪神としてよく知られているナマハゲは小正月の晩に鬼面をかぶり,蓑笠にわら靴をはき,木の刃物をもって家々を訪問し,子どもや女たちを威嚇したのち酒食のもてなしをうける。また八重山のいくつかの村にプール(豊年祭)のときに来訪するアカマタ・クロマタは赤や黒の仮面をつけ,木の葉で身体全体をおおった姿で出現し,人々の熱い歓迎をうけたのち,村中の各家をめぐって来たるべき作物の豊穣をもたらすと信じられている。また波照間島に雨乞い行事にあたって来訪したフサマラーは,雨の神とされる来訪神であって,ひょうたんでつくった仮面をつけ,フサマラー山とよばれる小さな山から出現し,村中の井戸をまわって雨をもたらすと信じられている。来訪神の第2の形態は,南島にしばしばみられるように,さまざまな儀礼や神歌の中に暗示されて具体的な姿をまったく見せぬものである。この場合には浜にでて神女たちが行うユークイ(世乞)やハーリー船競争(ペーロン),網引きなどによって来訪神の神迎えが行われる。たとえば沖縄西表島の節祭では各村でハーリーが行われ,そのハーリーが村にもどるとき女たちは神を踊りと独特の手招きで迎える。これらの競争が東西に分かれて行われ,西組が勝つとよいとされるのは,南島では来訪神が東方はるかなるニライカナイから来ると信じられているからである。来訪神の第3の形態は,仮面仮装の形はとらないが,子どもたちが来訪して来る形態をとるものである。これには東北地方のカセドリ,スルメツリ,中国地方のホトホト,コトコト,鹿児島のカセダウチなどがある。この形態においては子どもたちは組をなして,村中の各家を訪問し,大判・小判やわら馬などを各家に置いたあと,蛭や菓子,金などを各家からもらうことが多い。

 このようにさまざまな形で来訪する来訪神信仰の共通する特徴として次の諸点をあげることができる。第1は,来訪神が新年や小正月,豊年祭,節祭など1年の季節の変り目に1度来訪することである。第2は,こうした来訪神が海上はるかなる他界から来訪すると信じられていることが多いことである。南島ではこうした海上他界をニライカナイとよび,そこから来る来訪神をニロー神,ニイルピトとよんでいる。第3は来訪神が人々に穀物の豊穣や幸福をもたらすと信じられていることであり,各家を訪問した際にのべる祝いの言葉や耕作方法を盛りこんだ言葉にこれがあらわれている。南島の八重山において布袋の面をかぶったミルクがもたらすミルク世果報(ゆがふ)はその代表的なものである(弥勒信仰)。第4はこうした来訪神信仰の担い手の組織および儀礼がきわめて秘儀的性格をもっていることであり,なかにはアカマタ・クロマタのように秘密結社的組織をもつものもある。こうした秘儀的組織は若者たちによって構成される例が多く,若者組や若者宿の習俗と密接な関連をもつといえる。多くの来訪神が女性や子どもたちをしばしば威嚇するのはこうした性格にもとづくものである。こうした秘儀的性格は異人としての来訪神がわれわれの世界に再生のエネルギーをもたらすという事実にも深く関連しているのである。
                        上野 和男

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99名無しさん:2013/07/20(土) 23:25:30
雍和宮
ようわきゅう

中国,北京に現存するラマ教寺院。本寺の前身は雍親王府といい,清の雍正帝の即位以前の宮邸(1694年建立)であった。雍正帝の即位後,1725年(雍正3)に旧宮邸の半分がラマ教寺院に改造され,残り半分が行宮として残されて,名も雍和宮と改められた。雍正帝の没後,44年(乾隆9)乾隆帝の命により,雍和宮の全体がラマ教寺院に大改造されて,その寺格も皇居宮殿と同等とされた。雍和宮の主要建造物には天王殿,正殿,永佑殿,法輪殿,万福閣の五つがあり,このうち万福閣は最大の建造物で,その屋内に像高18mの白檀の弥勒立像がある。この像は50年チベットのダライ・ラマ7世から清朝によるチベットの反乱平定に謝意を表するため寄進されたものである。境内には以上の建造物と並んで諸殿が配置されるが,とくに薬師殿,数学殿,密宗殿,講経殿は四学殿と称され,ラマ僧の修学の教場に充てられたものである。                    若松 寛

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100名無しさん:2013/07/20(土) 23:26:12
瑜伽師地論
ゆがしじろん

インド大乗仏教の論書。唯識派(ゆいしきは)の基本的な典籍。原題はサンスクリットで《ヨーガーチャーラブーミ Yogac´rabh仝mi》。略称《瑜伽論》。著者は漢訳ではマイトレーヤ(弥勒),チベット語訳ではアサンガ(無著)とする。4世紀ころの成立。サンスクリット原典(一部分のみ既刊)のほか,チベット語訳,漢訳(玄奘の全訳,ほかに部分訳)が現存。漢訳で全100巻の膨大なもので,全体は五分され,本地分(1〜50巻),摂決択分(51〜80巻),摂釈分(81,82巻),摂異門分(82〜84巻),摂事分(85〜100巻)からなる。そのうち,本地分が中心で,17段階に分けてヨーガの修行の階梯を説いている。また,三性・三無性,唯識,阿頼耶識などの唯識派の基本的な問題はすべて本書中に取り上げられている。⇒唯識派         末木 文美士

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101名無しさん:2013/07/20(土) 23:27:17
明玉珍 1331‐66
めいぎょくちん

中国,元末群雄の一人。随州(湖北省)の人。1353年(至正13)徐寿輝の天完国に参加し重慶を拠点に勢力を伸ばしたが,60年陳友諒が徐寿輝を殺して大漢国をたてると隴蜀王として自立し,四川一帯を支配した。62年大夏国をたてて皇帝となり,弥勒ないし明(マニ)教を信奉して周制を模倣した官制をしき,科挙を施行するなど体制の確立に努めた。没後,子昇が位をついだが,71年(洪武4)明朝に下った。                阪倉 篤秀

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102名無しさん:2013/07/20(土) 23:28:44
弥勒踊
みろくおどり

民俗芸能。弥勒信仰にちなむ芸能で,弥勒歌などを歌いながら踊る。沖縄,履城,千葉,神奈川,静岡などの海岸地方に分布し,地方によって鹿島踊ともいう。鹿島踊は鹿島神宮の信仰に関係があり,弥勒の来訪を賛美する歌から弥勒踊とも呼ばれる。千葉県館山市の鹿島踊,埼玉県春日部市の〈やったり踊〉も弥勒踊と称している。沖縄では弥勒は海の彼方から幸せを招き寄せる神と信じられ,収穫祭や結願(けちがん)の祭りなどに演じられる。那覇市首里では弥勒は布袋(ほてい)の扮装をして若い眷属(けんぞく)を引き連れて登場し,八重山では花籠を捧げた少女を従えて登場する。⇒鹿島踊                   西角井 正大

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103名無しさん:2013/07/20(土) 23:30:37
布袋 ?‐917
ほてい

中国,唐末五代の僧。名は契此,別に定応大師,長汀子ともよぶ。容貌奇異,額と腹が大きく,いわゆる布袋腹である。明州奉化県の岳林寺に名籍をもつだけで,嗣法を明かさず,居所を定めず,日常生活の道具を入れた布袋をかつぎ,杖を負うて各地に乞食し,人々が与えるものは何でも布袋に放り込んだことから,布袋の名を得た。神異の行跡が多く,分身の奇あり,一鉢千家の飯,孤身幾度の秋云々,その他,貞のような偈頌(げじゆ)が知られて,生前すでに弥勒の化身とみられた。滅後はさらに俗信が加わって,その像を画いて福を祈る風が生まれ,水墨画のテーマとなる。近代は弥勒信仰の拡大とともに,いずれの寺でも,宗派を問わず,その木像を祭るようになり,観世音菩醍とあわせて,民衆にもっとも魅力のある尊像となる。日本でも,早くより七福神の一人として,招福の神とみられるが,黄檗宗の伝来によって,その信仰がいよいよ強まり,今日に至る。
                        柳田 聖山

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104名無しさん:2013/07/20(土) 23:31:33
法顕 337?‐422?
ほっけん

中国,東晋時代の求法(ぐほう)訳経僧。姓は釦(きよう)。平陽郡武陽(山西省襄垣県)の人。わずか3歳で沙弥となり,20歳のとき大戒をうけた。そのころ中国に律蔵が完備していないのをなげき,399年(隆安3)に60余歳の老齢の身で,同学の僧らと長安を出発して,陸路インドへ向かった。敦煌から西域に入り,ヒマラヤを越えて北インドに至り,インド各地やスリランカで仏典を求め仏跡を巡礼する旅をつづけた。30余国を遍歴したのち,戒律などのサンスクリット経典をもって,海路帰国の途についたが,暴風雨に遭い,412年(義熙8)に青州長広郡(山東省)にひとり無事に帰着した。この14年間にわたる旅行中の見聞を著したのが,《仏国記》つまり《高僧法顕伝》である。建康(南京)の道場寺でブッダバドラ(仏陀跋陀羅)とともに《摩訶僧梢律(まかそうぎりつ)》《大般泥香経(だいはつないおんきよう)》など6部63巻にのぼる経律を漢訳した後,草州辛寺で亡くなった。この《摩訶僧梢律》は,やがて《四分律》にとって代わられるとはいえ,北朝では盛んに行われたのであり,《大般泥香経》は早速に竺道生らによって研究され,涅槃(ねはん)宗成立の契機となった。法顕はまた,西域やインドの弥勒(みろく)信仰を中国に伝えたことでも知られる。           礪波 護

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105名無しさん:2013/07/20(土) 23:32:06
法起寺
ほっきじ

奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の寺。山号は岡本山。法隆寺の北東方,岡本集落の南部にあり,地名により岡本寺,池畔にあるので池後(いけじり)寺(池尻寺)とも称された。《上宮聖徳法王帝説》などによると,聖徳太子建立七ヵ寺の一つと伝え,606年(推古14)に太子が《法華経》を講説した岡本宮を,遺言により山背大兄王が寺に改めたという。その後638年(舒明10)に福亮僧正が金堂と弥勒像を造り,685年(天武14)に恵施僧正が堂塔の建立を発願し,706年(慶雲3)三重塔の露盤が完成した。当初は塔と金堂を東西に並立するいわゆる法起寺式伽藍配置で,奈良時代には金銅仏12体のほか,多数の仏教経典を所蔵した。1081年(永保1)官命によって塔の露盤銘文が写し取られ,1262年(弘長2)には初めて塔が修理されたが,14世紀中葉に塔をのこして金堂,講堂などが倒壊,以後寺勢振わず,1678年(延宝6)真政が堂塔を修理し,1715年(正徳5)碩峰が本堂と庫裏を再建した。1960‐61年,68年の伽藍地発掘調査により,金堂,講堂,中門,南門の規模が判明した。高さ23.9m,現存最古最大の三重塔は国宝,本尊木造十一面観音立像(平安時代),銅造菩醍立像(飛鳥時代)は重要文化財に指定されている。
                        堀池 春峰

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106名無しさん:2013/07/20(土) 23:33:24
菩醍
ぼさつ

〈悟り(ボーディ bodhi)を目ざす人〉の意で,仏陀(悟った人)になる前の段階にいる人を指す。サンスクリットのボーディサットバ bodhisattva の音訳。より正確には菩提醍凱。意訳は覚有情。初め仏陀の前世物語〈ジャータカ〉において,善行を積んでいた釈梼牟尼を指していたが,大乗仏教の興起とともに,〈悟りを目ざして励む修行者〉一般を指すようになった。大乗教徒によれば,小乗教徒は自分の悟りのみを目ざす利己的な人間である。大乗教徒は自分の悟りを一時延期しても衆生のそばにとどまって,衆生の救済に努めなければならない。おそらくこの考えには成仏しえぬ自己への反省と,成仏以前の段階にとどまることの正当化がこめられているであろう。菩醍は完成者ではないから,歴史上の人物(世親,行基ら)の称号にもなりうる。また,弥勒は将来,仏となって下界に降りてくるまでは菩醍の名で呼ばれる。 定方 里
 菩醍は成仏以前の姿であるため本来その形姿は一定しないが,造形作品として表現された菩醍は古代インドの貴人をもとにしており,頭髪は髻を結い,宝冠をつけ,身体には条帛,裳(裙(くん))や天衣を着し,さらに胸飾,瓔珞(ようらく),鐶釧でもって荘厳する。手は種々な印相を示したり,持物を執って各菩醍の特性を明示する。さらに多面多臂をとる変化身(へんげしん)や種々な姿勢をとる像も見いだされる。一般に菩醍は柔和な面貌で,悟りを目ざす修行者としての慈悲の相を表している。                      百橋 明穂

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107名無しさん:2013/07/20(土) 23:33:56
法住寺
ほうじゅうじ

韓国,忠清北道報恩郡俗離山にある寺院。寺伝によると新羅真興王(在位540‐576)創立,聖徳王が重修したと伝える。統一新羅時代の双獅子石灯,石蓮池,四天王石灯,磨崖弥勒菩醍像など多くの石造物を残すが,建物はいずれも李朝時代のものである。1624年(仁祖2)建立の捌相殿(べつそうでん)は,半島で現存唯一の木造五重塔で心礎に舎利を奉安。各層間の逓減が大きく,韓国独自の工法による多層建物の架構法を示す典型例である。現在も信仰・観光の中心地として多くの善男善女でにぎわっている。        宮本 長二郎

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108名無しさん:2013/07/20(土) 23:34:58
仏陀
ぶっだ

〈悟った者〉を意味するサンスクリットのブッダbuddha の音訳。浮図(ふと),浮環(ふと)と音訳されたこともあり,仏(ぶつ)とも略称される。意訳は覚者。〈悟る,目覚める〉の意の動詞ブッド budh の過去分詞 buddha(〈悟った〉)が普通名詞となったもの。したがって〈仏陀〉は古来から存する真理を悟った人の意であり,真理の創造者ではない。〈仏陀〉は多数存在することができ,ジャイナ教の開祖マハービーラもこの名で呼ばれたことがある。しかし一般には,〈仏陀〉といえば釈梼をさす。仏教では仏陀として過去七仏,未来仏としての弥勒仏,過去・現在・未来の三千仏などが考えられるようになった。また三身の説,すなわち真理そのものとしての法身(ほつしん)仏(たとえば毘盧遮那(びるしやな)仏),願を立てて浄土の主となり衆生の救済をはかる報身(ほうじん)仏(たとえば阿弥陀),娑婆世界に人間の姿をとって現れる応身(おうじん)仏(たとえば釈梼牟尼仏)の説が出現した。⇒仏(ぶつ)‖仏教            定方 里

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109名無しさん:2013/07/20(土) 23:37:00
武周革命
ぶしゅうかくめい

中国で,690年に唐の睿宗(えいそう)の生母である太后の武氏(則天武后)が,皇帝となって国号を周と改め,唐朝を中断させたことをいう。病弱の高宗に代わって政務を決裁してきた武后は,朝廷における実権を掌握してしまい,683年(弘道1)に高宗が亡くなると,武后の子である太子哲が即位して中宗となったが2ヵ月たらずで廃され,つぎに立った睿宗もまったくの傀儡(かいらい)にすぎなかった。武太后は有能な密告者を官に取り立てて秘密警察の網の目を強化し,唐の宗室を排除しつくしたあげく,中国上代の理想の世とされる周朝を再現せんとし,また愛人の怪僧薛懐義(せつかいぎ)らに《大雲経》という仏典に付会した文章を作らせ,〈太后は弥勒(みろく)仏の下生なり,まさに唐に代わって帝位につくべし〉と宣伝させたのである。690年の9月,武太后は,睿宗および臣民こぞっての懇請を受け入れて皇帝となり,国号を周と改め,天授と改元し,睿宗は皇嗣に格下げとなり,武氏の姓を与えられた。中国史上,女性で皇帝となったのは彼女だけである。文化大革命の進行過程で,毛沢東夫人の江青は,みずから則天武后の現代版たらんとし,則天武后を賛美する運動を展開し,武周革命の再現を企図したが,失敗に終わった。⇒則天武后            礪波 護

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110名無しさん:2013/07/20(土) 23:38:02
富士講
ふじこう

富士山の信仰集団で,江戸時代半ばに,江戸とその周辺農村部に組織化された。伝説上の富士講の開祖は,角行(かくぎよう)といい,富士の人穴(ひとあな)で修行した修験の一人であったらしい。角行の弟子の行者たちが,江戸に出てきて布教した段階では,まだ未組織で,もっぱら祈裳中心の信仰活動であった。しかし6代目行者身禄(みろく)が出現するに及んで,富士講に大きな変化が生じた。身禄は,ミロクと訓じ,弥勒菩醍を予想させている。弥勒仏の生れ変りの存在でこの世を救うというメシアニズムが認められる。具体的な身禄の教えは,江戸の職人や中小クラスの商人たちの間で,一つの道徳律となって浸透した。身禄は1733年(享保18)6月に,富士山吉田口七合五勺の烏帽子(えぼし)岩で断食修行を行い,入滅した。この自殺行為は,当時の世相をにぎわした。そして身禄の死を一つの契機として,急速に信者が増大したのである。文献初見は,〈江戸身禄同行〉の名称で,この同行は身禄の弟子高田藤四郎によって,1736年(元文1)に成立したと伝えられている。1795年(寛政7)の町触に,〈近年富士講と唱え〉といわれ,この段階では,富士講が若い世代の信者たちにも受け入れられていたことがわかる。寛政年間(1789‐1801)以降には,富士講の存在が禁令の対象となっているが,〈江戸八百八講〉と表現されているように,町内ごとに地域社会にうまく密着していた。富士講は,先達(せんだつ),講元(こうもと),世話人(せわにん)の三役によって組織され,近代以後には,扶桑教(ふそうきよう),実行教,丸山教などの神道教派になっている。⇒富士信仰‖弥勒信仰                  宮田 登

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111名無しさん:2013/07/20(土) 23:38:35
賓頭盧信仰
びんずるしんこう

釈梼の弟子賓頭盧頗羅堕(びんずるはらだ)Pilfolabh´radv´ja に対する信仰。賓頭盧は十六羅漢(羅漢)の第一にあげられ,神通力を有し,あるとき人にすすめられ,高象の牙に懸かる栴檀の鉢を梯杖を用いず座しながら取る奇跡を演じた。これを知った釈梼から外道(げどう)を現じたとして呵責され,末法の世,弥勒仏が出るまで煩悩なき涅槃(ねはん)の境地に入ることを許されず,この世で布教を続けねばならぬとされた。中国では470年ころ正勝寺法願,正喜寺法鏡などが初めて賓頭盧すなわち聖僧を図画して礼拝し,爾来いつしか寺院の食堂にまつり,食を供えるようになった。日本でも,上古より大安寺,法隆寺などにまつられたが,後世,本堂の外陣にその木像を安置し,病患を有する人は患部にあたるところと同じ個所をなでると平癒するとの俗信が流行し,像は磨かれて光り,〈びんずる〉は禿頭者の形容に用いられるほどになった。            村山 修一

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112名無しさん:2013/07/20(土) 23:39:30
毘盧遮那仏(毘盧舎那仏)
びるしゃなぶつ

大乗仏教のなかでも最も汎神論的色彩の濃い,光明を属性とする仏。サンスクリットのバイローチャナ Vairocana の音訳で,前接辞バイ vai‐は〈広く〉の意,ローチャナの語根ルチ ruc は〈照らす〉の意である。略して盧遮那(るしやな)仏,意訳して光明遍照と呼ばれる。イランの太陽神信仰などと関連して出現したとされる無量光仏(=阿弥陀仏),弥勒菩醍などの一連の仏菩醍の一環と考えられよう。蓮華蔵世界に住し,《華厳経》や《梵網経》の教主となり,とくに後者においては,無数の釈梼を化現してさまざまに説法するとされ,東大寺大仏のモデルとなった。のち密教では,これにマハー mah´(大きい)をつけたマハーバイローチャナ Mah´vairocana(大日如来)が《大日経》の教主として,また全存在の根源として信仰されている。                       定方 里

[図像]  単独で造形された作例は少ないが,著名な作例としては東大寺大仏がある。743年(天平15)聖武天皇が大仏造立を発願し,749年(天平勝宝1)に鋳造をほぼ完成し,752年に開眼供養を行った。東大寺の本尊であるが,その後2度の兵火に焼損を被り,現在の大仏は江戸時代の修補になる部分が大きい。このほか唐招提寺金堂の本尊である脱活乾漆像は奈良時代後期の作例で,鑑真のもたらした新しい様式を反映した像である。絵画としては東大寺大仏の台座の蓮弁の蓮華蔵世界図がある。たびたびの兵火を免れた当初部分に線彫(毛彫)されたもので,《華厳経》《梵網経》の教主毘盧舎那仏を中心に無数の化現した仏・菩醍を表した図で,《華厳経》や《梵網経》に説く世界観をよく示している。また敦煌壁画中には華厳経変相として,《華厳経》に基づいてその教説を図解した作例があり,その中心に毘盧舎那仏が描かれる。⇒華厳経美術       百橋 明穂

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113名無しさん:2013/07/20(土) 23:40:59
英彦山
ひこさん

福岡県の南東部田川郡から大分県の北西部下毛郡にかけて位置する英彦山地の主峰で,標高1200m。主として新第三紀後期〜第四紀の火山岩からなり,標高約800mまでは筑紫溶岩で,その上に輝石安山岩をのせている。輝石安山岩が浸食に対する抵抗が強いため,山頂部はビュート地形で3峰に分かれ,中岳には英彦山神宮が鎮座する。古くから山伏の修験道場として栄えたが,明治維新後の神仏分離により衰微し,現在では英彦山神宮の門前町的な小集落がみられるだけである。しかし,樹齢1200年,高さ60mの鬼杉の巨木(天)や伝雪舟作の旧亀石坊庭園,奉幣殿,銅(かね)の鳥居などの文化財に富み,耶馬日田英彦山国定公園に指定され,またスキー場のある鷹ノ巣原に国民宿舎,キャンプ場,青年の家などがあって,春や秋の観光シーズンを中心に九州北部からの観光客が多い。JR 日田彦山線彦山駅から豊前坊までバスの便がある。      赤木 祥彦

[信仰]  古くは日子山と書き,嵯峨天皇のときに彦山と変わり,1729年(享保14)霊元上皇の院宣によって英彦山と書くようになった。英彦山は奈良時代の医僧法蓮の入峰以来,山伏の修験道場として栄え,最盛期には僧坊3800を数え,その信仰は九州一円に及び,大峰山,羽黒山と並んで日本の三大修験道場とされた。天狗や鬼がすむと伝えられるほど奇岩怪石に富み,中世末から近世期にかけて,本山派,当山派が全国的規模で修験道の組織化を推し進めていくなかでも,英彦山は東北の出羽三山とともにその独自性を保ってきた。

 英彦山信仰は山岳信仰史・修験道史においても注目する点が少なくない。それは,修験道の教義的側面を発展させ指導的役割を担ってきたことと,古代から中世にかけての信仰を伝えていることであろう。たとえば弥勒兜卒(みろくとそつ)内院四十九院に擬した49窟の存在は,山中を駆けめぐる抖芹(とそう)修行が導入される以前の洞窟籠り修行を伝えている。また,ほぼ九州全域に分布する檀那に経済的基盤を置く以前は,〈四境七里〉と称された神領が基盤となっていたこともその一例である。さらに大陸との関係,三組一山という近世期支配体制,行事の変化と芸能など特筆すべき点が少なくない。しかし,明治の廃仏棄釈で修験的堂宇や仏像は奉幣殿を除いて大部分失われてしまった。なお,英彦山みやげとして彦山土鈴が古くから有名で,今でも農家の豊作祈願の呪具となっている。⇒英彦山神宮‖彦山派
                      宮本 袈裟雄

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114名無しさん:2013/07/20(土) 23:41:40
比丘尼
びくに

出家して戒を受けた女性,仏教教団の正規の女性出家者。尼僧のこと,単に尼(あま)ともいう。サンスクリット bhikoul ̄,パーリ語 bhikkhun ̄ の音写。日本における比丘尼のはじめは,蘇我馬子が桜井道場で弥勒像をまつらしめた善信,禅蔵,恵善の3人であり,彼女らは神に奉仕する巫女と同じであった。以後,仏教受容は急速に進み,624年(推古32)には尼569人に達した。比丘尼に限らず,古代の僧尼は巫覡(ふげき)的な性格が著しく,仏教的呪力に対する期待から,集団的得度さえ行われた。平安時代には皇女や貴族の子女を教育する尼僧が現れ,また比丘尼となる皇女も出た。皇女が尼僧となって住した寺を江戸時代には比丘尼御所と称した。

 一方,民間では,律令時代からひそかに僧形をとる巫覡が続出した。治病,託宣などを行う漂泊の自由出家者群であり,聖(ひじり)と称されるものに対応するのが比丘尼であった。比丘尼は巫女的女性であるが,なかでも熊野比丘尼が知られている。熊野比丘尼とは熊野信仰を伝える巫女の別名で,熊野系修験者が巫女の随従を認め,彼女らに比丘尼の名を与えたものと考えられる。中世中ごろから各地を旅し,持参の熊野那智参詣曼陀羅,熊野観心十界曼荼羅,熊野本地絵巻などを絵解きして,熊野信仰と観心という仏教教理を広めていった。また勧進(かんじん)比丘尼といわれるように,各地の社寺の修復にも努めた。しかし幕藩体制が確立する江戸時代になると,回国できなくなり,村落に定着せざるをえなくなった。やがて〈小歌を便に色をうる〉(《人倫訓蒙図彙》)歌比丘尼に零落した。東北から中国,四国地方にかけて,各地に白(しろ)比丘尼,八百比丘尼の伝承がのこっている。1449年(宝徳1)には,白髪の巫女めいた老尼が都に現れ,みずから若狭白比丘尼とも八百歳老尼とも称したという(《康富記》《臥雲日件録》)。このような白比丘尼,八百比丘尼の伝承は,中世にいたるまで普遍的にみられた歩き巫女の存在を暗示している。漂泊の女性についての伝承は,八百比丘尼であれ,和泉式部であれ,熊野比丘尼が語り歩いたものが多いと推定されている。                      伊藤 唯真

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115名無しさん:2013/07/20(土) 23:43:30
半跏思惟像
はんかしいぞう

台座に腰掛け,左足だけ垂下するが右足は足先を左大噌部にのせて足を組み,折り曲げた右膝頭の上に右肘を突いて右手を軽く右必にふれて思索する姿勢の像。座法のうちで一方の足先を他方の大噌部の上にのせて組む座り方を半跏趺坐(ふざ)というが,半跏思惟像の座り方は,下になる足を台の下へ踏み下げた形となる。この形式の像は,ガンダーラ地方の菩醍像の中に早くも表現されるが,中国では北魏時代の敦煌莫高窟(ばつこうくつ)第259窟,雲岡石窟第6洞などの菩醍像(彫像)に見られる。太和16年(492)の銘がある碑像では半跏思惟像が〈太子思惟像〉と記されており,この形式がシッダールタ太子思索の姿を意味するものとして用いられたことが知られる。やがて弥勒信仰が隆盛になるに従い弥勒菩醍の像となるに至るが,唐代以降は作例は少ない。韓国では国立中央博物館蔵金銅弥勒菩醍像をはじめ三国時代の作例が多数現存し,日本でも京都広隆寺の弥勒菩醍像,奈良中宮寺の弥勒菩醍像をはじめ,大阪野中寺の金銅弥勒像など,飛鳥・白鳳時代に多くの像が造られた。なお奈良岡寺の金銅小像ほか,如意輪観音像であるとの伝承をもつ半跏思惟像もある。またこの形式の像は密教像の中にはなく,非密教系の像形であると考えられている。
                        関口 正之

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116名無しさん:2013/07/20(土) 23:44:02
バーミヤーン
B´miy´n

アフガニスタンの中央部,ヒンドゥークシュとコーヒバーバー両山脈の間の東西に長い渓谷中にあり,北はアフガン・トルキスタン(アフガニスタンのうち,ヒンドゥークシュ山脈以北の地域)から中央アジア,東や南はインドに通じ,両世界の接点に位置した。現在はハザラジャートの東の入口に当たる寒村にすぎないが,バーミヤーン川とその支流によって造成されたレキ岩台地の崖面に1kmにわたって,約1000の6〜9世紀の仏教石窟が残り,なかでも中心部石窟群の東と西とにそれぞれ38mと55mの大仏立像を彫り出した巨大な龕(がん)は古来有名である。バーミヤーンの歴史はあきらかでないが,《魏書》《北史》に范陽,《隋書》に范延,《新唐書》に望衍とみえ,玄奘は梵衍那,慧超は犯引と記しており,5〜6世紀には中国にも名称,所在が知られたらしい。中世ペルシア語ではバーミカーンといい,10世紀のペルシア語地理書にバーミヤーンとみえて中国の呼称と符合している。またアラブ史書にみるラフーン Lah仝n は,《新唐書》の望衍の都である羅爛と対応しよう。10世紀ころその都はバルフと同じ規模を誇ったが,13世紀初めにチンギス・ハーンによる徹底した破壊をこうむった。7世紀初めに玄奘はその仏教文化の隆盛を仏寺数十,僧徒数千と伝え,小乗の説出世部に属したという。また二大立仏のほか,涅槃(ねはん)の巨像の存在ものべているが,今は込滅(いんめつ)している。二大仏はレキ岩を粗彫した上に,すさ混じりの泥土で彫塑を付加し,化粧がけして金彩色を施していた。天井や側壁にはフレスコ画を描く。東龕には太陽神と供養者をササン風を受けた描法で描き,西龕には仏,菩醍,天人,供養者など混然一体となった大構図をグプタ風を受けた筆致で描き,いま双方とも一部が残る。石窟形式は正方・八角・円形プランをとり,ドーム,三角持送り,格天井,あるいはその組合せを架す建築を模した尊像窟と簡素な構造の僧房窟がみられ,尊像窟には千仏図,弥勒・涅槃図,塔の壁画がある。                   桑山 正進

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117名無しさん:2013/07/20(土) 23:45:34
念仏
ねんぶつ

仏・菩醍の相好や功徳を心におもい浮かべたり,またその名号を口に唱えること。前者を観想念仏といい,後者を称名(しようみよう)念仏という。念仏には釈梼,薬師,弥勒,観音などの念仏もあるが,阿弥陀仏の念仏が代表的で,ふつう念仏といえば,阿弥陀仏の相好やその誓願のことを憶念したり,〈南無阿弥陀仏〉の6文字の名号を口に唱えることをいう。阿弥陀信仰が興隆し,西方極楽浄土へ往生したいとの願望が強まるにつれ,念仏が往生のためには必須の行業であると考えられた。日本では奈良時代から平安時代中期にかけて観想念仏が盛んであり,観想のために阿弥陀浄土変相図がつくられた。智光曼荼羅,当麻(たいま)曼荼羅などがそれである。平安時代初期に最澄の弟子円仁(えんにん)が,唐の法照(ほつしよう)がはじめた五会(ごえ)念仏の流れをくむ五台山念仏三昧法を比叡山に移し,常行三昧(じようぎようざんまい)を修したが,五会念仏は5種の音声からなる音楽的な称名念仏であった。常行三昧は不断念仏といわれ,各地に普及したが,比叡山の不断念仏は〈山の念仏〉として有名となった。これは8月11日から7日間,常行堂内で阿弥陀仏のまわりを行道(ぎようどう)しつつ,念仏とともに《阿弥陀経》を誦し,つねに想いを阿弥陀仏に懸けることによって,罪障を除滅しようとする法会であった。のちに不断念仏は命終のときに修されるようになり,臨終儀礼ともなった。平安中期に空也や源信が出るにおよんで,称名念仏はいっそう盛んとなった。空也は民間に念仏を広め,民間仏教史上に大きな足跡を残したが,その念仏は鎮魂呪術的な性格と機能をもったものとして民間に受容された。後世,一遍によって全国に広められた踊念仏の起源は空也念仏にあるとされるが,一遍の踊念仏にも死霊鎮送の性格がみられる。念仏は,源信らの二十五三昧結衆の起請文にもうかがわれるように,はやくから葬送や死者追善の儀礼と密接な関係をもっていたが,念仏が葬送・追善と結びつく一因は,念仏には罪障消除の功徳があると考えられたからである。《観無量寿経》は臨終時の称念,十念などは五十億劫,八十億劫の生死の罪を除滅すると説き,覚超は《修善講式》で〈弥陀如来ハ(略)カノ浄土ノ化主ナリ,御名ヲ唱奉レバ,念々ニ八十億劫ノ生死ノ罪ヲ滅シテ,カノ世界ニ生ゼシメ給フ〉と,称名に滅罪生善の功徳があることを述べている。

 平安時代には阿弥陀仏を仰いでやまない浄土教が興隆したが,それによって独立的な宗派が成立したのではなかった。しかし,鎌倉時代になると,この浄土教が宗派的に独立するにいたった。南無阿弥陀仏と弥陀の名号を唱えて,極楽浄土への往生を期する,いわば〈念仏宗〉ともいうべき新宗派があいついで出現した。法然が開いた浄土宗,その弟子親鸞が立てた浄土真宗,さらに一遍を祖とする時宗がそれである。法然は諸行を捨て念仏の一行を選んだが,彼はその念仏はすでに弥陀によって選択されていた本願の念仏であったとし,念仏に絶対の価値を認めた。そして〈声はこれ念なり,念はすなはちこれ声なることその意あきらけし〉(《選択(せんちやく)本願念仏集》)と念声是一の義をうち出し,念仏とは称念にほかならないとした。親鸞は専修(せんじゆ)念仏を〈他力の宗旨〉(《陸異抄》)といい,他力の信心に生きることを勧め,一遍は平生を臨終と心得て念仏することを説き,名号絶対の立場をとった。   伊藤 唯真

 声明曲(しようみようきよく)の念仏には〈南無釈梼牟尼仏〉の釈梼念仏などもあるが,数は少なく,ほとんどが阿弥陀念仏である。1句ずつ旋律を変えながら〈南無阿弥陀仏〉を繰り返していくもので,1字1字長く引っぱって複雑な旋律を唱えるものから,ごく単純な節のものまで,各宗各派にわたって多数の曲がある。天台系の《甲念仏》《乙念仏》《八句念仏》《引声(いんぜい)念仏》,浄土系の《合(あい)念仏》《礼拝念仏》《笏(しやく)念仏》《白木念仏》,時宗の《別時念仏》《踊躍(ゆやく)念仏》《薄(すすき)念仏》,浄土真宗系の各種の《念仏和讃》に応ずる各種の念仏など,数えきれないほど多い。
                      横道 万里雄

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118名無しさん:2013/07/20(土) 23:47:21
兜率天
とそつてん

仏教の世界観に現れる天界の一つ。兜率はサンスクリットのトゥシタ Tuoita の音訳で,覩史多(とした)とも訳される。須弥山(しゆみせん)の上空に位置し,三界のうちの欲界に属する。ただし,この天は欲界六天の下から4番目にあたり,その住人は欲望の束縛をかなり脱している(トゥシタは〈満足せる〉の意)。七宝の宮殿に内外の二院があり,内院は将来仏となるべき菩醍の最後身の住処とされ,外院は眷属の天子衆の遊楽の場とされる。かつて釈梼がここにいて,ここから下界へ下った。現在では弥勒が説法しつつここを〈弥勒の浄土〉とし,遠い将来にここから下界に下る予定になっている。弥勒のもとに生まれその化導を受けようとする兜率往生の信仰は古く,阿弥陀仏の浄土への往生との優劣が争われたこともある。兜率往生は,日本では鎌倉時代,貞慶(じようけい),明恵(みようえ)らによって説かれ,〈兜率天曼荼羅〉などの制作もなされた。             定方 里

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119名無しさん:2013/07/20(土) 23:48:39

つか

人工的に盛土をした場所を指し,塚の名称も〈つく(築く)〉に由来すると考えられている。墓所,祭場,供養のほか,一里塚のように標識として築かれる塚もある。塚には各種の伝説が伴っており,同一または類似の名称で呼ばれる塚が全国的に分布している例も多い。塚にまつわる伝説では多数の戦死者や遭難者などを埋葬したり供養した所と伝える百人塚,千人塚,落武者や山伏などを埋めた場所とする七人塚,首塚,山伏塚,行者や修験者が庶民救済のため生きながら入定(にゆうじよう)した場所とする入定塚,行人(ぎようにん)塚などをはじめ,墓所と伝える塚が多い。しかし墓所と伝える塚でも,本来祭りなど別の目的で築かれた塚が意味不明となって墓所とみなされるようになったものが少なくない。一方,祭りのために祭壇を築く習俗は古くから行われていた。十三塚は,真言系の僧,修験,行者が野外で修法を修めた場所であったことが明らかにされ,狐塚という名称をもつ塚も,本来は田の神の祭場であり,田の神の使わしめが狐であるとする信仰や,祭場にしばしば狐が出没したところから狐塚の名称が起こったとされる。祭りのために塚を築く習俗は,平地よりも一段と高い場所を祭場に当てようとする心意の表れであり,神木や高い竿・鉾を用いて神の依代(よりしろ)とする習俗と同じ心意といえる。その最も典型的なものが山であり,コニーデ型の秀麗な山を祭場とする場合が多い。山岳信仰との関連でいえば,富士信仰や出羽三山(でわさんざん)信仰に代表されるごとく,その山岳を遥拝するために築かれた塚もみられ,それが本来は祭場として機能していたといえる。また塚の築かれる場所が境界であることも多い。境は単に範域を区分するという意味にとどまらず,この世(現実界)とあの世(冥界・他界)とを分ける場所でもある。そうした境が祭場とされる場合が多く,虫送りの行事で悪神を送り出す場所が虫塚,虫追い塚と称されるのもその一例である。このほか弥勒下生信仰,末法思想を背景として,法華経を書写し土中に埋めた経塚はよく知られている。⇒古墳       宮本 袈裟雄

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120名無しさん:2013/07/20(土) 23:50:04
朝鮮美術

【彫刻】
 三国時代の4世紀末に仏教が朝鮮半島に伝えられ,彫刻は仏像を中心に展開する。その初期には3国とも中国仏像の直模的な表現による扁平で硬直した体賭,衣紋が左右対称に広がる正面観主体のものが造られた。高句麗は3国のうちで最も早く仏教および仏像を受け入れたが,遺品はきわめて少ない。遺品のほとんどが小金銅仏であり,その代表的な様式は三尊仏である。遺品中で最古のものは延嘉7年(539)の造像銘をもつ金銅如来立像である。高句麗の仏像はその地理的関係から中国の北魏を主とする北朝様式の影響を強く受けている。

 百済の仏像はほぼ600年ころを境にして前期と後期に分けられる。前期は一光三尊形式の小金銅仏や小型石造の半跏像などが中心であるが,6世紀後半にはまだ中国六朝や高句麗系の様式が残っている。後期には比較的大きな金銅仏や石窟寺院形式の磨崖石仏,大型石仏が造られており,7世紀前半に至って隋・唐両王朝の新しい影響を受けながら百済独自の作風を帯びるようになった。顔は丸く温和で,〈百済の微笑〉と呼ばれる特有な笑みを浮かべている。百済は6世紀前半に日本に仏教を伝え,飛鳥,奈良の地に仏教文化を開花させたが,その仏像製作には百済の帰化人の手が大いに及んでいるものと考えられる。

 古新羅の仏像は弥勒信仰を背景とした弥勒仏や半跏思惟形の菩醍像の製作が盛んであったことが特色である。2体の大型金銅半跏思惟像(ともにソウル国立中央博物館)は3国中のいずれの王朝の造像であるのか不明だが,そうした弥勒信仰を背景として生まれたものであろう。古新羅末期にはこれらの金銅仏とともに石像も発達し,三尊像や半跏像も造られた。

 続く統一新羅時代には3国それぞれの仏像様式が統合され,石像,銅像,塑像など多くの仏像が造られ,現存する作品も少なくない。特に統一以後盛んであった阿弥陀信仰による造像と,薬師信仰による金銅像の盛んな造成が注目される。この期の最大の傑作は慶州吐含山の石窟庵本尊の如来石像とその一群の脇侍たちである。石窟庵本尊の偉容は東洋各国の石仏中の精華とも称えられているが,これは新羅の石像彫刻の200年にわたる伝統の上に完成されたものであり,また良質な石材に恵まれた朝鮮の風土と民族の造形感覚との密接な関係を示すものといえよう。しかし,石窟庵の石仏群を頂点として,以後,朝鮮の仏像は作風の低下をきたしていく。高麗時代は前代に引き続き仏教は盛んで,仏教美術は諸方面に新たな展開を見せるが,仏像は秀麗にして力感に満ちた前代のそれを凌駕することができなかった。
                        吉田 宏志

121名無しさん:2013/07/20(土) 23:51:25
中宮寺
ちゅうぐうじ

奈良県生駒郡斑鳩(いかるが)町にある聖徳宗(もとは法相宗,真言宗)の尼寺。中宮尼寺,斑鳩御所ともいう。聖徳太子建立七ヵ寺の一つ。創建当初は現在地の東500mほどの所にあり,16世紀後半ごろに移転したようである。621年(推古29)聖徳太子の母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女が亡くなった後,その宮を寺に改めたと伝える。葦垣,岡本,斑鳩の三つの宮のなかに位置するので中宮(なかみや)寺というとの説もある。平安時代の末には衰退したが,13世紀後半に西大寺の叡尊(えいそん)の指示で信如が復興した。信如は法隆寺の宝庫から《天寿国斥帳(てんじゆこくしゆうちよう)(天寿国曼荼羅)》を得て,京都で模造している。天文年間(1532‐55)に伏見宮貞敦親王の娘尊智が住持してより皇室もしくは宮家から入室する比丘尼(びくに)御所の寺格となり,1889年門跡(もんぜき)を称する。本尊の菩醍半跏像(国宝)は,寺伝に如意輪観音とされているが,近年は弥勒菩醍像と呼ばれている。像高87.9cm,流麗優美な木造の半跏思惟(はんかしい)像で,《天寿国斥帳》(国宝)とともに飛鳥文化を代表する遺品である。
                        中井 真孝

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122名無しさん:2013/07/20(土) 23:53:01
宗性 1202‐92(建仁2‐正応5)
そうしょう

鎌倉中期の東大寺の学僧。華厳宗の中興者。宮内大輔藤原隆兼の子。1213年(建保1)12歳で東大寺に入寺。華厳・抑舎の修学に努め,とくにみずから院主となった尊勝院を華厳教学の道場とした。大安寺別当・黒田新荘預所なども務め,60年(文応1)には東大寺別当に補任された。高僧の伝記《日本高僧伝要文抄》を編集,また弥勒信仰の普及者としても知られ《弥勒如来感応抄》を抄録した。弟子に凝然がいる。         細川 涼一

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123名無しさん:2013/07/20(土) 23:53:46
善信尼 574?‐?
ぜんしんに

飛鳥時代の尼で,日本最初の出家者。渡来氏族鞍作部司馬達等(たつと)の女で,鞍作止利(止利仏師)の叔母にあたる。俗名は嶋。584年百済伝来の弥勒像を得た蘇我馬子は,高麗の還俗僧恵便を師とし,まず11歳になる嶋,さらに2人の少女を出家させ,仏殿を造り法会を行った。《日本書紀》はこれをもって日本における仏法の初めとする。翌585年疫病流行の際,廃仏派は仏殿を焼き,善信尼ら3尼を捕らえてむち打ったという。588年善信尼は戒法を学ぶため学問尼として百済に渡り,590年帰国した。以後は桜井道場に住んで多くの尼を導き,初期仏教の発達に大きな役割を果たした。                       速水 侑

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124名無しさん:2013/07/20(土) 23:55:16
石仏
せきぶつ

石造の仏像。彫刻される石の形状から,移動できる独立した石材に彫られた石仏,露出した岩層面に彫られた磨崖仏,岩層に窟をうがってその中に彫られた石窟仏の3種に大別される。彫出の状態からは,線刻,薄肉彫(レリーフ),半肉彫,高肉彫(側面をほとんど彫出したもの),丸彫に分けられる。石は彫刻用材として最も普遍的なものの一つであり,インド以来仏教の伝播にしたがって各地で盛んに製作された。

[インド]  紀元前2〜前1世紀ころからヤクシー,ヤクシャの丸彫石像やストゥーパの石製欄楯の浮彫などが作られていたが,クシャーナ朝の2世紀ころにガンダーラとマトゥラーで仏像の造顕が始まり,石仏の製作が始まった。前者では青灰色の片岩がおもに用いられ,独尊像や仏伝図の浮彫などが作られ,遺品も多く現存する(ガンダーラ美術)。後者では黄斑文のある赤色砂岩がおもに用いられ,カニシカ王3年銘のサールナート出土如来形立像などが遺品として著名である(マトゥラー美術)。これ以後,インド各地で石仏の製作が盛んとなり,仏像製作の主流となった。インド仏教美術の最盛期であるグプタ朝の5世紀には,製作年代の明らかな在銘像の遺品も多く,マトゥラー博物館のジャマールプル出土如来形立像などがよく知られている。この時代にはアジャンター,エローラなどに代表される仏教石窟寺院が多く作られた。8世紀以後のパーラ朝時代には,硬質の玄武岩を用いて複雑な図像の密教的な像などが多く作られ,この時代の石仏はネパール,チベット,東南アジアなどの仏像に大きな影響を与えた。

 クシャーナ朝時代のガンダーラの石仏は西隣のアフガニスタンに影響を与え,カーブル北西のバーミヤーンには4〜6世紀ころの製作と思われる像高55mと38mの大磨崖仏が現存する。仏教の東漸にしたがい中央アジア諸地方でも仏像は多く作られたが,ここでは石材が少ないために塑像が主流で,石仏の遺品は少ない。東南アジアの石仏は南インドの影響が強く,タイのドバーラバティ美術(7〜11世紀)の石仏はインドのグプタ様式を伝えており,ジャワのボロブドゥール遺跡(8〜9世紀)には多数の石仏が安置されている。

125名無しさん:2013/07/20(土) 23:56:17
>>124


[中国]  前漢以来,石人,石獣などのすぐれた石造墓飾彫刻が作られていたので,仏教伝来とともに石仏も製作されたと思われるが,最初期の遺品は知られていない。452年(興安1)に北魏の文成帝は帝身の石仏を作らせたといい(《魏書釈老志》),460年(和平1)には北魏の都,大同西郊の砂岩崖に僧曇曜の発願になる大規模な雲岡石窟が開かれた。494年(太和18)北魏は中原の洛陽に遷都したが,その近郊の石灰岩の崖には竜門石窟が開かれた。これらの石窟寺院の彫刻とともに単独像も多く作られ,6世紀東・西魏,北周,北斉では白玉(大理石),黄華石などの緻密な石材による小四面仏,龕(がん)像,碑像なども盛んに作られた。日本にある中国6世紀の遺品としては,535年(東魏の天平2)の弥勒三尊像(藤井有鄰館),552年(北斉の天保3)の菩醍形立像(東京国立博物館)などが著名。以後,隋,唐代を通じて中国の石仏の製作はきわめて盛んであった。

[朝鮮]  三国時代にすでに石仏が盛んに行われた。7世紀前半ころの百済の遺品として,忠清南道瑞山郡雲山面の磨崖仏,新羅の遺品として慶州南山長倉谷発見の菩醍形立像などが著名である。三国時代末期の7世紀後半から統一新羅時代にかけて,慶州南山には丸彫,磨崖など多くの石仏が作られ,8世紀半ばには石室構造をもった慶州石窟庵の諸像が作られた。統一新羅時代の石仏は金銅仏とともに彫刻の主流であり,その後高麗時代以後も形式化しながらも製作は続けられた。

[日本]  《日本書紀》敏達13年(584)条に鹿深臣が百済から弥勒石仏を将来したとあり,これが記録上の初見であるが,飛鳥時代の石仏の遺品は知られていない。奈良時代の遺品に,奈良県石位寺三尊像(砂岩?,半肉彫),兵庫県加西市の古法華三尊像龕(凝灰岩,半肉彫),奈良市高畑町の頭塔(ずとう)(花コウ岩,薄肉彫。方墳状の土塔の四方に十数個の石仏を配する),奈良県宇智川磨崖仏(線刻)などが知られる。それらの作風は,当時の他の素材(金銅,木)による彫刻,絵画の作風にほぼ準じている。平安時代には石仏の製作は畿内以外の各地にも広がり,他の時代には見られない大規模な磨崖仏の製作が盛んに行われた。栃木県大谷磨崖仏(凝灰岩,高肉彫)は石彫の上に塑土を盛る珍しい技法を用いており,そのうちの一部はあるいは平安初期の製作かと考えられる。平安後期には大分県臼杵,熊野に代表される凝灰岩層を用いた磨崖仏が各地で行われた。またこの時代には紀年銘をもつ石仏も多く作られるようになり,長崎県壱岐出土の延久3年(1071)銘の弥勒如来像(滑石,丸彫)を初例とし,福岡県鎮国寺の元永2年(1119)銘の阿弥陀如来像(砂岩,薄肉彫),京都市今宮神社の天治2年(1125)銘をもつ四方石仏(砂岩,線刻)などがある。

 鎌倉時代には前代に流行した凝灰岩製磨崖仏の製作は減り,かわって花コウ岩,安山岩など硬質の石材を用いた高肉彫,丸彫の像の製作が盛んになった。京都府石像寺の元仁元年(1224)銘の三尊像は,三尊を1石1体ずつ丸彫に近い高肉彫であらわし,この時代の石仏の傾向をよく示している。他に群馬県不動寺不動明王像(凝灰岩,丸彫)などがあり,大型の石室構造をもつものに奈良市十輪院石仏龕(花コウ岩)がある。またこの時代には東大寺の再建工事に参加した伊行末(いぎようまつ)に代表される宋人石工の活躍があり,伊行末の作品に般若寺十三重石塔初層四方石仏,石仏ではないが参考とすべきものに1196年(建久7)宋人石工字六郎作の東大寺南大門石獅子がある。南北朝時代以後になると石仏は全体的に小型のものが増え,その作風は同時代の木彫像と同様に形式化の道をたどった。この傾向は桃山,江戸時代にはいっそう進み,五百羅漢の群像や馬頭観音,地蔵など,多数の石仏や道祖神像が作られた。これらは民間信仰の史料として貴重である。                 副島 弘道

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126名無しさん:2013/07/20(土) 23:57:10
関[市]
せき

岐阜県南部の市。1950年市制。人口7万1916(1995)。長良川に津保川,武儀川が合流する関盆地に中心部が展開する。長良川の舟運に恵まれ,飛舞路(金山街道)と奥美濃路(郡上街道)の交わるところで,物資の集散地であった。中世以来関の孫六(関物)で知られた刃物の町で,室町時代を最盛期に多くの名工を生み,織田信長らの保護もあって,〈関は千軒鍛冶屋が名所〉といわれるほど繁栄した。江戸中期に刀鍛冶は衰え,包丁,はさみなどの打刃物や農具の生産に主力が移り,明治以降,洋食器,カミソリ替刃,ポケットナイフなどを生産する金属工業に発展した。輸出額も多いが,多くは農村の下請加工業者で作られる。近年,自動車部品製造工場も進出している。新長谷寺(しんちようこくじ)(吉田(きつた)観音)には重要文化財の堂宇や仏像があり,古代に当地を支配した身毛君一族の氏寺といわれる弥勒寺跡(史),刀工が崇敬した春日神社もある。春日神社所蔵の能装束類は重要文化財。小瀬(おぜ)では中世以来の鵜飼いが行われる。長良川鉄道,名鉄美濃町線,東海北陸自動車道が通り,丘陵地には県置百年記念公園,県立博物館がある。     高橋 百之

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127名無しさん:2013/07/20(土) 23:57:49
崇福寺
すうふくじ

滋賀県大津市にあった古代の官寺。志賀山寺ともいい,668年(天智7)天智天皇が霊夢により大津宮の北西山中に創建したと伝える。《扶桑略記》が引く縁起によると,諸堂舎がそなわり,弥勒の丈六像を本尊とした。798年(延暦17)には十大寺の一つに数えられたが,921年(延喜21)火災のため焼失した。再建の後もまた965年(康保2)火災にあい,しだいに衰退し,13世紀以後まったく廃絶した。                     中井 真孝

[崇福寺跡]  二つの小さな谷をはさんで南北3ヵ所に礎石が残っている。1938年,39年発掘調査が行われた。中央の舌状台地に西に小金堂,東に塔があり,谷をへだてた北の山腹を削り出した段に弥勒堂とよばれる講堂が構えられ,両者を橋で連絡していたことがわかり,これが668年につくられた大津宮(近江大津宮)と考えられる。39年の塔の発掘で地下1mに心礎が検出され,心礎の東側面に横穴状の舎利孔が創建当初の状況でみつかった。ここに金のふたをしたフラスコ形の緑色ガラス製の舎利容器が,長方形の内にガラス容器をのせる蓮華座をつけた金製の内函,同形の銀製中函,香様(こうざま)の台をもつ青銅製外函に収められていた。これに金銀平脱鉄鏡,無字銀銭,鈴,玉を伴っていた。中央台地北斜面から7世紀中葉の瓦とともに柿仏,塑像片などが発見されている。この寺の廃絶後桓武天皇がこの地に臨みこの寺を復興させた。小金堂,塔,弥勒堂のほかに中央台地より谷をへだてた南に金堂と講堂と現在よんでいるより規模の大きな堂宇もつくられ,これらすべてを梵釈寺とよんだとも考えられる。泥塔,緑釉陶,須恵器硯をはじめ平安時代の瓦が全域で検出される。八花鏡,佐波理(響銅(さはり))鋺なども採集されている。           坪井 清足

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128名無しさん:2013/07/21(日) 00:00:14
浄土変相
じょうどへんそう

浄土の仏,聖衆や美しい荘厳(しようごん)の有様を描写した絵画や斥帳のこと。変相は大乗経典の内容を絵で表現したもので,それに対する絵解きの文章としての〈変文〉とは表裏の関係にあった。浄土変,浄土図と略称する。阿弥陀如来,薬師如来,弥勒菩醍,観音菩醍といった浄土信仰の隆盛に伴い,西方極楽浄土変,東方薬師浄土変,兜率天(とそつてん)浄土変,補陀落浄土変などが流行した。中国では唐代に盛んに造られ,善導は浄土変相を見て浄土教に帰し,のちにはみずから300余舗の浄土変相を描き,ひとにも制作をすすめたという。敦煌には浄土窟とよばれる多数の石窟があり,約230の西方浄土変をはじめ,およそ70の東方薬師変と弥勒変の壁画が残されているし,スタイン探検隊は20余の浄土変相の絵画を持ち帰った。日本でも,法隆寺金堂に描かれていた四仏浄土変をはじめ,当麻寺の《当麻曼荼羅》など多数の浄土変相が残されている。⇒変相図
                         礪波 護

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129名無しさん:2013/07/21(日) 00:02:10
浄土
じょうど

清浄な国土という意味で,菩醍として衆生を救済せんという誓願を立てて悟りに達した仏陀が住む清浄な国土のことであり,煩悩(ぼんのう)でけがれた凡夫の住む穢土(えど)つまり現実のこの世界に対比していう。浄土は大乗仏教における宗教的理想郷を指す言葉としても広く用いられたが,阿弥陀仏の信仰が鼓吹され流行するにつれて,阿弥陀仏の仏国土である極楽と同一視され,ついには同義語となる。サンスクリットには浄土を意味する術語はないが,漢訳仏典の訳語の用例からみて,仏国土を意味するブッダ・クシェートラ buddha‐koetra の訳語とされている。すなわち,浄土という理念はインドにはなかったのであって,仏国土が清浄な国土であるとは認めても,それを宗教的理想郷としての浄土として表現することはなく,浄土思想はむしろ中国において発達し展開したといえそうである。

 未来仏として修行中の弥勒菩醍が待機している天上の兜率天(とそつてん)を弥勒の浄土として,そこに生まれたという信仰がまず起こった。兜率天の信仰から一歩進んで,浄土そのものを説いた経典,つまり浄土経典の最初は,東方にある阿醗(あしゆく)仏の浄土としての妙喜を説いた《阿醗仏国経》であり,この仏国土には女人もおり,人民はみな樹より五色の衣服を取って着たと述べている。阿醗仏の妙喜は《維摩(ゆいま)経》にも説かれている。ついで東方の阿醗仏の浄土に対して,西方の阿弥陀仏の浄土としての極楽を説いた浄土経典たる《般舟三昧経》と《無量寿経》《阿弥陀経》《観無量寿経》のいわゆる〈浄土三部経〉が現れた。これらの浄土経典によれば,極楽は西方のはるか彼方に存在し,そこには七重の欄楯(らんじゆん)があり,車輪のごとき大きな蓮華の花の咲く蓮池があり,河川には浴場の階段があって,泥がなくて黄金の砂がまかれている。妙なる音楽と芳香に満ちあふれ樹木などの自然も黄金や七宝でできている。そこに生まれた者は男性のみで女性はいず,あらゆる苦しみから解放されて,いつも阿弥陀仏の説法を聴くことができる,と説かれている。この阿弥陀如来の西方極楽浄土の信仰が盛んとなると,それを模倣して,薬師如来の仏国土である浄瑠璃世界も浄土と呼ばれるようになる。東方薬師浄土のありさまは《薬師如来本願経》に描かれている。これら諸仏の浄土は,現実の世界から遠く離れた方角に存在するので,他方浄土とか十方浄土とか呼ばれる。

 中国で浄土思想が流布し展開するとともに,本来は浄土思想と何らの関わりもなかった《法華経》に基づいて,霊山浄土という新しい浄土が出現した。霊山つまり霊鷲山(りようじゆせん)とは王舎城の近くにある山の名で,《法華経》が説かれたといわれる場所なのである。このほか,仏ではなく菩醍の世界なのに《華厳経》に基づき,東北方清涼山の文殊浄土や,南方補陀落山(ふだらくさん)の観音浄土の信仰が行われるようになった。弥勒浄土や極楽浄土をはじめとする,これらの浄土信仰は,中国から日本に伝えられ,浄土における仏・菩醍や聖衆たちの姿などを描写した浄土変相も描かれた。⇒阿弥陀‖観音        礪波 護

 日本では,飛鳥・白鳳時代の造像銘に浄土という語がみえるが,どの仏国土を意識したのか明白でない。いわゆる天寿国斥帳(てんじゆこくしゆうちよう)銘にみえる〈天寿国〉も一種の浄土を意味しているが,極楽浄土,弥勒浄土,妙喜浄土,霊山浄土,十方浄土,天竺浄土などの諸説があって定かではない。平安時代になると阿弥陀信仰,叡山浄土教が発達し,今様にも〈浄土は数多(あまた)あんなれど,弥陀の浄土ぞ勝(すぐ)れたる〉とうたわれたように,浄土といえば極楽浄土を指すようになった。また民間信仰では,経典の説とは別に,山岳信仰,霊山信仰のなかで,山に霊魂がいく浄土がある(山中他界観)と考えられている。⇒極楽‖浄土教美術               伊藤 唯真

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130名無しさん:2013/07/21(日) 00:02:56
相国寺
しょうこくじ

中国,河南省開封市内の寺院。〈そうこくじ〉ともいう。北宋時代に最も繁栄した。北斉時代(555)創建の建国寺跡に,唐の僧恵雲(えうん)が1丈8尺の弥勒仏を本尊とした伽藍(がらん)を作り(706),睿宗(えいそう)は自分の封国の相をとって相国寺と名づけた。宋代国都の筆頭寺院として皇帝以下の厚い保護を受け,各仏殿は相藍十絶と呼ばれる壁画や墨跡でうずまった。毎月数回寺内で開かれる定期市には全国の物貨が集まった。金の侵入以後衰退。現在の建物は清代乾隆期(1736‐95)のものである。                   梅原 郁

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131名無しさん:2013/07/21(日) 00:04:51
蘇我馬子 ?‐626(推古34)
そがのうまこ

飛鳥時代の大臣(おおおみ)。蘇我稲目の子,毛人(蝦夷)の父。名は馬古,溝麻古,有明子とも記され,嶋大臣とよばれた。敏達朝に大臣となり,このあと用明,崇峻,推古といずれも蘇我系の天皇をたて,つづけてその大臣をつとめた。就任の当初から大連(おおむらじ)物部守屋らの勢力と対立したが,その反対をおしきって,570年(欽明31)に北陸に来着した高句麗使を572年(敏達1)に朝廷に迎え入れ,高句麗外交を開始した。これに仏教受容や皇位継承の問題も加わって,反対派との対立はその後ますます深まり,587年,用明天皇の死後に軍を起こした馬子は,物部守屋を討滅した。このあとに崇峻天皇をたてたが,天皇と意見が対立しはじめると,馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に命じて592年(崇峻5)にこれを暗殺させた。そして,この年から着工していた飛鳥寺(法興寺)は,推古朝に入っても造営をつづけ,日本最初の本格的寺院として完成させた。以後も仏教興隆の方針をすすめ,605年(推古13)から遠戸皇子(聖徳太子)が斑鳩(いかるが)宮に移ってのちも,馬子は飛鳥にあって政治を主導した。この間,新羅遠征軍の派遣計画は失敗したが,遣隋使の派遣もあり,外交の必要上からも難波津を整備した。晩年には,遠戸皇子とはかって天皇記,国記,諸氏の本記を編纂させた。遠戸皇子妃の刀自古郎女(とじこのいらつめ),舒明天皇妃の法提郎女(ほてのいらつめ)は,馬子の娘である。馬子を葬った飛鳥の桃原墓は,いわゆる石舞台古墳であるとみられている。                      門脇 禎二

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132名無しさん:2013/07/21(日) 00:06:01
蘇我稲目 ?‐570(欽明31)
そがのいなめ

大和国家の大臣(おおおみ)蘇我高麗の子,馬子の父。名は伊奈米,伊那米とも記される。6世紀中葉の大和国家の動揺期に,蘇我氏の基盤に含まれる大和盆地南西部で養育された勾(まがり)皇子(安閑天皇),高田皇子(宣化天皇)を擁立し,前者を勾金橋宮に,後者を檜隈廬入野宮(ひのくまいおりのみや)に入らせた。宣化朝とそれにつづく欽明朝の大臣となり,宣化天皇と初めて姻戚関係を結んだらしく,さらに娘の堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ)を欽明天皇の大后・后に,石寸名(いしきな)を用明天皇の后とした。一方,排仏派の物部尾輿(おこし),中臣勝海らに抗して,仏像を自分の小治田家に安置し向原(むくはら)家は寺にして仏教受容をすすめた。また瀬戸内航路の確保につとめ,とくに吉備5郡に白猪屯倉(しらいのみやけ)をおいて田部の名籍を造らせ,児島屯倉には田令を任じた。こうして稲目は,以後1世紀にわたる蘇我氏繁栄の基礎を築いた。         門脇 禎二

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133名無しさん:2013/07/21(日) 00:06:58
蘇我氏
そがうじ

古代の有力氏族。姓(かばね)は臣(おみ)。後世の系図では,孝元天皇の孫(あるいは曾孫)武内宿衝(たけうちのすくね)を波多(はた),巨勢(こせ),平群(へぐり),紀,損城(かつらぎ)氏とともに祖先とし,武内宿衝の子の石川宿衝に始まるとする。しかし,その起源には諸説があり,奈良県橿原市曾我または大阪府南河内郡石川の土着豪族とされてきたが,百済の高級官人木満致(もくまち)が5世紀末に渡来して大和の曾我に定着したのに発するともされる。氏名の蘇我は,曾我,宗我,宗何,忌宜,忌哥などとも記された。

 早くは蘇我満智(まち)が5世紀末の雄略朝の財政を担当したとの伝承が《古語拾遺》にみえ,韓子(からこ)が対新羅関係で活躍した記事が《日本書紀》にみえる。しかし,6世紀中葉の稲目(いなめ)が宣化・欽明朝の大臣(おおおみ)となったころから急速に勢力をのばし,その達成をうけついだ6世紀末〜7世紀初めの馬子の時代に権勢は頂点に達し,統一的国家体制をおしすすめた。この間に,その基盤を曾我川沿いに南にひろげ,さらに畝傍(うねび)山麓から東に向かって飛鳥の開発をすすめた。そして7世紀初めまでに,一族の堅塩媛(きたしひめ)家を河内磯長谷(しながだに)に,小姉君家を三輪山南方に,境部臣家を飛鳥の西方に,倉山田石川臣家を山田道に,聖徳太子の上宮王家を竜田道をおさえる斑鳩(いかるが)にというように,交通の要点に配した。それらの間の大和盆地南部には久米,桜井,田中氏らの諸支族を配し,渡来系の東漢氏(やまとのあやうじ)諸族に支えられる複合的な氏族構造を形成した。しかし,毛人(えみし)(蝦夷)・鞍作(くらつくり)(入鹿)の代になると,しだいに他の氏族の反発を招き,一族内部の結束も乱れて,政界の主導力は衰えはじめた。その結果,本宗家は645年(大化1)6月に損城皇子(中大兄),中臣鎌子(藤原鎌足)らによって滅ぼされた。けれども,その後にも蘇我氏からは,政界で3人の大臣(石川麻呂,連子(むらじこ),赤兄)がたったが,壬申の乱の戦後処置により一族は滅んだ。以後,蘇我氏のあとは,連子の流れが石川氏となった。                     門脇 禎二

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134名無しさん:2013/07/21(日) 00:18:39
蘇我氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E6%B0%8F

135名無しさん:2013/07/21(日) 00:21:34
あの弥勒菩薩半跏思惟像はどうして広隆寺にあるのですか?広隆寺に置かれた歴史は...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1069127770

136名無しさん:2013/07/21(日) 00:23:28
秦氏
はたうじ

日本古代に朝鮮半島から渡来した氏族。秦始皇帝の裔を称し,後漢霊帝の子孫という漢氏(あやうじ)と勢力を二分した。《日本書紀》には,応神天皇のとき弓月君(ゆづきのきみ)が〈百二十県〉の〈人夫〉をひきいて〈帰化〉し,雄略天皇のとき全国の〈秦民〉を集めて秦酒公に賜り,酒公は〈百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)〉をひきい朝廷に絹を貢進したとある。《新斤姓氏録》もほとんど同じことを記すが,弓月君は秦始皇帝の子孫で,帰化したのち〈大和朝津間腋上〉の地に安置されたとし,酒公は〈秦民〉92部1万8670人をひきい絹を貢進し,それを納めるため〈大蔵〉を宮側にたて,その〈長官〉となったという。

 このような説話は,秦氏の渡来後,秦氏の本宗家が全国に秦部,秦人,秦人部などを組織し,氏として成立したのが雄略のとき,5世紀末であることを主張している。その際,本宗家は大和でなく,山背(やましろ)国の損野(かどの)郡,紀伊郡を基盤としていた。《姓氏録》にも山城国諸蕃に秦忌寸,左京諸蕃に太秦宿衝を記している。太秦(うずまさ)とは,酒公が朝廷に絹をうず高く積んだのでその名があるというが,山背より京に本貫を移した秦氏の別称であろう。ついで,欽明天皇のとき,山背紀伊郡人秦大津父(おおつち)が〈大蔵〉の官に任ぜられ,〈秦人〉7053戸を戸籍に付し,〈大蔵掾〉として,その伴造(とものみやつこ)となったという。ついで,秦河勝がある。河勝は聖徳太子の財政,軍事,外交に関する側近者で,太子の意をうけて蜂岡(はちおか)寺(広隆寺)をたてたといい,寺は太秦にあるので太秦寺とも称された。ほかに《天寿国斥帳》の製作者として秦久麻があり,椋部(くらべ)と記されている。

 このように,大化改新前に秦氏で史上に名をのこすのは4人だけであるのは,秦氏が土豪であり,在地で隠然たる勢力をもつ殖産的氏族で,朝廷ではクラ(倉,蔵)を管理する下級の財務官であったからである。秦氏は,賀茂川,桂川の京都盆地,さらに琵琶湖畔に進出して,水田の開発,養蚕などの事業を行った。さらに伊勢,東国におよぶ商業活動にも従事した。天武天皇のときに定められた八色の姓(やくさのかばね)では,漢氏とならび〈忌寸(いみき)〉の姓を授けられたが,同族の一部が改姓されたのみで,748年(天平20),秦氏1200余烟に〈伊美吉(いみき)〉を賜ったとき,はじめて姓が一般化した。しかも,このように多数の同族が一時に改姓される例は,日本の氏族にはなく,いかに同族の基盤がひろく深いかを示すであろう。このことは,秦忌寸のほか,山背損野郡,紀伊郡に秦大蔵,秦倉人,秦高椅,秦川辺,秦物集,秦前など,また近江愛智(えち)郡に依智秦(えちはた),犬上郡に簀秦などの傍系氏がおり,すべて〈秦〉の一字を共有し,氏の分化が少なく,比較的等質性を保っていることにも現れていよう。要するに土豪性といってよい。

 平安京への遷都は,秦氏の基盤への遷都であり,その財政力によって建設されたとの説もある。883年(元慶7),秦氏は惟宗(これむね)朝臣に改姓されたが,なお各地方には,惟宗とならび秦姓のものも多く,ともに在庁官人,郡司として多く名をとどめている。⇒惟宗氏          平野 邦雄

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137名無しさん:2013/07/21(日) 00:26:31
秦氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E6%B0%8F

138名無しさん:2013/07/21(日) 00:29:32
弓月君
ゆづきのきみ

帰化系雄族の秦氏(はたうじ)の祖と伝えられる人物。《日本書紀》によると,応神天皇のときに百済から120県の人夫(民衆の意)を率いて渡来したという。この人夫の数は秦氏の後世大いに発展した姿を過去に投影させた造作とみられるが,その伝説化はその後さらに進み,《新斤姓氏録》にみえる伝えでは,秦氏は秦始皇帝13世の孫の孝武王の後裔で,王の子の功満王が仲哀朝に,その子の融通王(弓月君)が応神朝に127県の百姓を率いて帰化したというようになっている。      関 晃

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139名無しさん:2013/07/21(日) 00:38:32
?????

 秦氏は、秦の始皇帝の子孫を称していますが、どうも違うようです。佐伯好郎によれば、中央アジアのバルハシ湖の南にある「弓月」国(中国語でクンユエ)が、故郷ではないかということです。1世紀から2世紀に存在し、小国ながらキリスト教国であったとのことです。
http://www.ican.zaq.ne.jp/rekishi/episode17.html

佐伯好郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E5%A5%BD%E9%83%8E

景教学者として[編集]
英語教育のかたわら、佐伯は日清戦争を契機としてネストリウス派キリスト教(景教)の研究を志すようになり、1904年、33歳のとき英語学から中国学への転向を決意[3]、1911年には景教研究の最初の著作『景教碑文研究』を刊行した。1931年(昭和6年)東方文化学院東京研究所(戦後東京大学東洋文化研究所に吸収)の研究員となり(?40年)、同年、北京でシリア語の詩編の碑石を発見し、1935年『景教の研究』を刊行した。1941年1月には東京帝国大学(現・東京大学)から、景教研究により文学博士号を授与され、1943年それまでの中国キリスト教史研究の集大成といえる全5巻の大著『支那基督教の研究』を刊行した。学位論文の題は 「支那に於いて近頃発見せられたる景教経典の研究」[4]

業績[編集]

佐伯の宗教史研究は比較宗教学者マックス・ミュラーの影響を受けたものであり[5]、彼の景教東伝史研究は、英語の著書も刊行されたことから日本国内のみならず国際的にも高い評価を獲得した。この結果、佐伯はその後長く景教史研究の国際的権威とみなされることになった。
しかしその一方、1908年の論文「太秦を論ず」で発表された「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、古代日本の渡来人系有力氏族・秦氏の本拠地であった京都・太秦の地名・遺跡などを根拠としながらもほとんど語呂合わせ的なものであり[6]、当時の歴史学界ではほとんど相手にされなかった(現在も否定されている)。また彼の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張する人々からは、同祖論を学術的に根拠づけるものとして歓迎されたが、晩年に、「在来の、日本的に矮小な開発計画では駄目だ。ユダヤ人の大資本を導入してやろう。それにはユダヤ人の注意を日本に向けさせる必要がある」(「旧刊案内」、『原敬百歳』所収)という、同祖論が単なる功利的な「企画」であることを弟子の服部之総に語り、服部を仰天させた。

140名無しさん:2013/07/21(日) 08:11:47
道鏡 ?‐772(宝亀3)
どうきょう

奈良後期の政治家,僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現,八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の2説がある。前者は《七大寺年表》《本朝皇胤紹運録》等時代の下る書に見える。後者は《続日本紀》天平宝字8年(764)9月甲寅条の詔に〈この禅師の昼夜朝庭を護り仕え奉るを見るに先祖の大臣として仕へ奉りし位名を継がむと……〉とある。前者の説は,河内若江郡と志紀郡と両方に弓削氏の氏神式内社弓削神社があり,弓削一族が志紀郡に居住していたことから付会されたものか。後者は先祖の大臣は物部守屋と推定されるが,弓削連氏は物部大連氏に隷属して弓を削り製造する部の族長で,守屋の子孫か否かは不明だが,守屋が物部弓削大連と称したことはなんらかの関係を推定させる。

 道鏡は僧正義淵の弟子といわれ,若年に損木山に入って如意輪法を修して苦行無極と称せられた。747年(天平19)1月の《正倉院文書》に東大寺良弁大徳御所使沙弥としてみえるのが初見。良弁の弟子であったらしい。その後禅行が聞こえて宮中の内道場に入り禅師となり,密教経典と梵文に通じた。761年より翌年にかけ孝謙上皇が近江保良宮(ほらのみや)に滞在中,762年4月に病気となった際,道鏡は宿曜秘法を修して看病し,病を癒して寵幸を得た。それを淳仁天皇が非難したので上皇は怒って平城京に還り,法華寺で出家,6月詔して〈天皇は小事のみ行え,国家の大事と賞罰の二権は朕が行う〉と宣した。天皇を操って政権を握っていた藤原仲麻呂は権勢を失い,764年9月11日謀反を企て,権力を奪還しようとしたが敗れて殺された(恵美押勝の乱)。上皇は淳仁天皇を廃して重祚した。称徳天皇である。道鏡は9月20日大臣禅師に任ぜられて政権を握り,翌年(天平神護1)閏10月天皇の弓削寺行幸の際,太政大臣禅師に任ぜられた。僧侶が最高権力の地位についたのも異例であるが,さらに766年,法王という未曾有の官に任ぜられ,翌年法王宮職が設置された。月料は天皇の供御に准ぜられ,人臣最高の地位に昇った。

 道鏡は仏教重視,公縁抑圧の政策をとり,放鷹司を廃して放生司を置き,猟を禁じ,肉魚を御贄に奉ることを禁じ,貴族の墾田をいっさい禁じたが寺院のそれは認め,百姓の1,2町は許した。東大寺に対抗して西大寺,西隆寺を建立し莫大の財を費やした。道鏡におもねるものが各地から奇跡,祥瑞を報告し,献上した。自分からも策謀し,彼の徳政を天がよみすると宣伝した。その最大の事件が宇佐八幡宮神託事件で,769年(神護景雲3)〈道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん〉と宇佐八幡の神託の奏上があった。これは道鏡の弟の大宰帥弓削浄人と大宰主神中臣習宜阿曾麻呂と八幡神職団の共謀であったが,和気清麻呂が勅使として派遣され,その謀を見破り,道鏡をしりぞけよとの神託を復命,道鏡の企ては破れた。天皇は770年(宝亀1)由義宮(ゆげのみや)に滞在中病となり,同8月に没した。道鏡は下野薬師寺別当に左遷され,772年その地で死んだ。    横田 健一

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141名無しさん:2013/07/21(日) 08:12:55
宇佐八幡宮神託事件
うさはちまんぐうしんたくじけん

769年(神護景雲3)大宰府管内豊前国の宇佐八幡神が僧道鏡を天皇にしたならば天下太平ならんと,称徳天皇に神託を奏上した事件。宇佐八幡宮の起源は不明だが,正史では《続日本紀》に737年(天平9)新羅の無礼を八幡神に告げたとあるのが初見。745年ころから同神が東大寺大仏の建立を助け,とくに銅と黄金の入手を助けたと信ぜられ,朝廷の崇敬を得た。750年(天平勝宝2)には封戸1400戸,位田140町が施入され,伊勢神宮をしのぎ,全神社中第1位を占める厚い崇敬を得た。道鏡は761年(天平宝字5)に近江保良宮で孝謙上皇が病気のときに看病に侍して癒してから,上皇の寵を得た。これをねたんだ藤原仲麻呂が764年9月に謀反を起こして敗死した後,上皇は称徳天皇として再即位した。その直後,道鏡は大臣禅師,翌年太政大臣禅師に任ぜられて政権を握り,766年(天平神護2)法王に任ぜられ,供御は天皇に準ずるという史上空前絶後の高位に昇った。769年5月ころ,宇佐八幡神は託宣し〈道鏡を天位につかしめば天下太平ならん〉とあり,これを大宰主神中臣習宜阿曾麻呂が奏した。当時大宰帥は道鏡の弟弓削浄人(ゆげのきよと)であるから,合意のうえの奏上であろう。天皇は夢に八幡神が,神教を聴かせるから尼法均(和気広虫)を派遣せよとあるが,法均は女で軟弱,遠路にたえがたいからと,その弟和気清麻呂を宇佐に派遣した。彼は神前で託宣を請うと,その神託は〈道鏡を天位につかしめば〉という前回と同様であった。彼は〈これは国家の大事なり。信じ難し。願わくは神異を示せ〉と願った。神は忽然と形を現じ身長3丈ばかり,色満月のごとくで,神託は〈わが国は君臣の分定まれり,道鏡は悖逆(はいぎやく)無道,神器を望むをもって神震怒し,その祈をきかず。天つ日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を続(つ)げよ〉とあった。清麻呂は帰京して,これを奏上したため大隅に流されたが,天皇は道鏡を天位につけることを断念した。その後天皇が没すると道鏡も失脚した。
                        横田 健一

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142名無しさん:2013/07/21(日) 08:13:32
恵美押勝の乱
えみのおしかつのらん

奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。そして太保(右大臣),ついで太師(太政大臣)に進み,位階もついには正一位に達し,その間中国の唐を模倣したさまざまな重要施策を実行に移した。しかし,紫微中台(しびちゆうだい)の長官としてとくに緊密な関係にあった叔母の光明皇太后が760年(天平宝字4)に没したことが契機となって,勢力が下降しはじめ,反対派との対立が激化してきた。すなわち,保良宮に滞在中,看病に当たった道鏡を孝謙上皇が寵愛したのを淳仁天皇が批判したことから,両者の間が不和となり,決裂状態のまま平城京に帰って,淳仁天皇は平城宮中宮院に,孝謙上皇は出家して法華寺に入り,皇権も国家の大事と賞罰は上皇が掌握し,天皇はただ小事と常祀を行うだけとなったが,その背後には仲麻呂=淳仁派に対する道鏡ら反仲麻呂=孝謙派の抗争が伏在していた。仲麻呂はこれに対して子息の真先・久須麻呂・朝私(あさかり)や女婿の藤原御楯を参議に任じ,また衛府の要職や越前・美濃など関国の国司に一族与党を配して態勢を固めたが,そのころまた藤原良継,佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持ら反仲麻呂派によるクーデタ計画が発覚した(763)。この事件は良継が罪を一身に負って一応おさまったが,今毛人,宅嗣,家持も左遷された。しかし,仲麻呂派も僧綱では少僧都慈訓,慶俊が解任されて,道鏡がこれに代わり,またそれまで絶対的な支配下にあった造東大寺司にも反対派の勢力がしだいに浸透してきて,形勢は悪化し,さらに妻の袁比良(おひら)についで,石川年足や御楯など有力な支援者が死に,飢饉・疫病に加えて物価が高騰するなど社会不安も高まってきた。

 かくして764年9月,仲麻呂は退勢を一気に恐回すべく反乱を企図し,みずから〈都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使〉という地位につき,それら配下の諸国から多くの手兵を都に集めようとした。しかし,反乱計画は高丘比良麻呂や大津大浦らの密告によって孝謙上皇の知るところとなり,上皇は先手を打って淳仁天皇のもとにあった鈴印を回収しようとした。中宮院にあって勅旨の伝宣に当たっていた久須麻呂はこれを邀撃(ようげき)し,いちどは鈴印を奪回したが,授刀衛の坂上苅田麻呂らに射殺された。かくて鈴印の争奪戦に端を発し,仲麻呂は公然と反旗を掲げることとなったため,官位・氏姓を影奪され,封戸・雑物も没収されたうえ,不意をうたれて淳仁天皇と行動をともにできなくなったので,氷上塩焼(塩焼王)を天皇に擁立し,永年拠点としてきた近江国の国衙に拠って,みずからを正統と称し,孝謙上皇方に対抗しようとした。しかし,田原道を先回りした追討軍佐伯伊多智に妨げられて勢多(瀬田)橋を渡ることができず,やむなく湖西を越前国に逃入しようとしたが,この計画も伊多智らが先に越前に入って国守であった子息辛加知(しかち)を殺し,愛発関(あらちのせき)を閉じたため,果たさず,後退して高島郡三尾埼に至ったところを,藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らの追討軍主力に挟撃され,勝野鬼江から湖上に逃れようとしたが,石村石楯(いわれのいわたて)に捕らえられ,一族与党34人とともに湖浜で斬首された。乱後,淳仁天皇は廃位され,淡路に幽閉されたが,765年(天平神護1)脱走を企てて怪死し,新しく道鏡が大臣禅師に任ぜられて政権を掌握した。                    岸 俊男

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143名無しさん:2013/07/21(日) 08:14:02
大津大浦 ?‐775(宝亀6)
おおつのおおうら

奈良時代の陰陽家。大津氏は連(むらじ)姓で,代々陰陽を習い伝える。大浦は藤原仲麻呂の信任をえて吉凶を占ったが,仲麻呂の蘭意を知るとこれを密告。その功により位は正七位上から従四位上,姓も宿衝(すくね)となり,功田15町が与えられた。しかし道鏡政権下で舎人親王の孫和気王の謀反事件に連座し,再び連姓となり,日向守に左遷。道鏡失脚後ゆるされて陰陽頭兼安芸守となった。                    早川 庄八

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144名無しさん:2013/07/21(日) 08:15:02
岡寺
おかでら

奈良県高市郡明日香村にある真言宗豊山派の寺。もと竜蓋寺ともいい,義淵僧正が草壁皇子の岡宮(岡本宮)を天智天皇より授けられて寺としたと伝えられる。岡寺の名は,前身の宮の名あるいは丘陵地にあった立地によったものらしく,俗称といいうる。奈良時代には多くの仏典を所蔵していた。762年(天平宝字6)に寺封50戸が寄せられ,道鏡も丈六の塑像如意輪観音座像を造立し,現に西国三十三所の一つとして信仰を集めている。吉野郡にあった竜門寺と共に興福寺別当の兼帯の重要寺院とされてきたが,1283年(弘安6)ころに炎上,1472年(文明4)の大風で三重塔が倒壊し,興福寺一乗院により再建が企てられたが完成に至らなかった。江戸時代には25歳の厄除け観音として有名であった。本尊如意輪観音像は日本最大の塑像で,ほかに木心乾漆の義淵僧正像,銅造如意輪観音半跏像,木造仏涅槃(ねはん)像,天人文磚(せん)などを所蔵している。    堀池 春峰

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145名無しさん:2013/07/21(日) 08:16:11
由義宮
ゆげのみや

奈良時代,769年(神護景雲3)から770年(宝亀1)ころ河内国にあった離宮。称徳天皇は河内国若江郡の弓削氏出身の僧道鏡を寵幸し,太政大臣禅師さらに法王に任じ,供御は天皇に準ずる待遇を与えた。769年宇佐八幡宮神託事件の直後,10月に天皇は道鏡の出身地,若江郡弓削郷に由義宮と号する離宮を建て,ここに行幸した。河内国を河内職と改め,特別行政地域とし,その長官河内大夫に藤原雄田麻呂(後の百川(ももかわ))を任命した。和気清麻呂が神託事件で大隅へ配流中,彼が資を送り助けたことは興味深い。天皇は由義宮で弓削氏一族に位を与え,高年者に物を賜い,大県,若江2郡の調を免じ,安宿,志紀2郡の田租の半ばを免じた。翌770年大県,若江,高安3郡百姓の宅で由義宮の宮域に入る者にはその価を給した。宮域の広さがわかる。2月27日宮に行幸,3月博多川に遊楽,歌垣を行った。4月由義寺の塔を造り始めた。しかし還幸後,天皇は病み,同年8月4日に没した。由義宮址の正確な位置は不明。
                        横田 健一

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146名無しさん:2013/07/21(日) 08:16:41
孝謙天皇 718‐770(養老2‐宝亀1)
こうけんてんのう

第46代に数えられる奈良後期の女帝。在位749‐758年。のち重祚して第48代に数えられる称徳天皇。在位764‐770年。聖武天皇の皇女,母は光明皇后,諱(いみな)は阿倍,高野天皇ともいう。738年(天平10)1月はじめて未婚の女性ながら立太子,皇太子学士吉備真備について学び,743年の5月5日には内裏で五節舞を舞った。749年(天平勝宝1)7月聖武天皇の譲位によって即位したが,実権は,紫微中台(しびちゆうだい)を設け藤原仲麻呂を紫微令に任じた母の光明皇太后が掌握していた。在位中に盧舎那大仏像の開眼供養が行われ,東大寺に行幸,帰途仲麻呂の田村第に入った。また唐僧鑑真が来日すると,東大寺大仏殿前に戒壇をたてて受戒した。756年の聖武太上天皇没後,遺詔によって道祖(ふなど)王(父は新田部親王)を皇太子としたが,黒縦を理由にまもなく廃太子し,代わって藤原仲麻呂といわば養父子の関係にある大炊(おおい)王(父は舎人親王)を立太子させた。その後仲麻呂を紫微内相に任じ,橘奈良麻呂の反乱を未然に鎮圧すると,758年(天平宝字2)8月には皇位を大炊王(淳仁天皇)に譲り,宝字称徳孝謙皇帝の尊号を受けた。しかしまもなく母の光明皇太后が没し,その翌年近江保良宮(北京)に行幸したころから,看病禅師の道鏡を寵愛したことが問題となって,淳仁天皇と不和となり,平城宮にかえるとそのまま法華寺に入り,〈国家の大事と賞罰は朕(孝謙)が行い,常祀と小事は今帝(淳仁)が行え〉と宣言する。かくして淳仁天皇を擁立する藤原仲麻呂派との対立が激化し,ついに764年9月に恵美押勝の乱が起こったが,追討軍を発遣して仲麻呂一族を湖西に敗死させ,淳仁天皇を廃して淡路に配流し,代わって重祚した。この間四天王の加護を祈って造像を発願し,やがて西大寺が創建されたほか,戦没者の冥福を祈るため木製の三重小塔100万基を造って南都十大寺に分置した。乱後は道鏡を重用し,太政大臣禅師に任じ,ついで法王の位を授け,法王宮職を設置した。その結果,道鏡は宇佐八幡神の託宣と称して皇位につこうとしたが,和気清麻呂が神教を復奏して妨げ,実現しなかった。770年8月河内由義(ゆげ)宮(西京)から還幸後,平城宮西宮で没した。大和国添下郡佐貴郷高野山陵に葬る。《正倉院文書》中の造東大寺司沙金奉請文に記された〈宜〉の字は自筆という。          岸 俊男

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147名無しさん:2013/07/21(日) 08:17:43
光仁天皇 709‐781(和銅2‐天応1)
こうにんてんのう

第49代に数えられる奈良後期の天皇。在位770‐781年。天智天皇の孫,施基(志貴)皇子の第6子,母は紀諸人の女橡姫(とちひめ)。諱(いみな)は白壁,和風諡号(しごう)を天宗高紹(あまむねたかつぎ)天皇という。737年(天平9)無位から従四位下に叙せられ,以後累進して正三位大納言に至ったが,その間飲酒をほしいままにして皇位継承の争いに巻き込まれるのを避けていた。しかし770年8月に称徳天皇が没し,天武系の皇統が絶えると,藤原百川,永手らに擁立されて皇太子となり,道鏡を下野薬師寺別当に左遷した。ついで同年10月に即位,宝亀と改元し,井上(いかみ)内親王を皇后に,その子である他戸(おさべ)親王を皇太子と定めたが,まもなく皇后が巫蠱(ふこ)に座したという理由で,廃后・廃太子を断行し,代わって山部親王(母は高野新笠)を皇太子に立て,また楊梅宮を造営して移った。在位中,大中臣清麻呂を右大臣に,藤原良継を内臣,内大臣に任じて重用し,庶政刷新,綱紀粛正をはかったほか,渤海,新羅,唐からの使節来朝が相つぎ,また蝦夷の反乱鎮定にも努めた。781年4月,病によって山部親王(桓武天皇)に譲位,同年12月に没した。はじめ広岡山陵に葬ったが,のち父の施基皇子(春日宮天皇と追称)を葬る大和国添上郡田原の地に改葬した。                       岸 俊男

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148名無しさん:2013/07/21(日) 08:18:34
古事談
こじだん

鎌倉初期の説話集。源顕兼(あきかね)編。1212年(建暦2)以後15年(建保3)2月までに成立。6巻。説話を〈王道・后宮〉〈臣節〉〈僧行〉〈勇士〉〈神社〉〈仏寺〉〈亭宅〉〈諸道〉に分類集録し,その形態は中国の類書に似る。462話収録。《中外抄》《富家語(ふけご)》《江談抄(ごうだんしよう)》《扶桑略記(ふそうりやつき)》をはじめとする諸種の先行文献の記事を抄出したものが中心となっている。説話に対しての編纂者の評語,教訓の類は付されていない。内容や分類項目からうかがえる本書の意図は,貴族社会をその裏面にまで踏みこんで描くことにあった,と思われる。説話集冒頭に称徳天皇と道鏡の好色説話を置き,花山院と馬内侍,後冷泉院と源隆国にまつわる逸話など,天皇に関する好色秘話を含むことにもその一端が示されている。《宇治拾遺物語》の編纂資料となった。また,本書の強い影響のもとに《続古事談》が成立した。
                        出雲路 修

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149名無しさん:2013/07/21(日) 08:20:08
坂上氏
さかのうえうじ

日本古代の氏族。渡来系氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)(倭漢氏とも書く)から分かれた多数の枝氏族の一つ。東漢氏は,応神天皇の時代に阿知使主(あちのおみ)に率いられて日本に渡来してきたという伝承をもち,5世紀ころよりヤマト朝廷の文筆,財務,外交にたずさわるとともに,あとから渡来してきた手工業技術者などを支配下におさめて急速に成長した氏族であるが,その後分裂をくりかえし,60以上の枝氏族に分かれたという。しかし分裂後もこの氏族は,681年(天武10)に直(あたい)姓から連(むらじ)姓に変わったときも,685年に忌寸(いみき)姓を与えられたときも,一括して東漢氏と称されたように,氏族としての結合を保っていた。ただしその結合はゆるく,枝氏族相互は対等で,宗家とよぶべきものはなかったと考えられている。坂上氏はそうした枝氏族の一つであるが,壬申の乱(672)に坂上老(おきな)が武功をたてて以後しばらくは頭角をあらわす者がなかったが,孫の犬養(いぬかい)が聖武天皇に武芸の才を愛されて正四位上にのぼり,その子苅田麻呂(かりたまろ)が764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱に武将としての功あって大忌寸(おおいみき)の姓を授けられ,道鏡追放にも功あって785年(延暦4)従三位となり,またみずから上表して同族10氏を宿衝(すくね)姓に改めることに成功すると,坂上氏は東漢氏の宗家の観を呈するようになった。その子が蝦夷征討に活躍した田村麻呂(たむらまろ)で,征夷大将軍となり,武功により従三位にのぼり,さらに正三位大納言となる。田村麻呂ののちは武門氏族としての坂上氏はおとろえたが,平安時代末期に明法道(みようぼうどう)の家として再び名をあげる。すなわち定成(1088没)が坂上氏としてはじめて明法博士となり,ついで明経道の中原氏から定成の養子になったと推定される明法博士範政は,〈法家坂上一流の祖〉と称された。以後その子孫は代々明法博士に任じ,なかでも範政の子の明兼(あきかね),明兼の孫の明基(あきもと)は,それぞれ《法曹(ほつそう)至要抄》《裁判至要抄》の著者として知られる。                    早川 庄八

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150名無しさん:2013/07/21(日) 08:20:45
弓削浄人
ゆげのきよと

奈良後期の政治家。生没年不詳。清人にもつくる。河内国若江郡出身。道鏡の弟。764年(天平宝字8)9月11日,藤原仲麻呂の謀反した日に従四位参議,10月上総守,翌年(天平神護1)従四位上,766年正三位中納言,767年(神護景雲1)内豎縁,衛門督,768年3月大納言兼大宰帥,769年従二位と累進した。大宰帥在任中部下の大宰主神中臣習宜阿曾麻呂,豊前宇佐八幡神職団と共謀し〈道鏡を天位につかしめば……〉の宇佐八幡宮神託事件を起こした。770年(宝亀1)8月称徳天皇没後,兄道鏡とともに失脚,土佐に流された。
                        横田 健一

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151名無しさん:2013/07/21(日) 08:21:25
和気清麻呂 733‐799(天平5‐延暦18)
わけのきよまろ

奈良中期より平安初期にかけての官人。本姓は磐梨別公(いわなすわけのきみ),また藤野別真人(ふじのわけのまひと)を称し,和気宿衝(すくね)さらに和気朝臣に改姓された。備前国藤野郡に生まれ,その後,孝謙(称徳)天皇に近侍していた姉和気広虫の引きによって,おそらく兵衛(とねり)として出仕したものと思われる。《続日本紀》にはじめて名が記録されるのは,765年(天平神護1)従六位上,右兵衛少尉のときで,広虫とともに称徳天皇に重用された。やがて皇位を望んだ僧道鏡の事件にさいし,姉に代わって宇佐八幡に使し,神託をうけてこれを阻止した(宇佐八幡宮神託事件)。そのため一時別部穢麻呂と名をかえられ,大隅国に流されたが,光仁天皇の即位とともに770年(宝亀1)京に召されてもとの従五位下に復し,桓武天皇の側近として活躍した。長岡京造営には陰の役割をはたし,従四位下より正四位下に昇叙し,ついで平安京造営には造宮大夫として事業をにない,従三位に叙せられ,公縁に列した。この間,摂津大夫として水利事業を進め,民部大輔として〈民部省例〉を斤するなど,民政にあかるく,さらに美作・備前両国国造(くにのみやつこ)に任ぜられ,故郷の百姓の利益にも力をつくした。799年姉広虫についで没したときは民部縁・造営大夫・従三位で,正三位を贈られた。人となり高直,匪躬の節ありと評された。           平野 邦雄

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和気広虫 730‐799(天平2‐延暦18)
わけのひろむし

奈良中期から平安初期に後宮に仕えた女官。ことに孝謙(称徳)女帝に重んぜられた。清麻呂の姉。その名が史料にはじめてみえるのは762年(天平宝字6)女孺,豎子として天皇の勅を伝宣したときで,同年孝謙上皇の出家にしたがい尼となり,法均尼を称した。当時,郡司の子女は采女(うねめ)として出仕したから,広虫もこの例に従い備前国藤野郡より出身したのであろう。そして損木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚した。戸主は中宮職,のち皇后宮職(紫微中台)の官人となったから,広虫も後宮で天皇,上皇の側近としての地位を占めたものと思われる。称徳女帝のもとで従五位下,さらに従四位下に准ぜられ,封戸を賜ったが,道鏡の宇佐八幡宮神託事件にさいし清麻呂とともに除名され,備後国に流された。光仁天皇の即位で770年(宝亀1)京に召され,もとの従五位下に復し,従四位下,典蔵(くらのすけ)となり,桓武天皇のもとで789年(延暦8),典侍(ないしのすけ),従四位上として勅を伝宣している。70歳で没したときは典侍,正四位上で,のち正三位を贈られた。その伝に,藤原仲麻呂の乱連座者の減刑を願って許され,孤児を養子として育て,人となり貞順,節操に欠くるところなく,桓武天皇にはなはだ信重されたとある。                      平野 邦雄

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152名無しさん:2013/07/21(日) 08:22:29
八幡信仰
はちまんしんこう

八幡神に対する信仰。大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮(八幡宮)に起こり,日本で最も普及した神社信仰である。しかしその発生発達は複雑で,古来諸説が多く,海神,鍛冶神,ヤハタ(地名)神,幡を立ててまつる神,秦氏の氏神,焼畑神,ハルマン halmang(朝鮮語の〈婆さん〉の俗語)の神(姥神)などといわれてきた。しかし八幡宮神事の祭祀集団は,豊前国北部の田川・京都(みやこ)などの集団と,南部の宇佐・下毛などの集団によって構成されている。したがって,祭祀の中心は豊前国綾幡(あやはた)郷あたりにあり,ここにヤハタ神の名が発生したのかもしれない。やがてこの信仰は宇佐地方に入り,宇佐の比黄(ひめ)神をまつる信仰と融合する。この間この祭祀集団の司祭者は雄略朝には豊国奇巫,用明朝には豊国法師として天皇の治病に参内したと伝えられる。欽明朝のころ大神比義(おおがのひぎ)というシャーマンが宇佐に入りヤハタ神に応神天皇の神格を接近させたようである。712年(和銅5)に鷹居瀬社にまつられ,その後小山田社,さらに725年(神亀2)には現在の地に奉斎され,731年(天平3)には官幣にあずかった。八幡神として中央進出を企てたのは,745年聖武天皇が東大寺の地での大仏の造立を発願したころで,当時の司祭者大神氏は進んで朝廷に近づき,八幡神の託宣により鋳造にともなう数々の問題が解決した。749年(天平勝宝1)東大寺ができると八幡神が上京し,八幡神は一品,比黄神は二品をうけ,封戸が施入され,以後国家の大事に関係した。ことに弓削道鏡の野望を託宣により退け(宇佐八幡宮神託事件),天位に決定的力を現し,のち宇佐使(うさのつかい)が始まった。早くから道教や仏教と習合していたので,781年(天応1)護国霊験威力神通大菩醍の神号が贈られ神仏習合の先駆を示した。最澄や空海が八幡信仰に近づき盛んに寺院鎮守に勧請するころ,宇佐では神功皇后を配祀した。とくに最澄が深く崇敬したので天台僧に親しまれ,僧金亀は827年(天長4)豊後国に由原宮を勧請し,宮寺(みやでら)という新しい信仰体制をつくる。この影響で大安寺僧行教により859年(貞観1)山城国男山に勧請され,翌年石清水八幡宮が建立された。そのころから応神天皇,神功皇后の神格が強調され,王城鎮護の神とあがめられ,伊勢神宮につぐ第2の宗妓として崇敬された。その後源頼信など清和源氏が八幡神を氏神とし,関東や東北にまで伝播するようになった。鎌倉幕府が開かれると,鶴岡八幡宮が武士たちに崇敬され,八幡大菩醍への信仰は全国に伝わり武神としての色彩が強くなった。一方宇佐では,神功皇后が配祀されたころ若宮が創祀され,聖母・神母の信仰が九州に現れ,聖母・神母・母子神信仰が広がり,民衆に強い支持をうけた。比黄大神,神功皇后と若宮四神は六所権現として山岳信仰にも結びついて,八幡大菩醍に対して人聞(にんもん)(神母)菩醍が民衆に信仰された。その本山が豊後国国東(くにさき)半島の六郷山で,ここに六郷山修験道が生まれ,安産,生産,災害防止など広く庶民の願望にこたえた(六郷満山)。しかし全国的には応神天皇を中心に,神功皇后,仲哀天皇などと組み合わされて広く信仰された。現在八幡宮に関係する神社は全国に4万余社がある。⇒宇佐神宮                 中野 幡能

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153名無しさん:2013/07/21(日) 08:24:51
法王宮職
ほうおうぐうしき

767年(神護景雲1)に設置された令外官。道鏡が法王として家政と政務を執行した官庁。道鏡は766年(天平神護2)10月法王に任ぜられた。翌年3月に法王宮職が置かれ,造宮縁但馬守従三位高麗福信(こまのふくしん)を大夫(兼任)に任じ,大外記遠江守従四位下高丘比良麻呂を亮(兼任),勅旨大丞従五位上損井道依を大進(兼任)とし,少進1人,大属1人,少属2人がおかれた。法王の月料は天皇の供御に準じたとあるから,衣服,飲食は天皇と同じものを用いた。また出入警蹕も乗輿に擬したとあるから,乗物や出入のときの儀礼も天皇と同等であった。ゆえにその家政の執行,また公の政務についても,少なくとも中宮職,春宮坊に匹敵する舎人(とねり)(中宮400人,春宮600人),使部(30人),直丁(3人)が属していたと考えられる。高麗福信は668年高句麗の滅亡時に亡命渡来した背奈福徳の孫,高丘比良麻呂は百済滅亡後の663年に亡命渡来した百済人沙門詠の子孫であり,古来の日本貴族にくらべ,成上りの道鏡に反感を抱かぬ渡来人をその職にあてたのであろう。770年(宝亀1)道鏡の失脚と同時に廃止された。                     横田 健一

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法王
ほうおう

(1)釈梼(仏陀)の尊称。(2)766年(天平神護2),称徳天皇が僧道鏡に授けた位。法皇とも書く。(3)法皇(ほうおう)に同じ。(4)ローマ法王(教皇)のこと。〈教皇〉の項を参照されたい。

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154名無しさん:2013/07/21(日) 08:25:54
藤原仲麻呂 706‐764(慶雲3‐天平宝字8)
ふじわらのなかまろ

奈良時代の政治家。名は仲満とも書く。758年(天平宝字2)に恵美押勝(えみのおしかつ)と改称した。藤原武智麻呂(むちまろ)の第2子。母は安倍朝臣出身の女性で,貞吉もしくは真虎の娘と伝え,豊成は同母兄。聡敏で読書家,また算術に精通した。725年(神亀2)に内舎人(うどねり),ついで大学少允となる。734年(天平6)正六位下より従五位下となり,父武智麻呂ら藤氏四縁の死後750年(天平勝宝2)従二位に昇るまで11年間に9階という異例の急進をとげ,さらに760年に従一位,762年には正一位の極位に至っている。

 その間官職も741年民部縁,743年参議兼左京大夫,745年兼近江守,746年式部縁兼東山道鎮撫使などを歴任した。749年聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると大納言となり,さらに皇権を掌握した叔母の光明皇太后のために新しく設置された紫微中台の長官紫微令をも兼任し,太政官に拠る左大臣橘諸兄らに対抗して,政治の中枢に進出した。756年聖武上皇が没すると翌757年皇太子道祖(ふなど)王を廃し,大炊王を擁立した。大炊王は当時仲麻呂の私宅田村第に住み,仲麻呂の亡男真従(まより)の婦の粟田諸姉をめとっていて,仲麻呂とはミウチ的な関係にあった。同年紫微内相(ないしよう)となって軍事権も手中にした仲麻呂は,諸兄の長子橘奈良麻呂や,大伴,佐伯,多治比ら反仲麻呂勢力の反乱を未然に鎮圧し(橘奈良麻呂の変),独裁政権を確立した。ついで758年大炊王が即位し淳仁天皇となると太保(右大臣)となり,恵美押勝の姓名,功封3000戸,功田100町を賜り,鋳銭,出挙(すいこ)の自由な権限を手中にし,また,恵美家印を太政官印にかえて用いることも許され,760年にはついに太師(太政大臣)となった。

 しかし同年光明皇太后が没すると,しだいに政権にかげりがあらわれはじめた。762年近江の保良宮滞在中に孝謙上皇と淳仁天皇が道鏡の問題をめぐって不和となり,平城京に帰った後は皇権の分裂にまで発展したが,その背後には仲麻呂・淳仁派と道鏡・孝謙派の対立抗争の激化があった。加えて銭貨改鋳はインフレを招き,社会不安が高まったので,764年仲麻呂はこの退勢を一挙に恐回するため反乱を企て,都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使となってひそかに手兵を集めようとしたが,計画は事前に発覚した。緒戦に敗れた仲麻呂は近江,ついで越前への逃亡をはかったが,いずれも失敗し,近江湖西の勝野鬼江で捕らえられ,一族与党とともに湖浜で斬首された。

 仲麻呂の施策には,雑徭日数の半減や課役年齢の短縮,問民苦使(もみくし)の派遣など人心の安定をはかるものがみられるが,多くは唐制の模倣であり,このことは乾政官(太政官),坤宮官(紫微中台)などの官号の唐風化や,歴代天皇の漢風諡号(しごう)の斤進にもみられ,またそこには《孝経》を各家に所持させ,《維城典訓》を官人の必読書とする政策と同じように,仲麻呂の儒教好みがあらわれている。さらに757年養老律令の施行は,祖父不比等の顕彰を目的とするが,藤原氏の《家伝》を編纂し,みずからが〈鎌足伝〉(〈大織冠伝〉)を書いたのも同じ意図に出るものであった。そのほか《日本書紀》に続く正史編修を発議し,また《氏族志》の編纂も手がけたが,それらはのちの《続日本紀》や《新斤姓氏録》の先駆となった。⇒恵美押勝の乱               岸 俊男

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155名無しさん:2013/07/21(日) 08:27:38
中臣氏
なかとみうじ

日本古代の豪族。大和朝廷では祭祀を担当し姓(かばね)は連(むらじ)。大化改新後に藤原氏を分出,八色(やくさ)の姓の制度で朝臣を賜姓。奈良後期から嫡流は大中臣(おおなかとみ)氏。中世以後は岩出(いわで),藤波(ふじなみ)などと称する。中臣とは,《中臣氏系図》の〈延喜本系〉に奈良後期の本系帳を引用し〈高天原に初めて,皇神(すめかみ)の御中(みなか),皇御孫(すめみま)の御中執り持ちて,いかし桙(ほこ)傾けず,本末(もとすえ)なからふる人,これを中臣と称へり〉とか,《台記別記》の〈中臣寿詞(なかとみのよごと)〉に〈本末傾けず茂槍(いかしほこ)の中執り持ちて仕へ奉る中臣〉とか,《大織冠伝》に〈世々天地の祭を掌り,人神の間を相和す。仍ってその氏に命じて中臣と曰へり〉とあるように,天皇側近の神官として神託を伝えるという職掌による呼称であろう。祖神は天の岩戸や天孫降臨の記紀神話に登場し,春日神社などにまつられる天児屋(あめのこやね)命。遠祖として垂仁朝に大鹿嶋(おおかしま),仲哀朝や允恭朝に烏賊津(いかつ)の名が《日本書紀》にみえ,欽明朝では鎌子(後の鎌子とは別人),敏達・用明朝では勝海(かつみ)が大連の物部氏とともに仏教受容に反対し,勝海は大臣の蘇我氏らに討たれたという。しかし〈延喜本系〉では欽明朝以後,黒田―常磐(ときわ)―方子(かたのこ)―御食子(みけこ)と代々朝廷に仕え,推古・舒明朝では御食子が〈前事奏官兼祭官〉すなわち朝廷の政務を決定する会議に参加する大夫(まえつぎみ)で神官を兼ねていたといい,鎌子・勝海らと黒田以下との系譜関係には触れないので,中臣の嫡流は勝海で絶え,常陸の鹿島から来た中臣(遠祖は大鹿嶋)が後を継いだとの説もある。

 ともかく御食子の子の鎌子(後の藤原鎌足)が生まれたころの中臣氏は,間人(はしひと),志斐(しひ),熊凝(くまごり),習宜(すげ),宮処(みやこ),伊勢,鹿嶋など多くの支流に分かれ,各地に中臣部(なかとみべ)という私民や田荘(たどころ)をもつ,かなり有力な朝廷豪族であった。だが鎌子すなわち鎌足は神官の職を継がず,大化改新(645)以後は内臣(うちのおみ)として中大兄(後の天智天皇)を補佐し,669年(天智8)に病没したときには大織冠,内大臣という冠位,官職と藤原という氏を賜った。以後鎌足の一族は従兄弟たちまで中臣藤原連(なかとみのふじわらのむらじ),すなわち朝廷の官人としては藤原,神官としては従来どおり中臣と称するようになったようである。ところが壬申の乱(672)で従弟の右大臣中臣金(くがね)は近江朝廷側の強硬派として斬られ,鎌足の子の不比等(ふひと)もしばらく答塞(ひつそく)しているうちに,天武天皇夫人となった鎌足の娘の氷上(ひかみ),五百重(いおえ)がそれぞれ皇女,皇子を生み,やがて不比等や金の甥の大嶋(おおしま)も,官人や神官として活躍しはじめたので,八色の姓の制では中臣連のうちの藤原系が,物部連とともに例外的に朝臣を賜姓された。文武朝にはいると,娘の宮子(みやこ)を文武天皇夫人とした不比等は,藤原朝臣という氏姓を自分の子孫に限定するために,698年(文武2),朝廷の祭祀は再従兄弟の意美麻呂(おみまろ)らが担当するという理由で彼らを中臣朝臣とし,藤原と中臣との分離に成功した。奈良時代の中臣氏からは,神梢官の長官や次官のほか,正四位上中納言の意美麻呂,その子で正二位右大臣にまで進んだ清麻呂,鎌足の弟の孫で遣唐副使として苦労した名代(なしろ),その子で遣唐判官の鷹主(たかぬし),また意美麻呂の孫で狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)との間の相聞歌が有名な宅守(やかもり),支流からは武官として聞こえた中臣伊勢(連)老人(おきな),道鏡にこびた中臣習宜(朝臣)阿曾麻呂(あそまろ)などの名が知られている。なかでも清麻呂は中納言従三位であった769年(神護景雲3)に大中臣の氏を賜い,その子孫は引き続き大中臣朝臣と称したが,平安初期には親族にも大中臣への改氏を申請して許可されるものが多くなった。⇒藤原氏              青木 和夫

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156名無しさん:2013/07/22(月) 19:11:44
陰陽道
おんみょうどう

日月星辰の運行や方位をみ,特殊な占法を用いて国家・社会や個人の吉凶禍福を判じ,あらゆる思考や行動上にその指針を得ようとする諸技術をさし,これに関連する思想・理論も含まれる。中国古代,夏・殷(商)王朝のころに発達し,周王朝の時代に完成した。いわゆる易と称するもので,その代表的な典籍が《周易》である。その思想・理論の中心となるのは陰陽(いんよう)五行説で,日月と木火土金水を万物生成の主要素とし,これに十干十二支の説が結びつき,それらの複雑な組合せから歳月日時方位に占星的価値がつけられ,天文・暦法が加わってここに原始的科学知識が成立した。これは人間の未来を予知するよりどころとして古代漢民族社会を風靡した。

 日本へは仏教が公伝するのと前後して輸入された。すなわち継体朝には百済から段楊爾,漢高安茂等の学者が派遣されてその紹介指導にあたり,602年(推古10)には百済僧観勒が暦本,天文地理書,筒甲方術書など陰陽道関係の書物を献上した。聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法制定に陰陽道をとりいれ,国史編纂には国家の起源にこれを利用するところがあった。大化にはじまる元号制定は中国にならい,祥瑞改元(吉兆とされる現象をもって新しい年号をたてる陰陽道思想)によったもので,これは奈良朝を通じ踏襲されたが,平安朝に入るころから災異改元(天災地変など凶兆とみられる現象をもって新しい年号に代える陰陽道思想)に転じ明治維新までつづいた。白村江の戦以後,百済からの亡命や大陸留学者の帰還によって帰化人系陰陽家が多数活躍し,角福牟(ろくふくむ),僧法蔵,同行心,同道顕らが知られるが,朝廷では僧侶は還俗のうえ仕えさせたので,行心の子僧隆観は金財(たから),僧義法は大津首意毘登(おおつのおびといびと)と改めている。天武天皇はみずから天文・筒甲の術をよくしたといわれ,はじめて陰陽寮をおき占星台を興した。律令制が整備されると陰陽寮は中務省に属し祥瑞災異の判定や新都建設の地相卜占をつかさどったが,反面この方面の専門書や天文器物の私有は禁ぜられた。平安朝に入り,律令制の衰退と藤原氏の政権掌握に伴い,陰陽道は権力者に利用され陰陽師の禁忌卜占が政治に影響するところが多く,貴族の御用的性格を帯びた宮廷陰陽道へと変わっていった。藤原良房の進出した仁明・文徳朝(833‐858)ころよりこの傾向は著しく,藤原師輔は《九条殿遺誡》《九条年中行事》を著して多くの陰陽道的禁忌や作法を明示し,宇多天皇も《周易》に詳しかった。かくて滋岳川人(しげおかのかわひと),弓削是雄(ゆげのこれお)ら名人が輩出し,川人は多数の著作をのこし日本における陰陽道の基礎をつくった。平安中期に出た三善清行も易に通じ,辛酉の歳には革命,甲子の歳には革令があるとの中国の讖緯説(しんいせつ)(周期的予言説)をひいて改元を上奏し,年号を延喜とした。これより周期的災厄説による災異改元が恒例化した。

157名無しさん:2013/07/22(月) 19:12:39
>>156


 やがて賀茂忠行・賀茂保憲父子の名人が出,保憲もその子光栄(みつよし)と弟子安倍晴明の2人の逸材にめぐまれ,光栄には暦道,晴明には天文道を伝えてより,陰陽道界は賀茂・安倍両家による支配体制が成立し,陰陽頭(かみ)の地位も両氏いずれかで占められた。八十島(やそしま)祭・鎮火祭・道痢(みちあえ)祭・七瀬祓など朝廷の神梢的行事の陰陽道化は著しく,物忌(ものいみ)・方違(かたたがえ)は公家の間に有職故実化された禁忌で,とくに鬼門(東北方)や金神・太白・天一など諸神遊行の方向,往亡日・厭日・坎日(かんじつ)・道虚日・衰日などの日が禁忌の対象とされた。これらは院政期に入っていっそうはなはだしくなり,陰陽家には安倍泰親のほか一般公家にも大江匡房,藤原信西,同頼長,清原頼業らの精通者があらわれた。とくに泰親は〈さすのみこ〉といわれ,源平興亡の激動期には政局の前途を占ってよく的中し注目された。これに対して暦道は振るわず,反面算道や宿曜道(すくようどう)が進出した。宿曜道はがんらい中国で密教の星宿信仰と陰陽道が結びついたもので,僧侶が占星術を用いて人の運勢判断などを行い,奈良朝より盛んで空海が唐より宿曜経を伝えるにおよび,南都北嶺を中心にいよいよ発展し,仁海,法蔵,浄蔵ら卜占の名手を出した。

 中世に入ると武家や民間にも禁忌の思想が普及した。指南書は中国伝来のものがほとんど滅び,晴明の《占事略決》が遺存の書として最も古く,南北朝には晴明に仮託された《刃辛(ほき)内伝》がつくられ,牛頭天王(ごずてんのう)の信仰と結びついた民間陰陽書として知られた。室町初期には賀茂在方が《暦林問答集》を著した。戦国期に賀茂家嫡流は絶え,土御門(安倍)家も秀吉に追放されていったん没落したが,江戸期に入って復興され,ついで後水尾朝に賀茂家は支流幸徳井氏によって復興された。暦は長らく中国のものに依存し,元嘉,儀鳳,大衍(たいえん),宣明の諸暦が用いられたのち,ようやく江戸期に渋川春海のつくった貞享暦,ついで西洋流暦法による天保暦と改まり,1870年(明治3)陰陽寮の廃止とともに太陰暦もやめられ,官制の陰陽道はここに終止符を打った。                   村山 修一

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158名無しさん:2013/07/22(月) 19:15:37
弓削氏

弓削氏(ゆげうじ/し)は、「弓削」を氏とする氏族。
古代の日本で弓を製作する弓削部を統率した氏族で、祖先伝承や根拠地域が異なる複数系統がある。物部氏と関係が深く、一部の系統はその傍系とも称した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%93%E5%89%8A%E6%B0%8F

氏寺
うじでら

氏族の氏上・族長が自身あるいは一族の現世安穏と故人の菩提を祈るために建立した寺。氏神が守護神・祖霊神で,一族の崇敬を得たように,氏寺は氏族一門の現世安穏を祈る祈願所であり,氏人は寺の管理権をもつかたわら経営維持に任じ,寺僧・別当も氏人の僧が選ばれた。氏寺の名は805年(延暦24)に初見するが,仏教伝来以後,崇仏毀釈の政争を経て,仏教は氏族間にも漸次流布するに至り,盛んに建立されるようになった。680年(天武9)に官寺となる飛鳥元興寺は,もと蘇我馬子の建立にかかる蘇我氏の氏寺であった。仏教の受容に敏感に反応した渡来系の氏族はこぞって氏寺を創建するようになるが,秦河勝の建立した秦氏の氏寺広隆寺(太秦(うずまさ)寺),西文(かわちのふみ)氏の西琳寺,鞍作氏の坂田寺(金剛寺),東漢(やまとのあや)氏の檜隈寺(道興寺),坂上氏の支流呉原氏の呉原寺,船氏の野中寺,損井氏の藤井寺,百済王氏の百済寺などが,奈良時代にかけて建立された。一方,日本の氏族の建立にかかるものとしては,蘇我山田石川麻呂の山田寺,阿倍氏の崇敬寺(安倍寺),損城氏の損木寺,巨勢氏の巨勢寺,紀氏の紀寺,小野氏の願興寺,大宅氏の大宅寺,中臣(なかとみ)氏の粟原寺や中臣寺,弓削氏の弓削寺,下毛野(しもつけぬ)氏の下野寺,佐伯氏の香積寺(佐伯院)などがあり,中でも藤原氏の興福寺(山階寺)は,明治初年に至るまで,氏寺としてその法灯を伝えた。平安時代に至っても,のち興福寺末となった京都清水寺は坂上氏の氏寺であり,洛西の神願寺(神護寺)は,和気氏の氏寺であった。624年(推古32)9月には寺が46あったことが正史に伝えられているが,その多くは有力な氏族の氏寺により占められていたと思われる。

 奈良時代における国家仏教の成立という発展過程に占めた氏寺の位置は,はなはだ大きいといわねばならない。氏族は氏寺を祈願所とし,寺院経営維持のために,寺領や資財などを寄進し,有力者が檀越(だんおつ)として運営に当たったが,檀越の中には往々にして,寺田を私有化し,資財を横領したり,また,王臣貴族に寺を寄進し,王臣家などは代々相承してきた檀越を追放するという現象が,9世紀ころから生じてきた。こうして氏寺は氏族の興亡盛衰に左右されて,有力な大寺の末寺と化するようになっていく。氏族の盛衰は氏寺の盛衰に直結していたといえる。  堀池 春峰

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159名無しさん:2013/07/22(月) 19:17:46
弓削寺
ゆげでら

大阪府八尾市にあった古代寺院。由義寺とも書く。弓削氏の氏寺と思われる。742年(天平14)に行聖(ぎようしよう)が度者を貢しているから,これ以前の建立であろう。道鏡が弓削氏の出身であった関係から,称徳天皇は765年(天平神護1)この寺に行幸し,食封200戸を施し,770年(宝亀1)塔を造らしめている。平安時代以降のことは不詳で,いつしか退廃した。               中井 真孝

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物部守屋 ?‐587(用明2)
もののべのもりや

飛鳥時代の大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子,雄君の父。母が弓削氏のため物部弓削守屋ともいう。敏達・用明朝を通じ大連であった守屋は,大臣(おおおみ)蘇我馬子とことごとく対立した。仏教受容については父尾輿の場合と同様,中臣勝海(なかとみのかつみ)とともに,疫病流行は蘇我稲目の仏教尊信によるものとして,その大野丘北の寺の塔,仏殿,仏像を焼き,残りの仏像も難波の堀江に捨てたという話を伝える。また,敏達天皇の死後の殯宮(もがりのみや)では,馬子の姿を矢で射られた雀のようだとあざけり,馬子からはふるえる手脚に鈴をかけよとあざけられた,との話も伝えられている。守屋は,用明天皇(母は蘇我堅塩媛(きたしひめ))の異母弟の穴穂部(あなほべ)皇子(母は蘇我小姉君(おあねのきみ))と親しく,皇子が皇位をねらうのを阻もうとした三輪逆(みわのさかう)を殺した。しかし587年,守屋は群臣から孤立したのを察し,河内の阿都(あと)の別荘に退いて戦いの準備をすすめた。中臣勝海も呼応して兵を集め,太子彦人皇子と竹田皇子の像を作って呪詛した。そして用明天皇が死ぬと,同年5月,守屋は穴穂部皇子を天皇に擁立しようとした。これに対し,蘇我馬子は穴穂部皇子を殺し,7月に泊瀬部(はつせべ)皇子(崇峻天皇),竹田皇子,遠戸(うまやど)皇子(聖徳太子)らと紀,巨勢(こせ),膳(かしわで),損城,大伴,阿倍,平群(へぐり),坂本,春日ら諸氏の勢力を糾合。この軍勢の前に守屋は渋河の家で敗死した。以後,物部氏は衰勢に向かったが,守屋の奴と宅の半分は新たに造営されはじめた四天王寺(荒陵(あらはか)寺)の寺奴と田荘とされた。                     門脇 禎二

[伝承]  物部守屋はその後の仏教流通の世情のなかで,もっぱら〈仏法のあた〉とみなされた。《日本霊異記》《今昔物語集》《古今著聞集》などには,仏法興隆者たる聖徳太子の対立者としての守屋が説話化されている。親鸞《三帖和讃(さんじようわさん)》もそれらと同じ立場をとりつつ,なお〈ほとけ〉という和語が守屋の命名によるとの忌説をとり入れている。すなわち,〈ほとけ〉は〈ほとおりけ〉(熱病,疫病の意)の約で,守屋は仏教受容が疫病流行をもたらしたとしてこの名を広めたというものである。さらに《太平記》では〈朝敵〉の烙印がおされ,守屋=逆賊の像がしだいに定着していった。しかし,明治初期には〈廃仏毀釈(はいぶつきしやく)〉運動の影響によるものか,守屋を《皇朝名臣伝》(1880)でとりあげるということもみられた。

 また,近世の読本《繁野話(しげしげやわ)》(1766)には,守屋が逃げのびて100歳の寿を保ったという話が記され,《信濃奇勝録》(1834)には,守屋の子孫が信濃に忍び,48代に達したとの落人伝説を載せている。なお,大阪市四天王寺には守屋および中臣勝海らをまつる守屋堂が現存している。
                        阪下 圭八

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160名無しさん:2013/07/22(月) 19:21:00
物部氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F

物部氏
もののべうじ

古代の有力氏族。姓(かばね)は連(むらじ)で,軍事・警察のことをつかさどる物部の伴造(とものみやつこ)。造(みやつこ),首(おびと)などの姓をもつ配下を従え〈物部八十氏〉とも称された。祖神を饒速日(にぎはやひ)命と伝え,布都御魂(ふつのみたま)をまつる石上(いそのかみ)神宮を氏神社とする。物部氏が軍事・警察の任務についていたことを示す伝承には,(1)雄略天皇13年3月,物部目大連が采女(うねめ)を奸した歯田根命の罪を責める任務を命じられたこと,(2)雄略天皇18年8月,物部測代(うしろ)宿衝と物部目連が伊勢の朝日郎(あさけのいらつこ)を征討したこと,(3)継体天皇9年2月,物部至至(ちち)連が百済に遣わされ水軍500を率いて帯沙江(たさのえ)に至ったこと,(4)継体天皇22年11月,大将軍の物部大連麁鹿火(あらかび)が筑紫国造磐井と交戦して平定したこと,などがある。また物部氏の祖先が神事にたずさわっていたとする伝承には,(1)崇神天皇7年8月,物部連の祖伊香色雄(いかがしこお)が神に捧げる物をわかつ人となったこと,(2)崇神天皇7年11月,伊香色雄が物部の八十平瓮(やそひらか)を祭神の物とすることを命じられたこと,(3)垂仁天皇26年8月,物部十千根(とちね)大連が,出雲の神宝を検校したこと,(4)垂仁天皇87年2月,十千根大連が石上の神宝を管理することになったこと,などがあり,物部氏がかつて神事とも深くかかわっていたことが察せられる。

 物部氏の祖先伝承では,物部氏が大和朝廷の大連(おおむらじ)の職に初めて就いたのは垂仁天皇時代,饒速日命の7世の孫大新河命が大連となり物部連の姓を賜ったときのこととするが,事実は6世紀の初めに,越前出身の継体天皇の擁立にかかわってからであると考えられる。《日本書紀》継体天皇1年2月条によれば,継体天皇即位にさいして大伴金村とともに大連となったのは物部麁鹿火であった。麁鹿火の後をうけて大連に任ぜられた人に,麁鹿火とは系譜的にかなりかけ離れた荒山の子尾輿(おこし)がおり,彼は欽明天皇朝に大連に任じ,大臣(おおおみ)の蘇我稲目とともに朝廷で権力をふるった。やがてこの時代に百済から伝えられた仏教の信仰をめぐって蘇我稲目と対立するようになる。尾輿の子守屋(もりや)は敏達天皇朝に大連になったが,時の大臣蘇我馬子と権勢を争い,仏教の受容に反対して587年(用明2)馬子らに攻められて滅ぼされた。《日本書紀》は物部氏と蘇我氏との対立を仏教受容にからむ問題として伝えているが,実は新興勢力である蘇我氏が,物部氏の本拠である河内国渋川郡の地にまで勢力を伸ばしてきたことによって対立が生じてきたものと考えられる。この対立によって蘇我氏に滅ぼされた物部氏は,以後朝廷政治の中枢から姿を消すが,672年の壬申の乱に物部雄君(おきみ)が天武天皇側の武将として大功をあげたため,この系統の物部氏は命脈を保つことができ,684年(天武13)11月朝臣の姓を賜った。まもなく物部の氏の名を改め,石上朝臣となった。石上氏は《新斤姓氏録》左京神別に〈石上朝臣,神饒速日命之後也〉とみえる。                   佐伯 有清

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物部神社
もののべじんじゃ

島根県大田市川合町に鎮座。宇摩志麻遅(うましまじ)命をまつる。宇摩志麻遅命は物部氏の祖とされ,社伝によれば,神武天皇が大和に入ってのち,その詔をうけて播磨,丹波等を経て石見国を平定,この地でなくなり八百山に葬られたが,継体天皇のときその墓前に社殿を造営したのが当社の創建と伝える。神階は869年(貞観11)正五位下,941年(天慶4)従四位上,延喜の制で小社。のち石見国一宮とされ,中世には毛利氏の保護をうけ,近世は朱印領300石。旧国幣小社。例祭10月9日,ほかに奉射(ぶしや)祭(1月7日),小豆御贄祭(1月15日),田面(たのも)祭(9月1日)など特殊神事が多い。社家金子氏は物部氏の子孫で,代々国造と称されてきた。            鎌田 純一

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161名無しさん:2013/07/22(月) 19:47:59
日本書紀を読んで古事記神話を笑う 
http://www3.point.ne.jp/~ama/

162名無しさん:2013/07/22(月) 19:57:46
日本的霊性 神理研究会
ttp://f35.aaa.livedoor.jp/~shinri/index.htm

高校生のためのおもしろ歴史教室
ttp://www.ican.zaq.ne.jp/euael900/index.html

日本神話を研究してるけど質問ある?
http://galasoku.livedoor.biz/archives/3361722.html

163名無しさん:2013/07/22(月) 20:00:24
古事記
こじき

奈良初期に編纂された天皇家の神話。上巻は神々の物語,中・下巻は初代とされる神武天皇から推古天皇に至る各代の系譜や,天皇,皇子らを中心とする物語である。

【成立】
 これまで《古事記》は史書とされてきたが,全巻ひっくるめて本質的には神話とみなした方がよい。編纂が最初に企てられたのは天武朝(673‐686)である。壬申の乱を経過して聖化された王権の由来を語るためにつくられた天皇家の本縁譚,それが《古事記》である。その点,それは律令国家の正史たろうとした《日本書紀》とはやや異質であるといえる。《古事記》の編纂事情を語るのは序文だけである。それによると,天武天皇が剰田阿礼(ひえだのあれ)に資料となる〈帝紀・旧辞〉を誦習させたが,完成せず,三十数年後,元明天皇の詔をうけて太安麻呂(おおのやすまろ)がこれらを筆録し,712年(和銅5)正月に献上したとある。剰田阿礼は男性であったとする説もあるが,神の誕生を意味するアレという名や《古事記》の内容からして,巫女とみた方がよい。《古事記》には,巫女の霊能が生きていた神話時代への共感がうかがえる。〈誦習〉とは,記録されていた諸伝承を,いったん神話として誦することであったかと思われる。口誦文化である神話を外国文字たる漢字で書きとどめることには,二重の困難があった。苦心の末,安麻呂は漢字の音を用いる音仮名方式と,意味を用いる訓字方式の混用を考えたのである。歌謡を記すには前者を用い,散文を記すには後者を主としながら前者もまじえた変体漢文体を用いて,神話的伝誦形式をできるだけ生かそうとしている。なお,《古事記》の最古の写本は,南北朝時代に成った真福寺本である。

【主題と構成】
 神話には,現存の自然や社会のかくある由来を神代にさかのぼって語るという類のものが少なくない。それは現在の社会秩序を正当化し,かつ永遠化しようとする働きをもつ。この神話の機能を利用すべく支配者は競って自家の始祖神話を創出した。たとえ人代の話でもそれが上のような働きをもつなら神話といえる。諸氏族中の一氏にすぎなかった天皇家が,古代日本の支配者となったとき,自己および諸氏族がもち伝えた神話や系譜伝承を,天皇家の立場から整理し直し,その地位を確認させるための神話としてまとめあげたものが,《古事記》なのである。その主題とするところは,大八洲国(おおやしまぐに)や天皇家の始祖の誕生の由来,またその始祖が地上界の支配者となり,さらに大和を中心とする国家を築き上げた由来などである。《古事記》はその主題を展開すべく相互に連関する物語構造をもつ。

164名無しさん:2013/07/22(月) 20:03:52
>>163


[上・中巻]  まず上巻は,天地創成に始まり,伊邪那岐(いざなき)・伊邪那美(いざなみ)(伊弉諾尊・伊弉丑尊)2神による国生み神話,皇祖神にして日の神天照大神(あまてらすおおかみ)の誕生,日神の天の岩屋戸(あまのいわやど)がくれ,その弟須佐之男(すさのお)命(素戔嗚尊)の出雲での大蛇退治,スサノオの6世の孫大穴牟遅(おおなむち)(大己貴)の根の国訪問,オオナムチが大国主(おおくにぬし)神として再生し地上界の頭目として天孫に国譲りする国譲り神話,アマテラスの孫番能邇邇芸(ほのににぎ)命(瓊瓊杵尊)の天孫降臨神話,隼人(はやと)服属の由縁を語る海幸・山幸(うみさちやまさち)の話などからなる。中巻は,ニニギノミコトの4代目の孫神武天皇が大和に都を定め,続く各代が支配領域を広げ,英雄倭建(やまとたける)命(日本武尊)の活躍により東西の辺境の蛮族も平定されるという話などを収める。そして,15代天皇とされる応神が,母神功(じんぐう)皇后の胎内にありながら海の彼方の韓国(からくに)まで服属させ国家統一は成ったという話で終わる。

[即位儀礼―大嘗祭等の投射]  これらの物語には,構造を枠づける鋳型があった。即位儀礼大嘗(だいじよう)祭あるいはそれと一連の鎮魂祭,八十島(やそしま)祭などである。天の岩屋戸神話と天孫降臨神話が緊密に連関しているのも,鎮魂祭と大嘗祭という一連の儀礼がそれぞれに投射しているからである。即位儀礼は,成年式を君主誕生の儀礼として昇華させたものである。若者が儀礼的な死と復活の過程を経ておとなとして再誕する成年式をなぞって,新君主の誕生もまた死と再生のドラマとして演じられた。ニニギが子宮を模した真床覆衾(まどこおおうのふすま)にくるまれて降臨すること,神武が未開の熊野でほとんど死にかけたところをアマテラスの助けでよみがえること,応神が母の胎内にあったまま征韓することなど,あきらかに死と再生のモチーフをうかがうことができる。儀礼の投射がとりわけ顕著なのは,これらを主人公とする話である。自然のリズムと結びついている儀礼は無時間的であるから,新君主はつねに始源の初代君主として誕生した。即位儀礼を通じて生まれる歴代君主を説話的に典型化したのが,これらの物語の主人公にほかならない。ニニギは神代の,神武は人代の,そして応神は文明時代のそれぞれの初代君主であった。《日本書紀》と異なり,《古事記》に日付のないのも,このことと関連する。

[下巻]  下巻になると,天皇の代替りごとの反乱の話と,歌物語風の天皇の恋愛譚が主となり,儀礼を鋳型とした物語構造は痕跡的となる。さらに25代とされる武烈天皇以下は系譜的記事のみとなっている。大八洲国の支配者としての天皇家の由来は,応神まででほぼ尽くしえたからであろう。また武烈に次ぐ継体朝,《古事記》がそこで終わる推古朝(592‐628)は,大陸文化の流入,官僚国家形成などの歴史における画期にあたっていた。そして,それは神話的精神が衰滅していく過程でもあった。《古事記》の叙述の変化はこのような歴史に照応する。また《古事記》には,歌謡を配した物語も多く,とくに中・下巻にそれが目だつ。歌謡が物語の文学的興趣を高めているといってよい。歌謡の多くは宮廷雅楽寮で伝承保存されてきたもので,天皇家の縁起譚をつくる際に物語にとりこまれたのである(記紀歌謡)。

165名無しさん:2013/07/22(月) 20:04:35
>>164

[氏族系譜の神話]  《日本書紀》に比べて《古事記》は氏族系譜を重視している。《古事記》の神々や皇子たちには,多数の大小氏族が後裔として結びつけられている。古代氏族社会の基盤は,網目状に結ばれた血縁組織であり,支配・被支配の関係も擬制的血縁関係として表現された。皇室系譜を幹とし,そこから枝葉のごとく諸氏族が茂り出ている擬制的一大系譜は,天皇家が支配者になるに至った経緯を物語るもう一つの神話であったといえよう。

【研究史】
 作品にはさまざまな読み方がありうる。《古事記》を一貫した主題をもつ神話として読むという志向は,比較的新しいものといってよい。こうした読み方は西欧の社会・文化人類学の方法の適用によって可能になったものである。従来《古事記》は,歴史学,民俗学,神話学等諸分野で研究されてきた。これらに共通するのは,《古事記》を諸説話に解体し,個々の話の原型・核となった歴史的事実や祭儀,外来の神話的モティーフなどを探るという方法である。しかしこれらは《古事記》を資料とした諸研究にはなりえても,必ずしも《古事記》のもつ神話の論理を読みとることにはならない。なお,数ある注釈書の中で,今なお筆頭にあげるべきは,本居宣長の《古事記伝》(1798完成)である。《古事記》を神典視した誤りはあるにせよ,恣意的観念的解釈はしりぞけ,文脈にそって一言一句の意味を究めようとした研究態度や方法は学ぶべきであり,彼の解釈には今なお傾聴すべきものが多い。⇒日本神話      倉塚 曄子

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166名無しさん:2013/07/22(月) 20:05:52

卜部氏
うらべうじ

大化前代の6世紀ごろより宮廷の祭祀に参与して,中臣(なかとみ)氏に率いられ,鹿卜や亀卜の事をつかさどってきた氏族。律令制下の三国の卜部とは,伊豆,壱岐,対馬の卜部をいうが,そのほかに重要な本拠地は常陸にあった。伊豆の卜部の本拠地は,伊豆の大島にあり,壱岐の卜部は壱岐島壱岐郡の月読神社をまつり,対馬の卜部は,下県郡の太祝詞(ふとのりと)神社や,上県郡の能理刀(のりと)神社などを祭祀していた。常陸の卜部は,とくに〈占部〉と名のり,鹿島神社などの祭祀に当たっていたようである。彼らはそれぞれの地域の国造(くにのみやつこ)に統率され,朝廷に貢進されていた。《延喜式》には,卜部の祭神を左京二条にまつられる太詔戸命神(ふとのりとのみことのかみ)と久慈真智命神(くしまちのみことのかみ)としている。奈良時代には,太詔戸命は大和国添上郡に,久慈真智命は大和国十市郡天香山にまつられていた。詔戸は祝詞であり,真智は占いの町形(まちがた)であるから,卜部は,鹿の肩骨や海亀の甲を火で焼き,町形を見て神意をうかがい,神託を人々につげることを職掌としていたことが知られる。卜占の法は,古くは,真男鹿の肩甲骨に穴を開けて,波波梼(ははか)の木の皮を用いて焼くものであったらしい。しかし,しだいに中国より海亀の甲を焼く亀卜の法が伝えられ,後にはもっぱらこの法によった。卜部の本拠地が,ほぼすべて臨海の国であったのもそのためであり,《延喜式》では,土佐国より亀卜のための海亀が貢されていた。

 卜部氏の祭神は,雷大臣(いかつおみ)とされるが,これは仲哀天皇・神功皇后に仕え,卜部の祖とされる中臣烏賊津使主(なかとみのいかつおみ)と同一視されている。とくに重要な点は,この卜部の中から,中臣氏が分立し,しだいに諸国の卜部を統属下に置いていったことである。卜部氏は平安時代に至るまで活躍し,9世紀では壱岐の石田郡の宮主(みやじゆ),外従五位下卜部是雄は伊岐宿衝を賜姓されたが,卜術にひじょうに優れていたのを賞されたためであり,また伊豆の卜部からは,従五位下丹波介卜部平麻呂が出て亀卜の道を高めている。この平麻呂の後は兼延以後,神梢官に務めるかたわら,吉田社務を兼ねるに至り,兼熙の代には吉田と名のることとなった。一方,兼延の次子兼国は平野社の長官となり,以後その子孫が社務をつかさどった。この一族は代々学者を輩出し,鎌倉時代には,兼頼の子兼文が《古事記裏書》,その子兼方(懐賢)が《釈日本紀》を著すなど,歴史書の研究に優れた業績を残していた。なお平安時代の浄土教の恵心僧都源信は,大和国損下郡の占部正親の子と伝えられている。

 兼熙の10世兼治の次男兼従は雲上家の卜部萩原姓を名のり,萩原員従の次男従久より錦織家(にしごりけ)が分かれた。また兼国の系統からは後に卜部姓の藤井家が分立した。⇒吉田兼熙(かねひろ)                     井上 辰雄

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167名無しさん:2013/07/22(月) 20:07:01
日本書紀
にほんしょき

日本最初の編年体の歴史書。720年(養老4)5月,舎人(とねり)親王らが完成。30巻。添えられた系図1巻は散逸。六国史の第1で,後に〈日本紀〉ともよばれ,《古事記》と併せて〈記紀〉という。

[内容]  巻一と巻二を神代の上と下,巻三を神武紀,以下各巻を1代または数代の天皇ごとにまとめ,巻二十八と巻二十九を天武紀の上(壬申紀とも)と下,巻三十を持統紀とする。文体は漢文による潤色が著しく,漢籍や仏典をほとんど直写した部分もある。記述の体裁は巻三以下を中国の歴史書にならって編年体,すなわち記事を年月日(日は干支で記す)順に排列したために,暦も記録もない古い時代については,物語をその進行に従って分断し適当な年月日に挿入する始末となり,史実としての疑わしさを増し,物語としてのまとまりを失わせた。しかも神武即位を西暦紀元前660年にあたる辛酉の年に設定したので,初期の天皇は不自然な長寿となり,神功(じんぐう)皇后紀でも皇后を《魏志倭人伝》の卑弥呼と考えたので,また120年ほど年代を繰り上げている。

 編集に使われた資料は《古事記》のように特定の帝紀(ていき)や旧辞(きゆうじ)だけでなく,それらの異伝も〈一書に曰く〉として注記し,また諸氏や地方の伝承,寺院の縁起,朝鮮や中国の歴史書なども参照している。7世紀初の推古紀のころからはようやく書かれ始めた朝廷の記録も利用し,7世紀後半には個人の日記も加えて,今日から歴史的事実を究明するための資料は豊富となった。ただ大化改新以後も天智紀までは潤色や記録の錯乱があり,ほぼ史実と認められるのは天武紀と持統紀である。なお表記に用いられている漢字や語法は巻ごとに微妙に異なるので,相違に着目して全巻を分類すると,(1)巻一〜二,(2)巻三,(3)巻四〜十三,(4)巻十四〜十六,(5)巻十七〜十九,(6)巻二十〜二十一,(7)巻二十二〜二十三,(8)巻二十四〜二十七,(9)巻二十八〜二十九,(10)巻三十の10区分,あるいは(2)と(3),(4)と(5)を同類とみる8区分などが可能である。したがって全巻は複数の編集者群により分担して整理執筆されたと想定される。

[成立]  編集の由来を述べた序文を欠いているために成立過程は明らかでないが,天武紀(下)の10年3月丙戌(17日)条に,川嶋・忍壁(おさかべ)両皇子以下12人の王臣に帝紀と上古諸事(旧辞)の記定を命じたとあるのが,編集の開始とみられている。その後,持統朝には斤善言司が教訓的な歴史物語を作ろうとし,有力豪族の18氏が墓記を提出して諸氏の伝承を記録化し,元明朝には風土記の提出を命じて地方の伝承を集め,紀清人(きのきよひと)と三宅藤麻呂(みやけのふじまろ)に国史の編集担当を命じたことなど,みな《日本書紀》の編集に役立ったのであろうが,これは天智紀以前と天武紀以後との内容の懸隔や,天武紀と持統紀との表現の相違からも確かめられ,結局編集の開始から完成までには40年を要したと認められる。しかし最終段階の編集者は舎人親王以外に明らかでない。太安麻呂(おおのやすまろ)が参加したというのは,子孫の多人長(おおのひとなが)の主張に過ぎず,《日本書紀》が8年前の《古事記》を,内容においても表記においても参考にしていないことは明らかである。

[注釈・研究]  朝廷では最初の正史として尊重され,完成後まもなくから平安前期まで7回にわたって講書の会が開かれ(日本紀講筵(こうえん)),その記録は《日本紀私記》,講書後の宴会での和歌は《日本紀竟宴和歌》として残された。鎌倉時代には最初の総合的な注釈書として《釈日本紀》,室町時代には《日本書紀纂疏》が書かれたものの,考証学的な研究は近世に入ってからであり,江戸中期以後《日本書紀通証》《書紀集解》《日本書紀通釈》など,いずれも全巻にわたる注釈書が刊行された。明治以後は津田左右吉らによって徹底的な記紀批判が推進される一方,国民教育の分野では記紀の記述をそのまま信ずることが要請されて敗戦を迎えたが,今日では考古学,神話学,文化人類学など関連分野からの分析も深化している。                      青木 和夫

168名無しさん:2013/07/22(月) 20:08:41
記紀批判
ききひはん

《古事記》《日本書紀》の史料的性格を検証・確定する学問手続。記紀の記載内容がどのあたりから信じられるかという点について,すでに江戸時代の山片蟠桃が〈神功皇后ノ三韓退治ハ妄説多シ。応神ヨリハ確実トスベシ〉〈神武ヨリ千年ホドノ間ハ神代ノ名残(なごり)ニテ,史ニハイカニ載タリトモ,ミナコシラヘゴトナリ〉とみた。また藤(井)貞幹は〈神武天皇の御末は仲哀天皇にて尽させ玉ふ。応神天皇は何くより出させ玉ふや〉と皇統の断絶を述べた。しかし記紀の記載内容を仲哀以前と応神以降とに区別することが,学問的手続によってはっきりと論じられたのは明治以降である。明治期の紀年論においては,応神朝が紀年を比定する際の定点とされ,神功皇后の〈征韓〉物語は4世紀後半のことと位置づけられた。大正期の津田左右吉の記紀批判は,その〈征韓〉物語から統及して〈神武東征〉までの物語に逐一,批判的検討を加え,仲哀以前の物語は神代の物語と同様,皇室が日本を統治する由来を整然と説いた政治的述作と結論づけた。また津田は《古事記》はその序文にいう帝紀(系譜)と旧辞(物語)に二分できるとし,物語があるのは顕宗記までとみて,〈其の時から程遠からぬ後,即ち継体・欽明朝ごろに一と通りはまとめられてゐた〉ものと記紀の成立を見通した。以上の津田説の基本は第2次世界大戦後の研究にひきつがれ,津田の物語批判の上に系譜・帝紀の信憑性が論じられた。応神以降の簡単で実名的な天皇名に対して,津田が荘重で諡号(しごう)的と指摘した仲哀以前の天皇名に多くみられるタラシヒコやヤマトネコは,7〜8世紀のやはりタラシヒコやヤマトネコをもつ天皇諡号の反映とみて,仲哀以前の天皇の実在が否定されている。一方,応神以降の帝紀の内容・系譜は,後世の籍帳などにみえる御名代(みなしろ)(王名をつけた部)の存在や倭の五王の比定などにより,信じられると考えられてきた。近年,津田が帝紀・旧辞の成立期とみなした継体・欽明朝の問題(継体新王朝や継体・欽明朝の内乱)から〈応神5世孫〉とする継体系譜の信憑性,あるいは倭の五王の根本史料である《宋書》に珍と済の2王間に続柄記述がないことから,応神・仁徳系譜全体の信憑性が問われている。⇒王朝交替論           川口 勝康

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津田事件
つだじけん

1940年(昭和15)2月10日,歴史学者津田左右吉の日本神話および上代史に関する4著書,〈《神代史の研究》〉(1924年2月),〈《古事記及日本書紀の研究》〉(1924年9月),〈《日本上代史研究》〉(1930年4月),〈《上代日本の社会及び思想》〉(1932年9月)が発禁処分となり,3月8日津田と発行者岩波茂雄が出版法第26条(皇室ノ尊厳冒済)の疑いで起訴され,42年5月21日有罪判決を受けた事件。事件の発端は,蓑田胸喜を中心として,権力中枢と結びついて国粋主義の宣伝をしていた原理日本社とその機関誌〈《原理日本》〉が津田に加えた攻撃であった。津田の〈《支那思想と日本》〉(1938)が発表されたころから,蓑田らは,ヨーロッパが一つの文化だというのと同じ意味での東洋文化は歴史的に存在しなかったという論旨を,〈東洋抹殺論〉の提唱だとして非難していた。その非難を決定づけたのが,かねて〈天皇機関説の本山〉として彼らに排撃されていた東京帝大法学部に39年10月新設された東洋政治思想史講座の初講義を,南原繁の懇請に応じて講師として担当したことであった。最終講義が終わった12月4日には,計画的に待機していた蓑田を指導者とする右翼学生団体のメンバーが数時間にわたって激しい非難の質問を浴びせるという事件も起きた。

 12月中旬以降,津田は早大当局からたびたび辞職勧告を受け,40年1月早大教授を辞任。2月4著の発禁処分,3月起訴,地方裁判所で21回の公判を経て42年5月,判決が下された。4著のうち,〈《古事記及日本書紀の研究》〉のみ4ヵ所において,〈神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付疑惑ヲ抱カシムルノ虞アル講説ヲ敢テ〉したとの理由で有罪とされ,著者に禁錮3月,発行者に禁錮2月(ともに2年間の執行猶予)が科せられ,その他の公訴事実はすべて無罪とされた。この判決に対し検事控訴が行われ,被告側も控訴の手続きをとったが,そのまま放置され,44年11月4日,控訴院で〈公訴時効完成ニヨリ免訴〉という結末になった。この事件は記紀に関する画期的な文献批判(記紀批判)による最も卓越した学術的業績に加えられた圧迫であり,天皇制国家の権力統制の核心を示す象徴的事例といえよう。
                       掛川 トミ子

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169名無しさん:2013/07/22(月) 20:10:53
紀年論
きねんろん

《日本書紀》の紀年および《古事記》の天皇崩年干支にかんする議論。《日本書紀》の紀年についての疑問は江戸時代にも提出されていたが,学問的手続をもってこれを論じたのは明治期の那珂通世(なかみちよ)である。神功紀,応神紀の紀年は両紀に引用された百済史料《百済記》と同じ干支ながら,120年の差があることから,両紀の紀年が120年(干支2運)くりあげられていることを那珂は論証した(今日,この干支2運くりあげの紀年操作は神功皇后を卑弥呼に擬定するためと理解されている)。さらに那珂はいわゆる神武紀元の設定を讖緯(しんい)説の辛酉革命の考えから説明した。那珂は暦法上の周期として1蔀(ほう)を21元=1260年と算出して,推古9年(601)から1260年さかのぼった辛酉年を神武天皇即位の年と設定したと論じた(1蔀を1320年と算出する説もある)。このような神武紀元の設定によって《日本書紀》の各天皇紀年がひきのばされ,天皇の異常な長寿などの不合理がもたらされたとするのが那珂説の概容である。那珂によって批判された《日本書紀》の紀年にかわって注目されたのは《古事記》にみえる天皇の崩年干支である。というのは,この干支をもってする干支紀年は,各天皇の即位年からの年数をもってする《日本書紀》の即位紀年法よりも古いと考えられるからである。したがって那珂説で得られた神功,応神朝の年代を定点に各崩年干支を配分,倭の五王の比定とも勘案して天皇の在位年数を推定するのが,その後の紀年論の主流となった。《古事記》の崩年干支が崇神天皇記から始まることは,崇神天皇を最初の実在した天皇とみる説の論拠となった。また崩年干支は景行,垂仁,安康,清寧,顕宗,仁賢,武烈,欽明,宣化の各天皇記には存在しない。このことから末松保和は崩年干支を各天皇記から切りはなして一連の史料群と考えたが,水野祐は逆に崩年干支の存否をもって天皇の実在・非実在の論拠とし,有名な三王朝交替説を提唱した。以上のように《日本書紀》の紀年よりも古く,また信じられてきた《古事記》崩年干支も,倭の五王の比定年代と必ずしも整合せず,また欽明天皇に崩年干支がないことからなお史料批判を要するものである。⇒王朝交替論‖記紀批判              川口 勝康

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170名無しさん:2013/07/22(月) 20:12:50
那珂通世 1851‐1908(嘉永4‐明治41)
なかみちよ

日本の東洋史学創始者。盛岡に生まれる。もと藤村氏。江棄氏に養われた後,那珂と改氏。1872年(明治5)慶応義塾に入り,28歳で千葉師範学校長,ついで東京女子師範校長,高師教授,一高教授を歴任,1896年より東京文科大学講師。学問領域および教科名の〈東洋史〉は彼の創唱になる。《支那通史》(宋代までの通史。清の翻刻も多い)や《成吉思汗実録》を著し,《元史訳文証補》《崔東壁遺書》を校刊,没後〈外交繹史〉等を含む《那珂通世遺書》が刊行された。神武紀元の誤りを指摘するなどその所論は堅実周到で,斯学の基礎を築くうえで大きな貢献をなした。        池田 温

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